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1霊4魂から・・・考えたこと

日本人の御霊と外国人の御霊は違うという
大本神喩の言葉をそのまま、うけとめると
(別解釈すると、邪馬台国は日本ではないという話と通じる解釈になるのでちょっとおいときます)

疑問が浮かんでくる。

単純ですが、
「どう違う?」
と、いう事になってきます。

ここも、「天直々の御霊」という風にきいているのです。
実際に具体的な御霊の姿をしらされても
(小さな針でついた穴のような物が、三つあって、そこから、突く息をしているとか・・人間の握りこぶしくらいの大きさだとか)
憂生自身が神道家からしらされた?不可思議なことが具体的にはどういうことなのか。
金色の光があったり、次の時には蛇と鬼がいるといわれたりというのがあって
と、どういうことだろうと、考え始めるようになりました。

そこで、ヒントに成ったのが、古神道の
1霊4魂という考え方だったのですが
あるとき、魂は3っあると伝えられました。

この伝えてきたものがなにであるかも、
その言葉も本当かどうかわからないことですが
日本書記のほうにある
大国主命と大物主の邂逅の場面ですね。

海中から光の玉があらわれ
「私はお前(大国主命)の幸魂と奇魂である」ということをいいます。
それが、
大物主として祀られることになるわけですが・・・。

ここで、おやっと思います。

光の玉はひとつではないかということです。幸魂と奇魂が一緒に・・ドラゴンボールでいえばフュージョンしてるものになるのでは?

光の玉(後の蛇ー大物主)は、幸魂と奇魂である。

と、なると

荒魂と和魂と蛇(幸魂と奇魂)で
魂はみっつになるのでは?

そして、1霊4魂の1霊が、御霊のことであるとすると
神道家は2度目には1霊(御霊)の内部に入り込んだと、考えられます。

すると、蛇は幸魂と奇魂と、かんがえ、
鬼が荒魂とも考えられます。
ところが、
和魂はどこにあるのでしょう?www

ひとつの考え方ですが、
以前考えていたことですが
日本人の神の捉え方は
外国にありがちな悪と善を別にかんがえるのでなく
一人の神の2面性という風に捉えるわけです。
雨の神が慈雨をふらせ
同じ雨の神が台風などの暴風雨をおこす。

両面スクネ(字がでてこない)ではないけれど
同じ神の和の面と荒の部分が大物主のようなフュージョンでなく
別の神として表面化する。と、考えると
鬼にみえたものは、あるいは別の時には慈愛をたたえた救世観音?のような姿をしているかもしれません。

たとえばですが、
鬼がいるとみえたときと
観音がいると見えたときと
蛇がいると見えたときと
魂が三つあると感じるのではないかとおもうと
1霊4魂という捉え方も正解なのだとおもうし、
三魂というのも正解だろうと思います。

このあたりをかんがえて、1霊4魂をあらためてぐぐってみました。

なにか、納得がいくブログがあったので
アドレスを貼り付けておきます。

http://www.genbu.net/zatu/zatu008.htm

この方のものは、神の名前から1霊4魂をあてはめてかんがえていらしゃるのですが
憂生のものにあてはめると
蛇を和魂とし、そこに奇魂と幸魂にし
鬼を荒魂とあてはめると、
魂が3つということにもなってきます。

憂生的には

和魂というのが、蛇と鬼を調和させる自分というものであるのではないかという気もします。

この3っが整った形が三位一体の1霊の姿ということかもしれません。

先日の映画で、
「父と子と精霊の・・」という台詞があり
精霊というものは、なんぞや?という
キリスト?がとらえたものの実態が
はたして、なんだったろうかとかんがえてみると

父と子というのが、
父が天であるなら、子は御霊であり、
精霊というのは、あるいは、4(3?)魂をさすのではないかとおもえたのです。

日本的にいえば、人間の心の中の悪の面を露呈することを
天と御霊と(和・奇・幸・荒)の魂でいさめようとしているという感じに聞こえます。

キリスト教のように、
悪を外部のものと考えると
キリストに依存したかんじにきこえますが
日本的にかんがえると、
己の中の悪の部分、それを浮上させているのは自分であり
自分の位置を天と御霊と4魂の位置にたつことで
悪を(自分の内)で改心、反転させて、浮上しないようにします。

と、いっていると捉えられ、
「目の前におきることは自分に元がある」
と、いう考え方でいけば
悪魔に遭遇するキリスト教徒が悪魔を外部のものとして
悪魔退治をする。
と、いうのは、
確かに、日本の考え方とは違ってきます。

この考えの違いは冒頭にかいた
「日本人の御霊は外国人の御霊とはちがう」ということに通じてくるとも思えます。

物事の所在の根源が自分のなかにあると考える日本人と
悪いのはあくまのせいで、神がたすけてくれる。
と、いうキリスト教的にいえば、子羊という弱い動物でしかないと洗脳されているかのような外国人とでは、
自分の人生の所在・責任がちがうと思うわけです。

ここをして、昨今SPで自分こそが自分の(人生の)主役だ。
と、いうことをいわれているのをみると、
あたりまえじゃないかとも、
キリスト教的洗脳を取り外していきはじめているという風にも見えます。

この言葉が逆に今の人間の精神に納得を与える言葉であるのなら
今の日本人がいかに日本精神をみうしなってしまったかということでしょう。

ちょうど、それは、
東北地震のときに
外国人が
「日本はすばらしい。略奪や暴動をおこさない」
と、いい、
その言葉をほめられていると感じてしまう心理に似ています。
外国は当たり前のことでしかないことができなくなっている国だという事を露呈しているわけです。

そういうふうに、外国のほうからはいってくることは
ときに、レベルがひくいところから生じてきていることである場合があるのですが、
意識化したという部分で圧倒されてしまうことがあります。

もともと、日本人は御霊(精神性)がちがうのだということを
実は日本人がわからなくなる。ほど、当たり前の日常で
日常的なものほど、明文化(文字にする)ことがないということを思います。
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