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コメント保存のために・・1

■最近、わかんないんですよね~

今から20ン年前、
自分で自分に言い聞かせるように霊能力(?)断ち切ったんですが…
でも同時に良い感もなくしたようで…自分の思い(ねっこ)まで見失ってるようで…
最近は、どちらも自分の能力ならどちらも認めて、上手に付き合った方がいいんじゃないかなあ~と思うこともあり、よくわからないですぅ~

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コメント保存のために・・2

ちょっと、不思議なことをかいていますが、

少し、続けます。

こういう(先にかいたこと)不思議な力を見せられると、

人間と、いうのはよわいもので、

その不思議な力(あるいは、その力を見せてきたもの)に、

うなづいてしまうのです。

そして、少なからず、優越感を持ちやすい。

実はここが一番怖い。

これは、相手をうけいれてしまう。

簡単に言えば、とりつかれてしまう。

で、そのとりつく相手が魔物だとか、悪い物だと

人間はぞ~~とさせられるわけで、

こんなのはいらん!!

って、はっきり思えるのですが

これが、もしも、天使だとか?

聖なる神さまだとか?

だったとします。

すると、それに、ひれふしちゃう。

これ、憂生にはおかしなことに見えます。

自分の物である魂や思いや体や・・にとりついて、

良い風にしてみせるのも、

悪い風にしてみせるも、

自分にとりついてるってことは、同じなのです。

で、憂生はそういう神秘?奇跡?が起こったとき、

まず、そのことを思いました。

良い物にしろ、そいつにうなづいちゃいけない。

って・・。

奇跡や神秘を起こす物(神?霊?)、奇跡や神秘が

すばらしいんじゃないってこと。

それを起こさせる憂生がすばらしいんだってこと。

ここをまちがえると、おがみ信仰になってしまうってことです。

そして、そんな神秘をおこさせるだけの自分だって、考えた時に

その自分をしんじてやらないで、どうするんだってこと。

もっと、良い、思いになっていける自分にならなきゃってことだし、

もっと、いえば、

本当にしにそうになっていたら、ひょいと、誰かがきて、

こっちの気をそらしてくれるとか?

自然にしいまわすものだし、

本当の奇跡?は、たとえば、首をつったら

折れるはずのない大木の枝がおれるとか/笑い話ですね

本当のギリギリまで待つ。

安易に手助けなんかしない。

だから、反面、おどろかせて、うなづかせて、

こっちを支配するくらいの力をもったものだったのかもしれないと思います。

でも、まあ、そのおかげで、

自分の思いを気をつけなきゃいけない。

と、思わされたのも事実です。

もしもですが、人をにくんだら、

その思いを現実に動かすかもしれません。

銃をもっているみたいなものですよね。

だからこそ、やばい。

と、思ったわけです。

思い方をひとつ、まちがえたら、

人をも殺しかねない。

いっそう、自分がよくなっていかなきゃいけない。

そう考えたら、こういう神秘?はないほうがよほどいい。

ちょっと、誰かにむかっぱらたてたら、その人が怪我をするかもしれない。

そういうことだって、考えられるのですが、

いっぽうで、自分の心をコントロールできるようになってきたからかな?

とも、思うわけです。

そういう力を引き出す部分があるけれど、

そんなものに頼らない自分になれよということでもあろうし、

悪い風には使わないということも判るから、見せられたともかんがえられます。

ですが、いずれにしろ、

うっかり、見せられたこと、見せたものにうなづかない。

それを凄いことだと思わない。

凄いのは自分。

その凄い自分らしい「自分」になる。

自分らしい「自分」というのは、下にかいたようなこと。

普通で平凡な人間。

ときおり、あれ?良いこというなあ。

なんか、暖かい人だよね。

とか、そういう人間としての自分になること。

神様めいた人間や霊能力者になることではなく

平々凡々。

だから、こそ、自分がすばらしいと自分に価値をつけて、

それに見合う人間になろうとするために、

憂生は「自分こそがすばらしいんだ」って、いいきかせた。

繰り返すけど

そういう力を見せ付ける物、そういう力をすごいとうなづいちゃいけない。

すばらしいのは。自分。

うまくいえないけど、わかってもらえるだろうかにゃ?


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前世・・1・2


前世・・1

憂生が書いている、白蛇抄は、

読んだら、びっくりするようなことを、書いている。

とかいうことを、いつか、かいたことがあるんだけど、

まあ、今回、たとえばとして、

あげてみる。

前世療法とか、前世ヒーリングとかいうのがあるらしい。

前世の傷(トラウマ)などが、今生にでてくるということで、

前世を癒すという方法なんだと思う。

ところが、憂生の物語は癒すということでなく、

前世の因縁が今生にはまる。

と、いうことを書いている。

だから、たとえば、人の相談ごとに乗る人は、

前世もそういう人だったということが多い。

そして、もうひとつは、そのときに

解決できなかったりしたことを、持ち越してしまうという事がある。

ようは、みせられる相手は自分の

そうなったかもしれないこととか、

そうならずにすんだこととか、

これから、そうなるかもしれないことをみせにくる。

ここで、どう、おもうか。

で、

この先の自分の運命がきまっていく。

きょくたんすぎるたとえだけど、

事故で手が不自由になったひとにあったとする。

そこで、それをみて、

「きのどくに。かわいそうに」

と、おもったとする。

もうひとつは、

「めげずにがんばってるな。がんばれ」

と、思ったとする。

あくまでも極端なたとえなので、そこはあしからず。

すると、たとえば自分もなにかで、不自由をかんじることになる。

と、する。

そのときに、

自分のことを

「なんて、かわいそうな自分」

と、おもうか、

「めげずにがんばっていこう」

と、思うか・・という因果の応報部分がでてくる。

この因果の部分がいわば、前世という事だと思う。

で、後世で、また、おなじ風なことがでてくる。

このときに、

「なんてかわいそうな」と思った前世がいれば、

同じように思いやすい。

で、その部分を後世でクリアしろという風になってくるのだと思う。

それを、今生でクリアできないと、今度は来世にもちこされる。

こういうふうにして、だんだん、よくなっていくべきなんだけど、

これを前世療法とかでなおしても、無理なんじゃないか?

って、おもうんだよね。

つまり、どう思ったかという行動をもう前世がおこしてしまっていて、

いわば傷がついているわけ。

その傷の痛みがあるからこそ、自分がクリアしていないとわかるんじゃないのかな?

その痛みの元になる「思い方」を自分でクリアしていくようにすることで、

来世にもちこさない。

って、事が出来ると思う。

違うかもしれないけど、

前世療法で癒されるのは、痛み部分だと思う。

依然として因果部分はある。

これをどうやって、きりかえていくかというところが、

今、生まれてきている理由の一つだと思う。

そこのところををかえても、同じ様な事が今生で起きた時に

「かわいそうに」と、やってしまったら、

来世に今度は出る。

だから、やっぱし、思いを変えていく。

見せられる元は我にありと思う。

自分がどう思うかということを意識しておく。

これが、実は前世であり、今生であり、後世の連鎖になっている部分。

だから、どうしても、思いがきりかわるまで、

おなじことを、くりかえしやすいわけで、

この「申し送り」みたいなところを、今生がクリアできれば、

一番、ベストなんだと思う。

前世療法がわるいというのでなく、

見せられる元は我にありと思う。

自分がどう思うかということを意識しておく。

が、だいじなことなんだけど、

自分でもいやになる部分じゃないと、

それをなおす?

思い方を変えなきゃいけない部分だな。

とは、気がつかないってことがあるわけだ。

実際、痛みもなにもなく、

前世からの「知らせ」かとおもうような、

たとえば手を怪我した人をみたときに、

どう思うか?なんてことまで、前世に差配されてる部分で

その思いがもうしおくりになってもいいか、どうか。ということまでは

考えないものだと思う。

憂生も実際あとになって、

そのとおりにことがおきてるわけだ。

で、そのときに思った思いが結局自分のことになってしまう。

たとえばであげたことでいえば、

「自業自得だ」とおもったとすれば、

自分が「自業自得」の目にあう。

そんな風にいろんなところに、前世が潜んでいる。

そして、また、同じような思いをわかして、

来世につないでしまいやすい。

結局、輪廻というのは、一つに思いの連さだから。

この連鎖を自分の世でよい連鎖にかえていかなきゃならんのだと思う。

思いが元で因果ができる、

それが、つながっていく。

つながるなら、徳をつなげたいだろう。

結局、自分が前世のつながりの中での代表選手みたいなものだろう。

今は自分しかいない。

だけど、前世は自分のいろんなところに潜んでいる。

気がつかないでいるだけだと思う。

と、まあ、こういうような考え方とかも、物語の中にしいている。

で、ついつい、

こんなことを書くから

憂生さん、陰陽師?

宗教関係?なんて、きかれるわけだけど、

じぇ~~んじぇ~~~ん関係ない。

おそらく、これも、前世がかかわっていて、

憂生におしえてくれてるんだろう。

なんか、しらないが、

前世占いだと、聖職者か賢い奴隷だったらしい。

どっちかというと、賢い奴隷の解説のほうがあってたな。

仲間のために、環境をかえようと、いろいろ努力したらしい。

自分というものの精神環境を変わってきた部分も

ひとつには、友人を思ってということからだったし、

小学生の頃から、友人がいじめられてたりしたら、

一人でも多人数にたちむかって、友人をかばうなんてこともあったから、

おそらく、賢い奴隷というか、

反骨精神にとんだ正義感の強い奴隷だったのだろう。たぶん・・/笑

前世・・2

昨日、前世についての考察?をかいてみたけど、

まあ、これを自分にあてはめてかんがえてみることにした。

で、前世占いでは、賢い奴隷という結果にこじつけましたが、

実際問題、前世がはまるという問題で、いえば、

その前世だけじゃないなって、おもうわけです。

前世にも前世があり

前世の前世にも前世がある・・・。

で、賢い奴隷?がどの前世だったかわからないけど、

この奴隷の気質が一番憂生の気質を形成している、濃い存在なんじゃないかと思うわけです。

で、その気質がず~~とひきつがれていく。

ところが、憂生には妙なセンスがあります。

そのセンスだけをみていると、前世は霊能力者かなにかじゃなかったかとおもうわけですが、憂生はどうも、そうじゃないと思っています。

で、ここまでの話は「魂」ってことになるのですが、

この「魂」がどこの体にはいるかという段階を考えます。

で、妙に正義感の強い霊能力者というのが前世だったとします。

この魂には、正義感と霊能力?が備わっています。

そして、うまれかわるときにどういう場所にひきよせられるかというと

その正義感と霊能力がマッチする場所にひきよせられるのです。

ところが、人間の体というのも、血の連鎖です。

血の中に「思い」が溶け込む。

と、いうことを考えます。

そこで、憂生の逆からの考え方です。

正義感と霊能力?がそなわっている魂はどこにうまれようかってことになったときに

この「血」の中のおもいをみるのです。

どうやら、憂生の先祖というのも、「人助け」をしていた徳の高い先祖だったらしく、

この「血」に「魂」がひかれて入っていくわけです。

奴隷の気質という部分でも仲間を助けたというならば、その魂は

当然、そういう「血」に惹かれると思います。

で、生まれた。

やはり、前世の部分が出てきます。

そのままでいくと、憂生も霊能力者になってしまったかもしれません。

ところが、徳の高い先祖の血というのが、憂生を霊能力者にさせないということをさせます。

色んな経緯がありますが、ここはちょっと、省いて

結果的には、今、霊能力じゃだめだという考え方を自分で?さがしあててきているわけで、

問題は自分が良い思いをもつということを書いたと思いますが、

これが、いわば、「魂」自身です。

「魂」自体をよくしていく。

そこから、魂が持っている力(霊能力かもしれないと思った力)を

自分で発動させるように変えていくわけです。

魂が持ってる力を霊につかわせたら、霊能力者になったと思います。

おなじように、神につかわせたら、神道家・巫になったのかもしれません。

そんな風に自分が思ったところで、そこになるわけでしょうが、

どうも、憂生の先祖?というのが、

「自分の力(徳?)でいろんなことを解決していったり

人柄とか人格で、人の相談にのったり」ということをやってのけてたのではないかと思います。

ですから、なにかの力に利用されたり、何かの力を利用したりというのが、

自分のことでないということがよくわかっていたのでしょう。

その影響で、憂生は、霊能力とか、こういうものが、本当はあまりよくない。と、いうことにきがつき、

どういう風に良くないかではなく、

本来どうあるのが本当か?ということを考えるようになってきたのだと思います。

ですので、霊能力者になろうと思うならなれるかもしれないけど、

憂生はお断りです。

と、いうのは、この部分です。

で、実際、今も、憂生の周りでこういう事が起きてますよね。

霊能力があったほうが良いのかなと思ったら

憂生のほうに、助けをもとめてくる「なにか」が居る。

なんで、憂生に助けをもとめにくるか?

憂生が文字で

「霊能力じゃだめだ」と、いうことを書くから。

それをよんでからでしょう?

憂生のほうの憑依現象がおさまりましたから。

前世のところでもかきましたし、ここでも少し書きましたが

「自分の思いでそれになる」

だから、霊能力者になった人はそういう力を霊能にする思いをもったということでしょう。

ですが、この人の場合、

「霊能力をもってはいけない」(あるいは、もっと、違う段階のことにその力をつかえ?)と、思わされるのです。

ところが、どうしても、心の弱い部分で

霊能力があったら、便利?とおもってしまう。

それで、こんなことを書いてる憂生のところにひっぱってきて、

そして、憂生の体質?で、そのひっぱってきたものの「思い」をひろう。

「わかるように言ってくれ」

でした。

憂生はこの力は自分のことに使われるものだと思っています。

こういう不思議なことをやって、その人の思いを救うような事をしているようにみえますが、

憂生は、このことは、自分のことだと思っています。

来た人にどう思うか。

と、かきました。

「霊能力じゃだめだ」

と、思います。

これが憂生自身への回答なわけです。

ですから、憂生自身が霊能力じゃだめだという方向に向かうわけです。

冷たい言い方をしますが、霊能力でよいと思うなら霊能力でやっていけばよいとおもいます。

その結果は自分でつくっていくしかないわけで、

それができなかったときに、

霊能力者になってはいけないととめにきた「なにか」のいっていたことが、

こういうことだったのかと判るわけですから。

ただ、「なにか」が動いてまでとめにくるのですから、

それ相応の「思い方」をきたえなけりゃ難しい。

それがあったら便利だとかいう自分かわいいの思い方ではまちがいなく、

ろくなことにならない。

多くの霊能力者は自分のその力を活かしたいと思うわけでしょう。

ですが、言い方をかえると、

その力で生活するしかなくなってきた場合、

それを金もうけできる、相談とか鑑定とか、一見人のためをするわけですが、

本来は自分の思いをよくしていくもので、

自分の思いをよくしていけば、

自然とそんな力が出てくるものなのです。

そこが、逆になっている。

そういう能力があるから、人の相談にのろうとか、たすけようとかするわけですが、

何度も書きますが

それも順序が違う。

相談ごとも「来た人にどうおもうか」という部分で

自分が助けられているわけです。

そう考えると、前に書いた

「相談にのってあげるという人。救ってあげるという人の方が、

本当は相談に乗ってもらわなきゃいけない自分、救ってもらわなきゃいけない自分がいる」という事がわかると思います。

自分に無いことに関らない。これが本当で

憂生もこうやって関っている部分はやはり自分のことであり

どうやって、こういう考え方を自分の物にするかという部分で

こうやって文章にして、自分の肥やしにしていこうとしている部分があります。

自分からの自分つくりの為への発動でしかないわけです。

この段階がいつまで続くのか判りませんが

対象とするのは自分であり、自分の思い方だと思っています


考え事・・4

まあ、いろいろ不思議な力?を持っている人だったわけだけど、どうも、その力にうなづいてしまったきらいがある。

こういうひとはちょくちょくおめにかかるわけだけど、

多く、3っつに分れる。

その能力をいかして、カウンセラーとか、まあ、そういう方向に行く場合。

そのまま、普通に生活している場合。

精神的な疾病に影響が出る場合。

まあ、憂生はそのまま生活しているといえるかな?

こんなあたりのことを書くということについては、まあ、一種研究家か?

で、憂生の考えは以前にも書いたけど、自分に直にかかわりが無いことについては、自分の因縁ではないと思うので、こういう力を多くの相手に使って・・なにかするということはおこらない。

自分の所まで、飛び込んでくるものについて、何かひろったり、

ピン?と来る事があったりするわけで、まあ、このあたりは

限られた人数と言ってよいと思う。

そして、その中でも具体的に話をするという相手は、もっとすくない。

で、上記の彼が具体的に話をしていった一人であるわけだけど、

こういう不思議な力あたりの話がでてきはじめたころから

「じと~~ん」がはじまった。

その頃はなぜ、「じと~~ん」を感じるのか、「じと~~ん」は何故おきるのか、

いまいち、見えてなかった。

今は8割くらいがそうだろうとおもうけど

「その人の中のなにか?」が、「何かを本人につたえてくれ」という思いで

こちらに近づいている時ではないかと思う。

でも、当の本人に話しても、それを受けいれる場合と

受け入れない場合がある。

その後ろの何かがある意味強大なものだったりするときもある。

先日もやってくるので、ある魂をつつみこんだ。

次元が高いものだとおもわれるんだけど

正直、こっちにくるか?って、きぶんだったけど、

まあ、来た以上は・・ってことで、包んだ。

それから、二日ほど、手が軽くしびれているんだけど・・。

まあ、よほど、次元が高いのだろうとおもいつつ・・

さりとて、憂生の手の中にきているようでは、まだまだじゃねえのかい?

とも、思う。

まあ、だから、包んでも大丈夫だなとおもったわけだけど

けっか、まだ、手がしびれている。

で、このしびれるという事については、

二つ、思う。

ひとつは、一般的に考えられる『障り』現象。

もうひとつは、その魂自体についていた、業というか?

こう言うものをこっちが拭ったというか、かぶったというか・・。

今までだったら、本人が、特定できたわけだけど、

この場合はまだはっきりしていない。おそらく・・という状態。

で、その本人に何らかの形で話をしたり、日記を読んでもらったり

と、いうことで、相手が現実的にかわってきてるというのがあったわけだけど・・。

この魂の感じはむしろ、透明にちかい。

と、いうか、色をかんじない。

おそらく、思いはすみきっている。

で、前述の白い光の人。

これは、白っぽい、すこし、黄色っぽい白だったんだけど、

表面がかさかさしていて、どういうのかな、小麦粉を丸めて

粉をたしたときに表面がぼろぼろっとした感じになる。

ああいう感じで、潤いがないというか、乾燥した肌だとそこに雑菌がはいりやすいのと同じで、その部分で心霊現象をひっぱっている感じがした。中までは侵食されていないけど、表面が皮膚病になっているというイメージだった。

で、今回の透明な人はそれなりに思いが澄んでいるとは、思うものの

魂自体に身上のようなものをうけている。

ちょっと、ここが心配なんだけど、芯が黒い・・・。

まるで、葛餅のように、真ん中にあんこ玉みたいなのがある。

魂の中心には、まあ、言えば、魂の魂がある。

ここは、通常、誰にもどうしようもできない場所。

この中にあるいは、前世がはまりこむのかもしれない。

で、この魂の魂まで発動させている人というのは、

まず、いない。

憂生の思い当たる限りふたり。

一人は亡くなってるし、で、前述した金色の光のことで、

この方が憂生の中にいるか、どうかとおもっていたわけだけど・・。

まあ、こういうことがあるので、

憂生はいっそう、神の力とか、

霊の力とかいうのを、よろしくないとおもっているわけだ。

チャクラが開いたという言い方をする人がいるけど、

ようは、この魂とのやりとり部分。

この部分は触れる事が出来る部分だから

神がコンタクトしたり、霊がコンタクトしたり、自分がコンタクトできる。

問題は魂の魂。

憂生はここに自分本来の使命とかそういうものが詰まってると思うわけだ。

でだから、魂部分で神とか、霊とか、こういうものにコンタクトさせて

その次元でおわりたくない。

まあ、それが、その人の魂の魂の使命ならそれはそれでよいと思う。

でも、どうも、憂生自身はそうじゃないと思う。

思いたいのかもしれないけど/笑

自分でもまだ、その部分がわからない。

判らないけど、そこからの送りみたいなものはくる。

もちろん、憂生にじゃなくて、魂部分といってよいか。

そこのところで、たとえば不思議な力がわく。

それを神や霊がつかおうとする。

場合によって、それは、必要なばあいもある。

自分の魂のために・・。

でも、それはいずれ、はずしていかなきゃならないし、

もっと、本質的な使命を遂行できるようにならなければと思う。

神や霊の次元に使われてるだけでは、人助けはできても

自分の魂をすくえないということがある。

これが、憂生が思う魂がかぶった身上。

そういうのを今回の魂にかんじたから

だから、中心がくろくなってるってとこが、

ひどく、気にかかる。

このパターンでいえば、たとえば

オウム真理教とか・・。

あのひとも「澄んでいる」といわれた人だった。

思いさえ綺麗にしていけばそれでなんとかなるというだけにはいかない。

と、いうむつかしさは、特にそういう力が自分の魂にとってどうか?

というところがわからないところにある。

憂生自体はどうしても、神や霊につかわれるではいけないと思う自分がいるから

そう思う自分をしんじて

ふと、魂の事がわかるようなきがするのも、

正直、ちょっと、不安なところがある。

自分で判るのか?

それとも、ほかの何かの力か?

ってね。

デ、そういう事を自分の認識にもちこむためにも、

こういう信じられないような、確証の無いことも

書き留めておこうとおもうようになったわけだ。

話がずれちまったよ・・。

考え事・・3

精神疾患からの回復の難しさ。

職場に欝病の同僚がいるとかで、話がはいってきていた。

鬱病というものも、自分の思い方をかえればよいのだろうと思うし

前述の、境界障害のひとでも、早いうちに

自分の思い方をかえる事ができたら、発症は食い止められたかもしれない。

どの思い方が病気の根源になっているかということを

みきわめるのは、非常にむつかしいと思う。

また、見極める事が出来ても、時に手のうちようがない。

境界認識障害の人をいえば、

「愛」をうしなった傷が元だろう。

そして、多くの事例を見る限り、

一番、傷の基になるのは、

自分の存在価値が薄くなったり破壊されたときに起きる。

ここのところで、

本当に愛してくれる人が現れたりしてくれると

傷がいえてくるわけで、

これで、助かっていった人も多く居る。

ところが境界障害の彼女の場合

希薄な存在価値をものの見事につぶされてしまい、

一時的に女性の自分を乖離することで、

精神の均衡を保った。

そして、男性になることで、

そこに存在価値をみいだしたけど、

これも砂上の楼閣のようなとりででしかなかった。

乖離してしまった女性部分にもどろうとしたら、

嘆きと悲しみしかない。

砂上の楼閣は精神の均衡をかろうじてたもつだけで、

強靭な精神を構築できない。

なぜなら、蜃気楼のようなものだから。

本来、強靭な精神を構築する場所は

女性の彼女の位置にしかない。

ここから、にげてきてしまっているわけだから、

もう、どうしようもない。

いくら思いをよくしようと思っても

強靭な精神を構築する場所に戻らない限り

むつかしいし、

戻れば、元々、傷を持っている場所。

自分とむかいあうどころではない。

心の持ちようでしかないとは思う。

でも、多くの精神疾患は

傷を直視できないし、傷のアル場所を避ける。

そして、自分の心を見ないようにする。

だけど、横からみているものは

それこそが大事だと思っている。

だけど、自分が責任を持って、その傷と向かい合わす事が出来るかどうかを考える。

この責任というのは、おおいなる愛と信頼。

と、いえると思う。

信頼関係がきっちり、なりたっていないのに、

むかいあわせたら、どうなるか、

まあ、それ以前に信じないから

用心するし、むかいあったとしても、

『こんな辛いところと向かい合わせるまねをするか』

と、いうところで、結局回避こうどうにでるし、

いっそう、人を信じなくなる。

治療行為というのは、かなりの信頼と愛情がなければできることではない。

だから、方法はわかっていても責任がおえないということで

多くの人が、かかわらないようにする。

もしも、自分の一言で自殺でもされたら?

おそろしくて、とてもじゃないけど、責任がもてないことに

のりだすことはできない。

で、実際問題、そういうところまでやってみて、

正気にもどったとおもっても、

またぶり返す。

結局、根本的な「思い方」というのを

本人とはなしあうことができなければ、

傷の上に「薬」をぬることができないということだろう。

だけど、もう、何かに依存している状態の人に

自分で自分を大事に思う。

と、いうことが、伝わるのは皆無といってよい。

別の人格に依存する。

宗教に依存する。

薬に依存する。

いろいろあると思うけど

ここを依存する思いをたちきらないと、

「自分こそが尊い」

って、どうしても信じられない。

受け入れない。

すでに自分の存在価値が希薄になっているのだから、

「自分こそが尊い」

と、いわれても、信じられないし受け入れられない。

むしろ、いかに自分がだめかにとらわれてしまう。

そこをのりこえてこそとおもうのだけど・・。

よく、言われる言葉に

「乗り越えられない試練を神は与えない」

っていう。

その言葉をひっくり返せば

「乗り越えられる自分が居るはず」

なんだけど、

谷の深さにおびえ、踏み切る事が出来ず

その場所で代替の慰めを求める。

その結果がたとえば、彼女のような、

境界異常により、自分の人格さえなくす。

と、いうことを引き起こすことだってありえる。

そんな

弱い自分じゃないはずだ。

憂生自体そう思いながら、超えてきた(かな?超え中?)

とにかく、自分を信じる。

自分を抱くのは自分。

ほかのなにかが自分の根本部分までは

立て直してくれはしない。

自分に負けてるのが悔しい。

どんな理論でどんな力で

勝っていても

自分に負けてるのがシャクに触る。

こういう意地が自分を自分で立て直させてきたのかもしれない。

だから、冷たい言い方かもしれないけど

自分にまけたままにあまんじているものに

手をさしのべる事は無理だと思う。

ボーマンに言わせている。

「自由の女神(勝利の女神?)だって、

敗者には手をさしのべるけど、

臆病者にさしのべる手はもっていない」

憂生はこういう意味で

彼女が強くあって欲しかったと思う。

逃げて、ごまかして。ごまかして、

すりかえて、結局、苦しさを感じないところにいってしまって

本当にそれでよかったのかな?

憂生には判らない。

だけど、少なくとも、憂生はもがきながらでも

自分と戦う。

簡単にいうけど、簡単に勝てはしない。

それでも、自分で無いものになるのは、

お断り。

苦しいことも自分のこと。

よいことだけとって、

苦しいことはいやだはつうじまいて・・。

考え事・・2

ちょっと、仕事にもどっていました。

で先の続きを自分でかんがえていました。

なんで、人事の助けにつかっちゃいけないか。

と、いうのだろう?

って、ことです。

良い事をしているようにおもえます。

ですが、憂生は自分の物語の中でも扱いましたが

「帳合」という場合もありえるという事も思うわけです。

細木数子のことでかいたように、

なにかしら、自分の借り?をかえすためにという場合もありえるんじゃないだろうか?

病気になったり,苦しんだり、なやんだりしたことで、

なにか、「思い方」が変わるということもあるかもしれません。

これを形だけよくしてしまったら

まずいんじゃないか?

確かに助けられた人には、よかったと思うのですが

逆に助けてしまった側の人。

余計なことをしたって場合もあるんじゃないか?

って、ことも思うのです。

病気になるにしろ、悪い事がおきるのは、

それなりに「理由」があると思うのです。

そういう事象を直す前に

何らかの理由をきちんとみつけないと

これは、むしろ、自分のほうがあぶなくなる。

良い事をしているつもりでも、

実は違う場合がありえる。

神は簡単にはてだすけしない物だと思っています。

むしろ、人に辛いところや苦しいところを通らせて

「よい者」にしむけてやりたいと

考えているのが神だとも思うわけです。

ですから、病気になったりしたら、

憂生は自分のどこの思いが悪くて

病気になってしまったんだろうとかんがえなきゃいけないって、

前のことで思うようになったわけです。

まあ、極端なあてはめかたですが、

たとえば肌があれてしまうということがあれば、

自分の思いがあれているんじゃないか?

ぶつぶつが出来れば

感謝をわすれて、文句ばかりおもってるんじゃないか?

と、いう具合に考えます。

ですから、治療したり、薬を飲んで

現象を直すことはありますが、

どういう思いだったろうかってことを問わなきゃいけないって思うわけです。

そこらへんのことを思うと、現象だけ直しているというのは、

問題があるのではないか?

ってなことをかんがえるわけです。

そういう意味合いで憂生は自分に不思議なちからがあっても

それを人助けに使いたくないと思うわけです。

そんな力でなく、

相手の思いをなおしていくということをすれば、

本人自らがよくなるし、

以後も自分で対処していけるんじゃないかって事です。

ここらへんで、

人助け?をするのに、そういう力はいらないのに、

その力を使い

神や仏を自分事につかうってことをやってしまう。

って、思うわけです。

これは、基の思いがいまいちなわけです。

自分事で天気をかえてしまうという考え方ににてるかな。

だから、憂生はそういう存在をつかっちゃいけないと考えてしまうわけです。

うまくいえそうもありませんが、

どうにも、そういう力を使って

人助けをしている人からみたら、

まったく、別なかんがえかたであり、

場合によっては営業妨害なわけです。

ですから、そのやり方でやって生きたいと考える方は

それを使命とかんがえてしっかりやっていくか、

憂生のいうことを考えにいれて検討してみるか、

その結果どちらでもよいとおもうわけで、

批判されているとか、

かんがえずに受け止めてくださるとうれしいとおもうのですが、

さて、これは外にむけて、言った言葉ですが

憂生自身を振り返っていかねばならない事が

まだまだたくさんあるわけです。

実際、拝み信仰。

ご利益?をあてにする思い方っていうのが、憂生の中にあるわけでもあり、

そんな中で自分が良い事をしているつもりになっていても

結局はおがみ信仰を分け与えてるって場合もあるって事だと思うのです。

実際、こういうことを言い出すと、

別に宗教や神秘ごとなどという段階でなくて、

普通の生活で、「苦」になることから逃げる考えもあるわけで、

こういう点で

やはり、自分をかんがえなおさなきゃいけない。

と、思うわけです。

神秘ナ事とか言っていると

自分ができてなくても、どういうのかなあ・・・。

えらそうになるというか・・・。

そこにうなずいちゃ、

いっそう、先に書いた「男」になってしまった彼女みたいに

神秘部分での憂生になってしまって、

人間部分がどこかにいってしまう。

それがいやで、

憂生は今ひとつ清算というのかな?

自分に合った不思議なことを外にほううりだしてしまおうと思っている。

だから、時折、えらそうになってる憂生も居ると思う。

こんなことを全部ほうりだして、

普通の人間として、

捉えていく。

受け止めていく方向にいかないと、

神秘をみせてくるものに使われた人生になってしまう。

憂生はそれがいやなので、

良い事をしようが

奇跡がおきようが、自分の思い方をきたえたいと

思うし、

今はまだまだ、なにかが介在してくるけど、

いずれ、そういうものなしで、

自分の思いがそのまま通じていくっていう人間になっていきたいって、

まあ、そういう事を思うせいで

いささか、批判的に否定しなきゃまだぐらつく自分がいるってことで、

けして、相手を批判するためにぐちゃぐちゃかいてるわけじゃないので、

そこのところ、

弱くて、すんまへん。


考え事・・1

もう、ひとつ、考える事がある。

昨日だったか、スパムがまいこんできて、

アメーバーさんはしっかり削除してくださったので、

これは、スパム扱いになった

一勢送信かなんかだろうと判断できたのだけど、

コメントを読んで、妙だなとおもったので、

その人のブログにいってみた。

コメントは

どう、取り払う?

と、いう言葉だった。

コメントがついた記事は、霊は自分で取り払える。

と、いう内容だったと思う。

これにたいして、どう、取り払う?とこっちにきいてるのは、おかしい。

その答えはすでにかいてある。

もっと、具体的にききたいなら、自分はこうで、ああで、

どういう部分がよくない思い方なのだろうか?

ここを「良い思い方」にすると、とりはらえるのですか?

などという聞き方なら、わかる。

どうも、錯乱状態(憑依状態?)におもえて、

ブログを覗きにいったわけだ。

すると、

日常のことがかいてあって、・・・・

レイノウリョクシャが私をみはっている・・

などなど、見方によっては、

「霊」そのものが、浮上しているようにも、思える言葉がいくつか並んでいた。

そうでないのかもしれないが、

とにかく、レイノウリョクシャに目をつけられている?

って、感じているのだろう。

で、この霊能力者というものが、ほかの誰かを見張る?

探るということは実際にある。

おそらく、霊能力者自身も気がついていないのだろうけど、

一種、生霊?のようなものを飛ばす。

これも、昔あったことで、不思議な話の中におさめているけど、

ある相談?にのっていた、女性が、こっちのいうことを、

しんじられなかったのだろう。

信じなければ、効力はない。

信じてもらえなくても効力を発揮するほどの憂生の力がないということでしかないが。

で、その女性が神主かなにかのところに相談にいったらしい。

ものかげから、こっちを伺い観るものがいるなあ。と、判る。

おそらく、神主だろう。と、思っていた。

すると、友人が(詳しくは彼女の魂が・・・を読んでもらうしかないが)

「変な男の人がちらちら、こっちをみてる。

で、探すと物陰にかくれてしまう」

と、いいだしたわけだ。

もちろん、この神主なるものと憂生は、300km以上はなれたところに居る。

友人がみているのも、「観えている」状態なわけだ。

で、おそらく、神主だろう。と、答えながら

ああ、本当だったな。

と、おもうわけで、まあ、憂生はこの時点で、その女性の相談応対?はあきらめた。

こっちのことをさぐらなきゃ判らないような神主に彼女の霊現象をおさえることは不可能だし、そんな神主にすがるような状態なら、彼女の「思い」をきりかえるのも不可能だなと思った。

いわゆる、おかげ信仰なわけだ。

これが、嫌な状態になるから、払うとかんがえるだろうけど、

よい状態になったら、払うとは考えないだろう。

こういう考え方だからいっそう、とりつかれるわけだけど、

良い思い方になってもらうためには、

逆を言えば

「悪い思い方をしてることに気がついてもらわなきゃいけない」わけだ。

で、そのことについても、多少、はなしたわけだ。

で、それで、痛いところをつつかれるというもんで、

神主のところに逃げ込んだ。と、いう経緯がある。

これでは、憂生はどうしようもない。

彼女自体が、「霊をひっつけておく思い方」を、変えようとせず、

現象だけをなんとかしてくれ。

と、いうのと等しい。

そのあげく、こっちのことを探りにくるような神主では

まず、霊をはらうことはふかのう。

ましてや、彼女の霊障原因になる思い方など、みようとしていないだろう。

と、まあ、こんなことがあったから、

レイノウリョクシャが見張っている。

みたいな現象が嘘だとは思わない。

彼女の状態を心配した霊能力者が、思いを離さずみているのかもしれないし、

悪いことでもなんでもないとも思う。

で、問題は、先にかいた憑依霊?が彼女を揺さぶっているとした場合。

これは、

取り払える?

と、聞いたのは彼女だろう。

完璧に憑依状態にはいってしまって、日記にはレイノウリョクシャが・・と

妙なことを書く。

だから、ばあいによっては、そのせいで、スパム指定になったのかもしれないとも思う。

実際のところはわからないけど、

この人のことを心配してる霊能力者もしくは、守護霊が居るはずだと思う。

ふたたび、こっちの日記を読みにきてくれるかどうかわからないけど、

レイノウリョクシャが見張ってるという思いはおそらく、霊のものだろう。

彼女の本体は、「どうやって、とりはらえばいいの?」

って、くるしんでいるのだろう。

この部分も憂生はレイノウリョクシャじゃないから、

「自分をしんじろ」としかいえない。

霊なんかより、もっと、強い、すばらしいのが自分。

その自分がどこかで、なにかのおもいで、

霊より、下の思い方をしてしまってるということ。

おかげ信仰もそう。

レイノウリョクがすごいというのも、そう。

こんなことは、霊にとって、都合がいい、とりつける心理でしかない。

そこを自覚しないといいようにとりつかれるだけ。

もうしわけないけど、憂生の次元ではどうにもしてあげられない。

思うままに・・・9

さて、さきほど書いてたこと。

宿命とはなんぞや。

な、わけで・・・。

宿命という言葉をかんがえてみると、
すぐにうかんでくるのが、
運命という言葉になる。

一般的な概念・・・ん~~~~~。
イメージというべきか。

運命は「変えられる」というイメージがあるが、宿命は変えられないというイメージがある。

あるいは、運命は進行形であるが、
宿命は定められたという意味合いで
過去形に感じる。


俗ににいわれる言葉であるが
40歳までは、運命を歩み、
40歳からは宿命が始まるともいう。

運命というものは、その個人がもつ、性格や環境や考え方で、方向性が変わる。

宿命というのは、その個人のもつ、性格や環境や考え方に「宿る」

いわば、天命や使命は、「宿命」であるのではないか?と思うのである。


憂生が不思議な人間であるというひとつの事象にときおり、妙なセンスが働く。と、いうのがある。
くわしいことは省くが、憂生の思いの中にはいってくる妙な思念がある。
それが、ときおり、予知をしたりするわけで、憂生にとっては、うさんくさい存在であり、それがなんであるのか?
と、いうことに非常にこだわった時期があった。

それが、ひとつにスピリチュアルに傾倒した理由でもあるが、
憂生のかんがえ方は
それが、神さまであろうが、幽霊?であろうが、自分いがいのものでしかなく、つかれているという事は同じである。
と、いうものがあるし、
生きている人間のほうが神様や霊?よりすばらしい。という思いがある。
だから、妙なものにとりつかれてる(それが、神であるとしてもだ/笑)ようで、
いやでたまらなかった。
だから、霊能力者とか?そういう能力者もいわば、なにかにつかれているというのと同じで、正直いうと、そういう存在も好きじゃない。

そんなある日。
ある霊能力者のブログにお邪魔したわけだ。

憂生はその人の言葉をきいて、ひどく心配になった。
「霊能力者は霊のことしか、わからない」というのである。
それは、あるいは、憂生についてるもの?が霊ではないという意味合いなのかもしれない。
だが、憂生は、その言葉に対して
さきほどの言葉があてはまってしまったのだ。
生きてる人間のほうがすばらしい。

言い方が極端であるが、そうなると、霊なるものは、下級の存在ということになってくる。

その霊の事がわかる。
つまるところ、犬が犬の事がわかる。
猫が猫のことをわかる。
というようなもので、同じラインにたってしまってるということじゃないか?
と、思った。

そのときに憂生はその霊能力者にいろいろと話して、自分のかずある不思議な事象はどういうことか、たずねなおしたのであるが、そのときにいわれたのが、
「わからない」
ということと、
「なにか、使命があるのではないか?」
と、いうたいそうな言葉であった。

つまるところ、宿命というのは、自分ではどうしようもないものなのだろうという思いがした。


そして、宿命というのは、ながされるままという運命(御幣のある言い方であるが)とは一味ちがって、なにかしら、「のりこえていく」という苦しい課題がついている気がする。

先にかいた市長のことでいえば、
地震に遭遇する。
地震がある時?に市長になってしまう。
と、いうのが、運命だろう。

だが、この運命のもたらした結果を
「のりこえていく」という課題が
即ち「宿命」であるとかんがえると
宿命というのは、
かなりハードであり、厳しく辛いところをのりこえていかなきゃならないということになる。


憂生自体、いままでのなんでじゃ?を
宿命だととってみたとき、通常の人間より、一味二味も違う人生を歩んできてると思っているが「のりこえていく」という課題をあたえられたとかんがえてみたとき、えもいえぬものがある。

この「えもいえぬ」というのが、実は内田裕也と樹木きりん(文字どわすれ)の会話による。

内田のはちゃめちゃの生き様をして、彼は樹木にいう。
「楽しい人生になったでしょ」
憂生はこのとんでもない科白に内心うなづいていた。

とんでもない辛酸も、それもまた、楽しい人生であると思う。

何も知らず、苦労もなく、もがくこともなく、自分の幅をふやすこともなく、自分自身をしらず・・。

誰しも平安・安泰な人生ってものはないだろうが、それでも、辛酸なくして得たものなど、しれているという気もしている。

一時期は数ちゃん(あ、細木さんね/笑)の本を読んで憂生はこの先、20年続く宿命大殺界にはいるってさあ。

すでに、今までが宿命大殺界かと思う生き越しだったから、嘘だろ?って。
もうこれ以上勘弁してくれよ。
ってね。

まだ、課題があるのかい?

ってね。

苦しい時はまじそう思ったけど、
乗り越えていかなきゃ成らないなにか。って、見方をしたとき、憂生って人間が
「お前、OKですよ」なんていわれるような人間じゃないわけだから、まだ、まだ、いろいろあって当たり前なんだよなって思うようになってはきた。


憂生の中で、宿命という言葉の捉え方をはっきり意義付けしていくきっかけになった、市長さんと樹木さんに感謝をこめて、この長ったらしい記事を終わります。

ミサキ

先日、友人が漫画を読んでいて、

「ミサキ」ってなんじゃ?ってきいてきた。

漫画は黒鷺死体宅配便

「そんなのがおるんじゃろう」

っと、返事してほっちゃらかしていた。

ところが、今日、その本がトイレにおいてある。

「?」

ほかにも2~3冊おいてある。

いつもの如く、なにも気にせず本を手に取ったら

昨日の本。

で、そこに「ミサキ」がでていた。

おそらく、「御先」であろうとおもいながら

ミサキをググる。

どうも、ふたてあるようで、

怨念が具象化したものと、下にひっぱってきた御先。

どっちゃでもいいけど、

どうしてやりゃあいいのか、考えてる。

*なにか、この記事の前に、
べつの記事があったと思うが、かいつまんで・・・。
ーみさきがあらわれるー
と、いうような言葉がはいってきていた。
例のごとく、ひらがなで浮かぶわけだから
岬?地殻変動かなにかで、海岸線が隆起する?
御行・・とかの高貴な方の先鋒というか、御先か?
などと、思っていると、
みさき現象と・・・。

これは、どちらかというと、
レミングの大移動の心理に近い行動ではないだろうか?

きになりつつ、深くきにとめなかったところ
トイレにおかれた本の中に同じみさきという言葉がでていたので、
偶然ではないきがして、
しらべてきた。

それが、以下の貼り付け。
そこで、さらに調べると、
ヤタガラスとかいう一派が当時、さわいでいた。
なんでも、裏天皇がでてくる?とか・・・。

これが、みさき現象。

で、このときに、
裏が裏であることに徹せよ。
と、いうような、日記をかいた覚えがある。

たしか、羽子板にたとえて。

実際、羽をつくのは、裏側であっても
羽子板は豪華な飾りがあるほうを表にして飾る。
それをひっくりかえして、
我が本当の羽子板の役目をしている実働部分だと
やって、どうする。
裏が裏に徹することこそが
裏の役目であり、実際、たとえば
家庭において、母親がいろいろと影にまわって
家庭を支えているところが多いと思うけど
それを
「私がしてやってるのよ」と、ひけらかしているだろうか?
当たり前のこととして、やっているからこそ
そこが、ありがたいわけだ。

そのときの、
みさき現象は、そういうことをいうのでなく
裏天皇がでてくるんだという
煽動的行為だった。

このことは、別に、やたがらすの一派でなくても
「私が・・俺が・・」と、
自己主張して、当然のようになっている感覚を警告するものだとも思えた。

天皇のすごさというのは、
こんな煽動行為によってささえられたものでなく
天皇自らが、国民を思うということにより
敬愛をえているわけで、
ここを判らない人間がみさき行動を起こしたと思える。




ミサキは、日本悪霊精霊 などの神霊の出現前に現れる霊的存在の総称。名称は主神の先鋒を意味する「御先」(みさき)に由来する[1] 

ミサキは高位の神霊に従属しており、神霊が人間界に現れる際に、その予兆や使いのような役割を果たす小規模の神霊といわれている

ミサキは動物の例が良く見られる。日本神話 に登場する八咫烏 もミサキの一種であり、八咫烏が神武東征 の際に神武天皇 の先導をしたことに、ミサキの性格がよく現れている[5] 。また稲荷神 の眷属である もまたミサキの一種であり、この八咫烏や狐のように、重要なことや神の降臨に先駆けて現れるものがミサキとされている[1] 福島県 いわき地方 では、1月11日 に田に初鍬を入れて「カミサキ、カミサキ」と言って鳥を呼び込み、その年の豊作を祈願する「ノウタテ」という行事がある[5] 


古代の知恵


どこぞのブログをみていて、

日本には杉の木が多すぎます。

と、いうことが、かいてあったんですね。

で、ああ、だから、花粉症とか、いっぱいでてくるようになったんだ。

と、納得したのですが、

憂生の中で、ちょっと、待てよ。と、いう思いがわくわけです。

なぜ、杉の木が多くなったのか?ということです。

そこらへんをオーナーとちょっと、はなしていたわけです。

日本にすくなくなった、職人なので、

話が的を射てます。

杉の木が多いらしいね。と、話すとピンとくるというのでしょうか。

「なんで、多いん?」と、いう言葉がかえってくるわけです。

で、憂生のおもうことを話します。

「今の日本の建物は洋材とか、コンクリートとか使うし、消防法があるのか、

安く仕上げたいのか、たとえば、昔ながらの杉板塀とか、焼き杉とかで、

家を囲うなんてしなくなってるよね」

その言葉でまた、ピンとくるようです。

「日本には日本にあった、やりかたというのがあって、

長い間の知恵でつくりあげた技術というのがある。

そういうのが、今、なにもかも、金の価値とか、機械任せの技術にとってかわられて

たとえば、杉ひとつでも、「活かす」ということができなくなっている」

そこです。そこ。

結局、機械ひとつにしろ、少数の技術者が開発して、

一般の人間はつくれない。なおせない。

職人がだんだん、いなくなって、「技術」の継承ができなくなっている。

これで、もし、最近よく言う、ノアの洪水のようなもの、

あるいは、現段階氷河期にはいってるわけですから、

なにかあったとき、どうなるかなあということです。

なにもかも、機械任せにして、なにもかも、専門化して、

家が壊れたとき、どうやってなおしていいかもわからない。

誰かにたのまなくちゃどうにもならない状態になり、

専門家じゃないとなおせない。

学生のころ、女子生徒がよってたかって

いじめられていたので、なかだちにはいったのですが、

その理由が、

家庭科?の実習で、ご飯の炊き方をしらない(米だけ、炊飯器につっこんだそうだ)

洗濯機がど~のこ~のと、いくつかの方法をしらず、むちゃくちゃをやって、

グループが困った。ということだったようです。

この話をきいたときは、笑い話におわらせたのですが、

実際、それでは、炊飯器がなかったとき、米を鍋で炊くとき、(ガスとか)

どのくらいの水加減にっするかとか、他の人はわかっているかとなったら、

非常に怪しいわけです。

ましてや、今は機械もマイコンとか、ICチップとか、

ほとんど、自分でなんとかできないわけです。

車までそんな状態で、昔なら、自分で治せるものが

マイコンで制御されてるから、そこが故障したら治せないわけです。

自分でなおせないということを考えたとき、

それは、杉の木もおなじなわけです。

たとえば、今、じゃあ、杉板塀とか、使おうとしても、

それを手配したら、よけいに金がかかる。

次にはりかえるときには、技術者がいなくなっていて

焼杉もつくれない、あるいは、もう、杉の需要さえ成り立たない。

こういう供給と需要から、組み立てなおさないと

杉の木が多いのはなおせないわけです。

そして、ここしばらく、縄文人をしらべていましたが・・・

彼らの生活基盤は、

「そこにあるものを、有効利用する」と、いうものだったわけです。

だから、自然そのものが、神のように尊いものだったわけです。

家を作るのに、木がいる。

木をつくってくれる森や日や土や風や雨に感謝する。

そういうふうに、「自然にあるもの、その場所で手にはいるもので精一杯の工夫をしてきた」

わけです。

ですから、必要以上の獲物はとらないし、戦う必要はないわけです。

そこに、鉄器あるいは、青銅器文明をもった文化がはいりこみ、

木と土と紙の暮らしで、十分なりたっていたものが、

武力的に弱いということになり、アイヌなどはどんどん、

北に追いやられていったのではないかと思います。

が、それでも、国が統合されると、戦いの武器である刀などを

封印していったとおもうのです。

そして、やはり、「その場所でとれるものを有効利用する」という暮らしが、

ほぼ、江戸末期まで続いてきたと思います。

もっと、いえば、昭和・・戦前ちかくまでは、

「その場所でとれるものを有効利用する」というスタイルはなりたっていたとおもいます。

こののちに、物質文明に目がくらみ(いいすぎかww)

「よそでとれるものが、便利で安いから、利用する」と、いうスタイルにかわり

この「欲」をはしごにして、

「便利になってほしい」というところをいきすぎた「豪華・贅沢・分不相応」な

商品で金儲けを優先しはじめるわけです。

「その場所でとれるものを有効利用する」ということがなりたたなくなってきたのは

しかたがないにしろ、

「本当に役に立つものを提供しよう」というのとは、的がはずれてきています。

たとえば、LEDなど、とっくにできあがっていたわけですが、

10年ももつような、商品をだしてしまったら、

その当時では企業のほうが、つぶれてしまうわけです。

多くの機器(民生のものです=企業むけはそうはいかないでしょう)を、

みていると、わざと、こわれる素材をつかうわけです。

S***タイマーとか、S***マジックとかいわれるのも、その一手なわけです。

新しいものを買わせる。モデルチェンジをする。

保守部品を8年しかもたない。

ある程度、製造したら、製造レーンを撤退てしまう。

そして、マイコンやICチップにプログラミングして、

その機械の頭脳にしてしまう。

頭脳がこわれたら、もう、その頭脳をなおすことができないわけです。

そして、かろうじて、長生きしても、こわれたときには、

代替品がなくなり、技術者もいない。

まあ、縄文人のDNAが継承されてきた大きな原因は

日本が島国だったということは大きいと思いますが

自然を尊び、「その場所でとれるものを有効利用する」

「誠意をつくして、ものをつくる」

(まあ、自分のためにつくっていくことをかんがえたら、

すぐ壊れる家とか、すぐ壊れる鍋とかつくるわけがないのですが)

そして、壊れたら直す。壊れないように、修繕やメンテナンスをおこなう。

昔は、鍋の穴を直してくれる、いかけや?とかがいたわけです。

憂生自体も包丁の柄がこわれてくれば、すげかえるわけです。

そういうふうに、有るものは、自然からのもので

また、自然に戻せるものというのが、

日本の暮らしだったわけです。

以前にストーブの話を書いたとおもうのですが

電気にたよりすぎた生活の怖さといっていいか、

北海道の方などは、肌身にしみているとおもうのですが、

クーラーやファンヒーターという暖房にたよっていて、

大停電などおきたら、とたんに寒さに対処できなくなるわけです。

薪ストーブなどで、自然の薪を利用した生活。

いろりのある生活というのが、なりたたなくなった都会など

緑が無くなった土地のヒートアイランド現象など、

考えるにつけ、

今一度、

「縄文人」の生活(精神)をとりもどさないと、

古代ギリシャ国家の衰退のように、

自然をないがしろにした滅亡そのままの図式が起こりえるのだと思えます。

働かない蜂

おもしろいニュースに遭遇しました。

働き蜂(蟻?)の中に働かない蜂がいる。

働かないという働き蜂がいるというのです。

ためしに、働いていない蜂をどけてしまうと、

やっぱり、働かない蜂が10%ほどでてきてしまうそうで、

何度やっても、この10%ほどという値で

働かない蜂がでてくるので、

なにか、理由があるのだろうと、

10%の働かない蜂をいれたグループと

どうやったのか、ちょっと、理解できなかったのですが

働く蜂だけとのグループにわけたところ、

10%働かないグループの方が生存率が高くなった。

と、いうのですね。

なにか、外敵に襲われたときの交代人(蜂)員とか、

全員(蜂)戦いにでて、全滅したら、どうにもならなくなるので、

生き延びるための蜂とか、いろいろ、推理されていましたが、

こういうのも、

じつは、人間社会にもあるんじゃないかという気がしてきました。

いざという時人員みたいなのとか・・

不思議な現象だなあとニュースをみていました。


五六七(ミロク)

六芒星


りくぼうせいとよみます。


いつも、疑問におもっているのは、

大本神諭のなか、


みろくが、

五六七になることです。



通常に考えれば、

みろく

三六九であり、


36計逃げるにしかずの、

36計というのが、弥勒の法だといい、


36計というのは、

苦(九)に対する乗り越え法、

因縁納所の秘儀だとおもいます。


つまり、弥勒、という魂の状態が、

身の禄(貫禄とかの禄)になるのが、

弥勒状態ということですが、


解字として、考えると

苦を観ろ

苦を知れということで、

これにより、因縁を納所することができてくるわけですが、


シルバーパーチがいうところとおなじ、

あるいは、白蛇抄の中でも書いた

「苦労を喜ぶ」「因縁を通ったことを喜ぶ」と、

いうのが、なければ、禄にならないわけです。


貫禄というのは、

いいかえれば、

困難や苦境を泰然とのりこえてしまい

このおかげで、自分が肥えたとおもっている状況でしょう。


辛かった、悲しかった、ひどいめにあったと

うらんだり、起こったりしている状況では

困難から得た「もの」はみにつかず、

貫禄もなく、ただの愚痴たれでしかないわけです。



と、考えると

禄というのは、六としてあらわされる。



身(3)の禄(6)とは苦(9)があってこそ。

と、いうことになりますが、

36計、逃げるにしかず。

と、いうのが、妙法ですね。


つまり、たとえば、前世の因縁で交通事故にあってしまうというカルマがおきるとしたとき

これを大難から小難にかえるとか、いろいろ、思い方をかえるとかして、

なんとか、うけとめるというよりも、

さっとよけられるというのが、一番だということです。


さっと、よけられるような、人間になるほうが、あるいは、

むつかしいことかもしれませんがwww

単純に素直にきく、あかごのようにすなおにうけとめるということで、

絶対的に兆しというものはあるわけです。


この兆しにより、たとえば、親から友人から天候から

ー良くない状態にいるよーということをきかされるので、

すなおにうけとめる。


これだけで、「逃げるにしかず」ができあがるわけです。


ところが、

これにたいして、

「おこられた」「えらそうにいわれた」「おもしろくない」などと、

はねのけてしまって、素直にきけないと

「逃げるにしかず」の土台がくずれてくるわけです。



話がぞれました。


で、五六七のほうのみろくですね。


六芒星=禄ととっていくわけですが、


五と七がなにになってくるかということです。


五芒星というのがありますが、

これは、北極星の光


北極星というのは、中天にあって、位置をかえない星です。


天皇というのが、日本の歴史のなかで、

2700年ちかく続いた家系、血筋であり

古来より「位置をかえない存在」として、

同義と思えます。


と、なると、七は、星なら、北斗七星になります。


これは、日本語では柄杓星です。


天皇という存在、大御心を柄杓ですくいとる。あるいは、

天皇が柄杓で自身の大御心をすくいとってふりまいていく。


これにより、日本人の身に「禄」ができるわけです。


この禄は歴史でいえば

「食い扶持」とか、生活の糧、米の出来高(禄高)ということで、

安全で安定した国という土地こそが「@禄」ということになります。


ところが、DNAをしらべていくと、

ユダヤ人が、日本人と兄弟関係であるというわけですし、

伊勢神宮にも六芒星が刻まれているということですが、


これも、禄=六芒星=ユダヤ人ととっていくと、


確かに現実世界での「禄」部分をユダヤ人がもっているわけです。



この禄というものの正体は、たとえていえば、

氷山のようなもので、

水面上にでている、みえている民族の禄としては、

ユダヤ人が水面上にでているわけです(DNAとしてとらえたとき)


そして、精神世界として、氷山、水面下の部分が日本人の禄なのです。


ですから、日本人の御霊には、天の息吹が濃いといわれるわけです。



この現実世界の氷山が、こういう形でできあがっているからこそ、

大本神諭では、

ユダヤ(イシヤ)と、手をくまなきゃいけないというわけです。


現実という水面上の禄が、ユダヤ人であるのなら

ここを身禄が示顕化したものにしなければならないわけであり、

ひいては、

日本人の氷山下の部分も

物質的禄になっているということになるわけです。


だから、水面に出ている部分も

支配や金本位(銭儲け)という欲や物質での禄になってしまっているということになっているわけで、


ユダヤ人を忌み嫌うのは、おかど違いで、

日本人の精神というものが具現化してしまってるんだと

責任の所在を自分に求めるということが


ユダヤ(イシヤ)と、手をくまなきゃいけないという、意味合いだとおもうわけです。

反駁

シュメール人にしろ、レムリア人にしろ、


国がなくなった以上、滅びたという表現をします。


その中で、おもうことは


スピリチュアル人によっては、


レムリアに帰りたいという言い方をします。


これは、もう、ない国に帰りたいということです。


このない国にかえりたいという思いを考えると、


それは、望郷の思いでしかないわけですが、


歴史をたどっていけば、滅びた民族のうち何人かは


生き延びるために日本の地にはいり、

日本を祖国・母国としたわけです。


郷に入れば郷に従えということばがありますが、

自分をいきのびさせてくれた国を思わず、

滅びた国をなつかしんでいてどうするかということです。


判りやすく説明すれば

前の亭主と別れて、新しく生活をきずいている亭主といっしょになって

前の亭主はよかった。元にもどりたいといっているようなものです。


いくら、よくても、もうほろびたわけですし、

現在、今の亭主とささえあっていきているわけですから

回顧している場合ではなく、

今の亭主をおもうのが、本当でしょう。



そして、歴史的な考えにもどせば、

なぜ、日本が生き残り、なぜ、レムリア人やシュメール人が、ほろびたかという

根本的な原因をしっていくことが大事なわけです。


単純にいえば、国に対する忠義

人に対する仁愛

自然に対する畏敬

親に対する孝信


こういうものを、うしなった国がほろびているんだということであり

ほろびた国をなつかしむ、同調するということは、

国に対する忠義

人に対する仁愛

自然に対する畏敬

親に対する孝信

を、見失っている状態と思えるわけです。


勝ち組・負け組という言葉がありますが、


これは、


価値を負うことができた組と

価値(が、何であるかもわからない)ので、何も負うことができない組という

とりかたができます。


いかに、価値を負うことができるために、

真の価値とは、なんぞやと気がついていくことだと思うわけです。


まことの価値に気がつけない状態が、

まだ「負うことができない状態」という意味合いで

負け組のわけです。


日本にうまれ、日本人であるという価値。

ここに、きがついていない状態もまた、負け組なわけです。

レムリアに帰りたいというのも、負け組ならば、

日本の価値とおりの生き様になっていない憂生もまた負け組なのです。


国粋主義者と勘違いされてしまっては困るのですが、

まず、自分を生んでくれた親に感謝し

自分をはぐくんでくれた家庭に感謝するのなら、

また、まず、日本人という親の血に感謝し

日本という地に感謝するのが先なわけです。


大和魂というものがどういうものであるかを

しっていくこと。


これが、内からということです。


外面をいくらよくしても

なにか充実しないのは、

内面とマッチしていないからでしょう。


日本魂という内面がどういうものであるか。


ここにこそ、源泉があると気がついていくことではないかと考えている次第です。

ポール・シフト

地球の磁場が逆転する――、磁極の南極と北極が入れ替わる。といっても、これは20万年に一度くらい起きる事件で、しかも、それに要する時間は数千年といわれています。規則性や周期性もほとんどないそうです。
 ここから考えてみると、ヘロドトスがいうような1万年くらいの間に、太陽の昇る方向が4回も変わるようなことは、ありそうもない。そんな短期間に磁極がくるくると逆転を繰り返したり、自転方向が変わるようなことはありそうもない。(磁極の逆転が、そのまま地球の自転方向の変化になるかどうかは、まだわかりません・・・)。
 しかし、宇宙や太陽系に何か突発的な事件が発生して、そんなことがあったかもしれない。
 ヘロドトスがわざわざ書き残しているくらいですから、そのような可能性まで完全に否定することはできない。このあたりは何ともいえないところかと思います。

 また、地球の自転方向が変わる――などということも、ふつうはありそうもないことですが、しかし、私にはちょっと気になっていることがあるのです。
 ずっと以前、占星術に凝っていたことがありまして、その方面のいろいろな本を読んでいたとき、ある専門書のひとつに、どうも奇妙なことが書いてある。
「古代エジプトの初期の時代には、どうやら星座の動きを逆方向に見ていたようだ」
 そのような話があったのです。

 そのまま引用させていただくと、次のようなものです。
「ごく最近になって、サイドリアル占星学の大権威者、シリル・ファガンが、エジプトの初期の占星学を研究しているうちに、古代のエジプト占星学における室区分は、12室区分法ではなく8室区分で、しかもドデガトポスのように室区分の順序は時計の針と反対回りにカウントされていたのではなく、時計の針と同じ方向にカウントされていた、といいだしたのである。このファガンの占星学におけるコペルニクス的転換は、世界の占星学研究家の間に大波紋を呼び・・・」(『現代占星学』植田訓央著 P70)

  ここでは、専門的な内容に立ち入る必要はないでしょう。このなかの「時計の針と同じ方向」だの、「反対方向」だのというのは、現代の星占いなら、おひつじ座→おうし座→ふたご座、という方向で見ていくのに、古代エジプトでは、おひつじ座→うお座→みずがめ座、と逆方向に見ていたらしいと、この大権威者はいい始めたらしい。そういうことらしいのです。

 これは何か、地球の自転方向というようなことにも関係するかもしれない。地上から見上げる星空の動きが逆であれば、黄道12星座も現在とは逆の動きになる。つまり、おひつじ座→うお座→みずがめ座、という方向で進む。
 ヘロドトスの記述を覚えていたものですから、そのあたりがわりと気になったわけです。太陽の昇る方向が逆だった時代の影響が、まだ古代エジプトの初期の時代には残っていたのではないか・・・。そんなことを考えたりしました。しかし、それ以上のことは、私にはわかりません。

 ずいぶん変な方向に話が進んできましたが、いずれにしても、私たちが予想もしないようなことが過去に起きていた可能性はあるに違いない。

 ところで、磁極の移動ということに関連していえば、最近では、ポール・シフトという考え方をする人たちもいますね。
 ポール・シフトとは、地球の自転軸そのものが移動(傾斜)する現象だそうで、地球の磁場だけが変わるのではなく、地軸の変化も同時に起こり、地球の回転軸(自転軸)が傾斜する、ときには大幅に変化する、というようなことらしいです。
 地球の回転軸が変化するとは、またものすごい考え方ですね。

 これはしかし、ハプグッド教授の「地殻移動」の考え方とどこか似ています。地球がゴロンと傾いてしまう、いわば、北極と南極を軸に回転していた地球が、まったく別の軸で回転を始める。両極が移動するという点では、ポール・シフトと地殻移動は、結果としては同じかもしれません。
 ハプグッド教授の地殻移動では、1000年から2000年で南極大陸が3200キロも移動するという、まあ、現実には起こり得ないような現象を想定していますが、ポール・シフトは、ひょっとすると、もう少し可能性はあるのかもしれない。
 最後の氷河期である2~3万年前のヴェルム氷期には、ヨーロッパの北部や北米大陸では、大きな氷河や氷床の発達が見られますが、寒いはずのシベリア東部には、あまり氷河が発達した形跡がないといわれています。このような氷河期の謎も、あるいはポール・シフトで説明できるのかもしれない。
 しかし、このポール・シフトという考え方――、実際のところはどうなんですかね。(2006年1月14日)

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/atlan04.html

「地球の磁場が逆転する」

ヘロドトスによれば、「太陽が西から昇り東に沈んだことも2度あった」という。
 しかし、太陽が西から昇る、とはどういうことなのか――

 これはまず、地球が上下さかさまにひっくり返ったような事態が考えられますね。宇宙には上も下もありませんから、上下さかさまになるという表現は変ですが、北極を上に、南極を下に考えた場合、上下がさかさまにゴロンとひっくり返れば、たぶん、太陽は西から昇ることになる。そうなるのではないか・・・。
 私としては、まず、そう考えてみたのですが、これはどうも違うらしい。地球が上下さかさまにひっくり返ってみても、地上から見るかぎり、太陽の昇る方向は変わらない。そうなのではないか、と思います。(北半球でも、南半球でも、太陽が東から昇ることに変わりはありませんから)

 むしろ、太陽が西から昇るのは、地球の自転の方向が逆になるような事態ですね。現在とは逆方向に地球が自転を始めれば、間違いなく太陽は西から昇ることになる。
 そういうことが起こり得るかどうかはともかく、回転する方向が逆になれば、地上から見る太陽は西から昇り東へ沈むことになる。
 パニックになりそうですが、そういうこともあるかもしれない。

 よく「地球の磁場が逆転する」というようなことが言われますね。
 地球は北極と南極を軸に自転しているわけですが、磁極の北極と南極は地理上の北極や南極とは少しずれていて、必ずしも自転軸の上に位置していない。しかも、少しづつ動いていて、たとえば北磁極は、ハドソン湾のあたりにあったり、グリーンランドのあたりにあったりする。
 さらに奇妙なのは、地球の磁場は完全に逆転することがあるらしい。磁極の北極と南極が逆転するそうです。古地磁気学からそれがわかっていて、平均して20万年に1度くらい磁場の逆転が起こるらしい。その動きが始まると、だいたい数千年をかけて逆転するそうです。
 余談になりますが、地球の磁場は現在は少しづつ弱まっているそうで、あと1000年か2000年したらゼロになるともいわれていますね。

 地質学の世界では、そんなことがいろいろと言われています。
 私は地質学や惑星科学の専門家ではないし、その方面の詳しいことはわかりませんが、あくまでも素人考えでいえば、磁場が逆転するとは、まさに地球の自転方向も逆になるのではないか、と考えたりもするわけです。――以下、次回。できれば明日。
(2006年1月13日)
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/atlan04.html

生命の樹

生命の樹

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カバラに記されている生命の樹

生命の樹(せいめいのき、英語:Tree of Life)は、旧約聖書創世記(2章9節以降)にエデンの園の中央に植えられた木。命の木とも訳される。生命の樹の実を食べると、神に等しき永遠の命を得るとされる。

カバラではセフィロトの木 (英語: Sephirothic tree)という。

ヤハウェ・エロヒム(エールの複数形、日本語では主なる神と訳されている)がアダムとエヴァをエデンの園から追放した理由は、禁令を無視して知恵の樹の実を食べ、神に背く罪に陥った人間が、生命の樹の実までも食べて罪のからだのまま永遠に生きる(ユダヤ伝承では知恵の樹の実と生命の樹の実をともに食べると、神に等しき存在になるとされているので)事のないためである。

目次

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旧約聖書創世記における「命の木」 [編集]

新共同訳聖書創世記2章9節

主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

口語訳聖書創世記2章9節

また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

新共同訳聖書創世記3章22節

主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」

口語訳聖書創世記3章22節

主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

新共同訳聖書創世記3章24節

こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

口語訳聖書創世記3章24節

神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
ヘブライ語における命の木に至る「」の意味

ヘブライ語における命の木に至る「(דרך)」の意味[1]は、女性の「月のもの」の意味[2][3]である。

セフィロトの樹 [編集]

図式化したセフィロトの樹

セフィロトの樹は、神秘思想カバラにおいてさまざまな解釈がなされ、近代以降の西洋魔術、特に黄金の夜明け団などでは生命の樹をタロットカードと結びつけての研究が行われていたことでも有名である。10個のセフィラと22個の小径(パス)を体系化した図も同じく「生命の樹」と呼ばれる。現代ではセフィロトの樹は「生命の樹」と同じと解釈される(カバラ由来の樹はセフィロトの樹が正しく生命の樹と混同すべきではない等)。

アインとアイン・ソフとアイン・ソフ・オウル [Ain Soph Aur] [編集]

  • アインは無と訳され、0で表される。
  • アイン・ソフは無限と訳され、00で表される。
  • アイン・ソフ・オウルは無限光と訳され、000で表される。アイン・ソフ・アウルと表記されることもある。
  • アインからアイン・ソフが生じ、アイン・ソフからアイン・ソフ・オウルが生じた。

10個のセフィラとダアト [編集]

右図の天頂の白丸のセフィラ(ケテル)から右下の灰色丸(コクマー)、左の黒丸(ビナー)、右下の青丸(ケセド)、左の赤丸(ゲブラー)、右下の黄丸(全体の中央でティフェレト)、右下の緑丸(ネツァク)、左の橙丸(ホド)、右下の紫丸(イェソド)を経て、いわゆる、ジグザグに進み、最終の虹色丸(マルクト)のセフィラへと至る。なお、第3から第4のセフィラの間に隠されたダアト(右図では点線丸)というセフィラがある。

ケテル(Kether、王冠と訳される)
第1のセフィラ。思考や創造を司る。数字は1宝石ダイアモンドを象徴する。惑星は海王星を象徴し、の横顔で表される。神名はエヘイエー。守護天使メタトロン。同時に最後のとして称されるマルクトと通じ合っている。
コクマー(Cochma、知恵と訳される)
第2のセフィラ。数字は2、色は灰色、宝石はトルコ石を象徴する。惑星は天王星を象徴し、至高のと呼ばれ、男性原理を象徴する。神名はヨッド。守護天使はラツィエル
ビナー(Binah、理解と訳される)
第3のセフィラ。数字は3、色は、宝石は真珠金属惑星土星を象徴する。至高のと呼ばれ、女性原理を象徴する。成熟した女性で表される。神名はエロヒム。守護天使はザフキエル
ケセド(Chesed、慈悲と訳される)
第4のセフィラ。ケセドはゲドゥラーとも呼ばれる。数字は4、色は、金属は図形正四面体、宝石はサファイア、惑星は木星を象徴する。王座に座ったで表される。神名はエル。守護天使はザドキエル
ゲブラー(Geburah、峻厳と訳される)
第5のセフィラ。数字は5、色は、図形は五角形、金属は、宝石はルビー、惑星は火星を象徴する。天空の外科医と呼ばれることもある。神名はエロヒム・ギボール。守護天使はカマエル
ティファレト(Tiphereth、美と訳される)
第6のセフィラ。生命の樹の中心に位置している。数字は6、色は、金属は、惑星は太陽太陽も惑星と見なす)を象徴する。神名はエロハ。守護天使はミカエル
ネツァク(Netzach、勝利と訳される)
第7のセフィラ。数字は7、色は、金属は、宝石はエメラルド、惑星は金星を象徴する。全裸の女性で表される。神名はアドナイ・ツァバオト。守護天使ハニエル
ホド(Hod、栄光と訳される)
第8のセフィラ。数字は8、色は橙色、金属は水銀、惑星は水星を象徴する。神名はエロヒム・ツァバオト。守護天使はラファエル
イェソド(Yesod、基礎と訳される)
第9のセフィラ。アストラル界を表す。数字は9、色は、金属は、惑星は(月も惑星と見なす)を象徴する。裸の男性で表される。神名はシャダイ・エル・カイ。守護天使はガブリエル
マルクト(Malchut、王国と訳される)
第10のセフィラ。物質的世界を表す。数字は10、色はレモン色オリーブ色小豆色の四色、宝石は水晶、惑星は地球を象徴する。王座に座った若い女性で表される。神名はアドナイ・メレク。守護天使はサンダルフォンとされるが、シェキナ(メタトロンと対をなす神の女性的顕現)であるとする意見もある。
ダアト(Daath、知識と訳される)
隠れたセフィラ。ダートと表記されることもある。惑星は天王星を象徴し、知識と訳される。他のセフィラとは次元が異なる。ダアトは生命の樹の深淵の上に存在する。隠された意味は悟り、気づき、神が普遍的な物に隠し賢い者は試練として見つけようとした「神の真意」という意味である。

22個の小径(パス) [編集]

右に記載しているのは、対応する大アルカナ

3つの柱 [編集]

  • ビナー、ゲブラー、ホドからなる左のは峻厳の柱と呼ばれる。
  • コクマー、ケセド、ネツァクからなる右の柱は慈悲の柱と呼ばれる。
  • ケテル、ティファレト、イェソド、マルクトからなる中央の柱は均衡の柱と呼ばれる。

3つ組 [編集]

  • ケテル、コクマー、ビナーからなる三角形は至高の三角形と呼ばれる。ロゴスの三角形と呼ばれることもある。
  • ケセド、ゲブラー、ティファレトからなる三角形は倫理的三角形と呼ばれる。
  • ネツァク、ホド、イェソドからなる三角形は星幽的三角形と呼ばれる。魔術的三角形と呼ばれることもある。

シュメール文明 (無断借用




王仁三郎氏の『霊界物語』には太古の歴史において「国常立之大神の神政は最初トルコのエルズ レムであったものの、ヤマタオロチ、金毛九尾の狐が神人に憑依し、次第に神政も乱れて、遂には地球の東北にあたる日本に押し込められてしまった」と いう事が描かれています。

 1960年にメソポタミヤの、シュメール文明の首 都ウルの遺跡から発見された粘土版の中から、古代の楽譜が発見されましたが、カルフォルニア大学のアンネ・D・キルマー女史は、それを現代の五線譜に再現する事に成功し、その再現された音楽を、評論家の岩田明氏がテープにダビングする機会がありました。 私はこの古代のメロディを聴いた時に、初めて聴くにしては妙に懐かしいものを感じた。

・・・(中略)・・・

 もしかしたら日本の古い音楽と関係があるのかもしれない。そう思った私は、このテープを持って紀伊半島の熊野本宮神社の九鬼宗隆宮司を尋ねた。
快く迎えてくれた九鬼宮司は、テープを聴きはじめたかと思うとすぐに中断し、禰宜(神官)どもにも聴かせてやってほしい」と禰宜の方を集められた。
 5分程そのテープの旋律を聴くと、九鬼宮司と禰宜の方達は異 口同音に「当社で行う伝承雅楽と実によく似ている」と感嘆の声を漏らされた。 

-『日本超古代王朝とシュメールの謎』/岩田明著:日本文芸社刊-

フラクタル理論と呼ばれるものがありますが、これは図形の部分と全体が自己相似になっているものなどを指す様です。
 よく知られたものに、雪の結晶構造などがあり、また人体の中にもフラクタルが見られます。この理論を応用してCGに描かせると、地上の地形や雲、山等にソックリな映像が出来上がるようです

ドゴンー戴もの

どこから、いただいてきたか失念した。
前述の「をぐな」に関連するかと思う内容がちょこっとあったのでとってきてある。
******
ノンモが地球を訪れたとき、「10番目の月の星」と呼ばれる宇宙船が母船となり、そこから着陸船がロケット噴射しながら地上に降りた、とテンプルは解釈している。
「ドゴン族の伝承によれば、ノンモは再び戻ってくる。その再来の日は「魚の日」と呼ばれる。再来の前兆は「新しい星の出現」、すなわち「10番目の月の星」の再出現であるという。そして、「10番目の月の星」の内部から、ノンモが箱船、すなわち着陸船で地球に降り立つという」



メモ




10月は、神無月である。

出雲においては、神有月。




出雲大社の遷宮により、スサノオ(おおわだつみ)が出自する。=再出現


海の神として、「魚」




「10番目の月の星」とは、出雲大社か。




ノンモ  - イズモ




ノン・・ノム・・・モ ・・模(母)




古代、シリウスから、DNAを飲み、




現代、シリウスからのDNAを出す(いず)







ドゴン




羅という、身体という意味を」いれると




ど羅ごん・・・龍族




シリウスからの飛来神が、水を必要としたというあたりと、


ドゴン族については、じつはほかにも気になることがある。それは彼らが描くシリウスのシンボルマークについてである。
 ドゴン族はシリウスAを現すのに、直線と曲線が交差した上図のようなマークを使う。このマークはじつは、海神ポセイドンのマークと非常によく似ている。ポセイドンが持っている三叉(さんさ)の矛(ほこ)のシンボルマークだ。
 この三叉のマークは海や水の象徴でもあるし、占星術では海王星のシンボルマークでもある(海王星はやはり水を司るとされる)。
 これは要するに、水と関係するサインと考えてよいだろう。海の神ポセイドンを奉じるアトランティス王国にも通じるサインである。
 ドゴン族はなぜか、このマークを人間の肉眼で見える一番明るい恒星、シリウスに当てている。つまり、シリウスAである。おそらく、「水の主ノンモ」と関係しているからだと思われるのだが、ひょっとするとアトランティスにも何か関係しているのだろうか。

 この三叉のシンボルマークは、気をつけていると、古代世界ではわりとよくお目にかかるのである。新石器時代までさかのぼるマークのひとつで、何かの意味を持っているようだ。インドでは、シヴァ神の強力な武器(パーシュパターストラ)が、やはり同じ三叉矛である。シヴァの息子で像の頭をした知恵の神、ガネーシャがこの武器を持っていることもある。
 また、世界の古い民話では、三叉のマークは「鳥の足跡」というような表現で出てくることがある。何かの秘密の暗号のようなものらしい。かつてこのマークは、それを一目見ただけで何かわかるような象徴的な表現だったのではないだろうか。


「ナルメル」、「メネス」、「メニ」、「ミン」――面白いことに、エジプト初代の王はどれも、「N-M」または、「M-N」という発音で共通している。ドゴン族のノンモも、「N-M」という音の組み合わせだ。
 ところが、各地の文明の最初の王、あるいは、最初の人間には、なぜかこの「M-N」という音の組み合わせがよく現れるのだ。エーゲ海のクレタ文明の初代の王は「ミノス」、またインドの伝説では、洪水から生き延びた人類の祖は「マヌ」である。
 イギリスの人類学者、リチャード・ラジリーの『石器時代文明の驚異』(河出書房新社)によると、現在では新石器時代の研究がかなり進み、各地の民族の言語的な共通性がわかるようになってきたという。そして、男を意味するのは、さまざまな言語で「MANO」だというのだ。やはり、「M-N」である。英語の「MAN」もそうだし、日本語でも「モノ・者」という言い方がある。「変わり者」とか「くせ者」などという。
 最初の人間あるいは、人類の祖となる人物を、同じ「M-N」という音で呼んであたりに、全人類の共通の祖先とか、共通の祖語とか、あるいは、何か文明誕生の秘密が隠されているのだろうか。
 ただし、ノンモとナルメルだけは、「N-M」という音でどちらもナマズである。
 一方、女性はというと、ラジリーによれば、多くの民族に共通する呼び名は、「KUNA」だそうである。

友人の古い夢をおもいだしていた。

赤いドラゴンが海に落ちていく。

と、いうものだったが、

これが、なにを暗示しているのか、
ずっと、頭から離れなかった。

そして、最近、また、別の友人から、
赤い竜の落とし子のような雲がおちていくかのような空。

こののち、アメリカでおおきな竜巻が起きた。

この解釈をかんがえていくと、

赤い龍が中国や韓国ととれる。

そして、韓国の発言。

原爆は日本への神罰である。

この発言に、

いいかえれば、神はアメリカであるかといいたくなる。

つまり、
韓国の発言

落とし語は、赤い竜の落とし子のようなものだろう。

うしろにいる、アメリカにむけての落とし語は、
たしかに、たつまきに姿をかえた。




worldeye 
さんの 

お祓い ③ という記事をよむと、

まざまざと、よその国の思念のエネルギーが

なんらかの現象を生むということがありえると感じる。

実際、憂生自体が、呪いのエネルギーのすさまじさを体験したことがある。

のろった本人は憂生である。

とたんに、目の前で何件もの事故がおきてきた。

やっと、そこで、おそろしいことをおもってしまったと我にかえったのであるが、

こういう見えない世界でおきる歪にひっかかり事象として、おきてくるということはありえる。

まだ、他のことをいえば、今までも、いくつかかいている。

また、憂生の荒唐無稽と笑うかもしれないが、

http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-984.html 

ヨハネ黙示録に書かれた赤い竜



と、いう言葉にいきあたってしまった記事であるのだが、



憂生の近辺でおきてきた竜の話しにしろ、

ヨハネ黙示録にかかれた赤い竜にしろ、

なにかただならぬものをかんじてしまうのは、

憂生だけではないようである。そして、また、日本におきてきている竜巻このもとの「落とし語」のおとし主はたしてだれであったのか?

どういう「おとし語」であったのか?



アメリカに竜巻がおきたのは、

アメリカが韓国の言葉や橋下氏の発言をうけて

「神のごときにえらくなったあげく、落とした人民の発言」であろう。

だとすれば、

日本に竜巻がおきているのも

「神のごときにえらくなったあげく、落とした人民の発言」であるかもしれない。

ここをふまえて日本人ならば、どういう思いをもてばいいか。
これを考えるに、
天皇陛下だったら、どうおもわれるだろうか。と、いうことしかないとおもう。

陛下の御心がいかにあるものかを思い量るしかできないとそれだけをおもう。

おもうままに10

人口が多すぎるということが、

ひとつのアボガドロ運動をうむ。

人間を分子として考えたとき、

たとえば、マイナスイオンをもったりすれば

(マイナスな感情)

当然、分子活動は活発になり、

熱をはっする。

きめられた空間のなかにいると、

当然、気体の温度がたかくなり

空間は膨張する。

そこに、分子がはいりこむ余剰空間が出現し

人口(分子)は増加する。

ところが、その余剰空間さえも、満タンになってしまったとき、

これ以上、分子をふやすことが不可能になってくる。

分子の振動により加熱してふくらんでいた空間である地球も、

今、太陽公道において、氷河期にはいっている。

つまり、空間をふくらませていた熱がさがっていくということになる。

結果、膨張していた空間も縮小しはじめる。

この現象により、地球の人口は当然、へっていくだろう。

科学というのは、現象を解き明かし、未来を判断させてくれる。

このため、今、なによりも、マイナスエネルギーを発散させないようにという

警告がでている。

それは、もうこれ以上膨張できない空間の破裂あるいは、

極端にいえば、地球の温暖化につながる。

南極の氷、北極の氷がとけるという海面の上昇により、

空間をひやし、空間をせばめさせる結果につながる。

人口を減らすか、

マイナスエネルギーをださないようにするか、

二者択一とはいわないし、

マイナスエネルギーをだすのが、人間だけとはかぎらない。

地球環境をかんがえていくというのも、

また、人間以外のマイナスエネルギーを抑えていく行動にほかならない。

また、空間で生じた熱をひやしている、海や地面にも、

限界がちかずき、

余剰熱が地下にこもれば、火山爆発や地震を誘発させる

起爆エネルギーになってしまう(バランスをとるために)

中国からの黄砂も、多少のことなら、自然現象といえるが、

ここに、中国の大気汚染が、はいった黄砂になってくれば、

当然、人間的にマイナスエネルギーをおこしていく。

このマイナスエネルギーをおこさせた黄砂もまた、

どこかで、バランスを回復させられる動きになるとおもう。

中国が悪いというのでもなく、黄砂がいやだという人間が悪いのでもなく、

自然という気のながれで考えればひずみのある場所を平癒させようという自然治癒力がはたらいてくる。

憂生は陰明師ものを、かいてるけど、

この、中でも、

扱いは同じ。

調伏や、ふさぎ、退治の活劇ではない。

思いを救わねば、

何も、解決せぬ。

禍々しいものとて、

どう、

抱いてゆくか。

現実の自分とて同じ。

思いをすくうてゆかねば、

どうにもならぬ。

だから、また、少女パレアナ。

どう、観をかえてゆくか。かんかえる。考える

見方を変えれば、

思いは切り替わる。

どう、よい見方をするか。

己の負を知ることも大切。

だが、それに、打ちのめされていてはいけない。

自分のたら無さ、ひとつ、しれた。

師、曰。

「己を知ることほどのつらさはない。

陰気になりやすい」

かほどに己を掘って、かつ、陽気。

ちょくちょく、落ち込む憂生には

耳の痛い言葉である。


沸かされる。

血の中に溶け込んだもの。

これはすさまじい。

対抗手段。

はっきりいって、無い。

ただ、

これはいつかも書いた。

にごった汁を沸かすと、

芥がうかび、

汁はきよめられてゆく。

で、あるのに、考えで、その沸いてきたものを制そうとする。

芥が浮かんだ汁は、ひえ、

また、何かの弾みで沸き立たされる。

同じことの繰り返し。

どうすれば、芥をとれるか。

とにかく、

とにかく、

ごめんさい。

これしかない。

そして、汚いものが沸かされたこと自体を喜ぶ。

うちのめされてる暇は無い。

自浄作用が加速する。

どんどん、わびる。

おもいが、わきそうになる、直ぐそばから、わびる。

しらぬところで、

沸かぬようになる。

芥がなくなるから。

ただしそれまで、

むちゃくちゃ、苦しい。

嫌な思いを抱く自分を

自覚する作業。

こんな嫌な作業は無い。

でも、くじけない。

がんばってほしい。

思うままに・・4

どうも、憂生の不思議な能力?のことを書くと、そこらへんに興味がある方がよってきますが、これは、どういう仕組みになっているんでしょうかね?

だいぶ前の記事で、

憂生は霊能力ではないとかきましたが、

実は自分でもよく、わからないのが真相です。

この妙な能力の最初は、憑依、あるいは、自己暗示みたいなものから、はじまりました。

15歳くらいの時だったと思います。

この15歳というのが、実はみそなんですね。

うろ覚えに成りましたが、

15歳までは両親のどちらかの因縁。30歳までは、やはり両親のどちらかの因縁。

多分、15までは、母親の因縁。15から30までは、父親の因縁。

30歳からは、自分の因縁。

に差配されるというのですね。

ですから、15歳の頃にこういう憑依現象にあうということのいったんは、父親からの影響ではないかと思うのです。

実際、わずかながら、父親も不思議な経験をしているひとでした。

肝臓だったかが悪くて、入院していたそうで、その時に水がのみたくてしかたがないのだけど、

医者に止められていたそうです。

でも、どうしてもほしくて、水をのんだそうで、どうやら、このことをおがみやさんに話にいったところ、

先祖の人で、水がのみたいと思いながら死んだ人がついているから、水をのみなさいととか・・・うろおぼえです。

すると、たるほど、水をのんだら、悪化するといわれていた病状がけろりとなおったというのですね。

こういう体験をしているというところからみても、憂生の憑依現象のいったんは、父親の影響にあったとおもうわけです。

それから、しばらくはなにもなかったのですが、24,5くらい。

環境が大きく変わった頃ですね。

そのころから、不思議なことがぽつぽつとおきはじめました。

霊能力者でもなんでもないのに、思い一つで友人に取り付いてる(らしい)霊をおいはらおうとして、

背中を霊に引っ張られるなどということもありましたが、

大きく自覚したのは、離れた土地の友人のところにとまりに行った時だったと思います。

友人の部屋でねむりはじめると、

ーああ。あしたも仕事かーという思いがはいってくるのです。

部屋の天井あたりに「思い」が滞っている感じで、毎日、毎日、

ーああ。明日も仕事かあーと、思いながら就寝していたのでしょう。

その思いが部屋の中に停滞?していたようです。

そして、彼の魂が・・という小作品にもかきましたが、

事故で死んだ従兄弟の思いを拾うという状況や、

人の死をおよそ3ヶ月前に知らされる(4回ほどありました)

9・11テロの予告とおもわしきもの。

まあ、まだまだ、数え上げればきりがない状態なのですが、

憂生自体は、魂のことがわかる人と遭遇することになって、

その方に

「おまえの御霊(魂)は開いている」と、知らされたのです。

つまり・・・。

憂生が霊能力者じゃないと考えるのはそのへんなのです。

憂生の妙な能力は開発講座とか、修行場所とか、そういうことで培われたものではないわけです。

全知全能の神という言い方を聞いた事があると思いますが、

御霊がそれにあたるということです。

その御霊はみんな持っているもので、即ち自分であるといってもよいものですが、

多くの人は御霊は閉じているそうなのです。

御霊が開く要因は、いくつかあります。

元々の魂の次元が高い?いわゆるエリートといっていいか、そういう人が、今どんどん、うまれてきているとは思いますが

通常、

苦労に苦労をかさね、人間修養ができたひと。

が、御霊が開くことがあるそうです。

ところが、憂生は苦労などしていません。

ですから、師が首をかしげ、もう一つの理由をたずねてきました。

ーおまえ、死に目にあったことはないか?-

憂生は16歳くらいの時に同乗していた車で事故にあい、そのときは

ー死んだーとおもいました。

ですが、それも妙なのです。

通常、人間修練ができてない状況で、死に目にあって、御霊が開いたとしても、

御霊はすぐに閉じてしまうものらしいのです。

師はそれをたしかめるためか、御霊をとじさせたようです。

ところが、

「閉じても開く」そうです。

そして、もうひとつ。

人間修練ができていない状況で御霊が開くと

いくつかの状況におちいりやすいのです。

簡単にいうと、意識がなくなったり、とか、精神異常になってしまったり、とか、

死ぬのが怖くなくなって、ほいと、死んでしまったり、

逆にあばれたり・・・。

ひどい殺傷事件をおこしてしまう人も御霊が開き、業がふきだしてくるのかもしれません。

憂生はこういう状況がすこしありました。

でも、それは、憑依されていたようで、ちょっと、違うと思います。

ですから、精神修練ができていない状態でありながら、おかしくなることもなく、

一時的に開くのではないというのは、通常、考えられないわけです。

そして、霊能力かもしれないと思うところは、

やはり、憑依されたことがあり、そのときに師が、おいはらってくれたわけです。

ーおどりゃあ、どこの狐・狸じゃあーと・・・。

そのときに

「あれは、狐・狸じゃなくて、国津神だったよ。だけど、憂生の御霊にはせめて、天津神じゃないとね」

と、いう言葉を言われたわけです。

人間修養も精神修養もできていない人間の御霊をつかいまわそうとするものがいるわけです。

国津神は、例えば、病気治しとか、うせ物さがしとか?そういう力を持つ存在です。

まあ、簡単に言えばヒーラーとか?サイキックとか?

こういう力に近いかと思います。

ところが、憂生の御霊には、国津神じゃあ、いけないようです。

天津神・・も、また、御霊をつかいまわそうとするものだとは思うのですが、

この神がめざすところが、もうすこし、上の次元なのではないか?と思います。

ですから、その次元の神がつくということは、憂生自体の精神的修練や思い方・考え方なども

よい意味で高度なものになり、憂生自体がきたえあげられるわけです。

そして、憂生がある程度、しっかりしてきたら、

天津神もこの御霊をつかいまわせないということになって、

加勢がわにまわるか、たちさるかになるのだとおもいます。

つまり、めざすところは、自分の御霊本来との合致ということになります。

そこにいくまでに、いろんなものがはいってきて、つかいまわそうとしたり、

たすけてくれといいにきたり、すがってきたり・・・・。

憂生自体がぐらついた思いのせいでよびこんでしまっていたり・・・

そういうのが、不思議な体験として、目にみえてきているわけで、

目の前でいきなり天気をかえられるという顕示をみせられたときでも、

憂生は自分の御霊の存在がわかっていましたから、

こんな風に顕示をみせてくるものに、うなづいてしまったら、

自分の御霊ごと差配されると思いました。

御霊本来とは、平々凡々、普通の状況の物事で教えてくるものだと思うのです。

ですから、普通、みんな御霊の存在にきがつきません。

他人さまの口だったり、何気なく見ていたTVの科白だったり、こぐ日常にとけこんでいるものなのです。

ですから、ひょいと、人がやってきて、憂生の死ぬ気を止める科白をいうとかあ?

これが、御霊の差配なわけです。

天気を変えたり、神秘を見せたりサイキックをおこしたり、ヒーリングをしたり、これは、ほぼ、御霊を使いまわそうとする憑き物である可能性が大きいのです。

ここがわからずに、すごい力をみにつけたいとか、なんちゃか神からの神託があってとか・・。

これ、たいへんなことなんですよ。

自分の御霊をのっとられてしまいかねないことをやろうとしているということなのです。

御霊ほんらいからのものになってきたら、

時に応じ、思いに応じ、変な力をつかわなくても、すっと難をさけれるようになるのです。

憂生は乗じきれなかったけど、手の怪我をする直前まで、むしょうに仕事を早引けして家に帰りたいとおもわされました。

いわゆる、虫のしらせみたいに、自分の感情そのものにとけこんでしまう。

これが、御霊なのです。

そして、ばあいによっては、サイキック以上の能力を発動させることもありますが、

これら、すべて、応じて、起きる。

もので、妙な開発処や山にこもってとか?こういうものなしでおきるものです。

なによりも、こう考えたら、平凡に難なくいきてこれる人のほうが、本当の御霊が発動しているということなわけです。

あと、自分に大きな天命があれば、それに、勝手にひきずりまわされます。

なんとか開発にいかなくても、いやがおうでも、たとえば、天津神がついてきて

修行させられるようになってしまったり・・。

もっと、じかに御霊から、こうしろああしろと差配されて修行させられてしまって、

言い方わるいのですが、変な思い方をしていたら、えらいめにあわされて、自分の思いをそぎおとされたり、

自分のすきなようにすることも叶わなくなる。

そうそう、そこで、エロビデオみてるなんてことも、自由にできなくなる(かも)

それくらいひきずりまわされ、修行させられるだけの天命をもっているかどうか?

って、ことを覚悟していなくても、御霊のもつ天命がおおきいと、いやでもそうなっちゃうわけで・・。

憂生はこれ、さぞかし辛いだろうとおもうわけですよ。

好きなように酒をのんで、煙草を吸って・・・こんなこともできなくなるのでは?

って・・・。

そんな人間ですから、憂生自体はあんまし大きな天命はないようで/笑

いやがおうでも、やめるところにおいこまれていない/wwww

思うままに・・5

昨日、書いていたことの主旨がどこかにとんでしまったきがするが、まあ、いいか。

自分の魂と話ができるという現象は、

ときに、憑き物からのささやきと区別ができない。

なにかが、聞こえるという人は多くいるだろうし、そのささやきが、本当になることもあるので、

じゃあ、私にいろいろ、おしえてくれるささやきは、

魂だったのか?

と、思われるかもしれない。

憂生の場合は、音とか声というものでなく、思いにとけこむような、

例えば、自分で

「なんじゃそれ」とか、あたまの中で独り言をつぶやいてみてほしい。

声ではないが、声のような「なんじゃ、それ」が聞こえると思う。

憂生の場合は厳密にはそういう聞こえるなのであるが、この声のようなものが、

妙に「自分」でないときがあるし、なにをいってるのか、さっぱり判らない。

いつだったかも、声の調子は50~60歳くらいの男の人のような感じで

ー成仏しろ・成仏しろー

と、いう思いが聞こえる。

仕事中であり、なにゆえに、-成仏しろーなどという思いを拾う?聞こえる?のだろうと、

さっぱり、わからずにいた。

場所的に老人介護施設だったので、病棟などで、だれかなくなったのかもしれない。

おなかをすかせていたまま、死んだので、厨房にまよいこんできたのかもしれない。

などと、類推している閑はない、夕食の調理への仕込みがはじまっているわけだ。

?のまま、仕事をつづけていると、

主任に電話がはいり、兄弟が人事不肖・・つまり、危篤状態だという連絡だった。

あわただしく、主任は帰宅したのだが・・・。

これで、憂生は納得した。

主任の兄弟が、幽体離脱でもおこしたのだろう。

そして、主任の所にやってきた。

憂生にささやいたものは、霊をみて、これは、死んだ人間が死にきれず?彷徨っていると判断して、

霊にむかって、-成仏しろーと、念じたのを、憂生がひろってしまったのと

その霊が憂生のほうにきたので、

(御霊が開いてることなどにより、こちらにきやすくなるし、ある程度、御霊が上昇していると、光るらしく、

憂生の御霊・・光るものをめざして、よってきたのかもしれない)

ー成仏しろーと諭したのかもしれない。

だが、実際、憂生はそのささやいたものがなにか、わかっていない。

憂生にとりついている?ものかもしれない、

守護霊とか、先祖とか?かもしれない、御霊かもしれない。

いずれにしろ、こういうことが起きた時、それは、「お詫び」なのだと教わっている。

そして、こういうささやきが聞こえた時は

まず、ごめんなさいと御霊にわびておく。

すると、その「ささやき」が本当のことだったら、いずれ、明かしてくる。

本当じゃなかったら、魑魅魍魎などのたぶらかしになってくるので、

それをうっかり信じ込んで、相手してしまったら、

自分の魂にもぶりつかれる。

そういう意味合いで「ごめんなさい」で、いったん、バリアをはるのだろうとおもう。

憂生の場合、多く、ささやきが、本当のことになってきた。

それが、例えば、4人の人の死だったり、

ー家をうらなきゃいけないなーというささやきが友人の思いだとわかったりするとか、

数多く、ささやきが、本当であることが多くあったのだけど、

では、それが、御霊からのものか?

と、なってくると、判らないのである。

で、何回か、かいているけど、直に会話をかわすということが、あって、

大きくおぼえているのは、4人目の死のとき。

宝くじをかおうかなと思う。

金があったらなあという欲な思いがあったせいで、その欲を手繰って憂生を掌握しようとしていたのだろうと今になっておもうのであるが。

それにたいし、「当たるから、かえ。大金があたる」

と、いうわけである。

これに対して、ほいほいと信じて言うとおりをやってしまったら、

そいつのいいなりになる道筋をつくることになるわけである。

そこで、

「おまえがなにものか、判らないのに、そんな言葉をしんじれるか」

と、やってしまい、本当なら証をみせろ。

と、やったわけだ。

すると、道の脇にいたおじいさんのことを、

「余命いくばくもない」

と、いうわけで、

これによって、人の生き死にを証にするなどとんでもない奴だとはんだんして、

憂生は憂生の判断で宝くじをかった。

けっか、両方あたりました/うむむ

おじいさんはやはり、3ヵ月後になくなり、

憂生は宝くじで3000円あたりました/笑

大金じゃねえじゃんかというところは、おそらく、憂生にささやいてきていたものは、

明治か大正の者だったのでしょう/ですから、3000円は大金でしょう。

笑い話にしてしまったけど、

自分の欲などにもぶりついてきて、こちらの思いを掌握してしまおうというものがいるのも

事実なのです。

ですから、よく、サイキックな能力がほしいとか?

ヒーラーになりたいとか?

自分を本当によくしていったら、勝手に人をいやすような力や、不思議な力というのは、発動するものです。

そこにきがつかず、「欲な思い」をもったら、そこにとりついてきて、

憂生に対してのように、平気で予知をみせてきたり、物をうごかしたり、姿(神様のような)をみせて、

「本物」であるように、思い込ませることもします。

ですが、基本的に本物というのは、そういう「不思議」な形をとらないものなのです。

人を助けたいと思っている人はとくに、そういう不思議な力があったら、

さぞかし便利だろうと思うのだと思います。

確かに、この世の中、不思議な部分からの影響もあり、例えば、払う力とかも必要になってくるでしょう。

実際、憂生もなんどか、色んな人に払ってもらうということや、

もっと不思議な「助け」をうけたりしています。

ですが、根本的な解決は

例えばなにかにとりつかれてしまう「自分の思い方」をなおすことであって、

いつまでも、たんびとりつかれてしまっていてはいけないわけです。

ここらへんを判らず、便利だろうからとか、こういう思いで、

不思議な力をみにつけたら、

自分もおなじ目にあいます。

ーあいつは、便利だから、ーという消耗品のようにあつかわれてしまうのです。

人を助ける。

人を癒す。

と、いうことを、さも立派ですばらしいことのようにおもいこんでしまっているところにも、

この裏側をひっくりかえせば、

ー自分すばらしい人間になりたいーという欲がからんできていますから、

この欲を妙な存在にたぐられないように、してほしいとおもいます。


カバラ

カバラ(קַבָּלָה qabbalah, Kabbala, Cabbala)、カバラーとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教の神秘思想である密教との類似性を指摘されることがある。

カバラーはヘブライ語の動詞キッベール「受け入れる」「伝承する」の名詞形で、「受け入れ」「伝承」を意味する。カバラーが登場する以前のゲオーニーム時代には、単に口伝律法を指す言葉として用いられた。したがって、その後ユダヤ教神秘主義を指す呼称となった際にも、個人が独自に体得した神秘思想というよりは、神から伝授された知恵、あるいは師が弟子に伝承した神秘という意味で用いられることになる。 カバラーはユダヤ教の伝統に忠実な側面を持とうとしたという点において、他の宗教の神秘主義とは異なる。本来のカバラーは、ユダヤ教の律法を遵守すること、あるいは神から律法の真意を学ぶことを目的とした。したがって、正統的なユダヤ教との親和性を持っていた時期もあったため、必ずしも秘教的な神秘思想とは言えない。しかし、キリスト教の神秘家に採り入れられるようになると、ユダヤ教の伝統からは乖離した極めて個人的な神秘体験の追究の手段として用いられることになる。

目次
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1 小史
2 分類
3 思想
4 数秘学
5 関連項目
6 外部リンク


小史 [編集]
伝説では、アブラハムがメルキゼデクから伝授された天界の秘密だとも、モーセが律法(トーラー)に記し切れなかった部分を口伝として後世に伝えたものだともいう。しかし、3世紀から6世紀頃に始まり、16世紀頃にほぼ現在の体系が完成したとされる。

分類 [編集]
カバラは大きくユダヤ・カバラとクリスチャン・カバラに分類される。前者が本来のカバラであり、ユダヤ教徒が旧約聖書の解釈に用いるものである。後者はユダヤ・カバラをキリスト教に応用するために考えられたが、後に近代西洋魔術の理論的根拠にされた。クリスチャン・カバラは生命の樹の活用を中心に成り立っている。

思想 [編集]
カバラでは世界の創造を神エイン・ソフからの聖性の10段階にわたる流出の過程と考え、その聖性の最終的な形がこの物質世界であると解釈をする。この過程は10個の「球」と22本の「小径」から構成される生命の樹(セフィロト)と呼ばれる象徴図で示され、その部分部分に神の属性が反映されている。 したがってカバラは一神教でありながら多神教や汎神論に近い世界観を持つ。

別の解釈ではこの世界を一冊の書物とみなす。すべてが書き込まれているこの書を解読することはこの世界のすべてを理解することである。そしてその書はヘブライ文字の22文字で書かれており、それぞれの文字が宇宙の原理となる要素を象徴しているという。それゆえ、そのヘブライ文字のアルファベットを解読することが重要な鍵となる。

また、聖書無謬主義から一見矛盾している旧約聖書の記述を神秘主義的解釈を用いて影響を受け読み解く。一例として創世記冒頭の天地創造には人間創造の場面が二回出てくる。文献学的にはこれは別系統の神話を一つの書物に統合した為に生じた矛盾と考えられているが、カバラでは実際に人間創造が二回(またはそれ以上)行われたと解釈する。

数秘学 [編集]
また、聖書を神秘主義的に解釈する際、ゲマトリアやノタリコン、テムラーと呼ばれる一種の暗号解読法を用いる場合がある。これらが後に世俗化し数秘学、数秘術と呼ばれる運命解読の方法となった。

金縛りなるものがある。

金縛りなるものがある。

これを霊現象と捉えるか、否かは、

その人の考え方によろう。

憂生は残念ながら、

金縛りにあったことは無い。

だが、それどころではない、もっと不思議な体験をいくつもしている。

今はその体験からの

感慨を書くだけにとどめる。

いかにも、中途半端であるがあしからず。

*結局、憂生が思うに何もかも自分に原因があるということでしかない。

*憂生は彼女にこういった。

「自分がいじめても良いような自分なぞ、皆いじめる」

なぜ自分の価値をしんじない。と。

誰からも否定されると思い込む彼女は拠り所を求める。

この隙にひかかる物(霊)がいても、不思議は無い。

その弱さを正当化させて、気持ちをぐれさす事を正当化する。

そこ(隙)しか逃げ場が無くなる。

渦はいう。

「自分に元がないと考えられる人間は幸せかもしれない」

***目の前に起きる事象は全て己にもとがある***


プリズム


どうしても、にぎはやひがきになるので、いろいろ、しらべていくと
この神?も封印されているという。

なぜ、封印されているかというと、
たたっているからと思われる。

そして、あるブログからの情報で
三輪山の大物主は三輪山をとりまいているという。
霊能力者には白い大きな蛇が三輪山を巻いているようにみえるとのことだったが

本当は三輪山が石神で大きな蛇はよくない。

で、憂生もこの前大神神社?石上神社?に念をあわせてみたところ
「この神は外をうけつけん」
と、いうなぞの言葉をわかされた。

以前にも、裏天皇である、にぎはやひが表にでてくるということで
羽子板のことで、説得?したつもりでいた。

にぎはやひが恨みをもっているとおもったのはそのときで

こののち、
白蛇の話をしらべていったときに
「蛇は邪のおもいを好んで食す」
と、かかれていたのにであった。

実際、憂生の中の白蛇もそのようであって
憂生の邪の思いを栄養源にしていたようにおもわれる。

で、先日のとんぼの話で邪の思いをもつように
なんらかの(白蛇かもしれない)存在から邪の思いをわかされるようなふうに
されていたところもあると思う。

つまり、三輪山の石神・・三輪山ににぎはやひをおしこんだものだから
にぎはやひは、たたり神になってしまった。
そこで、裏天皇ともなる存在であるから、
そのたたりの思いもすさまじく、
大物主がその思いを食していた。

こういう図式が、そのまま、憂生に当てはまったと思う。

つまり、前回、話した白蛇が白い卵にとぐろを巻いているイメージが双であると思う。

いつか、白い卵をのみこもうとかまえているようにも、
まもっているようにもおもう。

その前に、憂生はよく御霊といういいかたをしていた。

ところが、魂というものもある。

ここが、よくわからずにいた。

そして、御霊が開いてる。と、いう言われ方をよくされた。
御霊が開いてるということが、どういうことであるかよくわからなかった。

御霊については、
針でつついたほどの小さな穴があって、
そこからつく息だけをしているという。

その御霊が開いてる?

開いてるということは、
開いてないのとくらべて、雲泥の差があるという。

簡単に考えたのは、
たとえば、目がみえているのと、目がみえていないのでは
見えるものが違う。
こういう差?だろうかとかんがえていた。

ところが、なにかおかしいと思い出した。
御霊の奥にまだ「ごくう」というものがいて
これは、天でさえさわれないものだという。
極端だけど、
みたまはにぎりつぶすことができても・・・ということ。

この「ごくう」がでてきたらたいしたものだ・・・という。

実はこれが、魂で、
1霊4魂というのをきかされていたことがあったけど
憂生がきいていたことは、むしろ、逆で
御霊のほうが分霊とか?空に御霊のいくつかがかえってしまったとか?
そういう話をきいていた。

そんなある日。
魂をこめる。とか、この作品は魂がこもった作品だとか?
御霊がこもった作品だとはいわない。

なにか、御霊と魂というのとは、ちょっとちがうのではないか?
と、思った。

すると、又も在るブログに
「もともと、ふたつあるものを ひとつにしようとしているところに」
と、いう言葉があり
なんとなくだけど
御霊のひらいた隙間から魂が顔をだしている図柄がうかぶ。

魂はもともと自由で、たとえていえば、光の玉のようなもの。

御霊は死んだときに霊体になるといわれるように、
霊が人の体にはいっているから、人になる・・霊(ひ)止(と)で
イメージで考えると
卵の殻のように、魂のまわりをまとっているのが、霊ではないかと。

その卵の殻が開いている。
つまるところ、それは、ひょっとすると
魂が殻をやぶって、ひよこのようにうまれようとしているのではないかと。

そのためには、まず、白蛇をどけなければならない。
惨めな思いや
じぶんだめだとか、しぬかもしれない。
あんたがまちがってる。うたがわしい・・・
など、いろんな思いをわかさせて、白蛇はそこにいすわろうとする。

エンパスでもかいたけど、
実は自分の思いでないものが、わかされてくる。
それにたいして、自分がおそれをいだいたり、
まちがいだとか、こんな自分じゃだめだとか

そして、次々に思いの罠にはまってしまう。

そして、今日、ひどい幻惑感にとらわれてしまった。

この状態も自分では判断がつかない。
なにかがついている?
あるいは、逆に、御霊が上昇してしまっていて
本来の自分の程度はこんなものでしかないとみせられているのか?
御霊がひらいているというのは、うそで
今、ひらきはじめて、おかしくなっているのか?

などと、なって、
もうだめだ・・・みたいな?
どうにかなってしまいそうな感覚になっていったときに
この間の川をわたらせられた少年の最後の言葉
「もう・無理だ」という言葉。
これにたいして、もうしわけない言い方なのだけど
「もう、無理だ」と、おもわず、
「なんとか、いきのびるぞ」と、おもったら・・と。
そのことが、ふと、わいてきたのと、
なぜか、すなおに「魂」というのがいるんだ。
それが、今、うまれ?だそうとしている。
と、思ったとたん、
ぱっと、重いものがとれていった。

そうそう、そういえば、もうひとつ、
恐れをふりはらったもの。

霊能力者は霊に御霊に穴をあけられてしまう。

このことを異様に怖れていたと思う。
なにか、ずいぶん、昔とかわってしまったというか。
昔はいけないことをしようとしているとしても
たとえば、おぼれる人がいて
自分はおよげない。
だったら、たすけにいくなんてしちゃいけない、みたいなことを
いわれたら、
誠の思いに天が乗る
と、いいかえしていたものだ。
自分がどうなろうと助けに行く。
そういう意味合いで天をあてこんでにしているという意味合いではない。

そんなふうだったのに、
困ってる人がいたら、ほっておけない人(のつもり?)だったものが
自分の魂に穴があいたら、いやだ、こわい?と
霊能力を否定していた。
霊だろうが、なんだろうが、こまってるならたすけてやれ。
穴が開いてぼろぼろになったっていいじゃないか。

と、いうこともおもいなおしていた。

いろいろと、邪心にくるしんだ、なにもかもが、
このでっかい大物主という封印をとりはずすためだったのだと思えた。

そして、どこかで、蛇をおいはらえなかった罠は
蛇の存在が命のエネルギーなのではないかという思いがあったせい。



その仕組みに気が突き出したとき、
フリート・コーンという言葉がうかびだした。

すばやい、三角錐

プリズムのような存在である。

これの中心に赤い球体がみえる。【イメージ)

それも、正体はわからないが
憂生には、三輪山の中にとじこめられたにぎはやひにおもえた。
フリーメーソンのピラミッド?にもみえなくもないが・・・

つまり、己の邪心をとりはらえばいい。
と、いうことにおもえた。

支配

意識を支配していた意識

よく、無意識という言い方を聞くが、
意識という意味ではけして、意識していないわけではない。

意識しているのだけど、別の意識が次々かぶさってきて

こうあっちゃいけない、こうあるべきだ
という意識は意志に
なってくる。

ところが、それさえも、つかめないときが在る。

たとえば
意識というので、一番わかりやすいのは
「あのこ、かわいいなあ」
という意識
次々、意識がわいてくる。
なかよくなりたいなあ
どうしたらなかよくなれるかなあ
いきなりこえかけたらいやがられるだろうなあ
きっと、あんなにかわいいから、もう彼氏いるだろうなあ
いないかもしれない
いなくても、俺 あのこにつりあわないか
あきらめたほうがいいよな
ことわられて悲しい思いするより、今のうちにあきらめよう
・・・・

ま、いろんなパターンあるだろうけど
考えてるようにおもってるだけで
実は、これも意識で

最初の「かわいいなあ」という思いを
べつの思いがつぶしていって
最終的に 自分じゃ無理・あきらめよう
というふうにかわってしまう。

思いの世界だから、
彼女だって むざむざ、すぐあきらめるような人間にふりむきはしない。
単純にかわいいなあ。 なかよくなりたい。
だけで、いいんじゃないかなと思う。
そのエネルギーの矢が彼女に命中したら
偶然がかさなりあって、仲良くなれるようなきっかけがつくられてくる。

話したいことはストーカーにならないようにということでなwww

否定的な意識をくりかえしていると
その意識に支配されていくということ。

いつのまにか、そのくりかえしで、
女性たちはみむきもしてくれなくなり
自分がいかにだめかを証明しているように思えてくる。

すると、そのループにはまり
間違いなく、その通りの性質が形成されてしまう。

これを意識の支配というのだとおもうけど
この「支配」にきがつかないので
「本当の意識」が封印されてしまう。

いまや、支配された意識のほうが先にたってしまう。

そこで、登場してきたのが
「みたま」である。
この御霊におわび、お礼をいう。
と、いうことをやっていく。
これは、ひとつに意識にしるしをつける作業になる。

そうやっているうちに、別段、なにもかわらないので
やめてしまう。

すると、ふと、きがつく。

結局、なにかをあてこんでやってたのだと。


折口信夫によれば、河童の皿は「胞衣(エナ)」だった。「胞衣」は「胎盤」であり、これを蒙って生まれる子供には尋常成らざる力が宿っていると信じられていた。「河童」のイマージュも「小児」であり、また「水の精」。

 河童の異名は多くある。ガアタロ(壱岐)、カワッソウ(肥前)、カワロ(但馬)、ガタロ(播磨)、カワタロウ(畿内)、ミズシ(能登)、ガワラ・ガメ(越中)等々。そういう中で「エンコウ」と呼ぶ地方がある。出雲から長門にかけての山陰西部、および伊予・土佐の四国西方。これはたぶん「猿猴」(えんこう)、つまり猿のこと。

 柳田國男によれば、河童の駒引き(駿馬を河に引き込む)から駒を守るのが「猿」。「猿」も「水の精」であり「河童」に類する。-- 日吉のつかわしめの猿は水の良否をよく見分ける。そして最浄い水の至るのを待って、神に告げて、神の禊をとり行なう-- そしてこの「猿」は日吉大社の神使であり、「日吉」は「日枝」、「比叡」のこと。


                             *    *    *


 比叡山延暦寺は言わずもがな、内裏の鬼門鎮護であり、鬼門とは「丑寅」の方角。「山海経」に曰く「東海に度朔山という山あり。その山の上には枝の廻り三千里にも及ぶ大きな桃の木がある。その“東北”にある門を鬼門といい一切の鬼の集まるところで、これを天帝の命によって神荼と鬱塁という兄弟が守っている。もし人に害をなした鬼があれば、葦の索で縛って虎に喰わせた」。

 日で言えば「艮(うしとら)」とは、「陰」の極まる「丑の刻」と「陽」の始まる「寅の刻」のあわいであり、歳で言えば十二月の「丑の月」と新年の「寅の月」のあわい。四季で言えば「冬」と「春」のあわい。ゆえに「艮」とは「陰」と「陽」の継ぎ目であり、「生」と「死」の継ぎ目。「再生(よみがえり)」の場所であった。だから「陰(鬼)」は「陽(寅)」に喰われて、そして「生まれ清まる」。


                             *    *    *


 こうした場所は最も「穢れ」を嫌う場所であり、ゆえに忌避の場所であった。-- 日吉のつかわしめの猿は水の良否をよく見分ける。そして最浄い水の至るのを待って、神に告げて、神の禊をとり行なう--

 こうして黄泉の国より帰ったイザナギに禊を勧めたのはククリヒメであった。そして、筑紫の日向の小戸の阿波岐原に禊たまいて生まれたのが、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三貴神。スサノヲは滄海原(アオウナハラ)の神であり、スサの神であり、サスラう神であり、あらゆる穢れという穢れが流れ行き着くニライの神であった。-- 根の国、底の国に坐す速佐須良比咩という神、持ち佐須良い失いてん、此く佐須良い失いてば、罪という罪は在らじと、祓い給え清め給う-- (大祓詞)

 穢れが流れ集まるスサノヲも、「生」と「死」の継ぎ目、そして「生まれ清まる」。


                             *    *    *


 「鬼」とは何か。そのイマージュの一端は、それは「生」と「死」のあわいであり、「浄」と「穢」のあわいでもあり、あわいとは、目に見えぬ隠れたるモノ。ゆえに「鬼」は、自ら「隠れ」、またそれを「探す」。それは地下に潜る「水」の流れのごとく絶え間ない。



おしまい

つれづれに・・2

今日のTVでサイコパスの話をやっていました。

自分の念で人を操る と、いうものです。
その操っていた人も実は他の人の念におどらされていたということだったのです。

なにか、感慨深いところがありました。
ドラマは悪い思いが念になっていたのですが
じつは憂生自体、ふりかえってみると
悪い思いで、人をあやつっていたときがついたことがありました。

実はサイコパスなどというのは、みんな普通にある能力なのです。
悪い思いをもっているとそれに見合った現実がおきてくるというのも
サイコパスのひとつです。

そのあたりに気がつくのが遅すぎたというところはあるのですが、
自分の悪い思いがとんでもない事態を引き起こすんだということの
生き証人みたいな憂生がいまさら思うことは

同じサイコパスなら、
良い思いを持てばいいじゃないか。
と、いうことでした。

憂生がそのサイコパスであると思われる現象は
かなり早いうちにでていて
以前にも書いたと思いますが
これ、ほしいなとおもっていたら、誰かがもってきてくれる。
今おもうと、それらの品物もいろいろと意味があったと思います。

そんなことがたびかさなっても
なにか、自分には不思議な力があるんだ
とか
それくらいにしか、悟っていなかったのです。

実は
「何もかもが、自分の思いの通りにうごいているんだ」
と、いうことであり
その思いがどういうものであるか、と、いうことを詮議しなかったのです。

見えているところ、現象としてサイコパスとして顕れた部分は
自分の「思い」と符号しているわけですが
見えない部分というか、認識していない部分
たとえば悪くなっていっている状態の下になっている原因である「思い」はさっぱりわかっていなかったわけです。

長年かかって、落ちるとこまでおちて
やっと、自分の邪の思いが
人をうごかしていたのだと気がついた有様でした。

そして、一番、間違っていたのは
自分でなく誰かにすがる思いだったと思います。
こういう思いが自分でなにかをする。
と、いうのでなく
とことんピンチになると
一種神頼みするわけです。

すると、霊能力じみたものが出てくるわけです。
と、いうか、いわゆる「台」の気質をもっているのだと思います。
それを物語る一番の出来事は
あるとき、「この人はみみずくになる」という何者かのささやきでした。
この言葉の意味はその通りになりました。

何者かの思いを拾う、ささやきがきこえる(耳がつく)
と、いうことは以前にもあったことです。
それをしっかり肯定してしまい、それがはっきり出てきたわけです。

すると、いつのまにか、その通りのことがおきてきたのですが
精度のない台(よりしろ)ですから
よりついてくるものがいろいろいるわけです。

そして、それらの能力にあまんじてしまい
自分で何かを考え、ナゼこんな悪いことになってしまったのかという
自分の原因をかんがえつけず
いたわけです。

ただ、一方では
蛇が鎌首をもたげているぞ
とか
とぐろを巻いているぞとか
おしえてくれるものがいて
その存在を「すくね」とだけ教えてくれました。
そして、神道家が体内にもぐってくれたとき蛇と鬼がいるということも
おしえてくれました。

その白蛇が邪念の状態になっているときがつくまで
しばらくかかりました。

もともと、蛇は知恵と生命力の象徴であり
蛇も使い方しだいというかwww
自分の心のありようで敵にも味方(見方)にもなるものだったのですが
憂生の心のまずさで邪蛇にさせていたのです。

日本人に限らず、世界中の人がこういうサイコパスなのだとおもうのですが、
日本人は昔は良い思いしかもっていなかったので
サイコパスとしては、質の良いものだったのです。

ところが、この能力で人を助けたりする人もいて
それはそれで、むかしはよかったのでしょうが
今は憂生のように自分で努力しないで
簡単に答えを得ようとしたり
自分の欲をかなえてくれとか
そういう他力本願になってしまって
自分の台にかかるものは
本来自分の御霊であったはずなのに
ほかにたよってなんとかしてくれとなってしまって
台に乗せるものも、台自体も無くなったり、使い物にならなくなってしまったのだと思います。

それを取り戻せ。ということだったのだと思います。
自分という車を自分が運転する。
と、いうところにたちかえらないとだめだったのだと思います。

憂生は大本神喩の中の
御霊が磨かれた人には高次元の神がかかるという言葉に
いささか、疑問を持っていました。

確かにそうなのですが、
御霊がみがかれてない人にだって
高次元の神はかかると思います。

ただ、それを高次元だとおもわないだけではないかと・・・。

悪い状態だよとみせてくれるのも高次元の神です。
それをしって、自分の身も心もきれいにしていけば
両面スクネのように
悪い蛇にみせていたものが実は自分を救ってくれる良い神だったときがつくわけです。

あと、大本神喩の最後は尾張にいく。
と、いう言葉がありますが
この暗喩が蛇が尻尾をくわえた図がうかび
尾張・・名古屋の気質に対して
古い秩序(筋目)を護りつつ新しいものをうけいれていく。
と、いうことだと思えたのです。

そして、もう新しいものに変わっているはずなのに
尾をひく
昔の悪い風習や考え方・思いが尾をひいてしまうので
蛇はその尻尾にかみついて、尾をひかないようにする。

そして、螺旋をえがきながら上昇するために
又尻尾をはなしていく。
その姿がたとえば、蚊取り線香なのではないかと思うのです。

そして、今まで加えられたものをもやしつくして
虫をころして(自分の中の虫・・泣き虫とかに代表される虫)
(加取り選考)
新しいものを選考していく。
そして、蚊取り線香の台の下には
灰(はい)
これでよかった。と、いう「はい(YES)」がのこる。

スタートダッシュ

少し考えてみたいことがあって書いてみます。

あるときまで、憂生は自分におきた不思議なことを
いっさい、かかないようにしていたのです。

それをかきはじめたきっかけが、なにだったのか
おぼえていないのですが、
へんなやつ、おかしな人間と思われたくないという
からをうちやぶってしまおうとおもったのもひとつですが
なにか、語ろうとしたときに
その不思議なことをぬきにした状態では
かたれないという不便さもあったせいだと思います。

その不思議なことの繰り返しで
みえてきたことは、
「それらは、自分の中のあるいは、自分の外の(気がついていないこと)を象徴的にみせているのではないか?」ということでした。

ところが、友人に同じような体質の人がいて
やはり、「思い」がはいってきたり
なにものかの響きがきこえる(心の声のような感じで響く)
と、よくにているのですが
憂生はとにかく、それらにうなづくなということをよくいっていたのです。

ところが、憂生の場合 90%近く その声がつげてきたことや自分の思ったことが
本当のこととして、証明されるということがおきてきたため
現象がみせてくることのほうにとらわれてしまったわけです。

つまり、その声のいうことを信じる・・・うなづく、・・・そして、依存してしまうという
悪循環をおこしていたわけです。

そして、最近になって
やっと、そこにきがついてきたとき
別段、なにものかの声に依存しているというわけでなく
変な言い方ですが、自分の心?にも依存していたわけです。

たとえば、この仕事面倒だなあ。明日にしよう。という心にながされるというより
まさしく依存状態だったわけです。
SP的にかんがえれば
「うん?自分って面倒だって思う人なんだ」
と、自覚して
「その心もっていていいのか?」
と、自問して
「面倒って思う癖があるから、その思いにひきずられないようにしよう」
と、心を自分の自由につかえなくなっていたわけです。

面倒だから面倒のままにしておこうという
心のままにしていた状態は
まさに(心に)依存していたわけです。

そこにきがついていく小さなきっかけは、
3度ほど人の死を予知したことがあり
どうにもならないことをわかってどうなるの?
と、いう思いからかもしれません。

それをしったからとて、
じゃあ、その死を回避できるようになっただろうか?
結果的に予知していたとわかる始末では
どうにもならないわけです。

この「思い」が次にみせてきたものが、
いろいろと不思議な現象で
その最中はやはり、不思議だということしかおもわなかったのですが
あるとき、それら、すべてが自分に警告を発している。
相手にむけてやったこと思ったこと、見せてきた物事
すべて、自分の姿だったときがついたわけです。

もっと、自分の心、自分の状態をしらなければいけない。
と、きがつきだしたあと、
又も不思議なことはおこりました。

そのあたりは今年5月あたりからの日記などでかいている物があります。

そして、自分の次元の低い状態をさらしていたのだときがつけるようになってきて
少し、みえてきたところがあるのですが

なにか、書こうとおもうと、
ー書くなーという制止がはいってきます。
今の憂生の次元では
わからない人間が自分の心の色?で物をかいてしまうせいで
かえって、間違った情報どころか
不安や混迷をおこさせてしまうということがネックになっているようにおもいました。

たとえば、数年前に
狐ざるの姿がうかんできて、これは、宇宙人に支配されていて良くない。
と、おもったわけです。
このあたりから、宇宙人の一部にエーテル体のものがいて、
人間の意識をのっとるというおもいがわいてきて
箱舟をしあげたわけです。

ところが、今回狐ざるをみると
どうも、レムリアという名前の元だとわかるわけです。
本当のところはわからないことですが、
憂生の真相意識はレムリア人のことをつたえようとしていたのかもしれません。

ですが、憂生の思いは又、別のことをおもったわけです。

レムリア人というのは滅びた民族でしかない。
と、いうことです。

これは先のことににていますが
誰かの死を予知しても救えなかった。
ましてや、滅びた民族のことがわかっても
どうにもならないという思いがわいたのです。

滅びなかった民族が滅びずにすんでいるそのことに着目しなければならないのではないのだろうか?

つまり、滅びなかった民族
それは、日本人だろう。
日本人があるいは縄文人が氷河期をのりこえてきたDNAをゆうしている。
そして、日本人が太古からつづく血統である証が天皇であるわけです。
これを今になって、天皇のルーツはどこやら星人だとかいっているのを読むことがあるのですが
それさえも、宇宙人の洗脳操作におもえます。

問題は日本人がなぜほろびなかったか
と、いうことです。
憂生が思うに、簡単にいえば大和魂があったからです。
その大和魂というのはなにかといえば
その文字のとおり、大きな和だったわけです。
氷河期にどうやって仲間ともどもいきのびれるか
弱っているものがいたらどうにかしてたすけてやりたい。
寒さで弱っているのなら、身体をあたためてやろう。
どうすれば、寒くないようにしてやれるだろう?
隙間のない換気のある建物をつくり
少しでも快適にして身体をやすめさせてやろう。
と、協力し、知恵をだしあい工夫して助け合ってきた。

そこには、誰かに依存するのでなく
お互いがお互いの力をだしあっていたわり
苦労をのりこえてきたわけで
お互いがお互いにとって神のような存在だったわけだとおもうのです。
尊く思うという意味合いで・・・。

つまり、自分自身が尊いからこそ、人のことを尊くおもうわけですし
人のことを尊く思うことこそが、尊さなわけです。

こういう「日本人」の心にある「大和」(尊さ)を
自分こそがひきだしていけばいいわけです。

先のたとえでいえば
「この仕事面倒だなあ」でなく
自分を買ってくれて仕事をまかしてもらえ、あまつさえ、それで生活のためのお金ももらえる。
なんと尊いことだろう。
と、かんがえなくなってしまったわけです。
そして、そんな風に仕事を回してくれる人に感謝もせず
仕事が出来る自分に感謝もせず
くそ文句の心にふりまわされてしまうわけです。

それは、いわば、宇宙人がすごいとか
レムリア人がすごいとか
自分の他のことをありがたがっているのと
憂生が自分の心に依存していきていくのと
ひとつもかわらないとおもえてしかたがなかったわけです。

また、別の友人は
塾をてつだっているのですが、
この塾の生徒の中に
おしえてもおしえてもなかなか出来ない子がいるという話をしていたのです。

その子に対して
「がんばろう」と声をかけ
思いでもおなじようにおもって、
99日それをやってごらんなさいということをいったわけです。
すると、
毎日あうわけでもないし、無理。
と、いうわけです。
あえなくても、その子のことを思って、目の前にいるつもりで、
声をだして、思いを送ることはできるでしょう?といっても
今までだってしてきたとか、
頭は「そんなことはできない」「今までやってきても、変わらなかったから無理」
と、否定をくりかえすわけです。
そこをときふせて
笑う女のなかでもかいたことだけど
日本人のベビーシッターがアメリカの障害を持つ男の子の
保育をひきうけたとき
たったひとつ、自分でおしっこができるようにと
半年間、トイレの前にたたせて、水を吸ったスポイトをもってきて
トイレにスポイトの水をぽたぽたとおとすのをみせるということをつづけていたら
半年後に男の子はトイレにおしっこをしはじめたという。そんな話ですが
日本人はそういうふうに、なにか、信じられないことをひらめき
それを信じてやることで、変えていく民族なのだとおもうわけです。
物みたいに人間をあつかい、世話をするだけのアメリカ人のシッターとはちがい
可能性を信じ、
人として対峙し、
あきらめない。
心をかけていく。育てていく。
そういうものじゃないか?と。
しんじられないかもしれないけど
ただただ、がんばろうと声をかけ
できるんだよとしんじさせてあげられる。
けして、誰も貴方をどうでもいいなんておもってない。
私が貴方をしんじたように貴方は貴方をしんじてほしい。
それが、ただ、「がんばろう」と声をかけ、思いをかける。
やな、言い方だけど
男の子をトイレまでつれっていって、程の労力ひとつもなしに
尊いエネルギーをおくれる。
兎に角やってみてくれ。
と、すると、三日もしないうちに、その生徒の顔があかるくなって
先生を信頼するという顔つきをみせていた(先生の姿を見るとうれしそうにわらった・・とか)

ようは、そういう心をもっていくことがだいじなんじゃないかなって。
良い思いをおくる。
そこに焦点をあてていく。
神様がわるいとかいいとか、宇宙人がおしえてくれるとか
覚醒するのがすごいとか、不思議なことがわかるのがすごいとか
そんなことじゃなくて
今自分良い思い持ってるかな
悪い思いなら、どうやってかえていこうかな?
こんな自分でもうしわけなかったな。
気がつけてよかったな。
そんなふうに、自分のことをわかるのは自分しかいないわけで
すばらしい神様のおしえとか
いろんなことわかっても
自分の心のくせまでわからないことざらにあるなって。
そこを自分をつねっていかなきゃ
とてもじゃないけど、
滅びない日本人の足元にもたどり着けないんだと。

やっと、不思議なことなどでなく
神さまでなく
自分の心をさにわしていかなきゃいけないんだと
きがついた有様で
今頃きがついても、遅いなっておもうんだけど
遅いからこそ、がんばらなきゃならないんだなとかんがえなおして
やっていこうとおもっているわけです。

原因

先日 ある男性と話をしていた。
その中で、ものすごく、示唆だと感じた一言があった。

話していた内容は憂生の過去の不思議な体験のことで、
彼には、そういうことをいっさい、話していなかった。

すると、彼は
「それ、おかしいよ」
と、いいだすわけです。

そして、ナゼ、先のことがわかったり、とか、できるの?
魂がきているのが、本当だという(彼女の魂が・・・参照)ふうになるわけ?

と、問われたわけです。

この時点で憂生は彼のいう意味がまったく理解できなかったのです。

そして、
「憂生はそうやって、自分の不思議なことをブログにだしてみせびらかしていたんだね?
それは、怖いことだよ」
と、いうわけです。

ここもわからないので、ナゼ、怖いことなのかたずねてみたのです。

彼が言うことを半分も理解できていないとおもうのですが・・・。

思い出すままに彼の言葉をかいてみます。

「それって、なにか、昔にそうだとわかるものがあったの?」
つまり、なにか、根拠があったのか?
原因になるものがあったのか?
と、いうわけです。

つまり、今のSPでもはっきりいいだしているように、
事象というのは、「思いの結果」ということです。

そういう事象(声がきこえ、それが本当になる)のは、
ありえることではあるけど
なぜ、そういう事象がおきてくるか、あたること、本当のことになるのは
すでに、何らかの「思い」があったということであろう。

ところが、その元の「思い」がないのに
事象がおきるということは、おそろしいことだというわけです。

通常はいろんな段階を踏んで、
相手の人をみて、
「あれ?この人、こんな思い方や考え方していたら、良くないことになるぞ」
と、わかるのが、順序なわけです。

ところが、そこがわからず、どうなるかだけわかる。

それは、おかしなことなのです。

「それって、ぶっとんでるんだよ」
と、彼が言います。

たとえて、いえば、ぶっとんでるというのは
もう、男で生きるの嫌になったから
性転換して今度は女性で生きよう。
と、いうようなものです。

ぶっとんでいないのは、
男で生きるのが、嫌になってしまう元の感情をなおしていくことです。
たとえば、男は責任いっぱいで、しんどいというのなら、しんどいと感じる思いかたをみなおして
責任をおえる生き方をするということです。
すると、男であろうと女であろうとどちらでもよく
逆に男としていきていくという誇りをもてるようになっていくわけです。

ぶっとんでいるということは、こういう意味合いだとおもうのです。

「そして、そんなぶっ飛んでる人間がブログに物をかくのはよくない」

と、いうのです。

それは、なぜ?

と、たずねたら
「他の人たちの均衡をくずす。価値をわからなくさせてしまう」
だから、怖いことだ。
と、いうわけです。

先のたとえでいえば、
男として生きるのが嫌になったから
性転換する。
と、いうのは、この場合は、逃げなわけです。
根本的なものを解決せず、楽なほうをえらぶ。
だけなら、いいのですが、
たとえば、それが、神様からつたえられたとか?
予知だったとか
と、いって 「逃げていること」を人の目までごまかして
性転換するのはすごいことだとか
そういう生き方をえらぶのは、先駆者だとか
周りを洗脳し
自分を祭り上げて
「逃げ」を意識の外においやってしまうわけです。

ここにおきたことは、
つまるところ、偶像崇拝なわけです。
本当の姿は「嫌なことからにげ、自分をごまかし、理論で正当化する」という像なわけです。

彼の言いたいことはこういうことじゃないかな?とおもったわけです。

沼にはいって入水自殺未遂?の人の念をひろって、
生きろと念をおくったことにせよ
実はもっと、早い段階で彼女の考え方のおかしな部分にきがつかなかったから
思いを切り替える手伝いができず、彼女は自分をおいつめたわけです。
むろん、それはあくまでも彼女の問題でしかないのですが
その「おかしな思い方」にきがつけない憂生だから
やはり、おかしな彼女をみせられたわけです。

根拠?がわからない状態で物をかくと
多くの人が惑わされるということです。

そこが、少しわかり始めたとき
「なぜ、こういうことになったか」という
ひとつの原因にいきあたることがでてきました。

15、16の多感な時期
いろんな神仏に神頼みをしたわけです。

人事をつくして天命を待つでなく
人事などしらんが、神さまたすけてください。
と、やっていたことをおもいだしたわけです。

この「思い」
神様まかせで幸せになろうなどとしたら、
神様がちゃんと幸せにしてくれました。
「自分で自分を幸せにするように努力しないなら
おなじような思いの人間をみせて
他人任せ・人任せで幸せになろうとする
(もっと、言えば欲をなんとかしようとする)
人間を回りにつくりだすんだ」
そして、そういうふうになって
もがき、くるしみ
そして、やっと、これは、自分の思いが元になっておきた出来事だときがつきはじめたわけです。

なにか、そこまで、考えてみて
やっと彼のいう言葉が半分くらい理解できたかなとおもうのです。

なにか、本当に大事なことは
失敗をしたその原因の思いにきがつくことだなと・・・。

覚書

第5帖 
富士とは神の山の事ぞ。
神の山はみな富士(二二)と云うのぞ。
見晴らし台とは身を晴らす(張らす)所ぞ。
身を晴らす(張らす)とは身の中を神にて張る事。
臣民の身の中に一杯に神の力を張らす事ぞ。
大庭(おおにわ)の富士を探して見よ。
神の米(こめ・神土米)が出て来るから、
それを大切にせよ。
富士を開くとは心に神を満たす事ぞ。
日向(ひむか)とは神を迎える事ぞ。
ひむかはその使いぞ。
ひむかは神の使いだから、
九の道を早く開いてくれよ。
早く伝えてくれよ。
ひむかのお役は
人の病を直して神の方へ向けさすお役ぞ。
この理(みち)をよく心得て
間違い無い様に伝えてくれよ。

とりとめなく

どうも、自分に歯止めがかかってしかたがないので、


かかずにおくことがおおいのですが、


いい加減、この状況も打破していかなくてはいけないと思っています。


ついつい、批判的になってしまうのは、いけないとおもってしまっていっそう歯止めがかかるのですが


ある意味、自分の「認識」を知るためには、批判を客観視する必要もあるのではないかともおもいます。


ここしばらく、かんがえていたことは、


いわゆるSP理論ですね。


これにあてはめてみるとwww


憂生はまあ、どうにもならない人間でしかないということがわかってきました。


どれだけ、つまらない人間であるかということがわかってきますと


次元上昇していわゆる「神」的内在と合一するなどということはとうてい無理だとわかってきます。


ひふみ的にいえば、気の毒だけど、ふるいおとされる側の人間でしかないということに覚悟?がつきますと


変な言い方ですが、


やはり、自分の中からの声を検討していくしかないなとおもえてきます。


先日でしたが、


元はなにだったかさえわからないことになってしまったのですが


「明日・わかるよ」


と、いわれたことがありました。


その明日になって


おきたことは、


オーナーとある会社にこちらが請け負った仕事のことで打ち合わせ(質問)にいったときのことでした。


所長みずから(女性陣がいなかったせいか)コーヒーをもってきてくれたのです。


それだけでしたwww


ところが、あとから、オーナーに


「めずらしいことがあるもんだ」


と、いわれたのです。


所長自ら?ということかとおもっていたら、


「俺は何年も何回もその事務所にいっているが、おちゃとか、コーヒーとかださん会社で一回ももらったことはない」


と、いうわけです。


つまり、オーナーの説明がなかったら、


あるいは、独りでいっていたら


「めずらしいことがおきている」と、いうことにきがつかなかったわけです。


実は、人生というか、日常というか


そういう中におきていることでも、


なにもしらないから、「めずらしいこと」(たとえば)だと、きがつかずにいることが


たくさんあるのにちがいない。とおもえたのです。


たとえて、いえば、


先にかいた「つまらん自分」「ふるいからおちてる人間」であると、しってみれば


こうやって、存在できているのも「めずらしい」現象なのでしょう。


そのことがわからずに、やれいきのびたいとかwww


どうにもならんとかwww


かんがえてみたところで


すでにたすかってるわけです。


これ以上、めずらしいことをねだろうということが無理といっていいかwww


今あることをよろこぶ


と、いうことが、簡単にみえてできないのは


たんに、自分のちっぽけさや罪を自覚していないということであって


そういう意味合いでは


SPやひふみから教わったことは大きかったと思います。


自分の中に声がひびき


じつにいろんなことをしらされてきましたし


いわゆる神秘という内容にもふれてきたとおもいます。


それらについて、かならず「御霊にわびろ」といわれていたことも


ひふみをとおして、意味合いがやっとつかめてきました。


それをはっきり自覚させてくれたのは、


在る人とオーナーの何気ない言葉からでした。


不思議なことについて


「なにか、昔にそういうことおもったとか、根拠があるわけ?」


いいえと応えたときの彼の返事は


「こわ!!」


だったわけです。


思いからなってくることであるのなら、


どこかに根拠があるわけです。原因になる思いですね。


それがないのなら、自分でないものに差配されているということであり


あるのなら、その原因をきれいにしていないから不思議なことがおきるわけです。


それらのことをたなあげして、不思議なことにとらわれていすぎたとおもうし


それ自体の答えをみつけようとしすぎていたともおもいます。


自分がどういう状態なのかという


客観視ができていなかったところで


多くのひとによって、しらされてきたところもあります。


そして、今、一番思うことは


SPのことでも、こうなんというかな、すばらしいことを書く人がいっぱいいらっしゃったり


別次元の意識(いわゆる高次元?)の存在とコンタクトできたり


こういう人たちがすごいとおもってしまう意識が逆によくないなということです。


(その人たちのいってることとか、で、なく、自分が、すごいとおもってしまうということが、です)


なにかの本でかいてあった宇宙からの意識をよんでいたとき


こう技術的なことを本当にやってきた人を見ている部分で


この本にかいてあることは、論理でしかないといっていいか・・・


兎に角一生懸命やっていくということ


これがなにもかもをささえていくんだということをぬきにして


いわば、咲いた花がきれいだとか、きれいじゃないとかということをいっていて


じゃあ、その花をそだてていく土をどうしてやったか


真夏には日陰をつくって、水を適切にあたえてとか


そういう実際の面をやっていってるかというと違うとみえる。


もしそうなら、きれいに咲かない花をみたら、これは、肥料がたりないよとか


その原因をいえる。


きれいか、きれいじゃないかなどでなく


きれいにさかせることをしっているかどうかという、そういう実質面がかけている。


そういう風にみえて、しかたがなかった。


なにか、気分だけうわむいて


できた気になってしまうのなら


いや、もうしわけない言い方だけど


自分がいかにだめな人間か、はっきりしったほうが(つらいことだけど)いいんじゃないかと。


妙な言い方だけど


幸せな誤解をしているより、


くぼまず、自分のだめさ加減をうけとめられたらいいなと・・・。


たぶん、そのようなことをかんがえていたときに


「明日わかる」といわれたきがする。


いかにだめな人間か、わかりきっていないというか・・


なにも、知らない人間といっていいか


めずらしいこと  それが みえてないといっていいか


だからこそ、すばらしいことをいう人をすばらしいとおもってしまう。


自分こそ、いかにだめな人間がこうやっていきのびているという


そのほうが、よほどすばらしいということにきがついていないというかwww


(すばらしい人がすばらしい生き様でいきのびれてるのはあたりまえといっちゃあ、なんだけどさ)


自分にあるのは、そういうマイナス面ばかりで、


それにうちひしがれていたところがおおいにあるんだけど


これっぽちもすばらしいことなどなくて、本質というか


裏打ちをもっていえることといったら、


いかにだめな自分でもいかせてもらえているという「すばらしさ」をもっているというくらいしかない。


こうなると、なにも書くことがなくなってしまってwww


感覚的なことをかいてみたくなるだけ・・だな。


でも、裏打ちなしで、下手にしゃべって、人の気持ちをふりまわしてしまってもいけないなって。


なにせ、情報氾濫しすぎて、


一言一言の余波がどうでるか、わからんやん・・・


そこまで、影響力あるとおもうほうが、しょってるか・・・(自爆)


やっぱり?

引き寄せの法則が嫌いだと思う理由を探ってみようと思う。


基本的には、憂生も

「良い風に思いを切り替える」

と、いうところをめざしているわけで、

過去、たとえば、少女パレアナや昭和天皇のエピソードをかかげて、

「喜ぶ」「喜ぶ見方に変える」という価値転換をはかることを基調にしていたし、

今も根本は変わらない。


つまり、引き寄せの法則となんら、かわらないということになろうか?


で、あるのに、なぜ、引き寄せの法則を嫌うかである。


確かに見方を変えるということで、

状況まで好転するのは事実であるが、


憂生がやってることは、

順序が逆なのだと思う。



多く、引き寄せの法則を推奨するひとは、

「自分の状態が思い方一つでよくなった」

と、仰るのではないかと思う。


ある意味ゴールは同じにみえるかもしれない。



ところが、そのうしろに「こんな不幸な状況がいやだ」

と、いうのがある。


ここが、違うのだと思う。


不幸な状況を作り出しているのも自分のわけで、

それは、「思い」が具象化したものである。


と、なると、不幸な状況というのは

自分に「良くない思い方」があることをしらせてくれているわけである。


憂生は、この「良くない思い方」はなんであるかを探るために

不幸な状況は一種、先生のようなものであると思う。


つまり、自分によくない思い方がある以上、それをかえていくしかない。


で、あるのに、不幸な状況になった、「自分の思い方」「取り組み方」を詮議せず、

あるいは、不幸な状況という先生を嫌い、否定して、

こてさきだけの「幸せ」をもとめようとするというところにみうけられる推奨の仕方なわけだ。


さらに、つまり。


「苦労」「不幸」を良くないものだとうけとめる思い方に疑問を感じる。


実際、死にたくなるような苦しいこともあったが、

何故、そのようになっていくか、

自分の思いのどこに原因があったかをつきつめてかんがえていく。


そして、そこがわかると、逆に

「苦労」「不幸」はそれをおしえてくれたのだと思える。


もし、引き寄せで思い方だけを切り替えたら

根本的な自分の思いの立替ができなかった。

根の部分を気がつかずにおわったんじゃないかと思う。


つまり、ハウツーで、なんとかなったものでなく

鍛え上げられた自分ができる。


たしかに、さっと、思いを切り替えられる。

これが、一番良いことだと思う。

だが、憂生は根性、ひねまがってるんだろう。


自分で実感し、実用になっていかないときがすまない。


ほいほいと、楽になろう。

ほいほいと幸せをひきよせよう。

苦労や不幸はとんでもない。


こういう風にいってるようにみえて、しかたなく、

教義に依存した状態で、この先もすごしていき、

自分という器がひとつも本物にならないようにみえてしかたがない。


どこかでも、書いたが、

安易に手をかすような神はろくでもない。

神は人間に苦労をさせて、

拠りに拠りかけた「ひと」にしたいと思っている。


だから、言い方を帰れば「困難」「苦労」こそが、神からの賜り物といっていいだろう。


そういう風に眼をかけられているのに、

苦労はいやだ。

いやなことばかりおきる。

と、いう。


それを起こしているのはじぶんでありながら、

そこを詮議せず、

楽にハウツーの「幸せになれる」にのっかる。


これって、憂生に言わせれば、

憑き物とかわりがないじゃないか?


自分でない、かりそめのもので、きずきあげていく。

見た目は確かに幸せだろうと思う。

神さまが、願いごとを叶えてくれてよろこんでるのとおなじだろう?


憂生なら疑うね。


そんなふうに願い事をかなえてもらえるほど(褒美をもらえる?)の、自分の出来具合かどうか。


そんなものが、来るわけ無い。


だから、引き寄せが悪いというのでなく、

「自分の思い方のどこがまずかったんだろう」と自分を省みなくなるということが

嫌なんだと思う。


誰でもかれでも、さっさと思いをきりかえて、幸せになって、

本当の意味で「本物」になれるなら、みんな引き寄せてがんばればいいだろうし、

憂生もさっさと、思いをきりかえてしまえば、

たいそうな徳人になれるかもしれない。


まあ、とにかく、

「幸せになりたい」をあてこんだ思いでのハウツーは順序が逆。


一生懸命、自分の芥を始末していくようにすれば、

勝手にしあわせになれるというか、

自分の中から、芥がなくなっていくだけでも

充分に幸せなわけだ。


で、その結果論を先にえさのようにちらつかされて、

そこにくいついていく。

というほど、不幸や苦労にめげてしまってるほうが、

本当の不幸ではないかとも思えて、


「幸せを引き寄せる」なんて言葉が逆に甘い麻薬のようにしかみえないという

憂生って、ひねくれものか?


あ?


やっぱり?

とりとめなく・・・3

SP記事を読んでいて、おもうことは、
はっきり、階層?がわかれてきたかなあということですね。

5次元につながったらしき人がその次元をキープしようとする段階と
そういう次元につながったとか、そんなことを意識せず
どういう風に現時点の自分を捉えていくか。
いわば、3次元において、5次元の意識になるわけにはいかず、
現実の世界に足をつけた状態で5次元感覚を踏破していこうという試みと。

おもしろく感じるのは、
現実の問題について、(例えば、殺人事件とか・・)
まったくといっていい程、言及しない。と、いうことですね。

それだけ、レベルがあがると、
無関係になるのかどうかわからないけど
我関せずの境地になれるということが
すばらしいというか・・・。

先日、面白いことをいう人間と話していたのです。
彼は
奇妙な言い方をしました。
「地震で人が死んだといって、それは、ごくたまにおこったことであって
3万人死んだといって、大騒ぎしていてたとしても
それがどうした?」
と、いうききようによっては、危ない言い方をしていたのですが、
よくよく、きいていると
「じっさい、災害や何やかやで死んだ死んだというけど、
日本では毎年、3万人が自殺している」

なぜ、そのことが、重要視されず、
災害のことで、びっくりしなきゃならない。

なにか、変だよ。

と、いうのが、彼の言い分でしょう。

災害を平気で越していく自殺者の数の多さに
完璧に麻痺しているとしか言いようがない。

そして、憂生は自分が教わったことを思い出している。

おそらく、アセンションを迎えるころのことだと思う。
「人により、暴れるもの
付和雷同するもの
いろいろでてくるが、死にたがるものを救いなさい」
と・・・。

アセンションで大きく出てきている現象として上げられるのは
カルマの清算ということだろう。

魂の上昇により、魂についているカルマが上昇を阻む。
魂の上昇については、太陽の光がというのが、有力な説になっているが
いずれにせよ、
このままでは、魂が上昇できないため
魂についているカルマや業などなどをそぎ落とされる段階に入っている。

そのときに、
暴れる人というのも出てくる。
実際、神が命じたなどといって殺傷事件を起こす人もいた。
これらも、単純に考えれば、
自分のカルマや業を清算するようにはたらきかけられているわけだけど
その言葉通り(感情通り)に行動してしまうというところが、
もう、どうしようもないことなのだろうと思われる。

このあたりについては、
おおくのスピリチュアラーが
たとえば、邪霊などにたぶらかされて
本当の自分を見失うことの危険性という言い方で
示唆していることでは在る。

なんのせいにしろ、
自分の理性でおさえきれないほどの状態になってしまうということに問題があり
邪霊のせいでもいいから、
これは、本来の自分ではないと気がつくことが重要だということになる。

次にあげられているのが、
付和雷同する人。
レミングが、地震を察知して、集団で逃げ出すとき
リーダーになるレミングの「恐怖心」に同調してしまい
リーダーが海にとびこんでも
そのまま一緒についていってしまう。

リーダーはおよげ、
少数のものとならおよぎきれたかもしれないが
群集で海にとびこんでしまったら、
おぼれるものによって、結局多くの命がたすからなくなる。

そういうのも、結局、どうしようもないものなのだろう。

こういうものたちをあとにして
先に自殺したがる、死にたがるものを助けなさいとはいかなることなのだろうかと思う。

ひとつには、
魂がきれいなものは、死にたがる。といわれる。

それは、アセンションでもあかされているようなことだけど
この世のいきにくさで、天に戻りたがる。ということだろう。

けれど、自殺者の先は良い風にきかされてはいない。

天に戻れる魂なのに、天に戻れなくなる。
うがって、みれば、まだ、生きてやるべきことがあるのに
にげだしてしまうという言い方もできるかもしれない。

また、魂のきれいな人がいきのびていけば
他の人間をすくいだすこともできるかもしれないと考えれば
我一人よしで、しんでしまうということは
多くの人の命をもすくいきれないことになる。

憂生はずいぶん前に
うつ病や統合失調症の人間がいずれ、人を救っていけると書いたことがある。
非常に嫌な言い方だけど、
こういう方たちは精神的に非常に弱い。
弱いからこそ、弱い人の心がわかる。
あるいは、甘えだと一笑にふしてしまう心の凹みにたいしても
真剣に取り組んでいける。
このささいに見える凹みを放置していたら
狂うかもしれない。死んでしまうかもしれないと
必死に向き合うことが出来る。

今、こういう人たちがあまりにも少なくなって
痛みをわかちあい、
わがことのようにかんがえてしまう
こういうスタンスをもてる人間があまりにも少ない。

レベルがあがったの
5次元になったの
そういう意識は大切だと思うけど
実際問題、
死にかけている人間をふと、めざめさす。
そういう思いをわすれてはいないだろうか?

まあ、憂生自体は
「死にたがる人間を最初に救う」
と、いうのは、ほかならぬ自分のことだと思った。

その究極の中で
何が自分を救ったかといえば
ひとつには
「魂(御霊)の存在」
で、あり
「自分の存在存続を望むものの意識」だったと思う。

自殺者という捉え方の中に
「逃げる」という考え方がおおいにあるが
実際の場面
御霊が開いた場合など
死が怖くない。そうである。
つまり、逃げるというのではなく
まるで、ピクニックにでも行くかのように「死」をえらびとっていて
本人にしかわからないことだろうけど
実際に自殺する動機がない。
何かが辛くてとか、いう、「逃げ」がない。

憂生の若いころは
よく、幸せだなあと思うときに
「今、このままの思いで死ねたらいいな」と、いうことをよくおもったものであるが
例えて言えば、そういう思いに似ているかもしれない。

この状態の人間に言えることがあるとすれば
「自分の体の中には魂というものがあって、その魂が自分から逃げ出そうとしている。
だから、死のうという風に簡単におもってしまうのだけど
貴方は魂との約束があってうまれてきているのだから、
魂が逃げ出すような生き方をしちゃだめだよ」
と、いうことかもしれない。

魂が逃げ出すというのは妙な言い方かもしれないけど
実際、憂生が、
魂が逃げ出したがったころに
死んでおけば、辛い思いは味合わなかったかもしれない。
けれど、実際、自分が逃げ出そうとしたときには
変な言い方だけど
この幸せなときにしんでおけば・・という思いでなく
不幸から逃げ出そうとしている自分でしかないという思いがあった。

ただただ、生きる屍のような思いで生きながらえているうちに
時というのは、偉大な神だと思う。

妙な言い方だけど、
「このまま、しんでいいのか?」
と、いう思いに切り替わらされ始めていた。

あるいは、こんな状態でいきていていいのか
だった。

そんな風に、
暴れる人間にならず
付和雷同する人間にならず
死にたがる人間を救う(自分を救う)というのも

妙な言い方かもしれないが
暴れる人間にならず
付和雷同する人間にならず
死にたがる人間を救う
と、いう言葉が言霊になっていたとしか思えない。

そして、その言霊に当てはまった自分が
生き延びて思うことは
どうにか、死にたがる人間を作らないでほしいということになる。

例えて言えば、ベトナム帰還兵がPDSTで自殺する。
こういうふうな、原因になるものが、
自殺者の後ろにあるはずだと思う。

本人の弱さでなく
いろんな環境や因縁やその他もろもろで
そういうふうに、死にたがる思いが生じてくる。

アセンションで、いわれるところの
物や金などの価値でなく
「思い」を第一に考える世界へあこがれて
他力本願的に
魂を上昇すればいいと考える気持ちもわからないでもないが、
まず、生きている間に
自分が「思い」を大切にするということを
実施していかないで、
「思い」を第一にする世界にたどりつけられるだろうか?

思いというもの、
どう思うのが一番なのかということを知っていくしかない。

たとえば、
預言?教えが降りてくるという中で
離婚がいけないというのはおかしいとか
ツインソウルというのがあるとか
憂生は奇妙だと思う。

離婚はしちゃいけない。
いろいろと、相手を理解して
歩み寄っていく努力をする。その上で、どうしようもないという選択支であって
基本は離婚をせずにやっていく努力をせよ。
と、いうことであろうし
ツインソウルという一般的な概念も憂生には違う。
めぐり合った人間を自分のツインソウルにまで、お互いをたかめていきなさい。
と、言うことであると思う。

何か、そういう風に、
自分の都合の良いように、解釈した一般論を
真に受けるほど、日本人の魂はよどんでいないと思う。

自分が一生懸命やっていけば、
天に通じるだろうという考えがあるけど
こういう当て込んだ思いももたず
なにおか、一心不乱にやっていく。
と、いうより
必死にやってるときほど
その対象のことしかやっていないだろう。

そういうことだけが必要なきがする。

だから、
なにかしら、さっこん 末法思想のようにSPが論じられていて
時に、天からだとか、
高次元だとかからだとか
宇宙人からだとか
と、いっているけれど
よくよく、考えてみれば
それは、日本人が日本の考え方をわすれているだけで
昔からある考え方でしかないと思う。

そして、ほかの国で育った思想にあてはめて考えてみて
意識の拡大ができているかのようにみえているかもしれないけど
それは、日本を忘れているからだと思う。

すべてのものに神が宿る
この考え方が日本の基本であろう。

自分に宿った神を
自分からおいだすまねをしてはいけないということと
苦しいことがおきても
自分の神が「自分に必要なことを足してくれている」
と、考えて
自分の神とおり、神ながら(かんながら)として生きてほしいと思う。

いまだ、苦しかったことの余波に精神が蝕まれることがあるけれど
それも、また、自分に必要なことなのだととらえることなのだと思う。

まず、自分の思いをうけとめきってしまう。

死にたがる人がいたら
冷静に考えてほしい。

それは、今の自分の思い方から
魂が逃げ出したいといっているSOSでしかない。と。

本当の自分であるのなら、
魂が逃げ出したいなどと思うはずがないのだと。

そのSOSに同調してしまうなぞ、おかしなことで
もう独りの自分をどう掬いだしてやるか
そこを考える。

苦しくても負けちゃいけない
死にこがれても、手をのばしちゃいけない

生まれてきたにはうまれてきたわけがある。
そのわけを自分でつくるのが本当だろう。

誰でもない、自分のために生き遂す

コピー

王仁三郎は教典『霊界物語』第64巻で日ユ同祖論を論じ、「王仁はユダヤのことを悪く書いたことはない」「ユダヤは神の選民、日本は天孫民族で直系。ユダヤは三分の一は良いので三分の二は○いので、之がフリーメンソンをやってゐるのである。今の戦いは之がやってゐる。イスラエルの十二の氏族は選ばれたのや。一番いいのが日本へ来てゐるので日本民族や」「ユダヤが暫く世界を統一する。それから○○の番だ」と語る

いろいろとおもうことを書こうとおもった憂生であるが
この一文をウィキからコピーしようとしたときに
「無条件」という思いをもったので、
そのまま、貼り付けるのみにする。

魂の思い

コンスタンチノープルという言葉が気にかかるので、
一度しらべたものの
頓挫していました。

今度は別のところからしらべていくと
ローマ帝国野滅亡のあと
西ローマの州都として、浮上してきたということです。

そして、さらに
コンスタンチノーブルの文字をみていると、
コンパチという言葉がうかんでくるので、
そんな言葉があるのか?と調べてくると

コンパチブル・・?の略語で
互換性の在る部品などをさします。

つまり、東ローマに対して
コンパチな(代替賓(品))として、
西ローマが現れたということになります。

では、なぜ、コンパチが必要になったかというと
東ローマの衰退があったからです。

衰退の原因はウィキなどを参照にしていただくとして
結局、形としては、
ひこばえを連想させてきます。

ひこばえは、
元の大木などが生気をうしなっていったり
かれていくまえに、でてくる新しい芽です。

実は、
憂生自体が
「ひこばえにきをつけろ」
と、誰かにささやかれていたのです。

これが、自分のことをさすのか、
もっと、グローバルな意味合いをさすのかわからないのですが
自分の中で思い当たることは
なにか今までそだてあげた(つもり)の価値観?がくずれさったとき
そこで新しい価値観をもとめてしまうわけです。

その価値観というものをほかに求めるとき
新たな信念を価値観にしようともがいてみても
結局、それは、コンパチでしかなく
西ローマを東ローマにうつしてみただけで
問題は
ナゼ、東ローマが滅びることになったか
大木だったはずの自分の価値観がナゼほろびていったか
と、いう
原因追求をおこなわないかぎり
新たにはえてくるひこばえは
同じ事を繰り返すということになると思うのです。

これを人間に例えれば
親の因縁を子がうけつぐということになるでしょう。

大木は親は自分の代で因縁を納所していくように勤めるのがベストなのでしょう。

憂生のふるさとでは、
おがみやさんというのがいて
親のおがみやさんがなくなったとたん
今まで普通に生活していた子供が
突然、おがみやさんになるのをみて不思議に思ったことがあります。

おそらく、これも、ひこばえで
親が元気なうちはおがみやの能力?つき物?も親の中にいたものが
親の体がおとろえていくと
ひこばえのほうにうつるということかもしれません。

そして、このひこばえに気をつけるという最も大きな答えが実は
コンスタンチノーブルではないかと思うのです。

いろんな物事をコンスタントにノーブル(正常)に
もっと、言えば
魂にそったスタン(立ち居地こそで、血【思い】が正常・清状になるんだ。
と、言うことだと思えるのです。

この魂にそったスタンスということが、どういうことか。

これをしっていくことが
生きるということかもしれない。と、昨今は思っています。

******
佐の魂

やっと、うごきはじめたかなあ。

と、おもったり。

どうも、すぴ系にいくと、こちらの変な部分がww

反応してしまって。

どうも、実感で動いてない。

と、いうのかなあ。

高次元とか、神様とかとつながるのも結構なことだとおもうのですが

根本は自分の思いなわけだし

基本は「人を思う」ということだし。

ここをかんがえていったら、

先にかいたような、厳しいとこもたなきゃならないとも思うし。

結局、本人が「実感」していくというかなあ。

ここをいくら、いってみたって、

「具体性」がないもの

推し量れないものごとでしかない。

自分で歩いて、自分で掴んでいく。

その人その人の持分で辛いこともあるだろうし

そんなに苦労しなくてすむひともあろう。

憂生自体の苦しいところも

自分で歩み、掴んでいくしかない。

まあ、もっと、いえば、

もう、人の段階じゃないなって、変な思いがしてる。

国といっていいかな。

そのてはじめというのが、

今回、かきたしていった部分。

上を思う心と、

上が下を思う心。

こういう構図が、どこにでもある。

先生と生徒。

親と子。

上司と部下。

政治と民衆。

上が上らしくないことが世の狂い。

下が下らしくないことが世の狂い。

すこし、ここにふれて。

縦の筋目というもの。

柱というもの。

考え直してみたいと思っている


魚(うお)

わすれっぽくていけない。


天理教、中山みき女史は、



泥の海から、「うお」と「み」ひきよせて、夫婦の雛形にしたという話をかいていますが、


別のところでも、人間は「魚」だったといいますし、

また、人面の魚のような、なまずのようなものが、

人間の起源だとかかれているところもあります。


今日は鑑定団をみておりまして、


そのなまずのような魚のような化石を鑑定していました。


その化石の歯が、まるで、人間のもののようにかんじられたのです。


魚の歯をみてもらえばわかるのですが

口のまわりにいざいざしたとげのような歯があったり、

今の形状から考えても、

太古の昔に、今の人間の歯の形をしている生き物がいたということが驚きでした。



教祖たちがいう、人間の祖はこの魚?かもしれないと

おもったりしました。


一方、中山みき女史のいう


「うお」「み」ですね。


うおは「を」と解釈すべきかとおもうのですね。


今でこそ「を」の字の発音ゐやゑの発音もわからなくなってしまっていますが、


「を」ローマ字でうつと、「WO」になり、ますね。

わ「WA]、ゐは「WI」うは「U」ゑは「WE]をが「WO」


ゐは「うぃ」という発音

ゑは「うえ」という発音

をは「うぉ」という発音


英語で、RとLの発音が厳密にはききとれないそうですが、

上のWがからんだ言葉の発音も厳密にはあると思うのです。


「わ」と「は」

「え」と「へ」

「を」と「お」

これらも、すべて、違っていたと思います。



で、「うお」と「み」を

「を」と「み」にすれば、非常にわかりやうい。


「お」という言葉は上につける「冠頭詞」

「を」という言葉は下につける「接尾詞?」


(すみません。ちゃんとしらべず)


と、なると、「を」は尾だと考えられます。

つまり、魚の身体と尾で、夫婦の雛形にしたということです。


魚の身体だけでは、うごけなくなるので、飢え死にしてしまうでしょう。


外敵にもくわれてしまうでしょう。


逆に尾だけあっても、いきていけないというか、必要性さえなくなる。


お互いがあってこそ、いかされる。


と、いうことになります。


形としても、尾はいそがしくうごきまわらなければなりません。


身体は尾にささえられてうごきまわれるということです。


これが、夫婦の雛形だというわけですね。


生命の創生のその中にいろいろな仕組みも封じ込められているというきがします。


また、魚を「うお」とよべば、


宇宙の緒(へぞの緒)と、解釈できますから


魚が人間の起源だというのも、ありえるとおもってしまうのですから、


文字にも、また、言霊とよくにた、音霊


魂(霊)がやどっているのだとおもえます。

スピリチュアル。肺炎になった理由というのが

検索ワードにあったんですが、


憂生は、まじめに、


肺炎になる理由は


「はい・言えん」だとおもっています。


「はい」というのは、何でも、うけいれる。


「肺」も「気」を吸い込むものです。


心の段階で考えると、これらの


「はい」と「肺」で「気」を受け止めることができなかったので、


はい、言えん(肺炎)になって、しまったということです。


他のものを俳したり、人の言葉(思い)をうけとめなかったり、

こういうことがなかったかなあとか、

そういう性質をもってないかなあとかんがえてみるのもいいかもです。


病気がそういうことの、疑似体験につながっているかもしれないので

本人には、そういう性質がなくても、

遺伝子にあったのかもしれず、カルマの掃除になっているのかもしれません。


どちらにしろ、

どこかが、良い風になっているので、ありがたいことではないかと思えます。

裏を切る

不思議な言葉があります。


あの、朝永振一郎の色紙?なんですが、


ひとつは、ノーベル物理学賞をとったときの方程式。


これも、凡人には不思議な言葉ですが・・・。


もうひとつは、


良寛和尚の言葉。


朝永さんが、かいているというところが、


また・・・。



親死ね。

子死ね。

孫死ね。


う~~ん、ひょっとすると、禁止ワードで削除されるかも・・・。


これ、どういう意味なんだろうねえって。


良寛がどういう意味でいったか、物理化学をやっているから

通じるものがあったのか・・。


どういうか、


ろくでもない子供に親父が

「おまえなんか、いきてる価値はない。死んでしまえ」


と、いうのに、似てると思う。


父親が本気でそういうわけはなく。

いや、本気でいうことができるのは、父親だけかもしれない。


この言葉をたたきつけることで、


生きてる価値のない部分だけが、ぽろりと死んでいく。


言霊でいえば、どっちかが、本当に死ぬだろう。


だが、この言霊は裏にまわっていく。


良寛のいうのは、


おそらく・・・。


人間には業やカルマがあるから、この世での果たしのためにうまれてくる。


だから、生きている。イコール、業がある。


だから、死ね。と。


この言霊は裏にまわっていく。


業のある部分だけぽろりと死んでいく。


こういう不思議な言霊というのがある。




こういうことに朝永はきがついたのではないだろうか?

霊現象について・・

どこかで書いたとおもうが、霊現象なるもののこと。

憂生はこういう霊の存在とかは、否定とか?肯定とか?

そういう段階で考えていない。

憂生自身は霊能力者ではないし、

白蛇抄の中で政勝にいわせているが、

「某は何かの力を借りて、法力をもつのは好かない。

己自らの力で・・・云々」であるわけで、

まあ、己自らの力なるものは、誰にでもあり、

その際たるものは、実に穏便に生活していける。と、いうこと。

これが、一番すごい能力だと思っている。

平々凡々、変な?能力もないし、

ごく普通の人。

こういう風にあるのが一番すごいことだと思うんだけど、

世の中の人は、その「すごさ」に気がつかず、

時に、霊能力者とか、神道家とかが持っている能力をすごい。

と、思うわけで、

そういう風に書くと、

「いや、実際私も霊に取り付かれて、払ってもらった」

とか

「守護霊をみてもらった」

など、いろいろなことで、すごいと思うというだろうと思う。

でも、憂生はそれは、逆を言えば

霊にとりつかれる自分がすごくなかっただけだというわけですよ。

で、霊を払うという事だけを言えば

確かにすごい力があるわけで、

その霊をちゃんと成仏させてあげるところまでいく能力もすごい。

と、思うのですよ。

でも、憂生は一風変わった人間ですから

霊をはらうとか、霊を成仏させるとかの問題より、

霊に取り付かれてしまう側の問題を考えるわけです。

とり憑かれるだけの理由があることがおうおうにしてあるわけです。

そこの問題を是正していかないと、

霊がはらわれても、

自分の「問題点」は依然としてある。

この考え方も白蛇抄であつかっていますが、

「思いを救わなければ、本当に救われない」

と、いうことであり、

救うのは、霊でなく、自分の思いのほうなわけです。

思いというものが、いずれには、因縁になっていくわけですが、

例えば、生きていても仕方が無いと死んでしまった人が霊になる。(と、します)

そして、今度は

生きてる本人が「死にたいな~~~」とか、思います。

同じ思いですから、霊と波長があって、取り付いてくるというか

とりつける条件が整っているわけです。

で、とりつかれた。

そこで、除霊をしてもらう。

払ってくれた人をすごいとおもうかもしれません。

でも、「とりつかれる条件」=「本人の思い」はちっともかわっていない。

なにも救われていないわけです。

もう一歩すすめますと、

霊も結局、すくわれていない。

成仏させても、また、生まれ変わっておなじことをクリアーさせられることになり、

へたすると、また、霊になって誰かに取り付く。

この霊ごと救うなら、自分で「本人の思い」をかえることなのです。

とりついた霊も同じように「因縁感情」をけしさっていくことができ、

成仏して、生まれ変わっても、「生きていくぞ」って思いで生きていけるようになる。

つまり、除霊というのは、本人がしっかりしていれば、

自分でできてしまうということでしょう。

もうひとつ、いえば、

自分の前世の因縁とか先祖とか。

こう言う人たちの中には、「救われていない」ひとがいて、

「本人」をつかって、クリアしてもらいたいと寄って来る場合もある。

それを除霊したら、たしかに霊障はなくなるのですが、

それは、自分だけの問題で、

子孫?とかこう言う人たちが、また同じ目にあうわけで、

そこを考えると

「問題は以前としてあるわけです」

人間というのは強いものです。

クリアしていけるだけのものをもっているとすがってくる場合もあるわけで、

すがってこられる元の思い「死にたい」とかが、増幅されてしまうわけです。

自分だけでなく一緒になって、霊もおもうのですから、

効果倍増(え?)

でも、やっぱり、人間というのは強い。

「生きていくぞ」

って、思いにきりかわっていく。

その時にとりついていた霊の思いが昇華され、納所していくわけです。

こう考えると、

本人は気がつかないうちに

霊も自分も救い出してるって事がありえるわけです。

ときに、「死にたい」なぞと思った人。

これは、ひょっとすると、自分の思いなんか、1くらいしかなくて、

霊に増幅されて100くらいの思いになっているかもしれないわけですよ。

つまり、99は霊の思い。

だとした時、それで、本当に死んじゃうって、馬鹿みたいじゃありませんか。

99%たぶらかされて?死ぬ。

で、憂生がちょっと、よみにいっていた霊能力者さんがかいていました。

90%↑の自殺者の霊が、「死にたくなかった」というそうです。

↑の事をかんがえてもわかりますが、そういう人たち(霊たち?)というのは、

増幅部分にのみこまれて、死んでしまったわけでしょう。

それが、また、だれかにとりついて・・。

ますます、強大な「死にたい」をけしさろうとして、

誰かにとりつく。

このくりかえしになるわけですが、

問題はそんなことでなく、「自分を強くする」

「おいおい、この死にたい感覚がつよくなってくるのは、たぶらかしだぞ」

と、自覚しておく。

これだけでも、変なたぶらかしから、自分を取り戻すことが出来る。

まあ、先にかいたように、憂生は霊能力者でも神道家でもありませんから、

そういう方たちからみたら、違うよということを書いているかもしれません。

ですが、こういうことをいうのは、自分の経験、かかわりなどから、えてきたことですから、なかには、当てはまる人がいるとおもいますので、

いちど、こういう考え方も考察に入れてみてください


良い風に考える

ある女性。

彼女は、見えるタイプでもあり、

触感?もあるようで、足をひっぱられるとか、

ラップ音がきこえるとか、

息がきこえるとか、いう状態にあった。

常々思うことだけど、

霊能力者なら、いざ、しらず

通常にそういうのが頻繁に見えたり、聞こえたりすることは、

本当はよくない。

そういう霊的なレベルに自分が下がっているということでもあるから。

このレベルというのが、実に妙なもので、

友人の霊能力者(では、ないが、わかりにくくなるので、そう書く)と、

神道家にある、「友人」をみてもらった。

その友人の部屋に友人の亡くなった恋人がいたらしい。

それに対して、霊能力者は

「男の人がいる(もちろん霊)」と、いう。

神道家は

「餓鬼がいる」

このパターンはほかのことでも、同じで

霊能力者は

「憂生の死んだ弟と水子が憂生を心配している」

神道家は

「餓鬼が二人いる」

その見え方が良いとか悪いとかいうのでなく

見え方が違うということ。

単純な考え方だが

高さという単位で考えたら

人間?の目の高さなら「犬」が居る。

と、みえるものでも

山の上くらいからみたら

「なにか、動く獣がいる」

と、見えるというのがあると思う。

そういう考え方でいうと、

霊の存在が見えたり、聞こえたりするというのは、

霊などと同じレベル?(近さ)になっているということ。

これは、よくない。

通常、霊などは、見えないのが普通。

それが、頻繁に見えたり、聞こえたりするという事は

同じ近さにいるということ。

同じ近さというのは、どういうことか?

「死」ということ。

もちろん、死期が近いとか、そういう事じゃない。

死んだような状態。

つまり、

「心が生きてない」

「死んでしまいたい気分になっている」

「なにか、沈みがち・・ふさぎこむ」

と、いう状態が考えられる。

実際、先にかいたようなことでも、

憂生自体、「心がしにかけ、本体もしなせようとしていた」

わけで、こういうときは、類友もきやすいし、

おなじような「思い」をもつ霊もよってきやすい。

その結果、ますます、みえてきたり

変な人があらわれたり?する。

すると、もっと、落ち込むし、

増幅されやすい。

一番の解決は「明るくなる」

そのために悩みやふさぎこみを

どういうふうにかして、良い見方にして、思いをきりかえていく。

こう言う風にしていくと、

しょうもないものは、よってこなくなる。

友人の科白が冠たるもので、

「幸せな時は見えない。不幸(ふさぎこむなど・・心がマイナス状態)な時には見える」

見えないだけで、居るのは、居るかもしれない。

だけど、幸せな状態というのは、たとえで言えば

まさに天に昇るような嬉しさという表現があるとおり、

天くらいの高い場所に行っているわけだと思う。

それで、地上の犬をみて、犬がみえるだろうか?

見えないよね。

犬のほうだって、友人がどこにいるか、わからないだろう?

まあ、極端なたとえかただけど、

「心が生きている状態」と

「心が死んでいる状態」とでは、雲泥の差がある。

そして、多く、見えるとか、なにか、落ち込んだり、

病気になったりする人は

まちがいなく、

「心がよわりかけている」

その弱らせているのも、多くは

「物事(思い)をどういう風に良く(喜んで)掴み取るか」が見つけられずに居る。

一言でよい風に掴み取る。

と、憂生も簡単にかいているけど、

これは、なかなか、むつかしい。

ところが、

「自分が喋ること・思うこと」に回答があるということ。

だから、憂生はいろんなことを、書いてきた。

亡くなった友人がふさぎこみからはいあがりはじめ、

悲しい事件のこともしゃべりはじめたとき、

憂生は、それを喜んだ。

喋る。話す。などは、自分をとじこめている世界の壁をこわすということでもあり、

喋る・話す・は、「浄化作用」「昇華作用」「整理作用」をもたらす。

もちろん、ただのおしゃべりじゃなくて

悩んでいるなら、その外枠でも言葉にしていくということ。

たいてい、答えはその言葉の中にある。

そして、次におきるのが、じゃあ、どういう風に見方・思い方をかえていくか。

と、いう具体的な部分。

これは、今、憂生自体が実践していっている。

こう考えれば、ああ考えれば・

と、考えでなく、思い方がきりかわる見方を探している。

見方がかわれば、思い方も変わる。

すると、芋蔓式に見えていたものまで見えなくなる事がある。

これは、自分のレベルが一歩上がったという事だと憂生は思う。

けっして、特殊な才能がなくなったわけでなく、

観なくてもいいものがみえなくなった・・。

低い?位置から、自分が高い位置にきたから、

みえなくなっただけということもあるわけで、

そこらへんをおもっても、

やはり、普通の状態が一番ベストであり

変にふさぎこむときは、

まず、その問題点の整理を始める。

そして、さいごには、「よかった」といえるように考える。

すると、いつのまにか、

「きにしていたこと。悩み事」だった物事が

気にならなくなる。

筈/笑

じっさい、憂生もそこのところと格闘中でもあるわけで・・・。

えらそうにいえることじゃないけど、

だんだん・・良い風にかわってきているなとは思う。

気になったこと・・・

どこのどなた様かわからなくなってしまったけど、

すごい霊能力者がいて、

その人の悪口をいったら、ひどいめにあう。

と、いうことをかいていた。

はっきり、言う。

それはある。

だが、間にはいる事がある。

実際、憂生の知人にも、そういうことがあった。

***さんがいっていたから絶対まちがいない。

***さんというのが、たとえば、そのものすごい霊能力者だと

おもってくれたらよい。

言われて、そんなことあるもんかといった人間はあわをふいて

ぶったおれた。

知人は上の人とおなじことをいった。

***さんを批判するから、こういうことになるんだ。

そうだろうか?

憂生は違うと想う。

***さんは本当にすごいひとだろう。

だがら、邪な心をゆるさない。

邪な心は批判した人の心じゃない。

***さんを祭り上げて、物をいう心だ。

その邪な心でものをいったら、

相手の人が邪な毒にあてられる。

***さんを盾にして毒をふきかけるから、

相手の人がたおれてしまうんですよ。

こういうことだろう。

***さんのことで、愛をつたえたら、

相手の人は助かるだろう。

こういうことだろう。

その自分の心のありようが、

相手のすがたに跳ね返って見せられて

これを***さんのしわざに?されたらたまったもんじゃない。

見せられたことは自分に元がある。

ここをわすれるから、変なとりかたをする。

知人もよほど次元の高い人なんだとおもう。

だから、そういう現象を見せられるんだと想うけど

相手が倒れるのを、見たのは「自分」であって、

「***さん」じゃない。

原因は「自分」にある。

自分の思いがわるかったのを

***さんの悪口をいったからだ。

と、ひとのせいにする。

もっと、いえば、悪口をいわせたのは、じぶんであり、

***さんがすごいと自分がじかくしておけばよいことを

人に吹聴して、***さんを安くした。

その結果、人を不幸?にしている。

相手を悪いふうにするのが、

***さんか?

違うだろう。

自分が信じているものを信じてもらえなかったのは、

どこか、自分がたりん。

そうとるべきところを、

思いの世界だ。

「私の信じるものを否定するかあああ」

と、いう「呪」「毒」をぶつけてしまったんじゃないか?

元は自分。

だから、ものすごい霊能力者***を批判したら

罰が当たり、えらい目に合わされるのは、

むしろ、そういってる人。

そんな見方が出てくるところに問題がある。

本当にものすごい人なら

そんなことはしない。

なのに、そういうことをするひとのように

解釈する思い方が危ない。

まあ、憂生はよくわからんが、

北風と太陽じゃないけど、

本当に凄い人はしらぬうちに

相手の服をぬがせてしまう。

自分がぬがせることができなくて、

冷たい風をあてたことを自覚せず、

凍えたのは、太陽を否定したからだと

人のせいにするな。

上にかいたことを、

二次的批判ととってもらいたくない。

憂生が此処に書き付けていることは、

自分もそうだから、

「そういう人をみせられてるんじゃないか?」

って、ことを、自分に気がつかせるためだと想っている。

自分のいう事が通じないからと

相手のことを批判しがちな面はたしかにある。

通じる自分になってないことを

しっかり、自覚せないかんのは、憂生じゃないかっていう、

自己批判の為の書付でしかないってことを

誤解なきように。

だいたいにおいて、

人がおかしいというもののみかたをするとき、

かつ、

そこにひかっかってしまうときほど、

自分の方に原因があるということだけは、

判ってる。

問題は具体的にどの想いか?

って、ことが、みえてない。

だから、書き付けている。

ここまちがわないでほしい。

相手へのひはんではない。

そういうふうにみてしまう自分のさらし

思うまま・・・2

人間の人生は、まず、因縁納所なのだと思う。

この因縁は魂【前世】の因縁。

肉体(先祖の血)の因縁とふたつある。

この因縁をとおることで、

因縁が納所する。

今、おおくのスピリチュアラーが、前世がわかってという。

そして、多く、前世のしのこしたことなどをクリアしていく段階にはいっているし

肉体の因縁を通ることもする。

前世がはまって、スピリチュアラーになっている人がいるけど、

これは、まだ、一歩手前。

前世の遣り残したことをクリアーしなきゃいかんのだとおもう。

これをクリアーできたら、こんどこそ、

自分の因縁にはいる。

できうれば、

前世や先祖の因縁をなんとかする段階をはやくとおりぬけて、

本当の自分の魂の因縁にたどりついてほしい。

おそらく、で、しかないが、

今の世の中のスピリチュアラーのほとんど、全員が

自分の魂の因縁にたどりついていない。

とくに、いろんなことが見える人は

そのビジュアルの中継者になってしまって、

自分の魂とのコンタクトがとりにくい。

あくまでも、憂生の私観だけど。

今を一生懸命やって、

神様が見えるの

神様からなにかいわれるのは、

まだまだ、魂から直にいわれてないってことだって考えて欲しい。

パワーをおくるのもそう。

自分が魂と直になったら

いくらでも、パワーはわく。

なぜなら、魂は天の分霊だから。

四元

天照大神は、イザナギ尊とイザナミ尊の御子、一女三男の四神の第一男神。

一女は、蛭子の明神。

三男は、日神・天照大神宮、月神・スサノオ尊、月神・宇佐八幡宮。

憂生:月の輝神がスサノオ

月の曇る(裏・見えない)ときが、宇佐八幡=ニギハヤヒ

瀬織津姫は、苦業の因を救う。

三途の河の大河を渡り、涅槃の岸に至るのを司る神。


後に菊理姫に代わる。


これは、同じ神の変化。


あるいは、権現。



筋道、定規を呈することで司る。

人があまりにも、筋道・定規をわきまえず

涅槃(いきながらの意味で、死ぬことの意味でない)にいけなくなるため、


示顕して、理をきかせた。

菊(聴く)理姫。


今、隠れ身というのがでてくるということは、

「筋道をきかせても、わきまえないため」


時代がよくなっている。

新しい波動がでてくるとよろこんでいるけれど、

どうしようもなくなって、

隠れ身が示顕しないと、魂がすくわれないという

危機的状況に来ているという事になる。


これを、瀬織津姫の働きを使えば使うほど

魂が弱弱しいものになる。


本当に必要なのは

人間の言葉で

「道筋・定規」をつたえること。


神様の力をかりなくても、

「道筋・定規」がわかれば

自然と浄化される。


つまり、普通の言葉で

普通に話せばわかるんだけど、

自分が「筋道・定規」を本物にしていないと

これが、言霊(恩)にならない。


相手の魂に響かない。


つまるところ、神さまの「力」をかりなければならない。


憂生はこれが、おかしいという。


自分が本物で無い証拠でしかないのに、

神様をありがたがる。



本物は普通の人間の言葉でしゃべりながら、

相手の魂に響く「音」を発している。

より白・・に、なる

神様のことを書いてるのでなく

神の名前にこめられた「命」を言う。

本当のことは、ここにあるので、

神様のはたらきだけを使うということは、

血肉にならない。

賓頭盧頗羅堕

びんずる尊者」は、釈尊(しゃくそん)(釈迦(しゃか))の弟子で、十六羅漢(らかん)の筆頭です。
 他には単に「びんずる」、また敬語を付けて「おびんずる」とか「おびんずる様」とか、「なでぼとけ(撫で仏)様」とも呼ばれています。
 サンスクリット語(梵語(ぼんご))「ピンドーラ」の音訳から「賓頭盧跋羅堕闍(ばらだじゃ)」・「賓頭盧突羅闍(とらじゃ)」・「賓頭盧頗羅堕(はらだ)」とも呼ばれることがあります。「賓頭盧」が名前で「頗羅堕」が姓です。

 古代インドのヴァンサ国コーサンビーの優填王(うでんおう)の大臣の子、婆羅門(ばらもん)階級の出身でした。
 若いころは勝手気ままに暮らしていましたが、釈尊にめぐり合って発心(ほっしん)し出家・修行なさいました。
 阿羅漢果(あらかんか)を得て神通力(じんつうりき)に優れていましたが、それ以上に説法に優れていましたので「獅子吼(ししく)第一」とも呼ばれていました。獅子つまりライオンが吼()えるようだという訳ですから、だれも反論できなく押し黙ってしまう様子(ようす)が目に浮かびますね。

阿羅漢果とは修行者の最終段階で、もはやそれ以上に学ぶ必要がないという意味で「無学位」とも呼ばれます。

 仏教の保護を行なった優填王が入信したのは、夫人の勧(すすめ)めという説のほかに、コーサンビー出身のピンドーラの説法で入信したという説もあります。
 人並(ひとな)み優れた神通力で、病気の人や体の不自由な人を助けたり、欲の深い人や意地悪な人を懲()らしめたりしていました。しかし、釈尊に神通力をもてあそんだと呵責(かしゃく)されてしまいました。そこで釈尊から許可をもらって釈尊の入滅(にゅうめつ)の後も涅槃(ねはん)に入らずに、西瞿陀尼州(さいくだにしゅう)摩利支山(まりしせん)で衆生(しゅじょう)の救済(くさい)に努(つと)めていらっしゃるそうです。
 その他にもいろいろな伝説があるようです。

 小乗仏教寺院では上座(じょうざ)とされて、古代中国の晋(しん)時代、道安法師( 312~ 385)が夢に見た伝説から、禅寺では聖僧として食堂(じきどう)に白髪と長眉(ちょうび)の姿で示される像を安置しました。
 日本では本堂の外陣(げじん)・前縁(ぜんえん)などにその像を安置し、病人が自分の患(わずら)っている個所(かしょ)と同じ部分を撫()でるとその病気が治(なお)ると信仰されています。でも、そのお姿は撫で易()いように皆つるつるになってしまいました。
http://pddlib.v.wol.ne.jp/photo/uenokoen/pindola.htm

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「すばる(統ばる)」または「すまる(統まる)」という言葉は元来他動詞「すべる(統べる)」に対する自動詞形であり、「統一されている」「一つに集まっている」という意味をもつ。 玉飾を糸でひとくくりとしたものを『万葉集 』で「須売流玉(すまるのたま)」、『日本紀竟宴和歌 』で「儒波窶玉(すばるのたま)」などと呼んだのと同様の用法である。 

その後、中国でプレアデス星団を指す昴宿から「昴」を当てた。

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