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とりとめなく・・・3

SP記事を読んでいて、おもうことは、
はっきり、階層?がわかれてきたかなあということですね。

5次元につながったらしき人がその次元をキープしようとする段階と
そういう次元につながったとか、そんなことを意識せず
どういう風に現時点の自分を捉えていくか。
いわば、3次元において、5次元の意識になるわけにはいかず、
現実の世界に足をつけた状態で5次元感覚を踏破していこうという試みと。

おもしろく感じるのは、
現実の問題について、(例えば、殺人事件とか・・)
まったくといっていい程、言及しない。と、いうことですね。

それだけ、レベルがあがると、
無関係になるのかどうかわからないけど
我関せずの境地になれるということが
すばらしいというか・・・。

先日、面白いことをいう人間と話していたのです。
彼は
奇妙な言い方をしました。
「地震で人が死んだといって、それは、ごくたまにおこったことであって
3万人死んだといって、大騒ぎしていてたとしても
それがどうした?」
と、いうききようによっては、危ない言い方をしていたのですが、
よくよく、きいていると
「じっさい、災害や何やかやで死んだ死んだというけど、
日本では毎年、3万人が自殺している」

なぜ、そのことが、重要視されず、
災害のことで、びっくりしなきゃならない。

なにか、変だよ。

と、いうのが、彼の言い分でしょう。

災害を平気で越していく自殺者の数の多さに
完璧に麻痺しているとしか言いようがない。

そして、憂生は自分が教わったことを思い出している。

おそらく、アセンションを迎えるころのことだと思う。
「人により、暴れるもの
付和雷同するもの
いろいろでてくるが、死にたがるものを救いなさい」
と・・・。

アセンションで大きく出てきている現象として上げられるのは
カルマの清算ということだろう。

魂の上昇により、魂についているカルマが上昇を阻む。
魂の上昇については、太陽の光がというのが、有力な説になっているが
いずれにせよ、
このままでは、魂が上昇できないため
魂についているカルマや業などなどをそぎ落とされる段階に入っている。

そのときに、
暴れる人というのも出てくる。
実際、神が命じたなどといって殺傷事件を起こす人もいた。
これらも、単純に考えれば、
自分のカルマや業を清算するようにはたらきかけられているわけだけど
その言葉通り(感情通り)に行動してしまうというところが、
もう、どうしようもないことなのだろうと思われる。

このあたりについては、
おおくのスピリチュアラーが
たとえば、邪霊などにたぶらかされて
本当の自分を見失うことの危険性という言い方で
示唆していることでは在る。

なんのせいにしろ、
自分の理性でおさえきれないほどの状態になってしまうということに問題があり
邪霊のせいでもいいから、
これは、本来の自分ではないと気がつくことが重要だということになる。

次にあげられているのが、
付和雷同する人。
レミングが、地震を察知して、集団で逃げ出すとき
リーダーになるレミングの「恐怖心」に同調してしまい
リーダーが海にとびこんでも
そのまま一緒についていってしまう。

リーダーはおよげ、
少数のものとならおよぎきれたかもしれないが
群集で海にとびこんでしまったら、
おぼれるものによって、結局多くの命がたすからなくなる。

そういうのも、結局、どうしようもないものなのだろう。

こういうものたちをあとにして
先に自殺したがる、死にたがるものを助けなさいとはいかなることなのだろうかと思う。

ひとつには、
魂がきれいなものは、死にたがる。といわれる。

それは、アセンションでもあかされているようなことだけど
この世のいきにくさで、天に戻りたがる。ということだろう。

けれど、自殺者の先は良い風にきかされてはいない。

天に戻れる魂なのに、天に戻れなくなる。
うがって、みれば、まだ、生きてやるべきことがあるのに
にげだしてしまうという言い方もできるかもしれない。

また、魂のきれいな人がいきのびていけば
他の人間をすくいだすこともできるかもしれないと考えれば
我一人よしで、しんでしまうということは
多くの人の命をもすくいきれないことになる。

憂生はずいぶん前に
うつ病や統合失調症の人間がいずれ、人を救っていけると書いたことがある。
非常に嫌な言い方だけど、
こういう方たちは精神的に非常に弱い。
弱いからこそ、弱い人の心がわかる。
あるいは、甘えだと一笑にふしてしまう心の凹みにたいしても
真剣に取り組んでいける。
このささいに見える凹みを放置していたら
狂うかもしれない。死んでしまうかもしれないと
必死に向き合うことが出来る。

今、こういう人たちがあまりにも少なくなって
痛みをわかちあい、
わがことのようにかんがえてしまう
こういうスタンスをもてる人間があまりにも少ない。

レベルがあがったの
5次元になったの
そういう意識は大切だと思うけど
実際問題、
死にかけている人間をふと、めざめさす。
そういう思いをわすれてはいないだろうか?

まあ、憂生自体は
「死にたがる人間を最初に救う」
と、いうのは、ほかならぬ自分のことだと思った。

その究極の中で
何が自分を救ったかといえば
ひとつには
「魂(御霊)の存在」
で、あり
「自分の存在存続を望むものの意識」だったと思う。

自殺者という捉え方の中に
「逃げる」という考え方がおおいにあるが
実際の場面
御霊が開いた場合など
死が怖くない。そうである。
つまり、逃げるというのではなく
まるで、ピクニックにでも行くかのように「死」をえらびとっていて
本人にしかわからないことだろうけど
実際に自殺する動機がない。
何かが辛くてとか、いう、「逃げ」がない。

憂生の若いころは
よく、幸せだなあと思うときに
「今、このままの思いで死ねたらいいな」と、いうことをよくおもったものであるが
例えて言えば、そういう思いに似ているかもしれない。

この状態の人間に言えることがあるとすれば
「自分の体の中には魂というものがあって、その魂が自分から逃げ出そうとしている。
だから、死のうという風に簡単におもってしまうのだけど
貴方は魂との約束があってうまれてきているのだから、
魂が逃げ出すような生き方をしちゃだめだよ」
と、いうことかもしれない。

魂が逃げ出すというのは妙な言い方かもしれないけど
実際、憂生が、
魂が逃げ出したがったころに
死んでおけば、辛い思いは味合わなかったかもしれない。
けれど、実際、自分が逃げ出そうとしたときには
変な言い方だけど
この幸せなときにしんでおけば・・という思いでなく
不幸から逃げ出そうとしている自分でしかないという思いがあった。

ただただ、生きる屍のような思いで生きながらえているうちに
時というのは、偉大な神だと思う。

妙な言い方だけど、
「このまま、しんでいいのか?」
と、いう思いに切り替わらされ始めていた。

あるいは、こんな状態でいきていていいのか
だった。

そんな風に、
暴れる人間にならず
付和雷同する人間にならず
死にたがる人間を救う(自分を救う)というのも

妙な言い方かもしれないが
暴れる人間にならず
付和雷同する人間にならず
死にたがる人間を救う
と、いう言葉が言霊になっていたとしか思えない。

そして、その言霊に当てはまった自分が
生き延びて思うことは
どうにか、死にたがる人間を作らないでほしいということになる。

例えて言えば、ベトナム帰還兵がPDSTで自殺する。
こういうふうな、原因になるものが、
自殺者の後ろにあるはずだと思う。

本人の弱さでなく
いろんな環境や因縁やその他もろもろで
そういうふうに、死にたがる思いが生じてくる。

アセンションで、いわれるところの
物や金などの価値でなく
「思い」を第一に考える世界へあこがれて
他力本願的に
魂を上昇すればいいと考える気持ちもわからないでもないが、
まず、生きている間に
自分が「思い」を大切にするということを
実施していかないで、
「思い」を第一にする世界にたどりつけられるだろうか?

思いというもの、
どう思うのが一番なのかということを知っていくしかない。

たとえば、
預言?教えが降りてくるという中で
離婚がいけないというのはおかしいとか
ツインソウルというのがあるとか
憂生は奇妙だと思う。

離婚はしちゃいけない。
いろいろと、相手を理解して
歩み寄っていく努力をする。その上で、どうしようもないという選択支であって
基本は離婚をせずにやっていく努力をせよ。
と、いうことであろうし
ツインソウルという一般的な概念も憂生には違う。
めぐり合った人間を自分のツインソウルにまで、お互いをたかめていきなさい。
と、言うことであると思う。

何か、そういう風に、
自分の都合の良いように、解釈した一般論を
真に受けるほど、日本人の魂はよどんでいないと思う。

自分が一生懸命やっていけば、
天に通じるだろうという考えがあるけど
こういう当て込んだ思いももたず
なにおか、一心不乱にやっていく。
と、いうより
必死にやってるときほど
その対象のことしかやっていないだろう。

そういうことだけが必要なきがする。

だから、
なにかしら、さっこん 末法思想のようにSPが論じられていて
時に、天からだとか、
高次元だとかからだとか
宇宙人からだとか
と、いっているけれど
よくよく、考えてみれば
それは、日本人が日本の考え方をわすれているだけで
昔からある考え方でしかないと思う。

そして、ほかの国で育った思想にあてはめて考えてみて
意識の拡大ができているかのようにみえているかもしれないけど
それは、日本を忘れているからだと思う。

すべてのものに神が宿る
この考え方が日本の基本であろう。

自分に宿った神を
自分からおいだすまねをしてはいけないということと
苦しいことがおきても
自分の神が「自分に必要なことを足してくれている」
と、考えて
自分の神とおり、神ながら(かんながら)として生きてほしいと思う。

いまだ、苦しかったことの余波に精神が蝕まれることがあるけれど
それも、また、自分に必要なことなのだととらえることなのだと思う。

まず、自分の思いをうけとめきってしまう。

死にたがる人がいたら
冷静に考えてほしい。

それは、今の自分の思い方から
魂が逃げ出したいといっているSOSでしかない。と。

本当の自分であるのなら、
魂が逃げ出したいなどと思うはずがないのだと。

そのSOSに同調してしまうなぞ、おかしなことで
もう独りの自分をどう掬いだしてやるか
そこを考える。

苦しくても負けちゃいけない
死にこがれても、手をのばしちゃいけない

生まれてきたにはうまれてきたわけがある。
そのわけを自分でつくるのが本当だろう。

誰でもない、自分のために生き遂す

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