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漢字から・・

辛抱と我慢。

この言葉をみていて、

発想の転換というのかな。

我慢と辛抱をごっちゃにしていたところがあるなって思う。

いやな物事に対し

我慢する。

辛抱する。

この言葉の辞典的意味合いはしらべていないが。

万葉集の刺す竹の大宮人は・・・などから

しらべていった、音と漢字の合一というのかな。

刺す竹は領主などに直訴するときに、使用される文書を竹にさしたもののことをあらわすと思う。

転じて、ご意見申し上げたい。忠告したい。という隠し意味につかわれている。

ご意見もうしあげたいような大宮人ということになる。

ところが、万葉集の漢字での音。

佐須抱能とかいて、「さすだけの」と読む。

佐は精神的なものの意味合い。須は清める、正しくする。

抱は護る、導く。能はできる、働き

大宮人は人の上に立つ存在でもあろう。

精神的に正しくあるように導いていくことができる。

さすだけ(佐須抱能)の漢字のなかにはこういういみがある。

精神的に正しくあるように導いていくことができる大宮人であるはずなのに

ご意見申し上げたいことをされている。

こうなるかな。

この場合の漢字の解釈だけいえば、

音にかえていったときに、別の意味合いにもとれるということになる。

で、我慢

これは、自分の中に「我」が慢心・・していく。

満杯の満にあてはめたほうがいいかもしれない。

いやだ。つらい。という「我」を心の中にいっぱいにしてしまう。

そのため、我慢できなくなるというキャパシティの限界がきてしまうことがある。

辛抱というのは、辛いを抱くだが、辛い気持ちを自分のものにしていく。

心棒とかいたほうがわかりやすいか。

心に棒をたてる。家を作るときなどでかんがえると

心棒は大黒柱だったり、各々の柱だったりする。

自分を立て通していく。信念を貫き通す。こういう棒である。

自分の心の中に信念を貫く棒。自分を立て通す棒。

これが、ないと辛抱できない。

だから、辛抱の甲斐があったといういいかたをする。

我慢の甲斐があったとはつかわない。

たんに辛抱しなさいといわれるのと

我慢しなさいといわれるのでは、内容も違う。

おそらく、辛抱は相手のことをかんがえて辛抱。

      我慢は我のことだけを我慢

ここらへんの漢字に含まれる意味合いというのが

現代世界で廃れてきてるんだろうかと思う。

我慢しなきゃいけない。と使うことはあっても

辛抱しなきゃというのをきくことはすくなくなってきたようにおもう。

もしも、辛抱するという言葉を使ってる人がいたら

そのうしろに誰かのことを考えてるというのがある。

誰かのことをかんがえての辛抱などしなくなったから

だんだん、古臭い言葉にあつかわれるようになってるのか?

もはや、死語になってしまったのだろうか?

そんなことはあるまい。

と、思いたい。


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