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思うままに・・

蛇ということで、思い起こすのは
ネッ友のことが大きい。

彼はスサノオに傾倒していて、いろいろとしらべあげていた。

この点でも、彼の探究心やしらべにいく行動力など
尊敬にあたいするものがあった。

彼とメールではなしをしはじめたころ
異変にきがついた。

以前にもかいた「ぐらぐら感」というのが
彼と対峙するかなり激しくなった。

このあたりから、続けざまに以前書いた
ブログの訪問者によっては、
幻惑感のようなぐらぐらした、一種憑依のときとにたような感覚がおき
そして、話をしてみると、
相手の魂?の様子もつたわってきて
まあ、不思議としかいいようのないことがおこり
結局、最終的には頭上チャクラにぼわつきがおこるようになり
そのぼわつきが、相手の何かがこちらにコンタクトをとってきて
本人に「なにかをつたえてくれ」ということによるものなのだとわかってきた。

当時、まだ、それが、ナゼおきるかわからないまま
みょうな幻惑感にとまどいながらという状況であった。

多少なり、すでにそういう幻惑感をかんじ
その共通性をさがしていた。

相手の人に霊能力のようなものがある。
死に目にあっている。あるいは、生きる気力をなくしている。
なにか、憑き物がいる。
心になんらかのくぼみがある。

最後の心に何らかのくぼみがあるということ以外、共通点はなかった。

だが、それをいうのなら、くぼみがある人間がきたら、みんなに幻惑感をかんじなければならないだろう。

霊能力者であるのならそれで感じるのなら
霊能力者(霊感)であれば、ミナ感じるかというとそうでもない。

そんなふうに、なにゆえ、こういう幻惑感がおきるのだろうと
たびかさなってきていたさなかに
彼と対峙すると、今までにない激しい幻惑感をかんじることになった。

アメーバーの霊能力者によると、
自分より高次元のものがくるとそうなる。という。
だが、この意見に賛成しがたい事象がおきていた。
このグループのなかの一人がこっちにきたとき、
背中がすごく温かくなったことがあった。
高次元というのを、温かみのある思いではないというのなら
たしかに、高次元のものがきたら幻惑感がおきるのかもしれない。

いずれにせよ、
憂生が彼にたいしておもったことは
もうしわけないけど
「おおきな憑き物がいる」
と、いうことだった。

この言葉を誤解されたくないので、たどたどしいけど、
話す。

何度か、話しているように、
自分の中に御霊がいる。
つまり、自分の中に「神」がいるようなもので
この神でないかぎり、他の神はどれだけ高次元であっても
憑き物である。

まだ、御幣がある。

実際、憂生がなにものかに憑依されたとき
師がおいはらってくれたあと
あれは、国津神だ。憂生の御霊にはせめて、天津神じゃないとね
と、いう言葉をかけられている。
むろん、謎の言葉だ。
国津神というのは、いわゆるうせ物探しとか?病気治しとか
こういう人助けをする神であるらしい。
このあたりでは、最近のSPが解明してくれているが
たとえば病気。
これも、その人間にあたえられたカルマであり
病気になるそもそもの思いを直すことが本来で
極端にいえば
その思いをなおせないから、
病気になってしまうという形で帳合がとれてくる。
と、いうもので、
人間にはことさら病などない。
と、いうことらしい。
だから、病気になる元の思いを正さず
かつ、帳合からものがれてしまえば
御霊自体にとっては業やカルマが残るということになり
人助けが本当の意味で人助けにならない。
では、天津神というのはどういうことになるのだろうか?
どうやら、その人の御霊の成長・加勢にかかわるようである。
あるひとの話だが、
国津神がその人の御霊を使おうとしたらしい。
いわゆるお台さんのようなもので、
国津神の仕事?をさせようとしたらしい。

ところが、その人の御霊というのが、
もっと大きな役?天命?をもっていて
国津神のほうから「この御霊は自分などがつかう御霊ではない」と、でていってしまったそうである。

そして、天津神などがやってきて、いろいろと仕込んでいって
最後には御霊が出てきたそうである。

こういうことから、その憑き物がなんであっても
憑き物で、
そのつき物からいろいろ学んだり、しこまれたりというのはあるのだが
自分本来の神ともいう御霊とは違うものである。
と、いうことをいう。

ゆえに彼に対してひどい幻惑感を感じるたのは
なにかしら高次元の神・・という憑き物がいるというふうにおもったわけで、
正直、それをとりはずさなければならないだろうと思っていた。

ところが、彼の口からでてきたのは、
キリスト教の洗礼をうけているということだった。

キリストの生き方の足元にも及ばない人間がいうのもおこがましい台詞であるが
御霊ということを考えると
洗礼をうけるということは
キリストと親子になることであり
自分の御霊をキリストの差配?にまかせるという
一種契約のようなものであろう。

これは、なにか、おかしいと思っている。
と、いうか、キリストを神とあがめるのはけっこうであるが
自分の御霊のことは、自分でやっていくしかない。

何か、釈然としない思いをもちながら
キリストという憑き物をはずすのは
憂生ではできないとおもっていた。

そんなあるとき、ふと、彼と対峙していないときにも
幻惑感がおきるということがあったので
ふと、おもったことがあった、
「もしかして、憂生のこと、キリストにいのってない?」
彼の言葉は
「昨日までいのっていたけどもうやめた」
と、いうことだった。

正直な思いをいう。

彼自身が憂生のことを心配してくれて
なんとかいいようになってほしいなあとおもってくれるのはありがたい。
だが、それをキリストにほったくるのはやめてくれ。

だった。

どこかで、目の前におきることの元は自分にある。という考え方があるせいだろう。

まず、憂生自体がなにでそういう人間をみせられるのかということをかんがえなければならないことだけど
ここは、彼にあてはめて考えるとわかりやすい。

ナゼ、憂生という(そのときは)苦しんでる人間をみるんだろう。

その苦しんでる人間に対して、どう思いをきりかえるように、見方をかえるようにいえばいいだろう?

たとえば、-苦しいことばかりに目をむけないでよかったことにめをむけたらー

と、かんがえたとする。

それが、すなわち、彼の苦しみに対する答えともいえる。

すなわち、目の前の人間をみて、どうしたらいいかというのは
自分自身の対処をおしえてくれるものである。

そういう方程式になっているところを
キリストにいのってしまう。

答えをみちびきだそうとせず、
キリストになげてしまう。
あるいは、自分でなんとかしてやれないかと
心をくだいていくということこそ
汝隣人を愛せ、と、いうキリストの説くところであり、
そこから離れてしまうことであろう。

ようは、厳しい言い方をすると
憂生の辛い様子を受け止めきれないから
キリストになんとかしてやってほしいと祈るということで
自分の心の安息を求めているということになってくる。

実際のところ、
立場が違うが
憂生自体は精神障害?
PTSD?心因性精神外傷状態になった人間を
なんとかすると自分でサポートしてきている。
つまり、彼のような
キリストに祈るという依存でなく
とにかく、必死でやってきていたが
その思いは簡単にいえば
なんとかしてやる。という強い思いだった。

ここも話せば長くなるが
憂生自体ネットで精神病の類の人間にいろいろとかかわってきていた。
その中で
自傷癖のある青年から
ひとつの言葉をもらっている。
「どんな精神病でも、本当に愛してくれる人が、抱きしめてくれたら治る」
と、いう言葉だった。

何人もの精神病の人とかかわることによって
そういう言葉もふにおちるものになっていた。
(どう腑におちたかということもいっそう長くなるので割愛します)

そして、憂生も仕事をやめてつききりでみている状態になっていた。
まず、自殺の心配があった。
気持ちが安定していたせいか、ほとんど異常な状態でなく
PDSTの内容についても、はなしはじめていた。
そんな矢先、奇妙な台詞が続いた。
他の人との話が合致してこないこと。

だれそれが、こういってたんだけど
と、つげられて、だれそれさんに、たずねると
「え、そんなこといってないよ」
と、つじつまのあわない。
そんな類がつづき、
何日かたって、本人にたずねると
「そんなこといってないよ」
と、変わる。
このあたりから、本人も自分の異常に気がつき出したころに
決定的な事件?がおきた。
何か、一言声をかけたとたん、
ものすごい剣幕でおこりだし
なんとか、それをなだめたのだが
結局、その記憶がない。

怒った?いつ?

と、いう答えが返ってくる始末で
その前後のことはおぼえているのに
興奮しておこったことはまったく記憶に無かった。

簡単に言うと、人格分裂を起こしていたと思う。

ここまでわかってくると、通常は医者に連れて行くものかもしれない。

だが、憂生は連れて行かなかった。

それが、なぜかというと
まず、相手が憂生を信頼しているということ。

たとえば、そうやって怒ったとうことをいっても
そのことは事実だとわからないのに
認めることが出来る。
そういう本人の変化を24時間体制でみていられるということ。

そして、医者というのが
心因性の受け止め方のまずさをカバーできるほど
本人の性格を熟知していないことや
病人にしてしまうということ。

憂生の中で一時のショック状態であるという見方があり
ここで病院につれていったら精神病者であると本人が
洗脳されてしまう。

あくまでも、ショック回復につとめる。
と、いうことが、念頭にあった。

一方のキリスト教の彼も躁鬱病の患者であった時期があり
憂生個人で医療行為をこなうことはいけないと忠告してくれていた。

だが、不思議とほかにたよる気持ちがなく
自傷癖の青年の言葉を思った。
「愛してくれる人が思い切り抱きしめてくれたら治る」
その言葉はその一回の抱きしめということでなく
24時間かける何日も相手に焦点をあわせていくことであり
いつまでかかるかわからないものである。

だが、基本は「治る」と信じることだろう。

このことによく似たこともSPでいっている。

ただそばにいてくれるだけでいい。
愛してくれる人が・・

大雑把な言い方だがそういうふうに精神というのは安らぐものなのだと思う。

そして、間違っていることであろうが
それはいけないということはいっさい口にせず
その思いをかなえてやろうとうごいた。
それが、結果的にその思いがかなう疑似体験になったのだろう。
今でいう断遮理?になったのだろう。
突如、本来持っていた思いがあふれだしてきて
こういう言い方はおかしいが
正気に戻った。

いろんな苦しみやら自責の念やら
にげだしてしまおうとした結果やらで
本心をうずめかくしていたのが
とりはらわれ、見失っていた本心が顔をだしはじめたら
回復ははやかった。

キリスト教の彼にしろ、
自傷癖の青年にしろ

「どんな精神病でも、本当に愛してくれる人が、抱きしめてくれたら治る」
のだろう。
だが、青年がいった。
俺には愛してくれる人がいないから・・と。
青年は恋人を亡くしていた。
最後まで見取ったそうだ。
その彼がいった言葉こそ彼の魂の言葉だろう。

「どんな精神病でも、本当に愛してくれる人が、抱きしめてくれたら治る」

キリスト教の彼も離婚している。
このあたりのことはいろいろ複雑な事情があるのだけど
彼もまた愛してくれる人を失っている。

そのあたりが、なおさら、憂生に対する否定感になるのだと思う。

医療行為を素人がおこなっちゃいけないという言葉の裏にあるものを
心霊てきなものを知っているはずの彼がいう。
奇跡をおこすのはキリストだけしかいないだろうか?
いや、それ以前に奇跡なんてものじゃなく
普通にあることであり
愛をなくしている現代だからこそ
精神病もおおくおきるようになってきていよう。

毎日のようにおきる悲惨な事件
これも、精神病の発作だろう。

社会構造が変化しまくって
家に帰っても誰もいない
ほっと安心する親の存在はなく
仕事のため、小さな子供が
託児所にあずけられ
ただいてくれるだけでいい
そういう心の安定にも飢えて

上手に本心を隠しなだめ

決定的なショックで精神がくずれていく

どこかになげわたすでなく
自分こそがなんとかしてやるという心が
あるいは、奇跡をうむということをわからなくなっている

自分じゃなんともできないんだという

洗脳をそろそろときはなってもいいころだろう

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