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イデア

プラトンの哲学

まず、ギリシャ語の語彙体系について若干説明しておくと、ギリシャ語では、見るideo系統の用語としては、ideinとeidoがあった。 「イデア」という言葉は「見る」という意味の動詞「idein」に由来していて、もともとは「見られるもの」のこと、つまりものの「姿」や「形」を意味している。 eidoの過去形eidonに由来する「eidosエイドス」という言葉のほうは「形」とか「図形」という意味でごく普通に用いられる言葉であった

プラトンにおいては、エイドスとイデアは使い分けられており、イデアに特殊な意味が与えられた

プラトンは、ideaという言葉で、形は形でも、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。

プラトンにおけるイデアの理解は一定しているわけではなく、書かれた時期によって変遷が見られるという。一般にプラトンのイデア論というと中期のそれを指していることが多い。

プラトン中期

「徳とは何か?」という問いがある。これについて「不知なる対象の探求は不可能だ」と説く立場(探求のパラドックス説)もあるが、これに対してプラトンは「学習は想起(アナムネーシス)である」との想起説によって、このパラドックス説を斥ける。想起説は、 は不死だとする説と、輪廻転生 の説と連関がある。

プラトンは次のように説明する。

我々の魂は、かつて天井の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる[6]

つまり、真の認識とは「想起」(アナムネーシス)にほかならない、と言うのである[7]

想起説が導入されることでプラトンの哲学は、劇的な展開をとげ、強固な二元論の立場となった。そしてphilosophia(=愛知)とは「死の練習」なのであり、真のphilosopher(愛知者)は、できるかぎりその魂を身体から分離開放し、魂が純粋に魂自体においてあるように努力する者だとした。この愛知者の魂の知の対象が「イデア」である。

イデアは、それぞれの存在が「何であるか」ということに比較して、「まさにそれであるところのそのもの」を意味する

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