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考え事

なんどか、公開しようとしながら、まだ、自分の中で結論がでなかったので、
下書きのままにして、
考え直していた。

その内容は、あるいは、ご本人にはうけいれがたいものであるかもしれない。

が、憂生自体の問題として、
こう捉えたということは、しっかり、書き留めておきたいのであえて、公開することにする。




さる写真家の写真の炎の中に蛇が映りこんでいて、
霊能力者?にみせたら、
白龍神だとか?蛇神だとかいって、ありがたいとかで?????
写真をもっていったとか?大事にしなさいだったか?
忘れたけど、この写真をみても、どれが、そうなのか、わからず、

本人に教えてもらって、ああ、たしかに、蛇が映りこんでると判ったわけだけど

神社のお焚きらしく、まあ、いわゆる怪しいオカルト的な場所ではない。

で、その写真をみていると

「じゃえん・ゆるすまじ」

と、いう言葉がうかんできて・・・
はたして、何を意味するのか、思い当たることもおおすぎてwww
さっぱり、意味合いがつかめない。


こういうことは、わりと良くあって、だいぶ前にも、

あるブログの写真をみていると、やはり、神社の社?の横におおきな蛇の顔が浮かんでいる。

すると、

「いさくをたのむ」(だったかな?)という言葉がはいってきて

これまた、意味がわからない。

イサクといえば、アブラハム云々の話があって、

信仰の果て、神に息子をさしだせ、いけにえにせよ。

と、いわれ、息子のイサクがそれをさっして、父アブラハムに

どうぞ、私をいけにえにしてくださいという。

で、意を決して、アブラハムがイサクをいけにえにささげようとする

あわやのところで

神?が出てきて、お前の誠を受け取った。とかいって

イサクをいけにえにさせずに終わった。
いや、大雑把過ぎて、わからないと思うけど・・・有名な話だったと思うので
どこかでぐぐっていただくとして・・・。

なにか・・・憂生には、釈然としない話でしかないが
まあ、とにかく、イサクといえば、それくらいしか思い浮かばない。
あとは、遺作か・・・?


まあ、この後に、ひこばえに気をつけろ・・とも・・・。


ひこばえというのは、元の親木がだめになるとき(弱ったとき)に


代をつぐために急成長してくる新芽のことであったと思う。


これにきをつけろということは、


例えて言えば、・・・今の話題でいえば、


魂、御霊という親木にささえられていた、人間を


たとえば、蛇やんが差配していく。


それが、新芽として、御霊をくいつぶしていく(養分をすいとって、いく)

それが、ひこばえに気をつけろということであるのなら

現象としては、実際の人間のひこばえと考えると

子や孫ということになり
子や孫までもが、蛇やんの差配に置かれてしまうという事につながるのではないかと思うと

イサクを頼むといったいみあいがつかめてくる。

親が信仰?した神をイサクも信仰する。

これでは、因縁のままということになる。

個人攻撃のような話になるが、さるスピリチュアラーが

親が信仰活動をしていたため、お弁当もまともにつくってくれなかったので、

私はおなじことをすまい・・とお弁当つくりをしている・・という。

なにか、ここに、疑問を感じてしまった憂生が居る。

親と同じ失敗をくりかえさないようにするということは良いことにおもえるが、

憂生の考えかたでいうと、

それは、自分の被害意識をぬぐっただけであると思う。

親の気持ちがわかるということが、ひとつの因縁納所であることがある。

例えて、言えば、大酒のみの親がいたとして

私はああはなるまい。というのは、親の気持ちがわかったうえで

そうなるまい・・ではない。
判らないまま、因縁とおりにならないですむとすれば、
親が大酒のみで、いてくれたおかげで、自分が大酒のみにならずにすんだ。

親、ありがたし。

で、あり、あの姿、いやだったでは、親をうとむというあらたな悪因縁をつくりかねない。

だからというのではないが、不思議と子供も大酒のみになってしまうときがある。

それは、自分自身が親をもらいうけなかったから、

自分が大酒をのむようになることで、たとえば飲まずに居られなかった親の気持ちを
自分が実体験することで、親をもらうという事が起きるのではないかと思う。

先ほどのスピリチュアラーにもどれば、

お弁当を作ってくれなかったときの子供の気持ちは理解したが
子供に弁当をつくれなくなるほど、信仰活動をする親の気持ちはわかっていない。

で、結局、自分自身も啓蒙活動みたいなことをやり始めることになっていた。

此処を、勘違いするのではないかと思う。

私は親を(反面教師)として、もらいうけたと本人はおもっていたのかもしれない。

憂生がみるかぎり、親に弁当をつくってもらえなかったという負の思いを
克服しただけで、親を貰い受けたとは思えない。
結局、大酒のみのところでたとえたように、親とおなじことを通らされる(信仰活動)

ここを考えたとき

イサクを頼むというのも、同じように思える。

弁当をつくってもらえなかったというのとは反対方向にみえるかもしれないが
親は神様とか蛇とかに魂をつかわれているのに
それが、すごい事だと考えてしまう。

べつだん、蛇や神様におしえてもらわなくても、
普通の人間が普通にかんがえたらわかることを
顕示や神秘をみせられて、
相手をおがんでしまう。

これが、変な信仰というひこばえを作る。

そこらの神さまやへびやんが束になってもかなわないものが
自分の中の魂(御霊)であることにきがつかない。

憂生がキリスト教をきらいだというのは、
そこにある。

キリストが贖罪をせおってくれる・・
ー自分の贖罪くらい自分で背負えー
と、思う。

こういう、神頼み的信仰になってしまう。

それと同じように、イサクも親をもらうのでなく

自分も信仰を深める。

普通に考えてもわかる。

親の気持ちを量りにかけるような神さまのどこがありがたいのか。

ようは、信じるものは救われるという「神話」を正当化させるだけ。

子供のためなら、そんな神様はいらんといえない親のありようのほうが問題だろう。

だいたい、そういう誠に天が載る。

神様どころではないわけだ。

それをまことしやかに、神をもちだして、信仰にたいする洗脳をおこなう。

日本人が御霊としゃべれなくなった、そもそもが、

天を意識しなくなったところにあろう。

イサクになってしまったところにあろう。

これが、あくまでも、親に対する思いとして、イサクをみるならわからないでもないが、

ますます、二人で神さまを信仰したという。

もうしわけないいいかたかもしれないが、人の命を何だと思っている。と、思うし
そんな量りをかけられるのも、
命の重みをとりわすれているせいであろう。

イサクを頼む・・。
ひこばえに気をつけろ。

憂生には、どうしても、
自分の中の神ともいえる魂をしらないイサクと同じ状態になっている、
取り付いている存在をありがたがってしまう、自分がいるせいで、
こういうことに遭遇するのだと思えてきている。


蛇やんのやりのこしたことがあるのか?


と、思いつつ、あれだけ大きな蛇が映りこむとなると


ご本人、蛇に魂のみこまれたか?と、おもえ、


以後、そのブログにはいかないようにしていたwww.


ところが、なにかで、きになることがあって、そのブログにはいろうとすると


ー縁もゆかりもありませんーー縁もゆかりもありませんーという言葉が入ってくる。


奇妙である。


以前のときは


「じゃえん・ゆるすまじ」

と、はいってきて、今度は「縁もゆかりもない・・」


さっぱり、わからないんだけど・・・。


まあ、憂生としては、


蛇というエネルギー体(宇宙由来の魂という説もある)は、


あくまでも、人間個人の・・車でいえばガソリンのようなもので

ガソリンが勝手に注油量を決めてもらっては困ると思っている。


このあたりも、白蛇抄において、

人間の誠にひれ伏して、白蛇神は、その人間の式神のような傘下にくだる。


つまり、蛇やんが主格のように浮上してきてはいけない。


蛇やんの神通力はとても、つおいので、


顕示は元より、人間の精神も振る。


天の理になることでも、平気で盗み出す霊能力者がいるそうだがwww


蛇やんはそういうものどころではない。

天の理になることでも、平気で盗み出す霊能力者がいるそうだがwww


まあ、こう書いてみて、霊能力者のことを誤解していると思われるかもしれない。


これは、もっと、単純な言葉で言うべきだろう。


ー良いことをしって、よいことをせず、知っただけ、聞いただけは、は、教えを盗んだだけだー


と、いう意味であろう。


蛇やんはそういう意味では、本能のまま、本能をつかさどっているのでしかたないけど
ー良いことをしって、よいことをせず、知っただけ、聞いただけは、は、教えを盗んだだけだー
と、いう事を簡単にやってしまう。

人間をよくしてやろうというよりも

その人間の本能を(欲?)を満足させる。


そのためには、顕示でも何でも起こして、人間の弱いところをつつく。


単純にいうと、人間のほうは、自分の魂(御霊)でないものをありがたがったり


神様とか?こういうものをありがたがってしまう。


蛇やんには、思うつぼであろう。
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アスクレピオスの蛇


神道家に体内にもぐってもらい、最初は金色に光るものが居る、目が痛くてあけられないと
体外にでてきて、2度目に、神道家自ら、もう一度もぐるといってきたときは
憂生の中に白蛇と鬼がいると伝えてきた。


当初は、憂生の作品の登場人物でもあり、
憂生の思念を読んだかと、おもっていた。


ところが、よくかんがえてみると、どういうんだろう・・
憂生の表現でいうと、左より(見えない世界といっていいか)になっていたころに、
なにものかが、
「とぐろをまいてるぞ」
「かまくびをもたげている」
と、蛇らしき存在をつたえてきていた。
白い卵のようなものをつつみこんでいる蛇の姿がイメージにうかんできていた。

神道家の一言があって、
この蛇のことだろうと思い、蛇について、調べてみることにした。

憂生のだした結論は、
アスクレピオスの蛇に近いと思う。

大物主が、種の起源だという言い伝えがあるが
体内の蛇は、まさに、チャクラでもいわれる、グンダリーニであり
簡単にいうと、
人間の生命エネルギー(あるいは、根底本能)であると思われる。


そこで、鎌首をもたげたり、とぐろをまいている状態の蛇だと感じたときの
自分の精神状態を考えると、
本能というより、欲な思いを持っていたと思う。


箱船でもかいたけど、
こういうエネルギー体は、人間の欲などをはしごにして
人間を、差配してしまう。


ちょうど、同じように、体内の蛇が憂生の欲をはしごにして、
魂(御霊?)をのみこんでしまうかのように思えた。


通常は、アスクレピオスの蛇のように、まっすぐのままの蛇のふりをして邪気のないふりをしているのだが
すきあらば、魂(人間)を飲み込もうとしている。


もちろん、これは、蛇がわるいのでなく、憂生の思いがよこしまなものになっているため。
良くない思いにとらわれて、すきだらけになってしまうので蛇がのさばりだしてくる。


と、いう事だと思う。


この蛇を、邪にするか、聖にするかも、己の心がけ次第であろう。


こんないきさつもあり、
はてには、こちらの売り言葉
ーおまえが、なにものかわからんのに、おまえのいうことなどしんじられん
本当なら、たった今、雨をふらせてみろー
と、いったとたん、青天雲ひとつないそらが、にわかにかきくもり、
大粒の雨がぼとぼとぼと、と、おちはじめた。

このときに、思ったといっていいか?
こやつ、あがめさせようとしている。と・・・。
うっかりうなづいたら、本当に自分の魂(御霊)を差配される。

顕示などおこすのは、通常、本物ではない。
あくまでもー自然ー
そして、なによりも、自分の気持ちが納得しない。

顕示などなどを出てきてしまうのは、
ようは、おかげ信仰をもつ自分であり
自分を信じず、なにかにすがろうという弱い状態になっているせいでしかない。


結論的には、
蛇やんだったのだろうが、
天気をかえてみせてまで、憂生の御霊を差配したいとおもったということだろう。


と、なると、
すごいのは、顕示をおこす蛇でなく、
自分の御霊じゃないか・・・と。


ましてや、蛇やんなどにくれてやるわけにはいかないwww


蛇やんはやはり、本能・生命力をつかさどる。


このときの憂生は生きる気力をなくしているという思いとしていえば
一番、邪な心だろう。


そこに付け入ってくる。


自然は厳しい。


生きられないものは淘汰される。


蛇(邪)なんぞにたすけられるくらいなら
自然に淘汰されたほうがよほど、人間らしいわい。

正邪の仕組み?

歴史的視点で鬼というものを定義したものにであった。

こういう存在への観念というものを、観るとき、

歴史の流れの中でみると、

人間の観念が奇妙に融合してしまうのがわかる。

もっとも、わかりやすいのが、

仏教の神々だろう。

インドの神と中国仏教の神と日本の神が

融合してしまう。

手元に資料がないので、うろおぼえだが、

ダキニがウカノ神になったり、

スサノオが牛頭大王になったり・・

同一視というところが、正解かもしれない。

なぜ、こんなことがおきるのか?

と、いうことを考える。

根本的なところで最初に書いた鬼への解釈のしかたが的をえているか。

多神教と一神教の違い。

一神教の有名なところはキリストだろう。

これが、ほかのものと同一視されたことがあるだろうか?

おそらく、ないのではなかろうか?

なぜなら、一神教の神は絶対的存在として、日本に入ってきている。

おまけをいえば、かなり排他的信仰を有する。

絶対神。唯一神。が、ほかの神と融合されたり、同一視されたら、

絶対的価値がなくなる。

ところが、日本人のもともとの信仰は多神教というか、

神様というのは、どこにでも居る。

自然崇拝がもとであろう。

水の神、竈の神、石の神。雷の神、耕作の神

と、云う具合に森羅万象すべてに神が宿る。

これらが、発展していくと、

具象化した形のものでとらえていく。

水の神は例えば龍神になっていく。

龍神が描かれたり、彫り物にされたりと

目にみえる偶像に形をかえていく。

この多神教の観念がなんでもかんでも、

同一視・融合をうみだす。

(仏教を)護る神(いわば、精神)というものが、

牛頭大王であるなら、

(民衆の生活を)を護った存在であろうスサノオも

いわんや、仏教も護ろう。

スサノオが牛頭大王と融合してしまう。

どうも、日本人は

その存在自体をより、観念的にとらえたがる。

そのもののもつ、本質部分を捉える。

水の神である性質をもっていたら、

どれでもこれでも、水の神の称号を冠する。

ところが、別の側面もでてくると、これは食の神という具合に

分類項目がふえる。

こう言う具合に絶対神という観念がなく、

森羅万象の具象化として、神が存在していく。

ここにキリスト教がはいってくる。

日本人が森羅万象で分類するのに難しい神であろう。

それより以前にキリストを神ととらえたか、どうかとも思うが、

多神教の中、これも神の一人だとうけいれてしまうわけで、

日本が一神教だったら、宗教戦争がおきるところだろう。

まあ、懐が深いというか、キリストというものも、

広意義で森羅万象のひとつの形態だととらえてしまうのか。

そして、森羅万象と考えた時に、そのままを受け入れるわけで、

ここで、鬼の話に戻る。

そのままを受け入れるということを考えた時、

例えば、水ということを考える。

水の本質をそのまま、うけいれると、

生活に役立つ部分

生活を壊す部分。

両方ある。

極論だが田畑を潤す水もあれば、豪雨などにより、田畑の作物をくさらす水もある。

両方とも水の持つ性格だろう。

日本人はそこに神をみる。

すると田畑を潤してくださって、有難う。

で、あり、

豪雨などは逆に祭り方がわるかったのか、

人の心の悪さにおこっているのだろうか?

などと考えるだろう。

つまり、日本の原初的な神は、良い部分も悪い部分ももっている存在。

ようするに自然体なわけで、

キリストのように絶対的「聖」「正」の側面しか持たない存在ではない。

この自然体というか、本質そのままをうけとめた考えでいけば、

鬼というものも、

正しい部分と邪な部分を両方をもっている。

鬼のように一心不乱に物事にうちこむ。

という正しい?ほうに分類されるものもあれば、

鬼のようなしうち

という邪なほうに分類されることもある。

両方とも鬼というものがもつ、性格だろう。

この鬼の特性?に「とことん」というものがあるかもしれない。

鬼気迫るといえば、極めきった表現を指そう。

鬼のような仕打ちというのでも、常軌をいっした「とことん」な仕打ち。

そして、日本人はこの「とことん」という本質だけをみる。

本来あったのは、そこだけではなかろうか?

その「とことん」の本質が、

どうでるかでしかなく、

後に入ってきたサタン的鬼、悪者の鬼が、「とことん」の意味合いをうすめ、

悪い部分だけを強調したように思うが

「徹する」という部分を考えると「鬼」というのは、怖い存在だとおもう。

まあ、厳しさといってもよいかもしれない。

そして、内面の鬼をどう扱うかということだろう。

怒り狂うほうにだしていくか。

真髄を極めるほうにだしていくか。

それにより、

内面の鬼は姿を変える。

白蛇のところでも書いたけど

物欲に使えば、こちらをのみこんでくる。

こちらが、良いこと?をやっていけば、

強力な守護になろう。

自分のなかのものを

正にするも、邪にするも

自分次第でしかない。

やっぱ、毎度の「思い方」をよくしていくしかないって、いう結論になってしまった。

鬼?

ちょっと、、又、ひっかかることがあったので、続ける。

まあ、どっちにしろ、憂生を護ろうとしたんだろうけど、

その時点で、憂生がそれにうなづいたら、

先に書いた人みたいな状態になったんじゃないかな?

で、この護ろうとしたという事の裏側に

実は、つかいまわそうとしてたから、死なれちゃ困るってのがあったわけで。

これは、実はある友人の言葉に

憂生がひっかかっている。

よくにたことをいっていたんだ。

護られていたと思う。

って、言葉。

でも、これは、ある意味、

上と同じ状態じゃなかったのだろうか?

って・・。

で、確かに死なさないようにしたという面ではたしかに護ったといってやってもいいだろう。

だけど、反面、使いまわしていたのもじじつじゃないかな?

そうかんがえてしまうせいだろうか?

周りが護っているよといってやるのはいいとしても、

本人が護られたというのはこれは、ちょっとなあって思う。

ある意味、GIVE&TAKEだったんじゃないかな?って・・。

で、これも、憂生のことかいなっておもうんだけど・・

まあ、これはもう少し、深くほりさげたいところがあるので、疑問符のままにおいておくけど、

もうひとつの疑問。

白蛇と鬼がいる。

だったんだよね。

神道家のいうことが・・。

白蛇はまあ、保留としても、

この存在については、憂生が気がついていなかったけど、

以前に

「とぐろをまいてる」

って、おもわされたことがあったわけだ。

これは、白蛇のことをいっているのだろうけど・・。

じゃあ、誰がいってたんだろう?

白蛇本人がいってる感じじゃなかった。

で、先の人のブログの中にあった言葉が

「魂は鬼が云う」

で、ここで、もう少しはっきりさせておかないとと思う。

魂イコール御霊じゃないはずなんだ。

御霊のまわりをとりかこんでいるのが、気で

気に包まれた御霊ごとを

魂と呼んだと思う。

だから、憂生が感じる「魂」には色がある。

いわゆる「気」=「オーラ」かな?

そう考えると、「魂は鬼が言う」

このオーラー部分をよみとった鬼が言ってるのか?

って、考えになる。

もしくは、魂からみたものを鬼が言う?

中心でアル御霊(まだ、そのなかに芯がある)からの思いを気の部分にいる

鬼がひろって、「言う?」

さて・・?

蛇神はまあ、考えようによって、

仏陀のうしろの守護のように、なりかわる存在だとも考えられる。

ようは、こっちの思いのありよう、如何。

ここで、ある言葉が浮かぶ。

「鬼がでるか、蛇がでるか」

両方おるらしいぞ/笑

さて、鬼・・とは何を言う?


鬼・・2

鬼、鬼神については、諸説紛々です。

で、自分でなっとくするというか、

関連性だけでかんがえることにしました。

鬼神とは人々の災厄を除く鬼で、修験道(しゅげんどう)や神道、陰陽道(おんみょうどう)などの思想を色濃くうけている鬼的存在に分類されます。追儺(ついな)の鬼や神楽の鬼神など、日本の祭りや神事、民俗芸能に登場する福神的存在もこの類に含めました。

修験道の伝説的な開祖、役小角とも言います。葛城山中で荒行を積み、吉野の金峰山で霊感を得、呪術を身につけた修験者(山伏)です。前鬼、後鬼の二鬼神を自在に働かせることができたと言います。

前述の夢の中の老人は

役行者というよりも、仙人か山の神みたいなかんじだったのですが、

仙人も修験道の極み?かとおもったのと、

当時、役行者が連想的に浮かび上がったので、この関連として、

ひろってきました。

鬼というのは、ウィキによると、

日本の鬼は非常に多様な現れ方をしておりある特定のイメージでかたることは困難である。文芸評論家・馬場あき子は5種類に分類している[1]

  1. 民族学上の鬼で祖霊や地霊。
  2. 山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗
  3. 仏教系の鬼、邪鬼、夜叉羅刹
  4. 人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
  5. 怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。

中国における鬼(き)は死人の魂を言う。「鬼は帰なり」と説明され、死者の魂の帰ってきた姿である。死霊を意味する中国の鬼が6世紀後半に日本に入り、日本固有のオニと重なり鬼になったのだと馬場は述べている。「オニ」とは祖霊、地霊であり「目1つ」の姿で現されており、片目という神の印を帯びた神の眷属とみる見方や「一つ目」を山神の姿とする説(五来重)もある。いずれにせよ一つ目の鬼は死霊と言うより民族的な神の姿を彷彿とさせる。また日本書紀にはまつろわぬ「邪しき神」を「邪しき鬼(もの)」としており得体の知れぬ「カミ」や「モノ」が鬼として観念されている。説話の人を食う凶暴な鬼のイメージは「カミ」、「モノ」から仏教の獄鬼、怪獣、妖怪など想像上の変形から影響を受け成立していったと言える。平安の都人が闇に感じていた恐怖がどのようなものかが窺える[1]

これらのことから大東文化大学講師・岡部隆志は鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在としている。鬼のイメージが多様なのは、社会やその時代によって異界のイメージが多様であるからで、まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者であり、山に住む異界の住人であれば鍛冶屋のような職能者も鬼と呼ばれ、異界を幻想とたとえれば人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪など際限なく鬼のイメージは広がるとしている[1]

平安から中世の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼であるが、有名な鬼である大江山の酒呑童子は都から姫たちをさらって食べていた。『伊勢物語』第六段に夜女をつれて逃げる途中に鬼に女を一口で食べられる話がありここから危難にあうことを「鬼一口」と呼ぶようになるが、岡部隆志はこれを、戦乱や災害、飢饉などの社会不安の中で頻出する人の死や行方不明を、異界がこの世に現出する現象として解釈したものであり、人の体が消えていくことのリアルな実演であり、この世に現れた鬼が演じてしまうものと推測している。また岡部は、鬼は異界の来訪者であり人を向こう側の世界に拉致する悪魔であり、昔話のように福を残して去る神ともしている(例、一寸法師瘤取り爺さんの鬼)。異界と幻想される地名として大江山が著名であるが、それは京都の都として異界の山であったためであり、異界としての山に接する地域には鬼伝承は多い[1]

国文学者・阿部正路、歴史学者・松本新八郎、評論家・馬場あき子が指摘するように、鬼の形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは皆女性の形であり『源氏物語』に登場する鬼とは怨霊の事だが、渡辺綱一条戻橋に出てくるように、初めのころは女性の形で出てくる。 古い鬼に関していえば、鬼の背後の象徴である大国主命は、大地の精霊であり元はものを生み出すという所から、女性であり蛇であった。また同様に川の精霊も蛇であり、そしてその蛇から龍等のさまざまの形象が生まれ、大地の神も同様に女性と考えられており、それが最終的に山姥などの鬼の1種へと変化する。古くより鬼は女性の形で形象される場合が多いのは以上を見ても、明らかである。 また鬼の一つ、茨木童子の鬼などは説話中、切られた自分の腕を取り返すために女に化け渡辺綱のところへ来て「むすこの片腕があるだろう」と言い、それを見せてくれと言うなり奪い取るくだりがあり、そこから女の本質は鬼であり、また母親が持っている、自分の子供を戦争で傷つけたものに対する憎悪のようなものが読み取れ、その怖さに合理性がかいま見えてくる。そして室町時代後期、南北朝を経てを境にして、鬼の形象が今日に近い形で出来上がって来る。そして、そこでは鬼は不条理なものとして登場し人間の知恵によって征服される存在だと語られる。 人の指が5本なのはそのうちの2本が知恵と慈愛などといわれる。ところが鬼は人と違って愛と知恵がないので全部で指が3本という。天邪鬼高野山の天邪鬼もそうであるが、「茨木童子」の鬼の場合は人間をだまして自分の腕を取り返す知恵があるから知恵の分の1本を足して4本なのである[2]

また「鬼神」という思想、鬼と神というのも中国から輸入された概念であり、鬼というのは地下の大地を守る神であり、また神は天上の霊魂を支配するという分業が神界にできており、それを日本人が大地の神を大国主命とし、そして天上の大王の神を太陽・天照大神にしたが為に、そこから民衆の世界に近いものとして大国主命がいろいろな形象であらわれる。大地の精霊であったものがいろんな形象に変化していき、中世になる過程に鬼になり、されども、「源氏物語」のころは鬼とは人間の霊魂であり怨霊と呼ばれ、物の怪とも呼び、形は不明なれどあいまいに鬼と呼ばれながら、中世にはヨーロッパにもある(ぬえ)という奇怪な羽根のある怪獣として表れ、それがトラの皮のふんどしをして、角を持っている力士姿のよく知られたあの姿、形が完成するのは戦国期である。狂言の鬼などは近世の鬼に近く「鬼は外、福は内」と豆をまかれて逃げるユーモアのある像が出てくる、すでに隠れ蓑打ち出の小槌などの呪具を持っており、だがしかし、能などの鬼はそれより古く、中世の『源氏物語』の伝統を踏んでいる。最終的には、戦国期に鬼の姿は完成したといえる[2]

中国の鬼と日本の鬼を比べて見れば、「魑魅魍魎」(ちみもうりょう)の言葉を見てもわかるように、魑魅魍魎はすだまであり、化け物である等、その文字の1つ1つの言葉がちがった1つ1つの意味を持ちつつ、魑魅魍魎というひとかたまりの言葉がそれ自体一つの意味を持つという類の言葉の構造を持っている。いわゆる中国の鬼と日本の鬼とでは多分に違いがあり、魑魅魍魎の字を見ても鬼に離れると書いても魑「チ」であり、鬼に宝を持たせても鬼偏に宝と書いて「チ」と呼び、鬼に失うと書いても鬼偏に失うで、「チ」と呼ぶ。中国人は魑魅魍魎の魑(チ)に対して様々な面から見ており、すくなくとも言葉自体が逆な意味を持つほどの多くのものを見ている。鬼に関連させつつ様々なイメージを持っていたのである。日本人は『斎明記』の記述に出てくるような、「もがりをのぞき見ている山上の鬼」以来、鬼というものを中心にしながら、土地の精霊である「鬼」に集約されるような、しきりに1つのイメージの「魑(チ)なる物」を考えようとしている歴史が見て取れよう。 中国の鬼とは天の思想のような物にかかわり、日本の鬼とは地の思想(土地の精霊)のような物にかかわるものであると言える[2]

「おに」の語はおぬ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味した。そこからの力を超えたものの意となり、後に、人に災いをもたらす伝説上のヒューマノイドイメージが定着した。さらに、陰陽思想浄土思想習合し、地獄における閻魔大王配下の獄卒であるとされた。

鬼・・3

普通、神秘を云うな。

って、いうのですが、あえて、憂生はここを破ってはなしております。

ひとつには、自分でも、わからないことはおおすぎるということ。

誰かにきいても、わからない。

自分でかんがえてみるしかない。

で、物書きの性分でしょうか、

書いていると、自分で気がつくということ。

で、あくまでも、こんな不思議な事があったんだぞという

あほげた自慢?話ではなく、

なにかを見定めるためというか、

書いていると、ふと、わいてくる。

と、いうのが、あって、

ちょっと、種類は違うけど

天啓者みたいな部分をもっているようで、

これが、自分だけでかんがえていると、

「なにか」がはいってきてしまうというか、

書いて閃く?みたいなのも、

あるいは、なにかがはいってくるというところでしょうが、

考えていると、「ささやきっぽい思念」がはいってきてしまう。

かきつけるときもあるんだけど、

あるいは、それごと、書きとめられる。

で、先のウィキから、とってきたものを貼り付けます。

鬼というのは地下の大地を守る神であり、また神は天上の霊魂を支配するという分業が神界にできており、それを日本人が大地の神を大国主命とし、そして天上の大王の神を太陽・天照大神にしたが為に、そこから民衆の世界に近いものとして大国主命がいろいろな形象であらわれる。

なんで、こんなことをはりつけたかというと、

どう思いますかみたいに聞いた人なら、ぴんとくると思うんだけど・・。

ちょっと、不思議な事件があったわけです。

憂生が転寝をしていたら・・

大きな声で

「大国主命!!」

と、呼ばれ、目をさましたことがあるのです。

で、憂生自体の系図に物部氏があるようで、

(で、白蛇か?ともおもうわけですが・・)

物部氏の祭神はニギハヤヒなわけです。

だから、その血筋にしろ、大物主だとしたにしろ、

「大国主命!!」

と、よばれるのは、おかしいわけで、

ニギハヤヒ(白蛇)と呼ばれるならまだ、判るわけです。

で、名前を呼び間違えたのか?

それとも、隔世に迷い込んだ憂生の手をひっぱった、大国主命をとめたか?

死にかけてるのか?とも思ったわけです。

すると、次の日、なぜか、また、転寝をしてしまい・・。

今度は死んだ叔父がでてきて、

憂生のことを叔父の子供の名前で呼ぶ・・。

で、これを平行移動して、考えると

前日に憂生を呼んだのは大国主命の父親的存在スサノオか?

デ、間違えた相手を考えれば、従兄弟?とまちがえたのだから、

やはり、大国主命の従兄弟????

ニギハヤヒか?

いずれにしろ、なぜ、そう呼ばれたのか

わからないまま、

隔世に迷い込んだ?

と、考えたりしていたわけだけど、

鬼というのは地下の大地を守る神であり、また神は天上の霊魂を支配するという分業が神界にできており、それを日本人が大地の神を大国主命とし、そして天上の大王の神を太陽・天照大神にしたが為に、そこから民衆の世界に近いものとして大国主命がいろいろな形象であらわれる。

で、あるのなら、鬼が大国主命である可能性があり・・。

どういうのかな・・。

迷い込んだ形というか、

それが、例えば神道家がみたような世界での形。

で、まあ、じっさい隔世だったのかもしれない。

だから、鬼をみて、大国主命と呼んで

現実にひきもどしたか?

そして、次の日が

霊界?での次元。だから、死んだ叔父が従兄弟とまちがえて、

こんなとこにきちゃいけないと現実で名前をよんだ。

と、まあ、こう言う風に考えた時

鬼というのは、やはり、なんだったんだろう。

と、おもうわけで・・。

鬼神とは人々の災厄を除く鬼で、追儺(ついな)の鬼

と、いう言葉を読むと、

雛という災厄除けの行事をおもうわけです。

非儺(ひな)祀り・・。

あるいは、本当に憂生はあぶないところで、

鬼が人形みたいになって、除けてくれたかな?

ってなことをおもったりして、

「おに」の語はおぬ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味した。

と、いうとおり、そういう世界での追儺(ついな)の鬼であると

うけとるべきか?

怒りなどの具象化ととるべきか?

怒りとかととる見方もあるんだけど、

上のことを考えると、違うような気もする。

単純に、魂・・・

鬼が云う・・か?

憂生への思いを中継する存在として鬼がいるということだろうか?

1霊4魂から・・・考えたこと

日本人の御霊と外国人の御霊は違うという
大本神喩の言葉をそのまま、うけとめると
(別解釈すると、邪馬台国は日本ではないという話と通じる解釈になるのでちょっとおいときます)

疑問が浮かんでくる。

単純ですが、
「どう違う?」
と、いう事になってきます。

ここも、「天直々の御霊」という風にきいているのです。
実際に具体的な御霊の姿をしらされても
(小さな針でついた穴のような物が、三つあって、そこから、突く息をしているとか・・人間の握りこぶしくらいの大きさだとか)
憂生自身が神道家からしらされた?不可思議なことが具体的にはどういうことなのか。
金色の光があったり、次の時には蛇と鬼がいるといわれたりというのがあって
と、どういうことだろうと、考え始めるようになりました。

そこで、ヒントに成ったのが、古神道の
1霊4魂という考え方だったのですが
あるとき、魂は3っあると伝えられました。

この伝えてきたものがなにであるかも、
その言葉も本当かどうかわからないことですが
日本書記のほうにある
大国主命と大物主の邂逅の場面ですね。

海中から光の玉があらわれ
「私はお前(大国主命)の幸魂と奇魂である」ということをいいます。
それが、
大物主として祀られることになるわけですが・・・。

ここで、おやっと思います。

光の玉はひとつではないかということです。幸魂と奇魂が一緒に・・ドラゴンボールでいえばフュージョンしてるものになるのでは?

光の玉(後の蛇ー大物主)は、幸魂と奇魂である。

と、なると

荒魂と和魂と蛇(幸魂と奇魂)で
魂はみっつになるのでは?

そして、1霊4魂の1霊が、御霊のことであるとすると
神道家は2度目には1霊(御霊)の内部に入り込んだと、考えられます。

すると、蛇は幸魂と奇魂と、かんがえ、
鬼が荒魂とも考えられます。
ところが、
和魂はどこにあるのでしょう?www

ひとつの考え方ですが、
以前考えていたことですが
日本人の神の捉え方は
外国にありがちな悪と善を別にかんがえるのでなく
一人の神の2面性という風に捉えるわけです。
雨の神が慈雨をふらせ
同じ雨の神が台風などの暴風雨をおこす。

両面スクネ(字がでてこない)ではないけれど
同じ神の和の面と荒の部分が大物主のようなフュージョンでなく
別の神として表面化する。と、考えると
鬼にみえたものは、あるいは別の時には慈愛をたたえた救世観音?のような姿をしているかもしれません。

たとえばですが、
鬼がいるとみえたときと
観音がいると見えたときと
蛇がいると見えたときと
魂が三つあると感じるのではないかとおもうと
1霊4魂という捉え方も正解なのだとおもうし、
三魂というのも正解だろうと思います。

このあたりをかんがえて、1霊4魂をあらためてぐぐってみました。

なにか、納得がいくブログがあったので
アドレスを貼り付けておきます。

http://www.genbu.net/zatu/zatu008.htm

この方のものは、神の名前から1霊4魂をあてはめてかんがえていらしゃるのですが
憂生のものにあてはめると
蛇を和魂とし、そこに奇魂と幸魂にし
鬼を荒魂とあてはめると、
魂が3つということにもなってきます。

憂生的には

和魂というのが、蛇と鬼を調和させる自分というものであるのではないかという気もします。

この3っが整った形が三位一体の1霊の姿ということかもしれません。

先日の映画で、
「父と子と精霊の・・」という台詞があり
精霊というものは、なんぞや?という
キリスト?がとらえたものの実態が
はたして、なんだったろうかとかんがえてみると

父と子というのが、
父が天であるなら、子は御霊であり、
精霊というのは、あるいは、4(3?)魂をさすのではないかとおもえたのです。

日本的にいえば、人間の心の中の悪の面を露呈することを
天と御霊と(和・奇・幸・荒)の魂でいさめようとしているという感じに聞こえます。

キリスト教のように、
悪を外部のものと考えると
キリストに依存したかんじにきこえますが
日本的にかんがえると、
己の中の悪の部分、それを浮上させているのは自分であり
自分の位置を天と御霊と4魂の位置にたつことで
悪を(自分の内)で改心、反転させて、浮上しないようにします。

と、いっていると捉えられ、
「目の前におきることは自分に元がある」
と、いう考え方でいけば
悪魔に遭遇するキリスト教徒が悪魔を外部のものとして
悪魔退治をする。
と、いうのは、
確かに、日本の考え方とは違ってきます。

この考えの違いは冒頭にかいた
「日本人の御霊は外国人の御霊とはちがう」ということに通じてくるとも思えます。

物事の所在の根源が自分のなかにあると考える日本人と
悪いのはあくまのせいで、神がたすけてくれる。
と、いうキリスト教的にいえば、子羊という弱い動物でしかないと洗脳されているかのような外国人とでは、
自分の人生の所在・責任がちがうと思うわけです。

ここをして、昨今SPで自分こそが自分の(人生の)主役だ。
と、いうことをいわれているのをみると、
あたりまえじゃないかとも、
キリスト教的洗脳を取り外していきはじめているという風にも見えます。

この言葉が逆に今の人間の精神に納得を与える言葉であるのなら
今の日本人がいかに日本精神をみうしなってしまったかということでしょう。

ちょうど、それは、
東北地震のときに
外国人が
「日本はすばらしい。略奪や暴動をおこさない」
と、いい、
その言葉をほめられていると感じてしまう心理に似ています。
外国は当たり前のことでしかないことができなくなっている国だという事を露呈しているわけです。

そういうふうに、外国のほうからはいってくることは
ときに、レベルがひくいところから生じてきていることである場合があるのですが、
意識化したという部分で圧倒されてしまうことがあります。

もともと、日本人は御霊(精神性)がちがうのだということを
実は日本人がわからなくなる。ほど、当たり前の日常で
日常的なものほど、明文化(文字にする)ことがないということを思います。

白蛇と鬼・・2(3かも?)

さきほど、あげた記事・・・
考え直しています。
なにものかの思いというものですが、
相手のところでひろったものは、やはり、相手のものじゃないか?
と、思うのです。


ややこしい言い方をしているのは、憂生自体が判っていないせいです。
メールのやりとりで、
相手からのメールを開いたとき、白く光ったのですが
そのときに、メールのむこうに相手でない誰か(霊?)がいるのがわかるのです。
(実際に見える人ではありません)
で、
テキスト画面をみていると、無性に手を合わせたくなる。
だけど、嫌なんですよ。なにかを拝むということはあると思うのですが
(たとえば、親のありがたい心に触れたときとか・・)
けれど、この場合、自分の心と合致していない。
なんで、拝みたくなるんだ?という疑問をかんじていること自体そういうことでしょう。
でも、どうしても思うので、仕方がないと画面に向かって手をあわせたら
画面の中のなにものかからー伝えてほしいーという思いがながれこんでくるのと同時に
拝んでいたのは、憂生でなく、相手(なにものか)だったのではないか?と思ったわけです。
手をあわせるという行為には、敵意がないとか相手を尊重しますよという意味もあります。

画面のむこうに現れた相手にとって、憂生がなにものかもわからないし
相手の存在はもとより、思いを受け止める憂生かどうかもわからない。

で、合掌するという行為で、相手もこいつはわしのこと(おじいさんぽかった)判る?
アンド
わしの願いを聞いてくれという思いを受け止めている?と判る。
と、いうことでもあり
もしかすると、なにか妙なやつだとあるいは、怖がらせていた?


と、まあ、どう考えても、相手の思いがながれこんできた。
と、思えてしかたがないわけで・・・。

で、メールを書こうと思うと、メールの相手に何を伝えてほしいのか?
わからないわけだけど、そう考えるととたんに
ーおまえのおもったとおりにかけばいいー
で、おもったとおり、かいていくと
ーそこまででいい。それで判るー
なにかしらないが偉そうなやつじゃwww
で、確かに本人は的確な返事を返してきてくれた。


こういうことがあると、なにもかも、相手からの思念かと思うのだけど
いくつか、同じようなことが続き
これは?と思ったわけ。

これは、自分(憂生)に元があるせいだ。と。
その元というのが、
同じようなことが、立て続けにおきて、
ほぼ、同じ言葉を繰り返した。

自分の御霊(魂)を大事にしなさい。と、いうこと。

つまり、自分の御霊を意識せずに物事をやっている。

で、先の記事にもどるわけだけど・・・。

邪縁をむすびかけていたのも憂生?
発布せよというのも、根本になる御霊のことをいわずに
事象だけ話しているということ?
あらまほしかりけれ・・???
で、実は意味不明・・・。

で、ピョートル大帝というので、ぐぐりにいってきた。

どうも、この人が「あらまほしい人の姿?をしている」と、思えたから。
結果、自分で出来ることはなんでもやっていった人といっていいか。
憂生なりに納得して、ぐぐりおえたわけだけど・・・。


実際のところ、自分の元がどういうところかわかっていないところがありながら、
こじつけているところもあるか?と思わぬでもない。


が、自分が出来ることをしないときもあれば、
出来ないとかんがえずにするときもある。


まあ、そこは不問にして、
この相手の思いがはいってくるという状態でまたも、迷った。


そこは、白龍が守護神になったという方のページで
そのページにはいったとたん、憂生は自分の額あたりに手をあてた。
まるで、じかにみてはいけない?という感じで・・・。
そして、しばらくしたら
どっちが先だったろうか・・。
指の隙間から文章をよんで、大丈夫だと思って手を離したのが先立ったか?
ページのむこうに「白龍」がいる気がしていたのだと思う。
すると、その白龍?が憂生に向かって
「わが子よ」と呼びかける・・・・おい?!

で、そのページに向かって、憂生は自分の守護神はだれになるか、たずねてみた。

うかの神?ウガヤフキアエズ?ともう一人・・・。
これはいろいろあって、憂生も、お世話になってる?コンタクト?しているので
わからないでもない。


そこで、自分の御霊・魂のことをたずねてみた。

青い光を放つ若い王?だと思わされた。
その青い光のイメージがうかんできて、調べたのだが
これは、シリウスと思えた。

しばらくのちに、人間の魂?体内には、宇宙から蛇が宿っているというスピ話を聞いた。

憂生の中の蛇がそういうことか?と思えたわけだ・・・。

と、なると、白龍がわが子よと呼んだのは、蛇やんのことかwww

と、いうのも、白龍というのが、(龍神?)シリウスから来ているという話をこれまた読んでいたせいもある。

つまり、1霊4魂のとこでもかいたけど、

おそらく、今のスピリチュアルが言うのは、この宇宙由来の蛇で、

憂生がいうのは、1霊のほう。

おおざっぱにわけて、和魂が蛇やん。
で、鬼?やんが荒魂。

このふたつを内在させているのが、1霊(御霊)

そうかんがえると神道家は、2回めにもぐったときは
御霊のなかまで、もぐりこんだということになるか・・・。

あらまほし

大神神社(三輪神社)の写真をみていたら

ーあらまほしかりけれー

と、とびこんできました。

口語訳すれば、

ーあってほしいものだー

と、いうことですが・・・。

どういうことになるのやら・・。

最初に白蛇神の写真をみたのは、

友人が撮った神社の薪の炎の中に映しだされた

白っぽい蛇の姿でした。

これを見ていたときに

「じゃえん、ゆるすまじ」

だったのです。

次に感じたのが尚さんの撮った神社(三輪神社だったとおもいます)の写真に

赤い光がうつりこんでいて

それを見ていたとき

「発布せよ」

と、伝わってきたのです。

そして、これが、三度目です。

「あらまほしかりけれ」

憂生のなかでは、すべて、相手の(写真を撮った人)のことだとおもっていたのです。

非常に荒唐無稽ですが、

最初の人は、犬神のさわりがあるようにおもえました。

この方も、ものすごい、めまいを感じさせられた人でした。

この犬神とのことをいうのだろうとおもっていました。

次の尚さんのものも

尚さんは奈良の紹介などしていたので

その影響力を含めて、三輪大神の根本を発布していけよ。

と、いうことだと思っていたのです。

そして、3っつめ。

この方は日本について、天皇について

お話をされているかたです。

「あらまほしかりけれ」

この方の思い・姿は

ーこうあってほしいものだー

と、いうことだとおもっていたわけです。

外側はそのとおりかもしれません。

内側・・。(憂生側)

「邪縁、ゆるすまじ」

ある、邪縁?からの余波が終息した。

「発布せよ」

今回、御霊のことなど以前とは違う部分まで

かきだしましたし、(できるだけ、憂生の実体験部分をかいていきました)

三輪大神(大物主)についても書いていったとおもいます。

ある程度発布していった状態といってよいのでは・・。

そして・・。

心の内側で、こんなことをかいていいのだろうか。

自分への心配はなかったのですが、

教え部分など、自分が通った、自分のものにしている状態とはいいきれない

迷いや悩みのある状態でかいてしまえば、そこに毒もふくまれます。

御霊自体はのぞんでいるだろうか?

師の名前をかつぎだしてしまっていいものだろうか?

まあ、いろいろと、葛藤はあったものの

まずはだしてみなければ、自分もわからない。

と、

ー神秘を口にするなーといういいかたがあるのもわかっていますし、

それをださずに信じてもらえる自分でない(いや、だしてもあやしいが・・ww)

こんな自分でいいのだろうかとも思いつつ、

え~~~い。ままよ!!

と、放り出していったところがあって、

内容的には自分の迷い部分も含む、手探り書みたいなものになっていると思います。

「あらまほしかりけれ」

得手勝手なとりかたかもしれませんが、

あるべき状態になっていたのかもしれないとおもえたのです。

鬼と白蛇

神道家のネッ友が憂生の中に入っていったことは以前、かきました。

憂生はブログをはじめた当初から、HAKUJYA(白蛇)というホームネームをつかっていました。

これは、自分が白蛇抄という物語を書いていたことに由来します。

そして、神道家が、二度目に憂生の中にもぐってくれたとき

今度は、「白蛇と鬼」がいるといいだしたのです。

正直、物語の登場人物?だったので、

憂生の思いにふれたのではないかと思うだけでした。

が、

物語の中の言葉が憂生にとって「理」になっているときがついたとき

いや、物語の登場人物ではなく、

逆に、憂生の中に「白蛇と鬼」がいたから

ああいう物語で「理」をこめさせられたのではないかと思うようになったわけです。

それで、

逆に白蛇とはなんぞや、

鬼とはなんぞや。

と、かんがえていったわけです。

単純にうらみや怒りの具象化だとはおもえなかったのですね。

ひとつには、目があけていられなくなるような金色の光というのが、

体内にあったということをかんがえても

うらみや怒りというものが、同居?できるとはかんがえがたかったわけです。

また、この神道家はどういう修行をしたのか。

霊については「餓鬼」にみえるようなのです。

あまりにも高度がたかすぎて、

霊的なものは「餓鬼」にみえるようです。

これも、霊を人間の姿としてとらえるタイプのネッ友との比較です。

同じものを見たとき、

神道家は「餓鬼」と表現しました。

憂生のことを心配して二人の霊がきてるよと、その正体もいいあてた

人間としてみるタイプの人がきたあと

神道家は「餓鬼が二匹おるぞ」と。

他にもあったのですが、割愛して・・。

つまるところ、見えようがちがうわけです。

ところが、今回は憂生の中にはいってもらってのことだったので

神道家しかわかってないわけです。

もうひとりの人がみたら、またちがってみえたかもしれないのですが、

(はいれたかどうかはわかりませんが)

不動明王と話しをする方だったので、わかったかもしれません。

調子をくずしていたので、

コンタクトしないままおわってしまったのです。

それで、自分でいろいろ、しらべだしたわけです。

これと、先にかいたきりもみするような腹の痛みがあったとき、

地神の石碑があったので、

これかもしれないとその正体?も調べてみようとおもったわけです。

これは、結局、石神とつながり、みじゃくし(蛇石神)から、結局大物主にたどりついてしまったのです。

そこで、蛇のほうをしらべていきました。

ヒポクラテスの杖?だとか、アダムとイブの蛇だとか、世界地図上の蛇だとか、

いろいろあったわけですが・・・。

結局、古事記の世界がひとつに神の働きの表記だとかんがえたとき、

蛇は大物主だと思えたのです。

この蛇めはwww

ときおり、誰かから状態をつたえられていました。

「とぐろをまいておるぞ」

「かまくびをもたげておる」

と、いう具合でこの蛇のイメージは白い卵のような丸い玉をまきこんで、

護っているようすでうかびました。

そして、鬼ですが、これは、不動明王とか、金剛武人とか、仁王とかのような

イメージがおきるのです。

そして、憂生の不調のとき、

剣を闇されたわけです。

これが、八幡神社からだと思ったのは、

使いをよこしてあるから。と、つたえられたことによります。

すぐ横で、巣を作ってみまもっておる。

と、いわれたわけです。

はあ????

と、思っていたら、次の日

庭でおふくろがおおさわぎしていて

いってみたら、

庭の木に鳩が巣をつくっていたのだが

ぜんぜんきがつかなかったところに

蛇があがっていって、鳩があばれたので

巣があることに気がついたというのです。

鳩ねえ・・・。

それだけでおわっていたのですが、

また

ーおまえはよっぽどつらくて

おまえの御霊の一部がわしのところににげてきたので

かくまっておいたのだー

そのお礼はどうしたらいいのだろうとおもっていたら

ー20日後くらいに掃除してくれたらいいー

え?どこを、どうやって?

と、思っていたら、町内で神社の掃除にいくというのが

20日後にはいってきて

ああ、これかと思っていったのが、

八幡神社。

そこで、神輿のあるところの掃除になって、

掃除をしにいったら

神輿の文様(かざり)の中に鳩が描かれている。

八幡神社の使いは鳩なんですね。

これで、

使いをよこしてあるから。

すぐ横で、巣を作ってみまもっておる。

と、いうのが、鳩だとわかったので、

あの剣は

八幡神社からのもので、

八幡神社に祀られているのは、スサノオですね。

根の国をおさめよといわれたスサノオは

時に閻魔にもなろうと書いたおぼえがあります。

察するに、憂生の中の鬼は、スサノオのようなものではないかとおもうわけです。

魂を清めていく働き。

こう考えれば、スサノオがいてもおかしくないことだと思うわけです。

結局、

白蛇抄の中でかいた八代神は自分のことを閻魔とも呼ばれるといっていますが、

また、阿吽の刻をつかさどる存在でもあります。

魂を清めて統括する大元。

は、たとえば、人の生まれ変わりなどのときに

人の死のとき、をも統括していくのですから

統括のため、ずっと、魂のそばにいて、見守る(見張る)ということをします。

そして、その情報(閻魔帳ですな)で生後、死後のばしょをもさだめていける。

まあ、生後については、白蛇が知恵の働きをつかさどるのかもしれません。

知恵は(生きていくための術)なのですから。

長くなりましたが、

憂生は自分の中の鬼と白蛇についてはそういう風に結論してみました。

白蛇・2

人 の 欲 、 念 を 好 む 。 突 出 す べ き は 大 抵 の 霊 で は 手 出 し で き な い 、 『 欲 ま み れ や 恨 み ま み れ の 霊 を も 補 食 し て 、 体 内 で 浄 化 で き て し ま う 』 点 で あ る 。


先ほど、リンクであげたところからの一部ばっすいである。


この部分になにか、非常に納得する。


神道家が憂生の中に鬼と白蛇がいるといったことにたいしてなのだが、


これは、神道家にいわれるまえに、


ーとぐろをまいておるぞー

とか

ーかまくびをもたげているー

などという

「思い」がはいってきていた時期があり


イメージとして、もっていたのは、

白蛇?が御霊らしき、真っ白い玉をぐるりとだきこんでいる像だった。


これが、とぐろをまいている、とか、鎌首をもたげている とか、

いう意味がわからず、ぐぐったおぼえがある。


結果的に

白蛇は、卵(御霊?)をまもりながらも、

場合によっては、卵をのみこもうとしている。


と、思えた。


その思えた理由が、上の引用で納得できたといっていいか。


憂生自体の思い(気)(御霊を包む気=魂)が、

欲や恨みの類のものになっていたと思えるからである。


そういう類の霊(御霊もふくまれてしまうだろうwww)を捕食するものであるのなら、

当然、のみこまれかけていたのかもしれない。


そして、また、外部的に

そういう霊をも、捕食するのなら、

以前、天王星人の特徴かとおもうといっていた

もめごとのあるところに現れて

なぜか、もめごとをおさめてしまう。

と、いう部分にも合点がいく。


もめごとイコール

欲やうらみつらみ、そのものだろうwww.


むろん、自分がそこに同調するものをもっているという部分をふまえておかねばならないが。


まあ、どういうわけか、

昔から、もめごと、問題ごとにかかわりやすく、

かつ、不思議と解決する。


町内の危険箇所などについても、

市役所に嘆願しても考慮されなかったというものが、

憂生がかかわると、町内の別の人が

だれそれさんにいってごらんとおしえてくれて、

その人に言いに行くと即、市役所にまで話がいって

即、危険箇所を安全にしてくれたりとかということがあり、

今年の地区安全担当者は、10年以上解決しなかった問題を解決してしまった。


とか・・・。


不思議と動いてくれるというか、

意見を実現するように押してくれる人に話ができるというか・・。


まあ・・・毎度の笑話になってしまうが

雨を降らせろといえば、降らせるやつがいるわけだしwww


なにか、わからないが、


そういう類の霊(思い)を捕食するものがいるから


安全な場所にかえるのに、

ー簡単にはかえられないから、上のもののところまでいくのは面倒くさいー

とかいう、身欲な思いをたいらげてくれるから

他の人があの人に話をすればいいよと

事がスムーズにながれていくのかもしれない。


この白蛇君?は

今はもういないのか、いるのかしらないけど、


子蛇から白蛇になるときに、人に憑く(と、いうか、体内に居るというべきですが)

か、神社に祀られるかきめるそうで、白蛇がいるというのが事実なら、

やっぱ、ずっといるんだろうねwww


欲や念を好み、それを捕食して浄化するということは、

憂生自体も気をつけなければ、

自分の御霊をのみこまれかねないということであるし

また、どうしても、

欲や念を浄化していかなきゃならないということになる。


こうなると、

自殺未遂のネッ友の念をキャッチしたのも納得できるきがする。

死にたいという念(欲からおきてきた念という言い方はもうしわけないが)を

捕食して、浄化したから、憂生が

「生きろ」と念をおくりかえしたということになってくるか・・。


なにか、人生というものは、

そういうものなのかもしれないとおもう。


自分の念(思い)だとおもいこんでしまう前世とか先祖の念を

浄化していく。


つまるところ、やっぱり、誰にでも

白蛇は、いるんじゃないかなあ?


そんなものについてもらわなくても

自分でやっていけるという人のほうが大半だとおもうけど


そういう

負の思いを浄化していくというのが、人生であるとするのなら

白蛇はいなくても、白蛇的見地はある。


と、いうことになるかもしれん。

思うままに・・

蛇ということで、思い起こすのは
ネッ友のことが大きい。

彼はスサノオに傾倒していて、いろいろとしらべあげていた。

この点でも、彼の探究心やしらべにいく行動力など
尊敬にあたいするものがあった。

彼とメールではなしをしはじめたころ
異変にきがついた。

以前にもかいた「ぐらぐら感」というのが
彼と対峙するかなり激しくなった。

このあたりから、続けざまに以前書いた
ブログの訪問者によっては、
幻惑感のようなぐらぐらした、一種憑依のときとにたような感覚がおき
そして、話をしてみると、
相手の魂?の様子もつたわってきて
まあ、不思議としかいいようのないことがおこり
結局、最終的には頭上チャクラにぼわつきがおこるようになり
そのぼわつきが、相手の何かがこちらにコンタクトをとってきて
本人に「なにかをつたえてくれ」ということによるものなのだとわかってきた。

当時、まだ、それが、ナゼおきるかわからないまま
みょうな幻惑感にとまどいながらという状況であった。

多少なり、すでにそういう幻惑感をかんじ
その共通性をさがしていた。

相手の人に霊能力のようなものがある。
死に目にあっている。あるいは、生きる気力をなくしている。
なにか、憑き物がいる。
心になんらかのくぼみがある。

最後の心に何らかのくぼみがあるということ以外、共通点はなかった。

だが、それをいうのなら、くぼみがある人間がきたら、みんなに幻惑感をかんじなければならないだろう。

霊能力者であるのならそれで感じるのなら
霊能力者(霊感)であれば、ミナ感じるかというとそうでもない。

そんなふうに、なにゆえ、こういう幻惑感がおきるのだろうと
たびかさなってきていたさなかに
彼と対峙すると、今までにない激しい幻惑感をかんじることになった。

アメーバーの霊能力者によると、
自分より高次元のものがくるとそうなる。という。
だが、この意見に賛成しがたい事象がおきていた。
このグループのなかの一人がこっちにきたとき、
背中がすごく温かくなったことがあった。
高次元というのを、温かみのある思いではないというのなら
たしかに、高次元のものがきたら幻惑感がおきるのかもしれない。

いずれにせよ、
憂生が彼にたいしておもったことは
もうしわけないけど
「おおきな憑き物がいる」
と、いうことだった。

この言葉を誤解されたくないので、たどたどしいけど、
話す。

何度か、話しているように、
自分の中に御霊がいる。
つまり、自分の中に「神」がいるようなもので
この神でないかぎり、他の神はどれだけ高次元であっても
憑き物である。

まだ、御幣がある。

実際、憂生がなにものかに憑依されたとき
師がおいはらってくれたあと
あれは、国津神だ。憂生の御霊にはせめて、天津神じゃないとね
と、いう言葉をかけられている。
むろん、謎の言葉だ。
国津神というのは、いわゆるうせ物探しとか?病気治しとか
こういう人助けをする神であるらしい。
このあたりでは、最近のSPが解明してくれているが
たとえば病気。
これも、その人間にあたえられたカルマであり
病気になるそもそもの思いを直すことが本来で
極端にいえば
その思いをなおせないから、
病気になってしまうという形で帳合がとれてくる。
と、いうもので、
人間にはことさら病などない。
と、いうことらしい。
だから、病気になる元の思いを正さず
かつ、帳合からものがれてしまえば
御霊自体にとっては業やカルマが残るということになり
人助けが本当の意味で人助けにならない。
では、天津神というのはどういうことになるのだろうか?
どうやら、その人の御霊の成長・加勢にかかわるようである。
あるひとの話だが、
国津神がその人の御霊を使おうとしたらしい。
いわゆるお台さんのようなもので、
国津神の仕事?をさせようとしたらしい。

ところが、その人の御霊というのが、
もっと大きな役?天命?をもっていて
国津神のほうから「この御霊は自分などがつかう御霊ではない」と、でていってしまったそうである。

そして、天津神などがやってきて、いろいろと仕込んでいって
最後には御霊が出てきたそうである。

こういうことから、その憑き物がなんであっても
憑き物で、
そのつき物からいろいろ学んだり、しこまれたりというのはあるのだが
自分本来の神ともいう御霊とは違うものである。
と、いうことをいう。

ゆえに彼に対してひどい幻惑感を感じるたのは
なにかしら高次元の神・・という憑き物がいるというふうにおもったわけで、
正直、それをとりはずさなければならないだろうと思っていた。

ところが、彼の口からでてきたのは、
キリスト教の洗礼をうけているということだった。

キリストの生き方の足元にも及ばない人間がいうのもおこがましい台詞であるが
御霊ということを考えると
洗礼をうけるということは
キリストと親子になることであり
自分の御霊をキリストの差配?にまかせるという
一種契約のようなものであろう。

これは、なにか、おかしいと思っている。
と、いうか、キリストを神とあがめるのはけっこうであるが
自分の御霊のことは、自分でやっていくしかない。

何か、釈然としない思いをもちながら
キリストという憑き物をはずすのは
憂生ではできないとおもっていた。

そんなあるとき、ふと、彼と対峙していないときにも
幻惑感がおきるということがあったので
ふと、おもったことがあった、
「もしかして、憂生のこと、キリストにいのってない?」
彼の言葉は
「昨日までいのっていたけどもうやめた」
と、いうことだった。

正直な思いをいう。

彼自身が憂生のことを心配してくれて
なんとかいいようになってほしいなあとおもってくれるのはありがたい。
だが、それをキリストにほったくるのはやめてくれ。

だった。

どこかで、目の前におきることの元は自分にある。という考え方があるせいだろう。

まず、憂生自体がなにでそういう人間をみせられるのかということをかんがえなければならないことだけど
ここは、彼にあてはめて考えるとわかりやすい。

ナゼ、憂生という(そのときは)苦しんでる人間をみるんだろう。

その苦しんでる人間に対して、どう思いをきりかえるように、見方をかえるようにいえばいいだろう?

たとえば、-苦しいことばかりに目をむけないでよかったことにめをむけたらー

と、かんがえたとする。

それが、すなわち、彼の苦しみに対する答えともいえる。

すなわち、目の前の人間をみて、どうしたらいいかというのは
自分自身の対処をおしえてくれるものである。

そういう方程式になっているところを
キリストにいのってしまう。

答えをみちびきだそうとせず、
キリストになげてしまう。
あるいは、自分でなんとかしてやれないかと
心をくだいていくということこそ
汝隣人を愛せ、と、いうキリストの説くところであり、
そこから離れてしまうことであろう。

ようは、厳しい言い方をすると
憂生の辛い様子を受け止めきれないから
キリストになんとかしてやってほしいと祈るということで
自分の心の安息を求めているということになってくる。

実際のところ、
立場が違うが
憂生自体は精神障害?
PTSD?心因性精神外傷状態になった人間を
なんとかすると自分でサポートしてきている。
つまり、彼のような
キリストに祈るという依存でなく
とにかく、必死でやってきていたが
その思いは簡単にいえば
なんとかしてやる。という強い思いだった。

ここも話せば長くなるが
憂生自体ネットで精神病の類の人間にいろいろとかかわってきていた。
その中で
自傷癖のある青年から
ひとつの言葉をもらっている。
「どんな精神病でも、本当に愛してくれる人が、抱きしめてくれたら治る」
と、いう言葉だった。

何人もの精神病の人とかかわることによって
そういう言葉もふにおちるものになっていた。
(どう腑におちたかということもいっそう長くなるので割愛します)

そして、憂生も仕事をやめてつききりでみている状態になっていた。
まず、自殺の心配があった。
気持ちが安定していたせいか、ほとんど異常な状態でなく
PDSTの内容についても、はなしはじめていた。
そんな矢先、奇妙な台詞が続いた。
他の人との話が合致してこないこと。

だれそれが、こういってたんだけど
と、つげられて、だれそれさんに、たずねると
「え、そんなこといってないよ」
と、つじつまのあわない。
そんな類がつづき、
何日かたって、本人にたずねると
「そんなこといってないよ」
と、変わる。
このあたりから、本人も自分の異常に気がつき出したころに
決定的な事件?がおきた。
何か、一言声をかけたとたん、
ものすごい剣幕でおこりだし
なんとか、それをなだめたのだが
結局、その記憶がない。

怒った?いつ?

と、いう答えが返ってくる始末で
その前後のことはおぼえているのに
興奮しておこったことはまったく記憶に無かった。

簡単に言うと、人格分裂を起こしていたと思う。

ここまでわかってくると、通常は医者に連れて行くものかもしれない。

だが、憂生は連れて行かなかった。

それが、なぜかというと
まず、相手が憂生を信頼しているということ。

たとえば、そうやって怒ったとうことをいっても
そのことは事実だとわからないのに
認めることが出来る。
そういう本人の変化を24時間体制でみていられるということ。

そして、医者というのが
心因性の受け止め方のまずさをカバーできるほど
本人の性格を熟知していないことや
病人にしてしまうということ。

憂生の中で一時のショック状態であるという見方があり
ここで病院につれていったら精神病者であると本人が
洗脳されてしまう。

あくまでも、ショック回復につとめる。
と、いうことが、念頭にあった。

一方のキリスト教の彼も躁鬱病の患者であった時期があり
憂生個人で医療行為をこなうことはいけないと忠告してくれていた。

だが、不思議とほかにたよる気持ちがなく
自傷癖の青年の言葉を思った。
「愛してくれる人が思い切り抱きしめてくれたら治る」
その言葉はその一回の抱きしめということでなく
24時間かける何日も相手に焦点をあわせていくことであり
いつまでかかるかわからないものである。

だが、基本は「治る」と信じることだろう。

このことによく似たこともSPでいっている。

ただそばにいてくれるだけでいい。
愛してくれる人が・・

大雑把な言い方だがそういうふうに精神というのは安らぐものなのだと思う。

そして、間違っていることであろうが
それはいけないということはいっさい口にせず
その思いをかなえてやろうとうごいた。
それが、結果的にその思いがかなう疑似体験になったのだろう。
今でいう断遮理?になったのだろう。
突如、本来持っていた思いがあふれだしてきて
こういう言い方はおかしいが
正気に戻った。

いろんな苦しみやら自責の念やら
にげだしてしまおうとした結果やらで
本心をうずめかくしていたのが
とりはらわれ、見失っていた本心が顔をだしはじめたら
回復ははやかった。

キリスト教の彼にしろ、
自傷癖の青年にしろ

「どんな精神病でも、本当に愛してくれる人が、抱きしめてくれたら治る」
のだろう。
だが、青年がいった。
俺には愛してくれる人がいないから・・と。
青年は恋人を亡くしていた。
最後まで見取ったそうだ。
その彼がいった言葉こそ彼の魂の言葉だろう。

「どんな精神病でも、本当に愛してくれる人が、抱きしめてくれたら治る」

キリスト教の彼も離婚している。
このあたりのことはいろいろ複雑な事情があるのだけど
彼もまた愛してくれる人を失っている。

そのあたりが、なおさら、憂生に対する否定感になるのだと思う。

医療行為を素人がおこなっちゃいけないという言葉の裏にあるものを
心霊てきなものを知っているはずの彼がいう。
奇跡をおこすのはキリストだけしかいないだろうか?
いや、それ以前に奇跡なんてものじゃなく
普通にあることであり
愛をなくしている現代だからこそ
精神病もおおくおきるようになってきていよう。

毎日のようにおきる悲惨な事件
これも、精神病の発作だろう。

社会構造が変化しまくって
家に帰っても誰もいない
ほっと安心する親の存在はなく
仕事のため、小さな子供が
託児所にあずけられ
ただいてくれるだけでいい
そういう心の安定にも飢えて

上手に本心を隠しなだめ

決定的なショックで精神がくずれていく

どこかになげわたすでなく
自分こそがなんとかしてやるという心が
あるいは、奇跡をうむということをわからなくなっている

自分じゃなんともできないんだという

洗脳をそろそろときはなってもいいころだろう

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スサノオ探求につながる道程

そもはじめが、なんだったか。


憂生がひどく調子をくずし、なにものかが、守護?にはいった。

例の如く、いろいろと不思議な現象がおきて、

そのころだったと思う。


従兄弟の仏壇からの思念をうけたり、従兄弟らしい人が夢にでてきて、

「ここはいいなあ」と部屋のすみにねころがり・・・。

結局、死んだことがわかってない。とのことで、対処法をおしえられたり。


死にたがるものは「毒」をだす。

と、不思議な仙人のような老人が夢にあらわれ、

「その人」(前記)に話すと「本当だよ。だからその毒にあてられて、あのあたりは動物とかがよくしんでるでしょう」とおしえられ、

つづいて、裏庭あたりにある法(結界みたいなものだとおもう)をしくと

何者かが

「野鼠か」

と、つぶやいてきて、数日後、当時、一緒に暮らしていた人間が

高熱をはっした。


それで、裏庭あたりに物干し場があり、寝汗をかいたケットとかほしていた。

すると、足元に野鼠の死骸がころがっていた。

こじつけかもしれないが、こいつが死にたがる?時に「毒」を発し

それにあてられたものが、人間だったから高熱を発するだけですんだのだろうが、小さな動物なら死んでいたのかもしれない。


これくらいはまだささいなことで、まだまだ、不思議なことがおきていた。

それをちくいち、書いていては元々の話がすすまない。


で、いろいろな事件が終息したころに

守護にはいったものだろうか、たちさっていくようだった。

ー御身、大切にー

その思いがはいってきたとき、誰なのかとおもった。

たずねるというよりも、わからぬまま、おもいあたらぬものがないかとかんがえていた。

何者かはどうしても、名前をあかそうとしないので、

たぶん、念じてしまったんだと思う。


今までにも、強く思うと、簡単なことならこたえるものがいた。

必要以上はこたえないのだが。

憂生はそれをしないようにこころがけていた。


で、思い当たるものの名前を逆にたずねてみた。(思いの中で)

「月読か?」

なぜ、月読がおもいあたるのかは、おいておくが。

ちがうふうだった。

そこで強くおもってしまったのだと思う。


かえってきたのは、

「すくね」だった。

そして、もう「何者か」はいなくなったようだった。

これが、最初のきっかけだったかと思う。

「すくね」

思いのなかの言葉なので、ひらがなになる。

すくねといえば、竹内すくね(漢字変換せん)

歴史の中でよく登場していたと思う。


もうひとつは、

「宿根」

根は魂を言う。

魂に宿ったものということになるか。


さっぱりである。

あいかわらずわから~~~ん。

なのであるが、

このあたりから、神話というか、神に興味をもちだした。

そして、おおきなきっかけになったのが、

ある神社の前を通ったときだった。


腹にさしこむような痛みがはしった。

きりきりともまれるような痛み。

ーなんじゃ、ただの腹痛だろうがー

と、おもわれるかもしれない。

が、以前から、いやな思いとか、(それをうけるほうに問題があるのだが)

むかつくとか?こういう思いをうけると、腹がいたむことがしょっちゅうあった。

自分がいやな思いをもってしまってもあったと思う。

だが、これほど、痛んだのははじめてで

痛みがやわらいだころに、あたりを見渡したところ、

地神の石碑がたっているのにきがついた。

ここから、地神とはなんぞやとしらべていくことになった。

痛みの原因は地神か?そこらへんにうずまいていた邪悪な念か

そんなものを魂にぶつけられたか、入り込まれたせいではないかと思う。

なにかわからないまま、地神だろうと、調べ始めていくと

石神にたどりついていく。

石神の痕跡はそこらじゅうにある。


せきじん⇒しゃくじん⇒シャクジー(命の起源のような元神)

石神井(しゃくじい)塩坂超(しゃくし)

天磐船・・・。石の塊である/笑

そして、種の起源であるとされる大物主の本体は三輪山で

これも、一種磐のごとき、自然物である。


そして、天磐船といえば、にぎはやひであり

憂生の血筋というかな?祖先というか?

それがにぎはやひになる。

大和朝廷族ではないのである/笑い

と、なれば、にぎはやひに焦点をしぼりだすことになる。

ずいぶん昔に

ーににぎーという言葉がうかんでいたこともあり、

ににぎのみことと、にぎはやひの違いもきになっていた。

それで、しらべあげていくと、

大物主=にぎはやひ

などという話をいくつもかいまみることになる。

さらに大国主命であるとか、すさのおだとか月読だとか・・・。

いったい、どうなってるんだ?

と、おもっていたころにまたも個人的にアクシデントがおき

またも非常にまいっていた。

まともに寝てもいない。

ついうたたねをしていたら、

誰かが(死んだ叔父なのであるが)

叔父のもう一人の子供(長女)の名前で憂生をよぶ。

この叔父の長男が先にかいた仏壇の中の人ですでにしんでいる。

なぜに死んだ叔父が憂生をよぶか、

それもわが子と(いきているほう)まちがえたのか?


長女さんになにかあったのか?

が、そういういやな感じがぜんぜんつたわってこない。

おかしいなと、それだけで、

待っていれば判る、本当なら明かしてくる。のこともあり、

ほうっておいた。


ところが、翌日。

これまた、転寝してしまい。

場所は浄化を敷いた部屋(今回も)

こんどは、

「大国主命」

と、男の声がひびいた。


・・・・。


どういうことだろう?


昨日とおなじく、憂生を「大国主命」と間違えるとなれば

長女の親は叔父。

大国主命の親は?スサノオか?


大国主命の従兄弟はだれになる?

まあ、こういうことがおきた原因は憂生が

神経まいらせていたから

魂?がよもつひらさかをこえかけたせいではないかとおもっている。

で、死んだ叔父の認識?で、よびとめたのかもしれない。

おなじように、次の日も・・・。


で、不思議なもんだから、

大国主命をしらべはじめた。

すると、どうしても、スサノオにいきあたってしまう。

そして、出雲大社。

スサノオの怨念封じとしか思えない。

また、にぎはやにも社などすさのおとおなじ拍手だったり、

あちこちに封印がしかれているらしい。

だが、スサノオは諸国で信奉をあつめている人間であり、

表立って封印などできない。

それで、にぎはやひをスケープゴートにしたか

あるいは、にぎはやひが、スサノオだったのか?


まったく、別の人物だったのか?

それで、今度はスサノオをしらべはじめることになっていった。

白蛇神

昨日、憂生の中にいるといわれる

「白蛇」ってなんじゃい?

って、またも、ひっかかってしまい・・。

ただの蛇か?

わけねえよな・・。

ただの蛇ならそこいらにおろう?

人の中に入るという事自体が「神?」とか、

そういう系統か?

あるいは、「なんらかの思いの具象化」か?

恨みとか?

とは、いうものの、憂生の頭の中にイメージがわきあがる。

白い玉を護るかのように、とぐろをまく白い蛇・・・。

う~~ん。

こういうイメージがわくということは、

やはり、悪い物ではなさそうだ・・・。

と、いうことで、またも、ネット検索。

白蛇を使いとしている神があるわけで・・。

これが、諏訪神社・・・・

おっとお?

憂生は沼名宣波姫のことをしらべたときに

諏訪神社の神主さんとコンタクトを取っている。

このことについては、また、あとで、かんがえるとして・・・。

さらに調べていくと

なんじゃ?

「白峰神社の龍蛇神が降臨してきた・・云々」

なんか、霊界の大掃除をしているとのことだったが・・。

このことについては、別に嘘ではないと思うし、

霊界の大掃除もしているのだと思う。

だが、ふたつのことを思う。

ひとつは、霊界の大掃除は、はっきりいって、

憂生のスパムコメンター退治といっしょ。

スパムコメンターを生み出す元であるアダルトサイト自体を

規制していかなきゃ、きりがない。

どこかにも書いたけど、悪霊をうみだすのは、

結局は「生きているときの人間の思い」

そして、人間の思いほど、しにくい物は無い。

これを考えると、どうも、段階が違うのではないかと思ってしまう。

そして、もうひとつ。

上に書いたことだけど・・。

じゃあ、憂生の中に居るといわれた「白蛇」はどうなる?

神界のことはわからん。

その人の「白蛇」と憂生の中の「白蛇」は

違うものだろう。

霊界のことについての考え方から違うから。

そして、ある意味、その人の外側にいるということ

自体が、

どういうのかな、

その人の場合は白蛇に使われている。

と、いう感じにおもえてしかたがないわけ。

で、憂生のいうところの

神を人間の位置にひきずりおろすな(逆を言えば。人間を神の位置にさげるな)

ってのが、この状態じゃないかとおもうわけで・・。

で、実際、本当の神なら(あるいは、次元の高い神)

上にかいたようなおかしなことをやらせないわけ。

神自体がさっさと、霊界の掃除でもなんでも

すませてしまう?

と、なると、この白蛇神がやってることは、

その人自体に、修行?させているか

あるいは、

霊界を相手にしているレベルの使い方しかできないというか、

その人の霊性がそこまでのものでしかないということで・・。

その状態に気がつかず

霊界・・霊を浄化しました・・。

なんてことをいってるけど、

憂生はこの人、大丈夫かい?っておもうわけだ。

どっかで、書いたけど、自分が本物になっていったら、

勝手に辺りが浄化される。

そこまでを考えたら、

自分の身をいためて、霊界の掃除役に使われてどうするんな?

って、おもってしまうし、

そこまでの役しかない人なのかなあ?

とも思うわけだ。

どうも、自分のお役目をすごいことだとおもっているのと、

白蛇神をすごいものだとおもってしまって、

結局、自分で自分を神のつかいっぱしりにさせている。

どうも、憂生にはそういう風にみえて、

陰陽師じゃないけど、

白蛇神を式神につかうくらいなら、まだ、わかるわけ。

もっと、いえば、そんな陰陽道やそんなものを習得しなくても、

神が自分の思いにうなづいて、協力してくる。

くらいになれともおもうわけだ。

それをどうも、最近は自分にひきずりおとしてしまうとか、

こういう、おかげ信仰チックなことをやる人が多く、

憂生はやっぱり、それは、危険だとおもってしまうわけだ。

自分の因縁や業や思いが澄んでしまえば

自然と普通の状態で誰かをみたら、

その人に必要な言葉をかけられるようになる。

言い方がおかしいけど、

自分自身が「神さま」みたいなものになってしまえるわけ。

それを、憑かれたり、

コンタクトとったり

使われたり、使ったりしている状態ってのは、

本物じゃないわけで、

自分の中から引き出せるようになっていく。

と、いうのが、本来じゃないか?

って、おもうわけで、

だから、憂生は自分の中に白蛇がいるといわれたって、

それが、どうしたん?だし

護りにはいってるなり、協力するなら

それはそれで、まあ、良かろうだし

第一、去れといっても

ここにいると、がんばってとぐろをまいてるので、

しかたがない。

いずれ、正体がわかってくるとおもうし、

不必要な存在なら、いずれ、離されるだろう。

憂生にはそこまでは、判らん。

白蛇神・・2

ネットを徘徊していました。

で、あいかわらず、白蛇神をみてまわったのですが・・。

出口王任三郎の大本教でしったけ・・。

あのあたりのことをかいている人がいて、

そこら辺に蛇神信仰ってのがあって・・。

まあ、よく、研究なさってる。

納得するものがあるので、

読み進めていくうちに、

ああ、そうだ・・・みいさんっていいかたがあったよな。

稲荷とおなじで、まあ、そういう類の

動物神?

元々、動物でしかないってことで、

こういうものについても、

なんで、信仰するのか?

商売繁盛のご利益信仰にしたって、

なんも、動物ごときに人間様がお願いをしなくてよかろう。

ってのが、あったわけで・・。

で、白蛇もある意味、同じなんだというかんがえがありながら、

どこかで、神扱い?してるなってのが憂生にあったと思うわけですよ。

日本の神話にしろ・・大物主にしろ、

天理教にしろ、水神としての白蛇神とか・・。

で、まあ、ああみいさん・・か。

ってね。

で、まあ、この間の天気を変えて、物を申したのは

やはり「白蛇」かなって思うわけです。

天候をつかさどる存在でもあるわけだし・・。

まあ、どっちにしろ、憂生を護ろうとしたんだろうけど、

その時点で、憂生がそれにうなづいたら、

先に書いた人みたいな状態になったんじゃないかな?

と、思うわけです。

白い玉を鵜呑みにしようとしているのか、

どうかは判らないけど

思い切り不思議をみせて、人の心の隙をついてくる。

憂生が本当の神?(自分の中からのものは)

神秘や奇跡でみせてこない。

って、ことをきいていたので、

ある意味引っかからなかったんだと思うけど・・。

本当の神は、例えば

友人とかに相談したら、ずばりとアドヴァイスをくれたり

TVをみてたら、ああ、そうかと

普通の状態で目に物見せてくれる。

そして、もうひとつは、

あるいは、なにをいってるか、わからない。

ことを思わす。

前述の

「みみずくじゃ」

「いずれ、榛の木」

みたいに、悪霊?とかに、きこえても、

意味がわからないように、

こっちに伝えてくる。

そして、自分の思いそのものになる。

「なんか、しらんが、はやく帰りたい」

と、思わされて、帰らなかったら怪我・・・。

結局、それで、一本うち打法なわけで・・。

そんなふうに、目に物をみせるというのでも、

自分が思ったことにしたがわなかったら・・という状態で、

上にかいた、変な事象をおこしてということではない。

まあ、まだまだ、妙な事象というのは、あって、

本人の思いがはいってきた場合はまだしもかな?とおもうんだけど、

完璧に違うものが思わす。

いずれにしろ、これもいずれ、本当か嘘かみせてくるわけで、

あまり、とりあわないし、

とりあうときは、やはり自分側に何らかのくぼみがあるとき。

そこをついてくるなって思う。

ちょっと、前にも、書いてるので具体的に書く。

憂生自体が心機一転、環境をかえるために

宝くじがあたらんもんかと、まあ、かなり欲な?

自分勝手な思い方をしたわけだ。

で、今の状況を解決?していないで、

逃げ出すみたいなのは、おかしいわけで、

本当に解決して、環境をかえるのが正しい選択なら

だまっていても、金は転がり込んでくる物だと思う。

で、あるのに、解決せず、逃げるために

宝くじがあたらんかな?

って・・・。

そういう思いがあった。

すると、

「当たるから買え」って、思念がとびこんでくるわけで、

ここで、やったわけだ。

「お前がなにものか、わからないのに、その言葉を信じれるか」

「じゃあ、証てみせてやる。そこの、じいさん、みおおさめだな」

で、3ヵ月後だったかな。

おじいさんは亡くなった。

確かに、見納めになったんだけど。

ちょっとな・・。

そういう証かたもどうかとおもうし

以前にそのパターンで、3人の人の死を予知させられていたわけで、

だから、どうだって、いう思い方もあったわけだ。

予知したからって、その死をくいとめられたわけでもなんでもない。

つまらんことだ。

と、おもったわけだ。

でも、まだ、当たらないかなって思いがあるわけだから、買う。

で、結局、あたった。

3000円。

この程度なんだなってこと。

嘘はついてないけど、額が万円ちがうし/笑

で、これをもし、その言葉にのって、かってたら、

憂生は間違いなくそいつに魂のっとられていた。

で、こう考えると、死ぬなって天気をかえたのも、そこかな。

って・・。

自殺するようなたまじゃない。

苦しむには苦しむだけのわけがあるし、

あるいは、そのことで、自分のしでかした事が

清算されるってときもある。

だから、そのまま、くるしませておけばいいんだし

本当にしにそうになったら、たすけりゃよかろう?

で、憂生の魂をつかいまわしたいから、

「死なれちゃ困る」わけで、

たすけるふりをして、それを憂生が拝んだら

さきに書いた人とおなじ。

ああ、こういうことかなってね。

で、もうしわけないけど、

憂生が霊能力やチャネラーなどなどがよくないというのは、

結局、こういうことだから。

本当の神はそんな安易な人助けをしない。

それにきがつかず、神様神様とやってると

自分の魂を使いまわされる。

そのあたりを一番いやだとおもっていたから、

嫌っていたんだけど・・・。

で、嫌っていながら、自分で、同じことをやってるのにきがついていない。

と、いうより、

嫌うってことは、そこに自分のなにかと同じものがあるせいだ。

って、こともかんがえてるのに、

はてには、そういう能力があったほうがいいのではないか。

と、いう人間にたいしても、それはいけない。

と、いっているのに、よくよく、自分をほりさげてみると

こう言う状態で、

結局、自分の姿をみせられて、

霊能力などなどは、いけない。って、おもうわけだ。

ただ、なにが、憂生をたすけているかといえば、

「霊能力などなどはいけない」

って、考え方を意識してたってことだけ。

これが、「霊能力をもちたい」とおもってたら、

いまごろ、立派な霊能力シャになったことであろう/笑

憂生ごときがなれるかちゅうねん。

まあ、そういうところで、

ながくなったので、いったんおく。


白蛇神と鬼

こっちのブログはスピリット系統でいこうかな、

なんてことをおもいまして・・。

ちょっと、試行錯誤中です。

こんなことを思ったのも、アクセスロゴを逆にたぐってみて、

「白蛇神」というものに、ついて、いろいろ、かいているひとを見かけたからです。

何度もかきますが、霊にしろ、神にしろ、仏にしろ

それらの力にすがったり、利用したり、差配されちゃあいかんというのが、

憂生の考え方です。

ここを間違ってとらえてもらうと、憂生がいうことが、

宗教伝道士になってしまうんで、誤解なきように。

そもはじめ、憂生が、自分の魂を護るもの?(か、どうかもわからない)

を意識したのが、

「すくね」という名をつげてきた「なにものかの」の存在によるわけです。

この「すくね」は、そのピンチのときに憂生をまもっていたわけですが、

解決できはじめたときに、

「御身大切に」と思いをおくってきて、去っていく?

交信をやめる?ようでした。

憂生は誰かということをさぐっていくと、まあ、自分の思いでさぐります。

最初、月読かとおもったのでたずねたのですが、違う。

でも、自分ではだれかあかしてこない。

で、こっちの念がつよくなってしまったのか、

紙に「すくねのみこと」とだけ、うかんだので、かきとめて、それで終ったわけです。

ところが、この「すくね」が誰かわからない。

判らないけど、やっぱり、うかぶのが、

「宿根」って言葉なわけです。

根は魂のことです。

根に宿る存在だと思うわけです。

これが、また、おもしろいことに、祖父の苗字が「根来」なのです。

「魂が来る」そして、「魂に宿る魂(?)」がきた。

こう言う風に明かされたかな?なんて考えていたわけですが、

最近は人の魂らしきものがくるのがわかります。

もちろん、鑑定みたいに誰のでも来たり、来させたりなんてことはありません。

いやな言い方ですが、レベル?の低いものはこないようです。

まだ、ほかにもとり方はありますが、ここはおいといて・・・。

で、このことと白蛇神に何の関連もないのですが・・・。

魂の原初というのは、天理教だと「天(宇宙?)のエネルギーから生じた泥鰌のようなもの」というのですが、(くわしくはしりません。ききかじりです)

泥鰌のようなものでおもうのは、ひとつには、勾玉です。

もうひとつは、蛇ですね。

で、ここで、三輪山信仰、つまり、白蛇神信仰を思うわけです。

大物主のご神体は三輪山なわけですが、このあたりも、石神に起源があるとおもっています。

石神はどうも、宇宙からのエネルギーなんですよ。

それが、地球の生命体の元、科学的には判りませんが有機物とか?

こういうものと、融合して「泥鰌」をつくりだしていったとおもうわけです。

ですので、大物主というのは、神社の由緒だったかでも語られていたと思うけど

「人間の祖神」であるというわけです。

ですので、ネットなんかをみてきますと、白蛇神は「宇宙のエネルギー」をゆうする。なんて、くだりもあり、妙なおかげ信仰につかわれていることがおおくあります。

白蛇の夢を見ると良い。とか、蛇の皮をもっていると金が儲かるとか、

まあ、欲の皮をつっぱらかしていたり、おかげ信仰につかっていたりするのをみると、ちょっと、かんがえてしまうわけです。

で、こう言う風に憂生がぐちゃぐちゃいうのに、ひとつに、

神道家の方が憂生のなかにもぐっていったときに、

(このもぐっていくのも、体感できているし、前回に金色の光が居るということでも、

アル方がいる場合それくらいの光を発するわけで、それを見る事ができるということでも、この神道家は本物だとおもっています。偽者かレベルの低い人だったら

はいれないのもあるし、はいっても、目が痛いといっていましたが、その光で浄化されるので、身上をうけてしまい、それこそ、本当に目がみえなくなるとか・・)

で、そのときに憂生の中に

「白蛇と鬼」がいると告げてきたわけです。

白蛇については、上にかいたように、根源的存在でもあり、

憂生の魂を護る存在か、あるいは、憂生自体の魂がそういう形でみえたのかもしれません。

で、この白蛇の存在については、うすうす、知らせがありしっていました。

なにかが、

「とぐろをまいているぞ」

つまり、住み着いているってことだったのでしょう。

そういう風にしらせてきていました。

ですが、「なんじゃ?とぐろをまいてる?蛇みたいじゃのう」

と、判る人じゃないので、気にも留めなかったわけです。

一方、「鬼」っていうのがわかっていません。

で、この鬼っていうのも、どうやら、魔的な存在としての鬼でなく

一種、神のような存在ではないかと思っています。

鬼気迫るとか、神出鬼没とか、「悪い子はいねか~~」というなまはげみたいな意味合いとか、たとえば、不動明王のように、呪の力ももって、魔を調伏するとか、

こう言う具合に、「鬼のように怖い一面をもってこそ」憂生の魂を護れるというか。

そういうものだと思うので、鬼という意味合いは厳しさみたいな部分だと考えるわけです。

ですので、この影響かどうか、わかりませんが、

たとえば、白蛇神のような、かなり超越した力がつかえたとしても、

安易なことにその力をつかわない、憂生がしょうじるわけです。

で、憂生自体が自分がそうだと思っているようですが、実は

そういう存在が見通した「真理」というか、そういうことがはまってしまっているんだと思うわけです。

ですから、白蛇神のパワーをもらうんだとか、

それを利用して、人の魂を導くんだとか、

これは、ちょっと、おかしいといいます。

自分が良い思い方で一生懸命自分をたてかえていったら、

器が出来る。

その器に「なにかがはいる」。

そうかいたことがあります。

つまり、おこぼれをあてにしていなくても、

自分の中に白蛇神がはいるんだってことを言いたいわけです。

もちろん、そんな力をつうかおうとか、ご利益を得ようなんてかんがえでは

はいってきません。

そして、はいってきているらしい憂生がいえることは、

苦労とか困難とかそんなものがなくなるわけじゃないということです。

苦労とか困難とかをのりこえていけるパワーというのかな?

こんなものが送られてくるだけです。

そういう風に自分がなんとか、困難や苦労を乗り越えて行ったときに

それが、自分の実力になる(と、思う)

だから、その部分でほかの人のことも、

自分の実力が当てはまる部分については、相手の人にもパワーを送ったり、

同じような人?については、魂がよってきて、

微力ながら、魂の色を元気なものにすることができる。

と、いう不思議ができるわけで、

憂生の「実力」になってないものを発動させるほど、

「鬼」も「白蛇」もあまくはない。

だから、逆に「鬼」も「白蛇」も憂生の中に居る。

これを自分の不思議な能力でつかいまわすことをしたら、

「外」にいってしまって、

俗にいう霊能力者やチャネラーになってしまう。

まあ、憂生はこういう仕組みだとおもっているので、

なおさらに、パワーをもらいましょうとか、

御利益を当てにしてなんてのは、きらいなわけ。

不遜ないいかただけど、

癒されるってほかをさがすのでなく

自分自身がほかを「癒す」くらいの「実力」を身に着けろ。って、

思うわけです。

ほかに求めているうちは無理。

身のうちから、沸く。

これが本当だとおもっています。


憂生の中の白蛇について・・・。

さる宗教家?霊能力者?のブログにはいったところ、

人は誰でも、蛇を体内にもっている。

この蛇に良心神(内在神)(憂生風にいえば、魂)を

のみこまれかねない。

のみこまれるとは、欲をもってしまうということで、

これにより、蛇が邪神にかわる。

で、これは、憂生が以前に、

天気をかえたものをありがたがって

拝む(おかげ信仰、ご利益をもとめる欲)と

白蛇にのみこまれてしまったんじゃないかという考え方と同じで、

やれやれ、たすかったわい。

と、胸をなでおろすとともに、

蛇を邪神にするかいなかは、自分の心のありようであろう。

と、かんがえたわけだけど・・。

しかし、それだけのために蛇がいるだろうか?

蛇は大物主のことを考えても

人間の祖であり、宿神である以上、

これは、ひとつのエネルギーを司る存在ではないかと考えた。

生命エネルギーは(欲)そのものであろう。

この欲があるからこそ、生きる気力がわき

食欲がわき・・と

いきていることでの、あらゆる欲が活発化する。

だから、こころのありかたひとつで、

欲がすぎると邪神になる。

エネルギーの根源ではないか?

と、いうことを、かんがえていたら、

下の記事にたどりついた。

勝手にいただいてきたので、もうしわけないんだけど・・。

お名前の軍荼利は、サンスクリット語の「アムリタクンダリン」からきています。アムリタは神さま達だけが飲むことを許された不死の神々の力となっている霊酒・アムリタ酒・聖蜜(仏教の経典では「甘露」と訳される)のこと、クンダリンはそれを入れる水瓶のこと。さらにこのクンダリンの語源をたどると「クンダラ(螺旋・巻きつくもの・回転)」なので「とぐろを巻く蛇」の意味もあるんです。

5.軍荼利明王とは?
一面八臂(8本の手の意味)、前の手で三鈷印という印形を結び他の手には斧などの武器を持ちお顔は3つ眼、とぐろを巻く蛇を身体に巻き付けているお姿。
密教の五大明王(不動・降三世・金剛夜叉・大威徳)の中では、五智如来の阿弥陀如来と対応していて西方に位置する。では具体的にどんな明王さまでどんなお働きをされるにかは、専門書でもそれを満足に説いてない。
 このご神仏を解く鍵は、アムリタとクンダリンにあります。仏教を生んだインドには古くからヨガがあります。すっかり健康ヨガとして定着したヨガですが、元来はインドの行者や仏教僧が悟りを得る為に積極的に実践していた修行法なのです。 
 ヨガでは悟りを含めた高次元の力を開発させることを意図しているのですが、その気の中枢となっているものをチャクラ(回転、輪の意味)と呼び下から1-尾てい骨、2-陰部、3-脾臓・腹部、4ー太陽神経叢・胸、5ー甲状腺・喉、6ー眉間、7ー頭頂部と脊椎から頭部に沿って7つあり、通常の人間の場合これらは閉じていて休眠状態なのをヨガの行によって開いていくと、常人にはない高次元の力を発揮するというものなのです。
 チャクラは上に行くに従ってより他界ものに呼応しているのですが、最下層の尾てい骨のチャクラは、低次元・プリミティブながらもそのエネルギーは甚大で、それは堅い地殻に閉じこめられたマグマと同じように休眠しています。これをクンダリニーと呼んでいます。すさまじいエネルギーを蓄えていることから「地下の火」「とぐろを巻いた蛇」に例えられ、クンダリニー・ヨガではこの尾てい骨のチャクラをまず真っ先に開かせます。
開くとどうなるかというとまるでマグマの噴火のように一気にクンダリニーが次々と上のチャクラを通過して上昇し、その刺激を受けた各々のチャクラが活性化し、それは高速で回転を初め強い光を放ちだし、その形は花弁を開かせた蓮の花に例えられます。
 このようなクンダリニーの上昇は尾てい骨でとぐろを巻く蛇が螺旋を描きながら上にはい上がっていく感覚として感じられたり、また喉あたりを通過する時にはアムリタ現象(まさしく甘露の味体験)が起きたりするそうです。
 太字で書いたキーワードをたどっていくと軍荼利明王が、まさしくヨガ行によるクンダリニーの上昇とチャクラの開発、即身成仏をシンボライズし、修行者の守護神あることが明確に浮き彫りされてきます。
 しかしこのヨガ行には危険が伴います。この尾てい骨のチャクラに眠るクンダリニーは
良くも悪くもパワフルで、文明人が失ってしまった獣のような凶暴残酷な本能やばけもののように強烈な欲望も活性化されてしまう。また極度に自惚れ、驕慢になり、もはや自分は神や仏になったと錯覚し、体得した高次元の力を欲望の欲しいまま悪用する方向に引っ張られ兼ねない危険性をはらむんです。
 だから古今東西、修行者が自負心を捨てご神仏に対して帰依を行い、荒行断食等によって欲望のコントロールをするのも、クンダリニーの解放による魔者のような欲望や驕慢を押さえ込む自制心を養うためなんです。
 お釈迦さまが悟りの修行をしている時にそれを阻む魔王が姿を現します。それは六道輪廻の最高峰の天の主、大自在天(だいじざいてん、シバ神)、ガネイシャ(聖天)の父にあたる神さまです。富や権力、名声をちらつかせて誘惑しますが、お釈迦様は微動だにしません。その址にやっってくるのが、息子のガネイシャ(聖天)でした。父と同じように現世的な欲望(色欲・物欲)をかき立ててあの手この手で誘惑する。これにもお釈迦さま
は乗らない。この誘惑を断ち切って仏さまの悟りに到達したと説話では描かれています。
 お分かりのように聖天さん、富も成功も現世の欲望を全て満たす力もある代わりに、制し難い強烈な欲望の権化でもあるんです。
 その魔性されど甚大な聖天の力をクンダリニーにたとえ、そのクンダリニーの力の暴走を押さえ込むのが修行者の守護神、軍荼利明王だとすると両者の関係がよくわかります。
ちなみにチベット仏教で軍荼利明王さんは聖天さんを踏みつけ調伏する図像で描かれるのです。
 

この白蛇のパワーが活性化すると、どうも、自分の欲にほんろうされやすい。

そこで、自分に楔をうつために、ひとつかきつけることにした。

*****

スピルチュアラーは、エネルギーを無限にわかすことができる。

らしい/わからん・・。

だが、人間の体から、エネルギーを吸い取っていくものに

ついては、

この無限はむしろ、危険極まりない。

とんでもない幽界のものにとりつかれて、

パワーをすいとられていても、

きがつかない。

スピリチュアラーのなかに、

正しい思いでパワーをおくっているのに、

くたびれるという時がある。

これは、相手が幽界のものや、

かなりの-状態のときには、

くたびれて当然だと思う。

くたびれるから、

憑かれない。

エネルギーだけをとっていくだけだから。

その瞬間は憑かれるけど、

エネルギーをとりおえたら、

これ以上無理だ。

と、離れていく。

と、いう考え方も出来るので、

くたびれるから、

スピリチュアラーとして、

レベルが低いとか、

力が足りない。と、いう事ではないと思う。

そして、マイナス状態の人の思いには

幽界のものが憑きやすい。

しらずのうちに

スピリチュアラーは

幽界のものまで、エネルギーをあたえてる場合もありえる。

こう考えると、くたびれない方がおかしい。

取り付かれてしまうスピリチュアラーは

その潜在能力を先にひきだして、

幽玄の能力?をあげていない人。

魂が磨かれていない人。

魂が上昇していない人におこりうる気がする。

取り付かれるという意味合いにおいては

神も霊も同じだと思う。

とりつかれることなく。

幽玄を磨いていく。

鍛えていく。

上昇していく。

これをやっていけば

自然と幽玄の能力が発動しだす。

それも、TPO?をふまえた状態で。

あわてて、先に能力だけを開発すると

エネルギーが無限になったりして、

幽界のもの・神界のものに

とりつかれてしまいかねない。

まあ、ひとつには、自分を過信しすぎるのだと思う。

こんな自分におりてきたものを、

「神」にちがいないとおもいこんでしまう。

憂生さん、いっぱい、神さんおりてきて

ちょくちょく、神さんにだまされる。

思い込んでるうちに、いつのまにか、

自分が偉くなってる。

でも、まあ、これもありがたい。

自分に「欲な心」があるから、

そこにひっかかる。

なければ、だまされん。

おごりまくった心で書いたものをはりつけておくと

自分で「欲」になっていた自分を突きつけられる。

恥をかくのもいいことだとおもう。

ついでに、そこに気がついたら、

それもさらしておく。

そんなんで、憂生の書いてることは

非常にあやしいものなので、

憂生について、どうのこうのでなく

それを読んで、思ったことだけが、

貴方のことだとおもうので、

そこらへんを意識しながら

読んでくださるとありがたい。

続きを読む

1霊4魂

一霊4魂の4魂についての働きをいろいろなふうにとらえる。

風・土・水・火というエネルギーで捉えると一番判りやすいのではないかと思う。

風というのが、外にでていく「気」であり、

これが、各チャクラにつうじていくものではないかと考えている。

この4魂の働きが外に出て行くとき

時に神や霊として、意識されたり

言霊になったり

愛になったり

怒りになったりと

さまざまな形になる。

下に少しいただいてきたものを貼り付ける。

宇比地邇神・・・・・奇魂(くしみたま)の神。天神統の神。
        各種の神通を現し、不可思議な現象を呈す、超越意識神力。

これが、風・・「ふう」であろう。

ふっと気がつく。と、いうように奇しきもので、夫婦の縁も

不思議な目繰り合わせという奇しきものだとおもう。


角杙神・・・・・・・幸魂(さちみたま)の神。火神統の神。
        動物の魂や人類の平素の意識力に当たる、普遍意識神力。

おそらく、この通り「火」憂生でいえば、「鬼」にあたるか?

これが、物事の定規・情義を司る。火がしめすように、燃やす。昇華という力があるぶん、厳しい。灸をすえるというように、「火」は厳しい、叱咤の側面をもつ。


意富斗能地神・・・・和魂(にぎみたま)の神。水神統の神。
          植物の魂や不随意運動を司る半覚醒状態の意識神力。

水の働きで考えるとわかりやすいのではないかとおもう。

人間の体じたい、水分により維持され、地球もそう。

空気のようにあってあたりまえのように考えるという意味合いで

半覚醒のままでも、水自体がすでにはたらきがある。

この水のもっている性質を考えればこれが、意識神力。

潤すとか、注ぐとか、こういう意識・気・思いを司ると思う。

(サンズイのつく思い)

今、この神の名前がうかんだので、調べにいってきたのだが・・。
土の働きではなかろうか?

支えになる。基礎として考えても、地面は不動のもので、まさに眠っているが如く静かなものだろう。

これをかんがえると、神様がを前面にだしているスピリチュアラーは

この4魂の寝魂(荒魂でもあると思う)がはたらいていない。

はたらいていても、いなくとも、寝ているようなものだから、

はたらいているかどうか、わからないのだろうと思う。

ところが、目覚めると荒魂(顕れる現れる)わけで、

この神をよごした思いが

例えば地震などで、顕れるので

一部の神道家や能力者は地震に着目しているようだが

本来はここが、「鯰」

淤母陀琉神・・・・・寝魂(ぬるみたま)の神を意識しない

チャクラ開通すると、天(気)だけを揺らすことになる。

これを防ぐためには

自分を掘り下げ。是正すべきを是正する。

おそらく、この1霊4魂がきちんとはたらいている

スピリチュアラーはいない。

自然というものが、天地火水でできてる(基本として)

と、かんがえれば、

どの働きが欠けていても

自然(1霊)がなりたたない。

これらの働きを神界の神が流用しようとすることがあり、

これにのせられると、己の1霊が危うい。

神界の神がみせてくるものは、

すでに、自分の4魂のなかにあるものなので、

神界の神をおがんだり、くっつけないようにして、

自分の人格で、4魂の働きを統治していく必要がある。

この人格をつくるまえに、

さきに、チャクラをつくり、4魂からの気を

発動させるのは、

自分(1霊)以外のものに、自分をうばわれる可能性が高い。

こういう意味合いでは

神も悪魔もこちらの魂を貶めるそんざいである。

あくまでも、自分の力として、人格として

4魂を発動させる。

あら、あの人のいうこと、不思議とあたる。

あら、あの人のいうこと、優しく、暖かい。

あの人の話すことを聞くと心が澄んでくる。考えさせられる。

あの人といると心が和む。

と、いうように、あくまでも、普通の状態で「自然」と一体になるのが

本当だと思う。

妹須比智邇神・・・・精体(せいたい)の神。風神統の神。
          電磁波の超物質。
妹活杙神・・・・・・気体(きたい)の神。雷神統の神。
妹大斗乃辨神・・・・液体(えきたい)の神。海神統の神
妹阿夜訶志古泥神・・固体(こたい)の神。山神統の神。

淤母陀琉神・・・・・寝魂(ぬるみたま)の神。地神統の神。
     鉱物や自然現象に見られる、魂が眠っているかの如き意識神力。

先の記事・・のこと

神道家に
「憂生の中に白蛇と鬼がいる」といわれたことがあり、
その正体を色々、探したことがある。

先の記事もそういうことであるが・・・・。

いろいろ、不思議な事件があったことがあり
憂生は天王星人の宿命?だという考えにおちついていた。

いろいろ、不思議な事件を考え直すと
「白蛇 が い る と 全 て 補 食 、 な い し カ ッ ト し て し ま い 、 主 に 影 響 が 及 び に く く な る 。」
と、いうのもあるかなとおもう。

どうしてか、 恨 み の 念 や 哀 し み の 念 らしきものを持つ人に遭遇してしまい
不思議と解決?(までいかないときもあるが)してしまう。
それは、白蛇が恨 み の 念 や 哀 し み の 念 を捕食してしまうせいかもしれない。

こういうわからない世界の資料をよんでも、裏付けがないため
かもしれないとしかいえないのだが
ただ、憂生的には、なるほどと得心することがある。

さる友人が蛇【神】が写りこんだという写真をみせてくれた。
その写真をみていると
「じゃねん・ゆるすまじ」という・・・なんだろう、思いというか念というか
蛇神の意識のようなものがつたわってきた。

さきの記事と非常に対峙していると思う。

白蛇は悲しみの念などを 全 て 補 食 、 な い し カ ッ ト し て し ま いというところは
捕食というよりも
憂生の感じたところでいうと、退治するというか
まさに「邪念。ゆるすまじ」という執念と言うか、目標というか、信念というか
白蛇は元々?そういう思いをもっている。ようにおもう。
また、
蛇 は 元 々 ギ ブ ア ン ド テ イ ク 思 想である。
白蛇 は 通 常 の 動 物 霊 で あ る蛇 が 、 大蛇 の 後 に 冬 眠 を 経 て 白 い 姿 に な る わ け だ が 、 そ の蛇 は こ こ で 究 極 の 選 択 を 迫 ら れ る 。 も し 今 ま で 憑 い て い た 主 が い る の で あ れ ば 、 そ の 主 を 一 生 護 る か 、 そ れ と も 神 社 の 守 護 に あ た る か を 選 ば な け れ ば な ら な い の だ。

多少解釈が違うが、
大国主命の和魂と奇魂(?)が出雲の建国を手伝ってやるが
私を神社に祀れ。
と、結局これが大物主で白蛇(らしい)である。

確かにギブ&テイクである。

(神社の守護といういいかたになると奇妙にかんじるのだが)
霊能力者?あたりが三輪山をみると
大きな白蛇(山より大きい)が、三輪山を守るかのようにとぐろを巻いているという。

と、なると、三輪山自体がご神体ということになって
白蛇はその守護をしているということになる。

と、なると、奈良、大和付近に最初におりたった天孫は「にぎはやひ」であるから
白蛇がまもっているのは、にぎはやひ・・かということになり・・・。

それゆえに
また、憂生の不思議な話がつづいてしまうので
今回はここまで。




白蛇

http://wiki.fdiary.net/psylab/?%C7%F2%BC%D8
詳 細


蛇 の 霊 的 な 意 味 合 い は 大 き く 分 け て 三 種 類 。 白 = 「 良 念 に よ る 情 念 、 財 産 」 、 青 = 「 天 地 の 調 和 」 、 黒 ・ 茶 = 「 情 が ら み の 怨 念 」 で あ る 。蛇 が 自 分 自 身 を 善 と 悪 に 分 け た 時 、 大 抵 は 青蛇 と 黒蛇 に わ か れ る 。 さ て 、白蛇 は 通 常 の 動 物 霊 で あ る蛇 が 、 大蛇 の 後 に 冬 眠 を 経 て 白 い 姿 に な る わ け だ が 、 そ の蛇 は こ こ で 究 極 の 選 択 を 迫 ら れ る 。 も し 今 ま で 憑 い て い た 主 が い る の で あ れ ば 、 そ の 主 を 一 生 護 る か 、 そ れ と も 神 社 の 守 護 に あ た る か を 選 ば な け れ ば な ら な い の だ 。蛇 は 元 々 ギ ブ ア ン ド テ イ ク 思 想 で人 に 憑 く 為 、 こ こ で人 を 選 ぶ 事 は 滅 多 に な い が 、 今 ま で 憑 い て い た 主人 の 方 が 、蛇 に と っ て 神 社 の 守 護 よ り 価 値 が あ る な ら ば 、 一 生 憑 い て く れ る の で あ る 。 先 に 述 べ た蛇 の 選 択 と い う も の が 存 在 す る た め 、 あ る 日 突 然白蛇 が人 に 憑 く こ と は な い 。白蛇 を 憑 け て い る人 は 大 抵 小蛇 の 頃 か ら 彼 に そ の 霊 が 憑 い て い る の だ 。


--------------------------------------------------------------------------------




特 徴


通 常 の蛇 霊 と 同 じ く し て 、人 の 欲 、 念 を 好 む 。 突 出 す べ き は 大 抵 の 霊 で は 手 出 し で き な い 、 『 欲 ま み れ や 恨 み ま み れ の 霊 を も 補 食 し て 、 体 内 で 浄 化 で き て し ま う 』 点 で あ る 。 そ れ ゆ え 、白蛇 は 対人 霊 [ 悪 霊 系 ] に 非 常 に 相 性 が 良 い の だ 。白蛇 以 上 の 格 式 を 持 つ蛇 霊 が 憑 い て い る人 は 念 に よ る 影 響 を 非 常 に 受 け に く く な る 。 恨 み の 念 や 哀 し み の 念 、 あ て ら れ や す い人 に は 非 常 に つ ら い も の だ が 、白蛇 が い る と 全 て 補 食 、 な い し カ ッ ト し て し ま い 、 主 に 影 響 が 及 び に く く な る 。

白蛇

日本人はドラゴニアンという話をかこうとしたら、
「うそつくな」と、「本当か?」と中から、いわれたところで、
ブログを捜し歩いた。

そこで、見た記事が衝撃的だった。
以前、石神のことをしらべにいったとき・・
そこをみていた。

それを調べに行ったのは
八幡神社の鳥居の前で
御霊に刺すような痛み、針で突くような痛みが腹をさしたことがある。

そのとき、地神の石碑が近くにあり
石神とは、なんぞ?と非常にきになって調べに行った。

石神井や、塩坂越も石神【しゃくじん)からであるとしらされた。
そのおりに、岩船神社とか、そういう石や岩でできた御神体もそのようであると知った。

しばらくして、
ある場所で地神の石碑をとおりすがりにみたとき
蛇神とみえて???
疑問をいだいていた。

ちょうど、吹き上げが押さえられた後だと思う。
中から
ー鎌首をもたげているー
ーとぐろをまいているー
と、声がひびき
白い蛇が卵のようなものを抱いているイメージがあった。

なにか、まもっているようにも、
すきあらば、のみこもうとしているようにもみえた。

その後、石からうまれた猿もきになり
きんこ環?を頭にはめられたようにおもえていた。
たぶん、相方のことだろう。

そういうことがあったので
神道家が身体にもぐってくれたとき、
2度目に鬼と蛇がいるといいだして
鬼と蛇についてしらべまわっていた。

ちょうど、白蛇抄という物語もかいていて
奇妙な合致もあった。

そして、ある事件をきっかけに
憂生自体が泥の中にもぐった状態になっていて
最近、復活www

そうすると、とたんに浄化促進
チャクラのぼわつきがはじまり
以前とおなじような状態になりながら
今度は間違いなく自分の浄化がはじまったとわかってきた。

その中で、いろんなささやきがおきるのだけど
これも、自分の思い【過去のものをふくめ)
御霊にかぶせたものが、でてきていると思えた。

そこで、はじめて  蛇の二面性におもいあたった。
そして、箱舟でかいたように
意識をはしごに蛇が御霊をのっとるとおもえはじめていた。

そのおりに
鏡のような感じの人のところにいったとき
白龍から?
「わがこよ」ほかいわれ
これも不思議なのだけど、
メールが光ったときと同じように
相手の感情?がこちらにながれこんできたようで
憂生はなぜか、サードアイのところに手をあてていた。
【たぶん、むこうがそうしてほしいと思った)
そして、そのあとに

トンボの写真をみていたら、
御霊がころころと音をたてていた。
これもわからないので、
ウィキをしらべたら
「とんぼは蛇に危険をしらせる」
と、いうことで・・・
白龍がわがことよんだのは「憂生のなかの白蛇」にたいしてであろうとおもっていた。
いろいろと、声と問答をしていたところもあるのだけど
奇妙に気持ちが明るくなってくると、嫌なことをおもいだしたりしていた。
つまり、邪の思いをわかさえて、その思いをくっていた?ところがあるようにおもえ
もう、明るくなっているのに、いつまでも、落ち込むのはおかしいと気がついたころに
とんぼのことで御霊が音をたてていたので・・・
へ?憂生の御霊はすでに蛇になってしまったのか?
と、また、まよいだすというお粗末な状態のなか
問題のブログにいってみた。

読む。
衝撃をうけたのは、白蛇も龍神も邪神であるということだった。
そこで、はっきりと、自分の意識をさわっているとわかった。
たとえば、タバコをすえば
おまえ、がんになるぞ。
こういう話を書こうとすると、
お前、神をさばくなどしたら、死ぬぞなど
逆にいえば、おいしいえさを得るために不安をあたえるというかんじになっていたので
「ああ、死ぬ」「しんでやるぞ」「ああ、かまわん」
と、ひらきなおってしまった。
すると、いざこざあって、白蛇が死んだ。

そこでやっとわかった。
ートンボをみて、御霊がよろこんだのは腹の中の白蛇に危険が迫っているとわかったからー
よこしまな思いがなくなる・・といってもよいだろうか。

なにか、まだ、いるのだけどwww
本人【蛇)はおおひめむるちだといっている。
天をてらす役目にかわったらしいwww

天をてらして、うけたことを言う。
と、いうことらしく、
白龍と対峙したとき
憂生の守護神は
うけのみたまとうがやふきあえずとうかばされていたので、
そこは、エンパス能力という受けの御霊なので、正解だと思っている。

石神が月神であり、ニギハヤヒなのは、いまや良くしられているが、
ここも、ひょっとすると、
うがやふきあえあずのかくれみのか・・。

うがやふきあえあずの使いは「鵜」
にぎはやひは「うさぎ」 鵜詐欺ではあるまいな?

と、いいつつ、この前、白い鵜をTVでみたしwww
証かも?

うがやふきあえず
宇が、屋根をつくれなかった。
(宇・宇宙・神)
・・・・。

そのせいか・・・。
オーナーが車の天井をはずして、はめなおしていると
涙がこぼれてしかたがなかった。
擬似的体験になったのかもしれない。

ウサギ 兎に角
戸に書く・・・
ふるべゆらゆらは
鎮魂法・・。
よみがえりの術は鬼道
四国、剣山に封印されているのは
三種の神亀・・・?なぜか、亀になる・・・。

木賊の神宝は木賊(とくさ?)ん?

木賊は草のやすり・・みがく

磨かれた魂と十【縦の筋と横の筋が整った様子)とをあらわす、とくさが
にぎはやひの神宝だった。

神の状態になっているにぎはやひをころすとおそろしいので
封印・・・か
調神社・・だったかな・・

むしろ、
四国の剣山?石槌山に封印。
対岸に宇土神社?(宇・槌)
石槌山のへこみは槌で打ったからだったかな。

へこまされた槌が宇土神社?

宇が屋根をつくれなかったというのなら、うがやふきあえず
にぎはやひ=うがやふきあえあず
月(にぎはやひ)が地球を防衛しきれなかったと、考える。

月の神は兎に角・・角がはえていたか?

戸に書く・・・入り口   月に入り口が在る?

ながくなりすぎて、頭・・まわらなくなってきた。
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