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天津神と国津神

ちょっと、自分をまとめてみるためにかく。


以前の記事で

「憂生のたましいにはせめて、天津神じゃないとなあ」

って、いわれたことが謎だった。

と、かきました。


この言葉を謎だとおぼえてるくらいですから

当然、考えました(考えてもわからないでしょうが)


まず、そもそも、国津神と天津神とはなんだ?

です。


国津神は病をなおしたり、失物をさがしあてたり

いわゆる、人助けをするわけです。


これにつかれたときは、確かに、多少の先をよみ、

何時何分にどこそこになになにがある。

とか、

知人の顔をみたとき、

ーあなた、明日たいへんだねーとか、

(なにがたいへんなのか、具体的にはさっぱりわからないのですが)

ぽんぽん、物をいいだし、あてていくわけです。


で、この力を自分がすげ~~~などとおもったら

うけいれてしまったことになり、

国津神に魂ごとつかわれてしまうことになるんだとおもいます。


ところが、その人の言葉であかされていることを事実とするなら

憂生の魂は国津神につかわれるような魂じゃないということになります。


すると、せめて、天津神という言葉が疑問になります。


その正体より、なぜ、天津神ならいいんだろう?と、いうことです。


再三、いっている言葉ですが、それだって、憑依でしょ?


ところが、さるところである文書をみつけました。


ー最初は国津神が使いまわそうとして入ってきたが、

この魂は自分ではつかいきれない(おおきすぎる?)とでていってしまい

次に天津神がはいってきて、よりまわしてくれた(鍛えてくれたということでしょうか)今は魂そのものだけであるー

こんな内容でした。


そこで、天津神とはいったいなんぞや?というふりだしにもどるわけですが・・・。

古事記によれば、天の神様というのは

え~~と、国常立とか、最高神である天御中主とかだとおもわれます。


アマテラスとか、つくよみ(月読)とかスサノオとか・・

は、神さまといっても天の神様じゃなくて、

人間にとっての神様という位置にいるとおもうわけです。


って、これじゃあああ、さっぱり、わけわかんねえべ!!


で、考えるというか、こじつけます。


一般に歴史でかんがえると、

国津神は地方豪族

天津神は高天原族(大和朝廷族?)になるとおもいますが

**大胆にきりわけすぎでしょうか?***


これに千木をあてはめます。

神社の屋根にのっかってるぺけぽんの形のやつです。

このぺけぽんの切り口が水平になってるのと、

垂直になっているのとがあります。


ウィキでしらべても、男神・女神のちがいといわれているが

理由は定かじゃないとかかれています。


で、憂生はこれを調べていました。

物語、ぬながわひめのあたりでも千木が登場しますが

この神社(美穂神社)から、謎がとけていきました。


天津神が水平。

国津神が垂直。


一見、これがすべてあてはまるように思えたのです。


例外がみあたらず、あちこち探しました。

すると、ありました。

日御碕神社です。

伊勢神宮はアマテラスを祀っていると思います。

ここは水平の千木です。

日御碕はスサノオをまつっています。

ここも水平の千木です。


ところが、この日御碕神社に後年、アマテラスを祀る神社がたてられます。

ところが、千木は垂直です。


後年にたてられたせいでしょうか?

だとしても、

伊勢神宮にまつられるほどのアマテラスに国津神の千木はおかしなことです。


またも振り出しにもどってしまい、

千木のルーツをたどることになりました。

どうも、水平の千木というのは、日本独特のもののようなのです。

(また、しらべたら、ふりだしかもしれません)

仮定がなりたつかどうかはいくつもの仮定をだして

ひとつずつつぶしていくのがよいのだとおもいますが、

憂生のちゃらりんぽらりんの頭脳では

いくつもの仮定なぞかんがえつきません。

そこで、仮定をそのまま類推していくことにしました。


垂直のものと水平のものはどういう違いがあるのだろう。


日本人がわざわざ、水平のものをつくった意味はなんだろう?

そういうときほど、ヒントをくれる人があらわれるものでして

「水平は天の意をうける。垂直は横(横からの侵略とか)への守護」

もう、おおだすかりなわけです。

天の意(命(令))をうけるのが水平の千木なら

日御碕のスサノオの水平(天津神)の千木も

守護する意味が垂直の千木なら

アマテラスの垂直(国津神)の千木も

両方ともつじつまがあうのです。


つまり、天意をうけたほうが、水平(天津神)の千木

天意をうけたものを護る状態になったアマテラスが垂直(国津神)の千木

こうなります。


では、天意。

日御碕においては、

天からスサノオに

「夜の日本をまもりなさい」


伊勢神宮においては

天からアマテラスに

「昼の日本をまもりなさい」


天命をうけたほうが天津神の千木をかかげるわけです。


ですから、原初的な神、水の神とか・・。

自然そのものともいう神は

「日本に水を供給しなさい(とかあ?)」で

千木が水平になってつのではないのでしょうか?


これをこの地方を護ってください的守護につかう場合が

垂直になってしまうかもとおもったりしたわけです。

は~~~。ながくなってますね。


毎度!どうも!(と、ごまかして・・)


話元にもどします。


それで、魂のほうでの国津神と天津神ですね。


国津神:うせものをさがしたり、病気をなおしたり、いわゆる、人助け

イコール人を守護していく存在と考えます。


すると、、天津神:天の意をおろしてくる存在。あるいは、天の意をうけた存在。

こういうことになります。


天の意というところで、でてきましたが、

天の意は個人の病気をなおしたりするという対個人でなく

日本の昼(夜)をまもれ。と、いうように

国や自然?ようなでかい相手のようです。


もちろん、そんなものを普通の人間があいてできるわけがありません。

が、かんたんにいってしまっていいものかどうかわかりませんが

自分の不徳から生じたものを解決してあげてる(うせものさがしとか?

場合によっては自業自得の物事)国津神がやっていることは

天の意とはいえないと思うのです。


たとえば、立場をかえてみて、

国のためにいろいろ動いてる人で

私利私欲のない人といえば、天皇でしょう。

この人のところに「私の財布がなくなったのですが、さがしてください」

なんて、いえません。

国の代表という言い方はおかしいですが、

たとえば被災地に応援にいけないものからいえば、

天皇陛下がああやって慰問してくださるおかげで

こちらの心のつっかえがとれるわけです。

むこうの人をはげまし、じつは力になれない人間の心(きがかり)も

掬い取ってくれるわけです。

こういうのが、天意にかなった存在ということでしょう。

私(個人)だけを助けるという小さな力ではないわけです。

こういう意味合いで天意ということをかんがえると

せめて、天津神という、せめてがせめてどころのさわぎじゃない。

ものすごくむずかしい、あるいは、無理難題としかいいようのないことだと

かいていて、きがつきだしました。


でも、なんらかの形でそういうふうによりまわされていくのかもしれません。


魂には使命があるといわれます。

その使命をはたしきると

天命がはまってくるそうです。


現象の元は自分にあり、怪奇現象とか、霊とかひっぱってしまうのも

自分にひっぱってしまう元(霊とおなじような思い)があるせいなのだとかいたことがありますが、

国津神がときに不徳(自業自得)でしかないものごとを助けるというのであれば

憂生に自分のせいでしかない物事をひとのせいにしたり、ひとをあてこんだりしてしまう、思いがあったということになります。

そこからして、省みてやりかえていかなきゃいけない。


せめて天津神という言葉は

そういう意味だったのかもしれませんね。

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おもうままに・・11

いま、日本が、世界の雛形になれば、

世界もよくなる。

と、公にいわれるようになってきて、

久しいとおもいます。

日本は、その名のとおり、

ひのもと

「ひ」御霊

「ひ」の元

なのです。

そして、日本人の魂は本来、天の分かれなのです。

いつか、子供は天からの授かりものともうしあげましたが

身欲な思いなどもっていますと

子供を霊界からもらってしまうということになります。

霊界というのと、御霊というのと、幽霊というのと、

どれも、霊をつかい、非常にくわけがわかりにくくなっているのですが

霊界というのは、まだまだ、魂をみがかなければいけない。

沈んだ世界のことです。

天界とは、磨かれた魂が、いける場所です。

ここでは、天につかみあげられた人が人間の世界にいたままの姿でいることができるそうで

たとえば、吉田松陰などは、そのままの姿(吉田松陰の御霊)でいるようです。

この霊界については、すでに掃除をされていると

うけたまわっているので、いずれ、かたずいていくのだろうと

おもっていたところ、

最近霊界がちじみはじめているという話を目にしました。

霊界にいって、うまれかわりを待つということができなくなるという

アセンション以後の話しを耳にしても、

たとえば、子供を霊界から、もらうようなことをしてはいけないんだとおもうわけです。

それは、すなわち、自分の身欲などから、もらう結果になってしまうのです。

たとえばですが、子供が欲しい。

と、無理やり子供を作るということをしたとき、

霊界から、もらうという結果をつくることになります。

授かってもよし。

授からなくてもよし。

授かるには授かる天の理由があり

授からないには授からない天の理由があります。


不可解

マシュー君の言うところの

ゲイなどに対しての理解。

と、いうところに、まあ、それが、いいとか、悪いとかというのでなく、

究極的には

人類の人口増加が抑制されていると感じた。

貧富の差で考えると

貧しい国は食糧難で、やはり、人口増加に歯止めがかけられている。

富める国なら、楽に子供を育てられるはずであろうに、

異性婚?が、なりたたなくなる精神構造が露呈されている。

やはり、なんらかの人口増加に対する

防衛本能としての意識改革がおこなわれていると考えられる。

が、憂生風にいうと、

やはり、生産性がない関係というのは、

あるいは、異常な状態といっていい。

(未必ながら、SO2シリーズにて、子供を育めない関係して、

レオン・クロードの♂同士カップルの破綻を描き、

精神面での結束としての復活(復縁話)を下書きとしてもっている。

けして、ホモ・セクシュアルを蔑視・異端視しているわけではないことを付記しておく)

だが、実際、正常な支えあいという男女間の結びつきが(出産という義務?を負うという意味合いで)

困難になってきている、

地球的規模での人口増加からの警鐘であると考えると

先にあげたシュメールの洪水の中にある人口増加問題と呼応しているように感じる。

一方、仏教的であるが

子供ができるということは、多くの因縁を果たしていくという必要性があるといわれ、

子供ができないのは、あるいは、因縁納所しているということであるともいわれる。

ところが、ホモセクシュアルにおいては、この子供ができるかできないかという

ことをひとつの定規に考えたとき、

いわゆるふるいにのらない「いきかた」と考えられる。

このあたりについての

マシュー君の言及はない。

それは、どうかんがえればいいのだろうか?

やはり、文明排退期における、「こすれ」現象だろうか?

良い思い

「良い思い」「良い思い」と一言で表現しているけど

実際なにが、良い思いかわからないっていうのが、

本当で、

まあ、これを調べる?ためにときにおもうままに

かくわけで、その時点では

批判だったり、怒りだったりするわけだけど・・。

良しにまるめこんじゃ、

自分の思ってることを意識できなくなる。

と、いう意味合いで、

ときおり、なんじゃ、この人間は

人をこう言う風に批判しかせんのか?

と、いうことも書く。

書いていく中で答えがみえるときもあるし、

「悪い思い方」を意識するだけの発表になるときもある。

問題は自分の思いを見定めることだと想うし、

それを上手になだめてしまっては、

変革する中心点がわからないときがある。

な~~んも出来てる人間なわけじゃないわけで、

出来てたら、こんなことかいてないだろうし・・。

で、話変わってというか、

上のことから思い出した話。

実際なにが、良い思いかわからないっていうのが、本当で、・・・

と、いう言葉から。

そして、このあたりの考えが

霊能力者やヒーラーやチャネラーや神道家では、

無理なんじゃないのかなって想わされる元かもしれない。

ある女性が結婚して、仕事をしていた。

やがて、妊娠し・・・それでも、仕事を続けていた。

ところが、臨月ちかくだったかな?

切迫流産という状態になり、

憂生のほうに、思いがとびこんできた。

「子供が死んだ」と・・。

ところが?

今の医療技術がよかったせいか?九死に一生をとりとめたのか?

はたまた、彼女の思いだけがとびこんできたのか?

子供は無事で彼女は出産まで安静ということになり

男の子を出産した。

憂生は彼女の体調をきいていたせいもあり、

妊娠中から彼女に仕事をやめるようにすすめていた。

「仕事のかわりはいくらでもあるが、子供の替わりは無いぞ。

仕事から見て、お前のかわりはいくらでもいるが

子供からみて、母親はおまえしか、おらんのだぞ」

だが、結局、聞き入れてくれず、切迫流産になったわけだけど、

結局、育児休暇?みたいなのを、1ヶ月ほどとって、

郭公の託卵のように、母親に子供をまかせて、職場に復帰した。

入院と産後の肥立ちとかで、かなりやすんでしまったのがこたえたようで、

せめて、乳がいらんようになるまで、それが無理なら

首が据わるまで(乳児にとっても一番不安な時期じゃないだろうか?)

なんとかならんのか?

と、たずねてみたが、それも

「いつまでもやすんでたら、ほかの人に・・」

ー見ろ、それくらい、お前の代わりなんかいくらでもいるわけじゃないか?

今、本物の乳をやれるかけがえのない存在である自分を犠牲にして

仕事に尽くす必要があるか?食っていけないわけでもなかろう?ー

その言葉を呑み込んだ。

それでも、つどつど、子供のそばにいてやれ、

せめて、三つ子の魂百までという・・

などと彼女の説得を続けていたわけだ。

そんなある日、師のところへ行った時。

「おまえね、そのこをたすけたけど、たすけてよかったか、どうか

おまえにはわからないだろう」

(余談だけど、その場に居合わせたほかの人は

ーそのこが助かったけど・・助かってよかったか、どうかー

と、きこえていたというか、そういう風に言ったとおぼえてるようだ)

で、憂生は当然、判るわけがないわけで、

その言葉を一生懸命考えた。

結論をいおう。

「助けてよかった。に、すればいいじゃないか」

って、思いだった。

この思いのせいで憂生は「お前が助けた」と記憶してしまったのかもしれないんだけど・・・。

では、助けてよかったにすればいい。と、いっても

どうすれば、良かったにできるんだろう。

って、ことをずっと、考えた。

この場合逆のことで考えるしかなかった。

もし、死んでしまっていたら、どうだろう?

彼女はかけがえのない命をうしなってしまうけど、

憂生のいっていた、子供の大切さとか、自分の価値を

骨身でしることになったのではないだろうか?

子供が助かったことで、彼女は逆にあいかわらず

どうでもいい仕事にくっつき、子供をかえりみない。

これでは、子供にすれば助かってよかっただろうか?

彼女の人生ということを考えたら、

子供は助からない方が彼女の人生を本物にできるという意味合いでは

助からない方が良かった。

とも、考えられる。

すると・・・。

ようは、彼女の人生。彼女の価値を本物・・値にしていく「思い方」になってもらわなきゃ

「助けてよかったにできない」ってことじゃないか?

そして、言葉だけが彼女をとおりすぎていく状態が続き

憂生がやってることは「思いをかえてもらう」ってことでなく、

単に彼女の批判としてしかうけとめられていないんじゃないか?

って、ことを、考え直して

「助かったけど・・」という話をもちだした。

それから、しばらくして、3人目を妊娠した彼女は

やはり、調子がわるいと(3人ともおなじ状態だったわけだけど)

連絡をしてきた。

ちょうど、TVで、切迫流産の対処法というのか?

子宮口を縛る手術ってのをみていたあとだったので

そのことを話たら

「もう、その手術したんだ」ってな話だった・・。

そこまでして、仕事がいいなら、それも生き方だな。

って、憂生が引いたときだった。

「実は仕事をやめようとおもっている」

意外な展開だった。

そして、彼女は仕事をやめ、育児に専念しはじめた。

連絡が届いた。

「子供って、あんなにかわいいもんだったんだ。

わたしのことを目で一生懸命追いかけてるんだよ。

見えなくなったら、不安そうな声で泣いてよぶんだよ。

私はもうちょっとで、こんなこともしらないままに人生おえてしまうとこだった。

子供にはどんなに母親が必要か

一番必要な時にいてやれなかったことにも

気がつかずにおわっていた」

彼女がその思いにたったことが、

「助かって良かった」ってことになるのか、憂生には判らない。

ただ、おこがましい言い方だけど、

この「助けてよかったにする」という考え方は

憂生自身の考え方というか、

生き方になったところがある。

別の事件でも

最終的には

「助かってよかった」

「助けてよかった」

に、しなきゃ本当の救い?にはならないって、

そして、憂生自身が「助けてよかった」と、いうところまでもちこまないと、

憂生が救われない。

けして、人をすくっているわけでもなんでもない。

自分に関った人間を「助かってよかった」にしなきゃ

憂生が救われない。

そこがね・・・。

霊能力者とか、ヒーリングとか、チャンネラーとかの人との違いというか。

自分を救うのに、なんで、金儲けにしちまうんだ?って、

憂生はおもってしまうんだ。

ずれ

実のところ、憂生は

友人の躁鬱病をどうにか、克服できる考え方がないものだろうか?

と、スピリチュアル系統のことを調べ、書き出した。

心の病、精神の病というのは、

なにかしら、「物事のとり方」が、ずれているから、

バランスが崩れてしまうんだ。

こうは思うものの、実際自分の「物事のとり方」が

ずれている状況を是正しなきゃ、

「克服できる考え方」

なんか、考え付けるはずが無い。

この取り組みをはじめて

自分にやってきたのは、

「自分のずれ」だった。

妙に舞い上がる気持ちと否定観。

おかまいなしに否定したいままに否定しきった時

すべて、全部自分の姿だときがついた。

良いことも悪いことも

人をみながら、確信していきながら、

自分のずれにたどりつけない。

こうなると、闇雲にあちらこちらのブログを訪問する。

なにか、「ずれ」をみせてくれるものがないか?

ヒントになるものがないか?

灯台下暗しといってもよいかもしれない。

自分が常日頃書いてることがかいてある。

それでありながら、なぜ、「ずれ」にきがつかないんだろう?

腑におちた言葉を書いてみる。

「与えたものを与えられる」

憂生がよくいうのは、自分がやったことは自分に返ってくる。

同じようなことばでありながら、

憂生の言葉は

一種呪詛じみたものが絡んだ表現だ。

感覚的にいえば「ばちがあたる」こういう感じにちかい。

なるほどな。

と、思った。

これがずれだ。

やったことをかえされたとなると、相手に受け止められなかった。

って、なってくる。

つまり、自業自得なんだ。

ところが、あたえたものをあたえかえされる。

悪い思いをあたえたとする。

これが、あたえかえされなかったら、自分は罪びとになる

あたえかえされるから、ちゃらになる。

自業自得は苦しい。

自分がぼろだった。と、自分をせめてしまう。

与え返された場合は自分の罪を清算?できたんだと

すくわれた見方ができる。

ああ、この違いだなと思った。

躁鬱病もここかな?

自業自得は苦しい。

自分がぼろだった。と、自分をせめてしまう。

あまりのいたさに、

自分を認めたくないと、精神が自己防御をする。

これがすすむと、

人格分裂などになって、

認めたくない自分を別の人格にとじこめてしまうことで、

主人格を保とうとする。

だから、人格分裂や躁鬱病などをなおす方法に

認めたくない自分を自己の人格として認め、統合させるという方法がある。

これが、精神科などにいくと、治療ってことになるんだけど、

「認めたくない自分」を認める方法というのが、

ひもとけていない。

「こんな自分いやだ」と思う自分を認めたくないあまりに病気になったとするなら、

わざわざ、切り離した部分をみとめたくないに決まっている。

ありゃ、じぶんじゃない。

だけど、自分にくっついて離れない。

自分がいやだ・・じぶんがいやだ・・。

こうおもっていると、本当に自分がだめになってしまうから、

また、自己防御がはたらいてくれる。

「まわりがいやだ」

こう言う風にかんじることで、自分をまもるんだけど・・・。

はて?

これもすでにずれている。

「だから、いいじゃないか。

良いも悪いも自分。

悪い自分があったからこそ、良い部分ができてるんじゃないか」

なんで、自分をだいてやらん?

自分が親だったら、自分(わが子)の良いところも悪いところも

だいてやるだろう?

親だったら、自分(わがこ)が此処、悪かった。と気がついてくれれば充分だろう?

そのことで、自分を責めたり、

これは自分じゃないとかもがいて、自分をいじめてほしいわけじゃない。

あ、自分、まちがってたな。

もう、そう気がついた時点で、つぎのところ、階段?をあがってるのに・・。

下をみおろして、

あんなところで、あんなことになった。

ここで、自分がぼろになった。

って、階段をおりては、

清算が済んだことを

自業自得だったと自分を責めている。

もう、きれいになってるんだから、

これでよしって、おもいかえして、

もう、自分を赦してやらなきゃ。

人をにくめない人は自分をにくむ(せめる)

自分を憎めない人はひとをにくむ(せめる)

どっちにしたって、

にくんでること、せめてることはかわりがない。

もう、くたばった鼠の屍骸をつつきまわしてもはじまらん。

あなたは鼠なのですか?

自分にそうといなおしながら、

今の思いが【鼠】にかかわってるだけじゃないかってこと。

ここがずれてるってことを、

かんがえなおさなきゃいかんのじゃないか?って、

憂生は自分のずれをほんのすこし、感知できただけで、

相変わらず、「鼠」をつつきまわしているのかもしれないけど、

とにかく、

今は誰かの為にこう言う風に考えてきている憂生だということ。

人をどうにかしてあげなきゃならんと思うなら、

自分の思い方のずれをなおしていかなきゃならん。

思いが基

思いのエネルギーの怖さっていうのを知ったことが、

「思いを良くしていかなきゃ、いけない」

と、思い始めた元だったと思う。

ある事件の加害者を特定できるわけもなかったんだけど、

憂生はその加害者を憎んだ。

その途端、次々と目の前で事故がおこり

事故の被害者が

加害者だとわかる証がでてきはじめた。

このことの前に

憂生自身が疎外されるという事件がおきたことがある。

その疎外をした人間はやはり以前にも、

人をおしのけて、自分がその位置にたとうとしたことがあり

車にはねられる。という事故をおこしていた。

「自分がしでかしたことは自分に必ず帰ってくる」

この言葉が当てはまると思った。

人をはねのける(はねる)という事をしでかした人間は

やはり、はねられるという形で帰されている。

そうおもったものだから、

憂生は腹の中でその人に対して

「憂生をはねたら、あんたがはねられるよ」

って、思いをもったわけだ。

でも、この思い方は「呪」の思い方だったと思う。

で、これはいけないなと

本人には、口にださずに終わった。

そして、また、師のところにいったときだった。

「はねたら、はねられる、お前が思ったとおりになるぞ」

ぞっとした。

憂生自体が「憂生をはねたら、あんたがはねられるよ」と

おもったということは、それもすなわち相手をはねる「思い」をしたわけだから。

だから、もっと掘り下げれば、

その人に疎外されたときすでに、じつは、

過去に憂生がしたかもしれない(本人はそのつもりでなくても相手がそうおもったらそうであろう)疎外がかえってきて、

一種、清算されていたのかもしれないわけだ。

それを自分の思いをあらいなおしてみるなり、

見直すチャンスをあたえてくれたり

実際に清算(かえってきて、ちゃらになる)だったかもしれないのに、

あらたに、疎外する思いをもったわけだ。

そのことで、思い方をきをつけなきゃいけない。

受け止め方を気をつけなきゃいけない。

と、おもったはずなのに、

怒りの余り、「呪った」

さすがに、4件くらい、たてつづけに事故がおき、

最初の時点で加害者のひとりだということを

それとなく、しらされたとき、

これは、自分の「呪」が具体化してるとおもった。

「呪えば、のろわれる」

これ以上、自分の心をコントロールできない状態はよくない。

とにかく、「にくむまい。にくむまい」と、自分にいいきかせてきた。

そして、それでも、どこかで、

「奴らは、自分がした事がかえってきたんじゃないか」

とも、おもったわけだ。

このあたりは、実際、憂生にはわからない。

憂生がのろわなくても、そういう事故がおきたのか。

おきなかったのか?

そして、このあたりで、

憂生はまた、天をもちだしてきたかな。

天はちゃんと見てる。

憂生がにくもうが、にくくまいが、

清算をさせるときはちゃんとさせる。

それは天におまかせでいいんじゃないか?

そう考えた。

だが、そのうしろに、

まだ、「天にさばかれろ」という思いがあったことにきがついていなかった。

そして、天気がかわったことを書いたと思うけど

それとは、別の見方で

「憂生の思いで、天が動く」

とも、かんがえられたわけだ。

これは?

あの事故は憂生の思いをうけとって、

その思い、わからぬでもないと憂生の気をすませてやろうとしたのなら

(もちろん、裁かれる原因を本人が持っていたからだろうとは、思う)

やはり、これは、天をうごかしてしまってるかもしれない。

もしも、そうなら、

思い方、よほど気をつけないと、えらいことになる。

師は昔憂生に

「お前の魂はまんまるだから、魂におねがいしたら、そのとおりになるよ」

と、いったことがあった。

そんな、お願いをして、物事をかえるのは嫌だ。

と、おもったから、お願いはしていなかったけど、

強くねんじてしまう程の感情をもつと

お願いしてしまうのと同じことになるんじゃないか?

つまり、意識しないまま、ねがってしまうと

動いてしまう。と、いう事がありえるんじゃないか?

だから、良い思いをもつという以前に

自分がかえなきゃならない思いがなにかをみつけだしていかなきゃ、やばい。

と、おもったわけだ。

考えというものをもつと

「自分はこう言う風によい(思い方)をしてる」

と、自分にめくらましをかけてしまう。

考え方でしかないのに

思っていると思ってしまう。

自分は人を憎んだりしたくないとかんがえてるわけで、

かんがえてることなど、実際の場面になったら

ふっとんでしまう。

ただ、そういう考えをもっていれば、

自分がまちがっているとはやく、きがつける。

でも、じっさい、事故現場をみせられて、

やっと、おもっちゃいけないことだ。

思っている自分だと気がつく有様だった。

これくらい思いというものが、

自分の自由にならないというのに、

仮に天がうごくなら、こんな危険なことはないわけだ。

でも、もう、いやでもこうでも、自分の思いを

自分の「意」のままにしなきゃいけない段階に入ってきてるんだろうと思う。

これも、随分、昔だけど、

俗にいう、チャクラがひらいたというか・・

覚醒というか、そういう状態になったことがあった。

その時は、師が居て

これをふせいだ。

遠く離れたところにいたんだけど、

突然、覚醒・・ふきあがってくる感覚がとまった。

あとで、師が

「穴がひろがったんで、ちょいと石をのせておいた」

のせなかったら、憂生は発動していただろうと思う。

だが、その時点で発動したら?

思いひとつ、まともにセーブできない人間が

自分の業や因縁にまきこまれたら、どうなっていただろう?

ぶっつり、きれていた生命線の通りになっていたか、

あるいは・・・・。

その生命線は今は線ができ、つながった。

そういう風に憂生は「恩」をいっぱいうけて、

いきながらえてきてる。

自分にできることがあるとしたら、

「思い」を良い風にきりかえていくこと、

自分の思いをみつめなおしていくこと

それがいかにだいじかということを

つたえさせてもらうことかもしれない。

そうおもうから、

語るなといわれる

神秘をあえて、話している。

今の世の中、目に見せていかないと信じない人がおおすぎて、

逆に、そういう不思議な力を使える人のいうことじゃないと

耳をかさないってことがおおいきがするけど、

憂生は自分の思いを自分で自覚できれば、

不思議な力にたよらずとも

解決できると思う。

どんなことでも思いが元だから。

それをいえるような自分になるためにも、

色んな不思議な事が自分をよりまわしたとおもっている。

師との出会いもそうだと思っている。

不思議な縁でであい、今は、親交はなくなっているが、

師におしえられたことは、憂生の血肉になっている。


色や模様

心霊が精神におよぼす影響ということ。

簡単に増幅するということを書いたと思います。

1しかない思いが増幅されて、極端な場合自殺しちゃうとか・・・。

単純に1でしかなかろうが、よくない思いを振り捨てるなり、

切り替えればすむわけですが

人間ですから

悪い思い方の1しかないわけもなく、

良い思い方の30とかいろいろあるわけで。

ところが、PDSTとかになっていると、

一種、弱い人格部分ができるわけです。

場合によっては、人格分裂を起こしている場合もある。

弱い自分の隔離というか、防御というか

ほかの人格に影響がでないように、

きりはなしてしまう。

そんなことだったんじゃないかという

アル女性の話です。

とにかく、恐怖症部分が先に出る。

この人格がでてくると、憂生のほうに「じと~~ん」が始まったわけです。

そこの人格をなんとかしてくれという守護霊かなにかがいたのか?

悪い物がその思いを増幅させていたのか?

そこらへんは、憂生はわかりません。

こういう恐怖症の人格がでてくるので、

人間同士の話し合いでは

とうてい無理だと思え

ある「法」をためしてみました。

いつか、書いた、「魂」を呼ぶという方法です。

あれだけ、「じと~~ん」をかんじさせているので、

こないかな?

と、おもっていたのですが、

きました。

そして、その魂を手の中につつみこんだのですが・・・。

その魂はずっしりと重いかんじで、

黒っぽいものでした。

そして、ある程度したら、手の中からはなしたのですが、

そのあとから、相手の恐怖症のような人格はでてこなくなりました。

で、きになったのは、黒い色です。(ところどころ、薄墨色)

こんな事がわかる人がいないので、

ちょっと、友人にたずねてみました。

黒い色の魂って、どういうことだと思う?

すると、友人が答えたのは、また聞き論で

「知人の祖母がなくなったとき、黒い魂がでてくるのをみたとか・・」

う~~む。

です。

黒いから死ぬとはおもいませんが、

なにか、死にたくなるようなそんな気持ちになっているんじゃないか?

と、いうことが気になりました。

で、あるところから、その人がPDSTになっているのではないかと

話が入ってきたわけです。

つまり解離性障害みたいな感じで、別人格が浮上し、

そこにPDST部分の負の感情をおしこめている。

そういう風に、精神部分が魂というか、霊性というか、そういう部分にまで

影響が出る。

で、それ以後は解離性部分かと思う人格が浮上していないというか、

主人格に統合された感じがするわけです。

もうひとつ、最近あったことですが、

同じように魂が

赤と青のマーブル模様になっているということがありました。

赤は激情 怒りとかそういうものでしょう。

青は冷静というか・・・。

で、アル実験で赤い部屋一色と蒼い部屋一色のところにすまわせて、

1週間。

出てきた人は

赤い部屋の人は怒りっぽく、行動的。

蒼い部屋の人は沈みがちで、思慮的。

と、いう結果があるらしい。

このことからも両方の感情に支配されているのかな?

ということがあり、

いろいろ、話を聞いてみると、

確かに、怒りぶぶんというか、正義感の強い部分で怒りの感情に近いものをもっていたし、

逆に冷静に自分をみつめようという気持ちもある。

でも、いろいろ、はなしているうちに、そのマーブル(混迷?)部分がかわり、

綺麗なライムグリーンにかわっていった。

おそらく、前述の人も、色が変わったんだろうと思う。

だけど、自分の感情というか、精神面が魂にまで

影響を及ぼす。

って、ことを考えると、

心霊現象でもおなじで、死にたいと思ってれば死にたいと思う思いに

霊がよってくる。

ってのがあるわけで、

実はこれは、そういう風に

魂の色がかわってしまうから、

同じ色の霊とかがよってくるという目印になってしまってるんじゃないか?

って、考えられるわけです。

もちろん、気持ちからの波動ってももあるとおもいますが、

魂の色までかわってなかったら、

そう、むちゃなことはないんじゃないか?

って、思うわけです。

また、結局、思いが肝心ってはなしになってしまいました。


知る

王仁三郎は教典『霊界物語』第64巻で日ユ同祖論を論じ、「王仁はユダヤのことを悪く書いたことはない」「ユダヤは神の選民、日本は天孫民族で直系。ユダヤは三分の一は良いので三分の二は○いので、之がフリーメンソンをやってゐるのである。今の戦いは之がやってゐる。イスラエルの十二の氏族は選ばれたのや。一番いいのが日本へ来てゐるので日本民族や」「ユダヤが暫く世界を統一する。それから○○の番だ」と語る

前回、コピーを貼り付けたときは
無条件と思わされて、そのまま、貼り付けただけだったが
その無条件という言葉に納得するものがあったからだと思う。

古代史に興味を覚える中
YPP遺伝子などの解明?なども含めて
昨今、ヘブライ人の血が日本人の血に混ざっている。
などの話もあるなか、
憂生の中でふたつの思いがあった。

ヘブライ人がくるまえの日本人・日本はどうだったのか?

なにかしら、ヘブライ人にスポットがあてられて
歴史のなかでも、なにか、もともとの日本人というものが、
みえにくくなっている。

それと、SP論でもたまにでてくるのが、
天としてのキリストであり
ここを、最頂点・・?
創造神やら、最高神やら
天御中主という事を謳うブログもある。

ところが、憂生が教わったことでは
「キリストもひとつの天ですから」と、いう言葉があるわけで
天であることは事実だけど、
別の天であるらしく思え
では、なぜ、キリストがひとつの天であるということになったかとおもうと・・・。
つまり、先に書いた
ヘブライ人が持ち込んだ観念や信仰から、
日本古来にあった「天」が覆い隠されたのではないかと・・・。

そう考えると、
仮に日本古来からの天を知っている人からみたら
「キリストも、ひとつの天ですから」と、いう言葉がなりたつと思えたわけです。

と、なると
日本古来の「天」を見失っているということになり
キリスト関連やSP論のなかででてくる
外国の信仰やら観念も、日本人の天とそぐわないところがある。と思えるわけです。

ところが、
なんとなく、外国の信仰やら、観念もどこかおかしいとはおもうものの
では、
日本の「天」について
どこまで、洋式化した観念ぬきにしたもので考えられるかといったら
じっさい、判らないなあ。という程度なのです。

こんな中、日ュ同祖論などにかかわるものをよんでいくと
ますます、
もともとの日本の「天」が、ずいぶん昔から
「どこさいったべ?」と、いう状態になっているということを思わされるわけです。

このひとつの答えとして、大本神喩の中の一言
ユダヤは神の選民、日本は天孫民族で直系。
と、いう言葉に納得できたわけです。

天皇にユダヤの血がはいっている。
と、したとき、
それ以前の日本人はどうだったのか?
たとえば、古事記の中にかかれている
ヤマトに先にきていたにぎはやひというのは
同じヘブライの民族だったのか?
それとも、日本のもともとの民族だったのか?

もっと、天皇という政権?を掌握するまでに
ヘブライ人は渡来してきていただろうから
にぎはやひ以前の問題でもっと古い王朝?
ウガヤフキアエズ王朝とか?
もっともっと古い?
あるいは、王朝という支配体制自体がヘブライ人の観念で
よくいわれる縄文時代には支配体制などなかった。
と、いうのが本当で
そのころこそが元の日本人だったのだろうか?

あるいは、失われた文明の方式?がそのままヘブライ人にあったか
日本人にあったか?

縄文時代をかんがえるといわゆる統率力をささえる、いろんな知識があるヘブライ人の渡来により
日本人はよい意味で統率・統治されていったとおもえるが
やはり、その前からあったものを土台にしていった、継承していったと思える。

と、なると、元の日本人は・・・?
と、なったときに
ユダヤは神の選民、日本は天孫民族で直系

神の直系だという。
もっと、いえば、天の直系だという。

ヘブライ人が日本に渡来することを赦したのは、日本の天だともいえる。
その天を忘れて?
ヘブライ人の信仰に覆いかぶされてしまった天直々だった日本人の
「天」への信仰?(と、いうかどうか?)は、どこにいってしまったのだろう?

どこかしら、ヘブライ人も継承できる、似たような把握があったればこそ
ヘブライ人も同祖になりえたと思う。

たとえばだけど、
和の精神というか、国譲りのときの話し合い?にみられる「和の精神」も
もともとの日本人のものであり、
ここを継承した格好にしないと正当な日本人あるいは、日本の天皇というものとして
認められないという「天」への信仰がしきわたっていたとすれば
継承しながらも、
日本独自の血から来たものだという事になる。
(よいたとえが判らないので・・たとえばです)

こういう風にもともとの日本人がもっとしっかり
根本精神
【当然の常識として、生活観念】と、して把握(内包・内住)していたものが
ヘブライ的感覚に(文字にすることによる固定観念)に置き換わってしまった可能性も無きにしも非ずではないかなあ?
と、思うわけです。

もともとの日本人の話というわけでもないのですが、
当たり前のことは書かない?
と、思うわけです。
ちゃんと挨拶していたら
「きちんと挨拶をしよう」と、訓示をたれられることはないのと同じように
日常的にやっている当たり前は当たり前でしかないと思うわけです。
日本の言葉に常識という言葉がありますがwww
これも、常識がわからなくなったから?出てきた言葉かもしれません。

そんな風に、当たり前で、常識の徒だった日本人がいたはずだと思うのです。

それが、きっと、ヘブライ人の混血より先にあったはずだと思うところがあり、
そこに

ユダヤは神の選民、日本は天孫民族で直系。
ユダヤは三分の一は良いので三分の二は○いので、之がフリーメンソンをやってゐるのである。今の戦いは之がやってゐる。イスラエルの十二の氏族は選ばれたのや。一番いいのが日本へ来てゐるので日本民族や
と、
書かれていたのを見つけたら
確かに、無条件で「ああ、そういうことだったのか」
と、いうことであり
日本人(の御霊は)は天直々というのは、やはり、その通りなのだと思うわけです。

と、なると
日本人の御霊(魂)が、一番、そこをわかっているということになり
これもまた、
「ふるいふるい御霊であり、もっとも新しい御霊である」という意味合いも
判ってくるのです。

そのふるいふるい御霊をしっていくことが
もっとも新しい・・・
すなわち、これこそが本当の「復活」であると考えられるわけです。

アインシュタイン原理

人を助けた(御幣がありますが)つもりで、

実は、自分が助けられる。

と、いうことがある。

と、かきました。

下のスレッドが例えばそうです。

助けたわけではないのですが、

その人にとって、

良い風に思える考え方をかんがえる。

と、いうことをします。

すると、もし、これが、

自分の時だと

いや、腹が立つ。

そんなことをいわれても、おまえにこんな気持ちわかるもんか。

とか、マイナス感情が、でてきてしまいます。

ところが、人を相手にしていると

その人にとってベストだと思うことを

一生懸命かんがえるわけです。

ひいては、それは、

自分がこういう立場になったら、

どうすべきかという「自分の答え」をだしているわけです。

その答えどおりにできるか、どうかは、別問題ですが

そこを目指せばよいというゴールが、

自分の中にできあがりますし、

応用できる場合もあれば、

「そうかんがえた自分に見合う自分になろう」

とも、

言った手前?

でも、なんでもいいです。有言実行。がんばらなきゃいけなくなる。

自分の中に「価値観」をつくれる。

「みおつくし」「めどう」ができる。

これにより、

自分が助かるわけだし、

自分が、同じ目にあわなくても、

「みおつくし」「尺度」をもてるわけで、

あるいは、答えをさがすことなく

ひょいとのりこえてしまえるかもしれない。

こういうことで、憂生は

「人をたすけているつもりで、実は自分が助かっている」

と、いうわけです。

で、普段から、けっこう、相談事なんかがおおかった憂生は

ありがとうといわれながら、

その裏で、

「自分が思ってもみないことを口にだしたけど、

ああ、その通りだなあ。

この思いかた、かんがえ方、自分の楔にさせてもらおう」

って、

ありがとうは、こっちのほうだよ。

って、思っていたわけです。

相手のことを一生懸命かんがえたら、

それが、自分にかえってくる。

いいかげんに、そんなもんしるか~~って

って、やってたら

やっぱり、それも自分にかえってくる。

だから、

人事であって、ひとごとじゃないわけですが、

人のことを一生懸命かんがえてる

占い師やヒーラーや・・とにかく、

悩みをなんとかしてあげられたらって、

かんがえてる人が、

自分のことで余りなやまずにすむのは、

ひとつには、こういうことがあるからだろうし

人のことをかんがえていたら、

自分の悩みなんか、自分でなんとかしてしまえるくらいじゃなきゃ、

って、がんばってるだろうし、

自分のことなんか、あとまわしって、やっていけるだけの

愛情があるわけで・・。

キリストにしたって、汝隣人を愛せよ

っていうけど、

隣人っていうのは、

「自分を教えてくれる人」なわけ。

自分の目の前に起きることは自分に元がある。っていうし、

友はもともと、自分。ともいう。

だから、隣人を愛しなさい。って、

ようは、情けは人の為ならず(めぐりめぐって自分にかえってくる)

自分のためなんだよって・・。

キリストの説くことも

日本のことわざも

釈迦の説法も・・

結局は自分をたいせつにしていく方法をいってるわけ。

でも、自分に帰ってくるから

隣人を愛せ。といったら、

これは、ご利益・見返りを求めた行動になってしまい

逆に見返りを求められるという形でかえってきてしまう。

だから、理由を詮索せず

神のいうことを疑うなって、

そのまま、やっていけばいいんだよ。

って、いってくれてるわけだ。

でも、人間の思いっていうのか、

「それをやってると、なんか、うまくいくぞ」って、

どこか、あてこむようになってしまったり、

人にありがとうと言われると、どうだ、たすけてやったぞ。

って、えらくなっちゃうわけだ。

だからあ~~~~~。

もうひとつ、上いこうって、かんがえるわけ。

もう、キリストや釈迦が思いやっていってくれる段階をすぎて、

こういう仕組みになってるんだとわかったうえで、

もうひとつ、本当に、相手を思える。

こういうところに突入してるんじゃないか?

そして、あるいは、あえて、手をさしのべない。

って事が必要なときもあるし、

場合によっては、

「助けてやってるんだ」的思いでやる

「お助け商売」も淘汰されるべきだと思う。

なぜなら、本当に助けられているのは自分のほうなんだから。

そして、あるいは、必死で人を思うって事から得るもののほうが、

自分で自分を救うのなら

逆に助ける側にまわったら、

あるいは、そんな「助けてやってるんだ的商売」にたよらなくても、

自分で自分を救える。

って、ことになるわけだ。

だから、1+1が2って、判るからって

商売にしなさんな。

因数分解がわかるからって

商売にしなさんな。

って、いうわけ。

また・・・いずれ・・・・。

思うままに・・6

霊能力者に相談をするのが悪いことなのか。

と、いうことを書いていらした方がいたので

憂生の聞き及んでいることを書かせてもらいます。

まず、

単刀直入にいうと

「悪い」なのです。

理由は、簡単です。

霊能力者は霊を使うわけですが

このとき、霊が魂に穴を開けてしまうそうです。

何度もそれを繰り返すと、魂がぼろぼろになってしまい

最後には、体をこわしたり

頭がおかしくなったり・・するそうです。

つまり、

霊能力者に相談すると、

霊能力者の魂をぼろぼろにさせる手伝いをしてしまった。

と、いうことになります。

これは、自分さえ助かればよいという行動を行っている。

と、いうことになります。

また、何度も繰り返していますが

霊などからの障害

こういうことがおきることは、自分に元があり

そこに同調してくることが多いわけです。

人生での困難もそれを乗り越えることで

たとえば、因縁を納所するなど

見えないところで救われるということもあるわけです。

ここを考えると、簡単によくなってしまうやりかたで

事態が好転するばかりが良いことではないというのもあります。

方程式を解くのに、手順こそが大事で

そこがわかれば、応用がきくということもあります。

困難をのさり(神の試練とでもいいましょうか。)とかんがえていくか、

霊能力で試練を回避するか。

どちらが自分のためになるか。

と、いうことです。

また、誰にも話せない悩みというのも

憂生にはすこし、わかりにくいことです。

憂生も実際、誰にも話せない悩みを抱えています。

ですが、これを話したら

聞かされたほうがしんどい、辛いということ、

かかわる人間のプライバシーの問題にもなります。

だから、話さないのですが

話さずにやってきた部分で

自分の強さみたいなものが身についてきました。

また、自分にしかわからないということは、

自分で答えを見つけていくしかないということです。

こういう部分で

霊能力ではない不思議な顕示をみせられたり

魂がちゃんといるのだということも

実感しました。

だからこそ、

霊能力者の魂をぼろぼろにしてしまう手伝いをしては

自分の魂に悲しい傷をいれてしまうということになるのではないかと思います。

あくまでも、憂生個人の考え方です。

シルバーバーチ

実はー人類はすくわれてはならないーと、浮かんだとき、

シルバーバーチだと思ったのです。

とは、いうものの、憂生はこの方が何を教えていたのか、説いていたのか

はっきり、知らなかったのです。

こりゃあ、悪いものかもしれんwwww

なにか、インディアンみたいな、捕鯨船の船長みたいな、馬の名前のような・・・

そんなイメージから荒くれたイメージしかもっていなかったのです。

名前だけは前回のすぴ熱のときにみかけていたのです。

それでも、ー人類はすくわれてはならないーというのは、

いろんな意味合いで、真理におもえて、少し、しらべてきました。

勝手に拝借してきたものです。

読む限り、今まで、憂生がここに書いてきたことと、

非常によくにています。

“苦労に感謝しなさい”苦労こそ魂の肥やしである

間違いに気づいてくれる時機の到来をじっくりと待ちながら見守っています

ご利益”的な要素はみじんもないということです(おかげ信仰的なものはいやだ)(あてこむ思いはよくない)

“因果律”を宇宙・人生の根本原理としていることです。“自分で蒔いたタネは自分で刈り取る”

ちょっと前の記事にもかきましたが、地獄に落ちたものはそれで、清算されていく。

しでかしたことは必ず自分に帰ってくる。

“人のために自分を役立てる”

ー思いを救わねば本当の救いにならないー

など、ありますが、

今回のー人類はすくわれてはならないー


人間界の問題はあくまでも人間どうしで知恵を出し合って処理すべき

他の生物?から、(苦労こそ魂の肥やしである)苦労なくして、

ぽいぽいと洗脳?されても、魂は向上しない。

実際、高次元などからの、至言をうけとられているような方の

魂が向上したかどうかは憂生にはわかりません。

シックスセンスや神通力や超能力が、身についたからとて

魂が向上してるとは限らないと思うのです。

なにかしらの「MONO」がとりついているという可能性もなきにしもあらずです。

これは、非常にもうしわけないことですが、

立派なことをおっしゃっていて、神からの至言をつたえている方でしたが

残念なことに、こちらのキーボードを打つ手、マウスを持つ手がしびれてくる方がいらっしゃいます。

まあ、憂生こそが、シルバーパーチにとりつかれていたのかもしれませんがwww

けれど、ざっと、拝借してきただけですが、

彼がいうところは、真理だとおもえます。


シルバーバーチの思想上の特徴http://www.paperbirch.com/archive/arc001.html




人間界の問題はあくまでも人間どうしで知恵を出し合って処理すべきで、そこに霊界からの強制があってはならないということです

あなたの理性が承服しないものは、どうぞ遠慮なく拒否なさってください

地上にも悪友がいるように、霊界にも邪霊・悪霊がいっぱいいて誘惑の機会をねらっています。守護霊と指導霊の監視下にある(波長が合っている)かぎりは心配ないのですが、ついつい邪《よこしま》な考えを抱いたり憎しみや自己顕示欲が強くなってくると、それを機に邪霊・悪霊に操られていきます。本人はそうとは気づきません。そうなると守護霊も手出しができなくなります。と言って見放すわけではありません。そんな中でも、間違いに気づいてくれる時機の到来をじっくりと待ちながら見守っています

、“苦労に感謝しなさい”という教えを説くことです。苦労こそ魂の肥やしであるとの理念のもとに、人間生活ならではのさまざまな悩みごとや難問と正面から取り組み、自分の力で解決していきなさい、

シルバーバーチの教えには“ご利益”的な要素はみじんもないということです。「わたしの説く真理を信じても人生の苦労が無くなるわけではありません」

“因果律”を宇宙・人生の根本原理としていることです。“自分で蒔いたタネは自分で刈り取る”というのはずいぶん言い古されたことわざですが、“やはり真実です”とシルバーバーチは言うのです。善因善果・悪因悪果、因果応報などとも言いますが、これに関して注目しなければならないシルバーバーチの特徴は、その因果律はただ歯車のように巡るのではなくて、“魂の向上進化”を目的としているということです。

 これが最大の特徴と言ってもよいかも知れません。これまでに挙げたいくつかの特徴も実はみなこの“向上進化”

“人のために自分を役立てる”


価値転換

自分の思いで、よびよせてしまう。

って、いうのが、多くあり、

例えば、宗教を信仰する人。

なにかしら、自分が人の役にたちたいとおもうと、

先祖や守護霊や神が加勢してくる人。

もとの思いは良いと想うのですが・・。

なにかしら、その人のレベル・・

う~~ん、そういう言い方であってるかなあ?

その次元でのものが集ってくる。

で、時にすごい力をだすわけで・・。

いまだに、憂生は自分が天気をかえてしまったときに

語りかけてきた?(想わされた?)ものの正体がつかめていないわけです。

自分の魂からなのか?

いわゆる守護霊的ものなのか?

で、憂生はこれに対してうなづかなかったということを

書いたと思います。

奢った言い方をしますと、

天気をかえた「なにか」がすごいのでなく

「なにか」の気持ち?を動かした憂生が尊い。

尊いから、何かが、うごいて、天気を変えてまで「いきろ」としめしたわけで、

示して申したところをみると「神」でしょう。

で、こういう風な事がおきて、例えば、それが、

なんでもいいや・・。

「虚空菩薩」だと名をあかしたとします。

すると、多くのひとは、「虚空菩薩」のほうを信仰してしまうわけです。

これ、おかしいでしょう?

虚空菩薩まで動かして「生きろ」といわさせた憂生の中のもの。

あるいは、憂生自体が尊いんじゃないかい?

釈迦がいった天上天下唯我独尊の意味はここにあるわけです。

たまたま、憂生が不思議な体験をしたから、

そこを実感したけど、

これは、みんな同じ。

本当にありがたいのは「自分」

そこをどういうわけか、

キリストを信仰したり、神仏をおがんだり。

憂生はそんなものを拝む暇があったら

自分に「ありがとう」と言えと想うわけです。

どうもそこらへんがわからずに

霊や神仏に加勢されたとそちらをありがたがる。

加勢される自分をありがたいと想う。

ここらへんの順序がいまいち、ずれていて、

どういうんでしょうね、

はてには、方角が悪いの、日が悪いの。

そんなものはありません。

自分が尊くなったら

例えば悪いといわれる方向を良いものにかえてしまえる。

浄化っていうんでしょうかね。

その人がたちよったところが、綺麗になっちゃう。

これが、本当。

で、自殺したがるひとにはね、綺麗な魂の人が居る。

そんな人がたとえば、きれいなところにすいよせられて、

そこで自殺しちゃう。

こんなことがある。

だから、ふつうのかんがえでみると

そっちが悪い方向ってかんがえかえ方もする。

これを自分に当てはめる。

吸い寄せられるレベルだから、そっちが悪い方向になっちゃうということ。

だったら、自分が浄化するくらいの自分になればいいでしょ?

って、想うわけだ。

まあ、憂生は単純な発想をこねくりまわすだけで、

実に一辺等な人間なんだけど、

こんなことを考えるのも

実は日常から。

こんな服どうだろう?

おかしいかな?

いや、おかしいとしたって、

それを自分がはやらせてしまうくらいになりゃいいじゃんか。

それが、今までのファッションの形態じゃないか?

相手?がおかしいんじゃなくて、

憂生が主流になればいい。

こういう考え方が上のことにもつながるわけ。

方向や日が悪いんじゃない。

それを良いものに変えられない自分が悪い。(御幣のアル言い方)


視覚変換

以前、不幸と思われる状況であっても、

それでも、実はすくわれている。

と、かいたことがあるわけですが、

ところが、どう救われているかってことが判らない。

救われていなかったら、どうなっているか、が判らない。

だから、救われているという事もわからない。

と、

「なんで、こんな目にあうんじゃ」

と、呪の思いをもってしまうわけで、

その思い方がよくないものをひきよせてしまうわけですが。

その、どう、救われてるか、が

判らないまでも、

「良かった」と、捉える見方。

自分への価値見直しです。

この考え方は、実は

昭和天皇のエピソードから、いただきました。

天皇陛下の料理番という番組のなかでみたものです。

外国からの客賓をまねいての晩餐会のとき、

料理長は料理の細工の為につかった、

爪楊枝を一本、ぬきわすれていたのです。

誰が食べたか、どの人にいったか、わからないまま・・。

そして、料理長はあとで、天皇陛下に呼ばれるわけです。

「爪楊枝は一本だけだったのですか?」

そうです。爪楊枝がささった食事は天皇陛下のところにいっていたわけです。

さぞや、叱られる。これは、首かもしれない。

覚悟を決めて料理長は陛下の質問に答えました。

「はい。陛下の料理にはいった一本だけです」

すると、陛下は

「良かった。わたしのサラでよかった」

****

憂生はこの話を見て、消極的?な肯定にみえるかもしれませんが、

こういう喜び方、受け取り方もありだな。

と、思ったのです。

今、苦しい立場に立っているひと、いらっしゃるだろうと思います。

でも、それも、あるいは、「自分でよかった」という面が隠れているかもしれません。

恋愛の破綻で苦しんでる人を、たとえにとれば、

もし、それが、自分でなくて、ほかの人だったら・・・。

苦しんだ挙句、自殺しているかもしれません。

怒りの余り、相手を刺し殺しているかもしれません。

自分だから良かった。

自分で良かった。

みえない部分ですがこういうこともかんがえられるのではないかと思うのです。

そこに目がいかないから、

悲しい、苦しい・・とおもってしまう。

絶対、どこかで、なにかが、救われてる。

「自分でよかった」

この価値も自分でみとめてほしいもんだと思ったりしています。

回顧

PDSTの発症。

自分の存在を価値ないものととらえてしまう。

そこにいたる元の事件。

ここから、一人の人間をひっぱりあげていく。

これは、簡単であり

簡単でない。

もう、何年たったことやら。

やっと、最近、その事件があったから良かったという

ひっくり返した見地をつげることができ、

(詳しくは語れない)

当の本人も

同じようなことを思っていたという。

ああ、良くぞ、ここまで回復してくれたと思う。

ああ、あのとき良くぞ憂生に何もかもさらけ出してくれたと思う。

回復するのが、むつかしいといわれる精神病でも、

回復することはある。

簡単にいってしまうけど、

その裏に回復できなかった人を何人かみてきてる。

「今はまだ、自分を認識できてるけど

症状がすすんだら、自分がだれかさえわからなくなる」

不安のまま、明日入院すると告げた人はいまだにかえってきてない。

自分の狂いを自覚してしまうといろんな確執にのみこまれてしまうんだろう。

逃避をつづけていた人は、狂気におちいってる自分を認識したとたん、

自殺をはかった。幸い、家族の発見が早く一命をとりとめた。

まだ、ほかにもあるけど、フォルマリンの献体標本じゃない。

憂生はこういう人たちのおかげで、

自分の身近な人を狂いからひっぱりあげていく「思い方」などおそわってきた。

自傷をくりかえした男性は

「愛してくれる人が抱きしめてくれたら絶対治る」

そういった。

その男性は俺は治らんけどなってさびしく付け足した。

愛する人の死を最後まで看取った人だった。

憂生はその言葉を信じた。

自分の仕事もやめ(ざるをえなくなった。幸い?首でなく退職扱いだったっけど)ずっと、付ききりで辛い話をきいた。

話しながら別人格が浮上してきたり

退行現象(子供のようになる)を目撃することになり、

憂生はそういう風に友人を追い詰めていった人間をのろった。

とたん、に、目の前で次々と車の事故がおきる。

はねとばされ、3mほどむこうにふっとんでいく。

かけつけたものの、動かすこともかなわず、救急車をよぶしかない。

こんなことがあって、

「呪っていた自分」にきがついた。

たとえば、こんな思いが本当に人をはねさせるのかもしれない。

そして、人を呪わば穴ふたつ。

当の友人こそがそうであろう。

人を呪うというと御幣があるが

許せないと思えば、

以前説明したように、自分を被害者にしてしまう。

空に・・の主人公のような(極端な境地だが)境地にたてば、

加害者もおらず、被害者でもない。

どうにか、友人の境地をそういう風なものにかえていくことで、

友人が何もかもを赦し

何もかもを包み込むような、一種「慈悲」の境地にたてるようになってほしいと。

まったく、無茶なことだと思うかもしれない。

そこまでの異常がでている人間を簡単に回復させることなどできるわけがない。

だが、それでも、憂生なりに考えた。

憂生自体とて、のろった思いをどういう風にかえていったか。

そのときの憂生は

「呪うことさえもできないのか」

そういってもがいた。

そして自分自身がどう考えれば、「良い風に考えられるか」

ちくいち、自分を問い詰めていった。

自分が大げさだけど慈悲までのきもちになれないで

友人になにを告げられる。

回復できるに至る、思い方を自分が物にしてない状態で。

自分ものろってるのに

友人にのろうななんていっても通じない。

自分がまずそいつらを赦す。

どういう風に考えれば、赦せる。

友人を回復に導いていく、その支えになろうとするのなら

自分をまず「支えられるだけの自分」にしなきゃいけない。

憂生ももがいた。

不思議なことに一心同体のような一致がみえはじめていった。

こちらが、きがついたことは、

友人も気がつき始めている。

だから、思いの落とし穴にはまってるときに

そこからひっぱりだすことがうまく、かつタイミングよくできた。

向うが算数をやってるときにこっちも算数をやって答えを出してる。

とき方がおかしいと、きがつけるし、答えに導く道筋も立っている。

こういう不思議な同調がいっそう、回復をはやめていったのかもしれない。

きくにつらいことでも、

自分の気持ちなんかあとまわし。

そんなことなんかより、こいつをどうにかしてやらんといかん。

そればっかりだった。

絶対、良かったにさせる。

それだけだった。


つれづれに

物語をかいていくにあたって、
憂生は自分のある部分と向き合ってしまう。

これを書く前にいくつか、思うままを書く。

何の関係もないようだが、憂生の中ではつながっていく。

まず、古事記・・・。
憂生はこれを古事記とは、呼ばない。
中朝事実。
と、呼ぶ。

中朝・・王朝の朝である。
つまり、天皇の系図というか・・。
ひとつの家系の古代史であるという見方である。

そして、伊勢神宮内のダビデの星。

これが、憂生の物語の中でひとくさり、ひかかる。

さて、話を中核に戻す。

憂生はなんどか、書いたと思うが
無神論者である。
が、なにも信じないという意味合いでないので
有神論者という言い方のほうがあっているかもしれない。

簡単に言えば、八百万の神・・つまり、森羅万象はもとより・・小さなものにも
神なる存在が宿るとも考える。

無論、それは、人間の畏敬の念から発する感情でしかないとは思う。

ただ、前にも、どこかに書いたが
遠足の前に枕さんに7時に起こしてくださいとお願いするとか、
誰も居ない人の家の庭先に入るときに
「ちょっと、お邪魔しますよ」
と、なにか?誰かに?に声をかける。
家を守る神のような、そんな存在に声をかけるのかもしれない。

まあ、極端なたとえしか思いつかないが、こんな風にありふれて、物や空間にも、神もしくはそれに近い存在があると考えるのであるが、

無神論者、いいかえて、有心論者である憂生は、宗教をすいていない。

それが、なぜなのか、憂生なりに考えさせられているのが、今回の物語のせいでもある。

まず、元々の宗祖はそうではないのだろうが、信仰の形態が変わり、
ひどく、排他的である。
ひどいところになると、他の人の信仰の対象である神、仏まで否定し、排除する。
自分の神が唯一であるのは、自分にとってであると、おもうが、これが聞き入れられない。
一度、錚々たるいさかいをやらかしたことが有る。
はてに、わが神を侮辱すると、論旨がさかさまになってきた。
まあ、このあたりについては、
墓穴をほってしまったのは、向こうである。
申し訳ないが、あなたの神を侮辱する気はない。
だが、侮辱されたと考えるなら
あなた自身が侮辱の対象である。と。

簡単に説明する。

もしも、その人間がすばらしい人間であったら、その人格に触れた相手は、
その人に影響を与えた神もすばらしいと感じる。場合によっては聞かされた人間も入信するかもしれない。

その逆がこの場合。
無論、すばらしい人格者などになれないから?そこを目指すがゆえに信仰を得るという場合もある。
だが、そうではなく、問題は自分の神が否定されたと感じた人間がどう悟るかだということ。

我足らずゆえに信仰する対象まで侮辱されることになった。
相手にあやまれでなく、自分がわびるしかなかろう。
それが、逆に相手を落とす。

まあ、こういう排他的なところだけをとって、すかぬといっているわけではない。

憂生は実に古臭い考え方である。

唯一神であろうとするところが嫌なのである。

憂生は己の中にこそ神が居るというかんがえたである、
さながらいつか、書いた精神病院のジョークさながら、神は我の中にありと考えるのであるが、

それとて、唯一神になるんじゃないかと思われるかもしれない。

だが、通常、世間一般の唯一神は自分を下におく。
神の僕という言い方もあるかもしれない。
だが、自分の中に神ありと信じる憂生にとって、尊い自分がなにかの下につく程度のレベルであってはいけないとも思う。

そして、先にちらりと書いた古い考え方。
封建時代・・どころではない。
信長の時代の考え方によく似ている。

民の信奉対象が一国を統治するものか、天皇でないは、国の存続にかかわる。

この考えをせばめて、考えると
亭主より、女房より親より子より
大事なものが神になる。

逆の立場で言う。

俺は神の二の次か
私は神の二の次か

神がいうから、そうするか、
教えを実践しているだけで、
本当に大事なのは私ではない。

いや、だれしも、自分が一番大事だろうとは思うがあからさまにやってしまうのが恐ろしいのである。

こういう考え方は憂生の偏見でしかないと思うが
これが特に中朝になってきたとき。

天皇自体、無私の立場で物事を行う。
そして、第一義は「国民」である。
その后なる人が、宗教をもったまま、皇室にはいった。

古い考え方はまだ、続く。

女たるもの第一義を夫にせよ。
と、思う。

だが、信仰は唯一神である。

不敬罪に訴えられかねない内容なのであるが、
憂生はこのあたりで、なぜ、こういう人を皇室に迎え入れることになったかという疑問を持つ。

人の恋愛感情を言うのでない。

そこで、多少、話が物語りに結びついてくる。

どこかで、唯一神の宗教を受け入れる結び・・血の交わりがあったか?

物語に似たフレーズがあったと思う。

そして、その話がこの日記の最初に戻る。

伊勢神宮にダビデの星。

天皇の血筋についてはいろいろな物議があるが、現状、民を思うというこの生き様に徹する存在は日本の宝珠であると思っているし、また、章を改めて書きたいが、天皇と宗教には大きな違いが有る。

で、まあ、このダビデの星をみて、
なるほどと思ったのである。

すでにここに、唯一神が皇室に混ざりこんでしまう基があったのだと。

物語をかきすすめていくと、どうしても、歴史は繰り返す。
つまり、因縁は繰り返すというところに突き当たる。

天皇をして、巫的存在であると書いたこともあるが、宗教概念と国家には、切り離すことができない深い因縁があるようだ

おもうままに・・・。

憂生は師にいわれたことがある。

「おまえ、ここにこれなくなるよ」

その通りになった。

自分勝手な生き方をして

自分立替をせず

大きな罪をおかした。

だから、行かれなくなった。

だけど、

ある時、ふと思った。

「それでも、御霊(魂)は自分の身(観)のうちに居る」

そして、思う。

物事に偶然はない。

必然なのだ。

そのときに、

「師とは、因縁が違うのだ」

と、思った。

因縁が違う以上、どうしようもない。

えらそうなたとえをするけど・・。

キリストが若かりし頃、仏陀の教えにふれたという話がある。

ショーペンハウエルによれば、仏陀の考えかた、悟り

そのものが、キリストを構築している。

らしい・・/笑

だったら、そこまで、影響を受けたなら

キリストは仏教徒になればよかったってことになる。

だけど、

仏陀とキリストの因縁が違う。

だから、キリストは仏陀の教えを自分の中に消化し

キリストのものとして、教えを(思い・観)をといた。

たとえていえば、そういうこと。

元ひとつのものでありながら、

にたようなことをいいながら、

立っている環境やそのとき必要とされる物事などにより

ちがうものになる。

そして、もう一つ。思うのは

オーナーがよく言う言葉。

「教えを説いていたその人だけが本道。

創始者がなくなったときから、もうそれは違うものになる」

いつまでも、その教えをなんとか、つなごうとしてもだめなんだろう。

明かす人がいなくなるから。

金本位制みたいなもので、「金」があってこそ、

紙切れが「銭」として、通用する。

その「金」がなくなってしまったとき、

あらたに、

「金」になったのが、例えばキリスト。

逆を言えば

自分を「金」にすることが、本当の「つなぎ」

後継者・・・跡を継ぐもの

今、時代はゆれうごき、

多くの

「金」になろうとする人間に満ち溢れている。

憂生の後ろのものは

「金」になれそうな人間は今日本に60人ほどいるという。

ただ「金」になれる人間はどれだけ居るか判らないけど

これは、どこから、出現するかわからない。

なぜなら、ほんとうにたいへんなときになったとき、

とつぜん、三日ほどでしあがってしまうという場合もあるから。

普通のおばちゃんかもしれない。

道路の脇でねている浮浪者かもしれない。

若い高校生くらいのカップルかもしれない。

時代の波が「魂」をゆるがしたとき

魂のどん奥から

「日本をなんとかせにゃいかん」

って、やむたてならぬおもいにつきうごかされる。

日本はそういう国なんだ。

ますらおの国。

もちろん、外観の性別をいうんじゃない。

義と情の国。

情義の国

それが、心の定規。

それが、魂のどん奥にちゃんとしくまれている。

スピリチュアル・・を

スピリチュアルと悩みは、切っても切れないものだと思う。

悩みがあるから、自分を振り返る。

なんで、こんなことになるんだろう。

どう、考えれば、悩みを解決できるんだろう。

仕事がうまくいかない。

恋愛がうまくいかない。

こそだてがうまくいかない。

全部、(精神)にかかわる。

恋愛がうまくいかないのも、

やっぱり、自分を鍛えるばあいもある。

悲惨な恋愛した人をしってるけど、

ぎりぎりまで、

「愛」でふんばった。

悲しくても辛くても

それでも、良かった。

って、いえるとこまで、がんばった。

憂生はいろんな恋愛みてきたけど、

精神部分、思い方を見る。

軽はずみな火遊びをする人間もいるけど、

それが、その人にとって必要な場合もある。

本物のステップと

本当に必要な心を知る人も居る。

人生におきるイベントにけっして無駄は無い。

どんなことでも、自分の土になる。

そのとき、つらいのは誰でも同じ。

そのとき、たのしいのはおなじ。

楽しいだけをもぎとれば、

どこかで、つらいがおしよせてくる。

自分をごまかせば、

どこかでだまされる。

どんなことからでも、学ぶ要素はある。

ただ、なにを学んだかは

その人そのひとによって違う。

ときに学んだことのつらさにうちのめされたまま

なかなか、たちあがれない人がいるけど、

それも、それでいいじゃないか。

それだけ一生懸命だったってことじゃないか。

未来の恋人がほっと、胸をなでおろしている。

「一生懸命になるひとなんだ」

へ、わかれてすっきりした・・。

次のさがそう・・。

そんな人の未来の恋人は不安だろうな。

自分もうまくいかなかったら、

へ、次の・・なのかな?

苦しくて苦しくてたまらない。

それでいいじゃないか。

その気持ち、のりこえて、

成長していけることを待ってる人がいる。

そのハードルをのりこえなきゃ、

もうひとつ、幸せな出会いにすすめない。

人生はハードル競技。

ときにころんだり、つまづいたり、

ナイスにとびこせたり・・。

いろいろあるけど、

ゴールはにげはしない。

ゆっくり、はしっていけばいい。

くたびれたら、やすめばいい。

なきたいときはなく。

それでも、かならず、たちあがって、

はしりだせばいい。

その思いになれるようにするのが、

「自分へのスピリチュアル」

達磨

この書では梁の武帝仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。

帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ
聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り

一大事

たまに、くる方ですが、

なにか、わけのわからないことをいっぱい書いて

意識の次元がどうので

宇宙の次元とつながって、どうのこうの。

え~~~い!!めんどうくさい。

読むのも面倒だが、

実は真理なんて、とっても簡単なものだし

人を説得する文章でもない。

簡単にいわれて

はっと判る。

こう、読みながら「うん・うん」とうなづいてしまうようなもの。

ま、そんなことはどうでもいい。

身近な人間さえ、まともに理解できんのに、

宇宙の次元などわかるもんか。

これが、低い次元にいるというなら

低い次元、万歳だよ!!

親の気持ち、人の気持ち、わかるようになれるほうが

目下、一大事である。

なんだかね~~~~~~

もちろん、みんながその額面どおりにとっているわけではないのだろうとは思うものの

やはり、アメーバーにくると、愕然としてしまう。

さきほども、ちょっと、おじゃましたところに、

リンクされていたブログのタイトル・・・・。

憂生がスピリチュアラーや霊能力者やカウンセラーやセラピストなどなどを

うさんくさいと思う、そのままがタイトルになっている事が多い。

いわゆる、ハウツー物といっていいか。

ーこうすれば、よくなりますー

って、奴だ。

憂生も手相のことを書いているので、これもたとえにするが、

例えば、-線をかきたすとよくなりますー

これは、憂生に言わせれば、本末転倒なわけ。

手相が刻まれていくには、それなりの理由がある。

例えば、上司からうとまれる。

なんて、暗示がでた時、これに線をかきたして、運?をかえるのか?

自分のどういうところが、原因になって、上司からうとまれやすくなるのか?

ってのを、みつめなおして、

先ほどの記事じゃないが、

「思いを救う」ことをしなきゃなんないんじゃないか?

同じように、オーラーの色のことも同じだ。

ヒーリングしたり?セラピー・・エトセトラで、安定した色にすることを目的にしたがる。

さきほども書いたが、

オーラーの色は自分の思い方・姿勢がほぼ、反映する。

オーラの色をしることは、悪いことじゃないだろう。

だが、その結果によって、自分の思いをみつめなおしていかなきゃならないと思う。


過去、ある方が、理性と感情で煩悶をくりかえしていたのだろう。

オーラーの色・・(憂生には、魂の周りー表面の色ーのように思える、丸い球体のイメージがはいる)

が、赤と青のマーブルになっていた。

いっておくけど、憂生は霊能力者でも、ヒーラーでもエトセトラ・・なんでもない。

このあたりのことは、また、考えるとして・・・。

そんなわけで、赤や青の色の意味合いさえわからない有様で・・。

アメーバー内のオーラの色について掲げている人のところにいって、色の意味合いをしらべてきたわけで、

結果、赤が感情的なもの、青が理性・知性・・となり、

これは、マーブルになってるというところから、考えをすすめていったわけである。

で、当の本人といろいろ話していくうちに、感情的に煩悶する部分がみえてきて、

本人もその感情を抑えるべき考え方もしっかりもっていたのだが、

感情がわきだしてくるのを、統制するもともとの考え方の部分がぐらついていた。

単純に言えば、感情のままにいきていったほうが良いんじゃないか?

と、いう思いと

いやいや、それは良くないのでは?

と、いう考えだったと思う。

詳しいことをかけないので、上手く伝えられない気もするが・・。

いろいろ、憂生の体験などなどから、

良くないのでは?と、いうのが、どういう風に良くないかを具体的にはなさせてもらって、

本人もその考えに納得するものがあったのだろう。

葛藤がおさまって、癒しを顕す「濃緑」一色にかわったわけだけど、

憂生が言いたいのは

「どの思いを救うか」を見定めていくという事だと思う。

手相のことでいったように、

上司にうとまれちゃいやだ。

と、いう思いを救っている場合じゃないということ。

自分の思い方、処し方のどこが

疎まれる原因をつくりやすくなっているかという

「どの思いを救うか」を捜すのが目的で、

うっかり、カウンセラーエトセトラに相談すると、

=人のせい=で、ごまかされる。

例えば、誰かの恨みをかってるとか、

先祖の因縁だとか、

生霊に取り付かれてるとか?

ここまで、かいちゃ、大げさだが・・。

無論、その見立てが間違ってるわけじゃないとは思う。

だが、根本は自分に原因がある。

恨みをかうようなのは、「どの思いか?」

先祖の因縁をかぶるのは「どの思いか?」

生霊・・もそう・・。

その部分を詮議していくのは、正直、自分じゃないと判らないところが多い。

10年も20年もまえの

例えば、

「私ばっかり、叱られる」なんて、いう「恨みがましい思い」が、

「恨みがましいもの」をよせつけているかもしれないわけだ。

そこのところを、詮議する気もなく、

線をかけば、よくなるということをいうほうも、

それにのっかるものも、

あるいは、

たなぼた式の生き方になってる自分にきがつかずにおわる。

物事、何でも、ギブ&テイク

あるいは、質量保存の法則。

たなぼたをあてこめば、

たなぼたをあてこまれる。

そういう図式になっているということを、きがつかず、たなぼたを狙っていた自分がまわりまわって、

人(自分)のことをていのいいように利用されたとか?

こういう結末になっても、まだ、ひとのせいにしていちゃ、話にならない。

まあ、そんなんで、アメーバーにくると、商魂たくましい、似非求道が

次から次からやってくるし、

そこらへん、一番最初にかいたように、

額面どおりに取っているわけじゃないんだろうと思いつつも

リンクしてあったり・・するのを見ると

一抹の不安を感じるのである。



思うままに・・11

レイキについて。



まあ、これも、パワーをもらうとか、

こういうのと同じだとおもうわけです。



一種覚醒とにた作用がおきることを懸念します。



純粋なエネルギーでありながら、

パワーを得るほうの業や因縁がきれいになっていないと、

その業や因縁をきれいにしていこうという

浄化作用がおきます。



すると、どうなるか。



「沸かされる」ということがおきます。



以前にもお話しましたが、

しゃぶしゃぶをしたあとの湯です。



肉の芥や、野菜のあくとか、いろんなものが、

まぜこまれています。



色もなんだか、濁っています。



小さな肉片や野菜屑、油などをとりさっても、

色がきれいになりません。



とけこんでいるわけです。



人間でいうと、血の中にとけこむようですね。



ここにエネルギーをくわえます。



もう一度お湯をふっとうさせていくわけです。



すると、芥が泡のようになって、うかんできます。



これが浄化になるわけですが、



問題は湯が血であるならば、泡のような芥はどういうことかということです。




芥の種類にも寄ると思いますが、

たとえば、「人を憎む」思いをもっていたとします。



血の中からそれを沸き立たせとりさろうとするのが、浄化です。




つまり、取り去る時に同じ思い、同じ現象を「具象化」してみせてくるということです。



憎む=(酷いたとえですが)誰かを殺してやろう。



と、極端なたとえですが、こういう事象がおきかねないわけで、



この部分はレイキをうけて、「良くなろう」と思っている人には

それなりの制御心があるのだろうから、大丈夫だとは思いますが

人間、どんな因縁や業が在るか、あるいは、憑き物?が在るか、判らないわけです。



それが具象化してくる危険性があるということ。



つまり、ある程度、このあたりの事が判った人じゃないと

対処できないという危険性が在るわけです。




憂生自体も以前かいたように、覚醒、吹上が始まった時に

その吹き上げをとめられたのが、

本人の修養がたりてないというのが、原因だと思っています。



もしも、そのまま、ふきあげ、「人を憎む」ものも一緒にふきあげ(浄化というか、吹き上げの威力で一緒にはがしてしまう)られたら、その勢いというのは、人心を逸すといいますか、もはや、狂人のごとくになりかねないわけです。



ただ、憂生の場合は自分でも、その吹き上げ感覚がわかっていましたから、

心のなかで、「待ってくれ。まだ、早い。まだ、だめだ」と念じてはいました。



たとえばですが、こういう人間がレイキを受けた場合、

どうなっていくか。

そのあたりを、どうするか。

こういうことをおわかりになっているのだろうか?



と、いうことです。



この対処方法や、こういう事態にならないといえるものなのか?



と、いうことです。



もっとも、根本的には、

安易にエネルギーパワーをほしがるというのは、まちがってるといいますか、

こういう思いがありますが・・・。



エネルギーというものも、結局は自分の思いからの発生ですから、

なにかにたよるのでなく、思い方を省みて、良いものにしていけば、

かってにわいてくるものなのではないかとおもっています。




人間、分というのがありますから。

すぎたるはおよばざるがごとしで、

エネルギーに見合う分の自分がなかったら怖い〈映画・akiraのようなものかな?)

し、いわば、憂生のように、天気を変えるまねをして、おもったように、

天・を動かす真似をしちゃいけない。

と、もおもうわけです。



与えられるまま、分通りを精一杯。



自分の器がよくなれば、エネルギーなど勝手にわいてくる。ということを

あとにして先に、エネルギーをもらって、自分をよくしたい。は、やっぱり、どこか、考え方がおかしいと思ってしまいます。



見えない世界の構造が憂生に、わかっているわけじゃありませんが、

一番大事なのは

「すじめ」なわけで。



古事記の世界、国産みの場面で女が先に声をかけるということが、筋目をくるわせるということで、蛭子がうまれますが、

これが、ひとつには、見えない世界の構造です。



筋目が狂った状態のものの結果はよくならない。



ところが、そういうどうでもいい(失礼)な個人の欲にいちいち、結果でみせてこないといいますか、すでに筋目がくるってることが明白でありながら、そこにきがつかない。

どうでもいいといいますか、

本当に魂の次元が高い人がまかりまちがって、そんなことをやったら、きっちり、結果をみせられ、改めるようにしくまれます。



国を産むという次元の高いことをしてるから、あらためよと蛭子でみせられるわけです。



どういうわけか、今のスピリチュアラーはこういう簡単な構造を自覚してなくて、

見た目がよくなったら、思いや思いの種類・次元がどうであるかを問わないというか。

お客様本意のサービスをしているだけみたいな人が多く、

残念なことです。



多分、憂生が商売でこんなことをやっていたら、

客と喧嘩しておわりでしょうな/笑



あんたのその思い方がぼろいんだよ!!

って、わかってもらうためにあえて、いって、

根本を是正しようとして、しっちゃかめっちゃか。



だやな!!

無断拝借

クマというのは大変にありがたい生き物で、わしらはここでずっと一緒に暮らしてきた。「クマに出会ったら、歌を聞かせたり、話しかけたりすると、クマも腰をおろして耳を傾けてくれる」とわしら一族のものはきまってそう言う。わしもクマがそうするのを見たことがある。わしが出会ったときのクマは、ここと、すぐそこにある車ぐらいの距離しか離れてはいなかった。やっこさんは道をこっちに向かって歩いてきたんだ、わしのほうに。いきなりわしらははちあわせしてしまった。こっちもどうしていいかわからない。走って逃げ出そうかどうしようか考えた。で、わしは思った。ここはひとつ大きな声でやつに歌でも聞かせてやったほうがよかろうと。そのときクマのやつが仁王立ちに立ちあがった。とにかく大きなクマだった。いきなり立ちあがったもので、ああもうだめだと、わしは思った。やられると。だがわしはお構いなしに大声でやつに話しかけた。歌もうたって聞かせた。するとやっこさんが地面に腰を下ろしたではないか。だからわしも道の上に腰を下ろした。そうやって腰を下ろしてみると、やっこさんがこっちが必死に話している話を聞いていることがわかった。そしてしばらくすると、クマはまた腰をあげて、そのまま来た道を帰っていった。わしは5分ほどその場に突っ立ってクマを見ていた。そのまま後ろを向いてもと来た山道を駆け上るべきかどうかきめかねてな。で、わしは意を決してクマの後ろについてしばらく歩いてみることにした。やがてクマはそのまま大きな岩の向こう側に姿を消してしまった。まあ、動物というのはそういうものだ。連中もこっちが怖いのだな。だからこちらから話しかけたり、歌を聞かせてやったりすることで、あの人たちとも友だちになれる。そこに立っている木だって同じことだ。歌を聞かせてやればやるほど、どんどん大きく育つ。

コービン・ハーネィ(ウエスタン・ショショーニ)

かいたよ。

こりゃあ、渦にいった話なんだけどな。

「怖いって、思う、その思いがこわいんだ」

ってこと。

たとえばな、

昔、お袋がTV見た、影響でさ、

壁に出来たしみが「死んだおじいさん」に見えるって、

怖い怖いって大騒ぎしたんだ。

どりゃ?

ってなもんで、いってみたんだ。

たしかに、死んだ爺ちゃんににてる。

途端にぞお~~としてしまって、

自分に括、入れる有様。

で、近くにすんでる

霊視者のところにいって、相談しようとしたんだ。

そしたら、話半分もきかないうちに、

「おじいさんなんでしょ?

お爺さんがきて、なんで、こわいんですか?」

あ!

自分がこわがってるだけで、

本当はその幽霊?の正体自体、

怖いものか、どうか、何も判ってやしない。

見守りに来てるのかもしれない。

(怖いのは貴方の思い方。どうだろ?)

はなしてみて、かなり頭のいい子だなと思わされてる。

最後の括弧の一言の意味合いは充分悟れるだろう。

346/渦にもいったんだけどな・・。

思いがその人を護るんだよ。

憂生の不思議な話をいっぱいしなきゃ

ちょっと、わかりにくいんだけど。

自分の思い方も自分を護るけど。

いい思い方をすれば自分がいい方向にむかうよね?

これも自分を護ってることだよ。

そして、いい思いをいっぱい、かけられて育った人って

いい思い一杯出来るようになってるよね。

それって愛って言うのかもしれない。

この思いのバリアってすごいんだ。

/このアタリが説明不足だけどさ/

変な思いがわいても、浄化しちゃうくらい。

だから、それでも、

どうしても、こわくてしかたなかったら、

一番自分を愛してくれてる人の事を想うんだ。

その人のバリアにつつまれて、貴女の思いも

尊く輝く愛になる。

その人がだれかって?

「お父さん」なんだよ。

貴女をこの世に存在させた一番のこもと。

一種、創造主だね。

ね。

普段の生活で、ちゃんと

「愛」を自覚しておく。

そしたら、なにもこわくない。

たとえ怖いことがあっても、

心の中でお父さんを想う。

そしたら、

こんな、天使に誰も何もできゃしない。

ちょっと、巧く説明できなかったけど、

これが

***お護リ***

******これは、カフェ /оcn/で、自分が勤務している病院で
幽霊が出る。/見える?
って、女の子への
メッセージ だったんだ。

実際、こういう体験談になってくると
ものすごい話が憂生にもあるんだけど・・・。

ただ、あるとき、示唆されたんだ。

低級な幽霊?とかそんなものがよってくるって言うのは
自分が暗く、汚れているからだ。ってね。

たとえとして言えば
街灯に虫が群がる。
コレが、まあ、幽霊ってコトだよな。

ところが
自分が物凄く明るく、綺麗?だったら・・・。

光は熱源が発するもの。
自分の熱源が物凄く明るく綺麗だったら・・・。

例えて言えば
太陽・・・の如く。

ソレってまあ、炎だよな?

虫が寄ってきても
その炎に逆に焼き尽くされてしまうし
逆に虫のほうが恐れて
近寄ってこない。

虫が平気で近寄ってこれるほどの
自分の思い方/光源/って事になる。

と、なると、
幽霊が怖い・・・んじゃなくて
自分の思い方が「怖い」/未熟?/から、
そんなものによってこられる。

自分の思い方、まだまだ光るものじゃない。
幽霊事象は心の持ちようを磨けと
教わっているんじゃないか?

こういう風に捉えなおさせられたんだ。*********


考え事

憂生の作品。

 

沼の神をよみなおして、なんとなく、解けたというか。

 

沼の神は

 

のぞまぬ性をうけいれなければならない主人公に

 

ひとつの解脱をあたえようとしている。

 

と、こう思ったとき、

 

このテーマ?といっていいのか、自分でもわかっていないが

 

空に架かる橋の設定と同じなのではないかと。

 

空に・・の主人公はにくいはずの敵兵の

 

死におびえるその心までも掬いとってしまったといっていい。

 

もっと、おおきなスタンスで敵をも包み込んでしまう。

 

このうしろに、慰安婦問題があったと思う。

 

慰安婦にさせられたとわが身をはかなんでしまっているが

 

もっと、おおきなスタンスにたてれば、(空に・・の主人公のような?)

 

慰安婦にさせられた惨めな自分ではなくなる。

 

むろん、そんな風に思い方をかえろという意味でなく

 

こういうスタンスもありかなと

 

捉え方をかえてみることもできるんじゃないか。

 

そんな思いもこの作品をかきながら思っていた。

 

むろん、ひとつの側面として。

 

ようは、人生の中で、おきてきた望まぬ出来事に対し

 

こんなめにあわされる。悲しい。いやだ。

 

じゃ、なくて、

 

思い方や見方をかえていけば、

 

もっと大きな(広い?)スタンスにたてるんじゃないかなって。

 

 

ま、昔はよくいってたんだな。

 

よろこぶ。

少女パレアナの話からだな。

 

見方を変えたらよろこべることはいくらでもある。

 

片足をなくした紳士にパレアナは

「まあ!よかったじゃない」

 

「片足だけでよかったわ」(だったかな?)

 

お屋敷の屋根裏部屋に住まわされることになると

 

「ここは、素敵。お星様がきれいにみえるわ」

「よろこべる」ことをさがしていく。

このよろこびさがしのために必要なことは

見方をかえるということ。

 

見方を変えるためには、かんがえなきゃいけない。

 

どう考えれば、見方をかえて、よろこべるか。

 

その「かんがえる」

 

これは、観を変える(かんかえる。かんがえる。)ということだときかされたことがある。

自分の中の固定観念が見方の基準を別の価値観にかえさせなくする。

足の悪い紳士でいえば

 

片足を失ったのは悲しい。この固定観念をかえられない。

 

パレアナの一言で(物語上なので、多少、都合よく展開してるともおもうが)

 

別の基準にきがつかされて、見方がかわり、別の価値観をもつ。

まあ、憂生の作品はこういうふうな作り方をしているのがおおいとおもう。

 

ところが、固定観念が、いよいよ、むつかしくなってくる。

ブロー・ザ・ウィンドのように、目からうろこみたいに

変わるというばかりではない。

 

ちょうど、変わり目にたっていたからこそ、うろこがおちたともいえる。

 

小枝もそうだろう。

ところが、空に・・にしろ、沼の神にしろ、確執というか、

 

被害者なわけだから・・・・。

また、いっぽうで、宿業のなかでも、

別の価値観が夫婦をすくっていく。

 

これを思い返してきがつくことは、

結局、空に・・も、沼の神も、もとめていることは、

もっとおおきなスタンス=愛で生きろということなんだと思う。

 

日本的にいえば

「情」

沼の神の正体を朱雀(陰陽師、南の守護)がときあかす。

沼は水を召すとかく。

水は注ぐものであり、その音は「じょう、じょう」

「じょう」とは「情」であり「上(じょう)」であり

 

「上」は「かみ」であり「神」である。

 

神(沼の神)とは、情をそそぐものであり

上(神)にいなければ、注ぐことはできない。

情を注ぐものになれと、

沼の神が現れたのだ。

情。

心が青いとかく。

青い水は清い。

青い心も清い。

水はどんなものにも沿う。相手の容に沿う。

心もまた、どんなものにも沿える。

情とは、相手の心に沿って己を変えていけるものだろう。

ややこしい・・・話だ。

来てくださった方のぺタが残ってる場合、なにか、感じるところがありますと、

訪問をします。

がああああああ。

基本的に「いかにも**」の人のところにはいきません。

そのまま、削除の場合も多いので、実に、いやなブロガーだとおもいますし、

うっかり、いってしまって、

「いかにも**」が、実際**であった場合は遠慮なく通報しています。


で、今回、カウンセラーの方の所にいってきました。


写真をみた感じが「いかにも・カウンセラー」で、なかったのが、気になったせいかとおもいます。

まあ、いってみて思ったところは、

なんとも、はや・・・。


憂生自体が、紙一重で、ならずにすんでる姿だったという言い方は失礼かもしれませんが、

友人・知人・などなどの

精神状況を考えて見ますと、ある意味、救い出せなくても仕方が無かった状況でした。

カウンセラーの方は、ご主人を亡くしていたわけですが、

憂生も、友人・知人が、亡くなってもしかたがないほどの状況にいました。


何故、この違いがでたのだろう。と、思うのです。

カウンセラーの方は「きがついてやれなかった」と、かいておりました。

憂生も直接的にはきがついてやれませんでした。

ところが、いざ、物事が動き出した時

カウンセラーの方がいう場合であれば、

「一緒に死んでくれ」と言われた時になりますか。

憂生は、それまでのいろんな経験が土台になっていたのです。

ネットにとびこんでまもなし、依存症というか、欝病というか・・人格分裂というか、

そんな人間に遭遇して、なんとか、救いだそうとした結果が、彼の自殺未遂だったり、

境界異常や、人格分裂の彼女たち、自傷をくりかえす彼・・・・・

逆に欝病の人間をささえていた女性、何度も目の前でリストカットをされ、支える側の神経がすりへっていく。

不思議なほど、いろいろな人間としりあい、これが、リアル、身近な人間の時に対処できる土台をつくりあげていたわけです。

なによりも、考え方もありました。

こちらの話をきいてもらうためには、相手の胸の中の「鬱憤」をとりさってしまわなければならない。

自分が経験して、できてることじゃなきゃ、通らない。

この二つの後者の部分がネットでしらずのうちにつくられ、

彼の自殺未遂により、精神的不安定な人間に、うっかり、意見などしちゃいけない。


そして、自傷癖の彼からは、

「抱きとめる」ということこそが、治癒につながると教わってきました。

それらが、いざというときに、役にたったわけです。

また、憂生の不思議な部分・体験も憂生を作ってきたと思います。

一緒に死んでくれといわれたら、よしよし、そうしようと、一緒に死に場所をさがしにいく。

そして、たとえば、

「死ぬ前にごちそうたべたいな」とか・・・/笑

死にたいという気持ちは「憑き物」のようなもので・・。

おさえつけても、どうにもならないもので

気持ちを昇華させなきゃ、憑き物ってのはおちないって思う。

これも憂生の経験談からなわけで、

気持ちがおちたら、自分できがついていくようになれる。

まあ、一言でいうと簡単なことなんだけど、

なかなかね・・・。


まあ、不思議な目の繰り合わせで、憂生は大切な人を亡くすはめにならずにすんでるわけだけど、


もうひとつ、気になることがある。

かくいう憂生もまあ、いっそ、死にたいって、いろいろ、あったわけだけど、

その経緯の中で、最後には、目の前で天気が変わるという顕示でとめられてしまって

あ、自分尊いんだ・・って・・。

自分、尊いってなってしまったら、どこかで、人に対して冷たくなったなって思う。

自分が尊くないから、死ぬのなら、死ねばいいじゃん。

って、ね。

どうでもいいって自分のために、憂生がなんで必死にならなきゃなんない?


まちがってほしくないのは、ここの部分。

カウンセリングってのをうけたこともない人間がえらそうにいっちゃあいけないとは思うけど、

死ぬのをとめるのが、カウンセリングじゃないってことだ。

「自分がいかに尊いか」

って、ことに気がつき、自覚してもらうようにするのが、カウンセリングなんだ。

だから、非常にもうしわけない言い方だけど、

自分の悔いをはらすために、カウンセリングをしている状況は

実は自分が自分で自分をカウンセリングしているのに他ならない。

本当につたえていくことは、

「あなたがいかに尊いか」だけである。

この考え方は、また、今回の被災の報道のことについても、語っている。

被災者のPDSTを考えた言葉をかけてくれ。

どういう言葉をかけるべきか。

「貴方が助かってよかった」

この言葉しかない。


と。


そして、皇后陛下がその通りの言葉をかけていらした。

「よく、たすかってくださいましたね」


ー「貴方がいかに尊いか」-



だからね。


憂生はそこを思う。

なにがあっても、生きていて良かった。

その自分をだいてやることだ。

自分尊い。


その思いがあってこそ、また、人を抱ける。

まず、自分を救いきらなければ、ならない。

だから、憂生は人を助けようとは思わないし

【ある意味、多くの人間を助けてきているが】

よってくるものは自分の因縁だと思っても居る。

他人の姿をしている自分であり、その人間にどう対処していくか。

それにより、自分が救われていく。

ゆめゆめ、人を助けてやってるなんて思って欲しくないとも思う。


カウンセラーや占い師や霊能力者や・・・エトセトラは

ついつい、自分が「人を助けてる」と思いがちであるが、

自分にそれだけの因縁がなければ、そんなことにかかわらない。

憂生自体も不思議なことでかなり人をたすけて?きたけど、

それらすべてが、自分に帰ってきたと思う。

死ぬなと思いをかけたことが、自分に帰ってくる。

そして、自分にそういう因縁がなければ、

逆に「死ぬな」という言葉をかけることにもならなかったと考えたとき、

けして、人をたすけるためにかけた言葉でなく、自分のためだったのかと今になって思う。

そして、本当に因縁が切り替わった時

そこと似たところのものにいつまでも関わっているというのが、おかしいとも思う。


救えなかった自分を救うためでなく、


救われている自分を自覚すること。



まあ、書きながら・・・・・自分への命題でもあると思う。

人を観て何を思うか。

それがすなわち、自分・・・なんだから・・。

あくまでも、人の姿を見ながら、自分をまたも自覚させられているのだろうと

おぼろげには判っている。

黒と白

白蛇抄の中で

「白あるところに黒あり。あの陰陽の紋はそういうことだ」

と、いう科白をつかっている。

まあ、憂生はぼんくらなんで、

ちっと、的確なたとえがでてこないが、

誰かに悪口を言って、心がすっきりしたとして。

これが、白だとすれば、

人にいやな思いをぶつけたということで、

相手は黒になってしまう。

怪我をしたら、黒だろうけど

実はそれで、ばちがあたっていたなら、

罪は清算されたかもしれないから、

中身は白になる。

エネルギーの法則ににていて、

質量保存の法則だったかな。

(すまん。学歴ないもんで/www)

黒のエネルギーを放出したら、

どこかで、白がはいってくる。

白のエネルギーを放出したら

どこかで、黒がはいってくる。

これが、判りやすいのが

ヒーリングかな。

プラスエネルギーの人が

マイナスの人に放出したら、

自分のプラスがへって、

マイナスがはいってくる。

マイナスの人も

自分のマイナスが放出されて

プラスがはいってくる。

(順番、逆でもいっしょだろうので、書かんけど)

まあ、絶対的に、白あれば、黒あり

黒あれば白ありなんだと思う。

でな。

憂生はたとえば、すげ~~~~良い事をいったとするじゃん?

その裏にはさ、たとえば、自分を認めてほしいとか?

こういう黒があったりするわけ。

てめえ、くそばかとすげ~~悪いこといってても

あんた、よくなっていけよとか、まあ、白があったりするわけ。

憂生ちん、つい、そこ(裏)をみちまうん。

すげ~~よいことがをいう人が

ときに、自分の欲を満足させるためにものをいってるようにみえるときと

ときに、心底、人を思っていってるときと。


日本のシェア

昨今、シェアするという言葉をよく聞く。

共有するという意味だとおもう。ちゃうか?

まちがっていたら、すまん。

すまんがそこから考えたことなので、このまま行く。

まじめに読んでくださっている方には、同じ記事をあげたとおもわせてしまったかもしれない。

完璧、コピペです。

で、こっからが違う。

前の記事からわざわざコピペしてきたのもわけがある。

昨今、シェアするという言葉をよく聞く。


が、日本には、すでにシェアするという感覚があった。


すでにあったというんで、

すでにあった記事から記事(一部分)をとってきてみたという。


で、ひとつ。

憂生の作品の中に、シェアにあたる部分があるので、とってきた。

あまり、つかわれていない言葉だと思う。

漢字では、宝楽(あるいは、宝落か?)とかくのかもしれない。



いつものように幸太は炭を 店の中の角につみあげた。

よってくる番頭はにこやかである。
「おまえさんの炭は評判がよいよ」
これが、幸太への愛想の良い訳であるが
「今日はめでたい日なんだ」
と、幸太に椀にはいった赤飯、と箸をさしだし、
ほうらくだ。祝ってくれ。と、わらった。
湯飲みに印ばかりのお神酒を 注いで、
二口ほどの赤飯と一緒に
問屋に訪れた人間に振る舞う。


ー中略ー


問屋の一人娘に入り婿が来る。
今日はその結納の日であるというのである。
「ああ。それは、それは」
だんな様もさぞかしご安心なされたことでしょう。
ぐびりと、お神酒がのみほされ、 赤飯もたべおわった。
共喜びをおえた、器を受け取りながら
番頭はふと、 幸太にたずねた。


ほうらくというのは、喜びをおすそわけすることだったとおもうが。

これは、振舞う側の言い分で

ふるまわれた側は共に喜ぶ。と、いうシェアを得る。



このほうらくの後ろには、独り占めをしてはいけないよ。


と、いうのがある。


基本、シェアするという行動のなかには、

プラスにするというものがあるとおもう。


悲しみに打ちのめされているその気持ちをシェアすることで

本人一人で抱え込んでいる悲しみを軽減させたいとか。


負の出来事に対しても、シェアできることがある。


もちろん、通り魔の被害そのものをシェアしましょうなんてのはないだろう。


また、もうひとつのほうらくににた、日本のシェア。


厄払いなどのときなどに、餅や饅頭を振舞うという風習がある。


厄のときには、なにかと災難がふりかかりやすい。

この災難をひとりでうけもっては重過ぎるので、

厄をシェアしてもらう。


みんながすこしずつ、厄をシェアしてくれたら、

本人にふりかかる厄は軽いものになっていく。


そんなものをシェアとはいわない。

厄をおしつけらるなんて、ひどいとおもうかもしれない。


が、過去、自分もそうしてもらっているわけだから

自分がシェアするのはいやだというほうがひどい/笑


まあ、ちょっと、意味合いが違うし

厄のときの振る舞いをそういう意味合いでやってないこともある。


昨今は長いものをおくると厄払いになるとかで、

本人が振舞われることのほうが多いようだ。


こういう日本独特のシェアを考えると

昔の風習で、村八分というものがあったことを思い出す。


たとえば、重罪である火付け盗賊などをやったものが

家族にいると、村八分になることがあったらしい。


この考えは因縁とか血とかになってくるが

悪いことをしてしまうような血の因子。遺伝子。

あるいは、因縁(の、繰り返し)

これを封印してしまう。

(村八分になるということは結婚もできず、子孫が絶える)


これにより、正しい遺伝子や良い因縁を残していく。


正しい遺伝子や良い因縁をシェアしていくための苦肉の策だったと思う。


(村八分が、良いとか悪いとかでなく)


日本人のシェアは非常に厳しい側面ももっているということになるし

長い目でみてという立地にも立っている。


シェアという意味合いをとりちがえている憂生なのかもしれないが、

日本のシェアと

今、巷でいわれているシェアは若干違うきがする。


又、少し考えてみる。

白い光

過去形のはなしですが、昨年の話です。

なにかしら気になって、よく訪問していたかたでした。

知っていくうちに、何があったか判らないけど

パニック症状をもってらしている。

たとえば、潔癖症とか、先端恐怖症・閉所恐怖症;高所恐怖症

とか、そういう類です。

精神病というのは、一概にいえませんが、

なにかしら、心霊的部分を誘発する場合がある。

と、いう気がしています。

逆かもしれません。

前世という考え方で言えば、前世の恐怖心や体験が

今生で同じようなことを体験し、その恐怖心を増幅し、

その恐怖心にまた、心霊が重なる。

こういう事例かなあと思うものをみてきたことがあり、

思いの面で心霊部分を取り払っても

まだ、ほかに出てきて、次もとりはらって、

(あくまでも自分の思い方を強くするということです)

で、やっと、本人の基である傷、恐怖症部分がうみだした

アニマみたいなところにいきつく。

こんなことがあったので、

なんとなく気になっていたわけです。

心霊現象までおこすところには、いってない。

増幅されたりしていない。

と、思っていたわけです。

ところが、ある日。

ブログに信じられないかも知れないけど

幽霊がみえる。で、これはずっと前から子供の頃かららしいのです。

その幽霊があらわれて、最近はなにか、いらいらして、

しんどくて、ねむれない。

で、ちょっと尋ねてみたわけです。

部屋のつくりとか。

霊道になることはないか?

と、いう事が切欠でした。

本当は思い方の部分でたずねあわせたかったのですが、

急にそんなことを聞くのもどうかと思い、

そういう話からはじめました。

そして、憂生がここでも書いていることですが、

見えるとか、そういう能力を実は自分で認めていないか?

そして、見えたものにたいして、どこかで、肯定していないか?

本来は見えないほうがいい。

でも、見えて、その相手をすごいとおもっちゃいけない。

すばらしいのは自分なんだよ。

って、毎度同じパターンですがそんなことを話しました。

すると、メールで返事が返ってきたのです。

憂生自体、目でわかることなんてほとんどない人ですが、

そのメールを開いた途端白く光ったのです。

ああ、その人の思いかなにか?

基になる部分は高い次元のものだなということだけは

感じました。

そして、メールを書いているうちに

この人を護っているものが居る。

と、いう気がして、

それが、おじいさんかおばあさん。

宗教を収められたか、なにかで、人徳もあるひと。

そうおもったので、尋ねてみたわけです。

(あくまでも、憂生は勘のようなもので、確かめなきゃ判らない人です)

すると、部屋に現れる幽霊がなくなったおじいさんと良く似た格好をしている。

と、いう答えが返ってきたわけです。

そのメールをよんでいると、憂生に例の如くのじと~~~んが

はじまったわけです。

こりゃあ、相手の人が憂生を怖いとおもったか?

あるいは、憂生を探る思いでなにかがこっちをみてる?

と、思いながらなおも、メールをみていると、

憂生は不思議なことに、

そのメールに手をあわせたくなるのです。

よほど、徳の高い霊か?神か?なにかがいるのかな?と、思いました。

ですが、手をあわせるということは、

憂生の考えではよくないのです。

相手の方が上?だということをあらわしてしまい、

こっちに憑依されるという事もありえることだから。

でも、まあ、そう思うんだから、手をあわせることにしました。

自分に向かってはごめんなさいってかんじで。

すると、じと~~んがなくなって、

こっちが思ったのはメールの中のなにかの様子を自分が表している。

まあ、言えばイタコみたいな状態でしょうか?

つまり、メールの中の何かがこっちをおがんでる。

手をあわせてるんじゃないか?

と、思ったときに

あ?頼みたい事があるんだ。

と思ったのです。

それで、いろいろかきはじめました。

それは、ここにも何度か書いたように

自分が尊いって事のいろいろだったと思います。

そして、おじいさんだと思われる人がそのことを伝えてくれと憂生に言ってきてるような気がするという事を書き、さらにもう少し伝えようとした

「もうそれだけでわかる」

というおじいさん?の思いがはいってきたので、

それで、ここまででやめて、

その「もう、そこまででわかる」といわれるので、ここまでにしておくという事を書き添えました。

すると、向こうからの返事は実に簡略でかつ、的をえたもので、

「もうそこまでで、わかる」

が、本当だったとわかったのですが、

その返事はちょっと、ここにかいてよいか、迷うところですが

ようは「自分が尊いということを意識しろということですね」(自分の御霊を意識しなさい)

と、いう内容だったわけです。

まあ、今、憂生はここきんぺんであったことをすこしずつ、だしてみようと

おもいはじめているので、こう言うことを本人の了承なしにかいていますが、

ひとつには、こういう段階をぬけようと思っている憂生がいるせいです。


*厳密には


「御霊を意識しなさい。と、いうことですね」です。


このころは、まだ、魂とか、御霊とかいう言葉をいっても
相手のかたや、まわりが、理解?できないという風潮がありました。


まだおがみ信仰的な守護霊とかそういうパターンで、
ここ1~2年かな?


御霊・魂を磨くとか、カルマを清算するとか
そのためには、意識をたかめていかなきゃならないという
スピリチュアルの根本というのが、浸透してきたのは・・・。


おそらく、これは、5年前くらいの事件?です。

まだまだ、ずばりとかけなかった時期であり
なおさら、的を得た答えが返ってくるとは思っても居なかったぶん


おじいさんのーそれでわかるーも、大いに納得したものです。

ぬばたま。

さるブログで、地下道の階段にサンダルがおいてあるが、なんなのだろうという記事があった。

写真を見ると、憂生にはサンダルの中に男性の足の残像があるように見える。

これは、さきに、少しふれた、魂がふたつあるようにみえる(感じる。。だけど)スピリチュアラーと関連があるといえる。

彼の写真には、陰陽師のような貴族とソノ貴族によりかかる、女性と、琴をひくような童(女の子?)の影がみえ、貴族の後ろには、一つ★がうきでた魂のような丸いものがうかんでいる。

が、その琴を弾く女の子の後ろに鬼のような、狐のような顔がうかび、琴らしきものも、よくみると、尻尾のようなものがみえる・・・。

憂生のスピリチュアル内部でも、いろいろ、書いているが、顕示をみせるものほど、危ないということに、留意して、考えていただきたい。

彼の魂をのっとっているもの(あるいは、差配しているもの)がいると、考えて差し支えない。

そして、まさに安部晴明の話にもあるが、月がふたつあったという話。

憂生の妙なシックスセンスがふたつの魂を感じてしまったのだ。

一つは白く、一つは妙にテラテラした艶のある黒。それは、まさしく、「ふり」をしているがごとく、紙のようにうすっぺらな質感だった。

こんなことがあったから、サンダルをみていると、男の足がうかび、妙に「富士山・・青木が原_(樹海)」(自殺願望?)という意識が飛び込んでくる。

ブログの管理者自身のなんらかの意識とシンクロしたのではないか?というのが、憂生の結論であるが、

例えば、くたびれたとか、なんか、もういやになっちゃったな、とか・・・・?

なにかしらの意識と交信してしまったがゆえ、管理者がそのサンダルをきにかけさせられるという結果になったのでは?

当の管理者と話してわかったのは、富士山にのぼってみたいという(だったかな?)思いはもっていたということだった。

そこにシンクロしてしまったのかもしれない。

が、この写真を憂生がまた、見てしまう、二次的シンクロはどういう意味合いだろうと考えていたら、「ぬばたまだ」と教えられた。

まったく、意味がわからず、ぐぐってきた。

どちらにしろ、心理的に「うなづく」ということが、霊的なものにかかわる(知らずのうちにしろ)危険であるということ。

このあたりの(うなづかないということ)細かいことについては、ほかの場所で書いているので、今回は割愛する。

ぬばたま

  • 「射干」を「やかん」と読む場合 → ヒオウギ (檜扇)という植物の漢名(本来の用法)。または、ヒオウギの根の生薬名。
  • 「射干」を「しゃが」と読む場合 → シャガ という植物。
  • 「射干玉」のにかかる言葉は「黒」

ぬばたまは、黒い思いをもった魂ととらえられるかもしれない。

黒い思いとは、死や悲しみや負の思いをさす。

射干という文字の言葉をそのまま、あてはめると、

(光)の照射を干すということになる。

ひからびてしまう。

光をうけない。

あるいは、光をうけて、吸収してひからびてしまう。

黒が光をすべて吸収する色であり、

白がそのぎゃくだったように記憶する。

人間でたとえれば、

気持ちの真っ白な人の側によれば、

こっちも、反射された「光」のパワーをもらえる。

気持ちの黒い人(暗い)の側に寄れば

こっちの「元気」が吸収される。

逆を言えば、

黒いところにいって、元気な人は

かなりパワーにあふれてる人とも考えられる。

思うままに・・2

此処で思う・・って、タイトルをつけながら、其処で思う・・他処で思うことを2,3あげたのですが、
ブログをあちこちもってきた経緯があり、ブログ環境というのが、あるなあとおもいますね。

まあ、憂生のほうにそれにひっかかるピースがあるということになるのですが、アメーバーにいくと、どうも、心霊的なことごと、スピリチュアルな物事に遭遇します。

詳しくは幽玄師にかいてるので省きますが、憂生が考えとして、持ち始めた事が、
「思いを救わなきゃ、本当には救われない」って、ことで、
この思いを救うっていうのも、当然、自分の思い方なわけです。

当初はもっと、単純な発想だったと思います。

よく、書いていたのが
少女パレアナのことで、
「見方をかえれば、喜べる」というものでした。

これを現実で自分に当てはめていく時、些細な事は見方をかえるだけで、「感情」もきりかえる、あるいは、セーブ・統制できてきたわけですが、こむつかしいことになると、簡単にはいきません。

その頃、すでに、白蛇抄12編くらいは、かきあげていたころで、この中に「思いを救わなきゃ本当には救われない」という言葉がかきこまれていました。

天啓のごとく、憂生にその言葉がつきささり、
「思いを救う」ということが、どういう事か、考えるようになってきました。

こてさきの観をかえるだけでは、感情まで、変えられない事件に遭遇し、もがきましたね。

そして、この3年近く、どう考えれば、納得できるか。

と、いうことをやってきていました。

その間にアメーバーなどで、不思議な経験をしたわけです。

一時期、魂?オーラ?の色がわかる時期がありまして、相手の方の感情が乱れていると、赤と青のマーブル模様になっていたり、どこかで、欝的思いをもっていると、黒い模様がうきでたり、グローバルな世界観をもってる人は銀色だったり、スピリチュアラーの多くが透明だったり、献身的な例えば介護の仕事をしている人が青い色だったり・・。

思いというものが、実際に人を作るわけで、憂生の憑依?体質もあったせいか、良くない思い、(混迷していたり、なにかしら憑き物があったり)をしていると、こちらに、幻惑感があったり・・・。

それらのこともすべて、その人の思いによるもので、憂生に幻惑感を与えているうちなどはたかがしれていて、本人を差配してしまう場合もあるわけです。

これを考えたとき、自身、思いをよくしていかなきゃ実にやばいぞ。と、おもうようになり、いっそう、どうすれば、思いを救うことができるか。

と、考えるようになってきたわけです。

なにもかもが、「思いが元になっている」と、判るまで、自分のどの思いがいけなかったのかと、過去にさかのぼってまで、自分をつきつめていくわけですから、正直、そこにきがついていったとき、自分がくずれていく挫折も感じました。

極端なたとえですが、病院関係の方などはよくしってらっしゃると思いますが、ひやりはっと報告というのがあります。

病人が勝手にベットからずりおちて、怪我をしてしまったのも、「私」の責任なわけです。

この考え方によくにています。

どうして、「私の責任」なのかを、ずっと、かんがえていくわけです。

極端すぎる言い方ですが、関わるものすべて、自分に元があるという考え方が土台にあり、ここの部分で「元」がなにであるかを自覚する作業なわけです。

例えば、教師が生徒にたてつかれた。
一般的には親のしつけが悪い・・と、なるわけですが、
憂生の考え方は、
「自分が例えば親にたてついてきた、その姿がかえってきてるんじゃないか?」
と、いうことになります。

ところが、本人は親にたてついたことなどないので、違うというわけです。

そこで、「思い」の話になってきます。

思いの世界ではどうだったろうか?

と。

おそらく、この「思い」の世界でどうだったかの自覚というのが、すくないだろうし、一般論でいいぬけて、「私のせいじゃない」とかんがえるわけですが、この部分を、本当に小さな頃からの思いまで、ふりかえって、「たてついた思いしたことないか」をかんがえるし、この思いはたてついた思いといえるんじゃないか?と、自分の思いを詮議するわけです。

それをやっていくと、生徒の態度に腹をたてるどころでなく、
自分の姿だったときがつかされることにより、
「腹立つ」という思いを救うことができるわけです。

そういう風に、ぜったい、見方をかえる事が出来るはずだ、

と、いう考えで、物事をやってきて、これでもかという状況におちいって、それでも、やっと、「この思いのせいか」というところまで、たどりつきはじめました。

憂生にとって、物を書くということは、「自分を知っていくための一歩」なわけです。

なんか、つぶれたな? 

仮定論理である。

最後に、たどりつけるかどうか・・。

又別の考え方として。

親への不足、不満に付いての「観、変える」

たとえば、じつは、その親が自分の前世の姿だったら、どうだろう?

不足が有る親である。

それが自分である。

こう、足らぬかと、教えてもらえている。

ところが、現世。

実際の自分はその親の子である。

どうする?

直そうにも直せない。

自分じゃないんだから。

できること。

自分が親になったら、

足らないところを足した親になる。

わざわざ、足らないところを教えてくれてる。

こう考える。

自分じゃないと思うから、

おこりたくもなるけど、

これは、なりえやすい自分の姿。

先に見せてくれてる。

関係ないと思うから、怒る。

全部自分ごと。

目に映る全ての物は全部自分の何らかの姿。

どう、さとり、

どう、かんがえてゆくか。

アレクサンドラクロス(アレクサンドラからの交信を翻訳)

大川隆法師が宇宙人とコンタクトしたという記事をよんでいた。

実際、憂生もこの存在について、疑問視している。

いるか、いないかでなく、

この存在のしんの目的といってよいか・・・。

憂生自体がどうも、天啓として、物語を書くという話をどこかにかいた。

その物語を書いた時に

友人になに、このまずいの・・と指摘されたのだが、

この時に、憂生は

「憂生は何かをしらされるために、

物語をかくときがある。

今は判らないけど、いずれ、なにをしらされたのか、わかる」

その物語が「箱舟」なんだけど・・・。

この物語は究極、エレメント型の宇宙人に寄生されると

主人公がきがつくことで、終わりになっているんだけど、

この物語の続きが「憂生の現実」かもしれない。

大川氏は一種、イタコ状態というか、鎮魂帰魂法というか、

これで、宇宙人をおろしたらしいが・・・。

彼のやってることは、伝達に過ぎない。

憂生がいおうとしていることは、

なにものかにより、あかされているが、

カッサンドラクロスだという。

カッサンドラは預言者であるが、

アポロンののろいにより

その預言を誰にも信じてもらえないことになるらしい。

憂生がいうことも、まあ、信じられないだろうとおもうし

実際、アリオンの預言のなかでも、

真実をつげるものは最初皆から誤解されるという。

この預言をかいた人間がすでに、

憂生を誤解している。

(うら事情はふせる)

簡単にいうと、エレメントタイプの宇宙人は

人間の魂に寄生する。

そして、いろんな方法で

「魂」付近の環境を整える。

これが、自分の思いを浄化するとか

いろんな形で自分のエレメントの環境をよくしていく手段。

別のタイプは魂からの情報をひきだし

人間の魂をくりぬいて、寄生する。

とってかわる。

上のタイプがしたのタイプに移行していくようなきがする。

デ、実際問題、憂生がみた魂にはそういう風なものがあって、

憂生の感能力では自分が理解できるイメージしかうつしだしてこないんだけど、

丸いガラスのような魂の上の口があいていて、

中が空っぽで、その中で(浄化作業)をおこなっている。

何を浄化しているのか定かではないが

最初はもやもやした空気がよどみ、

次に下方に黒い水溜り(下半分)ができて、

それをガラスの口からそとにほうりすてる。

しばらくすると、透明の波模様がうかぶ。

地球を浄化しているのかはたまた、その本人を浄化しているのかわからないが、

こんなんで、大丈夫なのだろうか?

おもっていたら、

「あのひとはあめつちほしだから、気にしなくてよい」

と、いわれたんだけど、

その人のくりぬかれた魂とおもわしきものが

憂生のところにきていた。

エネルギー?をすわれたか、いき絶え絶えになっているのを

息吹きしてかえした。

で、どうも、表面上にうつる、ガラスのうしろに

その本体の魂がいるようで、

まずは、大丈夫なんだろう。

そういうことがあったあと、なかには、

妙な魂があった。

薄い緑白のなめらかな羊羹のような魂のなかに

あんこがはいっている。

ありえないイメージに悩んだ。

その魂を透かしてみると同じような緑白の魂と

金色に光る魂とふたつ、場所をちがえてもっている。

つまるところ、これも、宇宙人がはいりこんでいる。

「意識」をとりこむために

人にいろいろ、話をするのだが、

結局、羊羹菓子で、甘いことをいっている。

そのスライムのような物質が彼の本体だろう。

大川氏のいうところを聞いた信者がいろいろと

かいていて、核をもたなきゃいけないといういいかたをしていた。

宇宙戦争になったときをかんがえてというが・・・。

事実は人間の魂の争奪戦争である。

今、なにが、必要かというと

自分の中に「自分の魂」があるということ。

憂生はいろんなコンタクト?

取調べ?をされたようだけど、

思いの浄化をいろいろはかってみたけど、

どうしても、どうしてもとれない。

それが、ある日増幅する。

何度か書いたと思う。

この増幅は自分以外のものの差配だと。

怒りや悲しみなどを増幅させて、

人間の精神を「なにか」にたよらせるようにする。

これが、まず憑依・コンタクトでおきる。

そして、魂の環境をよくする。

そこに寄生する。

そして、精神をコントロールしていく。

場合によっては、魂自体に寄生し、主導権をにぎる。

エレメントが「親を選ぶ」ということはこういうことだろう。

その親(男女)を結びつければ

生まれた子供にエレメントが完璧に入り込まれる。

地球侵略の意図は此処にある。

これに気がつかず、

神様のふりをしたものや、

悲しみにのめりこまれると

エレメントに寄生される。

これが、場合によっては、

精神病として顕れる。

精神が錯乱する状態はいわば、

エレメントに占領される状態。

なによりもだいじなことは、

「自分の中に自分の魂がある」ということ。

大川氏信者のいう「核保有」とはそういういみだろう。

この「自分の魂」の存在にきがついていないものが多すぎる。

気がつくということとしっているということは違う。

きがついたら、いつも、「魂」をいしきする。

この「自分の魂」は宇宙人どころではない、宇宙どころではない

宇宙さえをつくった「天」の別れ御である。

どこかの星人が日本人がきらいだという。

あたりまえなんだ。

日本人の魂は「天」じきじきだから。

簡単には差配できない。

だから、今、地球規模の戦略で

「魂」の寄生場所を浄化する働きが生じている。

正直言って、寄生されるのは仕方が無い。

いいだせば、先祖霊も守護霊も寄生の一種だから。

問題は「のっとられる」ということ。

差配されるということ。

すなわち、憂生のように

天気を変えるという顕示をみせられたときに

そいつがすごいとおもって、「神様」だとおがんでしまったら、

「自分をのっとられる」

さいわい、憂生は「自分の魂」の存在をしっていた。

そして、魂というのは、

めったやたらと示顕をみせないということもしっていた。

「事前にそれとなくしらせて、自分でもしらされたことをしらずに

巧くいく」

こういうものなんだ。

だから憂生は顕示さえ、しんじなかった。

なにか、違うものの存在であることだけは意識していた。

かくのごとく、人間はすでに守られている。

その超存在を利用したいと考えるエレメントがでてくる。

それは、霊界であり、神界であり、宇宙生命でありさまざまであるが、

なによりも、

それをも超越する「魂」があるということを

しっかり自覚しないと

「意識や精神や体」はてには、魂までコントロールされてしまう。

(憂生の言葉は自分の1霊4魂からの浮かびだと思う。)

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