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意識のすりかえ

ものも、とりよで、さんかく、しかく。

ってなことばがあるけど、

なってきた結果をうけとめるとき、

どうしても、都合の良い(自分が痛くない)解釈をする。

憂生はここしばらく、

「なんで、こんなことになってきたのか」

って、ことをず~~と考えてる。

この作業は

「自分の思いをたぐる」って、こと。

正直、この作業はつらい。

自分のあの時の「思い」が原因だったのかと気がつくから。

ちょうど、MOOMさんが、おもしろい話を書いていたので

それを、たとえに憂生のとりかたを当てはめてみる。

話は

「葵の御紋の服をきたい」と聖典にねがった大工が

願いどおり、盲目になることで、葵の御紋の服をきれるようになる。

と、いうことだ。

まあ、盲目になってしまった。

と、いうことが、憂生のいうところの、

「なんで、こんなことになってしまったんだ」

って、ことだ。

そして、

自分の思いをたぐっていくと、みつかるのが、

「葵の紋の服をきたい」

って、ことになる。

盲目になってでも、葵の紋の服をきれるようになったことが、

しあわせかどうかは疑問視すべきところだけど、

ここはおいといて・・・。

出来事の裏には、「思い」がもとになるという事実を憂生は何度も見せられている。

小さなことはわかりやすい。

憂生がいちごをのぞいていた。

「イチゴがおいしそうだなあ・・たべたいなあ」

ってのが、元の思いだろう。

すると、夕方大家がいちごをもってくる。

たんじゅんにここまでなら、偶然と思う。

ところが、憂生がイチゴを覗いてるとき

頭のうしろに、見えないものがいて、

ーこのひとは、イチゴがすきなんだなあー

と、おもっているものがいたわけだ。

自分の思いをうごかす「なにものか」がいるわけ。

これは、遠く離れた友人でもそうで、

ー坂本竜馬の本でもかってよめばいいのになー

と、おもっていると、

友人が連絡をくれて、最近竜馬の本を読んでる。

こういう判りやすい状況はいくつもあって、

おふくろに花をかってやろうかななんておもって、

みてりゃ、ほかのひとから、同じ花が届く。

ーいいなあ。ほしいなあーという思いが

そのまま、形になってくる。

この「思い」が良い時にはたらいてるときは、

なんで、ほしいのわかったんじゃろう?

偶然、ぴったりだ。

って、単純によろこんでいられるのだけど、

じゃあ、もし、

誰かに嫌なことをされたとき、

自分の「思い」がどれだったか、さぐろうとするだろうか?

その思いをみなおして、おもわないようにすることができるだろうか?

憂生自体、ある「にくしみ」で、目の前で

次々と、人が事故をおこしたのをみたとき、

こりゃあ、「思い」をかえなきゃいけない。

って、おもわされた。

もっと、いえば、「憎む」原因になった事件が

おきたことに、自分が関与していないか?

って、かんがえたら、

自分や関連の人間はすべて、

「恨み」のサークルのなかにはいる。

こりゃあ、危ない。

そういうことが、もとで、憂生は

「思い」がなにもかも事象の原因だと感じるようになった。

実際、師にも

「お前の魂はまんまるだから、お願いすれば、思いどおりになる」

ほかの事件でも

「それは、おまえの思いがさせたことだ」

とか・・・。

そういうことをいわれていたわけで、

単純にいえば

「良い思い」をもてばいいんだけど、

「良い考え」というのは、考えられても

思いというのは、実につかみにくい。

MOOMさんのはなしのように、

「葵の紋の服をきたい」という思いが

自分を盲目にさせてしまったという(関連)

因果応報になってるということには気がつきにくい。

MOOMさんのはなしは信仰心が深く

もうもくになったことよりも、

願いをかなえてくれた聖典を信仰するわけだけど、

実際問題、葵の御紋の服をきれて、

満足するのは自分だけで、

盲目になることで、回りが困ることだろう。

家族がいれば、生計にも困るし

逆にまわりのものにてつだってもらわなきゃならなくなる。

そこまで、考えたら

身勝手な欲に眼がくらんだ説話と憂生は捉える。

実際問題、目の前で

「盲目になって、紋付がきれる」

「紋付はきれないけど、眼がみえる」のとどっちがよい?

と、たずねられたらどうだろう?

家族がいたら、当然、盲目に成ってしまったら

たちまち、家族を路頭に迷わせる。

自分の仕事もできなくなる。

「名誉」みたいなものが大事で

まわりの事がみえなくなる状態はおそろしい。

こういう思いが

「盲目」になるという状況をひきおこす。

自分の分というものをわきまえない。

思いというのは、

それほど、勝手で

統制しきれないものだと思う。

この「思い」をどういう風に

自覚して、まちがっていたら、とりけす。

あるいは、どうまちがっているかを考え直す。

こういう尺度を作っていかなきゃならんのだと思う。

だから、憂生は過去のことについても、

「嫌な思い」がわきあがると

これは、自分の「思い」のまちがいをしらされているんだ。

と、かんがえるようにしはじめた。

自分の思いさえまちがってなかったら

「盲目(嫌な事)」にならずにすんだことを、

嫌な事をみて、

逆に「思い」を洗ってみる。

どうも、今の世の中、都合よく

「見方をかえる」ことばかりやってるきがする。

つごうよくでなく、

自分に都合悪くかんがえてみる。

「よくな思いをもったのは、自分がないものねだりをしたせいだ」

とか、その思いを統制できなかった自分を悪いと考え直すことは

自分にとって都合の悪いことだろう。

そのことで、周りの都合がどんなにわるくなったかとか・・。

都合の良い見方は

「自分の願いがかなえられた」

で、あろう。

こういう意識のすりかえを

憂生はイリュージョンと呼ぶ。

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