あいもかわらず、荒唐無稽
- 2015/10/25
- 00:24
宇賀や吹き会えず
いや、うがやふきあえずとうって、変換かけたら、
上の字になってしまったんだけど、
なにかしら、最近はこういう変換が的をえてるきがしてならない。
思いとかくときに、奇妙に「重い」と変換がかかるときがある。
通常、重いというのは、ほとんど使わないから、
よく、使う思いのほうが、優先語句になるはずなのだが・・。
さては、この思い方は「重い」のだなと、苦笑するしかない。
いいだせば、思い方の方の字も、最近は
「ほう」と、うって、出している。
本当は法なのだ。
思い方しだいで物が物事がよくなっていくというのなら、
思いというのは、実は「方法」なのだ。
もう、最近は憂生のパソコンはこういう妙に悟った?語句を提示してくる。
前にもかいたが、
渡す。闇すになってしまうし、(渡すというのは、心の間の闇(悪い部分というのでなく、見えない部分(愛とか)を渡すということだから、良い思いで渡す)
捉えるが、朗ꆅるになる。(物事を捉えるのに、ほがらかにあきらかになるのが、本当の捉えるということだろうと、解釈した)
生きるも、Ƅるも、Ƅでひけば「二」という片仮名になる。LƄるとでるのだが、
前にも書いたので、簡単な説明。活気のある地球。これが、LƄる。
まったく、よくわからん、説明であるが、
憂生は憂生でこの解釈でいろいろ、考えさせられたところが大いにある。
誰だったかの、文章で
どうしても、どうする、とかの「どう」が「ドウ」になってる人がいた。
どうもパソコン電子脳が、学んだことで、「ドウ」せよ。と、うったえているようにみえてしかたがなかったwww.
まあ、最近はパソコンまで、アセンションしたのかと思えてくるwwww.
で、宇賀や吹き会えず・・・うがやふきあえず。
ぬながわひめをほうちしたまま、
どうも、このうがやふきあえず王朝について、かいてみたいとおもってしまう。
王の舞という、のが、宇波西神社にのこっていて、
と、いう話はどこかにかいたが、
どう考えても、海幸彦と、山幸彦のはなしは、
うがやふきあえず王朝の政権交代あるいは、
滅亡というか、それをあらわしているとおもえてしかたがない。
と、なると、西からの波にのって、やってきた宇が、うがやふきあえずで、
近くに日向(ひるが)という地名がのこることからみても、
うがやふきあえずは、九州、日向からやってきたとかんがえたくなる。
高千穂が高天原だったという説もどこかうなづけるものがあり、
そこを舞台にいったい、なにがあったか・・・。
古事記にみられる、不思議なスサノオの行動。
これも、なにを象徴しているのか?
勝手な類推で、
宇賀や吹き会えずの変換をなぞといてみたくもある。