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思いが基

思いのエネルギーの怖さっていうのを知ったことが、

「思いを良くしていかなきゃ、いけない」

と、思い始めた元だったと思う。

ある事件の加害者を特定できるわけもなかったんだけど、

憂生はその加害者を憎んだ。

その途端、次々と目の前で事故がおこり

事故の被害者が

加害者だとわかる証がでてきはじめた。

このことの前に

憂生自身が疎外されるという事件がおきたことがある。

その疎外をした人間はやはり以前にも、

人をおしのけて、自分がその位置にたとうとしたことがあり

車にはねられる。という事故をおこしていた。

「自分がしでかしたことは自分に必ず帰ってくる」

この言葉が当てはまると思った。

人をはねのける(はねる)という事をしでかした人間は

やはり、はねられるという形で帰されている。

そうおもったものだから、

憂生は腹の中でその人に対して

「憂生をはねたら、あんたがはねられるよ」

って、思いをもったわけだ。

でも、この思い方は「呪」の思い方だったと思う。

で、これはいけないなと

本人には、口にださずに終わった。

そして、また、師のところにいったときだった。

「はねたら、はねられる、お前が思ったとおりになるぞ」

ぞっとした。

憂生自体が「憂生をはねたら、あんたがはねられるよ」と

おもったということは、それもすなわち相手をはねる「思い」をしたわけだから。

だから、もっと掘り下げれば、

その人に疎外されたときすでに、じつは、

過去に憂生がしたかもしれない(本人はそのつもりでなくても相手がそうおもったらそうであろう)疎外がかえってきて、

一種、清算されていたのかもしれないわけだ。

それを自分の思いをあらいなおしてみるなり、

見直すチャンスをあたえてくれたり

実際に清算(かえってきて、ちゃらになる)だったかもしれないのに、

あらたに、疎外する思いをもったわけだ。

そのことで、思い方をきをつけなきゃいけない。

受け止め方を気をつけなきゃいけない。

と、おもったはずなのに、

怒りの余り、「呪った」

さすがに、4件くらい、たてつづけに事故がおき、

最初の時点で加害者のひとりだということを

それとなく、しらされたとき、

これは、自分の「呪」が具体化してるとおもった。

「呪えば、のろわれる」

これ以上、自分の心をコントロールできない状態はよくない。

とにかく、「にくむまい。にくむまい」と、自分にいいきかせてきた。

そして、それでも、どこかで、

「奴らは、自分がした事がかえってきたんじゃないか」

とも、おもったわけだ。

このあたりは、実際、憂生にはわからない。

憂生がのろわなくても、そういう事故がおきたのか。

おきなかったのか?

そして、このあたりで、

憂生はまた、天をもちだしてきたかな。

天はちゃんと見てる。

憂生がにくもうが、にくくまいが、

清算をさせるときはちゃんとさせる。

それは天におまかせでいいんじゃないか?

そう考えた。

だが、そのうしろに、

まだ、「天にさばかれろ」という思いがあったことにきがついていなかった。

そして、天気がかわったことを書いたと思うけど

それとは、別の見方で

「憂生の思いで、天が動く」

とも、かんがえられたわけだ。

これは?

あの事故は憂生の思いをうけとって、

その思い、わからぬでもないと憂生の気をすませてやろうとしたのなら

(もちろん、裁かれる原因を本人が持っていたからだろうとは、思う)

やはり、これは、天をうごかしてしまってるかもしれない。

もしも、そうなら、

思い方、よほど気をつけないと、えらいことになる。

師は昔憂生に

「お前の魂はまんまるだから、魂におねがいしたら、そのとおりになるよ」

と、いったことがあった。

そんな、お願いをして、物事をかえるのは嫌だ。

と、おもったから、お願いはしていなかったけど、

強くねんじてしまう程の感情をもつと

お願いしてしまうのと同じことになるんじゃないか?

つまり、意識しないまま、ねがってしまうと

動いてしまう。と、いう事がありえるんじゃないか?

だから、良い思いをもつという以前に

自分がかえなきゃならない思いがなにかをみつけだしていかなきゃ、やばい。

と、おもったわけだ。

考えというものをもつと

「自分はこう言う風によい(思い方)をしてる」

と、自分にめくらましをかけてしまう。

考え方でしかないのに

思っていると思ってしまう。

自分は人を憎んだりしたくないとかんがえてるわけで、

かんがえてることなど、実際の場面になったら

ふっとんでしまう。

ただ、そういう考えをもっていれば、

自分がまちがっているとはやく、きがつける。

でも、じっさい、事故現場をみせられて、

やっと、おもっちゃいけないことだ。

思っている自分だと気がつく有様だった。

これくらい思いというものが、

自分の自由にならないというのに、

仮に天がうごくなら、こんな危険なことはないわけだ。

でも、もう、いやでもこうでも、自分の思いを

自分の「意」のままにしなきゃいけない段階に入ってきてるんだろうと思う。

これも、随分、昔だけど、

俗にいう、チャクラがひらいたというか・・

覚醒というか、そういう状態になったことがあった。

その時は、師が居て

これをふせいだ。

遠く離れたところにいたんだけど、

突然、覚醒・・ふきあがってくる感覚がとまった。

あとで、師が

「穴がひろがったんで、ちょいと石をのせておいた」

のせなかったら、憂生は発動していただろうと思う。

だが、その時点で発動したら?

思いひとつ、まともにセーブできない人間が

自分の業や因縁にまきこまれたら、どうなっていただろう?

ぶっつり、きれていた生命線の通りになっていたか、

あるいは・・・・。

その生命線は今は線ができ、つながった。

そういう風に憂生は「恩」をいっぱいうけて、

いきながらえてきてる。

自分にできることがあるとしたら、

「思い」を良い風にきりかえていくこと、

自分の思いをみつめなおしていくこと

それがいかにだいじかということを

つたえさせてもらうことかもしれない。

そうおもうから、

語るなといわれる

神秘をあえて、話している。

今の世の中、目に見せていかないと信じない人がおおすぎて、

逆に、そういう不思議な力を使える人のいうことじゃないと

耳をかさないってことがおおいきがするけど、

憂生は自分の思いを自分で自覚できれば、

不思議な力にたよらずとも

解決できると思う。

どんなことでも思いが元だから。

それをいえるような自分になるためにも、

色んな不思議な事が自分をよりまわしたとおもっている。

師との出会いもそうだと思っている。

不思議な縁でであい、今は、親交はなくなっているが、

師におしえられたことは、憂生の血肉になっている。


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