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考え事・・3

精神疾患からの回復の難しさ。

職場に欝病の同僚がいるとかで、話がはいってきていた。

鬱病というものも、自分の思い方をかえればよいのだろうと思うし

前述の、境界障害のひとでも、早いうちに

自分の思い方をかえる事ができたら、発症は食い止められたかもしれない。

どの思い方が病気の根源になっているかということを

みきわめるのは、非常にむつかしいと思う。

また、見極める事が出来ても、時に手のうちようがない。

境界認識障害の人をいえば、

「愛」をうしなった傷が元だろう。

そして、多くの事例を見る限り、

一番、傷の基になるのは、

自分の存在価値が薄くなったり破壊されたときに起きる。

ここのところで、

本当に愛してくれる人が現れたりしてくれると

傷がいえてくるわけで、

これで、助かっていった人も多く居る。

ところが境界障害の彼女の場合

希薄な存在価値をものの見事につぶされてしまい、

一時的に女性の自分を乖離することで、

精神の均衡を保った。

そして、男性になることで、

そこに存在価値をみいだしたけど、

これも砂上の楼閣のようなとりででしかなかった。

乖離してしまった女性部分にもどろうとしたら、

嘆きと悲しみしかない。

砂上の楼閣は精神の均衡をかろうじてたもつだけで、

強靭な精神を構築できない。

なぜなら、蜃気楼のようなものだから。

本来、強靭な精神を構築する場所は

女性の彼女の位置にしかない。

ここから、にげてきてしまっているわけだから、

もう、どうしようもない。

いくら思いをよくしようと思っても

強靭な精神を構築する場所に戻らない限り

むつかしいし、

戻れば、元々、傷を持っている場所。

自分とむかいあうどころではない。

心の持ちようでしかないとは思う。

でも、多くの精神疾患は

傷を直視できないし、傷のアル場所を避ける。

そして、自分の心を見ないようにする。

だけど、横からみているものは

それこそが大事だと思っている。

だけど、自分が責任を持って、その傷と向かい合わす事が出来るかどうかを考える。

この責任というのは、おおいなる愛と信頼。

と、いえると思う。

信頼関係がきっちり、なりたっていないのに、

むかいあわせたら、どうなるか、

まあ、それ以前に信じないから

用心するし、むかいあったとしても、

『こんな辛いところと向かい合わせるまねをするか』

と、いうところで、結局回避こうどうにでるし、

いっそう、人を信じなくなる。

治療行為というのは、かなりの信頼と愛情がなければできることではない。

だから、方法はわかっていても責任がおえないということで

多くの人が、かかわらないようにする。

もしも、自分の一言で自殺でもされたら?

おそろしくて、とてもじゃないけど、責任がもてないことに

のりだすことはできない。

で、実際問題、そういうところまでやってみて、

正気にもどったとおもっても、

またぶり返す。

結局、根本的な「思い方」というのを

本人とはなしあうことができなければ、

傷の上に「薬」をぬることができないということだろう。

だけど、もう、何かに依存している状態の人に

自分で自分を大事に思う。

と、いうことが、伝わるのは皆無といってよい。

別の人格に依存する。

宗教に依存する。

薬に依存する。

いろいろあると思うけど

ここを依存する思いをたちきらないと、

「自分こそが尊い」

って、どうしても信じられない。

受け入れない。

すでに自分の存在価値が希薄になっているのだから、

「自分こそが尊い」

と、いわれても、信じられないし受け入れられない。

むしろ、いかに自分がだめかにとらわれてしまう。

そこをのりこえてこそとおもうのだけど・・。

よく、言われる言葉に

「乗り越えられない試練を神は与えない」

っていう。

その言葉をひっくり返せば

「乗り越えられる自分が居るはず」

なんだけど、

谷の深さにおびえ、踏み切る事が出来ず

その場所で代替の慰めを求める。

その結果がたとえば、彼女のような、

境界異常により、自分の人格さえなくす。

と、いうことを引き起こすことだってありえる。

そんな

弱い自分じゃないはずだ。

憂生自体そう思いながら、超えてきた(かな?超え中?)

とにかく、自分を信じる。

自分を抱くのは自分。

ほかのなにかが自分の根本部分までは

立て直してくれはしない。

自分に負けてるのが悔しい。

どんな理論でどんな力で

勝っていても

自分に負けてるのがシャクに触る。

こういう意地が自分を自分で立て直させてきたのかもしれない。

だから、冷たい言い方かもしれないけど

自分にまけたままにあまんじているものに

手をさしのべる事は無理だと思う。

ボーマンに言わせている。

「自由の女神(勝利の女神?)だって、

敗者には手をさしのべるけど、

臆病者にさしのべる手はもっていない」

憂生はこういう意味で

彼女が強くあって欲しかったと思う。

逃げて、ごまかして。ごまかして、

すりかえて、結局、苦しさを感じないところにいってしまって

本当にそれでよかったのかな?

憂生には判らない。

だけど、少なくとも、憂生はもがきながらでも

自分と戦う。

簡単にいうけど、簡単に勝てはしない。

それでも、自分で無いものになるのは、

お断り。

苦しいことも自分のこと。

よいことだけとって、

苦しいことはいやだはつうじまいて・・。

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