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沼奈宣破比売(ぬながわひめ)・・2


沼奈宣破比売(ぬながわひめ)が、憂生のかじっていることに

すべてに関与してくるということであるが、

どうも、こういう事を巧くまとめる才能がないので、

実にたどたどしくなるという言い訳を先にしておく。

以前、歴史を齧ってみる(その1)の中で

美穂崎神社を取り上げた。

千木の様子も天津神・国津神の併合で、おそらく

他に類をみない、形式で、ここに祀られるみほすすみ(御穂須々美)が、

天津神としてまつられているのか、はたまた、事代主が天津神としてまつられているのか、

出雲を主軸に考えると、事代主が天津神の系譜とも、考えられる。

日御碕神社においては、スサノオが天津神の位置になっていて、

後年、アマテラスが国津神の位置に拝殿を建立されている。

ここからも、出雲においては、出雲族が天津神の位置に居る事があってもおかしくない。

と、思われる。

出雲大社の作りは国津神の造作であるが、これは、

大和朝廷側が建立したのだから、当然国津神(地方豪族)扱いになる。

出雲大社の建立というのは、ひとえに、

あの出雲族を大和朝廷の属国にしたてあげたというパフォーマンスであり、

故に国津神の形態の建物をつくっているとも考えられる。

と、話がずれすぎた。


では、事代主が天津神の位置なのか?と、

考えてしまうと、ひっかかるのが、美穂崎・美穂などの地名の由来である。


通常、古くから居るもの、あるいはなにかしら、象徴的な権威をもっているものの名前をとるのではないだろうか?

だから、この地の名前を事代崎とせず、美穂崎としたということから、

すでに、美穂須々美(みほすすみ)のほうが位がうえだったとかんがえたほうが納得できる。

だが、美穂須々美(みほすすみ)が地名になるほどに、重要な存在であったのだろうか?


事代主のほうにスポットをあてると、この神社は

国譲りの中心的位置にある。

諸手(田だったかな?)船神事などは、その様相からも、

平伏?の印になるような鏡や剣を積んだのではないかと思うし

この神社に、ニギハヤヒが駆けつけている文献をほかで読んだ事がある。

以前にもかいたが、羅馬船などの存在も降伏を表すかとも思えるのだが、

この神社に伊予の河野氏の紋をみつけて、驚いた。

ニギハヤヒの関連もあるが当時貴重であったと思われる

野生馬が伊予あたりにはいた。


こんなことからも、考えても美穂須々美の名前が地名になるほうが、先で

そういう歴史的な国譲りがあったにかかわらず、その名前が美穂崎のままである。

これは、どういうことであろうか?

美穂須々美とはだれじゃあああああ?

と、いうのが、最初であった。



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