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「天」を考える・・1~6


「天」を考える・・1

歴史を齧ってみるのほうでも、とりあげた観念なんだけど、

「天という概念を認識しないと歴史はわかりにくい」

と、いうかんがえなんだけど・・・。

もちろん、これは、日本史であり、どちらかというと、

古代史のほうの考え方。

物語のほうで、聖徳太子の物語をかこうとして、

あまりにも、テーマがおおきすぎて、

ちょっと、保留中(かなり、長いこと保留中である)

で、歴史を齧ってみるの中でも、

スサノオが一番最初に天を意識した人間ではなかろうか?

って、観点で物をかいているんだけど、

物語は

『天という概念』を意識したればこそ、「和」の精神をもったのが、

スサノオであり、

大国主命であり

聖徳太子が「和を以って尊し」と考えたのもそこからで、

この考えがあったからこそ、

仏教を推したのではないかという、

通常の逆をいく考えで、

日本には古来から「和」の考えがあり、

この和の考えをもたらせたのが、

スサノオであり、

いわゆる、神話の高天原追放により

スサノオが「天」を意識するしかなくなった。

と、いうような設定が下にあり、

何故に、天をいしきしていったかという考えを自分の中で

構築したうえで、

聖徳太子が「和」を考えるに至った思いをさぐってみようという。

こういう事をおもうようになったのは、

一つには

今につながる、「天」への概念。

日本人の中に

いわゆる宗教のように経典や文字にするわけでないので、

「概念」としての存在というのは、非常に判りにくい。

それでも、今に伝わる

「天は我らをみはなしたか」(八甲田山死の彷徨)

とか、

「人事を尽くして天命を待つ」

とか

「至誠通天」

とか

「天網、かいかい(変換せん)疎にしてもらさず」

そして、これらをしっかり認識させたのが、

南州公の

「敬天愛仁」だったわけで、

これも、ひとつに

憂生が明治維新の頃が好きで

その頃の志士の「志・思い」に非常に興味があったせいもある。

そこで、後にであった「敬天愛仁」という言葉が憂生の中で

深くマークされたと思う。

南州公の考えや感情や行動を

分析したともいえる司馬遼太郎の作品をよんでみても、

南州公の意識の中に「天」があるのがみえていたわけであるが

さらに追い討ちをかけたのが

やはり司馬遼太郎の随筆の中にあった

「のさり」という言葉だった。

さて、「のさり」という言葉ですが、

簡単にいうと

「天の思惑」という言葉が当てはまると思います。

この観念は

ひとつに、日本人のもつ、自然崇拝。

八百万の神の存在ということに通じてきます。

鬼のところでも、かきましたが、

日本の神への観念は自然崇拝(水の中に神が居る・・的アニミズムともいえるとおもいます)ですので、

自然自体が、正邪の両面をもっていて、(水にたとえれば洪水になったり、生活水になったり)

これに対して、日本人は「神」に二面性があると了解したわけです。

そして、この二面性を了承したことにより、

「自分の心次第」だという観念を形成します。

洪水がおきれば、心の持ちようが悪かった。

と、いうふうにかんがえ、

「天の思惑」を感じ取れるように考えてきたわけです。

この観念が「のさり」ということになると思います。

原爆をのさりと考えた日本人でもあるわけですが、

この日本古来から伝わってきている観念が

丁度、キリスト教の「神の試練」とか「神の意志」とかいう

ロゴスにおきかえられ、系統づけられてきたことで、

「のさり」という思考観念が

キリスト教に取って代わられてうけとめられるのですが、

これも、前述した

和の精神が仏教からという考えになった経緯によくにています。

ロゴスあるいは、文字として、意識する文化というのが、

いまいち、日本には育たず、

落語なども、口伝で伝えておしえていく。

技術者も一子相伝みたいにして、

口でなく、体得や口伝でおしえていったという

「心と体」にしみこませるというのが

日本人の得意技になっていると思います。

このため、多くに公開する布教活動や文字により、

「意識化」出来た部分に注目し、

「意識化」させたものを尊敬するという、刷り込み現象がおき、

元々、日本人が「観念」として、もっていたから、

それらをすんなり受け入れたということに気がつかずにいるから、

逆に物まね猿、イエローモンキーという称号をおくられたことになったわけです。

そこで、原初的に存在している「天への概念」をもうすこし、

つきつめて、かんがえてみたくなったわけです。

この話をはじめから、スピリチュアルに分類してかいているのですが

あることを語ろうと思うときに

やはり、憂生の不思議部分から、得たことが必須になってくるので、

そういう分類にいれたわけです。

まず、そのことを語ろうとする時に

以前、友人の亡くなった父親を神頼み根性で

天からひきずりおとし、

その父親が憂生の胸の中にはいっている。

と、師から知らされ

「この国大事。日本を思え」

と、いう思いが何度も憂生に伝えられた理由がわかった。

という事を書いたと思うのです。

死んでもそういう風に国を思うわけですから、

憂生の好きな明治維新の志士たちも

天にのぼり、国をおもっているのだろうか?

と、かんがえていました。

そして、友人の父親は元通り天にかえったのですが、

ある日

「おんしゃあ、~~~~しちゅ~きに」

と、いう思いがはいってきたわけです。

土佐弁、高知弁ですよね。

こういう言葉を使う知り合いは憂生にはいません。

思い当たる唯一の人物は坂本竜馬です。

でも、まさか、坂本竜馬、本人とは思いません。

邪霊でも、「神」の名を語るということはあるわけです。

もちろん、

「~~じゃきに~~」と思わせてくるものは

自分で名前をなのりませんし、

憂生もききません。

きいても、本当かどうか、さにわできない人間がきいても

むだでしょう。

だから、ぼんやりと、

「坂本竜馬だったのかなあ?」

と、かんがえていたのです。

それから、2,3日たった日のことです。

2,3日後、師の元へ赴いた時です。

こちらが、考えていたこと、思っていたことなど、

見透かしてしまう方ですので、

「役にたつ」ということは、どういうことかという話をされたときに、

憂生が具体的に考えていたことを口にだされました。

マッチはエコなどの考え方から、プラスチックをださないから

こっちのほうが本当の意味で役にたつなあ。

なんてことを数日前におもっていたわけですが、

このあたりも、ファンヒーターも電気がなければ役にたたない。

という観点で、それ自体で燃焼するものが役にたつという考え方をしていたわけです。

そこをいう。

「憂生が考える、マッチとか、ライターとかこういう役にたつということじゃない」

こういう師の見通すというところは、わかっていたことなので、

これは、驚くことではないのですが、

次に言われたことに、びっくりしたわけです。

「坂本竜馬は「役」にたったんだ」

と、いわれ、あ?じゃあ、やっぱり、天に居るんだ?

みたいに思ったわけです。

ところが、

「坂本竜馬は「天の役」にたった。天に使われた人だ」

と、いうわけです。

ここで、おかしいなあ。と、思ったわけです。

天から使命(天命)を受けた人じゃなくて、

天の道具にされたということです。

これ、どういうことでしょうか?

「天の役にたった人間でも、あの殺され方だ」

ますます、判らなくなり、

憂生はこの問題を最近まで保留にしていたわけです。

このことを考えるときに、今の時代ですから、

憂生が思った通りをいうと、

よくないのではないかという思いがしていますし、

何度も、「止め」がはいっています。

実際、読んではいませんが、

有名の宗教家が竜馬降臨という本をだしています。

この降臨という言葉を使う以上

その人にとって、「神」的存在として認識されているということでしょう。

降霊でもなく、交霊でもないわけです。

と、いうことは、彼の信者からみれば、

これから、憂生が語ろうとすることは

竜馬を「神」とうけとめてしまう宗教家ということにつながり、

これは、憂生の日記の中でかいた

ある女性のなくなった彼氏の存在をみた

霊能力者(じゃ、ないのですが)は、

@男の人がいるよ。霊がいるよ。

とみえ、

神道家には

@餓鬼がいる

とみえた。

と、言う逆転視覚がしょうじるわけです。

同じものをみて、

片一方は「神」だと思い

同じものをみて

片一方は「天の道具」だというわけです。

これが、両方とも真実であれば

「神」=「天の道具」です。

すると、ここで、極端ないいかたですが、

大きな精神改革をするか、

宗教戦争?になるか、と、いうことになってしまいます。

そして、実にいやな言い方ですが

天の道具である神ならば、

道具としてつかえる「天」のほうが、

位がうえです。

つまるところ、宗教家のとらえるレベルが

道具であるものを「神」ととらえてるということになるわけです。

これをはっきりいったら、まずいでしょ/笑

ですので、憂生が問題にしていることは

もちろん、こんなことでなく

「自分」がなにをみさだめたいかを書く。

だけなのですが、

この話に行く前に

上に書いたことを深読みして

侮辱されたの

おまえこそ、低レベルだの?

まあ、こういう話にうけとめられたら、

これ以上はかけなくなるわけです。

これを読んだひとが気分をがいするために

かいているのではなく、

これから、書こうとすることを

必要な人が読んで欲しい。

と、おもっているわけです。

ですから、

憂生は必要な人が読みにきてくれるだろうという考えのところで、

あえて、ベタはつけません。

自分から呼び込んで「読め」「よんでくれ」はしないわけです。

ショーペンハウエルじゃないけど、

必要な本は絶妙なタイミングで必要な人の前にあらわれる。

って、考え方に近いです。

きっと、必要な人の前にあらわれてくれるだろうと憂生はおもっています。

ですから、例えばそれが、1人であっても0人であってもいいわけです。

本当に必要であれば、それでいい。

ですから、相手の人にとって、必要か必要でないかが、見通せるわけもない憂生であり、ましてや、誤解してしまう人だってきてしまうだろうと考える憂生にとっては、

「きてください」「よんでください」とは、いえないわけです。

自分にとっては、「良い考え方」であっても読む人にとって、気分を害するものであるなら、その人にとっては、不必要なものです。

そして、憂生はこの「気分を害した」というのが、身体にびんびん響く人間なのです。

人の怒りとか、くそ~~とかいう思いをうけてしまうのです。

それをわかっていて、あえて、書くときもあるわけで、

ある意味、必死なわけです。

嫌な思いをかけられから、やめておこうという

そういう自分かわいいの思いだったら、書けない。書かない。

このところをご理解のうえ

枝葉部分だけで、判断せずに読んで欲しいと思うわけです。

もちろん、基本は自分を見つめなおすためです。

そこのところで、自分をさらけだして、

「考え」をペトリサラに載せる作業をやっています。

ながくなったので、スレッドを変えます。

「天」を考える・・5を書いて、最後の方で

「わかった」という言葉がはいってきました。

そして、「もう、思いを変えるな」とつづきました。

これは、おそらくですが、

「とめる」ものの思いをかえてまで、物をやるなということだとおもいます。

その途端、「死ね」って思いがとびこんでくる。

それをはたきおとすかんじがします。

これは、「とめたもの」が「許した以上」憂生をまもりにはいっていることを

明かしたと思います。

そして、このことを書き始めると

左の背中の肩甲骨になにかがのります。

その「なにか」の持ち主?に読ませたいことがあるんだと

憂生は受け止めています。

前置きが長くなりました。

竜馬は天の道具である。

天の役に立ったのになんで、そんなむごい殺され方をしたか。

ある志士は天にいます。

その考え方こそが天の思惑に叶ったものだからでしょう。

竜馬が、天にいるか、どうか、わかりません。

判るのは竜馬が天の役にたったということと、道具だったということです。

で、あるのに、なぜ、ころされてしまったのでしょう?

役目がおわったからだけでは無いと思うのです。

役目が終わった先の志士は天に掬い上げられ天に居ます。

この人のことを「道具」とはいいません。

そこで、司馬遼太郎の分析を考え直します。

竜馬が生きていたら貿易会社をつくっただろう。

こういう言葉があります。

これをもっと、深読みします。

竜馬は貿易会社のために、日本をよくしたかった。

薩長であらそわせたり、公武でもめたりしていたら、

世界と対等に貿易を扱える国になるどころか、

植民地にされかねない。

竜馬の考えの中に、単純に仲良くすりゃあいいじゃないか。

と、言うものがあったと思います。

そして、そういう信念があるからこそ、ものをいえるし

その言葉が通じ、動いていく(本物)を持っていたと思います。

天は日本の国を思う。

これは先にかいたことでも判るように

友人の父が国を思うひとだったから、

天にいたわけです。

そういう人を居させる天自らが

その思いを「良し」としているわけです。

つまり、天こそが日本の国を思っている。

その国を一つにまとめる人材が坂本竜馬だったわけです。

ところが、先に書いたように、あるいは憂生が何度も書いてる言い方で言えば

竜馬は世界貿易をという「ご利益」をもとめて、

国をひとつにまとめたかった。

ここが、道具にされた理由です。

天の思惑「国が大事」という思いからはずれ、

自分のために国をまとめたかった。

天はこういう考えのものを掬い取らない。

竜馬のもつ才能を「日本の先」のために使うことはします。

おそらく、加勢したでしょう。

だから、無血開城なんてことにもむすびついていく。

でも、天というのは、厳しいものです。

そこらの神さまみたいに

「ご利益」めあてでも願いをかなえてやるなんてことはしません。

天が必要なのは「誠」

この天に集まった「誠」の思いが

日本を導いていく元の思いです。

だから、竜馬の「思い」をみさだめている天は

道具としかつかえない。

そのまま、無事安泰にいかしておいたら、

竜馬は

「貿易のため」に「国を貶め」

そんな人間として

あるいは、地獄におちたかもしれません。

そう考えると

「世界貿易」に成功させてやることよりも

これ以上

「国をおとしめる思いをまかりとおらせない」

ことで、

かつ、天の役にたった。

までで、人間としての命をとじさせることこそが、

天の「愛」だったと思うわけです。

憂生はこれを書いている時に思っていたことは

「神」をつかって、「人助け」をして「金儲け」をしている人間が

気になってしかたがありませんでした。

あるいは、「人助け」をしていると考えている人がきになりました。

それが、実はこの竜馬のように

天の道具ならまだしも

「神につかいまわされ」

神の道具にされているのなら、

考え物だと思うわけです。

神も天がつくったもの。

天こそ創造の基。

この言葉がしんじられるなら、

憂生がいう

神よりも尊いものが自分の魂であり

竜馬のたとえでいえば

神に魂をうるようなまねをしていたら、

魂の思惑とはずれるということ。

魂は親のようなものといいましたが、

魂こそ自分の中の天なのです。

だから、死んだら魂は天に帰る。

と、いいます。

ですが、人間の身欲で

帰れない魂をつくってしまう。

神様も一つの魂ですから・・。

人間の魂が帰れる場所でもないのは、自明のことです。

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