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2.ことしろぬし(美保神社はかなり、重要・8)

神社のことを考える。

いつか、沼名前神社のことをかいたが、

この祭神がおおわだつみとスサノオでありながら、

建物の様相は国津神のつくりになっていた。

と。

神功皇后が立ち寄ったときに、祭神を祭りかえたのだと、推測した。

実際菊の紋がかざられていたし。

ところが、三保崎神社はふたつの様相が抱き合わせに成っている。

ことしろぬし/恵比寿/あるいは、スサノオ/を天津神とするのなら?

国津神はだれであったのか?

結局、正体を封じ込められているニギハヤヒではないのか?

むしろ、ニギハヤヒの正式名称から、考えても、天津神はニギハヤヒのほうで、

沼名前神社、気比神社など他のことから考えても、スサノオは、国津神神社に祭りかえられてる場合がある。

河野氏が三保崎の岬からお連れ申したのが、ニギハヤヒで史記の中にも、

天孫の明かしなるものをもっていたのが、ニギハヤヒである。

当然、天津神として祭られる。

そして、出雲大社。これが、オオクニヌシの国譲りの象徴であるが、

当然、国津神、地方豪族という事に成る。

それを平行移動すると、三保崎神社の国津神も恵比寿/オオクニヌシといえる。

そういう風に考えれば、三の紋も天津神と国津神のだきあわせも分かる。

ヤマト朝廷が出雲大社を容認したことから、考えても、

三保崎神社は表立って、恵比寿をまえに出すしかなかったのでは無いだろうか?

ニギハヤヒの存在はことごとく、抹消され、ましてや、天日嗣の皇子だったとされる、

ニギハヤヒを祭ることは、大和朝廷にそむくことに成る。

大和朝廷のごたごたが収まらない時代にニギハヤヒの存在を隠したのでは無いか?

実際、ニギハヤヒの神社はいくつか、残っているが、これら多くは、

カゴメ文様の封印や注連縄の逆張りで、むしろ、ニギハヤヒを封印するために

つまり、出雲大社と同じ考え方で、作られている。

何故、ことしろぬしの方が表立って祭られるようになったのか?

スサノオイコール恵比寿であるという考え方が一派にあるが、この恵比寿は、もっと、最初、

国産みのときに、うまれでた、蛭子の恵比寿イコールスサノオでは無いかという説である。

こう考えると、間違いなく高天原族の天津神としての子孫としてのことしろぬしが出来上がってくる。

だが、大和朝廷の傘下になったスサノオ系は国津神として、扱うことも出来る。

ヤマト朝廷はスサノオ系の天津神と国津神という二つの顔を上手に使い分け

スサノオという天津神も高天原系に従属させることで、その威光を示したか?

まだまだ、断片的な物思いでしかないが、

どこか、糸口がつかめないかと、こじつけてみた。


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