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神と霊とま清水

え~~と。

どうも、憂生の不思議な能力を誤解されるかたがいらっしゃるのですが、

たんび、もうしあげますが、

神であろうが、霊であろうが、憑き物にはかわりがないという考えでいます。

本来、人間である自分の魂が、自分の本当の神さま(と、いう言い方は御幣があります)で、あるわけです。

太古の昔は、自分の魂と人間自身がつ~つ~に会話ができていたのですが、

だんだん、欲な思いをもちだし、魂のいうことを聞かなくなり

魂は、黙るようになってしまったのです。

そして、魂自体や魂のまわり(気とでもいいましょうか)に欲や業をつけてしまい、

今でも、魂からま清水をおくりだしてはいるのですが、

その魂のまわりの欲や業が噴出してきます。

井戸を掘ったとき最初にどろ水がでてくるのと同じ原理だと思います。

泥水の中には欲や業や因縁までもがとけこみ、それが、わきでてくると、

人によっては、その泥水にまみれてしまいます。

おそろしい事件もそういう仕組みなのではないかなとおもいます。

で、神さま・霊とよばれる一団?ですが、

神様なるものも、天への果たしが必要で、人間を使って

果たしを行うということがあります。

その果たしというのも、ピンからきりまであり、

神の格にもいろいろあるわけです。

例えば、日本、世界、(つづめて言えば人類)まるごとを救おうとする、国常立(天御中主)がいれば、

うせ物さがしなどのみいさんとか?

低級の神や霊に自分の魂を使われる程度の魂であれば、そのまま、取り付かれ、

助けられましたと、周りの人におがまれて、喜んでいるという人生でおわりかねないわけです。

実際、憂生も国津神に取り付かれ・・・たことがあるのですが、

この時、師が一喝で追い払ってくれて

そのときに

「憂生の魂には、せめて、天津神じゃないとねえ」という謎の言葉をかけてくださったのですが、

上に書いたことと照合すると、なにかしら、理の高い魂であるのだと思います。

そして、なによりも、問題になるのは、自分の心のありようです。

つまり、国津神にしろ、自分の何らかの欲?な心がとりつく隙をあたえたということになるわけです。

ですから、昨今のパワースポット礼讃とか?

ちょっと気になります。

なにかをあてこんだ思い(欲)を叶える神様というのは、はっきり言って、程度の低い神の場合が多いのです。

本当の神は、自分の中にあり、苦労・辛酸で(その人の人間の出来にもよるのでしょう)「人間」を本物に育ててくれるものであるわけです。

ここがわかってしまうと、安易に願い事を叶える神がありがたいかどうか?ということです。

パワーがたりないと神頼みするのでなく、自分の物事の受け止め方のどこが足りないのか?という自分を拠る事が本来なところを、あっさりどうにかしてくれという他力本願の思いになれば、ろくなものはついてこないということです。

こういうことがありますので、憂生は神や霊というものに対しての思い?願い?頼み?でなく、

自分の魂から「良し」といってもらえる自分の思い方であるかどうか。

魂からの清水をきちんとうけとめられる綺麗な自分になっているかということをかんがえます。

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