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あとおし

日本人の良いところというのに、
なんでも、良しとして受け入れるというのがあります。

このあたりで、
キリスト教の考え方もうのみにしてしまったところがあるのですが
どこか、ちょっと、違うとおもうところがあります。

たぶん、もともとのキリストの考え方はそうじゃないところが
なにか、ゆがめられたところがあり
それをそのまま、受け止めたところがあるというきがするのです。

日本の考え方は
非常に厳しいところがあります。
それは、筋目といっていいかもしれません。
たとえば、
誤解を招く言い方ですが
男尊女卑にみえる筋目です。

たとえば、
お父さんが、まちがったことをいっていても
おかあさんは子供にはおとうさんのいうとおりなんだよといいます。

これは、父親という権力?にへつらったわけでもなく
その場をなんとかやりすごそうというのでもなく
夫唱婦随ということなのです。

この教えは神話にもあって、
有名なことです。
女が先に男に声をかけたら
「蛭子」がうまれてしまった。
そこで、なにがいけなかったかといったら
順番がまちがっていた。
と、いうことにきがつき
男のほうが先に声をかけたら・・・
良い子がうまれたというのです。

つまり、夫をたてて(形だけではないのだと思います)
横暴なことをいわれても
はい。と、ついていくと
子供はそれをみて、育つわけです。

極端にいうと、
横暴な父親でさえも、ほいとうけとめていく母親の態度(心)をみて
おとうさんというのは、りっぱなところがあるんだろうなあ。
と、自分もおかあさんがはいというその理由をしろうとおもうわけです。
(肌身でしるというべきかも)

つまり、お父さんの価値をたかめていくのが
おかあさんなのです。

こういう家庭で育った子供は
おとうさんの価値をたかめたように
いろいろな物事、人にたいしても
価値をみつけることができやすいのです。

なにかで、読んだのですが
だんなのパンツは箸(専用の?)でつまんで洗濯機にいれる。
自分達の洗濯物とは一緒にあらわない。
こんな母親をみて育った子供は
一緒になって
「おとうさん、きたない」というそうです。
極端なたとえ話ですが
そんなふうに子供の人間性までちがってしまうのです。

そういうすじめがない生活をしてしまうようになるひとつの
原因に
キリスト教や、アメリカの女性解放とかを
つごうのよいようにうけとって
女も男と一緒だ。みたいにとって
日本のあり方を男尊女卑ととってしまって
おかしな子供をそだててしまっているところがあるわけです。

女性の底から支える姿が
どれほどすばらしいものをうみだすかわからずに
「えらそうにいわないでよ」
とか、くってかかっていく。

けして、男と女は平等ではありません。
女の言動ひとつで、子供がすばらしくなったり
わるくなったりするという
そういうものをもっているだけ
女の能力は男よりよほど上(と、いういいかたもおかしいのですが)なわけです。
上の人間がぐっとさがるから、
男はえらくなるわけです。
ーこれが、今でいう、あげまんということでしょうー
単純に10歳の子と4歳の子がおなじわるさをしたとき
10歳のこのほうがしかられ、4歳のこにまでいっしょにわるさをさせたことを
しかられてしまいます。
女性のほうがいろんなことができる。
だからこそ、損にみえるやくめをできないと
子供がわるくなって、それで、きがつけとしかられるのです。

キリスト教は大きな愛をときますが
それは、たしかに正論です。
けれど、日本人はまず自分の子供を責任もって
育てていくのです。
立派な子供をそだてれば、
その子がまた、社会や人々に尽くせるようになっていくのです。

愛をしっている子供が育つのです。

そういうことを日本人は大事にしてきたわけです。

それは、竹のように根をはり
また、おもわぬところで
たけのこがはえてというふうになるわけです。

人類愛というのは、確かに美しく見えるかもしれません。
けれど、どこかで親が責任をはたすことができなかったその子供という被害者を
たとえば、たすけてあげることがいいことかというと
難しいところがあるのです。

たとえば、その子のカルマが
親の無い子になって、苦労してがんばって生きていくことで
解消されるとします。
それをひきとって楽な暮らしをさせてあげる。
と、なったら
その子のカルマは解消されず
また、うまれかわって、親をなくしてというふうにやり直さなければいけないかもしれません。

良いことをしているつもりでも、
魂の世界ではとんでもないおせっかいかもしれないのです。

そこのところをわからず、
人類愛だとか、すばらしい人だとか
いってしまうところがあるわけです。

そこまで、考えると本当にすくえているのだろうか?

と、憂生にはわからない世界ながら
そういう風にいろんなところで
本質部分を洗脳されてしまっているというか。

むろん、人道主義や人類愛が間違っているという意味合いで
ひきあいに出しているわけではありません。

うまいたとえがみつからず、もうしわけないのですが、
そういう日本のきびしさというか。
むごい状態をみていても
あえて手をさしのべない強さというか。
心の底で「がんばれ」としかいえない例えて言えば
「忍」という心とか。
こういうことも、まだまだ、わかっていないというか。

ここらへんがすこしわかった気になったのも
逆に
てをさしのべれない状態でカルマの解消をいのっていてくれた人(人間も守護霊もいろいろふくめて)が
いたんだということに気がついたからだとおもいます。

手をさしのべれないような、カルマをもっていたほうが
わるいといえば、わるいのですが
そのおかげで、逆にいろんな存在にあとおしされたのがわかったところもあります。

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