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チサトの恋に寄せて

チサトの恋に寄せて

じつは、この先の出産シーンというか、

助産シーンにいきづまって、

チサトの恋を中断している。

自身、カメラをやっていたことがあり、

チサトのせりふのま逆が

カメラをやめた理由だと思う。

人生をうつしこむ、

被写体への愛情。

こういうものが、希薄すぎた。

いわば、慎吾そのものだった。

早いうちからその才能をみとめられることになっていた。

別に計算したわけでなく

シャッターチャンスをねらったわけでもない。

簡単にとって

簡単に入賞(佳作だったが)

全体で20名、佳作15名ほどだったか。

なんの苦労も工夫もせず

感性だけでそこそこいってしまう。

カメラにとってもらってるだけの自分でしかなかった。

このころに、物をかきはじめ

自分の感じたことを文章にしていくおもしろさにはまっていった。

そのころに書いたものが、蛙・続編・パンパンとチョコレートだったとおもうが

後年やきなおしをしているものの

小説と呼べる範疇に入っていたと思う。

小説とよぶものは、

なんらかの客観視と昇華された結論が

必要だと思う。

こういう意味合いで小説と呼べるといっている。

結局、カメラをやめてしまったものの

むしろ、

小説で金を稼ぐより

カメラで金を稼げるタイプなんだとも思う。

小説は自分を含む対象を客観視していくための手段だと思う。

対象をそのまま、写していくという意味合いでは

むしろ、商業カメラマンにむいているのだろう。

姓名判断と手相と生年月日でみてくれた易者は

(暇つぶしにみてくれたので、只)

広告出版関係にも才能があるといってくれた。

(企画とか、広告といういみあいだろう)

同時に

もともとの職業、調理士についても

こっちも適職でかなりのところまでいける。

と、いってもいた。

まあ、見事な頭脳線のふたまた

こ器用なのだろう。

いわゆる、器用貧乏でおわる。

これもよしだろうな。

たまにカメラの腕がいかされることもある。

ベストアングルでとれた写真が

オークションの出品のときに

通常のねだんよりあげる。

おかしなもので、

きれいにワックスなどかけて、

さびが出てるところを

おとせるところをおとす。

ちょっと、愛情こめたほうが、

写真もきれいにしあがる。

チサトの恋から・・

趣味も10年続けば本物といいますが、

なんやかや、物をかきはじめ(正確には再スタートですが)

10年たってしまいました。

ネットに参入して10年たつとおもいますが、

それ以前にワードにて文章をかいていましたので、

執筆(相変わらずこの表現には抵抗があります。そんなたいそうなものじゃないと・・)

執筆年数は12年になるかとおもいます。

が・・・・。

だんだん、しりつぼみになってきて、最近では、1年に1作も完結できてないのではないかいな・・・(汗・・)

しょっぱなにもうしあげた、1年つづけば本物というのも、コンスタントにかきつづけてこそでしょうね。

こういう意味では灰色な本物?です。

チサトの恋をかきあぐねてるうちに、また、事件がおきましたね。

女性ジャーナリストが銃弾によって、死亡というニュースが、妙にチサトの恋にかさなってきました。

あっけない幕切れで、人生をとじてしまったジャーナリストを悼む声をききながら、

チサトの恋のなかであつかっている、

ー人生を託しても良い相手ーという言葉が頭によぎってきました。

多くの人に平和をうったえる。という人生。

たった一人の人に自分の人生をささげつくせる。と、いう人生。

どちらが、幸せとか不幸とかいうことではないのですが、

女性として、おおいなる人生を託せる相手に出会い、自分の命がなくなったら、

相手の人を困らせ、悲しませると、自分の指標をとりさげることができる。

そんな相手にめぐりあうことができなかったのだろうか・・・。

恋にうとい、チサトさながら、めぐりあいにきがついていなかったのかも・・・。

そんなふうに、女性ジャーナリストがチサトにかさなってきていました。

チサトの恋・・20・・から

この先の設定・・・話の流れというのが、まあ、下調べしてこなきゃわからないことなので、随分、長いこと、考えあぐねていた。

らしいものが見当たらない。

と、いうのが、いいわけである。

で、そういうピンチになると、うのめたかのめ、って、いう奴になってるんですな。

何気なく手にとった漫画・・・コッぺリオンの中に似たシーンがありました。
あ~~~~~。
本来は、自力で考えなきゃ(アレンジ?)しなきゃいけないのですが、ここは、そのままほぼ盗作で、いこうかと。

ここ10年・・めったに本もよまなければ、漫画もよまない人間ですが、読むと、二次創作を書くことになったり、するのが、妙なものです。

独自の世界観ということでは、蟲師なんかの、番外編?をかけたらいいななんて、思うのですが、どちらかというと、心理的追従が好きなので、ギンコの気持ちのほうをかんがえてしまいそうな。この作品も主人公の生い立ち?これが、謎のままだったような・・。

まだ、連載中なんだろうけど、黒鷺・・・あたりも、意味ありげな守護霊?の存在がときあかされてないし、
今、ちらみで、はまってしまったのが、アイ・アム・ヒーローですが、スプラッタものの元祖、ゾンビを彷彿させてくれた上に、ヘリコプターで逃げた主人公達がその後、どう解決していったかの続きにであえたような気がします。

こういう異世界?精神的閉鎖?の中から、解決策をねりだしていくという設定は、執筆の土台なんだと思うのですが、(別の言い方をすると、起承転結ですか・・)
憂生の多くの作品が、このパターンをとっていると思います。

白蛇抄についていえば、「因縁を通り越す」という解決策
「思いを救う」という解決策。
小枝にいたっても、最後の土壇場で、ある意味、底のところから、すくような解決がありますし、先に連載を終えたロビンの瞳もエドガーの閉鎖された精神?が、「ロビンは僕の心の中に住んでいる」
と、いうことで、解決していくわけだし、空に架かる橋も、「どこまで受け止めきるか」という解決が在ると思いますね。

今回のチサトの恋についても、ラストでこれがあてはまるとおもいますので、一部分にこだわらず、まあ、ちょっと、ストーリーの流れをてだすけするために、盗人をしようと思っています。

チサトの恋・・3・・に

白蛇抄第17話を書くつもりでどんどん、他のところにいってしまって、
なんとか、やっと、チサトの恋の続きに着手しようと・・(え?17話は?・・あはは)
カメラの話になると、やはり、嬉しいというのがあります。

憂生はめったと、エロ検索することはないのですが、
アダルトを書いてるときに、参考のためにエロサイトをのぞきにいってきました。

ムード派なので、アダルトムービーもしらけるパターンが多く、もう見ることもなくなってしまったので、自分から行くということはなかったのですが、
そこにあった、写真の出来のよさに圧倒されてかえってきました。

もろ画像というパターンでなかったのですが、
男性が筋肉質で、浅黒い・・。女性の肌が白く、柔らかな質感をうまくとらえていて、男女の配置もよく、ライティングの加減のせいか、白と黒。柔と剛。の対象的なコントラストがうまく、構図も張り詰めたもので、正直、
なんで、こんな写真を撮れる人が、こんなところに居るんだ?
と、思わせる、計算しつくされた仕上がり。

ふと、思い出したのが、夢二です。
彼は女性をえがくとき、足のかかとに、白粉を塗らせたそうです。
夢二の絵を見た事がある人は、かかとに白粉をぬったかどうかさえ判らない彼の絵(タッチ)を思い出すでしょう?
憂生はこの話、好きなんですよね。

自分の中のイメージ。

これを追従していくために、画面にでてこなくても、
(裏打ち)をつくる。

こういう夢二の姿勢ににたものを感じる。
背景と人物の配置もさることながら、かすかにまとっている服(布)の色も
背景と肌の色とを際立たせながら、でしゃばらない。
かなり、色彩センスと光を捉える感覚のよさをもっていて、
写真を絵画のように計算して撮る。

いや~~~。見事。見事・・・。

と、帰ってきてしまって、その話をかいたと思います。

こんな調子ですから、カメラマンの話をかきだすと、
つい、そんなこと、こんなことと
欲張ったはなしがでてきて、主題からずれていきそうで・・・
すでにずれてる気配ありですが・・・。

なにかしら、また、気づいていく、話にしあげていこうとおもっています。

チサトの恋・・2・・・に

チサトの恋をかきながら、ふたつのことを思う。
ひとつは、突如として、三歳児の社会性についてのマウス実験の話を挿入したこと。
何故、こんな話を挿入してきたのか、実は自分でも判らないで居る。
文章力というものは、異なった複数の「物事」を的確につなげて、系統立てていける能力だという解釈を聞いた事がある。
つまり、一見、なんで、こんな話がでてくるのだというマウス実験の話を
他の場所で、「なるほど、そういうことか」とわかるような系統だてた挿話をさしはさむとか?
これは、もっと、端的なたとえで言えば、お題(複数)小説がそれにあたるだろう。
単純にロゴ(お題)をつかうだけでなく、モチーフにつかうという部分が必要になってくるが、これが出来る人が文章力があるとも言える。

もちろん、お題小説の場合、文章力だけでは足りない。
発想力が必要になってくる。
文章力があって、自分が書きたいものに対しては充分な発想がわくものの、
お題になると、ネタがわかない。という場合もあると思う。

自分で発想をひきおこしてくる場合、これは、閃きだといっていいと思う。
過去、空に架かる橋の最初の場面で、手榴弾を登場させたわけだけど、この時に明美の死に方が閃いてきた。表現力は別問題として、系統立ててつなげていくという文章力の部分だと思う。

ところが、今回の場合、マウスの話を引っ張り出してきながら、
系統づけられていく「部分」が閃かない。ただ、野生の勘でなにかをひっぱりだせると直感したのかもしれない。と、そうじゃないのかもしれないのに、自分を買いかぶって、そのままかいておくことにした。

かくのごとく、閃いたモノラルをただ、書き留め、それが、ステレオになるかさえわからない。と、いう状況が続いている。
そして、過去の多くはモノラルが入った途端、ステレオに変えるひらめきがすぐにわいてきていた。

今は次を書く。という手探り状態から、つながるものがないか、模索するという以前にもかいた、次の電信柱まで、という状況であるぶん、
全体の流れがひじょうにたどたどしい。
勢いがないといって良いと思う。

もちろん、文章のうまいへたは、度外視している。

この状況は自動販売機にお金を投入し、迷ったあげくチョイスした品物が、
なかなか、おちてこないのににてる。

願わくば、タイムアウトで、お金が返却されてしまう事態にならないこと。
あるいは、

自ら、返却釦をおさないですむことを願うばかりである。

もうひとつは、チサトと奴との会話の中。
「ワクチンが間に合わず、死に行く子供にシャッターをおせるかどうか?」
と、いう言葉が入る。

この言葉はさらにある人を思い出させる。
そのとおりの言葉で書けないと思うが
「人の死を売り物にして、物をかくのか?」
と、言うのに近いかと思う。

その言葉がでてくる彼女の裏側のほうに思いをはせるのであるが、
よほど厳粛なものをかかえこんでいるとも思う。
大胆な推理をすれば、地震などとかで、多くの人の死をみてきたか?
あるいは、PDSTをかかえこんでしまったか。

通常、平凡?な生活をおくっていると、
「死」について、そこまで、神経質につきつめない。
逆に、素材や設定として、使うことも多いと思う。
実際、憂生自体も「死」を素材にしてしまったことはいくつもある。

だが、彼女の言葉の意味合いもわかる。

カメラをやっていながら、どこかで、
この部分は討議していた。

それは、また、長くなるので説明は省くが
日本人の誇りということや、日本のある歴史にたいしても
考えをしみわたらせていく問題で、15,16の多感な年齢の時に
そのあたりと突き当たってしまっていたと思う。

一方で、安部公房の論理が明確な回答をあたえてくれてもいた。

人の死を掲げて、何かを訴える。

ドキュメンタリーなどがもつ、「欠落」した部分。
これを「感情」にながされ、涙にうもれさせてしまう。

彼女は「感情」にうもれさせて、「欠落」を意識しない状況をきらっていたと思う。

若さゆえの潔癖。も、あるだろう。

なにが、必要かといえば、「見据える勇気」
そこで、得たものを自分の中で活かしていくしかてだてはない。

そして、今回「見据える勇気」が直であるカメラマンへの問い。
「シャッターをおせるか?押せるあんたなら、二度と此処にはこないでほしい」
だが、一方で、同じカメラマンであるチサトゆえ
「超えてまで」という物事があるのも理解している。

納得できる(憂生が)、結末を考える事が、
また、自分への回答だとも思う。

死を素材にしてまでも、書きたかった物事があるということ。

この思いは、また別の憂生をひっぱりだしてくる。

アィデンテティの崩壊。

この危機を神戸にて・・・で予知していたか、
崩壊の末の奈落から這い上がる男であるべきだという思いは
憂生自身であったと思う。

どんなことでも、乗り越えていけるはずだという思いが
死にふられる思いのなかで、自分をはかりなおす尺度になったと思う。

だが、死を意識する思いのなかで、
暗澹と鬱々から逃れえるわけもなく、
幾度となく、「死のう」と思う。

こうなると、スピリチュアルになってくるが、
自分をなげだした思いをふるものがよりついてくる。

これを護ったものがいて、
いまだにその正体はわからない。

幽玄師の中でも書いたと思うが、
突如、天気をかえて、「死ぬな」と至言してくるものがあった。

今では、本当であったのだろうかと思うものであるが、
そのおかげで、憂生は自分の価値を漠然とではあるが、
「ある」と信じなおせた。

ようは、その部分が判らない人間をみて、
自分を量っていたとも思う。

自分がえたものは、自分にしか、その重みはわからない。

なにを得るか。

今回のチサトに相対する奴が、死に行く子供をとれたとする。

「撮った」その重みは彼にしかわからない。
なにかを越えて、それでもシャッターをおさずにおけなかった奴の「重み」は彼にしかわからない。

この写真ができあがって、それをみたものが、どう受け止めるかは
その人間の「なにか」からでしかない。
先のように、「死を売り物にしている」と、とるかもしれない。
圧倒的な「粛正」を感じ取るかもしれない。
むごくて、胸がふさがれるかもしれない。

大事なのは、カメラマンがどういう「重み」でとったかではない。

各々が感じ取った「モノラル」だろう。

このモノラルをステレオにかえていくか、いかないか、
ここらあたりも各々の持分でしかない。

何を感じ取ったかは、その人の領分でしかないように、
奴の「重み」を量ることは到底不可能だろう。

だが、そこは物書き、自分の中でひっかかるものを
なんらかの形にしたい。

チサトの恋・・に・・

チサトの恋はSO2からではあるのですが、
本編とは無関係な、話を書いていこうと思っています。

長いことカメラをやっていたせいもあり、
カメラのことが、ちょっと気にかかるというのがあります。

親父が、わずか、7歳の子供にカメラを買い与えるという環境で
親父もブロニカ(6×6版)をもっていたりでしたので、
早いうちにニコンなどを手にいれるという状況があったのですが、
本編の奴みたいに、
カメラに映しこむ「まなざし」みたいなのをなくしてしまったのです。
一方で、物を書き始めてもいました。

物をそのまま、フィルムに移すという作業と
無の中から、世界を構築していくのとで、
作るという内容の違いが、あり、
「自分が作っている」という感覚になれず
カメラから遠ざかっていったのです。

もうすっかり、わすれはて、カメラもデジカメに買い替え
料理と猫の写真などをとったり、するくらいで、
何も技術がいらないくせに、ピンボケをとるという
本当にカメラをやっていたのか?
と、自分でもおもうくらいでした。

ところが、久しぶりに観光地に足を伸ばし
遠景をカメラに収めようとした時です。

あるはずも無いファインダーを一生懸命覗く自分がいました。

デジカメには画像ビューがあり、それをみて構図を決めれば良いわけです。

で、あるのに、

あるはずも無いファインダーを覗く行動を3~4度くりかえして
あ、画面みるんだときがついたわけです。

近景や接写の時にはそんなことは無かったのです。

身体が覚えてるんだな。と、思いましたね。

もっぱら、風景写真ばっかりとっていた人なので、
遠景を切り取るファインダーと一体になっていたのでしょう。

そんなことがあったのも懐かしく思い出しながら、
ぽつぽつと書いています。

チサトの恋・・11・・に寄せて・・

まったくなる、遅筆になってしまい、文章にも、さっぱり、勢いがない。

大まかな、ストーリーはきまっていて、結末も設定範疇なのであるが、

結末が、納得できる、

チサトの様々な感情をかきおこしていこうとおもっているため、

なかなか、話が進められないで居る。

とってつけたエピソードから、チサトがなにかに気がついていく。

と、いういつもの、パターンをふんでいこうとしているため、

逆になにかに、きがつける「とってつけたエピソード」が閃かない。

やっと、今回、「慎吾を男として、みていない」という編集長の言葉から、

チサトがなにかをつきつめかけたが、

これも、チサト本人が一見、握りつぶしているように見える。

が、今回のチサトの感慨が、物語の重要ポイントになる(する?)気がしている。

と、まあ、あと、もうすこし、よりをかけられるエピソードが必要かなとおもっているところなのである。

ところで、今回のチサトの感慨を読み直してみると、妙に、見た事が有る気がする。

それは、まあ、多分、理周に近いのだともおもうのだが、

「女」であることを厭う。というモチーフであるわけだが、

しばし・・・・。考慮。

判ったきがする。

10代なかば、一種、性同一障害を扱った物語を書いた事が有る。

この性同一障害の主人公もまた、自分の性を否定していたのだと思う。

だが、自分の性を否定しているとは、自覚していなかった。

双子の姉を護るという役に徹しているだけだと、主人公は思い込んでいた。

ところが、姉の結婚を機に、妹は「自分の人生」を考え始める。

そこで、断筆した。

10代半ばの憂生が、「自分の人生」を考える・歩むという「主人公」を想定することさえ、できなかった。

つまり、自分自身が、「人生」を歩んでみないとわからない事があるんだと、愕然ときがついた。

この物語の主人公のその後が書けるようになる。

と、いう意識もあったと思う。

そして、今、チサトの感慨を読み直してみると、

あるいは、「その後の妹」は、チサトのような思いもあったのではないだろうか?

と、ふと、思う。

護るものをもっていた「妹」が、あるいは、「女」という「護られる側」に変転するのは、

チサト以上にむつかしいのかもしれないが、

物語のラストでは、

「女として生きる自分であることで、姉を安心させたい」と、思ったはずである。

誰かの為でなく、自分の生き様にしていくという、難しさをこえた物語をかきたいと思いながら

結局、続編もしあがらず、その片鱗が物語の随所にでてきている気がする

チサトの恋・・14・・・に

チサトの恋をかきながら、どこかで、自分とおきかえているところがある。

チサトのほうでなく。

慎吾のほう・・・。

今回、14でぽろりとでてきた言葉が「プロ」と「アマチュア」であった。

正確には、「プロ」と「天才カメラマン」であるが・・。

おこがましい言い方ではあるが、お茶濁しにかいた、それも、5日ほどでかきあげた、壬生浪ふたり・・が、文芸社から、全国出版の審査に通り、なおかつ、特別推奨作品に推したいという話がまいこんできていた。

その他、稚拙な部分はあるものの、かなり凝った表現と構成力において、

読んでくださった方からは、「文章力がある」などの言葉もいただいている。

つまり、苦労なくして、そこそこのものを感性でとってしまう、天才カメラマン・慎吾にさもにたりであるとする。

ところが、チサトの恋・本編において、慎吾は行き詰まりを感じている。

憂生も然りである。

壬生浪ふたりに、全国出版までの評価をいただきながら、憂生は、この作品についてさえ、すでに行き詰まりのお茶濁しであることを、充に承知していた。

当然であると思う。

本来なら、司馬遼太郎が如きの歴史小説、生き様小説をかきたいと思っている。

ところが、そこまでのものを書くのに、(憂生の中味・要素)が、不足している。

しかたがないから、自分の書ける範疇で、壬生浪ふたりをしあげた。

すでに、筆力も、構成の下地にも欠けをかんじながら、「凌ぎ」でかきあげたものは、

「お茶濁し」以外のなにものでもない。

これに、対し、全国出版の話が来る。

いいかえれば、まさに、「天才」だろう?/笑

だが、慎吾もきがついているように、「命すれすれをうつしこむ」に、程遠い「天才」という評価でしかない。

そんなものを、まにうけて、有頂天になれるほど、自分の「欠け」をみないふりできるという、

メデイア重視の自分じゃない。

重々に承知している。

憂生自体が核心にふれることができていないということを。

慎吾がどういう核心をみつけるか。

すでに、ストーリーはきまっているが、この答えが、また、どこかで憂生に当てはまっていけば良いと思いながら、14を読み直していた。

チサトの恋21から・・

今回、異端の想定を書いて、我ながら、疑問を感じている。

あくまでも、フィクションであるということなので、居合わせたド素人?が、

助産婦をかってでる。と、いうこともありには、しているが・・・むむむ・・である。

まず、実際の場面、看護士がどうにかするだろうと思う。

これも目をつぶるとしても、資格のある人間が資格のない人間をばってきするだろうか?

この疑問をつぶすために、「やむをえない緊急事態」の時は、どうしているか?

と、いう答えを述べさせている。

タクシーの運転手、自宅などなど、太古から、助産婦や医師がいなくても、こなしてきた。

と、いういいぬけをかきながら、憂生の頭の中に、あるニュースがうかびあがってきていた。

詳細はわからないが、このたびの被災地において、医師免許のない人が治療を行ったというニュースである。

ボランティアで一般の人がはいったようである。

実際、治療能力があり、治療できていたのか、どうかはしらないが、

おそらくであるが、なんらかの経験と知識があったからこそ、やむたてえず、の気持ちだったのではないだろうかと信じたいのであるが、

このあたりの「素人治療」というものの、線引きがむつかしいのが、精神的疾病だと思う。

ある自傷癖(と、いう言い方もおかしいのだが)を持つ男性が、

「本当に愛するものが支えて、抱しめてくれたら、治る」

と、いう言い方をしていたことを思い出す。

それほど、精神的疾病罹病者の疲弊した「心・精神」を治癒する要因に「愛」が要るということである。

こうなってくると、医者や薬でなく、「愛してくれる人」が時に、治療をしてしまうことがある。

と、いう事にもなってくる。

古い、言い方であるが、

「医は仁術」ともいう。

この基本路線を考えると、ニュース沙汰になった人の「仁術(愛する心)」により、

実際の治療という問題とは別に、被災者・怪我人の心のよりどころになり、

PDSTの発症を抑制していたかもしれない。

医者が小麦粉を薬だといって、のませても、治る。という笑い話があるが、

それほど、「精神部分を支える存在」であるといえる。

このあたりのことを思うと、確かに資格がないのに、治療行為はよくないのだろうが、

「見えない部分」(心のよりどころ・安心感・・などなど)への治療はあっただろうと思う。

そんなことを思いながら、今回のチサトもまた、

「義をみて、せざるは勇なきなり」のつわものとして、

実際の治療などできなくても、なにかしら、奇蹟をおこすのではないだろうか?

憂生自体、以前にも書いたが、どらえもんのジャイアンの科白にいたく、なけてくる。

「友達がこまってるのに、ほうっておけるかよ」

チサトもおなじだろう。

妊婦がこまってるのに、ほうっておけない。

ただ、それだけの気持ちなのである。

いかに、親身になってしまうチサトであるかということを、もちだしてくるに、

かなり無茶な設定をしいてしまい、いささか、都合のよい設定すぎて、物語から、

素にもどらせてしまうかもしれないとの心配もなきにしもあらずだが、

チサトと慎吾の追従にうってつけのエピソードにしあげたいと思っている。

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