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「作品は独立できるものか、どうか?」


KAGEROUの書評にでくわした。

簡単にいって、しまえば、

作家としては、作家にもならない文章力だ。

と、いう。

ところが、思いいれというのか、

読む人間の心に響く。

はからずも、最後には涙がこぼれた。

という。

たいしてうまくもない作品であるのに、心を撃たれてしまった。

と、いう。

軽く不覚というニュアンスがある。

その不覚をこえて、選考させるものがあることに納得する。

で、あとは、彼の実生活と云々かんぬん・・私小説として高く評価する。

と、いうことだったが・・・。

結局、ここにも、ネームヴァリューみたいなものを感じる。

彼があのいかにもの、かげりのある風貌で、

バックグラウンドも報道によりレクチャーされる。

作品はリアルな実感をともなってくる。

いつか、昔、憂生がいわれたことにこれがある。

日記などなどから、かなりリアルな憂生がレクチャーされていた。

実際、日記をよんで、この人の書く物語ってどんなものなのだろうと読みに来てくれた人も多かったとおもう。

そして、物語の中に閉じ込められてる憂生にふれる。

おそらく、通常の物語だけをよむのとは違う、深みがあったと思う。

そのころに、言われた事がある。

「物語と作者が別のところにいて、物語だけで、独立して、読ませることができるだろうか?」

実際、普通の本を考えればそうだろう。

作品だけで勝負する。

ところが、今の世の中のシステムを考えると、なにかしら、作者本人の実像?をうかがわせることができる形になっている。

作品だけをあげる人もいるだろうが、日記があったり、ちょっとした解説やコメント応対・・などなどで、作者本人に触れる事が出来るのがネットのよいところでもあろう。

そのネットにあげたものをして、物語本体だけで・・というのも、難しいものがある。

と、思っていた。

誰ともコンタクトせず、作品のみ掲げる。

と、いうことのほうが、まれであろう。

だが、実際の場面で、白蛇を瓦解し、見知らぬブログに遠征しにいく。

まず、憂生のバックグラウンドをしらない。

今まで「憂生だから」でつうじていたものが通じない。

あげく、したり顔で、(いや、顔はみえないが)懇切丁寧に文章の書き方を訓示してくださる人が現れる。

今まで、一言で理解されていた言葉が通じない。

それもこれも、日記や憂生がかかわってきた事件?などから憂生の性格をつかみとってくれている人が居た世界から、こっちも、見知らぬが、むこうも憂生って、どこの馬の骨?くらいの認識しかない。

いきおい、自分の方が巧みだと思う人が訓示をくださる。

たしかに、この状況はKAGEROUと同じだ。

作家としては下手。

ところが、今まではレクチャーされた世界にいたから、なにもかもが通じてきた。

そこで、おもいだすわけだ。

「作品として独立して読まれたときにどうだろう」

KAGEROUもレクチャーされた世界になりたっている部分が大きい。

このパターンというのは、この先ますます、発展していくだろう。

確かに昨今、話題になったものは、

言い方が悪いが「私小説」だ。

憂生もいつか、昔に言った事がある。

「類希な不幸があれば、ベストセラーになる作品をかけるのかもしれない。

だが、ベストセラーの作品をかけるような不幸が無いことこそが幸せであるんだ」

と。

不幸を売り物というわけではないが・・・。

不幸に立ち向かっていったドキュメンタリーに近い作品が、もてはやされてしまうのは、

さらに「私小説」に拍車をかけるだろうと思っていた。

案の定、レクチャーされた人間の「私小説」が、とびだしてきた。

こうなると、架空の物語を書いている作家はますます苦しい立場にたつ。

ストーリー性や構成などなど、「実際の物事」の前では

空虚なものになりやすい。

この結果でてきたのが、ライトノベルとか、感覚小説だろう。

特殊な設定というのも、ひとつの「私小説」に通じる。

かと、思えば、

逆の言い方をする人間も居る。

「作品と作家本人はべつだ」

と。

これは、むつかしい。

例えばアダルト小説などでいえば、破廉恥な主人公を作家本人といっしょくたにされてはたまらない。

だが、根底部分や心理(深層意識)(あるいは、無意識)の中に作家本人とかさなる何かがある場合がある。

極端に言えば設定とか・・。

こういう設定にする本人の背景部分。

などなど・・。

作品が作家から離れて独立できるか、どうか、と、いう事を考え出すと

憂生は不可能だと思っている。

確かに作品は一人歩きする。

だが、その作品を読む側の受け止め方が読み手側の背景により、

いろいろと変わる。

元は1冊の作品でしかない。

この受け止め方の違いを生じさせるということをして、

作品をとらえると、

一個の人格さえあるようにみえる。

ゆえに、ひとりあるきするというわけだが、

だからといって、そこに作者が介在しないかといったら、そうはいかない。

逆をいえば、作者が介在しないと思われる作品は

「誰がかいたんだっけ?」という二束三文の作品ということになってこよう。

で、履歴をふりかえってみれば、

「憂生だから書ける作品を読みたい」

「憂生の作品だから、読みたい」

という、ありがたいお言葉をいただいているわけで、

で、あれば、

やはり、「作品が独立して読まれる」ということは、

不可能だろう。

例えばIQ64・・・。

これが彼の作品だから、よんでみようという気になった人もおおいのではないだろうか?

さらに彼の作品をよみつづけようと思う成り、ソノ逆だとしても

「作品に作者が在る」からなわけで、

どうも、憂生にはいまだに

「作品が独立して読まれる」という定義がふにおちていない。

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