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いつかは・・ニコン

憂生は物書きのつもりだけれど、じつは、撮影に没頭していた時期があった。

親父がわずか、8歳の子供にカメラを買い与え、好きなように、撮影させた。

中学になるころには、いっぱしのカメラを持っていた。

親父は板前だったから、ある意味、いろんなことができた。

料理は、客を接待する心から始まる。

だから、男ながら、華も活けた。当たり前かもしれない。

魚の舟盛りをするときでも、それなりの飾りがいる。

これが、形にとれないようでは、板前になれない。

単純に舟盛りの飾りの要領で華を生けたのかもしれない。

だが、親父の芸術は、それだけにとどまらなかった。

以前にも話したと思うが憂生は親父の50近い時の子供だ。

もの心ついたときには、おじいさんのように感じた。

だが、随分、昔から写真をやっていて、おふくろの若い頃の写真はもとより、もっと古いものもあった。

だから、憂生にも、贅沢をとおりこしてまで「カメラに触れる環境」をあっさりと渡してくれた。

カメラの贅をきわめた、ゼンザブロニカや、ニコンを持つにふさわしい腕をもっていた親父はある日、憂生に自分でカメラを買えといった。

自分の金で買う。 簡単にいうが、本当にほしいものを10代の人間が買い揃えるのは、簡単じゃない。

使いこなせる腕もないのに、上等のカメラをかっても意味が無い。

悩んだ。 機種は決まっている。 絶対、ニコン。 アクセサリーに、広角が絶対ほしかった。

結局、100mm望遠と広角。

ここまでが、純正のものでそろえるのが精一杯になった。

そのニコンもフィルムカメラから撤退した。 憂生もニコンをキャノンのデジタルカメラにかえて、久しい。

それでも、デジタルだって、ニコンがほしい。

これが、正直な思い。 でも、仕事の状況もあるから、無理は出来ない。

いつか・・はニコン。 それはしっかり実現させたい。

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視点

ひとつの作品を読むとき、いや、読まれる時

いろいろ、感想をいただく事が多いんだけど、

いろいろな読み方、感じ方をするもんだな。と、思う。

「蛙」を例えにだすのは、感じ方が極端だったからなんだけど、

出版社のほうからも、
「少年の狂気に隠されている真実をよみとることが出来なかったら
伝わりにくい」
とか、言われたことがあるんだけど、
実際、作品をあげてみた反応をみると

この狂気に見える部分のうしろにあるものは、
けっこう、読み取ってもらえるんだけど・・・。

もともとの設定部分での
世代ギャップというのかな。

この部分が大きく、受け止め方の違いをわけた気がする。

戦後という部分からが、まず、ぴんと来ない。

中を説明しないで申し訳ないんだけど

「堕胎のための金を稼ぐ」
と、いう設定部分があるんだけど、

「他に方法があるだろう。男が身勝手だ」
と、いう意見が来る。

他に方法が見当たらない。
それが、戦後の一端。

現代だったら、仲間から看破してもらう。
カードで借りる。

あるいは、逆にそんなことをしなくてもよい状況がなりたつ。

なんとか、食っていけるんだから、産めばよい。

どこか、こういう現代を頭において、比べて、
はてには、時代設定が悪い。

なるほどね。
現代に置き換えたら、この物語の内容は全然違うものになる。
現代だったら、確かに「男の身勝手。他に方法がある。産ますことができるのに、何故?」は成り立つ。

年齢のせいじゃないと思うんだけど、この大元の時代背景から覆したら、成り立たない。

これが、判らない。

で、出版社の人はそこそこの年齢なんだろうと思う。

だから、いっさいここの部分にこだわらず、そうせざるを得ない少年の心理を掴み取る。

そして、次に出てくるのが
「僕らは乞食じゃないんだ」の感覚。
これも、書いてる憂生 にも、うまく説明できないんだけど、
この感覚。
これが、ピンと来ない。
彼女を助けるため、子供を救うために
中年紳士に頭をさげて、金をかりて、
子供をうませてやればいいのに、なんで、そんなちっぽけなところに
こだわらなきゃいけない?

その部分が「エゴ・身勝手」だと、うけとめられるんだと思う。

その拘り部分を一番判ってるのは、彼女のほうなんだと思う。

助けられようが、助けられまいが
「自分の力で命をはぐくむことを渡してやれない僕」で、あることには、
かわりがない。
彼女は「僕」がほしかったわけで、
「自分の力で命をはぐくむ事を渡してやれない僕」という、事実ごと
彼を受け止めようとした。
いっしゅ、彼にひけめをもたせて、命を産んだら
「自分の力で命をはぐくむ事を渡してやれない僕」を、受け止め損ねる。

その事実どおりの彼でよい。

続編で出てくる言葉。
「貴方をだめにしちゃう」

この時点で、彼女は「貴方をだめにするくらいなら、子供はあきらめる」

「僕」あってこそ、あるいは、生活が楽になれば、ちゃんと産む事もできる。
今、産んで、二人の生活をなりたたせなくする。

こういう彼女側の思いと、
そこまで、愛される「僕」。

この「彼女」に対する「僕」の心。

哀しい自分を打ちつぶす・・・彼の行動。
蛙をうちつぶしながら
「自分の力で命をはぐくむ事を渡してやれない僕」
を、つぶす。

どんなにか、自分を責めているか・・。

どんなに、哀しいか・・。

そこを伝えられない自分の筆力を問う気はない。

逆に読み取ってくれる人間もいるから。

読む側にたつ事がほとんど無い憂生 なんだけど、
何故、ここまで、一つの作品に
両極端な意見が出てくるんだろうと思う。

受け取り方はその人人のものでしかないんだし、
作者の意図なんてことは、あってなきがもの。
そんなものを大上段にふりかざす気はない。

なにかしら、読み手が自分を投影するものがあるんだと思う。

作品を読みながら、自分の「なにか」で、受け取っている。

この作品を「少年は優しい」そう評した人間は
彼自体をしっていくと、「彼は優しい」人だった。

身勝手ととった人はどうだか、わからないけど
なにかしら、そう言う物事を許せない、「自分の決め事」というものがあって、
ココロ部分より、行動で判断するとか?

なにかしら、自分の「なにか」で反応する部分。
これは、読み手側のものであって、
作者の意図で作り上げたものではない。

だから、作者の意図など、あってなきがもの、でしかないんだけど、

「なにか」
これが、気にかかる

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手前味噌

こう・・、時折


部分だけ書いてみたくなります。


文章表現は、そのときは、なんとなく、かいてみるんだけど


あとから、読むと


自分でいっちゃ、いけないが、旨い(あえて、旨い)ときがある。



男に渡すものは真心ばかりではない。
そのままに欲を受け止める。
それが天女。
でも、それは不知火が綺麗だから・・・・。
だから、不思議。
欲にまみれきって苦笑して新町に行くといった不知火なのに、
綺麗。
だから、不思議。

「不思議な不思議な」
呟いた理周は、不知火が帰ってくるようなきがして、耳を外に傾けた。
じいいいいと鳴くのは、けら。
人が通れば、なきやむだろ。
朝までかえってこぬのかな?
何だかすこし、こころもとないのも、
不知火が優しいから?
広い部屋がものさびしいのも、
不知火があたたかいから?
けらのこえは変わらず、地鳴りのように唸っていた。



これを旨いと感じるというと、

はあ?

って、思われると思う。


意味じゃないんだ。


音律。


ラ行のリフレインと残音と

けら、から・・・。


だから、~~から。と、けら。


この音律が、なんとなく、憂生 には、心地よい。


で、


なんとなく、文章ってのは、

このリズムにのってるという

部分だけでなく、


音・・読みながら耳にきいてるという不思議な事をやるんだと思う。


で、たぶん、書くときもも、

この語調みたいな?

五七五じゃないけど、

そういう文字数のリズムも

なんとなく、選んでるんだと思う。


で、自分でよみかえして、耳でも読みながら

音とリズム拾うと、

旨いと思う。


おいしく感じる・・んだ。

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今日の憂生の足跡ロゴに・・・下の句。いただきました。


無断掲載です。ご容赦。

他にも、あったら、今日はのせてみようと、おもってるけど、留守中に流れてたら残念だにゃ。

* 露のせり可憐に泣きたる紫露草

    …燃ゆとも人にしられぬるかな

               /korimaさん。

* 露のせり可憐に泣きたる紫露草

    …懸命に儚き今日を咲き誇る

     

        ・・なんちゃって/tekux2 さん。

* 露のせり可憐に泣きたる紫露草

      心染め行く恋こそゆかし

        ・・柄じゃねえけど/hakujya(憂生)

* 露のせり可憐に泣きたる紫露草

    …頬つたう露後悲し 夏の恋

         ・・ぽけ /pokett

* 露のせり可憐に泣きたる紫露草

      …水遣りの朝な夜なに想う夏

       ・・八兵衛♪/legacyremains

* 露のせり可憐に泣きたる紫露草

      …流るる雫 朝陽に光

             /crystal 0moon

。。。うち寄せる波のごとく 偲ぶ想い。

ポケから下句がきたのだが、上句が思い浮かばぬ。

露草の句にはすこし、そぐわぬ力強さがある。

** 恋花火  静まりし痕 吾に残りし

     うち寄せる波のごとく 偲ぶ想い

         ・・キレイにまとまらぬ/hakujya

付録/憂生の句の注釈。

  

  紫露草の小さな花びらの花弁は

  染物につかえそうな。

  葉の先に乗せた恋の想いまで

  露草色にそめてしまいそうな。

  露草の露。

  露草色の想いに染まっているのではないかと?

☆☆☆ 作者のぼやき ☆☆☆

憂生の書く男の子って、とってもシャイで、時にとっても臆病な男の子が多いです。
ブロー・ザ・
ウィンド の「アラン」も白蛇抄の「白銅」も、何でそんなに優しくなれるんだろう?って思うくらい。そういえば、既成のゲーム から起こした憂生のストーリー so2シリーズ(全20巻)(中のアシュトンもやっぱり気が弱くてとっても優しいキャラとして扱ってます。
このシャイで優しい男の子を語るとき忘れてはいけないキャラがいます。
それは、「最終兵器・彼女」の中の「・・・・君」です。
先輩の寂しさを慰めようとしながら、自分の欲望の汚さを見つけて「ちせ」を護れない自分の弱さに泣いてしまう時、彼はとってもちっぽけで弱くて切ない存在である自分にきがつきます。
憂生はどちらかと云うと、藤原カムイ描く所の、雷火やジャガン(ロトの紋章)みたいに自分の信念のまま突っ走る男や、孤独を抱えていても突っ張った
スタイル を通してゆく、どちらかと云うとガイ・タイプの男の方がすきです。
なのに、自分の書くものにはほとんど、強い男がおりません。蓋を開けるとどこか不器用で臆病で迷い多く、自分の心の貧しさを見つめてしまうシャイ・タイプがを扱う事が多いです。
今回の沖田君も土方さんもそうじゃないかな?
投稿用に書き直した「蛙」の中の、少年もとってもブルーでエゴな人間だけど現実に彼女を護ってやれない
自分の非力をどうにか正当化したいってもがき、それでも湧いてくるエゴを彼女が受け止めてくれる事で支えられる、自分の弱さをよく自覚してます。

作者のぼやき

蒼刻に何を書こうかと随分悩んだ。
いくつかの候補が上がった。既に書き上げている物も考えた。時代を昭和。第二次大戦、日本の敗戦の余波が個人レベルの生活の中に入り込んでくる様子を書いてみようとしたが、蒼刻の創刊号には重苦しすぎる。
さらに和国の亡国の物語をかこうとしたが、どうも、クランプの聖伝みたいだと、言われたのでやめた。(いずれ此処で発表させてもらおう)結局、7ページほど書いてほったらかしていた沖田総司を突付きだした。
結局、時代物かよ?
それも実在した人物を手前勝手に掘り下げようという。上に、司馬さんだって然り、その他諸々の人が沖田を綺麗に解剖して見せてくれている。憂生ごときが沖田の憂いを掘り下げたら「だれこれ?」って程、かけ離れた人物になってしまうだろう。
だから、初めに謝っておかなきゃなんない。あくまでもこの沖田総司は憂生だけのイメージです。物語中も、ちょっと都合よいようにキャラ設定をかえてます。自分でかいていて「ちょっと、こんなことする?沖田総司?」と、言う部分があります。もちろん時代考証は無視で、土方歳三のイメージも随分変えて独自な挿話を挟みこんでいます。
新撰組へのイメージが崩れたという事になりそうなので、熱烈なフアンの方は読まない事を提言します。(なんだ?それは?)
もう一編は新風舎の公募に送ったもの。奨励作品として共同出版を提示されたが、憂生には元手がない。で、諦めて此処に掲載する。
今も、幾つかの作品を公募に送ってみているけど、只で出版化できるのは賞を取った物だけ。今ひとつ、憂生のは才能が足りない。
沖田君の話も近々公募に送る。結果を昨今の
ファンタジー ブームに乗って、これも書いてみようと思いはするのだけど、なんだか、ちゃちなゲーム ストリーになってしまっていけません。魔法とか、魔物とか言う者を出現させようとするところが、憂生には無理があるようです。むろん、魔法や魔物を扱う必要性はないのだけど。
新潮社が十五年前くらいから始めたファンタジー小説の公募の時期がやってきております。
この第一回の入賞作品は酒見賢一だったかの流れる雲のようにという
中国 の正妃の話をあつかっていたものです。ところが、この話には魔法も魔物も出てこず、一瞬中国の大奥の事実史なのだと思い込みかねない内容でした。
十五年前にファンタジーなるジャンルを流布しようとした新潮社もファンタジーの規定を模索している状態だったといえるかもしれません。実際、虚実の出来事としてだけではフィクションの範疇でしかなく、何をもってして、ファンタジーと捉えるか?となると、是は読者側の既成観念によることと思います。
けれど、この十五年の年月の間に、ファンタジーと呼ばれるジャンルへの読者側の概念は変化し偏ったものになってきているかもしれません。憂生がファンタジーと言われてイメージするものには、魔法は使わないとしても架空の異種生物や異世界が扱われると思い込んでいる帰来があります。
どうも、ネバーエンディング
ストーリー の影響が大きいのです。ロックバイターや、ファルコンと言う存在は、インパクト が強く、童話でもメルヘンでもない、是がファンタジーだと頭にすりこんでしまったようです。でも、実際何を持ってしてファンタジーと規定するんでしょ?
こんな状態の憂生がファンタジーなるものを書こうとする事に既に無理があります。
身近に思える『思い・心理』なら、たぐってゆける。是をテーマにしていった挙句のストリー設定がファンタジーになる事も有り得るかもしれないけど、最初にファンタジーにしようなんてかいてゆける器用さはもちあわせていない。
つくづく、いかなるジャンルの事でも細かな心理を描写し表現しきれる器用な『○○みゆき』におどろかされるのであるが。
またしても、結局時代ものになってしまう憂生の底の意識はなんであるのか?
次回はこの辺りにメスを入れてみようかと思いつつ、筆ならぬボードを置いて第一回作者のぼやきをおわります。


盗人・・・惨状・・・・ひどい!!

渦夜の文章の上手さは、おそらく、時代物調のほうが、際立っている。
こっそり、続きに1編/ショートをいれたけど、
こっちのPCに保存した月日をみると、/つまり、もっと以前にかかれたもの・・。
16才くらいで、かいている。と、いう事になる。
この年齢という事がこちらの頭から、どうしても、離れない。

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物書きはちょくちょく造語しますので・・・


めずらしく、ブログ人のお題にひかっかった。

これまでにも、文字の持つや意味合いから、いろんな解釈をしてきた。

近い所では、忽ちという言葉について、言葉のもつ意味合い、裏の感情が時代にマッチしてこなくなり、言葉が廃れていく。イコール、言葉の裏にある「感情」も廃れていくようで、寂しいと書いた覚えがある。(スレッドタイトル:忽ち)

こうかくと、新語、造語が日本語の乱れだという意見だと思われそうだが、ちょっと、違う。

新しい言葉、造語でなければ、表現できない『感情』が出現しているというのが、現状であろう。

エロかっこいい。ちょい悪。

確かに、表現されている内容(感情)が微妙に違う。

ただ、猫も杓子もおなじように、新語、造語を使うのもどうかと思う。

アラフォーのように、感情を伴わないものは、まあ、かまわないと思うが、

萌え~~とか・・・。KYとか・・・。

誰も彼も同じ表現を楽しむ。

この時点で、新語でも、造語でもなくなり、日常?用語に成ってしまうと考える。

と、まあ、世間一般のことはここまで。

憂生が新語、造語賛成なのは、憂生自身が、よく造語、新語を自分の物語、日記、ブログなどで、造語して、使用するから。

これも、最近の記事(↓のスレッド、:皆、間違ってる?)に出ているが、結構、造語は多い。

造語として、あえて作っていても、場合によっては、気が着かれていない。

憂生本人も、造語としての意味合いを認識されていないことを、考えに入れてなかったりする。

音楽談義をやったときも、音楽嗜好について、あれこれ遍歴もかねていたので、

あえて、嗜好錯誤なんて、タイトルをつけてみたりした。

結局、どこまで、その造語?がつうじているのか、憂生も確認できない。

ただ、いいえて、妙なものは、それは、それで、良いと思う。

たとえば、アメーバーの友好相手を承認する機能があるが、それをしてアメンバーと呼ぶ。

アメーバーと、ア・メンバー(一人の仲間?仲間の一人?)のごろあわせがきいていて、これは、上手いと思う。

憂生はカフェの友人をカフェ友と呼ぶようになったが、これはも狭い世界にしか通じない造語?(某携帯のもじり・・連想だけど)ではあるが、それはそれで、意味合いが判ってよい。

物を認識し、伝達するために個別の名前をつけるのは、これは、当たり前のならわしで、

それが、証拠に誰にも名前がある。

大括弧すぎるが、この個別の名前も誰かに造語されたものといってよい。

すでに、自分がそういう造語(極端にたとえすぎているが)の上に成り立って、存在を認識されていると考えてみたら、いっそう、造語、新語を日本語の乱れとは言いがたいと思う。

むしろ、乱れているのは、今の日本人の「感情・感覚」であるということ。

感情を表現する言葉がみだれているのは、元が乱れてるから。

美しい日本語をうみだしていけるような、人間修養が必要なだけで、言葉だけ、いいかえてみたとて、臭いものにふたをする構造。

言葉が発達してきて、感情や物などを表現してきた言葉が使われなくなるのは、仕方が無い。

言葉が変化していかなかったら、今も遠い、昔、使っていた言葉を使ってるんだろうと思う。

だけど、今の社会形態、人的環境から沸いてくる感情を昔使われていた言葉の中に織り込むことが出来るだろうか?

逆に言えば、昔の言葉が現代人の感覚、感情を表現できるだろうか?

出来ない。

出来ないから。

どんどん、言葉が変わってる。

たった、100年ほど前の江戸近くの言葉さえ、今にあてはまらないものが多い。

時代背景が違う。

縄文時代の言葉が奈良時代まで変化せずに使われることは可能sだろうか?

無理だろう。

やっぱり、時代が内包する、色んな環境が違うんだ。

だけど、問題はそんなことより、言葉に内包される感情。

これが、乱れてないか?

自分自身に問い詰めていく事が先で、

新語、造語のよしあしなど、いくら、詮議しても始まらない。

だから、憂生はどちらの意見でもなく、どちらともの意見であるといえる。

今回は自身が造語することがあるという『弱み』にて、日本語の進化側にはいっておくが、

言葉は変化するのが当たり前。

問題はそのバックグラウンド・・

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答えにはなってないな・・・。すまない。

ありがとう。

なげかえられた事に応えるという形も

自分をさらけて見つめなおすチャンスになる。

時に答えを此処に書くということを

了承願えるとありがたい。

役に立つ。

これは一言で説明すると難しい。

たとえば、本。

これを読む。

役に立つ?

考え方、見聞を広げることは出来る。

だが、

読むこと。

この行為が何かの役にたつだろうか?

難しい言い方だな。

むしろ、自己追従。

こんな事をしているより、

仕事をする。

個性も、自分も何も無い。

社会の歯車になる。

このことが役に立つ。

たとえば、こんな事。

自己世界に飛翔している自分に

嫌気がさす。

自分。

自分。

自分。

むなしくなる。

作品を書く。

それがなんだという。

何の役に立つ。

自分の設定の中においての、

役だ。

たぶん、役に立つと言う考え方も人それぞれ

やはり、わかりにくいことだろうと想う。

都合のよい設定

物語をかいていく中で、都合のよい設定というものがある。

この都合の良い設定というのを、いかに自然?にかんじさせるかが、

物をかいていく醍醐味みたいなきがしている。

この不自然さをとっぱらうために、作者本人はいろいろと、

ネタをしこむわけで、このネタというのを、読む人には、わからせず、

そのまま物語にひきこまれてもらえるか、どうかが、勝負のような気がする。

じっさい、元本のある人情話を焼きなおしてかいてみているけど、

ここでも、ネタはきちんとしこんでいる。

どんでん返しは憂生の好きな手法だけど、このどんでん返しがなりたつように、しなければならず、自分の範疇でしかないが、「ほかの手段」があるのではないか?と、おもわせてしまうようなことのないように、「ほかの手段」がなりたたないような、設定や会話などをさしこんでいく。

そのさいに、いかにも、「ほかの手段」をつぶすために、かいているんだな?と

ばれてしまっては、おもしろくなくなる。

あくまでも、自然なながれになるようにこころがけるわけで、まあ、そこらへんのごまかしかたってのが、こう、なんていうんだろうね・・・。

「ここんとこ、こうやって、こういうふうにネタがあって、ここの会話でこういう風にカバーしてるんですよね」

って、まあ・・・。

くっちゃべってしまいたい気分になるわけだなあ。

だけど、それをしちゃあ、まじ、ネタばらし・・・。

「あわわわ・・」

で、とめおいて、ひとり、おつにいる。

あいかわらず、ぶっつけ本番でいっぱつ書きってやつでこなしているが、

毎度、大きな破綻をやりゃしないかとおもいながらかいている。

破綻したらそれで、物語はパアになる。

ゆえに、ネタしこみが貴重なんだよな・・。

かなりのスローペースで懐の銭をかいていますが、

ちかいうちに、ひとまとめにします。

連載だけをかいているのなら、スレッドの順番を入れ替えるだけでかまわないんだけど、あんにゃ記事やこんにゃ記事が散乱してるので、1スレッドにまとめるようにしていますが、こんな調子で書いたのがいつのまにか、何万文字ってことになってしまって、それを1スレッドにまとめると、通常のブログでは、文字制限がはいって、目下のところ、1スレッド全文掲載が可能なブログは此処とFC2とスクスクしかなくなってると思う。

で、この全文1スレッド掲載をあえて、やっているのは、個人で、ワードなどにおとして読むのは、かまわないわけで(それを公開するとか、販売するとか、配布するとかでなく、個人使用)そのために、コピーペーストがいっぺんにできるように、あえて、全文掲載をおこなっている。

ブログになってくると、たとえば、お登勢・・16万文字↑というものをネットでいっぺんによみきれなくなり、いったんとじたら、頁がないので、(1ページ全文掲載だから、あたりまえだけど・・)続きがわからなくなる。

と、いうことで、ワードにおとして、頁をつくったら、よみやすかろう・・と。

そんなわけで、基本的には物語りは1スレッド全文掲載でやっていますので、いずれ、まとめていきます

物書き同盟・掲載記事

輝♪の作品をつづけてあげた。

輝の作品の中にR指定にあたるものがある。

でも、憂生はこの作品を、ただのR指定じゃないとおもっている。

輝のいくつかの作品の中に、

恋人が亡くなったという、設定がある。

実際、輝は恋人を亡くしている。

HARUSAKOから、輝に名前を変えたのも

作品を書き始めた頃からだとおもう。

おそらく、で、あるが、恋人の名前だったのではないだろうか。

同じ字かどうかは、わからないが、

「あきら」と読むんだといっていた。

事故で恋人を亡くし、彼女も同乗していたのかもしれない。

入院していたということを聞いたことがある。

その彼女が亡くなった彼氏への追慕(悲しみ)からたちあがりかけているところで

憂生と知り合った。

そして、彼女は作品を書き始めた。

「永遠の愛」

それは、まさに彼女の投影だろう。

憂生は、心の中から、投影を吐き出し始める彼女にほっとした部分があった。

悲しみにひしがれていたら、とても、客観視はできない。

PDSTともいうべき状態を超えていく方法に認知療法というものがあるらしいけど、

フラッシュバックや解離性障害をおこすと、事実をいっさい認識しようとしない。

こういう状態を考えると、自分に起きたことを認知していく。

うけいれていけるというところに一歩すすんでいけたように思えた。

過去、あめだきさんの時にも、同じ状況があった。

身内を交通事故でなくしてしまった彼女はそれが引き金になったんだろう。

心をとざしたまま、20年ちかい歳月をすごしていた。

あめだきさんが、憂生のブロー・ザ・ウィンドを読んだあたりから、

心がすこし、ひらきだしていったんだろう。

身内の事故のことなどを日記にあげるようになった。

それまでの彼女は追憶の中にいたようで、

亡くなった人の好きだった歌とか・・そんな日記をあげていた。

それが、突然、心の中の「しこり」をときはなつかのように、

事故のことも日記にあげはじめた。

良かった。正直、そうおもった。

話せるようになるってことは、文字通り、はなせる=離せる。

そういうことだとおもったから。

それとおなじように、輝が自分と恋人をおきかえていながらでも、

離しはじめている。

そして、輝はいろんなことを書き始めた。

童話もかいてる。これは、輝の願望だったのか?

それとも、現実に子供がいたのか?

そこのところは判らないことだけど、

なにか、護る。心を・・愛情を傾けていく・・・。

そっち側の輝に立ったように思えて、それも嬉しかった。

そして、R指定・・・。

これも、どこか、紡ぐことができなかった恋人との時間をなぞることで、

輝の心を癒していく、擬似体験でもあり、

一方で、憂生がいうところの基本路線。

「性は心が生きる」という側面で、

慰めという欲求でなく、

現実世界で

心と身体をかさねあわせて生きていきたいという

根本的な希求であるともおもった。

だから、こういう「欲求」についても、輝の内部でなにかがかわりはじめているように思えた。

ブロー・ザ・ウィンドについて、憂生は、

別の女性に対して(やはり、恋人を亡くしている)

いつか、なくなった恋人への思いがあてどないものになり、

現実世界で自分を預けられる相手をもとめる。

それを亡くなった恋人も祈っているとおもう。

こう言う風なことを言った。

輝の状況がまさにその過程ではなかったのだろうか。

輝は不調をうったえて、休養にはいったけど、

それは、大きな決別を受け止める戦いにはいったんだと憂生はおもっている。

そして、今、もう、「輝」じゃなくなった「彼女」としていきている。

だから、もう、輝を脱却していった、この場所にはかえってこない。

輝のまま、かえってきたとしたら、

それは、脱却してないってことだろう。

だから、もしかすると、もう、全然違う生き方を掴んだ「彼女」が

輝とは、わかりえないものとして、ここにもう一度あらわれてくれることがあるかもしれない。

でも、もう、憂生は良い意味で輝を葬りたいとおもう。

ブロー・ザ・ウィンドの中でも、似た科白をかいた。

「貴女の中で彼は死ねていない。

貴女がおもっているのは、ゾンビのティオなんだ」

憂生がおもっている輝ももう、ゾンビのはずだ。

だから、葬る。

そして、きっと、彼女はどこかの空の下で新しい人生を掴んでいる。

そうおもいたい。

ある人の作品から思う。

FC2小説の中の吾妻栄子さんという方の文章がそこそこに、巧いのだが、

一見、巧みにみえるのだが、読みつづけてみると、物語の中にひきこまれない。

なぜ、物語にひきこまれないかということを考えていた。

ちょっと、自分でも、つかめないので、少し、自分だったらどう、書くかをやってみた。
物語の、深い設定がわからないままで、勝手な解釈で、書いているが、
読み手が素にもどってしまう。
判りにくいという理由がみえたきがする。

まず、冒頭だけ。

ここから、読み手は疑問をかんじてしまう。
人が死んだというのに、主人公は何をおもっているのだろう。

この部分が非常に即物的なわけで、
丁度、友人が遊びに来ていたので、声にだして、
憂生のものと読み比べて、受ける印象をきいてみた。

結果をいうと、
「目でよまなきゃ判らない」と、いう事だった。
章タイトルを知った上で、文字の意味合いを目でたしかめなきゃ
判らない。

憂生の作品は病床の人に物語をよみきかせてあげるとか、
こういう部分に耐えてきた作品なので、多分、耳できいても判る作品になっていると想う。

この「目でよまなきゃ判らない」という部分をなおしていくと、
立体的な作品になっていくのではないかと想う。
書き方はその人その人の個性があるものなので、
けして、彼女の書き方が間違っているとかでなく、
書き手、憂生が、読み手に成り代わった時、どういう部分が不足していると感じるかを知っていくことで、自分の文章を自覚していくことができたものになった。

*******吾妻栄子 翡翠の環 冒頭より、無断転載*****

昨日、紅珠(こうじゅ)姐(ねえ)さんが死んだ。
あるいは今日の明け方かもしれないが、本当のところは分からない。
どのみち、今朝、私が起こしに行って見つけた時には、死人そのものの顔をしていた。
「あんな青二才に愛想尽かしされたくらいで。」
仮母(かあ)さんは泣き怒っている。怒り九割に泣き一割といった塩梅だ。
「もう少しで借金が全部上がるって時に。」
私はまだ死ねないみたい。姐さんの顔からずり落ちた布を被せ直しながら、小さく息を吐く。
まだ、借金の半分も埋めていないのだから。
「翠玉(すいぎょく)!」
仮母さんの声から一割の泣きが消えた。
「ぼさっとしてないでさっさと着替えしな!」

*******憂生 無断リメイク*****

昨日、紅珠姐(ねえ)さんが死んだ。
あるいは今日の明け方かもしれない。
今朝、私が起こしに行って気がついた。

私には、どこかで、予感のようなものがあったのかもしれない。

姐さんが死んでしまったことに、たいして驚かなかったのは

それだけじゃない。

どうせ、生きていたって。

自分への投げやりな思いがあるせいだろう。

かあさんもおどろきはしなかったが、

理由はちがっていたようだ。

「あんな青二才に愛想尽かしされたくらいで。」

いちいち、客に本気になっていたら、命がいくつあったってたりゃあしない。

こんなお職だもの、わりきってしまわなきゃどうにもなりゃしない。

弱い姐を怒るのか、こんなお職でなけりゃあとかわりに恨み言をいってやっているのか。

「もう少しで借金が全部上がるって時に」

ちょいと、こらえりゃあ、自由の身になれて、いい人にめぐりあうことだってできたじゃないか。

早まって死んじまったものをいくら、なじったって、もう、どうにもなりゃしない。

ねえさんが相談したって、鼻でせせら笑うしかないかあさんになにひとつはなすことなく

自分で命の始末をつけてみせるだけ、

本気だったことだけが、ふと、うらやましくも思えた。

姐さんの顔からずり落ちた布を被せ直しながら、小さく息を吐く。

せいぜい気をつけて本気になどならないことだと想う。

借金をかえせる時までは・・。

ふと、想ったことに自嘲めいた笑いがうかんでしまう。

誰かに本気になど、なれる自分など、どこにもありはしないのに・・。

「翠玉(すいぎょく)!」
かあさんは上手に自分をきりかえていく。

こんなお職だもの、

ここで、こうしているしかないのなら、

それらしく、ふるまうしかない。
「ぼさっとしてないでさっさと着替えしな!」
*******
声にだして読み比べた時、友人の意見は
「最初のはなにをいってるのかわからなかったが、憂生のものは(あとのが憂生のだろう?との確認があった)その人の情景(仕事)がわかる」
「主人公への興味がわく。この先どうなるんだろう」
などだった。

吾妻さんのものは、主人公のもつ背景(心理的)や事情をだすまいとして
大きな背景までもにおわすまいとしてしまっているのではないのかと想う。

あるいは、大きな背景をにおわすまいとして、主人公の背景(心理的)や事情をだすまいとしているのかもしれない。

憂生の文章でいえば
どうせ、生きていたって。

誰かに本気になど、なれる自分など、どこにもありはしないのに・・

ここで、こうしているしかないのなら、それらしく、ふるまうしかない。

など、(勝手な設定ですが)なにかしら、主人公の背景や事情にふれていく。
そして、仮母のことも、驚きはしないことを書いた裏に
かあさんは上手に自分をきりかえていく。

こんなお職だもの、

ここで、こうしているしかないのなら、

それらしく、ふるまうしかない。

が、あり、仮母が、こういうのに似た状況をくぐりぬけてきた過去を想像させ
動じない理由みたいなものから、仮母さんの人生・人生観をにおわす。

言葉のうしろに、大きな背景をもたらせるという意味合いで、
感情表現が大切な手法になってくる。

吾妻さんの表現では章タイトルである、「妓楼の喪明け」の「妓楼」の「文字」を目でよんだだけで、その人々の後ろまで、読者がつかみとれという
あまりにも大きなシャドウすぎて、物語に奥行きと味がでてこない。

どこまで、におわすか、というところは、作者の範疇なのだが、
最初の引き込みで、失敗すると、憂生みたいな最初の5~6行で
判断してしまう人間には、読み続けることに「読みにくさ」をかんじさせる。

言葉の表現がむつかしいから読まないのではなく、
肉迫してくるもの、理解させるものが、
あまりにも遠いと、眺めるだけに終わってしまう。

書いてみて想うことでだが、
作家というものは、いかに計算して物をかいていけるかという事だ。

姐の死をみて、主人公はどう想うだろうか?
を、計算する。

本文中をみると、驚く様子も悲しむ様子も無い。

それは、なぜだろう?
を、計算する。

憂生の場合は予感と自分だってどうなるかわからないという虚無感?があり
という答えにしたわけですが・・・。

そして、仮母だって、どう想うだろう。
さして、驚かない。

その計算。

その計算の解明式。

と、いう具合に、いくつもの、計算式があり、
同じ答えを(驚かない)をだしながら、そのうしろの解明式をだしていって、
もともとの、主人公が驚かないに肉迫していくものをだしていく。

いわば、憂生がここで、書いたようなことを
吾妻さんの作品を読みながら、読み手が補足しなきゃいけない。

これでは、どちらが、書き手か。

補足して理解しなきゃならない部分が多すぎて「むつかしい」と思わせてしまう。

本人、いわく、の、「書いてある文字や歴史的背景が難しい」、のではないのだろう。

思うまま~~~~

いつだったか、造語をしたら、*注釈するべきです。

との、ご意見をいただいたことがあるのですが、

文中に*注をいれるのは、基本的にきらいなのです。


だから、女性(にょしょう)とか、読み方を書くのも基本的に嫌います。


やむを得ずいれておくことは、もちろんあるのですが、


何故、きらうか、

何故、*注を入れないかという事を考えてみました。


嫌う理由のひとつは、

文字を読んでいるときの、リズム感が崩れるからです。


*注をいれないのは、造語であることはあきらかであり、

文中でその言葉の意味合いは説明できている。


実際にたとえば、

「だから、貴方KYなのよ」


「なに、KYってなに?」


「空気読めないってこと」


こんな会話において、KYも造語であるという視点で

「だから、貴方KY(*注、造語です)なのよ」


って、やってしまったら、文章リズム、目に入る快さが崩れるという部分があると思うのですよ。

ましてや、その意味を別の場面で(次の科白)説明してるのだから、

この作品の中で、用語として、使っていますよ。という

裏側は見える。


そういう思いが先にたって、

いまだに、律儀にそういう*注をかくという考え方が

リズム感をくずしたり、

他の場所で自然に説明できるこなれたものを書く手法ができていないのかもしれない。


まあ、そんな風に思ってしまって、

逆にそこらあたりの、こっちの見方をさらけだしたら、

何も知らない人にまで

「なにか」を気がつかせてしまうという、余計な配慮をしてしまったかもしれない。


その人には、良かったかもしれないけど、

それを読んだほかの作家さんがそうなのかと受け取って

場合によってはリズム感をこわし、

場合によっては、他のところで上手に説明して

作品の中に溶け込ますという手法になれていかないことになるかもしれない。



そういう意味でも、

修練の箇所として、、*注釈をいれないですむ書き方も大事なんだ。と

思うので、ちょっと、書かせてもらいました。

今は語らず。

問題意識。

まあ、この問題自体がどこまでのものか、わかりにくい。

ただ、己の精神改革を断行したものは、

2枚の写真 である。

1枚は

ロバート・キャパの「倒れる兵士」/「ベトナム兵の死」だった。

もう1枚は

ユージン・スミスの「みなまた」

16の憂生は

広島 」へ行こうと決心した。

原爆の痕跡をこの目でみようときめた。

それから、何年・・・。

憂生はカメラ をやめ、

広島に住むようになった。

シャッターを押した指は

今は

キーボード をたたく。

写真よりももっと、確実に

己の感情を伝えられる、文明、いや文化の利機をもちながら、

憂生は一言も発せずに居る。

なぜか?

この答えを書くのは、もっと後になるだろう。

ねがわくは、この命題を己に振り込んだことさえ、忘れてしまうほど

未来の事になるといいと思う。

ためらい


ボーマン・ボーマン5と6を同時進行しているのですが、

このほかにまだ、3~4編かいている状況です。

で、相変わらず、行き当たりばったりで、かいているわけですが、

構想じたいは古いものです。

そういうせいもあって、はやく、やっつけたいという思いがあります。

で、まあ、ここで、自分の不思議な部分をかなり、暴露?してしまったせいもあり、

気分的に楽になったところがあります。

べつに隠していたわけでもなんでもないのですが、(ぽつぽつとはかいていますが)

信じられないだろうという思いがあったのも、事実です。

で、こう、早く、やっつけてしまいたいって言う中に、

その不思議な部分が混じってくる実話をかいていくべきかなという思いが

ちらほらしてるわけです。

で、その実話部分というのが、多少、触れていますが、

精神疾病関連でのこと。

これに不思議なことがかかわってくるような・・。

あるネット依存症の男性との話が基盤になってくるとおもうのですが、

当時、彼の自殺未遂・・・など、そのほかのいろいろなこと・・

そして、今、アスペルガー症候群やミュウハウンゼン症候群など、

欝病にしろ、精神疾病は社会的事象になってきているぶぶんがあり、

そこのところへの原因とか、捉え方への・・警鐘というのかな?

ここらへんに眼をむけていきたい憂生が居るような気がするわけです。

で、その自殺未遂事件がおきたあと、

アル読者様に相談みたいなことをしてたわけです。

憂生自体いっしゅ、カルチャーショックというか、

どう捉えていいか、わからないまま、そういう事態だけを受け止めてきた。

と、いうのがあり、その後次から次へと、精神疾病と不思議な部分がかさなる事件をと遭遇してきて、

ふと、その読者様がいってくれた言葉をおもうわけです。

「いつか、このことを小説にしなさい」

ひとの不幸というのを、作品にするということは、

よほどのテーマがないと書けることではないと思っています。

だから、憂生の作品のおおくは、ハッピーエンドであり、

どんな不幸なかたちであっても、

なにか、救われるということで、やはりハッピーエンドになるものしか、

書かないわけです。

いや、かけないわけです。

でも、今、この時代になってきて、

なにか、形にしていかないとまずいんじゃないかっていう

社会が持っている歪みというのか(とらえきっていません)

ここらへんを自分の手でとらえていかないとという思いがわいてきている。

大きなテーマですから、正直、自分でもかききれるか・・。

ただの自分の体験記に終ってしまってはいけないと思いつつ、

まだ、迷いながら、ボーマン・ボーマンにあたっているわけで、

このほかの作品もはやくしあげて、

脱皮というか、

立ち居地をおもいきり、かえてしまいたいというあせり?のような、

逆に

次の位置のものと向かい合うことへの恐れ、あとずさり感があるのです。

まあ、とにかく、いっぽずつとおもいながら、

どこか、まだ、さきおくりしてしまう自分がいます。

+ 小説書きに100の質問 +

この、質問にこたえたのは、5~6年前と思われる。


**************

続きを読む

憂生の作品を翻訳で読んでくださってるらしい人がいるのだが・・・。


その原文と翻訳(訳し切きれてない部分はおいといて)を少し並べてみた。

英語の文章だって、テンポやリズムや音律があるとおもうが、

まず、これが、翻訳では成り立たない。

英語のRやNの心地よい響きというものを計算にいれて、

歌詞や文章をつくると思うのだけど

日本語だってこういう部分はある。

だが、日本語の深いところは、その上に漢字による表現がある。

と、いうこと。

蒼いにするか、青いにするかで、内包するイメージがかわる。

青い瞳とかくと、どちらかというと明るいイメージがわく。

蒼い瞳とかくと、なにかしら翳りを感じる。

これが色の違いであるならば、ライトブルーとか?

ダークブルーという翻訳で対処すればいいのだけど、

文字自体にイメージがある。

目に飛び込んでくる文字によって、その文字ひとつのおかげで、

物語のイメージをかもしだす。

これは、どうしても逃れられない翻訳の限度で、

はてには、これにのめりこむと、日本語でよもうと

勉強しだしたり、日本にきちゃうという外人がいたりする。

それくらい日本語というのは「きれい」だと思う。

憂生の作品の日本語が綺麗だといえるか?

と、いうところでなく、

翻訳された英語に注目してほしい。

こういう風に表現するのかとは思うのだが

なにかしら、あじけなさを感じるのは憂生だけだろうか?


心に刻んだ思いのままを口に乗せると童子は空をあおいだ。

Child's mouth at will and put sliced the sky Our hearts are inflated.

瞳は空の色を移したかと思うほどに青い。

I think the blue eyes moved about the color of the sky.

双眸に浮かぶ一抹を孤独と呼ぶ。

Pair of eyes floating in a little bit lonely call.

葵い瞳が溶けおち、涙の雫も青いのではないかと思えさえする。

They end up falling Aoi Hitomi melt, even in the blue might also want to drop a tear.

だが、童子は空に向かい手を差し延べた。

But the kid has his hand towards the sky 差Shi延Beta.

舞い落ちてくる伊勢の姫君の幻影をしっかりとつかみとるために。

Mito Tsuka to take a firm vision of falling Ise Princess of dance.

「かなえ・・・」

"Grant"

私信になったかもしれない。

書くということは、憂生にとって、

形をつくることではないな。と思う昨今である。

書いていくことで、自分の中の何かをまとめたり

思わぬ「なにか」をひきだしてくるという作用があったり。

まあ、これはある創作仲間とも話してることであるが

自分を見定めるために書く。

と、いう姿勢であることを自覚しておかないと、

やれ、コメントがこないとか?

反応がないとか?

読まれているのかどうか判らないとか?

二次的問題を重要視するどつぼにはまる。

無論、娯楽小説的、読者を楽しませることを目的

つまり、読んでもらうことを目的に書いている人は論外である。

自分を見定めるを目的にしていると

その内容は一種、感情因縁であるのだから、

因縁が合わない人には読まれることがない。

むろん、そのストーリーではなく

感情因縁の部分がである。

まあ、具体的内容をかくとわかりやすいのだが、

物を書くという場合、時に毒素を含む事がある。

これは、誰かを誹謗したり中傷したりというそういう毒素ではない。

この話の意味合いがわかるのは、今のところ、ノロ♪おまえしかいないわけだけど、

こういうことを文字にかえてみようと思うと

バックグラウンドの違いってのを痛感させられる。

結局、どこまでも、事実をかけるかというと、書けないって部分が

ついてまわるわけだよな。

そこを説明しなきゃ判らないわけだけど、

そこからして、理解の範疇じゃないって事が往々にしてあるわけだ。

すると、文章表面に出ている事柄を読む人間の幅で理解するって現象が起きる。

まあ、古くからの知り合いが話さない事実をりかいできるわけもなく

自分の類推で憂生という人間を判断しているようなんだけど、

これもいたし方がないと思っている。

相手を物事を捉えるってのは、

実際、本当は相手を捉えるのでもなく

物事を捉えるのでもなく

「自分」を捉えてる。

いつか、書いた、批評は自分の披瀝でしかないってことにも相通じる話だ。

その自分があるからこそ、もっぱら憂生は自分の「中」を向く。

思わぬ整理がつくときもある。

これも大江健三郎を出してきた話で(例のラーニングとミーイングな)周知のことであると思うので省くけど

どこまで、自覚し、どこまで意識するか。

そして、意義付けとは実践であり、実行に繋がっていく。

あれらの多くの日記や物語が憂生を示唆し、憂生を啓蒙し

今の憂生がある。

この後ろ側もおまえしかわからないことだけど、

それら、すべてがありがたいと思う。

物を書くというのは、自分と戦いみたいなものだ。

ミーイングまで昇華しながら、

リアルにおいて、どこまで自分を革変できるかってことだ。

もちろん、それらは、多く、自分の中で起きる。

それがいずれ、自分の生活・人生においての

自分の「根」になる。

おまえのことだ。

いわずもがなは判っているけど、

これも整理現象だと考えてくれるとありがたい。

わかるまい


どうも、表現のレベルが低い。


言い方を変えれば、

意識が低い。


ま、AKIRA。


おまえほどの人間がざらにいるわけがない。


AKIRA.


お前と憂生の共通項は


この一言にくくられるか。


「おきてくる物事、全て、自分に元がある」


AKIRA


「人生に起きてくる物事にいっさいの無駄は無い」



よく、にているが、

もっと、にているのは、

起きてきた事、いっさいを良しにすることだ。


自分に元があると、知らない人間は幸せかもしれない。


自分をつきつめる渦もそういった。


その渦が言う。


「ひとのせいにしない」


そして、憂生が言う。


「被害者ぶるな。自分がひっぱった結果だ」


これをつきつめると、


言葉も変わる。


意識も変わる。

変換期?


最近、昔と違う事を言う憂生 だと思った。


「読み手を意識する」


いや、もっと、読み手がいるからこそ、書ける。


昔と違う。


ネットをはじめた1年間ほどは、

文章をワードにかいていたものを

公開していた。


忘れもしない。

2004年10月。


騒がれ始めていたブログをやり始めた。

やりはじめて、間もなしに

「空にかかる橋」

仮想近未来の野戦病院での3日間を書くのに、

68スレッド。

45日の連載(ブログテキストに一発書き)期間だった。

その頃だったと思う。


「悪童丸を書いた時の迫力がない」


相方AKIRAからも

「でだし、ぱっとせん。いつもの憂生 らしくない」


空に架かる橋の中の性表現をどう書くか

ひどく、迷っていたと思う。


ワードに書いてあったものを

1スレッドに全部いれれるブログだったから、

なおさら、気にしなかったんだと思う。


だけど、連載というのは、

時にその部分から読む。


今までの話の流れをわかっていても

えぐい表現はできないし、

陳腐な表現もできないし

どうすれば、性表現をうまくかけるか。


つまるところ、

そのシーンにいくまでに、

「心を結び合う性」を肯定しておく場面を先につくっておかないで、

性表現が急にでてくると、これは、暗黙の理解という土壌がないから、

えぐくなるか、

とっつけて作ったようになる。


多分、そういう風に計算したんだろう。

(あ、物書きの勘で・・)


迫力がないといわれたのは、たぶん、そのあたりなんだろうと思う。


なんか妙に心優しく男女の結びをみつめる優しい「主人公」


ここは戦場だろうに?


そうおもわせたんだろうって思う。


で、憂生 なりの計算があったことなんだろうけど、


そのころに言われた

「迫力がなくなってる」

と、いうのは、

いわく。

「読み手を意識しているからだ」

だから、そんなものを意識せずに

自分の思うとおり、書けばよい。

って、憂生 が、いってんじゃない。

読み手がそういう・・妙な現象がおきたんだけど・・・。


たしかに、読み手を意識すると

自分が書きたいじゃなくて

読まれるためにどうしようかが

先になりやすい。


でも、最近。


それが、逆になってきた。


どう書くかという、上の意味でなく

書く気っていうのが、

読み手の存在あってこそって

部分が大きくなってきた。

あ~、ちょっと、浮気してた・・。

で、またこのタイトルに飛んでくる人がいるんだろうな・・・。


え~~~。


浮気相手はFC2さんで・・・。


いや、FC2さんの誰かというのでなく、


アメーバー・・・。


むむむ・・・。


メインブログから、見れば、アメーバーも浮気相手である・・。


まあ、いい。



で、FC2に行ってちょぼちょぼ、ブログを読んでいた。


で、コメントについての・・。


これも、判りにくいな。

コメントに対してでなく

「コメント」という物事について発言があった。


その中で、なんでも良いから、コメントをくれるのはうれしい。


つまらん。


でも、良い。


少なくとも読んでくれている。その事実はうれしいし、

つまらんと、わざわざ、書き込んでくれる「誠意」?もうれしい。


こういう意見は憂生も言ったことがあるから、よくわかる。


ところが、反面、


真摯にかいてあるものがあると

作者の意図をくみとってないかもしれない。

自分ごときの理解?でコメントを軽々しくかいてよいものだろうか。

とか、

そんなことを思い、コメントを書くに書けない時もある。


う~~む。


これに、二つ思う。


自分がコメントする場合。


軽々しく書けない真摯な内容。


と、思える小説に出会ったことがない。


こういうと、御幣があるのだが、

まあ、小説の場合は、そういってしまえる。


と、いうのが、かなり良いテーマをもっていても、

小説の場合は、やはり、表現力や文章力や掘り下げ方も、

真摯さに含まれてしまう。


もちろん、その逆も有る。


表現力も文章力も掘り下げ方も巧いのに

テーマがいまいちになると、これも、

真摯さというところから、若干外れる。


ところが、日記などは、エキスというのかな。

中心点をクローズアップするから、

テーマで、真摯さをはかりやすい。


で、そっちのほうは、

こっちの思うことを書けるときが有るけど

あまりにも、遠いものごとは、やはり、コメントが書けない。


つまり、自分の中になんらかの相似形がないと

書けない。



そして、もうひとつ。


自分がコメントされる場合。


これが、今までいろいろと、評価されてきてる人間で有る部分で難しい。


たとえば、

よく、そこまで、考えられるね。

と、内容の理解と着眼点に気がつく人がいてくれる作品に対して

別の人が

「難しくて判らない」

と、いったとする。


これは、本当に申し訳ないと思うんだけど、

簡単に書けない憂生が悪いと、どうしても思えないんだ。


と、なると、逆視点にたつと、

これくらいの文章を難しいと感じるほうが、言い方が悪いけど

おばかさんなのだ。


って、見方がなりたつ・・かも・・。


すると、難しいなあ。


って、思って、そこを、素直にコメントすると、

私は、おばかさん・・ですって、

言ってることになってしまって・・

書きたくても、書けない?


あげく、憂生は、二言目には、

人を批評するようでいて、

実は自分を披瀝することである。


だから、憂生は批評は苦手で、

読み取れない自分の感受性?理解力?のなさを

披露するだけになりやすい。


ってね。


そんなこと、かかれちゃ、


おい。


良いも悪いも書けんじゃねえか!!


って、ならね?


で、憂生の場合は上のようなぶぶんがあるとしても、

通常、

小説となってくると

考え方の議論?じゃ、すまない部分が有るし

やっぱ、書いてる人ってのは、

一種、職人みたいな部分があって、


プライドちゅうか、

作品への愛着ってのか、


そんなものがあるから、

FC2さんの某ブロガーみたいな考え方も

判らないでもないんだけど


やっぱ、憂生、いろいろ、コメントいただいた過去歴をたぐると、


作品は読まれた時点で

もう、作者のものではない。


そう思う。


同じ作品でも、引っかかる?所、人それぞれ、違う。


受け取り方も、理解の仕方も違う。


それは、やはり、評価とおなじように、

小説を読む自分の「なにか」が、投影されて

そこに引っかかる。



まあ、こう掘り下げると

憂生が

ある意味、真摯な作品に出会ったことがない。

と、

いう言い方をするのが自分でわかる。



つまるところ、

人の』作品の中に、あるかないか、判らない

自分の「なにか」をさがすより、


自分の作品に

自分の「なにか」を投影させたがる、

書き手の自分の領分のほうが大きいという事になる。



つまるところ、FC2某ブロガーさんは、

読み手理論なんだな。


憂生はどうしても、書き手理論。



なんか・・・。


浮気の始末書?かいただけのような・・・。


妙な話になっちまったべ。

緋縅・・・に思う。

緋縅。

この名前を聞いて、ぴんとくる第一人者は
た~まとときちゃんだとおもう。

憂生のワガママなリクエスト
緋縅だった。

戦国乃杜についての概要は
緋縅を始め陽炎など・・その作品という本物が全てを語るので憂生のごたくは略すけど・・。

緋縅。

緋色の鎧。

それは、まるで血で染めた・・かのよう・・。

緋色。

緋縅をまとった武者を、見たとき
相対するものは
幾戦もの修羅場をかいくぐったつわものと
思うのかもしれない。
戦った相手の返り血で鎧の組みひもまで
赤く染まるほど・・。

それほどの強者・・として・・
緋色の威し。

そう見えるかもしれない。

だが、実際は・・。

最後の最後まで戦い抜く武士の魂がにじみ出たと思う。

傷をおい、血だらけになった武者を血祭りにあげる。
猛り狂うは修羅場の必定。
実際は満身創痍・・。
に、なってさえ、戦うためには、
血を滲み見せるほどの危険は無い。

あるいは、満身創痍の覚悟の上
緋縅は血を滲み見せないための緋色。
死して散らん。
覚悟。
ひるみをみせないための緋色。

こうもとれた。

だが・・・。

ひ・・・。

「ひ」とは、魂のこと。
戦い、挑む・・その姿で
「ひ」を威す。

決死の覚悟が敵兵の魂に怖れ(畏れ)を呼び起こさせる。

「ひ」威し。

憂生は
緋縅をこう、解する。

だから、た~ま。

憂生は作品を手がけるもの達、なべて、
緋縅をまとうと思う。

だから、
憂生は「緋縅」をリクエストした。

そして、また、レガち君。
た~ま&ときちゃんに相次ぎ

緋縅武者を拝謁できる憂生であることは、
まさに・・
歴史の壱証人の気分であるよ。

http://steelgear.nce.buttobi.net/garou/kageroh_tx_sc.html

スクロール文章の作り方として
これは、上手いと思う。

文章が上がってくる時間を設定する必要が有るとは思うが参考になる。

http://steelgear.nce.buttobi.net/garou01.htm

アルバム のタイトル目次として参考になる。

http://steelgear.nce.buttobi.net/garou/bangai05m.htm

全く、何度見ても圧巻。
悪漢と書いてしまいそうだった・・
が、これはた~まのこと・・
エロ悪漢・・健在なんだろか?

と、勝手にリンク掲載したぞ~~~。
/承諾済んだぞ!!/笑

と、書いたが~~~~。
どうも、直訪問できないシステム になってるので・・

捜してください/笑

画像保存の小屋からアルバムタイトル羅列の最後のアルバムをクリックしてもらって・・。

陽炎のスクロールはモノローグ に収められています。

思い込みを捨てる。

まあ、いつもの如く、批判から入っていく。

***になりたい。

と、いう思いが実はただの思い込みでしかないってことに

気がつかない人を見ていた。

実は憂生もその範疇であることが

ひとつ、開けた気がしている。

例えば小説家になりたい。

と、思っている。

この裏の思いこみは

「自分の小説はすごい」と、いうことになるか。

確かにすごい/笑

ただし、自分からみたかぎりであること。

そのすごい理由をあげればきりがないんだけど、

この理由によって、

「自分の小説」はすごい。と、自分に刷り込む。

ところが、実際問題、メデイアには認められない。

で、あるのに、「自分の小説はすごい」と思いこんでいる、

この思い込みが余分なことを考えさせる。

もっと、いろんな人に読んでもらいたい。

出版したい。

ある程度、ぬけてきたら、それもお笑い種である。

その昔、「本当に人生をわたって見なきゃこの続きはかけない」

と、思って、断筆した。

そして、この続きは作品でなく、「人生」で体験した。

人間自分が惜しい。

ここまで、がんばったのに、

こんなすごいことかいてるのに、

どうしても、自分を特別な人間と思いたがる。

作品という事がすなわち、自分の人生であると考えたとき、

みんな、作品を描いてる。人生を生きている。

その中で自分の意識部分だけを文字にかきとめる。

音にしてみる。絵にしてみる。

すると、これが、人生を「形」にできたようなきがして

しまうんだけど、

じゃあ、実際の自分って、自分の人生ってどうなんだ?

って、思うわけだ。

その作品が人生だろうか?

それは、「考えや思い」をまとめたものでしかない。

本当の人生は、例えば、友人とゆっくり酒をくみかわしてみたり、

結婚したり、仕事をしたり、喧嘩したり、病気になったり・・

多くの人とふれあうのが人生だろう。

OH!!

また、説明しなきゃならないか?


アダルト書いてるからからって、

本人も欲望ぎらぎらの人間だと思うなよ。


って、。


で、一段落して。

何度か、書いてるけど、

物書きの幅、広げようと思って、

本当は、官能小説に挑戦した。


結局、へたれな表現しか出来ず、

アダルト小説に、なってしまった。


相変わらず、テキストと向かい合いながら

書き上げた

一発書きだったけど、

自分ではそれなりに表現できたとは、思っている。


そのHシーンじゃなくて、

その時々の心理?


独白。


まあ、たとえば、



「でも・・こわい・・」
「怖くないさ。むしろ、気持ちよくなるよ」
この後に当然加世は痛みに劈かれる事になる。
だけど、別に俺は嘘を言ったわけじゃない。
ただ主語と述語が抜けていただけだ。
『加世が怖がることじゃない。
俺が気持ちよくなるんだ』


とか・・・。


こういう風な表現でどこまで、シーンを装飾できるか、

これが、面白ければ、

Hシーンそのものの、表現は官能小説じゃないというんだから、

そんなに、みっちり、書き込んで無くても、合格点に達するんじゃないのかな?


って、思ったりしてる。


そういうHシーンそのものでなく

盛り上げる?表現の部分を評価してくれると嬉しい。


とは、思ってるけど、


はたして、こればかりは、好みがあるから、

人によっちゃ、えぐいと思わせるだろうし・・・。


むつかしい。

FC2小説の中で・・

彼の感想?ノートに憂生の作品が掲げられていた。

まあ、こういう事でど~こ~思わないし

もっと、言ってしまえば

珠玉の銘として、自分の励のために

憂生の日記などをブログに保存しておく。

と、いう事例はすでにいくつかあったから、

ま、彼の中でなにかの役にたってるならよかろう。

と、気にもとめていなかったのだが・・。

短編だけをとりあげられるのも、ちょいと、気分がわるい。

ソノ頃1万文字前後の短編なんて、憂生の作品のなかでは、

数少ないほうだったから。

短編が主のように思われるのもいやだった。

そして、しばらくして、憂生は彼に嫌気がさしてしまう一言にであってしまった。

「ここには、レベルの高いものしか、あげないんでね」

この一言だ。

早速、憂生は作品への感想をとりさげてもらうように頼んだ。

もちろん、憂生の作品が取り上げられるレベルじゃないのに

恐縮だとか、恥になるじゃないかなんてことじゃない。

彼の一言に幻滅したからだ。

むしろ、そんな考え方の彼の場所に憂生の作品への感想を

おかれることのほうが、恥だとさえかんじた。

憂生の考え方はねっから違う。

この違いのもっとも、おおきいところは、

「ここには、レベルの高いものしか、あげないんでね」

という考えでなく、

その言葉を平気で掲載するという感覚の違い・嫌悪だと思う。

みんな、一生懸命書いてる。

まだ、途上で、巧く無い人も居る。

彼の言い方でいえば、レベルが低い人だろう。

だが、レベルの高い作品というものの定義が明確にされていない以上

いっぽうで、低いものをこけにした言い方にもきこえる。

レベルが低いということをいってしまえば、

憂生も昔、そんな人の作品を添削指導したことがある。

前述の泣きながらくらいついてきた人ではない。

だが、正直どうにもならない。

勢い、例えばで、こっちの書き方で彼の文章を書いてみせる。

二つ思った。

どんなにへたであっても、自分の材料で構築しないと家が曲がる。

もうひとつ。

自分のレベルを自覚すると、人によっては、書く気をなくす。

彼がいいだしたのは、

「憂生さんの書いたのがいいです。憂生さんがかいてください。

僕は無理です」だった。

無論、本人の姿勢もある。

だが、憂生は失敗だと思った。

過去、河原さんに14、5歳の人間が

「書けよ。書けよ」と巧い下手じゃない、書いていくことこそだということを

刻み付けられた。

問題は書いていこうとするその姿勢。

ここを問うべきじゃないかという思いができあがった。

だから、その姿勢にこそ、レベルの違いがあるかもしれない。

あとは、書きなれや表現技術を支える感覚や経験などからえた眼差し。

この違いがでてくるだろう。

書きなれた人間や持って生まれた感覚、経験からのまなざしを

レベルが低いの高いの詮議するまねができるほど、

憂生はかきなれてないし、もって生まれた感覚も光るものでないし、

人生経験からのまなざしも浅い。

何をして、

「レベルが高いもの」と彼が定義したかしらない。

そのうえで、またも、彼の感想欄で尋ねた。

かえってきたのは、

「俺のポリシー」だとか「判る奴にはわかる」という

まったく理解できない返事だった。

人様のものを勝手に取り上げる以上

「わかる奴にはわかる」は通じない。

ましてや、彼は小説家を目指し自分の糧のためにも人様の物に感想をかいている。

と、どこかでいっていた。

小説家が「わかる奴にはわかる」という態度を口にだすのは、憂生にはありえない。

自分の表現がまずいから、わかってもらえない状況がでてきている。

こここそが、彼のめざす作家修行のポイントになってるのじゃないか?

と、憂生は思った。

で、そこもずばりときりこんだ。

結果的におきたことは、

「憂生のにせものがでた」という彼の逃げだった。

逃げだとわかるのは、本当に憂生の偽者だと思うのなら

憂生のところに確かめにくるだろう。

FC2の管理体制にも問題点があるわけだから、

FC2小説を考えるというところでFC2小説の問題点を考えてる憂生のところに

感想欄にIDリンクが無い事が(今はあるのかな?)ひきおこす問題として

提示してくるなり、FC2小説当局に問題提起するだろう。

まあ、そのあたりのこともさらりとながして、書いたと思うが、

真相はずばりときりこまれて、立場がなくなった彼の猿芝居ってとこだろう。

まあ、そんな風に、

FC2小説の感想という部分ではいろんな考え方で書いている人がいるわけで、

これを正しいとか悪いとか、裁く権利などないのは当然なことで、

憂生も以後、彼の相手はしてない。

むこうもしてないだろうが/笑

結果的に彼の感想の悪さというのが、自分にかえってきている部分がある。

「感想書きます屋」さんがでてきて、自分はでる幕なくなったかな。

と、いう科白がちらりとみえた。

語るに落ちたというのは、このことだろう。

自分の作家修行のためにかいているのなら、

「自分の出る幕」なぞはじめからない。

自分が自分のためだけに作品をどう捉えられる自分かを記録しておく。

こういう風なものだろう。

結局、彼の思いのなかに「良さそうな作品」への感想をかいて「自分が出る幕」を作る。

と、言うものがある。

で、なければ、「レベルの高い作品しかとりあげないのでね。」で、なく

一つの作品から「得るものをいただきなおす」という思いが言葉になってくるはずであろう。

残念ながら「わかるやつにはわかる」という言葉をかりれば、

憂生は彼の姿勢の悪さがわかった。

と、いうことになる。

だから、憂生はもうすこし、言葉を選びなさいという事を提言したが、

「これが俺の言い方なんでね」って言葉がかえってきていた。

これさえ、作家修行として考えれば

どういう表現するとよいかという大きな命題であり、

彼が作家としてもうひとまわり大きくなる「視野の拡大」につながっていくわけで、

成長していこうとする上昇志向を前面にだしているわりには、

一歩つっこんだら、打たれ弱い。

だいたいにして、才能があるのなら、こんなところで、ぐずぐずしていないで、

あちこちに投稿してみるなりして、自分の作品をなんとかしようとしてるだろう。

その公募などにとおらず、作家デビューできずに

作品をねむらせるのがおしくて、作品を挙げるというのならまだしも

そして、そうであるのなら、なおさら

「書けよ・書けよ」と言葉をかけていくのは自分にたいしてであれば

まかりまちがっても、

「レベルの高い作品しかとりあげないんでね」はでてこないし、

裏返せば

それが出版社からの彼への厳しい採点だろう。

「うちの社ではレベルの高い作品しかとりあげません」

さては、自分に突きつけるべき問題をして、

他者にふりあてて、

彼はFC2小説出版社、審査担当係に昇格したか?

と、まあ。

ここまで、書けば読んだ人は、多分、彼への中傷だとおもうだろうなあ。

憂生は厳しいことをいうけど、

もう一歩上のレベルをめざしてほしいだけなんだけどね。

結局、性格などなどが、文章にでてしまうから・・。

そして、性格などなどが、作品のレベルにかなり影響をだしていくから。

みろ。

憂生なんか、結局鳴かず飛ばずじゃんか。

出版の話をことわってから、おまけにいただいた書評を解説がわりにつかいまわすから

出版社も書評を書かせるために悪用したとおもってるんだろうし、

金にならんと鴨にもなれず、物書きどころか単なる物書き依存の物の怪の如くであるよ。

迷い道かな・・

FC2ではいりこんでくださった感想をいただき、憂生の中は不穏な思いがあったとおもう。

さる人物をおもいうかべていた。

本人のかいてるものは、なんじゃこりゃというものらしく・・・。【憂生はよんでないので、よくしらないし、すでに感想などで、彼の姿勢に疑問をかんじていたから、なおさら読む気になれなかった】

本人はいっぱしの作家気取りか、評論家きどりで、人の作品に好き嫌いや文句?をたれる。

好き嫌いで、物をいえないと思うのだが、憂生もやってるのだろうなあ・・。

まあ、そんな中で、「入り込んで、自分の琴線に触れた部分の凹みまで、さらけだして、感想をくれる」って、のに、いたく嬉しくなった。

その反面でさる人物の批評まがいをそしる思いがわいてくる。

はいりこんで、感想をかかずにおけない。これが、本当だろうに・・。

手の平にのせて、此処がいけない。つまらん。これは良い。

自分の物じゃなかろう・・。

って、自分の物はどうなんだよ?

って、おもっちまうわけだ。

で、風の噂によると、とてもよめたものじゃない・・。

感想よろしく、本人の作品も中身がない・・・。軽い・・。

これをこきおろしたくなってくる憂生がしょうじてくるわけだ。

違うだろう・・て。

まずは、自分でたしかめてみてからだろう・・?

だが、それさえする気がなくなる、諸々の彼の所業を思う。

相手にすまい。

ってのが、憂生の本音だった。

だが、せっかくの嬉しいコメントをもらいながら、別のところで、彼を見比べている。

こりゃあ、だめだなって、憂生は自分を思う。

環境のせいにしちゃいけないが、そういう場所に自分をおいておくのもよくない。

そこでもらった、感想をして、そういう自分の鬱憤?を引き出す材料にしちまう。

ひとつに、これは、うぬぼれた言い方だが、違うんだろうと思う。

過去に酷評場に投稿したときも、酷評にすりかわったが、

最初の前置きは、

「こんなところに作品をださなくても良いレベル。群をぬいて巧い」

だった。

FC2は嫌な言い方だが、前述の彼がはいりこめない作品への感想をかいていることに

疑問を感じない人間のあつまりなのだろうか?

いつだったかも、悪童丸にたいして、

こんなクオリティのある作品をFC2で読めるとおもっていなかった。

という感想がはいった。

そして、せっかくの嬉しい感想に不穏な思いをわかす・・。

これは、ぶしつけな言い方だが、酷評所と同じではないのだろうかと思う。

「こんなところにださなくても良いレベル」

それをすなおにうけとめれば、自分の都合の良い風にうけとめれば、

FC2に作品をおくから、不穏な感情を産む結果になった。

と、いうことになるか・・・。

まあ、進退ふくめて、考え直したいところはある。

せっかくの感想をすなおに喜べる場所、この場所も物を書くに大事な要素ではないかと・・

あやふやな話

じと~んからはじまって、ここしばらく、憂生の不思議部分と自分への考察をやっていて、

まあ、知ってる人は多少なり不思議&スピリチュアル・1で憂生のことを知ったとおもうのですが、

今回、自分の中で新機軸みたいなのをつきつめていくためにも、

あえて、かなり、しんじられないだろうこともかきました。

まだまだ、未解決?よくわからない事件はあるのですが、

いったんは、さらけだしてしまわないと、

一歩、階段をあがれない。

そんなきがしたのです。

文章をかくということで、まとまっていったり、

「ひらめき」「沸く」というのが、こりゃあ、どうも、すごい能力あるみたいで/自分で言う/笑

実際、白蛇抄1~14・SO218編・ほか物語

これはぶっつけ本番でかきまくり、半年ちょいくらいで、かきあげたおぼえがあるのです。

200万文字以上あると思います。

なにも細かい構想も下書きももたず(今頃いけまへんが・・)

一発書きで、あの文章がでてきたという。

読んでくれた人はいかほど、細かく構成されてるかしってらっしゃるとおもうのですが、

あれをちらりと頭でかすめて、もう、手が凄い勢いでかく。

打ち込みがとまる事がないという状況だったわけです。

そういう・・。

なんていうんだろう。

構想力の塊。

閃きと沸き。

よく、文章の神様がおりてくるというけど、

まさに神がかり状態。

こういうのがあって、文章にしていくと、思わぬ考えがでてくる。

書きながらその考えをにつめていく・追従していく。

そんなのがあって、まずは書き留めることにしたわけで・・。

で、な~~んか、やっと、ひと段落したかな?

と、おもえたので、

物語の続きなどなど、やっていくつもりです。

スピリチュアル2は根本的には

自分で解決できるんだよ。

って、ことをいいたかったので、

次はもうちょっと、違う視点がでてきたら、書くと思いたい(あやふや・・)

はりあい


願いということをかいてみたけど、

ひとつ、きに成ったブログがあった。

小説家になりたい。

と、いうブログに遭遇することがある。

で、正直をいうと、とても、なれないだろうなあ。

と、思ってしまう。

と、いうのが、

きちんとした小説をかける状態じゃないのに、

小説家になりたい。と、おっしゃっているから。

そこで、小説家になりたい。

と、いうのと、

小説をかきたい。

と、いうのは、違うんだな。と、思った。

まともな、小説をかいていれば、

世間はほっておかない。

憂生もその点で、ほっておかれるような小説しかかけていない。

友人の言葉で象徴される。

「ネット作家にしておくにはおしい」

だが、小説家としては通じない。

まともな小説がかきたい。と、思うのならわかるんだけど、

まともな小説がかけなくて、

なんで、小説家になろうとおもうんだろう?

つまり、小説をかきたい。のではなく、

小説家に象徴される「なにか」になりたいとおもっているんだろう。

小説家に象徴されるなにかとはなんだろう?

憂生には、判らない。

憂生が自分の作品を出版したいとおもったときに、

出版社側からたずねられた。

「あなたは作家になりたいのですか?」

厳密にいえば、世の中のすべての人間は「作家」である。

まあ、こういう論理はあげあしとりだけになってしまうので、

やめておくけど、

憂生の答えは

「作家にはなりたくない」だった。

自分のかいた作品を多くの人に読んでもらいたいと、

出版ということを考えたわけだけど、

実際問題、**社の初版発行は500冊。

店頭においてもらえるのは、450冊。

そして、増刷がなければ、それでおわる。

発行権をなくす。

450冊という価値でおわってしまうかもしれないことに

大枚をはたいて、自分の発行権をなくすことはいやだった。

450人という人数に限定されてしまうために、

金をだすのもいやだった。

ネットで発表していて、はたして、450人以上の人がよんでくれるかどうか?

と、考えた場合もまあ、自分のパターンでかんがえたら、何人よんでくれたか、

さっぱりわからない。

だけど、ふと、思う。

ショーペンハウエルの言葉。

「必要な本は絶妙なタイミングでそのひとの前にあらわれる」

このことは、自分が本をブログを読むときにもあてはまる。

ならば、自分が本を公開しているときはどうだろう?

必要な人がよんでいるかどうか?

読んでいるだろうと思う。

そのときには「人生を深く考えさせられる」とか

「表現力が勉強になります」とか、必ずコメントがはいり、

長い付き合いが始まる。

あいてにとって必要だったのだろうと思う。

その「必要性」ということを考える。

出版しても、ネットであげていても、

「絶妙なタイミングであらわれる」ことにはかわりがないだろう。

その数がすくないのもしかたがないことだろうし、

少ないからこそ、世間にほっておかれる。

そして、さらにいえば、「必要性」という問題。

簡単に言えば「良作」という部類のものだ。

一過性の娯楽作品でヒットをとばす作家になりたいのなら

それはそれで、がんばるしかないけど、

憂生は、「良作」でありたいと思う。

良作というのは、薬に似ている。

良薬口に苦し。

良作もまた心に苦い。

この苦いものを、甘くあじつけたりするのが、

ストーリーだったり表現力だったりする。

つまるところ、甘くうけいれやすくするオブラートにつつむという

技術力がないと作家にはなれない。

よんでいて、このオブラートや甘みができていない作家がおおく

ぎゃくに、「苦味」のない作品も多い。

これといった、「自己流の視点」がない「掘り下げ」がないものに

金をだしてまで買おうとはおもわない。

このあたりが、見えてない。

音楽ならみみできいて、「ここちよいかどうか」ではんだんできるものだけど、

文字はめでよまなきゃならないぶん、ぎこちなさ、てーまのふかさがないと

致命的で、ある。

うじゃうじゃ話

威勢のいいことをよく言う割には

まあ、肝っ玉が小さいというか、

けっこう、ささいなことにこだわる。

日記を読んでくれてる人は判るだろうけど、

まじめ・・な人間だと思う。

真摯な部類のつもりでいる。

今回ボーマンをかいていても、おもうんだけど、

「思い方をなんとか、してやりてえ」

みたいなところは、

まるっきし、憂生の映しだとおもうわけだ。

根本的には、物語はだいたいこの路線。

でも、場合によっちゃ、性表現とかある。

ところが、この性表現だけを検索かけてくるばかちんがいる。

考え方で言えば、前にも書いたけど

「性表現だけ拾い読みしているうちに、

もっと、大事なことがかいてあることにきがついた」

と、つたえてくれた読者様もいたわけだし、

そこのところをよみとってもらうのは、

それこそ、そういうばかちんにこそ

必要なことかもしれないわけで・・。

と、いう考え方もできるわけだ・・。

ところが、今の世の中だからね・・。

無理に憂生のところでよんでもらわなくても

ほかでも、いっぱいあるっしょ?

ほかに無いっていうのなら、まだしも、

いっぱいある。

で、あるのに、手をかえ、品をかえ、

アイポッドにかえ、携帯にかえ、

リモートホストをかえ、・・・

わざわざ、訪問しなおしてくださるのに、

あいかわらず、「ほかにもいっぱいあるっしょ?」

って、ログできてくださる。

で、思いきって、アクセス禁止をかけると、

ストーカーばりに、さがしまくって、

ログにあたるものをさがしまくる。

だから、それ、ほかでもあるっしょ?

憂生じゃなきゃ、だめだと思うのなら

ほかでもあるっしょ?って、ログでいくらきてもだめだってことだし、

ストーカーばりなことをやられると、

まじ、ひきます・・・。

くそまじめな部分もあるぶんでね、

そこだけ、トライされるとね、

やっぱ、気分こけますし・・。

なんもかも読めとはいいませんが、

まじな人間の部分もちょいと、みてほしい。

だけど、そこを無視したようなやりかたで、こられると、

元来、短気です。

ここのように、記事とっぱらうことだって、

やりますから・・。

憂生の精神的環境をぶちこわして、

よみたいから、なんでもよいと

例文でも書くにかけないあほろぐで検索かけてばかりいると、

そのうち、ぴきっってきれて、

IP番号とIPアドレス、公開しますよ。

特にソフトバンクの**さん・・。

誰かわからないからとアホログで検索してると、

まあ、大人さんだったり、個人のパソコンだったら、いいでしょうけど、

家族と共有してたら、えらいことになります。

そこらへんのところでね、

やっぱし、はねられたら、

そういうログで検索されたいブログのほうにいっておかないと、

これは、この先、アクセス解析常備のブログがふえてくるにつけても、

検索訪問による、迷惑行為になってしまうわけですから、

検索の仕方についても、いずれ、規制がはいってくると憂生はふんでます。

度重なるアホログ検索も迷惑行為になる。

ってね。

その裏実証的にIPアドレスの公開ってかたちで、やっていくと、

なかには、同じ人にアホログで検索されて、憤慨してるというひともでてきて、

この人は、アホログ検索の常習者ってなふうに、マークされるってこともありえる。

ネットだからと甘い考えで物をやっていたら

ネットだからこその、あばかれ方をされるということだってありえる。

そこらへんをね・・。

甘い~~考え方でやっていく人間という意味合いでも

そんな人間はいらねえ~~~よって思うから

ほかにあるでしょ・・って、やんわりにいってきてる。

やんわりいわれてるうちに、

かんがえなおさない人間は、もうひとつ、いらね~~~~。

と、憂生の複雑に捉えた末の感慨です。

回帰


この前も書いたかもしれない。


憂生の作品の多くに性表現が多く介在する。と。


で、ストーリー上、必要で、はしょるわけにもいかない。と。


さらに、

では、アダルト小説の性表現と物語の性表現がどう違うのか?

と。


もちろん、物語の中の性。性の中の物語。

入り口も出口も違うのであるが

さっき、山童に陵辱される鼎を助け出す澄明をかいた部分を読み直していた。

鼎の思念に同化し、その陵辱の記憶一切を引き受けることで

鼎を餓鬼から救い出す。


で、鼎に起きた事件イコール澄明におきた事に摩り替わるわけだけど。


どうも、この場面を読み直すと、厭味な言い方だが

下手な陵辱小説より、いっそ、生々しい。


陵辱小説は、その人の書き方にも寄るけど、

その表現が気持ちが悪くなる。


憂生が常々、言ってることは、

性は心が生きる。

コレしかない。


だから、性を書く時は

基本的に「性は心が生きる」を心がける。


大きいところでは、

キープユー。空にかかる橋、で、そのままの言葉を使ったと思う。


じゃあ、永沢君は?って、なるよね。


アンチテーゼで心が生きてない性の虚しさ・・見えないかい?

今、永沢君執筆中(この、言い方、嫌なんだけど・・)の分。


これも、書き終わってみたら

小夜よろしく、大事なものを掴みなおす永沢君になるわけで・・・。


そう、考えると、物語の中の性のほうが、

むしろ、そういうテーゼが介在しない時がある。

この鼎の陵辱場面もそうだし

笑う女の中の性表現も

「心が生きる」に結びつくものではない。


そう考えると

昔、言ったことが、もう一度、帰ってくる。


すでに、アダルト?書いてる・・。

*現在、無配慮ならびに無神経な検索ロゴのため、永沢作品の封さを検討しています。。

永沢の名前での検索でも、エロ目的という判断ですので、

SO2などにも、わざわざ、Hなシーンとか?をくっつけてくるのも、管理人への侮辱行為とみなしており、度重なる場合、これも以前のように封鎖します*

同一視

永沢祐稀名義でアダルト小説をかいたわけだけど、この時に一番嫌だと思ったのは

追っかけまわされること。

場所を変えれば、また同じ人間がやってくる。


で、次にやって来るのが、エロサイト勧誘メール。

うっかり、訪問相手の所に行ったら、変なサイトに飛んだり?

どうやって、調べるのか知らないけど・・。


こっちのメールアドレス調べて、メールをおくってくる。


メールの文句も同じ人間が考えるのだろう。

同じ系列が並ぶ。


一瞬、ひっかかりそうになったのが、

相談に乗ってやってください。

っての。

憂生の弱い部分だ。

悩み事かかえてそうな人間が気にかかる。

でも、そのタイトルが10通とか来たら、

さすがの馬鹿もきがつく。


次に流行ったのが

「3億円当たってしまったので、思い切って、貴方を3000万でかわせてください」

は~~~~~。

これが事実なら

3000万×50件以上の申し込み。

すげ~~~~~金持ち。今頃1兆くらい金庫に仕舞ってるぞ。


馬鹿だね。と、思う。

なんで、こんなに工夫が無いんだろう?


そんなんでも、ひっかかる人間は元々そういう出会いを利用したい人間だけ。

それで、ひっかからないってことは、そういう出会いを利用したくない人間。

いくら、メールをおくりつけても無駄な人間だって判断できそうなのに・・。


頭、単純というか。


アダルト小説書くような人間は、現実でも

性欲ぎらぎらの人間だと思ってる。


人間、裏表ありますから・・・。


逆にまじめそうな人間の方がもろいかもしれないね。

アダルト小説を書く人間のほうが、

逆に抵抗力?あるんですよ。


だから、少々のことで頭に血が登らない。

むしろ、冷静に観察してしまうくらいの余裕が有る。

じゃ、なきゃ、アダルトなんか書けません。


そこをわかっていらっしゃらない。


で、おっかけとか、メールとか、たくさん来る。


つまり、少々の表現で頭に血が登るタイプ?


ある意味まじめ?


もろいヤツだよな。


せいぜい、抵抗力つけるしかない。


そんなヤツ・・のほうが、

アダルト小説書いた方がいいかも。


人を追っかけてないで、メールかいてないで

自分でアダルト小説でもかいて、

「まじめな人」つかまえたほうがはやいんじゃないか?

って、思ってしまう。


まあ、それくらい、アダルトを書くってことの裏側に

ネットとリアルの同一視があるんだよな。


日夜奮闘すべきか?

誤解とくために?

毎日、こんな文句かいて?

続きを読む

報告? /憂生ですが・・・・

アダルトを書いたブログには
早速、エロサイトからコメントや
トラックバックが送られてくる。

まあ、一応、参考のためにと
/いや、本当に・・・/
覗きにいったんだけど・・・。

な~~んか、
いろいろ、名文句に圧倒されてしまって・・。

ほんの2,3行であおれる文句を
かけるなら、
小説だったら、どうなるんだ?
おそろしくなって、
そんなものを覗きにいくのはやめたが、

かわりに写真 をみてきた。

やっぱ、こりゃいいなって、思う写真は
構図がいい。
素人の投稿写真とくらべりゃ、
月とすっぽん。
プロのものなんだろうな。
女の子の配置から、女の子の
スタイル から、ポーズ、手の置き方、
何もかもがさまになってる。
男の方もちょいと羨ましくなる
毛深さで筋肉も程よく付いて
精悍である。
綺麗に決まりすぎて、
朝日
カメラ
見た、芸術写真を思い出した。

まだ、ヘアー解禁になってない頃の
芸術写真だ。
まだ、若いかったというか、幼かったというか、そんな頃だから
初め、何が写ってるのか、
判っていなかった。
男の手が何かを隠している。
しばらく、ながめて、
女性の部分を手で隠していて、
脇の白いものが女性の太腿だと
気がついた。
男の手はまるで漁師かなにかのように
ふしくれだっていて、
女の肌の白さと
対照的な赤銅色だったが、
もちろん、プロの写真だから、
ピントに隙間なぞない。
手だけでも、十分に通用するくらいに
撮られていた。
それが、女性の部分を包み隠している。

柔と剛。
白と黒。
張り詰めた均衡が構図の中にあった。

どこかにも書いたけど。
立木義浩が好きでさ。
当時、篠山紀信?/もじ、どわすれ、/
が、既にトップに立っていた頃だったけど
立木のほうに軍配を上げていた憂生だった。

写真をやめて、久しいけど、
今回エロサイトを
覗きにいってきて、
自分の中にまだカメラ目線/?が、
存在してると思わされた。

色の配置。
背景の色やトリミングの仕方。
人物の配置。
何処までを構図にいれてゆくか、
そして、やはり、モデル?の
肌のきめこまやかさ。

夢二は女性を描くとき
モデルの女性のかかとにうすく
紅/おしろい?/をさしたという。

写真屋も絵描きも
こういうこだわりを持っている。

コレが判るような
にじみでてくるような写真が
好きだな。

         報告、終。

没投稿

都祁(つげ)には不思議がいっぱい・・・・


奈良歴史ミステリーハンター☆鈴木 尚 さんの表題を見ながら


複雑な気分になってる。


先日も、若草山の山焼きのことで、ぶつぶつ、私感情を披瀝した・・・。


またも・・・。


そう言う。


かのひとも とおくになりし かすがやま


って、とこだったんだけど・・・。


都祁(つげ)か・・・・。


告げもせず、かのひとすまう、都祁(つげ)の里


あかんじゃん。


心だけ、ちかくになりし、都祁(つげ)の里


・・・。


没ります・・

人生の重味を知った人間の文章は・・・

風海が日記にかいていたよなあ。


反省…

レガっちの”宿命”に
感動。。


あんな風に書き物ができるのって
ものすごくスゴイ!

文字が力を宿しているように想えて
音にしたら
ゆるやかな
コーナー映像 さえ
浮かぶかもしれませんよ。。

*******憂生は改めて、レガち♪の
カフェ
覗きにいった。
タイトルをはっきり、覚えてなかったから・・・。

ひょっとして・・・、と、思いながらね。

行ってみた。

ああ、やっぱり、そうだ。

レガち♪
表現が深くなっていて、
一言で言うと
「畏敬」
この観念?が底に敷き詰められていると思った。

畏敬。

これは、有る意味、人間の存在のちっぽけさを
思い知らされる。

レガち♪になにがあったのだろう?

憂生もよく口にする言葉だけど、

おろがむ。

自ら無。

こう書く。

人間としての存在のちっぽけさを
知った上で
もうひとつ、ぬける・・・。

ちっぽけな存在が精一杯生きる姿。
森羅万象
自然というおおきなかむはかりの中、

畏敬の念を知った人間は

おろがむ思いを知った人間は

一種、神々しく
尊大に在るようにみえる。

レガち♪が
人知をこえる物へ畏敬の念を覚えたのは

何ゆえであろうか?

憂生は愛娘の誕生ではないかと
思ったのである。

育む性が
また、
育む性を
つないでゆく。
つむいでゆく。

母という性と
その母から
また、同じ女性である
つまり、またも母という性をもつ
むすめが生まれた。

妻が身ごもるのとは、違う意味合いで
むすめという存在基盤がかぎろわすみらいのみごもり。
みごもり、つなぐ生命。

むすめもいずれまた、
命をつむいでゆく。

おおきな自然の輪廻。
循環。

レガち♪にうたれるものが、
ぼっちゃんより、深かったのではないか?

妻というものは自分の一部
人生行路の相方だから、
身ごもるは、自分の
子供 を生むための
当然課せられてゆく宿命。
だろうけど、
娘は・・・
もっと、おおきな、
女という「自然」の宿命?

なんとなく・・・
この部分に
受け継がれてゆく命・・

自分というちっぽけな/お~~、ごめんよ/
存在を受け継いでゆかせる「命の育み」

神々しい小さな息吹に
レガち♪はうたれた。

憂生はこう類推したんだ・・。

人生の重味を知った人間の文章は
閃く。

そして、ソレを証明するが如くの風海の記事。
風海もレガち♪に、深いものをかんじとったんだろうな・・・。

エール


鋼雅 暁 さんが、プロかアマチュアの違いをよく詮議されている。


文章力の違いか?


いやいや、プロでもアマチュアレベルの人も居れば

アマでもプロレベルの人も居ると

文章力ではないと考えられたようである。


畢竟、モノを書くことにより、対価を得ているか、どうか。

これが、鋼雅 暁 さんの結論になり、

対価を得るだけの努力をし、文章に磨きをかけている。


向上心があるともいえる反面、

プロであるなら、あたりまえの心がけだと思いもする。


で、あるのに、何故、そんなにもがくんだろう?


言い方が失礼だったら、ごめん。


なにか、納得できないものがうしろにチラチラ見えていた。


なんだろう?


相変わらず、判らないんだけど、

思ってしまうのは


鋼雅 暁 さんは、読者からの手ごたえをかんじていないのかな?


と、いう事だった。


いつだったか、「モノクロームはモノ想いのモノ」って、日記を書いたことがあるけど、

その中で憂生は自分のスランプ状態のことを少し語っている。

要約すると、「熱がこもらない状態で書いた作品は読み手を意識する」

読まれてるだろうか?

とか

読まれるようにするには・・?

とか


だが、実際は、どんな下手な作品であっても、熱がこもっていたら、

なにか不思議なフェロモンを誘発し、不思議と読まれる。

いくら上手であっても、熱のこもらない作品は読まれない。


と、極論する。


だから、何より、欲しいのは「熱」だ。と、書いたことがある。


同じ理論で平行移動しちゃいけないが、

いささか、熱がこもっていないんじゃないだろうか?

書きたくて、書きたくて・・・じゃなくて・・。

金をもらってるから、書かなきゃいけない。


どこか、昔、憂生が味わった、「皆待ってるから書かなきゃいけない」みたいな

強迫観念ににている気がしないでもない。


こうなってくると、プロとアマのちがいは、

対価を貰っているか否かという事ともいえるが

書きたいときに書くという自由が多いのがアマだといえる。


もちろん、プロでも大御所になってくると、

村上春樹のごとく構想7年・・・なんて、自由が利くだろう。


ひょっとして、

契約者側に、請われているという自信が揺らいでるのだろうか?

読者の反応、手ごたえより、対価を貰う側がダイレクトにかんじるのはそこだろう。


だけど、昔、言われた。

「読み手は見抜くよ」と。

「熱がこもってるか、こもってないか」


プロだろうがアマだろうが、

「熱」のこもらぬ作品は読み手をひきつけない。


この部分で、少し、心配してる。


読み手の望むところに合わせるといわれるのは、

読み手をひきつけるべく「熱」のこもった作品をかけていないから下される判断ではないだろうか?


そこに甘んじてしまえば、契約者側に「使われてる自分」にもがく。


問題は「熱」を持つ。


そんな気がして、書かずに置けない・・・。

編集者側も「これでいきましょう」といってくれる。

そんな作品を生み出してくれればよいなと思ったりしてる。


でも、これも、あるいは、、「皆待ってるから書かなきゃいけない」みたいな

強迫観念になるのかな?


でも、読み手は必ず待っていてくれる。

ぎゃくに、そこにあまえてしまおうと思えたのも

好きでかいてたおかげだろうな。


「がんばれよ」

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協力出版・・

文芸社から、出版されている園田信さん・・・。

よく、思いきったなあ・・・と思います。

憂生は壬生浪ふたり・・・が審査になってしまい(このあたり・・事情省く)

審査員全員一致で全国出版しましょうってことになり、

断ったら、企画部長のほうから、特別推奨作品に推したい。諸条件を良くする。

例えば初版発行を1000部とか、書店をふやす。新聞社を増やす・・値段を下げる・・・

結局踏み切れなかったのは

増刷までいけるかどうかだった。

そして、増刷がなかったら、1000部(1割は自分の所に来る)と引き換えに

公開権利をなくす。

それも、こっちが金を払って・・。

こういうのがあって、公開権をなくすということを考えたら

はじめの設定は500部だったかな?それで、100万強・・・。

よほど売れ筋じゃなければ、450冊をそこらにおいてもらって、売れるか?

3000冊とかくらいならまだしも・・・。

で、文芸社側の売り言葉が「リアル鬼ごっこ」も最初は

協力出版からはじめたんですよ。

そう、映画にまでなったね。

だけど、憂生の耳に届いてくる評価はあまりよくない。

つまり、売れ筋作品の多くがもつ、娯楽作品でしかない。

心に残るとか、琴線に響く。

そんな作品がいっそう、うれにくいってことでもある。

だとしたら・・・。

1000部と引き換えに公開権利をなくすなら、

ネットでよんでもらったほうがいい。

すくなくとも、1000をこえて、よまれるかもしれない。

あるいは、よまれないかもしれない。

でも、誰かに読んでもらいたい。と、思ったときに

本をかってくださいとしかいえない。

完売はしたものの年数がかかって増刷の対象にならなかったら、

本をかってよんでくださいもいえない。

自分の作品でありながらね・・。

そして、読者様からは、

「金を払わず読んでいいのか?」

と、聞かれたり、プリントアウトして読んでくれたり・・。

それは、憂生にとって出版した以上に自分の作品を認めてもらえたと思える。

そして、公開権をてばなさずにおいて良かったと思う。

だから、

園田信さんが、文芸社から出版したというトピックを掲げているのを見ると

よくおもいきれたな~~~とおもってしまう憂生がいる。

出版について・・

文芸社の審査を受けたわけじゃないんだけど・・・(裏事情は省く)審査員全員一致で出版しましょうってことになって、それを断わったら、企画部長から特別推奨作品に推したいと連絡がきたわけで、それも、資金面で断ったんだけど・・・。

特別推奨は店頭置きの本屋も増やす、発行部数も増やす、新聞広告の段も大きくする、
新聞社も増やす、発行値段も安くする・・・と、かなりの優遇措置がとられるんだけど、
それでも、断ったわけで、

その大きな理由が公開権がなくなるということだった。

特別推奨で推されたところで、初版発行は1000冊もあるかどうか、
売れ行きがよければ次からは無償で増刷。
印税は初版の時からあるけど、8~15%だったかな?
1000円の本で150円としても、発行部数の1割だったかが、
自分の分として渡されるから150円×900冊として、135000円のわけだが、
発行するのに70~80万か?(通常出版なら100万をこす)
全部うれても、まったく、元はとれないわけで、
ようは、増刷されるところまで、行かなきゃ話しにならない。

もちろんこれは、資金面の話で
仮に出版しても、増刷されるところまでの売れ行きがなかったら・・・。

金をつけて、900冊と引き換えに発行権利、公開権利をなくす。

馬鹿みたいじゃないかと思ったのが真相だったが、
ある時、別の出版社の情報を得た。

公開権、発行権をなくして、900冊の出版のうち、はたして、どれだけの人によまれるだろうか?

増刷されるほどの売れ行きがあるという自信がなかったのも
ひとつの原因であるが、
先のページでかかなかった、裏事情というのが、ネックだった。

初め、白蛇抄の出版が可能かどうかということを確かめたかった。
白蛇抄はそのころで、14話まで完成しており、総文字数は100万文字近かった。

過去、悪童丸も新風舎から、何度も出版をすすめられたのだが、
新風舎の販売システムがいやだったのと、
一冊100万強・・・という値段(割引を押さえてくれたりもしたんだけど・・)
一冊出して行きましょうというのが、新風舎のプッシュだった。
だが、白蛇抄の作り方はそんな単純な物じゃないので
これも断り続けた。

そして、出すなら、せめて、6話まではいっぺんにだしたいと考えていたし・・。
正直、企画出版を当て込んだ。(のちに、企画出版は絵に書いた餅とわかる/笑)
で、そのあたり、100万文字という量の作品が企画出版になりえるだろうか?
無理な話ならはじめから審査に送っても、無駄だと思って
そこのところをといあわせたら、一度見せてくださいということで、
送った。

すると、担当さんが大慌てで、企画室にもちこんだようで、
協議の結果、「保留」という妙な結果に終わってしまった。
つまるところ、企画出版でだすことはありえない。
だが、100万文字という作品を出版するとなると、
こちらへの負担は500万をこえるだろうということで・・・。

出せともいえない。
出すなともいえない。

それで、他に作品ありますか?
ってたずねられたので、保留に対しての判断材料にするのだろうと
勝手に解釈して、作品を3編ほどおくった。

ところが、それが、審査になっていた。

そして、その中の1編に特別推奨までの話がもちあがってきたわけだけど・・・・。

元々は白蛇抄を出せるかという事の話だったわけだから、
憂生にすれば、本末転倒、横道、ぞれ道、迷い道~~~~ってことになる。

そして、企画書が送られてきたり・・・。

だけど、本当に出したい物があるのに、別のところに
70万としても・・・。
それくらいなら、白蛇抄、悪童丸をだす。

まあ、そんなのと、発行権をなくすのとを、はかりにかけて、
読んでもらうのが目的なんだから、
出版にこだわることはないと、自分の権利でネットにあげている。

さるところで、出版社についての話が合った。

正確には、編集長の話で、
その方針や考え方が良かった。

簡単に言えばよいものを売る。
妥協を許さないってことなんだけど、
その編集長についての記事のよこに、
編集長を知る人のコメントがあることに気がついた。

そこで、ジャンプ。

出版社の名前は
幻冬舎だった。

新風舎や文芸社とおなじように、
アマチュアの出版を支援するのだが・・・。

まず心引かれたのは、その人が出版を幻冬舎にきめた経緯。

書評・・というか、感想がみっちり書き込まれていた。
と、いうこと。

確かにおざなりとも見える書評や本当によんでいるんだろうか?
って、疑いたくなる書評もある。

そんな中での丁寧で分厚い感想。

これで、なかば、幻冬舎にきめてしまっていたんだろうけど、
いざ、編集になったら、とことん、推敲に当たってくれる。

う~~ん、いい所だなあと思ったのでまず、値段を聞いてみた。

概算だが、1ページ1万円。

う~~~ん。

短編を出したい人にはありがたいシステムであろう。

しかし、100ページあるいは、500ページとなってきたら、
無理だなあ。

と、思った。

そして、一番のネックである、発行権利のことをもらして、
むつかしいですね。

と、返したのであるが・・・・。

ところが、

「幻冬舎は権利保有期間を3年に定めています」

増刷されるほどの人気があった場合はまた、話が変わって来るんだと思うけど・・・。

もしも、うれなくても、3年たったら、また自分の所に権利が帰ってくる。

その3年の間は幻冬舎がときおり、みかけるけど、新聞広告したり?
書店においてくれたりと責任を持って販売してくれるわけで、

もちろん、売れれば印税も入ってくる。
(もちろん、初版のみでは、元を取り返すことは不可能だが)

う~~ん。う~~~ん。

だいぶ、悩んだのです。

試してみるという意味合いで、1冊だしてみるのもいい。

そして、妥協を許さない編集長の方針で文章もしっかり推敲(もちろん、注釈により、自分が推敲しなおす)できた、完成度の高い物として、店頭にならべるわけだから、
ある意味、プロの推敲、校正、編集ということになり、
文章修行として考えたら、これも特典になる。

かつ、増刷を考慮するほど、売れなければ、3年で発行権がもどってくるわけだから、
他、アマチュア向け出版社のような発行権をもぎとってしまうという事を踏まえて、
いちかばちかにかけなきゃいけないということもない。

これは、いいんではないか?


だけど・・・相変わらず、憂生には金銭的余裕がない。

でも、短編くらいなら、だせるか・・・。

だしてみようか・・・。

迷いながら・・・今に至り・・・この不況風で、延期に決定。
そこだけは、はっきりして、これも、保留物件か・・・・・。



先立つ物は金。

ひしひしかんじております。

山本周五郎・・・・

山本周五郎の作品。

お気に入りのくせに、題名もわすれた短編です。

主人公はもう、50も過ぎた老武士だったろうか、

平々凡々な暮らし。

おだやかであるが、逆を言えば

これといった変化のない生活。

妻もまた、平凡な人間。

ところが・・。

この妻が死ぬ。

これといった、良い思いもさせてやれず、

ただ、風采の上がらぬ男の妻で人生を終えた。

と、いうところかな?

ところが・・・。

弔問客が来る。

なかに、

「おくさまのお着物ひとつ、くださりませぬか」

なぞと、突然いいだされ、男は面食らう。

その着物 をわけて、みんなで肌身離さずもっていたいとまでいう。

みんな?肌身離さずほどにしたわれている?

それもみんな?

いったい、妻はなぜここもまで、言って貰えるのだろうという事に成る。

男が奉公に出ている間、

妻は近所の人間の面倒をみ、

みなに思いを掛けていたのである。

この、奥様の気持ちがありがたい・・・。

まあ、簡単にこんなはなしなんだけどね。

人をきにかけてゆく。

人の情の話。

これこそ、周五郎の持ち味。

胸打たれる作品が多いです。

あ?説明になってない?

ごめんな。

きっと、他にも山本周五郎のフアンこのカフェ にいらっしゃいますよね?

貴方のお勧めのはなしは?

ちょおと、おしえてください・・・。

「赤ひげ心療所」

だっけ、tvでもやってたけど、

これも周五郎でしたよね。

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武蔵を生み出してゆく裏打ちがここにあったかと思う。

 ところで、kさんの言う両刀使いって二刀流のこと? 

憂生お得意の危ないほうの意味の両刀使い?

憂生の中で上條さんのイメージはどちらかというと、硬派。

だったら、両刀に、「憧れる」とは書かないよなあ???

それとも、硬派のイメージ。これが、既に憂生の洞察力不足?

それとも、やっぱり、二天さまこと宮本武蔵のような剣豪の意味? うーーーん。わからん。

・・・武蔵?で思い出したけど、昔にも大河ドラマになったんだよね。

憂生が10歳くらいだったか、15歳くらいだったか、記憶がさだかじゃないんだけど、

親父が吉川英二の原作を買ってまでよんでたのを覚えている。

「樅の木は残った」も、題名しかしらなかったけど、周五郎はあんな昔から注目 されていたんだ。

吉川英二は確か中学くらいしか出ていなかった人だけど子供 の頃から物語りが好きで
自分で話を作って友人に聞かせたりしたとか。

これといった師に付く事も無く学歴も浅い彼が自分にかせた訓がある。

「我以外。皆師」だっだそうである。

武蔵を生み出してゆく裏打ちがここにあったかと思う。

武蔵は勝つ事をして一義とし、誰達だっけ?との勝負でも総大将の首を取れば勝ちと
名目だけの幼い総大将を一先に殺してしまう。

当然批難轟々であるが、多分、これがきっかけで、武蔵は本当の剣士を模索し始める事になる?

老いて書画も嗜み、小さな仏像も彫る。
とうの昔に読んだ本なので、記憶も曖昧だが、武蔵が掴み取ろうとしたものは、吉川英二の根本の「我以外。皆師」にある。

武蔵の生き様は自分を知る事に始まる。

我以外のものに知らされてゆく、己の卑小さと立ち向かいながら精神概念を確立してゆく武蔵に自分を見る吉川英二が居る。

吉川英二には書けずにおけない[武蔵]だったと思う

文は人也


鋼雅 暁さんの記事、大いに悩むところ。 をよんで、考えていた。

その考えたことがなにかというまえに、

憂生はこの人を(今回、他の記事をクローズアップさせるために)外したけど・・

一押しブロガーにしている。


なぜかというのが、今回、よくわかる。


こっちに考えさせてくれる「何か」を書く人だということ。


物をかいてるという部分で多少同じラインにたっているところから、

「考えさえられる」部分が他の人より多くなるのは当然だろうとは、思う。


で、

何を考えていたか?

文中から抜粋する。


***それで食べていくための、血を吐くような努力を怠ってはいないか。
艱難辛苦受け止めて、海千山千、それを歩み続ける覚悟があるか。

でもこれを、人にも求めるのは……良いのか?****


上手くいえそうも無いので、嫌な風にとられると困るのだが、

あくまでも、憂生を考える。


まず、正直に思ったこと。


それは、小説の技法のことだよな。


と、いうことは、憂生はまったく、立場が違う。

それで、食べていない。


じゃあ、無関係なことだとなるが、なにかひっかかる。


なんだろう。


ふと、思い出したことは断筆宣言のことだった。


ずいぶん昔、今で言う、性同一障害をモチーフに物語を書いた。


1部は出来上がった。


そして、主人公が本来の性である女性に立ち返って、人生を歩み始める。

それが、2部だ。


ところが・・・。


当時、18、19・・・。


当の憂生が人生を歩んでない。

さっぱり、想像がつかない。


あ。と。思った。


ただの想像を物語りにうつしこむにしても、あまりにも

手持ちの材料が無い。


これは・・・。


もっと、人生を実地にあゆまなきゃ、かけないぞ。


そして・・・・。


今も・・まだ、書けずにいる。


文は人なりとはよくいったものだと思う。


文章表現にいくら苦労してみても

そこに映しこまれる「自分」がなければ、

文字はでてきても、「中身」が入らない。


いつだったか、憂生の作品を良いといってくれる人は

「それなりに人生を渡ってきてる人だ」とかいた。

これは、年齢じゃない。

むしろ、環境かな?



いろんな経験が底にあって、

たった、一言を

自分の底が受け止める。


むろん、これだけじゃ、良いにはならない。


物語の底に作者のまなざしが要る。


それが、一言に現れる。


結局、艱難辛苦ほどではないが、

人生を渡ることで、

「人間味」がつくられ、

それが、作者の眼差しになる。


な~にを、えらそうに。


そういわれるかもしれない。


だが、人にいえないほどの

苦しみ、悲しみ、のりこえて・・きつつある。


お登勢じゃないけど、

「あんな、つらい目に遭ってるのに、このこはそれでも

人をしんじていこうとしている」


こういうのが、憂生にもある。


そこまで、?

それでも、そんなに暖かい?


畢竟、艱難辛苦それが、

すべて、作品の根底になった。


作者の眼差しになった。


だから、いっそう、作者の技法を抽出させる艱難辛苦とは、

無関係な話でしかない。


でも、今、色んなすべてのつらいことが

自分の「人間味」になっていったことを思う。


あるいは、そのせいで、

「荒削りながら、惹かせるものがある」

と、言ってもらえるようになってきてる。


あるいは、その「惹かせる」ものがあるから、

文章表現にたいしての、荒さえふっとばして、

読ませてしまう。


で、なおさら、文章表現に努力しない憂生が出来てしまうのかもしれない。

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憂生’sワールド・・・・・


ぽつぽつと、物語がよまれはじめている。

過去、日記を書くことにより、物語への集客を狙った部分があった。

こんな日記をかく人が書いた物語って、どんなだろう?

って、興味を持って欲しいと、言うのもあったと思う。

だから、日記の内容は多岐にわたっている。

まじめに書いているものもあれば、おちゃらけのものもある。

当然、憂生個人の考え方、思い方を表明している日記や

相談事?に対しての回答みたいなものもある。

そういう憂生のベースみたいなものが、ひとつの物語の中に反映されて、

日記のなかからは、むろん、

物語の中からも、「なにか」をつかみとろうと読み始める人がふえてきた。

日記のなかから、「なにか」を掴み取ろうとしてくれたひとが、

物語の中の憂生を照合しはじめる。

そして、文芸社の書評の中にも似たことばがある。

人の生き方を問う誠意ある眼差し。

作者の優しさ。(自分で言う)

こういう事柄が日記にも、物語にも内包されていて、

日記から、物語

あるいは、物語から日記という読み方がおきてきている。

そんな中で作品は作者の人柄を反映するものなのか?という問いがささやかれたりしたことがあった。

おそらく、反映するといえる。

と、いうのも、逆の命題をもらったことがあるから。

作者を感じていくという作品でなく、

作者というバックグラウンドなしで、作品が独立しているだろうか?

と、言うような内容だった。

これは、通常、作家の性格や考え方とか思いとかに触れえることなく、

本(作品)だけを買って来て読むというのが一般的であるから、

作品を通してだけしか、作家を類推することが出来ないわけで、

ブログ作家?の多くは作品だけでなく、日記などから、作者を多くにおわすことが出来る。

だが、果たして作品自体は「独立」したものなのかどうか?

独立した作品として成功しているものだろうか?

こういう質問をなげかけてくださった人は

すでに作者と物語の融合体にふれてしまって、

日記のほうにも触手を伸ばしてしまった人で、(あるいは、逆)

作品だけとしての独立度合をもう、量ることが出来なくなっている。

その時は、憂生はその命題を保留した。

上に書いたように、日記に人柄や考えや思いをいれこむことによって、

物語へ導入しようとした(部分)は、見事に成功していたわけで、

いかにも、目論見どおりだったわけだから。

そして、いまさら、振り返っている。

併せて読む。

それで、いいんじゃないかな?

と・・・・。

本だけを売っている作家なわけじゃない。

物書きと豪語している憂生がいる。

物書きは「物」を自分の中に捉えて

それを文字に移し変える。

一種「物」の捕獲作業であり、ミーイング(意義付け、意識化)作業である。

そんな風に考えたら日記は物語を楽しむための手引きであり、

逆も真なり、

物語は日記を楽しむ手引きでもある。

ブログで書いている以上、物語だけを発表していてもつまらないとも思う。

実際、物語だけを並べ立てた作品投稿所のものの中から物語だけをよんでも、

なにかしら、あじけない。

作者の考えや思いや過去?などにふれえると、

作品が立体化していく。

この考え方から、こういう物語ができてきてるんだ。みたいな奥行きが出てくる。

で、憂生は作品の独立を詮議する以前にすでに、こう、書いている。

憂生’sワールドへいらっしゃい。と。

そして、文芸社の書評によれば、

著者の世界観が構築されている。

自分の世界を描き出せている。

と、ある。

それは、すなわち、作品だけですでに独立しているということでありえるだろう。

そして、憂生本人は日記も物語りも含めて、

それを憂生’sワールドと呼んでいる。

それでいいんじゃないか。

よた話もする。まじめにも話をする。真摯な物語も書く。コメディもかく。

それら、すべてが、憂生’sワールドの構造物なんだから・・・。

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姿勢

憂生自らのコメントもあるものの、物語とコメントと題して、追記欄にコメントをいただいた、記事をいれて、なんやかやで、100記事以上あったように思う。

そのほかに掲示板や他の場所でいただいたものもあって、

記事のどの部分というわけじゃないものもあるわけで、

記事とのタイマンという状態でのコメントをあげていったのだけど・・・・。

な~~んというかなあ・・・。

一時期FC2小説にはまって?そこで、またも、憂生節を

「にゃ~~にゃ~~~」

いってきたんだけど・・・・。

いろいろ、体制がかわってきたのか、不快な評価のしかたがなくなってきたようで、

まあ、そういう変化がおきはじめると同時くらいに

「あなたの、作品にコメント、感想をかきます」

って、主旨で活動し始めた人がいらっしゃって・・・・。

大盛況で、追従して、同じように何人かが

「コメント・感想かきます」って、やってらっしゃるのをみながら

さてさて、どうなることやら・・・。

ってね。

まあ、何故そんな思いをもつのかなあって、憂生自体をほじくってみたんだけど、

いまひとつ、わからなかったのが、

今回、物語とコメントをあげなおしてみて、見えてきた気がする。

憂生の作品にいただいた感想を読み直してみると

比較的、「物語」のなかに入り込んでしまってる状況でのコメントが多い。

「どうなっちゃうの?」

「そんなの哀しいよ」

「源次郎さん死なないで」

などなど、作品として、評価?する目で読むよりも

もう、物語の中にはいりこんでしまう。

ああ、これだなって、

物語の中に入り込んだところで、沸いてくる感情を書かずにおけない。

あるいは、書くことで、物語と一体感をもつか?

そんな感想をもらっている憂生は、

ある意味、物語に入り込んだ上で自然発生するコメントでなく、

コメントを書くために読むという主従逆転のスタンスにいささかの危惧を感じていたといってよいのかもしれない。

案の定、感想依頼が殺到し、本人も、

コメントを書くためによむということで、入り込めないものもよまなきゃならないってことに

根をあげはじめたようで、自分が高く評価する作風のことをぶつぶつもらしていたが・・・。

どうも、それ以前に、

感想・コメントをもらえない人の多いこと・・・。

最近の憂生もスパムのせいで、コメント欄閉鎖と

貰ったコメントを記事ページにあげちゃうという傍若無人な行動のせいもあって、(他、エトセトラ)おまけにあんましかいてないし・・・。

そんなんで、えらそうにいえることじゃないんだけど、

コメントをもらえないのはもらえないわけがあるって気がするんですよね。

で、その大きな原因として思うことは

作者本人がコメントを書きたくなるような「何か(本文に対してでなく、裏話とかでも・・)」がない(そのなにかを発表するしないはべつにして)作品はやっぱり、コメントもらえないって気がするんですよね。

例えば、自分でどこまでかけてるか、読めるものなのか判らない

って、言い方があるわけですが、

一種、思い入れのある作品って、読ませる力があるんですよ。

言い方を変えれば、自分が読んでいて納得する。

ところが、自分さえ納得させられないから、人が読んでどうだろう?って不安になる。

その曖昧な思い入れから、先になおさなきゃ、コメントなんかこないぞってね。

実際、箱舟・・自分でも思い入れが薄いから、まじ、コメントきませんし、

本人のかいてる途中の「ぶつぶつ」もほぼない。

こういうハード面を強化できない状態でソフト面をもとめてもなあ・・・って

問題にするのは、自分が書ききれてるかどうかだろう(文章の出来じゃなくて精神面でね。)

で、本末転倒の感想・・?

入り込めない作品への感想もらって、納得するんだろうかねえ?

ってね。

まあ、そんなことをおもってしまったんだけど、

多く、読み手さまに支えられてきた憂生が不遜な物言いだけど、

今現状、やっぱり、コメントがもらえまいが、

そんなことは、二の次・・・。

自分が書くことにのめりこめるかどうかが命題なんだってそう思う。

久しぶりに、コメント欄あけてみようかな/笑

スパムさまがしっかりこっちのアドレスを登録してるから、

自動送信してくるんだよね。

IPごとかえては、おくってくるから、いたちごっこでね。

ばかやろううううう!!

あきら。ぶちぎれ!!

なんでも、ヤフーのオークションで

あきらの発行本がうられていたとか・・。

それも、どうやら、

元値の5倍で落札されたとか・・・。

あきらの実力をいまさらながらおもいしらされるのであるが・・・。

あきらは憂生と同じく自分の作品を読んでほしいと言うのが本来。

読んでもらえるなら、無料でも渡したいのが本当のところ。

でも、流石にオフセット印刷となると、元手もかかる。

本を発行するにもうけなぞ度外視して、かかったコストだけの値段にしている。

そのあきらの作品を売りさばいちゃった?

まあ、バッチシ、儲かる だろうとは思うよ。

5倍の値段でも競り落とした人の気持もわかるよ。

発行部数はそんなにない。

ほしい人には希少価値の代物。

あきらの作品をてもとにおいておきたいとおもってくれたんだ。

その気持はある意味嬉しい。

だけど、出展しちまった奴。

おまえさあああ。

あきらの作品を金にかえちまってもよかったのかよおおお。

オークションでレア物に扱われるのも

なにかしら、悲しい気分のあきらであるけれど、

憂生はそんなことより、

あきらの作品を手放す気になった事が

きにいらねえという、

あきら信奉者だよ!

たく。

メインHPにもあきらの漫画を少しばかりのせているけれど、

この先作品をアップするのをかんがえちまうよ。

勝手にとっぱらっていって、勝手にうりさばかれそうでこわいや!!

そんなことしてほしくて、作品をアップしてるんじゃねええやあああああ!!

で、↓のが、AKIRAが書いてくれた「悪童丸」

akudoumaru

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潜行せよ!!つ~とこかにょ?


http://mylegacy.blog34.fc2.com/


今回のレガち♪の濡れ場シーン /え?
は、
じつに、レガち♪らしいと、
感心しきり。

甘える女性への変身?ぶりと、
出かける時の社会人としての彼女の姿。

ギャップが大きいほど、
プライベート と社会を切り分けて生き抜いてゆく、峻烈な覚悟に立っている彼女を表現できている。

計算したうえか、
たなぼたか、
判らないが

文章のうしろに奥行きのある世界が構築される。

そして、
恐ろしい事にその世界に主人公達が
きっちり、息をしはじめてしまうから、
作者はいつの間にか
主従関係を逆転させられ
いつのまにか・・・。
お抱え筆記者のごとく、
主人公達を観察して
書き写していかなければ成らなくなる。

そして、
主従逆転した作品こそ、
「活きた物語」になりえる。

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内緒だべ

携帯小説作家・シナリオライター鋼雅 暁さんを、すごいなっと、思って、

こちらから先に読者登録をさせてもらった。

ちょくちょく、はっとする記事をかかれるんだけど、

今日も・・・。


難しい


内容的には、物書き・作家・小説家のジャンル?といえるから、

物書き憂生だから、「はっ」とするんだろう。


出版社のほうから、尋ねられたことがある。


「作家になる意志はおもちですか」


「ない」


そう、返事は「ない」だった。


なぜか?


今、もう一度、考え直している。


確かに、其の後、「出版されても、生き残れるような実力」を身につけるほうが問題だと書いた覚えがある。


当時、今は映画化された「リアル鬼ごっこ」が協力出版を土台に20万部ほどうりあげていた。


いまや、どうなったか、しらないが・・・。100万部こしたかな?


その「リアル鬼ごっこ」でも、協力出版なんだと文芸社は力説した。


協力出版からのスタートはやむをえないとしても、

初版発行が500部。


売れたらよいが、売れなければ・・

いや、そこそこ、売れても・・・。


迷いはふたつあった。


ひとつは、版権を手放すことになること。


つまり、ブログなどで、自分の好き勝手に公開できなくなる。


ある知人は新風舎の倒産のせいだとおもうが、(よく、わからないんだけど)

版権を手放した。


もちろん、著作権は自分にある、自分にありながら、版権・・出版権利がない。


初版500部あるいは、増刷があったとしても・・・自分のものであって、

自分のものでなくなる。


ここにこだわったのと、


鋼雅 暁さんのいうところににているだろう。


読み手うけするものを選ぶ文芸社の(やむをえないが)体質が嫌だった。


作品のよしあしをあとにして、売れる売れないを優先する。


つまり、もっと、いえば、リアル鬼ごっこ自体を高く評価していなかった。


娯楽性、意表性を重視した作品は、そのときだけのものになり、

読み手の中に「なにか」を残さない。


だから、断ったのだが、

次に企画部部長から手紙が来た。


そこには、出版会の現状に「良い作品」でなく「売れる作品」を押し出していかなければ、経営がなりたたない現状があるのが事実だ。

だが、それでは、「良い作品」が出版されることもなく、うずもれたまま終わってしまう。

世に良作を残したい。送り出したい。

その思いから、あなたの作品を特別推奨作品に押したい。


と、こういう内容だった。


あまのじゃくに声をかけた文芸社さんだとおもう。


良作の範疇にはいるのかとうれしく、うぬぼれた河童は(あ、こわっぱは・・・)

ますます、版権を手放すのが惜しくなった。


そして、さらに、あまのじゃくが考える。


「売れる作品」を押し出すしかない出版社に良作といわれてもね・・。

「売れる作品」をおしだしたいなら、村上春樹とか~~~大御所あつかえばいいんじゃな~~~い?


つまり、「本にしたい人間」から「金をもうける」のが、此処。

それは、それで、多くの人の夢をかなえる方法だし、うまくいけば、「映画化」までいっちゃう。


問題は此処だ。


そんな出版社の言葉にのって、

自分の作品の版権をなくしていいか?


第一刷をいえば、特別推奨はうろ覚えだけど、倍数近かった。

1000人・・・。

ネットで作品を挙げたら、他の作品も読んでもらえる。日記も読んでもらえる。


毎日記事を挙げれば、毎日広告してるみたいなもの。

そして、ブログの数も増やせばよい。


ま~~~~~。


そんなんで、ブログ、一時期はいくつ持ってただろう。


それらをすべて、閉鎖して、此処にあらたに、全日記・全物語・全画像を移行し始めている。


物語も日記も多く、示唆とメッセージを含む。


だから、鋼雅 暁さんをのいうように、

過去の自分が言ったことでもあるが

「物書きとしての実力をあげる」


それよりも、

「自分の思い入れをうつしこんでいく。自己満足な物書き」を選んだ。


憂生が器用でこういう作風じゃなかったら、

両方こなせるのかもしれない。


ただ、とにかく、書く。

それによって、少しは腕があがるかもしれないとおまじないを掛けている憂生がいるのは、

内緒だべ!!

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http://mylegacy.blog34.fc2.com/

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月がかわってたんだね。
レガち君♪へのコメント返信を、書くのも月またぎ~~~~るん♪
新作、まともにかいてないんだけど、
やっぱ、レガち君♪
君のメッセージにがぜん、萌え~~、あ・・ちゃう!!
燃え~~に、なって、ぽつぽつ、構想を練ってる。

けんどおおおおお~~!!

レガち君♪
君のあの文体・・

選んだ言葉が行の空白にまで、ムードをかもしだす。あの、独特のスタイル。
これは、絶対的に類なき才能だと、憂生は半分うらやましく、半分、憧れる。

見事だかんね。

書いてるかあああ?

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自覚


最近になって、強く自覚し始めたと思う。

憂生は基本的には他の人の作品を読まない。

プロ作家のものも、10代~20代前半に読み漁り、それからというものは、

何冊よんだろうか?

片手に余るんじゃないか?

これといった、記憶がない。

ひょっとすると、名前も忘れた推理作家の1冊?と

杉本苑子くらいか?

陰陽師を書いていた(今も書いてるが)頃は

夢枕獏の陰陽師がブレークしはじめてた。(と、思う。なにせ注目してないので判らない)

これは、後に1冊よんだ。が、自分の想定でかいていきたかったので

読むのをさけた。

考え方とか設定とか、影響されたくないというのがあった。

「蹴りたい背中」の紹介文をちらりと読んで「薄めたがる」という表現が

まま、こっちにはまってしまった。

実に的確な表現で、今でも、日記などにはこの言葉で表現する事が多い。

すると、自分の表現でかかなくなる。

「薄める」という感覚を自分の言葉で捉えようとしなくなる。

これは、しまった。と、おもったが、あとのまつり。

公用語だ。と、わりきることにしたが、

陰陽師においても、これに似た現象が「想定」「設定」の中でおきては

まじ、「ぱくり」になってしまう。

こんなわけで、一冊読んだのは、第14話をかきおえ、15、16の2/3以上かいたころだった。

で、どうだったか?

ま、ここからが、本題。

多くアマチュア作家にしろ、プロ作家にしろ、

巧い人は居る。

技術力がど~の、表現力がど~のではない。

「読ませる」という部分においてなのだが・・・。

ところが、かくも読ませる事ができる作家にであうと、

それも、アマチュアだったら、なおさら、こっちがしょげる。

そんな中でじぃ~~と、考えてみた。

結論だけ、先に言う。

娯楽小説がいくら巧くても、自分が書いてる方向性とは

立つ場所が違う。

もうひとつ、

故に、多くの作品が娯楽小説の域をだっせない。

と、思ってしまう。

何故脱せないか?

昨日のダヴィンチコードを観て・・・という日記でもそうなんじゃないか?

問題作・衝撃作という作品でも、「掘り下げ方」が浅いと

娯楽作品になってしまう。

「掘り下げ方」が深いと娯楽作品にならないかというと

また、別の問題があるので、ここではおいておくが・・・。

娯楽作品を書いているわけじゃない。

このあたりは、以前にも(現身が文の中に入る・・とかのことで)書いたので

ここも省くが

自分なりの掘り下げかたがどこまでできて、

それを文という形にできるか、どうか。

と、いう意味合いで、

「掘り下げ方」を自分に問う。

だから、反面おそろしいのは、話題作などを読んで

「掘り下げ不足」に気がつきはしないか?

と、いうこと。

単なる、娯楽作品におわってしまっていないか?

この掘り下げ不足に気がつかず

「あの作品はすばらしい」と多くの人が賞賛していた場合、

悪い言い方だが、

「掘り下げ不足に気がつかない人たちによるもの」で、あり

作品の娯楽性を重視している。

その部分で娯楽作品を書く(憂生も娯楽作品もかきますが・・)人が多い。

それが、メジャーだから。

どうすれば、娯楽作品でなくなるのか。

どこまで、掘り下げ、どうやって掘り下げていけば

娯楽作品でなく

書き手は無論、読者さえも「自分を問う」ことをさせられるのか?

おそらく、多くのアマチュア作家はここの部分に注目していない。

判っていても、いまいち、意識してない。

判っていても、自分の段階で終わってる。

アマチュアの作品の多くがこう思える作品だと思ったときに

憂生の中が変わった。

自分との戦いでしかない。

掘り下げ方も考え方も自分の修練や人生経験?による。

これが、如実に反映される以上、自分が自分を掘り下げていかなきゃ

「掘り下げた作品」はかけない。

はなから、娯楽作品を目指す作家とは立っているところが違う。

「ああ、おもしろかった」

では、なく、「この考え方、思い方、自分がもらおう」

みたいな。

読書について、ショーペンハウエルという日記を

ニューモさんから、勝手に拝借して憂生なりに掘り下げたものがあるが、

そこにも、似たようなことを書いたが

読者の血肉になる作品を書く。

この部分において、娯楽作品を目指しているわけではない。

だから、娯楽作品をかく作家と自分を同じ位置に並べて

巧いの下手のと、論議する必要もなければ、

自分の不味さにがっくりする必要もない。

観るべきところは自分。

自分にとって「血肉になるような書き方」ができているか、どうかだけを

自分に問い直す。

そんなんで、ときおり、アマチュアの作品をちらりと読むんだけど

憂生は「娯楽小説」でしかないな。

と、思ってしまったら、ほとんど、以後はよまない。

「おもしろい」というものだったら、

正直、映画のほうが、楽しめる。

カメラをやっていたせいもある。

構図やカメラワークでも楽しめる。

目に見せてくる俳優の演技力もよい。

おまけにストーリーがよければもっと良い。

同じに比べる必要もないが、

同じ時間を費やすなら、そっちのほうがいい。

が、「読者のためになる」と、いうことを目指す作家も逆に居る。

だが、多くは私小説の域、感覚小説の域を脱していない。

それは、経験だけ、私感情だけで、作品をかいているから。

「もうひとつ、掘り下げ」

せっかくの書けるだけの材料や経験があるのだから、

当然そこから、得られる「結論」はある。

その結論をもう一歩、掘り下げない。

まあ、憂生はこういう性分だから、白蛇抄は一生の付き合いになるのではないかと

思っている。

別の掘り下げ部分に気がついたら、また、書いていく。

一生、続かなきゃ、嘘だろう。

近況報告(当時・・ww)


ブログのほうが管理がしやすいので、もっぱら、此処になにもかも収納しているんだけど・・。
永沢作品まで収納しているせいもあって、まあ、びっくりするような検索ロゴがはいってくる。

ヒットするような内容もあるのは事実なので、いたしかたがないことなんだけど・・・。

アダルト系統の作品は全部の記事、2500強のなか、20編もないわけで、アダルト、あおり目的だけで、訪問されるのはこのましく思えないので、訪問の制限を掛けている。

この関連で管理がしにくいということがあり、あまたのブログをとっぱらった。

ところが、なにをおもったか、此処の管理局はピングを2箇所に絞るということをやってくれて、しかたがないので、最近はピングを何箇所かトラックバックして記事をあげることにしているが、此処最近、ピング送信先も無料登録もしくは登録無しというのがふえてきている。

上にヤフー検索が姑息な検索結果を表示する。

例えば迷惑IPアドレスをひくのに、意味深に聞こえるタイトルのところに検索結果を置く。

新之助シリーズにやけに訪問が多いと思ったら、なんのことはない、迷惑IPアドレスをひいたところのひとが、そのタイトルでやってくるという・・・。

ヤフー検索の姑息なところは昨年の時点でわかっている。

やはり、永沢作品をあるブログに掲載して、放置していた。
そして、ブログをほとんどつぶしはじめたころ、突如そのブログのキャッシュをグーグルがとりだした。
検索をかけても、作品がなくなってるので、3年以上前に掲載して放置していたところのブログを突然浮上させたのだと思う。
ところが・・・。
ヤフーがそれに追従する。

同じところをとるわけにはいかないので、全然記事のない次の月のキャッシュをとる。

グーグルの後追いをしていることは歴然でしかない。

あと、憂生のブログやIDのせいもあって、白蛇。白蛇抄。などの画像検索がとりこまれるわけだけど・・・。

検索ロボットがとりこむことだから仕方が無いのだろうけど、白蛇・白蛇抄の画像の中に憂生の写真がはいったり、人気のあるメニュー煮豚とか・・が白蛇・白蛇抄の画像検索の中にあるというまあ、実にずさんな管理なものだから、クレームを日記にあげたところ、改変したようだけど、相方がかいてくれてた、白蛇抄七日七夜の漫画頁が白蛇抄の画像検索のトップ見出しにあがるという・・。

検索のあいまいさというのはしかたがないことなんだけど、2500以上の記事、物語総編400万文字?日記もかなりのジャンル。

いやがおうでも、ブログの中を照会すれば、ちっとやそっとのログはヒットする。

そんな状況の中、エロログ+画像・・というのが、画像という言葉とくみあわされて、
エロ画像があるのではないかと、必死に訪問を繰り返す「かばち」がいる。

ネットの中をエロ検索場所としかみていないかのような、人間が多くいるのも事実だ。

一方で、歴史関連の日記には、よく、そこまでしっているなあという歴史ログでの訪問があったりして、これはこれで、感心する。

まあ、ネットを使うか使われるかは、その人次第であろう。

憂生自体は、常に新機軸をもとめていきたいので、物語へのコメントなども一箇所に保存してしまって、あっさり、公開する。
これは、場合によっては、コメントを渡した側からみたら、嫌な行為だとわかってる。

でも、いつまでも、そこにかかずらっていてもいけない。
ちやほやされていても、いなくても、憂生がそこから脱却する。

それは、ひとつに、読み手を意識して、こびた物語。こびた姿勢にならないためだと思う。

こういう風に書くと、多くの人は、「読み手を意識しない作品」とは何事か?
と、思うかもしれない。

だけど、今は亡き友人があえて、苦言を呈してくれた言葉が憂生を知らせてくれた。

「あなたは今、読者を意識していませんか?悪童丸の時のような迫力がなくなっています。
あなたは、あなたの思うように、読者などきにせず、書いてください」
ほかにも
「こびた作品は読み手がみぬくよ」
なんてのもあったとおもうけど、憂生においては、憂生風であることがなによりもなんだと思うわけで、そういう意味合いでも、作品への評価というものをどんどん、整理していってしまう。
ってのが、憂生には必要なんだと思っている。

いずれにせよ、客相手という考え方は嫌いだし、自分が物書きとしてどこまで、自分の感覚、感性を文字にうつしかえられるかでしかない。

と、いいつつ、執筆中がどんどんふえてしまっている現状ではアル。

持論、作品は完成してこそ。
これが、崩れている昨今である。

さて、どう踏み出していくか・・


なんちゅう時間じゃと思いつつも、

書いてみようと思う。

実は・・・。

まあ、書きかけの作品があるというのに・・・。

ひとつ、かいてみたいと思うものがある。

あいかわらず、終戦直後にスポットをあてているのだが

単純な少年の気持ちを

幼馴染の少女の目線で描いてみたいと思う。

過去、戦後ものとして、

蛙。蛙続編。パンパンとチョコレート。をえがいているが、

ベースになる「影響力」は、大江健三郎の初期作品にある。

大江の描くところの、

非日常が本人にとっては自分の世界そのものであるという

異世界感覚は、

たとえば、エヒノコックスに侵され、腹部に大きな塊をもつ少年にとって、

その現実こそが日常であるという、異世界を肯定しながら

どこかで虚実をかんじとっている。

おなじように、死体を洗うというアルバイトをおこなっている青年にとって、

死体が日常になってしまっているわけで、

奇妙な世界におちこんでしまうと

通常にある生活こそがパラレルワールドではないかと思えてくる。

この世をして、仮の宿という捕らえ方ににているといってもいいかもしれない。

大江の微細な感覚は、その異世界を現実に融合していくという試みに発展していくように思う。

中期の作品といっていいか

わが魂は洪水に及ぶ・・あたりが異世界感覚でしかなかった感覚をもっと

地についたものにしていると思う。

いかに感覚を意志と意義にしていくかという精神構築論が展開されているという点で。

さて、そんな影響力に差配されて、

些細な「気づき」というか

日常?の中の「こだわり」や「思い込み」をきりとって、

プレパラートにのせてみせて

ぐるりと目ん玉をひんむいてみたいというか。

プチー目からうろこーみたいな光をさしこんで見たいと思う。

構想的には

少女の少年に対する捉え方。

いじめっこで乱暴もので単純馬鹿で、ナイーブなんてものとは程遠いと思っていた少年への視線が(めんたま)がぐりりとひんむかれる。

もうひとつは

少女自体がもっていた、わだかまりというかな。

自分でもみないふりをしていた鬱積を

少年の行動が晴らしていく。

二重構造で作りこまなくてはいけないと思うので

はじめの一歩がでださず、まだ、構想中のままである。

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