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祭りがおわった。

やっと、お祭りもおわり、ほっと一息の今日になりました。

憂生の地区では、一端、廃れかかっていたものを

有志の人たちで、復興しなおしたという経緯があるためか、

細かい行事や作法が省かれている様子です。

他の地区にいきますと、みこしの露払い、ミサキ?になるのか、

天狗だったか、翁?だったかの面を被った、古の装束の人が

神輿の前を歩き、先導していくようすです。

天狗は、さるたひこであるともいわれ、

確かに彼の役目は先導者、道案内、つゆはらいをうけもっていたとおもいます。

他地区のことはわかりませんが、

基本的には、氏神を祭る八幡神社の氏子達が祭りに参加していきますので、

地区のなかでも、新興住宅地には、祭りがなかったりするようです。

憂生の地区の八幡神社はスサノオを祀っています。

スサノオはわりとポピュラーですが、

この地域は、蘇民将来の武塔神(のちに、スサノオであると伝わる)や、

祇園精舎の守護神である、牛頭大王と、スサノオが同一視された祇園社の発祥の地でもあり、史実的にも、瀬戸内海近辺を平定し、中国山地を山越えして、出雲に帰った形跡があり、この途中で、茅の逸話である、蘇民将来の話があったと思われる所縁の神社もありますし、

茅も群生する神谷(かや)川があったり、鞆の民族を海の部族と称したとおもわれます。

その鞆の神社、沼名前神社は、神功皇后が立ち寄り、航海の祈願のために

海の神であるおおわだつみを祀ったようなのですが、

この屋根の様相が国津神のもので、おおわだつみなら、天津神ではなかろうか?

と、疑問をもっていますと、やはりスサノオが併合されています。

そして、小さな立て札に、スサノオを合祀したとかかれているのですが・・・。

先にかいた、地域的なかかわりから、おそらく、最初にはスサノオがまつられていたとかんがえられます。

それが、おおわだつみに祭りかえられたため、地元の人間がこっそり、スサノオをまつりだしたのではないかと。

スサノオが各地にもたらした技術は、伝承でしか、推測できませんが、

やまたのおろち退治のことからも、治水・灌漑技術。

造船技術・鍛冶そして、蘇民将来でかんがえれば、何らかの医療技術

薬草などの知識も豊富だったのかもしれません。

このあたりの「恩恵」がスサノオへの絶大な人気、信仰になり、あちこちで祀られる元になったと思われます。

神輿の中の神がスサノオであるかどうかまではしりませんが・・。

少し時期が早いのですが、収穫祭のおもむきがあります。

また、神楽もあったというのですが、これは地元では、まだ、みたことがありません。

岡山などでは、備中神楽などがあり、演目はきまってますね。

スサノオのやまたのおろち退治です。

越の国からやってくるやまたのおろちを退治するにせよ、

越しの国のぬながわ姫を大国主命がめとるというのも政略であるとかんがえれば、

スサノオの行動範囲はかなり広く、当時の本州の半分以上を事実上、政略下におさめていたと考えられます。

また、この神社は須佐神社(だったかな?)の流れをくむ神社の神主が禰宜をしています。

神社の決まりごとはよくわかりませんが、

全然系統の違うところの禰宜ができないのならば、

氏神である、八幡さまなるものは、スサノオであるとかんがえてもいいのかもしれません。

練習(10日)から、町内巡回(4~5日)に前夜祭に本祭

太鼓の整備や旗・のぼり・注連縄(簡易なもので、荒縄に御幣をつける)を各家にはりめぐらせなど、練習以外にもたくさんの作業をそれぞれが、分担し、一ヶ月近く祭り色にそめられていきます。

そして、本祭りがおわると、あっというまに、のぼり。注連縄エトセトラを片付け

なにごともなかったように、しずかになり、

田んぼの稲もきれいにかりとられ、

冬の扉の鍵をあけたようです・・・。

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みほのひめ。

美穂神社の主祭神は、美穂津姫と事代主であるが、この由緒は、?と思う。


三保の松原の先端の岬は美穂崎であったように記憶する。


また、美穂津姫にあやかっての地名であるというのであるが、由緒によれば、

美穂津姫は大国主命の后であり、事代主とは、夫婦ではない。


また、越の国において、父。母の素性を考えれば、美穂津姫が、天津神になろう。

ところが、越の国の伝承によれば、出雲にいってない。

あるいは、いったが、途中で帰ってきている。と、ある。

大和朝廷側の進撃により、出雲に帰省したという見方もなりたつのであるが、

この女性はぬながわひめであり、出雲にはいって、美穂津姫に名をかえた。

とも、考えられるが、

大国主命との間に美穂須ゝ美という娘をもうけている。


むしろ、こちらが、美穂の名前をうけているところをみると、

母、ぬながわひめの懐妊の名前。

美しき穂をたたえた姿(美穂津姫)から、

みほすすみ、がうまれたのではないかと思う。

文字的意味合を読むと、

美穂の地を清め住みたもう。

という風に読めてしまうのは憂生の考えすぎだろうか?


美穂神社の千木は、今もって不思議である。

天津神と国津神が横に並ぶ様相で、横に並ぶということは、

これは、夫婦であろうか?


どうも、元々は大国主命が、ぬながわひめをむかえるために

妻籠もりとしての土地だったのではないかと思う。

位的にみると、天津神であるぬながわひめ一族であるから、

おむかえするに、天の千木をかかげよう。


その横に大国主命が夫婦という形の千木をたてたのも、

ひとつに、歴史的背景を感じる。

国譲りの神事が行われた場所であり、

時代的に大和朝廷の圧力がかかっていた。

このため、越の国から、ぬながわひめをむかえることは、

政権拡大というか、地盤を作りあげていく礎になったと思われる。


あまてらすという高天原系の天津神あいてに、

天津神系譜のぬながわひめが、布石になるとかんがえられたのではなかろうか。

故に、天・国横軸の千木をつくったのではないかと。


ところが、なぜか、ぬながわひめの名前ではない。


考えうるのは、ぬな河一体をおさめていたぬながわひめは、

翡翠から霊力?をえていたわけで、

その名前からも、奴奈宣破姫。

つまり、翡翠の霊力により宣い破るといういみあいで、

いわゆる地付きの巫女だったのではないかと思う。

そして、あたり、一体をおさめていたのであるから、越の国の伝承のように、

出雲には、いってない。あるいは、すぐにかえった。

と、いう線が妥当のように思う。

地付きの巫女であれば、当然、出雲に行ってもその霊力を発揮できない。

むしろ、ぬながわに帰り、そこで、出雲の平安を祈ったほうが、よいということになる。

まして、息子(たけのみなかた・・・?)は、ぬながわにのこしているわけである。

当然、娘は父方にいくのではないだろうか。

事代主以降、娘(娘の娘・・とか)が天皇家の血筋に関与していくのであるが、

これを考えても、娘というものが、強い勢力との姻戚関係を結ぶ可能性があるわけである。

ましてや、天津神系譜の娘を大国主命側が貰いうるという事はありえたと思う。

だから、ぬながわをさるときに大国主命が娘をつれてかえったか、

あるいは、ぬながわひめが、美穂の地に一時きたとしたら、

娘は出雲においていくしかなかったのではないだろうか?


最初はぬながわひめが住まい、しばらくのちに、美穂須ゝ美がその土地に住まった。


と、考えたくなる。


そして、この美穂須ゝ美の消息はさっぱりわかっていない。


この美穂神社、国譲りの時ににぎはやひがかけつけているという資料を目にしたことがある。


天孫であるということでの、ひと悶着をいやでも、おもいおこさせるわけであるが、

あるいは、美穂須ゝ美もアマテラスにとって、にぎはやひ同じくの天孫であり、

同じ巫女・巫として、たんこぶ的存在であったと思われる。

あるいは、ここで、美穂須ゝ美は抹殺されたのかもしれない。


そして、出雲大社よろしく、

大国主命の怨霊を封印しているというように、

天皇系列になっていった、事代主を封印にして、怨念をしずめているのかもしれない。


なぜ、事代主なのかということになると、同じ例がある。

同じ系譜のものを禰宜などにおいたりする例はいくつかある。

怨念の力が強大であるため、

赤の他人では封じ込められない・・祀れない。

まあ、先祖の供養は子孫がするというのとにたようなもので、

事代主が国は譲ったが、大和朝廷側とのことは、もう、水にながして、和合しているのだから、

貴方も許してあげなさい。とか、いえる存在であり

逆に子々孫々に大和朝廷が入り込めば、嫌でも、たたる事が出来ない。

守護に回るしかないという形の怨念静めだったり・・。


美穂須ゝ美というのは、ちらりと名前がでてくるだけで、

以後、本当にいたかどうかもうたがわれるのであるが、

国譲りの重要拠点である美穂神社において、

ぬながわひめの不在(後に、越しの国において大和朝廷にほろぼされる)を考えても、

わずかの間いただけ、あるいはいなかったぬながわひめを美穂津姫と呼ぶのは奇妙なきがする。

また、このあたりの地名のみほは、三保であり、


これは、どうも、国引きで、朝鮮半島、越しの国をひっぱったというように、

出雲・朝鮮・越しの三つの地を保守するという三保で、

みほのひめ。

と、ぬながわひめを呼称したところと、

懐妊。あるいは、越しの国との同盟?により、実りあることへの期待とで、

三保を美穂にかえたのではないかと、うたがうわけで/え?


事実上、そこに住んでいたのは娘である美穂須ゝ美ではないかとおもうのである。


出雲大社よろしく、

承諾の上での国譲りという美談をつくりあげる裏側で、

これまた、美穂須ゝ美の抹殺をめくらます何かがあったと思うのは

うたぐりすぎだろうか?


大和朝廷側へのかなりの貢献があったと思う、事代主のその後の系譜を思うと、

美穂須ゝ美の消息が途切れ、一方で、ぬながわひめを徹底的に追い詰め自決(とも?)させているわけで、あまりにも、奇妙に対偶が違いすぎる。


あるいは、一番、じゃまものである、大国主命・(あるいは、スサノオ)美穂須ゝ美を

抹殺し天神殺しというたたりを払拭する血で血をあらうという粛清があったのかもしれない。

にぎはやひにしろ、月読も美穂須ゝ美も奇妙に歴史伝承がぬけおちた存在である。


*このあたりをまとめてみるため、ぬながわひめをかいています。


執筆中のカテゴリの中にはいっています。

二箇所の同名★耳川

日日向のみみ浜(名前どわすれ)で、神武天皇が熊襲征伐にむかうときにそこで、船をつくらせ、そこから、船出をしたというTVをみていたのですが、福井、若狭地方に日向(ひるが)という
地名があり、その近くに宇波西神社というのがあるのです。
この地名は宇(宇宙の宇・・神?)が西からの波に乗ってやってきたという意味合いの神社名ですが、ここにまつられているのが、ウガヤフキアエズなのです。
ウガヤフキアエズは神武天皇の祖父?にあたるとおもうのですが、憂生はこの人物を実はウガヤフキアエズ王朝の末裔ではないかとかんがえていたのです。
神武によって、滅ぼされたウガヤフキアエズ王朝という風に。

日向から神武が船出している。3年以上その地にいたとのこと。
そして、もうひとつの、発見は日向という同じ名前の地名だけでなく、耳川という川が福井の美浜にもあるのです。
この地名を考えると、西からやってきたのは、神武天皇とも思えます。
あるいは、神武の祖父であるウガヤフキアエズ?
こう考えると、神武天皇が争ったのは誰?
海幸・山幸であらそったとき、神武が海幸
ウガヤフキアエズが山幸がわについて、骨肉の争いをくりひろげた?
あるいは、神武という存在は架空のもので、ウガヤフキアエズ王朝を追撃した大和朝廷側のでっちあげ?
実は、ウガヤフキアエズ王朝からの出自で、正当な後継者はスサノオ。
そして、宇波西の地にたどりつき、
誓約をおこなったのは、気比神宮。
そして、スサノオは一帯をおさめながら西へ進軍し出雲王国をきずきあげたけど、またも大和朝廷に滅ぼされた?

宇は宇宙の宇★ウガヤフキアエズ

なんか、どこかのSFの題名だったかな?
宇というのは、あってありあまる、無限の存在を意味するのだろうとおもう。
また、無限というのは、言い換えれば
限りなくゼロ(無)に近い。

無から有が生じ
有は無に帰す。

と、するならば、宇宙の宇は一種広大なエネルギー体といえる。

な~~~にをややこしいことをいってるかというとだな。

ひとつ、気になることがあったのだ。

と、いうのも、ウガヤフキアエズ朝のことを考えていたのだアル。

ウガヤフキアエズ王朝(とも聞く)というものは、史実には存在が無い。

繁栄し、衰退をたどったという説もある。

あるいは、古事記(日本書紀?)の編纂で、かきけされた文明だったのかもしれないのだが、
ところが、
神々の系図をたどると
ウガヤフキアエズ(おしむらく、変換ができないのだが、うが屋の屋根を葺くまもなしに、うまれおちたといういみあい)の名前を見つけられる。

?である。

ウガヤフキアエズ朝と、なんの関連もないのだろうか?

この疑問の回答は無い。
勢力下におさめたウガヤフキアエズ朝を
さも、親族かなにかのように、みせかけた苦肉の策か?

だが、だとしたら、大国主命のように、
別地にて祭らなければおかしい気もする。

が、それも、もっと、以前のことであるなら、亡国?亡朝の行状さえさだかになってしまったころの編纂ということになる。

が、これも、九州地方へ繰り出していった順序を考えると出雲平定と九州平定にそんなに年代の差があるとは、思えない。

と、ここまで、読んできてくれた人は
なんで、急に九州の名前がでてくるんじゃ?と、おもったのではないだろうか?

ウガヤフキアエズ朝は九州にあったということなのか?と、推察されているとおもうが
なぜ、九州なのかが、納得できないとおもう。

そこで、ウは宇宙のウが出てくるのである。

憂生のふるさとに
宇波西神社というのがある。

そこの名前の由来が
西のほうから、波に乗って「宇」が来た。
と、いうもので、
「宇」は当然、尊い存在であるから、
その神社の御神体になる。

そして、その近くに日向(ひるが)という地名がある。
日向から、宇波西神社はかなり遠いのだが、日向は「宇」がたどり着いたところだという。(おまけをいえば、三方五湖というのは、昔は三方六湖だったという。そして、今すんでいるところを考えても「津」のつく地名とか・・史実からも海面は今より上にあった。そう考えると日向湖から陸をもとめて、日に向かって行けば宇波西神社あたりが開けた陸になっていた可能性がある)
西から波に乗ってきた「宇」は、どうやら、九州、日向からきたのではないか?
と、いう説がもっぱらである。
日向をひるがと呼ぶことについても、
妙なことをおもう。

神々の誕生の時に「ひるこ」を生んで
流すわけだが、
この「宇」も「ひるこ(蛭子とかくと、えびすとよんでしまうので)」のごとく流されてしまったのではないか?
その名残?が「ひるが」来た・・。
と、して地名に残ったのではなかろうかともおもう。

このあたりの土地はまた別の「宇」の到来地でもある。
塩坂越と書いて「しゃくし」と読む。
その半島には、神子とか、常神とか
なにやら、神の存在をにおわす地名があるのだが、
しゃくしは
石神井でも有名なように、シャクジー
、石神の存在を表す。
石神といえば、三輪神社だったろうか?
大きな石が御神体になっているし、
一方では「天の岩舟」ともよばれる石神の存在もアル。

宇宙からの生命体(宇宙人とかでなく、
もっと、原初的な有機物といってよいか)あるいは、生命を生み出す元やエネルギーを象徴しているのが、「天の岩舟」だとおもうので、石神はもっとも、根源のいわば、「どろどろ・・・」した
天地の素のような観念で捉えている。

話がぞれた。
で、
ウガヤフキアエズ朝が九州にあったとい、仮説をたてたくなった大きな理由が
その宇波西神社にまつられているのが、
ウガヤフキアエズだからなのである。

そして、ここのまつりに
「王の舞」と、言うものが残っている。
ウガヤフキアエズ朝が王朝であったなら、ウガヤフキアエズは「王」であろう。

神々の系図の中に存在するウガヤフキアエズと、同一人物なのか、どうかもわからないが少なくとも系図の中のウガヤフキアエズが島流し?にされることはないだろう。

と、なると、ウガヤフキアエズ朝を子孫の名にかえただけにすぎないのかもしれないとおもいたくなる。

大和政権は九州地方にあったウガヤフキアエズ朝をほろぼしてしまったのか?
系図のなかとは、違う年代でウガヤフキアエズが王朝を築き、亡国の憂き目をなめさせられたのか?
なんにせよ、
ウガヤフキアエズ朝と系図の中の同じ名前のウガヤフキアエズがいまもって、ふにおちないのである。

追記:海流をよんでいくと、九州から流されてきた説は濃厚というのである。

さらに余談だが、憂生がよく冗談半分(本気半分か?)おふろにはあひるちゃんと入るといっていたが、NASA(これであってたか?)が海流調査をするのに、このあひるの玩具に認識票をつけて、大量に投下したというニュースを聞いたことがある。耐久力があって良いとかで、選ばれたそうである

化女:8000年間神代文字岩をメンテナンスしてきた人々が存在するようなんです。
その辺のことにアンテナを立てていると、どうもウガヤフキアエズが気になって、
こちらへお邪魔しました。
http://kemeno53.blog86.fc2.com/blog-entry-176.html

憂生:別の記事で、王の舞のこともかいていますが、
古事記の中のウガヤフキアエズの状況。
海幸彦と山幸彦の争いをおもわすような、
海側(漁師)と山側(百姓)が、ウガヤフキアエズをこかすというパターンで、
こかしたほう側がその年の豊作を約束れるという神事ですが、
まさに、海幸・山幸の争いを伝承しているようで、
地名ともども不思議なところです。

山口の方(ごめん、うろおぼえ)にもおなじ地名があったりして、
これは、神武天皇(だったかな)が造船するためにそこに居留したとかで、
(みはま)(みみがわ)なんていうのがある。

ウガヤフキアエズに近い天皇でもあり、奇妙なのであるが、
一方、北陸・敦賀に
気比神宮というのがあるけど、これに(宇)をつければ、誓約(宇気比)なわけで、
神様?の気(思い・誠)を比べるという意味合いになってくる。
が、このウガヤフキアエズが祀られている場所の地名が
〈気山)なわけで、
此処に気(思い・誠)そのものがまつられ
気比神宮で誓約絡みのことがあったのか?と思わされると、

いっそう、ウガヤフキアエズという人物は謎で
これを仮にウガヤ王朝だととらえると、
この(気)(すなわち、政権というか・・)国を統べるのは、だれであるべきかという
宇気比があったのではないかとおもえてもくる。

気比神宮は祀り変えがあったようで、恒例の菊のご紋がはいっている。
形としては、大和朝廷に掌握されたということになる。

こういう形だけをかえても、名前とか、伝承とかに残るものとして、
鞆(ぽにょ・坂本龍馬)にある、沼名前(ぬなくま)神社とか、
天津神と国津神の二つのようそうがならぶ、美穂神社(出雲)。
ここに、越の国のぬながわ姫がやってきたとか?
出雲と越の国のことを考えても、
気比神社はにも何らかの関連はあるだろうし、
元伊勢と、気比と伊勢神宮との距離感とか、あるいは、
スサノオこそが、ウガヤフキアエズ王朝の子孫?ではないかとかね?

先代政権・王朝を滅ぼしたでは、大義名分がたたず、
スサノオを兄弟?にした史実にかきかえ、
王朝の存在をめくらますために、
ウガヤフキアエズという名前の人物をつくりあげたか?

など、根拠もなく、荒唐無稽にかんがえたりしているわけです。

神代文字は伝わってきた可能性もあるわけですが、
独自に作ったということもかんがえられます。
(サンカ族とか)
日本には日本の独自の文字が必要性に応じてできていても何も不思議はないことだし、
仏教のルーツとかも、実は日本の古神道に触れた部分があるのではないかとおもいます。

元々、越の国の文化水準がたかく、世界最古の漆器とかも若狭(ウガヤフキアエズの気山の近辺)でみつかっていますし、和紙や織物・刀剣の技術。
治水の技術(スサノオのやまたのおろちは越からきていたということで、
(やまたのおろちというのも、治水技術あるいは、刀剣鍛冶の技術をいうのか)
治水技術者が、いるような越の国からの侵略を意味するのか?
その侵略を抑え、刀剣技術や治水技術をも掌握していこうとしていたところが、
ぬながわ姫のことではないかともおもえ。

越の国の文化水準をあげていったのが、実はウガヤフキアエズ〈ウガヤフキアエズ王朝の生き残り?)であり、ゆえに
「宇」としてまつられたのではと、
おもったりもしたり、

古代になってくると、人物の配置がわからず、むつかしいところがあるぶん、好き勝手に推論できるというおもしろさがあります。

ウガヤ王朝が九州にあったと見なすに


ウガヤ王朝が九州にあったと見なすに、
もう一つの材料がある。

最近脚光をあびた鞆。

こう書いてもぴんとこないかもしれない。
宮崎駿夫のポニョのモデル地といえば、
わかるだろうか?

この鞆に沼名前神社というのがある。
祭神は
おおわだつみと
スサノオになっていたが、
建築様式の一部が国津神のものになっていた。
が、紋は菊花。

つまり、地方の国津神を祭っていた社に
ヤマト朝廷の誰かが祭神を祭り変えたと考えられる。

で、由緒を読んだ。
神功皇后が遠征に行くときに
航路安全を祈願しおおわだつみを祭ったとある。

スサノオはあとからの合祀。

元々なにが祭られていたかは判らない。

だが、建物はあくまでも、国津神(地方のもの)

おおわだつみに祭りかえられた後に
元々のスサノオ?を祭りなおしたか?

スサノオがあちこちの神社に合祀されているが、
これは、逆に、
あちこちの民に貢献したスサノオが
国津神として祭られていたものを
逆にヤマト朝廷が他のものに祭り変え手しまったあとに、
民衆信仰から、改めて、スサノオが
合祀されたか?

まあ、今回はそのことの詮議ではない。

で、その沼名前神社であるが、
ぬなくまと読む。

前が「くま」である。

この事実を知ったとき、ちょっと、驚いた。
憂生はどちらかというと、
漢字よりも、
文字よりも
「音」「読み方」に着目する。

どこかに書いたが
父音の
「いきしちにひみいりい」
の、ごとく、なにかしら音に
隠されたものを明らかにするものがあるきがする。

で。
前=「くま」

神功皇后の遠征・・

その前に浮かぶ言葉が

熊襲征伐

で、くまそ、征伐であるが、
これを置き換える。

前・・くま
祖・・そ

前祖征伐・・・となる。

熊襲の土地が九州日向地域だったとして、
熊襲=前祖、元々いた部族?と考えうる。

まさか、元々の部族を征伐するとは大声でいえない。
なぜか?

ここで、天孫降臨の地や高天原が九州であったという説が浮上する。

つまり、天孫であるといわれている?
前祖を征伐するとはいえない。
だが、くまそを征伐しに行くのは事実。
そこで、前祖改め熊襲とかきかえることにする。

だが、天孫降臨の話がある以上
これは、天孫にはむかう行為となり、
恐れをなすものも出てくる。

そして、こういうのもひとつあって、
高天原の所在が
九州、高千穂では無い。
と、まあ、いわば、水戸黄門の
ラスト・・・。印籠を振りかざされても
「こやつは、三戸光圀の名前をかたる不届き者」とばかりに
九州、高千穂の高天原説は廃棄される。

そして、前祖を追い出し・・。
前祖はたとえば
福井までおちのび、そこで、
ウガヤ王朝の名前をだす。
「うがやふきあえず」としてまつられることになる。
たしか、宇波西神社の祭神がウガヤフキアエズであるというのは、古老から口伝に聞かされた。

で、前祖=ウガヤフキアエズ王朝という
大胆なこじつけをするにいたる。

ウガヤ王朝にて海部族とサンカ族に象徴される何らかの争いがあったことも、
実は大和朝廷の襲撃事件ではないかいな?とも思う。

サンカ族が神代文字を継承していた話は有名だが
さて、このあたり。
どこかで、
ふるべゆらゆら・・の物部呪術。
ひふみ文書に通じる物部呪術。

サンカに託されたものも多い中
(三輪)山の神とされる大物主と
ニギハヤヒがもっていた天孫の証拠の品。
それが、いまだに語り継がれる
十種宝であるなら、

やはり、ニギハヤヒという存在が
先にあり、
それが、九州の天孫降臨にかかわり
ウガヤ王朝を繁栄させたか?

それがなぜ、近畿地方にて
拠点を築いたか?

なぜ、そこをウガヤ国と命名しなかったのか?

ヤマト・・・。

この言葉の挿す意味合いをもう一度考え直さなければ成らないが
もしも、ウガヤ王朝から、脱退?した存在、
あるいは、熊襲征伐を考えて
別名をあてたか?

うがやふきあえず・・。

家の屋根をふきあげず。
名前としては忌み事であろう。

あるいは、ぎゃくに、滅びた王朝をして、
屋根があがらなかった。
と、自虐的によんでみたか?

ウガヤフキアエズ朝が72代・・・

あちこちの文書を眺め回していくと
ウガヤフキアエズ朝が72代ほどつづいたという啓示をうけているものに出会う。

神話の世界などとうてい類推およびつかないのであるが、
神託や啓示からでありながら、
まったく反対の啓示、神託を受けている事があるかと思えば、
先にあげたウガヤフキアエズ朝が72代(73代)という同じ神託を受けているものもある。

日本人の元はヘブライの民だというものもいれば、日本こそ、地球人類の祖であるというものもある。

どれが、真実であるか、わかるはずもない。

ただ、輪廻転生を事実とするなら
前世の記憶が語られることもありうるわけだから、そこからの系譜を謳う場合も有ろう。

随分前のことになるが旧約?聖書中のノアの箱舟の残骸がどこだっけかの山の中からみつかったとか?

これを思うと、日本の天岩舟とかさなってきて、地球人類の発祥が宇宙人からという説も、うなづけてしまうし、こういう神託をうけている人物もいる。

さてさて?

なにゆえ?

こうなってくると、神というものも、
実は人間のように、色んな人種?がある。

実際、出雲系という神列
海部族というものに分派する神列。
考え方は幾多とある。

ただ、そこまで、ルーツをたぐってみても始まらないので、
いかに、地上が混同していったかを思わすのが地方に残る神話、風土記の類である。

その土地その土地に土属の神がいたと考えられる。
豪族というべきかも知れない。

それらが、啓示をあたえていけば、それぞれの神託が出来上がる。

別々のものにすぎないものを
無理に結びつけるところに、矛盾が生じるのだろう。

ただ、ひとつ、
うしとら金神については、思うところがある。
また、そのあたりについては、詳しく語れることがあると思うが、今日はほんのぶつぶつぶつ・・で終わる。

ウガヤフキアエズ王朝の「王の舞」?

ちょっと前に、ウガヤフキアエズの?を書いた。
そのときに王朝であった証?として
「王の舞」というものが残っていると書いたのだが・・・。

時を経ると物事の意味合いが違ってしまうものだと思った。

と、いうのが、
この王の舞というのは、いわば、「喧嘩」なのである。
憂生の記憶もあいまいになっているので、確か・・という言い方しかできないのだが
舞を舞う王をこかしに行くのだが、百姓側、つまり山側の人間がこかしに行く。
漁師(海側)がそれを守る。
王がこけると、その年は農作物が豊作になり、こけないと、漁師側に大漁になるという。
実際に、漁師側からの代表と農民側の代表が現地から選出されていると聞いた。

たんに吉凶占いのような神事として、
受け継がれているように見えるが
ウガヤフキアエズのルーツをたどると
そんな単純なことではなくなる。

ウガヤフキアエズは、海幸彦の子供とされているからだ。
昔話で海幸彦・山幸彦というのがあるのを知っている人もあるだろう。

兄弟。文字通り骨肉の争い。
血で血を洗うではないが、結果的には、
海幸彦が実権を掌握するわけで、
その子供である、ウガヤフキアエズは
また、神武天皇の父であるわけで、
日本の天皇のルーツといっても良いと思う。

また、話がぞれた。

で、
この「王の舞」を考えると
ウガヤフキアエズにとっては、
自分の出生の基盤。海幸彦の顛末そのものであろう。
そして、疑ってみれば、なんらかの理由で文書や絵巻物にできなくて「王の舞」を伝承の手段にしたかのように思える。

だが?

なぜだろう?

ウガヤフキアエズの伝承であるなら、
最後まで「王」はこけずにおいてこそ、
伝承の意味を成すのではないか?

単純に人心を慮って「海」側の勝ちにおさめておけなかっただけ?

とは、思えない。
むろん、時の流れの中で舞の形態が変わって言ったという説もうなづけるのであるが。

その地が海際であったろうという推察を土台にしくと、海側の豊漁という形をとってもなんの支障は無い。

で、神事であるのだから、海側の勝ちという形態を簡単に変えることもできないと思う。

この「王の舞」がそのままの形で存続されていると、仮に断定して考えてみると、
日向から流された(らしい)という伝説になにか、符号するものがある。

極端なたとえだが、
実はウガヤフキアエズが流されたのでなく
山幸彦が流されてきた。
とか。
う~~ん?

海幸彦の重鎮が山幸彦をかばった罪にとわれ、流されて、ウガヤ・・の名前を名乗った。

重鎮にすれば、兄弟の争いに心痛め
苦言を呈したのかもしれない。
その思いを王の姿で表わした?

こけても、こけなくても、どちらかが負ける。
自分さえしっかり立っていれば、それでよいと言うことではない。
兄弟の争いを止めようとしたその思いそのままのようにも思える。

いや、本当にウガヤだったとしたら?

結局骨肉の争いに巻き込まれた末に
逃げ出した?

まあ、神話に仏道的解釈もおかしいが、
ウガヤは叔母との間に子供をもうける。
古代の観念に近親相姦が罪悪であるなんていうものがないだろうから、
兄弟の争いの果てに生まれたウガヤが
やはり、血を汚す己に恥じいって、奔走したとは考えられない。

また、ウガヤフキアエズ王朝はかなり長く続いたと考えられている。

と、なると、何代めかのウガヤ王なのだろうか?

逆を言えば、こういう風にあちこちに
流浪伝説があるばかりに、
ウガヤ王朝が何年も続いたように受け止められてしまったのだろうか?

鶴の恩返しのような、異種婚の伝説もある。ウガヤは海の神・・あるいは、海に守られている存在にみえるが、
あるいは、ここだろうか?
和邇の姿を覗いたという「裏切り」から、海側からの加護も得られなくなったという象徴が山側にこかされるという
海側の負けをつくりだしたのだろうか?

いずれにせよ、伝承というものが、
そのままの意味合いや背景を正しく伝えないことは往々にしてある。

なんとなく

もう一つの神宮レイラインをよませて頂きながら、 憂生はもうひとつのことを考えていた。


もう一つの神宮レイラインは、気比神宮と宇佐神宮を結ぶラインの話であったが。


憂生が気になったのはむしろ、 伊勢神宮と気比神宮を結ぶライン。

地理上の問題は憂生には判らないが

この伊勢=気比のラインに並ぶような 不思議なラインがある。

若狭のお水送り=奈良のお水取り 逆だったかな?

もう一つの神宮レイラインは、どちらかというと 東西に走る横のラインなのだが、

憂生が気になるのは 南北に走る縦のライン。

継体天皇においても、 福井足羽山と滋賀?岐阜?の息吹山の 継体天皇の足跡。

京都と小浜をつなぐ鯖街道があったように、 日本海側から近畿方向に足を伸ばすルートがあり、

伊勢神宮のええじゃないか騒動でもあるように、 伊勢に対する日本人の信仰みたいなものが、

なんらかの形で縦のルートを作っているとも思える。

富山のピラミッドといわれる尖山と 奈良の三輪山の縦ライン。

なにかしら、継体天皇あたりの 技術伝承ルートがこの縦筋の中にあるのではないかと、

まあ、相変わらず、根拠もなく思っている。

無理やり、調べてという思いもなく、 なんとなく気になっている部分だけを 書き留めているので

ただのたわごとでしかないのだが、

何かしら表裏一体のような事象をみると、 なにかしら、わけがあると思ってしまう。

沖の白石と呼ばれるものも あちこちにあるのだろうが、

清少納言だったか/うろ覚え 若狭湾の沖の白石を読んだうたがある。

一方で琵琶湖の真ん中にも、それ?と言われるものがあるらしい。

たんに同じ呼び名だけだったという事でしかないのだが こう言うものにも 南北のルートを感じてしまう

やまたのおろち・・・である。

最近はちこっと、神話にこっている。

で、
ま、荒唐無稽の話・・ままに・・・。

やまたのおろち・・・である。
八つの又・・。
やまた・・・だけでは、
それが、たとえば、首でなくても、
尾でも、かまわない。

と、こうなる。

ところが、このやまたは・・・。
頭・・が八つあるということで、
頭がやっつあれば、当然・・首も八つある。

又というのであるから、
この又は首を意味すると思う。

例えば、頭なら九頭竜
尾なら、九尾狐。
のように、
八頭のおろち。
と、書くべきである。

首。
つまり・・・胴と頭を繋ぐもの。

その原初的なものが・・・
母体と胎児をつなぐ、へその緒。

こう考えると

八又の緒・・と、考察できる。

やまたのおろちが完全なる悪玉?であるのなら、その体内にあめのむらくも剣を囲うことなどできない。

剣というものものは、霊長的な示唆がある。
たとえば、剣山・・。
修験道の本拠地ではなかったろうか?

で、はなしを戻して、
八又の緒・・こう解釈すると
あとの、ろち・・・の意味が納得できなくなる。

ところが、仮説・・/元々仮説/妄想?
で、しかないが、
ろの字は呂の字があてはまる。
呂の意味は口ノ口というくらいだから・・・。
たとえば、口がよく回る。
回るの解字も口の中に口であるが・・。
ろくろ・・にしろ、
船の艪にしろ、ひとつの支点をもとにして、
くるくる回る。/働きがある/

その支点が、ちの字になる。
ちは地である。
地に足をつけて、などというように
支えの基である。

人間?でいえば、この地は血/思い/憂生の専らの解釈・・思いは血に溶け込む・・・白蛇抄参照/に、相当する。

という事は、
剣というやまたのおろちの芯・・これこそが、
本来のやまたのおろちの本性で、
ここから、血をめぐらせ、
やっつの岐路があるという暗示のように、思える。

さらに言ってしまえば
八という文字の解釈も幅広い。
末広がりという文字の形さながら、
∞の物事や多すぎるものについて、
八の字がよく使われる。

八百万の神
八百八町
嘘八百
手八丁口八丁
などなど、例をあげればきりがない。

やまたのおろちの解意をこうとると、
次に思い浮かぶのがやたがらすである。
これは、足が足首が八又だったか?

剣の神聖な血を受け継いだ岐路?は次に
やたがらすになっていくと・・・。

そう考えると他のぼうだの岐路はいったいどうなったか・・・。
一番濃いおろちの血をわかした元の剣の行方を考えると本体が皇族の守護になったのであれば、皇族の思いである万人への祈り。
この加勢に加わったにちがいないと思う。
やたがらすも、武運の不安を打ち消す象徴になり、天皇、万民ともどもを加勢したといえる。

はたして、八はどうなったのか・・?
ふと、八宇一絃?などとおもってしまう思想体系なのであるが・・。

だが、なぜに、やまたのおろちが、
あめのむらくものつるぎを体内にもっていたか・・・。
これは、蛇というものが、万物創世の始祖・・あるいは、大地そのものであるという古代の
考え方がある。
こうかんがえると、わかりやすいものがある。
いわば、やまたのおろちはパンドラの箱。
悪い者達がでていったあと、
さいごには希望が出てくる。
これが、あめのむらくものつるぎ。

そのあめのむらくものつるぎというものも、
実は天の群雲・・月日を隠す・・群雲であるという解釈が成り立つ。
すると、当然、これをのみこんでいる、おろちは、群雲の如きの悪行をおこなってもしかたがない。

ところが、このあめのむらくもの剣は
馬鹿とはさみも使いよう。
この剣をはらう・・事で
天の群雲をはらえるという術を持っている。
だが、おろちが剣をわが体内でふっても
いっこうに天の群雲は収まらない。
かわりにといってはなんだが、
地上のおろちが剣をふるわけだから、当然、地上に置いて、雨の群雲現象がおきる。
結果、雨が降る。
こんなわけで、龍神や蛇神・・おろちの末裔?は、雨を降らせる神にまつられる。

あいもかわらず、荒唐無稽

宇賀や吹き会えず

いや、うがやふきあえずとうって、変換かけたら、

上の字になってしまったんだけど、

なにかしら、最近はこういう変換が的をえてるきがしてならない。

思いとかくときに、奇妙に「重い」と変換がかかるときがある。

通常、重いというのは、ほとんど使わないから、

よく、使う思いのほうが、優先語句になるはずなのだが・・。

さては、この思い方は「重い」のだなと、苦笑するしかない。

いいだせば、思い方の方の字も、最近は

「ほう」と、うって、出している。

本当は法なのだ。

思い方しだいで物が物事がよくなっていくというのなら、

思いというのは、実は「方法」なのだ。

もう、最近は憂生のパソコンはこういう妙に悟った?語句を提示してくる。

前にもかいたが、

渡す。闇すになってしまうし、(渡すというのは、心の間の闇(悪い部分というのでなく、見えない部分(愛とか)を渡すということだから、良い思いで渡す)

捉えるが、朗ꆅるになる。(物事を捉えるのに、ほがらかにあきらかになるのが、本当の捉えるということだろうと、解釈した)

生きるも、Ƅるも、Ƅでひけば「二」という片仮名になる。LƄるとでるのだが、

前にも書いたので、簡単な説明。活気のある地球。これが、LƄる。

まったく、よくわからん、説明であるが、

憂生は憂生でこの解釈でいろいろ、考えさせられたところが大いにある。

誰だったかの、文章で

どうしても、どうする、とかの「どう」が「ドウ」になってる人がいた。

どうもパソコン電子脳が、学んだことで、「ドウ」せよ。と、うったえているようにみえてしかたがなかったwww.

まあ、最近はパソコンまで、アセンションしたのかと思えてくるwwww.

で、宇賀や吹き会えず・・・うがやふきあえず。

ぬながわひめをほうちしたまま、

どうも、このうがやふきあえず王朝について、かいてみたいとおもってしまう。

王の舞という、のが、宇波西神社にのこっていて、

と、いう話はどこかにかいたが、

どう考えても、海幸彦と、山幸彦のはなしは、

うがやふきあえず王朝の政権交代あるいは、

滅亡というか、それをあらわしているとおもえてしかたがない。

と、なると、西からの波にのって、やってきた宇が、うがやふきあえずで、

近くに日向(ひるが)という地名がのこることからみても、

うがやふきあえずは、九州、日向からやってきたとかんがえたくなる。

高千穂が高天原だったという説もどこかうなづけるものがあり、

そこを舞台にいったい、なにがあったか・・・。

古事記にみられる、不思議なスサノオの行動。

これも、なにを象徴しているのか?

勝手な類推で、

宇賀や吹き会えずの変換をなぞといてみたくもある。

継体天皇・・1

聖徳太子とすさのおと大国主命とにぎはやひあたりを、重点的に調べている?うちに

継体天皇に行き当たってしまった。

聖徳太子の不雑な家系?や推古天皇の摂政になったあたりのいきさつをしらべていくうちに、

継体天皇の血筋として、いろいろな天皇が浮上してくる。

だが、継体天皇は養子であったという入り婿説と、三輪王朝(イリ王朝)との転換期として、浮上してきた天皇という説と様相がずいぶん違った解釈にであった。

まず、継体天皇について、こちらがひどくこだわってしまうのは、子供のころ、足羽山で継体天皇・・もしくは、その関連の石棺を見たせいもある。また、滋賀県息吹山に継体天皇像が建立されていたと思う。

そして、いくつかの疑問が出てくる。

なぜ、近江と越前との双方にまたがって継体天皇を祭るものがあるのか?

そして、越の国の豪族の統治者が、なぜ、天皇になれたのか?

卓越した技術という説もさることながら、それだけで、地方の豪族が天皇に成れるわけがない。

ところが、継体天皇は天皇になるときに、刀と鏡だったかな?を大和朝廷から、戴冠式?のときにわたされているというのである。

前述の大国主命関連の三保崎神社において、もろたぶね神事というのがあることをちらりとかいたが、この船のへさきや艫に鏡玉刀などをかかげ降伏したしるしにするという文献が過去歴史に見られる。

このもろたぶね神事は国ゆずりというパターンの降伏の行事と考えられ、この神宝にあたるものをさしだすということは、にぎはやひでもみられ、簡単に考えれば、「降伏」のしるしではないか?

入り婿という形をとりながら、継体天皇の戴冠式の様相は大和朝廷側の降伏とも受け取れる。

こう考えると、越の国の技術の高さが大和朝廷を圧倒し、大和朝廷は政権を継体天皇にゆずった。と、思える。継体天皇がそのまま天皇におさまったのは、ひとつに大和朝廷の勢力が確立していたからとも考えられる。

で、はなしがあとさきするが、この技術より先に、なぜ、近江と越前に継体天皇がまつられるか?

どうも、父親が近江・・・母親が九頭竜川付近の豪族のむすめ。

継体天皇の父親が早死にして、継体天皇は母親側の里で育てられた。

これが、ひとつに両方で祭られる原因であろうが・・・。

継体天皇が越の国にきたことが、また、天皇になれる素地をつくることになるのではないだろうか?

まず、何度も書いたが九頭竜川という名前からかんがえても、この川はなかなかの暴れ川ではなかったろうか?

その九頭竜川を治水していく技術が母親側の豪族が持っていた。

継体天皇に在位したのちもいくつかの治水土木工事をおこなっていたようで、

都も川の近くを選んでいる。

この川の近くを選ぶ。治水技術、日本海側、国ゆずりのもろた(船)神事などをかんがえても、継体天皇は造船技術や航海術にもひいでていたと考えられる。

そして、越の国の技術。

これが、想像以上に秀でたものとして、今に受け継がれている気がして、いくつか、今に残るものとの互換性?を考えてみたいと思っている。

継体天皇・・2

そも最初に越の国の卓越した技術。
と、いう評価がきになった。

継体天皇がそういう技術を開発したわけでなく、もともとから、越の国あたり・・・日本海側に高等技術が発達していた。その技術は渡来人により伝承されたのではないかという考え方から、すさのおの高麗人説?韃靼人など、いわゆる、アジアの大陸側からの日本への渡来がもとになってきているのではないか?
と・・・・、考えたのだが?

これが、あっさり、覆された。

覆してくれたものは、漆器である。
漆器はうるしの樹液を利用するものであるが、このうるしを塗ることにより、水をはじく器などができあがり、金箔や螺鈿を施した調度品までつくられるようになるのだが、この漆器の技術が中国・朝鮮などからわたってきたものとかんがえていたのだが、若狭地方から、中国より古い漆器が掘り出されている。世界最古で、この後、中国より古い漆器は各地であいついで、発見されることになる。
卑弥呼の時代に魏から三角神獣鏡だったかな?おくられたとあるが、これも、にほんでしか見つかっておらず、製造された年月日には魏の国の年代にない(君主の崩御による)ものが日本で発見されるということもあり、すくなくとも、漆器にしろ、かがみにしろ、中国・朝鮮からわたってきたと思われていたものが日本で製造・開発?されていた可能性がおおきくなっているのだが、
この漆器や鏡だけにとどまらない技術が史記に残っている。
卑弥呼が謙譲したものに極上の絹の織物と思われるものがあげられている。
わざわざ、筆記するくらいだから、かなりに極上のしなものなのであろうと思われるが、このころに養蚕があったとかんがえられるわけで、
その絹織物の極上品というと、越前の絹羽二重がある。これらも、でんらいのものでなく日本の技術と考えられる。
また、明治維新のころ、日本人が外国に行き、鼻をかんだ紙をみて、それをくれと外人が言ったというように、日本の製紙技術もすでにぬきんでるものがあったと思う。
それも、今、越前和紙として残っているもので、紙漉の技術も古来に発祥していると思う。
この紙を漉く技術が発祥したもともとは、海岸側との流通があるところと、考えたい。
と、いうのも、紙漉の技術は板海苔をつくる技術に似てなくもない。
保存食としての海苔をつくる技術が紙漉きに通じて行ったのではないか?
あるいは、逆かも知れないが、まずは、「食」がさきで、ものを書きとめたりとか?障子紙?など・・こういうのは、もっと、生活基盤がゆうふくになり、かやで葺いた家などにすんでるころには、まだまだまだ未発達であったと思われる。

焼き物の技術も各地で盛んになってくるし、装飾品としての大きな勾玉も越の国、糸魚川付近のものがほとんどであり、硬度も大陸のものとはぜんぜんちがい、これを磨き上げる技術が発達していたと思う。
ものを磨き上げる技術がいっぽうでは、刀剣、砥の方向でも発達していく。
越前打刃物もまた有名である。

また、継体天皇は大和朝廷に「燃える水と燃える石」をおくっているのであるが、これは、新潟などの石油、燃える石はアスファルト、石炭ではないかとおもわれるが、これらを駆使する技術ももっていたようだ。
当初、船の技術を思ったとき、漏水をふせぐのに、うるしをつかったかもしれないとおもったのだが、このコールタール/アスファルト・・が船に使用されることにより、安全で大きな船を作ることができ、最新鋭の帆船を継体天皇が利用していたふしがあり、紋?などに帆船の象形文字(図案)がかたどられている。

大和朝廷のもちえない技術をあっさりもちきった越の国の豪族がなんらかの血筋を伝に大和朝廷の政権に参入し、天皇になった。
こういうことではないのかと、いまだに伝えられる越の国の技術はまだまだある。
このほかにも佐渡の金にしろ、たたら製鉄の技術にしろ、今につながるものが多い。
たたら製鉄については、すさのおからの伝承であるようにうけとめているが、これらの技術が妙に越の国にはいってくることと、前述の三保の国引きで北陸の地と、朝鮮半島を引っ張ったという逸話が妙にこの継体天皇に代表される越の国の技術、勢力を我が物にしようとしたか、親交をもとうとしたかわからないが、そういう出雲族の本音がみえる気がしないでもない。

どうも、資料が膨大すぎて、憂生の簡単な言葉におさめようとすると、ひどくとりとめなく、起承転結まとまらぬまま、キーボードを打止することにする。

皇紀2670年


地元の八幡神社には、宮司が居ない。

と、いうことで、別の場所の宮司が兼任すると言う妙な事態になっているのであるが、

常日頃・・・・・。

いや、祭りのときだけお世話になってるのもなんだから、

祭りの踊り保存会のいっぱで、宮司の本拠地?に大払いにいってきたのであるが・・・・。


そのときに神社暦という小冊子をいただいてきた。


家に帰り、表紙をみると、二つの神社の名前が書いてある。


ひとつは、八幡神社。


もうひとつは、出雲日御碕大神宮・・・・。


日御碕大神宮といえば、スサノオだろう。


これで、多少なり納得した。

地元の八幡神社には、スサノオが祭られている。


同じ神を祭っているという事で、

宮司は兼任を受けたのだろう。


もちろん、これは、人間様の事情。


八幡神社は八幡市の名前から類推しても、もとは、九州・・・。

総本山は宇佐八幡か?


祇園社のことはこの前少しウィキをはりつけたけど、

やはり、九州地方から、スサノオの発祥があるきがしてくる。


九州といえば、憂生 は、日向あたりのに前王朝があったと考えている。


ウガヤフキアエズ王朝が九州、日向にあったのではないかというのも、

前述しているので省くが

このウガヤフキアエズというなぞの王朝、あるいは、王・・。


これは、じつは、スサノオではないかとも考えている。


スサノオという人物は古事記や日本書紀などにより、かなり装飾(湾曲?)されてしまっているが

この人物は、由緒正しき、天孫にあたる人物だったのではないのだろうか?


そう、別名がいっぱいある大国主命のごとく・・・。


このスサノオを実はニギハヤヒではないのだろうかとも思っている。


何時だったか、ウガヤフキアエズ王朝が72代もあったとしたら、

古代史的に考えて縄文以前に、王朝があることになりおかしいと指摘されたことがあるんだけど、

憂生 は王朝という形態が大和朝廷的な日本統一の国家としてあったとは、考えていないし

マヤ文明のごとく・・高度な知識を持っていても滅び去ったように、

小規模な国家とはいえない、村落に毛が生えそろった程度の王朝は大和朝廷にあっという間につぶされたと考えても可笑しくない。

王朝72代もひとり20年在位したと考えると、1500年近い年数になるが、

実際、過度期の大和朝廷の在位の期間を考えると、かなり、短い。

平均寿命が50歳もなかったろう太古において、20年も在位できるとも思えない。

仮に平均で10年として720年。


スサノオが高天原で暴れた時期を仮に1世紀ごろと考えて

その前に700~800年もの王朝が九州にありえただろうか?


と、いうことになるのだけど・・・・・。


そこで、基の話小冊子にもどる。

この表紙に・・・

皇紀2670年・・と、書かれている。


天皇歴としては、2670年だという。


歴史と照らし合わせると、全然おかしい。


むしろ、ウガヤ王朝から皇紀を数えていると考えられる。


と、なると、古事記や日本書紀の編纂時を考えても

1000年ほど前の事実?を大和朝廷の都合のよいようにかいたとも、

実際、今のように、まともな記録方法もない昔

交通手段もまともでない時期に

各地の情報がとんでもない同時進行で伝えられ

それを推理しながら書いたと考えれば、スサノオの時代がばらばらになってしまう事も納得できる。


2670年・・・。


日本の紀元節と同じだったか、調べなおさなければいけないが、

実際、キリストが活躍した1世紀前後頃に日本が、それなりの「王朝文明」をもってないと

考えるのもおかしなもので、


環状列石のことを考えても、南太平洋からの文化を選び取らずに

太陰暦を引っ張った日本に

何らかの集落があり、王朝が存在したと考えても可笑しくない。


ちょっと、まだまだ、材料不足なんだけど・・・。


意外と身近なところに伝承という痕跡があるものだと

感激している。

まだ、頭の中がまとまっていないのだけど、

天皇紀を考えている。


初代天皇である神武天皇は紀元前660年2月11日に即位したということで、

天皇紀は2660年という事になっているし、この2月11日は建国記念日になっているわけである。


だが、この紀元前660年という時期に即位したというのは、710年頃の日本書紀の編纂で

辛酉の年に大きな改革などなどが起きるという中国の思想?を基にして、紀元前660年の即位ということになっていると思う。


710年の日本書紀の編纂ではたして、どこまでの歴史が伝えられているだろう?


確かな証拠として残っているものだけをかんがえていくしかないわけだけど、

710年ごろの情報収集、伝承において、どこまで、時代をさかのぼれるだろうか?


現代を考えてみれば、科学の発展や遺跡調査など、いろいろなノウハウがあるわけだけど、

710年の頃・・・。

せいぜい200年?もさかのぼれればよいところじゃないのか?


そして、箸墓古墳を考える。


この古墳の建造されたのが、250年ごろ。

伝承としては第7代孝霊天皇の皇女、やまとととひももそ姫の墓ではないかとか、

卑弥呼の墓ではないか?

と、いわれているのだけど、

第7代天皇が250年ごろだったとかんがえると、

当然、初代神武天皇が、紀元前660年の即位がなりたってこない。



7代天皇が250年ごろと考えると

おまけして、1代~6代までの天皇の在位年数が仮に50年あったとしても

紀元前50年がせいぜいということになる。


ところが、天皇紀は2660年と詠うわけだ。


30代天皇から40代天皇の在位期間をしらべると、

せいぜい、ひとり、10~15年というかなり短い物になる。

政変や病気いろいろな事情を考えると、在位50年というのもじつに妙な気がする。

これもおまけして、30年とすると、初代は70年ごろに即位したということになってくる。


と、なると、約700年のさばよみがあるということになるのだが、

ここで、でてくるのが、

橿原神宮。


ここで、神武天皇が紀元前660年に即位したというのが日本書紀の記述になるのだが

この橿原神宮の発掘調査が行われていて

ここに集落跡があり、その年代特定が紀元前2600年プラスマイナス200年であるという。


俗にいわれる縄文時代ということになるのだが・・・・。


このあたりで、思うところは、村落があったということはすでに

「長」になるものがいたということであり、

それが、いわゆる天皇、あるいは王朝の始祖になっていったということになろう。

畿内、橿原において、村落。王朝の萌芽があったとするのなら、

この時期に気候条件の整った九州地方において、もっと大きな村落。王朝が出現していたと考えても差し支えないのではないのだろうか?


いわゆるウガヤフキアエズ王朝が九州にあった。


もともとの天皇(王朝)の発祥は九州、高千穂であり、

のちに畿内の勢力がウガヤフキアエズ王朝を滅ぼしてしまった。


だが、ルーツとして考えた時、畿内の縄文人も九州からの別れだったと考えたら

発祥の地としての高千穂を抹消するわけにいかず、

ウガヤフキアエズ王朝を抹消していく日本書紀の記述に相成る。


ウガヤ王朝の抹消により、消えてしまった紀元をうめあわせるために、

神武天皇の即位を紀元前660年にかきかえたと考えると

どうしても、ウガヤフキアエズ王朝はあったと考えたくなる。

月読とスサノオとアマテラスの配置分配。


ニギハヤヒについて、いろいろな解釈があるんだけど、
どうも、正体を?くらました二人の人物に着目してしまう。

一人は月読尊
この存在については、多く語られていない。
そして、もう一人がニギハヤヒ。

なにかしら、ニニギの尊と混同しそうな名前である。
が、これも、記述が薄い。

そして、もう一つ、
王朝としてのウガヤフキアエズ。

王朝分裂とも捉えられる
月読とスサノオとアマテラスの
配置分配。

日本のなかに、
月読王朝(勢力)
アマテラス王朝(勢力)
スサノオ王朝(勢力)
と、言うものが存在していた。

アマテラスが大和政権なら
スサノオは出雲政権?
では、月読は?
根の国をおさめよだったかな?
頭の中のかすかな記憶だけを頼りにしているので、曖昧である。

はて?
根の国とはどこかいな?
以後の記述が見当たらない。

かき消された王朝ともども、この神は不詳の存在になる。

日と対峙する存在にも、それなりの神話がありそうなのに、いっさい無い。
これも、妙な気がする。

海についても、おおわだつみなどそれなりの存在がある。

なぜ、月だけ、神(話)が無いのか?

かき消えたウガヤフキアエズ王朝と
同じように、伝承される神話が無い。

もしかすると、と、思ってしまう。
九州方面に月読の勢力、王朝があった。
(宇波西神社の話から)

それが、あるいは、ウガヤフキアエズ王朝?

ニギハヤヒの存在も不思議である。
いずれにしろ、ヤマト朝廷より、大きな勢力をもったと思われる人物は
なにかしら、民衆、社会に大きな貢献を施しているのだが
そのあたりの手柄話は少ない。
むしろ、残虐行為をするものとして、
悪いイメージを与えたいとしか思えないことのみ、書いている。

たとえ、その史実の通りだとしても
その残虐行為にいたったうらがわが
一切省かれている。

仮にスサノオをとってみても、
高天原で大暴れして・・・。
と、ある。
これを、100歩譲って、暴れたとして・・。
なぜ、暴れなければ成らなかったかという理由がいささか、子供じみている。

なにか、史実の文と文の間にいっぱいあったはずのものが全部かき消されている。

ニギハヤヒとて、なぜ、ナガスネヒコだっけ?
を、殺すのか?
なぜ、そこまでして、ヤマト朝廷にこび?ざるをえなかったのか?
このあたりが一切なく、
あとは、ニギハヤヒを祭る神社は
ことごとく、ニギハヤヒを封じ込めるつくりをしている。

なぜ、そこまで、ニギハヤヒを封じ込めなければ成らないのか?

などなど・・・。

ナガスネヒコ殺害ひとつから、なにかを隠した記述。
その殺害とて、果たしてニギハヤヒの行動だったかも怪しいし、
ヤマト朝廷がニギハヤヒを姦計にはめたかとも思う、後の祭りようである。
たたりをおそれた?としか思えない。

オオクニヌシのように
立派な社殿を構えたなら、
民衆の憤懣もいさめることが出来るが
ニギハヤヒについて言えば
ニギハヤヒ本人を封じ込めるしかないほど、恐れている。

そんなに恐れなければいけないという事は、大和朝廷は逆にニギハヤヒになにをしでかしたのか・・・。

不思議な空白を感じてしまう。

独立不羈 (どくりつふき)

独立不羈 (どくりつふき)とは、他からの束縛を全く受けないこと。他から制御されることなく、みずからの考えで事を行うこと。
「不羈」は、自由奔放で束縛しえないこと。または才知が人並はずれてすぐれていて、常規では律しきれないこと。

ユカタン半島のユカタンが、

「おまえはなにをいってるのか、さっぱりわからない」

と、いう意味だったらしいが、

カザフスタンというのが、独立不羈 (どくりつふき)の部族・国家とあったので、

その意味をしらべたのが、そういうことだったんだけど・・。

元々はマヤをみていた。

そこにユカタン半島の名前をみつけた。

ユカタン半島のまわりの土地が地震かなにかで

埋没して、ユカタン半島になってしまったということなんだけど、

マヤの遺跡が多い場所で、これが、海になった部分にも多くあっただろう。

マヤはスペインに滅ぼされたとか、焼畑農耕のため、国土が消失したとか、

いろいろな説があるんだけど、

ギリシャだったかな?

あの繁栄をきずいた国も、結局、緑をなくしたことによって、

砂漠化現象とか、それに類するものがおきて

たとえば、その結果、渇水とか?

マヤ文明は大きな湧水から発展してきている。

歴史の教科書をみても、大きな川の近辺で文明が発祥しているわけだけど、

基本的には、水。

それも、川でなければいけない。

当然だと思うが、海水(塩水)では、生活はなりたたない。

と、いうより、作物、緑がなりたたない。

ギリシャにしろ、マヤにしろ、緑をなくしてしまったことが

崩壊に繋がったと思う。

湧水文化というのは、緑をそこまで、保持できるものではない。

自分たちの生活だけをささえるに充分な程度しかないものだろうが、

それでも、その自然の恵みを循環させているうちはよかったのだろうけど、

水を生み出し、保水する緑をなくしさってしまったことが

国家を崩壊させるもとになってしまった。

これが、不思議で仕方が無い。

ギリシャの哲学にしろ、マヤの知識にしろ

あの「賢さ」を考えたら、緑をなくせば、崩壊するということに気がつかない。

のが、不思議で仕方が無い。

日本人というのは、こういうことを思うと

「森」「緑」・・などの自然の恵みに感謝してきた民族だと思う。

いかに水が大切か、いかに緑が大切か、

肌身にしみていたからこそ、

「感謝の念」をつちかってきた。

井戸をとってもそうだけど、日本人は

わが身を労して、井戸を掘った。

(昨今、企業が地下水をくみあげすぎるという

我田引水行為による地盤沈下も問題になっているが)

山の上の高い城のなかでさえ、井戸があるという摩訶不思議な技術力をゆうするわけで、

まあ、こういう知恵というものが、あるわけだけど、

日本人のすばらしいところは

湧水や川の恩恵にあずかるばかりでなく、

自分で掘り起こすということだろう。

借り物の文化ではないわけだ。

一人一人が文化を有している。

そして、この一人一人が

自然という大きな懐の中に居る。

川の水にしろ、湖にしろ、湧水にしろ

これら、すべてが、「緑」に基をなす。

昔、日本のど真ん中の山脈がなくなったら、

日本は広くなってよいだろう。

日本海側だけ降雪にみまわれるという

気象もかわるんじゃないかと思った事がある。

浅知恵だった。

あの山脈、山々の緑が空気を生み、空気を浄化し、

空気中への水分の発散、水分の保有、酸性雨だって、浄化して

(まるで、ナウシカの砂漠の地下のように)

根で土をおさえ、土をとおった水が綺麗な地下水にかわり・・・

文明をほろぼすのは、

こういう自然のサイクルをくるわせたときにおきるんだろう。

そして、どうしようもない浄化のために、ユカタンの土地は海に沈んだ。

そのおかげで、きっと、なにかが変わったんだと思う。

自然は自然治癒を行う。

自然の温度が高くなれば

氷がとけだし温度を下げようとする。

地球という大きな自然がやることにまちがいはない。

地球が、そういう自然治癒をおこなわなきゃならない環境変化を

作り出していることが判らず

てのうちようがなくなって、文明が崩壊して、気がつく。

今も木をうっぱらって、国土が壊滅しつつある国がある。

やはり、焼畑農業にたよる。

おそらく、自分たちだけの口をうるおす生産だったら、

自然だって、自然の一員である人間の生活くらいなんとかしてくれるだろう。

ところが、必要以上に伐採し、わが金にかえる。

植林という観念がない。

リリースするという観念がない。

ととろの中の歌を思う。

「誰かがこっそり、木の実、うずめて~~」

この世代を継ぐという思い。

柿の木から柿のみをもいでも、

いくつかはわざとのこしておく。

自分に必要以上の利をえたら、

その分の柿の実をのこし、

「こっそり、木の実をうずめておく」

これが、「不羈」または才知が人並はずれてすぐれていて、常規では律しきれないこと。

常軌で律しきれない自然の叡智がはまる。

それが、「こっそり、木の実をうずめておく」ってこと。

「自分で井戸を掘ろうって思うこと」

そんなことを考え付かない国家・文明がほろびていった。

***********

追記:

これも1年以上前にかいたものであるが、まさに、今回の地震を考えさせられる。

電気という人工物によって、生活をささえてしまうという怖さといって良いのだろうか。

「日本(世界も)は、一辺どおり、昔の生活に戻った方がよい」

と、いう提言を思い出す。

自然から、必要なぶんだけを戴く。

エネルギーの法則を考えても、取った分だけは、取り返されるというか、

不足した分はどこかで歪みを産む。

我田引水的にとってばかりの生活。

その引水方法に「無茶・無理」があることにきがつかない。

分をこえてしまうというのだろうか。

その「分」をこえた部分へのより戻しは大きい。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)

***一方、神谷川の水神?がきになっていたので、

初期の水神を覚書に貼り付けておく。

 

淤迦美(おかみの)、龍神で谷間の水を掌る神。
日河比売(ひかはひめ)、氷川神社に祭られる水神。
深淵之水夜礼花(ふかぶちのみづやれはなの)、水神。

水神ということで、気にかかるのが

沼奈宣破比売である。

音だけをいうと、(ぬながわひめ)

鞆の沼名前神社が(ぬなくま)という音であることを考えると

当て字に沼河姫とかかれることがあるのもわかるわけで、

当然、その字からも水神と考えられるわけです。

その沼奈宣破比売の名前が突然浮上してきたように思われるかもしれませんが、

憂生がここしばらく齧ってることすべてに共通する存在なのです。

まず、この沼奈宣破比売についてのウィキからの抜粋をおいておきます。

日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場する。八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。

『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。

出雲国風土記』島根郡美保郷の条では高志国の意支都久辰為命(おきつくしい)の子の俾都久辰為命(へつくしい)の子と記され、大穴持命(大国主)との間に御穂須須美命(みほすすみ)を産んだと書かれている。

越後国頸城郡式内社に沼河比売を祀る奴奈川神社がある。天津神社境内社・奴奈川神社をはじめ、新潟県糸魚川市内に論社が3社ある。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)・・2


沼奈宣破比売(ぬながわひめ)が、憂生のかじっていることに

すべてに関与してくるということであるが、

どうも、こういう事を巧くまとめる才能がないので、

実にたどたどしくなるという言い訳を先にしておく。

以前、歴史を齧ってみる(その1)の中で

美穂崎神社を取り上げた。

千木の様子も天津神・国津神の併合で、おそらく

他に類をみない、形式で、ここに祀られるみほすすみ(御穂須々美)が、

天津神としてまつられているのか、はたまた、事代主が天津神としてまつられているのか、

出雲を主軸に考えると、事代主が天津神の系譜とも、考えられる。

日御碕神社においては、スサノオが天津神の位置になっていて、

後年、アマテラスが国津神の位置に拝殿を建立されている。

ここからも、出雲においては、出雲族が天津神の位置に居る事があってもおかしくない。

と、思われる。

出雲大社の作りは国津神の造作であるが、これは、

大和朝廷側が建立したのだから、当然国津神(地方豪族)扱いになる。

出雲大社の建立というのは、ひとえに、

あの出雲族を大和朝廷の属国にしたてあげたというパフォーマンスであり、

故に国津神の形態の建物をつくっているとも考えられる。

と、話がずれすぎた。


では、事代主が天津神の位置なのか?と、

考えてしまうと、ひっかかるのが、美穂崎・美穂などの地名の由来である。


通常、古くから居るもの、あるいはなにかしら、象徴的な権威をもっているものの名前をとるのではないだろうか?

だから、この地の名前を事代崎とせず、美穂崎としたということから、

すでに、美穂須々美(みほすすみ)のほうが位がうえだったとかんがえたほうが納得できる。

だが、美穂須々美(みほすすみ)が地名になるほどに、重要な存在であったのだろうか?


事代主のほうにスポットをあてると、この神社は

国譲りの中心的位置にある。

諸手(田だったかな?)船神事などは、その様相からも、

平伏?の印になるような鏡や剣を積んだのではないかと思うし

この神社に、ニギハヤヒが駆けつけている文献をほかで読んだ事がある。

以前にもかいたが、羅馬船などの存在も降伏を表すかとも思えるのだが、

この神社に伊予の河野氏の紋をみつけて、驚いた。

ニギハヤヒの関連もあるが当時貴重であったと思われる

野生馬が伊予あたりにはいた。


こんなことからも、考えても美穂須々美の名前が地名になるほうが、先で

そういう歴史的な国譲りがあったにかかわらず、その名前が美穂崎のままである。

これは、どういうことであろうか?

美穂須々美とはだれじゃあああああ?

と、いうのが、最初であった。



沼奈宣破比売(ぬながわひめ)・・3

さて、その美穂須々美であるが、

これはいったい、いかなる系譜をもつのか?


高志の国にいた神。意支都久辰為(おきつくしい)の命

その子供のへ(人偏に卑)都久辰為(へきつくしい)の命

その娘

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)を娶って、うまれたのが、美穂須々美。

この姫神が座したゆえに、そこを美穂の郷という・・・。


おっと?

高志?これは越の国であろう?

そして、誰と結婚して美穂須々美をうんだのだ?


八千矛・・・と、結婚したというのが、古事記の伝承ですが・・・。

出雲風土記では、おおなもちと結婚したと・・・。


一説によると、「おおなもち」と「八千矛」は同じ人で、

ようは、大国主命ってことになります。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)と大国主命の娘が

美穂にすむようになり、そこを美穂とよぶようになった。

すると・・・・。

美穂崎神社に祭られている

事代主と美穂須々美は異母兄弟の間柄になる。

ところがである。

美穂神社の由緒によると、

美穂津姫神は高天原の高皇産霊命の娘で大国主命の后であるという。

これが、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)なら判る。


が、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)を美穂によびよせたかというと、

まだ、ちら見でしかないが、どうも、悲しい伝説がのこっているので、

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)は、美穂神社のいうところの美穂津姫神ではなく、

やはり、美穂須々美が、美穂津姫であると思える。


と、ここまで書いて思うのだが、

大国主命が「越の国」の沼奈宣破比売(ぬながわひめ)を娶ったいう裏側を思うのである。

歴史を齧ってみる(その1)を読んでくださった事がある人はこのあたりで、

すでにピンときていることだろうとおもうのですが・・・。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)を娶るということは、

なんらかの形で「越の国」の技術などをえるための、一種政略結婚ではなかったか?

じっさい、美穂崎にいくと、国引きをしたという伝承が残っていて

この国引きで、ひっぱったのが北陸と朝鮮半島だったというのだが・・。

地形的に近いから引っ張ったというのは、ロマンがない。

北陸からは越の国の文化・・

朝鮮半島からは憂生は、(スサノオ)ではないかと思っている。

スサノオが韃靼人だったという説を推すわけではないが・・・。

こういう背景を考えた時に思うのは

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)を越の国におきっぱなしにして、おくだろうか?

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)を出雲につれてきて、丁重に処すということをして、はじめて、

越の国との友好関係というか?

越出友好条約が締結すると思われる。

ところが、大国主命のきさきに「すせり姫」というのがいるわけで、

これが、スサノオの娘であるとされているわけだ。

政治手腕を考えればスサノオには、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)が

出雲にくることについては何の異論もなかろう。

ところが、「すせり姫」がなっとくするだろうか?

しないだろうな~~~~~/笑


ひょっとすると、美穂神社には沼奈宣破比売(ぬながわひめ)と大国主命がまつられていたのではないか?

きちんと夫婦として、大事にしていますし、

社をお立てして、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)は天津神。

この大国主命は日御碕神社のアマテラスよろしく、天津神である沼奈宣破比売(ぬながわひめ)を守護しております(国津神の様相)

我らは夫婦なのですから、お守りするのも、夫として、横にならびて、片時も離れずお守りしています。

と、いう越の国へのアピールが必要だったのではないのだろうか?


何故そこまで、アピールする必要があったのかという事は今はおいといて、


ところが、これが、ますます、すせり姫にはきにいらない。

で、なんやかやで沼奈宣破比売(ぬながわひめ)を追い出すか?なにかしてしまう。

残された美穂須々美まで、おいだしてしまったら、

越の国といさかいになるのは目にみえているだろう。

そこで、美穂須々美を美穂の地名にするほどにこの地の人になられているし、

変わらぬ守護?崇拝をいたしております。

と、ばかりに美穂神社にほうじた。

ところが、替え玉だとは、おもうのだが、出雲大社に大国主命がまつられ、

大国主命は美穂神社に座していられなくなるわけで、

ここで、事代主が横にすえられる。

事代主についても、初代から~3代天皇の后になる娘の系譜をもっているわけで、

このことから、どうやら、江戸時代に事代主が同座したようなのである。


と、いう推理?をしてみたのだが、

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)のほうが、美穂の地にやってきたかなどをもう少ししらべてみたいのと、

何故そこまで、アピールする必要があったのかという事はおいといて、書いたように

まだ、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)の重要性をかいていないので、

これもあるし、

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)=美穂須々美なのかどうか?

母娘なのか?

実に決め手に欠ける部分なので、もうすこし、調べたいとおもっているので、

まだ、続くぞ、この項は・・。うん。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)・・4


http://www5.ocn.ne.jp/~suhama24/hahagami1/hiun/hiunindex.htm

から、記事を一部いただいてきております。

諏訪神社の神主さんだと思います。

大国主命と奴奈川姫命の間に我が社の御祭神建御名方命がお生まれになり、豊かな暮らしがつづいていたがそこへ、大国主の父が亡くなったという知らせが長男八重事代主命より届いた。命は心配する高志の酋長たちにこの国は息子建御名方命に任せるので後見を頼み、出雲へ帰ることになった。帰るに当たり命は姫に一緒に出雲へ行くよう説得する。しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った。出雲にはイナダ姫、須世理姫など美しい多くの后がおり、イナダ姫は中でも嫉妬深い后であったからであり、また姫には大切な翡翠を守らねばならないという願いが強かった。承知しない姫に困った大国主は家来に命じ、姫の夜眠っている間に船に乗せ七尾港に運ばせた。翌朝目を覚ました姫は船の中にいることに驚き、事態を覚った姫は何とか脱出しようとチャンスをねらった。

七尾港で一週間ほどたった暗い夜幼少のころから仕えていた人たちが小舟で助けに来た(出雲から逃げてきたという話もあるようだ)

この話を読む限り、美穂須々美という名前がみあたらないのです。

姫を産んだという話もまだ沼奈宣破比売(ぬながわひめ)側でみつけていません。

すると、(出雲から逃げてきたという話もあるようだ)というのが、さもありなんという気がしてきます。

出雲まで行って美穂須々美を生んで、しばらくのちに帰ってきた。

で、建御名方命側には建御名方命が居るわけですから、

大国主命側に美穂須々美を残していく可能性が大きいのではとも思えるわけです。

また、逆に大国主命の后たちの存在があるということで、同行するのを嫌がったというのであれば、娘だということにして、美穂に住まわせたと考えると(この時大国主命はいくつだったんだろう?)美穂須々美=沼奈宣破比売(ぬながわひめ)だとも考えられるのです。

この真偽はさておき、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)の伝説はまだ続きます。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)・・5


http://homepage2.nifty.com/oyashirazu-oumi/himenosonogo/hime.html

より転載。

『古事記』の中で沼河比売については八千矛神、即ち大国主命が高志の国(越)の沼河比売に求婚する場面から登場してきます。

八千矛神と沼河比売のやりとり(神語)は「奴奈川姫の結婚」のページで詳しく紹介しましたが妻問いの翌日、目出度く結婚され美穂須須美命と建御名方神がお生まれになる。

しかし、古事記ではなぜか、美穂須須美命のことは触れておらず、八千矛神と奴奈川姫の子供は建御名方神、一人しか登場されていません。

<奴奈川姫命>
一方、『出雲国風土記』には沼河比売自身と、八千矛神との間にできたお子神、「御穂須須美命」のことが詳しく書かれています。

(原文)

美穂郷

(

みほのさと

)

 郡家正東27里164歩。 ”

所造天下大神命

(

(大国主命)

)

” 娶 高志国坐神 ”

意支都久良為命

(

おきつくしのみこと

)

” 子 ”

俾都久良為命

(

へつくしいのみこと

)

 子 ”

沼河比売命

(

ぬなかわひめのみこと

)

” 而、”

御穂須須美命

(

みほすすみのみこと

)

” 是 神坐 矣。故、云 「美保」
<現代語に訳せば>
美保郷 郡家の正東二十七里一百六十四歩なり。所作天下大神命、高志国に座せる


意支都久辰為命

(

おきつくしいのみこと

)

の子、

俾都久辰為命

(

へつくしいのみこと

)

の子、奴奈宜波比売命に娶ひて産みましし神、美穂須須美命、是の神坐します。故、美保と云ふ。    
『出雲国風土記』嶋根郡美保郷
このように、『出雲国風土記』では、奴奈川姫の祖父神、そして父神のことが記され、奴奈川姫は大国主命(八千矛神)と結婚して、美穂須須美命が誕生したことを書かれていて、同時に美穂須須美命は 美保郷 郡家の正東二十七里一百六十四歩に座していると述べています。

美保の郷は島根半島の東端にあり、神の寄りつく御崎として民謡「関の五本松」や美保神社等で知られる港町です。

美保神社は古くから漁業、海上の安全の神として信仰を集めている。
本殿は美保造りという珍しい構造で作られていて、左殿には三穂津姫の命、右殿には事代主神が祀られているが、これは「古事記」や「日本書紀」の国譲り神話の影響によって後世祀られるようになったとみられています。

中世に入ると、事代主神は恵比須神と習合し、福神信仰が盛んになったが、風土記の時代には、御穂須須美命が祀られて居たと云われています。

美保と云う地名についても風土記に「御穂須須美命がここにいらっしゃいます。それで美保という」とあります。

ここで、奴奈川姫の系譜を考えると

祖父神:

父神 :

母神 :黒姫神
奴奈川姫:
姫の夫神:八千矛神
姫の子供:美穂須須美神
姫の子供:建御名方命

<御穂須須美命>
美保郷 郡家の正東二十七里一百六十四歩なり。所作天下大神命、高志国に座せる神意支都久辰為命の子、俾都久辰為命の子、奴奈宜波比売命に娶ひて産みましし神、美穂須須美命、是の神坐します。故、美保と云ふ。
美保須須美命は先程の『出雲国風土記』にもあるように『奴奈宜波比売命に娶ひて産みましし神』と記され、美穂須須美命は奴奈川姫の御子神であります。
嶋根郡美保郷に美保須須美神が鎮座と記されているのですが、美保神社の現在の主祭神は事代主命となっている。

いつ、このように変わったのか、和歌森太郎『美保神社の研究』には、美保神社関係の諸文書を検討してゆくと江戸時代の初期ぐらいまでは美保神社のご祭神は元来、「ミホススミ神」であったことが現地調査の結果確認されています。

一方、能登半島の先端の珠洲市にある珠洲(須須)神社の祭神も元来は「ミホススミ神」であることが判りました。
そして、八千矛神と奴奈川姫との間に生まれた「美穂須須美命」の鎮座している能登半島は天気の良い日にはここ奴奈川の郷の青海からもよく見えます。
(注)須須(珠洲)神社の現在の祭神は

彦火瓊瓊杵尊

(

ひこほににぎのみこと

)

に変わっています。
<建御名方神>
以上で沼河比売とその子供、御穂須須美命の経歴がはっきりして来ましたがもう一人のお子神である建御名方命は何故か風土記には登場せず、古事記の中で国譲りの神話の所で登場してきます。
大国主命は数々の苦難を乗り越えてやっと国造り終え、国が繁栄している様子を見た

天照大御神

(

あまてらすおほみかみ

)

は、我が子にその国を統治させようと使者を送る。

これが有名な大国主の国譲り神話で御子神の

建御名方命

(

たけみなかたのみこと

)

が理不尽な国譲りに勇敢にも抵抗するが

建御雷神

(

たけみかずちのかみ

)

に負けて信濃(長野県)の諏訪湖近くまで追い詰められてしまう。
そして、この諏訪の地より出ないという約束で降参し、

八坂刀売命

(

やさかとめのみこと

)

と結婚して諏訪大社の祭神として鎮座している。

以上の出展から美穂須々美は

母である沼名河姫が一端は大国主命とともに美穂崎に住まいしたと考えるのが妥当と思われます。

千木の様子からも、天津神系譜であった沼名河姫を天津神としてまつり、

越の国へのアピールとして大国主命が国津神として

ともに美穂の郷でくらした。

そして、おそらくそこの土地で生まれたのが美穂須々美。

この美穂須々美も文字音で解釈すると美穂さんがそこを「巣」にして、あるいは、清め(須)て、

住みたもうとも読めるのです。

実際、後に事代主にかわったとおもうものの、

神社の形式様相を変えるとは思えないので

元々は例えば、タイの部族の村長のように、大国主命の沼名河姫との二人の住まいに

千木をかかげ、沼名河姫を天津神として大国主命が国津神(地方豪族・守護の立ち場)にたつ千木を掲げたのではないかと思うわけです。

まさか、越の国から連れ帰り沼名河姫を大国主命の守護位置におくことは

越の国を敵にまわすことになるのではないのでしょうか?

この形態が受け継がれ伝承され、美穂神社は天津神と国津神が横に並ぶ姿のままで居ると思います。

そして、いずれのちに、情勢?などにより、祭神がかわるのは、どこでもあることですから、

ほぼこの考えがあてはまるとおもうのですが、

問題のもうひとつ。

なぜ、沼名河姫がここまで、大国主命あるいは出雲で重鎮されたかという事です。

そして、もうひとつは、沼名河姫がもとの場所に帰った経緯です。

単純に元々行きたくなかった出雲に来てしまった。

上にすせり姫などのいやがらせ?があったというのは、

もうひとつ、押しが薄いきがして、伝説を続けて読みに行ってきます。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)・・6


http://www5.ocn.ne.jp/~suhama24/hahagami1/nuna1index.HTM

より、転載

翡翠により人心を集める姫
昔昔(古代)越後の国奴奈川郷という所に翡翠という宝玉を持ち超能力、呪術によって農耕狩猟などの収穫を予想したり、病気の平癒や人心迷いの時に決断を与え、人心を掌握している巫女がいた。これが、後の諏訪明神の母となる奴奈川姫であるという。
彼女は近くの川から拾われる硬玉を加工し宝石を作る玉造集団の長で、祭祀をも司りこの翡翠の宝石によって交易し栄えていたそうだ。

さて、ここで、奴奈川という言葉が出てきている。

憂生は今、沼名河姫とかいたり、沼奈河姫とかいたりしているが、

本来はこの奴奈川姫であろうと思う。

と、いうのも、奴という言葉が(ヒスイ)や(玉)をあらわす。

奈や名は津とおなじで、「の」という意味合いだとも思っているがこのあたりは、不詳。

又、話がぞれるので、おいておくが、

沼名前神社についても、(ぬなくま)奴の隈(熊襲)引いては隈の玉(王?)ともとれ、

ここでのスサノオ信奉についてもきになるところである。

つまり、ヒスイ(玉)の河であり、そのあたりを納めていたのが沼奈宣破比売(ぬながわひめ)

そして宣の文字

これは茅のところでもかいたが、

のとうぶ のたうぶ 【宣ぶ/曰ぶ】

  • (動バ四)
  • 〔「のたまふ」の転。また「のたぶ」の転とも〕「言う」の尊敬語。おっしゃる。

破についても、見破ると同じで言い破る。つまり、先々のことや物事の吉凶を言い表すという力をもっていたから、羅馬船でのくだりのように、がわ(という音)に意味をあらわす字をあてた。

このことからも、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)というのは上記に転載したとおりの人物であったと思う。

こういう能力をいえばアマテラスもそうだったと思っている。

そこら辺は皆既日食は怪奇日食?とかいう

卑弥呼とアマテラスの記事をよんでもらうことにして、

出雲族はアマテラスに対抗できうる沼奈宣破比売(ぬながわひめ)を

手中(あるいは傘下)に起きたかったであろうと思う。

その上に、奴の存在。

ヒスイ、玉というものを産出する越の国

そして、ヒスイの加工技術にはじまるさまざまな技術力。

このあたりも手中におさめたく、

越の国を属国にしていくためも含めての、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)との政略結婚であったと思う。

故になおさら、そういう位置にいる沼奈宣破比売(ぬながわひめ)を

他の后がいじめて越の国においかえすというのも、理屈にあわない気がする。

なぜ、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)が越の国にもどったか?

「ヒスイ」の価値(越の国の技術)もふくめ・・・。

憂生は迷路に入ってしまったかもしれない。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)・・7


http://www5.ocn.ne.jp/~suhama24/hahagami1/nuna1index.HTM

に、近くの古代の鉄製錬跡たたらの遺跡という写真が掲載されているのを

みつけ、憂生はまた、荒唐無稽の発想になる。

大国主命が製鉄をもちこんだようにかかれているが、

実が逆じゃなかったのだろうか?

越の国においては、良質の燃料がある。

コークスとか・・・。(継体天皇が献上したという燃える水や燃える石をかんがえても)

この燃料を有効利用したたたら製鉄の技術をもっていたのは越の国のほうではなかったろうか?

同時に土木、治水事業ということでも、やはり形継体皇をひきあいにだすが、

九頭竜河というのが福井にある。

これは円形?に、首をならべたら、(八又)になる。

つまりやまたのおろちということになる。

そして、やまたのおろち、あるいは九頭竜というのを憂生は

河川の氾濫であるとおもう。

この治水をおこなったのが、越の国の技術ではないのだろうか?

つまり、やまたのおろち(河川の氾濫)というのは、九頭竜のことで、

やまたのおろちが越の国から来る。

と、いういいかたもなりたつ。

そして、スサノオが揖斐川の氾濫を治水することを、やまたのおろち退治というのではないのだろうか?

と、なると、この治水の技術も越の国のものである可能性も高く

スサノオが各地を平定しており、茅伝説もかなり東北のほうにまで広がっている。

その時に越の国の技術力を習得するとともに、たたら製鉄の技術も習得したかも?

そして、言い出せば越の国一帯が技術の宝庫であり、漆器(福井、若さ地方にて世界最古の漆器の発掘)に絹織物に、紙漉き・刀剣などなど、いまに伝わる。

そこを考えると、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)というのは、実に要の存在であったと思う。

この越の国の掌握の必要性を大国主命にふきかけたのが、スサノオだろう・・。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)という巫女?が越の国の中軸である。

とでも・・・。

出雲が越の国を掌握したがることも、納得したきぶんになり、

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)がいったんは出雲にきたということもほぼ、納得するが、

では、なぜ、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)が越の国にかえってしまったのだろう?

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)・・8

http://homepage2.nifty.com/oyashirazu-oumi/himenosonogo/ketudan.html

より、転載

大国主命(別名:八千矛神)は国造りの過程で奴奈川姫と結婚し、出雲国と高志国は固く結ばれ奴奈川の郷は平穏な日々が続いた。

しかし、大国主命の国があまりにも繁栄している様子を眺めた天照大御神は葦原の中つ国(日本の国)は自分の御子が治めるべき地であると宣言。

理不尽な国譲りに最後まで反抗したのが奴奈川姫の御子「建御名方命」であったが天照大御神の使者、「建御雷之男神」に破れ信濃国の諏訪湖畔に蟄居させられ、また大国主命は出雲の国に大社を建てるのを条件に国譲りを承諾

この話は、古事記などで有名な「国譲り」の話ですが一方、高志国の奴奈川姫は、夫神の大国主命と御子神の建御名方命の後ろ盾を失いながらも出雲の国と共に平和な日々を送り、郷は翡翠の勾玉作りに賑わっていた。

しかし、平和な日々は永くは続かなかった。四世紀ころになると10代、崇神天皇の父・開化天皇の兄で四道将軍の一人・大彦命は、高志(越)の沼河国(奴奈川)と出雲国の連合に脅威を感じ、朝廷の勢力を伸ばすため日本海沿岸に沿って能登半島から沼河国へ進駐・入植してきた。

その一族を率い、北陸道を北進して来たのが青海首の御戈命であった。青海首の祖先は椎根津彦命で大和直族の祖とされ、この大和直族は天皇家などの天津神((天孫民族・外国渡来民)に対し国津神(土着部族の海人族)であった。大和朝廷側の進駐をいち早く察知した奴奈川姫は、このまま服従して大和朝廷に従うか、武器を持って戦うかの判断に迫られた。

しかし、聡明な奴奈川姫は戦いで一族の民が傷つき、血を流すのを憂い、同時に大和朝廷の目的は翡翠の産地の奴奈川郷と、翡翠の加工技術が欲しいのであろう。

そして出雲の国との連合に威圧を感じているためと考え、八千矛神と結婚した自分さえ居なければ無抵抗な民の命や、郷を守れると判断。

奴奈川郷と一族の生き残りをかけて部下たちに「弓矢を捨てよ。戦ってはならぬ」と服従することを命じた。

そして姫はこの奴奈川の郷を出てゆくことを決断する。

一方、青海首の一族は奴奈川姫の推測どおり無抵抗な民には危害を加え無かったが奴奈川姫に対しては執拗な追っ手を差し向けた。

『日本書紀』によれば、崇神天皇の十年(前八十八年)九月九日、

大彦命(おおひこのみこと)は北陸、

武渟川別(たけぬながわわけ)は東海、

吉備津彦(きびつひこ)は西海、

丹波道主(なにわのみちぬし)は丹波に遣わし王政に従うように命じた。

「もし従わない者があったら、兵を差し向けて討ち取れ」と詔を下して四人に印綬を授け将軍に任命した。

椎根津彦命は『日本書紀』によれば、神武天皇の東征したときの功績によって大倭国造に任ぜられ、大和朝廷の要職にあった。

*******お借りしてきた分際でなんですが、

ちょっと、年代がわかりにくいので、(片一方は4世紀片一方は紀元前88年となっています)

多くの方はスサノオが卑弥呼と結婚していた?

と、言う説でも判るように、スサノオの時代を250年頃~350年頃ととらえているようなのですが、

憂生はスサノオは紀元前100年から100年の間の人かもしくはもっと古いと考えています。

これは紀元節2760年(辛酉の年号の成立にあわせたため、何年かは違っていると思いますがそれでも歴が一巡するのは確か60年だったとおもいますので、多くずれても59年では?)

あと、またどこかで天皇の即位にあわせずらしていった可能性もありますが、むしろ、初期の天皇の時に繰り合わせがあったと思います(そのため、初期の10人の天皇の在位を計算すると平均しても人間の寿命をこえる在位になってしまうと思うのですが・・)ですので、詳しくは調べてませんので、勝手な推測ですが平気で300年~500年ずれているのではないかと思っています)

で、初代天皇神武のことを考えると、スサノオの時代が前1Cから後1Cかなあという大雑把な計算のしかたなのですが・・・)

で、まあ日本書紀のほうのBC88年のほうを軸にしいて考えておきます。

って、あんまり年代考察は重視していない項なのですが。

ここで判るのは、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)が一方、高志国の奴奈川姫は、夫神の大国主命と御子神の建御名方命の後ろ盾を失いながらも、 と、あるように越の国に戻っていたことになります。

と、なると、やはり美穂須々美を美穂の郷に残していったとかんがえられます。

故に美穂神社は美穂神社なのだろうと。

しかしながら、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)が越に戻ったのはなぜか?ということがまだ見えてきません。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)・・終


沼奈宣破比売(ぬながわひめ)が越の国に戻った時期。

これを考えるとき、美穂神社が国譲りの場面で重要な位置にあったこと。

建御名方命が国譲りに頑迷に反対し大暴れして、諏訪に蟄居させられる結果になったことを重ねあわす。

と、思い浮かぶのは

建御名方命が越の国の奴奈川あたりをおさめていたわけだから、

この建御名方命が越の国を留守にして、美穂の郷に来たことになる。

当然といってはおかしいが、沼奈宣破比売(ぬながわひめ)が

長が留守になった奴奈川に戻る。と、いう考えにならないだろうか?

とるものもとりあえず、越の国奴奈川に戻る。

そのうち、出雲が大和朝廷に支配されたのがわかる。

憂生は出雲大社の祭神は実は、スサノオではないかという話をかいているが、

スサノオが惨殺されたとするのなら、当然、大国主命も建御名方命も

惨殺あるいは処刑されたと考える。

だが、はっきりと反抗してきた建御名方命を出雲の地にて封印するのは

どうだろう?

霊になってたたる時も反抗的な態度でたたる。

出雲の地にて葬り、社にて怨念を封印するというかんがえになるまい。

沼奈宣破比売(ぬながわひめ)越の国奴奈川でどうかんがえただろう?

美穂須々美はどうなってしまったか?

自分はどうなるか?

この二つがおおきなところではないのだろうか?

美穂須々美はまだしらべきっていないが、どうも消息がつかめない。

憂生はおそらくこれも、出雲族の長の一連として処刑されたか、

自害したかと思う。それも、父、大国主命と母、沼奈宣破比売が暮らした

二つの千木を掲げた住まいの中で・・・。

故に美穂神社が建立され、二人の子供であるという象徴である二つの千木を掲げた神社をつくり、美穂須々美の無念を弔った。

大和朝廷に面と向かって反抗した建御名方命を考えても、大国主命のために出雲大社が建てらるということからも、美穂須々美がどうなったかは沼奈宣破比売には、わかっていたのではないだろうか?

そして、わが身もいずれ、同じことになるとも考えていただろう。

沼奈宣破比売の巫としての才覚もアマテラスという巫をだかえる大和朝廷には

不必要だろう。

この後に、まもなく、大和朝廷が乗り込んでくる。

そのあたりのくだりは前スレッドの転載の通りと考えてみると、

その以後ヒスイが衰退していくのもわかる。

ヒスイの持つ秘力を使える巫(美穂須々美も含め)がいなくなったことと

ヒスイの秘力を必要としない巫を擁する大和朝廷が、ヒスイの威力さえ否定した。

ヒスイの効力もアマテラス(巫)のまえでは、ただのきれいな石でしかなくなってしまったわけだから、ヒスイの秘力への絶対的信仰もなくなってしまったのだろう。

「私が大国主命の妻だから・・」

沼奈宣破比売が発した言葉をかんがえても、沼奈宣破比売は出雲の人になっていただろう。

その証のごとく、美穂須々美が出雲の地美穂に眠っている。

こう考えたいのだが、無理があるだろうか?

釣り人のほうが、詳しいか?

夕方、TVを見てた。
北海道、標津の鮭をベッキーがとりにいってたような・・?
その時、アナウンサーが網でひいた鮭をタモですくいあげて・・・。
と、いう言い方をしていた。

で、あちこち検索。
タモという言い方が通じる地方・・。

もしくは、タモの定義。
憂生のふるさとでは、小さい半径5cmのものから、
半系20cmくらいのものから、
地引網のようなものまで、タモとよんでいた覚えが有る。

ところが、
タモでなく、たま といい、それも半径15cm~25cmくらいのものに、限るような、
表現に出会った。
場所は四国の瀬戸内海側。
むむむ・・・。
またも、古代史に、こじつけたくなる。
でも、タモという言葉の本当の意味合いと
それが、何故、たま に、なるかが、わからないとだめだし、
たもという、呼び方がどこまでの地方で通じるのか?
もうひとつ、あった。

ごかい。

そう、魚釣りの餌になる「虫」
ところが、どういう加減か、ごかいより、青虫という商標?が通っている。
地方によって呼び名が違うだろうが、
ごかいをごかいと呼ぶ地方。
これも、タモとつうじないだろうか?
どこか、通じる地方がなんらかの線上にあったら、面白くも有る。


茗荷とスサノオ

以前、茅のくだりで、スサノオが海の民(部族?)の協力を得て、瀬戸内海近辺を平定した。

そのスサノオの帰路にあたり、海の民が、府中の峠まで、スサノオを送っていった。

で、その海の民というのが、鞆近辺の人たちではないかいな?という、話と(このあたりの細かいところは、沼名前神社の祭神(スサノオ)が神宮皇后によって、おおわだつみにまつりかえられたんじゃないかという推論からで、この推論は以前にもかいたものがあるのと、長くなるので省くが鞆にかえる道中に神谷川というのがあり、これが「かやがわ」と読む。

蘇民将来の萱は実は神谷川の萱だったかもしれない。

と、いうようなことをひととおり書いたのだが、海の部族がスサノオをおくっていったところが、峠(国境?)で、その峠の名前が茗荷峠というのだが、

峠で別れの酒宴というか、それを開いて名残をおしんだのだが、この時、酒の采がなく、みょうがを山際?からとってきて、采にしたので、「茗荷峠」の名前がついた。というのである。

茗荷がじっさいに茗荷という意味合いであったか、どうか定かでないが、

(茗荷金という意味合いだったかも?)

と、なると、季節を特定できるのではないか?

と、思ったわけだ。

だが、じっさい、茗荷を酒の采にたべる風習があっただろうか?

と、思っていたときにしょうがの文献をみつけた。

しょうがをたべるくらいだから、茗荷もたべる習慣があっただろうし、

茗荷のほうが抱き茗荷などの家紋にもみられ、あえて、しょうがを呉のはじかみとよんだのは、山椒ばかりでなく、茗荷に対しての意味合いもあったかもしれない。

が、まだ、茗荷というのが、憂生にはよくわかっていない。

実のところ、同じものではないかと思っていた。と、いうか、棒しょうがは、茗荷の根のほうだとおもっていたから、茗荷のはしを噛んで「はじかみ」のほうが、しっくりする。また、調理畑の経験でいうと、棒しょうがのことを「はじかみ」と呼んでいた。

棒しょうがの茎の太さを考えると、むしろ、茗荷のイメージのほうが強い。

もう少し、季節特定としょうがと茗荷と棒しょうが(はじかみ)の違いを調べて見たいと思う。


以下、


生姜は熱帯アジア原産、ショウガ科の多年草本。

邪馬台国で知られる『魏志倭人伝』には、すでに日本の植物として記載されているから、弥生時代以前には渡来していたと思われる。

古代の祖先たちも、生姜が好きだったようで、「生薑(しょうが)」の記録はかなり多い。

平安時代の『和名抄』では、これを「生薑(くれのはじかみ)」と読ませ、また「乾薑(ほしはじかみ)」という記載もあるので、乾した生姜も多量に利用されていたようだ。

先の「くれのはじかみ」のくれは、古代中国の呉のこと。

また“塊(くれ)”=かたまりの意味もあり、説が分かれる。

「はじかみ」は歯しかみで、歯をしかめるほどの辛さのものの総称だ。

生姜が渡来するまでは、歯しかみの代表は山椒だったが、生姜の渡来で区別の要が出来、生姜は呉からの歯しかみ・・・なのだろう。

さて、生姜独特の爽快な辛味は、けっこう好きだという人が多い。

この辛味の成分、ジンゲロンとショウガオールには、強力な殺菌作用がある。

とくにジンゲロンの殺菌力が強く、腸チフスやコレラ、赤痢の菌にも殺菌力を発揮するそうだ。

かつて、ヨーロッパでペストが流行した時も、生姜が使われた。

実際に生姜でペストを打ち負かしたかは不明だが、発汗効果で大量の汗とともに、体内の毒素を排出したであろうと思われている。

ただ、ヨーロッパには、生姜の栽培適地が少なく、アジアから乾燥品を輸入していた。

いまでも、ドライ・ジンジャー・パウダーを使ったクッキーなどが伝えられているが、当時はかなりの高級スパイスだったはず。

このジンゲロンは、動物の血液中で神経マヒを引き起こすほどの強い成分で、人間にとっても完全無毒ではない。

しかし、その微毒を排出しようとするからこそ、新陳代謝が活発になることも知られている。

つまりは、生姜の微毒は、変じて薬になるわけだ。

さらには、辛さが唾液分泌を促進して、ジアスターゼを増やし、消化作用を向上させる。

さらに、さらに、生姜の香りは大脳皮質を興奮させ、呼吸循環中枢を刺激、体全体に機能向上する結果・・・病気の治りが早まる。

★十一代将軍・家斉のエピソード

好色将軍の異名ある、家斉の側室は40人余、在位40年で55人(男児28人・女児27人)の子供を作った。

何と、年平均1,3人・・・少子化?、せせら笑ってることだろう。

その家斉は板橋の生姜を特に気に入って、租税免除で生姜を献上させ、他の市町村民の反感を買ったといわれる。

無類の生姜好きで、毎食膳に欠かさなかったそうだが、とすれば“子種の素”は生姜?。

*******************

日本最古の医術書『医心方』には、「頭痛、鼻づまり、めまい、のぼせの主治食で、吐き気を止める。長く食べていると、体臭を除いて、精神をあきらかにする」と。

こんなスゴイ効能がある生姜、日本人は昔から活用していた。

寿司に“ガリ”を添えるのは、生魚、生貝などの殺菌と、食欲増進、口中の臭い消し。
風邪の引き始めには“生姜湯”。
吐き気止めや車酔いには、熱湯に搾り汁を垂らして飲む。それに蜂蜜を加えると咳止め。
しもやけには煎じた汁を塗る。虫刺されにも。
肩こり・腰痛・冷え性には、お湯におろし生姜を入れ、タオルを浸して搾り患部に。
生姜は、年中市場にあるが、時期によって、芽生姜や葉生姜、根生姜が出る。

江戸時代の『本朝食鑑』には、その利用法を「ちかごろ生姜の新しい根を、生梅や紫蘇の葉と一緒に塩漬けにして保存したり、あるいは味噌漬け、酒粕漬け、蜂蜜漬けなどにしている。

また、古い生姜は十二月の寒水に晒して火に干してたくわえておくといい。

いたんでいないものを刻んで薬として服用する。また道中薬としてもいい。湿気に悩まされないし、冷え腹のさし込みを治すからである」と書いてある。

http://oishikutabetai-baaba.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_f3fe.html


より、転載。

宇気比(誓約)


以前にも掲載していたのであるが・・・・・。


もうすこし、まとめてみたくもある。


北陸、敦賀に気比神宮というのがある。


これは、宇、気比(うけい・誓約)ではないかと思っている。


宇は宇宙などでもわかるように、広大な広がりである。


また、若狭地方に宇波西神社というのがある。

この名前の由来

宇が波にのって、西からやってきた、ことに由来する。


宇は神(あるいは、尊い人)のことをさす。


気比神宮にもやはり菊の紋がかかげられていて、

祀り変えがあったことをうかがわせる。


では、この地でかりに、神の気を比べるがごときの

誓約があったとしたとき、

それは、誰と誰であったのだろう?



神宮の様相もかなり古く、本殿には千木がみあたらない。


このあたりも、実はきになっている、


千木をかかげさせたのは、ひょっとすると、大和朝廷がわか?と・・。


出雲大社は国津神の様相である。


元々はおおわだつみをまつっていたとされる神社である沼前神社(鞆)は

神功皇后が新しく航海の安全を祈りたてたものだそうであるが、

これは、国津神の様相である。


おかしいなと思った。

目的が守護のためであり、天意でないから、

国津神の様相になったのかもしれないが、

おおわだつみなら、天津神の位置にいると思う。

いざなぎ、いざなみなども天津神の千木であったとおもう。


と、こうかんがえていくと、

千木をつけていったのは大和朝廷がわではないかとさえ思える。


神社のつくりがちがうためか、千木をかかげてないものもおおくある。


気比神宮もなかったと思う。


これは、大和朝廷がわの祀り変えの手がそこまでは回らなかったせいとも考えられる。


と、なると、

かなり、古い、いわくがあってもおかしくない。


丹後だったかに、こも(変換しない、草冠に龍の字)神社があるが、


抜粋

神社の由緒・由来

神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を吉佐宮(よさのみや)と申して一緒にお祭り致しました。その後天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました


主神* 彦火明命(ひこほあかりのみこと)

亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。


気比神宮に非常に近い場所である。とも思えるし、

伊勢に帰るルートの途中に気比神宮があったと思う。

実際、今に残る道を考えても

丹後から若狭にぬけ、敦賀から山越えをして伊勢に抜けるが

最短距離だと思う。


さては、にぎはやひが、アマテラスと宇気比をしたか?と、おもわぬでもない。

どちらが本当に日本を統治する人物かと。


が、由緒をかんがえるとどうも違う。


しかしながら、丹波に降臨したというのであれば、

もっと、それ以前に宇気比があったとも考えられる。


仮に一人はにぎはやひであったとする。


もう一人はだれだろう?


ここで、ふたつの想像がわく。


ひとりは、スサノオ。

やまたのおろち退治であるが、このやまたのおろちは

越の国からきているとの記述がみうけられる。


やまたのおろち(九頭竜族)を平定していったスサノオが

北陸からひきあげてきて、若狭と北陸の境目である敦賀で

にぎはやひと衝突した。


そこで、宇気比にあいなる。


おそらく、スサノオが勝ち、このあとか、このまえからか、日本はほとんどが、

スサノオの勢力下になっただろう。


つまり、天孫であるにぎはやひと宇気比してスサノオが勝ったということは

古事記の記述でいえば、スサノオこそが正統な統治者ということになる。


これは、大和朝廷がわにはまずいでしょう。


そこで、祀りかえをおこなったり、スサノオとアマテラスの誓約に話をすりかえ

場所もにぎはやひから遠くはなれたところにする。

うがってみれば、宇気比神社だったのかもしれないところの

宇をけずってしまったのかもしれない/笑

宇気比 ・宇波西神社の祭神

さてと、つづき・・・。

にぎはやひ?と宇気比をおこなったかもしれないもうひとりの人物。

これが、さきほどのスレッドででてきた、宇波西神社に祭られている神。

うがやふきあえず・・・。

え?

と、おもわれるかもしれない。

思うよな。

憂生もこじつけすぎだとは思ってる。

この、うがやふきあえずが、この神社で、西から波にのってやってきたという逸話をもっている。

憂生は、古事記の中のうがやふきあえずは、ウガヤフキアエズ王朝をぬりかくすための架空の人物だとおもっている。

海幸彦、山幸彦のあらそいは、

じつは、ウガヤフキアエズ王朝下にてのできごとで、

たとえば、スサノオとアマテラスの争い。

ウガヤフキアエズ王朝を掌握しようとしたアマテラスを

阻もうとしたスサノオ(王朝の末裔?アマテラスも?)とが、もめたさまではないかと。

そして、うがやふきあえあずは、王朝をほろぼされ逃亡。

高千穂あたりが高天原だという説もあるが

九州あたりに王朝があったのではないかとおもう。

ここから、逃げ出してうがやふきあえずは海流にのって、

宇波西神社にまつられることになった。

この地方には、

九州と同じ字をかく、日向という地名がある。

故郷をなつかしみものが同じ名前をつけたがるのは、世界にもある。

ニュージャージーとか、ニューヨーク(ヨークシャー地方から)

北海道の開拓においても、新広島(だったかな)とか、

歴史でもそれらしき符合がある。

神武天皇だったかな、

山口になるか、兵庫になるか、みはまというところで

船をつくらすために一月ほど滞在していたが、

ここに、耳川というのがある。

さきの宇波西神社のある地域のちかくに

みはま(まあ、ありふれたなまえではあるが)があり、

耳川というのもある。

まだ、ほかにもあるとおもうが・・・。

日向(若狭のほうは「ひるが」とよむ)にたどりついた

うがやふきあえずが、「日向」だとおもったか?

なつかしくおもったか・・。

そして、若狭湾の半島突端に

常神、途中に神子という地名がある。

ながれついて、道をたどったかと思う名前の先に

先にかいたシャクジー・・・塩坂越がある。

その名のとおり、山越えの道だったのだろう。

また、気比の名前にでてくる「気」

これは地名としてあまり聞かぬ字であるが、

うがやふきあえずの神社のある近くに

「気山」という土地がある。

うがやふきあえずのいるあたりをながめると、

神の「気」が山あたりにたちのぼっていたのかもしれない。

そう遠くない場所に

「気」があり、「気」が比べられるという奇妙な配列。

そして、宇波西神社では、海幸彦と山幸彦の争いを

模したかのような神事がある。

豊作祈願、豊漁祈願。あるいは吉凶占いか?

海側の人間と土地側の人間で

この神を転ばせたほうが、豊作(豊漁)になるという。

(どちらかが、まもっていて、転ばなければ護っていた側が豊かになるだったかもしれない/転ばせれば、転ばした側が豊か)

そして、この神事が「王の舞」とよばれている。

王がいるのであれば、そこは王朝か、王国だろう。

この名前からしても、うがやふきあえずが

うがやふきあえず王朝から逃げ延びてきたかのように思える。

もしも、そうであるのなら、

うがやふきあえずもにぎはやひと宇気比をするのではないのだろうか?

千木から・・(千木・・1)

先日からメインブログをもとにもどし、記事を編集している間にいくつか、

気になることがあった。

歴史関連のお話。

相変わらず、生齧りのままで、故障した年代測定装置を尺度にして

かんがえるものだから、荒唐無稽あるいは、でまかせ・でたらめ発想で、

人様からの信用をなくすに役だつ記事しかかいていないんだけどね。

アクセス解析をたぐっていくとまた、?って記事に遭遇するわけで、

今日はそのお話。

憂生が常々、歴史を齧ってみるのなかで、神社の様相で

国津神か、天津神かわかるという言い方をしているが、

その様相の違いをきちんと書かなかった。

その違いたるや、実に単純である。

形態にもよるが、(この部分はまだ取り調べ中)神社の屋根の多くに

角のような、剣を交わせたような、千木というものが施されている。

(でこの千木がのってない拝殿のつくりかたについては、もうすこし、時代が古いのではないかと考えていて、多く、「神宮」とよばれるところのものが、千木のない拝殿をゆうしているように思えるのだが、ここら辺を今のんびりと取調べ中)

で、その千木の様式の違いで、国津神か、天津神かわかる。下にその千木が違う拝殿が並んでる写真を貼り付ける。

美穂崎神社なのであるが、千木の天辺部分が垂直方向になっているのと

水平方向になっているのがわかる。

よって、右側が国津神(地方豪族)

左側が天津神ということになる。

で、この千木の方向のいわれは、天を支える如く、受ける如く

水平にむいているのが、天。

垂直になっている、横をおすような横からの力をさえぎるような形が

他の地方豪族とかへの威圧とか、横向きへの勢力に対してのまあ・・壁というかラインというか・・・。

そういうことで、天津神を祭っているところが、水平の千木で、

有名なところでは伊勢神宮で、伊勢神宮しかしらなかった憂生は

この美穂崎神社の天津神の様相に驚いてしまったわけだ。

他にこの天津神の様相の千木を掲げている拝殿をご存知の方がいらっしゃったら

ぜひとも、お知らせ願いたい。

話を戻して、一方、国津神としての代表格ともいえる出雲大社の千木は

国津神の様相になっているんだけど・・・・・。


さて、ここで、少し、疑問が起きる。

神社においての菊の紋があれば、天津神ではないか?と思い込んでいたわけだが、

どうやら、大和朝廷・・・関連が国津神のやしろであろうが、なんであろうが、

菊の紋をはりつけて(表現が悪いが)一種,陣地取りのように、

名だたる神社を菊紋にかえていき、

SHIGさんがおっしゃっていたことからだけど、菊の紋が入ってる神社は

祀り変えがあったと考えても差し支えないんじゃないか?

って、ことになるわけだ。

そうなると、この千木の相違はいつごろから発祥してきたかにより、

問題が大きくなってくる。

仮にその発想から、出雲大社はもしかすると、元々、千木を天津神のものとしてたてられていたものかもしれない。

つまり、大和の本当の系統・天津神は出雲族だったかもしれない。

そして、最初に立てられていた出雲大社は天津神の社そのままに

天に届く社で、千木もひょっとすると水平のものだったかもしれない。

この出雲大社を壊し、千木を垂直の物に替えたのが今の出雲大社で

伊勢神宮はひょっとすると、千木の倣いにしたがって、

後に「我こそは天津神なり」と、立てたものかもしれない。

こういう風に考えるためには、伊勢神宮の建立時期や

他の神社に天津神の千木があるか。

などをもっとしらべていかなければならないなと思っていたところだった。

で、やっと、話が元に戻るわけだけど

そこに千木についてのある記事にいきあたってしまったところで、

憂生のなかが、またもまとまらなくなってしまったのだ。

長くなったので、別スレッドに変える。

mihojinnjya

千木について・・・(千木・・2)

さて、続き。

千木であるが、前述のところで、千木の形態によって、天津神か、国津神かという分類があるという話を書いた。

この形態の発祥がいつごろからのものか、それが、よくわかってないので、

元々、「長」のものが水平の千木であるのなら、あえて、伊勢神宮は水平の千木にしたと考えられる。

天をうける格好というのは、いかにも、「長」の象徴に思うのである。

巫(かんなぎ)としての特殊能力をもったものが、古代部族の実質の長であるともいえるし、

シャーマンなどの存在が政(まつりごと)にとってかかせない存在であったろう。

こういう意味合いで天を受ける正当な存在として、伊勢神宮の千木が水平であったことは当然の考えなのであろう。


それで、千木のことを考えながらネットを飛ぶこと暫時。

すると、

千木は東南アジア各地に見られる聖なるシンボルである・・・。

の一文が飛び込んできた。

東南アジア・・・か。

憂生はこの間も書いたように、ポリネシアの神、ワケアが日本に来た。

それが、和歌山だ、なんてことが頭によぎっていて、

当然環太平洋側の慣習が日本にも伝来し、日本の環状列石なども

この名残であり・・・と思っていたから、

千木もポリネシアか?環太平洋側か?と、期待していた。

東南アジア・・タイか・・・。

とは、いうものの、今度はキリストがエジプトにいたって話がかぶる。

スリランカからエジプトに仏教徒が3000人・・・。

キリストはここで仏教を学んだのではないか?

と、まあ、これは、歴史を齧ってみるのカテゴリーでみてもらうとして・・・。

同時にピラミッドもエジプト・スリランカ経由で日本にきたんじゃないか?

アンコールワットの作り方はピラミッドを模倣しているようにも見えるし・・。

日本のピラッミッド(富山。尖山)はとにかく、スリランカあたりを経由しているぞと。

太陽暦より太陰暦を重視せざるをえない日本の気候により、ピラミッドは発展しなかったぞ。と。

では、千木が東南アジアからやってきたとして、

問題の東南アジアの千木はどういう形態になってるんだろう?

すでに、ここからして、千木に水平、垂直があるんだろうか?

なにせ、東南アジアのことだ、調べようがないのだが・・・。

載せられている写真は、タイ北部のアカ族酋長の家の千木だったが・・・。

垂直のものだった・・・。

国津神(地方豪族)のものか・・・と思いつつ、

日本の感覚でいえば、神さんでもないものが、千木をつけるも妙であるが、

実際、アカ族の酋長なら、(地方豪族)でしかないだろう。

タイの神様なるものが、神話の神がなにになるのか?

ケツアルクアトロか?(さっぱり忘れている)

これらも、日本神話と類似点がおおいのだけど・・・。

もしも、タイの神殿が水平の千木をつかっていたとしたら、

スリランカから、タイをへて、という考えにのせて、

キリストの時代ころに、千木が日本にやってきたと考えることは出来る。

すると、先にかいたように、

出雲大社以前に「神」は水平の千木を使い、地方豪族は垂直の千木をつかっていたかもしれない。

と、なると、日本人の考え方の中にあるのが、天皇イコール現人神なのであるから、

天皇なるものが現れる以前、例えば、出雲族の長も現人神で

水平の千木を使っていたかもしれない。

故に出雲大社をぶっこわし、伊勢神宮に水平の千木をつかった。(大笑い)

と、なると、やはり、水平の千木を使う神社が他にないのか、きになるところであるが・・・・。

唯一、知るところの美穂崎神社であるが、これはどう考えればよいのだろうか?

実はことしろぬしのほうが、天津神で高天原族血筋といわれる美穂姫(だったかな?)のほうが、国津神だった?

右と左を入れ替えればすむことなので、そのままにしてあるのか?

国を譲らせた手前、それを壊すことができなかったとか・・・?

う~~~む。

なんて、また荒唐無稽にかんがえていたのですが、

さらにまだ・・・・。

そして、気になるロゴがあったので、いただいてきてしまったので、

それをちょっと、はりつけて、調べに行ってきます。

天神地祇

天地神明造

千木のルーツ・・(千木・・3)




千木のルーツを調べていこうと思った。

勝手に拝借しているので、非常にもうしわけないのだが、

まず、以下の千木についての、考察にうなってしまったのである。

★インドネシアで牛頭をそのまま取りつけているように本来、牛の頭を象ったものである★

当然、牛・・・ときて、ぴんと来るものは、

牛頭大王こと、スサノオのことである。

スサノオのことについては、鞆の沼名前神社のことを書いたときに

併せて、祇園社のことも、書いた。

この沼名前神社の横に祇園社をたてたことによって、

沼名前神社にスサノオが合祀されたのかもしれないとか、

祇園社の発祥源であることから、ぎゃくに

神宮皇后がおおわだつみに祀り変えたのではないか?

で、地元の有志がスサノオを起こすために祇園社を発動させた?


だから、ひょっとすると、元々祀られていたのはスサノオだったんじゃないか?

沼名前神社の前は「くま」と読む。

このことからも、前=祖であり

祖は隈・・九州地方の熊襲ではないかいなあああああと、

無茶なこじつけをして、話を終えた。

で、まずは、牛頭大王をしっかりしらべなおしてこようと・・・。

なんで、スサノオが牛頭大王になったのか?

はたまた、もともとの発祥はどこからだろう?と。

で、みつけたのが、

以下

★スサノオ(素戔鳴)を祭神とする八坂神社『祇園祭』の神輿行列には、スサノオが転生した『牛頭大王』、稲田比売命(いなだひめのみこ)が転生した『婆利女』が登場する。稲田比売とは櫛名田比売のことである。★

こんどは、『婆利女』がわからない。と、いうか、これが、ヒントだというもので、

調べてくればヒンズー教・・・。

どうも、中国仏教よりヒンズー教のほうが、先か?

インドからの交易ルートについても、キリストがエジプトにいた?という話で

スリランカに大規模な修行寺院?があったということも書いた。

インドからヒンズー教?

東南アジア、タイなどから千木?

その千木は牛の頭が元?

牛の頭・・・・。


なんで、牛の頭なんだ~~~~~?

さらにネットを徘徊・・・・。

見つけた。

★シュメール語で牛はウルと言います。そして牛頭信仰がアナトリアを起源に


世界中、四方に散っていった形跡が残ります。

牛の頭に対する信仰、「牛頭信仰」は、その後の人類の歴史の中に系譜が遡れます。

私達日本国のスサノオのミコトは牛頭大王という別名をもっていますし

牛頭天王というのが古代天竺(インド)に居て、釈尊の教国の僧坊である祇園精舎の

守護神だったといいます。

文明の流れは、アナトリアから北シリアを経てメソポタミア南部へ流れ

そして古代メソポタミアのウル人あるいはシュメール人が、インドを経て

東方へ移動した可能性が高いと考えられます。

メソポタミアのウル人はアッカドが滅びた時、サルゴン王に追従してインドに侵入し

月氏になりウラルトゥの連合隊に加わり、そしてサカ族となってウガヤ王朝の中心的存在になり、

日本に渡来して蘇我氏になったと考えられます。★


情報多すぎ!!

シュメール人については、語源だったかな(はや、うろおぼえ)

完璧に日本とダブっていたので、シュメール人からの継承があるとかんがえていたので、

ここにきて、シュメール人がでてきたのには、いささかびっくり。

つまり・・・牛頭大王は祇園精舎の守り神・・・。

と、いうことは、牛の頭をかざるというのは、守護の意味あいだろうね?

牛頭大王が、なぜ、スサノオになってしまうんだろう?

いや・・・もっと、いえば、千木は守護であり、スサノオも守護神であったから

千木イコールスサノオで

スサノオが牛頭大王に転身した?

もっと、こじつける。

もともと、スサノオが憂生いうところのウガヤ王朝の人間。

だから、権力者あるいは、聖なるものの象徴として

千木を使っていた。

で、大和朝廷がウガヤ王朝を滅ぼすとともに、権力の象徴である千木も

継承した。王冠の形が権力の象徴として継承されるように・・・

ウガヤ王朝が、上の記事にもでてきているが、文章から推察すると

うえの、ウガヤ王朝は、憂生いうところの九州、日向あたりにあったのではないかという

ウガヤフキアエズ王朝とは、別のものである。


そう考えると、水平の千木が伊勢神宮にしか見当たらず?

他にあるのをしらないだけだが・・・。

美穂崎神社に両方あるのも、唯一の権力者であった

出雲族のなごりであるともいえる。

そして、大和朝廷はウガヤ王朝、ウガヤ王であるスサノオを抹殺した。

出雲族もまた、大国主命な名前でわかるように

多くの国を支配するスサノオの統治下であったろう。

そして、出雲大社はもともと、スサノオがつくったものではなかろうか?

水平の千木をのせて・・・?

それを大和朝廷がわが国を譲ったかわりの約束でたてたとかきかえた?

では、天にも届くといわれた出雲大社はいつごろたてられたのか?

また、いつごろこわれてしまったのか?(こわされてしまったのか?)

そんなことをかんがえていたら、ウィキによると、

千木の形態は男神。女神の違いだと説かれていた。


あれ?


まあ、これも「一説」でしかないし、

いまだに、水平の千木のルーツがわからないんだけど、

天を受けるという発想からして、

その時の一種、巫である存在。天から定められた後継(統治者)と称される存在だけが

水平の千木をつかったのではないか?ともかんがえられるわけで、

どうにか、出雲族直系でない水平の千木を有する神社?神宮をさがしあてたいのだが・・・。

どうも、今、軍配は男神、女神にあがりかけてる。

かじったところが違ったかなと思いつつ、

もうすこし、千木と出雲大社(昔の)をしらべてこようと思っている。

美保神社(千木・・4)

三穂津姫命(みほつひめのみこと)は大國主神の御后(おきさき)神で、高天原から稲穂を持ち降り耕作を導き給うた農業及び子孫繁栄の守り神。事代主神(ことしろぬしのかみ)は大國主神の第一の御子神(みこがみ)で、「ゑびすさま」すなわち漁業・商業を始め広く生業の守護神として敬仰され、美保神社も全国各地にあるゑびす社3385社の総本社として、ことに水産・海運に携わる人々から広く敬い親しまれてきた。


三穂津姫命(みほつひめのみこと)は大國主神の御后(おきさき)神で、高天原から稲穂を持ち降り耕作を導き給うた農業及び子孫繁栄の守り神。事代主神(ことしろぬしのかみ)は大國主神の第一の御子神(みこがみ)で、「ゑびすさま」すなわち漁業・商業を始め広く生業の守護神として敬仰され、美保神社も全国各地にあるゑびす社3385社の総本社として、ことに水産・海運に携わる人々から広く敬い親しまれてきた。
古来、「ゑびすさまは鳴り物がお好き」との信仰があり、海上安全をはじめ諸処の祈願とともに、夥(おびただ)しい数の楽器が奉納され、その内846点が現在、国の重要有形民俗文化財に指定され、日本最古のアコーディオンや初代萩江露友(おぎえろゆう)が所有していた三味線など、名器、珍品もその中に含まれている。
当社の本殿は「美保造(みほづくり)」と称し、大社造(たいしゃづくり)の本殿を左右二棟並立させ、その間を装束の間でつなぎ、木階を覆う向拝(こうはい)を片流れに二棟通しでつけるという特殊な様式として、また屋根についても桧皮葺(ひはだぶき)の共皮蛇腹(ともがわじゃばら)で国の重要文化財に指定されている。
年間通じてさまざまなお祭りが執り行われるが、中でも12月3日の諸手船(もろたぶね)神事と、4月7日の青柴垣(あおふしがき)神事は、古伝祭としてあまねく知られている。

御祭神三穂津姫命(みほつひめのみこと)
高天原の高皇産霊神の御姫神、大國主神の御后神
事代主神(ことしろぬしのかみ)
須佐之男命の御子孫、大國主神の第一の御子神
御創建・開創神代
御利益
五穀豊穣 安産 海上安全 大漁満足 商売繁盛

大社造(たいしゃづくり)の 本殿を左右二棟並立させ、 その間を装束の間でつなぎ、 木階を覆う向拝(こうはい)を 片流れに二棟通しでつける という特殊な様式の、「美保 造(みほづくり)」の本殿
  

美保神社は全国各地にある「ゑびす様」の総本社で、多くの神事やお祭りが執り行われる。

代表的宝物
重要文化財 美保神社 本殿
重要有形民族文化財 美保神社奉納鳴物(ほうのうなりもの) 846点

主な行事
歳旦祭(さいたんさい)/元三祈願祭1/1 1/1~3
初ゑびす祭/月次祭  1/7 毎月7日
節分祭 2月節分 
例祭・青柴垣(あおふしがき)神事 4/7  
漁幸(ぎょこう)祭 4/13 
神迎(かみむかへ)神事 5/5
夏まゐり 6/1~30
虫探(おむしぼし)神事 8/7
新嘗祭(にいなめさい)・諸手船(もろたぶね)神事 12/3

 JR松江駅より約45分 米子空港より30分
 駐車場情報鳥居前に普通車なら数台
徒歩5分に30台の無料駐車場有り







千木について・・・(千木・・5)

千木が、天津神・国津神をあらわすのではないかと思って、

いろいろ、しらべていくうちに、

ウィキなどから、男神・女神をあらわすという説が浮上してきて、

いっそう、わけがわからなくなっていたのですが、

今回、日御碕神社をみて、納得したことがあります。


前回の記事で、国津神の様相を呈している方が

アマテラスで、

天津神の様相を呈しているほうが、

スサノオだったわけです。

通常の状態の逆に思えます。

天津神といわれているスサノオですが、高天原をでた時点で

どうも、国津神あつかいになってる。

そのスサノオが日御碕神社では、天津神になり、

アマテラスが国津神になっている。


そして、ウィキの男神、女神の象徴だという話のなかで、

伊勢神宮において、外宮あたりが、天津神でありながら、

国津神の様相になってるというところをよみながら、ふと、思っていたことがあったのです。


ですから、日御碕神社のスサノオが天津神の様相で、

アマテラスが、国津神の様相になってるとわかったとき、

もう、間違いなと思い(こみ)ました。

天津神の様相は「天をうける」まさに天を掴むという様相です。

伊勢神宮において、天を受けるのは、アマテラスだけでよいのでしょう。

あとの周りの神は、国津神・・外圧などへの攻防や周りを治めていく、

横にたいして、地に対して、主祭神を守護し、いわば、結界をはるような、そういう役目なのではないのかな?と?

こういうことをおぼろげに思っていた時に、日御碕神社をみつけたわけです。

夜の国を護る天命をうけたスサノオが日御碕においては、

主祭神になります。

ですから、あとから、きたアマテラスはスサノオが任務を遂行できるように、

補佐役、守護役にまわりますから、当然、結界のごとき、垂直の千木をおいます。


逆に、伊勢神宮において、昼の国を護る天命をうけたアマテラスが、

天の命をうけ、つかみとる千木をおいます。

まわりの神は守護に徹し、千木にて、結界を貼るがごときでしょう。


こう、考えると、天命をあたえられている神が水平の千木をおうのかもしれないともかんがえられます。


もうすこし、水平の千木をもつ神社をしらべてみたいですね。

この仮定に一事が万事あてはまるとはおもえませんが、

立てた側も(仮説ですが)こういう意図があるとしらずに、

男神、女神かという説で解釈されてるくらい、わかっていないことですから、

・・・単純に天津神だからと水平にしているかもしれません。

こういう場合も考えられるので、考査できるかどうかも実にあやふやですが、

もうすこし、しらべてみたいです。

ウィキから

下の本社(日沈の宮・日沉の宮、ひしずみのみや)は天暦2年(948年)、村上天皇勅命により祀り、上の本社(神の宮)は安寧天皇13年(紀元前536年)、勅命により祀られ、総称して日御碕大神宮とされた。出雲國神仏霊場20番。

「日沈の宮」の名前の由来は、創建の由緒が、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社、である事による。

下の本社/日沈の宮 天照大御神
此処の千木が垂直(国つ神の様そう)

上の本社/神の宮 神素盞嗚尊
此処の千木が水平(天つ神の様そう)


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パンフレットを掲載。(美保神社はかなり、重要・1)

ぱんふ1
ぱんふ2
ぱんふ3

天津神と国津神 (美保神社はかなり、重要・2)

社殿は二つの屋根が並んで、建立されている。
憂生が思うに、こういう建物は途中で建て替えをしても、基の形をそのまま、継承することだろう。
と、いうことは、高天原系統の天津神と地方豪族系統である国津神が並んで祭られているという事に成る。
天照大神達と国津神が同じように、祭られているということだけを考えると、出雲大社が有名であるが、これは、天照大神などが、オオクニヌシを見張るためというのが、通説で、実際、出雲大社はその様相からも、確かに国津神の建物であると分かる。
逆に国津神の神社であったものを、天津神にまつりかえているのが、俗に言う菊の紋がはいっている、社殿。
建物の様相を見れば、はじめから、天津神をまつるためにたてたものか、どうか、分かるのであるが、出雲大社は始から国津神を祭っていると考えられる。
一方、伊勢神宮。この建物の様相は天津神のものである。

ところが、この美穂崎神社は両方の神を祭っていると考えられる。
おおくにぬしは大国主ともかかれていて、「だいこく」さまということになるのだろう。
大黒天と称される、だいこくさまとは、字がちがうと納得したのであるが、この神社においては、どうも、恵比寿イコールオオクニヌシと受け取っているようである。
と、なると、恵比寿をまつるこの神社は出雲大社がそうであったように、国津神の拝殿であるべきだろう。
天津神方から、このあたりをおさめるようにといいわたされたとして、島流しの如くに片隅においやられたとするのなら、出雲大社の存在が妙である。
何故、二つの様相が並びあっているのか、少し、神社縁起を読み直してみることにする
mihojinnjya

鳥居に三の紋を発見?(美保神社はかなり、重要・3)

伊予の河野氏の紋と、記憶している。距離的にかかわりがあるとは思えないが、海路を手繰りたくも成る。村上水軍という存在がでてくるだけの航海術や造船術があったともかんがえると、瀬戸内海から日本海まで抜けたかも?

画像では、判別しにくいが、注連縄の下、六角形の銅版がみえる。その中に三の紋があった。

これが、後で行く神社の舟神事の船にも発見される。このことからしても、三の紋は「舟」をこぐ者に関連があると思える。

sannnomonn
また、鳥居の解説にもあるが、この美穂崎は北陸からひいてきた?

国引き神話がある国だから、あちこちから、ひいてきたに違いないだろうと、苦笑するものの、北陸・・・。

突然現れた継体天王。その出地は北陸。かなり発達した文明?文化?持っていたという北陸の民族の中から彗星の如く現れた?

一方、もうひとつの日御崎は朝鮮半島・・・。

スサノオが韃靼王国人だったという渡来説や高句麗あたりの王であったとか?

こういう説を思うと、国引きというのは、大人物の何らかの恩恵を差している気がしてくる。

継体天王の時代か、定かでは無いが、北陸の治水は九頭竜川に象徴される。

スサノオが風土のもつ、色んな障害/川の氾濫とか・・・/を治めたということを、ヤマタノオロチで、象徴するなら、北陸の文化圏はひとつ上行く九頭竜であったと解すと、この国引きの話から、何らかの文化?の交流点が出雲だったのではないかと思える。


sannnomonn

高天原系列と、皇室は、別区立てか?(美保神社はかなり、重要・4)

神社由緒をよんでみると、ますます、憂生の頭がこんがらがる。

まず、判断できることは、天津神として、まつられているのが、美穂津姫命。

高天原の高皇産霊命の姫神とある。

一方、事代主は神武から安寧までの三代の皇后を輩出するので、宮中八神に祭られているとあるが、こちらの位?は、オオクニヌシよろしく、国津神と、判断できる。

はて?

こうなってくると、大和朝廷が、掲げたが、ゆえ、?

高天原族は天津神として扱われたという事に成る。

で、スサノオ・・。結局、天津神としては、あつかわれていないと判断したくなる。

皇室に関与していて、神格に座したとて、事代主が、国津神に成るのは

やはり、高天原族の血をついでいないせいと成るが、

スサノオは高天原族とは、縁をきった、高天原族になる。

あえて、どちらの、剣交(けんがい)をそえるべきか、判断に苦しんだと思う。

結果、剣神社にけんがいがみあたらなかったか?

まあ、良い。

まだ、不思議なのが、美穂津姫命である。オオクニヌシの御妃神でありながら、なぜ、

息子?である。事代主と祭られなければ成らないのか?

出雲大社に一緒にまつられているのか、どうかは、定かでは無いが

別にされているなら、ますます、出雲大社はオオクニヌシを封じているという説を肯定させる。

呪・・あるいは、塞あるいは、封印。

こういう場所に天津神である、美穂津姫命をいっしょに祭るわけには行かない。

で、功労があった、事代主と拝殿を抱き合わせたか?

妙な気がする。

確かに神宮皇后をはじめ、なにかと女性の活躍が上げられるし、継体天王自体は血筋不明なれど、皇室の血をひく女性に婿入り婚ということで、天王を継承できる資格をつくったようであるが・・・。

オオクニヌシといういわば、下賎のものにとつぎ、オオクニヌシの下で国津神としてまつられるのは、おかしいということで、最初から美穂の土地に神社を作ったか?

とは、いうものの、夫君をたてずにおくわけにもいかず、両方の拝殿を作ったか?

事代主がまつられたのは、国譲りが有ってからのことだと思うのだが、

と、なると、本来はオオクニヌシといっしょにならんでいた?

ましてや、横並びは親子より、夫婦など横の関係を象徴する。

とは、言うものの縦ならびで、二つの拝殿があるところが、あるのだろうか?

そして、出雲大社にオオクニヌシをふうじこめるために、

本殿から仏教でいう性根抜きをして、出雲大社に移し変え、空になった本殿に事代主を添えた。

ありえんか?

そして、ニギハヤヒ。

この人物はににぎのみことと混同されやすいが、別人物で、諸説紛々である。

ヤマト一帯に納めていたという説もあるし、

天孫であり、神器をもっていたとか、

天の岩舟にのって、宇宙からやってきたという石神伝説も持ち

物部氏の祖であり、大物主の系列ともいわれれば、

オオクニヌシの兄弟だったとか・・・。

なぞの人物が此処に浮上する。

神宮皇后の遠征途中で鞆に寄ったという話は書いたと記憶するが、

ニギハヤヒは、伊予にも祭られている。

ヤマトを追われ、伊予におちのびても、なお、神宮皇后はにらみを聞かす。

にぎ田津という地名があったと思うが、実は、ニギハヤヒとかかわりがあるのでは無いかと思う。

諫早という地名はどこにでもあるが、風が速い、きついところをさす。

このニギハヤヒのはやひも「にぎ」という意味合いと地名がかかわってきているきがして、

どうも、ニギハヤヒは出雲に逃げた?のではないか?

そして、ヤマトを譲ったいきさつもあるので、無体なことをしでかさぬように、同道した・・とか?

ないか~~~~?

ニギハヤヒ発見(美保神社はかなり、重要・5)

スサノオを祭る神社として、剣神社が福井県の嶺南、織田に有ったことを思い出した。

随分、近い所にすんでいたことがあるというのに、ここには行ったことがなかったので、様相がわからないため、ホームページなどにとんでみたのが、きっかけだった。

神社の様相から、天津神として祭られているか、国津神として、祭られているか・・、判るかもしれないと思ったのである。

ところが、拝殿の様相が違い、判断材料が見当たらない。

気比神宮内の剣神社(覚え違いか・・・)も、やはり、この織田の剣神社の如くだったと記憶している。

ここで、ますます、迷路に入ったといってよい。

この剣神社の様式を考えたとき、なぜ、「けんがい」を作っていないのかという事である。

考えられることはふたつ。

1つは、「けんがい」の様式がはいってくるのは、もっと、後年である。

剣神社の建立がいつごろだったか、と、なると、これが、神宮皇后の頃。

うむむむ・・・。

もうひとつ、かんがえられるのが、建立したのが、誰か?

織田という名前でもわかるように、織田信長関係であり、実際、織田神社もあるようだが、

ひょっとして、織田氏が建立した?(再建・・)

皇族でないものが、奉ったため、「けんがい」を設置できなかった?

剣神社というくらいだし、武士っぽい。越前刀工との近さや、つるぎ・・敦賀・・と、気比神宮とのかかわりもあって、織田氏が?と、思ったが、出展によると、忍熊王。やはり神宮皇后の代である。

う~む。

てづまりになったので、あちこち、ジャンプし歩いた。

そこで、発見したのが、↓

記紀の国譲りの段に、大国主命が事代主命へ使者を出した船として「天鳩船(あめのはとぶね)」が登場します。これは「熊野諸手船(くまののもろたぶね)」とか、天鳥船(あめのとりふね)とも呼ばれ、卜部氏系の武甕槌命<(たけみかづちのみこと)や、物部氏や尾張氏系の伊福部氏の祖、饒速日尊<も乗っていたと伝えられます。
現在も、美保神社(島根県八束郡美保関・祭神:事代主命)では、勇壮な諸手船神事が行われています。「熊野」というのは「畏」で、「大きい」「畏れ敬うべき」という意味での「くま」でしょうが、熊野大社(島根県八束郡八雲村熊野・出雲国一宮)の祭神、神祖熊野櫛御気野命(かむろきくまぬのくしみけぬのみこと)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と言われていますし、美保の事代主命は、熊野の先導者である賀茂建角身命神の兄弟ですから、何か因縁を感じます。 ******

ぜんぜん、無関係のようであるが、憂生にとっては、重大発見。

まず、 美穂崎神社について、書こうとしたとき、三の紋についての不思議だといったときに、

伊予の河野氏があるいは、ニギハヤヒを天孫としてつれてきていたのではないか?

それが、天津神として、祭られているのでは無いか?

と、かなり、無茶なことを、書いた覚えがある。

ところが、上の出展によると、どういう位置にいたかは、さだかではないが、確かにニギハヤヒがこの土地に居たという事に成る。

さて、改めて、由緒のほうを、検討してみよう。


幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)であるならば・・(美保神社はかなり、重要・6)

いつも、不思議に想うのは、あちこちの神社にスサノオが祭られている事が多いということだ。

確か、気比神宮にも、スサノオは祭られていたと記憶する。

そして、此処も菊の紋をかざしている。

ポニュで有名に成った鞆にある沼名前神社も菊の紋が入っていたと記憶するし、

スサノオが祭られたのがいつごろか定かではないが、此処もやはりスサノオ。

ちょっと、待った~~~~。

憂生の頭の中、ごちゃごちゃじゃんか。

出雲大社にいたっては、オオクニヌシはスサノオの子孫に当たるとされている。

そして、スサノオは高天原追放というとおかしいが、天津神とは、微妙に系統が違い

出雲族という感覚をうける。

それが、何故、菊の紋のあるところにスサノオが祭られるのだろうか?

いや、逆を言えばオオクニヌシが国津神ならば、スサノオも当然、国津神(地方豪族)と

分類されてもおかしくない。

当然、スサノオのいろいろな業績・功績があって、のちに菊の紋の社殿に一緒に祭られるようになったんだとは想う。

想うが、それでも、ならば、何故天照大神が、1位で祭られないのか?

そこで、どうしても、前に書いた、スサノオの文字を解釈した話を思い出す。

文字のもつ意味合いからすさとは、物事を清める。さにわにも通じる。

スサノオのオ・緒はへその緒というように、由緒というように、元々、原初、こもと、簡単に言えば魂。

この魂や諸々の行い思いを清める、さにわする・・・。

これは、簡単に言えば閻魔大王ではないか?

高天原で根の国をおさめよとスサノオはいわれたと記憶するが/間違い?

之は、逆を言えばスサノオの持っていたスサの力をみこしてのことではないか?

と、成ったときに以下の出展が符号する。

「だいこくさま」、すなわち大国主大神さまは、幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)とも称されます。幽冥(かくりよ)とは、神の世界のことで、人々の亡くなった後の霊魂が帰る世界でもあります。この幽冥は我々の世界からは見ることのできない世界でありますが、大国主大神は、幽冥主宰大神として、この幽冥をおさめられ、人々の霊魂をもおさめられる神さまです。

スサノオが閻魔大王(的存在)であるならば、子孫であるオオクニヌシがかくあるのも当たり前と取れる。

そして、こう考えれば、あちこちにスサノオがまつられるのも分からないでもない。

魂を清め、さにわする神をおろそかに出来ない。

清廉潔白で有ればこそ、逆にスサノオを祭れるとも。

さらに精神面的論理で言えば、ヤマタノオロチというのも、人間の八つの欲を象徴するとも考えられる。

そして、出雲大社を建てた、裏側もそういうことだろう。

スサノオの直系のたたりをおそれて。。と。

まあ、相変わらず、荒唐無稽なことを考えているんだけど、

やはり、なぜ、のちのちになってから、スサノオを祭るか。

スサノオははたして、国津神としてあつかわれているのか?

はたまた、天津神であるのか?

ひょっとして?

このように迷った人が、美穂崎神社の社殿を両方の様相にした?

神社縁起をよむまえにまた迷路めぐりをしてしまったよ。

1.ことしろぬし(美保神社はかなり、重要・7)

今日は米子に行ってきた。

灯台まで足を伸ばしたとき、妙なものに遭遇した。

ことしろぬしを祭る鳥居。

どうも、海からことしろぬしがあがってきたと・・・いうのだけど。

それが、丁度5月5日に神事があるとのことで、灯台へくる途中みかけた神社に引き返した。

どうも、神迎えは夜中とのことであきらめたのだが、妙なことが、やはりここにもあった。

まず、灯台のうしろの鳥居には三の紋が掘り込まれている。

神社の舟神事の舟にも、三の紋。

三の紋で有名なのは、伊予の豪族、河野氏である。

なぜ?ここに河野氏の紋が刻み込まれているのか?

そして、神社には、二つの拝殿が抱き合わせ状態で、建立されていたのだが、

これが、国津神と天津神の様相になっている。

ことしろぬし。

これを、この神社の解釈によると、まさしく、恵比寿さまなのだが・・・。

このあたりが、いろいろ複雑なのだが、

恵比寿イコールおおくにぬしという考え方をする場合もある。

ところが、因幡の白兎を引っ張り出してくると

♪おおきな袋を肩にのせ?大黒様はひとかつぎ・・・♪。

大黒イコールおおくにぬしに成ってくる。

出雲の神話が伯耆の国とちがってしまうのは、あたりまえだと思うが、

ところが、前述の鳥居のある、岬のすぐ、向こう側は島根になっているし、

三保崎神社と対峙するかのように島根側の岬が確か、日御碕。

そこにあるのは、スサノオを祭る神社。

そして、おおくにぬしの正体について、紛々たる仮説が多い。

オオクニヌシすなわちスサノオだという説。

スサノオの子供がオオクニヌシ。

こうなってくると、オオクニヌシ=スサノオ=恵比寿=大黒

・・・・・おい?

そして、此処で、又も浮上するのが、ニギハヤヒ。

このニギハヤヒも先の=軍団に入ってくる人物であるが

伊予にて祭られているニギハヤヒが気に架かる。

そう・・・河野氏の紋章とこじつけたくなるのである。


2.ことしろぬし(美保神社はかなり、重要・8)

神社のことを考える。

いつか、沼名前神社のことをかいたが、

この祭神がおおわだつみとスサノオでありながら、

建物の様相は国津神のつくりになっていた。

と。

神功皇后が立ち寄ったときに、祭神を祭りかえたのだと、推測した。

実際菊の紋がかざられていたし。

ところが、三保崎神社はふたつの様相が抱き合わせに成っている。

ことしろぬし/恵比寿/あるいは、スサノオ/を天津神とするのなら?

国津神はだれであったのか?

結局、正体を封じ込められているニギハヤヒではないのか?

むしろ、ニギハヤヒの正式名称から、考えても、天津神はニギハヤヒのほうで、

沼名前神社、気比神社など他のことから考えても、スサノオは、国津神神社に祭りかえられてる場合がある。

河野氏が三保崎の岬からお連れ申したのが、ニギハヤヒで史記の中にも、

天孫の明かしなるものをもっていたのが、ニギハヤヒである。

当然、天津神として祭られる。

そして、出雲大社。これが、オオクニヌシの国譲りの象徴であるが、

当然、国津神、地方豪族という事に成る。

それを平行移動すると、三保崎神社の国津神も恵比寿/オオクニヌシといえる。

そういう風に考えれば、三の紋も天津神と国津神のだきあわせも分かる。

ヤマト朝廷が出雲大社を容認したことから、考えても、

三保崎神社は表立って、恵比寿をまえに出すしかなかったのでは無いだろうか?

ニギハヤヒの存在はことごとく、抹消され、ましてや、天日嗣の皇子だったとされる、

ニギハヤヒを祭ることは、大和朝廷にそむくことに成る。

大和朝廷のごたごたが収まらない時代にニギハヤヒの存在を隠したのでは無いか?

実際、ニギハヤヒの神社はいくつか、残っているが、これら多くは、

カゴメ文様の封印や注連縄の逆張りで、むしろ、ニギハヤヒを封印するために

つまり、出雲大社と同じ考え方で、作られている。

何故、ことしろぬしの方が表立って祭られるようになったのか?

スサノオイコール恵比寿であるという考え方が一派にあるが、この恵比寿は、もっと、最初、

国産みのときに、うまれでた、蛭子の恵比寿イコールスサノオでは無いかという説である。

こう考えると、間違いなく高天原族の天津神としての子孫としてのことしろぬしが出来上がってくる。

だが、大和朝廷の傘下になったスサノオ系は国津神として、扱うことも出来る。

ヤマト朝廷はスサノオ系の天津神と国津神という二つの顔を上手に使い分け

スサノオという天津神も高天原系に従属させることで、その威光を示したか?

まだまだ、断片的な物思いでしかないが、

どこか、糸口がつかめないかと、こじつけてみた。


3.ことしろぬし(美保神社はかなり、重要・9)

この前、ちょっと、かいていた三保神社のコトシロヌシへの疑問ですが・・・。

神社の形態をみると、天津神と国津神が合祀されている形をそのまま、表面化していると・・いうことで、はたして、コトシロヌシと三保崎姫(ミホススミ)が祭神としてまつられており、そのまま、しんじるとすれば、はたして、どちらが、国津神でどちらが、天津神か?

あるいは、べつの祭神があり、ぬりかえられたか?

などと、書いたことがあると思う。

で、実際問題地名の発祥などを、考えても、ミホススミのほうが元下まつられていたわけで、

コトシロヌシはオオクニヌシとミホススミの子供であり、父系の血筋からかんがえても、コトシロヌシ、こちらが、国津神になろうと思っていた。

一方、ミホススミの父系は天津神・・高天原系統に属したと記憶する。

だから、ミホススミが天津神か?

と・・・・。

で、ちょっと、文献を見つけた。

コトシロヌシが祭られたのは、江戸時代になってからである。と、いう説である。

ちょっと、話が横飛びするが三保崎から国をひいて、新羅と北陸の土地を引いてきたという話がある。

北陸の文化、技術はかなり卓越したものがあった。

そこに継体天王が出現していて、出雲と北陸の間になんらかの文化交流があったのでは無いかという話も書いたと思うが・・・。

この国引きの神話?を裏づけするかのごとく浮上してきたのが、またもミホススミなのである。ミホススミは能登の珠州神社の祭神でもあった・・ミホススミは北陸。越。出雲。と、かなり広範囲で信仰されていたのだが、国引き神話(出雲風土記?)をかんがえると、北陸にいたミホススミを出雲に引っ張ってきたという事に成る。

と、なると、ミホススミが先に三保神社に祭られたとかんがえられるのだが・・・。

一方で、新羅を引っ張った(新羅の時代ではないかもしれない・・)と、いうことだが、

この国にスサノオがおりたっているという話があるわけで・・・。

また、能登のミホススミにしろ、北陸あたりは、新羅などからの漂流神?を祭る神社が多い。

ウガヤフキアエズについても、ちょろりとかいたが、これも、漂着?漂流?してきた神として、若狭地方に祭られている。

さて?

北陸地方にある、九頭竜川という名前。

やまたのおろちの上いく頭の数であるが、おろちを退治したのが、スサノオであるわけだが、

新羅から渡ってきたスサノオの仕業?のとに、すさのおの功績をたたえている?

九頭竜川の治水において、やまたのおろちよりてこずったと・・。

こうかんがえると、三保崎からひっぱったものは、スサノオ?

そして、ミホススミ・・・・。

スセリ姫というスサノオの娘を妻に戴いてるオオクニヌシは、まさか、スサノオの目と鼻の先で

スセリ姫の目の前で、三保崎神社にミホススミと祭られるわけには行かない。

いや?あるいは、ともにまつったのかもしれないが・・・、

途中からコトシロヌシに変更した?

どうかんがえても建物の構造を途中から変えるとは思えない。

規模などという外見上の大きさはべつとして・・、

二つの様相をもつ神社。

そこにまつられた神の正体、特に国津神・・・だれだったのだろうか?


天という概念  1

ここまで、大国主命の怨念をふさぎこんでおいて・・・。


である。

なぜ、天にも届く社を建立するか。


***


天という観念への理解がないと、歴史を理解しにくいと言うことを書いた。


どこまで、それが当てはまるか?


神話の元、発生から、すでに、そこに、「天」がある。


人格化されたものが天御中主であろう。


そして高御産巣日神・神御産日神があるが、


この三神が高天原にあらわれる。


これを追うように、うましあしかび・あめのとこたちがあらわれ、

別天津神と分類される。


続いて、生まれたのが(ウィキから・・・)


国之常立神と豊雲野神もまた性別はなく、またこれ以降神話には登場しない。
これに引き続いて、五組十柱の神々が生まれた。五組の神々は、それぞれ男女の対の神々であり、下のリストでは、左側が男性神、右側が女性神となっている。

  • 宇比地邇神 (うひぢにのかみ) 、須比智邇神 (すひぢにのかみ)
  • 角杙神 (つのぐひのかみ) 、活杙神 (いくぐひのかみ)
  • 意富斗能地神 (おほとのじのかみ) 、大斗乃弁神 (おほとのべのかみ)
  • 於母陀流神 (おもだるのかみ) 、阿夜訶志古泥神 (あやかしこねのかみ)
  • 伊邪那岐神 (いざなぎのかみ) 、伊邪那美神 (いざなみのかみ)

以上の七組十二柱の神々を総称して神世七代 (かみのよななよ)という。


いざなぎ・いざなみがやっと、ここででてくるわけであるが。


これらは、どこから、生まれたのであるか?


こののちは多く、神々の交わりにより、子孫がでてくるわけであるが、

それまでは、沸いて出てきているかのような、表現だと思う。


古事記にしろ、日本書紀にしろ、大和朝廷の都合の良い、系図と言われている。

だが、上にかいた神代のことまで、変えるわけにはいかない。


ここまでは、伝承の通りで、

神を湧き出させる「天」という存在がある。


さて、ちょっと、考え直してくる。




天という概念  2

皆既日食は・・のスレッドの中で、皆既日食を上手に利用した巫・巫女が

天照とされたのではないか?と、かいた。

あるいは、神話を逆利用して、天照に神格化された。


以後は大和朝廷の始祖である、天照の行いをますます神格化する。


こういう構造だとして・・・。


その、そも最初にやはり、「天」を意識しないと解かりにくいことがある。


皆既日食を利用したぐらいで、神格化されたり、大和朝廷の始祖たりえるか?


おそらく、まだまだ、わずかな、勢力でしかなかった、大和朝廷のそのリーダーが、

皆既日食を利用する。


皆既日食は「天」が怒っている姿だろう。


そして、リーダーが現れると、皆既日食が終わる。


「天」の怒りを静める。あるいは、天を動かす?天と意志が通じる?


人々がもつ「天」への意識を考えれば、このリーダー?は神になる。


巫・巫女ではなく、神になる。



各地に古事記・日本書紀ににたものがある。


風土記というべきかも知れない。


そこには、別の統治者がいて、別の神話がある。



日本書紀や古事記はあくまでも、大和朝廷寄りのものでしかない。


実際、国産みの話など・・

中朝事実、という。


天皇家(中レ朝)の事実(ことざね?)なのである。


日本各地にある、風土記や伝承を調べて、引き比べないとわからないが、

どうも、天照あたりから、大和朝廷が我田引水?していったように思う。


だが、元々をいえば、

大和朝廷の発動は皆既日食をきっかけにして、

人民を掌握していったと思う。


人民を掌握できたのも、

人民の心に「天」という観念があったからに他ならない。

天という概念  3

歴史の中で不思議な事実はいっぱいある。


その中でも、出雲大社である。

近年の発掘により、天高くそびえるがごとく出雲大社が

実在したと証明されているが・・。


この、天高くそびえるがごとく出雲大社が、

不思議なのである。


出雲退社は大国主命の怨念を封じ込めるために

立てられたと言う。


死人の着物を左右にするかのような、

左右を逆にした注連縄。

拍手をうつに、4拍手。

死んでいることを大国主命に知ら示すための

死拍手であるともいわれるし、

大国主命の祭祀の位置。

参拝の客が拝むのは大国主命ではない。

うえに、記憶違いだったかもしれないが、

大国主命は西を向く。

西方浄土の思想がはいりこみ、のちに、

方向を変えられたかもしれないが、

とにかく死国を目指せとばかり、

その方向を向いている。

周りには祟りを許さぬぞとばかりに見張り、あるいは、お札のごとく、

5神がたつ。


ここまで、大国主命の怨念をふさぎこんでおいて・・・。

である。


なぜ、天にも届く社を建立するか。


大国主命の国譲りの交換条件だったから・・・。


これは、いかにも、嘘くさい。


だいいち、そんな交換条件を鵜呑みにする必要がない。

だから、そんな交換条件をわざわざ、公開するのもおかしい。

だいいち、大和朝廷側をみれば、そんな「畏敬」のこもる建物をたててやることが

理屈にあわない。

大和朝廷側の権力をみせつけるほうが先だろう?


つぶしてしまった大国主命の権力を象徴させるがごとき、社を作ろうとする考えがわからない。


だが、


むしろ、もっと、深い理由がある気がする。


やむを得ず、社を建てなければいけない。


すると、言い訳、ごまかしが必要になる。


「大国主命との約束を守った、義に厚い大和朝廷」


これで、正義がなりたち、大国主命は大和朝廷の傘下にはいる。


怨念をふうじこめてもなお、なおかつ、

ごまかしをしてまで、天に届くかのような社を建立するわけとは、なんだろう?


そこに、「天」という観念を当てはめてみる。


あくまでも、あてはめなので、いくつかの考えが浮かぶ。


ひとつは、「天」の不在である。


社のなかには、別天津神が見張りをしている。


だが、「天」そのものに、見張ってもらわなければならない。


それほど、天の見張りが必要なほど、大国主命の怨念がすさまじい。


と、考える。


なぜ、すさまじいとなるかについては、あとまわし。


だから、五神を配置しても、注連縄、4拍手などいろいろ、対策を嵩じていても、


大国主命がいつ発動するかわからない。


そのために天の力を借りようとした。


そのままを言うと、

大和朝廷は大国主命をそこまでふうじこめなければいけない程の

「何かを」しでかしたことがばれてしまう。


だから、約束したから・・というカバーをつける。


では、

「何を」しでかしたか・・・・。

天という概念  4

誰の説だったろうか・・・。

祟りの根本はいかに惨殺されたかではなく、

いかに祀られなかったかであるという。


それも、特に子々孫々からの祀りの無いがひどい。


と、いう。


霊的物事の捉え方の云々はこのさい、横に置く。


だが、実際、霊能力者のなんちゃか番組をみていても、

「ご先祖の墓に参ってね」

「仏壇に、手を合わせて・ご先祖様を・・」

なぞという言葉が出てくる。


供養されていないと浮かばれない。


と、いうのだが・・・。


逆も成り立つ。


浮かばれてないと祟る。



大国主命の怨念。


祀らないと祟る。


だから、祀る。


は、解かる。


だが、なぜ、社をたててまで、祀るか・・・。


祟るのは、「惨殺されたからではない。祀られないからである」

そうならば、

何をしでかしたかを考える必要が無い。


祀られない。を、防ぐ。


ところが、祀る・・を考えると、

通常、祀るのは子々孫々・・など、本人の血筋であるべきである。


で、無ければ縁者だ。


だが、この子々孫々も追いやってる。


いきおい、大和朝廷側が祀る。


ところが、先に書いた、「惨殺されたからではない」はその説を唱えた人の考えで

大和朝廷側はそんなことをかんがえられただろうか?


通常の惨殺なら良い。(よくないけど・・)


祀る側と、祭られる側に縁籍関係fがある。


だが、

祀る側が、惨殺した人間である。


解かりやすく言おう。


大国主命は、(兄弟)縁者に殺され、墓を作ってもらった。


祀らないと祟るかもしれない血筋だということだけでなく、

祀っても、祟る。


大国主命をして祀られる羽目におとしいれたものが、

祀れば、どうなるか。


大和朝廷側はこの血の仕組み、縁者を恐れたにちがいない。


祀るだけでは、浄化しない。


ましてや、大国主命の本意でないとしても、

「怨念」というものは、

元の持ち主のいうことなどきかず、暴走する。


怨念をかぶりやすいのは、血筋であろう。


そのうえに、憎き仇が祀るのである。


いやがおうでも、「怨念」「たたり」をもらう。


これを恐れた。


だから、天をひっぱりだしてくるしかなかった。


では、大国主命と大和朝廷の血のえにし・・とは?

天という概念  5

大和朝廷側と大国主命のえにし。


これは、いわずもがなであろう。


スサノオの娘スセリ姫が大国主命の妻である。


天照の弟がスサノオであるなら、

大国主命は、義理の甥になってくる。


この血のえにしから、当然、天照への「祟り」が開く。


だから、恐れ、天つく社を作った。


なにか・・・、それでも、いまいち、納得できない。


入り婿にすぎないからこそ、惨殺できたのではないか?


そんな相手の祟りを恐れ、天に見張らせる必要はない。


もう一度、ネットにもぐりこむ。


お?


これか?


「スサノオと大国主命は同一人物である」


その説を信じたくはなる。


出雲大社に封じ込められているのがスサノオであるのなら、

しごく、納得がいく。


天照の弟である、スサノオなら血のえにしも濃い。

ましてや、

高天原族の第一血統である。

神は神でも、天津神である。


神殺しをおこなった天照側は、彼より上の位の神を並べ立てなければ

封印できないと考えるだろう。


そう、考えれば5神の位の高さもつりあってくる。


そして、それで、封印できない心配がある。


彼、スサノオは高天原で大暴れした(ことになっている・・・)

5神をものともせぬ、スサノオであるかもしれない。


だから、天つく社をたてて、天に見張らせた。


ひょっとして、

「出雲大社に祀られているのは、スサノオ」

そして、

大国主命は大国主命で、実在した。


そこで、美穂崎神社のなぞがとける気がする。


美穂崎神社は母子で祭られている。

嫉妬深いすせり姫の目をごまかすためかと思ったが

そうではなさそうだ。

美穂崎神社の名前失念・・大国主命の后である、彼女が

なぜ、夫とともにまつられていないのか?


スサノオを祀った出雲大社に大国主命が祀られていると、

カバーされたからだ。


しかたがないので、ことしろぬしが、美穂崎神社の

大国主命のカバーになる。


実際、その土地あたりで、ことしろぬしと大国主命が同じようによばれていて、

いっしゅん、訳がわからなくなった。


それも、このカバー(めくらまし)のせいだと思うと

納得がいく。

天という概念  6


歴史を紐解くに「天」という観念を尺にしないと見えてこないところがある。

と、言うことで

出雲大社を引っ張り出してきたんだけど。

もちろん、なにもかもが、「天」という尺で割り切れるとは思っていない。


ただ、考古学にしろ、民俗学にしろ、

見えにくいのが、「心理」「意識」「観念」だと思う。

たとえば西洋の童話?と日本の童話。

西洋の童話は悪者をこてんぱてんにやっつけるし、それを「良し」とする。

狼が出てくる有名な童話がいくつかあるが、日本に紹介されたとき

「良し」の部分が切り捨てられている。

日本人の感覚には受け入れがたいものがあった。


7匹の仔ヤギなどもそうだが、狼の腹に石をつめて、

水を飲みに行った狼が溺れ死ぬ。

すると、みんなで輪になって喜び踊る。

「や~~い。や~~い。狼死んだ~~~~♪」

と、唄もあったと思う。


ところが、日本の感覚でいくと、

6匹の仔ヤギが無事だったんだから

石をいれるという部分で、なにか、「やりすぎ」を感じる。


だまされる自分たちの「甘さ」みたいな部分について、

なんの反省も見られない。


ところが、日本の童話は

相手が反省すれば、許す。

やっつける。ではなく、

懲らしめる。

のである。


なぜか?


それは、先に書いた

自分側の「甘さ」を省みるせいではないだろうか?

もしくは、「やりすぎ」を行う心を省みるせいではないだろうか?


なぜ、「甘さ」や「やりすぎ」を省みるか?


ひょっとして、此処にも

「天」がいるのではないか?


天知る・・地知る・・己知る

と、いうくらい、

天はすべてを見通す存在である。

行動を見通すだけでなく

心の在り様まで見通す。


だから、いまだに

人事を尽くし天命を待つ

とか

誠の思いは天に通じる

とか


逆からみれば、

どこまで、

清廉潔白・・ちゃうな・・

まあ・・いい。

どこまでも、天に見られて良い自分であろうと考えたと思う。


と、なると、

自分を自分で尋ねあわせる。

「おまえのほうに落ち度は無いか?

それを棚にあげて、狼ばかりのせいにしてないか?

自分がもっと、しっかりしてたら、

狼が殺人・・殺羊をせずにすんだかもしれない。

狼に罪を犯させたのは自分にも原因がある。

で、あるのに、

殺してしまうというのは、自分の個人的なうらみに走りすぎている。

ましてや、仔ヤギは助け出したじゃないか。

それを、いきなりの制裁は分をこえてないか?

なんどか、忠告してそれでも、改心しないのならまだしも。

そして、

そういう努力をせずに、殺してあげく、大喜びする。

ありえん」


こういう風にどこかで、いつも、天を意識していたんじゃないか?


そして、その天から見て、あるべき姿の中に

「和」の心が入っていることに気がつく。



憂生は「和」の心を最初にもったのは、

実はスサノオではないかと思っている。


スサノオに「和」の心があったのと思うのは

スサノオが「天」の下にたった人間だからだと思う。


天。いいかえれば、高天原さえ生み出した「宇」であるが、

安泰の地である高天原を出たとき、

スサノオは「天」を意識した。


そこで、初めて、天を意識した存在がスサノオであるなら、

先に書いたように、天から見られている自分強く意識しただろう。


そこから、当然、

「和」の思いが出てくる。


だから、「和」の観念はスサノオから始まったと考えている。


聖徳太子の物語をこのテーマの最初の頃に、ちこりとかいた。


聖徳太子はスサノオや大国主命(先の話によると、同じ人物であるが)の処し方からも、

「和」をまなんだ。

そして、

「和」の考えを持たなければ、自分を律しきれない憤怒?があったとも思う。


自分を律したことにより、

いっそう、「和」があれば、なにもかも「和」になる。

太子が必要性にかられ、「和」を唱える仏教定義を取り入れる気になった。


それが、いつのまにか、

仏教から「和」を学んだとか、

聖徳太子の独自の考え方だといわれるようになったみたいだが

元々は

スサノオではないかと思う。

天という概念  7


スクナヒコが、稲作文化を持ち込んできたのではないか?


って、文献?を読んでいた。


これ、憂生のこの間の逆の理論だよな。


ピラミッドのルーツが日本にあるとか、

縄文以前の須恵器の存在などを考えても

スリランカに稲作が伝わり、スリランカを経由して

エジプトへ、仏教やピラミッドが伝わった。


のではないか?


と・・・。


だが、稲作やピラミッドの起源が日本にあったとしても、

仏教が日本から伝わる?


確かに九鬼文書だったか?

キリストが日本にきて、古神道・密教をまなんでいったというのが、

仮に本当だとするなら

稲作もピラミッドも仏教も日本が起源だと考えられる。


だが・・。


日本に仏教や、密教や古神道がいつ、発生したのだ?


キリストが学んでいったというのが事実なら

1世紀頃に、すでに、なんらかの経典?教義?が確立していたと考えられる。


ところが、仏教が日本にはっきり、あると、認識されるのは

法隆寺などの存在で・・これは、5世紀くらい?

大化の改新が645年。

それ以前に法隆寺の建立があった。


寺まで立てられるようになるころには、

教義はもっと、確立していただろう。


確立していくに要する時間を、100~200年としても

3世紀頃には、教義があり、

一部の人間?部族?には、経典が確立していた。


と、考えると、もっと、早めに、それこそ、

古神道はあった。


その古神道がすでに、「和」などに代表される

教え、意識をもっていた。


いわば、キリスト教にしろ、

なんちゃら教にしろ、いつのまにか、

分派していくように、唐からの仏教に影響された。


何故か?


日本は口伝の国だから。

文字に変える事が出来る人間は

ほとんど居なかったと考えてよい。


つまり、らしい経典を持っていなかった。


口伝に頼るしかないからこそ、キリストが日本に来て

修行をせざるを得なかった。


結局、観念より、目に見えるものが証拠になり、残る。


実際、本当の奥儀なるもの、

一子秘伝とか、

空海が、教わった真言密教の奥儀は、

一般には、紐解かれていない。


こんな事を考えると、基底にあったものが、

今も形をかえずに残っているとは考えがたく

おそらく、似たように見えるものに

姿をかえたと考える。

天という概念  8

やっと、見つけた。

スサノオがどういう位置に扱われているか。


アマテラスの弟だったわけだから、

これは、高天原一族として、扱われるのか?

つまり天津神なのか?


高天原族と袂を分かったのだから、

天津神とみなさず、

国津神(地方豪族)なのか?


ところが、スサノオはどういう加減か

あちこちで、祭られている。


憂生の近くの秦氏の氏神と思われる八幡神社にも

スサノオが祭られる。


以前に書いた沼名前神社(鞆)なども、極端だ。


元々は、なにをまつっていたのか?

そこに、神功皇后が寄航し、海の神であるおおわだつみを祭ったのは、

航海の安全祈願もあっただろう。


おおわだつみなら、天津神であろう。


ところが、神社の様相は古式を伝えている。


間違いなく、地方豪族である、国津神のものなのだ。


と、いうことは、初めに祭ってあった「何か」を

ほおりだして、おおわだつみの拝殿に変えてしまったと考えられる。


ところが、此処にも、スサノオが祭られている。


そして、スサノオを合祀したのが、誰か、何時ごろか、判らないと記してある。


単純に考えて、元々、スサノオが祭られていたのではないか?


そして、やはり土地に根付いた信奉があるから、

あとで、祀りなおした。


多くの神社で見られる、スサノオの合祀や

同じ敷地内に別棟?でスサノオを祭る理屈がここにあるのではないか?


元々あった、スサノオ信仰の地に高天原族が

自分の威光を掲げる。


それで、スサノオをほったらかしてしまっては

まずいと思うのは、その土地に住む人間だ。


高天原族は菊の紋を掲げ、いわば、陣取りのように、

威光ともいうべき、天津神を祭り上げる。


話しを戻して。


ところが、そういう推理を当てはめるには、

スサノオが国津神でなければならない。


八幡神社も菊紋が入ってたと記憶する。

沼名前神社もそうだ。

気比神宮もそうだった。


そして、それらの神社、全てが、国津神の様相だったと思う。


だが、肝心のスサノオがどっちになっているのか?


なかなか、見つけられなかったが

やっと見つけた。


出雲大社の近く?スサノオを祭る神社が

国津神の様相だった。


同時に、おおくにぬしの呼び名は固有名詞ではない。


たくさんの国を統治するものという、分類名であるから、

スサノオもおおくにぬしだったのだはないだろうか?


そして、もうひとりのおおくにぬしと混同されたきらいもあるから、

ますます、スサノオはたくさんの国を統治していたに違いない。


と、なれば、当然、あちこちでスサノオが祭られたのではないか?


そして、陣地とりのごとく、菊の紋をはりつけ、

威光を天津神にまつりかえたものの

建物の様相まで変えることは出来なかった。

いや、変える必要も無かったかもしれない。

占領地の神棚をひっくり返し、自分の威光と権威の象徴を掲げれば

それで、充分、被属したと宣言できる。


だが、あちこちに居るスサノオが同じスサノオで

そこら一帯をも、スサノオの統治下であったというは、

滑稽すぎる。ここで、思い出すのは、大国主命が

幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)

で、あるという事だ。


そして、出雲大社に祭られているのは、スサノオではないか?ということだ。


幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)

簡単に言えば、閻魔大王ではないか?


天に対する信奉があるのなら、

一方で

地に対する信奉もあろう。


天国?という考え方の一方で

地獄もあり、

スサノオを外にほうり出したままになっていた、

その土地の住民が、天変地異などにより、

スサノオを祭りなおす。


これでは、まずい。

天の地位とスサノオが並んでしまう。


で、大国主命を幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)にして、

スサノオは、尊くはあるが、

あくまでも、高天原族の一派にすぎず、

それも、地におちた神でしかなく

高天原族とは格下の存在であると、一線を引くことで、

天と対峙する閻魔大王という信仰がスサノオに寄せられるのを防いだ。

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