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自覚

「あなたが私をどう扱うかがあなたのカルマをつくり、私があなたにどう対応するかが私のカルマをつくる」 

相変わらず、頭のてっぺんが、ぼわ~~としていて
しんどい。

しんどいといいつつ、今日は外へ・・・。
ドライブといっていいだろうかwww
オーナーの車ででかけるものの
微妙な不安がおきてきてしかたがない。

まず、それなりの腕をもっている人なので
コースアウトするとか、ないのだけど
スピードがあがってくると、
どうにも、恐怖心?がわきあがってくる。

ここで、一生懸命自分をなだめる。
そんなに信用しないのが、間違いだろう。
とか
それで、死んだら死んだでしかたないじゃんか(おおげさ?)
とか

ドライブしているのか、
精神力ためされてるのか?
さっぱり、わからない状態でいる。

そのうち、それは、やっぱし、怖いという思いを
なんとか、ごまかそうとしているだけで
怖いなら怖いとおもえばよかろうと。
ま、怖いと・・・思ってみたwwww

なぜ、怖いのだろうという思いがよぎる。
人によっては、
たとえばバンジーをたのしんだりまでするんだから
・・・・
と、思うところに、
ふと、よぎったのがある。

実は憂生は同乗者で、一回、事故ってることがある。
車は半回転して、バック走行状態で走り、
2m下の溝につっこんで、とまった。

そのとき、なにもかんがえることはなく
むろん、どうなってるかということもしらず
(先に書いたのは後からわかったこと)
なにか、一瞬の空白がおき
「死んだ」と思った。
死んだと思ったのは車が溝に落ちて
運転手をみて、
あ、生きてる(運転手が)と思い、生きてる、生きてると口に出したことで
逆に「死んだ」と思ったことを鮮明に思い出させていた。
そのあと、車を自動車やにあずけて
隣町まで映画をみにいった。というつわものでwww
その夜中、ぐっすりねむりこんで、
朝、まともにおきれなかった。
これといった身体の異常もなく
朝、運転手のほうから連絡があって
「自分は首などいたくて、仕方が無いので、病院にいってくるが、
そっちはどうだ?」
と、とわれたが、
ものすごくくたびれたときのような脱力感・疲労感だけで
これといった症状はなかったので
そのままにしていた。

事故のそのとき、おそらく、恐怖感というものも
あじわうことなく
あっさり、「死んだ」と思ってしまったけど
実は、これ、トラウマになっていたんじゃないかと。

で、今回、スピードがあがりだして
怖いとおもいはじめる前に
「トラウマ・トラウマ」
ー今、本当に怖い目にあってるわけじゃなかろうー
と、それは、過去にきざみつけられ意識にあがってこなかった恐怖心でしかない。
と、いいきかせると
不思議と怖さがなくなっていた。

SPで、よくいわれるのに、
恐怖心から、思い込みを手放せないというのがあるが
この思い込みがなんであったか。
ー今、また、事故るんじゃないのかー
と、いうか、
ー死んでしまうーかもしれない。

それが、浮上してきていたのかもしれない。
ところが、憂生はトラウマのせいで、と、いうのが嫌いな人間で
怖いとおもうことさえ、みとめないというか、
運転手をうたがうってことじゃないかとか
極端な話、一緒に死んでもいいとおもえないのなら
はじめから、同乗するな。
とか。
なにか、覚悟のない人間のようにおもえて
「怖い」という感覚を否定というか、
おさえつけていたところがある。

「あなたが私をどう扱うかがあなたのカルマをつくり、私があなたにどう対応するかが私のカルマをつくる」 

最初の言葉だけど。

「あなた」は自分のうわっ皮であると、考える。
「私」は御霊、魂と考える。

カルマというのは、もっと、シンプルに課題と取っていいかと思う。
つまり、憂生は恐怖心をもった。それは、そのまま「御霊」への課題となる。
そこで、
御霊は恐怖心を克服、クリア(昇華)するように、
こちらに、恐怖心をあたえる。

恐怖心を与えられ、怖かった。と、ながしてしまえばいいのだけど、
それを、思ってはいけない。と、課題を与える。

恐怖心を思ってはいけないと、与えてくる。

自分に信用や覚悟が足りないんだ。と、課題を与える。

自分に信用や覚悟が足りないんだと与えてくる。

結局、恐怖心が取れず、運転手にゆっくり走ってくれ。と、頼むが
こっちの腕を信用しないのか。という風にいわれる
(憂生に信用や覚悟が足りないんだと与えてくる。)

と、まあ、結局、悪循環になり
最悪の場合は運転手と争いになる。

たった、ひとつの意識を認識できず
もうおそれなくていいよとか
我慢せず、怖いからゆっくりはしってくれ。とか
その心の傷?をかばう態度を自分がしないのだから、
心のほうも、こっちのことをますます不安に思うだろう。

よく、インナーチャイルドを癒すという言い方をするが
癒していく前の段階、
自分の心を素直に認識するということが
わりにできにくいというか。

思いの速さというのを例えるのに
光の速さなら地球を7周半できるというけど、
思いなら、あっという間もなくたとえば地球の裏側の人
明治維新のころの人のところへ
あっと、いうまに届いてしまう。
つまり、それほど思いというのは、すばやく
心が思ったこと(本質)を
次々と違う思いで、埋め尽くしてしまう。

怖い。
怖いと思うなんて、いけない。
いけないんだから、そんなことを人にみせたらはじさらしだ。
でも、やっぱり、ゆっくりと、たのんでみようか。
いや、どうせ、信用してないといわれる。
そんなことは信用とかいうことでなく、思いやりの問題じゃないか?
なんで、思いやってくれないんだ。
そういえば、前にもそうだった。
いって、嫌な思いをするなら、やめとこう。
でも、逆にこっちもおもいやってるとはいえないな。
信用してないと取る人に頼むというのは、相手の気分をわるくさせるだけだ。
信用してても、怖いと思うんだから、自分が覚悟すればいいんだ。
覚悟できないから、また、怖くなるんだ。
覚悟ひとつできない、自分でしかないのかよ。
つまらん人間だぜ。

と、まあ、たとえば、覚悟するしかないと考えるまでにも、
いくつもの思いがすぎさっていって、
はてには、自分をだめな人間だと思う。

で、元の思いがなんなのか、わからないまま
運転手との信頼関係も無くなるかもしれない。

ここまでいくと、トラウマのせいとしか言いようがなくなる。

トラウマのせいにしたくないという考えが
トラウマにせいにしない自分をつくってしまったともいえる。

こだわりというか、思い込みの怖さというか。

何かのせいにしたくないという思いがあると
自分のせいだとかんがえるようになり
結局、自分ひとりではどうにもならないループにおちこむが
それも、自分のせいだとなってきて
自分の罪だから誰かに頼るのが罪悪のように思えたり
いやがおうでも、自分で考えてぬけきるしかないと孤立したり
元の思いとかけ離れたところで
一生懸命穴を掘ってるときがある。

自分を認めるということや
自分をわかるということは
じつは、もっと、シンプルであるはずなのに
そうありたくない自分という土をかけてしまうのだと
そして、つくりあげた「そうあっちゃいけない自分観」で
「その通りでない自分(そうある自分)」をせめてしまう。

このさい、
トラウマのせいでもいい。
「その通りでない自分(そうある自分)」を自覚していくのも
大切な作業なのかもしれないと思い直している。

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