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ダヴィンチコードから

以前にも書いたことなのだけど
ダヴィンチ・コードという映画。

これは、キリスト教徒?じゃないと、
意味合いがわからないだろうなあ。
と、思ってみていました。

ようは、キリストが人間だったという
こちらとしては、当たり前の事実で、
逆を言えば、人間だから、すばらしかったというかwww

あれが、最初から神であるのなら
(神の子という言い方もされてますが)
できて、当たり前でしかないでしょ。

むしろ、いろんな苦しい目にあって
覚醒?悟りをひらいていくなどというのも妙なことになるかもしれません。

ところが、キリストが、神だと明かしだてられたことがあります。
それは、復活したということです。

これも、逆に不思議な気がします。
そういう奇跡をおこさないと、人は信じない。
と、いうことがあるからでしかない。
と、いう気がするのです。

時代的に迫害され
信じる人がすくなく
あるいは、そのままでは、
弾圧によって、信奉もうめさせられ
人々の心に、そんなことを信じていたら自分が危ないという
異端者としてしか残らなかったでしょう。

けれど、たとえば、アラーとか、
その教えに根強いものがあります。

なぜ、キリストは奇跡をおこしてみせたのでしょう?

それは、おそらく後の世まで
人の心の糧になろうとしたからではないかと思うのです。

どこの宗教でも陥りがちなのは
創始者がいなくなると
自分の勝手な解釈をするようになるというところです。

これが、極端かもしれませんが
ダヴィンチ・コードであらわしたところです。

キリストが伝えたかったとは
自分が神であるということではないと思います。

一個の人間がどれだけ愛にいきていけるか。
だけだと思います。

ところが、いつのまにか、
神じゃないと信じられない。
神だから信じる。
みたいな
逆転現象がおきて

キリストの本質とはかけ離れてしまったということで
一歩でも、キリストのような見本にちかずいていこうというのでなく
神であることにおぶさっていこうというふうにみえるわけです。

その「本質」部分を鉄槌していくために
あえて、キリストは人間だったということを証明?する映画をつくったことに
意義があるわけです。

日本人からみたら
当たり前といっていいような
草にも木にも神が宿るという一種、原始宗教のような
自然信奉からみると
物ひとつに神が宿るのだから
人間だったら神が宿ってもおかしくないわけです。
神であろうが、なかろうが、物にだって魂はある。
と、いうことですし
日本の職人(だけじゃないけど)は
「魂をこめます」

なぜ、神じゃないといけないのか・・・
と、いうより、日本人 亡くなった人も神様にしちゃいますねwww
徳川家康とか・・・。
まあ、そこは極端ですけど
生きていたときの行い次第で人は神になることがあるのだとかんがえていますね。

この日本人の考え方があって、
キリストが神じゃなく人間だということを描くと
センセーショナルになるというのが、ぴんとこないわけです。

ピンとこないながら
なぜ、神でないといけなかったのか
と、いうことを思います。

特にアメリカはヒーローの国で
なにかあると、すぐヒーローだといいます。
でも、たとえば自分を犠牲?にして
おぼれてる子供をたすけても、日本ではヒーローという言い方はしません。
実際、近くで泥のような池にはまった子供を助けた人がなくなっていますが
ヒーローという言い方はしません。

むしろ、お気の毒とか
助かった子供が心をいためないといいけど
とか、思うのです。

この違いはなんなのでしょう?

おそらく、仏教的な思想というか、
いやな言い方ですが、助けた側には助けなきゃならない因縁があったということであり
あるいは、その子供たちをたすけることがその人の役目で
役目をおえたから亡くなった。
みたいな考え方なんじゃないかと思います。

と、なると、そこをヒーローにしてしまうのも
キリストを神にしてしまうのも
同じ根本のような気がします。

独断的ですが
「自分にはできないことをやるから」
と、いうことであり
「神でもない自分はできなくてもいいんだ」
と、いう逆心理が
ヒーロー扱い・神扱いになったかと思うのです。

ところが、
キリスト教の一文にひかかるところがあります。

「羊たちよ」
と、いう言葉です。

訳し方がわるかったのかもしれませんが
これも、いいかえれば
「お前たちは羊でしかない」と、いっているわけです。
羊なんだから
「できなくてもあたりまえ」
できるのは、神とヒーローだけなんだ。
自分たちはよわよわしい羊でしかない。

と、いやーーー極端ないいかたですが、
ある意味、こういう洗脳をうけていれば
キリストを神だとする考え方になってしまい
悪く取れば
たとえば、赦すひとつでも
それは、神だけができるとか
神じゃないとできないとか
奇妙に卑小な精神価値になってしまうんじゃないかなあと。

同じ人間であるのなら
せめて、同胞(はらから)というべきだろうと。

どこかで、言霊という概念がキリスト教にはないとかいたことがありますが
まさに、その通りかなと思うところがあります。

結局、陰陽師風にいうと
呪という「しばり」をあたえてしまった
宗教になってしまったのかもと思います。

むろん、キリスト自体が
文章(聖典?)をかいたのではないし
かりにキリストがそういう言葉をつかっていたとしても
内包されていたものはちがっていたでしょう。

また、逆にそう呼ばれた側も
なぜ、そう呼ばれるかという
悟り?をえずにいたのかもしれません。

なにもかも、
うのみにして
自分で詮議せずにいただけかもしれません。

言葉の呪文というか
それが、逆にキリストを神にしておくという
(キリストの説くところに一歩でも近づくということでなく)
結果をつれてきているとするのなら
ダヴィンチ・コードは
確かにセンセーショナルな一鎚だったということになるかと思います。





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