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複雑思考

よく、人のことは変えられないという言い方をしますよね。

憂生は、これは、嘘だと思います。

実際、自分を振り返ったとき

あの人のおかげで、自分変わったという

ターニングポイントがいくつもあるわけです。

こう、考えると、

人のことは変えられないということは無いわけです。

良きにしろ、悪しきにしろ、

変えてしまうということはあると思います。

自分を振り返ったとき、

あの人のおかげで、自分変わったという

「恩」があるのなら、

憂生はその「恩」をかえせるのは

また、

自分も誰かを変えていける(良いほうに)自分になっていくしかないと思います。

受けた恩をうけっぱなしにしておくなど

おかしなことでしょう。

逆に言えば

人のことは変えられないという言い方をされる方は

誰かによって、自分が変えられたことがなかったのでしょうか?

ないのに、そういうすばらしい自分になってらしゃるのなら

それは、ご立派としかいえません。

あるのに

人のことは変えられないという言い方をされるのは

恩知らずということになりませんか?


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おおげさだけど・・。

判らないからこそのありがたさ。

不幸な境遇の方が居る。

そのつらさ、幾ら、考えても判らないのが本当だろう。

でも、それが判る。

つまり、自分も不幸の真っ只中。

判らなくていいんだ。

判らない自分の幸福をよろこぼう。

よく、親の行状に悲しむ人が居る。

のむ、うつ、かう。

その度合いが酷い。

子供は時にそんな親を憎むだろう。

どうして、そんなこと、するかわからん。って。

でも、自分も同じ思いにとりつかれて、

ああ、こんな気持ちなのかと、

理解したい?

理解できない事がありがたい。

どうして?と、思える自分がありがたい。


胸の奥でちかり?とひかるものがある・・。

なんだろう。

こう?

胸の奥でちかり?とひかるものがある・・。

跡地さんの記事をよんでいて・・・。

「譲る」って言葉それに反応してる・・・。

憂生の脳みその中では

「負けて喜ぶ人になれ」とか、

akiraさんの「男なら損を選べ」とか・・。

そんな言葉が浮かび上がってきている。

だけど、胸の中のちかり・・とどうも光り方が違う。

「譲る」その言葉だけから受ける印象は正直「優位」をうかがわせるものだから、

今まで、光らなかったんだろう。

跡地さんはなにげなくいう。

あんなに座りたがっていたんだもの。

ああ?

これかな?

ここかな?

譲るという思いは

相手を思いはかってのうえ・・・。

その「相手の思い」にこちらの主張や権利を譲りましょう。

こういうことだよな・・。

ああ、自分をまとめたいので、日記としては説明不足なんだけど・・ごめんな。

つまるところ・・・。

大国主命も国を譲った・・だよな。

けして、うばわれたわけでなく・・・。

相手をおもいはかったうえ・・・。

しぶしぶ渡したわけでなく、うばわれたわけでなく

自分の意志で決めたことなんだよな。

なんか、負けて喜ぶ人になるって言葉の中に

大国主命風にいえば、奪われてしまったという語感を感じる。

その悔しい思いを宥めるために

渡してやれた自分を喜べみたいにも感じ取れる。

だけど、譲ったという言葉には、

悔しい思いみたいなものが見えない。

自分の考え方で、自分を主人公にして決断し実行したこと。

流されたり脅かされたり・・しぶしぶじゃなく、

主観的に主客的に行動したとするなら

自分の意志だ。

自分の意志である限り

自分で決めたことだから

悔いひとつない。

国譲りとはよく言ったもので、

国渡しではないのだ。

さなれば、やはり、大国主命が「恨」をもつわけがない。

やはり・・・。

出雲大社で、怨念を封じ込まれているのはスサノオなのか?

あ、話がずれちまったけど、

受動的であるか、

能動的であるか、

自らの意志で決めた物事は、なにか「抜けきった、悟りににた心境」をうかがわせて

だから、跡地さんの言う

『譲る』は実に爽快で

かつ、明快だった。

ありがと。

これも他山の石というかの?

意図?

もし、あるとするなら。

「ここまで、自分をさらけだしてみろ!!

てめえなんか、ただの弱虫じゃねえかよ!!

自分がどう思われるかばっかり

せいぜい、きにしてやがれ!!

くそばかあああああああ!!」

こうだろうな。

え?

たいしたぼろもさらけだしてねえのに、

いっちょまえのもんさあ。

何よりも、君の愛をふかめてほしいんだ・・・。

すこし、すこし、ちがうけど・・・。

あんたのこと・・。

とても、いとしいとおもってる。

あんたがきてくれてただけで、

ほっと、やすらいで、

それだけでよかったんだ。

アンタのそのまま、

何よりも、

しあわせでいてほしいっておもってるんだ。

だから、今回の実生活のアクシデントは

むしろ、だんなちゃまが、

アンタにとってどんなに大切で重要な存在であるかを

もう一度おしえてくれる事態だと想うよ。

かけがえない人だってことを、

もう一度胸にきざみつけて、

もっと、ふかく、お互いの存在の

貴重さを認識するチャンスをくれたんだ。

な。

身近な人間と、もっと深く寄り添うチャンスを

もらえたんだ。

アンタはたとえば、そんふうに、神様にも

あいされてるんだ。

やっぱ、あんたらしいよ。

だから、がんばれ。


「怒る気にさえなれないんですよ」

ながくなりそうなのでスレッドを立てます。


親子ということについては、いろいろ、考えさせられることなので、

また、みつめてみたいという思いで、書いてみます。


子供に感情的になるということを、読んで、

憂生は三つのことを思いました。


ひとつは、怒る・・という言葉です。

これは、憂生風解釈仕り候の中で「怒」という文字の意味合いを考えてますが

簡単に言うと「赦す」という意味合いもあるのです。


怒る感情の中になぜ、赦すがあてはまるのか?

矛盾してると思います。

赦せないから怒るんじゃないか?

って・・・。


ところが、人間・・赦すに赦せないほどの事態を抱えると

「怒る気にさえなれないんですよ」


相手に対して、言っても無駄だとか、

期待しないというのかな?

信じられないというのかな?


それを逆に考えてみれば

相手を赦しているからこそ、

怒るという感情がわく。


もちろん、感情は沸くのですが、ぶつける・・あるいは、

伝える気にもなれない。


ぶつけずに置けないほど、期待してるし

信じてるし、良くなってほしいという思いがあるということになると思います。



これが、一つ目です。


そして、次が

怒ると叱るの違いです。

上のこととは、切り離して考えています。

叱るという言葉を分解すると、口にヒですよね・・・。

ヒというのは、「ひ」で、魂のことです。

つまり、叱るというのは、魂の篭もった言葉を出しているということだと思うのです。


叱りかたがどうであるかより、

その心がどうであるか?

に、着目しなきゃならないということになるかな?



そして、三つ目。

憂生が親戚の家に行った時、3歳くらいの子供がいて、

その子供のお守りを頼まれ、散歩にいったんだけど・・・。

その子供がわざと水たまりとかにはいって、

服をどぼどぼにしてしまったあと、

「これじゃ、怒られるから、あなたがいいよって、いったことにしてね」

え?

3~4歳の子がそんなずるい対処方法を思いついて

大人に入れ知恵する?

子供がそういう変な考え方をもつということは、

「親」が、そういうやり方、思い方をしてる。と、考えられた。

それから、何年もたって、その子供のお母さんが、

あちこちのサラ金からをかりて・・という事件が起きた。

借金を作ったのは父親の治療費のためだったんだけど、

それをうちあけて、

なんとか、してもらえないかと嫁ぎ先に事実を話せず

なんとか、対処したのがその結果。

そういうことを思い出したら、もっと前に、

愚痴をこぼしてたことがあった。

だんなの給料だけじゃやっていけないのに

だんなは交際範囲が広くて・・家に友人を連れてくる。

当然、食費が足らなくなるんだけど、

義母にいうと、貴方のやりくりが悪いとしかいわれないから・・・、

仕方が無いから、妹に頼んで内緒でお金を貸してもらって

食いつないできた。なのに・・とまあ、愚痴が続いたわけだけど・・・。

このときもやっぱり、事実を話さず、なんとか、誤魔化そうとしていた?

それって、何年も前に感じた

「親がそういうやり方(思い方)してるのかな」

って、その疑問の答えそのものだと思う。


そんな風に考えたとき、

たとえば、子供を叱ることはそれはそれで、

きちんとしなきゃならないと思うけど

一方で

上の考え方を平行移動して

子供が変な行動(いうことをきかない)をとるのは、

私(親)が言うことをきかない・・・やり方が映ってるのかな?


って・・・。

自分を見つめなおさなきゃなんないんじゃないのかな?

言うことを聞くというのは、当然、子供のいうことを聞くのでなく

特に夫さんのことだと思います。

きちんと言うことをきいてるし、

人の意見もちゃんと聞く自分だということになったら、

今度は

ひょっとしたら、自分が小さい時に親を困らせたのかもしれないと、考えてみてください。

おかあさんは、おとうさんは、

今のあなたの子供のように、困った子ちゃんだったあなたを怒ったこともあったでしょう。

でも、今のあなたと同じように

感情的になってしまったことをすまなく思ったんじゃないかな?

こんな思いさせたんだね?

そんな気持ちでおかあさんやおとうさんの思いを「聞いてみる(知ってみる)」ことをしていなかったら、

あるいは(言うことを・・)きいてないって、かんがえられませんか?

そんな風に考えたら・・子供さんの受け止め方に幅ができるんじゃないかな?

怒るときは怒ればよいと思う。

ただ、あとで、ちょっと、自分をふりかえって、

愛されて、はぐくまれた自分を感謝するのが、良いと思う。

そこに気がつかせてくれる、「子供の存在」

これは、ありがたいよね。


笑い話になってもたwww

10年近く、うじゃうじゃと書き込んだものをあちこちから、ここに移行してきている。

もともとは、物書きだったはずだが、
奇妙なシックスセンス?があり、このあたりは、当初はふせていたように思う。
が、
そこから、得たものが、実感になっているとき、
伏せたままでは、話をしていけないと思い、
あるときから、ある程度まで、公開することにした。

そうこうするうちに、
ネットの中で、ハウツーやおかげ信仰的に
パワースポットへいこうとか???
霊能力セラピーとか?
神様がおりてきて、お伝えするとか????


なにか、当て込み根性でスピリチュアルを頼るという
記事に多く遭遇することになり
なにか、違うという思いが多くあった。

憂生自身の奇妙な出来事も、どういうことか、判らないわけで
その答えをさがしたいという思いがあった。


そこで、いろいろと、スピリチュアルを探しまくってみたけれど、
さらに、疑問が深まる。

多く、自分の問い直しということでなく
ふしぎや神秘部分をむさぼる人が多い。


たとえばだけど、アルスピリチュアラーに対して
ひふみ神示をよめばいいのになあとおもうと・・・。
訳して、載せはじめる。


憂生はが、読めばいいのになあと思ったのは
自分と照らし合わせて考えていくために読めばいいのになあ。
だったわけで、
ここも、なにか、違うなあと思う。

だからというわけでもないが、
憂生自体は、おきてきたことに対して
自分がどう思うかが問題で
現状、仮に誰かに対する批判であっても、かまわず書く。

何年後かに
その通りだったと思うか
まだまだ、判ってなかったと思うかは判らない。

判らないが、
今、そう思うということを自覚しておくことは大事な作業だと思っている。

そして、多く、批判するその内容は
ー自分、そのものであったーと、省みるときがくる。


そういうのが、あって、あれやこれや、
のこしているところもある。


が、にたようなことをよくかいていてwww
どこかで、統合してしまわなければいけないとは思う。


ときおり、自分でも忘れていた事件とか思いとかみなおすと
あるいは、すでに結論?は出ていると思うときがある。


ただ、その中身が整ってない。

めどう

今、躁うつ病や悩みやいろんなことを抱えてる人

この人たちが、逆に

色んな人たちを救えるようになる。

メンタルクリニックとかね、

こういうもんじゃなくて、

時分が這い上がってきた人が人を助けられる。

今、辛いから、助けてあげたいって、おもうけどね。

本当に這い上がってきてもらおうと思ったら

せっかくはいあがってきたのつきおとすくらい。

それぐらいきたえてやるって。

これでもかってとこをはいあがってきたひとじゃないと、

本当の救いはできん。

だから、辛いってことにまけちまうな。

あなたをめどうにして

みんながはいあがっていく。

この辛いののりきって、幸せになってみせるって。

やればできるんだって、みせるひと。

そういう人大切なのです。

だから、つらければつらいほど、

多くの人をすくえるめどうになれるんだってこと

すこしだけ、自分に教えてください。(言い聞かせて)

はんのき

ある、スピリチュアラーが、夫婦間のいざこざについて、

不倫状態にあることについて、

疑問を堪えていた。

結局、その人へ批判になってしまうだけだからだろう。

これが、救いなのかな?

って、憂生は疑問を持っている。

瀬織理津姫のところでもかいたけど、

筋目、けじめの狂いをはっきり指摘して、

心の棒をまっすぐ立て直してもらう事がだいじなんじゃないのか?

憂生はこの疑問がとけない。

今のよのなかだから、

いいにくいことはわかるけど、

結局、自分にそれだけの信念と通り越しがなけりゃ、

はなしても通じないってことだろう。

自分でいずれ、頭をうつしかないんだろうけど、

この結果さえ、そこが因果になってるともきがつきはしない人間がわかるのは

「痛い」だけだろう?

その痛いをほじくることもなく、パワーとかもらって、おわらせちまうだけじゃないのかな?

雄花という。

因果がなんであるかをしらせることなく、

花粉をまきちらかしてみたり、

雄花は実がつかない。

身につかないことをまきちらかすだけの雄花はどうにもならん。

憂生は昔

「いずれ、榛の木」とうかばされたことがある。

榛の木は雌雄同体。

つまり、雄花と雌花がある。

雄花(自分)の花粉を自分(雌花)が身につける。

これにより、

いずれ、「はんのき」

相変わらず「はんのき」がなにを意味するかわからないけど、

どうやら、

上の事件は、自分の結実をうながせということだったんだろうと

反省しなおすことにした。


「呪」と「希」

いらっしゃってくださる方のブログを拝見していましたら、

内容ははぶきますが、

あなたが「親」だったら、どうですか、

あなたが「姉」だったら、どうですか、

という質問を設定されていました。

で、きになってしまったので、書きます。

いろいろな考え方があります。

ですが、この方はどう思うかをきいていらっしゃるので、

正直、わかりません。

ただ、どう考えるかという視点から

どう思ったらいいだろうという

視覚変換は出来るかと思います。

まず、「親」

よく、言われる言葉です。

「子は親の鏡」

「子は親の鐘」

両方たすと、意味がわかりやすいですね。

親の姿を映したのが子供です。

そして、ご~~んと鳴らされた時に出る音が

子供の姿です。

子供の行動をろくでもない行動だと思ったとき、

そういう風な観念の子供に育ててしまったのは自分(親)だということです。

子は親をみて育ちますから、自分たちが欠如していてものが、

なにかを子供の姿で見せてくれるわけです。

そうしたら、ろくでもない子供だと怒るよりさきに、

欠如した子供に育ててしまったことを子供にわびる。

それも、自分たちのせいなわけですから、

子供のせいにしているのは、おかしいとおもってしまうわけです。

次は「姉」だったら・・ですね。

彼氏をとられた。

結局、それも、かなり低いレベルのものに

とられたと思えます。

自尊心こなごなでしょうね。

でも、逆に、そんな低いレベルにいく相手だと、

わかったわけで、

これが、もし、結婚していテ、子供でもできたあとだったら、

大変なことになっていたでしょう。

こう考えると妹さんがわが身を犠牲にして(本人の意識は別)

彼氏の愛情、人間性が本物でなかったこと(お姉さんにとって)を

おしえてくれたわけでしょう。

こう考えたら、妹さんに感謝しなきゃいけないんじゃないでしょうかね?

どこかで、書いたと思いますが

不幸そうに見えることでも、実は、救われている。

と、思うのです。

親は自分の欠如に気がつかず、子供のせいにして、

人生終わって幸せだとおもいますか?

最愛の妹がろくでもない人間だとおもったまま

姉は幸せになれますか?

この不幸な現状こそが、

おおきな変換時期だと思います。

不幸だ。不幸だ。

と、いう見方でなく、

「どこかで、すくわれているんだ」

それが、わからないだけ。

みつけられず、

見た目の不幸に踊らされている。

こう言うことに気がついたら

例えばですが、

妹さんは、「そういう役目」をおえるわけですから、

二人の間が本物じゃなかったら

自然とわかれてしまうと思います。

と、いっても、親がうけとれないだけで、

もう「役目」をおえているので、

いずれ、決着がつくし、

あとは、妹さん自身に

そういう人といっしょにならなきゃいけない「理由」があるわけです。

これは、もう、ほかのものがたちいれることじゃない。

冷たい言い方ですが

はたから、みてるものは、「自分じゃなくて、良かった」

と、しかいえないわけです。

そして、妹さん個人としての行動が

よかったか、悪かったか。

と、いうのは、周りが決めることじゃないとおもうわけで。

(上の答えは妹がどうかでなく、自分にとってどうかですから)

これは、古臭い言い方ですが

天の神様のいうとおり。

決めるのは「天の神様」

天知る・地知る・己知る・

天は、とっくにわかっているわけで、

そして、やったことは必ず帰ってきます。(いいことでも。悪いことでも)

そして、帰ってくるときは一番応える形でかえってきます。

そうかんがえたら、

それを待つ気持ちでいるわけでしょうか?

ざま~~みろ・・でしょうか?

ちがいますよね。

くそ!!って思いが深ければ深いほど

帰ってくるときに一緒にはいってしまって、

もっと酷いことになる場合もあるわけで、

「呪」の気持ちでなく

「幸せになってほしい」と、「希」の気持ちをもってあげられたら

よいと憂生は思います。


思うままに・・4

骨髄移植のドナーに選ばれたという方のところに

いってきました。

憂生も友人二人を白血病で亡くしていることをいつか、書いたとおもいます。

正直な思いです。

その方のお気持ちはよくわかるのですが

(わかってないのかもしれません)

もしも、移植手術で半身不随になったとしたら?

これも、覚悟の上。

なのでしょう。

けれど、この方法は自分に適合する方にしか提供できません。

仮に、その方が事故かなにかで、亡くなったら、

それで、おわりです。

憂生はそうでなく、

一回の花火のようなことでなく、

たとえば、胎盤から骨髄液を精製できるということをきいたのですが

こういうことができるような体制をつくるように働きかけるとか

していただければ、

仮にこの方がなくなっても、

リスクなしに、骨髄液をもっと多く、予備として保管できるのではないかと思うのです。

へんなたとえをしましたが・・・。

自分を提供しようという方だからこそ

協力していこうという方もでてくるとも思えます。

目の前の人を助けたいという思いをこらえて、

もっと、多くの人を助けていかなきゃならない。

と、いうこともあるとおもうわけです。

そのためには、まかり間違っても

この方は、自分をリスクの中においてはいけないと思ってしまいます。

一方で

提供もしてみたけど、助けられる範囲に限りがあるともっと広範囲をカバーしていきたいと

自分で体験したことで実地にたった強みになるとは思います。

いろいろ、諸事情があり、もしものリスクを考えたら

この先の家族が、生活がこまってしまうという、

護るものがいて、とても、できないという方

時間的なものが都合のつかない方、

この方たちの思いとて

もっと、広範囲の守備を望んでいると思うわけです。

まあ、憂生の勝手な期待でしかないのですが、

この方、そういうことができるような方におもえて、

木をみるばかりでなく、

森を山をみる視線にたってほしいと思っています。

もうひとり・・

辛い事ばかり・・。
傍に居るのに
一番孤独・・・。

その悲しみ
その悔しさ・・・。

乗り越えるしかない。

忘れることは出来ない。

だけど、
乗り越えることは出来る。

我が友人が
あるとき
憂生にくれた言葉を

今度は
お前に渡す。

乗り越えてくれ。

そして、いつか、
乗り越えられた自分を
ほめる時が来る。

なあ・・・


贈る言葉

先日書いた記事から抜粋したものをはりつけたのですが・・・。

たとえば、滋賀県では滋賀商人が通ったあとは、石ひとつない。
(これらが何を視差するのか意味かわかりませんが)
若狭地方では、若狭の連れ小便
土佐のいごっそう?
長野のおおめしぐらい

など、土地柄やその土地の人間を表す言葉があります。

日本も世界的見地の人類学からいうと
(どこの見地かわかりませんが)
「みんながやるなら我もやる」
と、いう意識があったようで、
よく、風刺的に舟が沈みかけたときに
「みんな、海に飛び込んでますよ」というと
舟から逃げ出す。

そんな風に、大雑把でありながら、その時点で的を得た評価?があるように
(それは、また意識化によって変わっていくものだと思います)
日本の各地、世界の各地に土地の風土というものがあるのだと思います。

この記事をかいているとき、いくつかのことがうかんでいました。

御霊のことを教わったとき、
御霊を(へそ)ともいうのです。
と、おそわったのです。
そして、日本は世界のへそであるともおそわりました。

今、SPの世界では、古代史・・特に古事記を中心に
SPの世界の真相を知ろうとしているところがおおくあり
このあたりのことや、神喩などからも、
天皇の存在も浮き彫りにされ始めています。

日本が世界の意識を変えていく。
その日本の意識世界のへそが天皇であると思います。

そして、憂生がよく口にする
裏天皇が実は個人個人の御霊であるわけです。
その裏天皇は
表の天皇のように
さざれ石の巌としての姿という
天能の姿でなく
大本神喩がいわれるように
まだ君臣の状態で
御霊というのは、身と霊がひとつになった姿だと考えられます。
御霊の状態になれたら(身と霊がひとつになった姿)
天能【天が能く】になるわけです。

まだまだ、御霊通りになれなくて
憐れな状態の自分でいると
「憐れじゃなあ」と、意識がささやいてくるのです。
これも、「吾」と「我」の状態だったときがついたのです。

そして、昨日の事件
焼身自殺
ぱっと、その「音」だけがはいってきたとき
小心自殺と思うのです。

小さな心とは、
我と吾ということしか見ない心なのだと思うのです。
あるいは、今のことしかみない。

そして、今、地球の現象は
人間の思いからなるものだといわれています。

憂生は自分の小心や昇進や傷心や焦心しかみておらず
これが、彼の焼身自殺という現象にむすびついてしまったのではないかと思えてしまうのです。

自分が変わらなければ世界は変わらないとまで思うのは
おごりかもしれませんが
世界・地球にかかった封印や呪縛をといていく鍵は
自分個人にかかった封印や呪縛をといていくことで、
顕れてくるのではないかと思っています。

事件をみて、多くの人は
「迷惑な。こっそりどこかでやってくれりゃいいのに」
と、おもっていたようです。

ですが、
彼の背景をみると、金がないとか、
物質文明のあくにおかされていたことはいなめません。

彼をみて、迷惑だと思う前に
なにか、大切なことをおしえてくれているとさとって
かえていかなきゃならないことはいっぱいあるとおもうのです。

彼に家族がいて、普段から様子を気にしてあげられる人がいたら
愚痴でも何でも、きいてあげて、上手に心をはらせてあげられるひとがいたら
と、そんなことを考えると
自分良しの社会の弊害をうけた被害者の姿としてもみえてくるところがあります。

たったひとこと、声をかける。
相手の様子をきにして、心を配る。
そんなことを、もっと、みにつけないと
同じことのくりかえしになるのではないかと思えるのです。

まきこまれた人についても、
おなじように、
人のことなど知らないをつづけていけば
いつ、自分も巻き込まれてしまうかもわからないのです。

憂生は今、ここで、大きな愛を贈ります。

ーみんな~~~!! 愛してるよ!!~


私感・ドナルド・キーンと大江健三郎の決別の理由。


デイステニィ・クロニクル

ドナルド・キーンと大江健三郎の決別の理由。

我輩が思うに、

大江の愛息が、ピアノなどの、

技術に天性(いわゆる、アカシックレコード的)の素質をひきだしている。

ドナルド・キーンの日本への系統のそもはじめをいえば、

源氏物語のほうが安かったという

いわゆる、どんよくな知識欲からはじまっている。

そして、物質主義的精神の低さから、

日本へ傾倒するにいたるが、

根本である、「魂」ということへの理解はなかった。

キーン氏もオペラなどを愛してやまないひとであったようだが、

根本的なサウンドというものへの

理解のしかたに相違があったと思う。



*この話は判りにくい書き方をしているとおもう。

憂生はキーン氏の考え方を
日本人らしくはないと思っている。
日本を好いてくれているというところでは
キーン氏への好感度はかなり高いと思うが
日本人になりたいということを精神論でとらえると
憂生の評価はきびしいものになる。
キーン氏の立場でかんがえてしまうせいかもしれない。
日本の良さに感化された俗人でしかなくなった。と、おもってしまうのである。

日本が良いという裏側は
母国が良くないということになろう。

(今や母国は日本になってしまったが・・・)

日本人なら同胞の精神レベルが良くないと思ったら
啓蒙していくことに徹するだろう。

ましてや、キーン氏は啓蒙できる立場にいる。

これをみていると
愛国心と言うか、はらから意識というか
こういうのがなくて、
自分さえよければいいという個人主義にみえてしかたがない。

本当の日本人になるなら
自国の人々を啓蒙していけとおもう。

そうするのが、本当の日本人だろうと思う。

大江の初期の作品は異質な世界がそのまま日常になった主人公をよくあつかっていた。

たとえば、エヒノーコックスに寄生され腹部に大きな塊を持つ少年。
閉ざされた世界で特異なあまりにも、個人的な世界でしかないのだが
少年の日常は塊に支配・差配されていく。

後の息子の存在を暗示しているかのような世界をえがいていたところがあった。

この息子への理解は、音楽が媒介していっただろう。

魂からの叫びといっていいか
こういう叫びをうけとめた大江自身は
息子だから同胞どころではないが
同胞をみすてるような?(いいすぎか?)キーンの
日本好きの行動に根本的な違いを見出したのではないかと思う。

おたのしみのための音楽鑑賞と。

アカシックレコードからか

はたまた降臨のごときか

底からわきあがってくるものとむかいあった大江と。

みための好感度などにあざむかれないまなざしがあっても不思議ではないと思う。
















漢字から・・

辛抱と我慢。

この言葉をみていて、

発想の転換というのかな。

我慢と辛抱をごっちゃにしていたところがあるなって思う。

いやな物事に対し

我慢する。

辛抱する。

この言葉の辞典的意味合いはしらべていないが。

万葉集の刺す竹の大宮人は・・・などから

しらべていった、音と漢字の合一というのかな。

刺す竹は領主などに直訴するときに、使用される文書を竹にさしたもののことをあらわすと思う。

転じて、ご意見申し上げたい。忠告したい。という隠し意味につかわれている。

ご意見もうしあげたいような大宮人ということになる。

ところが、万葉集の漢字での音。

佐須抱能とかいて、「さすだけの」と読む。

佐は精神的なものの意味合い。須は清める、正しくする。

抱は護る、導く。能はできる、働き

大宮人は人の上に立つ存在でもあろう。

精神的に正しくあるように導いていくことができる。

さすだけ(佐須抱能)の漢字のなかにはこういういみがある。

精神的に正しくあるように導いていくことができる大宮人であるはずなのに

ご意見申し上げたいことをされている。

こうなるかな。

この場合の漢字の解釈だけいえば、

音にかえていったときに、別の意味合いにもとれるということになる。

で、我慢

これは、自分の中に「我」が慢心・・していく。

満杯の満にあてはめたほうがいいかもしれない。

いやだ。つらい。という「我」を心の中にいっぱいにしてしまう。

そのため、我慢できなくなるというキャパシティの限界がきてしまうことがある。

辛抱というのは、辛いを抱くだが、辛い気持ちを自分のものにしていく。

心棒とかいたほうがわかりやすいか。

心に棒をたてる。家を作るときなどでかんがえると

心棒は大黒柱だったり、各々の柱だったりする。

自分を立て通していく。信念を貫き通す。こういう棒である。

自分の心の中に信念を貫く棒。自分を立て通す棒。

これが、ないと辛抱できない。

だから、辛抱の甲斐があったといういいかたをする。

我慢の甲斐があったとはつかわない。

たんに辛抱しなさいといわれるのと

我慢しなさいといわれるのでは、内容も違う。

おそらく、辛抱は相手のことをかんがえて辛抱。

      我慢は我のことだけを我慢

ここらへんの漢字に含まれる意味合いというのが

現代世界で廃れてきてるんだろうかと思う。

我慢しなきゃいけない。と使うことはあっても

辛抱しなきゃというのをきくことはすくなくなってきたようにおもう。

もしも、辛抱するという言葉を使ってる人がいたら

そのうしろに誰かのことを考えてるというのがある。

誰かのことをかんがえての辛抱などしなくなったから

だんだん、古臭い言葉にあつかわれるようになってるのか?

もはや、死語になってしまったのだろうか?

そんなことはあるまい。

と、思いたい。


先の記事をかいてる間に

あがっていた

憂生の深層?真相?心層?を

よんだのか

なんだったかな、

削除ってもた。

悩み鑑定みたいなのか?

こんなのがきていた。

残念ながら憂生は自分の深層部分を解決しようとは思っていない/ww

むしろ、

先の記事をかいて

憂生にこういう深層部分があるからこそ

他の人間の痛みがわかって

何とかしていけるんだと思っている。

どっかにかいたけど、

苦しいことからはいあがってきて、

乗り越えてきたことのない人間の

「元気出せよ」はつうじんときがあるのに

のりこえてきた人間の

「元気出せよ」は通じることがあると。

どうにか自分を抱いてきた憂生は

さらに

自分で自分をみとめていくというとこより

人に認められないなら

みとめられないままを

認められないことで感じるさびしさを

そのままにうけとめていく。

まあ、自分はすごいんだとかwwww

認められるほどのことでもないとかでもなく

自分さえわかってればいいんでもなく

ただ、在る。

こういう境地にたとうとしている。

これが、たまにこける。

すると、

占い師や

相談所とかカウンセラーとかいっぱいきてくれる。

いやあ~~^。^

そういうふうにみとめてもらわなくてもいいんだけどお~~~。

御託

ちらりとしか、見ていない。

妙な言葉があった。

新型欝病だったかな。

どうも、詳しいことをみていないのに、しのごの、言うのも妙であるが、

詳しいことを知らないからこそ、当て推量で物をいえるという。

まず、最初に思ったのは、ネットなどなどが、原因になってるんじゃないか?

と、いうことだ。

もっと、極端な例は、依存症とよばれるものだが、ここまで、いかないにしても、

ネットの中で、感覚が麻痺してしまっているというのを、よく見かける。

実際、憂生も感覚麻痺の人間のあほログ検索によって、プチ欝に近い状況であったとも思う。

あまりにも、画面の後ろ側に居る人間を意識しない行動が多すぎる。

これにやられてしまうのではないのか?と。

人を鴨のように、あるいは、自分の楽しみ・儲け?の道具のように扱う。

まずは、ここでも多くあるが、出会い系なにがしによびこもうとする訪問。

お前ら、人をなんだと思ってやがる?

まあ、このくらいは、良いほうだろう。

端的な例は、この間知人から聞いたことだな。

ブログにかくことが、受けて、訪問者がいっぱい、くる。

気がついたらアクセスランキング1位なんてことになる。

すると、楽しみでかいていたことが、

アクセスランキングを維持するために、なにか、おもしろいことをかかなきゃいけないという

麻痺状態に入っていく。

ランキングにはいったという高揚感とか、満足感とか、支持感とかで、

麻痺状態になっていることにきがつかずにいた。

ところが、目新しさというものが、なくなってくるせいもあるだろう。

訪問者から、苦情がきはじめたという。

「もっと、おもしろいことをかけ」

そこで、はたりときがついたという。

自分をみてもらってるわけではない。

おもしろいことを提供する「道具・装置」のように扱われている。

人間扱いでなく、道具扱いになってる。

ネットをやっていると、自分をなくしてしまうと聞くが、大丈夫なのか?

と、昔、知人に尋ねられた事があったが、

まさにこの縮図がおきていたわけだ。

物扱いというか、人間扱いされない状況に麻痺してしまうその状態を作り出したのは

他ならぬ自分なのであるから、

お前人をなんだと思ってやがる。

と、いう「お前」らなど、まだ、良いほうだというわけだ。

こういう風な即物的扱いをやられてしまううちに、

ネット不信、ひいては、自分不信に陥ってくる。

受けない記事を書いてる?人は、まだ、読まれたいという感情に差配されているから、

自分で、自分を「物」扱いにしていることにきがついていないところがあるだろうが、

ネットの中で「受ける」ということを目論みだすと、

価値が逆転してしまうというか、価値の判断基準がおかしくなってくる。

「受けない」のは、良くない・・面白くない。

「受けない」のは、自分がつまらない記事をかいているせいじゃないだろうか?

ひいては、自分が「つまらない・魅力の無い人間なのだ」などという具合になりがちだし、

目立たないのが原因だとか?

あちこち訪問しにいってみたり、セオ対策に奔走したり・・。

*憂生は最近は、ショーペンハウエルの言葉に納得しだしている。

「必要な読み物は、必要とする人の前に絶妙なタイミングで現れる」

つまり、憂生の記事を必要とする?人が、読んでくれればいいわけで、

ひまつぶしや、好奇心で、よんでみてもしかたがないと思っている。

憂生の書いていることを、共にじっくり、考えてみようと思ってくれる人にとってこそ、

「必要」なわけで、憂生も又、「必要」とされたいとは思っている。

だが、先の話に戻るが、因縁?が違えば、あるいは、そんなことなど、とっくにクリアしていたりとかの人間は憂生に関わることが無いだろうと思う。

純粋に必要な人間にだけ、その必要性が存在する。

と、なると、そんなには、憂生の御託がよまれることがあってはならないわけだ。

私。新型欝病ですから・・って,人間がいっぱい、いちゃいけないってことだ。

*つまり、こういう風に考えると、憂生は読まれないほうがよいわけだし、

読まれたいと考える人は、極端に言えば、読まれないほうが良いような、内容のものを書いていない。と、いう事になるかもしれない。

その場限りの娯楽を提供して、面白いものを書けといわれるのは、これまた、自分がやっていたことである。

自分が生き様とむかいあう物事を提示しないでおいて、小手先の娯楽で自分にふりむかせようとしたことは、あるいはすでに、人を人として扱っていない姿であったかもしれない。

つまり、ネットの中で、自身が、人を人として、また、自分を人して扱わないという「麻痺世界」に入り込んでいることになっているという自覚がすくなかったということであり、

気がついたときには相身互いに、人間損失の扱いをしあって、あげく、、新型欝病に罹患しているということになっているのだろう。

*思うに、憂生は先にも書いたが、物を書くということは、自分をしるためだと。

相手をするのは自分。

自分の中から、なにかを引き出し、ラーニング(検討)して、ミーイング(意義付け・自覚・意識化)していく。

このために、物を書いていく。

だから、その内容はかくのごとく、御託だったり、多少・・えろっぽい話だったり・歴史の話しだったり、物語だったり、さまざまになる。

相手するのは、「自分」という「人間」を相手にする。

自分を量るに、人様を尺度にしていちゃ話にならんと思う。

自分にとって、どうであるか。

そこをしっかり、ゆわえつけておけば、新型欝病にはなるまいて・・。

え?

なに?

若い人に流行してる?

あはは・・・。

若いというのが、いくつまでか、定かでないが、

ひょっとすると、ゆわえつけなくても、罹患する心配がないかもしれない・・。

中々、不器用で・・・

う==ん。

どうも、時折自分の性格に

自分でやられる。

一辺倒な人間だから、

何もかも、同じ立ち居地で測る。

当然割り切れない場合がある。

こうなると、

いつまでも自分の尺度をかえられない。

尺度を変えればすんなりとわりきれるかもしれないのに、

割り切れないで残った部分の

まあ、一種「もやもや」を注視する。

この切り替えがへたで、

とにかく皆様に迷惑をかける。

「吐き出してしまわない事には、

新事項がはいってこないのである」

と、なると、

ぼろもぼろ。

大ぼろごと吐き出す。

本人は切り替えて行くために

はきだすのであるから、

ありったけ、そのままさらす。

さらし始めた時点で変化をおこしているのであるが、触媒の活動温度を上げてやれぬ憂生のせいで、

化学変化が緩やかである。

まあ、今回もご存知の方はご存知であるが、

色々な、アドバイス

憂生の触媒に使わせていただいている。

中でも、

風海。

君の最後の部分の一言。

「本物に・・・・なってくれたらいいね」

この言葉が憂生のせめぎを埋めてくれた気がする。

ややもすると、憂生は

相手の不足を攻めがちになる。

むろん、期待するがゆえ、と、いううがった見方の言い訳も無きにしも非ずだが、

これは幾分、近より過ぎた結末であるとも言える。

一歩、思いを離して、

静かに祈る。

ときに、これも必要な事かもしれない。

「君よ。本物なれかし」

憂生もそっと、祈ろう。

そして、憂生にも。

「憂生よ、本物なれかし」


以上。

メール。ありがとう。
自分に言い聞かせるためにも、
あえて、此処にかく。

簡単に言うと、
自分が守らなければならない人をまもれないような相手を好きになれない。

いろいろ、事情があって、他の人に逃げたり
他の人で誤魔化したり
こういう弱い人間とは、つきあわない。

好きという感情のなかに、
自分の理想がある。
自分にとって、本物でない人間を、好きになることができない。

だから、恋人や伴侶が居て、それでも、好きになるとしたら
その人は、必ず自分の恋人/伴侶を選んで
こっちのことは、
きちんと断る。
あえて、思いを振り切るために断りの言葉をきこうと、告白したこともある。
ただし、ふらふらうなづくような、相手に
告白することはない。
ちょっと、惹かれたで、自分の中で昇華できるから。

そんな人間だから、逆に好きで居られる。
ふら、ふら、コッチの告白に乗ってくるような人間なら初めから好きにならないだろう。

ただ、
最近はお登勢にも、書いたけど
自分がまず本物の気持にならなければ、
本物はめぐってこないと考えている。

実際問題、いろいろ、好きになった人間は多くいるけれど、/仔細は省くけど(笑)/
自分が相手に感情や、愛情をもつのと、

相手とあって、結びつく。
では、ないと、思っている。

実際問題、ある女性は
憂生のことを、非常に愛してくれているけれど
それで、あって、話すわけでなし、
彼女は彼女で
自分の中で憂生の存在をいとおしんでくれていて、
彼女の中で、/孤我/核?/として、
憂生を存在させて、自分の愛情を育んでいる。

彼女の中で尊敬する部分は
だから、憂生になにかをもとめてくるということでなく、
自分への示唆や、生き方としての支えとして、
憂生をうけとめて、
そういう形で憂生からの愛情を
本物に変えている。
その部分が彼女のすばらしさだと思う。

なれあいのなぐさめあいとか、
淋しいから誰かを思っていれば
自分が立っていられるという
こういう時期も一時は憂生側にはあった。
/と、いって、あってみたりはしていない。
まあ、いわば、こういう形での連絡方法はとっていたけど/

だけど、実際の部分。
憂生には、護りたい存在がある。
この人間とどこまで、交じり合うことができるか、どうか、わからないけど
本当にその人が好きなら
その人の生き方や考え方、思い方を
自分も同じにすることで、
その人と自分が交じり合うことが出来ると思っている。

だから、
嫌味な言い方かも知れないけれど
精神的に崇高な気持にさせてもらえない相手も
好きになれない。

程度の低いなぐさめあいや、
好きという感情をむき出しにして
相手にぶつけ、求める。
相手の程度の低さをなあなあにして、
自分の感情にまけて
お互いをつまらない位置にながしていく。

こういう相手へのある意味侮辱と
程度の低い段階に、自分を置いておく事を
嫌がる憂生が居る。

だから、妙な逃げをかましても、
絶対相手が拒む。
あるいは、拒む相手に逃げる。
/上の理屈・・と、一緒/
そして、多少の自分の覚醒。
覚醒により、思いがかわると、
なぜか、物事が急変直下・・良いほうにすすんでいく。

まあ、いずれにせよ、
自分の感情がふっきれないと、
どうにもならない。

ただ、きがついた時に自分に嫌気が差す。
いろんな見方がみえてくるから、
今度は自分の生き様にじぶんでもがく。

その時に憂生のこの文章を思い出してくれると良い。

誰でも、失敗やあやまちはある。
こんな風に憂生が孤高をもとめるようになった裏側にはそれなりの失敗やどろどろの人生があったから。
いつか、自分の生き様が自分の肥やしになったとおもえるようになってくれればいい。

修羅の道におちていかない事をいのっているとともに、
その沸いてくる感情が、あるいは、かなり低い・・もっと、深いところ/過去の子供のころの愛情不足とか/こういう部分に根ざしているなら
まず、そこをよくおもいだしてみることをすすめる。

本当の愛とは、なにかの代償感情じゃないという事。

白蛇抄にもかいたけど
さみしいから・・と、その心を満たそうとしないこと。
淋しいまま、その風にふかれっぱなしの強さをもたないと結局同じ程度の人間にしか、めぐりあえない。

以上。

薄い薄いガラスで作られたまあるい玉のようなものなの。

お年を召した女性からのスピーチ?

「あのね。
夫婦ってね、
薄い薄い
ガラス で作られたまあるい玉のようなものなの。
薄いから風が吹けば
どこかに飛んで行ちゃうし、
なにかにあたれば、こわれちゃう。

そんな脆い薄いガラスの玉を
夫婦で
ふうふ。ふうふ。って息を合わせて
息をかけて、
そっと、そっと、ころばしてゆくの。
息が強すぎるとドッカに行ちゃうし
2人の息が合わないと
違うところに行っちゃうし
息を吹きかけないと
じっと動かず、同じところにずっと、いて、
活動?してないでしょ?

ふうふ、ふうふって、息あわせて、
壊れやすいものだってこと、
よ~~くおぼえておいて、
大事に大事にころがしてゆくんですよ」

もう、このお婆ちゃん、死んでしまったけど、
いろんな話をきかせてくれた。

又・・別の機会でも話は出てくると思うけど・・・


ツール、ひっくり返すとルーツ

集客ツールというのが、今まではきらいで、

みかけたら、ぽいっちょしていたのですが、

なんか、これって、

「もっと、よんでもらえ」って、応援されとるんかもしれんと思えwww

じゃあ、読んでもらえるようなものをかいてるのかあああと、自問してしまい

いやあ、

そういうツールをつかうということは、

「読んでもらえるものを書こうとする意識につながるんじゃないか」

などと、かんがえなおし・・。

問題はそこであって、

ツールの是非じゃないのだと、

一昔前には

読んで得したまではいかなくとも

損はなかったとおもうものは書きたいちゅう意識でかいてた自分をおもいおこし、

そのころにかいてたものは、

逆に

こんな日記を書く人の小説はどんなものだろうと

小説のほうにまで、でむいてもらえてたり。

(実際はそこが目的でもあったのだが・・www)

そういう状態で書いていたころは、

「この人の書くことは、はじめは?だけど、あとで、!になる」

と、ひそかに憂生のことを紹介してくださっていたり、

こういうことがあったというのに、

まるで、たこのように、

たこつぼにもぐりこんでいたものだとおもう。

今度は

損しない程度でなく

徳するぐらいに

プッシュできるものを

かけるようになりたいものである。

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スパムブログです(憂生にとってはwww)又来たwwさらに来たww

毎度、新記事をあげると、自動的に訪問ページにおくられてくるソースです。(他にもいくつもあります)


スパムコメントならぬ、スパムブログです(憂生にとってはwww)


うっかり、ご訪問されて、以後自動送信の被害にあい、たんび、削除する面倒にまきこまれては、


こちらも、スパム行為に加担することになりますので


タイトルの表示ということで、リンクは憂生’s/白蛇に差し替えておきます。


 
上質な子供教育


億万長者と人脈の関係性

上流人脈構築術

上質な子供教育


追加

上質な子供教育

先行者利益は存在しない

上流人脈構築術

億万長者と人脈の関係性

再追加  完璧スパムブログだと証明しにきてくれているようです。

化粧品の真実

少子化増税時代を生き抜く知恵

本当の富の築き方

基礎化粧品専門家

富裕層とのコンタクト 

継続収入の種類




おにぎり

今日も非常にねむくなってしまい、

うとうと、ねむってしまって、

なにか、妙な夢を見ました。

誰なのか、自分なのか

遠いところにいろんな可能性をさがしに旅にでかけていくのです。

とても、充実していて、ああ、楽しいなとおもっていたのに、

なぜか、急におにぎりをたべたいとおもうところで、

めがさめて

夢の続きがまだ、頭のなかにのこっていて

「君の作ったおにぎりがたべたい」

と、いう言葉が妙にくっきりしていたので、

即、階下におりて、

おにぎりを作ってたべました。

?????

おにぎりといえば、親父がやっぱり、商売柄つくることがあって、

1升で、17個だったかなあ。

この大きさでつくる。と、自分で握って

50個必要なら

3升たいて、1個残るから、おまえにやろう。

なんてことをいいながら、つくって

本当に、そうなるんです。

ぴったし、同じおおきさで、釜のなかで

最後の1っこがちいさくなったり、大きくなったりすることなく。

不思議なものです。

職人の手というものはそういうものなのでしょうね。

憂生も親父の血をひいてるつもりですが、

おにぎりはむつかしいです。

しょうゆ加減とか塩加減とかいうのは、

ほぼ目分量で手が勝手にとまるまでいれるというパターンは

つかめてきたり、

包丁をとぐというのも、手の感触で、研げるようにはなっているのですが、

手の中で量るということが、まだまだなのでしょう。

なにか、おおきな価値というものについても、

そんな気がします。

なんとなく、触れた感触で、

大きさは感じるのですが、

じゃあ、どれだけの価値かということを

量りきれていない自分だとおもったりします。

土地

ー大阪の空には、業がないー

こういう言葉をきいたことがある。

土地のもつ、力というか、特性というか。

たとえば、名古屋あたりは、土の中になにもかもをしみこませていく。

と、いう感じで、-率直にうけとめるーという気質を感じる。

そのせいか、名古屋のファッションは、

自分の感覚にそった「独自の個性」を感じる。

一方、東北のほうなどは、

雪が多いためか、「因習」にとらわれるという感じがする。

結婚観でいえば、親子同居などでみられるような

跡継ぎという親子関係を重視する。

まず、夫婦というパターンでなく、

代々つづいてきた・・みたいな。

もちろん、それが良いとか悪いとかいうことではない。

なににつけても、良い面も悪い面は表裏一体であると思う。

北陸のほうになると、

若狭の連れ小便。

と、いわれる、「人がやるなら自分もやる」

「根拠なく自分もやるかと決める」

まあ、とり方はいろいろある。

滋賀は、土地がすくないせいか、最大限に活用しようとする。

この根性をして、

ー滋賀商人が通ったあとは、石ひとつないー

などの言葉がある。

人間の気質が土地によって左右されるのは、

中国のことで、少しかいているが、

大局という国見地でなくとも、

小さな日本の中にも「土地気質」というものがある。

ここに注目したのが、司馬遼太郎であろう。

彼の随筆の中の要所要所において、それを感じるし

実際、司馬が現地にまで取材にいったのは、

現実で土地気質を肌身に触れたかったせいだろうと思う。

これが、ないと、歴史への深い理解ができないという点があるのは否めない。

しかし、

冒頭の「大阪の空には業がない」とはいかなることだろう。

また、占いによっては、出生地や現在地を入力するものがある。

これも、なんらかの「土地のもつエネルギー?」があるということだろうか?


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yuichisp 氏に感謝である!!

yuichisp 氏の Profileをちょっとよんでいて、なんとなく、思うことがあったので・・。
チョット、自分をほじくってみる。

ためになること教えやその道(分野は何でも構いません)に詳しい師匠を探してます。

と、あって
この師匠という言葉に自分の中の何かがひっかかるので、
思うまま・・に。

現状・・・。
レガち君/最近。君がつきだした/笑
が、何を思ってか・・
憂生を師匠とよぶ。
憂生はこういう偉そうな呼ばれ方は好きじゃないので、本来ならば、やめれ~~~。
憂生と呼び捨てにしてくで~~~~~。
と、悲鳴をあげるのであるが、
なぜか、レガち君の
「師匠」には、悲鳴がでてこない。

なぜか?

それが、今回のyuichisp 氏の「師匠」を読んで、見えてきた気がする。

まず・・yuichisp 氏の「師匠」を読んで思ったことは・・・。
「師匠」なんぞ、この世にはいない。

って、事だった。

おかしな言い方だと憂生を良く知ってる人は思うだろう?

表現が悪いのはわかっている。
「師匠」のなり手なぞいない。
と、書くべきだろう。

そう。
在るのは、「弟子」だけである。

そして、
yuichisp 氏の言葉がある。

「いろんなことに興味があるけれど、その分ひとつひとつのことをしっかりわかってません
いろいろ知って楽しみたいので何かあれば教えてください 」

憂生は常々、あきらの表現を借りて言う。
「人生に起きる事にいっさいの無駄は無い」
いいかえれば、自分に必要だからこそ
人生に
イベント?が起きてくる。

また、憂生はいう。
『森羅万象・・自然が教えてくる』

この世は師匠だらけである。

だが、それは、
弟子であろうとする、
学ぼうとする
気がつこうとする
意識のものが在ってこそ
その対象が師匠になりえる。

学ぼうとすれば
何からでも学べる。

自分に「学び」として、吸収してゆく
掘り下げ。探究心。ひらめき。悟り。
が、あるかないかで、
一つの物事を「師匠」にできるか、
できないかが、変わってくる。

こう、かんがえてゆくと、
レガち君には
憂生を一つの物事でなく、
「師匠」として、見てゆける
掘り下げ。探究心。ひらめき。悟り。
が、あるのだろう。

これは、いいかえれば、勝手に
レガち君がやってることで、
憂生が大上段カラ、振りかざして物を教えてやる的「師匠」をやってるわけでなく、
むしろ、
レガち君の・・・憂生などという
とんでもない阿呆からでも、何かを掴み取ろうとする、掴み取れる
探究心?に対して
その姿勢に対して
むしろ、レガち君こそ、師匠たりえるものであるが、

憂生はレガち君にたいして、
その姿勢を尊重するゆえに、
あえて、
『師匠と呼ばれることには支障はない』
と、どこか、居心地の悪い呼ばれ方であるが
コレは、憂生のことでなく
レガち君の姿勢表明と思って
「師匠」を認可?/笑/している。

そして、
我以外皆師と言い募って物を書いた吉川英二のことをおもいだすのであるが、
憂生はこれにも、ちこっとクレームがある。

我もまた師である。

憂生の別の得意の科白が
「自分に負ける・・コレが一番弱い」
であるが、

自分をしってこそ、
また、我以外のものを師に出来る。

自分の特に弱い部分。
負の部分。
足りない部分。

これをしってこそ、
自分を足して行ける。

常々言う。

知った分を
変えなければ
後が恐ろしい/笑

自分に全部振り返って
自分を変えてゆく。
自分に足してゆく。

これが、レガち君の基本姿勢にあるように思う。/人の内面まではわかんね~~~。
あくまでも、憂生が思う/
だから、
憂生は憂生なんぞをもってして、
「師匠」とよぶレガち君の
「師匠」には、悲鳴をあげず、そのままに受け応えている。

一見したら、いやらしい根性にみえるかもしれない。
自分をボスと呼ばせたり、親分と呼ばせたりする
妙な奴と一緒くたに見えるだろう。

だが、憂生の内訳はこういうところであり、
そこら辺のところの意識をしっかり
自覚させてくれたyuichisp 氏に感謝である!!

*yuichisp 氏に・・・・。
勝手に抜粋して、あげて、ごめんにゃ!*

憂生が渡したことは

おもしろいものだと思うのが

ああ、言われても

こう、言われても

ちっとも、鱗がおちなかった物事が

なにか、ぽろり、

あっさり、ぽろり、と、落ちる時が有る。


逆の場合で考えることが多いのだが

言っても

言っても

通じないように見えるほど

相手のうろこがおちないように

見えるときが有る。


憂生は、こんな時

最初に書いたことを思い出す。


相手が悪いんじゃない。

自分の言い方?なにかが、足りないんだ。


相手の鱗を落とさせるほど、

自分が本物になってないんだ。

と、考える。


そして、もうひとつは、

待つ。


憂生が渡したことは

なんだ。


種を渡しただけ。


それが、いずれ、芽をだし、

実(身)になる。


そういう思いで思いを渡す。


実際、こういう経験は何度もあった。


何らかの示唆を与えた時

手厳しい反逆にあった。


今は、時期じゃないんだ。

と、

「待ち」に入った。


3年くらいして、

実る。

それは、相手も、憂生の言葉によって

鱗がおちたと自覚してるから

必ず、報告してくれる。


「今はこう考えてる」


そういうことが、たびかさなるにつけ

だんだん、「待ち」が少なくなった。


些細なことでも、

「すぐに変える」を行ってくれる人を見ることが多くなった。


それは、

ひとつに、憂生が

「ああいっても、こういっても、通じないのは、自分が足りないせいだ」

と、いう思いと

「いつか、その言葉の意味をわかるときが来る」

と、いう思いで

相手を思うからだと考えている。


いつか、優しいとは、

人を憂うということだと、書いた。


極端な時は

「あいつ、このままでいいのか?」

って、時もある。


だけど、その裏で憂生が見ているものを

相手は嗅ぎ取る。


「このままじゃ、惜しい自分」

言い換えれば

「いいところをいっぱい持ってる自分の価値」

これを、一番初めに認めている憂生だと

気がついている。


だから、渡した種が心で芽をふく。


どうだろね?

いや、笑っちゃあいけないんだが・・・・。

さきほど来てくださった人の記事を読んで

その裏側って言うのかな。

何でも講演とかいろいろやるようになったり、

経験をつんだから、

書く自信ができたので、

前のように出版依頼がこないかなと。

前のときは自信がなくて断ってしまったと。

それ、さ。

簡単に言えば

最初のときに

自信をつけてあげようとしてくれた。

と、いうことなんね。

文章にまとめられるようになれば

人に説明する力も実力になって、みについていくようにと。

そういう援助?を

やっぱ、自信がないとことわってしまったん。

で、自信ができたなら、必要ないじゃん。

まわしてこないよね。

ってさ、つい、おかしくなっちゃって

わらっちまったといったら、失礼だけど・・・。

こういうのに似た落とし話があるんね。

冬の寒い夜。

江戸時代くらいの話し。

小便にいきたいと思った男がいた。

その時代だから、厠は外。

板戸をあけて、外にでようとしたら

戸がこおりついていて開かなかった。

一計案じ、

敷居のとこに小便をかけて、

氷をとかした。

それで、戸がうまくあいたんで

外に飛び出した男。

「やった。でられたぞ」

・・・・・。

ところが、外に用事はない。

あるはずない。

すませちゃったんだから。敷居にひっかけて。

「あれ、俺なにしにでてきたんだ?」

まあ、そういうのとおなじだろうね。

で、最初の件は落とし話やってるわけじゃないわけだ。

鍛えてくれようとしたものへ

お礼とおわびをいうのがさきじゃないのかなって。

憂生はおもうわけだ。

どうだろう?

ありがたきもの

友人とのメールのやり取りの中でふと、でてきたことである。

ふと、間違った事をやりそうになる。

ところが、

どこかで、それなりに上手く回避できる。

いかりにまかせて、おおあばれしてしまうとか・・・。

このたとえはいろいろあろう。

つい、万引きしてしまいそうになる。

つい、いじめをしたくなる。

エトセトラ。エトセトラ。

だが、ふと歯止めが掛かる。

これはなんだろうか?

憂生は、これは、親/両親/良心/と思う。

なにかのおり、

自分を放棄した思いに取り付かれる。

自棄ともいうか?

ところが、どこかで立ち直れる。

意識するのではない。

無意識の中でふと、親を思う。

こんな自分であってはいけない。

親の愛というものが、

自分の存在認識の際基調である。

自分を信じさせてくれるものは

こんな自分を育ててくれた

無償の愛。

これが自分にやがて、歯止めを掛けてくれる。

こんな自分であってはいけないのではないか?

親さまが大事にしてくれた自分がこうでいいのか?

親さまの情愛に恥じない自分に戻ろうとする。

親さまに情愛をもらえる資格 のある位置に戻ろうとする。

親というものは

自分の均衡を保たせる力がある。

いな。

すでに備えてくれてるといっていいかもしれない。

両親こそが、良心をはぐくんでくれるといっていいかもしれない。

あん?

私は両親がいない?

ばかな。

おやがなくて、こがうまれるものか。

たとえ、親が今いなくても、

この世に命を授けてくれた親の心が自分をつくったのだから・・・。

やはり、「親さまが大事にしてくれた自分がこうでいいのか?」と、

自分を取り戻せる事が出来る。

わかんねえし!!

離婚に悩むという方がきておりましたが・・・。

憂生の心理は複雑ですね。

(いっちゃっていいのかな、みたいな)

離婚するという「理由」と

離婚しない「理由」と。

ふたつを比べたとき、

多く、離婚する「理由」というのは、

「不満」でしかないきがするのです。

相手が自分の思うようにならない。

多くはそれでしょう。

これを自分の姿を見せにきていると考えると

離婚したいといってる人は

伴侶として(人間的に)「不満足」な状態なわけです。

これを、相手に映し出しているだけみたいにおもえて。

いわゆる、自己投影をしているようで・・。

どうすれば、

人間的に「満足」な状態になれるか。

ここに焦点をあてるのがいいのになあと思うので

憂生には、逃げるに都合の良い言い訳をさがそうとしているだけにみえてしまって。

そんなんで、別れたい奴はわかれりゃいいじゃんって、思いますね。

自分のレベル(と、いう言い方はきらいですが)が、正しくあがっていけば

本当に必要でない人とは縁がきれます。

それが、縁がきれないということは

自分の中のなにかをレベルアップしていかなければならないわけで。

レベルアップできたときに

まだ、縁をきれる状態でないのなら

まだ、なにか、必要な人なのだと思います。

ま、そのころには、レベルアップさせてくれた人として感謝できるようになっているので

離婚なんか、もう考えなくなってると思いますがwwww

また、こいつかよ・・

たまに訪問してくれるので、たまにでかけるが、そのたびに憤慨してかえってくることになる。

本人は「純粋な理知をブログに注ぐ。」と、副題にかかげていらっしゃるんだけど・・・。

今回も、理知にかけるというか、

読み手がどういう風にうけとめるかを把握できない安易なタイトルがついている。

せめても、中味で、そこをカバーできるかと、伺ってみたが

「無い」

わかってらっしゃらないんだろうなと思うが、

判ってない人間のところにはヤッパリわかってない人間が集まるから

本人は、「それで良い」と思ってしまうという危険性がある。

デ、問題の記事タイトル。

トルネードの威力、その痕跡・・・原発事故がないのでせめて・・・

判る人は、もう、そのタイトルの一言に含まれる「面白半分・野次馬根性」に気がつくだろう。

原発事故がないので、面白くないから、トルネード被害を掲げたよ。

こういう裏心理ととられても仕方が無い表現をするという人間が「理知的」だと自分を思っているのだろうかと考えると、忠告しても無理だろうと思う。

理知的というのは、物事が判る「お勉強・情報量」をいうんじゃない。

読んだ人に「為になるな」という思いをもたせることができることをいう。

その表題を被災地の人間が読んだら、どう思うだろう。

『原発事故が無いからせめて?せめて・・だと~~~~~』

そういう風に読み取られてしまうという事さえ気がつけ無い人間が

記事をあげ、称していわく、理知的であるとし、

真実に気がつかない読者のみが集まる。

そこにコメントをよこしている人間も同狢となってしまうんだけど、

それとも、

純粋に面白半分で原発事故を眺めてるだけか?

そこを判って、やってるのなら結構だろう。

だけど、憂生はそんな、配慮のない人間に此処に来て欲しくない。

がああああああ

よく、犬派?猫派?って、質問をみかけるけど、このあたりの細かいことと、
理由と本人の性格をしってると、妙に
「鋭い」ところにふれた回答がでているのに気がつく。

心理学?的には、動物を好きな理由イコール本人の良いところであるらしく、
口説きのテクニックとして、
そこをポイントにする。なんてのがある。

猫が好き。
ーどのあたりが?-
個人主義で神秘的なところ・・(とかあ?)と、答えられたら、その答えた人がそれを「良し」とかんじているわけだから、
ーそうかあ。君もなんか神秘的な感じがするよねえ。でも、猫みたいにちかよってくれたと思ってもすぐどこかにいっちゃうと寂しいなあー
なんて具合にいかにも歯のういたたとえであるが、好きな理由を上手に応用することができるようであるが・・・。

問題の憂生である。
(え?問題にしてない?)
憂生は「犬派」なのである。

動物は好きなので、犬だけが好きというわけではないが、親父の代から数えると15~6匹犬をかっていたことになる。

転居のおおかった、ひとりっこということもかさなって、6歳くらいの時にコリーを一頭かってくれたのをかわきりに憂生の代だけでも6頭くらいかったのだが、
猫は家につく。犬は人につく。という。

親父はそのあたりも考慮してくれたのかもしれない。

さて、で、憂生の理由である。

忠実である。(裏切らない)というのが
大きいところで、憂生が飼った犬がなべてそうだったせいかもしれないが、「人を好く」-なつくともいうか?-犬がおおかったせいもあり、そこも好きな理由であるが、これを憂生にあてはめると、まさにその通りなのである(自分で言う/笑)

憂生自体の環境が、すでに、人の情によって、はぐくまれたというものがあり、そこに対しての恩義を感じている。
どこのなにものか、わからない流れ者の夫婦の子供をわが子のように世話をしてくれたりとか・・・。
こういうことがあって、憂生はその恩義をまた、別の人に返せる事があったら返すことが、恩義をかけてくれた、その恩に報いることだとかんがえている。
そのかんがえ方が、裏切らない。忠実であれ。というかんがえ方をはぐくんでくれたと思う。
よそ者にたいしても同等に情をふりそそいでくれるということも、「人を好く」ということを刻み付けられた。

そういう環境が犬の性格をみて、「良いなあ」と思う自分を作っていったなあとも思う。

昨今、ペットを癒しとか?こういう目的で飼うことも多くなったが、親父にとっては留守勝ちな家庭にひとり留守番になる憂生に対して「護り」として、犬を飼ったのだと思う。
そして、その親父の本心をしっかりとうけとめていたエピソードもあり、まさに忠実で人(の思い)を気取る聡い動物が犬であると思う。

があああああああああ。

憂生は今、猫かってまんねん!

雪の思い出・・・

子供 の頃・・雪が積もるとやっぱ早くおこされたもんさ。

学校行くのに時間かかるしね。

「で、どれくらいつもってるの?」

「80cm・・・は、あるなあ」

昨日は地面がみえてたのに・・・。

でも、何だか綺麗な雪ってうれしいよね。

わざわざ、誰も踏んでないとこと、とおっていったりしてさ。

通学のためにユキをどかしてくれていた保護者さまの心しらずさ。

でも、頼むから。お父ちゃん。

「お~~い。お~~い。雪、つもってるぞ~~~。雪の幅、はかってこ~~~い」

って、ジョークで起こすのやめてよね。

何か大きな心境の変化があったような。

と、足跡でいただきましたが、
そうですね。
ここ暫く色んなことがあって、
憂生は自分のココでの目的を思いなおしてみたということが正解ですね。

とくちゃんは憂生の日記はおもしろいけど、
小説?はよむきになれんといってたんだけど、
憂生はもともと、自分の書いたものを読んでほしくて
ココに来たと言える。

自分に立ち戻るために
憂生はやっぱし作品をアップして行く。

その作品が読みやすいようにと
今回は背景をかえたんだ。

憂生の後ろにあったものを
前にだしてゆくことにした。

これが心境の変化だね。

ま、そんなんで、日記はあまりかけなくなってしまうけど、こういうところにかいて行くのも一手かなと思ってるんだ。
ココだとダイレクトな意見も貰えそうだし、
むふふ。
いわば、交換日記?

ちゅうところかな?

まあ、これも、ちょいと、ほったらかしていたんだけど。
ついでに。
憂生が日記に作品をあげたことについて、
「ずるい」
と、コメントがあった。

正直、前のスレッドにもかいたけど、
作品を読んでほしいと言うのが基本。

ちゅらら のいうように、
日記などを読んでるうちに
リンクのほうものぞいてみようという気に
なってほしいと言う思いがあったのは事実である。

だけど、もう、いいかな?
とも思う。
また、そんな遠回りしなくてもいいかなとも思う。

そして、なにより、
あきら/知恵・・・からのメールがあった。
同時期にくみなさんにも、
おなじお叱り/ありがとう/をもらった。

馬鹿!
しっかりするんだよ!絶対ネットなんかに取り込まれてるんじゃないよ!
この世の「生き死に」はいつでもどこでも繰り返されてる憂生は誰かに生かされてる…
忘れんじゃないよ?
誰かの命の上で皆生かされてる。
余り自分を追い詰めてんじゃないよ全く…

寝ても醒めても何処かで気にしてるだろ?

自分を殺したい奴………死にきれなかったんだね。

病気は恐ろしいよ…。
*****さんとメール交換は止めたんだね?

内心ホッとしてるよ…***さん関連の方とは余り良いイメージがないから。
ネットは楽しいから沢山遊びに使って世界を広げるのは良いよ?
でもネットの中でしか生きられない依存した者達をどうやって共感したら良いのやら…。

痛みのない世界なんて面白くないよ。

憂生はネットを使ってこれから何がしたい?
本当にやりたい事を信念持ってやって欲しいと思ってる。
いろんな人と接触は勿論、憂生の作品はネットを通じて世界中に繋る…。

広く浅くだよ…憂生…私は汚い人間だからね言いきるけど、…千手観音にしか出来ないよ人間を全て余す事なく救えるなんてね

思う程憂生は弱い奴じゃない事ぐらい知ってる、無駄な事なんてこの世に何一つない事を前に言ったよね?
案外遠回りしてるからさ(笑)…心配になる

                                        知恵

憂生は無論、知恵がココまで心配するほどの状態じゃない事はちゃんと解き明かしたから、
問題は無いんだけど、
知恵の言うように
ネットになにしにきてるか・・・。

この原点はくみなさんがずばりと付いてくれた事。

原点にたち戻っただけに過ぎない。

だからね。
「ずるい」
これは憂生にはよく判らないんだ。

******追記

ネット依存症の人間が、憂生の言葉のせいで、首をつった・・・。

ここだけ、書くと、御幣があるけど・・。

さいわい、家族の発見がはやく、彼は一命をとりとめた。

そして、「俺は死にたくない。怖かった。俺は気がくるっていたんだ」

と、さめざめとないた。

と、ある人からきかされた・・。

憂生は彼の症状において、何人かの人間に相談した。

一番、答えになったのは、Jの言葉だった。

「愛する人間がしっかり、うけとめたら、治る」

家族しか、彼の妻?しか、彼を治せる人間はいないだろう。

病院に搬送され、正気をとりもどした。

これで、彼は立ち直っていく。

自殺は、憂生の言葉がきっかけで、あったろうと思うが、逆にそれが正気にもどっていく大きな切欠になってくれることを願っていた。

憂生が彼にかけた言葉などについては、多くの人が理解をしめしてくれていた。

とくに、そのニュースをつたえてくれた人が一番、憂生をささえてくれた。

「自分のことを、ほうりなげて、無茶するな」

と、いうような内容だった。

彼がそのまま、助からなかったら、憂生は一生、もがいただろう。

その「もがき」を計算にいれるよりも、彼を何とか、救い出したい(えらそうないいかただけど)

それが先立った。

そのことしか、頭になかった。

そして、正気に戻った・・と、聞かされたとき、やっと、自分がやった危険な賭けにうちのめされた。

人の命をかけてしまうという恐ろしいことをやってしまった自分だということにね。

助かったから良かったものの・・・。

そして、憂生はおそらく、妙な人間だから、今までにも、何人かの命を助けていたから・・・。

不思議と彼が死ぬとは想わなかった。

絶対、これをきっかけに、「覚醒」して、そこをすかさず、彼の妻がささえていけば・・。

こうも想っていた。

だが、結局、元の木阿弥のようで・・。

嘘か真かわからないが、憂生を恐れてか?

社会復帰したよ・・・。と、連絡が一度あったが、結局、依存症・・境界異常のままのようだ。

ソノ頃の憂生へ、知恵が手紙をよこしてくれた。

知恵が付き合いはやめておけといっていたメールの相手も噂では「自殺」したようなことをささやかれている。

メールの相手が、どこか、「彼」とかかわる因縁はそこだったのかもしれない。

憂生自体の因縁?は、後年にあかされ、

このときに、Jの答えが一番解決策になった。

ソノ当時は、この事件をまだ、どこか、他人事にとらえていた憂生だったが、後年、憂生にとって、必要な経験だったのだと想わされている。

本当に治そうと想うのなら、絶対の信頼と、絶対の誠を尽くしていくしかない。

治ると信じていた憂生だけが言える言葉と思いが一時、彼に覚醒をもたらして見せてくれたのかもしれない。

それは、結果的に

憂生の思いが「本物」だったということを明かして見せてくれたものかもしれない。

「誠の思いに天がのる」

白蛇抄でも使った言葉だが、まさにソノ通りなんだと想う。

*********

珍しくアメンバー記事(解除

自分の中で、

ああしちゃいけない。

こうしちゃいけない。

と、いうものがあります。

それは、実際、しちゃいけないという束縛感と

もうひとつは、

できないだろう。という、自信のなさです。

そして、しちゃあいけないと思う部分も

それはそれで、間違いではないと思うのです。

たとえば、

チャクラで感じる相手への何らかの不安。

これをじかにお話していきたいと思うのです。

ですが、これは、

相手の方の個人的な部分をより把握することや

こちらへの信頼などが、必要になります。

憂生自体も一緒に考えていかなければならないという

なにもかも判った状態でなく、

時に偏った見方や理解しきれない自分がいるのも事実なのです。

この状態をふっきって、コンタクトできた相手とは、

なんどもかいたように、

相手の方の何かからも後押しされていきました。

今、ある方から

アセンション?(意味、わかってないんですが・・)してくれと

チャクラから受け取っています。

こういう言葉の概念さえわかっていない状態なので

憂生は自分をプッシュできないのです。

もうすこし、自分がまとまっていかなきゃいけないと思いますし

いわずに置けないという気持ちがないものは

また、通じていかないともおもうわけです。

はたして、ご要望におうじて、

伝えていくこと、シェアすることがどこまで、正解なのかという思いもあります。

タブン、自分が良しとおもわなければ、動けない人間なのだと思います。

考え中・・2

私の失敗を役にたててくださいとか?

こういうふうにかんがえるといいですよ。とか?

こういうのが、宛て込み根性でいやだということを

だしてしまうと

いや、

私の失敗を役にたててくださいとか?

こういうふうにかんがえるといいですよ。とか?


すなおに、それが、入ってくる場合もある。ことを思い出す。


(憂生がゆがんでるっていうなあああああ/笑)


この違いはなんだろう?

さっきのコピーな。

で、なんぼか、自分の書いた記事をよみかえしていた。

(さかのぼってね)

で、

たとえば、憂生がその人の考えてること、思っていることを

みんなに伝える。

これが、みんなの役にたつことだろうか?


ここをかきながら、のがしていたひとつの思いがあったことを思い出した。



憂生が伝えてもかまわないんだけど、


どういうんかな。


ちゃんと、その言葉が本物になってないと

「伝わらない」「響いていかない」「芯に届かない」


あと、その人のもっている愛情とかね。

恋人からだと、誰かがかわりにきて「愛してる」と伝えてくれて

心に響いてくる?


なんで、おまえがいいにくるんじゃ!!

って、思うだろ。タブン。


やっぱ、直接いわれたほうが、「愛」のエネルギーが

はいってくるんな。


やっぱ、これも、本物ってことだろう。

だから、憂生じゃ、役にたたんわけさ。

と、ここから、考えると

言っている内容も本物。

そして、伝えようとする心も

愛があるんだとおもう。

そして、伝えていこうとすることにひたむき。

一歩でも上昇してほしいという切実な思いがあるんな。

また、それは、自分にたいしてもありつづけてる思いなんだと思う。

こういうと、否定されたスピさんは

私だって伝えていこうと切実だし、

内容も本物よ。

上昇しようとしてるし。


と、いうかもしれない。


まあ、憂生はあやまるしかない。

節穴のおめめなんで・・・。

どうぞ、審美眼のあるかたのところで

ーおしえてあげてくださいー

こうなっちゃうと、喧嘩ふっかけているみたいなもんだな/笑

憂生もおちいったところだけど、

ー自分できているとおもったら

そこで成長がとまる。ー


ま、あくまでも、憂生からみてそう思うということでしかないわけだから。

憂生の言葉にかりかりするとしたら

それは憂生のいう事が本当だとおもってるからなわけでしょ?


あんぽんたんのいうことよと思ってたら

かりかりせんわな?


ま、そこらへん。

自分の思いが自分を教えてくれる。

単純に憂生に

私の失敗を役にたててくださいとか?

こういうふうにかんがえるといいですよ。とか?


が、すっとはいってくるのは、

憂生の考え方とよくにた路線で

もう、2,3歩先をあゆんでるから。

けっこう、自己協賛みたいな部分で納得させられてるわけだから

否定されたととること自体がおかしいんだけどね。

ま、そんなけちくさい根性じゃないだろうに

下種のかんぐりとレベル低とおもわせてしまっただろう。そのとおりだけど。



ま、ごめんにゃ。


こうやって、かんがえてみないとわからんちんの

一辺倒な人間なんで

いやな気分をあじあわさせてしまってることが多々有るんだと思う。

かもしれない

ある方のブログをひそかに読者登録している憂生ですが。

この方の考え方というか、まとめ方、物事の把握の仕方

系統だてて客観視できるその視線といいますか。

まともに説明できない自分にじれんまをおこします。

と、いいわけして・・・。

まあ、いっぱい、ヒントをくださるのですね。

ここからのヒントと

え~~~、脈絡ないいいかたになってしまって

申し訳ないんですが

本当に自分の因縁がきれいになったら

そこには、かかわらなくなる。

(あるいは、関わる、根本がかわってくる/抽象的ですみません)

ヒントとそこには、かかわらなくなる。

このふたつが、ひとつの答えをみちびいてきた気がします。

憂生も何度かかいていますが、

いろいろと人助け(このかんがえかたについても、別の観点でかいていますが、

さらにながくなりますので、おこがましい物言いであるとはおもいますが、そのままに)

人助けをしているわけですね。

それは、いろんな方法になることがあり、

憂生の書いた本からだったり、

直接にだったり

憂生の変な能力からだったり

単純にいえば、伝達のしかたが違うだけなのですが。

こういう自分をみていると、なんで、作家になるとか?

セラピーとか?ヒーラーとかにならないんだろうって

そこまでの文才もないし

そこまでの能力もないし。

こうかくと、

そういうものになりたいわけじゃないというのも

努力したり勉強したりすることをせず

なれない、言い訳にしてるだけじゃないかともみえるとおもったわけです。

憂生は実に多趣味(かじるだけですが・・・)

このかじるだけで、かなりのところにいってしまう。

カメラも賞もらいましたし、小説は出版の話(審査通過)もありましたし

もともとの職業の調理もひきあいがきていますし、人も助けていく。

と、まあ、そこそこの段階までいくのですが

専門的に分野を極めていかないわけです。

勉強不足だと思ったり、中途半端でやる気がない自分でしかないのかとおもったのですが・・・。

ふと、さきのふたつのこと。

ヒント(具体的でなくてごめん)と、そこにかかわらなくなる。

このことから、ふと・・。

そのときそのときでいろんな形で

なにかの役にたっていく。

専門的にやってしまったら

あるいは、もうそこにしかかかわらないわけです。

いくつかの能力を、対象にあわせて自由につかいわけていく。

そのために、逆にその道まっしぐらになれない。

いわゆる、器用貧乏みたいな自分なんじゃないのかな?って。

うまいいいわけかもしれないけど、

こういうのもありかなって、

ふとおもったので、書いてみました。

余談ですが

手相にもでています。

頭脳線見事な二股です。

昔で言えば文武両道みたいなwww

(古すぎ?)


導かれてばかり・・・。

いがみあっていたわけではない。

だけど、親父とは

いまひとつ、うまくいってなかった。

些細な事がこだわりになっていた。

幼いころである。

たとえば憂生になにか、かってやるという。

別に欲しくないからいらないと、言っても

まあ、そういわずと1個でなく2個も買い与える。

むりやり、かいあたえられたものであるが、

それはそこ、子供 である。

そこそこに愛着がわくし、

やはり、親父が買ってくれたのが嬉しいのだろう。

ところが、

しばらくすると、

この間かってやった、あれな・・

と、いいだす。

田舎の事である。

市販の玩具なぞ中々手に入らない。

近所の親がどうすればてにはいるか?と、たずねただけなのに、

親父はそのひとにあげるやくそくをしてしまう。

そして、憂生に言う。

「あれ、だれそれのとこにやっていいか」

口調は質問だが・・・。

しぶしぶ、じゃあ、こっちならと一つを妥協する。

すると、

「いや、あっち」

結局憂生はうそをいう。

「ああ、いいや。

はじめから、ほしくなかったんだし、両方あげたらよろこぶよ」

勝手に約束して、自分のめんつがたたなくなる。

きまぐれにかいあたえ、けっきょくこう。

まあ、こんな些細な事がいくつもいくつも積み重なる。

余りに酷い事は言いたくないから、

こんなささいなことでおいておく。

ところが、

いつだったろうか、雅行とはなしていた。

ぶっちゃけて、親父の事もこと細かく。

雅行は憂生より年下だったけど

十代で結婚 してた。

憂生の話をききおわった、雅行は

自分の女房さんを例えにこういった。

「憂生のいうとることは、ようわかる。

親父さんもわるいわな。

でもな、憂生は「子」じゃないよ。

俺の嫁な。あいつみてるとおもうけど、

「お父さん」「お父さん」って、娘してるよ」

くち下手な奴だ。

でも、その言葉に憂生は頭の後ろをなぐられたきがした。

つまり。

憂生が今までいってきたことは

いかに、親父が父親らしくないかをせめている事ばかりだった。

雅行がいいたいことは、

親父が親父らしくないことをどうこういってるが、

憂生は「子」らしい思いを親父さんにおくったか?

くれん。くれん。ほしい。ほしい。

そればかりいってるけど、

憂生は「子」らしかったか?

父親がどうであろうと、もう、いいかげん、

自分こそが、「子」として、あるべき思いにたつべきじゃないか?

雅行の単純な言い方は、毒が無い。

「わしゃ、ようわからんのじゃが、なんか、変じゃ」

年下だったけど、素直に頭が下がった。

曲解

何か考えていたり、

なにかを書こうとおもう。

最近、いやになるほど、

いわれるのは、

「いい気になるな」

である。

あんまり、いわれるので、ちょっと、かんがえてみることにした。

天狗になってるというのとは、

すこし、違う。

とくに感じるのは、自分の能力部分を話すときかな。

神秘をかたるなとかいわれるように、

神秘や不思議なことを語ると、

そこに、よってくるものがあるのも事実。

先の泥棒ということに繋がるかもしれない。

こういう力の多くは神や霊などの力の場合が多い。

これを公言すると、その力を使いたがるものが寄って来る。

占いでもそうだろう、自分で努力して答えをみつけるより、

先に答えを見ようとする。

答えというのは自分が解き方がわかってこそのけっかでしかない。

あとは、答えあわせでしかない。

でも、その結果も自分であってるか、どうか、わかるだろう。

あってないとしっくりこない。

いわゆる、うろこがおちない。

目の前におきていることが、

見えない世界でもおきているということはおうおうにしてあることで、

あてこんだ思いの人間がくるということは、

あてこんだ思いがくることであり、

その思いになにかがくっついてしまう。

そのひとがくるということは・・・

結局、自分が自分になにかをくっつけることになる。

だから、神秘なことを書くと自分が危険になる。

神はあてこんだ思いを嫌うから、

こうしたら、こうなるので、やめなさいという

理由を教えない。

それをすると、又、当て込む思いを作るから。

だから、一言で

神秘を語るなかれ。

で、終わらす。

此処のところに逆らって物を言う以上は

あるいは、「自画自賛」行為になってしまう。

自分で自分の能力を知るだけなら

別にかまわないんだけど、

それを知ると、

あるいは、それを知る事が出来ることじたいに

一種うぬぼれ気分を持つ。

これが、いい気分になるということで、

まあ、誰かの為に書いてるとか

自分をみつめなおすとかいうとことはなれた

精神的自慰行為になってしまう。

これを公開しているんだから

恥さらしもいいところになりかねない。

そういうことで、

思う前に規制がかかってくる。

「いいきになるな」

って。

実際、これをやってしまうと、

いくいらいいことをかいてあっても、

あおり小説になってしまうのとおなじで、

良いことまで、泥をかぶせてしまう。

まあ、妖怪でいえば、

すなかけ婆ってとこだろう。

この砂をはらいのけて、

「良いこと」だけよんでくださるとありがたいんだけど、

実際、検索眼?みたいなものをもってるひとは、

すでに、ほかの場所、日常でよいことをみつける能力があるから、

もっと、上?の「良いこと」をもとめにいってるだろう。

嗅覚があるから・・。

憂生の「くしゃい」には、こないだろう。

と、なると、砂をはらいのけたら、

猫のうんちがでてくるところでいつまでも

砂をほじくってるだろうか?

ほじくらんだろう?

ますます、くそまみれの自慰行為になってしまうから、

必死でとめてくれる。

「いい気になるな」

で、憂生は天邪鬼だから、

痛い目にあわないとわからん。

いいきになってしまう自分ではあるけど、

これを、あるいは、

「いい!気になるな」

って、考えたりする。

まったくもって、

いい気なものである。

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