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オロチョンから・・


この民族の代表的な生業は、内臓の食用・飲用や皮革採取目的でのの狩猟である。狩猟の対象の獣は、マールー(馬鹿(ばろく)、ワピチの亜種マンシュウアカシカ)、ノロ、ハンダハン(駝鹿(だろく)・ラクダジカ、ヘラジカの亜種マンシュウエルクジカ)などのシカ類やリステンオオカミイノシシオオヤマネコクマなどが挙げられる。狩猟時の移動と荷物運搬の手段は、伝統的には主にである。

シャーマニズムを信仰し、シラカバの樹皮を加工した工芸品(樺皮細工)が知られている。

オロチョン族の伝統的な住居は、比較的細いシラカバなどの幹の柱を何本も組んでその外部をシカ類などの毛皮で覆った円錐形の天幕式住居だが、定住化が進んだ現在では、日常的には近隣の漢族ロシア人と同様の住居で生活し、泊まり掛けの狩猟の際に山野で臨時に設けるのみである。このような天幕式住居はエヴェンキも伝統的に製作・使用してきた。

北海道網走市ではオロチョンの火祭りが行われているが主体はアイヌである。これは、「オロチョン」という言葉がアイヌを含む北方民族全体を指す呼称として用いられた時期があり、その名残りである。現在でも、語呂の良さから「オロチョン」の呼称が用いられているが、本項の民族に火祭りという文化はなく、全く関係がない。味噌ラーメン唐辛子等で辛く味付けした、「オロチョンラーメン」(またはラーメン店名がオロチョン)というものもあるが、オロチョンの火祭りから連想された名称である。

オホーツク海に面した網走では古来より北方民族との交流が盛んであり、モヨロ貝塚などではアイヌ民族とは異なるオホーツク人の人骨が発見されている。それらの経緯からモヨロ貝塚において1940年頃から「モヨロ祭」として北方民族を慰霊する祭が開催されていた。終戦後の1950年には樺太から引揚げてきたウィルタ民族やニブフ民族の協力を得て「オロチョンの火祭り」が正式な市の夏祭りとして組み込まれるようになった。

オホーツク文化には大陸系文化の影響が明確に認められ、同文化のアムール流域靺鞨族の直接移住説をはじめ多くの大陸起源説、影響説が提出されている[2]

オホーツク人の系統については、少ない文献と考古学的証拠をてがかりに古くから論議を呼んできた。現在のところ、大陸からの直接的な移住者が形成したものではなく、鈴谷式土器の時代(紀元前1世紀から紀元6世紀)から樺太に住んでいた人々の中から生まれた文化で、下って現在のニヴフ人につながるとする説が有力である。他に、靺鞨同仁文化のような大陸の文化や、古コリャーク文化トカレフ文化のようなオホーツク海北岸の文化との類似性が指摘される。[要出典]

オホーツク文化は、後期に擦文文化の要素を取り入れるようになった。トビニタイ文化の時代に擦文文化の要素はさらに強くなり、両方の文化要素の混在が見られるようになった。また、後のアイヌ文化の中には、熊の崇拝のようなオホーツク文化にあって擦文文化にない要素がある。そのため、この方面のオホーツク人は、擦文文化の担い手とともにアイヌ文化を形成したと考えられている。

日本書紀には、7世紀阿倍比羅夫が遠征の航海の途上、大河の河口で蝦夷粛慎の交戦を知り、幣賄弁島(奥尻島とも言われる)で粛慎と戦ったと記されている。その大河を石狩川とし、粛慎をオホーツク人とするのは、分布域と航海能力からいって無理がない解釈であるが、確証はない。

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