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思うままに・・14

歴史を齧ってみるの記事のなかで、

キリストがエジプトにいた?

と、いうのをかいています。


キリストの少し前の時代にスリランカから、エジプトに僧が30000人だったかな?

移住していたというのです。

当然、キリストがエジプトにいったとしたら、

この僧との接触があったとおもわれるわけです。


謎のキリストの失踪?期間は確か、11年だったとおもうのですが、

仏教思想を学ぶに充分な期間であり

仏教思想が生活に溶け込んだ環境にみをおくということは、

まあ、門前の小僧、習わぬ経をおぼえで、しみついてしまうというか、

吸収してしまうものだとおもえます。


キリストが仏教の影響をうけていたのではないか?


と、いうことにプラスした見解もあります。


ショーペンハウェルです。


彼の哲学というか、

洞察力・真理の究明については、

ある方の紹介文で、しったのですが、

読書について・・というタイトルだったとおもいます。

このことについても、

日記のほうにかいていますので、

省きます。


で、その彼が原文を読み・・。

?!

仏教の聖典をも原文でよんだということになります。


キリスト教は聖書?をよみ、


てらしあわせていったところ、

キリスト教の教えには、経典の表現とほぼ同じなところが、多数あるというのです。


まあ、憂生は宗教嫌いな人間なので、

(考え方は頂きますが)

釈迦の教えもキリストの教えも

たとえばここが同じですよ。といえる

具体例が自分にはないので、ショーペンハウエルのといっておきますが、

つまるところ、

キリストは仏教の教えに感化?され、

そこに真理をみつけ、吸収していく

修行?期間があったととらえられるわけです。


宗教というのは、

その祖がなくなり、教えがつたわっていくときに

もう、それは、違うものになっていくと憂生はかんがえています。


先にかいたことと似ていますが

その教えを説く人間が「本物」であったから、教えが本物になっていき、

あとのものは、その教えを実践し自分のものにすることで

少しは本物になっていこうとするのみで、

「教え」自体は本人でなく、

キリストがこういった。

釈迦がこういった。

と、いういわば、メモなわけです。


「教えを説く」=「本物」という図式はなくなっているわけです。



それでも、真理は真理です。


たどり着くところはある意味「真理」ですから、

キリストは実は全然仏教に感化されず、エジプトにもいってなくて、

「真理」にたどりついたのかもしれません。


真理は普遍的なものですから、

当然、おなじような答えとしてみいだしていってなんのふしぎもなく、

憂生が物書きをやってるところでよく言う

「べたもの・まね・はない」

って、ことです。

この地球にいるすべての人間がものをかいたとしたら、

よくにている物語がいくつもでてくるのではないかとおもいます。


人間の考えることですから、にたようなことがあってもなんの不思議はない。と、いうことです。


で、こういうとなんですが、

仏陀の思想である、そも最初の

天上天下唯我独尊ですね。


これだって、憂生は同じことをおもったわけです。


しょっちゅうひきあいにだしますが、

天気を変えるという顕示をみせられたとき、憂生は

天気をかえてみせた相手を拝まなかった。

なにをおがんだかというと、

自分のわけです。


ここまでして、生きろと見せしめさせられる自分がありがたい。尊い存在なのだと、おがんだというより

おろがむですね。


また、先の話にくっつけますが、

存在価値が希薄になっていたところに

自分ありがたい。自分尊い。とおもわせてもらえたわけです。


こういうのが、釈迦の最初の思想とよくにているわけです。


自分こそが尊い。


つまり・・・。


教えというのは、こう言う風に会得していく、自分が机上論でなく

自分の身のうちから納得するものであるのなら、

だれもが、釈迦やキリストよりも「尊い自分」であるわけです。


なにも教えの本を開いて、頭で理解しなくとも、

自分の中にちゃんと真理(おおげさか?)はあるわけです。


このあたりのことも〈他にもありますが)

あって、

憂生は「おしえてやろう」的、

あるいは、憐れな子羊としてみるような、

「キリストはこういいました」

などと、借り物の「教え」で、物をいってしまうようになるのが、

いやなわけです。


ですから、憂生の座右の銘は、

実感・実践・実用です。


自分で感じ、どうすればいいかを実践し、それがよいのなら、実行し、自分の物(実用)にしていくということで、

憂生にとって、

「自分、ありがたい」と思ったのが実感であり、

では、いかにありがたい自分であるようにしているかという部分で実践し、

その生き方〈実用)していければ、それでいいわけです。


それが、自分を本物にしていくということなんだとおもうわけです。



こういう意味合いの自分向けをやっているのかなあと

思わされる人の多くが宗教家であり、

特にキリスト教は、キリストの名において、

教えを語ります。


この部分も憂生にいわせれば、言霊として発動するという日本古来の考え方をいっしているきがします。


自分が出来ない状態で言葉を発すると、

その言霊は相手にでなく、自分にかえってきます。

「それをいえるおまえか?」

と。


有言実行のためにあえてやっているのならけっこうですが、

自分はできていないのに言葉を発するということは相手につうじないだけでなく

自分にかえってくるというこわさもあるわけですが、

この贖罪をおっているのも、キリストであるとするのなら

キリストに贖罪をおわせて、自分は「教える先生」になってしまっていて

いいのかな?


と、思うわけです。


憂生の考え方はおそらく、密教のほうに近いのだとおもいます。


もしくは陰陽師ですかね/笑



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