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私信になったかもしれない。

書くということは、憂生にとって、

形をつくることではないな。と思う昨今である。

書いていくことで、自分の中の何かをまとめたり

思わぬ「なにか」をひきだしてくるという作用があったり。

まあ、これはある創作仲間とも話してることであるが

自分を見定めるために書く。

と、いう姿勢であることを自覚しておかないと、

やれ、コメントがこないとか?

反応がないとか?

読まれているのかどうか判らないとか?

二次的問題を重要視するどつぼにはまる。

無論、娯楽小説的、読者を楽しませることを目的

つまり、読んでもらうことを目的に書いている人は論外である。

自分を見定めるを目的にしていると

その内容は一種、感情因縁であるのだから、

因縁が合わない人には読まれることがない。

むろん、そのストーリーではなく

感情因縁の部分がである。

まあ、具体的内容をかくとわかりやすいのだが、

物を書くという場合、時に毒素を含む事がある。

これは、誰かを誹謗したり中傷したりというそういう毒素ではない。

この話の意味合いがわかるのは、今のところ、ノロ♪おまえしかいないわけだけど、

こういうことを文字にかえてみようと思うと

バックグラウンドの違いってのを痛感させられる。

結局、どこまでも、事実をかけるかというと、書けないって部分が

ついてまわるわけだよな。

そこを説明しなきゃ判らないわけだけど、

そこからして、理解の範疇じゃないって事が往々にしてあるわけだ。

すると、文章表面に出ている事柄を読む人間の幅で理解するって現象が起きる。

まあ、古くからの知り合いが話さない事実をりかいできるわけもなく

自分の類推で憂生という人間を判断しているようなんだけど、

これもいたし方がないと思っている。

相手を物事を捉えるってのは、

実際、本当は相手を捉えるのでもなく

物事を捉えるのでもなく

「自分」を捉えてる。

いつか、書いた、批評は自分の披瀝でしかないってことにも相通じる話だ。

その自分があるからこそ、もっぱら憂生は自分の「中」を向く。

思わぬ整理がつくときもある。

これも大江健三郎を出してきた話で(例のラーニングとミーイングな)周知のことであると思うので省くけど

どこまで、自覚し、どこまで意識するか。

そして、意義付けとは実践であり、実行に繋がっていく。

あれらの多くの日記や物語が憂生を示唆し、憂生を啓蒙し

今の憂生がある。

この後ろ側もおまえしかわからないことだけど、

それら、すべてがありがたいと思う。

物を書くというのは、自分と戦いみたいなものだ。

ミーイングまで昇華しながら、

リアルにおいて、どこまで自分を革変できるかってことだ。

もちろん、それらは、多く、自分の中で起きる。

それがいずれ、自分の生活・人生においての

自分の「根」になる。

おまえのことだ。

いわずもがなは判っているけど、

これも整理現象だと考えてくれるとありがたい。

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