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人間味

体外離脱というのではなくて
実際に生身の体で天にいくと場所があったのですが・・・。
体外離脱になると、
魂・御霊になって、生身の肉体がない状態で
天にあがっていくという臨死体験をするようです。
地上は幽界ににせてつくったということですが
時間の流れが緩慢なせいもあってか、
かなりきれいなところだと聞きます。

実は天と幽界がどうちがうかわかっていないのですが、
かなり、御霊がみがかれていないと
天にはいけないようです。
(これも、たぶんです)

憂生は、実際にあった天の場所にいくことがかないませんでした。
御霊はいけるそうですが、
他の方のように、生身の体でその場にいくことができませんでした。

と、いうのも、いろいろ作法があり
その作法をやる自信がなかったのと
思いの面でも難しかったと思います。

天の場所では、天そのものの方がいらっしゃって
みんな、ある法をつけて、
第3の目を封印して
直接、天の光をみないようにしてはいっていったそうです。
座るのも、天の光をまともにあびないように
なにか、決まった座り方をしていたようです。

その多くの人の中で、そういうふうに
していても、その光にあたってしまうのか?
気がふれてしまったり
御霊の上昇により
上っ面とのバランスがくずれるのか、
あるいは、御霊がひらいてしまうのか・・。

おかしくなってしまう人が出てきたことがあります。

実際、憂生もおかしくなってしまった人をみています。
きがくるってしまったというのではないのですが
絶対生身の状態だったらしるはずもない
方位術?の円盤をかきあげよくわからない計算方法で
運命数みたいなのをかきあげたり
結界をはる方法をしっていたり
そして、まわりがきたなくみえてしかたがなかったのでしょうか?
いまでこそ、
電磁波をつたわって邪のエネルギーとかも
はいってくるということをいわれるようになりましたが
電話からもそういうのがはいってくるから
電話線ごとはずせとか、
あるいは、奇妙とおもわれること口にしたりもしていました。

憂生は自分もおかしくなったり、
15,16のころに憑依体験?からのノイローゼ?
ヒステリー状態?になって、親父に助けられてます。
それは、変な法をつかうというのでなく
黙って言うとおりにしてくれて
気が・・落ちたというか、
そこで、親父になにあほやらせとるんやと
と、われに帰ったということがあったわけです。

だから、まず、さからわず、言う通りにする。
と、いうことをやっていったのです。

これは、別のときでも、
おなじようにして、相手の気を(変なもの?)をおとしていくというやりかたでやっていって
あるとき、本人がわれに帰った。というのがあったのです。

まあ、そんなふうに
御霊が開いた状態になったときとか、
精神的におかしくなったり
憑依されたときとか
そういう方法でやっていくということのみたり・効いたりが
自分の人にたいしてのやり方になっていったと思います。

実際、そうやって、
天の場にいっても
大部分の人がそんなおかしな状態
(御霊がひらく)ということにならないのようでしたが
憂生自体、御霊が開いてるといわれていながら
逆にうわっかわの思いとかカルマとか業とか精神力とか
修行?ができていないので
自分もおかしくなってしまうだろうとおもっていました。

師にすくわれたときも
結局、自分の行がたりてないから
おかしくなってしまったんだ。
と・・。

つまり、うわっかわと御霊のバランスがととのっていないと
おかしくなるようです。

後に「天の場にいって
御霊が開いたら狂うのが本当なんだ」ときかされました。
多くの人は御霊がひらかれずにいたというのが
正解なのかもしれません。

この天の場にいけるような方々のなかには、
すでに御霊がひらいてからいってらっしゃる方もいて
やはり、普通の状態でありながら(天の場でない普通の場所)
おかしくなってしまい、はっと気がついたらここどこだ?とか
死のうとしたり、
最後には直接的な奇跡がおこったり
(たとえば、ビルからとびおりたのに何かにつかまれて元の場所に戻ったとか・証人ありという)
こういうことがあったのも話してくれました。

でも、憂生は天の場にいけなかった、覇気のなさでいこうとしなかった自分を
引け目に思っていたところがありました。

あるとき、おかしくなって帰ってきていた人に
(今は、正常になっていますが、本人はだいぶ長い間、余波がのこっていたといっていました)
憂生もいっていたら、狂っていたのかな?
とたずねたら
「たぶん」といわれました。
それは、お行のたりなさで
御霊(表面)や血や体の中にしみついた「悪いもの」が
天の光にあてられて
一気に浄化が起きてしまうせいでしょう。

今、アセンションも、浄化をいそげといっています。
一気に浄化されても大丈夫でない人である、憂生も
浄化がはじまっていて
アセンションを語る文章のうしろにも
そういう「天」の気がはいっていて
(入っているものもありますし、入ってないものもあります。
中継する人の思いが入り込んでしまって
原文でなく、書いている人の考えとか書いてる部分に
なんの拍子か、邪が混ざりこむことがあります)

天の気がはいってるものを読めば
確かに浄化は促進されるのですが、
あまりに一気によんだりすると
浄化の速度に自分がおいつかなくなります。

先にかいたいっぺんに光を浴びたらというのと同じです)

天の気がはいってる文章は
よんでいたら、心があらわれるというか
こだわっていたことがすっとおちるとか
ほっとするとか
こういうことがおこります。

反面、自分に我があると
どこかで、引っかかります。

その我がどういうことであるかは
わからないのですが
そんなときに
御霊にたずねると
何日かしたときになにかでおしえられます。
あ、こういうことかと自分の中できがつかされるので
わかると思います。
そうでなくても、御霊も浄化させたいとおもっているところがあるので
必死につたえてきてくれています)

それがどういうことかわからないのですが
車の座席をきれいにしたぞ。とか
天井はずしてみたり
というのをきくと
なぜか、涙がでてくるのです。
じわ~~と感激してくるという
うれし涙というか、感動の涙というか

これも、頭で考えてもわからないことなのですが
なにか、変わったということなのでしょう。

たぶん・・また、こじつけるといけないんですが
ライトワーカーになれという別の天からの指示がはずれて
憂生のいうところの
日本人の、大和魂の天の指示をうける座席ができてきたということではないか?と。
(むろん、元はひとつなのですが)

まだまだ、
自分の浄化ができていない状態で
えらそうにぺらぺら、しゃべるべきではないとおもうのですが
あくまでも、自分記録としてかいておきます。

あと、
天は「自分らしさ」というのを大切にしています。
天の教えを自分の血肉にしていくのでも
「我(が)があっては困るが
我(われ)をなくしてしまってもいけない。
その我(われ)【人間味】まで、天はとりあげない」
と。
憂生風解釈なので
ちょっと誤解させてしまうかもしれませんね。
とりあげてしまうというのではないのですが
いったんは、なにもかも天にさしだせ。
と、いうところです。

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