画像1 画像2 画像3 画像4

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ネットの中での不思議・・2

以前のことを先ほど少しあげましたが、
ネットをはなれていても、
現実で対面していても、
頭上チャクラにぼわつきをかんじると、
対面している方の守護霊?とか、こういう方から、
コンタクトがあるということがあったり、
相手の方が心理的、精神的にぐらついた状態になると
こちらに届いてきて
おかしいなあ、何でこんなにぐらぐらするんだろうと思っていると
相手の方がたずねてきて、話をすると、迷ったり気にしたりしていることをはなしてくれて
そこに、何らかの「思いの切り替えになるかなあ」という話をすると
安心されるのか、こっちのぐらつきもうそのようになくなるという事象がありました。

何らかの奇妙な事象は
やはり、メッセージであり、
その相手の守護霊や守護神や御霊など?から
こちらに対して
「伝えてくれ」という思いを送ってきている場合もあるかとも思います。

過去、大神神社に赤い光が移りこんだという方の写真をみていますと
「発布せよ」
と、いう言葉がわいてきます。
まあ、しらべていけば、
大物主が世に出てくるときは
天変地異などがおこりやすい人心の乱れというものがあるときで
大物主としては、
「人の心の乱れをただしていくときである」
と、いうことをつたえてくれということをいったのだとおもいますが、
まだまだ、そのころはその写真を撮った人自身のことだとかんがえていました。

奈良のいろいろな神社などしらせていたということもあり
その中のいったんとして
大物主の存在の意味合いをつたえていくという使命を
渡したかったのではなかろうか?と、おもっていたわけです。

そういう写真にまつわるものからの
「何らかの言葉」というのは、
正直、どういう風に解釈してよいか、わからないことが多々あるのですが、
ある方のブログの写真から
「いさくにきをつけよ」
と、いう言葉がわいてきました。

当方自体、「いさく」がなにかわからず、
ぐぐりました。

おそらくですが、
アブラハムとイサクのことと思われます。
神のいけにえに息子イサクをさしだせといわれ
アブラハムは渦中に飛び込むのごとくで
イサクをさしだす決心をすると
神がとめたということなのですが・・・。

これを読むと、正直、なぞです。

信仰心ということで考えれば
本当に信じていたら
「救われる」と、いうことだろうともとれます。

が、一方で、
わが子をささげよということになるのもどうだろう?ということです。

憂生自体は、
このことから、
「ひこばえにきをつけろ」
と、いうことをおもわされていました。

親木が朽ちかけると、ひこばえがでてくるというのですが
これは、もともとの根からでてくるものですから、
考えようによっては、
親木がなしとげていないことを(ちょっとあいまいな言い方です)
ひこばえが
継承しなければいけないということです。

本来なら、種としてどこかに運ばれ自分の土地に根をおろしていく。

こういうことが新生なのですが、
このことから考えると、

変なたとえかもしれませんが
親は自分のできなかった遺恨を子供で晴らさせようとしている。

と、いうとりかたもできるのではないかと思うのです。

いい学校にいけず、これくらいの地位にしかなれなかったから
お前は勉強して立派になれ

これでは、子供は親の道具になってしまいます。

ひこばえをはやしているといって良いとおもうわけです。

まあ、親の失敗をぬぐってもらおうという道具ではないので
親としては、失敗は失敗と話す必要もあるとはおもいますが
その失敗?にみえることで、得た良いことも伝える必要もあるかもしれません。

親を立ち木を見よ。
と、かくのですが、
言葉やなんやかやで説明するのでなく
「その姿」でみせるしかないところを
何らかの干渉をおこなうことがあるということも考えなければならないこともあると思えます。

そういう風に、ひこばえ、イサクがどういう形ででてきているか。

まあ、アブラハムの話は信仰心というよりも
神への依存ではないかとおもってしまうわけです。

親なれば、子をいけにえに差し出すことは出来ません。
と、なぜ、いわないのか、不思議に思います。

信じていればこそ、本当にニエにされる。
と、しんじれるからこそ、
自分の子を自分の信心の犠牲にしてはいけないと考え付けないとこが不思議です。

信じるということは
はたして、そういうことなのだろうか?

ただ、いえることは、
イサクが自分でそれを覚悟したということがキーポイントです。

わが子を自分の信心の明かしにする。

そして、いつのまにか、
親のために自分の命をさしだすこともいとわない。

いっけん、美談にみえるなかに
いわゆる、親の洗脳がある。と、いう気がするのです。

ほんとうににえになってしまったら
アブラハムはその後の人生、どうなったでしょうか?

私はどうなってもいい。国民を助けてください。
と、いった天皇を思い出します。

本当の土壇場で命をなげだして、人をすくうのが本来の心でありながら
神のためしを与えられるということは
どういうことであろうか?

神がアブラハムにしらせたかったことこそ
「ひこばえを悟れ」ということではなかったかと思うわけです。

神の力をつかったり、
不思議なことがおきてみたり
それは、究極、ほかではない
「自分で自分をすくえない自分だ」ということだと
憂生自体は思っています。

神様をありがたがって
言いなりになるを誠というなどという言い方がありますが
不遜ないいかたですが、
神様にためされているような状態では、なにかおかしいという気がします。

「お前のおもうとおり」
と、いう神が認める思いになっていないということではないかと・・・。

けして、神の道具でもなく
むしろ、神が後押しするような「思い」があってこそ・・・

そういう「思い」になっていく。

ここらへんが、
そのブログの写真から伝えられた思いかなあと思うのです。





関連記事

コメント

非公開コメント
 INDEX    RSS    管理

猫・追加中

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

最近の記事

作品集(アルバム仕立て)

カテゴリー

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
日記
7684位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
2767位
アクセスランキングを見る>>

ブログ村

訪問者様

ページランキング

ブログパーツ

IP検索

全記事表示リンク

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。