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以前、不幸と思われる状況であっても、

それでも、実はすくわれている。

と、かいたことがあるわけですが、

ところが、どう救われているかってことが判らない。

救われていなかったら、どうなっているか、が判らない。

だから、救われているという事もわからない。

と、

「なんで、こんな目にあうんじゃ」

と、呪の思いをもってしまうわけで、

その思い方がよくないものをひきよせてしまうわけですが。

その、どう、救われてるか、が

判らないまでも、

「良かった」と、捉える見方。

自分への価値見直しです。

この考え方は、実は

昭和天皇のエピソードから、いただきました。

天皇陛下の料理番という番組のなかでみたものです。

外国からの客賓をまねいての晩餐会のとき、

料理長は料理の細工の為につかった、

爪楊枝を一本、ぬきわすれていたのです。

誰が食べたか、どの人にいったか、わからないまま・・。

そして、料理長はあとで、天皇陛下に呼ばれるわけです。

「爪楊枝は一本だけだったのですか?」

そうです。爪楊枝がささった食事は天皇陛下のところにいっていたわけです。

さぞや、叱られる。これは、首かもしれない。

覚悟を決めて料理長は陛下の質問に答えました。

「はい。陛下の料理にはいった一本だけです」

すると、陛下は

「良かった。わたしのサラでよかった」

****

憂生はこの話を見て、消極的?な肯定にみえるかもしれませんが、

こういう喜び方、受け取り方もありだな。

と、思ったのです。

今、苦しい立場に立っているひと、いらっしゃるだろうと思います。

でも、それも、あるいは、「自分でよかった」という面が隠れているかもしれません。

恋愛の破綻で苦しんでる人を、たとえにとれば、

もし、それが、自分でなくて、ほかの人だったら・・・。

苦しんだ挙句、自殺しているかもしれません。

怒りの余り、相手を刺し殺しているかもしれません。

自分だから良かった。

自分で良かった。

みえない部分ですがこういうこともかんがえられるのではないかと思うのです。

そこに目がいかないから、

悲しい、苦しい・・とおもってしまう。

絶対、どこかで、なにかが、救われてる。

「自分でよかった」

この価値も自分でみとめてほしいもんだと思ったりしています。

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