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読書について/ショウペンハウエルから・・2

先のページでは、あくまでも「読み手」という位置からの「受けとめ」
ここでは、書く側か姿勢を
ショーペンハウエルの哲学を濾紙にして考察してみたい。


「精神が代用品に慣れ、肝心の問題を忘れることがないように」

この言葉の奥行きはかなり深い。

上の言葉は命題として、置いておく事にして、

実際問題、書き手が小説を書いていく中で
いろいろなパターンのものがあると思うが
このショーペンハウエルが「読む」ものは、
何らかの示唆を含む、問題提起を含むものである。と、この言葉の後ろで、
既に定義されている。
憂生 自身の読み手としての嗜好を考えたときにも、
ショーペンハウエルのこの定義に似たものが在る。
だから、一過性の感覚小説や娯楽小説については、
いくら、文章技術が巧緻であっても、「それだけのもの」と、考える。
当然、こういう嗜好がある以上、自分が作品を書くとき
読み手を「自分」に設定するわけだから、
「示唆」を含む・・・考えさせられる部分を織り込んでいく。

もちろん、片一方では
「それだけのもの」も書く。
だから、
「だから、一過性の感覚小説や娯楽小説については、
いくら、文章技術が巧緻であっても、「それだけのもの」と、考える」
は、そういう系統の作品をかいている作家に対しての批判でなく
作品自体への「憂生 の価値観」という事になる。

さらに、ショーペンハウエルは言う。

★本を読むというのは、私たちの変わりに他の誰かが考えてくれるということだ。

先に書いたとおり、彼は「示唆」を含むものをもとめている。
この「考えてくれる人」が、作家であり、
その作品からショーペンハウエルは
どういう風に考えているか
どういう事を考えるべきか
を、受け取ろうとしている。

この意味合いでも、憂生 は同じことを思う。
「だから、一過性の感覚小説や娯楽小説については、
いくら、文章技術が巧緻であっても、「それだけのもの」と、考える」

そして、「それだけじゃないもの」を書きたいと考えてきた憂生 にとって、
ショーペンハウエルの言葉がさらに重い。

★自分自身で到達した真理や洞察には、百倍の価値がある。
その真理は、それを求める気持ちが高じてきた正しいタイミングにあらわれ、
心に留まり、決して消え去ることはない。

小説を読むに限った事ではないが
「真理を追求」しているときに
「本当に必要な作品」に必ずめぐり合える。
これを逆に書き手視覚でいえば、
「本当に必要な作品」は、けして、消え去る事は無く、
絶妙なタイミングでそれを必要とする人によって、読まれる。

だからこそ、なおさら思う。
「だから、一過性の感覚小説や娯楽小説については、
いくら、文章技術が巧緻であっても、「それだけのもの」と、考える」

エッセイのどこかに
「問題は本当に必要かどうか、これを詮議、選択しないとどこかで歪む」
と、いうようなことを書いたと思う。

勿論歪むのは「精神」だ。

そこで、最初の命題に戻る。

「精神が代用品に慣れ、肝心の問題を忘れることがないように」

ショーペンハウエルはこの言葉を簡単に言う。

★読んだ本から得たものを、自分の糧にして、そこから自分というものを考え見出していくことです。

だが、この言葉では、あまりにも具体性がない。

「精神が代用品に慣れるとは、たとえばどういうことか?」

「肝心の問題を忘れる」とはどういうことか?」

「読んだ本から得たものを、自分の糧にするとは?」

「そこから自分というものを考え見出していくとは?」

これらのことを具体的に解説できる憂生 の作品への感想と
返信があるので、次のページで取り上げてみたい。
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