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出雲大社の御祭神


現在の出雲大社の御祭神はもちろん大国主大神さまですが、その昔、スサノオ尊とされていた時代がありました。
 出雲大社の荒垣入口の銅鳥居は長州の大名毛利家が寛文六年(1666年)に寄進したものですが、そこに刻まれた銘を見ると

 「一を日神といい、二を月神といい、三を素戔嗚というなり、日神とは地神五代の祖天照太神これなり、月神とは月読尊これなり、素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり」

 と書かれていて、この時代はスサノオ尊が御祭神であったことがわかります。

御祭神の歴史 

いつから切り替わったとはっきり伝わっているわけではありませんが、歴史を見ていきますと、古代からしばらくの間は大国主大神でしたから、創建時も当然、大国主大神であったことでしょう。また、出雲国造新任時に朝廷で奏上する「出雲国造神賀詞」においては「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」との記載がありますので、この儀式を行っていた平安時代前期までの御祭神は大国主大神であったようです。

鰐淵寺との関係 

ところが、これが中世の間のどこかから変わったようです。どうも鰐淵寺という出雲大社の北東にある大きなお寺との関係が起因となったようです。変わった理由について、國學院大學准教授の西岡和彦氏のわかりやすい説明がありますので、見てみますと、

 「中世の出雲大社は、神仏習合の影響を受けて、一時祭神は素戔嗚尊であった。それは鰐淵寺を中心とした縁起(いわゆる中世出雲神話)に、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、それが一般に広まり出雲大社までが祭神を素戔嗚尊とするようになったのである。」(しまねの古代文化第十一号、島根県古代センター)

 中世は神仏習合体制で、神社と寺院とかなり緊密な関係となっていたところが多く、出雲大社と鰐淵寺の関係もそうであったようです。最も神仏習合といっても、神社よりも寺院の方が力が強い事も多く、また学問といえば僧侶が中心でしたから、そのあたりも御祭神の変更に影響を及ぼしたのかもしれません。

御祭神の復帰 

豊臣秀吉の唐入りの際、出雲大社は所領を大きく減らされた影響から、江戸時代に入って鰐淵寺との関係はかなり薄くなりました。
 また儒学が盛んになると、神道が見直され「日本書紀」が広く読まれるようになりました。日本書紀においては出雲大社は大已貴神(大国主大神)のお住まいとして建てられた、という話がありますから、江戸時代中期には出雲大社は公式文書にもはっきりと御祭神は大已貴神と記載するようになり、はっきりと大国主大神に戻った、というわけです。

mihasira

映画談義「ま、いっぺん、いってみたかった。」  から・・

ずいぶん、前に書いたものですが、今回の地震のことでも、

恩恵を受け取った事すら知らない

と、似たパターンのものを感じます。

別件で、カテゴリをつくって、ぶつぶつ、書いていますが、

PDSTに配慮しない報道陣のあり方や、

見た目だけの問題にとらわれ、「ひとつにまとまる」ということを棚上げしてしまう自己主張など、

どこかで、たとえば靖国神社参拝への反対意見などに教唆される洗脳状況ににています。

パールハーバーにしろ、アメリカの海上封鎖により、日本をおいつめ、先に手をださせるしかない状況を計画的に作っていたことなどを知る人もすくなく、

日本が悪いんだ。とか、パールハーバーを忘れないなどというアメリカ人の言い分をまにうけたりしてる。

歴史の中で繰り返される政治的乖離現象ではあるのですが、

ゴジラの映画をみながら、

アメリカが計画的に日本をおいつめ、窮鼠猫を噛むの縮図を乖離してしまい

「噛んだ」ことを、大義名分にして、あげく、日本に原爆をおとした、その後ろで

娯楽である映画をカラーでつくる。

このことからして、いかに、チェスの駒をうごかすかのように、戦争をおこない・・・。

別の駒は映画を作っていた。

日本は総力をあげ、日本にとって戦争は「駒」のひとつではなかった。

チェスそのものに総力を投入していたわけだ。

【チェスという喩えは良くないが・・・】

あるいは、戦争が駒のひとつでしかなかった国と戦った日本のことを考えると

ゴジラという映画を作る(駒)をもてるようになった日本が、それでも、

その最初は白黒が精一杯だった。

***

BSでゴジラを見てる。

白黒の映画 だ。

製作されたのは
1954年とあった。

終戦から十年経ってない。
この映画を作る事も出来れば、
それをみにくる観客もいたという事だ。

わずか、十年足らず。
日本はよく復興したものだと思うと同時に
ココまでの映画を作り上げられる日本が
負けたのが不思議な気がした。

だけど、
戦争の真っ只中、
ウォルトディズニーはピノキオをカラー
で、作っていたんだ。

日本人の器用さに泣けてくる。

本当のことかどうかは知らない。
原爆が作られた頃、
日本でも、原爆の理論は
発見されていたという。

国が持つバックアップ体制。
日本が豊かであったら、
原爆が
おちていたのは、むこうさま?

どうだろう?

日本人が先に原爆を開発していたら、
むこうさまにおとしただろうか?

その応えは判らない。

わからないけれど、
もし、日本が先に原爆を落とし ていたら、
その痛みに今もくるしみ、
落とされた側は、
今も日本を恨んでいただろう。

戦争という
無益にしか見えない物事の中に、
多くの日本。が、見える。

日本が日本でありえた心。

遠い昔のある国。
アヘンに統治された人の心。

日本は受け付けなかった。
日本はその魂を崩さなかった。

戦争を肯定するわけではない。
だが、この戦争が見せ付けた、
日本の心に、
我々子孫こそが恩恵を受けている。

コレを思うと、
正直、
靖国神社参拝を反対するかんがえ方が判らない。

恩恵を受け取った事すら知らない
文字通り恩知らず。

偶像崇拝をする気はないが、
せめても、死んだ人間が与えた影響の大きさと
その影響がなんであるかだけは、
シッカリ見据えた上で物申してもらいたい。

と、ゴジラを見ながら、
放射能?を吹いていた憂生でした。

                 終わり

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卑弥呼と航海術を考え合わせる

卑弥呼について、九州説や畿内説があるわけですが、

憂生はこの元の文献をみますと、

この二つの説とも、曲解のうえになりたっていると思うわけです。

簡単に言えば、九州説は陸路一月だったか、海路一月を

一日の間違い。

畿内説は方向が南で東だ・・とか・・・。

で、元の文献を考えると、場所的にはもっと、九州のはるか南の方ということになり、

海路計算の一日をどう計算したかわからないことですが、

近くても、沖縄とか?インド沖?ハワイ近辺?

で、ここにかかわってくるのが、海流っていう奴です。

この間、TVでやってたのが、シドニーからブラジルまで漂流したひとがいて、

それが、3週間足らずで到着したというわけです。

これが、ちゃんとした船で、海流の向きがあっていたら、1週間もかからず、

到着したかもしれない。

逆を言えば、ブラジルからシドニーに舟でむかったら、

1週間でいけるかな?

で、これが卑弥呼の所在地に対しても言えるのではないかと思うわけです。

え~~、うろおぼえですが、

対馬海流だったかな?これが、北にむかってながれてるわけですから、

あのあたりの海流は南に向かう時はたして、どうだろうか?

憂生の九州、ウガヤフキアエズ王朝説、を考えると、

九州の日向から福井,若狭の日向にながれついた

宇波西神社の祭神はウガヤフキアエズということになるのだが、

これも海流にのれば楽に流れ着いたのではないかと思う。

その逆のルートをたどり、九州からさらにまだ南下する。

この海流が黒潮になるか?

また、それにさからっていくと考えられる。

果たして、海流に逆らいながらの一月とはどれぐらいの距離だろう?

おまけを言えば、海流に進路を変えられながらということだって考えられる。

もっと、近代にいたってはインドをめざして、アメリカにいっちまったってこともあるわけで・・/笑

九州から海路一月・・この計算方法がどうであるか、

一月の間の天候や風向きによっても、距離数は違ってくる。

どこと、特定することはできないが、逆に卑弥呼側から

中国大陸にむかうのは、かなり早かったと考えれば、

日本の要所、要所で、珍品?や貴重品をかきあつめて、

献上品にすることも可能だったろう。

このことが、卑弥呼の足跡になり、日本に卑弥呼がいたという

考え方になってしまってるのではないのだろうか?

千木のルーツやピラミッド信仰を考えても

アンコールワットやタイの影響が日本にはいってきているとも考えられるし、

スリランカの仏教徒繁栄を考えても、

このルートから、中国に仏教が伝わっていたとも見える。

案外、卑弥呼はスリランカとか?

シバ(神)の女王だったりとか?

まあ、確証の無いことを言っても仕方が無いが

唯一、物的証拠である「文献」を

曲げて、解釈しないと成り立たない九州説も畿内説も

なんとな~~~く、しっくりこない。

航海術という事を考えれば、

かなり早いうちに外海へ漕ぎ出せる船があったと考えられるし

スリランカからエジプトへ30000人もの仏教徒が移動していたとかいうのなら、

これも、紀元前3世紀頃にすでにする欄かではかなりの造船術あるいは、航海術があったとかんがえてさしつかえあるまい。

日本においても、それは同じだし、前述のシドニーのアボリジニが南アメリカにむかったのも

船だろうし、外海向けの船の壁画もオーストラリアには残っている。

航海術、あるいは、造船技術はかなりの水準があったと考えれば

いっそう、卑弥呼は日本の人物ではないとかんがえるほうが、

しっくりする。

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カッパドキア

この前から、カッパドキアという言葉が浮かぶ。

カッパドキア自体が地名か何かだという事だけは知っているが、

どこにあるか、なにか、はっきりわからないので調べてきた。

ここに書かれていたことで、気になったのは

古代核戦争についての記述だ。

失敬して、ほかのところから、記事をいただいてきたが、

憂生も人類が誕生して、いいところ、1万年

恐竜が居たの、ど~のこ~のをたしたって、

3億年がいいとこだろう。

地球の年齢が50億くらいといわれているが、

50億年のうちの3億年の前の時代に

別の文明があったとかんがえてもおかしくないし、

何らかの原因で文明が滅びた。

そして、また新たな文明と人類が発生していく。

そして、荒野と化した地球にはびこり始めた人類は

アカシックレコードにより、例えば、ピラミッドなどを建造していく。

こういうものも、おそらく前の文明にあったものではなかろうか?

その時代、その文明の時期により、作りあがられていく。

例えば小学生が粘土で物をつくる。

文明(脳・・)が育成されていくと、今度は木でものをつくるようになる。

と、いうところから、

だんだんとその学年によってアカシックレコードの情報がひきだされていく。

そして、いまや、叡智を極め、

確かに、核戦争・・

地球が滅びかねない繁栄(反映?)の過渡期を迎えている。

マヤ暦11月21日・・11月8日。

ずれがある。

仏教伝来はどこからか?


教伝来が遣隋使や遣唐使以前にあっただろうことは当然のことだが、

いかにも、日本に仏教をもたらしたのは、唐や隋などの方からだという。

だが、憂生はどうも、この説に賛同できない。

と、いうのも、キリストがエジプトにいた?

と、いう話からなおさら、そうおもうようになった。

前述したが、ショーペンハウエルによれば、キリストの思想?教え?は

非常に仏教に酷似しているという。

キリストが仏教を知る事ができたのだろうか?

と、いう疑問が生じる。

ここで、でてきたのが、キリストがエジプトに滞在していたという説。

エジプトにいたとしたら、仏教を知る事が出来た。

紀元前3世紀(うろおぼえ)

スリランカには3万人をこす仏教徒がいた。

のちも、

このスリランカからエジプトに3000人ほどの仏教徒をおくりだしたり、

エジプトのほうから、スリランカに修行にいったり・・・ということがあったようで・・・。

ここで、キリストが仏教徒から「教え」を知った可能性がある。

と、いうほどに形をかえて、仏教がキリスト教のなかにあるとするのなら、

日本にも、当然、形がかわってしまってるものがあるのではない?

日本には古神道があったはずである。

古神道のそもそものはじめは、自然崇拝であろう。

水の神がいる。山の神がいる。

要するに八百万の神。

で、仏教思想というのはむしろ、ヒンズー教のほうからではないかと思ってもいる。

千木のことでも書いたように、千木はタイやインド・・・からの伝来の可能性が高い。

千木の元は牛の角(頭骨?)

千木は結界や守護の意味があったと思う。

なぜならば聖なる牛の角なのだから。

つまり、千木は元を正せばヒンズー教からの発想ではないか?

このことから、仏教より、ヒンズー教の思想が入ってきたのではないか?

と、思われるわけだが・・・・。

ところが、紀元前3世紀スリランカに3万人以上の仏教徒集団がいた。

当然、ヒンズー教とともに、仏教思想がはいってくるのではないか?

このあたりの時期が、仮にキリストという人間とエジプトで邂逅した仏教徒がいたころだったとすると、

キリストの名前が出てくることもあろう。

キリストが奇跡を起こすほどの人間であれば、なおさら、口にのぼる。

これが、ひとつに日本にキリストが来たという伝説になる可能性もあり

エジプトにいたということからも、ピラミッド信仰もでてくる可能性もある。

まあ、枝話になった。

ヒンズー教と仏教はどうも、表裏一体のようで、

仏教の神々?仏?はサンスクリット語の名前を持っている。

大日如来(だいにちにょらい)、梵名 マハー・ヴァイローチャナ (महावैरोचन [mahaavairocana])は、密教 において宇宙そのものと一体と考えられる汎神論 的な如来法身 仏)の一尊。その光明が遍く照らすところから遍照、または大日 という。

と、いう具合であるが、(महावैरोचन )がサンスクリット語である。

つまり、仏教の神は梵字をもっているのだけど、これが、すなわち、インドの言葉。

中国語ではない。

ヒンズー教があって、仏教が生じてきたと考えたいのだが・・。

これが、すでに、千木を伝承した日本が、仏教(ヒンズー教)は伝承されなかったと

かんがえられるだろうか?

中国から、仏教を取り入れるまでに、日本には

受け入れられるだけのベースがあった。

ただ、経典という形になっておらず、口伝として、生活の中にとけこんでしまって、

千木のように、本来の意味が曖昧になってしまって、守護。結界。の意味合いだけになってしまったところもあると思う。

仏教伝来を待たずして、日本にはすでにインドルート?から

仏教(ヒンズー思想)が入ってきていた。

それが日本の古神道ととけあっていた。

う~~む。

もう少し煮詰めないと・・見えてこない部分がある。

九頭竜と石神


この前、やまたのおろちは九頭竜ではないかということで、

紛々の推測をかかげたわけで、

平行に並んだ九頭竜なら八又のおろちになるというところであるが、

越の国からやまたのおろちがくる。

という記述を発見し、やまたのおろち=九頭竜であると、きめつめたのである。

問題の九頭竜であるが、これも、九竜省や九紋竜史進の名前などから

中国的であると思う。

と、いうことで、話を一端、おえたわけである。

ところが、まだ、考えることがある。

石神とのかかわりである。

石神はいそ神でもあるとおもうのだが、この話は又べつにして、

石神というと、御神体が石に象徴され

石・岩・・という大きなものから、ひいては、山そのものの

三輪大神をおもうのである。

三輪大神はもちろん、蛇神であるわけで、

海中から姿を現し三輪の地にまつれといったこともあり、

三輪におさまっているわけだけど、

この大物主も石神であるとかんがえると、

九頭竜川であり、若狭近辺に類型が見られる。

若狭の常神半島は、その名前からして、いかにも神在りの名前であるが

この半島のつけねあたりに塩坂越という地名があり、

これを、「しゃくし」と読む。

石神はしゃくじんであり、しゃくじであり、しゃくしである。

渡来してきた民族を象徴するかのようであり、

実際、帰化人・・帰化神を祭る神社も日本海側に多く

大陸との行きかいもあったものとうかがわせる。

そして、この石神一族は、帰化していくようで、

福井の地名に、丹生の名前が見られる。

石神一族が、若狭湾あたりを闊歩し

九頭竜川の治水などに一役買ったと考えると

その民族を称し、九頭竜族であり、これが、出雲のほうまで

進出していったのが、前述の「越の国からやまたのおろちがくる。」になる。

こう考えるとやまたのおろち退治は九頭竜族(ひいては、石神族)征伐であろう。

スサノオに征伐された九頭竜族はやがて・・・。

↓の如くにあいなり、出雲族の傘下となる。

古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。

そして、この中で奇妙な科白が↓であるが・・・。

「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」

これも、石神渡来人説とスサノオ渡来人説を考えるとなんとなく合点する。

つまるところ、同胞であるという考え方である。

また、一方でこの言葉をそのままにうけとめるから、妙なことになるとも思う。

実際、魂の問題については一考するところがあり、

四魂説については、似たような体験があるので、意味合いは事実であると思うが

この場合、魂を「意志」と考えるとわかりやすいのではないのだろうか?

スサノオの傘下にはいろうと決めた九頭竜族は

「私は貴方と同じ幸魂(同じ目的を実現する意志)をもち、

貴方と同じ奇魂(目的を実現させる(奇跡)意志)をもっている」

と、表明するわけである。

そして、大和国三輪あたりを自分の統治下として認めろといったか?

その辺りを出雲族の配下として、制圧していくということか?

このあたりで、大物主(物部氏)、またも、にぎはやひの存在がでてくるのであるが、

スサノオが制圧したのも、にぎはやひであるかもしれない。

つまるところ、

やまたのおろちは、にぎはやひ族であると考えると

傘下にはいったにぎはやひが

美穂崎神社のことしろぬしの元にはせ参じる記述があるのもうなづける。

美穂崎神社の一件は大和朝廷側(アマテラス族)の国譲りをさす。

直属の出雲族のピンチであり、またも、存続の危機とあいなったにぎはやひが、

美穂崎神社、ことしろぬしの元に駆けつけるのもうなづける。

追記:

憂生は伝承の中に事実がうずもれていると考えています。

先日もダビデの星云々しましたが、

情報が氾濫しすぎてなにもかもこじつけすぎているという気がします。

その時代にかわらず、あったもの。

それに対する、人間心理。感情。というものから、紐解いていかないと、と、思います。

北極星に対しても、同じように、古代?の人々は何を感じたか。

月や日のように位置を変えない普遍性をみて、

北極星への信仰がうまれたのではないかとか、

その北極星への信仰が篭目紋になり、

正義を通すというか、真理の一義により、

篭目紋は籠の役割同様、

物事をきちんと所定の位置に収める。

ひいてはゆるがせてはいけない。

真義としての象徴であったかもしれないとか、

紋などのように、こういう民衆の裏心理の象徴の部分を考えてみたいと思っています。

一つの物事に感じる人間心理というものに

さして、違いはなく、時代の新旧にあまり関らないことだと思います。

ただ、籠をたとえに上げましたが、

今の時代、籠というものが、生活に密着してないせいで、

どういう人間心理をもつだろうか?ということなどはみえにくくなっていて、

★紋だけをみて、ダビデの星だなどとひっつけて考えてしまうのが

現代人だとも思います。

そのあたりをできるだけ、当時の人間心理にちかづいた発想で

ひもといていかないとみえてこないのではないのだろうかと思ったりしています。

かごめの唄について・・。

その昔・・ひとくだり、もがいた覚えがあるが・・・。

かごめというのは、加護芽・・でもあろうかと思う。

籠の網目模様は一説に封印・・・塞ぎの印綬のもようであるという。

つまり、表面的には、祟り神?などの存在を捕縛し封印するための道具が籠であったと思われる。

だから、昔・・例えば、罪人は籠の中に閉じ込められた。
本人を縛っても
その呪詛の念を封じ込められないので
この罪人を宙にうかして、
地面を歩かせると・・地面がその念を吸う。
まあ、一種の呪縛霊的考えである。
そのために宙に浮かせた状態で
罪人を運んだのだが
この本人から出てくる念が道行く人々にふりかかってはいけない。
と、いうことで、
篭目模様の中に念ごと捕縛したと考えられる。

そして、
白砂でさばかれるわけであるが・・・。
この白砂というのも、
知らすである。
本人の意識に自分の罪を知らせる。
と、いう意味と
白く・・白日の下にさらす。
白状するとつかうように・・・。
白砂は、さらしの場所である。

このさらしについての四の五のは、どこかの日記に書いたので省く。

また、す・・とは、清めるという意味をもつ。
さらに言えば元々の善人/憂生は性善説の考えなので/に、戻らすという意味であり、
罪を認めて、己の素性を知り無垢な赤子にかえる。
こういういみであると思う。

実際・・・。
酢をみても判るが、毒気のつよいものなどは、
酢でしめる。
素に戻る。/元の姿にかえる/
巣に帰る/からすの唄じゃないけれど、
自分の本来の安住できるなぐらに帰る。

と、いうように、
清めの意。
元に戻る。
の、意味がある。

で、話を戻して
白砂で裁かれたあとの話はおいといて・・・。

籠の中の酉/囚人?はいつ出ると、
唄は尋ねる。
この場合の囚人というのは、呪詛のエネルギー/念波・・祟り神そのもの・・・。
本体のことをさすのであろう。
一度沸いたエネルギーは何らかの形で
その固体からはなれえたとしても、
エネルギー不変の法則からいえば、
何らかの形で
体内から飛び去った後に
どこかで、昇華・・・浄化されなければいけない。

と、いうことで、
例えばあえて、祟りをおこしそうな、神・・
菅原道真などが、そのたとえ。
こういうものにエネルギー変化をさせる。

いわば、まことの昇華/固体から気体への変化ができたのであるから、
その気体を怨のままにしておかず、
呼び名をかえることで、消滅させる。

名前もまたひとつの印綬であるとさとっていただきたい/これは、安陪清明の受け売り/

そして、籠の鳥がでるのは、夜明け前。
当然・・・行く先は西/西方浄土

その時に鶴亀鶴亀・・
と、怨のかぶらないように、わが身を護る。
/この考えはくわばらくわばら・・と同じで桑の木には、雷が落ちないということで、自分は桑原・・だと名前を変えるおまじない/

と、同時に相手の?名前を変える作用で、念をかぶらずにすむ。

そして・・最後。
滑った。

この意味の解釈がややこしい。

す/〆/殺/が、・・減る。

末の他・・。

つをのと読めるので・・。
このおまじないで、
自分の末代まで、怨をかぶることは、ない。
怨をかぶるなど自分のことでなく他事である。

と、とればいいのだろうか?

こう取ると
篭目の唄はものすごい、加護の芽の唄なのである。

足羽を考察

この前から、ひとつの「名前」が気になっている。

「足羽山」である。

継体天皇関連の石棺がある、福井の足羽山である。

足羽・・・足に羽・・というとギリシャ神話のヘルメスだったかな?

ゴルゴン(メデューサ)を退治するときに、アルテミス(だったかな?)から空飛ぶ靴を渡される。

この靴を履いたら、まさに足に羽がはえたがごとく空を飛べる。

ひょっとして、靴のデザインにも羽が付いていて、遠くから見たら、足に羽がはえているように見える?

だが、それは、ギリシャであり、日本の神話ではない。

日本の飛ぶ道具というと、天の岩舟になってくる。

だが、天の岩舟に立った姿をして、足に羽が生えてるというのには、無理がある。

此処で、もう一度、仕切りなおす。

足羽・・。この言葉の音はあすわ。そのまま読めば、  あしはね。音だけをくりかえしていくと、

「あしはね」が「あすわ」になるまでに、何段階かの変化があっただろう。

単純に「あすはね」が中間にあったとする。

と、此処まで考えたとき、逆に、「あすはね」こそが、語源ではなかったか?

と、思えてきた。

と、いうのも、この地方はサ行の発音が巧くないのだ。

「もし、もし、先生」こういう電話の語り口がどうかわるかという笑い話さえある。

「もし、もし、しえんしえい」と、こうなるんだと笑いの種にされる。

関東地方の「ひ」と「し」の発音訳が違う。

火箸でなく、「しばし」七輪でなく「しちりん」

東北のほうも「し」が「す」になる。

地方によって、発音が違うことはままある。

漬物のラッキョウ。カレーライスの横についてる、それ。

これを四国のほうだったか、

「らんきょ」になる。

吃音が「ん」にかわっている。

この談でいくと、「あすはね」が「あしはね」になってもおかしくない。

で、この説を進めていく。

音だけで、考えてみるのは、逆にあとから、漢字があてはめられたと考えるからだ。

「あすはね」が「あしはね」になったと考えれば足羽の漢字が後世にあてはめられたと考えられる。

逆に「す」ときいた音は本来「し」であると考えたのかもしれない。

だから、耳できいた音は「あすはね」だが、文字にするときは「あしはね」だと考えた。

そして、意味合いがおなじ漢字を当てはめる。

耳で聞いた「あすはね」の意味合いに通じる漢字が「足羽」になり、発音はあすはね。あすはねの「は」は「わ」の音にもかわるか?

「あすわね」という発声が「あすわ」にかわる?羽とかいて「はね」と読むし「は」とも読むのでありえよう。

まあ、この変化の段階は言語学の範疇になり、憂生にはわからないことだが、

「あすはね」が「足羽」になってもおかしくない、「あすはね」の意味を考える。

直ぐ浮かんできたのは飛鳥の「飛」

これをあすと読むとしたら、「あすはね」の漢字は「飛羽」だったのではないか?

こう、こじつけると、「足羽」は「飛羽」で、ヘルメスばりの空飛ぶ靴でなくても、かまわなくなる。

「飛ぶ羽」天の岩舟をあらわしたと考える余地が出てくる。

福井はいろんな産業が発達しており、卑弥呼が献上した「けん」という極上のおりものも福井の羽二重のごときものであろうと言われている。

福井の名の通り、水が豊富で染物や和紙も多く作られる。刀剣や養蚕・・漆器、これらの過程にも水が要る。その水を治める治水技術も逆に利用する航海術も産業も発達していた。

その卓越した技術は古事記の中でもとりあげられているし、継体天皇が天皇になれた理由のひとつもそれらにある。

ところが、これらの飛びぬけた技術。は、どこから来たか?である。

渡来人?中国や朝鮮にちかい北陸であり、漂流してきた?渡来人がそもまま、神様として、祭られている痕跡もある。

これらの技術は渡来人により、もたらされ、その恩恵の大きさから技術を伝えた渡来人が神に祭り上げられるようになった。

こう考える歴史学者が大半であった。

ところが、技術を伝えたはずの中国側から中国製品より、もっと古い和製漆器がみつかり、じっさい鳥浜貝塚からも中国より以前の世界最古の漆器が発掘されている。

つまり、「これらの技術は、渡来人からもたらされたものではなくなる」

そこで、「飛羽」に戻る。

天の岩舟をして、UFOであるという説がある。

天の岩舟と呼ばれている岩をみても、これが飛んだとは考えにくい。

重力、磁場変換装置を搭載し・・・などと贔屓目に考えてもありえない。

そんな技術があるなら、もっと、快適な乗り物の姿になるだろう。

似て非なるもの。あるいは、UFOの着地した付近に元からそういう岩があったか、着地により岩が露出したとか・・。

そう考えておくとして、UFO説を信じるとしたら、足羽山にUFOが降り立ち(不時着?)地球での生活を余儀なくされた宇宙人がこの地球の産物を利用して、道具を作るしかなかった。

その技術が伝承され、越しの国あたりいったいの技術力が卓越していった。

漆器は漆を利用するが、これも、北陸あたり、上には非常に多い植物で、若狭地方には、NHKドラマでも有名になった若狭塗り箸もあり、実際、漆の木はそこかしこに生えていた。

勾玉にもつかわれたであろう、めのうの産地でもあり、山陰の国引き伝説でも、北陸をひっぱてきたという美穂崎の国引きがあるが、これもこの技術をとりいれようとした象徴のようにも思える。

そして、天の岩舟にのっていたとはっきり名前があげられているのが、ニギハヤヒである。

九鬼文書などでも書かれている、かき消された王朝ウガヤフキアエズ王朝と不思議な存在である、ニギハヤヒになに、なんらかのかかかわりがあるように思え、

おまけを言えば、古事記のなかから消されたように以後現れない、月読が、実はウガヤフキアエズ王朝ではないかとも思える。

たかが、足羽、なれど足羽。

ここまで、考えてみると、「足羽」は、重要な歴史的証明をもった名前なのかもしれない。


饒・・ニギハヤヒのニギであるが、このニギは、活発な様をあらわすと考えられる。

日本・・・の日より、速く、行動するというのは、

ヤマト朝廷より、はやく、ヤマトの土地におりたったというをあらわすか?

あるいは、

にぎ・・和、にぎみたまとかいうように、和をいみするなら、

国譲りの仲介?補佐役として、抜擢されてもおかしくない。

事代主の名前があとからつけられたように、

ニギハヤヒもその名前をあとからつけれたものとするなら、

日の出ずる処の天子より先に天孫降臨がおこなわれたんだと、

つけれた名前かもしれない。

もっぱら、漢字よりも音を重視するのだが、

これは、漢字が音をあとで、当て字にしているかもしれないばあいもあると思うから。

とは、言うものの、うまやどのおうじとか、/漢字変換しない~~~。

一説に馬やの中で産気づいてうまれたとか?

こういう部分でも、音と意味をまず、先に考える。

ニギハヤヒを天孫降臨の元祖としているのが「物部氏」の史伝なのである。


最近まで、古代史にのめっていた。

きっかけは、単純。

憂生は輪廻転生を信じていた。

だから、自分というものの元が、いったい
なんなのだろうとかんがえさせられたせいである。

単純に考えると答えなぞ、みいだせるわけがない。

ところが、ひとつの示唆があった。

ひとつは、
自分を月読だといった事がある。

月読は神話においての登場人物であるが、
憂生は日に対峙する者。
影で万物を支える「思い」を計り知れる人間になりたいと思って
例えて言えば
「月読」でありたいと、思った。

だが、おかしなもので、
その名前を否定?するものが自分の中から
わいてきた。

この沸いてきたという事については
憂生を知る人には、さして、不思議でもなんでもない事柄なので、説明はあえて省く。

その時に沸いた名前が
「すくね」であった。

もちろん、言葉は音。
どんな字があてはまるか、わからない。
わからないままに思ったのが
「宿根」
だった。

これは、当然、白蛇抄においても、ちらりと出てくる名前なので
憂生がこの「すくね」を「宿根」と、考えたのだろうと思われるけど
実際は違う。

こっちのほうが先で、白蛇抄の天界と居を異にする独り神の名前につけた。
この神は人間の運命を掌る神であるため、
私情/そのほかの神の/を交えずに
人の誠を計りながら
運命を差配していく。
一切、外界と自分を断ち切って
人間の誠と業/思い方/をはかりにかけながら、
人の生き様を見届ける。

いわば、閻魔大王のように、おもえなくもないが、この神は閻魔のように人間をさばきはしない。言ってみれば、試練?を与えていく神といっていいかもしれない。
その人間の分に応じて・・。

話が随分それてしまったが・・・。

「すくね」という言葉が舞い上がったのちに、
ある人から、
憂生の身のうちに、
「白蛇」と「鬼」がいるとつたえられたことがある。

これは、当初自分が描いた物語を読んだせいではないかとかんがえていた。
だが、いろいろ、事情がみえてくると、
確かに、「白蛇」と「鬼」がいるのが判ってきた。

荒唐無稽な話で自分でも大笑いの部分があるのだが、
細かな説明は省いて
その内に
「白蛇」なるものが、なにであるか・・・。
これが、馬鹿のように気になって仕方が無かった。

そこから、古代史にはいりこんでいくことになったのである。
どうやら、この「白蛇」が「三輪の神」の別の姿であるとかかれている文献に出会った。

ところが、この三輪の神はその文献に依ると
「大国主命」であり、「すくなひこ」でもある。
と、さすれば、すくな・・をすくねとききまちがえたか?

などと思いながら
寝入った明け方
「おおくにぬし」と、呼ばれて目が覚めた。

次の日に別の事件があって
誰かに別の人の名前を呼ばれて目が覚めた。

別の人というのは伯父の子供の名前である。
ゆえに伯父は死んでもまだ浮ばれず
親戚筋のこちら側をみて、
間違えたか
あるいは、なにか伝えたかったか。
伝えたかった思いは良くわかる。

こうなると、憂生をして「おおくにぬし」と呼んだも同じように誰かと間違えたか?
おおくにぬしにつたえられる立場の人間が憂生であるか?

と、なったときに
先ほどの「三輪の神」が、浮上してきた。

さらにそれを調べ上げていけば
なんのことはない、憂生の先祖?にいきつくわけである。

苗字や地域・・・などなど手繰り合わせていけば、憂生の祖先は「物部氏」になる。

そして、この物部氏の祭神が
三輪の神・・・という事になる。

さらに地域的に言えば
この物部氏がどういういきさつかわからないが
神話の二番目の土地に浮上してきて、
憂生の血統の中に
ニギハヤヒが登場する事になる。

このニギハヤヒの登場も両面からで、
地域特性のようなものから調べていったものと、
単純に「宿根」と、いうのだから、
宿神だなと、シュクジンで調べ始めた。

シュクジンという部分からしらべていくと、
なんというか、
逆にでてきたのが、「石神」で
この「石神」イコール「宿神」で
今も地名に残るものもおおくあり、
石神井などもそのひとつであるわけだけど
こんな風に考えてみると
はてさて、憂生、いや、人間のルーツというのは石・・?
宇宙のかなたからの隕石により、
地球上に生命体が発生するに必要な要素?(爆発とか、熱とかミネラル?)
が、生じたとするなら、
人類の起源は「石」なのかもしれないと、
勝手に得心していたのである。

ところが、
この「石神」も「宿神」も「月読」も「大国主命」もあるいは、「三輪の神」にいたってまで、ニギハヤヒの直属?別称?ともいわれる文献に出会ってしまったのである。

このニギハヤヒ・・憂生はにニギの尊のことだと思いこんでいたが
どうやら、天孫降臨の後?
高天原からおり下ってくる別の神なのである。

さらに調べていけば、
このニギハヤヒを天孫降臨の元祖としているのが「物部氏」の史伝なのである。

現存する古代史は、大和朝廷様のものがほぼであるが、
日本のあちこちに天孫降臨の伝承がある。

その部族・・・民族の発生?というか、
各々に部族を部族たらしめたお天孫なるものが、居る。

この、ニギハヤヒ伝説、他地区においての天孫降臨についても、
どうも、スサノオとの関連がいなめない。

根のかたす国におもむいたスサノオとあるが、
どうも、彼こそが
あちこちに種の起源をばら撒いた元ではないかと思う。

それが証拠に草薙の剣は熱田神宮の氏子?のものであるという論争があったように、
スサノオの直系なるものが、あちこちにいるのではないか?

ニギハヤヒとスサノオ。
大国主命とスサノオ。
ニギハヤヒと大国主命。

なにかしら、不思議なえにしを感じるのは憂生だけであろうか?

ニギハヤヒのことからの思い・・。

どうも、彼は天孫降臨とは別の次元?で
地上界におりたってきたらしい。

物部氏の祖神ということで、
物部氏の神話になるのであろうが・・・。

単純に九州地方。
淡路島。
竹生島。
富士山。
大台ケ原?

など、天孫降臨の場所が分布するのは、その地方地方に豪族なる民族がその場所を制圧していたということになろう。

ところが、
ある文献によると、
高天原とは、違うところから降りてくる神が
いるらしい。
どうやら、これが、ニギハヤヒで、
ある種の文献によると、
世界立替・・の救世主になるのが、ニギハヤヒであると謳われている。
だが、神話と仏界の違いがさっぱりわけがわからなくなっている憂生であるが、
3億???年後に弥勒菩薩が世にくだり
みろくの世にして、衆生を救うだっけ?
こんな話があるのは知っている。
3億とひとえにいっても、実際
いつから、数えて3億なのか、さだかではない。

だが、この弥勒菩薩はまだ、どこだっけ?
かで、修行しているとか・・。

で、この弥勒の世という弥勒菩薩と、
ニギハヤヒがおなじではないか?
と、いう論説があって、
天孫降臨とは別にやってくるのは、
弥勒界からニギハヤヒがくるということである。

と・・・。

う~~~~~む。

実際、ニギハヤヒの血統が日本全国を統治する
活躍があったようなのであるが、
これが、結局物部系統ということで、
ヤマト朝廷の手柄ではない。
なんだ、それでは、本当はニギハヤヒが
日本を統治したみたいなもんじゃないか?
と、いうことでは、やまと朝廷の面目がつぶれ、沽券にかかわり、支持率がおちる。
と、いうことで、ニギハヤヒがあちこちから、削除されていき、
ニギハヤヒを祭る神社も
ニギハヤヒとして、まつる事がヤマト朝廷の点前、反旗を翻すようなもので、
なんだかよくわからないが、
あちことの神に名前をかえて、まつられている。
と、いうのであるが・・・。

だけど・・・。

なんかしら・・・。

憂生がニギハヤヒを思い浮かばされるときは
不思議と
「にくい」と、いう感情のトキなのである。

これは?

ひょっとして、
ヤマト朝廷に握りつぶされたニギハヤヒの怨念?

怨念がおんね~~~~ん。
いや・・つまらん・・。
怨霊の音量はでかい。
さらに、つまら~~~ん。

で、
ニギハヤヒに残った念は
ヤマト朝廷によって、活躍を削除されたこと?
手柄を横取りされたうらみ?

ニギハヤヒが第二の天孫降臨?なるものを
ねらうは、
一種
汚名挽回?

こういう野望感覚ではないかと、思えて
弥勒菩薩浮上がニギハヤヒであるという
考え方が妙にしっくりこない。

憂生の考え方に
たてる筋はたてるしかない/おい!なんか消極的だぞ!/
ってのがあって、
ニギハヤヒの到来というものが、
実際弥勒菩薩の到来のことであるとしても、
ニギハヤヒのバックグラウンドに
たてるものをたてられない心情があるようでは、
弥勒の世なぞにできるわけがなかろう?

エリートがエリートを生むというわけではないが
どこかで、愛/慈悲つ~~んか?/
が愛をうむものであるとおもう。

だから、ど~も、
うらみがましく、疎外されたニギハヤヒの
いさぎよさのない根性がちらほら、みえかくれすると、どうも、
まゆつば、まゆつば、と、用心?する憂生がいる。

なににせよ、
神や仏などというものに、すがる?
頼る時の人間の考えというのは、おかげ信仰でしかない。

憂生のフレンドである、
風海のほうが、よほど、自分の欠点さがしなどをして、慈悲を施すにたりうる人間にいっぽでも、ちかづこうとしているようにみえる。

わが身の欠点ひとつ、克服できないものが、
平和な家庭を築けない可能性があるのとおなじように、
修羅心をのこしたままの神は、はたしてどうだろう?

こんなことをかんがえてると、
よほど、神?仏?はよきよき友人のなかにこそ在ると想う憂生なのである

オオクニヌシとニギハヤヒが

さて、また、別の見解。

オオクニヌシとニギハヤヒが
同一人物であったという説や
兄弟で有ったという説もある。

そのなかで、スサノオの5代あとが、
オオクニヌシだという説もある。

と、なると・・・・。

先の見解をなぞらえてしまうと、
実は
スサノオ=大物主となる。

ふ~む?

ニギハヤヒは天岩舟にのって、光臨したとも言われている。
三輪山神のご神体のひとつに
大きい岩があり、これが、天岩舟ともいわれているのだが・・。

神話的にいえば、
天神であるニギハヤヒの父祖も
当然、天神であろう。

ヤマト朝廷がアマテラスを掲げるなら
あるいは、
ニギハヤヒは
月読尊か、スサノオを掲げてもおかしくない。

そして、先に書いたスサノオ=大物主

どこか、おかしい。
むしろ、行方不明になった、月読尊が
大物主?
実は削り取られたウガヤフキアエズ王朝の始祖が月読尊で、
ニギハヤヒが子孫?

むしろ、アマテラス王朝?でなく、
本来はウガヤフキアエズ王朝で
ウガヤフキアエズという名でよばれたニギハヤヒ側がヤマト(オオクニ?)という名前?
この名前を襲踏し横取りして
ウガヤ王朝を滅ぼしたという事実を伏せなければ成らなかったのは
ニギハヤヒが
正統な天神であったから・・。

どの系統だろうか?
残る、月読か、スサノオとすると・・・。

見方を変えれば、
この部分が
アマテラスとスサノオの誓約に見えてくる。
ヤマト朝廷を主軸とする。
属国として、スサノオが統治するウガヤ王朝?あるいは近畿一帯?出雲一帯を差し出せ。
こうすれば、ニギハヤヒから奪い取った行動がいわゆる、錦の御旗になる。

また、別の見解から
ここで、石神伝説に突き当たってしまう。
岩舟という石神。
ニギハヤヒは天岩舟に乗って近畿に降臨し、その土地を「そら見つヤマトの国」と、呼んだ。

岩舟が何を表すか、
単純に隕石とか火山とか地震とか?
こういう天変地異でしかないと思うのだが、古代人の発想、観念の虚をついて、ニギハヤヒが登場したとも思える。
「この地方を収めるぞ。いやだったら、また岩を降らせるぞ」
ってな物かもしれない。

そして、注目すべきは
そら見つ・・である。
そらは空だろうか?
祖ら・・ではどうだろう?
先祖たちが見守ってくれているヤマトの国。

もっと、突拍子なく考えてみる。
そして、見る。
月の字の底を塞ぎ、足をはやした(生活していく)様とも取れる。

つまり、空にあれば月
地にあれば見

祖らである月読尊が地上におりた、ニギハヤヒを見守るヤマトの国。

こんな解釈。

あるいは、空ととっても、良いのだが
ここには、日と月がある。
日(アマテラス)でなく
月が差配し動いているさまを暗愈して、
見るを入れる。

つは天津神とか言うように
「の」という意味でもある。
もちろんこれは、見つの「み」を
「見」ととった場合。

音を文字にしてしまうと、わからなくなる部分があるが、
仮にみを三にあてはめると、

祖ら三のヤマト・・とも考えられる。

三はアマテラス・スサノオ・月読の3神とすれば、
ニギハヤヒが本来のヤマトの後継者とも考えられる。

荒唐無稽のまま・・終わる。

ヤマトの名前は、ニギハヤヒによって作られた。

ヤマトの名前は、ニギハヤヒによって作られた。
と、いう説がある。
また、すでに天孫降臨なるものがあったか?

ナガスネヒコは

「すでにこの地には天神のニギハヤヒが降り、わが妹を娶り、日嗣皇子をお生みになり、この地をヤマトと名付けている。私はニギハヤヒに仕えている」
言われた神武は
「それならば、天神の証拠を見せろ」
と、いうことになる。
そこで、ナガスネヒコは天羽羽矢と歩靫を差出すと、神武が納得したという。

そして、ニギハヤヒの子供が神武に
天瑞宝を奉献し、天皇のための鎮祭をとり行う。
この天瑞宝が、物部氏の神宝として有名な「十種神宝」となったとも?
また、物部氏(ニギハヤヒの子孫と考える)の呪術?がそのまま、天皇家に移行している節もある。

つまり、ヤマト政権はニギハヤヒを継承したとも、ニギハヤヒを土台にしたとも
考えられる。

それほど、ニギハヤヒがヤマトにうちたてた国は整っていた?

昔の日本では、弓の弦を鳴らす呪術があった。その呪術を石川麻呂が宮中で行った。天皇は驚き、不比等も驚いたという。
と、いうのも、この呪術は
三輪山の神を呼び出す呪術だったから。だが、天皇と藤原氏にしてみれば、
宮中にて三輪の神が威光を振りかざされては面白くない。
なぜ、面白くないか?

話が長くなるので
細かい所は省くが
三輪山神は大物主であるが、これが、いたるところに出現している。
このあたりの論点からオオクニヌシとの接点がみられ、
オオクニヌシ=ニギハヤヒという説が浮上する。

もしかすると、
ニギハヤヒがヤマト国の初代。
そこをつぶして、アマテラスのヤマト朝廷が確立する。
そして、その土地において、ニギハヤヒを殺害して国を得たとするのは、
やばい!!
そこで、ニギハヤヒ(オオクニヌシ)の出所を出雲にすりかえ、
近畿地方いったいの正統な統治者として、大和朝廷が確立していったといいぬけたかったのだが、
ところが、先にかいたように、
物部氏の呪術、ニギハヤヒの呪術をそのまま、継承しているヤマト朝廷である。
いわば、陶物のように、ニギハヤヒの確立したものの上にのっかったといえる。

つまり、宮中で弓をならされるという呪術は、暗に
「あなた方はニギハヤヒの政権を
物部氏の呪術を、そのまま、盗んだ上になりたった張子の寅でしかない」
と、言われているようなものである。

大和朝廷の内部にて、
祟神天王の頃、
アマテラスとヤマトノオオクニタマの二神を一緒くたにして、しかも天皇の御殿内部に祀っていた。これがいけないと分祀する動きがあるが、
はて?
ヤマトノオオクニタマ
???

これは何ぞ?

ニギハヤヒがその地をヤマトと呼んだのが先ならば、
ヤマトノオオクニタマ
は、ニギハヤヒ、あるいは、
三輪の神ということになりえまいか?

そのヤマトノオオクニタマの正体をしっているかのように、
あるいは、呼び出すかのように
弓を鳴らす。

こう考えれば
天皇も不比等も驚くのが判る。

もうすこし、
ヤマトノオオクニタマ
なるものを調べないと判らない部分があるので、
ここまで。

ニギハヤヒはアラハバキ文明に関与?

ところがである。
宇は宇宙の宇で述べたと思うが(うろおぼえ/あはは)
ウガヤ王朝は九州、日向と考えている。

と、なると、ニギハヤヒ《ウガヤ王朝?》の
ヤマトの国が近畿と見なす見解がずれてしまう。

そこで、出てくるのが
やはり、福井県の宇波西神社。
ここにウガヤ王朝の一派が流れ着く。
あるいは、ニギハヤヒその人かもしれない。
そして、
敦賀、気比神社の地にて、誓約をしてから、
奈良の隕石事件を盾にして
近畿に踊りこんだ。

そして、この地を掌握。

アマテラスとスサノオの誓約のなかで、
月読尊が抹消されたのは、この部分にふれるせいかもしれない。

また、調べてみなければ判らないが
7・5・3
3人の女神
5人の男神
が出ているのに
7人の・・・が出ていない。

それに類似するものが、
通称虹の戦士、アラハバキ?の戦士
虹であるから、当然、7人。

これが。月読尊の所産とも、解釈できる。

そして、この虹の戦士の中の一人が
ニギハヤヒであるという説もある。

大和朝廷からも
あるいは、スサノオからも封印された
月読尊という存在が、
実はニギハヤヒに通じる。

面白いことに
ニギハヤヒの使いはウサギだったと思う。

月にウサギ。
古代から、月にウサギがいるようにみえたことと思う。

そして、因幡の白ウサギ。
妙なとりあわせであるが、
これが、月読の出雲関与をにおわせる。

ヤマト朝廷と争い、赤裸にされた
月読の手当てをするオオクニヌシ。

スサノオの台頭の影に、なにかしら、
月読の怨み?を拭う
あるいは、ニギハヤヒをまもるべく
盾になった、オオクニヌシの心が見える気がする。

継体天王排出の地「福井」


ちら読みの冊子なので、
あやふやな記憶であるが、
継体天皇の記事がでていた。

憂生は、この継体天王の石棺がある、福井、足羽山ちかく?に住んでいたことがある。

そういう意味で馴染み深い名前なのであるが・・・。

突然の北陸からの天皇排出。
不思議な気がする。

記事は越の国に、それそうとうの
文明?が発達していたというものであったが、このあたりに、継体天王が、代を継いだ謎が隠されているのだろう。

形は前王朝の息女との婚姻。
であったとも言われている。
いわゆる養子って奴だな。

どちらにしろ、なにやかや、
卓越したものがあるのは、判る気がする。
塗り物、和紙、刀剣。
今も残る工芸を考えても、
その技術の継承があったと思われる。

一方で、もうひとつ、頭をかすめてくるのが、九頭竜川である。

名前からして、妙。

何かしら、中国的?な感じがする。

クーロンといったか?
四川省あたりに、九龍という地名もあったし
三国記《三国志ではない》のなかに
九紋龍・・ししん・・だったかな?
こういう名前の人物が登場する。

九・・・。

日本的にいえば、八という末広がりの文字がたくさんという意味を表すことは
八百万の神。
嘘八百。
八百八(橋・町・・)
八又おろち・・・、
など、でもわかるように、通常なら、
八と表現する所が九頭竜と九に成っている。

と、いうことは、
越の国は海を越して中国などとの交易が盛んだった?
そして、その頃のヤマト国よりも
ぬきんでた技術?などが発達していた。

実際、嶺南の敦賀は、今でも、ソビエトの船などよくはいってきていて、
町の中には英語が通じない異国の人間がうろついている。

継体天王・・・?
ひょっとして、中国人あるか?

などと、思ってしまうのであるが、
ところが、
文字をいうと、
日本の漢字を中国にもっていくと、
「中国の昔の漢字」といわれる。

こう考えると日本のほうが、
古い?

やはり、独自なものが、ありながら、
中国文化を取り入れていった。
と、かんがえるべきか?

実際、福井という所は
新しい文化をすっと、吸収する土壌がある。

このあたりのいろいろは省くが
こういうことのもとは、継体天王の頃につちかわれたものか?

丁度、宇和島藩主は埼玉だっけ?
そこから、藩主を招きいれ、
宇和島には独特な文化や、考え方?があるという。
こういうことか?

などと思いつつ、

しゃて、昼飯つくろう。

今日は、チキンスープの味噌ラーメン。
麺がないので、買いに行ってくるべ!!

屋根の様相は確か、国津神(地方豪族)のものと記憶する


近所に八幡神社がある。
氏神であるのだけど・・・。

祭ってる神・氏神を確認していないのだが、不思議な気がする。

まず、はじめに鳥居がある。
石段を上っていくと。寺によくある、
阿吽像。が、山門を守護している。

そして、さらに上ると
神社に行き着く。

神輿もあり、神輿には、八幡大菩薩の使いといわれる鳩が描かれている。

屋根の様相は確か、国津神(地方豪族)のものと記憶する。

はて?

鳥居があって、神社様式であって、
菩薩?

憂生の勉強不足だが、
こんな形態、ほかにあっただろうかと想う。

山門があるのは、寺。

仁王を山門に配置するのも寺ではなかったか?

東大寺の仁王像。
寺だよな。

寺形式の建物を、立て直すことがあったとしても、まさか、神社には立て替えないだろう。
もともとの形が継承されたと考えたい。

と、なると、ここは国津神の神社だったと考えられる。

それが、戦国時代?に勢力を伸ばした
他の豪族により、八幡大菩薩が祭り上げられた?

だが、待てよ。

菩薩は仏教だろう?
だったら、山門は納得できる。
だが、
神輿は?神事だろう?

他の神を失念してるけど
じっさいはそのほかの神のための
神社?

神輿のことはよくわからないが
そこに鳩を描くとなると、
神輿の神は
八幡大菩薩になる。

菩薩は神か?

なにか、仏教の祭る観音や阿弥陀や如来や菩薩・・・という
一連の観念ではすんなり理解できない。

ほかに、こういうところがあるのだろうか?

八幡神社自体がこういう構造なのか?

元々、祭られていた国津神の様式が受け継がれ、祭りは当然神輿。
神主も居る。

あとから、この地方を勢力下に収めた豪族が、八幡大菩薩を祭らせた。

祭り。神輿をやめろとなったら
反抗分子は何を起こすかわからない。
やむを得ず、鳩を彫らせた神輿での祭りを許可?

山門は?
八幡大菩薩のために、あとから建立?

う====ん。
わからん。

そもはじめ、八幡大菩薩とは、なんぞや?
古くは宇治拾遺物語だったか、
清水の舞台だったか?
「南無八幡大菩薩」と叫んでとびおりたら、怪我ひとつなかったとか、こんな話があった。
源氏だったっけ?
駿河丘?八幡宮に参って必勝祈願をする?
たしか、源氏方だったとも想う。
し、武士の守り本尊であったと想う。

まあ、いい。
整理つかない、ごたくを並べてても仕方がない。
ちょっと、これも、保留物件だ。

皇神道

え~と、確か天皇家には、すめらぎ神道(皇神道)があったはずだなと、思い返していた。


伊勢神宮にダビデの星がある、と、いう、まことしやかな、

流説や、

イスラエル民族の流出・・・が、彷徨えるユダヤ人として、

日本にも、流れ着いている。


とか・・・・。


だが、伊勢神宮が建てられた頃は、

すでに、陰陽道が、入ってきているだろう。


単純に五ボウ(変換文字見当たらない・・・)星でしかないと、考えるべきじゃないかって。


ところが、

天皇家には、すめらぎ神道がある。


これは、陰陽道とは、もっと、違うところからの派生だと思いたい。


なぜならば、


太古の昔から、かんなぎ(巫)が居たから。


占いの痕跡はいくらでも、残っている。


シャーマンの存在といえば卑弥呼が有名だけど


憂生は、実は、天照と呼ばれることになった

巫が、シャーマンとして、実権をにぎり、

大和朝廷の基礎になっていったと考えている。


こう考えると

陰陽道より古い、日本独特の

神道があり、

それが、歴々と天皇家に伝わり

今も残っている。


その中に五ぼう星があったと考えたくも有る。


これは、憂生の不思議な部分での解釈なのだが、

ある人が(霊能力者ではない)

自分の修行?の元を明かさない。


で、憂生の中に沸いてくるのが

金剛武神・・・。


と、


北斗神剣。


そのことから、陰陽道かと、尋ねたら

違うと帰ってきたのだが・・・。


のちに、金剛武神を調べ、北斗七星を守護にもつ、

大阪のなんとか?にいきあたったのであるが・・・。


だが、


それより以前の憂生の中の理解では、

北斗七星・・・は、ウシトラ金神・・国常立

なのである。



つまり・・・。


天照より、もう一つ古いものが出てくる。


なにか、陰陽道と古神道が、どこかで、塗りつぶされ、混色している。


これも、古事記、日本書紀の仕業か?


もしかすると、


もっと、古い時代から

五ボウ星があった。


その5ボウ星はすなわち、北極星。


是を指し示す、北斗七星が神格化されるのは、

たとえて言えば

本当の祭神である、ウケノ神・・とか、であるはずなのに

使いである「狐」が神聖視されるのと同じ。


北極星が裏神道に残っている。


天照より、もっと、古い時代から、

受け継がれた「すめらぎ神道」の中に


はっきりと、国常立がいる。


では、国常立とは・・・。


と、いう事になる。



このあたりは、これから、もう少し、調べていかなきゃ成らない。

スサノオとアマテラス ウケイ(誓約)をたて

スサノオとアマテラスで
心の潔白を証明するということで、
ウケイ(誓約)をたて、
それぞれの持ち物から、5男神
3女神を出だすのであるが、

このうけい(うけひ)に、別の字をあてることがある。

宇気比である。

宇はウガヤフキアエズのところでも書いたが
宇宙の宇・・と捉える。
八宇一絃という、日本軍が持ち出した観念を見れば、宇の意味も大きい。

一種、宇という∞の存在を神として、
それが、お互いの「気」を比べあった。

まさにアマテラスとスサノオの神話どおりである。

ところが、
北陸、この土地に、気比神社というのがある。

神社は菊16弁の紋だったと記憶する。

そこにも、やはり、スサノオが祭られていたと思う。

「うけひ」の後、
生まれ出た女神は
宗像三神として、厳島神社などに祭られているが
どうも、女を生んだほうが、より真であるという形がとられている。

一説には、後の推古天皇や神功皇后の
存在を肯定するためとのことであるが、
その説(女を生んだほうがより真)と、いう考え方は、もっと、別の観点から発生したと思われる。

と、言うのも、土地にも寄るのかもしれないが
男子を成しやすい夫婦は、女房さんのほうが偉い?きつい?という。
女の子を成しやすい夫婦は、女房さんが一歩引いた人が多いという。
ほんまかいな?は、おいといて、
他にも1姫2太郎というように、女子が先がよいとされる。

その考え方の元が此処にあるのかもしれないが
まあ、女を生むがより真とされたスサノオの心境、いかなるものだったろうか?
(ここでは、スサノオの剣から生まれた3女神でも、アマテラスがかみくだいたという部分でアマテラス側が女神をうんだと考えてます)

そして、気比神宮・・。

宇はついていませんが、
スサノオ自身という一種の宇が神社(かむろぎ)のなかにいるのだと考えたら
宇気比神社とかんがえられるわけで、
はて?

これは、どういうことだろう?

第2位に落とされた誓約を、立て直したか?
新たなる、宇によって
宇気比が行われた聖地(かむろぎ)だったのか。

何にせよ、この土地はかなり古い土地。
そして、あの継体天王の福井という土地とも、近く、
また、息吹山に継体天王像があったと思うんだけど、気比神社はその中間地点でもある。
宇があるいは、継体天王を現すのかもしれないが、
なにかしら、二つの豪族?が宇気比をした場所とも考えられる。
豪族だから、当然、宇はつかない。

そう考えると、この気比神宮のある敦賀の地名の由来に行き当たる。
古い呼び名は
角鹿(つのが・・つぬが)
豪族?だろう。
土地の境界を決めるために
一方は越前のほうから
一方は丹後のほうから
鹿に乗って歩いていき
双方が出くわした所を境界線にしようということで、
鹿の角がぶつかり合った所、
角鹿という土地の名になったという。
小規模な国譲にも見えなく無いが
ここを境界にしましょう。
お互いを侵略しないで起きましょう。
と、誓約(うけい)をたてた。
それが、ひょっとすると、
気比神宮の名前の由来かもしれない。

などと、
宇気比の文字あてをみながら、思った。

素盞嗚神社から

http://www.genbu.net/data/bingo/susano_title.htm

より、転写。

社伝によると、天武天皇の御宇(672~686)の創祀。
醍醐天皇の御宇(897~930)に再興されたという。

当地は、江ノ熊・江隈・疫隈などとも呼ばれていた地で、
当社は、「備後国風土記」にある「疫隈國社」である。
蘇民将来伝説の発祥の地であり、全国祇園社のもと。

北海にいた武塔神が、
南海の神の娘のもとへ通う時、日暮れてしまい、
当地で宿を求めた。
当地には、将来兄弟が居り、
弟の将来は豊かであったが、宿を与えず、
兄の蘇民将来は、貧しかったけれども、宿を貸す。
武塔神は、南海から八柱の御子を率いての帰路、
当地で、報復を行うことになるが、
蘇民将来の子孫には、腰に茅の輪を付させて目印とし、免れたという。
武塔神は、その時、「吾は速須佐雄の神なり」と名のったという。

当地が通過点だとすると、
北海は日本海、南海は瀬戸内か太平洋になる。
やはり素盞嗚尊は出雲の神なのだろうか。

ちなみに、かって境内に早苗松という三株が一所に生えた老松があり、
巨旦将来(蘇民将来)の屋敷跡だと伝えられていた。

どうも、情報が交錯しているようで/笑

茗荷峠というのがどの位置にあるか、わからないが、

海の民族は、鞆きんぺんだとすいそくする・・・。

一方、前述の神谷川は、素盞嗚神社に近い。

神谷(かや)川の茅とかんがえていいかもしれない。

いっぽう、ちがや・・・であるが、

茅の写真にもあるように、気候、場所によって、

赤くなる。

これは、血をおもわせる。

ひょっとすると、茅萱でなく、

血茅だったのではないだろうか?

もう、疫病で血だらけですよ。みたいな、めくらまし的いみあいもあったのでは?

すると、疫病のほうも、もう、死にかけてるなら、いいや。と、

感染しなかったとか/笑

まあ、こんなことをおもうのも、ひとつに、滋賀県、姉川の決戦跡地が、

血原とよばれたりとか・・。

音でかんがえたほうが正解ではないかと思うことがしばしばあるので、

スサノオは、

「ちがやをつけなさい」

と、いったのかもしれない。

それを茅(ちがや)ととったのかもしれないし、

茅萱も、茅は蘇民将来の一族だと教える(宣)草なので、

茅だと宣する、萱。

と、疫病にたいしての特別な言い方かもしれない。

スサノオと海の民族と・・茅

友人へのメールをかいていて、

そのなかで、ふと、おもった。

まず、とりとめないメールを添付。

蘇民将来の茅(ちがや)をおもわすな・・・。
かや⇒茅
ちがや⇒茅
並べたけどおんなじ字だよね?

鞆の沼名前神社が祇園社の発祥のようで、
元々、スサノオがそこら辺に立ち寄った時の話がもとで・・・。

蘇民将来の兄は金持ちで
武塔神(スサノオ)はコタン将来のところに宿をかりにいったのだが、
コタン将来はことわった。
蘇民将来は貧乏だったけど、できる限りのことをしてもてなした。

それで、遠征?のかえりに武塔神は
実は私はスサノオだとあかして、
蘇民将来への礼として・・。
疫病が流行った時に蘇民将来の一族は疫病にかからないようにしてあげよう。
蘇民将来の一族だとわかるように、茅を目印にしなさい・・・。

てな話があって、これが、祇園社の元になるようで、
祇園社というのは、祇園精舎からの命名で、
で、祇園精舎を護るヒンズー教?のなんちゃか?
仏教でいうのか?牛頭大王というのが、祇園精舎、仏教・仏教徒を守護するわけで、
スサノオが牛頭大王に転生したとか・・・。

話ずれついでに、
牛頭ってのが、妙なもんだとおもっていたら・・・。
この間の千木。
どうも、あれは、元々は牛の頭?角をあらわしていて、
牛の頭(角?)(骨)をタイとか?ではのせていたらしい・・。

ヒンズー教では、牛は神聖視されてたっけ?
豚?

そういう意味合いで、牛の頭が千木のもとだったたわけで、
牛頭という事自体が結界とか・・・そういう意味合いがあるから
牛頭大王が護るというのは当たり前の話で、
なぜ、スサノオがそこにむすびつけられたのか?

疫病から護るくらいだから、
仏教ならなおさら・・・てところか?

で、[こひちろうのひとりご]の中に
府中?かどこかの峠で、スサノオが海の民族と別れをおしんだってのがあるんだよね。


つまるところ、鞆とその辺りはスサノオのルートで・・・。


かや川の名前からも茅(ちがや)をそこから、もっていったとか?
神の谷の川にはえている茅は霊験あらたかとか?



元々は「音」だけだったんじゃないかともおもうから、
かや川の神域をかんじて、神谷とあてはめたのかもしれないし・・・。

*******

新市あたりに流れる川の名前は、神谷川といい、

それを

「かや」川と読むときかされたことにはじまるのだけど・・・。

蘇民将来というのが、いわゆる、府中?の峠まで

スサノオを送っていった海の一族ということではないだろうか?

そして茅のことは、その時にスサノオが教えた。

帰り道、海の一族は神谷川にはえる茅をもって、

鞆にかえっていった。

神谷川の上流あたりでは、今でも、井戸?があり、

その水をくみあげて、生活用水につかっていて、

水道代がほぼ、ロハのところがあるとかで、

この湧水についても、かなり古い信仰があるようだ。

スサノオの時代から、湧水については、神聖視され、

それなりに「お水さま」として、祀られていたのではないかと思う。

その水の基が神谷川であろう。

故に神谷川はお水様の神室だったとも思える。

そこに生えてる茅ならば、もっと、霊験あらたかというもんで、

海の民族が鞆に帰るときに茅を持って帰ったとも考えられる。

通常の人間心理を考えても、そういう「方法」をおしえられたら、

さっそく、試す?というのがあると思う。

話を聞かされた海の一族は帰り道に早速、茅をもってかえることにしたのではないだろうか?

それが、沼名前神社においての疫病の社?(前記事に名前がでている)になった。

*スサノオの足跡がつながりはじめたきがする。

八幡神社。やはた(やわた)と、呼ぶか

八幡神社。
これをはちまんと呼ぶか、
やはた(やわた)と、呼ぶか
で、ちょっと、意味が違ってくる。

八幡の八は「多く」の意味と解していくとはたが多い。
はたと、いえばやはり、秦氏だろう。

で、ここで、八幡神が出てくる。
秦氏が祭る神に八幡神が有る。

出雲系でもなく
大和系でもない
秦氏の氏神といっていいかもしれない。

そこで、
八幡菩薩のなぞが解ける気がする。

帰化人とも介せられる、物部氏の意見が取り入られず、仏教擁護が確立したのは、大化の改新のころだったか?

ちなみに、現在、日本の神社でおおいのが、稲荷神社。それについで八幡神社なのであるが、

この神社の多さを想うと、逆に秦氏の勢力分布図が見えてくる。

稲荷神社の本来はとようけのかみ?だったかな?
食物をつかさどる神だったように覚えている。

秦氏の氏神となれば、大和政権の尊位を損なわせる存在と相成る。

いっぽうで、稲荷はその名の通り、稲の神であるともいえる。

大和朝廷からみれば、
稲荷は、ほっておいてもかまわない存在であるが、
神として、名乗っている八幡神ではちょっと、まずい。
祖神として、大和の神とならんでしまうから。

それでかな?

と、想う。

八幡神に八幡大菩薩の号をあたえることで、仏の位置に追いやる。
言い方をかえれば、神社でなく
個人(秦氏)の仏壇的位置に八幡神を追いやる。

秦氏からのクレームも回避できる。

大和朝廷において
先祖は天津神であり、
あとの神々は国津神でしかないのだけど、それでも、勢力を増してくる秦氏の
信奉する神が、秦氏の勢力の象徴になって、世の中に伸しだしてくるのが、
一番、面倒なことだったろう。

仏教と神道を切り離すことも難しく
八幡神を仏道を守る神(八幡大菩薩)に仕立て上げることで、仏教を取り入れた大和朝廷の傘下に入ったとみなされる。
このすり替え心理を使い、
八幡神に菩薩の号を与えられたとも考えられる。

そう考えれば
神社と寺の奇妙な融合に納得がいく。

まあ、他にもいろいろな説はあるが、
秦氏の勢力基地をそのまま
八幡市と考えると
津々浦々に秦氏の勢力が伸びていったことがわかる。
滋賀県あたりにも秦壮町だったかの地名があるし、秦を機織の機と考えれば
衣食住の一番最初の衣の部分で、国内に多くの技術を与えていった存在でもありえる。
また、一説には
八幡市のそのまま、
鋳物などの技術も秦氏のものでありえたと考えれば、一族という意味でなく
技術としての秦氏の浸透は、国に蔓延している。

簡単に祭神をかえればよいという
簡単なものでもない。

また、うろ覚えなれど
憂生のいう八幡神社にはすさのおが祭られていたとも想う。
と、なると、鋳物鋳造など、すさのおとの融合(合祀)もありえる。

秦氏とすさのお。
また、一方、物部氏という
高等技術者集団の存在。

妙なものも感じる。
物部氏のなか、橋の名前を持つ子孫は
二つに分類される。
じっさい、橋を作る高等技術者。
という衣食住の住にかかわる存在。
もうひとつの橋は神との橋渡しという祭祀的(あるいは、巫的存在)として、
民間の中に土着していった可能性がある。

秦氏はあるいは、八幡神社として、伝承され、
物部氏は、民衆の中に溶け込んでいったのかもしれない。

もう少し、物部氏の信奉について、
調べてみないとわからないが
三輪神社など、巫的存在として祭神のなかにうまく溶け込んでいったようにも、みえる。

竹内文書から・・・

北辰星霊験記では神道の根源神クニノトコタチ尊が神名の上で宇宙の根源神で実体であるブラフマンと習合し・・・(2chのスレから、拝借)

皇祖皇太神宮に着目したのは、尖山がピラミッドであるという

竹内文書が皇祖皇太神宮に伝わった古文書であるからだ。

もうひとつは、国常立命の関連。

国常立命は妙見信仰にもつながっていくようだが、

本来を言えば北極星。

根源神である、国常立命が北極星になったのは、

その名前からも明らかなことだと思う。

日にしろ月にしろ、その位置は変わる。

これを「国」のめどう。礎という存在に考えた時実に不安定な代物である。

動かない天空の存在として、北極星が神格化され国が常に立ち行く象徴になったのは

納得できることである。

だから、伊勢神宮の星紋は国常立命、つまり、

国が常に立ち行くであると思う。

をうけた神社として、伊勢神宮と日御岬神社をあげたことがあるが

あるいは、そのを下した大元が根源神(天)である国常立命であろう。

日御碕神社において、星紋がかかげられているのか、定かではないが

一説のスサノオこそ元神であるを信じれば、日御碕神社に星紋がなくても納得が出来る。

まあ、これはこじつけすぎるかもしれない/笑

この国常立命については、個人レベルでの北斗神剣がうかびあがってきて、

妙見信仰とは、別のものであると解釈しているのだが、

このあたりは、それこそ、竹内巨麿や出口王任三郎のごとき天啓発布になってしまい、

信憑性も確証もないという意味合いで荒唐無稽の代物でしかなくなる。

そういうわけで(どういうわけで?)伊勢神宮の星紋はユダヤ教からのものではない。

と、思っている憂生なのであるが・・・。

ところが、竹内君は

神日本魂剣
オオトノチの剣(ヒヒロガネ)
ヨセフとマリアの像
モーゼの十戒石
不合朝 御神骨像など,

証拠品とおぼしきものをもっていて、ヒヒロガネなどは、

その成分がわからない。地球のものではない。

とか、オリハルコンではないかとか?

実のところ、竹内君と意を同じにするのは、

ウガヤフキアエズ王朝のことで、

スサノオやニギハヤヒあたりは、ウガヤ王朝の血統をもっているのではないかと

思っている。

新勢力ともいえる、アマテラスを錦の御旗にうちたてた大和朝廷に

滅ぼされた。

この辺りの見地にたって、

国常立命とのかかわりがどうであったか。

ウガヤフキアエズ王朝の祖神として信奉されていたのだとしたら、

スサノオが王朝の血統であったのなら、

日御碕に星紋がなくてもおかしくない。

スサノオイコール国常立命であろうから。

スサノオがウガヤフキアエズ王朝の血統であるという考え方があてはまるか。

考えて見たいと思っている。

もちろん、歴史浅学の憂生のこじつけ論だから、

成り立たないと思ったらころりと変わったり

別の仮説が出てくる。

http://www.kousokoutaijingu.or.jp/siryou01.html

沼名前神社と祇園社

以前沼名前神社にスサノオが合祀されたことについて、

誰がいつごろ合祀したのか、わからない。


もしかすると、元々、スサノオが祭られていたのかもしれない。

神功皇后により、おおわだつみに祀り変えられただけかもしれない。

何故なら、おおわだつみなら、天津神の様相であるべきだろうに、

沼名前神社は国津神の様相である。

こんな内容の事を書いた。



ところが、地元の郷土研究家である方の自負出版本を読んでいたら、

かなり、はっきりしたことがかいてあったので、

抜粋してみる事にする。



沼名前神社は旧国幣小社で、

備後ではもっとも古い由緒を伝える古社の一つである。

平安時代の延喜式と言うほんの中では既に神名が見られ

海を護るわたつみの神が祭られている。


現在は明治9年スサノオを祀る祇園社と合し、

その本殿にわだつみの神を

相殿にスサノオを祭っている。


社伝によると、わだつみの神は神功皇后が三韓渡海も途次

鞆の沖で尺余の霊石が海中から湧き出したので


この石を浦にまつり、「渡守の神」として海路の平安と戦勝を祈願し

凱旋のときに、まいていた

「稜威の高鞆」を奉納されたので、

この浦を「鞆」と呼ぶようになったとの古伝が残る神社で

別名「渡守〔わたす〕神社」ともいわれる。


慶長年間に大火にあい、当時の領主

福島正則が現在の地に祇園社と並べて移したものである。



祇園社のほうは、

備後風土記に出てくる「疫隅(えすみ)の国社」といえわれ

スサノオが備後に来て当時勢力を張っていた

巨旦将来を退治し

弟の蘇民将来を助け

その子孫にいたるまで「疫病(えやみ)」を払う

蘇民将来子孫茅の輪」の伝承にもとづいて

スサノオの神徳をたたえてまつられたもので・・・

この伝説は全国的に流布し

ついには、京都祇園社の起源ともなっている。



備後風土記にも書かれているように

今も備後地方では善神の蘇民一族の証拠である

「茅(ちがや)」を輪にしたもので、悪魔払いをする。


*********

で、憂生 にいくつかの「ちかり」がある。

京都の八坂神社だったかな・・

あそこが、スサノオを祭っていたんだよな。

で、この疑問がひとつとけた。


そみんしょうらい・・・・

どこかで、きいたことがある。

こどものころだろうか?

憂生 自体、若狭近辺の人間で

京都あたりにも縁があるし・・・。


そういえば、呉線だったかな?

電車に乗ったときに

「祇園まつり」をやってる神社をみて、不思議に思ったことが在る。



そみんしょーらいは、

「いぼ、とか、おでき、をとるときのおまじない?」


そして、「茅」これは天の茅鉾?


で、「かや」と読んでいたときには判らなかったのが

「ちがや」

ようは、「おちごさん」と呼ばれる

七五三ににた行事があるんだけど、3才か5才か?


「ちがや」=「ちご」=「七五三」


そして・・・注連縄を「七五三縄」と書く場合が在る。


ちがやでこさえた縄と言う意味合いだろうけど、

これは、

すべて、スサノオに起因する?



妙に・・・「とおりゃんせ」の歌詞がきになりだした・・・。


天神さまのおふだ・・・。


この天神も、スサノオか?


ちょっと、まとまらないのは、いつものことだけど、


なにか、

スサノオ信仰はまだまだ、形をかえて伝承されてるそんな気がしてきた。


まちがいなく、大和の国のほとんどを

スサノオが掌握していたか、

あるいは、彼の功績をたたえられている。(たたら、製鉄・・・治水などなど)

集落の発生が地方豪族の基になるか?


最も古い定住集落が発見されているのが九州南部で、およそ11000年前に季節的な定住が始まり、10000年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。

歴史を齧ってみる1のほうで、九州、日向にウガヤフキアエズ王朝があったのではないか?

と、いう荒唐無稽を呈したわけだけど、

現天皇歴は2670年と記録されてもいる。

その2670年以前に豪族あるいは、部族の存在があることは、古事記・日本書紀でもうかがえることである。

ただ、前政権については、抹消あるいは、わざと記録しない・編纂された年代のせいもあって

定かでないなど、前政権?の詳細がわからない。

そんな中で浮上してくるのが、ウガヤフキアエズ王朝で、物によっては3000年ちかく続いた王朝であるといわれる。

3000年続いたはちょっと、信憑性を欠くが

当初は小さな集落であっても、定住により人口が増え、当然「長」とよばれる存在や

巫に準ずる存在が発生してきたと思う。

そういう集落が日本のあちこちに出現し、日本において、九州あたりは、とくに気候的にも恵まれ大きな集落ができていったと考えられる。

まるでアメリカの州のように日本各地に小政権(と、いえるかな?)があったと考える。

その細かい部分をいいだすと、いずれのちに例えばログでいえば「越の国」「あらはばき文明」「大和朝廷」「出雲族」などなどに発展していくと思う。

古事記などのなかで、簡単に国譲り、天孫降臨と、表されている言葉のうしろは

他所の政権の掌握、他所部族の統治でしかないだろう。

そのときに、九州地方にウガヤフキアエズ王朝があったとみなしていくと、

古事記や日本書紀に大和朝廷?がウガヤ王朝を滅ぼした余波?(証拠?関連?)が

みえてくる気がする。

もちろん、王朝と命名したのは後の人間で、本人たちは

せいぜい、ウガヤフキアエズ酋長?をいただく、部族くらいにしか考えていなかっただろう。

そういうウガヤフキアエズ王朝からの伝承みたいなものも

継承?強奪?している部分も多くあるのではないだろうか?

例えば、アマテラス(日の神)信仰なども元々はウガヤフキアエズ王朝の考え方で

後世につたわっていくうちに、大和朝廷の始祖の位置におきかえあれてしまったのかもしれない。

こういう風に考えると、古事記・日本書紀などのなかのエピソードもなにかを暗喩していると取れる。

実際ウガヤフキアエズという名前が系図のなかにあり、

このあと神武天皇が輩出されてくるわけであるが、その前に、山幸彦・海幸彦のおおきな戦いもある。

これが、実はウガヤフキアエズ王朝との決戦をあらわしているのではないか?

とか、

スサノオの高天原での暴挙についても、(ひょっとすると。スサノオもウガヤフキアエズ王朝の血統?か、あるいは、元々の出雲族の酋長?だったか?)

ウガヤフキアエズ王朝の滅亡のときの顛末をにおわしているのかもしれない。

こんなことを考える物だから、ちょいと、縄文時代の集落・生活・(食物・信仰などなど)を

しらべて、、歴史的に酋長があらわれてもおかしくない年代を歴齧参考文献2にいれてみた。

このほか、スサノオがウガヤフキアエズ王朝に決戦?をしかけたとも、

内乱をおこしたとも考えられる文献にもおめにかかっているので、

古代史のなぞ部分は年代考査が出来ない部分で

かなり密度がたかいものが、すっぽりぬけて・・・。

「私は・・・・・・・でした。」になっているとおもう。

スサノオとの共通項はなんだろう

千木さがしに没頭したあげく、

別の視覚での解釈をみつけた喜び気分に浸りすぎて

すっかり、とぼけていた。

もちろん、まだまだ、千木についても、かんがえていかなきゃならないんだけど・・・。

ま、今日は別のこと・・。

やはり、スサノオの年代は古い。

そう思わされることがいくつかあって、

大和朝廷は、どうしてもスサノオの足跡をけすことができず、

臣下的位置におくために、スサノオを弟にしたてとしかおもえないところがあるわけで・・・。

そうすれば、スサノオの功績もアマテラスの傘下になってしまう部分がある。

で、エキサイトブログのブロガーさんの記事のなかに、

面白い一文をみつけた。

「瀬戸内海を平定したスサノオは・・・府中をぬけて、出雲にかえるとき、

峠で海の民(民族?)と別れをおしみ・・・・」

蘇民将来においては、各地に伝承があるが、

基である、鞆の沼名前神社の祇園社が発祥したようで、

***祇園社のほうは、

備後風土記に出てくる「疫隅(えすみ)の国社」といわれ

スサノオが備後に来て当時勢力を張っていた

巨旦将来を退治し

弟の蘇民将来を助け

その子孫にいたるまで「疫病(えやみ)」を払う

蘇民将来子孫茅の輪」の伝承にもとづいて

スサノオの神徳をたたえてまつられたもので・・

他の地方に行くと夜這いにいったとか/笑

東北の部族を制圧しに行く途中でたちより、帰りに茅の知恵をさずけた・・ともあったり・・・。

そんな伝承のなかで、

なによりも、気になっているのが、沼名前神社なのである。

祇園社のせいではない。

以前の記事にもかいたが、じんぐう皇后が三韓征伐のときにたちよって、

おおわだつみを祀ったそうで・・・。

そののちにスサノオが合祀されたというのが、祇園社の発祥のせいだとしても・・・・。

元々何をまつっていたんだろうかという疑問が残った。

年代から考えても、すでにスサノオがまつられていてもおかしくないわけで・・・。

祇園社の発祥は、どうも、出雲の鰐淵寺の影響ともかんがえられるし、

牛頭大王という仏教を護る神?がスサノオの転生とかんがえられたのは、

もう少しあとのことだろう。

わずかの間たちよったじんぐう皇后が、元々あった、神社におおわだつみをまつったのではないか?

わざわざ、新築?しているともかんがえにくい。

つまり、祇園社はのちにごっちゃになっただけで、

元々は「疫隅(えすみ)の国社」があり、

そんな個人の病気よりも、国のことで、動いてる私たちの航海の安全のほうが先てなもんで、

疫病の神様(事、スサノオ)・・は隅においやられ・・

じんぐう皇后がまつったこともあり、おおわだつみであり、

まさか、元どおり、スサノオを主祭神にできず、

祇園社で復興させ、のちにスサノオが合祀ということになったんじゃないのかと?

ところが・・・千木をしらべていくうちに・・・↓の文書にであってしまった。

スサノオは、「大海津見神」(おおわたつみのかみ、以下、ワタツミカ
 ミ)という別名を持っていた。ワタツミカミとは、この名が示す通り、海
 神である。『日本書紀』によれば、ウガヤフキアエズの妃は、「玉依姫」
 といい、ワタツミカミの二番目の娘なのである。一番目の娘「豊玉姫」は、
 ホホデミの妃である。つまり、「玉依姫」・「豊玉姫」ともスサノオの娘
 である可能性もある。とすれば、スサノオの娘・宗像三女神とも比定でき、
 この二人は、異名同体、一人であったと考えられるができる。

これは、ちょっと、待て。

だったんだけど・・・。

憂生は、ウガヤフキアエズはウガヤ王朝のスケープゴートだと考えている。

実は、ウガヤ王朝の末裔?近辺がスサノオで、

(そのあたりも、天孫であるというにぎはやひが関連してきて、

スサノオとニギハヤヒは血縁関係か?

同じ王朝の王子?的存在だったのではないか・・とも)

その王朝をつぶしたものの、ウガヤ王朝は日向・・高千穂・・とあの近辺にあった王朝で

つまり、元々の高天原的存在だから、

神を潰した大和朝廷では、まずいわけで・・・。

スサノオを弟にしたてあげたり、ウガヤ王朝でなくウガヤフキアエズという人がいたんだよと、

めくらましにして、ウガヤ王朝を滅ぼしたことはむろん、ウガヤ王朝なんてものは存在しなかったんだ。と、ウガヤフキアエズで迷彩色にしてしまったのではないかと・・・。

で、そのあたりの煩悶は過去記事のほうに、ウガヤフキアエズの王の舞のはなしや、

日向のはなしなどあるので、省く。

で、こういう思いがあるんだけど、ぽんと目の前に

スサノオ=おおわだつみとだされると、

そうなのか?そうなんだ。とかんがえてしまい、混乱してしまっている。

単純にかんがえなくちゃ・・・。

神話?によれば、ウガヤフキアエズの子供が最初の天皇。神武天皇ということになっている。

そして、神武天皇の妻がことしろぬしのむすめである。

ことしろぬしは、大国主命のこども。

大国主命の妻はすせり姫。すさのおの娘。

つまり?おおわだつみがスサノオならば、神武天皇もその妻もスサノオの血がながれていて、濃度でいえば、天皇の血統はスサノオのほうが濃いということになる。

こうなってくると、ちょっと、微妙な話になってくる。

やはり、牛頭大王イコールスサノオみたいに、

なにかしら、ごっちゃになってるんじゃないかと思うのだが。

そのごっちゃになる原因ってのがあるとおもう。

まあ、単純ナ考え方しか出来ないけど

ギリシャ神話のアポロンが日の神だから、

アマテラスもエジプトのラーも同じ日の神で、あるので、

ラーがアマテラスになったり、アポロンがアマテラスになっても良い。(あくまでも極端なこじつけ)

と、いうように、同じ日の神だからとか、いうたとえにしたけど、

なにか?なにかわからないけど、どこかに同一視される根拠があると思う。

ここらへんのところが、わかると、

もうすこし、スサノオの正体がみえてくるんじゃないのかなと思ったりしてる。

武塔神というものがなにかよくわかってないのだけど、

それとスサノオの同一視の根拠。

出雲の方にいざなみ・いざなぎ。を祀る神社のよこの祠に

武勇社があったが・・・。

武塔と関連があるのだろうか?

牛頭大王とスサノオの同一視の根拠は?

そして、おおわだつみとすさのお。

一説である日本武尊とすさのお。

はて・・・。

まだまだ、資料不足のかじり屋が頭でかんがえてもわかるわけない。

また、ゆっくり、しらべてこよう・・・。

羅馬

羅馬。

どうも気になって仕方が無い。


意味を表せる同じ発音のものをチョイスしたとするなら、

やはり、降伏の条件としての鏡を舳先に掲げ

馬を連ねて船に乗せてきた。


そこで、この時代に馬がどれほど貴重であったかを

調べてみた。


ところが魏志倭人伝によると、倭の国には、「馬」が居ないのである。

じっさい、古墳から掘り出される馬の埴輪も4~5世紀のもの。

魏志倭人伝が伝えるとおり、大国主命の頃には馬はまだまだ、珍しかった。


だが、居ないというのもどうだろう?


スサノオが高天原で大暴れしたときに斑馬の皮を剥いで・・とある。


この馬の存在のせいと、日本には馬が居なかったと言う説が重なった部分で

スサノオが朝鮮あたりからの渡来神であるとか、韃靼民族の王であったとか、言われると思う。

実際問題、たとえば、神社でよく見られる。

神馬・・・。

日本において、最初の頃の馬はこういう役割の方が大きかったんじゃないだろうか?

と、いうことは、それほど、馬の絶対数が少なく、貴重だった。


その貴重な馬を連ねて、献上品に出来るスクナヒコは

はたして、どこから、馬を連れてきたのだろう。


朝鮮半島?

いや・・。

スクナヒコをして、少数民族だったと考えたら朝鮮半島からではない。


では・・・。

馬がいたと思われるところ。原種が残っている土地。

そこから、つれてきた?

壱岐?宮崎?愛媛?(ほかにもあるが)

いずれも、出雲から船でこれる。


やや?


愛媛?


そうだ。

あの美穂崎灯台のうしろに、愛媛の河野氏の紋が刻まれた鳥居を見つけたんだ。


鳥居に一緒に掲げられるのも不思議に思えたが

もしも、スクナヒコが河野の出身なら?

馬を連ねてくることも可能だし

後に、大国主命を支えた存在として鳥居に刻まれてもおかしくない?


だが・・・。


河野氏の土地に根付いているのは

ニギハヤヒなのだ。


すると?


むしろ・・・。


ニギハヤヒ=スクナヒコ


単純に因幡海岸と美穂崎に寄航した話が

ニギハヤヒとスクナヒコの二つの話になった?


いや、無理やり河野氏の紋をむすびつけることがおかしいのか?

かがみ(羅馬)

羅馬を調べてみました。


ローマを羅馬という日本語表記にしたのが明治時代。


羅馬(かがみ)船とは、全然関係ないのですが、

美穂崎の諸手船神事が

国譲りをそのまま伝承しているようで、

船の舳などに、権威の象徴である刀や鏡や勾玉(神器のように、代を譲るときに与える)を掲げ

降伏の印とするらしく、


かがみ船とは、あるいは、「鏡」を掲げた船のことか?

スクナヒコというのだから、

少数民族だったのだろう。


大国主命は、多くの国を統治したいう意味でもあるし


おおなむち(おおなもち)はたくさんの名前を持っている。

実際、大国主命の別名はいっぱいある。


少数民族の出身者でありながら、大変有能だったのだろう。


だが、羅馬がどうして、(かがみ)なのか、判らなくて

3種類の辞書を引いた。


どうも、音だと思う。


羅を(ら・ろ)と読むしかしらないが、

かかーる  とも読むようで

かか・・うま

かかむま

かがみと、こういう音を当てはめたのかもしれない。


まみむめもの発音は唇を一度あわさないと発音できい。

これは、ぱぴぷぺぽなどもそうなのだが、

古代の発音は唇をあわせる発音だった可能性があり、

ひこほほでのみこと

なども

ぴこぽふぉでのみこと

などとか、発音していた可能性もあるらしく、

かがみふねが音から取った名前だと

かかうま

と、かくしかない、発音をしていたのかもしれない。


神代文字を考えると、漢字があったとは思えない。


後の人間が音の意味合いに近い漢字をつける。


あまてらすおおみかみ

も、

天照らす大御神

と、なったように、


かがみ

と、よめる、同じような意味の漢字をあてはめたと考えられなくも無い。


こう考えると

羅馬とは?


羅の意味がいくつかある。


連なるとかカカルとか薄絹とか・・

馬が連なる?馬を船に乗せていた?

絹と馬を積んで降服しに来た?


一瞬おもったのは、まじ、鏡。

銀色に光る船?

UFOだ!!


確かにスクナヒコも宇宙人説があった。


まだまだ、歴史をかじり出したばかりの人間。

接点を見つけようにも

手持ちの材料が無さ過ぎる。


羅馬が「かがみ」とも読める。

これをまず心に止めておくしかない。


どこかで、なにかと繋がるかもしれない。

ピラミッドと太陰暦。

この間から気になっている事が在る。

ピラミッドと太陰暦。

ピラミッドは当然、太陽暦だと思う。

ラーという太陽神への崇拝もあり、太陽との密接な結びつきを感じる。

だが、大前提である、ピラミッドは太陽暦の所産であるという考えから

はたして、なりたつかどうかも疑わしい。


太陰暦は月の満ち欠けなどから、

稲作の時期や汐の満ち引きを知ることが出来る。


だが、エジプトにおいて、稲作や汐の満ち引きはあまり関係ないなら、

太陽暦で充分であろう。

そして、舞台を日本に移す。

アマテラスは太陽神であると考える。

日本にも、環状列石やピラミッドと思われるものがある。

まちがいなく、それらは太陽暦に繋がるものであろう?

で、あるのに、何故、日本は太陰暦だったのだろう?

太陰暦の発祥は紀元前の中国にあるといわれる。

天文敦煌との結びつきもあり、かなり、早い時期に

太陰暦の外枠が出来上がったと思われる。

それが、日本に来た?

と、考えるべきだろうか?

エジプトで太陰暦が成り立たなかった(かも?)理由と逆の理由で

日本には太陰暦は受け入れられた。

稲作の時期もおしえてくれるし

何よりも、島国という環境を考えると

汐の干満も日本には中国より重大な日常であったと思われる。

日本が太陽暦よりも、太陰暦を重視したのもわかる。

実際、太陰暦【旧暦】を繰ってみると、驚く。

たとえば、7月が2度あったり・・。去年だったかな?

すると、その年は確かにはやいうちに夏になって、

残暑も長く続いた。

旧暦を知るものと話をすると、以下のような会話になったものである。

「10月にはいってもまだあついね」

「今年は7月が2回あったから、旧暦ではまだ9月だ」

むろん、太陽の周期は変わらないので

日照時間とかはちゃんと10月になっている。


このほかを言えば冬。1~2月が一番寒いのだが、

これも、およそ、一月ひいた旧暦で考えると

12~1月になり、冬の時期として、納得できる。

実際の時期というか、気温と言うか

そのあたりは、太陰暦のほうが実情に合っている。

寒すぎては稲が育たず・・。

夏が2度続けば、干害への対応も必要になる。

太陰暦は四季がハッキリしている日本では必須な暦だったと思う。

こういう太陰暦がはいりこんだことにより、

日本のピラミッドは衰退?したか?

法隆寺の焼失の時期が特定

法隆寺の焼失の時期が特定されたという番組をみていた。
今までは、前法隆寺が焼けたあとに、
今の法隆寺が建立されたとなっていたが、焼失痕跡がみつかり、今の法隆寺を立て替えたのちに、古い法隆寺が焼失したという。

この焼失年代が特定できることにより、
ひとつの疑問が消えた。

薬師如来だったかな?大人10人くらいでやっと運び出せる仏像に焼け跡ひとつない。ほかにも、いくつかの仏像がとても、火事場から簡単に引きずり出せられるものではない。

当然、素人でも、わかるのは、火事の前に仏像が別の場所に移動されていたということであるが・・・。

これが、今の法隆寺がすでに建立されていたとなると、しごく、納得がいく。

で、なければ、火事がおきることを予測したかのように、仏像を運び出しているという事に成り、あえて、法隆寺焼き討ち?

なんのために?

と、不穏分子の存在について、詮議したくなる。

で、実際、法隆寺が新しく立て替えられて、そこに、仏像が安置され、そののちに元の古い法隆寺が焼失。

は、いいんだけど、
いくつか、疑問が残る。

なぜ、新たに法隆寺を建立したか?

そして、もうひとつの疑問。
聖徳太子を写して、薬師如来だったか?
救世観音だったか?
いずれにせよ、2,3太子を写した仏像がある。
天武天皇だったか?それほどに太子の信奉?民衆への影響力を認めていながら
娘推古に天皇を譲り、何故、聖徳太子を摂政にしたか?
一説に、聖徳太子も天王になれる系図があったともきく。
系図がなくとも、継体天王のように入り婿?的要素で突如天王の系図に参入する場合もありえた。

何故、聖徳太子があそこまで、仏教を擁護する存在として尊ばれたのか?
何故、それでありながら、暗殺説の浮上があるのか?

もうすこし、資料を集めなきゃ無理か・・。
疑問点さえおぼろげになってくる。

太陰暦とスサノオと・・考え中

簡単にいうと、
日本への仏教ルートは
インドが先だったか、
中国かさきだったか・・

ってなことを考えていて・・・。

キリストをさかのぼる3世紀。
すでにスリランカの大規模な仏教集団があり、3000人以上の修行僧をエジプトに送り出していた。

ってのがあり・・・。

これを逆に考えると
日本にピラミッド信仰、つまり、太陽暦がはいってきたと考えられるわけで・・。

代表的なところで言えば富山の尖山。
え~~と、岩手だったっけ?
環状列石・・などは、太陽暦がはいってきたなごりではないかと、考えている。

ところが、日本は最近までも見ても判るけど、太陰暦・・旧暦というのをつかっていたわけだ。

この太陰暦は陰陽道とか、七曜・・
う~~~ん・・どわすれ・・
まあ、とにかく、どうにも中国くさいというか・・・。
中国からの仏教伝来とともに、確立してきて、七節期とか二十四節・・大安とか今に至る・・っておもっていたわけ。

ところが、仏神がもつ凡字とか、真言
ってのは、サンスクリット語で、これが、インドのまあ・・・原語にあったわけで・・。

で、もうひとつ・・みつけたのが、
インドは七進法だったって話。

曜日もそうだけど、旧暦の一月28日
これも、七進法でいえば4ってことか・・・・。

だから、七で割り切れる数字を良く使うわけで、49日とか、二十四節期
1週間七日・・・などなど・・

と、なると、中国からの太陰暦っていうのが、待てよ?になってきたわけだ。

どうも、千木のところでも述べたけど、
元は牛の角・・。
ヒンズー教の聖なる牛・・からだろう。

そして作物・・特に稲作になってくるだろうけど、集落をつくり農耕するにしても、海への漁にしても、潮の満ち干きや、種まきの時期・・などなど・・
太陰暦がかなり前からつかわれていたのではないか?

まず太陽では、一日しかわからないが
月は一月を教えてくれる。

日本には、系統立てた太陰暦はなかったかもしれないが、それににたものがあったろう。

そこで、また、考えるのが・・
アマテラス・・・。

まあ太陽神といっていいだろう。
太陽神というと、あまり種類は無いと思うが、これが、エジプトのラーだっけ?
太陽神だったと思う。

つまるところ、日本のように四季がはっきりしている国には、太陽暦は定着しなかったと考えられるが

いわゆる、サンカ族には、太陽信仰があったのではないだろうか?
山の中を歩き回っての狩にしろ、
太陽の位置がたよりだろう。

だから、尖り山とか?
山岳信仰的に思われるものの元を正せば
太陽暦であり・・ひいては太陽神ってことになってくる。

つまり、アマテラス信仰・・だな。

そう考えると、太陰暦にあたる神はだれか?
って、ことになってくる。

それらしい、名前は月読尊しかいないわけだけど・・・。

アマテラスを掲げた状況を考えると
おおぴらに、月読尊をだしてくるわけにはいかない。

でも実際、太陰暦が、日本の農耕などの基盤である。

この農耕や着土に多く関った人物こそが、太陰神であろう?

おおっぴらに月読尊とは、呼べないけど
太陰神的働きをした存在といえば
一人だけ。

スサノオだな。

こんな考えが元で、スサノオイコール月読という説が浮上してくんだろうと思うけど
ようは、元々は太陰神信仰ではないかいな?

つまり、もっと、確立した太陰暦を日本に伝えまわったのは韃靼人だったと思われるスサノオではないだろうか?

つまり、日本にだって月はのぼるわけだし、当然、太陰暦が自然発生してもおかしくないわけだ。

それが農耕などと結びつけば一層、
太陰暦が神聖視されるし
治水などいろいろと民の生活に恩恵をあたえたすスサノオが太陰神なみに信仰されることになり、全国各地に散らばっていく。

そして、インドの七進法を軸にして
中国での暦が確立して日本にもたらされる。

こうか?

う~~~~ん。

蘇民将来・・の茅とは、なんぞや?

kaya1 kaya2

萱葉は冬に枯れるが、温暖地では残ることもある。この時期、葉は先端から赤く染まるのが見られる。

ごく人間の身近に生育する草である。地下にしっかりした匍匐茎を伸ばすので、やっかいな雑草である。

他方、さまざまな利用も行われた。そのため古くから親しまれ、古名はチ(茅)であり、花穂はチバナまたはツバナとも呼ばれ、古事記万葉集にもその名が出る。

この植物はサトウキビとも近縁で、植物体に糖分を蓄える性質がある。外に顔を出す前の若い穂は、噛むと甘く、子供がおやつ代わりに噛んでいた。地下茎の新芽も食用となったことがある。万葉集にも穂を噛む記述がある。

茎葉は乾燥させて屋根を葺くのに使い、また成熟した穂を火口(ほくち)に使った。乾燥した茎葉を梱包材とした例もある。

また、花穂を乾燥させたものは強壮剤、根茎は茅根(ぼうこん)と呼ばれて利尿剤にも使われる。

他に、ちまき(粽)は現在ではササの葉などに包むのが普通であるが、本来はチガヤに巻いた「茅巻き」で、それが名の由来であるとの説がある。

茅を茅萱ともかいてある。

矛の字については、あめのぬかぼこだったかな?

神話の「創生」ぶぶんで、あめのぬかぼこで

泥海をかきまわして、あめのぬかぼこから、雫がたれてできあがったのが、

淡路島だったかな・・・。

形もさることながら、衣食住の住の部分での茅葺やねなど、

家の創生にかかわるので、矛の字があてはまってきたような・・。

家のそもそもの概念は雨露を凌ぐというところにある。

屋根は創生への第一歩の概念だろう。

ところが、次の萱

これも、かやとよむわけで・・・。

その字のつくりをみてみると、宣の字がみえる。

↓に・・。

のとうぶ のたうぶ 【宣ぶ/曰ぶ】

  • (動バ四)
  • 〔「のたまふ」の転。また「のたぶ」の転とも〕「言う」の尊敬語。おっしゃる。
    • 「やよひばかりに、もの—・びける人のもとに/古今(恋二詞)」

萱はなにかをおっしゃっている?

教えているということか?

宣託とか?なにかしら、巫的ものがあり、

神社などの茅葺屋根から、逆に尊いイメージをもたらしたかと思う一方で、

「王様の耳はロバの耳」を思い出す。

言うにいえないことを孔に向かって叫んだ床屋だが、

この話では葦だったとおもうが、ひょっとすると、萱かもしれない。

風にのせて、葦がささやきだす。

「王様の耳はロバの耳」と。

寓意的なものをこじつけるのも、なんだが、

萱もなにかおっしゃるらしいし、

王様の・・・でも植物がしゃべる。

それも、非常に似通った植物である。

萱・茅・萱茅

いずれにしろ、なにか、いわくありげである。

***一方、神谷川の水神?がきになっていたので、

初期の水神を覚書に貼り付けておく。

 

淤迦美(おかみの)、龍神で谷間の水を掌る神。
日河比売(ひかはひめ)、氷川神社に祭られる水神。
深淵之水夜礼花(ふかぶちのみづやれはなの)、水神。

オオバコとストロンチウム


この記事も一年以上まえに書いた?ものだったと思う。
原爆という歴史の傷跡は、まだまだ、身近にある。
憂生の知人も何人かその後遺症(被爆2世・被爆3世)がでている。
こんな中、スピリチュアル記事のほうで、
「家の庭には、その家人の病気に効く草が生える」
と、いうことを書いたと思う。
そのときにそういえば、広島の原爆後
30年は草もはえないといわれた、その土地にいちはやく、芽をだしたのが、
「おおばこ」であると聞いた。
何故、オオバコだったのだろう?と、疑問に思ったのは、
植物のもつ効能にも、興味があったからだ。
大根に含まれるジアスターゼとかは、有名だろう。
植物が自分を護るための場合もあり(その土地でいきのびていく能力)
オオバコが、何故、一番にはえてこれたのか、調べてみた。
**********
結果、驚くような能力をもっているとわかった。
**********
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オオバコ
W oobako4041.jpg
オオバコ
分類
:植物界Plantae
:被子植物門Magnoliophyta
:双子葉植物綱Magnoliopsida
:オオバコ目Plantaginales
:オオバコ科Plantaginaceae
:オオバコ属Plantago
:オオバコ P. asiatica
学名
Plantago asiatica L.
和名
オオバコ(大葉子)
英名
Chinese Plantain, Arnoglossa

オオバコ(大葉子、Plantago asiatica)とはオオバコ科 オオバコ属多年草車前草ともいう。

日本全土に分布する雑草 である。 は短く、地面に埋まっている。 は葉柄があり、さじ型。 は穂状につき、緑色。踏みつけに強く、人などがよく踏む道路脇などの場所に生える。踏みつけが弱い場所では、高くのびる性質を持たないので、他の草に負けてしまう。

葉や種子は咳止めなどの薬になる。また、花穂を根本から取り、二つ折りにして、二人が互いに引っかけあって引っ張り、どちらが切れるかを競う遊びがある。

葉が広く大きいことから「大葉子」という。「車前」は漢名で、車(牛車馬車 )が多く通る道の端に多く生えることからこの名がついた。

リクガメ のエサとしても有名でカルシウム が多い。

****ストロンチウムの項目ですこし、きになっていたのが、

おおばこ、のことだった。

憂生(うい)の記憶違いだったかもしれないが、

広島、原爆が投下されたあと、

おおばこが最初にでてきたという・・話・・・。

おおばこだったかどうかは、さだかでないが、

放射能にたいしての耐性があったのか?

ひとつには、葉緑素だと思うが

おおばこの特性は?

「カルシウム」が多い。

ここに関ってくるか?

ストロンチウム

ウラン核分裂 生成物など、人工的に作られる放射性同位体 としてストロンチウム90がある。ストロンチウム90は、半減期 が28.8年でベータ崩壊 を起こして、イットリウム90 に変わる。原子力電池 の放射線エネルギー源として使われる。体内に入ると電子配置・半径が似ているため、骨の中のカルシウム と置き換わって体内に蓄積し長期間に亘って放射線を出し続ける。このため大変危険である。

骨に吸収されやすいという性質を生かして、別の放射性同位体であるストロンチウム89は、骨腫瘍 の治療に用いられる。ストロンチウム89の半減期は50.52日と短く比較的短期間で消滅するため、ストロンチウム90に比べ被曝のリスクは少ない。

常温、常圧で安定な結晶構造は、面心立方構造 (FCC、α-Sr)。銀白色の金属 で、比重は 2.63、融点 は 768℃。炎色反応 で赤を呈する。空気中では灰白色の酸化物 被膜を生じる。水とは激しく反応し水酸化ストロンチウム を生成する。

Sr + 2 H2O → Sr(OH)2 + H2

生理的にはカルシウム に良く似た挙動を示し、骨格 に含まれる。

酸化ストロンチウムアルミニウム による還元 、および塩化ストロンチウム などの溶融塩電解 により金属単体が製造され、蒸留により精製される。

4 SrO + 2 Al → 3 Sr + SrAl2O4

スクナヒコとキリスト

ポリネシア白い海神ワケアが渡来してきた白い神で、それが、キリストであるという。


そのワケアが日本に渡来した。そこが「わかやま」で、ワケアに因んだ。

そこで、記紀を調べた記事の作者は

ワケアにあたる神を見つける。


それが、スクナヒコであるという。


古事記によればスクナヒコは「天之羅馬船」に乗って日本海から渡来した海神であるという。

古事記では、「天之羅馬船」は(あまのかがみぶね)と読むが

羅馬はかがみと読むより、現代ではローマの当て字で読まれている。

この当て字の発祥が「かがみ」からきているとしたら、もう少し羅馬の意味を調べなければいけないが

ちょっと、話がずれるので、おいておく。

つまり、スクナヒコはローマ方向から来たのではないか?

と、いうことになろう。


さらにスクナヒコは最後に

「熊野の突端から常世の国に帰った」と古事記には記されており

さらに、本居宣長の古事記伝には

「常世の国に帰り、後まで外国に鎮座する」

さらに、文徳実録にて

「我はオオナモチ・スクナヒコである。昔この国を造りおえ、去りて東海に行く。今、民を救おうと帰来した」


このいくつかの記録と

ワケアの伝承を照らしあわせると

「西の海から東の海へ」旅を続けていることが一致する。

そして、オオナムチを

偉大なナの国の王とと解するとイエスの時代と同期だという。


つまり、イエスが日本に来てスクナヒコと呼ばれ

日本の礎になったと・・・。


正直、ありえないと思う。


なぜなら、先に書いたことが有るから。


仏教のルートはわからないがスリランカを中継点にして

仏教がエジプトのキリストに影響を与えた。


ローマに戻るまでの間にあちこち、流離ったというのだろうか?


12歳の年で仏教を踏倣しはじめ、30歳までに

悟りをひらき、あちこちを流離った?


そんなに簡単に悟りを開き、ポリネシアや日本まで布教活動をしにきた?


悟りを開いていなくても良いじゃないか?

と、思われるかもしれない。

だが、悟りを開いてないものの教えは実を結ばない。

つまり、オオナモチ・スクナヒコである。昔この国を造りおえ とはならない。


そんな疑問を抱いていると竹内文書があった。


「イエスは21~33歳まで古神道の教えを求め来日した・・・」


これだったら、解かる。


すでに、日本には古神道があり、その教えを受け、ローマに帰った。


古神道の教え。


だが、これもいささか、?である。


仏教では無い。


だが・・・。


地におりたった神でなく、創造主にちかい存在を多く祭る。

すると、ここでも、

天を意識し和を掴み取ったスサノオを思う。


キリストがここを掴み取ったとするのなら

仏教教義にさも似たりだ。


すると、スクナヒコはどうなるのか?


憂生はやはり、これをニギハヤヒと考えたい。


古事記の中で天の岩舟に乗る存在として名前を記されている。


そして、どこかの章にもかいたが、美穂崎神社の神事から・・。

そこにも、ニギハヤヒが居る。


すなわち、またも、ニギハヤヒが現れたのだ。


今度は岩舟でなく、羅馬船で。


かがみ船・・加神船。

天の子・・神が加勢しにきた船。

これでは、まずい。


スサノオの死を隠蔽したごとく

加神船も隠蔽する。


いや、素直にキリストがのってきたと考えてもよい。


だとすると、竹内文書からかんがみると

キリストに仏教教義?らしき観念を与えたのは日本だという事になる。


こんなことを考えると、日本はやはり根源であると思いたくなる。

キリストがエジプトに滞在していたと?

おもしろい記事を見つけた。

イエス・キリストの教えは仏陀の教義に類似しているという。

キリストが、仏陀の教えを吸収したという考えは

なんと、ショーペンハウェルが最初に唱えたという。

それは、なんの確証もないのだが、教えを比較して、

哲学者であるショーペンハウェルだからこそ、見えてきたものであろう。

ところが、キリストがエジプトに逃れたとされる12歳からの18年間に

エジプトに仏教徒が居た。あるいは、教えが残っていたか根付いていた。

可能性があるという。

ギリシャ僧がアレクサンドリアからスリランカへ30000人!も行ったと記された書物があるそうだ。

それが、紀元前2世紀のことで、キリストがエジプトに行ったころでも、

それほど大規模な人数をスリランカへ送り出すことができた、仏教教団が消滅するとは思えないし


何らかの形でアレクサンドリアに仏教の教えが残っていた、受け継がれていたと考えられる。

12歳から30歳まで、キリストは仏教の教えを踏倣していたとかんがえても差し支えあるまい。

憂生は宗教は嫌いである。

とくに、キリスト教は受け入れがたい。

理由は単純で、キリストを絶対神とさせる部分で、これは、別にキリスト教に限らず

他の宗教もそういう部分はある。

唯一神とか、絶対神という考え方はどこからわいてくるのかと思う。

日本をいえば、八百万の神であるし、

やはり、天という考えがあるせいだろうか?

天という「宇」の中に太陽の神もあれば、竈の神もある。

絶対神というのが、これひとつが絶対価値であるという考え方ではない。

何もかもを包む。極端に言えば、どれをとっても、天が存在を許したものである。

無限に近い包容力で何もかもを包むのが、絶対神で、

日本の考え方は底がないかと思うほどの許容力を見せるに対し

キリスト教(キリスト自体ではない)などなどは、非常に排他的である。

憂生は日本が過去、キリスト教を弾圧したのは、この部分だと思っている。

で、そのスリランカで思い出したのであるが、

もっと、言えばエジプトでも思い出したのであるが

スリランカの何処だったろうか?

日本の言葉がそのまま通じるところがある。

同じ発音で同じ意味なのだ。

それだったら、けっこう、あちこちにあることなので、驚きはしないのだが、

問題の言葉が

「稲」「米」「かゆ」だったから、驚いた。

ひょっとして、稲作文化は日本が発祥?

と、考えたくなるのは世界最古の漆器が日本で発掘されていたり

須恵器とよばれる土器も日本のものがかなり古いという。

須恵器は、当然、粥や飯を炊いた道具だろう。


そして、量が少ない飯よりも、粥やおじやが主流だったのではないのだろうか?


逆の説も考えられる。

スリランカから伝わってきたのではないか?

そこで、エジプトが出てくる。

日本にピラミッドや環状列石がある。

この年代測定をしていくと、エジプトのピラミッドより古く

形もピラミッドの原型に近い。

日本から、稲作がインドに伝えられ

アンコールワットなどもピラミッドに似ていなくも無い。

アンコールワットでいえば、あのあたりの神話か?

ケツアルクアトルあたりも、ヤタ烏や八又のおろち・・・あ、ずれすぎる。

日本の稲作と共にピラミッドの工法も伝えられ、漆(漆塗りの技法?)も伝えられたか?

と、思えてくる。


そして、それが、年代的に一致するのかどうか判らないが

ギリシャ僧をスリランカに送らせることが可能な

スリランカ側の繁栄があるといえる。

繁栄を支える事ができる食物もあったと考えられる。


それより以前に稲作がスリランカに渡り

スリランカから

エジプトへピラミッドが伝えられる。

正確にはエジプトがピラミッド工法を持ち帰った。


おそらく、稲もエジプト経由でキリストにももたらされたのではないだろうか?


だが、小麦の技術があったから、キリストはぬっだの教えのみ吸収し

権力者のためのピラミッドも必要なかった。


日本という国柄を考えても、「作り出す」技能はすばらしいものがある。

器用だ。

箸を使う民族はそう多くは無い。

そして、パリ万博において、日本家屋の作り方。

釘一本使わず家をつくる。

日本の和紙。鼻をかんだ神でさえ、フランス人は拾い、眺め、持ち帰ったというほど

薄い紙を作る事ができた。


こういう部分を考えても、日本が多くの技術の発祥源だったと考えたくなってくる。

空に架かる橋へのコメントから・・

最近になって、マッカーサーと天皇だっけ?なんらかの本がだされて、
その中でマッカーサーは日本を占領国にせよ(天皇も処刑せよとか・・)と本国から指令をうけていた。
と、いう話があったと思う。
だが、実際問題、現場仕事は現場のものじゃないとわからないというのと同じで、天皇を処刑に課した日には、どういうことになるか、一番わかっていたのが、マッカーサーであったと思う。かといって、そのまま、天皇を日本の国主にしてしまったら、天皇の元、日本はひとつにまとまってしまう。
これはいかぬと、妙な位置にすえたわけだけど、一方で、国民の忠義心を分散させる方法を投入していく。
日本の鎖国政策、および、キリシタン排除の考え方を思ってもわかるが、いわば、二君をまみえず、と、いうのが、ある。
天皇が現人神として国民の感情の中にあることを一番、けむたく思ったことであろう。
この打開策のひとつが、キリスト教の宣教であったともいわれている。
天皇が一番尊いのでなく、キリストが一番だという考えに洗脳させるということであろうか。
今の宗教戦争をみているとわかるが、
アメリカの考え方をいえば、
「俺たちの神様を信仰せよ」ということイコール傘下に下れという意味合いで、国民感情を占領していく第一歩であるはずだった。
これが、イスラム教徒とか?
だったら、相手の国の宗教を信仰することは、敗北と同義語だろう。
ところが、日本という国は八百万の神という自然信仰がある。
キリスト教で占領するはずだった部分は八百万の神の一人(外つくにの神?)的鷹揚さで受け入れられてしまう。
天皇という存在の発祥は、歴史的知見でいえば、「巫」である。
日本という国がもつ独特の意識が、また、歴史を決定している。
天皇という存在がまた、日本を占領国にさせずにすんでいるという見方も成り立つ。



コメントから*******


一回で開けるから便利です。

連載ふうだと次どうなるのかと楽しみですね。入り組んでいる時は過去にさかのぼって見られるからいいです。
日記とブログ交互に見ています。

先日小学校の学芸会で「もう一つに戦争」朗読劇をやっていました。子供達が疎開し、疎開先でのことを扱ったものでした。それを見ていたおばあさん達は、そだそだ・・・そいなごとあったなど目をぬぐいながら見ていました。孫の演ずることは体験したことだったので思いがよくわかったのでしょう。かたや若い母親たちは未経験でも子供達の演ずる劇をしっかりみて戦いだけの戦争ではない別の面の戦争のたいへんさを見ていたことでしょう。
ざわついていた体育館は、シーンとしました・・・

同様のことが読者にも当てはまると思います。ある程度経験ありでわかる人と未経験な人の感想は違うかもしれません。が、それなりに受け取るものがあるはず・・・・読んでいる時はそんなこと考えてはいないけど・・・読後感はあるよね。
生き残っている「あたし」がどうなっていくのか楽しみです。

近くに飛来している白鳥です。ホッと一息いれてね(^-^)         kumina


先日、NHKで、地雷撤去のためのレーダー製作に携わっている男達の話を放送してました。
「空に・・」では、撤退を余儀なくされた兵士が地雷をしくという設定でしたが、そのときはそれしかないと思ってしたことでも、
少し平和になれば
無関係な人間がまきこまれてゆくことになるのですよね。

どうしようもない。
日本に原爆が落とされたのも、
別の考えで見れば、それで、日本の民族がいきのこれた、戦争終結に結びついたという事でしょう。
「空に・・・」を、書きながら、
ある、話を思い出していました。
日本兵は死を恐れない。
人間魚雷ごと敵に突っ込んで行く特攻兵。
白い軍服を着た日本兵の幽霊が出る。
とか、
死しても、なお、まだ、国を守ろうとする心。
大和魂。
日本の花は桜。
武士道をたとえる見事な散り際を
めでて、己の生き様に悔いは残さじ。
こんな、を相手に本土決戦を挑んだら、日本人は最後の一人まで、たたかいつづけ、日本人は滅んでしまっていただろう。
自国の兵士をこれ以上無駄に死なせたくない。
最後まで闘うことで起きてくる色んなリスク、弊害。
コレを防ぐためにも原爆投下が
必要だったという、見方も成り立つ。

だけど、それよりも驚く事は日本人の潔さだろう。
負けは負け。
成った事は受止めて行くしかない。
その受止め方が見事だ。

某国は過去の戦争などによる、
日本人の行動をいつまでも、恨んでいる。
と、しか、思えないニュースを聞く。

ならば、日本人はどうだ?
原爆を落とされた。
多くの人々が殺され、
今もその後遺症に苦しむ人も居る。

だけど、うらんでいるだろうか?
自分達の生き様。
敵をそこまで、追い詰めるほどの生き様。
その誇りがある。

戦争には負けたかもしれない。
だけど、日本の民族はけして、あなどれないとその魂に刻み付けた。
だからこそ、こんな小さな国でありながら占領国として、統治されなかった。
多くの戦争犯罪者が処刑されてゆくというのに、
天皇がいきていられたのもそう。
国を思う、民を思った天皇がいた。
「私のことはどうなってもいい。
国民をたすけてほしい」
多くの独裁者がそうであったように
最後には自分の命乞いをするものだと思っていた天皇の口から出た言葉。
マッカーサーは
このとき初めて、
「とんでもない国と闘かっていたんだ」と、きがついたことだろう。

話がずれちまったけど、
原爆を落とされたことを
のさりとうけとめ、
「それでよかった」
と、してしまう日本人の感性?

コレが、「空に・・・」の下地に有ると思う。
たぶん、この話を外国人が読んだら、
「なぜ、彼女は報復しないのですか?」
と、おもうだろう。
「なぜ、敵を、同胞をころした敵に温情をかけられるのですか?」
判らない。
と、言うかもしれない。

たぶん、
この物語は憂生が日本人だったから、
説明なしにかいてゆける感情が
暗黙に了承され、受け入れられているからだと思っている。     憂生




寒くなってきました。体調いかがですか。
天皇とマッカーサーの話、聞いたことあります。
ある物語を理解するには、時代背景や民族性を知らないとだめなものがあるようですが・・・・

やっぱりそこまでっつこむようになるのかなあ~

神話の話である。

火の神を生んだいざなみが
その火に焼かれ
死んでしまうのであるが、

夫であるいざなぎが妻をむかえに
冥府にいくのであるが・・・・。

ギリシャ神話にも似た話があるが・・・。

多分、日本のこの神話においても、
地上にでるまでは、
うしろをふりむくな・・・
などといわれたのではないかと思う。

現世?にもどれば
元どおりの姿を現すのであろう。
現世・・・の名前どおり。

ところが、
いざなぎはいざなみがちゃんと後から
ついてきてくれているか、
確認したがったのである。

神話のおもしろい所は色んな寓意を感じれるところである。

上の部分でも
夫たるもの、妻がきちんとついてきてくれると
疑うものではない。
ところが、うたがったいざなぎがみたものは、
醜悪な腐乱状態の妻であったわけだが、
これも、
いざなぎの疑いの心の現われであると、
みてとると、醜悪な心の持ち主は
いざなぎだったという事になる。
元々
神産みのトキに、妻が先に声をかけて
蛭子がうまれてしまい、
この子を海にながしたという話がある。

夫唱婦随の教えであるのは、元よりだが、
この失敗がある。
いざなみはその失敗を悔い改めたであろう。
ところが・・・。
ひょっと、すると、
いざなぎは夫がしっかりと先にたつという
訓戒を習得しなかったのではないか?

よもつひらさかにおいて、
いざなぎは「先にたつ」べき、自分を
試され・・・そして、見事に失敗した。

妻のおぞましい姿にいざなみは
あわてて、現世に逃げ帰ろうとするが・・・。
妻にすれば、
「私たちは心で結ばれていた夫婦なのではないか?
ましてや、冥府にこなければならなくなったのは、貴方の子をうんだからであって、
その出産で命をおとした妻を庇いこそすれ、
見目形で己の心までみうしなうとはなにごとや」
てな、事でもいったんじゃなかろうか?

おそれなすいざなぎと
いかりなすいざなみとの
悶着をおさめたのが
菊理姫/くくり姫/絆を結ぶ、くくるはここからきたとか・・・/
姫の言葉をきいて・・・
2人は和解したそうであるが・・・・。

いや~~~~。
ここまで、話をひっぱってきて
もうしわけないけど・・・。

じつは、このくくり姫がなんといって2人を
和解させたか、よくわからないのである。
どうも、いざなぎだけに耳打ちしたように
よみとれる。
しっているのは、いざなぎだけであろうが・・・。

実は、
このくくり姫がなんといったか・・・。

よければ、皆様のお知恵を拝借したいと・・・。

なんか・・・ながながとかきましたが、

自分でも考えますが/考え中?/
こうではないかという、決め台詞、
浮んだら、おしえてやってください。

神代文字というものがある。

日本のひらカナ
一文字一文字に何らかの意味が込められているという事であるので、
神代文字で表されるもののうち、
ひらがなであらわされているものの、
本来の意味を一文字一文字から、さぐってみるとおもしろいものがあるかもしれない。

例えば
すは清めるの意味がある。
さは佐・・人の左の意味で
つまり、人間の神的部分。
煎じ詰めれば
魂・・といっていいかもしれない。

こう考えると
次にある文献から、
せは、背。
つまり、自分の後ろ側。
抽象的な連想であるが、例えば自分を守護する守護霊なども、背であり、
万葉集などでも、自分を支え、守る存在である、伴侶を背・・女性に対しては妹背などという。

と、なると、
すさのおというのは、
人間の魂を清める緒。/元/という意味になり
すさのおが治める根の国とは、
人間の根・・・/魂?/
を、清める・・在所の統括者という意味合いになってくる。

なると、死して後にしか、
魂は清められないのかということになってくる。

この問題について
おおくにぬし、
黄泉の国の治めるといわれる
おおくにぬしの妻に
確か、/間違ってたら御免/
すせり姫というのが居たと思う。

清める。
背・・。
り・・/理/物の道理/

人の生き様を道理によって、清めていく。

あるいは、すさ、すせ、は
身代わりという意味合いもあるという。

憂生の得意とする、言い草に
「目に映ること、元は吾にあり」
で、この「知らせ」をどうにか、解明して、
自分をたてかえていってはどうか?
と、いう考えがある。

つまり、目に映ることは、
言い換えれば
「自分の身代わり」

この身代わりを見つめなおしていけば
黄泉の国に行かずとも
魂/生き方?/を清めることができますよ。
と、
おおくにぬしの横ですせり姫が答えを掲げている気がする。

そして、さらにいってしまえば、
おおくにぬしを変換すると、多く荷主になる。

自分をたてかえさせる多くの荷/身代わり/教え/報せ/があるんだよ。
と、紐解くべきかと?

それがこの世に生きている唯一の理由として、
神話の中にこめられたものではないかと
かなり、大胆であるいは、荒唐無稽な想像をしてみた憂生である。

日本

歴史の中で一番大きな出来事は戦争だったと思う。

が、古代の戦争や外国の戦争については、

知りえる部分が少ない。

だが、一方で、近代における第二次世界大戦をどこまで、知っているかというと、

異国の戦争より、しりえていない部分が多い。

例えば、靖国神社参拝などを、反対するという考え方があるが、

これらも、英霊たちの恩恵というものが、どういうことであるかを知らないからだろうと思う。

日本は外国と違い、特殊な国で、「天皇」という存在がある。

古代史を紐解いていく中でも、「天皇」という存在が国民?感情の中にとけこんでいる。

この部分を理解しないと、難しいのだが、近代においてさえ、まともに理解していないと思われる。

そのあたりのことを、いろいろと、かいているので、歴史とは、言いがたいと思うがあげて見たいと思う。

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天、天は濁りを教える

なにをたいそうに古代文字の発音なぞとわけのわからんことをかいて、
自分でもまたも結論をみうしなって/笑
って、しまったのだが、
なぜこんなことを考えたかというと
いくつか、ルートがある。

ひとつは、文字の中に含まれる(意)
これは、「す」」が清めの意味があるとか、
こういう言霊にあたる・・・、
文字霊といっていいか。

そして、50音の中の2番目にくる言葉(父音と位)参照

いろはにほへと・・(これは、常用されていた文字を覚えるために和歌?のようにつくったもので、いろはにほへと以外にもいくつか、和歌?のような・・アンチョコがある)

文字に何らかの意味が隠されているという風にかんがえるのは、
あるいは、ひふみ文書の存在からの影響も有るかもしれないが、
むしろ・・・。
占いとか教訓じみた、語呂合わせの中に真実がないだろうかと思うのである。

そして、またか、と、言われるが
占い・・手相などでもわかるように
点や丸・・など付随されてくるものに何らかの意味があるのではないかと思っていた。

一番最初に不思議に思ったのは
がぎぐげご・・などの濁点。(余談であるが、濁点と入力して変換をかけると「゛」がでてくる)
かきくけこに濁点がつくのであるが、
この濁点はその文字とおり、濁りではないかと考え出した。

これはあくまでもこじつけで・・
(あ?言わなくても判っている?)

たとえば
「業」
ごう・・であるが、
非業の最期などというように
因縁めいた文字である。

この業から濁点をとる。

「こう」になる。

儒教的要素と仏教的要素を兼ね備えた
「業」からにごりをとって、
澄んだ「こう」になったら、どの字があてはまるか・・・。

聡いかたは気がついていらっしゃるであろう。

「孝」ではないかと思う。

これを逆に解釈していく。

孝といえば、まず一番の相手が「親」であろう。
親への「孝」を踏みにじった行為。
これがすなわち「濁り」
孝をにごらす行為は、いずれ、「業」になる。

こんな風に濁点を取ってみること
あるいは、濁点をつけてみることで、
つながる言葉がある。

あくまでもこじつけであるので、
一時が万事当てはまらないが
ときに考えさせられるものがある。

たとえば
「く」
与えられた「苦」を通ることで
やはり、人間えもいえぬ味がでるもので、得るものはおおいのであるが・・・。
これをにごらせる。
「苦」を嫌がり、己を悲観する。
まさに「ぐ」・・・「愚」である。

と、言う具合に・・・。

古代文字の発音から・・

今につたわる文字で有っても
わゐうゑを・・・という文字の発音の違いを知らない。

同じ発音に思っている
ゐとい
ゑとえ
はとわ
へとえ
じとぢ
ずとづ
おとを
すべて、発音が違うはずである。

わずかに知っているのはを
心持ち「ぅ」と「ぉ」を混ぜ込んだ発音で
キーボードを打つときにも判るが
「を」は「WO」と、打ち込む。

で、このWOの発音が「を」の発音だといえる。
同じように考えれば
ゐは「WI」・・いや、憂生のことではない。
ゑは「WE」・・
Wの発音が被るような絡むような微妙な発音で意識して使ってみると非常に使いづらい。

父音(あかさたな・・)に母音(あいうえお)を融合させて、日本のひらがな(発音からくるもの)ができあがったわけであるが、
この融合がくせものだと思う。

英語の発音でもRとLの微妙な違いをだせる人がいないというが
RとLも発音が違う。

同じライトでも
LIGHT
RIGHT
WRIGHT
と、実に微妙な発音がある。

この発音の違いを表す日本文字は無い。
同じように、日本にはer・・・という発音形態を表す文字が無い。

たちつてと・・のTの字が英語では発音されにくい。
もちろん、先頭に来れば別であるが
中にはさまれる場合、顕著な例では、WATER。
水であるが、ヘレン・ケラーの物語でもヘレンが一番最初?に覚えていた言葉がウォーターなのであるが、
このウォーターの発音について物議がある。
Tの字の発音が苦手な国民が、幼少時に最初にウォーターと覚えるのも・・妙な気がする。

この疑問を解決してくれたのが、笑い話。
やくざの親分が外国に行って・・。
英語が上手く通じないものだから
思わず怒鳴り上げた。
「わりゃあああ!!」この「わ」が文字では表現しにくいんだけど
ぅわ・・って感じらしいんだけど・・。
すると、周りに居た人が
「すばらしい発音だ」と賞賛してくれて、水をいっぱいもってきてくれたというのだ。

ウォーター・・・ではなく、ゥオラ~~って、感じの発音だったと考えると
ヘレンが覚え、発声できた言葉だと考えられる。

ところが、日本にはこのERを現す言葉が無い。
しいていえば、オールマイテイな「ー」
がこれにあたるか?
だが、これは、母音の部分を引っ張るしるしで、巻き舌調のERを発音できない。
英語の参入でERを発音できる人が多くなって
ウォーターとかいてあれば、
ウォータERと発音する人が多くなったが
実際には、これにあてまる文字が無い。

と、此処まで照らし合わせて(あってるのかよ?)みると、
日本語の父音(あかさたな・・)に母音(あいうえお)を融合させて、日本のひらがな(発音からくるもの)ができあがったわけであるが、
この融合がくせものだと思う。

と、いう意味合いがわかっていただけると思う。

日本にERがないということは、
逆に言えば、切り詰まった発音が多くなる。

語頭に小さな母音を付け足すような・・「を」を「「UWO]に近い発音をすることは出来たようであるが
語尾にラ行を持ち込むこと、発音は難しかったのではないか?

古代文字・・のそのころ、発音できる「音」から、文字が作られていったと考えても、ERがない。

と、思うのである。

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あおによし・・・


多くの書きかけをほったらかしにしたままでありながら、
今、ひとつ、書いてみたいと思うものの
萌芽が見えてき始めている。

題材は・・・
聖徳太子・・から・・・。

聖徳太子の境遇・・?と、いうのは、
実はかなり、悲惨であったと、いう情報がはいっていた。

太子の死についても、
暗殺説はむろんのことであるが、
この境遇という背景が
太子にノイローゼ?
を、発症させ、
その死が狂乱の果てであったともうかがえる。
こういう情報を得たとき、
憂生の中で妙にひっかかった。

太子は
「和をもって尊し」
と、まあ、仏教導入?の波乱に対処してきたわけである。

この
「和をもって尊し」の発想?は
古代史の中、
大国主命・・・。
大和朝廷への、国譲り・・。
この部分でもでてくる思想で、
大和朝廷・・の都合の良い論理か、
威光をかざすためのでっちあげ・・で、
実際のところは
大国主命は惨殺されたというところかもしれない。

あまりのむごい仕打ちのために
美談をつくりあげなければならず、
あまりの残虐さに
大国主命自らはもとより、
島根いったい・・大国主命に従属する民・・部族の反感・・敵意をこうむり、
信用をうしなうとなっては、
大和朝廷の統一は儘成らない。

反逆分子。感情をおいておくことほどの脅威はない。

で、話し合い解決。

と、いうカムフラージュができあがったと
考えられる。

で、なければあれほどの出雲大社をたて、
人民の感情/祟り/をしずめようとはすまい?

と、こういう「和をもって尊し」を前に出す
その裏・・・。

これを太子という個人レベルで考えてみたくなった。

太子の主張でなければ、
あとから、つくりあげたものであるなら、
大国主命さながら、「偽装工作」でしかないのであるが、
これが、太子自らの思想であるのなら・・・。

悲惨な境遇・・・。

この中で培われたものが、
「人からの愛情への希求」
で、あろう。

だが、なにももたない太子が
「人から愛されはしない」

太子がいきついた思想?は
「己が人を愛するは自由であり、
その自分/人を愛す/こそが自分を尊くする」

こういうところか?

どんなにか、悲惨な境遇。
太子に与えられたものは、人としての尊厳さえ失う屈辱。

その中で太子が光明を得るとしたら・・・。

それでも、人を愛そうとする強さ。

その強さがいつか、花開き
「和」というものを、自在に扱うことで
人々の間がどんなにうるおうか。

これをたたきこまれた太子だからこそ。

憎む気持を踏み潰すためにも、
己の屈辱をぬぐいさるためにも・・・。

己に銘うった一言。

こういう気がしてならない。

「和」こそ尊しとつかみとった、
掴み取らざるをえなかった
太子の苦悶の人生を
またも、勝手な解釈でえがいてみたいと
そんな萌芽が
今此処にある。

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特に坂本竜馬が好きです。

あれや、これや、時代物がかった読み物をかいていますが、
本来は明治維新。
特に坂本竜馬が好きです。
竜馬を好きなのは、その考え方といっていいかな。
竜馬は実に単純で純心だと思います。
薩長連合を提示するにしても、
普通なら、そんな事ができるわけがないと、
思っても、実行にうつせない。
ところが、
「仲よくすりゃ、いいじゃないか」
できない事じゃない。
大政奉還にしろ、同じ。
あの状況のなか、そんな考えをもちだしていけば、自分の身だって危ない。
だけど、慶喜にとって、一番良い方法をあっさり、・・・誰だっけ?を通して、進言する。
時期的にうけいれやすい状態だったにしろ、
歴史の引き金をひく。
こんな事をあっさりやってのけた。
その竜馬でさえ、
天の思惑と、ずれた方向に動いたとしか思えない。
竜馬の思想はグローバルな見解の上になりたっていて、竜馬はいずれ、世界貿易などに進出してゆくつもりであったろうと、きく。
そのグローバルな見地からみれば、
小競り合い。身内争いの薩長の輩など、
「仲良くすればいいじゃないか」
と、一笑で片付けられる手のひらの上の問題でしかなかったと思われる。
大政奉還も又、同じ。
日ノ本の国をおさめてゆくに、
最善の方法をかんがえたにすぎない。

その竜馬が強刃の露になる。

犯人は不明であるが・・・。

運がなかったとはいわない。

竜馬が天意にそったのは、ここまで。
あとは余分だったと、思う。

世界貿易とか・・・。

外国の商いが日本に入り込んでくる。
マネー本意の生活が今、まさにそうであるが、
これが、人心を殺伐としたものにする。

その一番のきっかけを明治維新のその頃に
もちこんでゆくことは、危険だったと思う。

ましてや、
裏の実力者ともいえる、竜馬が交易に従事したら、あるいは、日本は竜馬の植民地のごとく。

コレは、無論、竜馬が望んだ状態ではないが、
竜馬の持つ背景が竜馬を一国の統治者にしたてあげてしまいかねない。/むろん、外国勢からみてではあるが・・/その外国勢の圧力ほどおそろしいものはない。

時代に早すぎた寵児はいくらか、時代のよどみの堰をきった。
そこまで。

天は竜馬の速足をとどめた。

暗殺の首謀者は誰か。

ときおり、取りざたされているが
本当の首謀者は天であり、
天を動かしてしまった竜馬本人が引っ張り込んだ結末としか言えない気がする。

と、まあ、時代考証以前のもっと、無形のものへの畏れという観念にたつと、
こんな考え方が荒唐無稽すぎて、
理解の範疇になるまいと思う。

だが、南州公/西郷隆盛/が、愛した字句がある。

敬天愛仁/人だったかな?

天を敬い、人をいつくしむ。

その頃・・の儒学などの思想であろうが、
当時の人々は「天意」という観念をいつも意識していた。

余分だが、この考えのさいたるところが、
新田二郎の八甲田山彷徨だっけ?
「天は吾らみはなしたか」
あるいは、
おい、度忘れ。
至誠通天?
誠を持って処すれば天に通じる。

こういう風にその思い方はいまも痕跡?をとどめているが・・・。

かくのごとく、
天という存在が日本人の道義の尺になっている。
この考えを含めて明治維新の人々の思いを
見つめなければ、理解は出来ても、納得出来ない部分がある。

と、憂生は思っている。

そして、その上での史実との符合。

とても、
書けない。

書けないから、思い半分の物語で茶を濁しているのが実情。

なさけなか~~~。

人間西郷と武人西郷の・・・


久しく、本をよんでないのだが、
まあ、何かにつけ、思うのは
司馬遼太郎である。

彼の人物の解剖はいかにも、
そうであったろうと、思わせるものが多いが、
これも、
現場にむかうという彼の新聞記者としての性癖が功を奏しているのだろう。

時代も良かった。

彼の作品で秀作と思うものは、/個人的に/
明治維新頃を題材にしたものが多い。

人物が肉迫してくる。

何の本だったか、題名さえ忘れたが
彼の執筆裏話のようなものを読んだ。

彼は現場に向かう。
むろん、その場所に人物が生きて存在しているわけが無い。
ところが、その土地の気風や
郷土の感情。
生活環境などに触れることが出来る。

単純に言えば
雪が降るところの人間は慎重になるとか。
京都の商人は、
傘を求めに八百屋にはいったとて、
「すんまへんなあ。つい、さっきうれてしもうたえ。明日には、しいれておきますさかい、
堪忍しておくれやすや」
/京言葉かどうか、あやしい/
と、まあ、実にとおまわしに断りをいれるとか・・。
今でも、***の人が通ったあとには、石もおちてない。とか
***の出身者はでかそう(立身出世)とする気が多いとか・・。

その土地が育てる人間気質から掘り下げるだけなら、
時代が良かったとはまだいえない。

例えば、南州公/西郷隆盛などについていえば、地元に行けば、子供の頃にせえごどんを
見た事がある。話した事があるという生きてる人にであう。いや、さがしてくるのであろうが・・/
コレは、すごいなと思う。

写真などいくらか、残っている時代で
竜馬の写真なぞもあるが、
写真が語るより生のものである。

せいごどんは前あわせも閉じず
前のものがプラプラ見えるのも、お構いなしに
犬を連れて散歩していたという話が伝わっているが、例えば、老婆がみたせいごどんの印象をきけば、その話がさもありなんと思わせる別の印象をつれてくる。

これは、司馬遼太郎の中で
立体感のある人物が彫像になる。

骨格見本のモデルを写生する絵師のように、
実像に近くなる。

そして、あげく、
1人の人間の中にある矛盾さえも、
たやすく解いてしまう。

征韓論を打ち出した西郷に感じた矛盾も
不満分子の統括ととれば、納得がいくし
必死で止めたはずの西南戦争にても
総大将に自らなった矛盾も
西郷の気性という部分。
島津公に謹慎を食らわされていた不遇の時期とか、こんな部分で培われた西郷の気性まで掘り下げてゆけば、西郷を頼りに推してくる者達の心の行き場を考えた末、あえて、自ら、総大将になってゆく考え方にも納得が行く。

まあ、似たような言葉で
毒をくらわば、皿まで。
あるいは、まな板の上の鯉/鯛?

ちょっと、違うが、
寄らば大樹の陰。

日和見主義を言うのではない。
本来は寄らぬ。
寄らぬ人間が寄るならば、大樹の陰。
腹を括ったら、寄るという変転もあっさりしのけるほど、己を変える。
これが、西郷の覚悟の仕方に似ている気もする。

西南の役を起した西郷は
あまりに、人のほうばかり、見すぎたとも言えるし、
島津公に許されるをじっと待つ。
こういう西郷の気性の中に
忠誠に近い「慕う」という情が濃かったのかもしれない。
人に対してもろい人間は
結局、人の思いを一心にうけとめ、
その命を終えた。

人間西郷と武人西郷の最後のおさめ場所。
死に場所をさがしていたというは、少し違うが
西郷はシナリオの最後には死があると、判っていた。覚悟ではない。判っていた・・と思う。

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さんか族とうみか族


いつだったか、さんか族とうみか族の話を書いた覚えがある。

その時に縄紋民族と弥生民族ともいえるのではないか・・・。

ってな、話があったんだけど・・・、。

さんか・・・山家族とでも、かくのかな?

彼らは山での生活を基板にしたというから、
まあ、いえば、狩猟民族ってことになる。
この狩猟民族っていえば、例えば
マタギ・・?
炭焼き?
と、いう風にその血が伝承?されていったということになるか?

海家族というのは、どうしても、平地。
海だけの収穫でおっつかず、
山家族のように、あちこち移動せず・・・。
定住するから、その内、農作物をつくるようになる。
これが、縄紋・・・縄の紋・・・
稲作・・・藁・・という部分で海家族イコール縄文民族という推理に結びつくわけだけど・・・。

この推理以前に面白い、予測がある。
予知?というべきか?

それは神話に関わる。

海幸彦と山幸彦の話である。

神話は多分・・・縄文、弥生それ以前の物語であろう?
編纂されたのはあとであろうが・・・。

と、なると、この海幸彦と山幸彦の分散・・・
すなわち
山家族と海家族の分派・・・を
神話があらわしていると取れる。

毎度おなじみながら
神話のもともとの
国産みの話に置いても
夫唱婦随の教えを説いている部分もある。

神話は世界どの国に置いても
似たような伝承がある。

ひょっとして、神話の中に
それこそ、ノストラダムスの予言より
すごい未来史実にまで通じる根源が隠されているのではないかと思う昨今である。

乾燥耳といっても、豚耳のことじゃないよ!!

お邪魔しました  ネチョッ 笑

このコメントでなんか、湿ったイメージをうけたんですよ。
そしたら、耳の事をおもいだしました。

耳のタイプには乾燥 耳と
湿潤耳があるようです。

憂生は湿潤タイプ。

友人がお土産 にみみかきをくれたことがあったのですが・・。
昔から不思議に思ってたんだけど、

耳掻きの反対側にはよく、ふわふわの綿毛がついてますよね?

「これ、一体、何のためについているんだろう?」

だって、憂生がそれをつかったら、
いっぺんで、ねちょ・・・。
いちいち、洗ってつかうのか?

謎だ?

ってね。

そしたら、まあ、いろいろあって・・。
/深く追求しない事!!/
乾燥耳の人がいるんですよね。
つまり綿毛は乾燥耳の人の独占
物件 !!

なるほど。

やっと謎が解けた頃に猫をかいました。

見ればこいつも湿潤耳?

猫にもおしえてやりました。

「おまえも、この綿毛はつかえんのだぞ」

猫にも不要のみみかきでした。

え?

猫の耳掃除なんかしない?

Re:乾燥耳といっても、豚耳のことじゃないよ!!
******
ちゅらら から******

いやきっと、そのイロイロが楽しいんだって。
追求するのには(笑)。

うーんと、アタシが今日、ブログに上げた竹内久美子の本によると、
日本人 のルーツは縄文人と渡来人の2派があって、
縄文系の人の耳垢はウェットで、渡来系はドライだとか。
他にも両者の身体的特徴がイロイロ挙げてあって、
それらを読むと、アタシは縄文系だなーって思うのに、
耳垢はドライなのよねー。
まあ、長い年月を経て、混血を繰り返してるわけだし、
スパッとはわけられないだろうけど。

ということで、同じく見学者のちゅららでした。

***憂生から*****

同じく、何の本だったか、わすれたが、
日本の民族の発祥についてだった。

それによると、
日本人は山か族と、海か族とにわかれて、くらしていたというのである。

海の近く、つまり、平地においては
農耕が可能になり、
一箇所に定住する事が可能になり
海か族は圧倒的にふえていった。

そして、
獲物を追って嶺々をわたる山か族は
不安定な生活を捨て、
海か族との混血・・・。

と、言う事になったらしいが・・・。

虚実の沙汰はおいといて、
この辺りにも、乾燥耳と湿潤耳の
ルーツがあるような気もする。

山に入った人間は先に日本に
居た人間である可能性が高い。
こちらが
どちらかの耳に属するとしたら、
どちらかの耳は
日本の原住民?の血を色濃くついでるってことかにゃ?

どっちの耳か判らないのが残念?

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卑弥呼以前から続く巫

語の中に自分というものが
投影されるものであるが、
ある意味・・・。

なまっちょろい自分が
そこかしこに
顔を覗かせていると
気がつく昨今であるが、
いろいろ、
ほじくりまわしてみると、

憂生の中で
こうありたい自分というものや、
こうあってはいけない自分というものを、
ペトリ皿にのせて、
培養していたと思える。

その実験?結果なるものは、
言語にあらわすに、
あまりにも、不遜。

幸せであると、いうことは、
まず、他人の幸せを祈れることであると、
究極すぎる幸福論をださざるをえない。

こうなってみると、
天皇論に話をむすびつけたくなるのである。

天皇家というのは、実に
不思議な存在である。

歴史をたぐってもわかるが、
天皇というのは、
簡単に言えば
国民の平和と幸福を祈る。
一種、巫的存在である。

この巫という文字も不思議な造形をしている。

天と地を繋ぐ一すじの中に人人・・・。
あるいは、人と人の間を工作する・・・。

まあ、解釈はいろいろできることなので、おいておくけど・・・。

世界大戦の最中神道・・一派。
祈祷により、ヒトラーを呪い殺そうとしたとか・・・。
実際、ヒトラーも呪いが効をそうしたかのように、ぽっくり・・いってしまった。

こういう祈りというものが、
人の運命や生死や幸・不幸までも、
差配する部分があるとすると、
日本のおおいなる巫は、
「私」を統制しきる天皇以外いないといえる。

マイナス的祈りには、天皇は参加できなかったろう。
統制しきった「私」である天皇は
呪うなどという「思い方」すらできないほどに
人を思う。

日本には、こういうほどに
自分を逸した「父」のような存在がある。

こっちは、思ってなくても
大きなくくりのなかであろうが、
無償の慈愛の念をふりそそぐその姿が
人を思う・・・その姿として
大きな雛型になりえる。

そういう天皇を頂いている日本だからこそ、
深いものが
人々の心に住む。

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皆既日食は怪奇日食?

先日の皆既日食から、面白い記事を眼にした。
皆既日食の過去暦をたぐっていくと、卑弥呼の時代に皆既日食が起きているというのである。
卑弥呼は突然、政権交代を起こす。
一説に病死ともいわれているが、
皆既日食とかかわりがあるのではないかと思えてくる。
巫女的存在であった、卑弥呼の代において、皆既日食が起こる。
エジプトにしろ、他の国にしろ、太陽、あるいは、太陽神を崇拝する国は少ない。
太陽神、イコール天照大御神と考えられる。
そして、天照の時代にも皆既日食があったのではないかと思われる話が例の岩戸がくれであるが・・・。
この時、天照は皆既日食がおきて、自分の立場がなくなり岩戸に隠れたと考えられもする。
これを回りの人間が(神々が)天照が岩戸に隠れたから皆既日食が起きたと逆にとったのではないだろうか?
周りは天照が出てきたらお日様が出てくると信じ、天照を引っ張り出すことに務めた。
やがて、皆既日食がおわりだすころに、天照が岩戸から出てきた。
こうなると、これも逆に天照が岩戸から出てきたから太陽が戻ってき始めたと考えさせることになる。
こういう逸話があり、巫女的存在であった一女性が「天照」とよばれるようになったのではないかという話と
巫女的存在の一女性は実は卑弥呼ではないかという説が浮上する。
真偽のほどなど解かるわけが無いが、天照は皆既日食により、いっそう神的位置を確立したに比べ、卑弥呼はむしろ、皆既日食を鎮めるための人身御供になったか?あるいは、皆既日食という不吉な天変地異により、巫女としての権勢に信頼を失い、新たな女王豊与にザを譲らなければならなくなったかのように、皆既日食まもなしに政権を譲っている。
面白いのは、豊与である。
このあたりについても、とようけのかみと会い通じるものがあるらしく、ここから、卑弥呼イコール天照という説がまたも浮上する。
いずれにしろ、皆既日食が一人の人間の運命を大きく変えたことは間違いが無い。
これらによって、ますます太陽神(天照)信仰が確実なものになり、神話、古事記においても、月読の存在が抹消されていくように思える。
不思議なほど月読の記述はない。
これは、また、抹消されたかと思われるウガヤフキアエズ王朝をにおわせる。
月読はじつは天照と争っていたウガヤフキアエズ王朝それではないのか?
あとの話のつじつまを合わせるためにウガヤフキアエズという尊をして天皇の始祖がごとくにあつかているようにもみえる。
ウガヤフキアエズ王朝を抹殺、抹消したあとで、皆既日食が起こり、あるいは祟りと恐れた故にのち、大国主命にたいしても、異常なほど祟りをおそれることになったのではないか?

太陽信仰がある民族ほど皆既日食をおそれたのではなかろうか?
アメリカかどこかの冒険かが土人につかまりあわやというときに、皆既日食をしっていた冒険家は身振り手振りで私を殺したら太陽を消してしまうとつたえ、やがて置き始めた皆既日食で冒険かは逆に神に祭られることになったらしいが。一方でインドでは、皆既日食は不吉と考えられているし、通常未開?な状態では、皆既日食をして吉祥とは考えられないだろう。

皆既日食・・。
これは、歴史上でかなり大きなキーポイントをつくっているのではないだろうか?

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新たに、法隆寺建立

太子の威光と信奉をあてに、民の心をつかむために新たに法隆寺が立てられたというが、
どうも、いまひとつ、ぴんとこない。
むしろ、魏呉蜀(字がわからん・・・)の時代。
外圧に対しての建立では無いかと思える。
仏教を擁護する形をとったのも、ひとつには、外圧に対しての政策。

単純に魏呉蜀、あるいは、唐が攻めてきたときに
仏教を擁護しているという事は、同胞意識がわく。

キリスト教を宣教したのは、宣教師だが、
相手側の宗教を受入れるという事は
どこか、属国意識を鵜呑みに受けるににている。

いわば、腹をみせる犬を殺す野犬はおらぬまいという
眼に見えぬ深層心理の所作と思える。

こういう感覚で、
あるいは、計算で?
仏教を擁護し
仏教を擁護した太子をも、ありがたいと下におかぬ・・・。
そんな国が仏教を信奉する大国に敵意をもつわけが無いでしょう?

火の粉を被らない前に、火がつかぬようにするため・・・
法隆寺建立が役に立った。

そんなきがしてならない。

日本丸(メモ程度で停滞中)


いつだったかの新聞でとりあげられていたのが、渡辺篤。

「自分が龍馬を殺した」と懺告したとか、しないとか(記憶が定かでなくなってしまった)

そのときに、渡辺側からの感慨を想定して、メモに残したものである。

そこから、龍馬の話をかきおこそうかと思っていたら、龍馬伝がはじまってしまって・・。

時代物は好きではあるが、史実から書き起こそうと思うと、かなりの下調べが必要になってくるため、たいてい、頓挫する/笑・・・

次にあげる、あおによしも・・そうだ。

届かなかった短筒を目の端にとめた竜馬の脳裏に慶喜の顔が浮ぶ。
「この先の日本丸を・・・」
大政奉還の進言に慶喜が返した言葉の一端であるとは、知らぬ渡辺篤であるが、
その刃でついえた者の魂の所在の大きさが
渡辺の胸をえぐった。

とんでもない人物の命を奪い去った。
その悔恨があとになるほど、深くなるとも知らない。
竜馬の命が消え果て、
わずか後、南州公の謀反とも思える暴挙である、西南戦争の時、
渡辺篤の胸中に沸いたのは
その時の竜馬の言葉であった。

「この先の日本丸を・・・」

渡辺の瞠目が開かれても
もう、
竜馬は居ない。

この渡辺篤が竜馬をついえた。
日本丸を思う誠の志士を
この渡辺がついえた。

*******

あおによし(執筆中・・うんにゃ・・停滞中)

*天という概念を考えにいれないと、歴史はわかりにくいと、いうことを考えさせられたのが、

出雲大社からであるが、

このあたりのことは、「天という概念」にまとめた?ので、省く。

スサノオをしらべて行くうちに、もうひとつ思わされたのが、

「和」という精神だった。

大国主命=スサノオという説も多くあるので、ごちゃくたになってしまうが、

同時に、国譲りのときの大国主命にも、「和」の精神がある。

この「和」の精神がでてくる部分が「天を意識する」というところから、発せられるとおもうのである。

のちに、聖徳太子が和を以って尊しって、ことを唱えるわけだけど、

いかにも、仏教思想にかぶれて?、聖徳太子がそんなことを言い出したようにみえるが、

実は、日本古来からの「天という概念」に裏打ちされ「和の精神」はすでにあった。と、思う。

そのすでにあったというのは、日本人は、「観念」の国で、

ー暗黙の了解ーみたいに、底辺意識で理解していた部分が多いと思う。

仏教などなど、「観念」でなく、「経典」とかいう文字にされている部分で、圧倒されて、感化されたと捉えるむきがあるが、憂生は、元々、日本人は判っていた、会得していたと思う。

いわゆる、大和魂って・・いうものだろう。

で、一般的にいわれる、聖徳太子が仏教から、「和を以って尊し」を得た。

と、いう考え方でなく、

すでに、歴史をたぐれば、そこにあったわけで、

むしろ、「和を以って尊し」に共振する聖徳太子の「内部事情」「心理事情」があると思えた。

そこにまた、情報。

聖徳太子はかなり悲惨な境遇だった。

聖徳太子はノイローゼ?で自殺した。

真偽のほどは、定かではないが、これは、決定打になった。

映画談義の蛍の墓になってくるが、これも、また、妹を護るために、「和を以って尊し」であるべきだっただろう。

つまり、裏をかえせば、「和を以って尊し」を実感し、実践する人間は、かなり悲惨な境遇であっても、自分を殺して、「和を以つ」ことにつとめたからこそ、「和」がいかに重要か判るのだと思う。

そう考えたときに、聖徳太子が、仏教から、「和を以って尊し」を得たのではなく、

むしろ、先人である、スサノオや大国主命を思い量ったとおもう。

そして、「和」の大切さを説く、仏教を擁護する気持ちが自然とわいてきたのではないかとおもった。

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山鉾巡行17日・・・・
この足跡の日付を見ながら思い出している。
この日は、弘法さんの祭り・・のため、憂生は自宅の商売の手伝いをしなければならず、山鉾巡行にどうしてもいけなかった。

夏休みのバイトがおわると、必ず、京都に足をむけたが、それも、お盆のかきいれどきが、おえてからだった。

だから、大文字もみたことがない。

かつ、京都の人の独特のいいまわしをきかされることになる。

「昨日。大文字はんどしたんえ」
五山の送り火がおわってから、あんた、なにしにきたんどすか?
もっと、いえば、あほちゃうんか?/笑


このものの言い回しについては、司馬遼太郎がかいている。

京都にいっても、本当のことをいわない。ストレートにものをいわないので、関東域の人間はとまどう・・だったかな・・。

例えば、八百屋に靴をかいにいったとする(、ありえない設定だが・・・)
関東域においては、八百屋に靴があるわけがない。めん玉、かっぽじって、看板をみなおしてこい。
もうすこし易しく言えば
靴は靴屋にいってくれ。うちは八百屋だ。

と、いうところだろう。

ところが、京都域になると、
「すんまへんどしたなあ。靴は昨日、うれてしまいおしたんえ」
「明後日には入荷しますさかい(ん?微妙な京都弁だな)また、出直して・・」
と、いう妙な断り方をする。

やんわりというか、遠まわしというか、客に恥をかかさないで、気がつくのを待つというか・・。

このあたりのところは、司馬遼太郎の本をよんでもらうとして、
憂生も憂生なりに、京都弁の奇妙さを思う。

このあたりは、壬生浪ふたり・・で土方と鈴音の会話にさしはさみ、沖田の心情をつかまえてみる土方になるわけだが、
曰く、
「何でもかんでも本心を偽りやがる」
であり、
土方がいう。
「そうだろ?お大尽がきてもーきはったー泥棒にはいられても、泥棒はんがーきはったー・・・と尊敬した言い方で物をいいやがる。泥棒にまではんをつけやがるけど、泥棒がはいりやがっただろう?そんな風にな、本心を偽るんだ。総司もそうだ・・・」

いやあ、本文のようにはうまく?かけないが、京都言葉の妙な心理というのが、どこからしょうじてきたものかは、今までの歴史をかんがえてみればわからないでもない。

勝って、官軍とか、錦の御旗の本拠地である。
いいかたは悪いが昨日までこそ泥だった人間が突如、官軍にかわってしまう。その逆もあろう。
たとえ、泥棒であっても明日はどうなるかわからず、泥棒よとあつかっていれば、突如、偉いさんになって、この前の態度は許せんとばかりにお店ごとつぶされるかも/え?
こういう変転のおそろしさをよくわかっているのだろうし・・・。

くわえて言えば、祇園である。
祇園精舎といえば、仏教の修行僧の聖地であり、経典をおあむる場所であったと思う。
つまり、祇園社であり、牛頭大王になってしまった?スサノオが祇園社を守護することになっている。
そして、スサノオといえば蘇民将来なのである。みすぼらしい旅(遠征)仕度に兄のコタン将来は宿を断り、弟の蘇民将来が粗末ながらもてなすことになり、遠征の帰りに茅で蘇民将来の子孫である目印にせよといいのこしていく。
蘇民将来の子孫が疫病(種痘・疱瘡)などにかからないようにしてやるのが、スサノオの恩返しであったわけだが、こういうこともそうであろう。
見た目にまどわされていたら、子々孫々負い目をおう。
こういう観念が京都には根強いのかもしれない。

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