画像1 画像2 画像3 画像4

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

エディション

雑誌新聞などの) 《★【類語】 edition は改訂・増補または判型定価などを変更して新しく印刷発行したもの; impression元ののまま変更加えずに増刷したもの》.


あるブログにおじゃましていた。
なんだったかで、このさき、天啓者が多くでてくるみたいな?
そんなことをずいぶん前にきいたことがある。
まあ、そこで、まず、天啓者というのをぐぐってくる。
だいたいが、
天理教の中山みき女史のことで、取り上げているところが多く
別のところにいくと
預言者というのまででてきて
いっそう、こんがらがってしまって
ぽい投げしてしまったwww

で、そこで、あるブログにいったところ
エディションという言葉が浮かぶ。

なんか、きいたことあるなあとおもいつつ
ぐぐってみるが、わからない。
しいて理解すると
各部分とでもいうだろうか?

そこに
エディションという文字がみえた。
シャンはまあ、ミュージーシャンとか、テクニーシャンとか
ようは、人間の秀でた技能?をさしているように思う。

と、いうことは、エディシャンは
エディションに卓越した人間だなと決め付け推測をして
エディションを調べにいったのが、最初の行。

改訂・増補の英語がエディションなら
エディシャンは
翻訳者というより、改訂者というところだろうか。

結局、天啓者というところが元で
内容を改訂して、伝えてきている。と、
いうところなんだろう。

じっさい、SP関連のブログをよんでいると
言葉がむずかしすぎて
と、いうか
実態とはなれていて
言ってることは、まあ、その通りなんだとおもうのだけど
自分の中でいくつか、補正?
あてはめて考えなければわからないことがある。

たとえば、
どこのブログだったか
新意識がでてくる。
とか、いう。
ISだったかな。
まあ、内容的にはISという意識は
「赦す」というところだと思うが、
これを、新意識というところで、ちがうのかなあと思ってしまう。

まあ、たぶん、キリスト関連ちがうかな?
と、おもうわけで、
キリスト教の意識レベルはもうしわけないけど
日本の意識レベルより、まだおさないと思える。

過去、この意識レベルの差ということで
童話の話を書いた。

たとえば、7匹の子ヤギにしろ、赤頭巾ちゃんにしろ
悪い狼をやっつけて、(腹に石を詰め込んでというところは類似性がある)
やっつけたら(殺したら)、「わーい、狼死んだ」と大喜びして踊るという。

なんとも、はや・・・。

ところが、日本の童話・昔話
かちかち山。
あれは、狸がおばあさんに煮られそうになって
(往生際が悪いwww)おばあさんをだまして
変わりにおばあさんをなべでにてしまい
あげく、おばあさんにばけて
おじいさんにおばあさんをくわせてしまう。

まあ、ここだけとったって、
狸を八つ裂きにしてもまだたりないのだけど、
それをしない。

ところが、赤頭巾にしろ、7匹の子ヤギにしろ
狼にくわれてしまったけど
みんな、たすかってる。
なのに、狼を殺してしまう。

なぜ、こんな違いがでるのだろうと思った。

たぶん、日本が島国であったせいだろうとおもう。
外国はいつ、敵が侵略してくるかわからない。
うっかり、のがしたら、報復しにくるから
よ~~く、殺しておくしかないのだろう。

かちかち山は
正義のうさぎがでてきて
狸をこらしめる。
さいごに、狸が改心するか、
おじいさんのうらみ?がはれたら
それで、良い。

普通に考えれば
狸こそ3度くらいころしてやりたいし
狼こそ、改心させたいというところだろう。

日本の
「こらしめる」という意識は、
逆をいえば、
「赦す」という思いが無ければ成り立たない。

このあたりからしても、
日本人は「赦す」という思い、を持っているといえる。

その赦すという思いの根源がどこにあるかといえば
例えて言えば、
日本の神の2面性の捉え方にある。

たとえば、水の神
恵みとして受け取るときは
「おかげさま」といい
水害になれば
「われ、いたらず」ととる。

同じ神にたいして、
善悪の2面性があるのを
「自然・あるがまま」とうけとめていく。
まあ、相手が自然だという違いがあるにせよ
キリストになってくると
いわば、善しかない。

ここからして、
悪いことがおきたのは、
悪魔のせいでwww

自分に元がある。というとりかたがない。
自分に元がなくて、悪魔のせいなんだから
「赦す」という意識もない。

狼同様、たたきころして、喜ぶのが堰の山というところかもしれない。

ところが、
日本には、
「自分が足りなかった」という考え方や
「神さまがおこっていらっしゃる。自分らをあらためなきゃいけない」
と、いう思いがある。

キリストのいうところに
自分に罪がないものは石をうて
と、いうのににていて
自分だけが、正義だろうか?
自分にだけ分があるものだろうかという思いがある。
狸がおばあさんをころしてしまったのも
自分がころされそうになってしまったからであり
たぬきをとらまえてきた
おじいさんにも、原因?があったんじゃないかとwww
こう、かんがえていけば、
なにも狸だけが悪いわけではない。
泥棒にも3分の理という言葉があるけど
「赦す」心が相手の理由をも省みさせる。

日本には
もともと、「赦す」という徳が備わっている。

憂生自体
さきにも、かいたが
「赦す」というテーマで書きかけている物語がありながら
自分自身が
「赦す」を通っていないから、書けないと、いっている。

意識でいくらわかっていても
実際に言えば
相手のたとえば3分の理がみえないし
自分のどこが、足りないというところが如実にみえてない。

意識だけを言えば、
とっくに「赦す」はできているだろう。
だが、心から納得できていない。
負におちていないというか。

むろん、頭がある以上、
いろんな自分の足りなさはかんがえつめたwww
あげく、ぼろの自分にうちのめされてしまう。
そして、次にやってくるのは、
「自分を赦す」ということ。

ま、ぼろでええやん。と、いえるくらいに
なにか、すっきりと、卓越できるといいんだろうけど
なかなか、見方がかわってこない。

下手すると、元の位置に戻るwww

でも、きっと、そんな風にもがいて、よじって
いつか、ぬける日が来るのだろうと思ってはいる。

赦すという意識など、誰もが持ってることだと思う。
ただ、それを本物?(うまい説明ができんけど)にするのが
むつかしいというかな。

その昔はもうちょっと楽な赦すがあってwww
それでも、こんなきついことを「赦せる」なら
もう、何があってもびくともせんわ。っておもってた。

ある意味、そんなことくらいって、
今は思うし
もっと、ひどいことでwww
まえのひどいことなど根こそぎかりとられたといっていいかwww

結局は
「赦せん」ことが「赦せん」ことをつれて「赦せん」になる。
みたいな所はあったかもしれないと思う。

だけど、
意識をかえて放り出せるくらいなら
ささと「赦す」ができるにこしたことはない。

ま、こんな状態なので
やっぱし物語の完成はもっと先になりそうや。





関連記事

コメント

非公開コメント
 INDEX    RSS    管理

猫・追加中

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

最近の記事

作品集(アルバム仕立て)

カテゴリー

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
日記
7923位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
2863位
アクセスランキングを見る>>

ブログ村

訪問者様

ページランキング

ブログパーツ

IP検索

全記事表示リンク

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。