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反省 1・2・3・4・5

反省中

まあ、最近非常に冷たくなった自分だなあと思う。

例えば、自殺したい的考えをいう人間がいたら、

死にたきゃ死ねばいいじゃないかって、ね。

実際、憂生も死んだら楽になるかなって、

「今の自分の思い」からきりはなれることができるかな?

って、おもったことは、いくどもあるわけで、

でも、結局のところ、

「その逃げた思い」をもつたびに、

いわゆる、自分のものだろうと、おもう「本心」をつきつけられた。

一度は若い女性の叫び声で、リストカット寸前をとめられた。

一度は何度か書くけど、「天気が変わった」(この時会話していたのは男の感じだった)

で、じゃあ、生きていますってなったところで、

結局、「死にたくなる気持ち」がなくなるわけでなく、

実際のところ、ただ、生きてるだけみたいな状態だったと思う。

結局、「死にたくなる気持ち」をねじふせて、

「生きていて良かった」にもっていくのは、自分でしかない。

だから、嫌な言い方だけど、どうしてもねじふせられなきゃ

死ねばいい。

「生きていて良かった」をつかみとれると信じれないほど

心がくだけてるなら、この先、どうせ、「生きる屍」でしかない。

それくらいなら、「自分」であることをやめて、

なにかにうまれかわって、「自分」でなくなりゃいい。

苦しいのも悲しいのも自分。

その苦しいに打ち勝って「自分」であってよかった。と思えるのも自分。

死んだら、「自分」がいなくなる。

青い空をみて、きれいだなあって思う自分がいなくなる。

いつか、すべてを愛せる自分がいなくなる。

憂生は自分が好きだから、

天気までかえて、「生きていく価値があるはずだ」と

自分にみせた。

その「価値」さえみいだせないのなら、

生きていても、死んでいても同じ。

憂生が憂生でありつづけることが大事なんだと思う。

そして、やっぱり思うのは、今、なぜかしらないけど、

こういうマイナスエネルギーが充満してる。

よほど、きをつけていないと

このエネルギーに取り付かれる。

「死なすのは」その思いだけでいい。

本当の自分は精一杯生きていたい。

ただ、自分のおもいどおりに物事が運ばなくて

そのことに、心がマイナスイオンを発生しているんだ。

そこに膨大なマイナスエネルギーが寄って来る。

心の摩擦で雷がおこり、稲妻がはしる。

こういう状態になっている。

自分でつくりだした稲妻にうたれて死ぬなんて

いっちゃんあほらしい。

それで、いいなら、死にたければ死ねばいい。

本当にそれで、「自分の人生をいきぬいた」って、思えるなら

それもいいじゃないか。

だけど、ゴールは「いきぬいたものにこそある」

反省2

実際自分に変な能力があって、

ときおり、自分でえらくなっちまうところがあるんだけど、

根本的には

「なんとかしてあげれないものだろうか?」

って、人に対して思う。

で、このパターンにはふたつあって、

自分の見方が「相手が不幸」だという見方をしているだけでしかない場合もある。

ひとつは、純粋に「なんとかしてあげられんものだろうか」

と、思う。

今の世の中、

憑き物(思い込み・確執)を多く抱える人が居る。

憂生もその独りであろうとは思う。

だが、実際問題、「妙なもの」にとりつかれている人が多い。

今、憂生が一番気になっているのは、

その妙なものの余波をうけている人。

問題は「妙なもの」にとりつかれるもともとの心。

ここに気がつかず、次から次から

「妙なものが肥大していく」

実際、憎しみという心がまきおこすエネルギーがすさまじいのを

憂生はまのあたりにしている。

目の前で呪った人間が次々と事故をおこす。

それは、呪うといういいかたはおかしいのだけど、

例えば自分の肉親を殺され、犯人がわからない。

そのときに、「犯人もばちがあたれ、さばかれろ」

って、呪いを持ったんだと思う。

その途端、次々と事故が起きる。

それが、犯人だったかどうだかわからない。

たとえば、同じような「人を殺してやりたい」と悪意でも持った人間に

エネルギーがうつってしまったのかもしれない。

真偽のところは定かじゃないけど、

でも、例えば「肉親が殺される」って、事件がおきたとき、

憂生が「殺されないようにしてやれる」ことができていたかって、

考える。

こう考えたら、自分さえも「呪い」の対象にはいってきてしまう。

その人に関る人間すべてが「引き金」をひいたか、

火薬をつめたか、なにかしら加担しているって考えられる。

それらすべてを呪うことになるんだ。

こうきがついて、憂生はとにかく、呪う気持ちをおさえた。

怒りをおさえた。うらむまい。にくむまいと自分にいいきかせた。

問題は犯人じゃない。

その事件がおきるようなことになった「環境や思い方」を

改善してこなかったせいなんだ。

憂生が「なんとかしてあげたい」って、思うことは

たとえていえば、

こういう事件がおきてしまった「環境や思い方」が、

どうであったかを、本人につきつけることにつながる。

惨いことだと思う。

でも、これをしないと、本人は

自分に落ち度が無いと思って、

ほかのものにすがる。

あるいは相手を恨む。

自分を呪う。

この心に「魔」がはいる。

人間というのは、弱い。

あっというまに、自分の心をひっかけられ、

「魔」が「魔」をよぶ。

どうしていけばいいか、

まず、自分の心に「魔」があることを認めていくしかない。

そういう意味合いで、憂生は

「良いこと」をかいている人についても、

自分についても

嘘だなと思うようになってきた。

「魔」の心のあることを、

認める事がまず一歩だと思う。

だから、うまく、「魔の心」をまぎらわして、

「良さそう」な考え方に洗脳されるのは、

実は怪しいことだと思う。

本当の自分のくだらなく、つまらん、鬼のような心をみとめてしまう。

認めた時が自分が変わるときだと思う。

あるいは、変わったから「認められる」

今、多く憂生の過去がそうであったように、

「心」を励ますことを多くする人が居る。

確かにそれで、慰められる。

慰められるけど、

それは、逆を言えば「自分の心が癒えていない」からこそ

慰められる。

もっと言ってしまえば、

自分の魔の心を認めない状況になっている。

それはそれでいいのかもしれない。

だけど、その「心だけ慰められていた」状況は

結局はいつまでも魔の心を体内にすまわせているだけでしかない。

いかに自分がだめだったかをきがつくことで

本当に「魔の心」を追い出していける。

心の気分がえだけでは、

もっと、大きな魔がやってきた時には

対処できなくなる。

これが、ひとつに、精神破壊に繋がる。

どこまでも、精神的な物言いだと思うけど、

憂生は自分の経験をして、思う。

本当に必要なのは

「いかに自分がだめだ」ってことを知るってことだろう。

これを認めたがらない弱い心が

心のバランスをくずさせ、うつ病などになっていく。

その弱い心をどうにか、強くしていくことが、

自分がいかにできていないか、

思いがどういうものであるかをしっていくことだろう。

だから、憂生はなにかというと、

心をおさえこんで、自分にりくつづけて

かんがえてしまう癖を直さなきゃいけないと思っている。

反省3

憂生が霊能力者を嫌った大きい原因は

彼ら、彼女らが、自分がその次元の程度にしかいない。

って、事だと思う。

自分の次元がよければ、変な幽霊や

神様のふりをした低級霊やそんなものがよってこないんじゃないかと

思っていたから・・。

ところが、実際、多く、変なものがみえたり

自分でなく、神様?らしきものに助けられたりしてる。

本当の自分というのが、どこにあるんだろう?

結局、じつは、次元の低いものにとりつかれている

霊能力者・・はまさしく、自分の能力0能力者じゃないかと

思い始めている。

そこまで、考えてみると、別段、霊能力者じゃなくても

自分の能力でものをやっていない人間はいっぱいいるわけで

憂生もまさにそう考えれば、零能力者であるわけで/笑泣

最近、とみに、スピリチュアルな能力を開花させる人が多く居て

やれ、オーラがみえるの(憂生もみえるようなきがしますが

自分からみるのはやめました。自分から見たとき、いや、自分がみようと

思う相手って、半分好奇心なんですよね。だから・・。)

神様と通信ができるの、見えたの

神通力がつかえるの、

なにかにたよらなきゃできないものなんだろうか?

って、非常に疑問をかんじてしまったのが、憂生なわけです。

つまるところ、

何度もたとえるけど、顕示があったから、どうだってわけで、

実際、あっというまに天気がかわるちゅうおとろしいことがあったわけだけど、

実際、それがなかったら死んでいたか?っていったら、死ぬわけが無いわけで、

ただ、単純に、まだ、生きていなきゃいけない人間なんだってことが

あかされただけで/笑

だから、それがあったから、どうなんだ?って

おもうわけで・・。

実際、。それがあったからって、じゃあ、自分がなにをすべきか、

わかるわけでもなし、あたら、自分はなにか「する」人間なんだと

根拠もなく、増長するばかりで/まったくのあほ。

で、結局、じゃあ、自分でなにかしていたか?

なんとなくわかるという能力にふりまわされていただけで、

うっかりすると、霊がみえるの、神様とコンタクトするのという

人間をみてると、「すごいな~~」って、思う自分がいるわけで・・。

よくよく考えりゃその人がすごいわけじゃないんだよな。って、ことにきがつかなくて、

現象だけうらやましがる。

まあ、そんなこんなで、

憂生はそういう能力と決別する時期がきたかなって思う。

ある人のブログにいって、

動物霊は人について、おがませようとする。

そういう言葉があって、まさしくね、

そういう状態もあったなって思う。

なかなか、拝まないというか

天気かえられようが、

あぶない、あぶない、って、拝もうとしない人間だから、

あのてこのてで、おがませようとする。

とうとう、意識の中にはいってきて、

じかに、手をあわせたくなる気分になる。

妙だなあって、思いながら

一応「乗ってみる」

すきっとなにかおちた気がしたものの、

またたくまに戻る。

ああ、こういうことだなあって、

なにかしら、自分に気がつく。

結局、「なにか」にひかっかってしまう自分がいる。

おもいのなかに、やっぱりそういう力をあてこむ自分がいるんだ。

弱いなあ・・・って。

反省4

願うってことを、考えていた。

願えば叶う。

って、単純に考えた上でのことだけど・・・。

なにを「願う」のかな?

って・・・。

「幸せになりたい」

って?

それ、今自分が不幸だってことになる。

今、充分幸せなのに、気がついていない。

感謝していない。

否定している。

好きなことして、好きなようにいきて、

なんとか、食っていけてるし、これで、どこが不幸じゃ?

幸せなもんだ。ウン。

え~~と、願いは?

「6億円ほど、あたらんかね?」

やっぱ、否定しちゃうんだよね。

そんな金もったら、人生狂うぞ。

金をかせぐことの、ありがたみがなくなるぞ。

これを、人生狂うことなき精神力だったらいいのか?

はたまた、ないものねだりというか、

充分、くっていけるのに、感謝がたりないつ~~ううらがえしだと考えると、

「あたるわけない」って、おもってしまう。

分をこえてるつ~~~んだよね。

この「否定観」があるときって、

どうがんばっても、願いはかなわないんじゃないんだろうか?

白蛇抄、映画化。

これは正直、ストーリーには自信がある。

ただ、あの複雑な人物を映画にすることは不可能だろうと、

考えてしまう。

そんなんが、結局否定観なんだろうな。

いくつも、いくつも、チャンスをつぶして、きたのも、否定観だ。

出版の話があったときも、

白蛇抄じゃないからとか、

金額が高いからとか、

かもにされてるきがするとか・・。

あしがかりはなんでもよかったはずなのに、

金だって、ローンでもくめばよかったことなのに、

ワンチャンスをのがしてる。

自費出版だってかまわないわけだ。

ところが、結局、本当になっとくできるところまで、

推敲できる自信がない。

幻冬舎がかなりのところまで、推敲してくれるとききつつ、

おまけに、3年たったら、発行権がかえってくる。

だのに、やっぱ、銭勘定する。

150ページ・・150万・・・。

う~~~~~ん。

銭にこだわってるうちは、否定観からはなれられまいなあ・・・。

つまるところ、

願いが叶わないで、仕方が無い理由をつくって、

自分を宥めてるだけだな。

どっちかだよなあ。

金をかけて出版してみる。

あきらめて、おとなしくシュミでおわる。

ネットにあげてりゃ、読んでくれる人もおろう。

問題は読まれることだからね・・。

もうちょっと、宣伝すべきか?

反省5

自分にとって、ろくなことがないのを、

相手のせいにするのは、やめろちゅ~~ねん。

ろくでもないことをしている人間が目に入るのは

自分がろくでもない証拠でしかない。

人間は平等じゃない。

徳のある人間は徳のあるようになる。

徳のない人間は徳をつくっていくしかない。

自分に徳がないだけのことなのに、

相手の様子を批判する。

憂生は批判はかまわないと思っている。

批判をしてみることで、

自分のこだわりがとれるばあいもあるし、

逆に自分が批判してしまう自分側の徳のなさにきがつくことがある。

だけど、

批判していることが正しいことだなんて、

洗脳されてほしくない。

例えば、東***知事のことを、昔****なことをした。

そんな人間が・・・。

ってな、批判だ。

過去の事件を悔い改めているか、いないか、

本人じゃないものがわかるのか?

自分は人をさばけるほど、せいれん潔白なのか?

一度失敗した人間はもうだめなのか?

一度も失敗せず、やってこれた人間がどこにいるんだ?

清廉潔白のはてが、

過去の落ち度をいいたてるだけなら、

それも失敗でしかあるまい?

彼が今、がんばってやっているようなことを

あんたが、できるのか?

あんたが、失敗しても、

やりなおして、がんばってやっていけて、知事になれるだけの人間か?

結局、なにもできない人間がひがんでものをいってるだけにすぎないじゃないか?

どうして、もっと、暖かい目をむけられないのか?

なぜ、そういうすごさにきがつけないのか?

自分が不当にあつかわれたとお役所仕事に文句をいう人間もしってるけど、

それは、自分の徳のなさだろうが。

同じ人間でありながら、懇切丁寧に対応される時もある。

なんで、こういう差ができる?

相手のせいか?

自分がなんかたりんのじゃないんか?

そこを考えなおさず、文句ばっかりたれるな、どあほ!!

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