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さらに、うじゃらこうじゃらと・・・

さて、毎度の頭の整理です。

宗教なのか、何のおしえなのかわからないけど、

よく、神社などのお守りをもつな。と、いうのをきいたことがあります。

これって、まあ、そういう風に信じる根拠もちゃんとあるわけで

一応、前提として、肯定します。

そこで、困るのが、たとえば、

周りの誰かが何かのため

(たとえば、交通安全とか、家内繁盛とか、学業祈願とか・・・ま、いろいろ)

お守りをもらってきてくれて、くれたとします。



そこで、

その前提としたところ、

お守りを持つな。というところ。

これがある人はまず最初に

「こまったな」とかおもうんじゃないか?

って、ことです。

そんな前提がなければ、素直に自分のためにお守りをとってきてくれたことなど

そこに感謝の念がすなおに最初に沸くと思うのです。


なにか、いろんなことをしりすぎると

人の気持ちを素直にうけとれなくなる。

と、いうことがおきてくるのではないかなあと。



まあ、もっと掘り下げていけば

相手への感謝より

自分の心配をするような根性に問題があるわけですが・・・。

だったら、素直に喜んでおけばいいじゃないか。

と、いうことになるのですが、

ここで整理がつかないことが出てくるのです。



あるおばあさんがどこかの神様を信奉していて

孫を連れて、その神社におまいりにいったそうです。

そこで、孫にも神様に手をあわせるようにさせたのですが・・・。

その孫はその後重い心臓病になってしまったそうで

あるとき、そういうことがよくわかる人のところにいき絶え絶えの孫を伴っていったそうです。

話す前から、先の事情をいいあてられて

孫が手を合わせたときに「狐」が心臓に入り込んで悪さをしているんだ。

と、いうそうです。

まさか?とおもうところですが、

わかる方は

「そこにいてもいいから、その子の心臓をちゃんとうごかしなさい」

と、狐に命じたとたん、

息絶え絶えだった孫がしっかり立ち上がって顔色もよくなって

うそのように元気になったということなのです。

この話が本当かうそかなど詮議するきはありません。

ただ、こういう場合、

先に言った内容のままでいえば

「孫のために良かれと思って手をあわさせたのだから、それを感謝しておけばよい」

では、通じないわけです。



別方向になりますが

ヒーラーとかになりたい・人を救いたいという女の子に対して

「それは自分のため、自己満足のためでしかないから、かえってその心にかぶりをうけたり、つき物がはいりこむよ」

と、いうことをこたえたことがあるのですが

神さまを信奉するという中に多く、おかげ信仰が介在してくると思うのです。

こうすればよくなるとか、ハウツー的に結果をあてこんだり

他力本願的にどうにかしてください。とお願いするわけですから

まあ、言い方をかえればむしがいいというか

よくばりというか、不満・不足をいっているということになり

その思いをかなえてくれる神様がいたとしたら

そりゃあ、ろくでもない神様ってことになるでしょうし

「自分のおもいどおりにしたい」という心とおなじものがよりついてくるわけです。

つまり、先のきつねもそこだったのではないでしょうか?

狐も自分の思い通りにしたかった。

と、言うところで同調してはいりこめてしまったということでしょう。

ここまで、かけば、

お守りなどもつということがよくないという言葉に納得していただけると思うのです。



同時に、助けたいと思っていた女の子に対しても

ある意味、助けるというのにも、自分の因縁が関与してくるということを思います。

言霊というのがありますが思霊のようなものもあると思います。

その思いでたすけることが可能になるわけですが・・・。

(これを霊とか神を使ってやるというのは先にかいたように非常にあぶないことです)

言霊と一緒で、その言葉が力を持って発動していくのとおなじように

思いも力を持って発動していくのですが、

まず、その思いが本物でなければならない。ということです。

たぶん、そういうと、私は本当に思っているという答えが返ってくると思うのですが

本物というのは、思う本人がきちんと自分がのりこえている、経験しているということを含むのです。

たとえば、盗みをしちゃいけないよ。

と、思いを送るとします。

ところが、送った本人は盗みなどしないおもったことさえない品行方正なかただとします。

相手に通じるというより以前にあたりまえのことをいってるだけなわけです。

ところが、仮に盗みをしてひどく罪悪感に苦しんだり、つかまったりして

きちんとこんなことをしてはいけないとわかった人が一言言うと通じるということがあるのです。



そんな風に、自分に因縁、(この場合盗み)がないと通じないわけです。



そういう因縁の出方というのはさまざまで

たとえば、そのまま、盗みをたとえにすると

誰かのぬすみをとめたとします。

盗みという心がよくないことをさとしたとします。



これで、助かったのは相手でなく、自分だということです。

誰かをとめることができて、自分がやってしまったことについての清算(帳合)がとれて

自分が救われるわけです。

ここを考えたら

誰かを救いたいという人は逆に救われていない自分がいるということになるわけです。



この理屈がわからないから

人をたすけたとか、助けたいとかいうわけです。

ほっておいても、自分の清算はおこります。

清算がおきはじめて、困っている人を救うのが本当にいいことかどうかはわからないことです。

と、いうより、救えるのは自分自身でしかないのです。



相手を救おうなどといってみても、

よほどの経験や修練がないと相手にひびかない。

逆に自分に因縁があれば、結果的に自分を救うために助けるように動かされる。


と、まあ、自分におきた不思議なことごととか

これらを客観的?理論的に判断していく過程のなかに、

やはり、自分が書いた白蛇抄が役に立っていたと思います。



たとえば、事件にかかわるのも、

自分に因縁がなければかかわることがない。

因縁がきれいになってないから、

またもかかわることになる。

などのせりふもからも先にかいた考えをみちびきだしたところがあります。

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