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御託

ちらりとしか、見ていない。

妙な言葉があった。

新型欝病だったかな。

どうも、詳しいことをみていないのに、しのごの、言うのも妙であるが、

詳しいことを知らないからこそ、当て推量で物をいえるという。

まず、最初に思ったのは、ネットなどなどが、原因になってるんじゃないか?

と、いうことだ。

もっと、極端な例は、依存症とよばれるものだが、ここまで、いかないにしても、

ネットの中で、感覚が麻痺してしまっているというのを、よく見かける。

実際、憂生も感覚麻痺の人間のあほログ検索によって、プチ欝に近い状況であったとも思う。

あまりにも、画面の後ろ側に居る人間を意識しない行動が多すぎる。

これにやられてしまうのではないのか?と。

人を鴨のように、あるいは、自分の楽しみ・儲け?の道具のように扱う。

まずは、ここでも多くあるが、出会い系なにがしによびこもうとする訪問。

お前ら、人をなんだと思ってやがる?

まあ、このくらいは、良いほうだろう。

端的な例は、この間知人から聞いたことだな。

ブログにかくことが、受けて、訪問者がいっぱい、くる。

気がついたらアクセスランキング1位なんてことになる。

すると、楽しみでかいていたことが、

アクセスランキングを維持するために、なにか、おもしろいことをかかなきゃいけないという

麻痺状態に入っていく。

ランキングにはいったという高揚感とか、満足感とか、支持感とかで、

麻痺状態になっていることにきがつかずにいた。

ところが、目新しさというものが、なくなってくるせいもあるだろう。

訪問者から、苦情がきはじめたという。

「もっと、おもしろいことをかけ」

そこで、はたりときがついたという。

自分をみてもらってるわけではない。

おもしろいことを提供する「道具・装置」のように扱われている。

人間扱いでなく、道具扱いになってる。

ネットをやっていると、自分をなくしてしまうと聞くが、大丈夫なのか?

と、昔、知人に尋ねられた事があったが、

まさにこの縮図がおきていたわけだ。

物扱いというか、人間扱いされない状況に麻痺してしまうその状態を作り出したのは

他ならぬ自分なのであるから、

お前人をなんだと思ってやがる。

と、いう「お前」らなど、まだ、良いほうだというわけだ。

こういう風な即物的扱いをやられてしまううちに、

ネット不信、ひいては、自分不信に陥ってくる。

受けない記事を書いてる?人は、まだ、読まれたいという感情に差配されているから、

自分で、自分を「物」扱いにしていることにきがついていないところがあるだろうが、

ネットの中で「受ける」ということを目論みだすと、

価値が逆転してしまうというか、価値の判断基準がおかしくなってくる。

「受けない」のは、良くない・・面白くない。

「受けない」のは、自分がつまらない記事をかいているせいじゃないだろうか?

ひいては、自分が「つまらない・魅力の無い人間なのだ」などという具合になりがちだし、

目立たないのが原因だとか?

あちこち訪問しにいってみたり、セオ対策に奔走したり・・。

*憂生は最近は、ショーペンハウエルの言葉に納得しだしている。

「必要な読み物は、必要とする人の前に絶妙なタイミングで現れる」

つまり、憂生の記事を必要とする?人が、読んでくれればいいわけで、

ひまつぶしや、好奇心で、よんでみてもしかたがないと思っている。

憂生の書いていることを、共にじっくり、考えてみようと思ってくれる人にとってこそ、

「必要」なわけで、憂生も又、「必要」とされたいとは思っている。

だが、先の話に戻るが、因縁?が違えば、あるいは、そんなことなど、とっくにクリアしていたりとかの人間は憂生に関わることが無いだろうと思う。

純粋に必要な人間にだけ、その必要性が存在する。

と、なると、そんなには、憂生の御託がよまれることがあってはならないわけだ。

私。新型欝病ですから・・って,人間がいっぱい、いちゃいけないってことだ。

*つまり、こういう風に考えると、憂生は読まれないほうがよいわけだし、

読まれたいと考える人は、極端に言えば、読まれないほうが良いような、内容のものを書いていない。と、いう事になるかもしれない。

その場限りの娯楽を提供して、面白いものを書けといわれるのは、これまた、自分がやっていたことである。

自分が生き様とむかいあう物事を提示しないでおいて、小手先の娯楽で自分にふりむかせようとしたことは、あるいはすでに、人を人として扱っていない姿であったかもしれない。

つまり、ネットの中で、自身が、人を人として、また、自分を人して扱わないという「麻痺世界」に入り込んでいることになっているという自覚がすくなかったということであり、

気がついたときには相身互いに、人間損失の扱いをしあって、あげく、、新型欝病に罹患しているということになっているのだろう。

*思うに、憂生は先にも書いたが、物を書くということは、自分をしるためだと。

相手をするのは自分。

自分の中から、なにかを引き出し、ラーニング(検討)して、ミーイング(意義付け・自覚・意識化)していく。

このために、物を書いていく。

だから、その内容はかくのごとく、御託だったり、多少・・えろっぽい話だったり・歴史の話しだったり、物語だったり、さまざまになる。

相手するのは、「自分」という「人間」を相手にする。

自分を量るに、人様を尺度にしていちゃ話にならんと思う。

自分にとって、どうであるか。

そこをしっかり、ゆわえつけておけば、新型欝病にはなるまいて・・。

え?

なに?

若い人に流行してる?

あはは・・・。

若いというのが、いくつまでか、定かでないが、

ひょっとすると、ゆわえつけなくても、罹患する心配がないかもしれない・・。

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