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根底意識

何をもって、それを本物だとか、偽者だとか
判断するのか?
おそらく、何らかの過去からの積み重ねや、体験や情報や
そこから、判断しようとする。

ところが、
1つの事実は、1つの平面として
存在していない。
つまり、自分がみたままの1次元ではない。

たとえば、みかんがある。
みかんはみかんでしかない。
ところが、そのみかんをみかんと判断する。
それは、いままでのつみかさねであり、
今、目の前にあるものは普遍なくみかんであるという魔法をかけている。

だから、みかんをみかんだときめて、
みかんを安心してたべる。
ところが、もしも、見た目はみかんでも
それは、毒入りりんごかもしれない。
皮をむいたら、みかん姫がうまれてくるかもしれない。
別世界への入り口があるかもしれない。
そんなふうに、勝手にかわってしまうと
こまってしまうから、「これは、みかんであり、みかんというものでありなさい」
と、ルールをつくる。
いわゆる、安部晴明でいうところの「呪」をつくる。

ところが、あらたに、今までにないものが、
出現する。

多くの人はまず、とまどう。
そして、既存の観念でその「あたらしいもの」をおしはかろうとする。

どこかに、かいたが
「魔女狩」心理というか。

既存の観念にあてはまらない存在を
どうとらえようかとするとき、
たとえば、もっともらしいことをいわれると
それを新たな観念としてうけいれてしまう。

もっともらしいことに納得がいくと
それが、ひとつの定規になって
世に蔓延していく。

その群集心理というか
「呪」というしばりにあやつられ、
えたいのしれない存在、魔女を
得たいのしれた「異端者」「悪者」と位置づけていく。

すでに、魔女という呼び方さえ「呪」であるのだが・・・。

今になってくると、魔女も
理解の範疇になってくるのであるが・・・。
ところが、
人間の意識の中にくみこまれた「古い観念」は
じつは、魔女を理解したつもりであっても、
なにかのときに、浮上してくる。

たとえば、
魔女が祈った。
とたんに、誰かが目の前で怪我をした。
魔女が祈る前に
その誰かになにかいっていた。

すると、
「あれは、魔女が呪文をかけて、けがをさせたにちがいない」
と、ふと思う。

つまり、結局、古い意識をとっぱらうことなどできず、
新しい意識に安心してそうかもしれないと思っていただけにすぎないとわかる。

ここで、話が長くなることを断っておく。

前回、書いた。
車事故のトラウマのことをオーナーに話した。
一見、違う答えが返ってきたかとおもったが
なるほどだった。

「怖いと思うのは、車の運転技術や、車の性能をとことんためしていないからだ」
オーナー自体も
「俺だって、怖い。だけど、何度も自分でコーナーリングの限界に挑戦して、
ここまでなら、この車はやれる。これ以上なら、曲がりきれない。
と、いう性能の限界、技術の限界を自分が知っておくことだ。
今は、車の性能がよくなって、簡単に車にのっているけれど、
車を制御する自分の力を知らない。
たとえば、走行テストをする会社によっては、
急ブレーキの全力ブレーキというのを
体験させてくれるところがある。
そこで、全力ブレーキをふんだら、ハンドルをまっすぐ固定して、
よくある、ポンピングブレーキなどおこなってはいけない。
全力で踏んだままにしていないと車はスピンしたり横転したりする。
そういう限界を知らないから、怖い。
限界を超えそうになったとき、誰だって怖い。
どうしたら、車がスピンするか
どうしたら、横転事故になるかなどという
そういう技術?をきちんとおしえず、
正しくきちんと走りなさい。
と、いう何か起きたときには回避できない運転技術だけで
免許をあたえているが、
安全運転をしないといつ事故っても仕方が無いという面では
とても怖い危険運転の免許といっていいかもしれない。」
自分の力で車に乗るというか・・・
いまは良い車がでてきて、なおさら、制御能力などとわれなくなったが
オーナー自体は
車に乗せてもらっているのでなく
車に乗っているという状態といえる。

これは、あるいは、車を人生とたとえてみたら、どうだろう。

ほっておいても、人生はすすんでゆく。
だが、運転手は車であって、
運転手は自ら自分の人生を運転していない。

それは、また、魔女狩意識で言っても同じだろう。
自分が魔女にでもなってみて
魔女とはこういうものであるとわかったものではない。
だが、実際、自分が魔女にはなれずにいるのだから
「よく、わからない」と、いうのが、本当だろう。
それをなにかの観念に当てはめてしまおうとする。

それは、それで、かまわない。

そこで、その観念どおりなのか
実際に検証しただろうか?
この車はこれ以上やったら、
カーブをまがりきれないと、やったことはあるだろうか?

なんとなく、体裁のいい車にのりこんで、
あれは、魔女だから、悪いに決まってるという。

そこで、事故をおこすもよかろう。
自分が不器用だったせいだ。
魔女にうらまれて怪我をしてもよかろう。
自分が毒をまきちらかしたのだから。

ちゃんと、応えはかえってきている。

ただ、それを、自分でたしかめようとしたか、どうかによって
うけとめかたは、変わってくる。

事故をうらむか、
自分の技術力を知った
と、おもうか。

あくまでも、物事を主体的にとらえられるなら
憂生はけして、
批判はわるいとは思わない。

あくまでも、批判は自分の姿を映し出すものでしかない。
鏡に映ったものを思い切りけなせば、
それは、また、すなわち自分の姿である。

そこをとらえなおすということが問題であって
どうせずとも、わいてくる疑問や批判を
批判してはいけないとおさえつけることではない。

何が、疑問なのか、何が批判なのか、
わからずして、
その批判や疑問がまちがいであるか、ただしいものであるかは
わからない。

批判せずに、いや、批判や疑問の思いさえもっていないなら
それはそれで、すばらしい。
けれど、批判してみてみえてきたことが、
たとえば、自分の卑小な心であるのなら、
そのときから、批判の対象は大きな真実になろう。
逆に、批判の対象が卑小な虚偽であるのなら
自分の中で感じた疑問が大きな真実になろう。

なるほどの程がわからんという。
どこまでのほどかわからず、
らしいことで、納得できた気分になることはおかしいと思う。

どうしても、納得できない、疑問におもうことは、
およそが、
対象でみせてくる。

それをどうおもうか。
どうにか、納得させようとしても
もたげてくる、疑問の先にあるものはなにか?

ここをしっかり、みつけなければ、
自分にとっての真実などありはしない。

だから・・・。
憂生はたとえば、批判するなという言葉の意味はわからない。
これは、師にいわれたことだけど・・・。

反逆児でしかないのかもしれない。
損な遠回りをしているのかもしれない。

けれど、それらは、御霊はしっていることごとかもしれない。
だけど、
憂生はしらない。
自分で実感せぬかぎり、御霊のしっていることを
知ることはできない。

なにか、もうそろそろ、
主従逆転というか
御霊におまかせしますでなく
御霊をひきつれていける自分にならなくてはいけないのではないかと思っている。

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