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不思議な話し。


☆どうも、この調子では白蛇抄の掲載が、ままならない。

アスペクトは憂生の直の語りだから、憂生にとってはとっても大切なんだけど、
こんな私感を読まされる方はたまんないかな? 

でも、考えようによっては物語も一種、私感でしかないんだけどね。

例の特殊能力だろうか?文芸社のおじさん?(おにいさん?)

『ポルノ?いや、ちがう。そんなもんじゃない・・』なんて、思念が入ってくる気がする。

自分の期待が大きい時は、入ってくる思念がこれにかき消され、

自分の欲色に染められる事が多いので全然、当てに成らないのも判っている。

とことん自分が無私に成ればいいんだろうけど。

だが、なにおも思わぬときにひょいと思念が入り込む。

ところが、こういう時こそ拘るものがないから、入り込んだ思念を受け止めそこね、なってから気がつくという。

おそまつ!!

が、この間。

ひょいと「・・・・(内緒にするけど、悪い事ではない)」と、ささやかれた。

このささやきが実になる場合と成らない場合があるが、としても、1日~3年の猶予がある。

時に、三ヵ月。

見納めだと思わされた一人の人は忘れもしない4月14日だったが、彼がなくなったのは七月末日。

近所のお爺さんの「この冬こせるかな」も、10月頃か?

冬を越すかと云う2月末日に大雪がふったっけ。冬をこせないまま、

その2月末におじいさんは死んだ。

盆のふるさとへの帰省で『見納めだ』と思わされた婦人も

秋の旅行 でホテルの部屋から投身自殺だったときかされた。

でも、この予知?予告?なるものが其の通りに成るとは限らない事も知っている。

時に1日。ある日、良人が秀人と一泊旅行に出かけた夜。

憂生は「良人が事故った」と、ささやかれた。

「そんなことはない」否定しながら、何の連絡も無い事が嘘の証拠だと思った。

ところが、無事に帰ってきた良人が憂生に報告しだす。

『秀人と運転をかわって、しばらくしたら、あいつが居眠り運転をしだして。

慌ててハンドルをとって、修正したけど、対向車もきてたし、俺がもし、横でねてたら、しんでたな』

この時間はむろん、憂生が囁かれた時刻と符号する。

きっと、本当(運命通り)なら、囁かれたとおりになっていたのかも。

だけど、この運命を覆す「:なにか:」が、ある。だから、囁かれたとおりになるとは限らない。

こんな事をかいてたら、憂生は又、昔のある事件をおもいだしてしまったので、不思議な話を又書く。

成れぬ土地に来た憂生にとっての唯一の知己だった彼女は憂生をよく自宅にさそってくれた。

その頃、憂生は夢を見た。

真っ白な着物を着た白髪の白髭の老人がでてきた。

其の姿は仙人のようで、縁行者が例えばこんな姿かと思わせた。

其の老人がいう。

「死にたがるものにぶつかってこられる。死にたがるものは毒をもっている」

不思議な科白だったので、こんな事に詳しい人間にたずねてみた。

すると。

「其の老人のいう通りです。あなたが友人の所に行くとき、よく動物がしんだりしていませんか?」

憂生も同じ言葉をかえすしかなかった。

「そのとおりです」と。

友人宅へ遊びに行くたび、必ずといっていいほど犬や猫の轢死体をみかけた。

それは、つまり、老人の言う死にたがるもの、そのものの姿なのか、

あるいは死にたがるものの毒にやられた結果の姿なのかは憂生にはわからない。

「其の土地は古い土地なので、いろんな思いが染み付き、潜んでいる。

彼女は子供はそこでうまないほうがいい」と、その人間は結んだ。

そして、ひとふりの清めの塩を渡され、簡単な結界の張り方をおそわった。

その「いろんな思い」こそが死にたがる思いなのだろうか?

これもよく判らない。

判らないまま自宅に帰り普通に生活しはじめていたある日。

良人が「しんどい」と会社から早引けしてきた。

良人は風邪を引き高熱をだしていた。

この良人の風邪の治し方は薬を嫌う人なので、布団に包まり大汗をかかせて

風邪を退治するという方法なのだ。

憂生は良人が大汗をかくたびタオルケットを替え、着替えを用意した。

そして、すぐさまそれらを洗濯し庭にほす。

タオルケットを物干し竿にかけていると、なぜか無性に清めの塩をまきたくなった。

家の周りを左回りに回りながら清めの塩をまいていると、「野鼠か・・」と、憂生は何かにささやかれた。

そして、二日後。良人の熱は下がり元気に出勤していったのだけど、沢山の洗濯物が残されていた。

昼近くまで洗濯物にかかずらわって、ふと、物干し場の地面をみつめた。

このあたりも自分の生活圏内と思って塩をまいてみたのだ。

塩がまかれたあたりを見てみるつもりだった憂生は妙な物を見つけた。

よくよくみてみると、それは、野鼠の死骸だった。

小さな二十日鼠くらいの野鼠。

憂生の中で一気に夢との話しがつながった。

「この野鼠は何らかの原因で死にかけていたのに違いない。

苦しみのあまり死にたがった野鼠の辛い思いが毒になり良人にぶつかり、その毒素が良人をむしばんだ」

このことは、夢の中の老人が言う事が本当のことだと明かすための事でしかなかったのかもしれない。

だけど、奇妙に符号する、囁きと実際の野鼠の死骸。

人知では、究明できない思念の渦は、見えない空間の中に鳴門の渦潮のように、

そこいら中に逆巻いているのかもしれない。

普段の生活で風邪と思っている事は実は死にたがるものがぶつかってきていたせいかもしれない。

これが、わかったとて、結局風邪薬をのむしかないんだけど、

せめても、人を理論で追い詰め生きる気力さえ失わせるくらい落ち込ませるなんて事がどれだけ危険な行為であるか。

こういう場合は生霊というより、死霊の範囲に入りかけてるかもしれないけど、

正に理論でかっても人として下におちているというところかもしれない。

結局、あの人の言う事は正しいとか、情を顧ない捌きを付けがちな人間の驕りを、

いや、憂生の驕りを示唆される事件だったのだろうかと、

今更ながらに考え直しているのである。

と、同時に死にたがる人間になることを戒められている気もした。

物事を投げ出し生きる気力を失う。

この挙句自殺でも企てたとしても誰に迷惑がかかるわけじゃなし。

こんな考えをもし起したとしたら見えない世界では時に他の人間までも、

死に引きずり込む毒素を発する『情けないもの』になりさがるんだ。

兎に角人は精一杯生きて生きていきてゆくしかない。

この活力こそ「情けある自分」にすりかえる。

例えばこういうことだろうか? 

死にたがり願望の強かった憂生への警告にすぎなかった事件でしかないかな?

こんな幸せな気分のまま、いま、死ねたらいいな。憂生はよくそんなことを思った。

ある種、つつましい願望はむしろ、多くの毒素を生みだすだけでしかなく、

某大臣の言うある早大生の毒のある行動はむしろ生きている事を謳歌しているだけでしかないなら、憂生の方が余程罪深い。

憂生は知らずに毒をまきちらかしていたのかもしれない。

そういえば、夢の老人は酷く冷ややかでおそろしくおもえた。

憂生を擁護しに来た眼差しとは少し違っていた気がする。

こんな風に何かに囁かれたり、何かの思いを拾う事は今でこそほとんどなくなった。

それは一つの事件が契機だったかもしれない。

裏庭の戸を開け、あたりをみまわしていた。周りには何も居ない。

ところが、憂生の耳には「やーね。みてるわよ」「いいさ。ほっとけ」なんて

、何か判らない痴情めいた科白が飛び込んでくる。

だけど、みまわしても誰も居ない。

見渡すほどに「やだ。まだ、みてる」「いいさ」「いやよ」と、

憂生の見渡しにまるで覗き見がばれているかのように思いがとびこんでくる。

とうとう、彼女は「いや」と彼から身体を離し彼は「おい」と、彼女との痴態を惜しんでひきとめている。

憂生にすれば何も見えないし何もない。

なんやねん?それ?と思った瞬間葦原から猫が1匹。続いて、もう1匹。

え?まさしく。え?  

もしかして憂生はこの猫の思いを拾っていた?

色んな事件があり、人の思いを何かの拍子。いや、こちらに思いを向けられた時によくひろった。

―「噂といってたけど、それ「だれがいったんだろう?」」

― 暫くするとお隣さんが噂を言ったのは誰ですか?とききに来る。

イチゴを見ていると『ふ―ん。この人はイチゴがすきなんだな』

暫くすると大家さんが苺を持ってくる。

こんな事がしょっちゅうあると、思いを拾うことを気味が悪いと思うより、どこかで肯定し始める思いが生じる。

自分を赦すとでも言おうか。この肯定がいかに安易なものであるか。これをしらされた。

猫。動物の思いまでひろう?

つまり、自分の程度が猫ぐらいの思いでしかないということになる。

このことにより、お構いなしに拾う自分に意識的規制がかかった。

拾うのは仕方がないが、取りざたしていいかどうかの判断がつかない自分であり、

挙句猫なんかの思いまで拾うしょうもなさ。

拾った思いを下手に信じたら大変な事になるんだと気が付いた時、本当なら、その内判ると考える様になった。

言い換えれば、迂闊に云云頷いていたら思いを拾わさすなにものかに自分がのっとられる。自分がなくなる。

だから、良人の事故るを憂生は信じなかった。むしろ、否定した。

あの慎重な人間がそんな事は無い。

結果は先に書いたとおり。もし、憂生が信じたら本当に事故って居たのかもしれない。

思いの世界はエネルギーだとも思う。

憂生が信じたら其のエネルギ―で事故を引き起こさせるのかもしれない。

拾った思い=其の通りになるのではない。

だが、確かに成りかけたかもしれない未来。もう一つの岐路をみせつけてくることもある。

本当だったらはへんな言い方かもしれないが、事故る良人だったかもしれない。

無事である事の裏には本当はこんな風にいくつ物危うい岐路をまぬがれているという事実があると言う事さえ気がつかない。

良く自分が生まれてきていると言う事が既に一億分の一の確率を得た勝者というが、(精子段階で生命を掴み取るという確率)

何気なく平々凡々に生きている事こそ、本当はいくつもの枝路を潜り抜けた勝者の証でしかないのかもしれない。

無事と云う事のすごさに気がつかず、感謝の念の薄さにも気が付きもしない。

こんな人間への示唆でしかないのかなと思ったとき、憂生はあまり思いを拾わなくなったし

思いを拾うことをスゴイとも思わなくなったし、拾った思いをむげにきにしなくなった。

拾ったかなあって感じだし、むしろ、意識を集中する方が拾いにくい。

余程真剣に拾おうとする物事で無い限り、集中もできないし、本当の事は拾えない。

自分の感情が混ざりこんで一層デマがはいりこむ。

だから、自分からわざと拾うきはない。

神経集中してまで知らなきゃなんないことってあるかな?

知らないからいいんだし、知る必要もない。

それでも時折ひょいと入ってくる。

相変わらず事が成ってから『つまり猫事件で云えば、猫がとびだしてきてから』ああ、拾ってたんだなと気が付く。

こんな調子で勝手に入ってくる場合はしかたない。

けど、それにふられない。

だって、それって相手でなく、自分を信じてるだけじゃない。

つまり、人をみない、信じない大馬鹿者じゃない。だったら、1人で生きてろよってとこでしょ?

不思議なことをかいてる?

でも、こんなのって多かれ少なかれ誰にでもあるんじゃないのかな

仕事中になんかいやな気がして早退して帰ったら、子供が熱出してますって、学校から連絡がはいったりとかさ。

偶然が自覚させられる対処でしかないなら、普段って、自然が生み出した意識できない対処でしかないんだけどさ。

相手の思いを自覚させられた方がすごいみたいに思いがちだけど、

友達同士。何となくあいつの考えてる事が判るって事の方がもっと凄い事なんだよね。

何となく判る。何となく無事平凡。この事の方がもっと凄い事なんだと思う。

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