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嫌な予感・・・いや・・不安というべきだろう。

 今年の夏は暑い・・・というのは、

まあ、この異常状態のこと、わからないでもない。



だが、嫌な気分がするのは、

図らずも、昨年のことがあるからだろう。

なにやかや、

火山の動向が、激しくなってきていて・・・

どこかで、

こんなことを書いた覚え・・・

話した覚え?がある。



暑い夏のあとは、地震がおきやすいという。

同じように、

火山の熱がたまってしまうと、

そのエネルギーの逃げ道がなくなってしまう。

少しはその熱の拡散ができるなら、

大雨がたすけてくれてるのかもしれない?

と・・・・



そんなことを昨年、書いたような、話したような覚えがある。



その年があけて・・・

熊本地震があった・・・



やはり、熱・・火山エネルギーにしろ、太陽のエネルギーにしろ

蓄積されたものが冬にひえて、

そして、暖かくなり始めるころに

溶解をおこすかのように・・・



そんなことがふと頭によぎっていたところ

今年の夏のパターンが

2010年のときと同じ傾向だという。



2010年があけて

翌年に起きた東北地震のあと

二つの伝説がささやかれた。



1つは、以上に暑い夏のあと大きな地震が起きる。

もうひとつは、

政権が自民党でなくなると

大きな地震が起きる。



少なくとも、

政権が変わることはありえないと思うが

それでも、

世界規模で考えると

果たしてどうだろう?



フジモリ氏はまあ・・・しかたがないとしても

オバマ氏という常識派という政権が

このさき、どうなるのか・・・



日本に起きたことが世界に起きるという

話もあれば、

世界に起きたことが、日本に起きるという言い方もある。

大本王任三郎の論をみれば、

過去に起きた核戦争?のごときカッパドキアなどの位置が

日本、世界のひな型図では広島にあたるようなきもせぬでもないwww



と、なると、

すでに、過去に起きたらしいことが日本でおきるのなら

これで、終わりだとおもうが、

彼は、また別の言い方もしていた。

2度あることは3度あるのが本当・・・



3度あるのが、

3度目の正直ということわざになったやもしれぬが・・・・



いずれにせよ・・・

もうひとつの説・・・



近畿あたりを中心に時計回りに

外側から内側にことが起きる。



という・・・



こじつけかもしれないが・・・


ここしばらくをいえば、

東北から熊本

次は・・・

関東近辺?



そして、

瀬戸内海・四国・中国・・・



その、こと  が、なにであるか、どうでるかは、わからない。





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原因不明

指先が動かず、呂律がまわらず・・と、一般的にいわれる脳梗塞の症状がでて、
ありえんと思いつつ、おふくろに話すと
若い者でもなるそうだよ。
と、いわれる。
ネットをググると、なにか、非常に危ないということで、
病院にいくことにした。
MRI初体験とあいなったのだが、
検査結果は異状なし・・。

痕跡さえない・・・とのこと。
薬も当然でるわけもなく・・・
治療対象ではないので、と、MRI代金だけを払ってかえってきた。

唯一考えられるのは
血栓がはがれて、一時的に詰まった状態になったのが、
ながれていった。
とのこと、血管のスキャンもみせてもらったが、
途切れたり、詰まったりもいっさい無い。
きれいなもんです。

?????

しいていえば、また、妄想チックでいやなんだけどww
憑依されたとき・・・と、にていると感じる。
この時は、なんともいえぬだるさと感じていた。
たとえていえば、肺炎をやらかしたときのようなだるさ。
風邪ではないとわかっていたが、
まさか、肺炎やらかしたか?
貧血?
寝れば治るだろうとたいしてきにもせずパソコンにむかったら
神道家がきていて、
「いま、しんどいだろう。払ってやるから」
と、いって、払ってくれた。
その時に
「赤い大きな指輪をしたきれいな中年女性だ。おぼえあるか?」
と、たずねられた。
そして、
「楽になっただろう?」ともたずねられた。
まだ、その時は少々、すっきりしていなかったので
「よく、わからん」
と、答えたと思う。
「まあ、だいじょうぶだよ」
と、いうことで、1~2時間したら、すっきりしたように覚えてる。

後年、亡くなったある方ではないかとおもうようになった。

最初はそれで、原因を考えていた。
正直、憑依?するような人ではない。
憂生もそういう憑依される覚えがない。
ところが、知人からその人の気持ちをきくようなことがたびかさなった。
それで、かんがえたのが、
彼女自体ははらわれて、憂生からはなれたかもしれないが
いわゆる、成仏してないのではないか?
と、いうことだった。

思いを残しているのかもしれない。
そう思って、憂生なりに思うところを彼女に(空に?)むかってつたえた。

それで、なにか、すっきりしたようなきがしているのだが・・。

憑依と呼ばれる状態になったことを考えると
思うに、3~4回あるとおもうけど
「しんどい」とかんじたのは、この時がはじめてだった。

これは、霊自体の思いがたとえば、悲しみとか
負的な思いが強いことによって、
こちらへの波動?がわるくなり、
体に影響がでてきたと考えると

今回の原因不明の症状も
憑依だとするのなら
かなり、負の状態がきつい霊だったのかもしれない。

わすれていたけど、夏頃に納車した車のことでひと悶着あったのをおもいだした。

なにか、事故をおこしているような感じがあって
車のまわりをみていたら
きゅうにしんどくなって
「しにかけた」とか、つぶやきながら
自室にもどるのもようようのじょうたいで
ベッドにねころがると
ーあ、ユニコーンーという女の子の声が頭の中にひびいて
しばらくしたら、しんどいのがひいていった。
女の子はユニコーンがきたことをいうのか
ー怖いーとつぶやいていたけど・・・

で、ぐぐってみると、ユニコーンには魔?や毒を浄化する力があるそうで
それで、しんどいのが治ったということだろう。
前回のこともあるので
あえて、浄化?成仏?させようと決心していた。
この後、前の車の持ち主なのか?
ー最後に車にもう一度のりたいーと、つたえてきたので、
ドライブにいってきた。

その間、かるい憑依状態(ぼーとしたかんじ)がつづいていたが
霊なりに納得するところがあったのだろう。
最後にといっただけあって、その時のドライブでこちらもすっきりした。

こういう霊がつく?原因としてかんがえられるのは
憂生自体が事故をおこしていて
助手席に乗るときに、「怖い」と思うことがあった。
それが、いわゆるトラウマになっているときがついていなかった。

もともと、トラウマでとか
ストレスでとかいう、なにかのせいにしているように聞こえる言い回しがきらいで
そんなものは無い!!
と、いう人だったので、「怖い」と思うのがふつうのことでしかないとおもっていた。

けれど、この憑依を考えたとき
「怖かった」という思いくらいしか同調するところがなく
まさに、「しにかけた」という思いを体験していながら
怖さというのをかんじるまもなく事故になってしまい
どこかで、恐怖心をなだめることもなく
かんじていなかったのだからしかたがないがwww
スピードがあがると「怖い」とおもうのが
そこからきているとはおもいもしなかった。

そういうところが、霊と同調するところであり
憂生自体がこのトラウマをみとめ
トラウマを克服しなければ
霊も追体験して納得すまいとおもい
トラウマの克服法をかんがえていた。

まあ、その克服というのは実に単純で
怖いとかんじるのは、
車にのっているだけだったせいであるとわかった。
同乗者なのであたりまえかもしれないが、
ー自分の乗っている車がどういうふうにはしるかー
という運転者の目線でない。
ここにきがついて、運転目線で先をみていくと
怖さがなくなった。

別段、車のことでなくても
人生のなか、つらいことや悲しいことがあったとき
その「事」ばかりみていたら、いっそう悲しみからはなれられない。
前をむいて、先をみて歩く。ということをしていくしかないのとおなじで
霊にとっても、とらわれていたことばかりみていてはいけない。
と、納得したのかもしれない。

今回の事件が憑依だったかどうかはいざ知らず
憂生自体がとらわれていたこと。
それは、ひょっとして、このまま死ぬしかないのかということよりも
脳梗塞になっていくということは
ある種の記憶がなくなる(脳が壊死をおこすため)とも考えられる。
そのある種の(つらい記憶)をなくさせるためにおきるのかもしれないと考えた。

つまり、自分ではどうしても、その記憶にとらわれる。
自分ではどうにもならないなら、壊死をおこさせてやるしかないとなったのかもしれないww
と、とらえたとき
なにか、しょうもないもがきのために脳梗塞になるのかwww
と、なにか、ふっきれたというか・・・。

それなら、それでいいかもしれないと・・・www

結局、脳梗塞でなかったわけだけど

このあたりで、憑依というのなら、
それなりに、同調された自分の元をかんがえなおしていかなきゃならないとおもっている。

思い当るところはある。

その思い当たる相手?は3~4人いるというwww

そして、まったくのプライベートになるため
くわしくはかけないが
その近辺での周囲の発言を考えさせられている。

簡単にいうと、
情のない発言であったところがある。

おそらく、そのあたり
憂生の中でもとうべき問題があるという気がしている

人見御供。生け贄はわが身の治水のそもはじめ。

地神よりのいくつかの、印綬。

滞る思い。

さわけのはてに残る者は

わが魂と魂の所在。

いくせんの海を越え

いくせんの山を越え

結局残るものは、自分の思い。

その思いをいかに尊くするか。

結局、相手がどう、
そんな次元で生きていたら
自分がやられる。

悲惨な淋しさですがった思いが
花さかせるものは、
たかがしれてる。

実にさえならぬ花からえられるひとときの癒しにほだされて
花のあでやかさをめでて、
この世をおわるか?

それとも、自分のなかに大きな値をうえこむか?

外側の苦しさから逃げたら
まちがいなく、
実らぬ恋の花に溺れる。

恋の花は自分の内浦に果たしきって
それからのち・・・。

膨らむものに、褒美。

しぼめば、燈明。

仇なす夢をむざむざ、踏み続けるか?

意識の無い泡玉に自分をのっとられ
人の生き様からにげるか?


Moo_ooMさん の記事を読んで・・

Moo_ooMさん の記事を読んで、なにか、ひっかかる憂生が居ます。

なんじゃろうと?自分でもおもうわけで。。。

このブログのアドレス・・創作談義からなまえをつけたのですが、

実は捜索談義ではないかいな・・・と。

で、まあ、おもうままにかんがえてみようと(わからん、日本語ですな)。

憂生は歴史を齧ってみるのなかで、

日本語は音と意味を同時にあらわすということがあるとかいたことがあります。

羅馬船(かがみふね)のこともそうですが、

万葉集の刺す竹という枕言葉も

直訴の手段の文を竹に刺して掲げるという実際の意味合いと

刺す竹の大宮人とかかるように、

刺す竹で文を渡すような高貴な方という意味と苦言を呈したい方という意味が絡まった上に

万葉集の原文をみると、

刺す竹の・・は

「佐須太気能」

と書かれています。

単に音を当てはめただけの漢字だと想われているようですが

音のもつ意味を考えていきます。

佐・・さ・・精神・神

須・・す・・清める・導く

太・・た・・他・影響力

気・・け・・考え・心

能・・の・・働き・動き

ここまで、書けばつながるでしょ?

人の精神。生き方を教えたり、導いたりできるほどの、考えがある大宮人

と、いうことになり、そんな立派な方であるのに関らず

苦言を呈したくなるようなことをやっている。

つまり、刺す竹の・・は苦言文書ってことになりますか。

まあ、こんなふうに

「刺す竹の」の「音」が「「佐須太気能」という意味合いになっているわけであり、

字の持つ意味と音とのふたつでの、複合的なものが日本の文字にはある。

と、考えるわけです。

ですから・・Moo_ooMさん のいう「ナマステ」の意味合いと

音の意味。

な・・汝

む・・無

と、言う意味合いがとれるのです。

南無八幡大菩薩・・にしろ、

汝(私)は無の状態です。(同行二人という考え方もあてはまるので、汝=貴方・私)

無の状態だから八幡大菩薩がおりてこれます。

おはいりください(加護してください)

って、ことでもあり、転じて難無くしてください。

なんだけど、これが、言葉を文字にかえると

字面が悪い。

難を菩薩におしつけるような・・。

南という字に変える。わけですが、

南という字にかえるのには、

ひとつに、南の天?の座にそういう存在が居る。

だから、南に菩薩がいたら、助けにならない。

南にはいない。そこにはいない。

ここにオワス・・ここにいらっしゃる。

こういう考えが南無という文字になってきている。

ここらへんの日本的精神が解けないと

南が無いとはどういうこっちゃ?

って、なってしまうわけで・・・。

さらにすすめると、

一番、良くないのは南無妙法蓮華教と聞きます。

南無妙法

と、いうのは、

己を無にしていけば、法が働くという意味合いでしょう。

それに、教がはいると、

いわゆる念仏?を唱えたり、おかげ信仰をあらわしてしまう。

ようは、南無。

おろがむ。

ここが、肝心なわけです。

南無になれば、あとのことはついてくる。

簡単などうりですがああああああ。

無になるつ~~ことが

実は一番、むつかしい・・

Moo_ooMさんの記事をもとに、勝手に記事をあげました。ご容赦。


続きを読む

あるブログからのコピー/ァ、憂生の書いた物で泥棒コピーじゃないっす。

時系列がむちゃくちゃになってしまてるのですが・・・。
こ~~んな、記事をみつけちゃいました。


本人が書いたものなのに、なにをいおうとしていたか、判らない。


ちょっと、続きを探すのをやめて・・・。


なにをこねくったか、かんがえてみます・・・ww

*************

久しぶり・・すぎる?
なんやかや、
リニューアルしたようである。
にも、かかわらず、
ほっちゃけをかましていました。

ここに来る時ってのは・・。
ある意味、
ぶっちゃけ、本音・・・。
かけねえよ。
って、時がそうかもしれない。

まあ、いわば、王様の耳はろばの耳」って
叫ぶ「穴」で・・・。
ただ、物語では、その穴はちゃんと土をかぶせるはず。
で、あるのに、
生えて来た葦がそよそよと
声をとばしてゆく。

人間は考える葦である。
は、パンセだったか?
だが、実は葦こそ深く物事を考える動植物で
王様の耳は・・・の床屋の行く末を洞察しきって
ここは、情報を流したほうが良いと判断したのである。
だから、
人間は考える。葦である。
と、書くべきである。
だが、
葦である。
とは、どういう事であるか・・。

ここからが、
日本人である。


****ここまで****


*おそらくです*


これは、葦原を悪し原とよめるところから、


吉原に変えるというあたりの、日本人の言霊意識をかんがえたのではないかと・・・。


葦というのは、筒になってますから、


そこに悪い思いをなげこみますと、


悪し(あし)が、葦になって、


自分の心から、悪しがでていって


葦(よし)になる。


人間は考える。葦(あし・よし)である。


人間が考えるのはよしあしであるが、


当の葦は悪し(あし・葦)だろうが良し(よし・葦)だろうが、


通していく。


そこで、人間は考える。葦であるべきだ。と。


良いとか悪いとか、色付けせずに


事実だけを伝える。(はきだす)


うそつきの王様だとか、今まで、秘密を知った床屋を殺したひどい王様だとか


こわかったとか、そういう良い悪いをいわず、


事実だけをはきだす。


「王様の耳はロバの耳」


葦は事実だけをうけとめ、流した。


・・・・。


なかなか、面白い寓話だと思う。


なにかにつけ、自分の感情で判断したことやらを


伝えてしまいがちである。

いたみわけ・・・・。  

やまだちゃんもちゅらら も歯医者さんかい。

憂生はちょっと思い出しちゃったことがある。

ずいぶん、昔。

ものすごく歯が痛くて歯医者に行った。

ところが待合室は満室。

順番はなかなか来ない。

なのに、うずく痛み。

痛くて立っているのが精一杯なのに、

けろっとした、人間が座席を占領してる。

座りたい。

憂生ってしょうもないよな。

なさけなくも、座ってる人間を逆恨みする気分。

でも、しょうがない。

じっとたってた。

ふと、わいてきた思いがあった。

「自分でよかった」

これがもし、ほかのひとだったら。

「自分でよかった」

たってられる。

辛抱してられる自分。

なんか、うまくいえないけどさ。

「自分でよかった」

***昭和天皇のエピソードにもそんなせりふがあった。

外国の主賓を招いての晩餐会、

料理の一つに爪楊枝をぬきわすれたものがあった。

それが昭和天皇の所に運ばれていた。

あとで、料理長は天皇陛下に呼ばれる。

事情をそっと知らされていた料理長はどんなにしかられるかと覚悟して陛下の前にたった。

すると・・・。

「爪楊枝をぬきわすれていたのは、ひとつだけですか?」

間違いなくそのひとつが天皇陛下の元に運ばれていたのである。

はいと答える料理長に陛下がいった。

「ああ。私のところにきたのですね。

わたしでよかった」

他の方のところにいってなかった。

他の方の所に行ってなかった。

私でよかった。

一種、マイナス方向であるが、こういう喜び方もある。

和み。

人間。
まあ、いろいろなことがあるもんだと、つくづく思う。

その中でも、
人と人との愛情。

これは、なによりも、大切なものだと思う。

愛情の一番最初は、
「人として、よりよく生きることを、
自分でつかみとっていく」
その術をおしえていくことが、
一番、最初の他へ渡す愛情であり、
まず、この思いに育まれて
大きくなってきたのが、
自分自身である。と、いうこと。

いわば、親からの愛情。

これが、人を愛していく最初の雛型。

今日はoozushiさんの日記を読んだ。
つくづく、
有り難いおとうさんであると思う。

人として、
よりよく生きる。

その術のことこまやかな細分。

親なればこそ、子供に思いをかける。
その思いがまことに的をえている。

女親はなにかというと、
物事個人嗜好で好き嫌いをいいやすい。
だが、男親というものは、
人生の教訓としての
「よりよく生きる」
ための、選択、選別として、
好き嫌いをいう。

憂生のペンネームは、
憂いて、生きる。
こういう意味であるけれど、
ある人間から
「優しさこそ、必要。
優しさとは、その人の身になって、物を思えること」
こういう、話を聞かされた事がある。
憂生はその時に
「優しさとは、人を憂うと書く。
人を憂うとは、相手の思いを思いやることばかりじゃない。
憂う。
「こいつ、この人。このままでいいのか?」
憂うものごと・・・
人として、惜しい。
この部分をなんとかしてやりたい。
こう思って、時に痛いこと、
辛いこと、忠告し、気がつかせることも必要。
だから、優しいってことは、
ぎゃくに時に辛らつできびしい。
あいての身になって物をおもいすぎたら、
言うにいえなくなる。
おしいまま。
憂うまま。
このままの状態でほったらかしするしかないような、
「優しさ」
こんなものは、無視というか、
表面的な優しさ。
憂うべき物事を忠告する厳しさ。
よき方向に導ける自分の力量不足を
言い訳する解釈にしか過ぎない。

優しいってのは、本当は自分が一番辛い。
こんなことでいいのか。
人をみて、憂う。
この思いこそ、一番辛い。
それなのに、
なにもせず、みているしかない。
こんな辛さを越えもせず、
自分にみちびくほどの力量をつけることを
たなのけにして、
人の本当の優しさなどわかるわけがない」

なれど・・・。
親なればこそ・・・。
こんなことでいいのか。
いけない。
わきめもふらず、子供をみちびく。
親なればこそ。

本当の優しさというものが、親にこそある。
机上論の憂生と友人でしかないのに、
親なればこそ、そんな理論をあっさり身にもって、
ごくごく自然に流れ出すような情愛。
人を憂う。

優しさというものは、
こういうものでしかない。

厳しく。
暖かく。
必死。


愛情の一番最初は、
「人として、よりよく生きることを、
自分でつかみとっていく」
その術をおしえていくことが、
一番、最初の他へ渡す愛情であり、
まず、この思いに育まれて
大きくなってきたのが、
自分自身である。と、いうこと。

oozushiさん。
自分を信じれなくなりかけてた憂生にとって、
あなたの姿は
一すじの光明。

ありがとうございました。

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いまさらながら・・。

デジタルカメラにかえてから、
何年たつだろう。
もっぱら、書くに忙しくて、
画像投稿など、考えもしなかった。

最近になって、
旨物画像とか・・・。
あげるようになってきていたんだけど・・・。

先日、ちょっと、近くの海にでかけた。
陽光きらめき、波しぶきのあがる沖の島写そうと思った。
考えてみれば、デジカメで、風景写真で、望遠にするのは、いままで、無かったのだ。

自分の取った行動に自分でも驚いた。

ありえない行動をしてしまったのだ。

なんと、ファインダーをのぞく。

あるわけが無い。

画面に風景が映し出されるTVタイプなんだから。

なのに、なんどか、ファインダーを覗こうとする自分が居た。

はああ===。

って、自分で自分に感心した。

昔は一眼レフでショッチュウ、風景写真をとっていた。

もちろん、デジカメにかわるまえまで、
撮る対象は違っても、ファインダーを覗き込んで、構図を決めていた。

何年も前にデジカメに変え、
オークション用などなど、
接写に近いものはなんども写している。

なのに、風景になったとたん、
昔の癖が出てきてしまう。

体が覚えこんでしまってるんだ。

いままで、それに気がつかずにつかっていたに、過ぎない。
って、ことなんだな。

道理で、なにか、デジカメになじまない自分がいるんだと、納得。

いまは、一眼レフタイプのデジカメも
ずいぶん出てきたし、
そろそろ、カメラ買い換えて、
「写す」を、やってみようか・・・。

熱いれて、写す写真も、考えてみれば
デジカメになってから、やってない。

生活におわれて、フィルム代や現像代も
まともにだせない時期もあった。
祭りの太鼓を打つ、少女・・を大きく引き伸ばして
本人に渡したのが、もう、ずいぶん前のこと。

仕事におわれ、写すこともなくなっていた時期もあった。

なにか、いまさら、眼差しを
閉じ込めておきたくなってきてる。

だれじゃ!!
老化現象じゃというのは!!


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生きているか?

手を伸ばしても、どうしょうもない・・
失ったもの・・。

お前も、
その・・・、痛みに
バランスを崩し

狂気のハザマに安息を見出す。

だけど・・・。

それでも、
帰って来いという。

取り戻せという。

自分を無くそうと
もがき、
似ても似つかぬ自分を褥にしてみたところで・・・。

お前のうつろいが
いっそう、深さを増す。

なにも、いってやれないし。
なにも、してやれないけど・・・。

それでも、
お前が・・・
ごく平凡な幸せに捕まえられてくれないかと
そう・・・思う。


途上

憂生はどうも、宗教がきらいで、

考え方というのは、もらうのですが・・・。

たぶん、憂生がいろいろかいていることをよむと、

この人はなんかの宗教にぞくしているんじゃないだろうか?

と、思われるとおもうのですが・・。

白蛇抄を読んでくれた人も、

陰陽師?

宗教系の大学?

選考が宗教だった?

って、きいてくるのですが、

残念ながら、憂生の学歴は浅いです。

そして、師と呼ぶひとも、

不思議な人ですが、宗教の人ではありません。

で、宗教というものの捉え方ですが

多くは、「信奉する***」とか、ご本尊とか、

こういうものをもっているなあとおもいます。

そして、その教えみたいなものを、

絶対的に信じる。

憂生はこれが、いやだったんだと思いますね。

考えはもらうけど、それを自分も信じるということがいや。

自分の中に消化して、自分のものにする。

まあ、吉田拓郎の言葉に「信じあうことよりも、確かめ合うことだ」

って、言葉があるのですが、

憂生にはそれが本当だと思うのです。

やみくもに信じてもらうより

確かめられても確かめられても

応えることの出来る自分(本物)になりたい。

と、こういう考えがあるせいか、

真偽については、こうるさいなと思います。

良い部分は良い部分。

悪い部分は悪い部分。

と、いうのを、見極めたいってのがあって、

悪く言えば、理想主義者でしょうね。

仮になにかの宗教にはいろうと考えたときに

自分にとっての「悪い点」をみつけてしまったら、

その宗教にはいる気にはならない。

と、いうより、詮議するでしょう。

自分の考え方を見つめ、

その宗教に自分をかけていいか?

この時点で憂生も宗教をしていると、思いますね。

「自分教」という宗教です。

いわば、自分がご本尊でしょう。

自分を信じる。

この本尊をほかの神などなどに

かえようか?

と、なれば、当然

自分の本尊を打ち負かす?くらいのものをもってなきゃ、

かえることはできない。

で、こんな憂生からみて、

なんで、あの宗教がいやなんだ?

ってこともはっきり把握しておきたい。とおもうわけです。

なんとなく、いや。

これは裏返せば、

「自分」の価値観もあいまいなわけです。

これで、「自分」を信じてるといえるかな?

たしかめられても、たしかめられても

応えられる自分かな?

と、思うわけです。

憂生は批判は大事だと考えています。

問題はその批判を相手を罵倒するためでなく

自分に返していくためという事です。

自分の生き様が(生き死に)がかかっているのに、

例えば、キリスト教の陥りがちな

「キリストに贖罪をあずける」

と、いう考え方でも、

憂生は自分の贖罪は自分で負え。

と、思います。

だから、自分の方にいろんな原因(元)があるという

仏教で言う因果応報の考え方のほうを良しとします。

このあたりから、その元になった部分はどこだろうという

探求?をするわけです。

そんな風に、なんで、自分は宗教にはいらないんだろう?

と、いうところから、「自分の姿勢」みたいなもの

しっかり、意識していきたいし、

大江健三郎のいうところの

ラーニングをミーイングにしていくのは、他ならぬ自分でしかないとも思うわけで

どうにも、ただ、ぼんやり・・

そう思う・・・。

こういう意識の泡玉状態がどうにも好きじゃない。

あくまでも、「自分が主体」

そして、ひっくりかえして

「おろがむ」

うらうちのない厳しさがなりたたないように

うらうちのない優しさがなりたたないように

括弧たる物をつみあげたのちにはじめて

「いやだと思うのだから、いやだ」

即座にいやだと判断できる自分の目のままに従う事が出来る。

いずれ、そうなりたいと思う、憂生ではあるのですが・・。

いかんせん・・

まだまだ・・・。

続きを読む

遅れてきた「彼」/百恵ちゃんと、ちゃうで~~

とくちゃん←微妙に気味の悪い呼び方であるが/
ま、とくちゃんの憤慨、良くわかる。


憂生はどこかに書いたが
見た目の不幸に踊らされる。
これが嫌いである。


そういう意味でも、
彼の本拠地〔今は無きGOOの簡単HP)に置いても
度重なる訪問をくさくさしてみていた。


憂生はもっぱら、自分の書いたものの
宣伝、集客を目的にそこに在籍していた。

なにがいいといっても、
そこは、1スレッドの許容量が無限大・・。
13万文字、あっさりはいる。
さすが、ガイアックス。/因みにここ(OCNカフェ)もそうだ。


で、まあ、話を戻して
ついでといっちゃあ、なんだが、
そこに
カフェ の日記もコピー 掲載する。

ま、そこにカフェからのおっかけが/あんがと~~/きてくれる。

そこに来てもカフェ。カフェ。とやってるわけだし、
そこでは、わずか、一日、5人も来ない状態の憂生がカフェでは、当時一日1000人以上なんて、/足跡操作もありますが・・/状況であったり、足跡機能でコメントを自在に発信できるとか、かなり、カフェの良い所/あるいは、そこの不満?/あるいは、ガイアックスの両者のコミュニュティHPの作り方の違いなど・・・。なんか、いろいろ、ほざいた。

そして、それから、暫くして、
彼がカフェに進出してきた。


元の場所と比べれば面白いほどの手ごたえがあると思う。
カフェの機能はミニメールとか、掲示板の独立や
チャット。
そして、リニューアル頃の記事に対してのコメント欄の設置。

チョット、他にないトーク広場としても、
絶賛!!できる状態だと思う。

つまり、
彼を此処に引き込んだのは、
ひょっとして、憂生なのではないかと思う。

ま、
どっちにしろ。
憂生は憂生。

気に掛けてくれる人が
気に掛けてくれりゃいい。

彼に賛同するも、
その反対にしろ、

問題は自分がどういう「思い」をもっているか。どういう「考え」をもっているかを、
自覚すること。

ただ、憂生をいえば、
他をもって自分を知るとう意味でいえば、
彼によって、知らされる「自分」をみつけられなかった。

ま、すでににたりよったりの人がカフェにいて、

そこで、先に「自分」を検討させられてしまったせいかもしれない。

GOOのホームページが解体されて、同じガイアックスが作ったコミュプラザ・OCNカフェにGOOの住人がなだれこんできた。

GOOのほうは、自分のホームページと提携できるパターンだったので、それができないカフェには、不足を感じた人が多かったと想う。

そんな中でGOOにいたころから、病気の子供の手術費用への募金のよびかけとか?

かなり、集客数をもっていたブロガーがやってきたのだけど・・・。

どうも・・・。

GOOでであった頃から、嫌な感じをうけていた。

もちろん、これは、憂生の勝手な個人的な感受でしかないのだが。

そして、彼がカフェにあらわれて、しばらくすると同じように感じたのがとくちゃんだろう。

かなりのもんちゃくがあったようで・・・。

とくちゃんのほうは、彼の「似非」をあばきたてるまで、憤慨してしまったようである。

憂生のほうは、自分でもうまく説明できないが、

こういう募金活動の音頭とりとか?

なんとなく、すかない。

まあ、せっかくだから、この自分の心理を突付いてみようと想う。

ひとつには、安易な同情と同乗だと想ってしまうのだと想う。

確かに彼は過去形において、災害で恋人?をなくしてしまったようなのであるが、

その傷を癒している。

と、いう風にみえてしまう。

どうすればベストなのか憂生にもわからないが、そこに関って、

「救世主」のごとく手をさしのべていることに自分の存在価値を見出している。

と、いう匂いを紛々と感じた。

つまり、つづめていえば、

相手を助けてやろうとしているというより、自分がその行動でヒーローになるような錯覚に酔っている。

自分のため。「救世主」になることで、自分をフォローしている。

こういうものが、前面にでてきて、

一種、募金活動に協力してくださいとか?こういうのが、その相手の不幸を利用して

自分が「いい気分」になる。

こう言う風にみえてしまったのだ。

確かにいろいろ、悲しい現実をまのあたりにしていらっしゃって、その事実を想うと

そういう行動にでるのはわからないでもないが、

それらを前面にだしすぎてるというのかな?

募金活動への協賛をもとめてるのでなく、

そういう行動にでてしまう自分への協賛を求めている。

黙って、一生懸命募金活動をおこなえばいいじゃないか。

これでさえ、ある意味当事者でない人間の僭越行為だともおもえるのだが、

なぜ、そこまで、かたいれするのか?と問われた時に

はじめて、自分の境遇を喋ればよいと思う。

あくまでも、私感、自分の境遇からわいてきてしまう感情でしかないことを

自覚していれば、ヒーロー気取りのお助け行動は出来ないと思ってしまったわけだ。

これは、あくまでも、憂生の私感であって、本人への誹謗・中傷のつもりはないのだが、

充分、そういう風に読み取れてしまうことだろうと想う。

実際、憂生も自分からというよりは、知らぬうちにかかわって、

募金活動ではないが、人の生死にかかわる場面で、ネットへのよびかけをしたことはある。

だが、これも、最後の最後まで、自分が・・ということをあかさなかった。

最後の場面で家族の方が憂生に一番最初に連絡をいれてきたということで、

「意識をとりもどしたよ。みんな、ありがとう」

と、早くつたえるために、カフェにかかげたことはある。

自分がこうだからというわけじゃないけど、

「私がしてやるんだ」「私がしてやったんだ」が、前面にでてくると、

正直、気分が悪くなる憂生が居た。

これも、上にかいたように、憂生の環境・境遇などなどが、思わせてしまう個人感情でしかない。

だから、それで、正義面で、彼を糾弾するきはなかったが、

結局、出る杭のでようがわるかったのだろう。

かなり、こてんぱてんにやっつけてしまったのが、とくちゃんのようである。


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ブログネタ:牛丼には何をかける?

これ、すなおに、答えたら、ぶんなぐられるだろうか?

だけどな・・・。


まあ、たとえばだな。

物書きに

「恋愛小説は好きですか?」

って、たずねるのと同じなんだよね。


通常は

「はい、好きです(嫌いです)」

なんだろうけどね。

物書きの場合、二手あって、

自分が書く場合と

自分が読む場合とがあり、


で、どっちかというと、

物書きという、書き手部分がさきにでてくる。

「恋愛小説?よく書くよなあ・・」とか。


でね、

牛丼に何をかける・・・てっさああああ。



ここは、調理人憂生 が反応しちゃうんだよな。


別に牛丼だけじゃないけど、

作る側の立場でネタを読んじゃうんだ。


で、答えは


「手間」をかける。


あ?


違う?


それ、トッピングじゃない?



そんなことあるもんか、

トッピングだろ?

判ってるよ。


トッピング。

それも、「ひと手間」かける~~~~~~ことじゃん!!

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なんとなく、物思う

いじめの構造というものを考える。


いや、正確にはいじめられる構造だな。


これは、日記のどこかに書いたが

「自分を苛めるものは、人にも苛められる」


って、ことに通じる。



この間も中学生が立て続けに自殺していた。


そこにもこの言葉をあてはめるのは、おかしいと思われるかもしれない。


だが、大切な自分だったら

なんとか、生きていこうとする。

生き難くさせる「いじめ」などを解決・排斥することに努める。


教師に相談する。親に相談する。

もっとも、親身になって動いてくれるはずの親に相談しない。


何故、親に相談しないか?


問題がややこしくなる。

苛められている自分だということをさらけ出したくない。


色んな理由が有ると思うが


やはり、

根本のところで

「自分を苛めている」


どうせ、苛められるようなつまらない自分と

考えてしまう。


苛められることで受け取ることは、

「そこまでされる自分は、つまらない人間だ」

と、存在価値を見失い

この先に対しての希望が無くなる。


なにかの漫画で

「嫌われるより、無視されるほうがつらい」

と、いう言葉があったが

嫌われたことを

自分の存在価値を自分で無視することにより、

嫌われた痛みを庇おうとする精神構造が働く。


ところが、痛みに耐えかね痛みを庇うために起こした

無視行動

あるいは

否定行動が

とんでもない結果をつれてくる。


無視行動・否定行動が

「自分を苛める人間は人にも苛められる」であり

ひいては、いじめを繰り返させる。


苛められている人間は

まさか、自分の思い方が

虐めを増長、増幅させているとは思わず

ますます

自分を否定し、存在価値の無くなった自分だけを見つめる。


この自分内部における葛藤は虐めがなくなるか

自分の存在価値を肯定してくれる人間が現れない限り

延々と続く。


自分の中に「虚無」を飼っている状態でいるのだから、

そのうち「虚無」に飲まれるか

「虚無」との決別を果たしたくなる。


だから、元々の「自分虐めのスイッチ」を、きらなきゃいけない。


自分なんかでなく

自分こそを救い出してやらなきゃならない。

そのための努力・・。

たとえば教師に相談する

親に相談する


これをしないのも、

「自分を苛めてる」


いっそう、同じことの繰り返し。


外側の虐めはむしろ、自分の心の持ち方を見せてくれてる。


苛められている自分ではない。

自分が自分を苛めてる。


虐められる原因は、実は自分の取り方。

その自分にまけているということ。


大切な自分を自分でたすけてやらなきゃ。


指導者の条件を読んで・・2

今度は大村益次郎が引き合いにだされていた。

維新の中、あれほどの功績のあった人間に関らず、

あまり、彼の名前もしられていない。

英雄的存在ではない。

実直で朴訥で、たんたんと物事をやりこなす。

動乱の時期においても、

平和な時においても、

田畑を耕作するが如く、

種まきの時期をみきわめ、

苗代の温度を管理し

と、いう具合に作業をこなす。

与えられた立場に応じて

人を育てていくわけだが、

これも、何事にも通じる真理でこなしているようで

適切な時期に声を与えるが、

これも、百姓が作物に肥えを与えるが如く

あたりまえの如く自然なふるまいである。

あまりにも、自然にこなすため、

凡夫の如きに思える目立たなさだったと思う。

だが、司馬遼太郎の作品中の彼を読んだとき

これが、人間本来だなといたく感動した覚えがある。

その彼が戦いのさなか、援軍を要請されたが断る。

この時に「貴方はわれわれに死ねというのですか?」

と、とわれ

「もちろん、そのとおりだ」

と、こたえた。

と、言う逸話を松下幸之助が引用している。

結果的に大村の返答をきいた薩摩藩は

覚悟を決めて戦いにいどみ、勝利をおさめることになる。

このことを松下幸之助は言う。

勝つか負けるかの極地において、

死ねといわれるのですか?

と、問われ

「いや、そんなつもりはない」

などと、やっていれば

士気をふるいたたせることもできない。

覚悟を決めてくれといわれれば

逆に、この戦いに対しての

薩摩兵の価値も変わってくる。

犬死になるか、武士の誇り(生き様)をかけるか。

同じ死でも、全然変わってくる。

こういう意識変革を一言で成す大山益次郎という人間こそが、

よほど腹をくくっていると思う。

で、なければ、テクニックだけでは、

その言葉が通じるはずがない。

大村の一言に、逆に

大村の覚悟、生き様をみぬいたからこそ、

人が動く。

本物の生き様があってこそ、

人が動く。

言うべきを言う厳しさというよりも

言うべきを言えるだけの厳しさ、

つまり、「裏打ち」をもたねばならないのだと思った。


猫やん

憂生がよく行っていたブログのそのプロフィールに

「男なら損をとれ」

って、言葉を掲げていた人がいて、

憂生はいたく感銘をうけて、

読者にさせてもらった。

この言葉ににたような感じなのが、

「負けるが勝ち」

というのがあるが、どこか、負けたという結果にたいしての

なぐさめのように聞こえる。

「男なら損をとれ」

と、いうのは、あえて、負け(とは、ニュアンスが違うが)のほうをえらぶという主体性を感じる。

まあ、憂生がこういう言葉を掲げる人に感銘をうけてしまった裏側に

又、少し違う言葉があったから。

「負けて喜ぶ人になれ」

こうだったと思う。

一方で憂生の中に

「できぬ堪忍するが堪忍」というのがあって、

説明いる?

とてもできそうもないような堪える。を、やってのけてこそ本当の「堪える」だ。

みたいな・・。

ん。

で、この言葉って、どこかで、それをしてこそ「勝ち」になるというニュアンスがあるきがする。

どこまで自分の懐が深いかってことになって、よし、自分、よくやった。

というまあ、できた自分をほめるみたいな「勝ち」組根性があったと思う。

「男なら損をとれ」も「損を取れる自分が勝ち組になっている」という自分の決め事の中では、「勝ち」に成ってると思う。

ところが、

「負けて喜ぶ」と、いうのは、はて?

極端にいえば、自分ぜんぜんだめじゃんかというのが、負けだろう。

これを喜ぶというのだから

憂生の頭では「だめじゃんの自分とわかってよかった」くらいしか、おもいうかばない。

何かが足りてないから負ける。

負けるとはそれをしらせてくれたということだろう。

負けなければなにもきがつかずにおわってしまう。

負けによって、自分のたらなさにきがついていける。

こういうことだろうか?

実際の意味合いはわからないが、

今日、猫たちをみていた。

父ちゃん猫をおもちゃであそんでやっていると

子猫(兄)がやってきてよこわりして遊びだす。

すると父ちゃん猫はすっとその場を離れる。

子猫(兄)が遊びだしてるところに

弟猫が横はいりしてくる。

今度は兄猫がすっとその場を離れる。

いじけているかのような

負けているかのようにみえなくもないが

体の大きさからいうと

父⇒兄⇒弟という順番で小さくなってくる。

喧嘩でもしたら当然順位同じく弟はみそっかすもいいところだ。

それを見ていて

「ああ、強いものが引くんだなあ」と、おもったわけだ。

勝ちを譲れるというのは、

自分が負けることができるというのは

強いからこそできる。

負けることができる自分は実は強いということになる。

強い人なら負けて悔しいなどとおもってはいないだろう。

猫もおもってないだろう。

おそらく、

負けて悔しいとおもうことこそが、本当の負け組なんだろう。

負けて喜ぶ人は

抽象的ないいかただが本当に強い人からできること。

負けて悔しいでは、

根性まで負け組になってしまって、それはいけまいて。

どう考えれば喜べるか。

負けたときほどかんがえなきゃいけない。

猫は負けてよろこんだかどうかはしらんが

強者の理論、そのまま

負けてみせる。

人間くらいくやしいのかなしいのという動物はいない。

猫は誰にも教えられず、わずかな大きさの差でしかないのに

どうして自分のほうが強いとわかるのか不思議である。

人間には自分のほうが強いという判断がつかないんだろうなあ。

だから、悔しくなったりして、喜ぶ自分になっていかなきゃならなくなる。

猫はなんも考えてる様子はない。

すっと自然に行動しぐちゃぐちゃ思うこともなさそうだ。

自然(自然体)ってのはこういうものなんだろうなっておもったりもした。


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精神疾病のことについて、あれこれかいたせいか?

最近、精神疾病のことについて、あれこれかいたせいか、

よく、欝病を克服しましたってな記事をかいている人がきてくださるのですが・・。

これは、どういうことなんだろうね?

と、思っています。

憂生自体はよく欝病になりやすいとかいう人がもつ、

「責任感が強い」なんて、性格はもってないし、

正直言えば、狂ってもおかしくないような状況も

何度か、経験してますし、

おちこみも随分ながびいた時期もありますが、

基本的には

「自分の取り方」にもんだいがあるってかんがえてますから、

自分でとり方との格闘をしてきて

まあ、いろいろ、不思議なこともあって、

現在に至っているわけですが・・。

ひょっとして、こんなことを書いてるので、

憂生が欝病だと心配されたのでしょうか?

それとも、うつ病に対しての理解が不足しているってことでしょうか?

確かに、現状、一番気にかけている人間は

欝病をわずらっているある人です。

その方も高名な医師にであい

ほぼ、回復状態にまでいっていました。

医者はもう大丈夫。

そう、いっていたとか・・。

ですが、憂生は一つの不安を感じていました。

詳しいことは書きませんが、

たとえていえば、

欝病から、結局思いがはなれていない。

と、いう事でしょう。

体の病気や怪我がなおったら

普通は元の場所に戻ります。

スポーツ選手が怪我がなおったら、

もとのスポーツに戻ります。

仕事もそうでしょう。

ところが、

欝病がなおったと思われる人の中に

「他の欝病の方のために」

と、いうパターンのなんらかの行動を起こす人が居るわけです。

これ、うまくいえませんが、

結局、欝病から、治ってない・・みたいに見えるのです。

欝病から回復した自分を確認したがってる。

悪く言えば回復した自分を優位に思うためとも見えます。

ひどい言い方をしますが、

憂生の知人がじっさい、それによくにた状況に居たのです。

なにかしら、まだ、欝病がのこっている。

だから、自分は回復していると確認したがる。

そんなふうにおもえて、不安感をもったのは、

事実です。

そして、そんな不安をもって、半年後だったと思います。

医師から大丈夫と宣言されていたにかかわらず、その人は

発症・・再発しました。

おかしな言い方ですが

憂生が怪我をした時病院にいくとほっとしたという事があったわけです。

ふつうの生活をしていると健常者しかいません。

すると、どこか自分がみすぼらしく、どじな人間だってことを痛感させられる。

ところが、病院にいくと、怪我人ばかり。

包帯でぐるぐる巻きの人とか・・。

嫌な言い方ですが、まだまだ、どじな人いっぱいいる。

憂生の怪我なんか、棘をさしたくらいのもんだ。

そんな風に神経が慰められる。

こんな経験があったので、

ひょっとして、その人の深層心理のなかに

自分より程度の悪い状態の人をみて

神経。心の均衡をたもっていやしないか?

もし、そうだったら、なにかのおりに発症する。

結局、これが、当たってしまったわけです。

ですから、憂生はもうしわけないけど、回復したといいながら

そのことから離れられない人を見るのは逆に不安です。

そのことから、離れてしまえる。

そして、もし、自分がそういう人に偶然遭遇したら、

自分の回復方法とか医師を紹介してあげる。

後は普通の生活をして、いかに回復したかを

みせていけばそれでいいんじゃないか?って思ってしまうわけです。

自分の中でうつ病から回復したという事が

精神生活のほんの一部分で

まだまだ、いろんなことを楽しんでいけるわけです。

そこまでいって、本当の回復じゃないかな?

って、思うわけです。

ですから、こうやれば、回復しましたじゃなくて、

黙っていたら、欝病だったことさえしんじられないってほど

他の事にも、充実している姿を見せて欲しいって思うわけです。

結局、うつ病から回復したというその場所から離れられないのを見ていると

治ってるのかい?って、おもうし、

その状況では、その回復方法を語っても

こっちが納得できない。

憂生という人間はそういうひねくれた見方をします。

欝病でくるしかったとは思います。

でも、それをのりこえて、今は医師に感謝しています。

と、ほら、こんなことに充実して生きています。

と、見せてくれた方がいい。

それだけ、読む人に「良かったね」って、おもいを渡せるわけです。

辛かった。苦しかった。助かった。

ほかの人も助けたい。

なんだか、まだ、苦しかった思いからぬけでていないんだね。

こっちにね、「だいじょうぶかな?」って、心配かけさせるんですよ。

そういうところへの配慮がいまひとつ薄い。

助かったなら助かったらしくする。

本当の治療は医師がするでしょう。

トップにちょっと紹介したら

本当に回復している姿を見せる。

日常のさまざまのこと、なんでもいい。

たのしんでいきています。って、中身を見せていく。

そうしたら、その姿で紹介記事が本当だってわかる。

そしたら、多く語らずとも

ほかの人が、そこにいってくれる。

まあ、そんなこと、ちょっと、おもったので、

きびしいこと、かきました。

哲学チックにきめてみたくもあるが・・・到底無理と知る。

憂生、
私はね、つけこまれる優しさじぁない
強い優しさを持ち続けたい。」
コノ言葉を舌の先にのせては、
かんがえてみている。

とんこつキムチラーメン

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とんこつキムチラーメン

ラーメン2種(チキン醤油)(とんこつ味噌)の作り方はすでにあげていたんだけど、
今回は骨は骨でも豚軟骨肉。
軟骨肉は一度ソテーしたほうが良かったのですが、今回はそのまま。
たっぷりの湯に豚軟骨肉を入れ、
にんにく丸ごと一個。ねぎ。しょうがをいれて、煮込む。
スープが出来上がったら、今回はしろ味噌仕立て。味噌が甘すぎるので、中みそを少しと濃い口醤油を少し足して、おなじみの中華のスープ(ウェイパー?名前まともにみとらんとです。
赤い缶のやつです)
をいれ、仕上げに牛乳を少し入れます。

乗せるものが何も無かったので軟骨肉をおきましたが、軽く醤油(好みによっては砂糖を加える)でソテーすれば良かったです。
いつもだと、からし高菜を乗せるのですが、今日はキムチ。
抜群に合いました。

ねぎはあえて白ねぎ(太くて長いやつ)です。

ラーメン2種:

最近はよくラーメンを作る。
骨がらスープの
素材は二手に分かれる。
豚骨か、鳥がら。
鳥の場合はしょうゆ仕立て。
豚の場合はみそ仕立てにするのであるが、
まず、スープの取り方。両者ともあらかじめ湯通し(一煮)をしておく。
湯を沸騰する。そこに骨をいれる。
出来上がったら、具材をとりのぞき、さらし布(無ければ大判
ハンカチなど)でこす。

とりがらの場合はとろ火で、煮る。
沸騰させて炊くと、スープが白くにごる。
にんにくとしょうがとねぎ(好みで
にんじんたまねぎもいれる)をいれ、2時間ほど煮込む。
鳥の油は目の細かい茶漉しできれいに掬い取れる。
出来上がったら、酒とみりん(ほんの少し)としょうゆと市販の中華スープ(ウェイパー?あたりがよい)をいれる。市販の中華スープの素はけっこう塩気がきついので、主湯の加減は味を見ながらきをつけていれる。
憂生の場合、薬味は煮豚(以前に書いたものがあるので、ちかじか、はりつける)ねぎ、煮卵(醤油と砂糖と酒で作ったたれで煮る)これに、ごま油で炒めたもやし(しゃきしゃき感が残るように)を盛り合わせる。しなちくは市販のものを流用。

豚の場合。
こちらは、白湯仕立てを目指すので、火加減は気にしなくてよい。やはりにんにく、しょうが、他の好みの野菜を入れるとよい。これも前に書いたが、豚しゃぶのスープが残っていたら足してつかうのもよい。
豚の油はスープが冷めたときにとりやすい。
寒いときなら表面に白く
固まるので
穴あきおたまなどでも容易にとれるが、暖かい時期はどろりとしているので、前述の茶漉しが便利である。
スープの味付けは、とりガラと同じ要領だが
醤油が味噌にかわるので、こちらのほうはみりんを心持多く使用するとよい。
仕上がったら、牛乳を入れる。

アルフレッドソースのパスタ

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アルフレッドソースのパスタ


パスタは市販のものを使用した。

豚ばら肉の塊を1cm×2cm×5mmくらいに切る。
豚肉を
オリーブオイルで炒め、椎茸のスライスを入れて、火が通ったら
先に作った生ハムバターを入れる。
アルフレッドソースを入れてから、1cm角の
トマトをいれて、軽く煮込む。
とろみの調節は牛乳。
味は十分出てくると思うが、ハムの塩加減もあるので薄い場合は塩胡椒か、
コンソメを足す。

ゆでたパスタにバターをからめておく。
皿にパスタを入れたら、出来上がったソースをかけ、しあげにパセリをちらした。

手打ち麺

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手打ち麺

 

ホームベーカリでパスタやうどんが作れるのでまず試してみようと市販のうどんつくりの粉を使用した。
強力粉150gと薄力粉150gを自分で混ぜればよいのだが
ホームベーカリーを購入する前にうどんつくりの粉を購入していたので使用することにした。
ホームベーカリーの
作り方によると塩の量が10gとなっていたがうどんつくりの粉の15gを採用したが、食べてみた結果をいうと10gで、十分だと思った。塩はうどんのつなぎを良くするために入れるもの。
15gのせいか、腰が強すぎた気がしたし、腰が強いせいか、うどんの中に塩気が残った。

うどん用の粉(強力150g薄力粉150g)300g
塩:10g
ぬるま湯:40度くらいの湯に塩を溶かしておく。

材料をホームベーカリに入れてこねてもらう。
15分ほどでできあがるので、うどん種を出して綺麗に丸めて
ラップに包んで2時間寝かす。
うどん粉用の粉は30分以上になっていた。
寝かせたあと麺の形に切るのがホームベーカリ。
寝かせたあと、もう一度、こねて30分ほど寝かせてから切るのがうどん用粉。

粉の性質があるのか?

少し手順が違うが粉のレシピに沿った。

で、いよいよ麺に伸ばす。

3~4等分にわけたもののひとつを打ち粉をした平面に置く。
憂生は
まな板を使用した。
ある程度(15cmくらい?)の大きさまで伸ばしたら
麺棒にまきつけて回しながら押さえていった。
巻き場所を変えたり反対側から巻いたりして均一の薄さを目指した。
厚み3mmくらいまで伸ばし、打ち粉をかけて巻き(畳んでもよい)
3mmくらいの幅に切り、きり終わったら打ち粉をかけてほぐして
たっぷりのお湯で10分煮たあとにザルにすくい、水洗いして
もう一度暖める。(湯でも良いし、直接だしにいれて、軽く煮込むのも良い)
うどんの味を確かめたいので今回は
シンプルにねぎしか添えなかったが、

うどんだしの作り方:
鍋に水を張り、出しの素と
昆布を入れる。出しの素も水から入れていくと臭みが出ない。

暖かくなってきたら、みりんと酒と薄口醤油を入れ、煮立ったら鰹節をいれて、

火を止めてしばらく鰹節を寝かせたら、昆布と一緒に取り出す。

高菜ラーメン

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高菜ラーメン

 

高菜ラーメンにするときはいつも、豚骨スープを使用してたんだけど、
今回はチキン。
丁度せせり肉をとった残骸・・残骸骨?がうってたので、チキンスープになってしまった。
残骸骨/あはは/を水洗いして、水から湯がいていく。途中であくや油を茶漉しでとりのぞき、
にんにくとしょうがとねぎとたまねぎとにんじんをつっこんだ。
他にいろいろ作っていたので、かれこれ、三日ほどスープを煮込んでいたことになる。
急にラーメンが食べたくなってしまって
冷蔵庫を覗いたら
やまやのからし高菜があったので、
これにするべ!!
と、いうことで、高菜ラーメンに決定したのだが・・・。
焼き豚もない。
この前作ったときにラーメンつくりゃ良かったのに、ないものは仕方がない。
そして、買い置きの豚ばら肉は
解凍処理中でまだ、生のまま。
その豚肉を切って、
ステーキにしておいてみりんと薄口と酒であじをつけて
ラーメンに乗せることにする。

スープは毎度おなじみのウェイパーと薄口と濃い口とみりん少々と酒を少し入れて味見をする。
ちょっと薄いと思ったが高菜をいれるのと醤油みりんの豚肉をのせるので、良しにした。

結論として・・・。

やはり・・高菜は豚骨味噌ラーメンのほうが相性が良い。
また、いつか、定番のもやし乗せチキンラーメンを画像紹介したいとは思っている。

ホールトマトのミートスパゲティ

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ホールトマトのミートスパゲティ

豚ミンチを利用したので、色が浅い。

バターでたまねぎの微塵きりをいため、ミンチを投入しいため

火が通ったら、コンソメとホールトマト(チャンク)をいれて、マッシュルーム(缶詰)をいれて煮込む。

チリソースの辛いほうをちょっといれて、トマトケチャップを甘味付け程度に入れる。

で、味をみて、コンソメを足したり、塩胡椒や、薄口醤油少々などで、味を調える。

コンソメはブロックをつかったが、けっこう、使用する。量の基準をいれてないが、4人前ほどで4~5個?

コンソメだけの味でかまわないと思うくらいに味をつけてしまうことにしている。

あとは、パスタにかけて、パルメザンをふりかけて、出来上がり。

ホールトマトの酸味がコンソメにマッチする一品です。

手打ちうどん(伸ばす所と切る所)

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相変わらず、ホームベーカリーにこねてもらったあと、まとめて、少しこねて 2時間ほど寝かして、又少しこねて20分後くらいに二つにちぎって伸ばしました。

麺棒にまきつけながら、時折、巻きつけ場所を変えたりしながら、厚み3mmくらいまでのばし、 たたんで切るほどの量でもないし、

まいておいて、きったあとに、打ち粉を振ってほぐしました。

ゆで時間は10分くらいにして、ゆで終わったらいったん水洗いしてつゆの中に入れて暖めて食べました。

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ジャージャー麺

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ジャージャー麺

豚ミンチで作ってみました。

まず、しょうがをみじん切りにして、ごま油でいため、にんにくのすり卸と筍のみじん切り、スナックエンドウ乱切り、豚肉ミンチをいれて、炒める。

おおかた、火がとおったら、豆板醤を入れる。分量はお好みで。

テンメン醤(中華甘味噌)を少量の水でといて、投入。

中華スープの素、だしのもと、コンソメスープなど、いずれかで、下味をつける。

醤油をすこしずつ足しながら、味を決める。

決まったら、水溶き片栗粉でとろみをつける。

麺は生麺をほんのすこし、柔らかめに湯がいて、流水でよく、もみ洗いすると、腰が出来る。

通常のラーメン程度の茹で加減の麺にすると、逆にかたすぎてしまうので、ほんの気持ちやわらかめに湯がくと良い。

ざるなどにあけて、水を切っておく。

今回の添え物は薄焼き卵と胡瓜という簡単なもの。

胡瓜薄焼き卵を麺の上に載せたら、肉味噌をのせるだけ。

今回はテンメン醤より、豆板醤をきかせたので、色が赤っぽい。そのために、テンメン醤の独特の味がまえにでてこなかったので、もっと、テンメン醤を使えばよかったと思った。

友禅流し。

ちょっと、前から、一つの言葉が引っかかっていた。

まだ、旨く、把握できてないのだけど、

この時点で出してみる。

「晒し」

で、ある。

この言葉を思うと、マズ、友禅流しを思う。

冷たい川の水に染め付けた反物を晒す。

余分な顔料や糊がおちる。

生地に絵付けした本来の物だけが鮮やかに浮かぶのである。

が、冷たい水でなければいけないと、聞いたことが在る。

このことから、「晒し」が、

心の「晒し」に連想を生む。

己の心に染み付いた汚い物、負な物。

これをとりはらおうに、

取り払えない。

ところが・・・。

「晒す」

冷たい水。

これは、晒す度合いのきつさだろうか?

自分はこんなろくでもない、人間でした。

こんな、バカをやってしまいました。

思いきって、自分を晒す。

あるいは、時に心の傷。

ひとには、みせたくない部分。

それをおしげなく晒す。

晒すことこそ、きつい。

自分自身におろかな自分を

みせつける。

この作業だけでもきつい。

それを、衆目の目に晒す。

どんなにか、冷たい川であろう。

ところが、まさに、晒し。

この作業は余分な顔料を

糊を流しさり、

本来の絵付けを

己に見せてくる。

そして、染物の完成をおしえてくれもする。

この作業が憂生を一箇所に

とどめさせる事を阻止してくれる。

新たな塗りなおし。

あるいは次の段階へ、己を進めてくれる。

晒し

あるスピリチュアラーがブログをやめた。


いや、どこかで、まだやってるのかもしれない。


どうも、当初から、気にいらなかった一言があった。


ー地上の皆様へー


と、いう表題だったかな。


こいつ、自分を神さまか、なにかとおもってるんじゃないだろうか?


本人、どういうつもりで、その言葉をえらんだのかは、判らない。


だが、単純、人間の憂生は、


たとえていえば、キリスト教の子羊よ・・という


ものの言い方と同じに思えて仕方がない。


で、途中ではじまったのが、


「みなさま、ライトワーカーなのです」


ライトワーカーとして活躍してください。


みたいな、言い方があり、(これも、どうかと思うが・・ww)


憂生の中で、落ち着いた女性の声があった。


ーライトワーカーになるのは、ご辞退しましょうねー


と、いう。


この段でいくと、そのスピリチュアラーはある意味、本物だとおもう。


それで、どこまでのレベル?なのか、判らない状態で、


自分の中から切り離すというのが、納得できなかった。


と、いうのも、いくつか、憂生がきいていた話と符合するところがあり、


真偽というと、失礼だが、判断つきかねていた。


ある日、他のブログにいっていると、


そこにある写真をみてみろと誰かが言う(伝える?)


みていても、写真でしかない。


なにか、しゃべってるのが、わかるか?


と、いうような思いがわく。


やはり、判らない。


すると、次の日だったか?

そのスピリチュアラーが、第8霊界?から花の女神がつたえてきた。


とかで、なにか記事をかいていた。


この時点で奇妙なことだと思った。


つまり、憂生の段階では、そんなことがキャッチできないわけで、


レベルがちがうんだなあ。と、いう思いがわかぬでもなかった。


だが、


なにか、わからないが、違うという思いがする。


それをみきわめないと、すっきりしないwww


そして、あるとき、ふっと思った。


この人は、なにかを、わかってない。


大本神喩・・など、いわゆる日月神示をよむといいのに・・・。


すると、しばらくしたら、


ひふみ神示を現代語にわかりやすく書くように神からつたえられた。


と、現代訳?をやりはじめた。


そのあたりで、不遜な言い方かもしれないが


ひょっとしたら、


憂生の思いがつたわったのかもしれない。と、おもった。


読むことで、自分と対峙していく。

そのスピリチュアラーは、自分の「なにか」にきがついていくだろう。


と、


ところが、その現代語訳が・・


臣民が、というあたりが、


ライトワーカーという言葉に置き換えられている。


これは、憂生の勝手な介錯だが、


臣民というのは、自分の魂(身魂)とむきあって


魂の赴くようにやっていくという意味合いであり


このほかにも、日本という国を思うとか、


いくつもの意味合いをもつ言葉であると思う。


それを、ライトワーカーとしてしまうのは、


我田引水より、ひふみ神示の皮をかぶって


自己論理をおしすすめようとするふうにみえて、


(私のいってることは、本当です。ひふみ神示でも、そう書いてあるでしょ?)


と、やっているように、みえだして


以後、ちかづくのをやめた。


自分がどうやって、「魂」を向上させようとしているかという


臣民であるというより


因縁やカルマをぬけでないと向上しない。


私は向上している。


なぜなら、第8霊界の花の女神ともはなせているのだから


と、いうような、思いあがりで


ー地上のみなさまへーと、いっているようにみえて


元の思いが、そうであるのなら、


そこに引っ付き歩いてる人間もそういう「業?欲」を被る。


正直、言う。


はやく、やめてくれればいいのに、と、おもっていた。


霊界とか、見えない世界のことが、わかるあまり


それらをつたえなきゃいけないという思いにたちはじめたのだろうし


ライトワーカーになろうという思いもあったのだろうけど


それこそが正しいと思うあまりが、言葉のはしばしにでているきがした。


そして、なにがあったか、しらないが、


本当のことを書いているとか?


妙なタイトルがめについて


ひふみ神示をかくのもやめたようで・・・。


神様から伝えられ、自分の使命だと思ってやる、と、いってたのは


どうなったのやら・・・。


おそらくでしかないが・・・。


なにか、憂生のように、変だなと思う人がなにか、わからないまま


言ってることが本当じゃないとでも、糾弾しはじめたのだろうか?


言ってることは本当だと思えるところはいくつもあったが


それを、自分の中で、検討して、


自分の中で、消化していないという感じはあった。


まあ、憂生もいろいろ、不思議なことは体験している。


よく、引き合いにだす、


ネッ友の自殺未遂をキャッチして、生きろという念を送り続けたという話があるが、


自作、白蛇抄の中でも書いている通り


ー自分の因縁がきれいになってないから、同じような因縁(この場合、自殺未遂)をもっているものをひきよせるんだー


と、いうとおり、


実際、後に憂生自身が、死のうかとおもうことがあったわけで、


そのときに、「死ぬな・生きろ」という念(声?思い)がはいってきた。


まあ、そこで、お前のいう事が本当なら雨をふらせてみろとやれば


青天さなか、にわかに空がかきくもり、ぽつぽつと雨がふりだす。


まあ、そんなことはいいんだけど、


結局、情けは人のためならずという、お登勢のラストあたりの言葉がある。


人に情けをかければ、それが、いずれ自分にかえってくる。ということになってしまうわけだけど、


逆発想になるけど、


憂生自体が、そのまま?いったら、死んでいたのかもしれない。


それが、そのときをみこしたなにものかが、


憂生に自殺未遂の念をキャッチさせて、


情け(というかいきろというエネルギーを)を、かけさせておくことにしたのが、


後になって、自分に帰ってきたんじゃないか?


と、考えると、


自殺未遂を助けた?つもりでいて、


実は、そのときに(後年の)憂生がたすけられていたわけになる。


そういう風に、かんがえると


そのスピリチュアラーがやっていたことは、


憂生でたとえれば、自殺未遂をたすけてやったんだ。と、いう立ち居地に見えて仕方がなかった。


まあ、他のことでも、


おもうのが、親とおなじことをくりかえして、親の気持ちをわかるという場合がありえる。

そのスピリチュアラーの親もおなじように、人に話しに行ったり

宗教活動にいそがしかったらしく、お弁当をつくってもらえなかったので
自分はそうはなるまいとお弁当とか食事はきちんとつくるようになっていたらしい。

そこのところも、そうならざるをえなかった親の宗教活動への思いをわかっていなかったところがあるのではないかと思う。


つまり、そのスピリチュアラーが、わかっていたのは、


お弁当をつくってもらえなかった自分の気持ちであり、


逆をいえば、作るようにこころがけれるようになったのは、


つくってくれなかった親のおかげであるのに


親はそうだったから、ああはなりたくないというような


自分のアンダーチルドレンをなだめていたようにみえた。


それで、自分自身も宗教活動的なことをするようになって
たとえば、

ああ、お弁当つくるどこじゃなかったんだってほど、人のこととかに親身になっていたかというと


あやしいわけで・・。


親とおなじとこをとおってみて、こんな気持ちだったんだなと


親の気持ちがわかるというふうでもなく


自身の凹み?親への理解?ひとつ、ライト(明らか)に出来ない状態で


人様にライトワーカーになりましょうって、いったって通じないだろう。


まあ、厳しい言い方だけど、


あえて、憂生もそういうところがあるからこそ


ー自分の因縁がきれいになってないから、同じような因縁をもっているものをひきよせるんだー


で、あるからこそ、そういう人を


本人は本来はそうじゃないだろうけど、


そういうふうにみてしまう自分であるわけで、


そこを自分につきつけておかなきゃならないとおもうから、


憂生は批判や非難はかまわないという。


あくまでも、自分につきつけていくということを目的として。


だから、あくまでも、本人が(そのスピリチュアラーが)本当はどういう人で


どういう思いや考えであったかはわからない。


あくまでも、そう見えるという下種な憂生であることの披瀝でしかない。


あるいは、自分の下種な部分をしっておくためでしかない。


ひどい人間であるのは、憂生のほうであることは、


さらしておく。

ブログネタ:「贅沢な瞬間」ってどんな時?

最近はフレンチ系統が好きでよく、外食をするんだけど・・・。


三拍子揃っているメニューに遭遇したときが一番贅沢だと感じます。


三拍子。


1、インパクト。驚きですね。

あ、こんな作り方。こんな味。こんな工夫。こんな素材。

とにかく、「常ならぬ物」がある。


2、値段。

高くて旨いは当たり前(で、ない場合もありますが)

この値段でこの味?この工夫。この素材。

と、インパクト部分を裏打ちするのは、値段もあります。

いくら、インパクトがあっても、高いものは、

「それぐらいの事があって、当然」と、思ってしまいます。


3、満足感。

これは、トータル感覚です。

コースの味がコースの流れに沿っている。

店の雰囲気が良い。

味が良い。

インパクトが在る。

値段以上のものが在る。

また、来ても良い。

あるいは、お客さんを安心して接待できる。

そして、食べてるときに楽しめる。

食べ終えて、「おいしかった」と思える。

何日かあと、あるいは、ずいぶんたっても

「あれは旨かった」と記憶の中に残り、記憶も楽しい。


憂生が調理人のせいもあり、

そういう料理を知ると

自分で作るときの「工夫」にもつながるので、

知識と記憶と「旨い」

これだけのものを一編に体験し、取得できるつ~のは

絶対、贅沢だと思います。

ブログネタ:長ネギと玉ねぎどっちがすき?

どっちが好きという、この理由というのが、

実は、最近たべたのがどっちだったか?

と、いう同義語にちかくもあるのだが・・・。


そう言う風に考えると、玉ねぎをたべた。

と、いうインパクトと

長ネギをたべたというインパクトのどちらが、

強かったか?

と、いう事にもなる。


で、上の最近というこのポイントが重要で。


もしかして、このネタに1週間前に答えていたら

憂生 の脳裏には

揚げたての玉ねぎてんぷらのインパクトががんとして存在していて、

くし型に切ったたまねぎのてんぷらのあの微妙な甘さと・・・

シャキシャキ感たっぷりのはざわりと・・・。

当然、たまねぎ。


そう、答えていたと思う。


ところがであ~~~~る。


2日前に、小腹がすいた憂生 は

あたりを見回し、

お好み焼きを作ろうと思った。


だが、キャベツが、ね!

豚肉も、ね!


う~~~~~ん。


長ネギがぴにょ~~~~~ん。

やけに「くってくれフェロモン」だしてるじゃないか。


こら、挑戦的な態度、気にいらねえぞ。


って、いいながら、

結局、挑発にのって、しっかり、誘惑されて・・・。


なんと、長ネギオンリーのお好み焼きをつくり・・・。


こりゃ、どうみても、お好み焼きにはならない。

と、ペッタンコにして・・・。


おお!!


これは?

これは、まるで、チジミでは、あ~~~~りませんか?


長ネギだけ・・かあ。

と、なにか、とっても、貧相なチジミもどきを食べて


「べっくり」


美味い!!


これにより、今回の軍配は、長ネギになってしまいました。


おしまい。

ブログネタ:目玉焼きにかけるのは、醤油派?ソース派?

この問題は非常に難しい。

おまけをいえば、憂生 は二者択一ではない。
塩コショウという三番目もある。
さらにいえば、ソースもウスターソースでなく、
とんかつソースというどろりとしたもの。
勝手に改ざんする。
目玉焼きにかけるのは、醤油派?とんかつソース派?塩コショウ派?
よし。
これで、課題は整った。
答えだけを先にいうと、わざわざ、みっつにするくらいだから、
どれも派である。
まあ、こんなことをかいたから、ついでに、他の調味料が合う場合を書く。
塩だけという旨い目玉焼きの食べ方。
:昨今はファンヒーターの登場でこんなことをすることも無いと思うんだけど、
石油ストーブの上にアルミホイルで作った四角い皿に油orバターをしいて、そこで、
目玉焼きを作る。通常の目玉焼きよりは時間がかかる。が、これが、どうしたことか、
塩をちょっと、ふって食べると抜群にうまい。
:焼肉をホットプレートで作ったときに必ず目玉焼きを作る。
半熟状態で両面をやいて、これを焼肉のたれでたべる。旨い!!
さて、話をもどして、
塩コショウが旨いと思ったのは、姫路で食べたモーニングのせいだな。
このときはベーコンエッグだったのだけど、塩コショウってのが、
目玉焼きの味をひきたてるものだと知った。
しょうゆ。これは半熟の卵にぴったり。ごはんに何よりも合う。
さて、とんかつソース。
これが、曰くつきである。
けっこう、旨いと聞いて、ためした。
たしかに旨い。ときおり、むしょうにたべたくなる。
で、友人と同席してた。
おもむろにとんかつソースをかけ・・・ようと・・・。
「お前!!目玉焼きにソースなんかかけるな!!」
へ?へ?
「目玉焼きはしょうゆにきまっている。気色悪いくいかたをするな」
え?え?
『あの・・此処憂生 ん家ですけど?おまけに、あんさん・・食わしてもらってる立場でしょに?』
とは、言うものの
食わせてやってる側が食べる側の気分を損ねてしまうのも問題が在る。
しかたがない。
別のときにとんかつソースをかけるか・・・。
どうも、これが、トラウマになって、
誰かと食べるときはソースを使わなくなった。
ひそかに、こっそり、
とんかつソースをかけて、目玉焼きを食べる。
だからね。
たのむからさ・・・。
どっちをかけるなんてさ・・・。
選ばさないで欲しいんだ。
昔の漫画・・なんだったろう。
今日は洋食にしようか、和食にしょうか
って、リッチな台詞のあとで、
「ソースごはん」
「しょうゆごはん」
って、いう二者択一のつつましい贅沢気分味わってるってのがあってさ。
まあ、憂生 もいわば、そういうとこさ。
その日の気分で
三者択一のリッチティストさ。

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だから、がんばれ・・・。

ある人に送ったメールを
その人がブログにのせてくれていました。
自分でよみなおして・・
いいなって、
思ったものだから
もらってきました。

よんでみてください。


護るものがある。
すべて、これに感謝。

君の子供達に・・・ありがとう。

がんばってゆけ。
親が子に残せるものは
それしかないんだから・・・。

頑張ってゆく、姿を
渡してゆく。

憂生もそれで、おふくろに幾度となく
助けられた。
お袋の苦労を思ったら、
こんなこと、しれたもの。

そうおもえるようになった。

それを賜させることができる、
今にするか、
しないか・・・。

母親ってのは、
「抱く」ものだから・・・。
女ってものは
「抱く」ものだから・・。

強くならなきゃ、
抱いてやれないものだけど、
子供 の人生も
だんなの人生も

抱いている自分だと
よく、覚えておいてほしい。

母は大地というけど・・。

量りという字の如く。

日を里の上に、乗せるほどの量りは既に里という台の中に
日をもっているんだ。

その日を土/大地でささえて、その上に
日を乗せられる。

女は、母は
大きな量り。

どんなものでものせてゆける。

何処までのものをも、のせてゆける、自分をひきだして、
有り難く在れ。

TV見てた。

TV見てた。

ぽんこぽりん・・

踊る・・・あはは・・・

踊る走査線か・・・。

ぐっと来た科白。

俺たち、下のものが現場で正しくやっていけるために、

おまえは、上に行って偉くなれ。

この科白は深い・・・。

うなづいちまったよ・・。

人生は螺旋階段~~~♪

過去日記を掲載しているが、其の頃の物事の把握の仕方が浅いということがある。


物事自体の捉え方が薄いというのもあるが、


後年になって、


気がつくことがある。


これも、よく言う言葉だけど、


「人生におこる物事、いっさい、無駄はない」


これは、相方AKIRAがくれた言葉。


憂生の言葉


「目の前に起きる事象はすべて、己に元がある」


と、対を成すというか、進化形の言葉だと思う。


だから、目の前に起きる物事は自分の何かの役にたつ(無駄がない)ことを

知らせたり、経験させたりしているのだと、前もって考えるくせが付いてきた。

もちろん、目の前のイベント?で、何をおしえているのか、

その時点では解からない。


だが、それなりにその時点で思ったことを書きとめておくのも良い。


案外、この思い方がいけなかったんだと解かることもある。


下のスレッドにかいた事象もやはり、

「目の前に起きる事象はすべて、己に元がある」

であり、

「人生におこる物事、いっさい、無駄はない」

であった。


当初、何故、こういう人たちを見せられるのか?


と、いうかすかな疑問が胸にあった。


たてつづけに、精神異常や鬱病や自殺、分裂症、境界異常,依存症、自傷、自殺未遂、PSTD


病名がわかったのはあとからであるが、こういう症状の人間と遭遇していった。


そして、病気のもつ症状をはっきり知らなかったとも、いえるが、

ひとりの人間を自殺未遂にまで、追い込んだことが在る。

(このあたりは、もっと、複雑なので、いずれ、詳しく話す)


余談であるが、先ほど訪問者様のところへお邪魔したときに

鬱病のことを生徒にどう話せばよいか。

と、いうことがかかれてあった。

もちろん、其の言葉だけでは、判断できないことである。

自分が鬱病だから、生徒に理解してほしいということなのか、

鬱病というものを話す必要性が見つけられないから

話す目的が見つからず、どう話せばよいか?

と、いうことなのか?

まだ、いろいろ考えられるが後者の場合を思う。


鬱病や精神異常の類によっては、病気であることがわかりにくい。

仮に病気だとわかっても、こちらの、一言で「自殺」まで、決行するとは考え付かない。


生徒に教えるとしたら、こういう部分だろう。


そういう病気をもっていることがわかりにくく、

知らずのうちに、死をまねく、一言を発することがありえる。

その具体例は、医者がいくつも出している。


この「一言」については、別段、病気の人に対してと言う心配りばかりではなく、

通常の社会生活に必要な礼儀であろう。

それが、今、崩れ去り、言葉の暴力などにより、病気でない人まで

病気にしている。


つまり、精神病への対処ばかりでなく、精神病発症の一つの要因を崩せる。


言い換えれば、精神病患者を作るのは「あなた」のあり方ですよ。


だからこそ、「思いやり」から発する(暖かい言葉)をもちましょう。

暖かい言葉は(相手を思う)心から発せられます。

相手を思う、「大人の自分」になっているか、

精神異常の人を見かけたら、他人事と思わず、自分を振り返ってみてください。



あ~~~~。

横道ぞれすぎた。


で、そういういろいろな物事で知ったことが

現実で、精神異常をひきおこしていた人間に対する対処の仕方を教えてくれた。


おかげで、身近な人間を病院送りにすることにならずにすんだ。


こういう風に、今は、全然、関係のないように見えることでも、


「人生におこる物事、いっさい、無駄はない」

「目の前に起きる事象はすべて、己に元がある」


の、ように、自分の中に「役(にたつ)・為(になる)」を蓄積することになる。


だから、

「なんで、俺はこんなめにあうんだ」

とか、

「なんで、私はこんなめにあうんだ」

と、思うようなことでさえも、

いつか、「あのおかげで(良くなった)」と、いえるようになる日が来る。


素人が精神病患者の治療や個人領域に意見?をすることは、

治療領域にはいりこむことになる。

それは、いけない。

と、言われたことがある。


だが、多くの経験から

そして、精神病者自体からのアドヴァイスもあった。


「とにかく、吐き出させる。受け止める」


これを基本にしていった。


それは、聞くに耐えない、聞けば、こっちまでおかしくなるような悲惨な状況も含む。


吐き出すほうも、よほど、こっちを信じてないと出来ない。


反対側で、聞いたことにこっちが打ちのめされていては、うけとめられないということになり、

話す側も話せなくなってしまう。


自分の話すこともつらいのに、それをきかせたことにより、相手まで苦しい思いをさせてしまう。

そんな自分って・・・と、自分を責めだす。


そんな思いをもたせちゃいけないと、平気をよそおい、むこうが回復したあとで、

逆にこっちが軽い鬱病(とは、違うな・・・気落ち?)になって、他の事も重なり

かなり、水面すれすれを飛行し、

「書き留める」

と、いう客観世界に不時着した。


それらの体験を軸に、自分をまとめてみるためにも、あちこちの精神病患者との遭遇をセンテンスにして

「白い朝に・・・」と、かいているのであるが・・・。


それを書きながら、自分でも、なぜこんなことを書くのかとも、思う。


だがそれらもきっと、


「人生におこる物事、いっさい、無駄はない」

「目の前に起きる事象はすべて、己に元がある」


の、ように、自分の中に「役(にたつ)・為(になる)」を蓄積することになる。


の、だと思う。


じゃあ、また同じことが起きる?


そうかもしれない。

人生は螺旋階段。

ぐるりと一回りして、見渡す風景は、さっきと、ちっとも変わってないが


確実に上にあがってる。


それが、自分にはわからないだけで、

あがるにつれ、

見えなくなる部分も

見える部分もちがってきて、


いつか、はるか、目の下

なにがあるかもわからなくなるほど、

自分には、(良い意味で)遠い物事になるんだろう。

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昨日。ずっと話してた。

憂生はきついこと言ったかもしれないって

お前の言葉聞きながら、思ってた。

ずっと、ずっと、子供 の頃から貧乏でみじめで、みじめで、

結婚 しても、あの亭主。

無い金もちだして、破産宣告して、それでもこりず・・。

子供の学資だって無い。

年金 だってかけてない。

保険 も無い。なにもない。

こんな惨めな思いさせたくないって

頑張ってここまできたんだ。

なのに、仕事もカット。

夢をたくしたいんだ。この事業で・・。

憂生はその前にいった。

貧乏していても、

これでよかったんだってとこみつけりゃいいだろ?

たとえば金持ちだったら、誕生日ケーキひとつでも

特注で作ってかいあたえたかもしれない。

ほんのちょっとでもいいって、小さなケーキ作ってせめて、

せめて、子供をいわってやりたいって、

こんなに思いこめられたの、貧乏のおかげかもしれないって思ったら、

外側は貧乏でも心はどこの誰よりも金持ちだろ?

そんな風に良かったことを自分でつくれ。

自分にきがつけ。

だけど、惨めだ。

憂生は何も返す言葉が無かった。

そして、どうやら今回の投資 はマルチ商法らしい。

おまえ。

やっぱ、貧乏だ。

貧乏は惨めだって思うお前が貧乏だ。

この惨めさから逃れようとする、余り。

お前は目が見えなくなった。

地道にかせいで、精一杯がんばろうって、

事をかんがえるより、

もうらくになりたいって、

貧乏を嫌った。

貧乏が悪いんじゃない。

お前の心がひからびて、

貧乏にまけちまったんだ。

なあ、ここまで頑張った自分をほめてやれよ。

精一杯自分で稼ぐ姿見せてやれよ。

楽になりたいって、自分の行き方すてちゃったら、

子供も貧乏だったことしかみない。

惨めだったことしか見ない。

お母さん 。貧乏に負けなかったっよ。

充分なこと出来ないでお前らにすまないって

思うけど、それに耐えてくれるお前らみたいな子供、

もってる親なんか他にいないよ。お母さんは世界1幸せだよ」

って、心をうるおわせることはできるはずなんだ。

憂生は巧く、いえない。

そんなもん!

惨めさしらんからいえるんだ。

憂生はそういわれたら何も言えない。

でも、それでも、

心まで惨めになってほしくない。

惨めなとり方が招くものは、たとえば今回の事件だろ?

心のもちよう。

憂生はそういいたかっただけ・・・。

ブログネタ:ラーメンのスープ飲む?

相変わらず、調理人憂生 としての回答になる。

外食でのラーメンだったら、

美味ければ、飲む。

不味ければ飲まない。

単純にこの二つにわかれるわけだけど、


「美味ければ、飲む」

この部分が平行移動の尺度になる。



「美味い外食のラーメンスープ」は

その味を分析しながら、飲む。

味噌が違うぞ。

これは、コクをだすのに、「牛乳」いれてる。

擦り胡麻もはいってるな・・・。

むむむ・・・。


と、言う具合に。


勿論不味いものも、その不味く感じる理由を考える。


そして、自分が実際につくる。

最近は鶏がらで作る事が多いんだけど、

いろいろ、工夫はする。


結果。

今度は自分で作ったものの採点としての尺度を突きつけられる。

「美味ければ、飲む」


で、やってきた友人などなどを・・

「お客様」にみたて

ラーメンを注文させる。


はやく、言えば

「ラーメンつくるけど、食うか?」


で、作る。

まあ、上に乗せるものはその時々でリッチだったり、

「ねぎ。だけですかああ?」だったり・・・。


麺はお気に入りがあるので、まあ、問題はない。


で、

憂生 は眺めるね。


『ラーメンのスープ飲む?』


美味ければ、飲む。

飲まずにおけない。


さあ、どうだ?


・・・・・・・・・。


と、いうことで、今回の回答は鸚鵡返しだね/笑


『ラーメンのスープ飲む?』


憂生 がそういう思いでみてる。


だから、美味しいスープだったら、スープのめ!!ちゅうんじゃ!!


スープを飲むのが、嫌なら

はじめから、ラーメン食うな。/ただし不味い場合は飲まなくてよいちゅうより、のめん!!


作ってる側は、ほんと、手間隙かけて、味きめて、スープもおいしいものを作ろうとしてる。

だから、

正直言えば、

「しょうもないネタの出し方するな」と、いいたいやい!!


ま、でも、これは、手作りに対して。


市販品は憂生 も飲まない事が多い。

それは、やっぱりいまいち「美味くないせいでしかないんだけど・・」

自分がいじめても、良いような自分は人もみないじめる

いつだったかの日記に、

「自分がいじめても、良いような自分は人もみないじめる」

と、書いたことがある。



これは漫画、人間交差点の中の

少年と老人の話を読んでもらうと、わかりやすいのであるが。



主人公の少年は同級生の不良?グループにいじめられているのであるが、

このいじめの言葉のひとつに、

少年の母親がキャバレーに勤めていることを

からかうものがある。



いじめにあっている少年は公園で老人にであう。



すると、この老人も

「お前をみてると、わしも、むかむかする。

いじめてやりたくなる」

と、少年に言うのである。



ひどい老人である。

ところが、

そのあとに、

「自分がいじめても、良いような自分は人もみないじめる」

と、いう内容な言葉を少年に渡すのである。



「お前は自分で自分をいじめてる。そんな弱虫はだいきらいだ。もっと、いじめたくなる」

不思議な言葉に少年は老人を見つめる。



「母親はキャバレーに勤めてるんだ。

だから、自分はいじめられて、仕方ないんだ。

お前はそう思ってる」



憂生はとても、うまくいえない。

でも、少年はきがつく。

自分で自分を馬鹿にしてる。

自分で自分をみじめにしてる。



確かに、老人ではないが、憂生も

がんばれよ。

そんな風にとるなよ。

なんていう、思いより、

しょうもねえ奴だ。

みてて、うざってえよ。

どっかいっちまえ。

と、言う思いが湧かぬでもない。



老人の言葉に自分に気がついた少年は

胸をはって、不良たちに母親を紹介する。

「キャバレーに勤めてる、僕の母だよ。

美人 だろ?」



漫画の世界である。

結末はよい風にもってきているのは、当然であるが、

憂生は、

この老人の言葉。

ひいては作者の思いであるが。

この言葉とおりの

心理のくぼみにはまることだけは、

やめようと、

訓をえた。



ぎゃくもいえる。

「自分を大切にするものは人からも大切にされる」



すなわち、



外に起きてくる物事の

本当の原因は自分の心のありようの映しでしかないのではと、思うのである。

さて、憂生の身辺事情はどうであろう。

逆分析して、

自分の思いをたぐりなおさねばなるまいの。

あはは。

えらいこっちゃ。

****で、答えになってはいないが、応えるかも知れぬと思いつつ・・。***
「自分を大切にするものは人からも大切にされる」
自分の
子供 の価値を価値として見てあげて欲しい。
これじゃ、いけないんだろうか?
その思い方はあるいは、貴方自身が子供をいじめ
自分を虐める。

私は素晴らしい子供を持った。

あなた(子供さん)は素晴らしい。

マズ、親がソレを価値にしないで、どうする。

「相手の痛みを思いやることのできない、できてもしない・・・
そうでなければ自分を守れない」

貴方は貴方を忘れてる。
子供が本当に護ろうとしているのは貴方だと思う。
もしも、それで、子供が自殺でもする事になったら?
誰が一番かなしむだろうか?
自分を守ることは親を護ること。

煩悶や苦しみ、責め・・いろいろ、あるだろう。

それで、いいんだよ。

と、苦しまなくて良いんだよ。

今、見てきた事を自分はしないは第一義。

いずれ、親になったときにレイのいうような、卑怯をしる親になれる。

その苦しい思いが子供の心を育ててゆくんだ。

しっかり、見ておきなさい。
だけど、泳げない人間が溺れるものを救うことはできない。
お母さん は貴方に一緒に溺れて欲しくない。
今はつらくても、いつか、泳げる自分になれと教わってる。
そう、かんがえて、自分の肥やしにしなさい。と・・
例えば・・だけどな。

今、貴方の子供は大切なことを学んでる。
大きく成長している。

その芽を伸ばす思いを持ちなさい。

芽を摘む、思い方をしなさんな。

自分に負ける人間を育ててしまうのが
実は親のあり方。


貴方が気弱な受け止め方
自虐的な見方をすれば、そのまま、子供が沈む。

見方を変えろ。

単純に聞いてると
子供を責めてるか、否定しているように聞こえる。

虐められる側にだって虐められる理由がある。

いじめもその角を取らせる大きな計らいとみれば、
声のかけ方も考える。

いじめで対処するんじゃなくて
虐められる原因を掴んで忠告してあげられるバックアップもできる。

でも、それ以前にまず親がいじめもその角を取らせる大きな計らいと考えるくらいに
見方を変えなきゃ成らないだろうし
自身が子供を見る見方もかえなきゃ、

虐められている子供が他の人をてだすけできるだろうか?

まず、親が子供を泳げる子供にする。

オニギリでも例えたけど
自分が飢えているのに、人に施す必要は無い。
まず、自分を救う。
自分が救えて、初めて、人におにぎりをあげられる。
泳げる子を、
オニギリを渡せる子を望むなら、
マズ最初におにぎりを渡せない子供にさせているのは、自分かもしれない。と、
子供を飢えさせる思いを渡しているのかもしれないと、
今回の問題を振り返って欲しい。

上手く、言えないし
厳しいことばかり書いているけど、

子供の姿は親の写し鏡。

まず、自分に元がある。

こう取って行く。

辛いけど、あてはまりゃ、いっそう、
痛い部分あるかもしれないけど、
鏡に映った姿を憂いても仕方が無い。

よく、いう
言葉だけどな・・。
『抱いて・抱いて・抱きおおして』
育ててやれ。

大事なものはしっかり抱き込むだろう?

貴方が大事。

これをしっかり、渡してゆくこと。

「自分を大切にするものは人からも大切にされる」

その自分を大切にする根底こそ親の思い。

それが、欠けた人間が人を大切に出来ず、人を虐める。

大切に大切に考えてゆこう。
子供が打ちひしがれていれば親は庇おう。
子供が増長していれば、しかってやろう。

それでも、忘れずに子供の価値を親がまず最初にうけとめてやろう。

ソレがいずれ

「自分を大切にするものは人からも大切にされる」
そこまでの子供にしてやるのも貴方の思い方次第。

*********また、辛口でごめんな********

あはは・・・汚ね~~はじまりかた・・・

あまりのくだらなさに
憂生も
目糞、耳糞。
つまるところ糞同士と思うわけである。

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ブログネタ:ご飯のお供といえば

今年の夏、特にお世話になりました。

食欲がない、ごはん・・たべたくない。

熱いものいやだ。

麺類もなんか、腹にこたえない。


ついつい、冷茶漬けで・・さらさらとご飯をたべるというのが、

続いていた、ある日・・・

おふくろが、

「へしこ」を注文していて・・・。


それが、届いた。


「へしこ」?


鯖の糠漬けのことです。


これを焼いて食べたら、ごはん、3杯くらい平気です。


25~30cmくらいの大きさの鯖のはらわたをとって、

背まで包丁をいれ、おなかの中にも、糠をいれ

半年?くらい漬け込んでおくもので

若狭湾近辺北陸一帯で普通に売られています。


それを焼いて2cmくらいの切り身にして、1切れで1,5膳

ご飯が0,5残るのでへしこをもう一切れたべたら、

逆にごはんがおいしくて、残ったへしこにつられ、また一膳。


ショッパイものですが、これを食べたらもう、他のものなんか、目じゃない。


へしこ、一本1000円以上すると思いますが、2cmくらいに切ったら

骨付きと骨なしの二つ身ですから、20切れくらいあると思うのです。

つまり、10回ぶんのおかず。一回100円くらいで、毎食たべても飽きない。


ごはんとの相性ばっちしすぎて、

ごはんがすすみます。


おそらく、「へしこ」をご存知のかた、

まちがいなく、「へしこ」をプッシュしてくるとおもいまする。

ブログネタ:“ウチ飲み”のこだわりポイントは?

いろいろな経緯が重なる。
まず、憂生自身が調理筋であり、居酒屋系統でのバイトの経験も有る。
そこで、一番こだわるのが
「つまみ」
酒のみだからこそ、つまみが活きる。
注文して出てくるつまみというのは、
「そこまで」
なのだ。
ところが、自分で作るつまみというものは、
来てくれた人間に
「え?」
を、与える。
旨物談義VOL1にも取り上げてるが
たとえば、
鳥の肝煮。
とか、
ただ、新しょうがをスライスしたものに
味噌をつけて食べる。
これが、目新しい。
つまみがまさしく話のつまみになる。
中には、家でつくってもらうと
造り方を聞いてきたり
場が開けたあと、
残ったつまみをもって帰るヤツ。
こんな楽しみ方は
絶対、外では出来ない。
酒もビール、日本酒、ウィスキー、ワイン、焼酎など・・。
何種類か取り揃えている。
ビールの飲み方。好みは黒ビールで割る。
焼酎は田苑・・・黒霧島・・他いろいろ。
ウィスキーは今・・何種類あったかな?
ラセンシップにシーバスはこの間空にして、山崎系統。
ワインはスペインとイタリアとフランスの白と赤。
ドイツワインは飽きた。
泡盛もあった。日本酒は・・新潟のなんとか誉れ?・・
ああ、ブランデーも転がってたな。
そこで、酒談義が始まる。
ゴマ焼酎のんだか?
ああ。
とんとことん・・
「たんたかたん・・だろ?」
紫蘇焼酎な。
やっぱ、オタールが旨い。
ロイヤルサリュートの話。
ナポレオンのブック。
安物ならJ&B・・。
・・・・・・。
あ・・・。
適当に切り上げよう。
そんな風につまみのタイミングを計りながら、
懐と車の心配しなくていい気楽な酒に
一味添える。
ん~~~~~な楽しみ、絶対、外では味わえねえ!!

伯楽の一顧

頭上、伯楽という言葉がうかんできたので、

伯楽をしらべてきました。

アフィリエイトやレビューなど、この名前のホームページ伯楽の一顧を作ったことあるので、

懐かしい名前ですが、ようは、審美眼を持ちたいものだということです。

伯楽のような、本物を見抜くちからというのでなく、

ひとり、ひとりにある個性や、アフィリでいえばその一つ一つの商品の付加価値をみいだしていけるようになり、

最終的には伯楽の一顧で、

そのものごとについて、「見直し」をはかれる。

(見直して、嘘か誠かをいうのでなく、「問い直し」をさせてしまうというそれ自体)

そんなことを考えていたので、頭上・伯楽とはなんぞいや?ときになったのですが・・。


伯楽は、性は孫、名は陽、「列子」や「准南子」のような老荘系の書物に登場していろいろ逸話を残しています。「世に伯楽あって、しかるが後に千里の馬あり」のように伯楽に見いだされないと、名馬も名馬となれない、というようなものもあります。

 秦の穆公は、自分の部下で馬の鑑定の名人である伯楽を大いに尊重していたのですが、彼も老齢となったため、秘訣を子供に伝えておくように命じました。ところが伯楽は、「私の子供は凡人でその素質はないと思います。馬を外見からみるだけなら、形や筋骨などで分かるのですが、千里の馬という名馬となれば、外見上の顔・姿・格好からでは判別できないのです」として、その能力を備えた人物として九方皐という人を紹介しました。穆公は、喜んで、彼に名馬を堆薦するよう依頼したところ牝の黄色の馬を指定してきました。早速それを取りにやらせると案に相異してその馬は牡の黒毛の馬でした。公は怒って伯楽を詰問すると「馬を観ず、天機を観る」と返事したとのことです。はたして、この馬は千里の名馬だったと言います。

http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/vo69.htm 

伯楽の一顧

人物を見抜くことで有名な人の知遇を得て、登用の道がひらけることをいいます。伯楽は馬を鑑定する名人であり、売れない馬でも、彼が道で一寸振り返って見ただけで、価格が10倍になったと伝えられています。

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時にたちどまり、眺めてみても・・・。いつもと変わらぬ風景である。

螺旋階段を上がる。

人生は時に螺旋階段。

いつか見た風景がまた、目の前に広がる。

ぐるり、一巡り。

また、同じところ。

同じ風景。

確実にステップ はのぼっているはずなのに、

ほんの少し、

風景をみるまなざしが上昇していることだけを

祈る。

一体、今、何処まであがり、

一体、この先何処までのぼりつめられるのだろうか。

ただただ、目の前には次の一歩を待ち受ける

いつも、なじみの一段がある。

ブログネタ:小腹が減ったとき、最近なに食べる?

最近、はまってるのが、手抜きドーナツです。

市販のホットケーキミックスをかいまして、少し固めに粉をといて、

スプーンですくいとりながら、丸とは程遠いいびつなドーナツを

弱火であげます。

これに、コーンスターチと砂糖を混ぜ合わせた・・・粉砂糖っていうんですか?

それをつくっておいて、

出来上がったいびつなドーナツにまぶします。

コーヒーを立てて、好きなだけ食います。

うっかり食いすぎると夕食が食えなくなります。

ちょっと、前はねぎ入りおこのみやきだったのですが・・。

その前はみたらし団子でした。

甘辛醤油あん。

調理畑から手をひいても、やっぱし、無性になにか作りたくなります。

きっと、減っているのは腹じゃないんでしょうね。

調理欲が充たされない、プチ欲求不満。

って、とこでしょうか・・・。

ご清聴有難うへのコメント・・

元々、此処はしずかなところだわい・・・・・

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いずも (護衛艦)

移動先: 案内検索
いずも
DDH-183 いずも(2).jpg
横須賀に入港した「いずも」
経歴
運用者 海上自衛隊
建造所ジャパン マリンユナイテッド 横浜事業所磯子工場
種別護衛艦
クラスいずも型護衛艦
計画平成22年度計画
発注2010年
起工2012年1月27日
進水2013年8月6日
就役2015年3月25日
要目
基準排水量19,500トン
全長248.0m
全幅38.0m
深さ23.5m
吃水7.1m[1]
主機COGAG方式、2軸推進
LM2500IEC型ガスタービンエンジン(28,000ps) × 4基
最大速力30ノット
乗員520名(うち司令部要員50名)+長期宿泊可能者450名[1]
搭載能力貨油 3300kL
3 1/2tトラック × 50台
兵装高性能20mm機関砲CIWS
× 2基
SeaRAM近SAMシステム
× 2基
搭載機SH-60K哨戒ヘリコプター、MCH-101掃海・輸送ヘリコプターなど計14機[1]
C4ISTAROYQ-12戦術情報処理装置
レーダーOPS-50 3次元対空
OPS-28 対水上
航海
ソナーOQQ-23 ソナーシステム
電子戦
対抗手段
NOLQ-3D-1 電波探知妨害装置
Mk.137 デコイ発射機 × 6基
OLQ-1 魚雷防御装置 × 1式
テンプレートを表示

いずもローマ字JS Izumo, DDH-183)は、海上自衛隊ヘリコプター搭載護衛艦(DDH)いずも型護衛艦の1番艦。艦名は令制国出雲国に由来し、旧海軍出雲型装甲巡洋艦出雲」に続き日本の艦艇としては二代目、海上自衛隊の護衛艦としては初代である。太平洋戦争期の正規空母雲龍型航空母艦蒼龍を若干ながら上回る規模と排水量を有し、2015年4月現在、海上自衛隊では最大の艦艇。

艦歴[編集]

「いずも」は、平成22年度装備調達計画に基づく平成22年度計画19,500トン型ヘリコプター搭載護衛艦として、ジャパン マリンユナイテッド横浜事業所磯子工場で2012年1月27日に起工し、2013年8月6日進水[2]2014年9月22日公試開始[3]2015年3月25日に就役。建造費用は1,139億[4]

2015年3月25日より、舞鶴基地へ転属したひゅうがに変わり横須賀へ配属され、第1護衛隊群第1護衛隊に所属。


歴代艦長[編集]

歴代艦長(特記ない限り1等海佐
氏名在任期間出身校・期前職後職備考
艤装員長
吉野 敦2013.8.6 -広修大
36期幹候
[5]
おおなみ艦長いずも艦長
艦長
1吉野 敦2015.3.25 -広修大・
36期幹候
いずも艤装員長

艦名[編集]

命名前は、平成22年度(2010年度)予算で建造される護衛艦であることから、年度にヘリコプター護衛艦を意味する記号の「DDH」を付け、「22DDH」と呼ばれていた。

命名進水式で艦名が公表されることになっていたが、式についての案内を記載した海上幕僚監部2013年7月16日のプレスリリースにおいて、黒塗りしていた本艦の艦名がパソコン上の操作によって見られる状態になっていた。海幕はミスに気づいて当該文書ファイルをすぐに差し替えた[6][7]

本艦の艦名においては、旧海軍戦艦に使用されていた「長門」の名前を継ぐ「ながと」を推す声もあったが、日本国内外で波紋を呼ぶ可能性があることから見送られた[8]。なお、旧海軍の艦船では装甲巡洋艦出雲」があり、「いずも」の艦内には装甲巡洋艦「出雲」との比較図が飾られている。一部の中国メディアは、装甲巡洋艦「出雲」が日中戦争時に第三艦隊の旗艦として上海に派遣された経歴のある艦であったことを理由に、この命名を批判的に報じた[9]

命名後に「いずも」のロゴマークが公募され、「ヤマタノオロチ天叢雲剣」をモチーフにしたものが選出された[10]

就役直後の「いずも」(22DDH)

脚注[編集]

悲鳴?

ムツゴロウの本だっただろうか?

犬の話。

それも負け犬の話。

犬は

自分の方が弱いです。

貴方には逆らいません。

って、態度を見せるとき、

あおむけになって、

腹をさらす。

腹は一番の急所。

ところがこの行動は腹を見せる側にとって

かなりの恐怖があるだろう。

負け犬は

この時、こらえきれず

悲鳴?を、上げたりする。

とたんに

その悲鳴を聞いた

上位の犬は本当にたけり狂いだし。

負け犬を恐怖でなく。

時に

死にまで、追い詰める、殺傷を与える。

負け犬は自分の恐怖の声が

狂気を増長させるとは、思いもつかず、

自分の恐怖に負ける。

上位の犬はその悲鳴で

普通ならそのまま、やり過ごす

恣意行動を狂気に変える。

悲鳴。

それは、わざわざ、狂気をひきだしてやってるとしか、思えぬ、

負け犬の行動である。

何だ。犬のことかと思われるかもしれない。

が、

が、だ。

このかふぇにおいて、こういう類似系を

見ないでもない気がする。

誹謗中傷をしてくる相手に

断固とした態度をとらず、

どこか、負け犬ににたような悲鳴を上げる。

これがいっそう中傷者の狂気をあおる。

憂生は非常にきびしいことをいうが、

中傷するほうよりも、

中傷される側の方が

多くの問題を抱えてるという。

なぜなら、中傷者は、誰にでも中傷を与えるだろうか?

どこか、負け犬のような、卑屈な態度をとって、

相手を狂わせてはいまいか?

この部分をクリアしない限り、

問題の解決にはならない。

そんなことをふと思ったりした。


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夏近くのはなしだったかな?

近所の小学生が

喋りながら、かえる。

なんだか、たのしそう。

今日はスペシャルサンドイッチ だよ。

???

学校 の給食もさまがわりしてるんだな?

「カミキリムシをはさんでさ・・・」

え?

「ポチにあげたんだ」

はい?

「びっくりしてたよ~」

なるほど。

迫害とか、動物虐待なんていいなさんな。

こんなユニーク なサンドイッチをポチにあげようなんて、

やっぱ、小学生。

きゃらきゃら笑い転げる声をききながら、

みんな、こんな小さないたずらして、

大きくなったんだよって思う。

次の日にポチはまた、みんながくれるパンを嬉しそうにまつんだよ。

なんか、かわいそうな事しちゃったかな?

だから、もうちょっと大きくなって、

ポチの前を通ると、

みんな挨拶するんだ。

「よ! 元気してるかい?」

ね。

成長をまってあげよう。

理由あって、再掲載。

父親に怒られたとぶつくさ。

怒られた内容はまあ、なっとくするものがあるのだが、その怒り方をしのごのとりたてて、ぶつぶつ・・・。

だが・・。

憂生はいう。

「親は一番、最初の世間様である」と。

親が怒るような事をしでかした。

きょくたんにいえば、親は怒ってすますが、

これが世間さまだったら、そうはいかない。

親におこられることで、世間の基準と言うものを肌身にたたきこまれるのである。

ところが、物の本。一部の教育ろんによると、

「子供はしかるのであって、怒ってそだててはいけない」

と、かかれてあるものにであう。

確かにそうだとは思う。

が、憂生はまた、これをひっくりかえす。

親が感情のままにおこるほどのことをしでかしているのだと、子供がその重大さにきがつけるように、普段の冷静なときにはなしておくべきである。

親が感情のままに怒る。

最初の世間がこうなのだということで、

子供の中に世間様が叩き込まれる。

憂生は本のように、怒ることは、良くないとは思わない。

かほどに親を怒らせるほどのことをしているんだと知らせてやれる親の激怒。

これは大事だと思う。

どこの他人様がここまで感情むき出しでおこってくれよう。

世間様だったらこうはいかないとかいた。

親が激怒するようなことを世間でしでかしたら、世間はそのまま「見捨ててしまう」

気がつくこともさせないほど世間は厳しい。

親だからこそ、必死になってわがことのように、怒る。

渦夜のたちばをみるに親の視点にかえていう。

親ならばこそ怒ればいい。

憂生はそう思う。

****それで、いいんだよ。
いつか、子供がそこにきがつく。
気がついたときに
貴方の痛みもわかる。
大丈夫だから・・・。
貴方の子供だから、
だいじょうぶだから・・・。
きりかえちまえ。
叩ける自分で得したんだって。
それがいつか、ずっと先になって
実を結んでゆくんだって。
*********
いわばあこや貝と同じかな・・。

例えたことは違うけど
あこや貝に入れられた核が
親の教え・・こうおきかえて読んでみてほしいので
もう一つ、再掲載する。

****************

なあ、真珠球をつくるあこや貝は

その喉をきりさかれ、

小さな核をいれられる。

いたくて、

くるしくて、

つらくて、

だけど、それに耐えて

あこや貝はやがて、真珠をつくるんだ。


心の中に真珠を作るんだ。

痛くて、当たり前。

辛くて、当たり前。


そんなことより、

きれいな丸い真珠をつくらなきゃ・・。

*********
核を入れたんだよ。
あこや貝が痛いっていってるんだ。
そりゃあ、
入れたほうも痛いに決まってるよ。
でもな、
真珠珠、作る核を渡してやれたって、
それだけは真実だと思うよ*********
コメント


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古い。鑑定団に見てもらうか?

空に架かる橋が、原因だろう。

世界平和を祈る・・と称するブロガーが訪問ぺタを残してくださった。

もちろん、そのぺタから訪問して

世界平和を祈るブログとわかったのであるが・・・。


確かに書いていることも

訴えてることもすばらしかった。


だけど、憂生の鱗に触ったね。


ルームの中、彼女か?女房か?

ペアでブログ挙げてるんだろ。

着替え中?か風呂上りか?

なんか、知らんが、彼女の写真を貼り付けて

「サービス」のつもりなんだろう。


は?


媚びるつもりか、

そういう業界の方で

頭の?心の?しきりがどこかに行っちまってるのか。


てめえ、男だろ?


男なら、自分の彼女(女房?)売り物にするような真似すんなよ。


大事にとって置けよ。


申し訳ないけど、そういう、自分の相方ひとつ、大事に出来ず

自分の「男」護れねえヤツが

世界平和?


食べ物が無くて飢える子供たちが居る?


お前の精神のほうが、よっぽど、平和を欲してるぞ。


な~~~~~~~~んて、ことを、思っちまったんだ。


この考え方、今風じゃないだろ?


だから、憂生は古くさいって、ことだ。


勝手な言い分だ・・・。

ネットで知り合った男に
合いに行き
性的暴行を受けた。

と、か・・・。

で、そんな悪い男がいるから・・・
気をつけてくださいと
啓発文を寄せていらっしゃる方がいたんだが・・・。

憂生は・・・
こういう物事を見聞きするたび
実にガッカリする。

ネット恋愛 なるものが
リアル/現実において
成り立たないとは言わない。

だが、
安易にネットで知り合った人間に
会いにいこうとする
その考え方が
すでに理解の範疇を超えている。

申し訳ないけど
安易にラブ
アフェア を楽しもうとした
その答えでしかないと思う。

で、チョット、関連記事・・・・。

********
そう。時に事象は己を知らす道具である。ゆえに憂生は冷たい。わかるかい?  ********

憂生と奴の決定的な違い。

たとえば、いつか、日記にあげたけどな。

エロメール送りつけられて、困ってるってそうだんうけるだろう?

やつは、相手に直接、意見するんだよ。

憂生はな。

そんなメールを送られてくる方をたたくんだ。

なにか、あったら、誰かにたよって

相手をつぶしてゆく?

こんなこと、かいけつになるかい?

自分ひとりで、困難?に対処できる自分つくりをしてほしいんだ。

おきてくる事象は、そのまま。

つけいれられる自分をかんがみる。

まともに対処できない自分を振りかえる。

ここをみきわめないで、いったい、その人の本当のためになるだろうか?

憂生の考え方は、こうなんだ。

だから、いつでも1対1。

おまえ、どうだ?

そういう、憂生。どうだ?

憂生は甘くない。

だから、ちゅらら のいうとおり。

時に痛い。

k。

お前なら憂生の言う意味わかるな?

******繰り返す*****

つけいれられる自分をかんがみる。

まともに対処できない自分を振りかえる。

ここをみきわめないで、いったい、その人の本当のためになるだろうか?

***安易に男の優しさ?/たとえそれが本当に優しいとしてもだ/
ちょっと、魅力的?
とか、
そんなものにホイホイ、引っかかる自分の
凹み?飢え?心の置き所を
問い直さないで
心のまま
思うままに
行動する・・・。

いつも、いつも、
日記にかかげていたのは
「向かい合うのは自分」

良いものは自分の生き方として
実践し血肉にしてゆく。

ネットに置いての交際方法とは、
相手から受けた諸々の物事を
自分自身の現実に溶け込ますことであって
相手と会うことではないと思っている。

だから、憂生自身はどんなに
惹かれようとも
けして、現実に置いて
会うことは無い。

また、別の見方から
それでも、合いに行くなら
コレに似た覚悟をもってゆく。

*******憂生・・・考える。**** 

友人がマルチ商法に引掛かっている。

憂生にいい仕事があるから、こないかと連絡が入ったとき、

マズ、友人が心配だった。

話を聞きに行って、本当に大丈夫ならそれだけでいいと思った。

憂生は分不相応なことは考えない。

自分の「分」の分だけ、報酬は与えられるものである。

と、考えている。

たとえば、憂生が書いている文章作品。

いくつか公募にだしてみたが、最終選考までは残り、

出版社からは共同/協力出版を提示される。

金が有れば、今ごろは本屋に本がならんでるか?

と、いうと、そうはいかない。

実際掛け値なしに自分の実力を認められたものではない。

これを無理やりに金をかけて出版するん?

本当の実力でもないものを?

それが認められたこと?

憂生は偽の報酬はほしくない。

いまいちだけど、読み応えは有ったよ。

そういってくれた。貴女。

憂生はこれが本当の報酬だと思っている。

こんな話をマルチ商法の人員にはなしたら、

通じなかった。

金がほしい。

それは判る。

憂生もほしい。

でも、自分の分にふさわしい金でいい。

いや、無理をすればどこかでしわよせがくる。

無理が大きければ大きいほど

そのしわ寄せが掘って行く穴は大きく、深い。

他の友人もばくちのような投資 をして、

家庭を失った。

分不相応の見返りは時にこう言う落とし穴を用意していることがある。

投資するか、それを信じるかは本人が決めることと人員はいった。

確かにそのとおりだと思う。

ただ、憂生が思うのは、

落とし穴。

その存在を覚悟しているか、どうか。それだけ。

落ちた後に

「騙された。自分が馬鹿だった」ではない。

ようは、

「ばくちに負けちまったってことだ」

こういえるくらいの腹をくくっているかだ。

*********
ネットで知り合った男にそれなりの覚悟も持たず
ほいほい
呼び出されて、ノコノコ、合いに行き
あげく、性的暴行を受けたとしても、
これは、申し訳ないけど
自分を安く動かした結果。

その考え方をやり変えてゆくように
示唆してかなきゃ・・・。

相手の男をターゲット
警戒網をしいたって、網の目くぐるような、
雑魚。

雑魚にひっかかるような
くすんだ目玉をもってないか?
そのあたりを
女性連に厳しくうかがいなおしてやってくれ・・・。

それが、本当の優しさだと思うのは
勝手な言い分かね?


本当は、もう一人の、聡い貴方へ向けてのめっせーじである。

貴方ほどの人こそ、自分自身に負けてほしくない・・
もう一つの事。

先に結論を言う。

*** 自分自身に負けたくない ***

人を嫌う。

たとえて、いえば、これは自分の容量の無さでしかない。

許容力が自分にない。

そんな自分をさらけ出すほどの無様さはない。

と、かんがえているのだけど、

実際問題。

「考え」に「感情」がついてこない事がある。

なさけなくも、あちこちで見かける、ある人間のコメントを見るたび、ぞ~~とする。

最初の頃ほど、むかっぱらはたたないし、

それなりに、彼も相手の方と友情をはぐくんでおられるのであろう。

外側から見て、判らないことはとうぜん、中まで、はいりもしない人間には判りはしない。

こちらの嫌悪感情で相手を判断してはいけない。

そんなふうにいかに自分にキャパシテイがないか、見せ付けられる。

相手を嫌う理由など幾らでも、正当だてられるが、自分の度量の狭さはつくろえはしない。

つくづく、

自分自身にまけたくない。

これでも、そうおもって、何とか、自分の

幅と、深度の無さだと省みてはいるのである。

だから、おっさん。

平気で並んで、いることもあるけど、(足跡が・・)

それでも、わいてきてしまう感情を

たたきつぶそうと、

憂生も努力はしているんだ。

そこのとこだけは、ご理解あれ。

単純に・・み~は~~なだけで・・(過去記事に付き、季節はずれ


デコレートできるというので、使って見るべ。
って、実に単純です。
と、いうものの、これといった記事がない・・・。
デコ記事のための記事ってのもしゃくにさわるな~~と、思いつつ、
まあ、ためしてみるべ。
って、デコ・テンプレート?のぞいてみました。
あ、これだなって。
逆に今日のニュースおもいだしました。
そうです。
梅といえば?
鶯。
幼少のみぎりから、花札をつつしみ、
その腕はともかく。
花札の絵模様で、いろいろ、勉強しました。
雨の札にかいてある男の人は小野東風だとか・・・。
松に鶴。梅に鶯。竹に雀。
牡丹に蝶。もみじに鹿。萩にいのしし。
赤タン・青タンそろえば、20文。
早三光に来いはなし。
月見で一杯、花見で一杯も雨で流れる。
札あわせでは、15文以下だったら、「ふけ」勝ち。
あ?
鶯の話でしたね・・・。
鶯の初鳴きが観測されたとのニュースでした。
もうすぐ、3月。
2月の梅も桜三月弥生の札に座をゆずる・・
もうすぐ、春ですね~~~~~♪




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