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ニギハヤヒ関連・・・。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai07.html ~から抜粋転写(文章も・・) 

魏志倭人伝(三国史・魏書・東夷伝・倭人条)

 8世紀に編纂された「記紀」は、日本の歴史を神代にまでさかのぼって書かれたもので、特に『日本書紀』は日本におけるまさに正史です。そこには本当なら2~3世紀頃の邪馬台国のことは書かれていなければなりません。初期大和政権の誕生をもって、つまり古墳時代に入って前方後円墳体制ができあがる時期をもって、国家の始まりとするなら、その直前に存在したのが邪馬台国です。中国の史書に「30の国を支配し、女王卑弥呼の都するところ」とまで書かれている内容は、「記紀」には、本来、卑弥呼の実名入りで書かれているべき事柄です。ところがそれがない。
 しかし、よく見ると、とても奇妙な記述が何箇所かあるのです。

丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。
 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。
 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。
 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。
 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。
 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。
 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。
 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。
 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。

記紀によれば、ニギハヤヒは物部氏の祖先とされていますが、物部氏の氏族伝承を伝えるといわれる『先代旧記本紀』(平安初期成立)によると、ニギハヤヒは物部一族を連れて天の磐船で空を駆け巡り、河内国のイカルガノ峰に天降ったということです。
 河内国のイカルガノ峰というのは、東大阪市の生駒山付近とされています。神武の軍勢がいったん大和川沿いに大和に侵入しようとしたとき、ニギハヤヒの家来のナガスネヒコに撃退されたのが、東大阪市日下(くさか)町付近でした。
 この日下町には石切剣箭(いしきりつるぎや)神社という古社があり、現在も、ニギハヤヒを祖神として、直系の神主が百代以上に渡って仕えているといわれます。ニギハヤヒの本拠地は本来このあたりのようです。
 一方、ニギハヤヒについてはもう一つの伝承が残されています。前の
「卑弥呼の名のある系図」のところで紹介した天橋立の籠神社に伝わる「海部氏系図」という国宝の系図によりますと、ニギハヤヒは河内の国に天降ったあと、大和国の鳥見(とみ)の白辻山(生駒山付近)に移ったということです。そこでナガスネヒコの妹と結婚した。

神武天皇はじつは東征に出発する前からニギハヤヒの存在を知っています。
「東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。その場所に天の磐船に乗って降りてきたのは、ニギハヤヒだろう」と語っています。
 ところが、ニギハヤヒとの大和で実際の戦いは、あっけないほど簡単に終わってしまいます。さんざんに抵抗したナガスネヒコを、ニギハヤヒ自身が殺してしまうのです。
 このような神武とニギハヤヒの戦いは、前にも述べたように最初から勝敗が決められた「出来レース」のような感じがしてなりません。ニギハヤヒはどうも、初めから朝廷側の意向に沿った形で記紀に登場しているのです。

島根県大田市に石見国一ノ宮の物部神社があります。ニギハヤヒの息子の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)を主祭神とする神社です。6世紀の継体天皇の勅命によって創建されたと伝えられています。三輪王朝や河内王朝の時代ではなく、継体王朝と関係があるらしく、それほど古いとは思えません。宗教的に重要な出雲の地に、物部氏のために大和朝廷によって建てられた神社のようです。ニギハヤヒという人物と重なってきます

神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から出土した銅剣や銅鐸は、ほぼ紀元前2~1世紀を中心とした時期に製作されたものと見てよさそうです。たぶん紀元前2~1世紀ごろに作られ、あまり時間を置かずに出雲にもち込まれ、その後、紀元後1世紀の前半ごろに埋められたと考えられています。
 紀元前2~1世紀ごろというのは、日本の古代史ではかなり古い時代です。大和朝廷(三輪王朝)の成立を西暦300年ごろとすると、それよりも400年以上前の時代です。その頃、出雲は近畿や九州から銅鐸や銅矛が集まってくる立場にあったことになります。
 銅剣や銅矛、銅鐸はいずれも弥生時代には貴重な祭りの道具です。これらが大量に集められるということは、それだけ出雲が重要な地位にあったことを意味しています。ここに早い時代の出雲勢力のひとつの基盤をみることができます。
 しかし、当時の出雲がどれほど重要な地域であったのか、今のところそれを知る材料はほとんどありません。古代出雲の厄介なところが、ここです。突然、大量の銅剣や銅鐸が出土したけれども、当時のことを知る考古学資料があまりない。

研究家のなかには、古代の出雲には列島を支配する王国のようなものがあった、と考える人もいます。しかし、考古学の発掘からはそれを裏づけるものは出ていません。政治的な意味での王国があったかどうか、疑問です。
 ちょうど紀元前1世紀ごろの倭国のことを書いた『漢書地理志』によると、当時の日本は「分かれて百余国となる」とあります。百ほどの国に分かれ、まだ全土を支配する王のようなものはいなかったようです。まだ日本には、統一王朝のようなものはなかったようです。
 むしろ、古代出雲について、どうしても気になるのは、邪馬台国の存在です。
 あらゆる状況証拠から考えて、現在では、邪馬台国は畿内大和の纏向遺跡周辺にあったと考えるのが最も有力です。しかも、第1部の
「邪馬台国は出雲系か」のところで見たように、邪馬台国はどうやら、出雲系の神を奉じる王国であったようです。
 仮に、古代出雲王国と呼べるものがあったとしたら、それは邪馬台国と同じではないか、と考えられます。
 古代の日本では、出雲の神々への信仰が、列島のかなり広い範囲に及んでいたのではないか、と私は思います。いわば、古代出雲文化圏のようなものがすでに存在していた。邪馬台国はそのような基盤の上に成立し、出雲文化圏の上に乗っている。

倉橋 日出夫 プロフィール


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