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諏訪大社

平安時代 - 江戸時代を通じて上社では諏訪氏が、下社では金刺氏大祝を務めた。末社は2万5000社に及び神社本庁別表神社として宗教法人諏訪神社によって運営されている。通称、「諏訪さま」、「諏訪大明神」等とも呼ばれる。延喜式において古代においては神社の中の最高位である名神大社とされていた。1871年(明治4年)に国幣中社、1896年(明治29年)に官幣中社となり、1916年(大正5年)に官幣大社となって、1948年(昭和23年)に諏訪大社の号が用いられるようになった。現在、氏子・崇敬者の総人口は日本国内に10万人~50万人、国外に数百人いるといわれている。

諏訪湖の南側に上社(かみしゃ)本宮・前宮の2宮、北側に下社(しもしゃ)春宮・秋宮の2宮があり、計4つの宮から成る。社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木の柱が立っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。この御柱であるが、それ以前のミシャグチ信仰の石柱との関連性があるという説が有力である。神長官守矢によると御柱はミシャグチを降ろす依り代であるとの事。また富士見町の御射山(みさやま)や松本市三才山(みさやま)などの地名は、このミシャグチ信仰が地名として残ったものとも言われている。

別名を南宮とも言い、諏訪大社、南宮大社敢国神社の3社は何らかの関係がある様で、諏訪大社を本山、南宮大社を中の宮、敢国神社を稚(おさな)き児の宮と呼ぶという。

梁塵秘抄』に「関より東の軍神鹿島香取、諏訪の宮」と謡われている通り、軍神としても崇拝された。また、中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟漁業の守護祈願でも知られる。[1]

祭神 [編集]

本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。

記紀神話が伝えるところでは、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、出雲を支配していた大国主命国譲り、つまり出雲王朝の支配権を譲渡するように迫ったという。これに対して、大国主の長男である建御名方命が、国譲りに反対し、武甕槌命と相撲をしたが負けてしまった。そこで建御名方命は諏訪まで逃れ、その地で王国を築いたという。諏訪大社の起源は、この神話にあるといわれている。

八幡や住吉など他の信仰にも見られるように個々の祭神が意識される事は少なく、纏めて「諏訪大明神」として扱われる事が殆どで他に「お諏訪様」、「諏訪大神」などと呼ばれている。

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賣布神社

千木は水平のように見える。(確認中)

姫神であるので・・・。やはり、千木の水平は女神?

年代が古いらしいので、考慮中。

賣布神社は、遠く神代において摂社の御祭神である櫛八玉神(くしやたまのかみ)が、潮の流れの中にあるとされる速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)を生命の祖神としてお祀りになったことに始まり、後に樹種の神とされる相殿の三神が合わせ祀られたと伝えられている。

賣布神社は、遠く神代において摂社の御祭神である櫛八玉神(くしやたまのかみ)が、潮の流れの中にあるとされる速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)を生命の祖神としてお祀りになったことに始まり、後に樹種の神とされる相殿の三神が合わせ祀られたと伝えられている。 このことは、海の潮の働きと地上の樹木の働きがあいまって海河山野の幸がもたらされ、人々も生かされていることが示されている。 神ながらの道の原点は、大自然の営みに畏敬の念をはらい、自己の生き方を律して、諸々の禍(わざわ)いや過(あやま)ち、そして気枯(けが)れ(穢れ)などあればこれを見直し、人本来の生き方や生命力を蘇らせることにあり、それが「祓え・清め」の真の意義でもある。 そのための活力(気・き)は、「潮の気(水気や塩気)そして樹木の気に宿る神々によってもたらされる」と信仰されてきたのである。


社寺の名称賣布神社(めふじんじゃ)  通称 白潟(しらかた)さん 橋姫(はしひめ)さん
祭神主祭神 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)
水戸(みなと)の神であり、祓(はら)え戸(門)の神
相殿神 五十猛命(いたけるのみこと) 大屋津姫命(おおやつひめのみこと)
柧津姫命(つまづひめのみこと)
日本の国土に樹種を播かれたと伝わる神々
創建・開創

出雲国風土記に記される。
従って神代の昔としかいえぬが、祭神からすれば縄文期であろう。

神魂(かもす)神社

P1040422.JPG【神魂神社案内】
御祭神
伊弉冊(いざなみ)大神
伊弉諾(いざなぎ)大神

 当社は出雲国造の大祖天穂日命(あめのほひのみこと)がこの地に天降られ出雲の守護神として創建、以来天穂日命の子孫が出雲国造として二十五代まで奉仕され、大社移住後も「神火相(ひつぎ)続式」、「古伝新嘗祭(にいなめさい)」奉仕のため参向されている。
 本殿は室町時代初期、正平元年(一三四六年)建立の大社造で、その大きさは三間四方高さ四丈あり出雲大社本殿とは規模を異にするが、床が高く、木太く、とくに宇豆柱が壁から著しく張り出していることは大社造の古式に則っているとされ、最古の大社造として昭和二十七年三月国宝に指定されている。
 本殿内は狩野山楽土佐光起の筆と伝えられる壁画九面に囲まれ、天井は九つの瑞雲が五色に彩られている。

さらにここの祠?にも・・。(杵築社)

(伊勢社)

(蛭子社)

(武勇社)

本殿が水平の千木であってもまつられているのは、男神・女神・・・両方。それも、いざなみ、いざなぎとなれば、由緒正しき天津神・・・。やはり、千木の水平は天・地の別か?と、おもいきゃ・・・。あるいは、あめのほひこは、アマテラスから誓約のときにうまれた(だったよね・・)から、天の日嗣皇子として、天津神の千木なのかともかんがえる・・。祠・社の写真。 杵築も出雲大社あたりで、でていたから、後年の建造物だと、国津神あつかいか?伊勢社は当然、伊勢神宮をあらわすのだろうから、伊勢神宮どおり水平の千木。武勇社も名前からして、国津神のだれかだろう・・。ところが、蛭子が水平?いやいや・・・。 これは、えべっさんでなく、いざなみ、いざなぎの最初の子供・・。蛭子(ひるこ)だな? だとすれば、たとえ、蛭子であっても天津神の子としてあつかわれるということか? それこそ、蛭子は男か女かわかるまい? やはり、水平の千木は天津神か? と、なると、日御碕の千木はどうなるか? もうすこし、詳しく調べてくる。

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賣布神社。。千木。。水平です。

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籠神社

 

神代に彦火火出見命(彦火明命の別名とも)が、籠船に乗って龍宮へいかれたという。これにより籠宮という。養老元年以前は同名が主神とされていた。以後は彦火明命が主神。

神社の由緒・由来

神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を吉佐宮(よさのみや)と申して一緒にお祭り致しました。その後天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました


主神* 彦火明命(ひこほあかりのみこと)
亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。


相殿*

・豊受大神(とようけのおおかみ)

・天照大神(あまてらすおおかみ)

豊受大神は御饌津神とも申され、天照大神は、あまねく萬物を化育される天日の徳のように、天下蒼生を火の徳、高い徳を以ってお恵みに なり、生命を活動させられ、皇室や日本民族の大祖神と仰がれ、御饌津神は天照大神が崇祭された大神である。

・海神(わたつみのかみ)

大元霊神の御徳を分掌せられて、航海の安全、漁業の満足等をお司どりになる。

・天水分神(あめのみくまりのかみ)

大元霊神の御徳を分掌せられて、水の徳を以って諸々の水利、水運、水道等をお司どりになる。奥宮相殿の罔象女命と共に神代以来最古の水神。


高欄上の五色 (青、黄、赤、白、黒)の座玉は、神宮御正殿以外には拝せられないもので、元伊勢宮として、又山陰道第一の大社として、諸社に越える古来の御神徳、御社格を象徴 するものであり、日本神社建築史上特に貴重なものとされている。尚、本殿は弘化二年(一八四五年)の造替で、京都府文化財指定建造物である。

御社殿は伊勢神宮とほぼ同様式の唯一神明造であって、古来、三十年毎に御造替の 制となっている。御本宮の勝男木は十本で、千木は内そぎになっていて、色々の古儀 が昔のままに伝えられている。心御柱があるが、之に就き社記に「御柱一名天御量柱 是則一氣起、天地之形、陰陽之源、万物之体也」と見えている。


昭和六十二年十月三十一日(旧暦九月九日・重陽の節句)に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えた之の二鏡は、元伊勢の祀職たる海部直の神殿の奥深くに無二の神宝として安置されて、當主から次の當主へと八十二代二千年に亘って厳重に伝世され來ったものである。日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、邊津鏡は前漢時代、今から二〇五〇年位前のものである。
 又、
息津鏡は後漢時代で今から一九五〇年位前のものである。
そしてこの神宝はその由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、又當主の代替り毎に 、口伝を以っても厳重に伝世されたものである。
 現存最古の国宝海部氏系図並びに今回発表の二千年前の伝世鏡は、當社の元伊勢たる史実を実証するものであろう。


国宝 海部氏系図

之は昭和五十一年六月に、現存する日本最古の系図として国宝に指定された。同系図は平安時代初期貞観年中に書寫された所謂祝部系図(本系図)と、江戸時代初期に書寫された勘注系図(丹波国造本記)とから成る。本系図は始祖彦火明命から平安時代初期に至る迄縦一本に、世襲した直系の當主名と在位年月だけを簡潔に記した所謂宗主系図であり、稲荷山鉄剣銘とよく似た様式で、竪系図の最も古い形を伝えたものと云われる。各當主名の上に押された二十八箇所にも及ぶ朱印は、今迄未解明であったが、昭和六十二年夏、美術印刷に秀れた便利堂の色分解に依る解析写真撮影で印影が浮かび上り、是を中世文書の権威村田正志博士が見事に解読して、「丹後國印」の文字である事が判明した。
 是に依って當系図は海部氏が私に作成したものでなく、之を作成の後に丹後國庁に提出して認知を受け、更にそれを大和朝廷に差し出した所謂本系帳の副本であり得る事が証明され、国家公認のものとしてその権威が一段と高まったのである。
 一方海部氏勘注系図は、始祖以来平安期迄の系譜が省略なく記載され、之に當主の事績を始め兄弟等の傍系に至る迄詳密な注記が付されているが、その中には他の古記録には失われている古代の貴重な伝承も含まれていると云われ、今学界の注目を浴びている。
 元伊勢の創祀以来の祀職である海部氏は神代以来血脈直系で世襲し、大化改新以前は丹波国造であったが、その後祝部となり、現宮司に至り八十二代と伝えられる。


奥宮 真名井神社

 

彦火明命が丹後の地に降臨し、真名井神社に元初の神豊受大神をお祭りされた。

真名井
豊受大神を祀るにこの地が選ばれた理由の一つは、真名井の水という御神水が湧き出ていたからである。その霊験を今に伝えているのが、この天の真名井の水である。豊受大神のお顔は藤の花で、そのみたまは天の真名井の水との秘伝がある。
 


・豊受大神(とようけのおおかみ)

亦名 天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、五穀農耕の祖神であり、開運厄除、衣食住守護、諸業繁栄を司どられ、水の徳顕著で生命を守られる。相殿に、罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神を祭る。 

元伊勢とは

第10代祟神天皇の時、宮中から天照大神の御神体が丹波の吉佐宮にお遷りになり、豊受大神と御一緒にお祭りされました。4年後、天照大神はここからさらに各地を回られ、次の垂仁天皇の時に伊勢の国に御鎮座になりました。そして第21代雄略天皇の時、天照大神のお告げで、豊受大神が当宮から伊勢の国にお遷りになりました。こうして伊勢の神宮が成立しました。この後、社名を籠宮と改め、天孫彦火明命を主祭神となし、元伊勢のお社として、又丹後国一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました

蘇民将来


釈日本紀より「備後国風土記」逸文 

備後の国の風土記にいはく、疫隈の国つ社。昔、北の海にいましし武塔(むたふ)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。その所に蘇民将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮(いとまづ)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず、兄の蘇民将来惜し奉りき。すなはち、粟柄をもちて座(みまし)となし、粟飯等をもちて饗(あ)へ奉りき。ここに畢(を)へて出でまる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、奉りし報答(むくい)せむ。汝が子孫(うみのこ)その家にありや」と問ひ給ひき。蘇民将来答へて申ししく、「己が女子とこの婦と侍り」と申しき。すなはち詔たまひしく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」と。詔のまいまに着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民と女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき。すなはち詔りたまひしく、「吾は速須佐の雄の神なり。後の世に疫気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪をもちて腰に着けたる費とは免れなむ」と詔りたまひき。



蘇民将来

提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蘇民将来(そみんしょうらい 蘇民將來)とは近畿地方 を中心に日本各地に伝わる説話 、およびそれを起源とする民間信仰 である。

古くは『釈日本紀 』(卜部兼方 鎌倉時代 中期)に引用された『備後国風土記逸文疫隈國社 に見えるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神 (むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来 こたんしょうらいとされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神 は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神 は速須佐雄能神(スサノオ )を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。

この逸話を基に岩手県 内を始め各地に伝わる蘇民祭 を始め、京都の八坂神社伊勢志摩 地方の年中行事で厄除け祈願として、茅の輪 潜りや蘇民将来護符の頒布、注連飾り などの祭祀が盛んに行われている。

ジェネシス 創世記

創世記』(そうせいき、ヘブライ語: בראשית‎, ギリシア文字転写: Γένεσις ゲネシス、: Genesis)は、古代ヘブライ語によるユダヤ教キリスト教の聖典で、イスラム教啓典である聖書旧約聖書)の最初の書であり、正典の一つである。写本が残っており、モーセが記述したとされている。

いわゆるモーセ五書は、ユダヤ教においてはトーラーと呼ばれている。創世記はヘブライ語では冒頭の言葉をとって בראשית‎(ベレシート ヘブライ語で「はじめに」という意味)と呼ばれており、ギリシャ語名の「ゲネシス」は「誕生、創生、原因、開始、始まり、根源」の意である。

「創世紀」は誤記である。

主な内容 [編集]

内容は大きく分けると「天地創造と原初の人類」、「イスラエルの太祖たち」、「ヨセフ物語」の三つに分けることができる。

  1. 天地創造と原初の人類
  2. 太祖たちの物語
  3. ヨセフの物語
    • 夢見るヨセフ 37章-38章
    • エジプトでのヨセフ 38章-41章
    • ヨセフと兄弟たち 42章-45章
    • その後のヨセフ 46章-50章

ユダヤ人の歴史の物語は、聖書で『創世記』の次に置かれている『出エジプト記』へ続いていく。



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円筒印章

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動物と戦う英雄を描いた円筒印章(左)とその印影。マリのイシュタル神殿で発見、紀元前2600年頃の初期王朝時代、ルーブル美術館所蔵

円筒印章(えんとういんしょう、Cylinder seal)は古代メソポタミアで所有者などを示すために使用された印章である。図や文章が書かれており、様々な情報がそこから得られる。

最も初期の円筒印章は紀元前36世紀頃の層から発見されたシャファラバードで発見された印影(印章そのものではない)であり、この時代以降、手紙契約文書の主体を示すために急激にメソポタミア各地へ広まった。初期においては書簡や容器を封じるための紐を粘土で覆い、その粘土(封泥)に円筒印章を押し付けて転がすという方法で用いられた。

ウル第3王朝時代になると粘土板文書にも円筒印章が使用されるようになり、王妃官僚商人などの印影や印章が多数発見されている。楔形文字の普及範囲と円筒印章の普及範囲は大体一致し、ヒッタイトエラムなどでも用いられた。紀元前1千年紀半ば頃から次第に記録媒体が粘土板から羊皮紙パピルスに移るようになると楔形文字が用いられなくなり、粘土板に押し付ける用途を持った円筒印章も使用されなくなっていった。

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フルリ人


フルリ人: Hurrian)は、古代オリエントで活動した人々。紀元前25世紀頃から記録に登場する。彼らは北メソポタミア、及びその東西の地域に居住していた。彼らの故郷は恐らくコーカサス山脈であり、北方から移住してきたと考えられるが、確かではない。現在知られている彼らの根拠地はスバル(Subar)の地であり、ハブール川流域や後には北メソポタミアと歴史的シリアのいたるところで小国を形成した。フルリ人達が建てた国の中で最も大きく、有力であったのはミタンニ王国であった。

居住 [編集]

紀元前2千年紀のオリエントの殆どの地域にフルリ人が居住していたが、大半の地域でフルリ人は少数派であり、その大半はハブール川流域とアラプハ王国(Arrapha)の領域に集中していた。紀元前1千年紀までにウラルトゥ王国を除いて他の集団に同化されたと考えられている。

言語 [編集]

フルリ人の話した言語は、慣習上フルリ語と呼ばれる膠着語であった。これは近隣のインド・ヨーロッパ語族ともアフロ・アジア語族とも関係が不明であるが、ウラルトゥ語(1000年余り後にアナトリア北東で話される言語)との間には明白な関係が認められ、ことによると遠く現代の北東コーカサス語と関係があるかもしれない。

フルリ人は紀元前2000年頃、フルリ語の表記にアッカド語楔形文字を採用した。これから現代の学者がフルリ語を読むことが可能となった。現在見つかっているフルリ語の文書は少なく、またフルリ語の文章にはシュメール語の表意文字が多く用いられるためフルリ語での発音が分からないものが多い。このためにフルリ語は未だに分からない語彙が多い。

フルリ語の文書史料としては最長のものとしてアマルナ文書があり、それと同様のものがハットゥシャ(現ボアズキョイ)、ウガリット(現ラス・シャムラ)でも発見された。アマルナ文書は、1983年にハットゥシャでヒッタイト語とフルリ語が併記された文学作品が発見されるまで唯一のフルリ語の長文文書であった。

歴史 [編集]

フルリ人社会は多くの点において起源は謎となっている。紀元前2400年頃までにはフルリ人はコーカサス山脈の麓の丘陵地帯から拡大をしていたかもしれない。次の世紀になるとフルリ人の人名は北メソポタミアと現代のイラクキルクーク周辺の地域で散見されるようになる。それらはヌジ(Nuzi)、ウルケシュ(Urkesh)、その他の遺跡で確認される。彼らはハブール川流域からザグロス山脈の麓まで達する弧状の肥沃な農業地帯に浸透してこれを占拠した。

ウルケシュの都市国家 [編集]

ハブール川流域は1000年に渡ってフルリ人の中心地域となった。知られている限り最初のフルリ人の王国は紀元前3千年紀の終わりにウルケシュ市の周辺に登場した。アッカド帝国の終焉により、フルリ人がこの地域を支配できるようになった。この地域はそれ以前から長期にわたってテル・ハラフテル・ブラクを中心に豊かな文化を持っていて、フルリ人はこれらの恩恵を取り入れて高度な都市国家を形成した。

しかし、ウルケシュ王国の周辺には強力な隣国がいくつも存在し、紀元前2千年紀初頭には南のマリに成立したアムル人王国に征服された。当時メソポタミアでは多くのアムル人の王国による覇権争いが生じており、紀元前18世紀頃にはシャムシ・アダド1世によって建設された別のアムル人王国アッシリアがマリを支配下に入れ、ウルケシュからやや離れたハブール川流域のフルリ人居住地帯にシュバト・エンリルと呼ばれる首都を建設した。

ヤムハド王国 [編集]

フルリ人はこの時代、西へ移動した。紀元前1725年には北シリアのアララハなどでフルリ人の人名が見つかるようになる。ヤムハドのアムル人・フルリ人の王国(Amoritic-Hurrian kingdom of Yamhad)は紀元前1600年頃にはヒッタイトの初期の王ハットゥシリ1世とこの領域を争ったことが記録されている。またフルリ人はキズワトナのアダニヤ(Adaniya)沿岸に住み着いた。結局、ヤムハドは強力なヒッタイト人の前に屈服したが、これによって逆にアナトリアにフルリ文化が伝播した。ヒッタイトは数世紀にわたってフルリ人の文化を取り入れていった。

ミタンニの出現 [編集]

ヒッタイトはヤムハドを打ち倒した後南へと拡大を続けた。ヒッタイト王ムルシリ1世バビロンまで侵攻してバビロンを破壊した。これがヤムハドの打倒と同じように別のフルリ人王朝の興隆を助けることになる。最初の王は紀元前1500年頃ミタンニ王国を創設したキルタと呼ばれる伝説的な王で、ミタンニは徐々にハブール川流域周辺から拡大し紀元前1450年頃 - 紀元前1350年頃にはオリエントで最も強力な国となった。(ミタンニの歴史についてはミタンニの項目を参照)

アラプハの国家 [編集]

紀元前16世紀頃のバビロニアの崩壊によって利益を得たフルリ人国家があった。現代のクルド人都市キルクークのそばのチグリス川流域北東に居住したフルリ人の国がアラプハ王国(Arrapha)である。ヨルガン・テペ(Yorgan tepe 古代のヌジ)遺跡は我々がフルリ人を知る上で最も重要な手がかりとなっている遺跡の1つである。イティ・テシュプ(Ithi Teshup)やイティヤ(Ithiya)などのフルリ人王がアラプハに君臨した。しかし紀元前15世紀半ばには彼らはミタンニ王国の家臣となり、アラプハは紀元前14世紀、アッシリア人によって破壊された。

フルリ人の終焉 [編集]

紀元前13世紀にはフルリ人の全ての国が異民族によって征服された。フルリ人国家の中心であったハブール川流域はアッシリアの州となった。フルリ人達に青銅器時代の終わりに何が起こったのかは明らかではない。フルリ人が鉄器時代前半までアッシリアの北のスバルの地(Subaria)で生き残ったと主張する学者もいる。

その後、シリアのフルリ人の多くがアラム語を使用するようになり、フルリ語を使用しなくなった。他にもアッカド語(アッシリア語)が使われた。この時代にフルリ語と関係のあるウラルトゥ語を話す貴族たちが、ヴァン湖周辺のインド・ヨーロッパ語を話す人々の居住地でウラルトゥ王国を組織したことは興味深い。

インド・イラン人との関係 [編集]

インド・イラン人の文化的影響に関する問題(即ち支配階級であるアーリア人)は、フルリ人の中で多くの意味を持っている。初期の学者はフルリ人が異民族の王とエリート達によって支配されたことを確信していた。この異民族は明らかにアヴェスター語ヴェーダ時代のサンスクリット語と関係のある中央アジアのインド・イラン系言語を話した(例えば、彼らが話した言語で「1」を意味する単語はaikaであり、サンスクリット語のekaやアヴェスター語のaevaに対応する。)。

彼らは火葬の習慣と、戦場における戦車(chariot)を導入した。これはほぼ同じ時期のインド北部での出来事と類似している。この異民族の貴族達は、結局自分達の言語を捨ててフルリ語を話すようになったが、インド・イラン系の名前を保持した。彼らはいくつかの条約でヴェーダと同じに言及し、また彼らのインド・イラン語の幾つかの単語は馬に関する専門用語や訓練の用語としてフルリ語に借用されて残存した。

特にミタンニはインド・イラン人の文化と関係があった。ミタンニの殆どの王がインド・イラン語の名前を持っていたと考えられている。また、支配階級である貴族はマリヤンヌmaryannu)と呼ばれた。これは「若い戦士」を意味するサンスクリット語maryaと関係付けて理解する説が有力である。ただし、近年の研究、特にA.Kammenhuber博士による研究によってマリヤンヌをインド・ヨーロッパ語起源とする説には重大な疑義が呈されており、インド・イラン人とフルリ人の関わりについて旧来の説を見直す動きも活発である。

文化と社会 [編集]

フルリ人の文化についての情報は主にヌジやアララハ遺跡などで発見された楔形文字文書やハットゥシャ(フルリ人の文化的影響を強く受けたヒッタイトの首都)で発見された文書などの考古学史料に依存する。たとえそれがアッカド語で書かれた文書であっても、ヌジやアララハなどフルリ人が居住した都市(それは人名によって分かる)ではフルリ人の文化的特長が現れる。フルリ人の円筒印章は精緻に彫られており、しばしば神話的なモチーフが採用された。これらはフルリ人の文化と歴史を理解する鍵である。

陶芸品 [編集]

フルリ人は横柄な陶芸家であった。その製品はメソポタミアとユーフラテス川の西で全般的に発見され、また新王国時代のエジプトで高く評価された。考古学者達はフルリ人が轆轤を使って製造した製品をハブール土器(Khabur ware)、ヌジ土器(Nuzi ware)と呼ぶ。これらの土器は赤い線の塗装、茶色と黒によって作られた三角形パターンと点によって作られた幾何学的な装飾によって特徴付けられる。

冶金術 [編集]

フルリ人は冶金について高い評価を得ていた。シュメール人はフルリ語の中からを意味する単語を借用した。銅はアナトリアの高地からメソポタミアへと運ばれ取引された。ハブール川流域は金属、銅の交易ルートの中心に位置していた。の交易でも、アナトリア方面のフルリ人国家、キズワトナやイシュワからアクセスができた。ただしは不足しており、エジプトからの供給に頼ったことがアマルナ文書から分かる。だがフルリ人の金属加工術はウラルトゥを除いて生き残らなかった。いくつかの青銅製の素晴らしいライオンの小像がウルケシュで発見されている。

[編集]

フルリ人は馬の使用と密接に関係していた。彼らは紀元前2000年頃、中央アジアからオリエントに馬を導入したかもしれない。相当数のフルリ人が住んでいたと考えられるイシュワの国名は「馬の国」を意味する。馬の調教に関する有名な文書がハットゥシャから発見されている。ハットゥシャで馬の調教師をしていたのはキックリ(Kikkuli)と呼ばれるフルリ人であった。馬に関係したフルリ語の多くにインド・イラン語からの借用語が存在する。この事実は、初期の学者にフルリ人の支配階級が、ヴェーダ時代のインド人のように馬と戦車で侵入したインド・イラン人であるということを納得させた。

音楽 [編集]

ウガリットから発見されたフルリ語の文書の中には、史上最古の楽譜が含まれる。復元された賛美歌Urkesh webpageで聞く事ができる。

宗教 [編集]

フルリ人の文化は、ヒッタイト人の宗教に大きな影響を与えた。フルリ人の国、キズワトナに作られたクンマンニ(Kummanni)という信仰の中心地からフルリ人の宗教がヒッタイト人の間にまで広まった。そして古いヒッタイトの信仰とフルリ人の宗教は融合していった。またフルリ人の宗教はシリアへも広まった。そこではバール神がテシュブ神(Teshub)に対応する神であると考えられた。後世のウラルトゥ王国もフルリ人起源の神を信仰した。フルリ人の宗教は各地で姿を変えながら、エジプトと南メソポタミアを除く全オリエントに影響を与えた。

フルリ人のパンテオンにおける主要な神は以下のようなものがあった。

  • テシュブ(Teshub)テシュプ(Teshup):強力な天候神。
  • ヘバト(Hebat)ヘパ(Hepa):テシュブの妻、地母神でありヒッタイト人からはサン女神と同一であると見なされた。
  • シャッルマ(Sharruma)またはサルマ(Sarruma):テシュブとヘバトの息子。
  • クマルビ(Kumarbi):テシュブの太古の父親。
  • シャウシュカ(Shaushka):フルリ人にとってアッシリアのイシュタル女神に相当する治療の女神。
  • シメギ(Shimegi):太陽神。
  • クシュフ:月神。太陽と三日月のシンボルは常に一緒に現れ、フルリ人の聖像美術においては関連付けられていたと考えられる。
  • ネルガル:バビロニアの冥界の神である。フルリ語で何と呼ばれていたのかはわかっていない。

インド・イラン系の神々は個人名に登場し、また文書では触れられるが、それを祀った神殿などは確認されていない。

フルリ人の円筒印章にはしばしば翼のある人間や神話的な動物、竜や他の怪物が描かれている。これらの図案が何を示しているのかは不明瞭である。ある物は守護者であり、ある物は有害な悪魔であったかもしれない。これらのうちいくつかはアッシリア人の信仰を思い起こさせる。

フルリ人の神々は、エジプトやメソポタミアの神々のように特定の主神殿(Home Temple)を持ってはいなかったようである。いくつかの重要な宗教中心地としてキズワトナのクンマンニと、ヒッタイトのヤジリカヤ(Yazilikaya)などがあった。ハランは少なくとも後には月神信仰の中心地となった。またニネヴェにはフルリ人がニネヴェを支配していた時代にはシャウシュカの重要な神殿があった。ネルガルの神殿は紀元前3千年紀の後半にウルケシュに建造された。カハト(Kahat)の街は、ミタンニ王国の宗教的中心地であった。

ヒッタイトで保存されていた「ウッリクンミの歌」(The Songs of Ullikummi)というフルリ人の神話は、ヘシオドスの神話に類似する。クロノスウラヌスの性器を切断する説話は、クマルビ(Kumarbi)がアヌ(Anu)の性器を切断する説話に由来するかもしれない。また、ゼウスによるクロノスの打倒に関する神話は、テシュブとクマルビに関するフルリ人の神話に似ている。アッティス崇拝が、フルリ人の神話に影響されたという主張もある。後のフリュギアの女神キュベレはフルリ人の女神ヘバトに対応する。

都市生活 [編集]

フルリ人の都市文化は、多くの都市からは表されない。ウルケシュは紀元前3千年紀において唯一のフルリ人都市であった。紀元前2千年紀についてはアラプハ、ハラン、カハト、ヌジ、タイドゥ(Taidu)およびワシュカンニ(Washukanni ミタンニの首都)のように、多くのフルリ人都市が知られている。テル・ファハリヤにあると言われているワシュカンニの遺跡は現在まだ発見されていないが、ハブール川流域にある都市遺跡は1平方km - 2.5平方kmの範囲を超過することはないし、大多数の遺跡はもっとずっと小さい。フルリ人の都市文化は、中央集権的なアッシリアやエジプトのそれとは全く異なったものであったようである。フルリ人国家の封建的な政治機構が、巨大な宮殿や神殿の建設を発達させるのに不向きであったためかもしれない。

調査 [編集]

かつてフルリ人が住んだ地域は、現在イラクシリアトルコの三国によって分割されている。そしてフルリ人世界の中心地は、現在シリアとトルコの国境によって分断されている。いくつかの遺跡は国境地帯に存在し、このことが遺跡へのアクセスを困難にしている。また、古代遺跡に対して、ユーフラテス川、チグリス川、ハブール川でのダム建設プロジェクトが脅威を与えており、いくつかの遺跡に対してはダム建設時に救助活動が行われた。

イラクとシリアでのフルリ人遺跡の主要な発掘は1920年代1930年代に開始され、アメリカ人の考古学者エドワード・キエラによるヨルガン・テペ(ヌジ)発掘と、イギリス人の考古学者マックス・マローアンen:Max Mallowan)のチャガル・バザール(Chagar Bazar)とテル・ブラク(Tell Brak)の発掘によってリードされた。最近の発掘はシリアの考古局と国際的な参加者、アメリカベルギーデンマークオランダフランスドイツ、そしてイタリアのチームによって指導されている。遺跡はしばしば新石器時代からローマ時代、又はその後まで続く長期の居住の跡を残す。年代識別には特にハブール土器の様式の変化を調べることが有効である。フルリ人の居住は基本的には青銅器時代中期から青銅器時代末期に分類される。ただしテル・モザン(Tell Mozan、ウルケシュ)は例外である。

重要な遺跡 [編集]

このリストはフルリ人によって支配された領域にある重要な古代遺跡の情報である。発掘報告書と画像はリンク先のウェブサイトで見られる。上述したようにアララハ、アマルナ、ハットゥシャ及びウガリットでフルリ人の文化、歴史に関する重要な発見があった。

親類関係と起源論 [編集]

何人かの学者はフルリ人が、未知の場所から紀元前2700年頃コーカサス山脈に到着した後のアルメニア人のような隣人達と混合して成立したと信じている。別の説では、アルメニア人がフルリ人とともに、インド・ヨーロッパ語族の故地からコーカサスに移住したとされる。

I・J・ゲルブ(en:I. J. Gelb)とE・A・シュパイザー(en:E. A. Speiser)は、スバル人が北メソポタミアの言語的基層であり、フルリ人が到着したのはかなり遅い時期であると主張した。

トルストフen:Tolstov)は、フルリ人がホラズムの創設者であると考えた。彼はホラズムが「フルリ人の土地」を意味すると主張した。

聖書学者は、フルリ人が旧約聖書に登場するホリ人、ヒビ人、およびエブス人であると確信した。ただし、そのような関連性を裏付ける証拠はほとんどない。ケセディム(Kesedim)を含む古代の領域の幾つかの民族、スバル人(Subarian)、グティ人(Gutian)、カッシート人(Kassite)、及びルルビ人(Lullubi)は皆フルリ人であると評されたことがある。

また、古代オリエントで活動したハビルと呼ばれる集団とフルリ人との間に関係があった可能性もある。古代オリエントで紀元前1千年紀半ば頃の文書に登場するハビル、あるいはハピルと呼ばれる人々は、その存在が知られた当初、音的類似から後のヘブライ人の前身であるとする説も唱えられた人々である。しかし、20世紀半ば頃までの研究で、ハビルと呼ばれる人々は基本的には血縁、地縁に基づいたエスニックなグループとは言いがたく、当時のオリエントの社会秩序を逸脱したと見なされていた一種の社会集団であったと見なされるようになった。

そして、1996年ハビル四角柱碑文(Tikunani Prism)と呼ばれる粘土板文書の公刊によってハビルとフルリ人の関係が重要視されるようになった。ここに登場するハビル人名リストの中に現れる人名の約20%程度は、典型的なフルリ語の名前であったのである。神名などフルリ的な要素を持つ人名を加えれば更に増える。このため、ハビルと呼ばれた社会集団とフルリ人との間の関係性が取りざたされるようになっている。ただし、バビロニア地方のハビル人名表に登場するハビルの人々の名前は圧倒的にバビロニア語アッカド語)であり、ハビルはフルリ人であったというような単純な同定はできそうもない。

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ヒッタイト

ヒッタイト(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族ヒッタイト語を話しアナトリア半島王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指す。首都ハットゥシャ(現在のトルコボアズキョイ遺跡)の発掘が進められている。

紀元前16世紀 - 紀元前1180年シロ・ヒッタイト国家
フリギア
リュディア
メディア王国
アケメネス朝
ヒッタイトの位置
赤:ヒッタイト帝国の最大勢力圏 緑:古代エジプトの勢力圏

ハッティ: Hatti)の英語名で、旧約聖書ヘテ人英語版: Hitti、ヘト人とも)をもとにして、イギリス人のアッシリア学者A.H.セイス英語版が命名した。

歴史 [編集]

ヒッタイト人(Hittites)は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説英語版によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという二つの説が提唱されているが、決着していない。

近年、カマン・カレホユック英語版遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。

ヒッタイト古王国 [編集]

紀元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号タワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ英語版率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアカッシート王朝が成立。

ヒッタイト中王国 [編集]

紀元前1500年頃、ヒッタイト中王国の成立。タフルワイリアルワムナによる王位簒奪が相次ぐ。70年間ほど記録が少ない時代が続いた。

ヒッタイト新王国 [編集]

紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国の成立。

紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世ミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古代エジプトシリアカデシュで衝突。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた(カデシュの戦い)。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっている。フリ文化の色彩強まる。

紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の「海の民」によって滅ぼされたとされている。地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたといわれているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。

滅亡後 [編集]

ヒッタイト新王国が滅びたあと、南東アナトリアに移動し紀元前8世紀頃まで、シロ・ヒッタイト国家群英語版(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した(紀元前1180年-紀元前700年頃)。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられている。

海の民

海の民(うみのたみ、Sea Peoples、Peoples of the Sea)は、東地中海沿岸を放浪し、古代エジプト第19王朝メルエンプタハ5年、及び第20王朝ラムセス3世英語版5年にエジプト領内への侵犯を試みた諸集団に使われる総称的呼称である。「海の民」という語はエジプトの記録では用いられておらず、1881年にガストン・マスペロによって命名され、後世一般化した。

目次

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歴史的記録 [編集]

ペルイレルの戦い [編集]

確実に海の民であるとはっきりする最初の言及は、エジプト王メルエンプタハ(前1213年 - 前1204年)の時代の石碑[1]に見える。メルエンプタハ5年(前1208年)の文書[1]では、リビア人及び海の民の連合軍の侵略に打ち克ち、6,000人の兵を殺し9,000人の捕虜を得たと書かれている(ペルイレルの戦いBattle of Perire)。

このときの海の民は、アカイワシャ人・トゥルシア人・ルカ人・シェルデン人・シェクレシュ人の5つの集団から構成されていたことが記録されている。各集団は以下のように比定されている。

なお、アカイアは紀元前15世紀から紀元前13世紀ごろにはオリエント世界ではアヒヤワとして知られた勢力で、ルカ人やシェルデン人は海の民出現に先立つ紀元前1286年にはヒッタイトとエジプトが戦ったカデシュの戦いにおいて両陣営の傭兵として活動していたことが記録されている。また、紀元前14世紀中葉のアマルナ書簡でルカ人の海賊、シェルデン人の王について言及したものが知られる。

つまり、海の民として連合してエジプトなどを侵攻した海上勢力は目新しいものであったが、その個々の構成要素となる集団は、それ以前から地中海世界或いはオリエント世界では知られていた存在であった。彼らの大規模な移動と侵略行為は、紀元前1400年ごろのミノア文明の崩壊から紀元前1120年ごろのドーリス人のギリシア定着と先住ギリシア人の小アジアへの移住定着に至る、約300年間に及ぶ東地中海世界の混乱の過程のひとつとして引き起こされたものと考えられている。研究者には、トロイア戦争におけるギリシア(アカイア)側の予言者モプソス英語版の活動を海の民の集団の指導者と結び付けて考えている者もいる。

デルタの戦い [編集]

20年後のラムセス3世英語版はまた別にペリシテ人と連合した海の民の侵攻に対処しなければならなかった(デルタの戦い英語版)。テーベに彼が築いた死体を安置する神殿には、ラムセスが、いかなる国もその前に立ちはだかることは出来ないといわれ、ヒッタイトキズワトナ英語版カルケミシュアルザワ英語版アラシア英語版の諸勢を撃破し彼らの都市を壊滅せしめた海の民の勢力と如何にして海戦で破ったかが述べられている。彼はこの時に侵攻した海の民を構成した諸族の名前を示している。ペリシテ人チェケル人シェクレシュ人(Shekelesh)・デネン人英語版ウェシェシュ人(Weshesh)である。しかし、このリストはメルエンプタハの勝利の石碑に書かれたものを含んでおり、かつ、ラムセスが神殿の壁に創作の勝利を記述していることなどから、エジプト学者の中には、ラムセスは実際には海の民と戦わず、ただ、メルエンプタハの事蹟をファラオに共通する課題として、自らのものとして主張したに過ぎないとする説もある。

ラムセスが戦った海の民にはメルエンプタハの時代には記録されなかった集団がいくつか加わっているが、その中にペリシテ人とチェケル人がある。ペリシテ人は考古学的にミケーネ文明を担った集団の文化を持っていたことが確認されており、ギリシア世界の出身と考えられている。またチェケル人はその集団名をトロイア戦争当時のイリオスプリアモスの6代前の始祖テウクロス英語版と結びつける説があり、トロイア戦争として後世伝えられた歴史事件の両陣営ともが海の民に加わっていたことになる。

海の民は、紀元前12世紀初頭のものと疑われる別の記録群にも表れている。ウガリット王のアンムラピ英語版(Ammurapi, c.紀元前1191年-紀元前1182年)は、ヒッタイト王シュッピルリウマ2世(Suppliluliuma)より、「船上で生活する Shikalayu 」について警告を受けている。これはメルエンプタハのリストにあるシェクレシュ人と同じ人々であると見られる。このこととウガリット王が通信を受け取った少しの後に顛覆せられ、ウガリットの都市が略奪に遭い居住不能になったこととは関係があるかもしれない。

海の民を巡る仮説 [編集]

紀元前1200年の前後5年間の間に発生した複数の文明の突然の終焉は、多くの古代の歴史家に海の民がヒッタイト、ミケーネ文明、ミタンニ王国の崩壊の原因となったという仮説を提唱させることになった。しかし、Marc Van De Mieroop らはいくつかの問題からこの説に反対している。グリマルは、アッカド人が Habiru と呼ぶ、定住地の外縁に居住していたグループによってミタンニ王国・アッシリア・バビロニアが滅ぼされたとするほうが適当であると論じた。また、ラムセス3世が防いだという海の民の攻撃の目的は、彼の神殿の壁に誇大して勝利が記録された小戦闘以上のものではないと述べる。ウガリットの考古学的遺跡から明らかになることで、Ashkelon と Hazor が殲滅せられたのはこのときでもカルケミシュやそれと同じ地域にある都市のビブロスシドンは無傷でいた。

別の仮説では、彼らの記録された名前に基いて、海の民はこの時代のギリシア人移住、或はギリシア語を話す侵入者("Ekwesh" はアカイア人、デネン人はギリシア人の古名である Dananoi に同定される)がきっかけとなって形成された人々であるとされる。この説ではペリシテ人はギリシア語話者集団の一部であるとほのめかされる。海の民は初期のいくぶんか文化されたギリシアのミケーネ文明の都市国家の人々が、数十年に及ぶ凄惨な闘争で同士討ちしたものであったとして、この説をドイツ人の考古学者 Eberhard Zagger が2001年初頭にドイツで再提唱した。他の侵略者は少数、あるいは皆無で、またエーゲ海文明のギリシア語話者集団からのほんのわずかな違いがあったのみであろう。当時、ギリシア語の古い書字法である線文字Bなどを使って複雑な音韻を表記できるものは少数であったから、識字度は高くなかった都市国家には戦争の同胞殺しの本質を記述できるような日常生活での文書は比較的少なかった。対照的に、紀元前800年ごろに古代ギリシアで登場した完成度の高いアルファベットの書記法は習得も使用も比較的容易で、創作・非創作を問わずさまざまな文書の作成を促した。

さきの関係する記録の原文の解釈と対比すると、考古学的な記録からは中央ヨーロッパイタリア半島からきた人々が海の民の事件に関係しただろうと信じうる確固たる論拠が導くことができる。海の民によって焼き尽くされたと考えられている都市の炭化した遺構の上に建てられた構造物の遺跡からは、多量のイタリアの型である陶器や青銅の武器が発見されている。海の民は確かにイタリア人だと同定する試みがなされている。例えば、Shekeleshはシチリアにいた古代人に同定できると考える学者がいる。

加えて、飾りのない中欧型のブローチや琥珀のビーズも複数の都市で発見されている。いずれの物品も海の民以前のその土地の遺物の記録には現れないものである。また、ハンガリーや中央ドイツから発掘された紀元前1800-1600年にかけてのナイフやコップに、イタリア様式のナイフやコップが強い類似を示しているのを記すに足る。

海の民の蹂躙により豊かな都市がいつも灰燼に帰せしめられたのには疑いようがない。彼らはこの富を維持しようとはせず、遺構の上に低文化・経済水準の定住地を築いた。これはそれらの都市の象徴するものへの深い嘲弄と軽蔑を示す。ホメロスの作品を手引きに考えるならヘラドス文化後期ヘラドス文化期英語版, Late Helladic, LH)の戦士階級が戦利品を捨てたろうというのはありそうもないことである。

そのため海の民は誰であったかということの別の説を探す気になる。文献や遺物の記録はギリシアとエジプトの国家が北や西からの傭兵を活用したと示している。これらの傭兵の集団が数多くの社会構造、特にギリシアや近東の硬直した国家構造を破壊するために土地の奴隷層と同盟したという可能性が出てくる。

紀元前12世紀のいつごろかに、海の民の連合を見捨ててイスラエルの部族連合に入ったと考えてダン族を海の民の一つの "Danua" やデナイ人に辛くも比定する学者がある。このような比定は士師記にあるダン人とペリシテ人の根深い敵意を説明もするだろう。

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須佐神社

島根県出雲市佐田町須佐730
須佐之男命が諸国を開拓し須佐の地にこられ、最後の国土経営をされ、「この国は小さいけれどよい国なり、我名を岩木にはつけず土地につける」と仰せられ大須佐田、小須佐田、を定められたので須佐と言う、と古書に見えている。命がこの地に一生を終えられてから二千幾百年余、その御神德は今日まで及び、社頭に身を糺す思いである。
石の鳥居をくぐり、玉砂利を踏み、豊富に湧出する「塩の井」に身心を清め神前に額ずく。千古の面影をとどめた境内の樹木の中にそびえる御本殿の千木の髙さは十二メートル余り。代々の国守が建立勧請した御本殿は、須佐の鎮めとして鎮ります須佐大神の御盛徳に、思わず頭が下がる。鳴らす拍手も木魂(こだま)をかえして森厳まことに深い。巡りて 社殿の後に至ると、天を摩する老杉あり。周囲七メートル余り樹髙二十四メートル余り木肌の一つ一つに千数百年の世の盛衰栄枯の歴史を秘め黙して語らず。近在まれに見る巨木である。社殿の西を流れる素鵝川の、その清冽な流れのせせらぎは、太古のままを奏で、古文書が伝う稲田姫を祀る分社(天文年中に本社へ合祀・・現在、ゆかり館前の社址地に剣が埋めてあると古老が語る)へ渡る黒木の橋を移して流れたであろう名残を止めて今も澄んでいる。

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神明造り

 
神明造を代表する皇大神宮

伊勢神宮に代表される神明造は、出雲大社に代表される大社造住吉大社に代表される住吉造と共に、もっとも古い神社建築様式とされる。大社造が正方形に近い宮殿を模したものと考えられ、住吉造が大嘗祭の建物に近似しているが、神明造は奥行きより幅が大きく、高床式倉庫から発展し穀物の代わりに神宝を納めるように変化したと考えられている。

なお、伊勢の神宮の皇大神宮(内宮)豊受大神宮(外宮)両宮の正殿(本殿)の様式は、他社においてこれと完全に同じくするのを懼れ憚って採用していないため、特別に唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)と呼ぶ。

構造

 
神明造の例
皇大神宮所管社 御稲御倉)
 
唯一神明造平面図

神明造の構造は、掘建柱切妻造平入である。円柱のや鰹木を除き、ほぼ全てが平面的に加工され直線的な外観となる。この点で、優美な曲線が与えられる大社造と大きく異なる。

屋根 [編集]

狭義では萱葺(かやぶき)に限るが、一般には板葺銅葺を含める。伊勢神宮の摂社・末社・所管社のほぼすべては板葺であり、熱田神宮は銅葺である。日本に仏教が伝来し、普及したころ神道では寺院建築瓦屋根と呼んだことから、神社建築においては瓦屋根は異例である。

屋根に耐久性の低い萱や板を使うため、屋根の勾配をきつくし、雨や雪が流れ落ちやすくし、切妻であるため軒出も大きく作る必要がある。屋根の頂上部は板で覆い、鰹木(かつおぎ)で補強される。

屋根を支える側面の破風(はふ)は継手でとどまらず、先端が飛び出し千木(ちぎ)となる。

千木と鰹木には、金銅製などの装飾金具が取り付けられ、耐候性を高められることがある。

千木と鰹木に関しては千木・鰹木参照のこと。

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神明造は基本的に左右対称で、左右方向には偶数本の柱が配される。柱と地面の間には礎石も土台も与えらず、掘立柱となる。

側面中央の、壁面より外側に飛び出しへ達する柱を棟持柱(むなもちばしら)と呼ぶ。棟持柱は通常太く、強度のある用材が用いられるが、構造上では強度にはあまり寄与しない。

社殿の中央には心の御柱(しんのみはしら)が配されるが、これも強度には寄与しない。

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神明造の壁は、十分な強度を持つ板材が用いられる。正面中央の1か所のみに観音開き御扉(おとびら)による開口部が設けられる。御扉は通常1枚板が用いられるため、大規模な社殿では相当の古木が必要とされる。皇大神宮正殿の場合は樹齢400年以上のヒノキが必要になるという。

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神明造では通風性を重視した床が高い構造で、高床式倉庫の名残であると考えられている。このため相当長い階段が必要になる。

神明造の歴史

歴史は古く、記録に残っていないため定かでない。弥生時代の遺跡の柱の遺構が神明造の柱の配置に似ているため、弥生時代の高床式倉庫が発展したものと考えられている。

神明造の社殿は、江戸時代以前は伊勢神宮と、信濃国(現在の長野県)の神宮の所領とされた仁科神明宮丹後国(現在の京都府)の籠神社など少数であったが、明治以降は合祀などによる遷宮において神明造を採用することが流行し、神明造の社殿が増加した。熱田神宮が神明造になったのも明治の遷宮からである。

神代文字

moji 和字考
敬光。寛政5年(1793年)。
ヲシテ の解説。

神代文字の存在の可能性についてはじめて言及したのは鎌倉時代神道 家である卜部兼方 である。兼方は『釈日本紀 』(1301年 以前成立)の中で、父・兼文の説として「於和字者、其起可在神代歟。所謂此紀一書之説、陰陽 二神生蛭児。天神 以太占卜之。乃卜定時日而降之。無文字者、豈可成卜哉者。」と述べ、神代 に亀卜が存在したとの日本書紀 の記述から、文字がなければ占いが出来るはずがないとして、何らかの文字が神代に存在した可能性を示した。兼方自身はその候補として仮名 を考えていたようであるが、爾来卜部神道の間では仮名とは異なる神代文字の存在を説くようになった。たとえば、清原宣賢吉田兼倶 の子)は『日本書紀抄』(1527年 )において「神代ノ文字ハ、秘事ニシテ、流布セス、一万五千三百七十九字アリ、其字形、声明 (シャウミャウ)ノハカセニ似タリ」と、神代文字の字母数や字形等の特徴についてかなり具体的に述べている。にも拘らず、室町時代 までは神代文字の実物が示されることはなかった。江戸時代 に入り、尚古思想が高まるにつれて、神代文字存在説もますます盛んになり、遂に神代文字の実物が登場するに至るのである。

江戸時代以降、神代文字として紹介された文字は実に数十種類にも及ぶ。それぞれ出典となる書籍や発見場所などの名前が付けられている。神代文字存在説側の研究としては、平田篤胤 が神代文字否定論から肯定論になって最初の論である『古史徴(こしちょう)』第1巻『開題記』所収「神世文字の論」その後の『神字日文傳(かんなひふみのつたえ)』とその付録『疑字篇』が著名である。また、鶴峯戊申 (つるみねしげのぶ)は『嘉永刪定神代文字考』において天名地鎮(あないち)文字を世界のすべての文字の根源であると説いた。三井寺(園城寺) 住職の敬光による『和字考』など、これらについて数多くの研究がなされた。その存在説を集大成したものが落合直澄の『日本古代文字考』である。

神代文字存在説への批判

隋書 』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に、「無文字 唯刻木結繩 敬佛法 於百濟求得佛經 始有文字」とあり中国は倭人に文字=漢字はないと認識していた。

鎌倉時代の『二中歴 』に「年始五百六十九年 内卅九年 号無く支干を記さず 其の間刻木結繩し 以て政となす」とある。

神代文字存在説への批判は江戸時代に既に湧き起こっていた。否定説を唱えた者としては貝原益軒太宰春台賀茂真淵本居宣長藤原貞幹 などがいるが、中でも伴信友 の『仮字本末(かなのもとすえ)』の付録『神代字弁』は実証的に神代文字を否定し、後世の偽作として排した。以下に否定説の主な論拠を挙げる。

  1. 古人の証言
    中臣氏とともに代々朝廷の祭祀を務めていた古代氏族である斎部氏の長老・斎部広成 は、『古語拾遺 』(808年 )において「蓋聞 上古之世 未有文字 貴賤老少 口口相傳 前言往行 存而不忘」と記し、漢字渡来以前の日本には文字が存在しなかったことを明白に述べている。卜部兼方を遡ること約500年前の貴重な証言として注目される。
  2. 字母数の問題
    橋本進吉 が『万葉集 』等の万葉仮名 で記された奈良時代 の文献の表記を研究した結果、上代特殊仮名遣 と呼ばれる特殊仮名遣を発見した。これにより、奈良時代には濁音節を含めて88音節存在したことが明らかとなっているが、神代文字のほとんどは字母数が平安時代に作られたいろは歌五十音図 と同じである。これは神代文字が平安時代以降に創作されたものであることを示している(ただし近年、上代日本語の母音体系は現代と同じ5母音であったとする学説(上代特殊仮名遣 )もあり論争の結論はでていないが、少なくとも上代日本語には中古日本語・現代日本語には用いられない仮名づかいが存在し、神代文字がそれに従っていないのは事実である)。
  3. ハングル との類似
    神代文字の中にはハングル と酷似したもの(阿比留文字 。また日文(ひふみ)とも。対馬の豪族・阿比留氏が関係するとされる)が存在する。ハングルは1443年 に考案されたものであるから、ハングルが阿比留文字を参考に考案された文字ということでもない限り、阿比留文字もそれ以降のものであると解される。平田篤胤 によるハングルを元にした捏造とする説がある [5]

以上の論拠により、神代文字は信憑性に乏しく、後世の偽作であるというのが学界の定説となっている。

また、近年の考古学 の進歩により、昔の遺跡や古墳などから文字の書かれた土器・金属器・木簡などが発見され、こういった出土物に神代文字を記したと見られるものが発見されていないことも、漢字渡来以前に日本に固有の文字はなかったとする説の補強材料となっている。

なお、神代文字やそれによって書かれた古史古伝 が存在することをもって日本に超古代文明 が存在していた証拠とする者もいるが、「日本にかつて高度な文明が存在し、独自の文字を使用していたならば、そもそも漢字 を輸入する必要がないはず」とする反論がある。また、これらの古史古伝の中にはしばしば近代 以降の用語・概念・絵画・字体などが見られ、偽書 の疑いが濃厚であることも、神代文字存在説には大きな否定的材料となっている。

一方で、伊予文字、秀真文字として神代文字のひとつとみなされている[1] [2] ヲシテ には、11万字におよぶ古文書(ヲシテ文献 )が確認されており、記紀との3書比較による先行性や[3] 、その文字形によって大和言葉の文法や語源を説明しうる[4] 、ということから、他の神代文字と異なり実在した古代文字ではないかとの説が提示されている。

著名文献

  • 1) 『上古文字論批判』 新村 出
    • 1898年、東京帝国大学在学中に著された。神代文字実在論に最終「判決」を下すために執筆され、西洋の言語理論を応用し、古今の文献を博捜・渉猟した精緻なものである。末尾には、明治初年に登場した『上記』への言及も見える。
    • 収載:①『徹底検証古史古伝と偽書の謎』 (別冊歴史読本77号) 新人物往来社(2004年P272-297) ISBN 4404030770 
    •    ②『新村出全集』第1巻の『単行本未収載編』(P563-602)
  • 2)『國語学概論』 橋本進吉[1] 
    • 1925年に「岩波講座日本文学」として刊行され、1946年に「橋本進吉著作集」として再刊された国語学の歴史的名著。橋本は『上代特殊仮名遣い』の研究を大成し、奈良朝期には八母音であるとする説を主張した。神代文字は五母音のため、この説と合致しないとしている。
  • 3) 『所謂神代文字の論』 山田孝雄
    • 明治以後の国語学の成果を活用し、神代文字論の発生と展開をあとづけて否定した。神宮文庫伊勢神宮 )所蔵の神代文字は、1873-1882年の間に作られた創作物であり、神宮に古代より伝わる物でないと断じた。
    • 『藝林』(藝林會発行)第4巻(1958)
      • 所謂神代文字の論(上):1号P2-24(2-24)
      • 所謂神代文字の論(中):2号P10-29(88-107)
      • 所謂神代文字の論(下):3号P28-51(176-199)
  • 4) 『日本古代文字考』 落合直澄(1888)
    • 神代文字支持派の研究集大成。伊勢神宮宮司の田中頼庸が序文を書き、伊勢神宮禰宜の落合直澄が書き著した。伊勢・神宮文庫所蔵の神代文字については全くふれていないので、神宮に古代より伝わる物ではないとはっきり言える。国立国会図書館デジタルライブラリーで閲覧可。

神代文字の利用

神代文字がいつどのように作られたかはともかく、忍者 など一部の人々の間で外部へ秘伝が流出するのを防止する為に、一種の暗号 として使用されたという主張もある。また、江戸時代に諸侯で使用されていた藩札 の中には、偽造防止のため意図的に神代文字を使用したものもある。

現在でも一部の神社 では 、札、お守り など呪術 的に使用されているようである(伊勢神宮 にも神宮文庫に約百点奉納されている)。

神代文字の影響

神代文字存在説の影響を受けて明治19年(1886年)『東京人類学誌』10号による琉球古字 や明治20年(1887年)『東京人類学誌』18号22号での坪井正五郎によるアイヌ文字 などがあったという説も出された。偽銘帯 との関連を指摘する説もある。

主な神代文字

神代文字と異なるという主張もある文字

神代文字と誤認されることが多い文字

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石切劔箭神社

由緒

石切劔箭神社の祭祀は、代々木積(こづみ)氏が務めてまいりました。この木積の姓は、古代に天皇の側近として仕えた物部氏の、最有力氏族のひとつ「穂積(ほづみ)」から転じたものです。そして物部氏は、石切劔箭神社の御祭神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)の子孫にあたります。ここでは歴史書『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』に語られる逸話をたどりながら、石切劔箭神社の歴史をご紹介しましょう。

御祭神

当社は、我が大和民族が皇祖と仰ぎ奉る天照大神(あまてらすおおかみ)の御孫にあたられる瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御兄、饒速日尊とその御子、可美真手命(うましまでのみこと)の二柱をお祀りしています。
御祭神は日本国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。尊は神武天皇の御東征に先立ち、天照大神から十種(とぐさ)の神宝(かんだから)をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船(あめのいわふね)に乗り、哮ヶ峰(たけるがみね)(現在の生駒山)に天降りになりました。そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人々がおりました。尊はその一族の家長である長髄彦(ながすねひこ)の妹、登美夜毘売(とみやひめ)(三炊屋媛)(みかしやひめ)と結婚され、可美真手命がお生まれになりました。その後年月を経て神武天皇の東征に際し、尊と神武天皇はお互いに御所持の天羽々矢(あめのはばや)を示し合い、共に天照大神の子孫であることがわかり、尊は長髄彦に帰服をお諭しになり、ここに大和建国は成功しました。神武天皇はその功績を称え「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりました。饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意義をもつ御尊名です。
また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、物部一族を率いて神武天皇の親衛を勤められ、十種の神宝によるまじないの神法で多くの人々を救いました。可美真手命とは「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です

滋賀で縄文草創期の最古級土偶 3例目、女性かたどる

doguu 共同通信)

 滋賀県東近江市永源寺相谷町の「相谷熊原遺跡」で、女性をかたどったとみられる約1万3千年前(縄文時代草創期)の国内最古級の土偶が見つかり、県文化財保護協会が29日、発表した。縄文草創期としては、三重県松阪市の粥見井尻遺跡で出土した2点に次ぎ3例目。同協会は「出現期の土偶の在り方を探る上で貴重な史料」としている。竪穴建物跡も5棟見つかった。土偶は建物跡から出てきた。

*いや~~。丸移しでもうしわけないのですが、ちょいと、感激です。

滋賀県ってとこも、きになるし、材質はなんだろう?

粘土質にもみえるんだけど、

それより、首に当たる部分の穴ですね。

笛?あるいは、下まで穴があいてるのか?

紐のようなものを入れて、つるした?

顔部分をすげかえ出来るようにしてあるとも考えられるし・・。

すわりが良い様だから、たとえば、線香たてのようなもの?

花をいけたとか、正木、榊のようなものを

清めにいれた?

で、亡くなった方の墳墓からであるなら、

妻のかわり?というか、妻まで黄泉の国につれていかないように、

一種、結界とかのために、榊とか?こういうものでもいれたか?

などなど、考えてみるだけですが・・・クリップしておきます。

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縄文時代

*現在30万年前の磨製石器がでているとの情報あり。


と、いうことは、縄文時代、弥生時代のくわけも、違ってくることになるか・・・。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約16,500年前(紀元前145世紀[1]から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。

縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。

なお、沖縄県では貝塚時代前期に区分される。次の時代は、貝塚時代後期、東北北部から北海道では続縄文時代と呼ばれる。

概要

縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。

名称

「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S.Morse 1838年 - 1925年)が1877年明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この用語は谷田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。そして、「縄文土器」へと続いてきた。「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。なお佐原真はこの語の原義を念頭において「縄紋」という呼称を使用している[2]

 
縄文土器(縄の文様がついている。)

時期区分

縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。土器型式上の区分から、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。研究当初は、前・中・後の三期区分だったが、資料の増加や研究の進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。そうした土器研究上の経緯を反映した時期区分であるため、中期が縄文時代の中頃というわけでもなく、生業や文化内容から見た時代区分としても再考の余地があるものの、慣用化した時期区分として定着している。

この時期区分を、AMS法で測定して暦年代に補正した年代で示すと、草創期(約15,000~12,000年前)、早期(約12,000~7,000年前)、前期(約7,000~5,500年前)、中期(約5,500~4,500年前)、後期(約4,500~3,300年前)、晩期(約3,300~2,800年前)となる。

また先に示した土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式の側面から見て幾つかの時期に分類する方法も存在している。縄文時代の文化史的区分については研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ学界に定説が確立されているわけではない。

岡村道雄の区分
考古学者の岡村は、定住化の程度で時期区分すると草創期から早期半ば頃までは住居とゴミ捨て場が設置されるが、住居をもたなかったり、季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であると想定している。この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。次いで早期末から 前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場が形成される。中期後半には、東日本では地域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。一方西日本では遺跡数が少なく定住生活が前期には已に交替している可能性すらある。 後期になると東北から中部山岳地帯の遺跡は、少数で小規模になり分散する。関東は大規模貝塚を営み、西日本も徐々に定住生活が復活する。後期後半 には近畿から九州まで定住集落が散見されるようになる。この傾向は晩期前半まで続き、後半はさらに定住化が進み、瀬戸内から九州北部は 水田稲作農耕を導入し、弥生時代早期へと移ってゆく[3]
佐々木高明による区分
文化人類学者の佐々木は縄文土器編年区分のうち草創期を旧石器時代から新石器時代への移行期として縄文Ⅰ期、土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期として縄文Ⅱ期、土器編年の縄文前期から晩期までを完成した縄文文化が保持された時期として縄文Ⅲ期に分類した[4]
泉拓良による区分
泉も佐々木による区分に近く、縄文草創期を「模索期」、縄文早期を「実験期」、縄文前期から晩期までを「安定期」としている。

旧石器から縄文へ

最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。しかし、最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。

それまでは、針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。また、温暖化による植生の変化は、マンモストナカイ、あるいはナウマンゾウオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。

この草創期の特徴は以下のように指摘されている。

  • 新しい道具が短期間に数多く出現した
例えば、石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、この期に出現する。
  • 使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群がめまぐるしく入れ替わった
  • 草創期前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う
  • 急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていった
  • 狩猟・植物採取・漁労の3つの新たな生業体系をもとに生産力を飛躍的に発展させた

縄文時代早期

日本列島の旧石器時代の人々は、大型哺乳動物[5]や中・小型哺乳動物[6]を狩猟対象としていた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って旧石器時代人もキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた。キル・サイト[7]やブロック[8]、礫群[9]、炭の粒の集中するところなどは日本列島内で数千カ所も発見されているが、竪穴住居などの施設を伴う遺跡は、ほとんど発見されていない。

旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。そして、旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。縄文早期になると定住生活が出現する。鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やそのほかの遺構が中央広場を囲むように配置されている。

加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。このうち13棟は、桜島起源の火山灰P-13に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。そして、この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される[誰?]

縄文早期前半には、関東地方[10]に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65カ所、その数は300棟を超えている。そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。

南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化し、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。そして、南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている[誰?]

一方、北に目を転じれば、北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、陥し穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘[11]などが出土し、その数は40万点にも上っている。津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。また、東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違い点は、狩猟で使用する石鏃2,168点も出土したことである。富士山麓にあるこの遺跡では、小谷が多く形成され、舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。つまり、若宮遺跡では、環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件が揃っていたと推定される[誰?]

移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。その変化はプラント・オパール分析[12]の結果から判明した。一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。ワラビゼンマイフキクズヤマイモノビルなどの縄文人の主要で、安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かっている。

[13] [14]

縄文文化の歴史的変遷

縄文文化の分布範囲

縄文文化の定義は一様ではないため、縄文文化が地理的にどのような範囲に分布していたかを一義に決定することはできない。縄文土器の分布を目安とした場合、北は宗谷岬千島列島、南は沖縄島を限界とし、宮古島八重山諸島には分布しない(宮古島や八重山諸島は台湾島の土器と同系統のもの)。すなわち、現在の日本国の国境線とは微妙にズレた範囲が縄文土器の分布域である。

気候の変化と縄文文化の発展

縄文時代は1万年という長い期間にわたり、大規模な気候変動も経験している。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなった[15]

最後の氷河期が終わってから紀元前4000年頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期である。縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当する。この間に日本列島は100メートル以上もの海面上昇を経験しており、今日では縄文海進と呼ばれている。

縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。また地学的に見ても、北海道と樺太は繋がっていたし、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬列島は一つの大きな島となっていた。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15キロメートル程度の水路であった。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになった。

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部で、およそ11000年前に季節的な定住が始まり、10000年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる[16]。この時期の土器は北東アジア系、華北・華中系[17]、華南系[18]の3系統に分けられており、分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系は西日本、華南系は南日本から出土している。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。

縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在は三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、主にこの時期の文化形式である。この時期には日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していたと考えられている(後述)。海水面は縄文前期の中頃には現在より3メートルほど高くなり、気候も現在よりなお温暖であった。この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと林謙作は指摘している。植生面では関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯となった。

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、食料生産も低下する。その結果、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。関東では貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。一方、西日本や東北では低湿地が増加した為、低湿地に適した文化形式が発達していった。中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。その他にも、青森県の亀ケ丘遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。文化圏は9つから4つに集約される。この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「東日本」・「西日本」・「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしている。

縄文文化の地域性

縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。

土偶の分布に見る地域性

縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。

こうした土偶の使用の地域性について藤尾は、ブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。落葉性堅果類、すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に集中的に収穫され、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である[19]

縄文時代の文化圏

前述のように、縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられている。すなわち、

石狩低地以東の北海道 
エゾマツやトドマツといった針葉樹が優勢な地域。トチノキやクリが分布していない点も他地域との大きな違いである。トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。
北海道西南部および東北北部 
石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。
東北南部
動物性の食料としては陸上のシカ、イノシシ、海からはカツオ、マグロ、サメ、イルカを主に利用した。前2者とは異なり、この文化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。
関東
照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうちおよそ6割がこの文化圏のものである。陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心。海からはハマグリ、アサリを採取した他、スズキやクロダイも多く食した。これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘とした網による漁業を行っていた。
北陸
シカ、イノシシ、ツキノワグマが主な狩猟対象であった。植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化した。
東海・甲信
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモやユリネなども食用とした。打製石斧の使用も特徴の一つである。
北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)も加わる。漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴であるが、これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。
九州(豊前・豊後を除く)
狩猟対象はシカとイノシシ。植生は照葉樹林帯。最大の特徴は九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海を舞台とした外洋性の漁労活動で、西北九州型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代ポリネシアでも用いられていたが、この文化圏のそれは朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。
九州南部は縄文早期末に喜界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
トカラ列島以南
植生は照葉樹林帯である。動物性タンパク質としてはウミガメやジュゴンを食用とする。珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としてはシャコ貝やタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いた。九州文化圏との交流もあった。

の9つである[20]

これら9つの文化圏の間の関係であるが、縄文文化という一つの文化圏内での差異というよりは、「発展の方向を同じくする別個の地域文化」と見るべきであるとの渡辺誠による指摘がある。つまり、これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。

縄文後期に入ると、これら9つの文化圏のうち、「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少する。

勾玉からみる地域交流

遅くとも縄文中期(BC5,000年)頃にはヒスイ製勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されており、蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが分かっており、このことから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している[21]

植物栽培

縄文農耕論は、明治時代以来の長い研究史があり、農耕存否の論争は現在も続いている。縄文時代に植物栽培が行われていたことは確実であると考えられている。福井県の鳥浜貝塚の前期の層から栽培植物[22]が、早期の層からヒョウタン[23]が検出されている。一方、北部九州の後・晩期遺跡の遺物で焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられている[24]。福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析[25]、熊本市の遺跡でイネオオムギ、大分県遺跡でイネなどが検出されており、東日本からも、同じく後・晩期の10個所を超える遺跡からソバの花粉が検出されている。これらも焼畑農耕による栽培であると推定されている[26]

稲作の始まり

詳細は「稲作」を参照

現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカ焼畑稲作が行われていたことが判明している。

イネの品種には、ジャポニカ(日本型)・ジャバニカ(ジャワ型)とインディカ(インド型)があり、ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカに分かれる。温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるとされている。熱帯ジャポニカは、インディカの分布と重なりながら、更に広い範囲に分布し、陸稲と密接に結びついているのが特徴であるとされる。

列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。温帯ジャポニカによる水稲農耕の始まりも近年の稲DNAに基づく研究では、DNAの多様性が朝鮮半島の方が少ないことから南方経由の可能性が高いとされ、また朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないことや朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、日本列島のものを遡れないことなどから、稲作は日本列島から朝鮮半島へ伝播した説も出ている[27]

縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県上ノ原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールに至っては、後期後半の西日本各地の遺跡[28]から発見されている。熊本県下の上南部(かんなべ)遺跡の土壌と土器胎土からイネのプラント・オパールを見い出し、岡山県総社市の南溝手(みなみみぞて)遺跡で岡山県古代吉備文化財センターが発掘した土器6点を調べた内の4点からイネのプラント・オパールを見い出した。うち2点は、縄文時代後期中頃、およそ3500年前(炭素14年代)に属している。同センターは、穂を摘み取るのに使われたと推定される石器(穂摘み具)や、打製土掘り具と見られる石器を発見した[29]

このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギヒエキビアワソバなどの雑穀類の栽培やアズキ大豆なども混作されていた。

縄文時代の主なできごと

時期
区分
主なできごと
草創期
約13000年前

約10000年前
気候環境この期の初め頃は日本列島が大陸から離れる直前であったと推測されている。晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきた。「海進」という。
生活
住居
環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。狩猟の獲物は、ゾウ野牛の大型哺乳動物からシカイノシシの中・小哺乳動物に変わっていった。竪穴住居址からサケの顎骨発見。小型の骨製U字型釣針。
石器局部磨製石斧が作られる。呪術的なものか?槍・弓矢の製作・使用。
土器隆起線文系土器・爪形文系土器・押縄文系土器(多縄文系土器)女性像を線刻した小礫が作られる。

貝塚

早期
約10000年前

6000年前
気候環境日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。そして、初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30メートルほど低かった。その後、海水面の高さが戻る。
生活
住居
数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。ドングリクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていた。狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及した。
石器網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石なども使用されていた。
土器圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶が作られる。
貝塚貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。貝塚はヤマトシジミが主体であった。狩猟とともに漁労が活発化した。最古級の神奈川県横須賀市夏島貝塚、千葉県香取郡神崎町西之城貝塚。押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町先刈(まずかり)貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。人口2万100人。を人と一緒に埋葬。屈葬
前期
約6000年

5000年前

環境

気候温暖で海面・気温上昇(縄文海進、海水面4~5メートル高くなる)のため、現在の内陸部に貝塚が作られる。常緑照葉樹落葉照葉樹
住居竪穴住居が広場を囲んで集落を作る。湖沼の発達により丸木船が作られる。漁労活動開始。
石器木器・土器・櫛・黒曜石などに漆を塗ることが始まる。環状列石が作られる。
土器この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化する。土器は羽状縄文を施した繊維土器が盛んに作られる(→関山式黒浜式)。
遺跡耳飾り・勾玉・管玉などの装身具が作られる。立石列(りつせきれつ)環状石籬。貝塚。人口10万5500人。
中期
約5000年

4000年前

環境

生活
住居
集落の規模が大きくなる植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。
石器海岸線ほぼ現在に近くなる。大型貝塚形成。
土器石棒土偶などの呪物が盛んに作られる。石柱祭壇。抜歯の風習が始まる。気温低下始める。立体的文様のある大型土器が流行する。
遺跡貝塚。人口26万1300人。
後期
約4000年

3000年前
環境
生活
住居
大型貝塚。内陸地域にも貝塚が出来ていた。製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。伸展葬。交易目的の漁労民発生。
石器大湯環状列石ストーンサークル)、東北地方に集中。
土器村の一角に土器塚が出来る。製塩土器
遺跡ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。敷石住居址。人口16万300人。
晩期
約3000年

2300年前
環境気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動壊滅的打撃受ける。
生活
住居
木製の太刀。頭部外科手術か?漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。
石器北九州・近畿でも縄文水田。
土器夜臼式土器。
遺跡貝塚。人口7万5800人。

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フトマニ図(無断拝借

フトマニ図(円の一端を切り話して長方形に延ばしたもの)
12345678(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)

原子の周期率
12345678(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)
HnHe
LiBeBCNOFNe
NaMgAISiPSCIAr
KCaSeTiVCrMnFeCoNiCuZnGaGeAsSeBrKr
RbSrYZrNbMoTeRuRhPdAgCdInSnSbTeIXe

 上記表は、円形のフトマニ図の一端を切り、長方形に延ばしたもので、この状態で原子の周期率表と同じ様に納まる事が分かります。

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シュメールの洪水

シュメールの神話によると、エンキは人類が滅ぼされるべく定められた大洪水を生き延びるよう、助けを与えた。アトラハシス(またはジウスドラウトナピシュティム)の伝説によれば、神々の王エンリルは、地上に繁殖した人類の騒擾が耳に障ったため、彼らを滅ぼそうと企てた。そこでエンリルは人類に対し、1度目には旱魃を、2度目には飢饉を、3度目には疫病をもたらした。しかし、エンキは人間のアトラハシスに灌漑農業・麦の栽培・医学の知識をもたらし、腹違いの兄弟であるエンリルの計画の実現を3度とも阻止する。こうして、人類は4たび地上に繁殖した。これに怒ったエンリルは、神々の会議を召集した。エンリルは今度は、人類を絶滅させる計画を人類にもらさないよう、神々に約束させた。エンキは、アトラハシスという人間の住んでいるの小屋の壁を通して、彼ら人類に迫る危機を聞かせた。そして、彼にこっそりと、アトラハシスと彼の家族の乗るための舟の作り方を教えた。そして大洪水が訪れ、7日7晩続いた。洪水が引いた後、アトラハシスは、ツバメを放して、洪水の水が引いたかどうかを確かめた。そして、水が引いて船底が地につくと、神々に犠牲が捧げられた。一方、エンリルは、彼の計画が再び阻止されたことに怒り、エンキに容疑が着せられ、人類への罰が検討された。それに対しエンキは、エンリルが罪のないアトラハシスを罰するのは公平ではないと神々に弁明し、もしも人類が出生を適度に抑え、自然界のおきてを守るなら、神々も人類を滅ぼさないとの約束をとりつけた。ただし、もし人類がこの契約を尊重しないならば、神々が再び大破壊を引き起こすことは自由であると、念押しがされた。以上の話は、現存する最古の中東の大洪水伝説であることは明らかである。

縄文人の遺伝子


形質的特徴

縄文時代晩期人の男性の頭骨(レプリカ)。宮野貝塚岩手県)出土。国立科学博物館の展示[3]
縄文時代後・晩期人の女性の頭骨(レプリカ)。蝦島貝塚(岩手県)出土。国立科学博物館の展示[3]

縄文人の形質的な特徴を一般的に表すと、次のようになる。まず身長は平均して成人男性で160センチ弱、成人女性で150センチ弱。いわゆる彫りが深い顔立ちであり眉間が突き出しているが、一方で鼻の付け根が引っ込んでいる。眉毛は濃く、目は大きめで、まぶたは二重、唇はやや厚めで顎の骨が発達している。

こうした特徴を持つ人々が日本列島に出現した時期は、最終氷期の最寒冷期(紀元前160世紀すなわち1万8000年前に氷河が堆積して海水面が最も低くなり、オホーツク海から北海道に歩いて渡れるようになった時期)が終わった後と見られる。ただし、既に日本列島に居住していた後期旧石器時代人の形質が変化したものなのか、列島外から移住してきた人々の影響があるのかは不明である[4]

日本列島に住む人々の形質は、弥生時代以降現代に近いものに変化していくが、これについて列島外から移住してきた人々の遺伝的影響を重視する見解と、生活習慣の変化を重視し、列島外からの遺伝的影響は比較的限定されたもので、縄文人の系統はそのまま現代日本人につながっているとする見解がある。

縄文人のルーツ

形質人類学から見た縄文人のルーツ

形質人類学の分野では、化石人骨が比較的多く見つかっている東南アジア日本列島の旧石器時代人との類似を指摘する研究が多い。

これまでに出土した化石人骨と縄文人の関係を見ると、縄文人に最も近いとされているのは沖縄島出土の港川人(およそ1万8000年前)であるが、形質面から見ると縄文人は港川人の次の段階とまでは言えず、両者の間には更に1つか2つのミッシングリンクがあると考えられている[5]。身体のサイズは違うが、ポリネシア人と縄文人の骨格の類似性、また日本語ポリネシア語音韻が近いことから、ポリネシア人の祖先であるラピタ人がこのミッシングリンクをつなぐとも考えられている。

港川人の頭骨はワジャク人に近く、柳江人山頂洞人(中国)にはそれほど似ていない為、少なくとも琉球弧の縄文人の祖先は環太平洋方面から来たのではないかと考えられている[6]

分子人類学から見た縄文人のルーツ

母系のルーツ

ミトコンドリアDNA(母系)の分析による縄文人のルーツ解明が父系以前から試みられている。宝来聡によると、東南アジアの少数民族と現代のアイヌおよび琉球弧人が共通の因子を持つとされ、形質人類学においてこの両者と縄文人が特に近いとされることから、縄文人のルーツの一つに東南アジアの旧石器時代人が存在したとの見方が可能である[7]

一方、篠田謙一の研究によると、縄文中期以降のものとされる茨城県や千葉県出土の縄文人の化石人骨から採取されたミトコンドリアDNAは、ブリヤートの人々と共通の因子があるとされる。つまり、縄文人の母系のルーツの一つがバイカル湖周辺にあるとの見方もある[8]

溝口によれば、5万年から6万年前にインドを経由し東南アジアで放散した東アジア人全体の祖先[9]の中から日本列島に到達したグループは複数存在し、東南アジアから北上する過程で台湾南西諸島を経由し日本列島に到達した場合もあれば、一度北上し1万5千年前にバイカル湖周辺で寒冷地適応した後に南下し朝鮮半島や中国から日本列島に移住した場合、バイカル湖を経由せずに大陸を海岸沿いに北上し、ブリヤートあたりから南下したルートが存在すると考えると、日本列島の遺伝的勾配をうまく説明できるという。[10]。溝口の説の要点は東アジアグループの成立年代が6万年前であり、バイカル湖で寒冷地適応したグループがアフリカから中央アジアを経由したわけではないので、宝来の説とも篠田の説とも矛盾しないが、あくまで仮説の域であり、確定付ける根拠は無い。西九州大学大学、神崎、佐賀、日本の人類学のマーク·J·ハドソン教授は、日本が縄文時代になって、彼らの特徴はアイヌと沖縄の人々に見られる更新世における "原始モンゴロイド"人口が定住したと述べた。

父系のルーツ

母系のみをたどる解析に対し、父系をたどるY染色体は数万年にわたる追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。それに伴い、現代日本人は従来考えられてきたよりも色濃く古モンゴロイド的縄文人の血を引き継いでいる事が判明してきた。

崎谷満の分析では、日本人はY染色体ハプログループD2(縄文系)とO2b1(弥生系)を主体とする事が明らかになった。ハプログループD系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、現代のアジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y染色体の中でも他の集団から非常に古い時期に分かれた系統である。このハプログループD2アイヌ人・本土日本人・沖縄人の3集団に多く見られるタイプであり、朝鮮半島中国人漢民族)にはわずかしか見られない。このハプログループD2はアイヌ人の88%に見られる事から、D系統はかつての縄文人(古モンゴロイド)のものであると考えられている。但し縄文人のハプログループがD2だけだったとはいえない。あくまで現在まで伝わったハプログループがD2だといえるのみである。[11]

アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもYAPハプロタイプ(D系統)が研究されて、チベット人も沖縄人同様に50%の頻度でこのYAPハプロタイプ(D系統)を持っていることが分かった。このことを根拠にしてハマーは、「縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団で、彼らが東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着した」とするシナリオを提出した。[12][13][14]

現在世界でD系統は極めて稀であり、日本人以外では、遠く西に離れたチベット人、インド洋のアンダマン諸島人等に見られるのみである。一つの仮説として、東アジア及び東南アジアにO系統が広く流入した為、島国日本や山岳チベットにのみD系統が残ったと考えられている。なお、O系統はD系統が持つYAPなどのSNPを持たない。D系統からO系統が分岐したならば。当然D系統が持つSNPをO系統も持たねばならない。したがって、D系統からの変異や派生の可能性は分子生物学において否定されている。

日本列島にD系統の人々が入ってきたのは数万年前の最終氷期地続きの時代と考えられている。その証拠として、日本人のD系統にのみ見られる多くのSNPの発生があげられる。SNPは突然変異により発生する確率的な事象であるから、発生数によって時間の経過が分かるのである。

オロチョンから・・


この民族の代表的な生業は、内臓の食用・飲用や皮革採取目的でのの狩猟である。狩猟の対象の獣は、マールー(馬鹿(ばろく)、ワピチの亜種マンシュウアカシカ)、ノロ、ハンダハン(駝鹿(だろく)・ラクダジカ、ヘラジカの亜種マンシュウエルクジカ)などのシカ類やリステンオオカミイノシシオオヤマネコクマなどが挙げられる。狩猟時の移動と荷物運搬の手段は、伝統的には主にである。

シャーマニズムを信仰し、シラカバの樹皮を加工した工芸品(樺皮細工)が知られている。

オロチョン族の伝統的な住居は、比較的細いシラカバなどの幹の柱を何本も組んでその外部をシカ類などの毛皮で覆った円錐形の天幕式住居だが、定住化が進んだ現在では、日常的には近隣の漢族ロシア人と同様の住居で生活し、泊まり掛けの狩猟の際に山野で臨時に設けるのみである。このような天幕式住居はエヴェンキも伝統的に製作・使用してきた。

北海道網走市ではオロチョンの火祭りが行われているが主体はアイヌである。これは、「オロチョン」という言葉がアイヌを含む北方民族全体を指す呼称として用いられた時期があり、その名残りである。現在でも、語呂の良さから「オロチョン」の呼称が用いられているが、本項の民族に火祭りという文化はなく、全く関係がない。味噌ラーメン唐辛子等で辛く味付けした、「オロチョンラーメン」(またはラーメン店名がオロチョン)というものもあるが、オロチョンの火祭りから連想された名称である。

オホーツク海に面した網走では古来より北方民族との交流が盛んであり、モヨロ貝塚などではアイヌ民族とは異なるオホーツク人の人骨が発見されている。それらの経緯からモヨロ貝塚において1940年頃から「モヨロ祭」として北方民族を慰霊する祭が開催されていた。終戦後の1950年には樺太から引揚げてきたウィルタ民族やニブフ民族の協力を得て「オロチョンの火祭り」が正式な市の夏祭りとして組み込まれるようになった。

オホーツク文化には大陸系文化の影響が明確に認められ、同文化のアムール流域靺鞨族の直接移住説をはじめ多くの大陸起源説、影響説が提出されている[2]

オホーツク人の系統については、少ない文献と考古学的証拠をてがかりに古くから論議を呼んできた。現在のところ、大陸からの直接的な移住者が形成したものではなく、鈴谷式土器の時代(紀元前1世紀から紀元6世紀)から樺太に住んでいた人々の中から生まれた文化で、下って現在のニヴフ人につながるとする説が有力である。他に、靺鞨同仁文化のような大陸の文化や、古コリャーク文化トカレフ文化のようなオホーツク海北岸の文化との類似性が指摘される。[要出典]

オホーツク文化は、後期に擦文文化の要素を取り入れるようになった。トビニタイ文化の時代に擦文文化の要素はさらに強くなり、両方の文化要素の混在が見られるようになった。また、後のアイヌ文化の中には、熊の崇拝のようなオホーツク文化にあって擦文文化にない要素がある。そのため、この方面のオホーツク人は、擦文文化の担い手とともにアイヌ文化を形成したと考えられている。

日本書紀には、7世紀阿倍比羅夫が遠征の航海の途上、大河の河口で蝦夷粛慎の交戦を知り、幣賄弁島(奥尻島とも言われる)で粛慎と戦ったと記されている。その大河を石狩川とし、粛慎をオホーツク人とするのは、分布域と航海能力からいって無理がない解釈であるが、確証はない。

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