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文は人也・・・2

コメントの中の一言が憂生には判らないでいる。

自分の現身を原稿用紙に残す、真剣勝負の作家さんには叶わない

って、言葉です。

現身っていうもの自体が何をさすかということで、

捉え方が違うせいだと思うのです。

文章には、いやがおうでも「現身」が入り込むものだということが、前提になってる憂生には、

この表現だと、たとえて言えば、

悲しいことを経験した人間が悲しい想いを一生懸命書く。

そういう風なたとえですが、

こういうことについては、机上論でないぶんだけ、真剣にかけるのは当たり前なことで

では、作家というものが、一事が万事、本当に経験したことしか書かないかといえば、

それは、無理なことです。

どこまで、人の心とか?そういうことを想い量る事ができるか。

そこができて、奥行きのある事が書けるわけですが、

その想い量るというところに、「現身」が出てくるわけです。

ただ、自分の「現身」を書くだけなら、たとえて言えば

アンネ・フランクにまさる作家はいないわけであり(作家と言えるかは別問題にして)

この上ない不幸や幸せとか?

そういうものを書くことにおいて、それは(真剣)勝負ではないでしょう?

あくまでも、書くことは自分自身との戦いでしかないと想いますが、

その作家と自分や他の人をひきあいにして、敵うとか敵わないとか考えること自体が

ラインが違うという気がします。

こういう意味合いで、昔ちょっと、書きましたが、憂生自身が例えば類希なる不幸な人間だったら、

ひょっとして、ベストセラーになるものを書けるのかもしれません。

ですが、むしろ、そういうベストセラーを生み出せるような不幸でないことのほうが

どんなにありがたいか。

ってことをね。

そして、文章というのは、おそろしい物です。

知らずのうちに、(現身)が入り込むということ。

憂生はむしろ、この現身の自覚と幅を広げていくために書いているといっても

過言ではないのです。

そして、作家もそうだとおもっていますし、やくたいもない現身が出てくる時など

特にいかに現身がはいりこまないようにするか。

むしろ、あくまでも作り事をどこまで、「真実」にしていくかという部分で

真実にできるだけの「自分」の視覚(これがひいては、現身になる)を作っていくという事ではないかと想うのです。

文章の中にいれこまれてしまう現身を考えるとき、自分ではみえにくいものです。

ですが、以前にもこのように、妙な作家さんにいいぶんをきいたときのことですが、

文章の中に陳腐なステータス感情(現身といってもよいでしょう)が入っているのです。

で、コメントのやりとりをしているうちに、本人がやっぱり、陳腐なステータス感情をもっていることに気がつかされるということがありました。

こんな風なことを考えても、意識して真剣に現身をいれこんでいたからとて、

現身自体が陳腐だったら、人に読ませることは出来ないってばあいがあって、

ましてや、ほうっておいても、知らずに入っていく現身があるわけですから、

結局のところ、自分をいかに高めていくかってことでしかなく

真剣勝負をした結果、人に不快感を与えたり、陳腐を露呈させる結果にしかならないってことがあるっていうのが、怖いところなのです。

ですから、憂生自体としては、書評にもいただいたように

「生き方を真剣に問う」「人への優しいまなざし」ってものを自分の現身にしていきたいと考えているわけですし、書くことそれすなわち「自分の生き様を問う」という部分(現身のありようという部分で)でも、実践して行ってることですから、当然の如く表裏一体になってきてしまうわけです。

どれだけ自分をつきつめていくか、と、ともにその自分へのまなざしがあればこそ

優しいというのは人を憂うだともかきましたが、

また人にたいしても、憂うことができるようになるとも考えています。

言葉だけの意味合いですから、実際問題、

自分の現身を原稿用紙に残す、真剣勝負の作家さんには叶わないってことが

どういう定義の上になりたっているのか、わかりませんが

憂生には憂生の定義があって、

何度もかいたように、現身はしらずのうちに文章のなかに入り込むというものですから、

憂生は憂生なりの真剣さでやっています。

これについて、他の人間に負けるとか、勝つとか、そういう考え方もありませんから、

こうやって、自分をみつめなおしてみると、

その言葉を理解できない憂生の要素を意識できました。

いかに書くことに誠意であるか、と、いうことは何度か口にした言葉ですが

やはり、人生をある程度わたってみなきゃ書けないことがあると

一時断筆したことが今では、妥当だと思えます。

どこまで、人の心とか?そういうことを想い量る事ができるか。

自身が全然人生わたってきていないのに、書けないことがある。

仕事もした事が無いのに仕事をする人間の心のことをかけない。

たとえていえば、そんなふうなものです。

どこか、普通の人間として、類希などでなく、ごくあたりまえのことさえ

まだまだ経験不足の自分が人間の生き様などかけはしない。

そう想っての断筆でした。

そして、やっぱり、まだまだ、想い量りきれないものがありすぎて、

例えば、聖徳太子をかこうとして、頓挫してます。

想い量れるほどの現身ができたら、書けるかな?

そんなことを想いながら

明治維新の志士のこともかききれないまま、

お茶濁し程度の沖田くんをかいてみたりもしました。

そんな風にとにかく書く。

物語がかけないときは日記でもいい。

とにかく、書く。

想ったことだけでなく、なにかしら掘り下げをしていく。

こう言う風に勤めてきています。

そして、多くいわれることが、こういう憂生の態度?姿勢?をみていると

自分もがんばって書かなきゃと想わされる。と、いう言葉です。

憂生は最低限、読んで得したというところまではいかなくても、

損した(時間的に特にそう想うばあいもあるかな?)とは思わせない文章をかいていきたいと

想っていました。

そういう意味合いでも、憂生の文章を読んでると

自分もがんばって書いていきたいと想ってもらえると聞かされて

ほっとしています。

与える余波というものは文章だけでは、判らないものです。

人を育てるというと大げさですが

良い方向への余波を与える事ができるという目に見えない部分も

あるいは、これも現身がしらずのうちにはいりこんだものなのかと考えると

自分がうつしもうとしてうつしこんでるものなど氷山の一角でしかなく

現身と意識できている部分もわずかなのかもしれないと想います。

そういう意味合いでも、箱舟の時にすこし述べましたが

何を(自分に)示唆しているのか、まだまだ見えないと。

これが、すなわち、現身のことです。

なにを映しこんでるのか・・・。

その映し現象があるからこそ、とにかく書く。

書いていけば、見えてくる事があるから。

書くは自分探しということになりますね。

またも、長くなりました。読んでくださった人。ありがと

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