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吹き上げ

あちこち、見にいきすぎてわからなくなってしまった。


ま、誰であるかは問題じゃない。


憂生とおなじく、


「受けてしまう」体質

「拾ってしまう」体質


と、いうこと。



どうもね、ここらへん、変えなきゃいかんというか。


良くないなって思う。


自分がそうであるのに、人のことをしのごの言うより

自分をどうにかしろというところなんだけど。



ただ、憂生の場合は、一般の(一般・・というのも変だな)

一般の「受けてしまう」体質と少し違うところがある。



チャクラとか、最後には覚醒というか、

頭上チャクラと一体化するみたいなのを

覚醒するというのかわからないが、

よく覚醒するという言い方をする。


何らかの修行をして、覚醒まで持っていくというところなんだけど、


これは、無理やり、道を作ってしまうってことなんだとおもう。


で、憂生の覚醒というのは、


自分でも意識できないところにある。


通常、人間の魂は目をとじている。

(目があるのかといわれても困る。)


これを起こそうと修行とかするんだと思うけど

ほかの人がいう覚醒の意味合いが憂生にはわからない。



で、人間ができてない人の魂が目をあけたらどうなるか?


狂う。死のうとする。暴れる。


と、いう3っのパターンくらいにわかれるらしい。



それでも、ものすごく苦労した(修行じゃない)人などの中には

狂う。死のうとする。暴れる。

と、いうことなしに、魂が目をさます状態になってる人がいるらしい。



もうひとつ、死に目あってるとかも、目をさまさせることがあるらしいのだけど

これは、一時的なもので、またしばらくすると閉じるらしい。


(らしいという不確定なものいいでもうしわけないんだけど)


で、憂生自体が、「魂が目をさましている」状態で、

逆に死に目にあったことがあるか?

と、たずねられたことがある。


苦労して・・という人間だったら、人間ができてるから、

変なものに憑依されたりせんわけだから

当然、憂生は苦労の果てではない。


ましてやそれをつげられたのは20歳そこそこ。

苦労の果ての「人生修養」や「人間修行」のはてでもない。


何か死に目にあった場合での目覚めならすぐ閉じるというのは、

その人が「わざと憂生の魂の目をとじさせたけど、やっぱり、開く」

と、いったことから、類推したことなんだけど、

なぜか、わからないけど、

魂自体が覚醒?しているということのようだった。


で、通常の覚醒というのは、

魂とコンタクト?(相互じゃないとおもう)できるとこまで

道をつけていくことだと思うけど

実際、魂自体が覚醒してないため、

かわりのものがはいりこんだりして、

いわゆる、お伝えをしてくれるわけだけど

これが、時によくない。


その魂をのっとろうというか、

差配していこうとする。


使おうとするというかな。


多くのスピリチュアラーはこの段階にいる。


魂は覚醒してないのに

魂に通じる道がひらけている。


で、憂生はこの逆ということになるのかな。


魂は覚醒してるのに

魂に通じる道が開けてない。


ならば、いわゆる、修行をしたらいいじゃないかと思われるかもしれない。


だが、一度、憂生は道が通じていきかけたことがある。

修行もない状態で道が通じかけた。


吹き上げといっていいだろうか。

腹の底からなにかがあがってくる。


自分でもわかったから、

憂生が一心に念じたことは

(憂生じゃないかもしれないが)

「まだ、早い。まだ早い。待ってくれ」

だった。


吹き上げが頭までのぼってくるかと思ったとき

潮をひくようにそれが収まっていった。


そして、

「その人」のところにいくと

ー水があがってきたから、石をひとつのせておいた。ー

と、いう。


実際吹き上がったらどうなっていたかは分からない。


ただ、「石を載せた」の意味は分かる。


吹き上げてくる水の上に大きな岩をおく図を想像してほしい。

岩を乗せられた水は噴出すことができなくなるが、

出口を求めて、岩の下あたりにしみだしてくる。


これが、いずれ、出口を大きく侵食し

岩をその下にできた空洞におとしこむ。

すると、出口がおおきく開口することになるが、

そのときには水は通路が大きくなっているから

ゆっくりとあふれだすようになる。


水道の細い蛇口から水が噴出してくるのと

お風呂の足し湯で風呂桶からお湯があふれるのとの違いににている。


では、なぜ細い通路で吹き上げたらいけないか。


通路や底にたまった小石や芥ごと混ぜ込んだ泥水(いわゆる業とか)が一気にあがってきてしまう。


ところがゆっくりあふれてくるほどの太い通路

まあ、小さな池(湧き水)を想像してもらう。

そこからゆっくり水があふれてきたら

小石や芥は下にしずんだままでいれる。あふれてくるのも綺麗な水しかない。


憂生自体が小石や芥をもってなかったら、

噴出してもよかったのかもしれないが

まだまだ、自分の業も因縁も宿命も人生さえもまたもに

通りこしていない。


無理な相談というところだろう。


そういうことがあって、いずれ、岩がごとりと下におちて

ま清水がとうとうとあふれ出してくることがあるのかもしれないと思う。


それができなければできないで自然。

できているようになっていても、気が付かない。/笑


チャクラの話によくにているとおもわぬでもない。


第1チャクラだったか、もっと、根本的な生きるための欲をつかさどるチャクラかな。

このチャクラが暴走すると(うまくいえん)ものすごいエネルギーがわきだしてきてそれをコントロールできないだったかな。


頭上チャクラだけが先走ってもいかん。


人間性と精神と魂とこういうものがトータルバランスにならなきゃいかんのだとおもう。


そして、その姿は変な神さまとコンタクトするのでもなく

普通のちょっと人柄の良い人でときおりちょっと怖い。

ときに、本当のこと言ってつねってくれる。


こういうのじゃないかとおもっている。


で、最初の話だな。


乗られる

うけてしまう。


ここの原因がどこからくるものかわからないけど

たとえば憂生みたいな状況だったとしたら

ほかのものでの(霊能力とか・・なんだっけ、レイキ?ヒーリング?)

治療(治療というのもおかしいな)やへたな修行とか?

これはやめたほうがいいと思う。


じゃあ、どうすればいいか。


自分には魂というすごい味方がいるということを

自覚していくことかな。

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イグアス

イグアス川 の下流にある。この滝を含むブラジルのイグアス国立公園 とアルゼンチンのイグアス国立公園 は、ともにユネスコ 世界遺産 に登録されている。最大落差80メートル以上。「悪魔の喉笛」(Garganta del Diablo)が有名な観光名所である。歩いても船でもヘリコプターでも観光できる。

アメリカルーズベルト 大統領 が夫妻で訪れた際、イグアスの滝を見た夫人が「かわいそうな私のナイアガラ よ」と言った話は有名。

イグアスの滝(イグアスのたき)とは、南米大陸アルゼンチンブラジル の二国にまたがる、世界最大の滝で世界三大瀑布 の一つに数えられる。イグアス(Iguazu)とは先住民のグアラニ族の言葉で大いなる水(Y Guazú)という意味。

テミス (24 Themis) は小惑星帯小惑星 。直径が198kmと大きく、テミス族 の最大の小惑星である。イタリアの天文学者アンニーバレ・デ・ガスパリス が1853年に発見した。

ギリシャ神話の神で、ゼウスの二番目の妻であるテミス (Θέμις)から命名された。また、テミスという名は1905年にウィリアム・ヘンリー・ピッカリング が"発見"を主張し、後に不存在が確認された土星の衛星 にも命名された。

テミスの表面には炭素化合物 を含んだ の形で存在している。メインベルトの小惑星にこのような特徴が発見されたのはテミスが初めての例である。氷は小惑星の表面に長期間存在できないと考えられているため、天体深部から漏出してきた水蒸気が固体化したという説や、流星塵 が引き起こす侵食により地下の氷の層が露出したという説が唱えられている

イグアス (1684 Iguassú) は小惑星帯 に位置する小惑星。アルゼンチンラプラタ天文台 でミゲル・イティゾーンによって発見された。

ブラジル とアルゼンチンの国境にあり、世界三大瀑布 の1つに数えられるイグアスの滝 に因んで命名された。

イグアナという言葉がちかちかするので、イグア・・を調べたら、上の記事に遭遇したわけだけど、このあたりから、竜人説にはいっていき、宇宙人の竜人型のものの(とかげ型?)が原始地球にかかわりがあるか?ってなところに興味がいって、ドゴン族の伝説とか、マヤ文明の話やナスカの地上絵や、ユカタン半島あたりのマヤ文明の埋没にエメラルドタブレット・・・。

日本の歴史の中にも見られるUFO?かと思われる天磐船。

日本のオーパーツや、ピラミッドやストーンヘッジなどなど・・。

宇宙人が文明?を伝えたのではないかと思う(むしろ、憂生は宇宙人が不時着して、地球で暮らすしかなくなった結果ではとも思っている/笑)

そして、きわめつけの、どこぞの学会の総長が宇宙人とコンタクトしたとか?

一方で、アセンション問題と、宇宙人が憑依?したとかいいだすスピリチュアラーの続出。

この精神的危機に対して、箱舟を書き始めた。

憂生は宇宙人なるものは、寄生生物?だと思っている。

憑依も守護?も一種、寄生の一種であり、

時にものすごい顕示をみせてくることがあるが、(憂生の場合で言えば、俄かに雨をふらせる・・とか)これを、拝んだり、うなづいたりすると、自分の方がそれらに寄生されるという精神的な主導権を掌握されるというか、依存対象になってしまうということが、考えられて、

人間、そのものの人柄で生きてかなきゃ嘘だろうってなもんで、

スピリチュアル(顕示的なもの、サイバネティックなもの)の落とし穴というか、深淵から、自分を遠ざけることにした。

うだうだ話しなり~~~~

ま、相変わらず、頭上チャクラが反応することが

あるので、


やっぱ、凡人の悲しさ。


きになるんですな。


なんじゃろって。


おおかた、こうだろうと思われるわけもかきましたので、


反応するときは、

こっちのおもったままを書きました。


その誰かに必要な思い方や考え方になるんだろうと

ひとり決めして。



で、ちょっと前に記事でずばりときりこんで書いたら

一番おおきな反応はなくなりました。



でも、あいかわらず、あるもんで、ちょいと、知人に聞いてみました。


この方もほぼ、憂生ににたタイプで

憂生にはない、透視?に近い能力があります。


お互い一般人でしかないし、そこを目指しているというか。


平凡すなわち非凡なわけで。


で、きいてみたところ


まず、「整理、転換期」という風に思うという答えでした。


実際、以前の状態のときには、

直接、チャクラ?かなんかにたずねたら


**たますすぎ

という、なんかやらしい言葉がかえってきました。


精子嚢でもある場所のすすぎ、ですから

生命力の洗いなおしでしょう。


実際、死のうかなぞというところまで、参っていた状態のあとでしたから

生命力はよどんだ状態

おりのある淀みになっていたのかもしれません。



そして、


次の友人の言葉が


「憂生のほうが、高いところにいるから、エネルギーがながれていくのが、

分かるのんじゃないか」


で、自身は逆に憂生と対峙すると、ぐらぐらする。

逆に、低いと思われる相手には頭のてっぺんがじんじんする。


そうで・・・。


?なんです。


まったく同じではないので・・・。


憂生はちょっと特殊で、魂に不浄な思いをうけると

腹に痛みが来るのですが、

ほかの人は魂から汚れが落ちて、綺麗になるときに

痛みをかんじるそうです。


そういえば・・・。


「その人」が昔

憂生に

「おまえは、霊能力者とかにちかずいたら、気分がわるくなったりしないか?」

と、たずねたことがあったのです。


理由はむこうのほうが低い位置にいるので、こちらのエネルギーをすいとられて

(と、いうか、高いところから、低いところに水がおちていくような)

しんどくなるんだ。

そうで・・・。


そのころはなんともなかったのですが、

だいぶ、まえにそうだろうなというのがはじまったわけです。


霊能力者とか、神様をくっつけてる能力者。

いわば、お台さん、よりしろってとこで、

こういう人と対峙すると、軽い眩暈がおきていたのです。



憂生の勝手な判断ですが、

低い位置にいらっしゃるということでしょう。

もちろん、その人の外側でなく魂がということです。

このころに、

魂がよってくるという事件?がたてつづけにおき

そのたび、ぐらぐらした眩暈をかんじていたのです。


おそらく、低い状態になっているため(思い方のせいで)

こちらがぐらぐらしたのだと思います。


これらがほとんど解決しだすと、

憂生はスピリチュアルブログをよみあさりました。


これらをよんでいくと

今度は多く、植物の名前があがってきました。

その植物とブログの内容を照合することになります。


たとえば、

多くの支持者をもつスピリチュアラーは

思いの切り替えなど話し、自分もよくなってきた。

と、いうことをいうのですが、

憂生の中では「柊」という言葉が浮かぶのです。

結局、自分を護る。

こういうのが、元なんだとおもったわけです。


まだ、ほかにもいらっしゃいますが

ここは伏せておきます。


そんなことをくりかえしてるうちに

人物の名前がうかびはじめ

たとえば、ピョートル3世?だったかな。

このひとを

「立派な人だ」

と、いうわけです。

で、ぐぐりますね。ウィキとかです。


よんでると、涙がわいてくる。


で、一番不思議だったのが

ローマ法王、ヨハネスだったかな。


この人のウィキをさがし

ウィキにはいる前のグーグルの記事リンクに

カーソルをあてただけで、

涙がぽとぽと、おちてくるわけです。

読んでみたとて、内容的には

ピョートルのほうに共感がわくし

ヨハネスにはこれといった泣けてしまう内容もありません。

なのに、ぼろぼろ、涙がでてくる。



まあ、前世とか?なんかでかかわりがあったのかもしれません。


こういう一連の探し物をおえるころに

第6チャクラがじんとするのがあり、

次に頭上チャクラが反応するようになってきて


いろいろあって、(前に書いたので省く)

相手の魂か守護霊か?なんかが

こっちにコンタクトしてきてるんだなとおもうようになり

いろいろ、思ったことを書くようにしてきたのですが、


それを読んでくれてるときなのか・・・。


こっちが普通にしていてもチャクラが反応するんですね。


自分の段階がわからないし、

相手もわからない。


へたすると、こっちを探るものに反応してるのかとか?

逆にこっちがエネルギーを与えられてるのか?


さっぱりだし、

こういう状態について、例をだしてくれているところに

いきあたってないので、わからんわけです。


が、友人との話しで書いた


「憂生のほうが、高いところにいるから、エネルギーがながれていくのが、

分かるのんじゃないか」


で、自身は逆に憂生と対峙すると、ぐらぐらする。

逆に、低いと思われる相手には頭のてっぺんがじんじんする。


の、所をあてはめると、

なんらかのエネルギーを放出しているのかもしれませんな。



まあ、昔ですが

霊能力者(とも、違うが)の友人が

憂生のブログにくると落ち着く、安心する(安らぐ)といってたことがありました。

暗くふさいでる人は

ブログがまっくろでひえびえして、ぞっとして、開く前から消してしまうとのこと。


まあ、そのころから、何らかのエネルギーを発信してたのでしょうし

憂生自身も

ここで、エネルギー(愛ですが/笑)を発しています。

って、かいていましたが、

それくらい陽気でしたね。


陽気で、人を好く。


これが、エネルギーになったんでしょな。



昨今はチャクラで発光してたらいいんですが、


どうなってることやら、


さっぱりわかりませんな。wwww


チャクラが見える人というのは、

不思議と来ません。


きたらおしえてほしいんですが。


どう答えられても、


信じないと思いますが・・・。(え?)



チャクラから・・・

大きな、疑問だった、頭上チャクラの反応。

やはり、こちらのエネルギーがむこうに流れ込み

かわりに、こちらが、マイナスエネルギーをうけたことによるものだと思います。

つまり、

相手のなにかが、こちらに、何かを伝えてくれ。コンタクトしているという

取り方に通じるとおもっています。

この判断を決定できなかった、

大きな要因は、

たとえば高次元と会話されているというメッセンジャーの方にも

チャクラの反応を感じたことによります。

まさか、憂生がそんな高次元の方がいらっしゃる方にエネルギーをおくったり

なにか、つたえなければならないことが有るとは、おもえませんでした。

それでも、いろいろと

なにか、おかしいなあということを

どんどん、ほうりだしていくと

もう、思うこともないという状況になります。

いやあ、やっぱり、そうじゃないのかなあ?

こっちがえらそうになってるだけかなあ?

まよっているうちに、

あるヒーラーさんのところにはいりました。

不思議とその方のおっしゃることが、

すとん、すとんとおちてきて

ああ、この方本物だとおもわされるのです。

それでも、この方にもチャクラのしびれを感じました。

が、この方自身がヒーラーとしての活動中に

マイナスエネルギーをうけると、

不調をおこすと、かいていらっしゃるわけです。

そして、

チャクラの話しになりますが、

普通の方はチャクラを開かせていくという方法をとります。

本当は魂をひらかせるのが、目的なのです。

魂からのま清水を(波動・声)をチャクラにつたえていく。

(魂といっているのは、グンダリーニではありません)

ところが、これが、なかなか、できない。

憂生自体はなぜか、

魂が開いています。

が、チャクラはひらいてないでしょう。

このことを考えていて

今の高次元なるものもそうなんじゃないかとおもえてきたのです。

憂生が、なぜか、高次元というものいいがおかしいと感じたのか。

それは、

たとえていえば、

人間が一本の木だとしたとき、

高次元は太陽のようなものだと思います。

明るくて、光り輝いていて、方向性をさししめしてくれます。

憂生自体はそれよりも、

一本の木が大地にたっていられるそもそもをおもったわけです。

根(魂)があるからこそ、木がいきていられるし

根がくされば、木がかれてしまいます。

太陽をみていれば、たしかに明るく、気持ちも上昇してきます。

ところが、

木の根のほうは、虫がくったり、根がからんだり、

栄養が不足したり、水がたらなかったりしたら、

どうでしょうか?

チャクラを開かせても

元の魂がひらくとこまで、いかないのは、

なにか、たりてないということでしょう。

仮にひらいても、

魂がきれいでなければ、

吹き上げられ、くるうことがあります。

これとおなじように、

根が活性しない状態では

太陽ばかりあびていたら、かれてしまうかもしれません。

こういうところが、

おそらくです。

高次元に関わる方のなかで、

マイナスエネルギーを生じさせているのではないのかと思っています。


オーラ・・その後

昨夜はオーラが薄紫色だったのであるが、頭上チャクラが異常に反応していたので、

何か【判っているが・・/笑】がきていて、その影響というか、それに反応する体制になっていたため、薄紫色になっていたのではないかと思っていた。

菫色(バイオレット)は可視光線の中で、最も高い周波数を持ち、と、書かれているように、

この光線?の周波でなにかをキャッチしていたものとおもわれる。

憂生自体は、時に応じて反応していくのが良いとおもっているので、

薄紫のままなのか?

と、気になったのと、頭上チャクラの反応がおさまったので、オーラもどうだろうかと気になった。

で、また、パソコン画面に指をかざし・・・。

薄紫はちっともでていない。

どうも、なにも発してないのかとやってみているうちに

真っ白であることにきがついた。

パソコン画面の白が少し黄色くみえるくらい白くすこし光った感じがする。

で、またも、みにいってきました。

■白い光線=純粋性
魂が完全なバランスを保っているとき、オーラの光線すべてが完全に調和のとれた白へと溶け込んでいきます、
白は純粋な光の色、純粋聖霊の色で、そこに溶け込んでいるあらゆる色の波動を高めます。
純粋意識の白色光は輝く純粋なエネルギーで、肉体面、精神面、霊的な面のすべての光を超越しています。
このオーラの色は高度な霊達成と進化を象徴しています。
オーラ・フィールド全体が白で満たされている人は本物の霊的指導者と言えるでしょう。
真珠の輝きを持つ白は、優しさ、温和、赦しをあらわします。
薄灰色は、魂が困難にめげることなく高みにある意識を理解しようと努めている状態です。

汚れた白は深刻な病気やドラッグの濫用を示しています。

**明るい白**
克己、ハイアー・セルフとの一体、師との調和、神の理解

**汚い白**
深刻な病気(死の直前に見られることが多い)、ドラッグによる人工的な刺激、心身の調和の欠如


ひょっとして・・

突然、オーラのことをかきだしたのには、理由がある。

何度かの体験ではっきりわかったことであるが・・・。

当初、幻惑状態というのか、くらくらするような、じと~~んとするような、しびれにちかいことが、おきていた。

この状態によくにているのが、憑依?であった。

それものちのち考えれば誰に憑依?されてるかわかっているので、

いわゆる、とり付くとかいうものでなく、こちらへ何かを伝えたいというものであったことが判っている。

この憑依?幻惑感?をかわきりに、何人かの人と対峙していると【ネットを通してだが】幻惑感におそわれることが多くなり、正直、気味が悪かった。

一般・・普通の人にもかんじたことがあったが、特に霊能力者とか、ヒーラーとかに感じるので、憂生の持論からいうと、一般の人も、何らかのものにとり付かれているのかと思った。

そうこうするうちに、以前にもかいたが、なんとなく、「魂」らしきものがわかる。

と、いうのがあり、たびかさなっていくうちに、幻惑感ののちに対峙する相手になにかつたえてくれということだとわかるようになってきて、

伝えてくれといってくる相手?霊?????については、およそ本人の口からその相手を語る事が多いので多分その人【霊?】だと思う。

そうこうするうちに、幻惑感だったものが、部分的なものにかわり、

一時期は額と頭のてっ辺だったりもしたが、最後の方では、頭の上にて、反応するようになってきたのだが、いつだったかも、友人としゃべっていたら、突如?

頭のてっ辺がしびれてきた。

そこで、思うままに話したら、本人の悩みにふれることだったらしく、最後にはすっきりしたといってくれたわけだけど、どうやら、友人の亡くなったおじいさんがきていたようで、友人を心配して、かけてあげたい言葉を憂生にはたらきかけたようである。

こんなことから、頭上が反応する時は「見えない世界」のものが交信?してくるようであるとわかり始めたのだが・・・・。ほぼこういう反応がおきることがなくなっていたし、こう言うESP的能力は良くないと思っている。

なんにもなしに、ふとしゃべったことが、いい話をきかせてもらってほっとした。

と、いう普通の状態であるべきだと思っている。

つまり憂生の考えや意思でしゃべってはいるものの、一種「お台さん」であるとも考えられる。

これは、憂生の嫌いなことである。

そんなこともあり、そんな風になにかにつかわれて?しまうようなのでなく、普通にしゃべって、普通にそうだんごとになって、普通にアドヴァイスする、普通の当たり前の人間でいいわけである。

だから、頭上が反応するなんてのは、ある意味封印しなきゃいけないことだと思ったところから、そういう頭上反応はなくなった・・・と思っていた。

ところが、今日あったんだ。

よくないなという思いもあった。

そこでなぜかふっと、オーラをみれるんじゃないかとパソコン画面に手をのばしたわけ。

それはおそらくであるが、菫色のオーラを持つヒーラーは、病気や鬱の人を自分ではその病気の感染する事無く助ける事が出来ます。
というところだと思う。

つまり、憂生をたとえにすれば、感染?(のりうつられて?)することなく、助ける事が出来るんだから、心配しなくて大丈夫ってことになるんじゃないのかな?

つまり、いわゆる一般的にいる「おがみやさん」とか「お台さん」ではなく、第六感覚が発達しているだけにすぎないのではと・・・。

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オーラの見方?

パソコン画面にふと、手をかざしてみた。

メール画面であったため、ほぼ画面は白。

ん?

オーラがみえる。

薄暗闇の中で手をじっとみつめてると、オーラが見えてくるというのを聴き、

ためすがめすやってみたが、だめだった。

以前、黒い紙だったとおもうが、紙の上に手を置いてみたときは

薄い黄緑にみえたようなきがしていた。

ところが、今回は薄い紫いろ。

で、例のごとく、調べてきた。


菫色の光線=【実際この文字に近い色です】神性の悟り
菫色(バイオレット)は可視光線の中で、最も高い周波数を持ち、非常に高尚な、霊的で宗教的な感情、思考、達成をあらわします。
青と赤、熱望と不屈の精神の組み合わせが菫色には混ざり合っています。
このオーラの色は進化した意識を示します。
初期のキリスト教会は菫色を贖罪の日々に使って、礼拝者の思いを世俗的な心配から天上の調和へ向上させようとしました。
精神性が強く、心身共に不屈で予知夢やお告げとなる場面を見ることが出来る人は菫色のオーラを持っています。
紫外線はバクテリアや寄生虫を殺すので、菫色のオーラを持つヒーラーは、病気や鬱の人を自分ではその病気の感染する事無く助ける事が出来ます。
菫色のオーラを持つ人には心臓や胃の疾患がよく見られます。(ココは、当たってるwww心臓・)

**明るい菫色**
神性の悟り、神とのつながり、一体となった意識、謙遜、インスピレーション、精神の自由、創造性に満ちた想像力、高いところでの霊的同調、〈気〉への感受性、霊的啓蒙

**濁った菫色**
狂信、宗教的熱狂、所有欲、放心状態、自己嫌悪、夢想、不信心、精神性への無自覚、地に足が付いていない、精神的不安定

http://ameblo.jp/moonankh/entry-10028125154.html

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1全揚程(TOTAL HEAD)

ポンプ能力のもつ意味

1)全揚程(TOTAL HEAD)

全揚程とは、ポンプが吸い上げる高さ、ポンプから押し上げる高さ、途中配管やバルブ等の抵抗を全て足したものを言い、mで表します。

昔、覚醒しかけたときがあって、

この時の感覚っていうのは、まあ、ゴクウがスーパーサイヤ人になるときみたいな

体のなかから、なにかが放出してくる感じだったんだけど、

途中で、ぴたりととまった。

あとで、

師に

「ふきあげてきたので、石をおいてふさいだ」

と、いわれたんだけど、

まあ、この抽象的な「いし」がなにをさすのかわからないんだけど、

じっさい、あのじてんで、

吹上がはじまったら、まちがいなくこっちがおかしくなった。

吹き上げというのは、

チャクラでいえば、第一チャクラから、頭上チャクラまで

グンダリーニが一気にあっがていくのとおなじ現象だろう。

この時、自己統制ができていないと、

根底チャクラのエネルギー解放によって、

欲望のコントロールがきかなくなる。

まあ、一連の殺傷事件も一種こういう仕組みだと思うけど

腹が立つという感情をもてば、それをなんとかしようとする、感情のままに欲を晴らすってことがおきるわけで、

こうかんがえると、通常のチャクラでなく、アグニといわれる、もうひとつの強大なチャクラがひらいてしまったのかもしれないな。

と、まあ、自己統制ができない状態で「吹き上げ」がおきると

自分の業や因縁や感情などなどに翻弄されてしまう。

で、師が石をおいて、ふきあげをとめてくれたんだけど、

それをしてくれることで、

吹き上げ孔の口径が広がるってことにつながり、

石が孔の中に落ちる頃には

勢いよく噴出することがなくなり、湧き水のように

こんこんとでてくるんだろう・・・。

まあ、先のスレッドのことをかきながら

かいちゃっていいのかな?

と、何度か自分にといなおした。

「ぜんよう」という言葉がうかんだ。

善用かな?とおもったんだけど、ちがうなとおもって、

しらべたら、ポンプの話があった。

ほかのブログでもちょっと、ポンプ関連の浮かびがいくつかあったので

これだとおもった。

とうぜん、憂生がこんこんと泉がわくような状態な人間なわけがない。

つまり、たしょうなり、吹き上げのキザシがでてきてしまったんだろうと

解釈することにした。

また、石をおかれちゃうのかな?/笑

たまに・・・

ひとつの仮説ですが、

憂生自体がはじめて、師にあったとき、

「こわがらなくていいよ」

と、いわれたのです。

本人はこわがってないのです。

おかしなことをいうなあ。と、おもっていたのですが、

おそらくですが、憂生の御霊が師の御霊をみて

恐ろしがってしまったのだとおもうのです。

ものすごい、光なのだろうとおもうわけです。

で、じぶんはといえば、汚れぼろけた状態だったとおもいます。

今まで、見たことも無い光をみて、

恐怖心をもったのでしょう。

たとえていえば、大きな光るUFOがそこにいる。

肝をつぶしますね。

それから、何年もたって、神道家が憂生の中に金色に光るものがいるといってくれたわけですが、

憂生自体わかることではないので、何かが入っていたのか、自分の御霊なのかわからないわけです。

で、仮説なのです。

なんらかの状態で、相手の御霊か、守護霊?とか、?こういうのが、

憂生をみて、もしかしたら、怖がってしまったのではないかと思うのです。

これは、メールが光ったときにもかんじたのです。

あと、もうふたつ・・。みっつ・・。

同じように感じたのです。

こわがっているというか、うかがっているというか・・。

これが、ひょっとして、

頭上チャクラのぐらぐら感かなあと。

用心させてしまってるのかもしれません。

それで、メールのときは無性に合掌したくなって

大丈夫だよと相手にみせたのでしょう。

とたんにつたえてくれ・・という念をおくってきたわけです。

いろいろ、不思議なことをかいていますが、

別段、憂生はなにかわかるわけでない、

みぬくわけでもありません。

たまに、変に(笑)なるだけです。


幸福論かもしれないな・・

さて、ちょっと、きになったことをかいてみます。

憂生がスピリチュアルをさけるようになった大きな原因というのが
どういうのかな、
そういうことをやっていると、
なにかにはいりこまれたような、
妙な幻惑感とか、
目の中になにかがとびこんできたような別視感覚とか
頭の上やおでこ辺りとかに妙な重圧感というかぼーとしたような膨張感がくるのが、
いやだからだったと思います。

こういうことを書き始めたころからそれがぶりかえしてきていて、
うっとうしいのですが、
これも、おそらくですが、原因はわかっています。

簡単にいうと、チャクラが活性化しているせいです。

それが、チャクラだとわかったのはあることからです。

ある女性と話していると、まあ、悩みごとというんでしょうかね。
そういう話になってきて・・・。
そのときに頭上がもやもやとあたたかいというか、
むずむずするというか、なにかをおしつけられたような?妙な感覚をあじわっていたのです。
彼女にいろいろアドヴァイスらしきものをしようとしながら
自分で迷うわけです。
こんなきついことをいっちゃいけないよなと迷うわけです。
すると、「いいから、いってやってくれ」という思いがはいってくるわけです。
そして、おもうままというか
ちょっと、浮かされたような感じでしゃべっていると
彼女が「おじいさんにいわれているようなきがする」
(だったかな・・・わすれてる・・)
と、いうのと、本当に心にひびいてくる。
つまり、言ってくれてよかった。みたいな・・
「いいから、いってやってくれ」のこたえというか・・・。
こういうことがあって、
頭の上がじんじんしたような、しびれるような状態のほうがきになって
頭上チャクラの項目をしらべたわけです。

この場所は異世界のものとの交流ができる場所ということだったのです。

なるほどと、納得したのですが
そういうチャクラで能力を開花?させるのはいやなのです。

なぜか?

これも、ある意味、つき物をつかせて物事をやるということに他ならないから。

その前に、憂生がチャクラを調べにいったきっかけがあって
そこは、まあちょっと今ややこしくなるので省きますが
調べたその中に
あれ?魂とおなじようなことがかいてある。
と、思ったわけです。

たとえば、根底チャクラが螺旋を描いて頭上まで上昇していくと
修行ができていないものは、けもののようになる。
とか・・・。

魂も螺旋をえがいて、背骨をつたって、上昇していくそうで・・・。
修養ができてないものが狂うのもおなじで・・。

このあたりから、
魂とチャクラの関係というか・・・。
チャクラは魂が磨かれ上昇していけば
自然と活性化するもので、
チャクラはいわゆる魂の昇降口というか、プラットホームのようなものなんだと思ったのです。

ところが、多くの人はその関係がわからず
チャクラだけを活性化させることをするわけです。

これは、まあ、いえば
果樹を育てたり盆栽をそだてるとかで例えれば
根を立派に育てず、薬で実をおおきくしたり
枝葉をどうにかしようとしているのによくにてるとおもうのです。

最後には根がだめになって木々はたおれてしまうのです。

ちょうど、そんなことのようにおもえて、
順番がちがうだろうとおもったわけです。

魂がみがかれて、人間的にも修養ができれば
勝手にチャクラは均衡を持ってひらかれるもの。

それをチャクラだけが先走りするのはよくない。

と、・・・・。
こういう風に思うのにも、決定的ないきさつがあるのです。
修養のたりていなかった人間(憂生)が
あることで、すこし魂が磨かれたとでもかんがえてください。
とたんに救われない先祖やら前世?やらがおしよせてきて
憂生をとりかこみついてくるという恐怖感があったわけです。
それで、すっかりノイローゼになり狂いかける一歩手前までいったのです。
この先祖がおしよせてくるという感覚も
詳しいことは、彼の魂が・・でかいているのですが
死んだ人間(本人は生きているつもり)の思いがはいってくるという事件のあとに
いろいろあって、妄想でもなんでもなく
実際に師にある方法でたすけられているわけです。

また、魂の上昇というか、吹き上げがおきてきたことがあり
自分でもまだ早いと一生懸命念じていたときにふっと吹上がとまって
師のところにいったら
憂生に吹上がはじまったから石をおいておいた。
と、いうのです。

吹き上げで魂が勝手に上昇してしまうのでしょうね。
たとえば、間欠泉のように、どっといっぺんに水をおしだしてしまう。
その勢いで魂が勝手に上昇してしまうのでしょう。
修養ができていない人間がそうなったら、たぶん、狂います。
そこで、師が石をおくことで吹き上げをとめ
石の隙間から水がもれだしやがてふちを浸食し
石がふちの中におちるほど、入り口がおおきくなったら
吹き上げはなくなるというか
こんこんと水があふれわきでるというかんじになって
吹き上げはなくなります。
つまり、間欠泉になるのは入り口(出口)が小さいからおきてしまうことなのだと思います。
そこで、石をおいた。
まあ、不思議なことですが・・・。
それで、又たすけられてるわけです。

そういうことがあったりもしたので、
自分ができていないのに
魂が上昇したり、チャクラをひらいてなどということは
とても危険だとおもっています。

そして、特に頭上チャクラ。
自分がうけいれられるキャパもあるでしょう。
それをこえた存在がはいってきたり
心に隙があれば、
いつか、みたスピリチュアラーのように
魂まで侵食されてしまう存在(なにかわかりません)にはいりこまれてしまう。
と、いうこともありえるわけです。

だから、
頭がじんじんしてしまう常態とか、
なにかがコンタクトしてきてる場合があるので
いやなのです。

こういうことがあって、
スピリチュアルからはなれたわけです。

警告というわけでもないのですが・・・
昨今、こういう危険性がわからず、
簡単にヒーラー(と、いうのかどうかもわからないのですが)になろうとか
チャクラを活性化させようとか
神秘的な力をつけようとか、そんなのをみていると
う~~~むとおもってしまうわけです。

人間としてよい人柄になれば
それでいいんだと思うのです。

先の記事にものせたように
「自分がしあわせになることで回りもしあわせにできるんだ」
と、いう
幸せ効果という余波をつくりだせれば
もう十分に人をたすけているといえるわけです。

それさえ、なかなかできない憂生が
チャクラがどうの
魂がどうのって
それこそ根を育てないで木をそだてているのとおなじ。

それじゃ、いつか、たおれてしまうでしょ?

「天」を考える・・1~6


「天」を考える・・1

歴史を齧ってみるのほうでも、とりあげた観念なんだけど、

「天という概念を認識しないと歴史はわかりにくい」

と、いうかんがえなんだけど・・・。

もちろん、これは、日本史であり、どちらかというと、

古代史のほうの考え方。

物語のほうで、聖徳太子の物語をかこうとして、

あまりにも、テーマがおおきすぎて、

ちょっと、保留中(かなり、長いこと保留中である)

で、歴史を齧ってみるの中でも、

スサノオが一番最初に天を意識した人間ではなかろうか?

って、観点で物をかいているんだけど、

物語は

『天という概念』を意識したればこそ、「和」の精神をもったのが、

スサノオであり、

大国主命であり

聖徳太子が「和を以って尊し」と考えたのもそこからで、

この考えがあったからこそ、

仏教を推したのではないかという、

通常の逆をいく考えで、

日本には古来から「和」の考えがあり、

この和の考えをもたらせたのが、

スサノオであり、

いわゆる、神話の高天原追放により

スサノオが「天」を意識するしかなくなった。

と、いうような設定が下にあり、

何故に、天をいしきしていったかという考えを自分の中で

構築したうえで、

聖徳太子が「和」を考えるに至った思いをさぐってみようという。

こういう事をおもうようになったのは、

一つには

今につながる、「天」への概念。

日本人の中に

いわゆる宗教のように経典や文字にするわけでないので、

「概念」としての存在というのは、非常に判りにくい。

それでも、今に伝わる

「天は我らをみはなしたか」(八甲田山死の彷徨)

とか、

「人事を尽くして天命を待つ」

とか

「至誠通天」

とか

「天網、かいかい(変換せん)疎にしてもらさず」

そして、これらをしっかり認識させたのが、

南州公の

「敬天愛仁」だったわけで、

これも、ひとつに

憂生が明治維新の頃が好きで

その頃の志士の「志・思い」に非常に興味があったせいもある。

そこで、後にであった「敬天愛仁」という言葉が憂生の中で

深くマークされたと思う。

南州公の考えや感情や行動を

分析したともいえる司馬遼太郎の作品をよんでみても、

南州公の意識の中に「天」があるのがみえていたわけであるが

さらに追い討ちをかけたのが

やはり司馬遼太郎の随筆の中にあった

「のさり」という言葉だった。

さて、「のさり」という言葉ですが、

簡単にいうと

「天の思惑」という言葉が当てはまると思います。

この観念は

ひとつに、日本人のもつ、自然崇拝。

八百万の神の存在ということに通じてきます。

鬼のところでも、かきましたが、

日本の神への観念は自然崇拝(水の中に神が居る・・的アニミズムともいえるとおもいます)ですので、

自然自体が、正邪の両面をもっていて、(水にたとえれば洪水になったり、生活水になったり)

これに対して、日本人は「神」に二面性があると了解したわけです。

そして、この二面性を了承したことにより、

「自分の心次第」だという観念を形成します。

洪水がおきれば、心の持ちようが悪かった。

と、いうふうにかんがえ、

「天の思惑」を感じ取れるように考えてきたわけです。

この観念が「のさり」ということになると思います。

原爆をのさりと考えた日本人でもあるわけですが、

この日本古来から伝わってきている観念が

丁度、キリスト教の「神の試練」とか「神の意志」とかいう

ロゴスにおきかえられ、系統づけられてきたことで、

「のさり」という思考観念が

キリスト教に取って代わられてうけとめられるのですが、

これも、前述した

和の精神が仏教からという考えになった経緯によくにています。

ロゴスあるいは、文字として、意識する文化というのが、

いまいち、日本には育たず、

落語なども、口伝で伝えておしえていく。

技術者も一子相伝みたいにして、

口でなく、体得や口伝でおしえていったという

「心と体」にしみこませるというのが

日本人の得意技になっていると思います。

このため、多くに公開する布教活動や文字により、

「意識化」出来た部分に注目し、

「意識化」させたものを尊敬するという、刷り込み現象がおき、

元々、日本人が「観念」として、もっていたから、

それらをすんなり受け入れたということに気がつかずにいるから、

逆に物まね猿、イエローモンキーという称号をおくられたことになったわけです。

そこで、原初的に存在している「天への概念」をもうすこし、

つきつめて、かんがえてみたくなったわけです。

この話をはじめから、スピリチュアルに分類してかいているのですが

あることを語ろうと思うときに

やはり、憂生の不思議部分から、得たことが必須になってくるので、

そういう分類にいれたわけです。

まず、そのことを語ろうとする時に

以前、友人の亡くなった父親を神頼み根性で

天からひきずりおとし、

その父親が憂生の胸の中にはいっている。

と、師から知らされ

「この国大事。日本を思え」

と、いう思いが何度も憂生に伝えられた理由がわかった。

という事を書いたと思うのです。

死んでもそういう風に国を思うわけですから、

憂生の好きな明治維新の志士たちも

天にのぼり、国をおもっているのだろうか?

と、かんがえていました。

そして、友人の父親は元通り天にかえったのですが、

ある日

「おんしゃあ、~~~~しちゅ~きに」

と、いう思いがはいってきたわけです。

土佐弁、高知弁ですよね。

こういう言葉を使う知り合いは憂生にはいません。

思い当たる唯一の人物は坂本竜馬です。

でも、まさか、坂本竜馬、本人とは思いません。

邪霊でも、「神」の名を語るということはあるわけです。

もちろん、

「~~じゃきに~~」と思わせてくるものは

自分で名前をなのりませんし、

憂生もききません。

きいても、本当かどうか、さにわできない人間がきいても

むだでしょう。

だから、ぼんやりと、

「坂本竜馬だったのかなあ?」

と、かんがえていたのです。

それから、2,3日たった日のことです。

2,3日後、師の元へ赴いた時です。

こちらが、考えていたこと、思っていたことなど、

見透かしてしまう方ですので、

「役にたつ」ということは、どういうことかという話をされたときに、

憂生が具体的に考えていたことを口にだされました。

マッチはエコなどの考え方から、プラスチックをださないから

こっちのほうが本当の意味で役にたつなあ。

なんてことを数日前におもっていたわけですが、

このあたりも、ファンヒーターも電気がなければ役にたたない。

という観点で、それ自体で燃焼するものが役にたつという考え方をしていたわけです。

そこをいう。

「憂生が考える、マッチとか、ライターとかこういう役にたつということじゃない」

こういう師の見通すというところは、わかっていたことなので、

これは、驚くことではないのですが、

次に言われたことに、びっくりしたわけです。

「坂本竜馬は「役」にたったんだ」

と、いわれ、あ?じゃあ、やっぱり、天に居るんだ?

みたいに思ったわけです。

ところが、

「坂本竜馬は「天の役」にたった。天に使われた人だ」

と、いうわけです。

ここで、おかしいなあ。と、思ったわけです。

天から使命(天命)を受けた人じゃなくて、

天の道具にされたということです。

これ、どういうことでしょうか?

「天の役にたった人間でも、あの殺され方だ」

ますます、判らなくなり、

憂生はこの問題を最近まで保留にしていたわけです。

このことを考えるときに、今の時代ですから、

憂生が思った通りをいうと、

よくないのではないかという思いがしていますし、

何度も、「止め」がはいっています。

実際、読んではいませんが、

有名の宗教家が竜馬降臨という本をだしています。

この降臨という言葉を使う以上

その人にとって、「神」的存在として認識されているということでしょう。

降霊でもなく、交霊でもないわけです。

と、いうことは、彼の信者からみれば、

これから、憂生が語ろうとすることは

竜馬を「神」とうけとめてしまう宗教家ということにつながり、

これは、憂生の日記の中でかいた

ある女性のなくなった彼氏の存在をみた

霊能力者(じゃ、ないのですが)は、

@男の人がいるよ。霊がいるよ。

とみえ、

神道家には

@餓鬼がいる

とみえた。

と、言う逆転視覚がしょうじるわけです。

同じものをみて、

片一方は「神」だと思い

同じものをみて

片一方は「天の道具」だというわけです。

これが、両方とも真実であれば

「神」=「天の道具」です。

すると、ここで、極端ないいかたですが、

大きな精神改革をするか、

宗教戦争?になるか、と、いうことになってしまいます。

そして、実にいやな言い方ですが

天の道具である神ならば、

道具としてつかえる「天」のほうが、

位がうえです。

つまるところ、宗教家のとらえるレベルが

道具であるものを「神」ととらえてるということになるわけです。

これをはっきりいったら、まずいでしょ/笑

ですので、憂生が問題にしていることは

もちろん、こんなことでなく

「自分」がなにをみさだめたいかを書く。

だけなのですが、

この話に行く前に

上に書いたことを深読みして

侮辱されたの

おまえこそ、低レベルだの?

まあ、こういう話にうけとめられたら、

これ以上はかけなくなるわけです。

これを読んだひとが気分をがいするために

かいているのではなく、

これから、書こうとすることを

必要な人が読んで欲しい。

と、おもっているわけです。

ですから、

憂生は必要な人が読みにきてくれるだろうという考えのところで、

あえて、ベタはつけません。

自分から呼び込んで「読め」「よんでくれ」はしないわけです。

ショーペンハウエルじゃないけど、

必要な本は絶妙なタイミングで必要な人の前にあらわれる。

って、考え方に近いです。

きっと、必要な人の前にあらわれてくれるだろうと憂生はおもっています。

ですから、例えばそれが、1人であっても0人であってもいいわけです。

本当に必要であれば、それでいい。

ですから、相手の人にとって、必要か必要でないかが、見通せるわけもない憂生であり、ましてや、誤解してしまう人だってきてしまうだろうと考える憂生にとっては、

「きてください」「よんでください」とは、いえないわけです。

自分にとっては、「良い考え方」であっても読む人にとって、気分を害するものであるなら、その人にとっては、不必要なものです。

そして、憂生はこの「気分を害した」というのが、身体にびんびん響く人間なのです。

人の怒りとか、くそ~~とかいう思いをうけてしまうのです。

それをわかっていて、あえて、書くときもあるわけで、

ある意味、必死なわけです。

嫌な思いをかけられから、やめておこうという

そういう自分かわいいの思いだったら、書けない。書かない。

このところをご理解のうえ

枝葉部分だけで、判断せずに読んで欲しいと思うわけです。

もちろん、基本は自分を見つめなおすためです。

そこのところで、自分をさらけだして、

「考え」をペトリサラに載せる作業をやっています。

ながくなったので、スレッドを変えます。

「天」を考える・・5を書いて、最後の方で

「わかった」という言葉がはいってきました。

そして、「もう、思いを変えるな」とつづきました。

これは、おそらくですが、

「とめる」ものの思いをかえてまで、物をやるなということだとおもいます。

その途端、「死ね」って思いがとびこんでくる。

それをはたきおとすかんじがします。

これは、「とめたもの」が「許した以上」憂生をまもりにはいっていることを

明かしたと思います。

そして、このことを書き始めると

左の背中の肩甲骨になにかがのります。

その「なにか」の持ち主?に読ませたいことがあるんだと

憂生は受け止めています。

前置きが長くなりました。

竜馬は天の道具である。

天の役に立ったのになんで、そんなむごい殺され方をしたか。

ある志士は天にいます。

その考え方こそが天の思惑に叶ったものだからでしょう。

竜馬が、天にいるか、どうか、わかりません。

判るのは竜馬が天の役にたったということと、道具だったということです。

で、あるのに、なぜ、ころされてしまったのでしょう?

役目がおわったからだけでは無いと思うのです。

役目が終わった先の志士は天に掬い上げられ天に居ます。

この人のことを「道具」とはいいません。

そこで、司馬遼太郎の分析を考え直します。

竜馬が生きていたら貿易会社をつくっただろう。

こういう言葉があります。

これをもっと、深読みします。

竜馬は貿易会社のために、日本をよくしたかった。

薩長であらそわせたり、公武でもめたりしていたら、

世界と対等に貿易を扱える国になるどころか、

植民地にされかねない。

竜馬の考えの中に、単純に仲良くすりゃあいいじゃないか。

と、言うものがあったと思います。

そして、そういう信念があるからこそ、ものをいえるし

その言葉が通じ、動いていく(本物)を持っていたと思います。

天は日本の国を思う。

これは先にかいたことでも判るように

友人の父が国を思うひとだったから、

天にいたわけです。

そういう人を居させる天自らが

その思いを「良し」としているわけです。

つまり、天こそが日本の国を思っている。

その国を一つにまとめる人材が坂本竜馬だったわけです。

ところが、先に書いたように、あるいは憂生が何度も書いてる言い方で言えば

竜馬は世界貿易をという「ご利益」をもとめて、

国をひとつにまとめたかった。

ここが、道具にされた理由です。

天の思惑「国が大事」という思いからはずれ、

自分のために国をまとめたかった。

天はこういう考えのものを掬い取らない。

竜馬のもつ才能を「日本の先」のために使うことはします。

おそらく、加勢したでしょう。

だから、無血開城なんてことにもむすびついていく。

でも、天というのは、厳しいものです。

そこらの神さまみたいに

「ご利益」めあてでも願いをかなえてやるなんてことはしません。

天が必要なのは「誠」

この天に集まった「誠」の思いが

日本を導いていく元の思いです。

だから、竜馬の「思い」をみさだめている天は

道具としかつかえない。

そのまま、無事安泰にいかしておいたら、

竜馬は

「貿易のため」に「国を貶め」

そんな人間として

あるいは、地獄におちたかもしれません。

そう考えると

「世界貿易」に成功させてやることよりも

これ以上

「国をおとしめる思いをまかりとおらせない」

ことで、

かつ、天の役にたった。

までで、人間としての命をとじさせることこそが、

天の「愛」だったと思うわけです。

憂生はこれを書いている時に思っていたことは

「神」をつかって、「人助け」をして「金儲け」をしている人間が

気になってしかたがありませんでした。

あるいは、「人助け」をしていると考えている人がきになりました。

それが、実はこの竜馬のように

天の道具ならまだしも

「神につかいまわされ」

神の道具にされているのなら、

考え物だと思うわけです。

神も天がつくったもの。

天こそ創造の基。

この言葉がしんじられるなら、

憂生がいう

神よりも尊いものが自分の魂であり

竜馬のたとえでいえば

神に魂をうるようなまねをしていたら、

魂の思惑とはずれるということ。

魂は親のようなものといいましたが、

魂こそ自分の中の天なのです。

だから、死んだら魂は天に帰る。

と、いいます。

ですが、人間の身欲で

帰れない魂をつくってしまう。

神様も一つの魂ですから・・。

人間の魂が帰れる場所でもないのは、自明のことです。

続きを読む

盲。蛇に怖じれないだけ・・

あとで、話そうといいながら、

どっかに行ってしまいかけた、続き。

どうも、今、憂生はチャクラが開いてる感覚を味わう。

頭と額と目に妙なじんわりした痺れ?電気?のようなものが

発生している。

もちろん、こんなものを開く、なんちゃか、こうちゃかという

セミナーとか、修行道場?とか、いったことはない。

以前にも書いたけど

自分の思いを良くして行けば、

そんなものは、勝手に開くと考えていた。

で、仮にこれが開いたところで

じゃあ、「自分の思いがよくなってる結果」か?

と、言われれば、そうだといえるところもあるが、

じゃあ、今「良い思い方してるか?」

って、尋ねられたら

「うんにゃ」って、答えられる。

どうも、頭の上のチャクラは

汪輪のようで、

解説に寄ると7界のことがわかる?とか・・。

これは、無理だ。

本人が7界も信じていない。

ただ、今までは普通に判った事が

はっきり、じ~~んとして判る。

正直、嫌な気分がする。

もっと言えば、以前は全体に幻惑感だったことが、

頭に集中してきた感じがする。

そして、自分でこうやって書いていても

ぴりぴりした電気みたいなものが起きる。

これ・・・

どうなっちまうんだろう?

正直、チャクラでなく、

チャクラの場所に何かが憑依?しているんじゃないかと

不安になる。

どうにか、ならんのだろうか?

で、まあ、(霊とか神とか?が)見えないには見えないわけ。

見えない人間じゃないと発達しない部分がある。

簡単にいうと、見える人間はその対象をみる。

見えない人間は自分の内側を見る。

(必ずしもではないが)

例えば神がみえたら、それを信じてしまう。

見えない人間は自分を頼る。

なにか、神みたいな風に感じるが本当だろうか?

いやいや、自分を見てみろ。

神がくるわけねえじゃん。

ある意味、見た目に振られない。

こういう憂生だから、かなり不思議な事件に遭遇しているわりに、

みたのは、

ふゆの夕暮れに飛ぶ白いこうもり(友人は人魂だという)

仏壇の前にこっち向きに座っている5人の男女(5番目の脊椎にいた先祖だとか)

この2回だけだったと思う。

後は全部、感じ・・思いが入ってくる感じ・声で聞こえるんじゃなくて響く?

なんとなく予感・夢・なんとなくわかる

こんなんだから、逆に、それにふられにくい。

で、感じでものをやるから、自分でもほんとうかよ?

って、思う。

だけど、人の生き死にがかかっていることを思わされた時などは

1~2時間死ぬな・生きろって、念じながら

それでも、ほんとうなんだろうか?っておもわないわけじゃなかった。

まあ、いい。だまされたなら、それで、笑い話だと思って

念じつづけていたら、そのうち本当だったって事がわかったわけなんだけど・・。

まあ、言い方をかえれば主体的に振られるってことをやる。

こういう意味でも、見えないことで鍛えられたものがあると思う。

単純に見えて念じたら

これは場合によっては見せてくるものにとりつかれる可能性がある。

いつまでも神の使いをやっておわってしまう可能性もある。

ここで、1クッションおいて、

自分の意志で念じたら、自分に使われてるだけ。

この違いが生じたかな。


引き続き、位相空間のことを・・。

この違いをいくつか、あげてみたいと思う。

物理的位相で、

例えば幽霊がみえるとか、家の中に霊道があるという人が居る。

霊界と現実という世界観におもうんだけど、

数学的位相でみると、

自分の精神世界の中に霊(思い)が入り込んでいる。

現実空間に霊界がはいりこんでいる。

外で見える事がうちで起きている現象の証明かな。

で、実際彼女は閉所恐怖症かなにか?

対人恐怖症?かなにかになっているわけだけど、

本人のうわっかわは元々幽霊とか見える人なので

現実世界の物理現象として、幽霊が見える。

と、だけ、捉えている。

ところが、彼女の魂とか精神は

そういう風に、ほかのものにはいりこまれて、

魂のほうがすっかり、ぼろぼろ(表面だけど)になっているわけで、

魂のほうにすれば、

「恐怖」な状態になるわけ。

その魂の思いが彼女につたわると

「恐怖症」という症状になる。

こう言う風に、

物理的位相空間で理解するのでなく

数学的位相空間で解明しないと

根本的な解決がしにくい。

だから、人をみたり、目の前に起きる現象を

「わが事」として、とらえていけという言葉があるわけだ。

多分、彼女は今、なんとなく、このことを理解し始めたんだと思う。

だから、以前は

「魂(御霊)を意識しろ」と、いっていたものが、

今度は憂生のうしろにたって、

こう言うことなんだよと

彼女の思い?(きずき?)への証明をしている。

彼女自身、かなり、高い次元の御霊のようで、

なにかしら、「やらなきゃいけない」事があるようなんだけど、

そこに気がつかず、かなり狭苦しいことを追いかけている。

自分のシュミを磨きたいってとこなんだろうけど、

これは、はっきりいって、前世の差配。

彼女自体もそういう思いになって、そこそこのところまで、ものをやるから、

前世の差配がかなり大きくなっている。

でも、本来、魂の次元でやるべきことじゃない世界にはいっているので、

これも、

魂が前世に差配されつくすことを恐れている。

これが、例えば閉所恐怖症、喘息の発作(息苦しさ・・・生き苦しさ)として、

本人の症状に現れる。

で、じゃあ、。魂本来の生き方はどういうことか?

と、言われると、本人が魂をいしきしていくことによって、

導かれていくということしか、

憂生には判らない。


続きを読む

前世がはまっているスピリチュアラーがいたけど、

どうなってしまったんだろう。

どうも、今、アカシックレコードとか、前世を知るとかってのがあるんだけど、

これは、現世に当然影響をおよぼすもので、

もっと、いえば、魂と血の因縁を納所する。

ところが、前世がそのまま、はまってしまう人が居る。

はまるのは結構。

だが、その前世は、「やりのこしたこと」をさせるために

はまってくる。

その前世のやりのこしたこと、遺恨を晴らすためだけでは

自分の現世の生き方ではないんじゃないかって?憂生は思ってる。

前世の「やりのこしたこと」を、何らかの形でクリアする。

って、事が必要なんだと思っている。

実際、憂生も自分の前世がなにか、わからないけど

例えば「悲観するくせ」なんかは、

前世のくせみたいなきがする。

いや、ほかのせいにしちゃいけないけど、

その「悲観くせ」をクリアしていったら、

例えば、自分本来の「度胸ある楽観くせ」つ~のが、もどってくるかもしれない/笑


甲殻類(こうかくるい)・頭上チャクラのしびれの原因

頭上チャクラのしびれの原因はなんじゃときいてみたら、

わらじむし・・・って、こたえられた。

わらじむし?

って、おもってたら

「*んたま漱ぎ」って、いう。

おちょくられてるのかもしれないとおもいながら、

わらじむしとすすぎをぐぐってきた/笑

結果、わからない。

で、まあ、たぶん、外面上のことと、内面のことをいうんだろうと

しらべること暫時。

わらじむしというのは、土壌生物として繁栄しており、一般に土壌中のバイオマス としては上位を占め、しばしば優占する

ということだろう。

つまり、チャクラのしびれはバイオマス効果?かなにかで、

なにかを浄化している?ことによる、例えば毒素をとりのぞくとかで、

その毒素が反応してる????

で、

「*んたますすぎ」

なんちゅ~~すけべな言葉だとおもいながら、

まじめにとりくむ。

まあ、いわゆる、精子嚢なわけだから、

ここから、「生命力?」が発散される。

その生命力にかげり?があればゆすがなきゃいけまい。

ぴかぴかの生命力つ~~とこだろう。

などと、おもいながら、

寄生種がいるというところに、どきり?

宇宙人がウオーク・インしてくるというはなしがあるが、

この宇宙人の種類のひとつが、いかにも、甲殻類の特徴を持っている。

  • 口には1対の大顎、2対の小顎の3対の口器があり、往々にして胸部の前方の附属肢が顎脚として口器に参加する。
  • 胸部の付属肢は歩行用および遊泳用に使われ、外肢や副肢は退化したり鰓になっていることがある。
  • 腹部の付属肢はエビ亜綱以外では退化している場合が多い。腹部末端の尾節には尾肢あるいは尾叉などと称する付属肢起源の構造があることが多い。
  • 幼生は2対の触角と口器を持つノープリウス 幼生で、変態 を行って成体になる。より発生 の進んだ形で孵化するものや、成体に近い姿で生まれるものもある

    う~~ん、まあいえば、プレデタータイプの宇宙人を髣髴し

    こいつが接触してきてるとするのなら、

    憂生側に接触される理由。

    (たとえば、怒りっぽい宇宙人なら、憂生のほうの性格をみつめなおす)

    別に対象はなんでもよい。

    神様だろうが、ゾンビだろうが、人間だろうが、友人だろうが

    接触される憂生の「鈎」部分を考える。


    宇宙人が居る、居ない。などもどうでもよい。


    さて、プレデターがたの宇宙人をしらべてくるか~~~~。


    接触されてるのは、わかってるんだけど、

    憂生の解読器?のほうが、

    「解読不能」

    場合によっては、

    「接触不能」で、コンタクトをきるときもあるようである。


    まあ、そういう状態のものと接触する必要があるかどうかは、

    憂生はわからないので、(成るに)お任せ状態である。


続きを読む

位相空間・・3

もう、2~3人、この物理位相と数学位相の違いがわかっていないひとがいるみたいなんだけど、

この人たちは、自分できがついていかなきゃいけない次元にいるみたいなので、

憂生がたとえとして、

本人の事例をかこうとしたら、

先の話になってしまったん。

憂生のいう事を半信半疑と、きになるな~~という思いで

読んでいらっしゃるようなんだけど、

自分の事例そのものを異世界のこととして

とらえるのでなく、

自分の内面(魂・精神世界)の事象で

とらえなおすと、これはどういうことなんだろうと、

考えてみて欲しいのです。

憂生はいきがかりという言い方をします。

行きがかり上、気になるとかね。

でも、これは、息かかる。

なのです。

息・・自(緒の頭・・意味は、?)の心に、かかる(気にかかる)

自分が息をかけたから、気にかかる。

かけた息がその人の息(域)(行き)になっているか、どうか、気にかかる。

こういう仕組みなので、

憂生は自分がなにか、思いや言葉をかけたひとは、

いきがかり上きになるのです。

だから、ずっと、みてますし、

そちらからも、きます。

きているということを

いうために、ここにかいただけなのですが、

とにかく、いらっしゃるのは、けっこうですが、

ここにかいたことを、

自身のこころえにおとしてくださるとよろしいです。


さらい。2. 


良人の狂気に

たじろがなかった。

それは、憂生が狂いかけたことがあるせい。

と、かいたが、

もうひとつ、前があった。

15,6の頃である。

憂生は一種の憑依現象に落ちた。

狂った言動。

自動書記。

他の人物の介入。

親父はそんな、憂生に

ひとこと、

つぶやいた。

「こまったもんだなあ」

これをまにうけ、

憂生に憑依したものと

喋ると、

狂った人間が表に立つ。

「殺す」

なぞと言い出すのである。

ところが、

親父が困っているのを、

みると、

憂生のなかから、

また、別の者がでてくる。

そして、

「近くの神社に金をわたしなさい」

と、いいだすのである。

親父はしばらく、憂生をみていたが、

「どこにいけばいいか、案内しなさい。

いくら、わたせばいい?」

憂生は1万円ほどの金額をいい、

親父を

近くの神社に連れて行った。

そして、

親父は憂生に指図されるまま、

神社の中に金を落とし込んだ。

不思議なものである。

そのときなのだ。

憂生は正気に戻ったのである。

なにを、馬鹿みたいなものに自分をうばわれて、

親父をこんな馬鹿な眼に、

あわせている?

憂生のために、親父は・・。

憂生の言動を信じ、

なんで、親父まで、こんな惨めなことさせなきゃ、いけない?

憂生。あほちゃうんか?

こう思った。

自分を取り戻したのである。

このことが、憂生の中に残っていたのである。

もし、親父が、

憂生を、しんじなかったら、

なにを、ばかいってると、否定したら、

憂生はどうなっていただろうか?

憂生は己をさげて、

馬鹿事にてっしてくれた親父に救われたのである。

相変わらず、うまくいえないが、

こういう、経験が

良人の狂いの時に

役に立ったと思っている。

親父は、

ありがたい人であったと、今も思う。


*こういう親父がいたおかげで
憂生は、まずはきださせるというか、心の内にあることをはきだしてもらうために
否定せず、うけとめていくということの大切さというか
(もう、このさい、すごさというか・・)
重要性にきがつかされたといっていい。

そして、はきだしていけば、ふと、平常心にかえったり
冷静さ・客観視がなりたってくるし
人の意見も耳に入る。
胸に思いが詰まっている状態では
いわば、満腹状態で人の話などはいるすきまがない。


だから、話すということはとても大事な事だと思っている。


過去、あめさんがとざした世界にいて
それが、憂生のブロー・ザ・ウィンドをよんだのがきっかけで
心をひらきはじめ、
「話」をしはじめた。


憂生はそのことを非常に喜んだ。


それは、上にかいたように
憂生が「話す、吐き出すこと」の重要性を
身をもって体験していたから。


こういう意味でもありがたい親父がいたおかげで
気が付けた物事だったと思う。

物思い

相変わらず、頭の上がじわじわしている。

このあたりは、あまりこだわることではないと思うのだけど、
過去の憂生のパターンで考えると
異世界の住人がコンタクトしてきているとしか、思えない。

どこが、最初だったか、わすれたけど、
最初は幻惑感というような感じだった。
そして、その幻惑感をもたらしてくる相手と話しているとき
じつは、憂生がきがつくべき、結論を話すことになった。

前にも書いたことだけど・・・。
彼女がブログに来てくれるたび、幻惑感がおきてきて、
彼女の迷いを聞くことになった。
その迷いというのが簡単に言えば、霊能力を封印したのだけど
取り戻したほうがいいのだろうか?
と、いうことだった。

それに対して、憂生が応えたのは
「霊能力というのは、自分の力でなく、霊がとりついて
霊が自分の能力を出してきてるということ」
それは、御霊本来の能力でなく
霊が御霊の表面に穴を掘って住んで
いわば、寄生している状態だから、
霊の力を使っていけば御霊が侵食されてしまうよ。
と。
つまり、寄生虫が宿主の身体から栄養分をとって、
成長して、最後には宿主がぼろぼろになってしまう。
そのことを話して、
貴方は自分の御霊にお詫びしなさい。
自分がそれがあったらいいとか、自分の欲などで
わざわざ、封印したのに、再び寄生虫をくっつけようとしたことは、
御霊を粗末に扱ったということだ。
と。
彼女はその夜。
ものすごい腹のいたみをおぼえ、さらに経験したことのないような
激しい下痢になったそうだ。
これも、通常でいえば汚れがとれていく過程なのだけど、
説明するまでもなく、彼女はそれを理解していた。

つまり、憂生もまた、奇妙な能力があるのだけど、
もっと、はっきりとすごい能力の人をみていたため、
それが、うらやましいせいもあって
自分の能力が霊からのものか
御霊からのものか、わからずにいた。

当然のことながら、
すごい人達というのは、
相手、自分の御霊と話せる。
(守護霊とかを介するのでなく)
今の覚醒者ができるとされることはすべてできる。

いきなり?こういう人達をまのあたりにしたり、
しらされたりして
簡単にいうと、憂生の御霊も共振?したのだろう。

いっそう、変な力がでてきて、
それがゆえに、修行?修養もできていないから、
異世界のものがはいってきても、
誰かもわからない。
はてには、変なものをくっつけてしまう。

で、なおさら、自分でその力にまどわされて、
修養・修行(思いを磨いていく)などせず
誰かわからないのに、その力をみとめてしまい、
もっと、はっきりわかったらいいのにとか・・・

まったく、彼女とおなじ状態といってよい。
そして、彼女の姿をした憂生にかけた言葉が
実は憂生にかけた言葉であったのだろうと思う。

つまり、たとえ、憂生が実際は御霊とある程度、意思の疎通ができていたとしても、
間違いなく、御霊からだとか、
どころでなく、
憂生=御霊そのものではないわけで、
こんな状態では、違うものがきても、わからないわけで、
まだまだなところを放置して
御霊と話せるようになれたらいいな。だったはずが
アンナ能力いいなあみたいになって
同じ人間をみせにきたと思えた。

次にあったのが、
メールを開いたら白く光ったという話で、
その方は霊道が通って居る場所にすんでるらしく
おじいさんの霊らしきものがきてる。ということで、
話をしていたのだけど
メールが光ったので
あ、誰かきている。と、思ってみていると
みえないけどwww
無性に手を合わせたくなる。
正直、わからないものを拝む?というのはいやでしかたがなかったのだけど、
無性にそうせよとおもわされるので、手をあわせたところ
メールの相手に伝えてほしいことがある。
と、いう感じがする。
何をつたえていいのやら、と、思っていると
「お前のおもうままかけばいい」
と・・・(感じる)
で、かいていくと、途中で
「もういい、そこまでかけばわかる」
と、感じるので
メールを送信した。

そのメールの内容というのは、
はっきり、おぼえていないのだけど
今、たぶん、貴方のおじいさんがきていて、
貴方の状態を心配している。
(その人の御霊を手に受けたとき、白くずっしりしていたけど、表面ががさがさにかわいていた)
貴方の魂が潤いをなくしている。
それは、水分がたりていないということで、
水分というのは、簡単にいうと、「情」で、
どういう情かというと、
貴方が自分のことばかり考えて
どうしたい、こうしたいということばかりの欲になっているけど
それをさせてくれている、生かしてくれている魂【御霊】に対して情をかけていない。
とか・・・そんなことをいったようなきがする。

すると、その人からの返事が
「もっと、御霊を意識しなさいということですね」
と、かえってきた。

つまり、ここでも、憂生は自分のことを見せられたということだった。

立て続けに起こったことで、まだ、御霊と向かい合う。と、いうことを
軸にして、
自分の状態をしっていくという気持ちがおろそかになっていたと思う。

その後も、幻惑感が頭上の痺れになり、
このあとは、しびれているときに
はっきり他の霊?からのコンタクト
伝えてほしいことが、あるのがわかり、
おなじように、いいからいってやってくれとか
つたえられて、話をすることがあった。

まあ、そんなことがかさなったせいもあって、
おそらく、もう少し次元の高い?ものがなにか、つたえてほしいことがあって
(最終的には、憂生につたえたいのだろうけど)
コンタクトしてきているんだと思うんだけど・・・。

残念なことに、
それは、できないと思わされる。

つまり、上のたとえでいえば、
そのコンタクトの主の思いは別の人にあるわけで
根拠は憂生にはなにひとつないけど
おそらく、その相手は
自分の御霊とつながっていない。
御霊を中心軸にしていない。

だから、憂生のところにきてしまう。
(この間、あたまのじわーんがきえて、つめたくなってしまう)

ふむ。

と、いうことはまたも、憂生は自分の御霊を中心軸にして
物を考え、思い、行動してないってことか。

ごめんなさい。
(で、頭のじわーんが戻る)

と、いうことは???

これは、じわーんは憂生の御霊さんか・・・

ありがと。

自覚

「あなたが私をどう扱うかがあなたのカルマをつくり、私があなたにどう対応するかが私のカルマをつくる」 

相変わらず、頭のてっぺんが、ぼわ~~としていて
しんどい。

しんどいといいつつ、今日は外へ・・・。
ドライブといっていいだろうかwww
オーナーの車ででかけるものの
微妙な不安がおきてきてしかたがない。

まず、それなりの腕をもっている人なので
コースアウトするとか、ないのだけど
スピードがあがってくると、
どうにも、恐怖心?がわきあがってくる。

ここで、一生懸命自分をなだめる。
そんなに信用しないのが、間違いだろう。
とか
それで、死んだら死んだでしかたないじゃんか(おおげさ?)
とか

ドライブしているのか、
精神力ためされてるのか?
さっぱり、わからない状態でいる。

そのうち、それは、やっぱし、怖いという思いを
なんとか、ごまかそうとしているだけで
怖いなら怖いとおもえばよかろうと。
ま、怖いと・・・思ってみたwwww

なぜ、怖いのだろうという思いがよぎる。
人によっては、
たとえばバンジーをたのしんだりまでするんだから
・・・・
と、思うところに、
ふと、よぎったのがある。

実は憂生は同乗者で、一回、事故ってることがある。
車は半回転して、バック走行状態で走り、
2m下の溝につっこんで、とまった。

そのとき、なにもかんがえることはなく
むろん、どうなってるかということもしらず
(先に書いたのは後からわかったこと)
なにか、一瞬の空白がおき
「死んだ」と思った。
死んだと思ったのは車が溝に落ちて
運転手をみて、
あ、生きてる(運転手が)と思い、生きてる、生きてると口に出したことで
逆に「死んだ」と思ったことを鮮明に思い出させていた。
そのあと、車を自動車やにあずけて
隣町まで映画をみにいった。というつわものでwww
その夜中、ぐっすりねむりこんで、
朝、まともにおきれなかった。
これといった身体の異常もなく
朝、運転手のほうから連絡があって
「自分は首などいたくて、仕方が無いので、病院にいってくるが、
そっちはどうだ?」
と、とわれたが、
ものすごくくたびれたときのような脱力感・疲労感だけで
これといった症状はなかったので
そのままにしていた。

事故のそのとき、おそらく、恐怖感というものも
あじわうことなく
あっさり、「死んだ」と思ってしまったけど
実は、これ、トラウマになっていたんじゃないかと。

で、今回、スピードがあがりだして
怖いとおもいはじめる前に
「トラウマ・トラウマ」
ー今、本当に怖い目にあってるわけじゃなかろうー
と、それは、過去にきざみつけられ意識にあがってこなかった恐怖心でしかない。
と、いいきかせると
不思議と怖さがなくなっていた。

SPで、よくいわれるのに、
恐怖心から、思い込みを手放せないというのがあるが
この思い込みがなんであったか。
ー今、また、事故るんじゃないのかー
と、いうか、
ー死んでしまうーかもしれない。

それが、浮上してきていたのかもしれない。
ところが、憂生はトラウマのせいで、と、いうのが嫌いな人間で
怖いとおもうことさえ、みとめないというか、
運転手をうたがうってことじゃないかとか
極端な話、一緒に死んでもいいとおもえないのなら
はじめから、同乗するな。
とか。
なにか、覚悟のない人間のようにおもえて
「怖い」という感覚を否定というか、
おさえつけていたところがある。

「あなたが私をどう扱うかがあなたのカルマをつくり、私があなたにどう対応するかが私のカルマをつくる」 

最初の言葉だけど。

「あなた」は自分のうわっ皮であると、考える。
「私」は御霊、魂と考える。

カルマというのは、もっと、シンプルに課題と取っていいかと思う。
つまり、憂生は恐怖心をもった。それは、そのまま「御霊」への課題となる。
そこで、
御霊は恐怖心を克服、クリア(昇華)するように、
こちらに、恐怖心をあたえる。

恐怖心を与えられ、怖かった。と、ながしてしまえばいいのだけど、
それを、思ってはいけない。と、課題を与える。

恐怖心を思ってはいけないと、与えてくる。

自分に信用や覚悟が足りないんだ。と、課題を与える。

自分に信用や覚悟が足りないんだと与えてくる。

結局、恐怖心が取れず、運転手にゆっくり走ってくれ。と、頼むが
こっちの腕を信用しないのか。という風にいわれる
(憂生に信用や覚悟が足りないんだと与えてくる。)

と、まあ、結局、悪循環になり
最悪の場合は運転手と争いになる。

たった、ひとつの意識を認識できず
もうおそれなくていいよとか
我慢せず、怖いからゆっくりはしってくれ。とか
その心の傷?をかばう態度を自分がしないのだから、
心のほうも、こっちのことをますます不安に思うだろう。

よく、インナーチャイルドを癒すという言い方をするが
癒していく前の段階、
自分の心を素直に認識するということが
わりにできにくいというか。

思いの速さというのを例えるのに
光の速さなら地球を7周半できるというけど、
思いなら、あっという間もなくたとえば地球の裏側の人
明治維新のころの人のところへ
あっと、いうまに届いてしまう。
つまり、それほど思いというのは、すばやく
心が思ったこと(本質)を
次々と違う思いで、埋め尽くしてしまう。

怖い。
怖いと思うなんて、いけない。
いけないんだから、そんなことを人にみせたらはじさらしだ。
でも、やっぱり、ゆっくりと、たのんでみようか。
いや、どうせ、信用してないといわれる。
そんなことは信用とかいうことでなく、思いやりの問題じゃないか?
なんで、思いやってくれないんだ。
そういえば、前にもそうだった。
いって、嫌な思いをするなら、やめとこう。
でも、逆にこっちもおもいやってるとはいえないな。
信用してないと取る人に頼むというのは、相手の気分をわるくさせるだけだ。
信用してても、怖いと思うんだから、自分が覚悟すればいいんだ。
覚悟できないから、また、怖くなるんだ。
覚悟ひとつできない、自分でしかないのかよ。
つまらん人間だぜ。

と、まあ、たとえば、覚悟するしかないと考えるまでにも、
いくつもの思いがすぎさっていって、
はてには、自分をだめな人間だと思う。

で、元の思いがなんなのか、わからないまま
運転手との信頼関係も無くなるかもしれない。

ここまでいくと、トラウマのせいとしか言いようがなくなる。

トラウマのせいにしたくないという考えが
トラウマにせいにしない自分をつくってしまったともいえる。

こだわりというか、思い込みの怖さというか。

何かのせいにしたくないという思いがあると
自分のせいだとかんがえるようになり
結局、自分ひとりではどうにもならないループにおちこむが
それも、自分のせいだとなってきて
自分の罪だから誰かに頼るのが罪悪のように思えたり
いやがおうでも、自分で考えてぬけきるしかないと孤立したり
元の思いとかけ離れたところで
一生懸命穴を掘ってるときがある。

自分を認めるということや
自分をわかるということは
じつは、もっと、シンプルであるはずなのに
そうありたくない自分という土をかけてしまうのだと
そして、つくりあげた「そうあっちゃいけない自分観」で
「その通りでない自分(そうある自分)」をせめてしまう。

このさい、
トラウマのせいでもいい。
「その通りでない自分(そうある自分)」を自覚していくのも
大切な作業なのかもしれないと思い直している。

覚書

「あなたが私をどう扱うかがあなたのカルマをつくり、私があなたにどう対応するかが私のカルマをつくる」 

通り越す

さるお方のブログの中の言葉
ー追体験ー
因縁・カルマの納所という考えににている。

憂生の白蛇抄の中で、
政勝は陰陽師に言われた言葉を考える。
ー因縁、通り越すー
と、いう言葉である。

これが、わからない。
そこで、櫻井に尋ねる。
すると、
櫻井は
「貴殿の家は代々、男子ひとりしかうまれない。
そこで、男子ひとりしかうまれなければ、
因縁通り。
もうひとり、男子が生まれれば
因縁通り越した。ということではなかろうか」

よく、わからないと政勝はかんがえることをやめるが
城主、主繕にまつわる因縁を陰陽師が通りこさせてしまう。

この話はまた、続く話で
戻る話でwww
因縁通り越すということを解き明かしていく。

すでに蟷螂でも、この因縁通り越すを
蟷螂自体がおこなっているとかんがえていいとおもう。
だが、ある意味、そこで、蟷螂の因縁は納所するが、
蟷螂には、先の命・・人生・・虫生はない。

では、因縁通り越すということを
もっと、考えたときに
邪宗の双神で取り上げることになる。

むごい因縁を通り越す。
その因縁通りに生きる。

が、命ながらえたものは
通り越すためにひとつやらなければならないことがある。

「喜ぶ」ということである。

物語の中
主人公はわが子を殺さなければならなくなる。
それも、わが子がわが子を殺す。
と、いう因縁でこれも、いろいろ複雑に入り組んでいる。

その主人公に八代神は
「よろこぶことだ」という。

悲惨な状況をして、喜べというわけで、
それが、因縁通りを
因縁通り越したにできるという。

このくだりを考えると
確かに、カルマ・因縁は時に思いを切り替えるだけではどうにもならない
考え方を替えるだけではどうにもならない
因縁通りをとおって、抜けていくしかないときがある。

そして、因縁通りになったとき
「なぜ、こんな目にあうんだ」とうらんだり、かなしんだりしたら
因縁はとおりこせず、次の世代にもたらされる。

ところが、アセンション以後、
大本によれば
人間はもう生まれ変わらない。
と、いう。
つまり、今生がだめでも、来世でどうにかなるとか
祖先が肩代わりしてくれるということはない。

自分が通り越さねば
自分の御霊ごと消滅?するかもしれない(よくわからない)

そのためには、あえて、因縁通りをとおらされる。
通らすというべきか。
その苦しみは先のたとえでいえば、
わが子が死ぬ。
それもわが子によって。
そして、その因縁をつくったのがほかならぬ自分であるとなると・・・。

どれほど、もがくだろう。

よろこべるとはとうてい思えないところを
どうよろこんでいくか。

因縁通りというのは、
先に書いた、いわばー追体験ーである。

この追体験ににたものが、疑似体験というものがある。

今の世だから、もう追体験とかさせて
うっかりしなせてはいけないと指図する方がいらっしゃるのか
擬似体験で追体験をさせることがあるようである。

どういうわけか、
二人の知人は飛行機事故のむごい描写があるものを貸し借りして読んでいた。

当然?こっちにもすすめてくるのであるが
「いや、けっこう」と、読む気になれないでいた。

ちらほら、きくところによると
(勝手にしゃべってくるwww)
かなり、陰残な描写があり、気の弱いものならショックでたおれそうなものであるのに
彼らは熱心によんでいた。

そんなある日、飛行機事故があって、死亡者名簿がTVにでていた。
え?
と、思った。
彼らのひとりと同姓同名だった。
彼のところには親戚から確認の電話がはいってきたという。

もうひとりは、憂生が空港近くまで送ることになっていた。
むしょうに、こいつ、飛行機事故で死ぬとおもわされていた。
縁起でもないことは口にすまい。と
飛行場へいくバスのところまでいくと
目的地が大雪のため、フライト中止になったという。
ほっとして、
ここではじめて、実はおまえ飛行機事故で死ぬんじゃないかと思っていた。
とめるべきなのか、どうすればいいかとおもっていたら、
欠航だって・・・
そういうと、もうひとりは、
「実はおなじことを思っていた。死ぬだろうって。・・・」
なんというか、天の采配というか・・・。

そんなことがあって、
ふと、思い出したのが二人があの事故の本をよんでいたこと。
それは、こっちが絶対読む気にならなかったもの。

あの本の惨状をよむことで、
彼らは飛行機事故で死亡する疑似体験(追体験?)をしたのではないかと。

そんなことを思ったとき、
こういう文書にであった。
「御霊(魂)には時間や次元の別がない」
つまり、思いの次元でも事実であり
実際の体験でも事実であり
疑似体験でも事実になるということになる。

彼らは普通なら読まないものをよまさせられて
疑似体験をすることで、死んだことになり、
実際の世界では死なずにすんだとしか言いようが無い。

御霊が納得する因縁通り?カルマの清算がおきれば
それは、実際にとおらなくてもすむということもありえる。

奇妙なはなしであるが、
その事故が二人の人間を救ったともいえる。


さにわ???

さるブログにいって、
なにか、ほっとしたというか・・・。

ややこしい言い方なんだけど、実際、憂生はさにわ、できない。
自分におきる「ささやき」「思い」が入ってくる」などなど、
数々あるのだけど、
それが、本当なら待っていれば、目に物みせてくる。
と、いうことをいわれていて、
たとえば、
スーパーで買い物をしていて、イチゴをじっとみていると
「ああ、イチゴが好きなんだねえ」
と、いう言葉が響く。
夕方になると、当時のアパートの大家さんが
自分の畑でつんだイチゴをもってくる。

その前に、憂生は大家さんに何が理由だったかわすれたけど
贈り物をした。
ちょっと、考えて、お茶がいいと思った。

たぶん、憂生もおなじように
「大家さんは何が好きなのだろう? ああ、お茶が好きなんだ」
と、いう場面をみていたのだろう。

そんな風に、大家さんがこっちをおもってくれるのが
わかって、
そのときには、だれかわからないけど
実際に大家さんがきてくれて、イチゴをくれて
と、「響いてきた」ことをあかしてくれた。
目に物みせてくれたわけだけど

その言葉本当なら、雨をふらせてみろ
と、いったあと
本当に雨をふらせられると
それが、だれなのか、さっぱり、わからない。

どうも、憂生は、おしえてもらっていたことがあって
それが、きっちり、はまっている。

御霊の思いは自分の思いととけこんでいる。
ということ。
その思いがわかない・・うけとめられない状態のときなのか?
自然な状態できがつかされる。
御霊がそういう自然な形でおしえてくる。と。

たとえば、人の言葉とか・・・。

その方のブログにも同じことがかいてあった。
たとえば、TVをつけたら、
そのまま・・・。当てはまる台詞をいっていたりとか・・・。

その雨をふらせた相手?については
憂生は皆目、見当がつかない。
けれど、ある意味、自然でないからと
顕示してくる相手に用心した。

簡単にいうと
自分の魂(御霊)をつかいまわそうという輩かもしれないと。
普通だったら?そんなことをみせてくる相手を
神さまだとか?
そういうふうに思って、その相手に礼をいい、
その相手をおがんでしまうだろう。

不遜であるかもしれないが、
憂生は
まず、勝手にわが意で天気をかえさせたことのほうにおどろいた。
まあ、やばいことをしたとwww
そして、次に自分の御霊に礼をいった。
おがむのは、自分の御霊にだと。

ところが・・・
ところが、と、いうとちがうのだけど・・・。

TVできがつかせる。
と、いうのが、あったのだけど
じつは、その前に
「今、下におりて、いいから、TVつけろ」
と、響いて(きこえて)いた。

そして、TVをつけると
NHKのドラマをやっていて
「あんた、変な子やなあ。何でもおもしろい・おもしろい・・いうて」
と、その台詞だった。
その台詞におもいあたるものがあった。

と、いうのが、何日かまえから
教えの本をよんでいると
ーおもしろいなあ・おもしろいなあー
と、いう言葉が頭のうしろあたりからひびいていた。
憂生は単純に自分が
面白いと思ってよんでいたんだとおもっていた。
あるいは、
おもしろがって、読むものではない。と、いうことだったのか・・・

よく、霊能者が人について
「教え」をぬすんでいく。ということをきかされてもいた。

憂生自体がその霊能者になるのか?
なにか、
正直なところ、その前後にもいろいろ、妙なことがあったのもあって
なにかしら、狐ではないかとおもっていたふしもある。

だが、そのときは
よくわかっていず、なにか、おもしろい、おもしろいというやつがいるなあと
ぼんやりおもっていた。

そこで、TVをみてこいといわれ

「あんた、変な子やなあ。何でもおもしろい・おもしろい・・いうて」
と、いう台詞で
あ?
なんか、ついてるな。
もしくは、憂生自身の興味本位の姿勢をさすのか?
と、まよいつつ
また、教えの本をよんでいたところ
ーー明日、目に物みせてやるーー
と、響いてきて
???とおもいつつ
次の日 本をよみはじめたとたん
ぐらっとのうしんとうのような
イメージ的にはものすごい光線をあびたような・・・
そんな感じで一瞬、その場にうずくまったか
かたまってしまったか
そして、そのあと、1時間もしないうちにぶったおれて
おきあがれなくなってしまった。

それで、もう「おもしろいなあ」はなくなってしまったのだけど
あとから、なぜか、わからないけど
手をあらえ。洗うのは「湯」であらえ。というのが続いて
なんとなく近くの稲荷だなとおもったことがある。

そのあとでも、やはり、自分の存在否定が続いて
死のうかなあ。死んだほうがいいかもしれない。
などと、おもうわけで、
これは、いいわけになるけど
若い(15,16くらいからかな)ころから
そういう思いがあった。
ただ、苦しいからとかつらいからとかいうのでなく
たとえば、幸せだなあとおもったときほどそう思った。
この幸せな思いのまま、今、しねたらいいなあ。という・・・
非常に不可解な思いなんだけど・・・。

そして、仕事をはじめてからもそんなには長くいきられないだろうとまじめにおもっていて
葬式代くらいはつくらなきゃいけないと保険にはいったりしてもいた。
けどwww
実際に死んだほうがいいのかなあと思ったときには解約していた。
その前に事故って、死亡保険だからwww
ちょっとの怪我にはなんにもでず、
あほらしくなって、やめた。
なぜか、そのころには死なないなと思っていた。
もしかして、そのままかけていたら
思いの世界だから
「望んだとおり、若くしてしなせてあげたよ」と、いうことになっていたのかもしれない。

話ずれたけど、
何日もしないうちに
そうやって、顕示?みたいなものがでてきて
いわば、目に物みせてやるというのが
たてつづけにおきると
なにがなにやら。

このころに加勢?しにきてくれたものが
ひとふりの刀(剣)をわたしてくれていた。
もちろん、目にみえるものではない。
長さ1m20くらいか?
「守護の剣」「魔を切る」護法の剣だといって。
あと、ふるべ、ゆらゆら・・・というのと・・・ひらひらしたぬの。
それで、なぜ、剣をわたすのかとたずねると
「おまえは、つらいめにあって、お前の御霊の一部が私のところ(社?)ににげてきたので
かくまってやっていた」
今、もどってきたから、護法の剣を授ける。
だったかな。

そのころに庭の木に鳩が巣をつくっていて
それが、使いで見張り?守り?をしていると。

その鳩の巣に蛇がはいりこみそうになったのを
おいはらったことがある。

それも、あるいは、証だったのかもしれない。
が、
あるとき、八幡神社の掃除があって
それにたいしても
「いってこい。わかるから」といわれて(響いて)掃除をしにいったら
役員に神輿を掃除してくれといわれ神輿を置いてある場所にはいっていって
愕然とした。

みこしには
「鳩」がかざってあった。
わかるからというのは、このことだったのかとおもった。

あと、ネットで調べれば
八幡神社の使いは「鳩」だとわかった。

八幡神社に祀られていたのはスサノオだった。

憂生自体は実はニギハヤヒの血筋?一族?だとおもっていた。
このあたりの話はまたべつのところとして
その後、祭りにかかわる行事をてつだうことになり、
あるいは、これで、お礼させてもらえたんだと考えている。

そして、もっと、以前にこの八幡神社の鳥居の前で
腹がものすごく痛む。
針で突き通されるような痛みをあじわったことがあった。
なにか、まがまがしいものがはいりこんだのかもしれないとおもったり
何かの辛い?思いがはいりこんだのかとあたりをみまわしたことがある。

そして、後年、大本王任三郎が
スサノオを祭った神社にいったところ左腕に激痛がはしり
スサノオ?が憑依?降臨というか?したという記事を読んだ。

あるいは、それだったのか
確かそのころだったか、
「きないものがぬけていく」
と、いう感じで
黄色い魂?がぬけていったとおもわされていたことがある。
そのぬけていった場所が八幡神社で
かくまってくれたのがスサノオで
本当にぬけだした痛みだったのか?
そこらは、やっぱりわからないし

ただ、さらに後年、
憂生の中に「鬼と白蛇」がいるという神道家のはなしからすると
鬼はあるいは、スサノオだったのかもしれない。

根の国をおさめよといわれた人?だから
あるいは、閻魔大王のような、鬼のような姿態だったかもしれず
また、守りにはいっていたというのなら
神社の守りにある阿吽像のような姿をしていたかもしれない。

などと、勝手なことを今はかんがえているけど、
こういうことが、さっぱり見えない人だけに
なにがなんだか、わからないまま
いろいろ、調べても、たとえばてんぐがみえるとか?
そんなひととか、
たずねようとおもうと、たいてい、金を払えということになっていて
正直、
・・・ごめんにゃ
うさんくさいとおもってしまって
金をはらってみてもらうということはしていない。

むしろ、
ぎゃくに自分でさにわ、できるようにならなきゃいけないのかもしれないともおもえる。



ときおり、わからないことをいわれることもあって
その意味合いをしらべにいって
結局わからない。

たとえば、ある陰陽師?の方について
たぶん、安部晴明関連だとおもうけど
乗せていた写真のおでこに
平安貴族と女の人とことを弾く子供?がいて
琴から尻尾が3~4本はえていて
左側に狐のような顔
右側にドラゴンボールの1★みたいな球がうかんでいた。
いっぽうで、
黒い魂が二つみえて
ひとつはぺらぺらの紙のようで
これは、狐君にwwwたぶらかされてるなとおもっていたら
次のときは地球を浄化するかのような像の魂になっていて
???
と、思いつつ
前回のこともあるので、これも変なのかな?とおもっていると
「大丈夫、心配しなくていい。あの方はあめつちほし・・だから」


あめつちほしって、なんやあ・・・・?
天 土 星
天津地星???
次元的にもうひとつ上の地球の人?ってことか・・と、
ここもさっぱりわからない。

そんな状態で
まあ、何も役にたたんというかwww
時期尚早なのか、
はたまた、そういうのが、使命?ではないのかと・・・。

あるいは、そういう力にたよる?のがだめなのかもしれないとも思う。

あくまでも、自然。
ふっと、いうことが本当で
それが、発動する。

見た目は憂生
中身も憂生

と、いうことに徹せよということかと思いつつ・・・・。

長々、書いてみました。

いみじくも・・・

チャクラの痺れは

あいかわらずなにかがきていて、

本人に何かをつかえてくれという事だと解している。

最初の頃はこれが幻惑感で頭全体が

ぼう~~とした感じにおそわれて、気味が悪かった。

亡くなった女性の憑依が

「伝えたい事がある」という状態だったのだと気がついても、

まだ、ほかの人の幻惑感が

おなじことだとは気がつかずにいた。

そうするうちに、メールが白く光る人の後ろの何かからの

はっきりと、憑依?降臨?がわかり、

伝言をつたえたわけだけど、

これをしばらくやってきて、

なにか、勘違いしている自分に気がついた。

人に伝えてることは

「自分が自覚することだ」

と。

多くのスピリチュアラーが、

自分の魂とやり取りをせず

天(宇宙?)や神とやりとりをしている姿も妙に思えた。

多くのスピリチュアラーが

自分の外の力にすがって、

神?の伝言を伝える巫や巫女になっているように思えた。

本当は自分の魂を(天)の次元にまでひきあげなきゃならない。

人助けをしながら(自分を助ける)、自分を自覚して

折り目、筋目。筋道、定規(情と義)を自分の中で本物にしていく。

すると、自分の魂から、いろいろと不思議な力がわいてくるようになる。

どうも、憂生は自分の役目が

「魂」が天の次元に成ることこそが

大事なんだということの「見本・ひな型」にならなきゃいけないようだと

思い始めている。

確かに、憂生も今、シリウスや昴やそういうものに象徴される

エネルギーをうけているけど、

これも、何のエネルギーをうけているか?

って、ことを考えなきゃいけない。

昴をたとえれば、昴の星の意味は日を仰ぐ(星なので人偏が無い)

これを自分に当てはめると、

日=ひ(魂・御霊)を仰ぐ。

実は宇宙にしろかみさまにしろ、

全部自分の中のものを見せてくれている。

いくら、神様がおろうが、宇宙がおろうが、

自分に魂が宿らなければ

神様も宇宙もない。

根源神とは、自分の中にいる。

これが、わかってはじめて、

自分が生かされている事がわかる。

これがわかって、

神の命(命令?)

天の命

宇宙の命

が、見えてくる。

すべて、自分の魂への「伝えごと」なんだ。

これを判らずに、見えた神を拝む。

チャネリングをやって、神や天を使いまわす。

違うんだ。

まず、自分の「魂」を天の次元にするということ。

そのためには、今の自分がどの次元でものをやってるかを自覚する必要がある。

察するに憂生はまだ、

「拝みや次元」

いいように、何かに使いまわされてる状態なんだけど、

見せられていることはどういう事なんだろうと思う。

なにかを伝える役目だけではないはずだと思っている。

自分の魂を依る。紐を依るように、自分の魂によりをかける。

おそらく、真のスピリチュアラーの本来の役目もそこなんだ。

自他ともの魂を依る。

この次元のスピリチュアラーの出現を待っているものが居る。

時計仕掛けのオレンジ


前世とのコンタクトという考え方が憂生には、ふにおちていない。

憂生の中で前世というものが、すでに、自分に影響をおよぼしている。

と、思っている。

先にかいた、リーデイング能力(拾う)でも、

なんらかの前世からの差配である。

だが、前世の能力がはまってきたとしても、

この使い方をまちがえたら、いけない。

前世がその能力の使い方をまちがったところがある。

これをクリアしていかないと、

前世に滅ぼされる。

で、実際、この間、ピョートル大帝の記事をだしてきたときに

実は憂生は涙がでて、止まらなくてしかたがなかった。

自分の前世であるか、どうかはさだかではないが、

ひとつ、納得がいったのは、

憂生の

「自分がやらなきゃきがすまない」って、部分が

ピョートル大帝の影響だったのではないか?

って、そう思ったとき、

自分がやらなくても、やれる人がやればよいじゃないか

と、いう一種支配欲がとれたきがする。

ぎゃくかもしれない、

支配欲がとれてきたときに、

ピョートル大帝の思い

「わしがなんとかしてやらなきゃいかん」と、いう前世の因縁がクリアに

なったのかもしれない。

そして、つぎのとき、もういちど、この記事をよんだら、

ひどく、頭がいたくなった。

おそらく、これも、「他からのものだったのだろう」

と、いうのも、

すぐに、

「あいつは、ど~こ~な性格じゃないか」

と、いう思いがはいってきたから。

憂生はその「ど~こ~だ」と、いう何かにたいして、

「あなたが、ど~こ~な性格じゃないんだから、よかったじゃないですか?」

と、きりかわす会話?をしていた。

どうも、よくわからないんだけど、

このまま、素直に信じると

その人の前世を憂生が理解したのかもしれない。

これにより、前世がうかばれたというか、

遺恨?がきえていったというか・・。

憂生の見方がかわってきたともいえる。

どうも、憂生はこういう能力があるような気がしてきている。

前世を浄化する?

そのためか、とにかく、雑念を多くひろう。

とくに、まだ、これが、さだかでなくても、

なんとかしてくれと思う(霊?)が

とにかく、思いでわかしてくる。

それが、たとえば、

「あいつは、ど~こ~で・・」という思いにもぶりつく。

それが、判らないときは、

「あいつが、ど~こ~で・・」と、いう思いが自分のものだと思い

そこに自分が共振していた。

それが、憂生の思うインセプションなんだ。

その思いに共振して、振幅幅をふやしていると、

それが、感情になり、こころになり、

極端な話

腹が立ったと、事件をおこして、

「その思い」をてばなすしかなくなる。

今、スピリチュアルの多くがいいはじめているのが、

自分の感情・意識をてばなすということなんだけど、

じつは、ある側面でこういうしかけになっていて、

まさしく時計仕掛けのオレンジ。

オゥ・レンジ

時が来たら王(オゥ=自分=魂=玉(マイナス(、))を調理される。

続きを読む

恵み

憂生にとって、

スピリチュアラーがいうところの

高次元は、

普通の人間だった。

この方がいろいろとおしえてくれて

基礎ができていったと思う。

あと、憂生の生い立ちかなあ。

海沿いの町。小さな村。いろんな町々。

ここで、いろんな人に世話をされてきた。

共働きの親。小さな子供がひとりぼっちでいることを

きにかけて

ごはんたべさせてくれたり

お風呂いれさせてくれたり

自分のところだってかつかつだろうに

わが子同様めんどうみてくれた。

人の暖かい情にふれていきてきた。

なによりも大切なのは、

人を思う気持ちだと肌身がおぼえた。

そういうので、育った憂生は

本当、小さいときから

同級生がいじめっ子たちにいじめられたりしてたら

たった一人でもたちむかっていった。

そのいじめられていた子さえ味方することもできずにいてさえも。

正義感が強くて、卑怯なことをしたり

やっぱ、特に男が根性悪い、姑息なことをやっていたら

完璧、ゆるせんかったな。

女の場合は、はなから下に(ごめんにゃ)みてたんだろうな

ゆるせんというより、やんわりと説得するみたいな。

殴ってきがつくわけでなし。

言い方をかえると前にもかいたてあったとおもうけど

気がついたらすぐ自分を変えられる。

と、いうところがあるみたいで

きちんと気がつかせるような話し方をせんと

余計にこんぐらがる。

叩いたりしたもんなら

もう、仲間よんできてこっちがリンチされてまう/ww

男ってのは、妙なもんで、口でいったら逆にこじれてしまう。

殴っていいもんじゃないけど

ー殴られるほど悪いことしてたのか?-って、自分を問い直す。

話しずれてもたけど、

小さいころに

ー人に思われるありがたみー

これが身にしみたんだとおもう。

今の世の中、金がある人多いから

よそ様に面倒みてもらわんでも

託児所とか、夜間保育とかなんとでもなるし

よそ様にあずけようにも

みんなはたらいていて、人の子供のことどころじゃないし

ただでそんなことしてくれる人もおらんし。

逆にあずけても大丈夫なんだろうか?って

どんな人かもわからんわけじゃん。

このあたりからもかんがえると

ー信じるー

とかさ

ー恩ーとかな。

共働きで子供だかえて

困ってたというのはおおげさかもしれんが

それみて

義をみてせざるは勇なきなり。

みたいな?

本当、心意気ひとつでいきている人たちばかりみてきたんな。

こんなんだから、

憂生はどらえもんのジャイアンの

「友達がこまってるのにほっておけるかよ!!」って

こんな言葉ひとつにぽろぽろなけてくるんな。

みっともないんで、この台詞でたらいかんから他に誰かいるときは見んかったけど。

かんがえようによっては

さびしい環境だったけど

いろんなことが憂生の土台をつくってくれたんだから

恵まれていたんだなあっておもう。


郷紳

過去、5回ほど、(最初は身体のぐらぐら感今は頭上チャクラの反応)幻惑感のようなものを

よく、かんじたのですが、

そのうち、3回は相手の魂のようすがわかり、なにかつたえました。

もう一回は直接あっていたときだったので、

本人にじかにはなしていたせいか、魂のようすはわからず、

話すのにまようと、「いいから、いってやってくれ」とか、という思いが

頭上チャクラのしびれ?とともにありました。

あとの一回は、

かなりのところまで、はなしたのですが、

届かないというか・・。

この人は、なにげない一言で、(子供に雨ふらせようかな・・とか)雨がふってきてしまうという人で

先の白蛇神の写真を撮った人です。

どうしても、ぐらぐらするので、原因をさぐって?みたり。

キリスト教徒なので、

ー憂生のこと、キリストにいのってない?いのっていたら、やめれ~~-

と、いってみたら、

前はいのっていたけど・・もうやめた。

で、相手はキリストかよお・・・・。

まあ、無理でしょうね。

洗礼もうけてるとのことで、御霊とキリスト。親子の契約?をむすんでしまってるわけです。

本来、自分と御霊の契約(契約というのも変なのですが)のところに

キリストをいれてしまってるのですね。

でも、キリストが憂生を怖がる?というのは、いくらなんでも、

おかしいでしょう。

全キリスト教徒を愚弄する気かということになりますので、

ここは、もういちど、かんがえなおし。

ましてや、状態がおかしいことになっているわけです。

(精神的にも)

キリストがいて、こうなるのもおかしいと。

で、なにか、違うものがあるのではないか?

と、おもっていたら、

ー明日、わかるーと、またも、誰かがつたえてくるのです。

それで、次の日になったら

自分は催眠なんちゃかで、過去をみてきたとかいう話がでてきて、

山の中で白い大きな犬といっしょに、兄弟のようにくらしていた。

と、いうわけです。

そして、彼の妙な能力。精神状態。あっというまに巨万の富を集めるかと思えば

精神的疾患で、つかいはたしてしまう。

精神状態もいわゆる、犬神憑きのような・・。

彼のルーツをたぐっていくと、犬神の本拠地で、実際に山の中でくらしていた。

と、いうことなのですね。

これを犬神憑きときめつけるのは、大胆すぎると思い、

憂生は

まず、犬神をしらべはじめ

ひとつの物語の中でとらえてみようとおもったのが、

白蛇抄第17話。-銀狼ーだったわけです。

まだ、続きがかけてないのですが・・。

現在、彼の状態は快方にむかっているようで安心しているのですが、

このあたりのことを、本人につたえてみたいと思っていたのですが、

調子をくずしてしまったのです。

が、本人はこの物語を読んでくれたようで、

犬神というものを認識できれば、

逆に犬神を解放していけるかもしれないとも思っています。

これは、やはり、DNAの中のことなので、

自分でのりきるしかないのだろうなあ。と、いうきがしてます。


意味合い

いつごろだったろうか?

裏天皇が現れるという話があって・・・。

まあ、この裏天皇というのが、憂生はじつはにぎはやひではないかとおもっている。
発想は簡単。
国譲りの神話の話で、すでにヤマト(日本)にいたから。

その裏天皇が現れるというころだった。
知人が石神神社だったかの写真をとったところ
赤い光が映ってるとのことで
それをじっと眺めてると
「発布せよ」と思わされる。
つまり、大物主が世にでられるように
存在を流布していけということのようだった。

実際大物主は時代が変遷するときにうごきだすといわれていて
そのときがきたら、まあ、じっさいの日本の守護神として
君臨?するといわれていた。

その事実はともかく、
世に出ようとし始めている。
しらしめる、第一段階にはいりはじめていると思えたころに
「みさきがうごきだしている」
と、つたえられた。

いわゆる、みさき現象がおこる。

有名なところでは、たとえばやたがらすとか
金色のとびとか
こういう「みさき」があらわれて
主神を先導していくというか
大名行列のけやりのような
すすはらいというか
相撲で塩をまいて、清めるとかのように
先にたって主神がまいられると
発布していくというところかな。

そのみさきがうごきだすというのであるが
妙に不穏な気配をかんじるので
いったい、だれ?のみさきであるのかと
ぐぐってみた。

そこでさがしあてたのが
「裏天皇があらわれる」
と、いういくつかの記事で
あらわれるというよりも
裏天皇こそが本当の天皇だとか
いわば、裏が表になろうとしているかのような言い分だった。

おそらく、妙に霊感?がはたらく人間たちが
扇動していたのだろうと思う。
どういういきさつで、表にでようという
表にだそうとかんがえたのかわからないが
たとえば、憂生のように
「発布せよ」という念をうけとって
そこを表にださせるということだと解釈したか?

とにかく、
そこらへんをときふせようとした覚えがある。

神は紙でもあり
当然、裏と表があるものだと。

ところが、それだけでは、では、裏が表になってもいいじゃないかという反論がおきてくるだろう。
そこで、
羽子板をたとえた覚えがある。

表に飾りがあって、たとえば床の間にかざってあるけど、
実際には、本当に羽子板として使用するのは裏側なのである。

実際に裏の世界を統括しているのが裏天皇だとしても
表にでてくることはならん。
と。

つまり、羽子板を中心軸に考えたとき
裏が表になるのなら
今まで表だった世界を裏の世界にかえるということになる。

つまり・・・。
人間はみんな、幽霊・・零体になる。

いずれ、零体になってしまうものだけど
表の世界に人間として、うまれてくるのにはわけがある。

裏の世界があるということ、
死して(肉体をうしなって)裏の世界に戻るために
生きてる人間がどういう思いで生きていくかということが重要なのであって
裏を表にしてしまうのは
本とうの選択ではない。

裏には裏の役目がある。
本当は羽子板の裏のように実際に使う場所であり
表は表の役目がある。

裏あってこそ表。
表あってこその裏。

ゆめゆめ、裏を表にするなど
天地をひっくりかえすような、取り方をするな。

と、書いた覚えがある。
5~6年前だったかな。

物事、おなじように
裏表
上下
夫妻
親子というように
表裏一体
相手が有らばこそ自分がある。
夫がいないのに、自分が妻にならぬように
子がなくて親になれぬように

一対でありながら、ひとつの筋であることが
崩れ始めている。

裏が表になりかわるのが
あるいは表が正しい状態であるように錯覚する。

これが、実際におきていたみさき行動?に
「不穏」と感じた本当の意味合いだったと思う。

見つける

いくつか、不思議な事象をかいてみて
この前書いた護法の剣などのことについて
こんな馬鹿げたことなど人様にさらせないよなと。
どこかで、
自分を痛い人扱いしてたなと思うのです。

実際、本当か、どうかもわからず、
一種、自分の恐怖心が生み出した妄想かな?と
思わぬでもなかったのです。

けど、
今回、そこもかいてみて
逆にどっちでもよくなったというか・・・。

本当であろうが、うそであろうが
どっちでもよい。

と、

ただ、いくつか、おきてきた不思議な事象
(まだ、すべて、かいていませんが)
結局は
80~90%の確立で
待っていればそれが本当かどうか、わかるといわれたように
本当のことでした。

雨を降らして見せろといったあたりの
顕示にしても
もともとは、
「こんな自分いきててもしかたがないな。しのうかな」
と、いう思いに対して
「生きろ」といってきたものがいて
それに対し、それが本当なら雨を降らせろとやったわけです。

問題は天気をかえてしまったことでもなく
だれだったかのでもなく
「生きろ」であり
「こんな自分いきててもしかたがない」ということが間違ってると
明かしてくれたわけです。

なにか、わからないけど、
不思議となにかがわかり
それが本当であるのに
自分のことになると
おそろしくへこんでしまうというか、
いじけてしまうというか・・・。

特に信頼している人間・・・
う~~ん
自分より上だと思う人間に欠点を指摘されると
「自分。そういうところあるんだ」
と、いうところより、一足飛びに
「ああ、自分、そんなにぼろだったか」
と、くじけてしまう。

なにかしら決定的なことをいわれてしまい
すごくがっかりしてしまって
逆に別のときに
「憂生はすばらしいんだよ」と、いわれても
ーうそだ。そんなことはありえないー
と、完全に泣き叫ぶような思いで否定していました。

この凹みのおかげで
いろいろきがつかされることも多くあったのは事実です。

奇妙な能力?も
役に立たない。
霊能力者は必要が無い。
憂生は人を助けることはできない。

など、自分自身におきてきてしまう不思議な事象も
わけがわからず
助けたつもりになっていることも
結局、相手に言ったことが、結局自分のことでしかなく
自分を自覚するためのものだったなということでしかなく
結局、
自分に元があるのを、見せられて
相手にアドヴァイスすることで答えを得ている、と、いう点で
人を助けるつもりでいて
結局、助けられて居るのは自分でしかない。

と、なって
結局、自分も救えない状態。
人を助けるなんて、できないんだと思ったわけです。

結局、なにをやっても、卑小な自分でしかないと・・・。

そんな中で必死に
「本当だよ」と、あかしてくれて
けして、卑小じゃないと、
思うとおり信じていけばいいと
明かしてくれたのが
御霊だったのではないかと思い始めています。

ああじゃなけりゃいけないとか
こうでない自分なのかとか、
いろいろ、自分ことばかりみすぎていたかなと。

最近では
霊能力者なら霊能力者でもいいじゃないかってwww
どうせ、?
もう、いまさらなおらんわい・・って。wwww

と、いっても、じゃあ、霊能力者だといえるかというと
そんなのたまにしかでてこないわけで・・・。

今回、サブテーマを自分記録にした部分でも
そうそう、ここは自分の記録じゃないかって、

どこかで、こんな陰なことかいちゃいけないな。
とか、
こんな事おもっちゃあいけないなとか
変なセーブもあったかなって。

だめな自分も
すばらしい自分も
じゃあ、どうしてだめなのか
じゃあどうしてすばらしいのか
その答えひとつ、みつけていず
だめな自分であるとしらされて
うちひしがれ
自傷を繰り返していただけだったのかもしれません。

元気の素

え~~と、なんどか、かいているんだけど、

憂生は「見える」人じゃないので、

この部分で、随分、助かっていると思う。


と、いうものの、2度。らしきものを、みたことがある。


一度めは、5人の男女が仏壇のまえにすわっていたのを、ちらりと、、みた。


これは、師から、

徳の高い先祖がお前をまもっていたんだ。


と、いうことで、それを尋ねたのは別件だった。

幼い頃から、転居続きだったのだが、引っ越すところ引っ越すところ、

神社仏閣の近く。

酷い時は?塀一枚はさんでという距離で、というのもある。


何故だろうと尋ねたのが先の答えで答えをもらって、帰宅したら、先の情景だったわけ。


で、そのことも話してみたら、

「おまえの脊椎の5番目にいらっしゃったのだよ」

とのこと。


人間の意識としては、それが、5人の霊?の姿にうつるということである。


もうひとつは、

親父が亡くなって(憂生、親父の50の時の子なもんで)しばらくのちに

いろいろ、世話になった人がなくなったんだけど、

どうやら、その人の人魂をみているようである。

本人きがつかず、夕闇のなか、飛べる鳥もいないし、地上2mのところを

弧をえがいて南西の方角にとんでいたし、たとえばセキレイとかよりは大きく、真っ白だった。


で、本人の結論は、「白い蝙蝠だったのだ」で/笑

同僚に話したら即、「おまえなあ。いま、冬やで」

「それがどうした?」

「白い蝙蝠以前に蝙蝠がとんでるわけないだろ」

「ん?」


で、同僚がいうにそれは、人魂だ。

死んだ人はいないのか?

と、いわれ、「親父」

「あほ。これから、死ぬ人か、死んだばっかりとかのひと」

「う~~~ん」

「まあ、まってみてな。2,3日のちにはわかるだろ」

ってことで、二日ごにしらせがはいった。



まあ、このあたりくらいから、

「魂」がきてたりするのが、なんとなく、判るような気がしていたけど、

見えてるわけじゃないので、誰にもいわずにいたわけ。


ある人が見える人で、先に、魂がきてるのをみつけたり・・

と、いうのがあって、

(詳しくは「彼女の魂が・・」にかいています)

どうやら、本当にわかってるんだと自分で確証できたという。


で、それが、最初で、(人の思いや予知とか、何者かの思いがはいってくることは前からあった)

魂が判るときがあるようになった。


まあ、オーラーじゃないか?という意見もあったんだけど、

手の中に包み込んで、息吹き(かなり、弱っている時とか)とか、

かけるときもあるので、オーラじゃないと思う。


で、最初の頃は、魂がきてるな。ああ、今、ひざの上にきてるな。

とか?

こういう程度だったんだけど、

いつ頃かなあ。



幻惑感をかんじるようになってしばらくのちだった。


色とか、場合によっては、温度と重さ?みたいなのがわかる。


で、神さまとコンタクトするとかいうタイプのスピリチュアラーの何人かは、

魂は透明だった。

で、のちに逆にオーラーの色の意味と同じだろうと思って調べてくるというくらい意味がわかってなかったのだが、

この透明に成るほどの魂のもちぬしであっても、

中に黒い餡みたいなのがあったり(多分、本人の業とか?)

狐狸の類に憑依されていて、魂がふたつあったり/笑

もろに、安部晴明の狐が月にばけて、月がふたつあるというのと同じ状態になってたり、

世界?の浄化をしていると思える様子がみえたり。


まあ、こういうのも、あったので、スピリチュアラー本人の魂が本当にきれいになってるかといったらいいきれないときもあるわけで、(そのときの状況に(思い)によってもかわる)

神に憑依?されて、自分の魂の中にはいりこまれ、腐食されている可能性もあるわけで、

そのスピリチュアラーに助けを求めるということは、いっそう、腐食させる手伝いをすることになり

知らぬうちに人を破壊してしまうということもありえるわけ。


そんなのが、判ったところで、確証もないわけだし、憂生自身が本当の意味合いがわかっていなくて、

調べなおしてくるというのが在る状態なので、何度かかんがえなおしたりしているうちに

たとえば、世界にむけて、ユニークな商売をやってる人をみてると、ああ、この人、銀色だなあとかおもわされて、

しらべにいくと、その意味の通りだったり、


ある兄弟のことで、兄がもう弟なんかしらんというような事件を弟がおこしてしまって、

兄がかなり、投げ出した思いになっていると、

憂生に「兄ちゃん」と、いう声のようなものがはいってきて、

(憂生、兄弟いねえし・・・)

手のなかに魂がはいってくるのがわかって、「がんばれ」と包むようにして、上にあげようとしたら、

自力でのぼって(うかんでいこうとし)かぶせた手をぐいぐい、押すんだけど、

その光がオレンジ色でまばゆかった。


これで、兄のほうに、本人は一生懸命向上しようとしてるし、純粋な魂をもってる。

あんなきれいに光った魂をみた(と、いうのではないが)のは、はじめてだよ(って、あんまし多くはみてないが)

で、頑張ってささえてやれ。みたいなことを話したせいか、しばらくのちに、

元々、緑っぽいような、蒼い感じを持たせてる兄のほうが、濃い緑にかわっていた。


薄墨色の人は、鉛のような質感と重さがあって、「なにか、思いが死んでる?」というきがして、

息吹をしたら、木質、薄い木肌色にかわっていったり、と、まあ、まだいくつかあるのだけど・・・。


まあ、こういう自分でもほんまかいなと?

いうくらい、なんとなく判るってのがあって。


で、それも、最近はこう言うことをはっきりしゃべるようになってきてから、

ほとんどおきてないんだけど。


たとえば、その人の思い方が、

魂の状況をかえてしまうわけで、

いわば、魂は命みたいなものだから。


それが汚れたり、傷ついたりしていると、本人の状況にもえいきょうする。

汚しているのは、自分の思い方や行動のせいだったりするわけだけど、

こういう意味合いでも、おかげ信仰やハウツーなどへの当て込み、欲な思い

(さんまさんじゃないけど、いきてるだけで、丸儲けなわけなのに、そこに感謝せず、苦労を嫌がってにげることばかり考えてるとか?)が、

魂を不健康にしてしまうということがあるわけ。


命が不健康になっていけば、そりゃあ、よい風になるわけないし、

思い方も悲観的になったり、刹那的になったり。

悪循環だとおもう。


このひどい例が、あるスピリチュアラーの魂イメージ像が

スライムのような状態で、中に甘ったるい餡がみえる。

本人の名誉もあるので、詳しいことは書けないが、

やはり、「甘い」考え方といっていいか。

あるいは、完璧に違うものにとりつくされているのか。

憂生のいうところの「自力」でないぶんという甘さと

その能力に頼る依存とか、が、こういう像を浮かばせてきたのかとも思う。


また、真っ白な魂(わずかにクリームホワイト)でありながら、

神経がすりへってるのか、表面がボロボロにかわいて、

パンをこねる時に小麦粉が、くずとこなになって、たねにつくようすを想像できるだろうか?

こういうがさがさした感じになっていて、

たぶんだけど、思い方に潤いが無いのではと思う。

原因は本人にしかわからないだろうことだろうとおもうけど、

元が良いというイメージをうけるので、

自分でのりこえていくのが、本当に潤い在る、魂(思い方)をつくることに繋がるのだろうと思って、

放置/笑


助けることは在る意味簡単なことなんだろうけど、

やっぱし、艱難辛苦、汝を玉にする。であるわけで、

あえて、放置(此方の気持ちとして)

で、それを物にしていける人だという思いもあるせいだとおもうしね。


まあ、そんなにたいそうにいうほど、

魂が判る状況に遭遇してないんだけど、こう言う観点からも

霊能力やヒーラーや云々かんぬんはすきじゃないし、

実際、自分のこういう能力も?霊能力なのかと思うとよくないわけで、


先にかいたように、

人間味でありたいわけで。


で、そのために思い方を詮議していくのに、

もうひとつ、もぐった見方というのが、できるようになってきてるというのがある。


だから、引き寄せとか?が、当て込みというか、

こてさきになりやすいというか、ハウツーというか。

この思い方では順序がぎゃくじゃないか。

とね。


そういうことを自分の尺度にして、かんがえるようになってきてるし、

この「元の思い」はどうだ?というのは、

その「元の思い」それでいいか?

という、やっぱり、尺度というか、どの思い方に対してでも、つうじていくことなわけで。


まず、思い方を詮議する。

よくない思い方だと気がついたら

どういう風に思い方を変えるか。


と、いう自分を軸にした順序であってほしく


たんてきにいえば、

これこれのところにいけば、パワーがもらえますよ。

なんて、押し付け根性やってないで、

自分がパワーを送る側になってないことをかんがえなきゃいけんとおもう。


人をたらいまわしにするというか、

あそこの神さまからパワーもらえば。

って、言う言い方は

「私は知らないよ」「できないから、あの人にしてもらいなさい」と、おなじだろうとおもえるしね。


自分ができないことを人(神?)任せにする。

ってのを、いいかえれば、

狐が狼の皮をかぶるのとおなじようで、元がそうであることを、

それを良い情報だとうけとるということも

他力本願もいいところだろう。


その姿を見て、魂が元気でる?

天網怪々疎にしてもらさず。

怪じゃなかったかな。

まことの思いがあれば天がのる。

こんなことはとっくに、

やってる。

それで、人の命も救ったことはある。

だけどな。

人智。

これが出来ることは

しれたこと。

言われたよ。

自分が泳げないくせに

人をすくえるかどうか。

つまり、

本当に天を動かしたのは

師。

憂生の思いを汲んで。

それで、まことで天を動かしたのには代わりがないというかもしれない。

でもな、

さらにいう。

「その子供が助かってよかったか、どうか、おまえにはわかるまい」

つまり。

天の所業を変えてみたところで、

天の真意を伝えなければ

意味がない。

これをしらずして、

天の真意に沿わずまことだけで何とかしようなんてことは、

ものすごく傲慢なことなんだよ。

ちょっと、言葉がきついけど、

意味わかるだろうか?

取りあえずここまで。

続きを読む

意識を意志と気、に、する

ここ、二つほど、ブログを渡り歩いて、読んでいたのだけど
どうも、混乱するばかりなので、
整理?まず、外に放り出してみる。

いくつか、過去におもったことと合致するところがあるので、
ついつい、
「じゃあ、あのことはどういうことなのだろうか?」
とか、
なにか、気持ちがすっきりすると、その考え方を
うのみにしていいものだろうか?
とか、
迷いながら、読んでいた。

ご本人はある種の宇宙意識としゃべっているんだろうけど
それも、なにか、そうだろうなあとおもうところと
そうじゃないなあと思うところが出てくる。

大きく思うところは
意識という言葉なんだけど、
この捉え方が少し違っていて
同じ、言葉なんだけど、概念が違う気がしてならない。

信じにくい言葉のひとつが、
意識をあやつる星がある。
と、いう言い方なんだけど
一端、その言葉を信じてみると
憂生の中の白蛇という邪念が見えてくる。

ところが、反面 ~~星からという言い方は
星は先祖であり、星になった人々ということだろうと思うし
空からの・・というところは、
自著 空に架かる橋で定義している 
亡くなった時に帰るところ・・行くところであり
ようは、
今のアセンションがいうところの
魂が空【なにもかも、抱合するという意味)に帰るためには
思いを残さないことだというのに、相通じるところが在る。

思いを残さない生き方という意味合いは峻厳である。

あるいは、過去からつながるDNAに溶け込んだもの。
先祖、前世・・・などいくつもの要因があり

そういうものが再び湧き上がってきている。
体のなかから、自分を縛る思いをほうりだしていくと
残るのは意識だけだろう。

ところが、この意識だけになってしまうと
ようは、肉体の必要がなくなり、死んでしまう。

【極論か?)

そのために、必要なのは
意志のある気なのだと思う。

やる気とか、生きる気とか
根本的な気に対して、
どうするかという「意志」をつけていく。

それは、何だっていいんだと思う。
神様のようにいきようでもいいし。
子供みたいにいきようでもいい。

ただ、その生き方をするのに
どういう意志をもてばいいか。

そうしていくなかで、
新たに重りになる思いができてきたら
それをどかしていく。

自分がどういう思いや意識をもっていたか、
わかれば、【しっかり、意識すれば)
それは、おのずと手放せる、あるいは、意志として
留め置くことができると思う。

思いというものは、わるかろうが、良かろうが
エネルギー?として残る。

つまり、幽霊などその最たるもので
くやしい、とか、腹立つとか とか、
こういう思いは
重いので、地上・・・つまり、幽霊界にいってしまう。

逆に思いを手放して
意志をもてば、生き易くなるだろう。

白蛇抄の中で
「にくむな。堕ちるぞ」
と、いう言葉を発する。

これも、なるほどとおもうところである。
ところが、実際の場面になると
「自分がうらんでいた」と、いうことにきがつかない。

このマイナスエネルギーが
さらにマイナスエネルギーをよびこみ
目の前にとんでもないことがおきて
やっと、「自分がマイナスの思いをもっていた」
と、わかる。

空に上がっていこうと思うのなら、
「思い」を手放すことなのだと思う。

それは、ときに、かわいいという思い。
きれいだな。とか、
こんなものも、実はマイナスじゃないようにみえて
マイナスになる。
執着といっていいかもしれない。

今の憂生はじゃあ、どうすればいいかというのが、
みえてきていない。

意志をもつというものの、どういう意志をもてばいいかわからない。

このためにも、
今はよしわるし、関係なく
自分のペトリ皿にいれて
「意識したこと」を考えようと思っている。

意識したことの中には
「意志」と「気」が入っている。

思いはおおかたが
「重い」もので
なにが、「重く」しているのか。

こういうのを、
たとえば、闇の組織という
人間の反作用

白蛇抄による:
あの陰陽の文様をみよ。
白あらば、おなじだけ黒があり
黒あらば、おなじだけ白がある
こういうことだ。

と。

結局、物事の表面しかみないから
あいつが悪いとか、
いうわけだけど

実際それが本当かどうか。

そこらへんをつきつめていきたいというか・・・。

意識を支配する「意識」とは、
ほかならぬ
自分がうみだしたものでしかない。

待つ

どこのどなたのブログかわからなくなったけど
あ~だ、こ~だで
それをやらない。
と、いう迷っている?内容をよんでいて
なにか、自分の状態に
よくにているなあと
思ったとき、

ふと、おもうのですね。

なにか、まよったり
不安をかんじたりしているときって
やらないほうがいいなって。

じっさい、やらなきゃいけないときは
いやがおうでも、
もうやらされているわけです。

たとえていえば、ちょくちょくかくことだけど
知人が
入水自殺(みすい)をしているとき
勝手にわかって
勝手になんとかしなきゃって
なんとかできる唯一の方法は
念をおくるしかなかったわけです。

そういいながらも、
狐狸やんにたぶらかされてるんやなかろうか?
って、迷うわけです。
でも、瞬間
「人の命にかかわってるんや。もし、ほんとうやったらどないするんや」
って、ぱっときりかわってしまうわけです。
で、たぶらかされたなら、なんともなかったで良いだし
本当だったら
そんな自分の迷い?なんかにかまってる場合じゃない。
と、ほんの一瞬で決断してしまえるわけです。

ようは、必要だったら
しなくちゃいられない気持ちにさせられる。

それをたとえば
たぶらかされてるかもしれないからやめとこうという
気持ちがさきになってしまうのなら
どのみち、やったほうがいいかなとおもうことを
やってもつうじない。

問題にするのは
「そういう、やむたてをえない思い」なんじゃなかろうかと。

まあ、憂生は天王星人のせいか、
「つうじない」「解決できない」という考え方をしないほうのようで
15,6のころに友人にとりついた霊をはらってやるとwww
なーんにもしらないのに
どうやってやればいいかかんがえて
おもいつくままをしんじて、やってしまう。

結果、はらえたかどうかはしりませんが
(もともと、わからん人なわけでwww)
でも、事象的には
たぶん男・・・肩をつかまれてひっぱられました。
そして、もうひとつは
友人の弱さ(こわがるとか)
成仏してくださいとか?
霊より下になって
お願いするとか
これがいけないとおもって
みていました。
だから、
わざと「お前は不要のものだ。死ね!!」
と、やったわけです。
とたんに、ぞっとしたおもいがわいて
ここもこちらのよわさですね
そばにあった
ご神木にすがりついたとたん、肩をひっぱられて
こちらの口からは
「憂生は死なん」
と、いう言葉がでていました。

で、まあ、ひきはがして?
「そこにおる(みえてない。わからないのに)」
友人に
「お願いしてたらあかん。死ねっていってやれ」
と、強い気持ちをもてと・・・・。
まあ、神社の奥の院?で
高校生が2人で「死ね。お前は不要のものだ。わきまえろ。死ね」
なんて、やってるんだから
まあ、はたからみたらきちがいですなwww

不思議と誰もきませんでした。www
本殿のすぐ後ろなのに・・・。

でも、それも、やってしまう。

そういう、へんにできないとか、
無理だとか、いっさいかんがえにないのです。

たぶん、できるというか、
だから、そういうことになって
できないなら
友人もはなから、いってこないようにできてるんでしょ。

どうも、そうやって、つきうごかされて?やってしまうということが
わりにおおくあって
ああだから、こうだからと考える、迷う状態については
なにか、ひとつの信念がありました。

「誠の思いに天は加勢する」
みたいな。

やりながら、迷うということもあったわけです。
その加勢をあてこむというのでなく
はげまし?にちかい感じでやっていたと思います。

やってみて、だめっだったらあとで後悔する。
とかいうのもなく
やらずに後悔するより、やって後悔しろというのでもなく
なぜか、だめにはならない。
と、しんじていられました。

じっさい、そうなってきていると思います。

このあたりのことを
さすとおもうのですが
「憂生は勢いがある」
と、いわれたことがあります。

たとえて、いえば
薪をわったり
竹をわったりするのに
ちょこちょこたたいていても割れないのに
一箇所、勢いがあえば
竹は節をわって、先のほうまで真っ二つにわれていきますし
薪もそうです。ほんのはじっこに斧をいきおいよくいれるだけで
まっぷたつにわれる。

ここらをかんがえてみても
迷い、迷い、やめようかな
などと力がよわい
勢いの無い思いでやったら
なることもならない。
ことになってしまうのじゃないかと思うのです。

できるとしんじろというのでなく

やむたてない気持ちになる。

それを待つ。

と、いうのも必要じゃないかなと。

十柱の神

15のころだったろうか。
十人?くらいの霊?なんだろ、わからないんだけど
このあたりと会話をしていた。

う~~ん。

まあ、そうなんだろうな。

すると、その中の一人が
別の一人のことをすきになってwww
好意をもっているんだけどといいだす。

なぜか、すなおに
「だったら、結婚すればいいやん」
(と、まあ、純真な子供でした。はい)
と、いうと
「そうかな、いいかな?いいよね」
と・・・。

なにか、わからないけど、
霊たちはほぼ生きてる人間のように
生活?感情をもっていて
思いだけで、つながっているようなかんじをうけた。

こちらの状態で
いろんなものがはいってきていたのだろうし
子供の感覚?にみあった部分で同調していたのかもしれない。

それが、
御霊のことをしらされて、
背中の守護霊?先祖も天に戻っていけたあと
ある日
こういうことをいわれた。

「もう、憂生には十柱の神はいらないだろう」
と。

いまだに、この十柱の神というのがわかっていないのだけど
その昔、10人いるといってた霊?なにものかが
それなのだろうかとおもってしまう。

それにしても、
いつのまにやら
なにかにまもられているのか
おかげ信仰してしまっているのか
よくわからないけれど
一般的に「神」といえば
そりゃあすごいとおもってしまいがちだけど
それがいらないだろう。
と、いうことも、実に妙だとおもった。

妙というのはおかしいということでなく
機微があるというか

たぶん、
鬼に金棒じゃないけど
金棒(御霊)がいるんだから
もう、他のものはいらないね。
と、いう意味合いではないかと思っている。

しかし、憂生に限らず、こういうことを言われた人はほかにいるようで
しらぬだけで、
十人の神?がまもっているものなのだろう。

あるいは、
横の筋と縦の筋という意味合いで
夫婦。
つまり憂生にとっての十は両親であろう。

その
両親の庇護でなく
自分の足でたっていきなさいといういみあいだったのだろうかとも。

考えれば、
いくらでも、考えようはあろうけど

いずれにせよ、
「もう、自分の責任で、やっていけよ」
と、いうことだったのだろうと思う。

キャッチ???

さけていたはずなのにwww
この場所【パソコンの前】にくると、やはり、頭上チャクラが反応してきます。

以前は幻惑感だったのですが、
アメーバーでも同じ状態になり、いろいろ、かんがえこみました。
いろんなことがおきて、なんとなく、
相手のなにかがこちらにコンタクト?をとろうとしているときにおきるのはわかったのですが
なぜ、幻惑感になるんだろう?
と、そこが不思議で考え込んでいたのです。

考えたのは
非常に不遜な言い方ですが
相手のレベルが低い。と、いうことでした。

これは、師から尋ねられたことに起因しています。
同じアパートに霊能力者がいたことがあって、
気さくな人で、よく話をしていたのです。
そのことを師にはなしたところ
「おまえは、しんどくならないか?気分がわるくなったりしないか?」
と、たずねられたのです。
???の世界です。
「別に・・・」
と、こたえると
「むこうのレベルがひくいから・・こちらのエネルギーがながれこんでしまって(すいとられて?)しんどくなったり
世界(霊の?)がちがうから、汚れているのできもちがわるくなったりするんだ」
と、いうようなことをいわれたとおぼえています。

御幣のある言い方がいくつか、あって、
誤解されるとおもうのですが、続けます。

で、アメーバーさんでそのような幻惑感があったとき
そこをブログにかいたわけです。
とたんに霊能力者さんがくらくらするのは、相手のレベルが高いからだと
まったく逆の意見を自分のブログにかいていました。
で、この方がこちらにくると非常にいやな感じのくらくら感がおきていました。

どっちが本当かわからないことですが、
ひとつだけいえるのは
くらくらする相手はある種の悩みや凹みや迷いをもっていました。
つまり、マイナス状態であったぶん、レベル(と、いう言い方もおかしいのですが)は幾分ひくくなっていたとおもうのです。

エネルギーの法則で言えばプラス(高い方)からマイナス(低い方)にながれこむので、
これが、しんどい(くらくらする?)になったのかなあと。

霊能力者のかたがなにかなやんでいるかどうかはわからなかったのですが
一人の方はなにかまよってらっしゃったようでした。
師のいうとおりならば、やはり、霊能力者のかたは
時に不浄霊とか?とかかわっているわけで
そこで、汚れるということはありえるとおもうのです。

まあ、そんなので、
くらくら感だけだったときは、そんな風に結論づけてしまったのですがwww

とうとう?頭上チャクラになってしまったときは
もう、なんていうか、
宇宙的でなくwww
宇宙人的存在がかんじられて、
これまた、いろいろしらべてきました。

ドゴン族とかwww

そして、このときの危機感を元にして書いたのが「箱舟」ですね。

そうなってくると、今度はなぜ、頭上チャクラがじわんじわんするんだろうって
気になってきます。

ネットで調べれば、いろいろ書いてあるのですが
いまひとつ、納得できない。

憂生が知りたいのは、なぜ、じわんじわんするのかということでなく
どういうことがおきてるかという、機構的なことだったわけです。

勢い、自問自答になります。
自答じゃないだろけどwww.
すると、かえってきた言葉は
「○んた○すすぎ」という言葉。

まったくおちょくられとるのかとしか思えない言葉に
なんちゅうヒントのあたえかた?
と、前回の
「アヌス」のこともあったので、
またもや、まじめにぐぐってきました。

無論、そんな熟語?はありません。
まあスラング的にはありますが・・。

こうなると、分解して調べます。

で、結果、自分流に訳すと
生命力をゆすぎなおす。
と、いうことだったのですね。

で、ここがわかると又次のヒントがくる。
「ぞうり虫」
なにか、地中の土を分解してバクテリアを活性化して土を正常?な状態にする。肥やす。
「バイオマス」
・・・・。

ようは、こっちの何かか相手のなにかか、わからないけど
しぼんでしまってる生命力、活力を復活させるためのバイオマスになっていて
酵素かバクテリアかなにかしらないけどうごめいている。
その動きというか・・・。
これがじわんじわん・・のようで・・・www

もうね。
こんなこと、かきはじめると
憂生って、いっちゃってるんじゃね?ってwwww
そういう風におもわれるだろうなって

自分で書いててわらってしまうんだけど・・・。

どういうんだろう。

チャクラのことで魂によくにてることかいてる。とかいたことがあったけど、
憂生自体は
魂がいわゆるチャクラでいわれる高次元であり
内なる神(内なる宇宙)はまた魂(御霊)であるとおもっているわけ。

大昔の人は自らの魂とはなせたというけれど
実際、自らの魂と話をして
相手(人)の魂と話をする人をみてきているから

他のもの(神?)を頼らなくても
自分の中に神(魂)はいるわけだし
大昔の人が自分の魂としゃべれてたのに
いま、しゃべれなくなっているのは
ひとつに欲にかられて魂の言うことをきかなくなってしまったのが
元ならば、
そういうもの・・欲などなどをきれいにそぎおとしていけば
魂からの言葉をキャッチできるようになる。
今でも、魂はちゃんとしゃべってるし
警告をはっしているし、
時にごく自然に他人をつかっておしえてくれたりもしている。

昔ののみ友達におそくなってしまったからもう帰れとつげたことがあるんだけど
これ、いわば、おいかえすみたいで、やな行為じゃない?
それでも、そういったら
そいつは
「そういう風に言われたときは素直に言うとおりにしたほうがいいんだ。
言うことを聞かなかったらたとえば事故にあったりとかする。
って、小学校の先生にいわれたことがある」
って、素直にかえっていった。

ようは、そういう風に、率直にうけとめられなくなってしまったというのが
魂との会話をなくさせた元なんだろうけど
それでも、他人の口をとおしてでも、自然とつたえてくるのが魂なわけだから
ぜんぜん、コンタクトがなくなってるわけではない。

それを魂からだとわからなくなっているということで、
ここらへんって
自分が誰かに頼って意見をきこうというときは
時に(全部が全部じゃない)なるにまかせるでない
自分の思い通りにしたいという我がでていて
そこに対して魂は答えを出してこないのが、普通。

あくまでも、我に対しての答えでない状態で
自然と普通の状態でいってくるから
さらに、魂からだとはわかりにくい。

以前に書いた「ささやき?」に対して
本当なら待っていれば目に物見せてくるというのをかいたけど、
これとて、魂からだとはいわれていないwww

わからないけど、
自然と自分の思いに溶け込んでいて
きがつきにくいこともしばしば。

案外「○んた○すすぎ」といったのも魂かもしれないが
下品すぎてwwwどうにもしんじがたい(爆笑)
どっちにしても、まだまだ、キャッチできていない憂生でしかない。

スピリチュアルに分類すべきかと思いつつ

アメーバブログだったろうか。
前世との遭遇?で、前世の遺恨?をはらしていくということをやってらした方がいた。

この考え方は間違いではなく
むしろ、妙な言い方だが合理的だといえる。

ただ、こういう能力がない人間のほうが多くいて
前世の思いを感じ取るどころではないので、
前世の思いを昇華できないでいることが多い。

けれど、基本的には
たとえば今自分が悩んでいるとする。
たとえば、金がない。
とかww
すると、この思いと同じ思いをしたことがある前世が同調してくる。
【あるいは、前世でなく別のものの憑依(同調)ということもある】
つまり、現世の自分が悩みを解決すると
前世も一緒に悩みを解決できるため、
ことさら、同調してくるわけで、その感情は増幅されてしまう。
金がないとなやんでいて、そのうち何もかもいやになってしんでしまう。
と、いう図式の中に
たとえば、同じいきさつでなくなった前世が同調してきて
その感情をクリアしてほしくて、悪い言い方をするともろにかぶさってくる。

普通の人間はそうとはしらないので
悩みまくって最悪の結果を迎えることだってありえる。

ところが、これが、前世の思いだよとあかされると
わりにけろりとしてしまって、
あんなになやんでいたのに
金なんかないほうが気楽なとこもある。という具合に
思いがきりかわっていくことさえある。

で、それならば、前世を探っては、解決していけばいい。
と、なってきそうであるが、
憂生はそのあたりは、ちょっと、反対意見である。

前世だけならいいけど、先祖もくわわり・・ww
その数やどれだけあろうか。
過去世とむきあうのはかまわないけど
過去世とつきあっていくのはどうかとおもう。

ほっておいても、
自分の思いのなかに過去世はまざりこんでくる。

それをクリアできるような自分の思い方・感情になっていくべきで
それをあとおししていく前世も当然でてこよう。

実際、憂生も不思議な体験は多い。

たとえば、だれかもわすれたけど、ローマ法王
インノンケンティウス13世?とか(たとえば)
この名前はうかんできて、ウィキをしらべにいったのだが
ウィキのなまえのところをみただけで、
涙がぼろぼろこぼれだして、
むしろ、この人はどれだけすばらしいことをしたのだろうかと
よんでみたのだが、これといって特筆することもなかった。

むしろ、ピョートル大帝だったか
読む前から、この人は立派な方だと思わされ
読んでみて、まさにそのとおりとおもったことからしても
インノンケンティウス13世は感動する内容などひとつもかかれてなかった。

このことからしても、
おそらくだけど、前世の誰かがインノンケンティウス13世にかかわりがあったのだろう。
まさか、憂生の前世がインノンケンティウス13世ではなかろう(爆笑)

このほかにも、いろいろあって、
最終的に、アセンションなどをむかえて
人類滅亡、地球滅亡?という事態になっても、
憂生は地球に残る。
地球とともに生きる。

と、いう杞憂というか、妄想のような設定でありながら
地球とともに生きる。
と、いう決心?をしたあたりから、
スピリチュアルその他からはなれていくようになった。

こんなことからも、
前世の差配なのか、同調なのかしらないが
なにかをクリアしていったのだと思える。

こんなことからも、前世の同調は当然あろうし
なにかしら、素部分での前世をしるのは
自分の方向性をみいだせる部分もある。

わりに簡単に自分で前世がわかるのは
何をこのむかということかららしい。

それをいいだせば、
憂生は10代の頃。
とにかく弥勒菩薩がすきだった。
中宮寺のほうでなくて(頭に丸い玉を?を飾っている)
度忘れ中の寺の平たい冠のようなものを戴いてるほうの弥勒菩薩が好きで
ポスターをかざっていたくらいで・・・
とても10代のこのみとはおもえない部屋であったwww.

のちのちしらべていくと
3億7千・・年後の衆生を救うために
なんとか世界におりて(あまりよくないところ)修行しているという。

なにかしらこういう前世がいたのだとおもう。

衆生を救うためにというのはなんともえらそうないい方だが
なにかしら、人を助けたいという思いがついてまわってきたし
長じてそういうかかわりも多くあった。

ネット世界においても、不思議な体験がおおくあり
そのあたりもかかげているけど、
執筆の根本になっているところもそこにあるきがする。

白蛇抄においては
因縁を通り越すという考えをもちだしているけれど
これも、先にあげた
前世の思いを昇華させるという考え方ににているし
また、
根本的に通じるのは
「思いを救わなければ本当の救いにならない」という点にある。

誰かを助けたいというのも
あるいは前世からの思いだったのかもしれない。
そう考えると
(人を助けたいという)思いを救わなければ本当の救いにならなかったのだろう。
いくつか、助けごと?みたいなことをしてみて
最近は逆におもうようになってきてもいる。

人を助けて(助けられたとして)、本当に、それがよいことだろうか?
また、
そういう困った人?は結局自分の姿でしかなかった。と、いうのもあった。

遠隔で死ぬなという思いを送ったこともあったけど
この思いが結局、後で自分に帰ってきたとも思える。
もしも、そのとき知らん顔してたとしたら
後に自分が困ったときに、
どうせ、みんな知らん顔だと(自分の思いが帰ってきて)
絶望して死んでたかもしれない(www)

結局、場面、場面でどういう思いをもつかということになってくる。
前世の差配でというものの
自分にない思いにひっかかることもなかろうともおもう。

もともと、助けたいとか何かの役にたちたいとか
そういう思いがちょっとあったところに
前世が同調してくる。

これがいやな・悪い思いでも一緒だと思う。

自分の中になにかあるわけだから
それをかえていくことで、
前世も救われる(おおげさ)ということで
福利的構造であるとおもう。

そこを前世を救おうというのが先になってしまうと
ちょっと違うのではないかなあと思ってしまう憂生がいる。

父音と位

物事に裏表があるように、
父音にも裏がある。
あかさたなはまやらわ。
この下に並ぶのが
いきしちにひみいりい。
で、あるが、
憂生にはこの言葉が
こう読みかえれる。

活きし血に「ひ」魅入り居

この考え方が白蛇抄の基盤になっているといっても良い。

白蛇抄の中にいくつかでてくる、
因縁や宿業・・など。
ひとつの捉え方として
思いが、因縁や業を作るという考え方をしている。
そして、この思いは血に溶け込む。

血に溶け込んだものは、
いずれ、沸かされてくる。
体の浄化作用といっても良いかもしれない。

そこで、最初の活きし血に戻る。

思いが血にとけこむのであるなら、
活きた血とはどういうことか?

浄化できず、悪い思いを沸かすしかない
血が活きてるとは言いがたい。

かといって、浄化?がおわって綺麗になっただけの血も活きているとは言いがたい。

そこで、もう一度、
「血の中に思いが溶け込む」
を、ここに置く。

簡単に言えば沸き立っているのが活気であるとすれば、思いがとけこまない血も水溜りのごとくであろう。

つまり、よい思いを血に溶け込ませ
ソレが沸かされて、良いことをする。
細かく説明すると長くなるので省くが
これが、活きし血であると思う。

と、次に続く言葉
活きし血に・・・
「ひ」が魅入り居なのであるが、
「ひ」は古い言い回しで言うと
[魂」「御魂」という意味である。

活きし血に「ひ」がみいる。
魅了され、「ひ」が血の中に住まう・・

実際問題をいえば、通常は逆であるといえる。
臍下丹田に血脈のこもとがあり、
その臍下丹田に「ひ」がすまう。
臍下丹田をとりまく血流が(思いや欲)で汚れているから、「ひ」が送ってくる「良い思い・アドヴァイス」が、汚れた血のなかにまざりこんで、
なんの功も奏さなくなる。

だからこそ、
活きし血に「ひ」は魅せられて血の中に思いを託す。よい思いを送り込んで加勢してくる。

だからこそ、まず思いを良くする。

思い一つで物事変わる。

と、思う。

こういう観念が憂生の中にある。
だから、父音の下に隠されている言葉をこういう風に当てはめたとき
なにかしら、言霊にしろ、数霊にしろ
もう、今の世の中では判らなくなっているが
なにかしら、意味があるのではないかと思ってしまう。

続いて、数について・・。
ひふみ文書の言葉とは無関係で、
相変わらず、勝手にこじつけた話でしかないが
数にもなにかしらの霊が篭もると思う。

たとえば、むつかしい。
と、書くときに
六つかしいと、書く場合がある。

暦に詳しい方なら
六三とかいう言葉を聞いたことがあると思う。
このあたりからの出展だと思えるのだが
憂生の言うのは又少し・・違う。

六つかしいという六のはなしではないが、日本の数のかぞえかた。
ひとつ、から、ここのつまでの「つ」についても考えてみたい所である。
ちなみに「つ」というのは単純に考えれば「おしよせてくるもの」「あちら側とこちら側の境目」という意味合いもある。
最低限、この「つ」がついてる年齢までは親は「つ」を見張っていなければならないという、昔の考え方と思われる。
昔、元服の年齢をかんがえても、10からは自分の責任であるといえるかもしれない。

「位」から考える

さて、ここまでが、あるいは、下地つくりであったといえるかもしれない。

要するに大前提。

で、数。

これは、1~いくつまでというものでなく、いわゆる、位。

位というくらいだから・・
その字の通り
人が立つ姿をあらわしていると考えている。

一の位。
原初そもはじめ、
中朝事実・・になってくるが、
簡単に言うと夫婦という横の筋。
神代の昔、人を作っていった基が
いざなみ、いざなぎの2神の夫婦ごとからはじまるわけで、
これを基礎と考える。
夫婦が無ければ「自分」という存在が無いということになる。
出生といいかえても良いかもしれない。

十の位。

一という横の関係に縦筋が入る。
夫婦という関係から親子という関係が生じていく。
子供というものはまた、一として、考えられ、それが、また縦の筋を加えていく。
いいかえれば、一が自立した姿がひとつの家庭という十の形を現すともいえるので、ここで、まず、夫婦の在り様を考えさせられる。
夫婦の在り様がたとえば一でなく/のようにかしいでいたとすると
あるいは、子供の中にひずんだものが生じ、子供が自立した十を形作るときに
/の筋になったまま、横筋を迎える。
・・・でかしいだものを内在させていると結局、破綻を迎えることもありえる。
(のでは、ないかと思うので、、
夫婦の在り様を子に受け継がせないような、一でありたいという意味で、破綻するもんだという話ではない)
で、横道にそれるが
×1・・とかは、こう考えるといいえて、妙だと思う。

百の位。
夫婦も親子の関係も立派に成し遂げたとしたら、今度は自分の内面つくり。
人間完成は大げさかもしれないが
このあたりを人生の指標にしてもいいのではないかと思う。
で、一の下に白。
夫婦としての在り方を基本にしていくのは当然ながら、
この場合の一は腹一文字のような意味合いの一を想定する。

別の言い方をすれば腹黒いというアンチテーゼで腹一文字の下が白いという意味合いが納得できると思う。

千の位
これは十に払い、あるいは、テン、がつく。
常々、憂生は天網恢恢疎にしてもらさず。とか、八甲田山死の彷徨のせりふ
[天は我を見放したか」とか、
天意に通ずとか、南州公の「敬天愛人(仁)」とか、よくもちだしてくるが、
百の位でも、前述の日記でも書いたように、綺麗になる。白くなる。
と、御魂からの加護?加勢?を得られると考える。

御魂というものを、憂生は天からの分れだと考えている節がある。
本来のもともとの自分が御魂の中にうずめられていて、それが、御魂どおりの姿になれよと思いをふきこんでくる。
天からの分れであるなら、本来のみたまどおりがはまってくる白い姿。百の姿になったら、天の思惑通りとなる。
その姿がテンをいただいた、千の姿に相成る。

万の位。
よろずこというが、これは字の成り立ちを考えていくと「根を張る」姿と相成る。
一の下が、根である。
腹一文字の下、白くなった自分の思惑に根が下ろされていく。
家で言えば土台が作られる。
腹黒いところに根は降りない。
くされてしまうから・・・。

憶(億)の位。
真っ白な腹から芽吹いた思いの樹は生い茂るほどに周りをも救う・・(言い方が変か?)
逆を言えばこの人の言うことなら間違いが無いというほどのものになる。

字の通りの意味を思う。
心が意のままになる。
意が心のままになる。

天意ととるも、御魂からの思いと取るも
何でもいいんだけど、
よく、考えではわかってるが感情が沿わないとかいうように、
意と心が「まま・ひとつ」にはならないものである。
意は良いもの。正しいもの。であることが多いが
それに、心が沿わないことはよくあるが
この場合はもっと、厳しい。
意が心か、心が意かというほどの境地?極限までをさすほどに、無心?我のないこころが、意のまま。
意が心そのものになるというのだから、もの凄い。

いつだったか、悟るということを書いたが心が吾・・になるのと似ている。

人としての[意」のままの姿。
こういうことをぽちぽち、かんがえたりしているんだけど、

・・・。

実際問題・・意のままにならない、自分とむきあうことになる・・・。

不思議と・・

精神医学というと、大げさなんだけど
過去、いろいろと、精神的に障害というと違うな。
けど、まあ、病名がつきそうなとか、ついている状態の人と立て続けに
知り合うことがおおくなり、
どういっていいんだろう。

その多くはやはり、心霊的な世界に入り込んでいることが多かった。

憂生には、今はさっぱりだけどwww
当時、「思いを拾う」というか・・・。
そういう状況がおおくあって、
まあ、そこは、包み隠さず?ブログにあげていた。

そこに
「おまえも死んだ人間としゃべれるのか」
などというぶっきらぼうなしゃべり方で近寄ってきた女の子がいた。

まさか・・・。
残念ながら、死んだ人間などとしゃべれるわけがない。

形としては、
たとえばというか、実際にだが
「家をうらないかんなあ」
と、いう誰かの言葉が脳裏に響くわけ。

このあたりで、まず、自分の魂にごめんなさいをいっておくことと
それが、本当のこと、
魑魅魍魎や狐に化かされたとかでなく
本当のことなら、いずれ、目にみせてくるから。
と。

つまり、何かに憑依されて、それの思いをほいほいとうけとめていたら
憑依したものに魂を差配されてしまうので
うのみ、うなづいてはいけないということなのだと思う。

で、待っている?というか、忘れてしまうことのほうが多いのだけど
3ヶ月くらいすると、それが本当になる。

こんなことがいくつも続いたり、ネット知人が入水自殺しそうになったのが
なぜか、わかって、「死ぬな」と念をおくりつづけて
知人が正気を取り戻して自宅にかえってきたのもわかって
ネットチャットの前で待機していた。
それもおかしいな、もう帰ってきてるはずなのにと待っているとこが
馬鹿というか・・・ww
彼女は水びたしで帰ってきているんだから
当然、普通に考えたらシャワーあびるよなあwww
で、案の定30分ほどしたら
チャットの前にきて、今シャワーあびてた。
実は死のうかと迷って、近くの池にはいっていた。
30分くらいつかってたら、頭ひえて・・・さっき戻ってきて
シャワーあびてたんだ
と、いう。

実際、わかるわけもないのに、入水してるとわかったとき
憂生も一瞬、物の怪などにたぶらかされてるんではないんだろうか?
と、迷った。
でも、人の生死にかかわってることであり
たぶらかされたなら、
もう~~純な憂生だから~~~と笑っておわるだけ。
そう思って、信じて、必死になって念を送り続けた。
どこの人かもしらない。ネットでちょっと深めに話してた人。

まあ、そういう風なパターンがいくつもあって、
その最初に書いたお前もしゃべれるのか?の女の子はもっと前に知っていたひとだったけど・・・。

奇妙だと思った。
死んだ人としゃべれることが、ではなく
なぜ、しゃべるのか?ということに・・・。

結局、このあたりを境にいろいろ話をするようになったのだけど
その死んだ人というのが・・・
彼女の恋人で、同乗事故かなにかで彼女は助かり、彼は死んでしまったような・・・。

そこまではよかったのだが・・・。
もう、わすれて、新しい恋というか、人生再出発したほうがいいんじゃないか
う~~ん、
簡単にかいてしまってるけど、この言葉がすんなりだせるのは、
憂生の作品(ブロー・ザ・ウィンド)を彼女が読んでいたから。
このあたりはの理解は作品をよんでもらうしかないとおもうけど・・・。

ところが、彼女は憂生にそういわれた後、
恋人の墓にいったら
もうくるな。お前は自分の人生をあゆめ
と、いわれたという。

なぜか、ここで、疑問を感じた。
それは、彼の幽霊でなく
彼女の呵責が実体化しているのではないか?
と。

突然、幽霊がそんなことをいいだすのも不思議なきがした。

結局、彼女は最終的に境界認識異常とかいう病気になっていた。
自分が誰かもわからなくなるだろうと医者にいわれたという。
(この間にもいろいろなことがあったけど、どこかにかいてる)

そして、それっきりになってしまったのだけど・・・。

精神疾患のひとつに
妄想障害のようなものがあり、
時に憑依障害と診断されることもあるようだけど
もう一人の男性は躁鬱症だったとかで、
妄想というか、憑依障害というかわからないけど
たとえば、俺は安部晴明だいいだすということがあったかとおもえば
実際に不思議な能力をもっているところがあり、
ここでもいろいろ不思議なことがあったのだけど・・・。
ここは、憂生の類推にすぎないけど
犬神つきではないかと思っている。

精神疾患の中で、本当に精神疾患なのか
なにかのつき物によるものなのかは
判断しにくいところであるし、
実際、精神科の医者と霊能力者?ヒーラーとかは、
あいいいれないところがあり
そこが、ひとつに、スピリチュアル的療法に結びついていった昨今だとおもうけど・・・。

人格分裂においても、
別の自分をあるいはつきものととらえるところがある。
人格分裂においても、
自分がもう一人の自分を認めないところからも始まると思う。
たとえば、意地悪な自分がいたとき、あれは私じゃないとふさぎ(とじこめ)こめてしまう。
すると、そこで、別の人格・人間が形成されてしまう。
いじわるでもいいじゃないか。と、肯定する
とか、
なぜいじわるになってしまうのかという根本の感情を解決しない限り
別人格は統合(統一)しないだろう。

たとえば、安部晴明だという人でいえば、
ある程度の不思議な能力をもっていても
それは憑依障害だとか、妄想だとかいわれてしまえば、
別の人格に自分を置き換えたら、認めてもらえるのではないか?とか
安部晴明だといえば、納得されるのではないだろうかとか
(たとえばです)
そういう感情、認めてもらえない、信じてもらえない
と、いった感情が一気にはけ口をもとめてしまったとともとれるし
実際、彼の安定した状態。
あるいは、みとめてもらえるようになったところで
自分をとりもどしていたところに
憂生自身のある出来事を話したことがある。

その話をしてから、
自分でもしまったと思っていた。

彼の価値感をくつがえす内容だったと・・。
たとえば、彼は人にうらぎられていたとする。
そこが原因で躁鬱病を発症したとする。
そして、仮に、人間みんな弱いんだから、裏切ってもしかたがないんだな、逃げ出しても仕方ないんだなと
許すことで均衡をとりもどしていたとする。
そこに憂生がもっとひどい状況でも
裏切らない。逃げ出さない。と、いう事実を見せたとする。

たとえば、そんな風なことをみせられたら
人間みんな、弱いんだから・・という許しの前提が成り立たなくなる。

成り立たなくなったら、彼は崩れるだろうと思った。

結局、それは、あたっていた。

あくまでも、自分のつらいところを相談したかっただけだったのだが・・・。

何をいおうとしているかというと
自分の底の感情を本当の意味でクリアしてなかったというかな。

最初にかいた彼女も、おそらくでしかないが
あるいは、生き残ってしまった自分への罪悪感のようなものが
解決できず
自分を違う自分にしたてることで(一時期、男のふりとかしていた)逃れていたんだとおもう。
当初は死んだ恋人がいきてたらこういう人生?だったかなというところを
同化させて追従していたのかと考えていた。
ところが、彼女いわく、
わざとやってるのでなく、そうなってしまうという
状態で、このあたりから境界異常が認識異常がはじまっていたということがわかったのだが
それも病院にいって診断されたそうで、
おそらく、病院では彼女がなくしてしまった、なくそうとした感情(あるいは生き残った罪悪感のようなものとか)について
スポットをあてるまもなく、彼女は精神疾病に飲み込まれてしまったのだと思う。

なくしてしまったものについての喪失感もふかすぎたのだろう。

もっと、話を聞けばよかったと思う。
彼女の感情を開きだして
あなたが生きていてよかったと。
いきている価値をもっとしっかり諭していければよかったと思う。

おそらく、彼女はそういってくれる相手をさがしていたのだろう。
心底、彼女が生きてることを喜んでくれる相手をさがしていたのだろう。

それは、本当に彼女を愛してくれる人がいれば、
解決していったことなのかもしれない。

自傷癖というか、うっかりするとそれで、しにかけてしまうことさえあったある青年は
憂生にこんな話をした。

「精神病だって、愛してくれる人が抱きしめてくれたら、必ず直る」
彼の愛する人は彼をあいしていたけど
彼が最後を看取ることになった。
「俺を、だきしめてくれる人はもういないけどな」
そういってた。

こういういろんな経験?がのちに憂生をたすけてくれることになった。
亡くしてはいけない人を守ることができたのも、すべて

不思議と、こういうふうに・・
自分がつちかわれていくように、
対処できるように、差配し、鍛えてくれるものがいたとおもう。

不可解でごめんにゃ

不思議な体験があるわりに、
昨今はやりのヒーラーとかリーデイングとかに
懐疑的なのはなぜだろうと自問しています。

とくに、なんちゃか神様がおりてきて・・とかいうのが
とくにいけません。

こういう能力というのは、
たぶん、自分にもあるのだろうと思うのです。

そもそも、それがなんであるのかも
神なのか、先祖?守護霊?自分の魂?低級霊?
なのかもわかりません。

ただ、あるとき、妙なものにとりつかれ
予知?とか、言い当てとか
ぽんぽん、くちをついてでてくることがあったのですが、

その状態のまま、師のところにいったのです。

すると、玄関にはいるやいなや、
「おどりゃあ、おのれはどこの狐、狸じゃあ」
と、師が一喝!!

あとできかされたところによると、
狐、狸などでなく
国津神だったそうで
すでに、ここから????の世界なのですが・・・。

続いて、言われた言葉が
「お前の魂にはせめて、天津神じゃないとなあ」
????

わからない言葉はきになります。

それで、国津神と天津神とは、どう違うのか?

調べます。

その答えがあってるかどうかさえわからなくても、
調べるしかないwww。

で、おぼろげにわかったのが
国津神です。

これは、いわゆる人助けをするために
人(の魂)に、のって
その人を使って、人助けをする?させる?というものです。

つまり、多くのヒーラーとか?についている「神」は
国津神ということになるかと思われます。

このあたりでも、一時期見透かし?のようなことができて
と、いうか、前にかいた誰かの思いがはいってくるというのがあって
あるヒーラーのところにいったら
憂生の中で
「なんだ、たまより姫か・・・」
と、いう言葉がうかんできて
果たしてそのブログをよんでいくと
せおりつ姫からのお伝えですとか・・・
またここでわからない言葉がでてきたので
ぐぐりますね。
たまよりひめ
(だったと、きおくしていますが、ちがうかも)
簡単に言えば巫女とかいたこ?みたいなもので、
神のよりしろみたいな役目の方を全般的にこうよぶようです。

このたまよりひめは
そのブログのヒーラーをさすのか
せおりつ姫自体をさすのかわかりませんが
「なんだ・・」という言葉がひかかります。

期待していたのに、なんだ、そんなものでしかないのか?
と、いうニュアンスで
よりしろなどは、かなり身分?がひくい?
(自分の能力で物をやる人じゃないといういみあいで)
と、うけとめられるつぶやきだったのです。

前述のせめて、天津神・・という言い方をうらがえせば
人助けをする神(国津神)につかわれるような魂でないということになってきます。

ここで、さらにかんがえます。

人助けというものが、本来、どういうものなのか?ということをです。

人助けがいけないことだというのではなく、
人助けより以上のものがあるということになってきます。

この視点から
人助けという段階ではなぜいけないかということを
(憂生にはです)
かんがえていった時期があります。

そのころにまたいろいろと不思議な体験や遭遇をしたわけですが・・。

たとえば、霊能者の方とはなしたことがあるのですが
その方は何千もの呪縛霊?をせおいこんで
ちゃんと、引導をわたす。
成仏させることをやったり、ほかにいってとりついたりしないように?か
自分のとこにせおいこんでいて
見える人がみたら、何千もの霊がもぶりついているのがみえるらしく
このせいで、神社とかに入れないとか(別の人だったかも)
その方に尋ねたのです。
言い方が悪かったと思うのですが
そういう世界にいるということはあなた自身もそういう世界におちているということですよね?
と。
無論、神様がみえたとてそれが本当に神様かどうかもわかりませんがww
神様と話ができるから、そういう世界にあがっているか?というとここもあやしいところですが・・。
その方の答えは
人それぞれ、お役目があるのですよ。
と、いうものでした。

つまるところ、
人助けという段階がお役目の人もいるということでしょうし
極端な話
前世からの因縁というのもあるかもしれません。

この因縁もふたつあって
おおざおっぱに
前世の気持ちを晴らすという意味合いのものと
前世の悪い行いを清算するというものとがあるのではないかと思っています。

先の霊能者でいえば
たとえばですが、目の前で多くの人が戦争とかでなくなり
死んでいった人々を回向して、成仏させてあげたいという思いを晴らす。
逆に
多くの人を惨殺?してしまい、その侘びというか、清算のため
こういう状態になっている。

こういう考え方はちょっといやなところですが
そうなると、
霊をたすけているというより
自分をたすけるためにやっている(やらされている)ということになります。

国津神も結局、何らかの意味合いで自分のために
誰かをつかって人助けをおこなっているのだとしたら
そのために自分の魂を利用させるということが
はたして、人助けになるのだろうか?
そういう役目だと思ってよいことをするのだからということだろうけど
自分の魂を悪く言えば国津神になげわたしているようなもので
その考えをすすめると
自分の魂をどうにでもあつかうということをする人が
人助けなぞできるのだろうか?
と、思ってしまうわけです。

そこで、
人徳というか、人柄や苦労などで
自分の領分で人を助けることができるような人間になることが問題であって
人を助けることができるかどうかというのとは質が違うと思うのです。

ここを忘れて、おかげ信仰してるんじゃないかなあと。
一時、妙に能力?があったころ(憑かれていた?)
有名な霊能力者さんのところにいったところ、霊能力者のページはなんともなかったのに
コメント欄にはいったところ、ものすごい・・・う~ん
なんというんだろう?邪気?欲?迷い?がうずまいていて
前に話した幻惑感がそのときにまたおきてきたのです。
おそらく、邪気とかマイナスエネルギーがうずまいていたのでしょうね。

他力本願なおかげ信仰をまきおこさすことが世の中のため、人のためになるのだろうか?
と、疑問を感じたところではあります。

まあ、なにかを簡単にわかりたいと
これも一種の欲で見に行ったのは憂生ですから、
コメント欄の邪気とおなじでしかないのですがwww

そんなことがあってから
またしばらくして、いろいろなスピリチュアラーとか陰陽師とか?
いろいろ、みてまわったのですが、
そのころに魂のイメージがうかんできて
相手の魂を手の上にのせると
こちらの手がしびれてくるとか、
低級霊に差配されているとしか思えない状態とか
結局、自分の魂を他のなにものかに食い物に?させている状態は
とても危険だとしらされることがあったわけです。

こんな折、霊道があいてるとかで死んだおじいさんがよく現れるという方で
病状的には
閉所恐怖症みたいなところと、
霊をかんじとるせいか、対人恐怖症みたいになってる方がいらっしゃって
その方とメールで話をすることがあったのです。
すると、相手のメールを開いたとたん
真っ白な閃光がスパークしたのです。
そして、じっとみているとなぜか、無性に手をあわせたくなるのです。
拝むというやつです。
正直、得たいの知れないものを拝むなんてとんでもないことなのですが
まあ、ままよと手を合わせてみたのです。
すると、そのときにも感じていた幻惑感がすっとおさまって
憂生の脳裏に浮かんできたことがあったのです。
「手を合わせて、(お願いしたいことがある)というのは憂生でなくメールのむこうの何者かの思いではないか?」
憂生が手を合わせるのをみて?
合掌の意味もなにかしらあったと思います。(仲良くしよう。相和の気持ちですよ・・とか)
むこうがメールの本当の相手?につたえてほしいことがある
ようなのです。
なにをつたえていいかもわからないでいると
「お前のおもったとおりでいい」
と、なんだかえらそうでしたwww
で、そのままつたえたことは、
「自分の魂を大事にしろ」というような内容だったと思います。
さらにもっと書こうとすると
「もういい。それだけでわかる」
と、とめにきたのでそのこともかいてメールを送信したところ
帰ってきた返事は
魂というより御霊といっていたのですが
「御霊をもっと意識しろということですね」
だったわけです。

その方の魂は真っ白というよりパンを作ったときの種のような感じの色合いで
まん丸でずっしりしてるけど、表面がぱさぱさとかわいていて
パン種をうまく丸めきれずに粉をいれてまるくしたら、表面がぼそぼそになるのと似たような感じになっていました。

それが、どういういみであるのか調べることはやめたのです。
彼女のおじいさんかなにかしらないけど
ちゃんとみちびこうとしているものがいる。
そして、彼女も導いていこうとするものの助言をわかった。

これ以上は余分だなと。

まあ、書きながらふと思ったのですが
国津神の人助けというのでなく
たとえば光った主、それが彼女の魂だとしたら
そこを助けた?(こういう言い方では違うのですが)
これが、天津神の仕事かな?と

むろん、今はそんな能力?どこへやらww
結局、こういうことも
自分の魂を自分こそが意識するんだと
メール相手によってつたえられたことじゃないかとおもうわけです。

結局ww
相手を助けてるつもりでも自分が助けられてるということなのだと思うのです。

まず、最初に自分をすくいきってしまう。
そして、

自分の魂をすくいきってしまう。

自由自在に魂と意思がつながる。
自分の思いが魂どおり。
魂の思いが自分とおり。

こういうことが、
天津神がつかさどる(助力)ところじゃないかとおもうのです。

われにかえる

予知というほどではないのだけど
それかな?と思うものがある。
世界的規模になってくると
はっきりとわからず
「たいへんなことがおきる」
と、思わされる。

そんなことは、いまや、日常茶飯事なので、
予知とはいいがたいのだけどwwww

ひとつだけ、不気味な夢をみた。

頭上みあげると
飛行機が高度をおとしながら
おちてゆく。

その夢の直後、
9・11テロがおきた。

正直いって、それが予知夢だったとして
わかったから、なんだという。
それをとめられるわけでなし、
カードゲームの神経衰弱にさもにたりで、
じつは、
いくつも、良くないことがおきるはず?のことが
うまく?札が一致せず、未遂におわってるだけだろう。

と、かんがえると
未遂におわらせることができないもの

が、つたわってくるということになる。

なぜ、未遂におわらすことができないのか?

いくつかの個人的予知について

師から、みょうなことをいわれた。

ふつう、魂は6時間前のことがわかる。
だが、おまえは
7時間前のことがわかる。

いまだに、この意味がわからないのだけど・・・。

普通よりもう1時間さきのことがわかる
と、いうことはどういうことになるのだろう。

いつか、
その予知?内容について
はげしく、否定した。

あの人間に限って、そんなことはありえない。

と・・・。

ん?

待てよ・・・。

そして、当の本人はぴんしゃこしていた。
それを確認したのが、
うろおぼえだけど
7時間後くらいあとだった。

つまり、予知したのは、
事故った。ということのほうでなく
あの人間に限ってそんなことはない。ということのほうか・・・。

きけば、その時刻に事故寸前までいっていて
横からハンドルを握って本線に戻り
トラックと衝突せずにすんだという。

確かに時間的なことをいえば
予知ではなく
そのままの時間であったから
いえば、知らせ?であったろう。

ああ。
結局、ここでも、「人の思いがとびこんできた」ということだろう。
たぶん、一瞬、事故った(事故る)とおもったのだろう。

そして、否定して
7時間後に無事の姿を確認するという予知をおこなったということなのだろう。

ああ・・
そういうことか・・・・。

妙に、わかるところを予知とかんがえていたところがある。

そうでなく、
しらされたことがほんとうだったとか、(うそだったとか?)
わかることがあって、はじめて、事実になるわけだから
事実と認識するのが、ある意味7時間先で
そのことを7時間先に予知するという意味なんだろう。

それがどうしたといわれそうな内容だけど・・。

ひとつ、認識違いをしていたなとわかった。

もっと、いってしまえば
「いや、あの人間が事故をおこすはずがない」
と、いうのが
御霊からの「思い」だということになる。

たぶん、たとえばそんな風に
自分の思いの中に「御霊」が溶け込んでいるんだと思う。

そんなふうに、自分のおもいとしてわいてくるのが本当で
きこえたり、かんじたり?ささやかれたりするものではないんだと思う。

師がある日、みんなに
「いいたいことをいえ」みたいな(ここどわすれ)をいうので
みんなで
おもうことを発表?していた。
みんながいいおわると
師は
「言うことと、御霊の思いが一致してるか、みていた」
と・・・。

つまるところ、
言いたいことを言えは御霊に声をかけたということだろう。

御霊は師に自分の思いを話そうとして
本人に思いをわかさせる。

すると、それをキャッチできた人間は
御霊の思いを口にすることができるということだろう。

その一致を見てる。と。

御霊の思いだということをわかることなどできない憂生であるが
ときおり、御霊がつぶやくときがあるようで
師に何か言われたとき、
ま逆の思いが浮かんだ。

それいいね。と師がいってるのに
そりゃ、たいへんなことだ。良くないなあという思いがわく。
ぽつんとつぶやかれたようで
「そりゃあ、たいへんだ。よくない」とおもうのですがと返すと
ああ、それは、御霊の思いだ。
と、いわれたことがあり・・・www

結局、いろいろ、考えると
師の言葉も本当だし
御霊の言葉も本当だ
と、わかったのだけど
実際の場面でどれが、自分に御霊の思いなのか
わからないものだとおもう。

それは、自然と自分に同化し、
自分の思いそのものとみわけがつかない。

と、なると
良い思いをもたないかぎり
「御霊の思い」は「自分の思い」にのってこない。

そして、
御霊は常に良い思いをおくろうとしているのはまちがいない。

それをうけとめて
自分の思いを同じように
う~~ん
逆にいうと
自分の思いを御霊どうりにすることができれないいわけだけど

どこかで?
自分の我とか
欲とか、感情とかにながされていると
御霊どうりの思いになれなくなる。

欲とかよくない感情とかをてばなすのは
むつかしいことではない。
それが、欲であり、良くない感情だとわかることのほうがむつかしい。

それらをてばなさせるために
あるいは、同じような人間をみせてきたり
欲からおきてきたことがどういうことになるか
を、わが身をもって知らされることがある。

それが、わからないから
むつかしい。

なんで、こんな人がうろうろするんだろう。
なんで、こんな目にあうんだろう。
と、そうじゃない自分をおいかけてしまうから。

そこを、そうじゃない自分になればいいんだけど
そうじゃない自分をおいかけるだけ。

まるで、違う世界にいて
御霊通りになるはずは無いんだと思う。

憂生のくせに
「自分、だめだろうな」というのがある。
そこに逃げ込んでおけば
できなくても、やっぱり自分だめだからなって
努力せずにすんでしまうというか。

結果、ついてきたものは
「自分、だめだったな」という結果と
それに対する上手な宥め。

たとえば、こういう感情ひとつ、クリアできなきゃ
良い結果にはならないという当たり前のことがわからずに居た。

うぬぼれでなく
自分 良いんだ。
みたいに、自分を信じる気持ちをもつことが一番さきだったのかもしれない。

明察

以前の職場でふたつのことがあった。

ひとつは同僚の思いを拾ったというか・・・。

同僚の母親の体調が悪く、いつ・・どうなるかわからないときだった。
その朝、仕事をしていると
女性の声で(と、感じる)
今、おなくなりになりました。
と、ひびいてきた。
すると、しばらくして
同僚の母親が亡くなったので
今、病院に向かった。
今日の仕事は憂生ひとりでやってくれ・・と。

どうやら、時間はあってるし、
おそらく、同僚に連絡した看護婦の言葉だったのではないかと思っている。

茫然自失というか、
強いショックとか、うけると、
魂がぬけたように・・という言い方をするけれど、
おそらく、同僚がそういう状態になっていて
そのショックそのものがこっちにつたわってきたのだろう。

こういうことも、非常によくあって、
事実とちがっていたりするのだけど
そのときのショック?がつたわってくることがあった。
「子供が死んだ」とか
(結局、切迫流産になりかけて入院になっていた)
「事故った」
(運転手のいねむりにきがついて、ハンドルをきって無事)
強く思ったこともつたわってきた。

こういう風に、人の思いがはいってくることは
さほど不思議にはかんじなかったのだけど

先の職場で
どう考えても、人間の?誰かの思いではないことがおきた。

昼休みがおえ、仕事をはじめようとしたやさき、
「成仏しろ・成仏しろ」という
男の人っぽい言葉がひびく。
憂生はなにをいうとんじゃ?
と、いう思いだったと思う。
妙なことを・・・と。
いうくらい、
以前にかいたような、見納めだなというような
対象になるもの?がない。

わけがわからんとおもっていると
まもなしに
上司のところに連絡がきて
上司の兄弟が人事不肖・・・危篤状態で意識が無い。
とのこと。

つまり、幽体離脱?みたいなことがおきて
霊魂が上司にあいにきたのだろう。
それをみたなにかが
「成仏しろ」と・・・。
翌日の話で、意識がもどったそうだけど、
疑問なのは、「なにか」がみたものというか、
おそらく、死んだと判断したのだろうけど・・・。
しぬかどうかwww
わからんやつなんだなと・・。

どういうのかな。
霊の世界のことがわかるのは霊というか・・・。
(御霊と霊はちがいます)

霊というのは、霊界のものです。

御霊というのは、天の分かれ 分霊で
人間の魂の中にはいるというかんじですね。
人間のときの行い?などなどで、
死んで霊界にもどったりしてしまうそうですし
よくいわれたり、きかされたのが
そんな思い方じゃ、子供を霊界からさずかるぞ。
と、いう言い方です。
子供は天からの授かり物という言い方をしますが
授けられる側の思い方如何というところもあるわけです。
また、
いずれ、死んだときには天にかえらなきゃいけないんだ。
と。
天にかえれるようになれないと、
幽界にいって、生まれかわるということで、
天に帰れたら、そのままでいるとかで
うまれかわらないそうです。

よく、この世にうまれるのは魂をみがくためという言い方を
しているのをみかけますが、
そのとおりなのでしょう。

と、かんがえますと・・・www
霊の思いがはいってくるということは、
あるいは、
憂生自身の位置が霊界の段階でしかないということになります。

こういうのでは、いけないということなのか、
昨今、神さまとか高次元とかとつながるなどという考え方がでてきていますが・・・。

では、守護霊とかも霊になるのか?とおもうのですね。

憂生じたい、魂(御霊)のことをしらされたあとに
仏壇の前に座る5人の男女の姿をみました。
仏壇にむかってでなく
仏壇に背をむけて・・・
つまり、仏壇と同じように、前を向いてならんでいました。

そのことも師にたずねてみたのですが
その前に、憂生は転居続きの人で
子供のころからかぞえて10回以上転居しています。
その転居の場所の近くに必ず、神社や寺があったのです。
それも、よく離れて50mあるかなし。真横が4回くらいあったかな。
そこも不思議でたずねたのです。
すると、
「先祖に徳の高い方がいてお前を守っていたということだ」
と、明かされたのです。

そのことがあって、仏壇の前の先祖らしき人のことです。
「それは、背骨の5番目に先祖がいたんだということで、
お前が魂(御霊)のことをしったのと、私と知り合ったので、安心して帰っていったんだ」
とのことだったのです。

なぜ、憂生が魂(御霊)のことをしったら、安心してかえっていってしまったのか。

結局、師によって、御霊が導かれるほど、安心なことはないということと
これからは、自分で御霊を守り、守られしていく必要があるということではないかなあと
御霊がひきまわしてくれるというか・・・。

もともと、このままでは、日本が危ない、と。
日本をよくしていくためにも御霊を磨く必要があってということが本筋だったわけだとおもうのですが
なかなか、思うように行かなかったところがあると思います。

御霊が立派になっているのに、
本人の人間性・思いがへなへなだったり
カルマにのみこまれたり
自分の立替さえできない、憂生のような・・・www

思いひとつもままならない状況で
師と決別することになって。

結局、
「それでも、御霊は自分の中に居る」
と、いうことだけだったのです。

今、ひとつのカルマというか
業というか
それをぬけきらないうちは
御霊とおりとはいかないんだろうなという思いもあります。

不思議なこと・・・
それについては
「ここは神秘をさぐるところじゃないんだよ」
と、言われていたのをおもいだしました。

不思議をもって不思議とせず。

神秘がわくのもあたりまえでしょう。
あるいは、天の分かれという神?より以上のものがいる事のほうが
神秘以上の奇跡なわけですから。

もうすこし、
変な能力にこだわらないようにしないといけませんねwww

友人の一言が明快でした。

「また、頭上チャクラじんじんするんだけどさ」
「また、へんなのにつかれてるんじゃない」

ご明察。
人をもって知らせる。
これが本当だなとおもいつつ

キーボードを閉じます。

神と霊とま清水

え~~と。

どうも、憂生の不思議な能力を誤解されるかたがいらっしゃるのですが、

たんび、もうしあげますが、

神であろうが、霊であろうが、憑き物にはかわりがないという考えでいます。

本来、人間である自分の魂が、自分の本当の神さま(と、いう言い方は御幣があります)で、あるわけです。

太古の昔は、自分の魂と人間自身がつ~つ~に会話ができていたのですが、

だんだん、欲な思いをもちだし、魂のいうことを聞かなくなり

魂は、黙るようになってしまったのです。

そして、魂自体や魂のまわり(気とでもいいましょうか)に欲や業をつけてしまい、

今でも、魂からま清水をおくりだしてはいるのですが、

その魂のまわりの欲や業が噴出してきます。

井戸を掘ったとき最初にどろ水がでてくるのと同じ原理だと思います。

泥水の中には欲や業や因縁までもがとけこみ、それが、わきでてくると、

人によっては、その泥水にまみれてしまいます。

おそろしい事件もそういう仕組みなのではないかなとおもいます。

で、神さま・霊とよばれる一団?ですが、

神様なるものも、天への果たしが必要で、人間を使って

果たしを行うということがあります。

その果たしというのも、ピンからきりまであり、

神の格にもいろいろあるわけです。

例えば、日本、世界、(つづめて言えば人類)まるごとを救おうとする、国常立(天御中主)がいれば、

うせ物さがしなどのみいさんとか?

低級の神や霊に自分の魂を使われる程度の魂であれば、そのまま、取り付かれ、

助けられましたと、周りの人におがまれて、喜んでいるという人生でおわりかねないわけです。

実際、憂生も国津神に取り付かれ・・・たことがあるのですが、

この時、師が一喝で追い払ってくれて

そのときに

「憂生の魂には、せめて、天津神じゃないとねえ」という謎の言葉をかけてくださったのですが、

上に書いたことと照合すると、なにかしら、理の高い魂であるのだと思います。

そして、なによりも、問題になるのは、自分の心のありようです。

つまり、国津神にしろ、自分の何らかの欲?な心がとりつく隙をあたえたということになるわけです。

ですから、昨今のパワースポット礼讃とか?

ちょっと気になります。

なにかをあてこんだ思い(欲)を叶える神様というのは、はっきり言って、程度の低い神の場合が多いのです。

本当の神は、自分の中にあり、苦労・辛酸で(その人の人間の出来にもよるのでしょう)「人間」を本物に育ててくれるものであるわけです。

ここがわかってしまうと、安易に願い事を叶える神がありがたいかどうか?ということです。

パワーがたりないと神頼みするのでなく、自分の物事の受け止め方のどこが足りないのか?という自分を拠る事が本来なところを、あっさりどうにかしてくれという他力本願の思いになれば、ろくなものはついてこないということです。

こういうことがありますので、憂生は神や霊というものに対しての思い?願い?頼み?でなく、

自分の魂から「良し」といってもらえる自分の思い方であるかどうか。

魂からの清水をきちんとうけとめられる綺麗な自分になっているかということをかんがえます。

ハイヤーセルフというものを、憂生の考えであてはめると、

「天」になるなと思います。

そして、魂は天の分かれというところでしょうか。

最近の方〈スピリチュアラー)は、簡単に?この「天〈ハイヤーセルフ)」の意識とコンタクトできるようですが、

憂生は天をひとつの尺度・定規ととらえます。

人事を尽くして天命を待つ。

などという言い方がありますが、

天から命がおりてくるかどうか?と、いう量りといっていいかな?

これは、白蛇抄の中でも、よくとりあげた考えですが

「あてこんだ思いでは、天がのってこない」

と、思うわけです。

とにかく、人間としての自分の分通り、誠を尽くす。

と、言うだけです。

ですので、簡単に言えば、ハイヤーセルフに導かれることをあてこんだ思いでなく、

精一杯やっていけば、良いようにひきまわしてくれる。

と、思うわけです。

で、多く、ハイヤーセルフや、スピリチュアラーに相談する?というのは、

「何で、こんな苦労しなきゃいけないのか?それ、なにかおかしい。ハウツーがあるんじゃないのか?」

と、いう、苦労や辛酸を「良し」にしていないという心理があるとおもうわけです。

簡単に良い風になりたい?

と、いう考え方は憂生にとっては、おかげ信仰です。

一般的な考え方とは、違うことをいいますが、

はっきりいって、ハイヤーセルフとのコンタクトは必要がないとおもっています。

ただ、なにが、必要かというと、

そういう存在を意識するという事だけだと思います。

ハイヤーセルフ、あるいは、天(魂)からみられて、「恥」「間違った」思い方・生き方をしていないか?

と、いう意識が必要だと思うわけです。

こういう意味合いで、天やハイヤーセルフ(に導かれるだけの自分であるように勤める)を意識して、自分で、自分を練っていく事がだいじなんだと思うわけです。

憂生の不思議な能力?は、どこかの修練場所にいったり、能力開発をやったわけではありません。

単純に人を思う。

という、その思いから成ってきたようで・・。

ハイヤーセルフや、養成所や?こういうもので、自分の能力を開発したいなどという思惑であると、それは、

やはり「あてこんだ思い」「自分をでかしたい思い」として、いずれ、自分にはねかえってくることになります。

また、憂生は「癒される」という言葉が嫌いです。

言い方を変えれば、「私は疲労困憊しています」「満身創痍です」といってるわけです。

なぜ、疲労困憊なのか?

なぜ、満身創痍なのか?

それは、物事に対する自分の受け止め方が足りない。

よろこべるようなとりかたに昇華していない。

だから、「癒される」

癒される~~~などという言葉を口にだすということは、いかに自分が、未熟者であるかということを

披瀝しているように思えて、そして、本質的な取り組み(よろこべる取り方を捜す・考える)をしない自分であることを意識しない風潮に流されているだけに思えるわけです。

これは、ストレスでも同じ思いを持ちます。

ストレスを感じるのも、自分の幅、受け止め方がたりてないところに原因があるのではないかと思いますので、

ストレスのせいにするごまかしをして、ため息をついているのを、見せるのは、「恥」だと思います。

ストレスを感じる。癒されたい。と思うときがあったら、それらを感じる自分を省みるしかないわけです。

もちろん、憂生の考え方でしかないのですが、憂生自体、見方をかえる。と、いうことにそれなりに努力はしていますし、「しんどい」という言い方をしないで、なぜ、しんどくなるか。と、いうことをかんがえていくという性格なわけです。

自分をかえていくため・・の、ハイヤーセルフなるものは、いいかえれば、すでに自分がことばにしているわけです。

ストレス・癒されるなども、自分をほりおこしてみれば、ハイヤーセルフ以上の導き・教え・気ずきを内包しているわけです。

そこの日常の自分を是正しないで、ハイヤーセルフーを当て込むって、おかしいきがするわけです。

そんなわけで、先の結論に近いですが、

神や霊云々は、憑き物でしかないっておもうわけです。

ハイヤーセルフを当て込む思い方も、憑き物だとおもうわけです。

自分の発する言葉、自分の発する思いを詮議していけば、おのずと道は開けると思うわけです。

物書きをやっていて、思うこともにたようなもので、

己の中からどれだけひきだしていけるかという自己討議みたいなものです。

これを、自分以外のなにか・誰かに相談しながら書いて、はたして、書いた気になるでしょうか?

人生・自分自身もそうだとおもってしまう憂生がいて、ハイヤーセルフー・癒し・パワーを与えるなんて、言葉をきくと、勘弁してくれよ。と、思います。

自分の人生・自分は自分で切り開いていきたいと思うわけです。

ですから、憂生に起きる不思議なことは、本来は、具象化してはいけないことだと思うのです。

もちろん、以前にもかきましたが、

それらの不思議な物事にも、「自分に元」が在るから、遭遇するのだと思います。

それらの考え方を引き出してくれたのが、白蛇抄でもあるのですが、

最近も銀狼(第17話)でも繰り返しています。

そういう絡んだ因縁に遭遇するということは、澄明、お前の因縁が因縁を呼ぶ。つまり、お前がきれい(納所)になっていない証拠なんだ。

と。

この言葉をもう一度、憂生にあてはめなおし、考え直す事があるんだと、今日の鋲にします。

よくわからないけど・・・

昨今、断捨離という言葉がメディアにも浸透しはじめているようですが・・・。
どうも、こむつかしいいいまわしでは、ぴんとこないというか
心理的に目からうろこにならないところがあります。

頭がかたいといわれれば、それまでなのですが・・。
断捨離・・・という言葉で最初におもうことは、
親父の葬式のときの坊主のお経の一文?一節?です。

これも、白蛇抄 法祥 回向せしむるかや で、扱った内容ですが、
死に別れたり、思いがかなわかったり・・・う~~ん
物語は一言で語るには複雑なのですが、
最終的に、
「思いは自由だ」
と、いうところになるのです。
相手を失くしてしまっても、相手を思うことは自由だ。
むしろ、その思いをなくしてしまいたくはない。
相手に何ものぞまない。
が、
自分が思うことは自由だ。思いは自由だ。
と、まあ、かいつまみすぎですが・・・。

この中でそのお経の一節を使っています。

その内容ですが、(おそらくです・・)
「あなたは、これから仏の弟子になるのだから、一切の執着を断ちなさい。
さあ、あなたは、もう、執心無縁ですよ。
だから、そんなあなたを仏は導いていきます」
と、まあ、このような言葉だったと思います。

断捨離というのも、おそらく、「執心・執着」を絶つということではないかとおもっているのですが
実は、ここがポイントなんだってことを明確にしていないというか。

この考えを逆にいうと
自分の心が「執着・執心」だったときがつかなければ
心をときはなつことができないのではないかなあ・・とおもうのです。

たとえば、物に対して断捨離をおこなう?
それは物を始末することによって確かに物欲?執着?とかを絶つことはできるかもしれません。
けれど、たとえば、何年もたって、ああ、あの時にあの品物をてばなさればよかった。
と、おもってしまったら、断捨離じゃなくなってしまうのでは?
逆に余計な執心ができてしまったということになるのかも・・・。

で、
たとえば、いじめにあった人に、こういう言い方をするのです。
「こだわったほうがまけだよ」
「こだわってしまったら、相手にいじめられたのでなく、自分がいじめてるんだよ」
ひどくきずついた。くやしかった。悲しかった。
と、いう思いもこだわりであり
その思いをなだめたくて、相手をなじったり、うらんだり、逆に自分を攻撃したり・・いじけたり
結局、いじめられた、あるいは、こちら側をよいふうにおもってもらえなかったという凹みを
ずっと、かかえこんでしまう。
トラウマだとか、ストレスで、とかいう言い方は憂生は嫌いです。
あんなめにあったんだから、自分はトラウマになってもしかたがないんだ。
と、自分をいいわけして、自分をかばっているようで・・。
むろん、憂生にだってトラウマになるような事件はありましたし
かなり長いこと、立ち直れずにいたのも事実ですし、後遺症的な思い方は確かにあります。
けれど、それをトラウマになっちゃって・・とかいうのが、嫌いなのです。

こくな言い方を自分にしますが
傷つくような事件がおきたことに、自分が一切わるくないか?
と、おもってしまうからです。

いわば、何らかの角があって、それががーんとぶつかってしまって
結局自分が傷つく結果になったともかんがえられるわけですから。
元来、憂生はけちです。
こけたら、ただでおきあがるな。と、おもっています。
せっかく、こけたんだから、なぜこけることになってしまったのか
自分の角を自覚するべきだろうとおもうのです。
このせいもあって、トラウマになってしまった。など、いいたくないわけです。
そりゃあ、おまえ(憂生)の人間性にたりんとこがあるからやろ。自業自得やないか?
と、まあ・・
こういうことです。

でも、実際問題、どこがたりなかったかわからないところと
やはり、きずついたことがぶりかえしてくるのとで
もがくわけです。

そんなときに
ふとかんがえていたのが、
「相手はもう、こっちがきずついたことさえきにしていないのに、
こっちが、きにして、いつまでもひきずっているのは、
馬鹿みたいじゃないか」
「自分で自分をいじめてるだけじゃないか」
と、いうことだったわけです。

このことから、
「結局、こだわったほうの負け」ということを思ったわけです。

と、かんがえながらも、
正直、やはり、こだわります。

そこで、考えます。

結局、執着があるから、こだわりをすてられないんだろうということを。

では、なにに執着しているか。

おそらく、相手に
「(傷つけるのでなく、)大事にしてほしい、好きになってほしい」
と、いうのが本心じゃないかとおもうわけです。

つまり、それがかなわないをとおりこして、相手がきずつけてくるということに
ショックをうけているのだとおもうのです。

そう考えると
「わかってもらいたい・好意をもってほしい」と、思うことがすでに
執着じゃないのかなあ?と。

この執着をすてないかぎり、
きずつけられた(好意をもってもらえない・わかってもらえない)というトラウマやこだわりからぬけだせないんじゃないのかなあと。

つまり、もっと、いってしまえば、
いじめた相手にたいして、
自分はすかれたいとおもっているという
逆の気持ちをみとめないと
心の断捨離はできないんじゃないかなあとおもうわけです。

もっと、いえば、
あるいは、すかれたいという思いを断捨離できないから
結果的にこだわってしまう、傷が痛むのではないかとおもうのです。

いや、そんなことはない。と、おもわれるかもしれないけど
その相手がひどいことをせず、あなたをすいてくれて
よき理解者になっていたら、と、かんがえたら
それでもきらっていたかな?とおもうのです。
そういう風になってもらえなかったという悲しみが憎しみに変質していくんじゃないかとかんがえたら
根底はやはり、その人にすかれたい、だいじにしてもらいたい。
と、言うのがあると思えます。
つまり、こちら側の好意感情だと思うのです。

その認めがたい好きという思いを、認めたとき、
相手に好きになってもらおうという思いを
相手におしつけることはできないものだと気が着くわけです。

すると、
これもひとつの執心ですから
それを
断捨離するか、どうするか

相手に期待せず、
自分の気持ちだけは素直に持ち続ける。
いつか、わかってくれるときがくるのだろうと
執着を解き放つのも
断捨離なのではないかと思うのです。

いくつかの断捨離をかいてみました。

相手をにくむという思いをなくすという断捨離
自分をかわいそうと思うのをやめる断捨離
相手にすいてもらおうとおもうのをやめる断捨離

まだまだ、あるとおもいますが
断捨離とは、思いの自覚と切り替えがなければ
なりたたないものではないかな?

考え中

頭上チャクラの違和感がちっとも、とれないので、
ついついあちこちのブログにお邪魔して、
いるのですが・・・。

そのあたりで、
こう、読んでいると、
頭にちかっと痛みが走るブログがあります。

内容的には
感情的(私憤?)で、内省のないものに、そういう痛みを感じるようで
そのあたりのブログからは
即退散してきます。

この痛みという部分については、
以前書いた、御霊が受ける痛みとよくにていると思えます。

こういう「負の思念・エネルギー」を
痛みとして感じるということについては
痛みとして感じない人だって
当然、被害?がおきているということになると思います。

もちろん、自分の状態にも左右されて
陽気な状態でいれば
何らかのバリアができていて
スルーできることだと思います。

しかしながら・・・。
どちらかというと
書く側の立場になる人間としては、
気をつけなきゃいけないことですね。

知らずのうちに
負のエネルギーをだしているかもしれないということを。

元来、
喜べる見方とか
観を変えるとか
そっちに重点をおいていて、
そのためにも、
思いをだしていくということをかいてきていました。

白血病でなくなったAさんは
最初のころ、閉じこもった状態で
ほとんど自分の思いを出さずに
歌詞とか、そんなものを上げていたのです。
この歌詞もおそらく、Aさんの世界の一端をあらわしていたのだとおもいますが
自分の感情や思いをめったに書くことがなく
周りのブロガーからは
陰気な人としかうつっていなかったのです。

それが、憂生のブロー・ザ・ウィンドをよんだあたりから
急にかわってきて
自分のことを話し出すようになったのです。

突然、結婚を強いられ嫁いだ先には自分とほとんど年の変わらない子息がいて・・・。
そして、結婚をことわれず受けるしかなかったご主人には
ほかの人がいて・・・。
その事実をAさんにけどらせまいと父を呼びにいった子息が交通事故にあって即死。

Aさんは結婚相手の本当の思いと事実を知ることになり
同じ年頃で自分をかばってくれる存在をなくし
20年近く、ふさぎこんでいたのです。

そんな状態であることなど
いっさいあかさず
たぶん、子息がギターでひいてくれた曲などから
音楽のなかで心をなごませていたのでしょう。

それが、ある日
息子の事故現場に19ねんぶりに花をたむけにいこうとおもう。
と、はなしだしたのです。

うれしかったですね。

むきあうこともできず
さけていた場所に行こうというその変化とともに
自分のことを話し始めた彼女に。

それから、いろんなことがあったのですが、
彼女からおそわったことは
「自分をさらけだしていくことの大切さ」だったと思います。

自分をさらけだしはじめると
とたんに友人もできて
もっと深い話もしているようでした。

閉じこもった世界から
一歩ぬけだしていったら
彼女は
いろんな人に思われている自分を強く認識したようでした。

ブログの最初に
「いつも、思いを(かけてくれて)ありがとう」
そんな言葉をかかげていたのは彼女の本心だったのです。

そんな風に、
心を開き、自分をだしていくということは
とても貴重なことですが・・・。

一方で私憤で物を言う人がいるのも事実だし
憂生もやったことがあります。

今もやってるかwww

単純な言い方ですが
この記事、読んでよかったな
と、おもわれるようなことを書きたいとおもっていましたし
なにか、ひまつぶし読み物でなく
ある種の気ずきや示唆をこめられたら
それがいいという思いでもいました。

ところが、
いつごろからか
何がきっかけだったか
なにか、そういうことって
自己満足の世界というか・・・
自分が楽しんでるだけ?みたいな・・・
自己追従というか

そこらへんの疑問を感じるようになったのです。

いわゆる、おたくとかわりがないというか・・・
おたくもきわめれば、すごいと思いますし
継続できれば、それもまた本物だとおもうのですが・・・。
どうも、
何か、違う。

と、おもうのです。

まあ、手相とか占いとかでもでてるのですが・・・。
いろんなことに興味をもって
人よりはいくぶんか上?のところまでいくのですが
ある程度までいくと、興味をなくす。
よくとれば、
いろんなことを吸収していけるのだけど
船頭多くして舟山に登るみたいに
目的地にたどりつけない。

と・・・。

その目的地なるものさえ、みえてないのですがwww

なにか、本来なすべきことと違うことをやっているんじゃないか?

と、いう不安感があったりして
本来するべきことはなんぞ?みたいところで
スピリチュアル系統にのめりこんだ時期もあったのですが
結局、ここもなにか違和感を感じるのです。

よく、世界(宇宙?)とつながっているという充足感というような言葉をききますが
御幣があるいいかたになるなあ
つながってどうやねん?
と、いう思いがあるのです。
結局、それも自己満足の世界でしかないというか。

チャクラのとこで少し話したかなと思いますが
ちゃんと、御霊を磨いていけば
勝手にチャクラは開くもの。
と、いうかんがえでいます。

それとおなじように
勝手に宇宙ともつながるでしょう。

で、つながったという人の話をよんでみて
だから、どうなんだって。

なんというか、
研究書やハウツーものをよんでいるような?

なにか、心がうごかないというのかなあ。

たとえていえば、
Aさんが自分の心をはなしだしてくれたときのような
そんな喜びがうかんでこないのです。

高次元とつながった。
はあ、それがどうした?
みたいなwww
(失礼な言い方でごめんにゃ)

本当に好きなら
勝手にあがっていくもの。

ふと、浮かんだ言葉ですが・・・

多くの感動をもとめすぎているだけなのかもしれませんね。

少し、考え直してみます。





蛇・・の二面性

昨日のベタを訪問しておりますと

正直いいますと、

「でた~~~~~~」って、感じの内容の方がいまして・・。


どこだったかのブログの方と同じようなことを

いってますので、

ひょっとして、同じ人かそれに感化されたかたか?

と、思いながらみていたのですが、


ミカエルは見返るであり・・などという解釈のしかたなど

まったく同じなのですが、


この方だったか、どうか、忘れましたが

内在神という表現をなさり、その横に蛇がいる。

と、いうわけです。


この蛇は知恵をかし、財をもよぶのですが、

人間が欲に目がくらむと

内在神(憂生は魂(御霊)といっていますが)をのみこもうとする存在でもあるわけです。


ところが、人間が真の叡智をもって、

ただしくいきていく限りは

手も足もだせない〈元々、ありませんが)のですが、


蛇はまた、エネルギーでもあるわけです。

日本においては、大物主は「種・命の起源」としても信仰されているわけです。


第一チャクラからなんだっけ・・

クラウンチャクラまで

エネルギーがあがっていくと、

これは、ひとつの「覚醒」ということになるのですが、

あまりにも原初的で、強大なエネルギーのため、

このエネルギーをコントロールできないといわれているわけです。


この話は吹き上げという前に書いたこととにていますが、

チャクラと魂はちがいます。


チャクラは一種、エネルギーの出入り口です。

第一からクラウンまでの直通トンネルができあがれば、人間の身体にある

274(だったかな?)のチャクラへの道筋もスムーズになっていくということですが、

先にかいたように、

エネルギーをコントロールできないので、

危険なルート開通ということにもなりえます。



あ、話ずれる。


で、そのエネルギーが螺旋をえがき、背骨にそって、あがっていく、だったと思うのですが

その姿を蛇とたとえたり、第1チャクラのエネルギーがとどまっている様子を蛇ととらえたりもします。


そして、種の起源という意味合いでの「蛇」は「精子」の形でもあり、

また、天地創造のあとの生命・人間のはじまりなどを

たとえば、天理教、教祖、中山みき女史のお筆先などでは、

「最初に泥鰌のようなものがわいてきた」と、いうわけです。


このあたりからして、人類?日本人のDNAの中に記憶された

『泥鰌』が、蛇神信仰=種・起源の神というぐあいになったのかもとおもえます/笑


ミカエルはガブリエル・ラファエルと、三大?天使の一人ではあったと思いますが、

それぞれ、役目があったと記憶しています。


ですが、どういうのでしょうか、

憂生はキリスト教がきらいなわけは、ここにもあると思います。


天使が居るという考えは逆に悪魔がいるわけです。


なにかあったら、あくまのせい。

もしくは、正義のために、悪魔という存在をつくりだしたというかなあ。


アメリカの大義名分とよくにているわけです。


日本は、良いことも悪いことも「天の神様のいうとおり」であり、

ひとりの神様が鬼であり神であるわけです。


たとえば、雨の神。

恩恵をあたえる水そのものであるかとおもえば、

豪雨・水害であったりするわけで、

日本人は、その姿をみて、

良いときは

神様のおかげ

悪い時は

自分達のせい。


と、非常に謙虚な考えをもっていたわけです。


ところが、西洋の神は唯一神なわけです。


「なにもかも・聖」

この神を絶対にするために「悪者」がでてくる。

なにか、TV番組みたいなもので、

正義の味方は悪者がいるからこそ正義の味方なわけです。


こういう「悪者」をつくったうえで、

神は聖なるものだ。

と、いうわけですが、

日本人は

聖なるものは、おかげさまでといい。

悪なるものは、自分がたりてないから、間違っていたから、悪に遭遇するんだ。

という、進めていけば、非常にストイックで求道精神に富んだうけとめかたをするわけです。


こういう「欲」「執着」に対する捉え方もおなじで、

憂生自体も「蛇」がいるといわれたときは、

ひとつには、「欲」ということをおもいました。


ところが、内在神をのみこむという話をかきましたが、

ここからえたのは、

この蛇とても、自分のとりよう・ありようだとおもったわけです。



日本人が神の二面性をうけとめるのとおなじように

蛇も二面性があるわけです。


一つは「欲」や「執着」にとらわれたら、飲み込んでやろうとする、「悪」な部分。

一つはエネルギーでもあるということです。


ですから、誰もが、蛇を内在させているわけです。


そこで、執着・欲をもてば、悪い結果が当然でてきます。


そうなったとしても、それは、蛇のせいでなく

自分のせいです。


一方でエネルギーを司るわけですから、

人間を一生懸命生かせるようにもしているわけです。


このエネルギーがいわば、根源・原初的なエネルギーであり、

欲そのものなわけです。


食べたい・寝たい・・・・という欲があるからこそ人間はいきていれるわけです。



この欲を人間思案の部分で間違ったものにしてしまうと、

欲しいから盗んででも自分のものにする。

腹がたつから、人を殺す。

エトセトラと、間違った方向にすすむわけです。


それを蛇がいるから・・・「執着」がある。

と、いうとりかたは妙にアメリカナイズされてます。


あるのは、自分に「ある」


蛇に「自分」をのませるようにしているのも自分でしかないわけです。



ですから、憂生は

自分の中に白蛇がいますという話を公開しているわけです。



これが、自分の「間違った欲」の象徴であるという考えであったら、

恥ずかしくて書くことはできないでしょう。



相手をみて、どう取るかが

「実は自分の姿だ」ともおもいますので、

少なくとも、「欲」かな?と思ったことは

それをあてはめますと「自分にこそ欲があったわけです」


ただ、蛇が居るとわかれば、

自分がのみこまれないように

「自分の思いをただしていく」ように気をつけられるということでもあるわけです。


憂生自体が、

なにものかに

「とぐろをまいてるぞ」とつげられ、

白い卵のようなものを巻き込んでとぐろをまいてる蛇のイメージはうかびあがってきていました。


また、別のときには、

「かまくびをもちあげているぞ」

ともつげられたことがあります。



その意味合いが10年近くたってやっとわかってきたのですが、

まだまだ、その蛇の姿が意味する自分のそのときの「思いの状態」がいかなるものであったか、

つかめていません。


そして、これを書いていてふと思うのが、

天気をかえてみせて、「死ぬな。生きろ」といったのは、蛇だったかもしれないともおもいます。


憂生が死んだら、蛇めも死にますので、とめにはいってきたかと/笑


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高くかう

グンダリ明王のことをだしてきたけれど、

これを、信仰しろということではない。

例えば、神を扱うスピリチュアラーだったら、

これを欲にまみれている人間のところに

くっつけてやればよい。

だが、それは、偶像崇拝。

憂生は心の働きを言う。

自分の心にグンダリ明王の考えをいただけという。

自分の心を自分で自在に操れることが、

観自在大菩薩という動き・働きであるわけで、

自分に理性や正義をもち、克己心を育成する。

これを自分で自分をひっぱっていかず、

念仏や六根清浄ととなえていたって、

一種の「思い込み」

自分の欲をみないふりして

臭いものに蓋をしている。

綺麗になった自分の偶像をみて安心している。

だけど、隠しても隠してもあらわれるのが、

割れ鍋の中。

憂生自体も自分の奢り、慢心を綺麗にすることができないもんだから、

どうしても、書いてること書いてることに

この慢心や奢り・・

はしばしににじむ。

だから、できうれば、

あんなふうに欲にまみれると

自分の姿に気がつかないんだな。

と、いう反面教師で終わって欲しくないと思う。

そして、自分をゆるす

言い訳する言葉を出すなともおもう。

自分、まだまだですから・・。

(だから、こんなんで、しかたがない)

では、なく、

自分、もっと、がんばらなきゃいけない。

あるいは、自分できてます。

くらい言えばいい。

出来ていないところに目がいくから。

人がどう思おうがかまわない。

自分が出来てるとかいて、

人は出来てると思おうが、思うまいが問題じゃない。

出来てるということで、

出来てるにふさわしい自分かどうかを問い直す。

自分、まだまだですから・・と

やれば、ふさわしい自分がみえない。

らしい自分でなくてもかまわないという甘えがでる。

もうすこし、自分を高くかうべきだと憂生は思う。

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分け御霊

根本的な違い。

よく、アマテラス信仰とか、宇宙スピリットとか、

こういうのを掲げて、

魂を磨くという言い方をされるけど・・。

御霊をつつむ気である、精神という外側部分をいうのだと思う。

もしくは、御霊そのものをさすのかもしれないけれど・・

御霊自体が、天の分かれだから。

その御霊が自分をいかせてくれているのだから。

自分こそがありがたい。

自分の中に天があり、宇宙があり、アマテラスがいる。


心理の中の「おかげ信仰」

偶像崇拝というか、おかげ信仰というのか、

本尊をたてまつって、うにゃうにゃ拝んでいる人が居る。

で、こんなことを書くと、

「私の本尊を馬鹿にした」「うにゃうにゃとは、なにごとか」

と、本気でクレームをつけてくる奴が居る。

まあ、正直に言おう。

こっちは、人様の本尊を馬鹿になどしてない。

貴方が本尊を馬鹿にしているのだ。

と。

極論を書く。

「貴方」がすばらしい人間であれば、

貴方が信仰しているものにたいして、

「それもすばらしいものであるに違いない」と思う。

馬鹿にされた。

まあ、そのいいかたでもいいか。

馬鹿にするのは、「貴方」がいまいち、

すばらしくなく、むしろ、くだらない方にちかいから、馬鹿にされる。

このあたりを判っていたら、

まだまだ自分がすばらしくないから、馬鹿にされてしまうんだ。

ひいては、自分のせいで、本尊を馬鹿にさせてしまうんだ。

つまり、自分こそが本尊を馬鹿にしている。

と、こういう回りくどい考え方をすると、

見えてくると思うけど

そこを自分に問い直しせず、

クレームをつけてくる。

それこそ、まじ、偶像崇拝のきわみ。

その姿勢もすでに「馬鹿にされる原因」であろう?

これは、別に偶像崇拝みたいなことばかりじゃない。

自分の意見が通じない。

こういう場合だってある。

相談ごとにのる。

相談にのってあげたのに、。

こんな言葉の中にもある。

自分を問い直さない場合。

なんだって、偶像崇拝だ。

自分の意見は通じるはずだ。

という偶像。

相談に乗るのは相手の為にしてあげたこと。

なんて、優しい自分。

と、いう偶像。

いろんな偶像を持ちやすいもんだと思う。

この偶像があるから、

通じるはずだ。

相談にのったんだから、ありがたく思え。

と、いう見返り的おかげ信仰になってしまう。

いつだったかも、

「いわせてもらうけど」

「きかせてもらうけど」

という

すでに、「貰った」感覚位置でものをいい、話を聞けば

すでにもらっているのだから、

妙なおかげ信仰、見返りは求めない。

知らないうちにこのおかげ信仰ってものをもっていて、

それが宗教だけだなんて思ってちゃいけない。

人間の心理のなかにだって、

「おかげ信仰」はあるのだ。

なんて事を思ったので、まず書きとめておく。

あとは、また、おいおい、憂生がもつ、

「おかげ信仰」心理をはたきだしていく。

そのためにも、自分へのメモとして(訓示?)日記に揚げておく。

解消

統合失調症は、霊的世界では、憑依現象にあたる。

これは、嘘ではないと思う。

つまるところ、憂生がいつも言う

憑依現象というのは、自分のマイナスの心に

なにかがもぶりついてくる。

と、いうことが、酷くなったと考えられる。

心身離脱になるほどのショックをうけ、

「心」がどこかにいってしまい、

そこに、なにかがもぶりつく。

実際、ある人は憂生が傍によるだけで、

おおきな眩暈がおきる。

かなり大きな憑き物なんだけど、

本人の心がまだ、満身創痍のため、

彼を自由に操っている。

なんとか、理性でたもっていられるのだけど、

なにかのことで、

心のバランスがくずれたととたんに病気の症状が出てくる。

なんとか、彼を救い出したいと思っているんだけど

まだ、自分のマイナスの心とむきあって、いくことができない状態の彼に

必要なのはとにかく自分で自分の心を癒すことしかない。

誰かにすがったり、何かにすがってしまう弱さが

彼の憑き物にとっての恰好のターゲットなのだ。

憑き物に操られ、自分を安部晴明だとおもいこんだりするわけだけど、

実際、安部晴明は出生に伝わるとおりなら動物霊にとりこまれた人間でしかない。

このあたりを、考えれば、すでに人間様が狐との間に生まれた人間をあがめるのが、おそろしいわけだけど・・。

結局、彼の中に権威に対する「恨み」みたいなものがあるんだと思う。

だから、逆に権威ある人間になったと思い込むわけだけど、

この心理をどう説明していけばいいのだろうか・・。

なにかしら、心の傷をかばおうとして、彼は

多くの権威ある存在を信奉する。

これが憂生に言わせればすでにおかしい。

キリストであれ、アマテラスであれ、安部晴明にしろ、

すでに死んだ人間でしかない。

死んだ人間に自分をすがらせて、助かるわけが無い。

自分のぼろさを認められず、救われたいと思ううちはどうにもならん。

憂生なんざ、死んだら地獄におちるだろう。

ろくな思いもってないし、ねたみ、そねみ、ひがみ、・・あはは、いっぱいある。

死んだら地獄におちるだろうと諦めてしまえば

今の世が、いかに「天国」かわかる。

彼がそこに気がつかない限り、

今の世ですくわれようとするあほをやるから、

その魂をのっとろうとするものに嬲られる。

キリストもアマテラスも安部晴明もくそくらえだ!!

憂生はあんたのほうが大事。

生きてるあんたのほうが大事。

霊力?

検索ロゴをみつめながら、複雑な気分でいる。

ロゴは、このさくはなや姫がとよたま姫の霊力を封印した・・・。

とか、いう内容で、憂生の歴史を齧ってみるにヒットしたようであるが、

部分一致で、内容は該当しない。

このあたりの話はむしろ、スピリチュアル1~7(さて、どこにいれただろうか?)におさめているが、霊能力についても、同じ考え方である。

「自分」につくものであるのは、幽霊であろうが、神様であろうが、同じである。

と、いうのが、憂生の大雑把な見解である。

多くの人は、例えば、幽霊が憑いたら、「いやだ」と思うだろう。

では、神さまなら、何故、ありがたがるのだろうか?

と、思う。

多く、「よりしろ」あるいは、「台」にされているのだとおもう。

なぜ、それは、いやじゃないのだろうか?

アメーバーのあるヒーラー(だったと思う)のブログをはじめて、訪問した時、

憂生の脳裏にわいたことは、

「たまより姫か」と、いうことだった。

例のごとく、判らない思念であるので、検索をかけたのだが、

いわゆる、「巫女」「お台さま」「よりしろ」「おがみやさん」とほぼ同意語であった。

なぜ、「たまより姫」なのかが、わからず、ブログを読み進めてみたところ、

せおり津姫からのお伝えをお受けする・・とか・・。

まあ、なんともいえない気分がありましたね。

本当の神は、自分の中にいますし、

外側にいる神にしろ、本当に直接話しができるものではないと思います。

高次元の神であれば、あるほど、人間の意識くらいでは、ほぼ、受けることができない。

いわば、光のかたまりなわけですから、じかに話すことができる人はよほど、罪・穢れのない人でしょう。憂生なんざ、そく焼き憂生になりますな。

ところが、この神をも凌ぐものが、自分の中にいる。

多くの人は自分の中に神が居るとわかっていないわけだけど、

いわば自分の「親」のような「神(魂)」がいるのに、な~~んで、外におる神様を信じたり、あてにするのかな?と、思います。

自分を、一番知っている親のような存在と、話すことのほうが、もっと、大事なんじゃないんだろうか?

自分や人の魂と直に話す人をみたことがあるため、憂生はとくに、外側にいる神様をどうこうしようという考えがふっとんでしまってるのかもしれません。

そして、ここ、何回か憂生自体も人の魂の様子がわかる。(見えるわけじゃありません)

と、いうことがあり、いっそう、「自分の魂(御霊)を意識・自覚する」と、いうことをかんがえさせられたぶん、

外側にいる神様とコンタクトしている人は、「たまより姫」でしかないとおもうわけです。

ですから、このはなさくや姫がどうのこうの、とか、いう検索ロゴをみると、非常に不可思議な気持ちになります。

外側の神さまと話すような人のこと、そういう能力をすごいと思っていらっしゃるのだろうか?

憂生が上にずらずらと、かいたような考え方であることなど知らずに部分一致だけ読んで、

霊力を封印したのか、ふ~~むと、それだけなんでしょうかね?

これは、まさに相似形でしょうかね?

霊力と呼ばないと思いますが、

「自分の霊(魂)力を封印したままになってることどころか、このはなさくや姫より、はるかに尊い存在が自分の中にいることさえ、しらない」

このことの相似形なのかもしれません。


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