画像1 画像2 画像3 画像4

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

理想・・かな?

いくつか前の記事で
キリスト教は言霊を考えていない。
と、いうことを書いたと思います。

ある女性が・・もうずいぶん昔で
もうすっかりおばあさんになっています。
御夫君をなくされたあと、だったそうです。
次から次から
宗教の方がきて
入信されよと、つたえてきたそうです。

そのことを、あとになって、
「みんな、主人が死んでしまって、かわいそうだとおもって・・・いっぱい来た」
と、いうのです。
相手の方々を考えると、むげな言い方もできず、
かつ、女手ひとつでがんばっていて
そんな宗教など、やっているゆとりももてなかったと思います。

どういうふうにことわったのかはしりませんが、
断る気持ちになった大きな原因は
「あわれまれている」というところだったでしょう。

みんな、私を不幸だとおもってきてくれるんだけど・・。
と、その方がいっていたわけです。

現代?になってくると、
おがみやさん?に救われた人が
ぜひ、先生のお話をきいてください。
とか
キリスト教徒の人が
団体で布教活動?みたいなことをおこなっていたりします。

憂生もそこらへんはお断りで
「けっこうです」
と、ことわるのですが
一度、キリスト教徒の方にたずねたことがあるのです。

なぜ、そのようなことをしているのですか?
と。

答えは、まあ、いわば、修行の一環というか・・・。

つまり、自分の言ったことが相手に通じるかどうかということを
詮議しなさい。
と、いう意味合いで布教?活動をする教えがあるようです。
そこで、通じないということは
まだまだ、自分の状態が本物ではないとわかるということなのかもしれません。

ところが、そういう詮議をするということが
どうも、ぬけていて
「神のおしえをお伝えしている」ということだったのです。

そこで、
「私は貴方がこうなさったというお話ならききますが
キリストがどうしたこうしたというお話はききません」
と、断ったのです。

悪い言い方ですが、
キリストがこう言ったというのは
例えて言えば、狼の皮をかぶった狐といっていいか。

狐が
「狼は、すごく強いんだぞと、言っている」
みたいな風に思えたわけです。

そして、
狼じゃないので
たとえば、
「右のほほをうたれたら、左のほほをだしなさい」
と、言います。
そこで、ものすごく心配になったわけです。
ーこの方は自分がやったことでもないことまで、
キリストの名をかりて、口にして(言霊)にしてしまっているのではないか?ー
と、いうことを。
言霊というのは、基本的に相手に発動させようとおもったら、
自分もできていないと発動しないのです。
相手を発動させられなかった、言霊は自分に帰ってきます。
このときに、その方が左のほほを差し出せることができない人だった場合
「おまえは、キリストを方便にして人にうそをついた」
と、いう形でかえってくると思うのです。

キリストの教えはたくさんあります。
その一言を一言を口にだして布教だとおもうのはかまわないのですが
言霊として帰ってくることもありえるのではないか?と。

ここを、わかっていて、言霊がかえってきたら
ああ、自分できていないんだなという思いでいるか
逆に言霊を安易に?発動させてしまえば
今度は相手の方が左のほほをだせない人だったとき
「なぜ、左のほほをだせない。わかっているのになぜできない」
と、なってくるわけです。

できない人にできるような・・やる気をおこさせるのが
最初であるはずなのに
いきなり、言霊を発動させたり
その贖罪?責任はキリストが負うとか・・
(解釈がちがっているかもしれませんが)
その行動のどこに「自分」があるのでしょうか?

おんぶにだっこみたいな考え方で
私には責任ないし、神のお手伝いしてるんだから・・・
と、いうふうにみえてしかたがなかったのです。

自分の中でこなれたものを
きいてくださいなら、わからなくもないのですが
キリストがいった。
と、へたな大根役者のように棒読みでおしえをはなされても
あなた、だいじょうぶ?
あなた、自分が神さまになってない?
と、
神の役にたっているのではなく
神の威光をふりかざしている。
なら、まだしも、
狼の皮ならぬ、キリストの皮をかぶっているような

そんな気分にさせられたわけです。

それは、また、最初に書いたある女性のことのように
こちらをなにもしらない「不幸な人間」として、みていて
ありがたいキリストの話をおしえてあげようというふうにもみえるわけです。

これが、たとえば
自分はけんかぱやい人間で、あるとき、キリストの左のほほをというのを
めにしたとき
はじめはあほらしい。なぐられたら、なぐりかえすにきまってるとおもったけど
しかし、こんなことできるかなあとおもってみたら
よほど、なにか、覚悟や考え方がないとできないなあと思い
どういうことだろうと思って、実は興味本位で入信してみたところ
・・・云々かんぬんと、その言葉ひとつでも覚悟とか考えとかが
こういうことであったかとやっとわかった有様で・・
せめて、自分がわかったことを少しでもおつたえできたら
キリストに対しての恩返しになるのではないかと思い・・・

とかあ?
自分がうれしかった。ということ
良かったということをはなさせてほしいという気持ちが
ちっとも、つたわってこず、
結局おかえりいただいたわけです。

本当に身にしみる言葉は
別段、そういう宗教とかつたえにくるひとよりも
それこそ、近所のおっさんやおばさんがひょいと声をかけてくれることがあります。

憂生はそんなふうに
なにげなく身にしみる言葉をだせる人間になれたらいいなとおもうわけです。
そして、最初の女性のことだって
なにもいわず、なにもできないから、なおのこと
心の内で「がんばれよ」とエールをおくっている人もいるわけです。

かわいそうだと思って、何もしらないだろうと思って?
教えにくるひともいるでしょうけど
本当はその表面にうきでた氷山の一角のしたに
いっぱい、がんばれと応援してくれる人が居るんだということです。

そんな、氷山の下になれたらいいなと
そういう思いをエネルギーとしてわたすことができるほど
大きなエネルギーをもてたらいいなとおもうわけです。

けして、誰かにおしえようとか
狼(大神?)の皮をかぶってしまったりすることでなく
ただただ、良く思うことができる人間になれたらいいなとおもうわけです。

関連記事

コメント

非公開コメント
 INDEX    RSS    管理

猫・追加中

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

最近の記事

作品集(アルバム仕立て)

カテゴリー

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
日記
10936位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
3867位
アクセスランキングを見る>>

ブログ村

訪問者様

ページランキング

ブログパーツ

IP検索

全記事表示リンク

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。