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よくわからないけど・・・

昨今、断捨離という言葉がメディアにも浸透しはじめているようですが・・・。
どうも、こむつかしいいいまわしでは、ぴんとこないというか
心理的に目からうろこにならないところがあります。

頭がかたいといわれれば、それまでなのですが・・。
断捨離・・・という言葉で最初におもうことは、
親父の葬式のときの坊主のお経の一文?一節?です。

これも、白蛇抄 法祥 回向せしむるかや で、扱った内容ですが、
死に別れたり、思いがかなわかったり・・・う~~ん
物語は一言で語るには複雑なのですが、
最終的に、
「思いは自由だ」
と、いうところになるのです。
相手を失くしてしまっても、相手を思うことは自由だ。
むしろ、その思いをなくしてしまいたくはない。
相手に何ものぞまない。
が、
自分が思うことは自由だ。思いは自由だ。
と、まあ、かいつまみすぎですが・・・。

この中でそのお経の一節を使っています。

その内容ですが、(おそらくです・・)
「あなたは、これから仏の弟子になるのだから、一切の執着を断ちなさい。
さあ、あなたは、もう、執心無縁ですよ。
だから、そんなあなたを仏は導いていきます」
と、まあ、このような言葉だったと思います。

断捨離というのも、おそらく、「執心・執着」を絶つということではないかとおもっているのですが
実は、ここがポイントなんだってことを明確にしていないというか。

この考えを逆にいうと
自分の心が「執着・執心」だったときがつかなければ
心をときはなつことができないのではないかなあ・・とおもうのです。

たとえば、物に対して断捨離をおこなう?
それは物を始末することによって確かに物欲?執着?とかを絶つことはできるかもしれません。
けれど、たとえば、何年もたって、ああ、あの時にあの品物をてばなさればよかった。
と、おもってしまったら、断捨離じゃなくなってしまうのでは?
逆に余計な執心ができてしまったということになるのかも・・・。

で、
たとえば、いじめにあった人に、こういう言い方をするのです。
「こだわったほうがまけだよ」
「こだわってしまったら、相手にいじめられたのでなく、自分がいじめてるんだよ」
ひどくきずついた。くやしかった。悲しかった。
と、いう思いもこだわりであり
その思いをなだめたくて、相手をなじったり、うらんだり、逆に自分を攻撃したり・・いじけたり
結局、いじめられた、あるいは、こちら側をよいふうにおもってもらえなかったという凹みを
ずっと、かかえこんでしまう。
トラウマだとか、ストレスで、とかいう言い方は憂生は嫌いです。
あんなめにあったんだから、自分はトラウマになってもしかたがないんだ。
と、自分をいいわけして、自分をかばっているようで・・。
むろん、憂生にだってトラウマになるような事件はありましたし
かなり長いこと、立ち直れずにいたのも事実ですし、後遺症的な思い方は確かにあります。
けれど、それをトラウマになっちゃって・・とかいうのが、嫌いなのです。

こくな言い方を自分にしますが
傷つくような事件がおきたことに、自分が一切わるくないか?
と、おもってしまうからです。

いわば、何らかの角があって、それががーんとぶつかってしまって
結局自分が傷つく結果になったともかんがえられるわけですから。
元来、憂生はけちです。
こけたら、ただでおきあがるな。と、おもっています。
せっかく、こけたんだから、なぜこけることになってしまったのか
自分の角を自覚するべきだろうとおもうのです。
このせいもあって、トラウマになってしまった。など、いいたくないわけです。
そりゃあ、おまえ(憂生)の人間性にたりんとこがあるからやろ。自業自得やないか?
と、まあ・・
こういうことです。

でも、実際問題、どこがたりなかったかわからないところと
やはり、きずついたことがぶりかえしてくるのとで
もがくわけです。

そんなときに
ふとかんがえていたのが、
「相手はもう、こっちがきずついたことさえきにしていないのに、
こっちが、きにして、いつまでもひきずっているのは、
馬鹿みたいじゃないか」
「自分で自分をいじめてるだけじゃないか」
と、いうことだったわけです。

このことから、
「結局、こだわったほうの負け」ということを思ったわけです。

と、かんがえながらも、
正直、やはり、こだわります。

そこで、考えます。

結局、執着があるから、こだわりをすてられないんだろうということを。

では、なにに執着しているか。

おそらく、相手に
「(傷つけるのでなく、)大事にしてほしい、好きになってほしい」
と、いうのが本心じゃないかとおもうわけです。

つまり、それがかなわないをとおりこして、相手がきずつけてくるということに
ショックをうけているのだとおもうのです。

そう考えると
「わかってもらいたい・好意をもってほしい」と、思うことがすでに
執着じゃないのかなあ?と。

この執着をすてないかぎり、
きずつけられた(好意をもってもらえない・わかってもらえない)というトラウマやこだわりからぬけだせないんじゃないのかなあと。

つまり、もっと、いってしまえば、
いじめた相手にたいして、
自分はすかれたいとおもっているという
逆の気持ちをみとめないと
心の断捨離はできないんじゃないかなあとおもうわけです。

もっと、いえば、
あるいは、すかれたいという思いを断捨離できないから
結果的にこだわってしまう、傷が痛むのではないかとおもうのです。

いや、そんなことはない。と、おもわれるかもしれないけど
その相手がひどいことをせず、あなたをすいてくれて
よき理解者になっていたら、と、かんがえたら
それでもきらっていたかな?とおもうのです。
そういう風になってもらえなかったという悲しみが憎しみに変質していくんじゃないかとかんがえたら
根底はやはり、その人にすかれたい、だいじにしてもらいたい。
と、言うのがあると思えます。
つまり、こちら側の好意感情だと思うのです。

その認めがたい好きという思いを、認めたとき、
相手に好きになってもらおうという思いを
相手におしつけることはできないものだと気が着くわけです。

すると、
これもひとつの執心ですから
それを
断捨離するか、どうするか

相手に期待せず、
自分の気持ちだけは素直に持ち続ける。
いつか、わかってくれるときがくるのだろうと
執着を解き放つのも
断捨離なのではないかと思うのです。

いくつかの断捨離をかいてみました。

相手をにくむという思いをなくすという断捨離
自分をかわいそうと思うのをやめる断捨離
相手にすいてもらおうとおもうのをやめる断捨離

まだまだ、あるとおもいますが
断捨離とは、思いの自覚と切り替えがなければ
なりたたないものではないかな?
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