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なげ~~~えぞ

この、3ヶ月、いろいろ、はきだしまくって、


みえてきたことというのは、


かんたんにいうと、自分が非常に子供だったなあということ。


いや、それがわかっただけで、


子供だったという過去形にするのもなんだけど。


自分の特性としておおきいところは、


ー納得しないと動けないー

と、いうところだとおもう。


それは、たとえ、荒唐無稽だろうが、まちがっていようが、


自分が納得できれば、良い。


と、いうのがある。


これは、卵が先か鶏が先かというような理論になってきたとき、


どちらも違い、どちらも正解ということになってきて、

いつまでも、結論がでない。


このメビウスリングにのってしまい、10年以上

考えていたとおもう。


かてて、どうにかして、自分は悪くないとおもいたがるものだから、

それをくるむ「いいわけ理論」がでてくる。


この言い訳理論は

諸刃の剣でしかない。


人にむけてはいけないと自分にむけて

満身創痍状態になっていたとおもう。


で、正直いえば、慢心相違でしかなかったともおもう。


どちらかが正しいとか、どちらかが悪いとか、


こういう偏った捉え方という慢心、


いや、どちらも悪いにしろ、ただしいにしろ、

正悪という捉え方をしてしまえば、

本質とは、相違した見方しかできない。


やっと、ここにきがついたのが、

ー納得しないと動けないーという性分だったからかもしれない。


おかしいなあとおもうことがあったとき、

なぜ、おかしいのかを、自分なりに考えたとき

的確に判断できない自分だとわかったといっていい。


鶏がさきか、卵が先かでいえば、

憂生は、鶏が先だという。


その答えは単純である。

親がいなければ子供はいない。


たったそれだけである。


が、自分なりに納得できる。


では、なぜ、そう判断するか?と、いう根拠が自分にある。


憂生は鶏じゃないけど、親がいたから、卵(じゃないけど)としてうまれてこれた。


これだけの理由であるwww.


まあ、なにがいいたいかというと、


的確に判断する(自分が納得できるという意味合いで)自分の根拠がみつけられなかった。


考えとしてはいくらでも、わかっていて、友人に相談してみたりするとき

必ずかえってきた言葉は

「わかってるじゃないか」だった。


どういう結論をもてばいいかということは、おそらく頭でわかっていて、

心がかたまってしまっていて、結論に従えない。


こういう状態になっていたとおもう。


そこを、考えたとき、

友人に直接話すということが一番、解決策になるとおもう。


頭で考えた結論を耳にきかせるという意味でも

自分を客観視して話すということでも、

結論を導き出しやすい。


そして、なによりも、悩みにまつわる部分での

心のときほぐしができる。


だが、そうなってきたとき、

どこまで、自分が相手にさらけだせるかということが問題になってくる。


心の堰といういみあいでなく、

もっと、おおきなバックグラウンドから、理解してもらうというか。


憂生の場合、非常に、不可解な事象がありすぎたと思う。


ときおり、話す「雨を降らせて見ろ」で、本当にふってくるという

こういうことについて、それがおかしいということはわかっていても、

なぜ、そういうことがおきるかという、(心)部分が

簡単にわかる人はいないだろう。


結局、日月神示あたりからの発露があって、


簡単に言えば

ー自分のおもうとおりになっていたーと、いう証でしかないと気がついたときに


悩み事の原因も結局はどこかで、最初の段階で

ー自分が何かをおもったーことが、形になってしまっただけだ。


と、思い始めた。


そこから、すこしずつ、洗い出してみたというかなあ。


友人や恋人と喧嘩別れした人は、その原因をさぐってみるだろう。

そういうのと同じ。


相手を自分の道具・飾りみたいにした思いがあったりしたことがあるわけだけど、

そういう「思い」であれば、道具にも飾りにもされたくない人は当然はなれていくだろう。


ところが、当然、離れてしまわないという場合がある。


いわゆるくされ縁というか(正確には、鎖縁というらしい)


これが、一番「最初の思い」を、みえにくくさせてしまう。


こういう言い方はおかしいかもしれないが、

うしなってしまうほうが気楽だともいえる。


「最初の思い」に、はやめにきがつける。と、いう意味合いで。


なにか、こう、大事にできなかった相手がその結果どおりにはなれていってしまったとき、

ああ、大事にしてなかったなあと、きがつけると同時に

大事にできない相手との縁もきれる。

し、その人を大事にできない自分とも縁がきれる。


吉田拓郎の歌に

「しんじあうことよりも、たしかめあうことだ」なんてフレーズがあったけど

お互い、話しあえるということが大事だとおもっていた。


大事にできなくて決別になるのもしかたがないが、

土壇場になるまで、

「大事にしてくれない」とか、

「そういうところが大事にしてないってことになるんだよ」とか、

憂生にわかってもらうという努力をしていないということを考えると

むこうにとっても、憂生が大事なわけではなく

ただ、がまんしていたというだけで

憂生という人間にとって、それをしってもらうことが成長にもなるし

かんがえてほしいという思いがないのなら、

お互い大事にしていなかったということになってくる。


そういう意味合いで

うしなってしまうほうが気楽だともいえる。



ながくなってしまっただけになった・・・・




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