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困った性分だwww

ココログのほうでも、物語をぽつぽつと掲載しているが、

ここは、ニフィティというプロバイダー会員が多いせいか?

そこそこに?年配の方が多く居られるように思う。

そして、ニフィティブログ(ココログ)では、新着記事のブログを

サイドバーに表示できる。

そこで、ちょっと、おじゃますることがおおくあるうちに、

年配の方が多いと思えるということになった。

ちょうど、定年?を迎えた人、迎えるあたりの人が、

ブログをやりはじめて、そのまま、続けているのか?

やっと、ブログに専念できるようになったかはしらないが・・。

95歳のおじいさんとか・・

本人年齢明かしてないのでいくつからを「婆」と設定しているのか判らないが

ひ孫の年齢から考えると75才以上か?

(とは、いっても、16歳16歳16歳で、ひ孫4歳というのも早婚が続けば52歳?)

そういう方たちが、趣味やら日常やら教訓やら?書いているようで、

たんび、年配層だとおもえるブログにつきあたってしまう。

こちらが、ランダムに飛び込む場合もあるが、

きになるのが、実は、俳句とか、短歌である。

いきおい、年配層になおさら、遭遇しやすいのかもしれない。

で、そういう俳句とか短歌を覗きにいくのも、

やはり、物書きの泣き所といっていいかwww

短い言葉・語句で、世界をあらわすというその表現力や

着眼点や意識化に惹かれてしまう。

が・・・。

ここが、また、物書きのいやらしい側面で、

人の作でありながら、添削したくなってしまうというか

その着眼点を自分ならどう表現するか

と、いうのをやってしまう。

これは・・・いくつかの俳人を尋ねておもったのだけど

やはり、独自の表現やら、形になってしまっている、いわゆる完成作品にたいしては

なるほどなあと、ただただ、感銘してかえってくるのだが

なんか、あれ?と思うとその場にとどまって

どう表現するかをかんがえてしまう。

(その結果・内容を本人に告げれば、添削行為になってしまうだろう)

たとえば、憂生がちょっと、例として、つくるけど・・・

冬木立 ふくらすずめが 留まり居る

などという句があったとする

ここは、二重季語になっている。

冬木立とふくら雀

あれ?なんか、おかしいなと思い考えると、そういうことになる。

では、どう表現すればいいのだろう。

情景としては、葉が落ち寒々とした木の枝に留まっているすずめが

寒さをしのぐため、ふっくらと身体を丸めて、身体を休めている。

寒そうであり、自ら身体をふくらまして、

暖をとりながら、つかの間の安息を得て木の枝に留まっている。

厳しい自然をいきぬく雀の知恵とつかの間の安息は

みている人間の心になにをおもわすだろう?

止まり木のふくら雀の空に映え

木の枝にとまる雀のふくらむ姿の後ろに空気の冷たい空がある。

これでどうだ?

もずの声ふくら雀が目をさまし

これでは?

・・・

と、いうふうに、かんがえはじめるわけだ・・・。

で、次の句をみると・・

あれ?とおもう。

ここは、なぜか、わからないまま、あれ?とおもうので、

考える。

別の表現を作ってみて、先のたとえでいえば、ああ、冬の季語二つも入ってるから

もったいないんだ。と、わかるときもある。

ひとつの季語にして、もう少し情景を足す。

もずの声でめをさますなら、雀はうとうとしていた(心象風景)

休んでいたと判る・・

だが待てよ、百舌が鳴くは季語かな?

鳥と鳥でうっとうしいか?

・・・

まあ、できばえはさておいて、

よそ様の着眼点やら、心象風景やらに触発されるのはよいのだけ

人の句をどう表現をかえたか
それを発表するわけにはいくまい。

小説?ならば、ほんの一部分であるから、

ごくたまに、憂生風表現にかえてみたものを公開するときがあるが

いかんせん

俳句やら、短歌はみじかすぎる。

引用(我田押水かも)

さて、そろそろ、ねるぜよ。

と、おもったんだけど

ちょっと、おもいだしたことがあったんな。

憂生の記事を読んでくれてる人は

憂生がちょくちょく、自分の物語の中の一言(もっと?)をだすの

良く知ってると思う。

このあたりに関連したことになるんだけど

たとえば、

憂生がキリスト教でも仏教でもなんでもいいや。

こういう真理がかいてあることな。

これをかきうつしていったとする。

なんでかしらんけど・・・。(メカニズムとしての意味合い)

「おまえはそれで、理がはまるから、やめとけ」

って、いわれたことがあるんな。

これはわかるん。

たとえばキリスト教の

汝、姦淫するなかれ。

この理がはまったとする。

憂生がまかりまちがえて姦淫したとするわな。

どえりゃあばちがあたったり/www

お試しというか、鍛錬させられることになってしまったり。

その試しにまけて、堕落したり・・・・/あんまし笑えんな。

こういうことがおこりかねんていうことになる。

他のたとえのほうがよかったか。

まあ、いいや。

だから、うっかり教え(理)がはまったらえらいことになるって。

それも、自分が経験せんでも書いただけではまる。

便利だって?

まさか・・・。

つまり、その教えができている人間とみなされるわけ。

でも、本人はできてない。

ほい。人をあいしなさい。

ほい、これしなさい。って、まわってくるってこと。

言霊で言えば自分ができてない状態でものをいいはなったら

相手にききめがないだけですまず

自分にかえってくるんな。

これとおなじことがおきるん。

だから、やめとけって。

で、基本。憂生が書いた物語は自分がある程度

通っていったことや、消化できてることとか

その言葉で自分がもう一度考え直したりとか、

う~~ん。

こういう言い方も違うけど

本物というか・・・。

活きてるん。

どっかの借り物かりてしゃべっていたって、

憂生には活きた言葉じゃないんな。

ましてや、言霊的にかんがえれば

借り物の言葉だったら

自分にかえってくる以前に

なんも通じていかん。

そんなんで、借りてきた言葉でも

いったんは自分でこなす、こなれさす、消化せんかぎりは

できるだけ、つかいたくないん。

そんなんで、ちょくちょく憂生の作品からの引用多しになる。

宣伝根性にみえとったら、ごめんなあ。

出版よりも

空に架かる橋をかきながら

憂生はひとつのことを思っていた。

バックグラウンドが戦争だったこともある。

そして、2年ほど前、どう評価されるのだろうという

興味本位で文芸社に投稿してみたのだが、

その結果、十年前にそれを書いているときに懸念したことと、

非常に良く似た感想が入っていた。

担当者さんは、以後、だしましょうと何度もプッシュしてくれていたのだが、

憂生は、懸念感想のほうにひかっかっていた。

腹がたったとか、そういういみあいではない。

がっかりしたとかそういうことでもない。

最初の懸念をかきだすまえにいくつか、説明が要ると思うのだが

あまりにも、アメリカナイズされてしまっているというところだろうか。

まず、たとえば、ごく最近の話でいえば、

震災直後の被災地の様子について。

諸外国は

日本人は暴動をおこしたり(マーケットを襲撃したり)しない、すばらしい国民だ。

と、ニュースをながした。

これを素直にうけとめた人は何人いたかわからないが。

そんなんあたりまえじゃないか。てめえらの国のモラル意識がうすいから、

あたりまえのことを、すばらしいとおもうんだろうが。

と、憂生は思った。

それでほめてるつもりかい?みならわなければいけないというのならわかるが、

レベルの低いやつらが上段からほめるかよ。まじ、冗談じゃねえ。

まあ、ひでえ言い方だけど。

たとえば、こんなお褒めを(w)そのままにうけとめ

本質部分にきがつかず

物事の本質を上手にすりかえてしまう。

やすっぽい見識にのっかってしまう。

そんな言葉でも、日本人である憂生は礼節を重んじておくとして、

(ありがとう)とね。

諸外国は己のレベルが低いからりっぱにみえると膿をだしているわけだ。

こういうことがざらにある。

別に諸外国でなく、日本のなかにね。

たとえば、靖国神社参詣問題。

あの戦争をおこしたのがどうのこうのの問題じゃない。

おきてしまったことに対して

日本人の戦い方がどうであったか。

つまり、人間魚雷や飛行機ごと突っ込むとか、

命をおしむことなく祖国を護ろうとした人たちのおかげで、

日本は植民地化されずにすんでいる。

こんな戦い方をする国を植民地にしたら

あぶなくてしかたがない。

植民地化は無理だ。

これが、日本をすくったわけじゃないのかな?

だったら、そこにもっていってくれた英霊たちがいたからこそじゃないか?

そこにお礼というか、あいさつというか、

行くのは当たり前のことだと思う。

本質部分にきがつかず物事の本質を上手にすりかえてしまう。

やすっぽい見識にのっかってしまう。

変な意見にまどわされて、自分の国の安泰の元に恩さえかんじない自分をはじることもなく、反対だとものをいう。


ついで、マッカーサーのこともかいたな。

昭和天皇を、象徴にすることを進言していったのもマッカーサーだと思う。


まず、昭和天皇にあったとき、マッカーサーは昭和天皇が

他の国の首相たちとおなじように、命乞いをしてくるものだと思ったそうだ。

ところが、

「私はどうなってもいいが、国民を助けて欲しい」

この一言だったという。

マッカーサーは昭和天皇を国民の父だとおもったことだろう。

そして、英霊たちが命をかけていくほどだったことをおもっても

天皇を絞首刑にでも処した日には

植民地化したらどうなるかどころのさわぎではない恐ろしい事態を迎えるともおもっただろうし

自分たちだって、わが父よと思うキリストがいただろう。

そのキリストより確かにわが子よと国民を思う父が目の前にいる。

マッカーサーはそこに神をみただろう。


神を殺すまねなどできない。天皇を処刑することはすなわち、

キリストを冒涜し惨殺するにひとしかっただろう。


こういうところを知らずして、軍部の横行に屈するしかなかった天皇を

戦犯だとか?

まったく、

本質部分にきがつかず

物事の本質を上手にすりかえてしまう。

やすっぽい見識にのっかってしまう。


こういうことを空に・・・をかきながら意識していて


懸念したのは、


物語の主人公にたいし、外国人なら

ーなぜ、彼女は報復しないのですか?-

と、尋ねるだろう。

だが、日本人であれば、彼女の思いはわかる。

そのころに従軍慰安婦問題で、保証しろとか、

いいほど被害者に成り下がった人々がいたけど

じゃあ、日本人は原爆をおとされ、

アメリカをうらみがましく思っているか?

潔いいうのとはちがうかもしれないが、

日本人はいつまでも被害者ぶって自分をあわれんだり

報復しようなぞという思いはない。


まな板の上の鯉というか。


長崎ではのさりといったそうだが・・。

まあ、キリスト教徒の多い土地なので

神の試練という観念というか、

すべて、うけいれてこだわらない境地というか。


こういうことからしても、

日本のあだ討ちもいつまでも果てしなく続けないとか。

赤穂浪士にしろ、あだ討ちをしても、

本来の筋目でいえばまちがってるとわかったうえで、

決行し、浪士は切腹していく。


負けは負け。

戦争だったんだから、仕方がない。

きっちり、一線をひいていく。


目には目をというかんがえがないのは、

たとえば日本の民話にも象徴される。

あかずきんちゃんにしろ、敵は殺す。

が、日本の民話の多くは

特にかちかち山の狸?

おばあさんをころされ、鍋にされ食わされてしまったおじいさんは

それでも、狸をこらしめてくれたらそれでいい、

改心したらそれでいい。

な、わけだ。


日本人は「心」「精神」を重視する。


報復するなぞという、恨みがましい低い精神はもっていない。

ところが、

物語の主人公にたいし、

外国人なら

ーなぜ、彼女は報復しないのですか?-

と、尋ねるだろう。

だが、日本人であれば、彼女の思いはわかる。

が、見事にひっくり返される。


いや、外国人だったのかもしれないな。


ーなぜ、彼女は報復しないのですか?-

まだこのほうがいいかもしれない。


ー彼女が報復するきだったのか、ちがうのか、つかみとれないー

報復するものだという目でみているに相違なかろう。


いままで、誰もそんな、

報復するなぞという、恨みがましい低い精神にたった受け取り方をするひとがいなかった。

十年たったら、

どんどん、精神がアメリカナイズされ、靖国神社は反対で

天皇は戦犯で・・・かちかち山の狸はころさにゃあいかんし、

赤穂浪士は切腹する大馬鹿者で・・・。


こういうところになってしまったんだろうね。

いやいや、やっぱり本人みてないんだから。

きっと、ハンムラビ王だったんだ。

あ、子孫ね。たぶん、きっと

相変わらず、話がずれる憂生である。

まあ、何度も書くことであるが、憂生は不思議な人間であるわけで・・・。

事実上、不思議な体験も多くしているわけで、このあたりは、ブログカテゴリー・スピリチュアル1~6に資料?とともに載せているので省く。

上に、白蛇抄などは、密教的、解釈を基底にしてかいていたり、カフェにおいても、いろいろと不思議な邂逅をえている。
こういう経緯があって、スピリチュアルも物語も思想的なものも、手相なども、
いろいろな事象からの解釈が混在したものになっている。

ここ1~2年は、スピリチュアルにはまって、過去形の体験も含め、幽玄師や彼女の魂が・・。彼の魂が・・。という小作品をかきあげたが、本人がまだ、消化不良のところがあり、自分でよみなおすと、「?」な部分がある。

最近は読まれるために書くでなく、
自分をさらえなおすためにかいているので、「?」の部分についても、読む人が、「?」であってもいっこうにきにならないでいる。

作品を読んでもらう場所に作品をおいてみたが、正直、ベースの違いをかんじるのみであった。

憂生の設定の中の登場人物の考えかたというのは、実際、憂生の中での相似形の考え方・対処だったり、するわけだけど、
例えば、これに「そんな出来た考え方・対処をするなんて、現実にはありえない」などとかいう意見がきたりする。

正直、ここで、ベースの違いを感じる。

憂生自体がありえない考え方・対処を現実にしてきた人間のひとりなわけで、そのプライベート部分から話さなければ、現実にありえるということを理解できないということになる。

ただの空想で、話をかいているわけではないところがある。

物語の基底は「自分’」であり、自分の中をほじくりかえすためにかいている部分もある。

で、あるので、空想的物語として?捉えた上で、「ありえない」という設定ミスとしてうけとめる読み手こそ、憂生にはありえない/笑

まあ、そんなわけで、今回もチサトの恋の中に自分のなにをうつしこんでいるのか、外にだして客観視するために書いている。

おおよそ、見えてきてはいる。

そこを喋ると、物語の結末をしゃべるようなものになるので、黙る。

また、それは、ロビンの瞳にたいしても、同じテーマであると思う。

形は違うが、いかに心象風景に惑わされているかと、いうところである。

BUT

実は憂生はこの文章を書くにあたって、
「宿命」ってことについて、かこうとおもっていた。
だが、その話をもちだしてくるに唐突すぎると、導入部をかいているうちに、
心象風景にまどわされて、話がちゃう方向にいってまいましたがな~~~~~~

その後・・・

カメラを手放し、ネットの関係もあって、再びカメラをてにいれたとき、それは、デジタルカメラにかわっていた。

接写も簡単で、マニュアル操作のようにピントあわせやシャッタースピード調整も労しない。

そのうち、憂生の血筋だな。

被写体のほうをつくるようになった。

そう、板前の血筋をしっかりうけついでいる憂生である。

写真の腕前は、完璧におちていて、ピンボケが・・(ピントもオートだというのに?)と、いうものの、実はピントの中心をどこにもってくるかという微妙な部分がオートのほうがむつかしく、また、全体を綺麗にとりこもうとするものは、広角レンズにかえていたというのもある。

接写のピントあわせは、望遠のピントあわせなみである。
通常のサイズの写真をみてみたら、きがつかないものも、八つ切り四切りにプリントすると、ピントの甘さがわかり、カメラの技術はまだまだ、奥深いものがあると思う。

で、被写体の話。

在宅勤務になってから、しばらく、フレンチにはまり、

この近辺から、自宅で試作と単なる食事とと調理する機会がふえてきていたので、作ったものを写真におさめることにした。

そして、旨物日記などもぽちぽちかいていたわけで、料理を作りながら、「文章」ができあがるという「触発部分」があり、アートなどというのは、口がさけた以外ありえないぴんぼけ写真であるものの、「必要」というか、「実用」としてレシピもどきの案内役をつとめるようになり、憂生のカメラワークはここにおさまったところがある。

即ち、必要という価値が付随してきて、はじめて、写真が生きている(ぴんぼけでもだ~~~~)と、いえるようになったと思う。

風景写真や人物写真が、いけないというのではない。

憂生にとっては、自分の心象風景にすぎなくなってしまったとも、そこにこめる「思いいれ」「まなざし」がなくなったともいえる。

どこかで、必要というものは、また、他の人にとっても必要であると思う。

個人的に必要をこえた実用写真という方向は、また、憂生が文章をかくところにもある。

どこかで、問題意識をもつ。考え直す。という作用がある作品も多くかいているし、実際の場面で「生きていく支え」になる考え方も提示してきている。

そのあたりのことは、長くなるが
ひとつだけ、読書について、ショーペンハウエルからというようなタイトルの雑文がブログにあるので、そこが、もっとピンポイントに語っていると思う。

検索ロゴのむつかしさよ・・・。

此処に、物語に埋ずむ「食」&ログってのをいくつか、収めている。

物語の中の「食」がでてくる、その「食」を含む場所を抜粋するのと同時に、

その「食」への感慨を書いている。

まあ、憂生はその中でも、お茶の話がすきであるが・・。

雁が小枝をくわえ飛ぶというところからついた、雁ヶ音(寝)というお茶に込められた思いをつづったものであるが・・。

まあ、そんな風にして、いくつか、書いているものの中で、

これまた、タイトルが意味深にきこえる(読める)ものがある。

蟷螂の中の一説。

蟷螂はかまきりである。

だから、「雄を食らう」

このログを「食」にしてよいかも悩んだが、タイトルに使うのも悩んだ。

どっかのかばちが、また、とんでくるぞ。

と、思ってあげたとたん、エロ親父が嬉しげにとんできた。

で、そのことも含め、記事にあげておいた。

そのタイトルにまたぞろ、ヒットがある。

こうなると、憂生も被害者意識まっさおだね/笑

また、かばち、3人組か?

それとも、ろくでもない検索かけたか?

ところが、案に相違して、検索ログは

中政勝・・という人名だった。

これが、うまいこと、ヒットしている。

蟷螂の化身が政勝を食らおうと、幻術をかけてくるという場面だ。

幻惑の中、政勝は・・・とあったように思う。

中政勝だね。

確かに・・・/笑えん

ところが、中政勝でひいてるはずなのに

雄を食らうというタイトルがぽ~~んとでてるじゃあ~~りませんか。

多分、なんで、雄を食らうに中政勝が関係するんじゃ?と検索された方はおもったのと、

多少、すけべ心がうごいたか?

あるいは、部分抽出されている、物語に興味をいだいてくださったか。

何人かの「中政勝」検索者がいらっしゃった。

あんたら、目的がちがうでしょ!!

と、いうやぼなことはいうまいか。

目的と違うところにひっぱってこれたということは、物書きとしては、よろこばしい事態である。

ただし、タイトルにひかれたか?

抽出記事にひかれたかは、やぶさかでない。

見ちまったに引き続き、いやいや、すでにいろいろと物語でも、いくらでもあったことだ。

沖田と土方の物語にも、「沖田総司はホモだった」がとびこんできてた。

あほか・・・。

こうやって、かくもんだから、

此処にも又、中政勝検索者と「沖田総司はホモだった」検索者がくるのかもしれない。

そんときゃ、ぶっちゃけ、堪忍やで!!

あほか!!

久方の休日である。
ん?
この言い回しは
「壬生浪ふたり・俄狂言・・」
では、ないか。

なんちゅううう~~~ワ~~ン~パターン~~~。

馬鹿な事を言ってたら、何書くか、わすれてしまう。

物語の続きをほったらかしたまま、考え事をしていた。
朝から、町内のどぶ掃除に行って、ひとシャワーあびて、いつのまにかうたたねしてた。
さっき、起きて、朝飯か昼飯か判らない、ひたすら、夕食に近い食事を取った。

で、カフェ覗いたら、考え事を思い出した。
物語に関わるんだろう。

「宿命」と「運命」って、言葉を考えてた。

憂生の物語上の言葉で言えば
因縁って、置き換えて考えられる。

まだ、考え中だから、まとまってないというか、此処で書きながら考えるというかああ、
書いてるうちに、得意の「ふっと、わいてくる」があるかもしれぬと、思ってもいる。

まず、文字から、考える。

宿命は宿るだから、生まれながらに持っている変えることの出来ない「運命」
と、考えてみた。

運命は運ぶだから、自分の人生に運ばれてくる「運命」で、これは、変えることが出来る?

自分の中から沸いてくるものと
自分に運ばれてくるものの違いは大きい。

沸いてくるものは確かに避けようがない。
自分に運ばれてくるものは、到達地点で有る自分がどこかに逃げれれば、避けられる。

この二つを因縁と言ってしまったが、

因は原因。元々。自分に元が有る。
これが、宿命に近い。

縁。これは、そのまま。縁がある。縁がない。などと言う、縁で、宿命/因があるから、縁が出来るとも考えられるが、縁を切るとか言うように、ある程度自分で左右できる余地が有る。

言い方をかえれば、
宿命は乗り越える。
運命はきりかえる。

まあ、今のたとえ方の裏側に、どうも、負的な人生を背負っているので、
たとえ方が極端かもしれない。

これらのおぼろげな感覚を手の平に載せて、はたして、憂生の主人公達の宿命とは、何ぞや。
運命とは何ぞや。

あるいは、あの行動は、運命か?宿命か?

と、振り分けをしていた。

・・・・・。

いっぱい書いたのに、いっそうおぼろげになってるじゃないかあああああ。まる。

無題

忙しさにかまけて、物語から遠ざかって、どんどん、かかなくなってしまうと
現実の重さ?みたいなものが、
漬物石のように自分にのしかかってしまって
なにかしら、物語が空虚にかんじられてしまう。

10年続けば本物というが、
10年は続いた。
先細りになりながらも
12年は書いたと思う。
ところが、いよいよ、本物?といえる10年以上になってきてから、
どういうんだろう。
わきあがってくるようなとたとえられるけど・・・。
執筆意欲というのが、さっぱり、わいてこない。

こりゃあ、あかんわ。と、
打破をこめて、
とにかく、書こうといくつか、かきはじめたけど
どうにも、かきしぶってしまう。

こうなったら。
開き直る。
書く気にならないなら、それもあり。
書く気が本物なら、いずれ、書く。
と、あえて、書かないことにして、
はや、2年?
おためごかしにかいたものがあるから、1年というところか。

実際、書いていたころから、スランプといっていたが
いまになると、そんなものは、一種「拍車」と「いいわけ」でしかなかった。

今が、まさに スランプであろう。
だのに、なぜか、
きっと、書くだろう、自分を信じている。

書いていながら「書けない」といい
書いていないのに「書ける」と思う。

まさに、天邪鬼の構図である。

だけど、かきかけで放置中の作品をしあげてしまわなければいけないという。
そんな、強迫観念でかきたくもない。

ふと、どこかで、心の糸がはじかれるときがくるだろうと
それだけを信じている。

書くという楽器をもっていながら
鳴らしたい曲がみつからないのとよく似ている。

続きを読む

事象というべきかなwww

物語を書いていく中で
基本的に、主人公たちの性格や考え方など、いわゆるキャラクター・個性といわれるところを
軸にして、書いていきます。

ところが、ストーリーを優先させてしまうと、
なにか、しっくりこない部分があります。
極端になってくると、
この主人公じゃこんな事しない。
こんな考え方じゃこの主人公らしくない。
と、なって続きがかけなくなってしまうことがあります。

一番よく覚えてるところでは
白蛇抄、白峰大神のラストですね。
現在選択している結末がでてこなかったのです。
子蛇、みずから、草薙の剣の刃の下に滑り込むというものですが、
実際、子蛇を討たねばならず
主人公、あるいは、副主人公が討つしかないわけです。
ところが、どう考えても
この二人にはできない。
性格というか、精神というか・・・。
この物語は、最後で破綻してしまうのかと半ばあきらめつつ
それでも、なにか、納得できる方法がないかと思っていたところに
三日目にふと、子蛇が自らという案がうかんできたわけです。
これにしたおかげで、
もっと、深く納得のいく結末がでてきて、無事終わりをむかえられたのです。

こんなふうに、
主人公だったらどうするかというところを
ふまえて書いていくことを一番にしているわけですが
それでも、
主人公だったら、どうするか?
と、いうのが、まったく、見えないときがあります。

長いこと、放置している
性同一性障害(厳密には障害まではいってませんが)の物語。
この主人公が、自分の性別(役割)を男とすることで
双子の姉を守っていきてきたのだけど
姉に、姉を守るべき人、ともに人生をわたっていく相手があらわれたとき
妹は「女」としていきていく自分にやっと戻れたわけです。

ところが、妹がこの先、どんなところから、
「女」としていきていくことをもっときずかされていくか。
皆目、さっぱり、見当がつかなかったのです。
当時、高校生くらいだったと思います。
たとえば、妹が大学生だったわけですから
社会人になって、
仕事をとおして、気がつく?とか、
かんがえてみても、
自分自身が高校生で、社会の仕組みも感情も意識もさっぱりわかってない。
こりゃあ、もっと、自分が人生わたっていかないとかけないことなのだ。
と、あきらめて
そのころに断筆宣言をしたのです。

そして、あることがきっかけで、
かきはじめたら、
でてくるわ、でてくるわ。
打ち込みが間に合わないほど物語がでてきて
あっと、いうまに1年足らずで50編くらいの物語ができたわけです。

双子の設定というのは、白蛇抄でも二重で、でてきます。
そして、擬似的な性同一障害をついだかとおもうような設定もでてきます。
「男」でなければならない主人公として・・・。

まあ、結局、こういうふうに、
自分の中に書けるものが、ないと、
「書けなくなる」という
技術面とか構成面でなく
自分のスキルというか、
考え方や経験が浅いとどう主人公にそわせてかけばいいか
わからないというのが出てくることがあったのです。

このため、
お登勢も、長いこと、途中で放置していました。
3年以上・・・。
ほぼ、80%ちかく、かきおえていながら、
この登場人物だったら、こうするだろう。こう考えるだろうというのが
見えないのです。

自分の経験値がないから、
性格上での結末に、結びつかない。
ストーリー的にはできているわけです。
ところが、納得のいく、この人なら、そう考えるだろうが、
ぜんぜん、わからない。

そして、3年近くたったある日、
ふと、かきはじめたのです。
この間、憂生個人に、いろいろな出来事があり
それが、そのまま、この人ならこう考えるだろうにむすびついていったわけです。

****
「情けは人のためならず・・っていうだろ?
人に情けをかけておけば、
いずれ、それが、自分に返ってくるってな。
人を思う気持ちが深ければ、深いほど、
深い情けが返ってくる・・。
自分の幸せはその情けが帰って来た姿だ。
自分の幸せの大きさは、自分の思いの深さだと思うんだ。
深く暖かい思いを持てば持つほど
幸せも大きく暖かいものになる。
俺は・・・先に幸せってものを手に入れたいって思ってたけど、
自分さえ情け深い人間になれれば
幸せってのはあとから、勝手についてくるもんだ。
俺自身が人としてよりいっそう徳をつむことのほうが先なんだよ」
****
と、こういうものですが、
この台詞をはかせる(思いつく)だけの出来事が
憂生にあって、
ある意味、本物として、出せるようになったわけです。

そして、次に目指したものは
「赦す」ということでした。
これも、55000文字までかいて、
ストーリー的にはできあがっていて
粗下書きもできあがっています。

けれど、かけないのです。

なぜなら、
憂生自体が
「赦す」ということを通りきっていないせいだと思います。
言葉でも、観念でも、考え方でも
それは、十分にわかっていると思います。

そして、「赦す」もほぼ、できていると思います。

けれど、本物として、完成されていない。
のでしよう。

時折、ふと物事がわかるのなら
なにも、本当にあじあわされずとも
よいじゃないか?とおもうことがありました。

けれど、それは、
それを語るとき
「絵に描いた餅」でしかないんだと。

何か、本当に自分が会得・あじわった物事は
自然にわきでてきて、
その言葉が
読む人にひびき
たとえば、Aさんのように
閉じこもった世界から自分をとびださせることができるほどの
力を持っていたのだと思います。

むろん、Aさんの感受性ということや、
時期も良かったのだろうと思います。

それが、無い。こもらない。
この状態になったら、ぴったり、筆が止まってしまったのです。

いつか、書ける自分になるのだろうとおもっていますが
やはり、言霊ならぬ文霊にできるまでは
かけないのだろうと思っています。

ナイン・・・の話。

そういえば、この笑う女をFC2小説に挙げていた時に感想がはいった。

削除して、なくなってるので、ニュアンスしか、覚えてないが、

正直な思い、「なめとるんか?」ってな、思いだったな。

こういう問題を小説にしてあるということ自体に、

読む側は、とまどいを見せるだろうとは思う。

ルポ(ドキュメント)として、とらえるべきか?

読み物として、捉えるべきか?という思いだったようだが、

「嫌悪感」ににたものが、最初に沸いてくるとは思う。

だが、その後ろ側にあるものを、いえば、

どこかで、

「面白半分でかいているんじゃないか?」的、(うまく、いいあらわせないが・・)

簡単に文字にしてしまえるのだろうか?というのは、書く側より、むしろ、読む側のほうが持っていると思う。

が、これは、いいかえれば、

「まともに捉えていないだろう」という憂生への疑いでもありえる。

憂生は、その人の読み方に対して、活字依存症であると、言ったが、

それは、↑にかいた部分でもある。

「憂生という物書きは、どうとらえるんだろうか?」と、いうようにいえば、わかりやすい。

文章のうしろに人間がいることを忘れている。

活字だけをみて、嫌悪感や、どう系統わけするかを考える。

同じように、嶺上開花の感想があるが、

ー憂生は介護の仕事をしているのか?-という一言がある。

憂生もおそらく、何故、この作者はこういうところに着目するのだろうか?というものをもつ。

文章という「読み物」だけを楽しむ人は多くいるだろうが、

作家・物書きのその人物を読み込もうとする人はすくないのかもしれない。

だから、どこかにも書いたが、

文章に自分の映し身がはいる真剣勝負の作家ーなどというたわけた視覚で物を言う。

映し身はいやでもはいる。

読み手としての憂生はそこを読む。

その映し身が、あまりにちゃちだと、別件の書き手さんのように、読んでいて、「ぼろ」を見せてしまう失敗にもなりえる。

自分がどのような読み方をしているかというか、

文章から作家をかぎとっていくということが念頭にない人は、

また、妙に、自分を披瀝する言葉をはいてしまうわけである。

その意見がさも正解の如くに思えるだろうが、裏を返せば、些細な文章の中に作家を嗅ぎ取る嗅覚にかけていると豪語しているわけである。

むろん、こういう、もう一歩、ほじくった見方をする人間がいるなんてことに気がつかないのだろうし、その言い方がつうじていたんだろう。

まあ、単純な文章一つの中にも、それら「作家のコア」みたいなものがはいっているわけで、

このあたりを、嗅ぎ取る人間はいる。

エイチクンとかね/笑

そこらへんのところのかぎとりは、かすかでしかないようだが、なんとなく、違うぞ、この人はと、文章でなく、作家をみている部分があるようで、期待できる人間だと思う。

文章を書くというのはいわば、「人間」をえがく・・だからね。

読み手側に入った時の感覚がそのまま、文章になるんじゃないかと思うから、

作家(人間)を読まない人は「読み物」しか、書け無いんじゃないかと、思う。

もの想いのモノは、モノクロームのモノ。意味?あはは・・・

掲示板からのコピーです。

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「指導者の条件」を読んで・・1

「指導者は人。物、すべてあるがままにみとめなくてはならない」

松下幸之助の把握であるが、

そこに出てきていたのが聖徳太子だった。

ラッキー。

あおによしを放置したままなので、これにかかわる見聞はありがたい。

まあ、だったら、誰かの本を読めばよいということにもなるが、

これが、偏屈で

今指導者としての目線みたいなことをかんがえているから、

この目で捉えた「聖徳太子」の見聞はよい。

だが、どうか、わからない目線のものをよむと、

憂生の書き物に影響が出る。

いわゆる固定観念みたいなものがすりこまれ、

憂生独自のつかみたい聖徳太子像がぼやける。

こういうことを嫌い、物語をかくようになってから

ストーリー物はほとんど読んでいない。

さぞかし本をよんでいらっしゃるのでしょうと

言われることも都度あるが、ここ10年物語りは5冊もよんだかどうか・・。

最後に読んだのは白蛇抄15話めをほぼしあげたころ、

独自の陰陽師像をつくりだしたかったので、

映画もドラマも本もよまずにいたので、

夢枕獏の陰陽師を一冊よんだのが、最後であるのは覚えているが

その前によんだのは、はて?

で、太子への松下幸之助の考え。

「和を以って尊し」

に対してだが・・。

「派閥にとらわれず全体の調和を大事にしなさい」

まあ、この考え方は大事の前に小事にこだわらずにもつうじるところだし、

明治維新・坂本竜馬あたりが受け継いだかんがえかたでもあろう。

「派閥の存在を認めた上で活用、善用すべきだとおもう」

このあたりが、憂生が先んじて書いたことにつうじているが、

指導者たるものは、逆に活用・善用方法についても明るい。

ただし、憂生のいうような「好きになる」というのは、

感情論にされていたが、

憂生はそれくらいの包容力?度量がないと指導者にはなれまいと思う。

問題は悪いから嫌い

良いから好き

という尺度でなくて良くても悪くても「好きになれる」ということなので、

松下氏のいうところとは、意味合いが違う。

問題の悪いは悪いとみぬける。

良いは良いと見抜ける。

と、いう見識眼については、どう考えてるか、書いてあるだろうかと思いつつ、

「派閥の存在を認めた上で活用、善用すべきだとおもう」

の、言葉の中に

もうその答えがでているも同然だとも思う。

さらに・・・。無題成る・・・

アスペクトに色々な自分の断片をいれながら・・・。

自分の年齢を考える時このまま、何もせずに死を迎えるに後何十年なんだろうと思うと、

どこかで自分と云うものを押し出してみたいと痛切におもわずにいられませんでした。

わずかの知己に訴える憂生の人生の一握は憂生の生きてきたしるしのようなものです。

「こんな事に対してこう思う」このお披露目は、だからどうなんだよ?とか、

そんな見解は憂生の勝手でしょ?と、いう類のごくつまらない物でしかないだろう。

山上達彦の「光る風」の中にも似たような1文がある。

過去、現在、未来。時の流れの中で人は巻き返し繰り返し同じ思いを歩む。

だが、同じ思いをもっただろう人間の事を知りもせず、同じ思いを踏んでゆく。

こんな意味合いのことだったろう。

風は時の流れをいうのだろう。

光るとはその「時」の流れの中での過去にも今にも未来にもある、人の思いをさすのだろう。

ふと、ふと、今の自分が時の流れの中にある光に思いを馳せることさえないけれど、依然として風は光る。

風を光らす人の思いは悠久の流れに飲まれてゆくだけである。憂生の思いもいつか時の流れにのまれてゆく。

悠久の中でちかりと光る事も在るかもしれないが何と言って光っているのかは誰の耳にも届かない。

少しばかり、耳を傾ける事が出来ないまでも、風の中で光る物があると言う事だけは覚えておきたい山上達彦もまた、

自分と云う物が悠久の中に解けてしまう限りある生を持つ人間である事を重に承知している。

自分の光が届かないものでしかないというならせめて過去にも今にも未来にも風を光らせる者が居る。

これだけは紛れもない事実として、真摯にうけとめておきたい。

山上達彦の狂人のような感性に憂生は恐れさえ覚える。

憂生はいつかこの世での存在をなくす。

愛したものも、不足だったものも、全て、おきざりにしてゆく。

置き去りにしてゆくものたちに憂生はいくばくかの光を移しこんでみたい。

未来を担う子供たちへ、資質もあろうが教えられる事、伝えられる事は渡してゆきたい。

そして、僅かの空間と云う文字の中に憂生と云う光のこもとをこめてみたい。

そして、いつか、憂生は風になる。

光ればいいな。山上達彦のようなひとがいればいいな。

何と光っているか判らなくていい。

風が光る事を知っている人が居ればいい。

そう、こんな事を昔誰かも考えていたし、今も誰かが考え、未来にも考える。

憂生のような思いを持った人はたくさん居ただろうし今も居て、先にも居る。

皆…きっと、そう。      


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タイトルってさ・・・

しかし、よく考えてみたら、


わりかし、物語の題名に


こだわってるし、


こだわってないな。


と、思う。


今回も、日記の域を脱してないんだけど、


憂生が、体験?したことをかいたわけだけだ。


憂生中事実・・・って、


題名でひとくくりにしてるけど、


これは、中朝事実から、もじってる。


なんや、それ?って、?


ようは、天皇家のルーツで、


いざなぎといざなみが・・という日本の起源みたいな話で。


これが、中朝(皇室)の事実だよっていう意味合いだろうね。


で、憂生が書いたことも、ある意味、


そこで、いろいろ知ったことによって


憂生の現在があるみたいな、部分があるから


憂生中事実って名前にしたんだけど、


その中の話が、


たとえば、妄想列車とかね。


そんなタイトルがはいってるわけさ。


すると、中身なんか、わかってないから、


タイトルだけ見て


ー妄想小説ーとかの言葉に洗脳されている人が来る。


読んでくれれば、判るけど、その言葉が重要なポイントであるわけだけど、


どうしても、そのタイトルだけで、判断?するひとが多く居る。


これは、


実話からアレンジした


ー見えちまったーシリーズでも、


なんか、変なこと思うんだろう。


どうも、違うとおもうせいだろう、最初のころにきたほど、


次のシリーズは、よみにこない。


ポーの一族の二次創作も


ー秘めやかなるーって、言葉に誤解される。


あれは、ロビンが死んだときの思い。


それが、秘密というか、秘められたままだという意味合いと


ヴァンパイヤたちがマチアスにたいして、


獲物としてだったか、


仲間にひきいられるためだったか


という、秘密部分とか、


マチアスが、キリアンを襲った?おもいもまた、血をすおうとしたか?


仲間に引き入れるためだったのか?


という秘密とか、


まだあるけど、それらが、わからないまま


5月の創立祭、ロビンが死んだその思いごと、空にいってしまったように・・


とか・・。


ま、いろいろ、思いがあってつけたタイトルで、


ま、こだわってるわけさ。


このほかにも、


パンパンとチョコレートとか


壬生浪・ふたり・にわか狂言・恋語りも


ちょくちょく、誤解されて


壬生浪・ふたり・・のほうは、


沖田総司はホモだったという話題があったらしく、


タイトルに恋語りとかふたりとかはいってるもんで、


文芸社さんも、タイトルは別のものを考えたほうが良い。


と、出版しねえよといってるのに


忠告してくるくらいだから、そういう風に誤解されるのをみこしてたのかもしれないし


パンパンとチョコレートもやはり、忠告してくれた人がいた。


残念なことに、ほかにしっくりくるタイトルもおもいつかずつかってる。


あげく、白蛇抄も既存の映画、水上勉の原作とかぶってしまうせいもあり


実際にそういう描写もあるせいもあって


アダルト・サイトにいいほど、そのあたりだけ抜粋されて、リンクされてた。


内容をまともに読まず、ぶぶんだけ、読み漁る被害も多くあり、


完璧にアダルトかいても、生き様小説みたいになってしまう憂生にすれば


真面目に書いているものまで、侵害されるのだから、


そりゃあ、タイトルくらいの、誤解なぞ、たいしたことない。


読めば、意味合いわかるし、


タイトルだけでよみにきたものは、帰るだろうし・・


結局、こだわってタイトルつけてるから


誤解されても、こだわらないという、変なところはできた。


逆にいえば、読み取ってくれる人はきちんとよみとってくれていたから


きにならずにすんでいたところもあると思う。


タイトルもどちらかというと、


最後まで、よまないと、判らない。というところがあり


たとえば、


ありふれた題名の空に架かる橋なども


ーああ、それで、このタイトルだったのかーというところがあり


それも、また、読んでくれた人だけが、しっかり物語の中にはいりこんでくれたこその


ーああ、それでかーなので、


読み終えたあとの、思わぬプレゼントとになるのだろう。


それらを、ここで、ネタばらしをするほどつまらないことはないので


誤解する人には誤解してもらい


ちょろりとよんで、つまらんとかえってもらったほうがいいわけである。

どうなんだろう?

まあ、憂生の作品の中でもちょいと扱った事があるんだけど、

まあ、こういう経験を実際にした事があるやつじゃないと、そのときの気持ちってのは

わからないだろうな。

まあ、なんだよ。

憂生が相談されてもそりゃあ、どうしようも無い、ブロークンハート な話なんだけどね。

「あのね・・・。あんときに・・・。

前の彼氏のこと、おもいだしちゃって、つい、

前の彼氏の名前をよんじゃったの」

で、今の彼氏?この娘と、別れるっていいはじめたらしい。

今の彼氏も、前の彼氏も憂生はしってる。

まあ、はたから、きいてりゃあ、ある意味、今の彼氏との「こと」に、彼女を没頭させたせいだから、

ま、それなりにたいしたもんじゃん?

だいたい、女ってのは、そこらへん、上手にきりわけるもんなんだよな。〔ま、その事はまた、こんどな・・・)

それが、わけわかんなくさせてるんだから・・。って、まあ、はたからきいたものはおき楽におもうわけさ。

でも、結局。彼氏にも彼女にもどうもいってやれない問題だよな。

結局。二人はわかれちまったんだけど・・・。

いろんなパターンカップル しってるから、結局、おまえら、本物じゃなかったというだけのことなんだけど。

しかし、じっさい、どうなんだろうね?

こんな経験ある人があったら、そこら辺の思いって物をきいてみたくはあるけど、こんなこと、はなしたくないか?

だよな・・・。

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移行の話

書き物がさっぱり、スランプなので、あきもせず、記事移行をしています。

今回は分散させたものを、ぎゃくに、白蛇にもどすという・・・。

ここ、3年?

この状況が、続いていて、アメーバーに移行し、FC2に移行し、FC2小説に移行しと、

くりかえしてきました。

移行しては、削除ですが・・。

物語などは、FC2小説ですと、1ページ2000文字という状況で、

物語を2000文字ほどずつ、ちぎっては、あげ、ちぎっては、あげ・・・。

そのスレッド数も3000くらいあったんじゃないでしょか・・。

アメーバーも同様で、携帯からもよめるようにと、2000~5000文字までくらいにして、

ものがたりだけで、2000スレッド?日記もおなじくらいか・・。

ブログ人のように、カテゴリの数がフリーではないので、物語だけでも、100カテゴリまで・・。

それでは、日記がたりないと、別にブログをつくって・・・。

こんなことをして、2ヶ月くらいかかりきりで、記事をあげて、しばらくすると、

各ブログごとに理由があるものの、

嫌になってしまって、全部削除する。

ところが、アメーバーなぞは、月ごとに保管庫があるわけで、それも、1記事ずつ、削除しなきゃいけない。

削除の可否に返事して、削除して、というパターンなので、3000記事あったら、6000回のクリックが必要になる。

な~~~~んで、こんな手間隙かけたものを、削除し、そして、また、別のところで、にたようなことをやってしまうのか?

病気?

痛い人?

あはは・・・。

ブログ人はあまり人がこない?というか、カウンター方式が違うのか?

他ブログで、これだけの調子で、記事をあげると、PVは、5000とか?

に、なる。

つい、この数がうれしくなって、次々記事をあげてしまうのに拍車がかかるのだが・・。

ふと、あげ終わったあと、

過去記事が、読まれることなく終わってしまうというか・・。

次から次から更新するとか、訪問するとか?何らかの対作をこうじないといけなくなる。

この部分で、はっと、醒めてしまうのである。

憂生を読んでやろうというのでなく、

ひまつぶし?的に読まれる、一過性。

検索をかけてまで、過去記事を探してくれる人はとんでもないあほログ探し・・・。

ここ白蛇に全記事おいていたときも、放置していても、一日、100くらいは訪問があった。

ところが、これも、一時期、アダルト小説に果敢に挑戦したものを、おいてあったせい・・のようで・・。

あほらし・・あほらし・・・。

てな、わけで、ここのブログも系統別にわけてみた。

有料版をつかっているので、いくつでもブログをつくれるのをいいことに・・。

なに?有料版?

リッチじゃないか?

そこだけ、きけば、そう思ったかもしれない。

だが、実情は、違う。

憂生がブログ人をはじめたとき、30MBという容量だった。

それでも、物語を全部あげたら、足りなくなる。

あきらめて、他ブログにいっていた。

すると、50MBになり、やがて、100MBになったので、

物語や日記を移行してきた。

画像をいれない状態でなんとか、96MBなんて調子だったのだが、旨物などをやりはじめたもので、容量がたりなくなってきた。

しかたがないので、有料ブログにした。

それから、しばらくたって、無料ブログが1GBになった・・。

「ありかよ?」

ここのブログは、カテゴリ無制限。リンク無制限。スレッド許容量∞。で、文句なしなのだが、

頁がないのと、カレンダー機能(その月のぶんしか手繰れない)がないのが、不便で、

カテゴリ=記事タイトルというパターンでブログをつくった。

旨物など、その記事にダイレクトにリンクになるわけで、

メニューも100ほどあったのを、並べたりしている。

が?

最近、サイト内検索が簡単に設置できるようになったので、一箇所に記事をまとめなおしても、かまわないかと思うようになった。

ためしにつかってみたが、カテゴリータイトルで、検索をかけたら、

全部でてくる。

画像もサムネイルではいるし、ちょっとした、インデックスになる。

そうしよう。

これ、利用しよう。

つ~~~なもんで、記事を移行しなおしている。

かなり、カテゴリがならぶとおもうし、カテゴリ内の記事数も多い。

どういう風にするのがいいのか、迷いつつ、閑をよいことに、1日100記事?ほど、移行してみたりしている・・。

ちなみに、記事数は2500記事ほどあったと思う。

あるていど、同じ内容のものは、1スレッドにまとめたりしようとおもっているが・・。

長いのが嫌いな人には、あるいは、また、うけないか・・・。


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封鎖への過去記事

過去記事を編集しつつ、揚げなおしている。


と、言うのも、引越し作業で、そのまま、移行されたもので、


文字の大きさや、HTLMの形式がくずれていたり、とか・・しているため。


下の記事は


おそらく、アメーバーで、当時、封鎖中だった作品へのこととか・・。


かいたものを、コピーして、ブログ人に治めたものだと思う。





ひさしぶりに、プロフィール頁に完成作品をリンクしてみた。

SO2と永沢作品計34本を封鎖しているので、75本ほどしかない。

物書きとして、考えると、非常に残念なんだけど、

それしかないわけじゃないし~~~~~。

掌篇を一本とかぞえるのには、多少、抵抗はある。

どちらかというと、3~5万文字、(どこからを長編というか、わからないが)の、作品が主流であり、

掌篇は感覚小説というか、短く切り取った空間(心理?雰囲気)勝負みたいなところがあり、

ドラマ性が少ない。

多く、心理追従型のもの書きなので、雰囲気パターンというものに、どこまで、心理をかもし出せるか。

と、いうところでは、

正直、難があるとわかっている。

また、起承転結がないというか。

う~~ん。

スライスチックすぎて、掘り下げが鋭意なものか、斬新な着眼点がないと、

作品としては、どうだろうと思う。

蛙など、5500文字で、これは、掌篇に入ると思うが、

短編として、収納しているのは、

憂生としては、文体や心理的掘り下げや意匠のある着眼点があるとおもえる。

訴えるところが厚いというか。

テーマが重く、ある程度の起承転結ができているものは、

掌篇であっても、短編にいれている。

まあ、なかなか、簡単にコメントをいれられるようなラフな作品がすくなかったせいもあり、

BL時代物ギャグなどもかいたりしているが、

最終的には、自分にないものはでてこないな~~と思う。

いつだったか、読者さまから、

憂生の書く女性は強くて、ずるくない。そこが良い。みたいなね。

もちろん、強くてというのは、力持ちってことじゃない。

逆境に屈しない。ひねくれない。人をしんじていこうとする。

などという精神的な強さをいう。

で、そのコメントに対して答えたのが

「憂生は女性は強いものだと思っている。

強い女性はずるくたちまわる必要がない」

つまり、憂生の中にある女性像というのは、

「強い」なわけだな。

だから、

「無いものはでてこないわけで」

奇妙にずるい女性とかはでてこない。

それを、あえて書くと、こんな都合のいい設定あるかよとおもってしまう。

なんの心理的・心情的背景なしにずるくたちまわれるというのは、

説得力がない。

でてくる時もあるだろうけど、

どうも、いかにも、「ありえない」感がついてまわって、

ありえるずるさを書くと、

逆に、それにきがついていく精神改革?みたいな話にかわってしまう(おい?)

その段でいくと、

ずるくたちまわれるということは、

どこかで、卑屈さやみじめさという弱さをもち、

その弱さにやられているという意味合いで、

気の毒な女性として、みてしまい、

あ~~。

やっぱし、そこにきがついていく、強さへの第1歩を踏み出させてしまう物語になりやすいな。

それで、

どうしても、女性が主人公になる物語りのほうが多くなる。

男というのは、どうしても刹那的で、

その刹那感情で弱さを生じさせ、どうにも、ならぬ泥沼におちいりやすい。

こういうことが頭にあるせいか、

死と隣り合わせというか、

生きるに必死という状況でないと、

男・あるいは、少年は強さをみせない。

まあ、たとえば、壬生浪の沖田とか。

パンパンとチョコレートの主人公とか。

こういう意味合いでは、永沢君は逆に弱さの象徴のようなところがあるし、

性でまぎらわすという憐れな人生になっているわけで、

そこに対しての救いをかきはじめていたわけだけど、

いかんせん、あほログ検索がおおすぎた。

SO2については、

陥りやすい心理的盲点みたいなところからの脱却というのが、主眼なわけだけど、

性表現も多いので、そちらに振られる人間がおおすぎて、

これまた、最初からろくでもない目的で検索してくるので、

ボーマン・ボーマン5・6のみの掲載にとどめているが、

全編20作品になっているものである。

あと、永沢作品の小夜と小枝をまちがえて読み漁ってくださる人がいるようであるが、

小夜の根本的なテーマ。

「気がついたときに生き様を変えていく」と、いう流れは同じである。

小枝でいえば、「何が一番大事か。護るべきを知る」と、いってもよいか。

心をとざしていた人たちのバイブルにもなったブロー・ザ・ウィンドウとか、

憂生にとっては、一つ一つ、封鎖した作品とても、

この生き様じゃいけないときがついていってくれた読者さまがいたり

からりとわらいとばしてしまうということの大切さ

みたいなのも意識させられたり。

ひとつひとつ、物語りのうしろに読者様の精神部分とのリアルな関わりがあり、

これに、あほログ検索がはいってくるのは、いたく痛手で、

特に亡くなった在る人。

病床で、憂生の作品をよみあげてもらって、

「良かった。かいている」と喜んでくれた人。

自分の人生に重なって、泣けて泣けて仕方がなかった。

と、主人公の生き様に共感しつつ、自分をも励ましながら亡くなった人。

こういう憂生の背景もあるわけで、

単純に封鎖しているわけではないということだけは、ご理解いただきたい。

ドールに寄せて・・・

ドールを揚げました。

この物語は、ある馬鹿なアダルト小説執筆者にむけて、

かいたところがあります。

 

ドールというタイトルですが、

そのタイトル通りでなく、

本物の人間だったとします。

と、いうより、はっきり本物の人間としてしまったら

このうえもない残虐な話にも、なります。

憂生が狙ったことは、

本当は人間だと考えたら、見えてくると思いますが、

自分が人間ではなく、ドールなのだと思い込むことで

残虐さに慣れてしまわなければならなくなる

人間の精神の構造というか、たわみです。

 

自分が人間なのか、ドールなのかもわからなくなることで

恐怖をかんじなくしてしまうしかなくなる、乖離病ともいえるたわみをつくっていくしかない。

 

そして、そこまで、彼女たちの精神をおいつめた男は

自分の職業を利用して、彼女たちをごみの山に捨て

証拠隠滅をはかる。

狂ってるのは、その男のほうなのです。

だが、表面的には、普通の人間にみえるわけです。

 

ちょうど、そんなふうに、

アダルト小説を書いていた作者が

調教という題材を扱い

徐々に女性の精神をたわめて

簡単にいえば

その女性もまたドールになってしまうわけです。

そういう精神をたわめさせることを

官能的で美的であるとすりかえて

洗脳していくわけです。

 

そして、少し話をしました。

そんなことをかいている年齢とは思えず

ー私たち夫婦は、あの娘を亡くしたー???ということをいうわけです。

正直をいいますと、

あの娘が自分の子供のことをいうのなら

人の精神をたわめてしまうことを平気で書くだろうか?

それを美徳だの官能美だとか???

あくまでも、憂生がうけた感覚です。

まさに、どこかの娘さんに実際に調教まがいに事を行い

それが、原因かどうかはしらないけど

それで、亡くなったのではないか?

でも、自分たちにとっては、

自分たちの調教によって、

それらしい反応や態度をしめしている娘が

精神的に、先にかいたようなたわみ・狂いの中にいるとは思えず

あの娘を亡くしたと悲しめるのではないか?

あくまでも、憂生が勝手に思ったことで

事実は判らないことです。

 

人間、たとえばドールのように、自分はドールなのだと、考える、

認識していくことで、恐怖に耐えるしかない。

いや恐怖さえかんじなくなり、

相手の男に尽くすような好意をもつことで

のりきっていくしかないような、そんなふうな、たわみをもたなきゃ

平気でいられなくなる。

と、いうことを考えたとき

人の精神をたわめることを

平気で調教だ、官能小説だと書く人間自体のほうが

狂ってるとしか思えなかったのです。

 

若いおにいちゃん?なら

幼いというべきか、

うれしそうに官能小説をかいていても

なにかの代償行為になってるのでしょうし

それで、暴発をふせげるのならそれもよしでしょう。

ですが、いい年こいて、

自分のいいわけ小説と、

正当化の世界にどっぷりつかりこんで

人の精神をたわめてると気がつかない。

 

そんなふうに、感じた憂生の感覚をドールで表現したわけです。

 

だけど、この物語においては、本当に精神がたわんでしまったら

私は人間だと思えなくなり

まさに、ドールでしかなくなるわけです。

人間だとおもっているのなら、まだしも、(残酷な物語ですが)正常なわけです。

そして、人間だとわかっていれば、もっと、残酷さにもがきながら

埋められるわけです。

ドールでしかないと思い込むことで

その残酷さを緩和するしかなかった。

ドールというのは、彼女が選んだ、選ぶしかなかった

たわみ、そのものということです。

宣伝するつもりだったのだが・・

子供のころに、どこかで、どこかのおばあさんが歌っていた唄。

いざとなったら女子でもなぎなたもって・・という

唄で、

神功皇后さんのように・・みたいなね。

憂生の書いている物語は、多く、女性が主人公になるのですが

登場人物の多くが

強くて、潔く、懐が深い。

もしくは、間違った生き方に気がついた時点で

すぐにきりかわっていく強さもあります。

とことん人を抱く。

この思いを男性では表現しにくいのです。

男はどうしても、厳しい。

獅子はわが子を奮迅の谷におとす・・???

この獅子も男親のイメージです。

懐の銭でも、大事な場面で男をたちなおらせていくのが女将だし・・。

本文中に書いていませんが

いつか見た夢の中の沙織も矢島が本物になって

むかえにきてくれるのを信じながら待つ。

どちらをえらぶにしろ、選んだ矢島の生き方をうけいれていく。

と、いう覚悟ももっている。

昨今、女性脳が重視されていますが、

これも、ある意味、不安なリトマス紙ではあります。

本来は厳しいもの。

だからこそ、巣のなかで、しっかり育てられていく。

マウスの実験のことでもかきましたが、

母親と離したマウスは過ストレスにたえられないのです。

さいてい、独り立ちするまで、

しっかり、傍にいる。(思いの意味合いで)

母親の存在・エネルギーというのはそれほど

尊いのです。

ん?

なんで、話がずれちまうんだよ。

今回はすなおに、自分の書いたものの宣伝をいっぱい、しようとおもったのに・・

ま。いいっか~~~~~。

あんぽんた~~~~んの話

ジャンルは幅広く・・と、えらそうに、いってますがwww

実際のところ、SFとか、ミステリー、だめですね。

SFのつもりで、書き始めた、箱船は、

どちらかというと、

昨今、流行っていたスピリチュアルの中の

ーだれかが、助けてくれるー

みたいな、

宇宙人が助けてくれるを広義として、

高次元の存在が助けてくれるとか?

その理論を推し進めると

たとえば、こういうことじゃないか?という

話にかわってしまい・・・。

ミステリーや推理小説など

かける人は、ものすごく頭が良いとおもいますから・・・

つまり、憂生(うい)じゃ、かけるわけがない。



と、いうか、

構想として、どうやったら、推理やミステリーになるか

構築できない。

と、いうのも、憂生はいきあたりばったりというか、

主人公たちの性格ならこう動くだろうなあということを

おいかけてるだけなので、

構築するということができない。



それを、構想していける人ってのは、

いったん、ストーリーをくみたてて、

逆から、かいていき、

要所、要所にネタをしこんだり

ぎゃくに省いたり・・?

どうやって、かくのか、それすら、わからない・・・。



かける人って、どういう頭をしてるんだろう?

って、思っても

わかるわけなく、

これは、「頭が良い」のであり、

もう、憂生の次元とは違う空の上のようなところに居る人がかくんだと悟りまして

書くことに挑戦してみるなぞの無謀は徒労におわるだけだと

重に承知しているわけです。



それでも、

ひょっとすると、

ミステリーとか、推理小説っぽくできてるかなあとおもうものが

一個だけあります。

刑事コロンボみたいに、はじめに事件があって、

事件にいたった理由をときあかしていくというのに、ちかい、スタイルなので、

なんとか、推理とかミステリーの範疇にはいるかもしれないというもので、

それも、これも、コロンボさんのおかげでしかないwww



もちろん、ミステリーや推理を書こうという構想でなく、

偶然、範疇にはいったかなといういうもので、しかなく、

人の心の綾というか・・。

そっちが主題なものです。



過去、ミステリーとか、推理は書かないんですか?

と、たずねられたことがあり、

見方によっては、白砂に落つ と、言う作品がミステリー推理にはいるかもしれないと

苦しく、ごまかしましたが

正直、それは、憂生の頭では、無理です。



あ~~、あんぽんたんなんだなと思われる、もうひとつの要因は

ひらがなが多いことです。

実は憂生は指の怪我もあって、

右手の中指一本で文章をかいてます。(キーボードを打ってます)

で、書き急ぐと変換がまにあわなくなって

ちょいちょい、ひらがなのまま、書き進めてしまうのです。



おまけを言えば、語彙も少ないし・・・・



自爆しておきます。







物語の中から・・

「悪童丸」においては、

政勝が

因縁通り越すとはいかなることだと

尋ねている。

実は、「因縁通り越す」と、書きながら

櫻井さながら、憂生もうまく説明できずにいた。

判っているのだが

的確に言いあらわせる言葉がない。

物語中においても、まだ、しっくりきていなかった。

それは、通り越すという事でなく

因縁を通るという

自主的な行動が具体的にどういうことなのか?

を、物語のなかで書いていなかったせいだろう。

「悪童丸」第2話の時点では

かくことができなかった。

物語の中でここをはっきりさせなきゃいけないというのが

のこっていくことになり、

これが、オムニバスという形式をとらせた。

「蟷螂」の話は一番最初の設定だった。

だが、よくありがちな話ですでににたような話しが

別の人の手で書かれているとおもう。

この話から3年くらいしてからだったか。

突如ひらめいた。

それで、「悪童丸」から書き始め、14章めをかいてから

「蟷螂」をかいた。

この「蟷螂」の情念をして、「悪童丸」の説明につかう。

と、ともに、政勝とかのとの間におきた事件も解決する。

「白峰大神」第3話のなかでおきた事件。澄明が鼎をすくったおりに

澄明がかわりに業をひきうける。

この業を綺麗にする話をかかねばならない。

これが「宿業」第7話になっていき・・・と。

ここを解決しなければいけないという箇所があり、

最初にかいた

それは、通り越すという事でなく

因縁を通るという

自主的な行動が具体的にどういうことなのか?

を、物語のなかで書いていなかったせいだろう。


ここを書くことになったのが

第16話


ねたばれになってしまうが、これがたったひとつのネタでないので

かまわないとして

以下にあげる。

「さきゆき、共に暮らせる因縁に変転させるには、通るしかないのです。

そして、とおりこすしかないのです。

通り越すと言う事は因縁をしいたそもそもの思いを

自分が通りつくして己の中ですんだことにするしかないのです」

「すんだこと?」

「あたらしい生き様をもとめるには、

この因縁をすんだ事にするしかありません。

そのためには、とおりこすしかないのです」

「・・・・」

「とおりこすとは、同じ因縁の巻き返しから、

因縁の発祥である思いを全て、受け止め攫えてしまうことです」



まあ書いた本人なので、納得してしまう部分でしかないと思うし

ここだけ読んでもピンとくることじゃないのだけど

いやあ、なんか、非常に納得してしまって。

現実親と同じ失敗をくりかえしてしまうということがあったりするわけで

ここらへんだけみれば、

通っただけなのか

通り越したかわからないわけです。

同じ失敗をしながら良い結果になっていけば

因縁通り越したという事になるのかもしれません。

結局

とおりこすとは、同じ因縁の巻き返しから、 

因縁の発祥である思いを全て、受け止め攫えてしまうことです


自分も同じ失敗をしたという事を悔やむのとは少しちがって

たとえば、親父。お袋、こんな思いだったんだなあ。

と、うけとめきってしまう。


たとえば酒乱の親がいて、

いやでいやでしかたがなかったのに

自分もある年齢になったら酒乱になっていた。(因縁通りということ)


ここで、嫌だったものになってしまった自分がみじめだとか

かんがえるのでなく

酔っ払って気分いい。ああ、親父こんな気持ちだったんだなと自らが通ってわかる。

ついつい、おこりっぽくなる。ああ・・親父・・(以下同文)

やめようとおもうのについ手が出る・・・ああ、親父・・(以下同文)

と、受け止めていく。判っていく。

これが、因縁通り越していく。


と、いうこと。(極端すぎて、ぴんとこないかもしれんが)


宗教や仏教やってるわけじゃないので、

それに照らし合わせた考え方じゃないけど

因縁の繰り返しにみえて、

因縁をさらにくりかえさせるか、くりかえさせないかは

通るか、通り越すかの違いになってくるのではないかと思う。


源九朗判官義経

静御前の「しずやしず・・・」と、いうのをメモ書き程度に書きのこしていたのを

掌編に収納している。


じつは、憂生は明治維新のころが好きで

司馬遼太郎の本を読み漁ったのであるが・・・。


平安とか江戸中期とか、このころのことには

ほとんど触手がうごかず

静御前がなんのことやら/おい!

さっぱり、わからないまま、

「しずやしずしずのおだまき・・」をぐぐって、

そこにかかれていた史実を参考に

視点をかえたものをメモ程度に書いた。


どういうわけか、このメモ書きに来訪者がおおくくる。


なにかしら、人気のある場面なのであろう。


憂生が源義経を子供のころに読んだ以後、

源義経にかかわることはいっさいなかったのであるが

落語・・

ん~~と

「青菜」かな。


隠し言葉というかな。

ちょっとうろおぼえなんで、間違ってるところもあるかもしれないが、大筋。


大家のところで刺身をたべさせてもらった植木屋(だったかな)が

食べたこともない食べ物だから、横においてあるわさびも口にほうりこんでしまう。

からくてもがいてる植木屋に

青菜をもってきてあげなさいと奥(さん)にいいつけるものの

奥さんが台所にはいっていくと、青菜は昨夜のうちにたべていて、ひとつもない。


主人に客のまえで「ありません」とつげるのは恥をかかせるようなものなので

隠し言葉で伝える。

そこで、源義経がでてくる。


「あの、だんなさま。さきほどのーなむくろうほうがんー」

菜を食らってしまってない。と告げる。

意味がわかった主人は

「義経(よし)  義経(よし)(わかった)」

と、答えその会話をきいていた植木屋はどういうことかたずねる。


大家(たいけ)はちがうものだと感心するだけだけでおわらず、

植木屋も自宅で大家ごとをまねしようと

友人をまねく。

女房にはちゃんとうちあわせもしてある。

「あ~~~植木屋さん、青菜はすきかね?」

「ばかやろう。植木屋はお前だろう。おりゃあ、大工だ」

「青菜はすきかね」

「でえっきれえだ」

と、なかなかとんとんと真似事がすすまない。

やっと、青菜をもってきてやりなさいという段にこぎつけたものの

女房が

「だんなさま、さきほどのなむくろうほうがんよしつね」

と、やったものだから、植木屋は返す言葉をみつけられず、

「弁慶~~~~」


まあ、これも、現代になると

弁慶の泣き所なんていういいかたがあるから、

窮地にたった(泣き所状態)植木屋とかさなって、

さらにわらえてしまう落語なのであるが


ここででてくる「なむくろうほうがんよしつね」


源義経は源九朗判官義経が確か本当の名だとおもう。

なむは南無。

南無阿弥陀仏の南無か、南無妙法連の南無かしったことじゃないが、

(これは、また詳しくはなせたら・・ということで、今回はしりゃない)

南無八万大菩薩などでも完頭詞として大活躍している。

まあ、尊敬語といっていいか。


頼みごとのときにとくに多いきがするが/笑


で、九朗というのだから、兄弟もおおかったのだろう/ちゃうか?

捕虜(名前でてこん)扱いで苦労したからという説もきくが/まさか


で、判官。

この意味はどうでもいい/よくないが。


判官とこうかいてもなんじゃそれと思われるだろう。

だが、憂生は次の言葉でフォー!!(ふるすぎるね)とびっくり納得。


判官贔屓

きくでしょ?

はんがんびいき。

日本人ははんがんびいき。と、いってもいい

弱くて立場的に不利なものを応援するというか・・。

相撲でいえば、舞の海とか、千代の富士とか。

体がちいさくてとても大きな体の相撲取りにかてそうにないのに、

勝っちゃう。もう、やんややんやの喝采で応援せずにおけない。


まあ、日本自体(国)ちいさくて不利なとこいっぱいあるのに

よくがんばってるから、いまや他国からときに判官贔屓をうけてるとこはあるとおもうが。


まあ、この程度しかしらないので、

メモ書きから物語にかきおこすことなど到底できない。


じゃ、しらべたらって、いわれるかな?


それがさ、

歴史、明治維新からほじくっていったら

いきなり、神話あたりにたどりついてしまってさ。


途中はワープトンネルさ。


だから、いま、ぬながわひめかいてるっしょ?


元はとれたかな?

先日、文芸社のほうから、電話がはいってきたわけですが、

まあ、なんちゅうか、

相変わらず、儲け主義みたいなのが、先にでてくる。

で、出す気はないですよ。

と、言うとそうですか。と、そそくさと電話をきろうとする。


まったくね・・。


くいつく客だけを相手しようという商魂のなさになさけなくなってしまって、

そのあたりのお話きいてませんか?

と、前回の連絡のことの話しをにおわすと、やっと、のってきたわけで。

まあ、経緯的にいえば、白蛇抄の出版(全部で100万文字くらいはあるので)は可能なのか、

問い合わせたわけで、

この出版の話は、保留という奇妙な形になってしまったわけで。

そして、そこに、他になにかありますか?とたずねられて、

3作品ほど送ることにしたんだけど、

ま~~、憂生が保留という妙な回答の真意がわかっていなかったというか・・。

保留をどうするかという材料としてといあわせられたんだと思い込んでいたわけです。

ところが、その3作品が審査になっていて、そのうちのひとつ、壬生浪ふたり・・・が、審査員、全員一致で出版しましょう。ということになり、

こちらとしては、あれ?ってな気分です。

白蛇抄については、他社でも、評価は高く、オムニバスなので、1冊ずつだしていきましょうとか、

出版の割引期間が過ぎていますがおさえてありますから、とか、お金がないなら、ローンとかご案内できますよ。とか、

まあ、どうにかして、だしてほしいという、熱意をかんじていました。

そこまで、だすべきだと思ってもらえるのかという風にこっちがおもってしまうわけです。

ところが、別件が全国出版?

はい?

どうなってんの?って、気分です。

白蛇抄をだしたいから、といあわせていたところをスルーされて、

正直、よろこべません。

ましてや、本当にだしたいものをだせずに、

4~5日ほどで、かきあげたものが、通るとなっては、出版しても、売れる【増刷)になる自信はなく、

それでは、思いいれのある、白蛇抄に金をだしたほうがいいわけです。


それで、断ったわけです。


すると、今度は特別推奨作品に推したいと企画部長から封書がはいり、おでんわください。

と。むろん、条件はよくなっています。

出版金額を割り引く。広告をふやす。新聞社も増やす。広告も3段抜き。初版発行部数もふやす。


見事においしい条件です。


が、同じ程度の頁数ハードカバーのものを3割引きでという話もあったわけですから、

特別推奨になれば、半額以下でもいってくるか?とおもっていたら、

「お手持ちどれくらいありますか?70万くらいなら・・」

「30万です」

「30まん?あなたね、そんなものね、自費出版だってだせませんよ。こっちは、全国書店棚おき・・うんぬんかんぬん」

あほらしいばかりでなく、ばかものが、部長になってるんだとおもったものである。

で、何年かたって、それ以後にかいたものをおくってみたところ、またも、電話がはいり、

出版できる水準である・・とかだったんだけど、講評がね。

ああ、娯楽嗜好でよむんだね。って、おもったもんで、無理をする気にはなれなかったついでに、

上の話をつげたわけ。


そんな失礼なことをと、ていねいに、謝罪してくださったうえに、金がないといっても、

だしましょう。と、プッシュしてくれるわけです。

やはり、問題はそこなわけです。

しっかり読んで、ねむらせちゃいけない。と、たとえ、リップサービスであっても、

作品の価値を認めてくださる姿勢をくずさない。

で、ぜひ、だしてください・・で、やっぱし放置してましたら、

電話がはいってきましたが、今度は違う人。

で、ださないといえば、すっと、ひく様子。

そこで、断ったには理由があるのですが、そこは、きいてらっしゃいますか?

と、たずねれば、

「いいえ」なわけで、墓穴を掘ってしまったことばになるのですが、

ちゃんと申し伝えはきいてます。みたいなことばがあったわけで、

じゃあ、つたわってないわけですよね。

で、またも上のことを話し、あげく、

いい鴨あつかいされたという気持ちになるんですよ。

と、いえば、部長のことかと思い、謝罪するのですが、

いや、あんたもだよ。

って、いうこっちの気持ちがあるわけでね。

嘘でもいいから、「ぜひ、出版してください」「あの作品、よかったです」

前担当者さんの個人感想はしっかり読んでいて、かつ、此方が一番ほしかった

「かんがえさせられました」の評価があったりしたわけです。

こういう真摯な取り組みがあれば、

出してみようか。という気持ちになるわけです。

そういうのが、薄い。

それでは、こっちの作品にたいして、

高くは評価してないけど、まあ、だしてくれりゃ儲けもの。

って、部長さんとなんらかわりない、

こちらへの侮辱になるわけです。

そこらへんをぶつぶつ、文句をたれまくって、みたのですが、

売れ筋をねらうならそういう作品をさがしてくださいって思うんですね。

よく書くことですが、ブローザウィンドウあたりは、人の心の凹みまで取り去っていってくれた作品で

本当に必要な人が読んでくださった作品なわけです。

でも、凹みひとつも無い人には、ただの娯楽作品として、面白かったとか?でおわるわけです。

本の価値というものは、読む人がきめることですから、こちらがどうこういうことではないのですが、

ただ、憂生自体が自分の中で照合させる部分もあって、かいてきた作品なわけですから、

ある意味「本物」なわけです。

その本物部分が通じた、「必要」になっていくことは憂生にとって価値高いわけです。

ですから、逆を言えば、

「考えさせられました」と、いう評価も、真髄がつうじているわけです。

問題はここなわけで、これが、あるかどうかということが、一番重要ポイントではあるのですが

結局、今の読書状況というのは、

「ひまつぶし」

「精神的高揚感(泣ける話であっても・・)」

「娯楽性」

を重視するわけですから、

はっきりいって、憂生の作品のテーマみたいなのとは、異質なわけです。


それを読み取れる人のほうが、必要性をかんじるのだとおもいますが、

はっきりいって、売れ筋ではなく、

かつ、売れ筋方向で出版されたくはないわけです。


必要な本は、絶妙なタイミングでそれを必要とする人の前にあらわれる。

と、いうのが、ショーペンハウェルの言葉ですが、

憂生も自分の作品に対して、そう信じています。


そして、以前にもかきましたが、

いろいろと、問題意識にもスポットをあてていますから、

そういう事が必要でないことのほうが、ある意味しあわせなわけです。

単純なたとえですが

「生きていく」というテーマが必要な人って、ある意味、「生きがたい」精神になってるわけです。

ですから、それが、必要でないことのほうがしあわせなわけで、

当然、しあわせであってほしいわけで、

すなわち、憂生の作品がよまれないほうが、良い状況であるということになり、

ひいては、出版しても同じなわけです。

だったら、この考え方から覆すような説得をしてくれなきゃいけないわけですが・・・。

そこまでのはなしにはいかず、

もうちょっと、熱意をみせてください。

作家殺すに刃物はいらない。

豚もおだてりゃ木にのぼる。

その気にさせるテクニック?も大事じゃないんですかね?

って、なんか、向うの目的とは随分外れた話になって、

50分ちかく携帯ではなしてましたが、

電話代の元ぐらいはとってくれたら、

うれしいのですが・・・

続きを読む

思うままに・・2

此処で思う・・って、タイトルをつけながら、其処で思う・・他処で思うことを2,3あげたのですが、
ブログをあちこちもってきた経緯があり、ブログ環境というのが、あるなあとおもいますね。

まあ、憂生のほうにそれにひっかかるピースがあるということになるのですが、アメーバーにいくと、どうも、心霊的なことごと、スピリチュアルな物事に遭遇します。

詳しくは幽玄師にかいてるので省きますが、憂生が考えとして、持ち始めた事が、
「思いを救わなきゃ、本当には救われない」って、ことで、
この思いを救うっていうのも、当然、自分の思い方なわけです。

当初はもっと、単純な発想だったと思います。

よく、書いていたのが
少女パレアナのことで、
「見方をかえれば、喜べる」というものでした。

これを現実で自分に当てはめていく時、些細な事は見方をかえるだけで、「感情」もきりかえる、あるいは、セーブ・統制できてきたわけですが、こむつかしいことになると、簡単にはいきません。

その頃、すでに、白蛇抄12編くらいは、かきあげていたころで、この中に「思いを救わなきゃ本当には救われない」という言葉がかきこまれていました。

天啓のごとく、憂生にその言葉がつきささり、
「思いを救う」ということが、どういう事か、考えるようになってきました。

こてさきの観をかえるだけでは、感情まで、変えられない事件に遭遇し、もがきましたね。

そして、この3年近く、どう考えれば、納得できるか。

と、いうことをやってきていました。

その間にアメーバーなどで、不思議な経験をしたわけです。

一時期、魂?オーラ?の色がわかる時期がありまして、相手の方の感情が乱れていると、赤と青のマーブル模様になっていたり、どこかで、欝的思いをもっていると、黒い模様がうきでたり、グローバルな世界観をもってる人は銀色だったり、スピリチュアラーの多くが透明だったり、献身的な例えば介護の仕事をしている人が青い色だったり・・。

思いというものが、実際に人を作るわけで、憂生の憑依?体質もあったせいか、良くない思い、(混迷していたり、なにかしら憑き物があったり)をしていると、こちらに、幻惑感があったり・・・。

それらのこともすべて、その人の思いによるもので、憂生に幻惑感を与えているうちなどはたかがしれていて、本人を差配してしまう場合もあるわけです。

これを考えたとき、自身、思いをよくしていかなきゃ実にやばいぞ。と、おもうようになり、いっそう、どうすれば、思いを救うことができるか。

と、考えるようになってきたわけです。

なにもかもが、「思いが元になっている」と、判るまで、自分のどの思いがいけなかったのかと、過去にさかのぼってまで、自分をつきつめていくわけですから、正直、そこにきがついていったとき、自分がくずれていく挫折も感じました。

極端なたとえですが、病院関係の方などはよくしってらっしゃると思いますが、ひやりはっと報告というのがあります。

病人が勝手にベットからずりおちて、怪我をしてしまったのも、「私」の責任なわけです。

この考え方によくにています。

どうして、「私の責任」なのかを、ずっと、かんがえていくわけです。

極端すぎる言い方ですが、関わるものすべて、自分に元があるという考え方が土台にあり、ここの部分で「元」がなにであるかを自覚する作業なわけです。

例えば、教師が生徒にたてつかれた。
一般的には親のしつけが悪い・・と、なるわけですが、
憂生の考え方は、
「自分が例えば親にたてついてきた、その姿がかえってきてるんじゃないか?」
と、いうことになります。

ところが、本人は親にたてついたことなどないので、違うというわけです。

そこで、「思い」の話になってきます。

思いの世界ではどうだったろうか?

と。

おそらく、この「思い」の世界でどうだったかの自覚というのが、すくないだろうし、

一般論でいいぬけて、「私のせいじゃない」とかんがえるわけですが、この部分を、本当に小さな頃からの思いまで、ふりかえって、「たてついた思いしたことないか」をかんがえるし、この思いはたてついた思いといえるんじゃないか?と、自分の思いを詮議するわけです。

それをやっていくと、生徒の態度に腹をたてるどころでなく、
自分の姿だったときがつかされることにより、
「腹立つ」という思いを救うことができるわけです。

そういう風に、ぜったい、見方をかえる事が出来るはずだ、

と、いう考えで、物事をやってきて、これでもかという状況におちいって、それでも、やっと、「この思いのせいか」というところまで、たどりつきはじめました。

憂生にとって、物を書くということは、「自分を知っていくための一歩」なわけです。

憂生日記のこと・・・

憂生日記なるものを、メインブログ他からひっぱってきたのだが、
なんともいえぬ、嫌な気分でいる。

メインブログのほうに来てくださって読んでくださるのであれば、
それは、気持ち・・「憂生」をターゲットにして下さっていると思う。

此処に完成作品をおかなくなったのも、同じ理由かもしれない。

十把一絡げで、投売り・・いや、売り物でないので、
さらしものにしている気分をあじわう。

と、いってよいか・・。

憂生がフアンであったゆうなりなさんの作品に
これとにたような感覚を扱った作品があった。

個人的嗜好をみせて、見て見てとさらしものにして、快感を得る。
と、いうパターンといっていいか。

個人嗜好をみせることで、注目?をあびるというパターンの作品の内容でしかないといってしまえばそれまでであるが、少なくとも、憂生は「考えさせられる」というパターンの作品をかいていることがおうおうなので、快感なるものを得るとしたら、注目を浴びたことではおきない。
ともに、考えたり、啓発されたというものでないと無理だろう。

この考えをひっくり返すと、憂生の此処での期待値はかなり低いのだと思う。

自分と照らし合わせる・詮議する。ということなし、娯楽的に読むだろう。
と、思っている。

つまり、娯楽的に読み(この考え方は理解されにくいと思う)たがる人がほとんどであろうというところに、日記や作品を置くという行為は自らを「さらしもの」にしたてあげたとイコールなのではないか?と。

この思い方が在るのだと思う。

そのせいかどうなのかは、自分でも判断できないが、おそらく、近いうちにまたも削除するだろうと・・思う。

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ながばなし・・・

かなりの物語をもっている憂生です。
ジャンルはまあ、真摯なものから、ギャグから、アダルトから・・。

と、実に幅広いもの書きですが、
どうも、底の部分に
「生きることを問うまなざし」ってのがありまして/笑・・うかな

文芸社の書評を流用しているのも、実は、「生きることを問う」というような一言がはいっているからという
まあ、憂生の本質をきちんとみぬいてくれてるというのがあってのことです。

で、まあ、多く、アダルトあたりで、かなりの誤解をうけて(と、いうか、そういうのだけを目的にする人は他のものを読まないせいでしょうけど)

憂生の本質部分にふれようとしない。

まあ、そんなんで、34作品非公開措置をとりました。



本当、いろいろ、手を変え、しなをかえ、日記にしろ、物語にしろ

まじめなことを書いてきたわけですが、



どこかでも、ぼやいたのですが、



解離性傷害・・・から、恋人を救い出していく男性の話をかいているわけですが、

この物語のモチーフに性的虐待など・・があるため、

そういうロゴ検索で読みあさりにくるばかたれがいまして・・・。



これがたんなる、想像であるのなら、憂生ももがきもしないのでしょうが、

一人の人間の命・人生にかかわる命題「赦す」ということをしきこんでいるため、

かくも無残にエロ興味のターゲットにされるのかと、ネットでの公開をあきらめるのと同時に

大きな人間不信になりましたね。




あ、ネット不信というべきか。




そして、へらへら、かろきにあつかわれることに嫌気がさして、

本人、事実のむごさに筆を進めると吐き気がしてくるというプチPDSTにもなっていたときであり、

これを面白半分で検索されるというのには、まいりました。



神経ずたぼろで・・。



憂生自体が「赦せない」という感情があり、これを克服するためにも、

どういう風に考え、捉え、見方をかえていけばよいか・・。

自分の為にも必死で模索していたことであり、けして、ちゃらちゃらの物書き遊びではなかったので、

簡単に言えば

「赦せない行為」と同質の人間の検索(行為)なわけですから、

なんで、侮辱されるために、公開していかなきゃならん?

人のことを玩具にする・・というのは、言い換えれば、(二次的に)憂生も同じことになり、

あげく、人の精神まで無茶苦茶にしてしまう行為をどういう風に「赦す」かを考えようとしているところに

まんま、小規模ながら、同じ事が起きる。




呪という思いがわいてくるわけですよ。




ばかげた検索ロゴをかけてくる奴、

おまえやおまえの身内や恋人が気が狂うほどの暴行をうけてしまえ!!

ってね。

その痛みを身をもってわかるようにならなきゃ、馬鹿ログで検索する自分がいかなるものか、わからんだろう。

ってね。



こりゃあ、良くないよな。



物語の中でも、そういう「呪」の気持ちをもっちゃいけないって、主人公が血を吐くような思いで自分に念じてる。



なのに、書いてる憂生の現実空間が、主人公と反比例していく。

書けるわけがないよなあ。




通ってない・・んだから・・。



嘘ごと、かいてるみたいなものだよなあ。





実際の場面でも、事件に関わったと思われる人間が次から次へと事故を起こしている。



憂生自体が、呪った。



即、目の前で自分の思いがいかなるものだったかをみせつけられる。



これをやっちゃあ、人を殺しかねない。



思いの恐ろしさ・エネルギーをセーブしていくためにも、「赦す」それが、必要だと書き始めた物語で

またも、「呪」をもつ。




まあ、いいかえれば、こういう見えない世界で「呪」のエネルギーをかけられてるかもしれないってことにも

気がついて欲しいってのもある。




一人、二人へのことならば、それも、まだしもかもしれないが、いまや、アクセス解析なども常備されてるから、特定されるし、

気分悪いってのを数あつまりゃ、そのエネルギーも膨大なものになってくる。




ネットを通してだって、充分、エネルギーはつたわる。

受動両方で、憂生もその経験はある。




自殺(しかけ)の予知?で、ネット友人に念をおくったこともあるし、

逆にネットを通じて憂生に憑依したものを払いに来てくれた人も居た。


話がずれまくってしまったけど、

「見えない世界」わからないことだとおもっているかもしれないが、

それら、すべては「思いに元をなす」


どんな思いをもっているか、わからないだろうと、例えば、あへあへした目でブログを訪問してりゃ、

それが、いつか、集積されて、自分に帰ってくる。

そのときに、なんで、こんないやな目にあわされるんだってことになる。


思いをよくしていけば、良い思いが帰ってくる。

まあ、そんなんで、憂生も一方ではこういう嫌な思いを味合わされるなにかをしでかしていたのだろうと思う。


その一端として、「煽る」という表現があった部分で、安易な煽動(扇情)になっていたのが、原因でありえるとも思い、いくら底に真摯な部分をいれこんでいても、無理なのかもしれないなと34編封鎖にいたった。

ある程度の年齢、苦労している人がよむと、

「憂生の性を大事にしろよというメッセージが伝わってくる」というものなんだけど、

読み手を選ぶ事ができないのが、ネットなんだなとつくづく、思う。

ぼやきになっちまった・・

今年もはや、半年(近く)が、過ぎ・・・。
ふと、ふりかえってみると・・・。
おい!!
いっちょも、まともに、かいてないんじゃないか?
つ~~よりも、此処で、いくつか、しあげたものが、今年だったのか?(大丈夫か?時差ぼけの単位が大きすぎるんじゃないかい?)
発作書きをおえて、ぽちりと、チサトの恋・・12をあげてきたが、
相変わらず、停滞している。

失語症気味で、非常にもうしわけないと思いつつ、まずは、これをしあげるかと・・。

しかし、物語を書いていながら、自分の観念があちこちにちりばめてしまうものだとつくづく、思う。

憂生自身がカメラをやめてしまった理由みたいなのを、さぐってるところもある。

明確な意識化という把握は、時に、「刷り込み」という勘違いを起こさせる。

長いことやっていたカメラ(なにせ、8歳?くらいから、ずっと、やっていたわけだし、腕もそこそこあった/ようで・・)を、やめたうしろめたさ?みたいなものを払拭する、言い訳を捜しているのが本当なのかもしれない。

実はこういう「思い違い」をよくしているんじゃないか?
とも思う。

チサト自体に象徴させている、「理由」というもの。

これをもっと、さぐっていくと、
「存在価値」=「存在理由」になっていくだろう。

ひいては、何故、書くかって所にたどり着く。

おそらく、物を書いていく中で、自分を見つめる。
無意識のものを意識化させていく。
と、いう作用がある。

かれこれ、10年、物を書いてきたが、そういう作用を追従している自分であると気がついた時から、「誰かに読まれたい」という目的から、コースアウトしはじめた。

誰の為でもない、自分の為に書いている。

それに対して、うまいのへたのという評価はいらない。
読んでくれた人が自分にとって、どうであったかでしかなく、それも、「自分を見つめた」部分を自分で意識化させればいいことであるし、それを超えて此方にどう意識化したか、伝えたいのなら、伝えてくれれば良い。
今回も空に架かる橋を読んでくださった男性から
「考えさせられました」という一言があった。
どういう風に考えたのかは知らない。

考えただけなら、憂生もいくらでも考える。
考えたことを血肉していくか、どうかでしかない。

物語の人物に共振して、共鳴感情の疑似体験だけで、おわる娯楽で、よむのなら、そんな感想や評価はいらない。

と、いいながら、まさに、今、チサトが同じ事を言っている。

仮定答弁。仮想問題。こんなものをいくら、考えても仕方が無い。

イザという時に出した答えどおり動ける自分かどうか・・。

あるいは、書くことは、この仮想問題に答えをつけようとしているだけの物事かもしれない。

だが、10年やってこれた、裏側には、想定した答えが、リアルにおいて逆に憂生を導いたという実績がある。

だから、意識化する。

自分の脳の中のつかみどころのない液体をきちんと、つかみ出していく。

この液体を横からながめ、人事として、眺めだすような読み方をされてたまるものかとも思う。

だから、此処に挙げなくなったし、
基本、「読んでくれ」と集客もする気はない。

必要な人が「自分をみつめかえして」いけば、良いと思うし、
過去、こういう読者様が多かったせいもあって、なおさら、
自分の姿勢を意識させられている。

「赦す」という命題に向かって、書いている物語の封印がとけないせいもあり、お茶濁しの物語ばかり書いているところで、いっそう、時差ぼけが始まるのだろう。


FC2小説にて・2  総集


短絡症候群?

どうも、長い文章がかけなくなっている。
白蛇抄のなかには、1行が120文字以上あるというものがいくつもあったような。(ツィッター現象か?)
もともとの文体は切れ上がった、だった調が多かった。
歯切れがよく聞こえる(文字を耳で読むタイプ/これは創作談義の中のどこかにかいたようなおぼえがあある)ということで、長い文章もリズム感があったように思っていた(思いたい)

このながったらしい文体で、リズム感と韻律をきざむのと、5,7調というテンポ。
かつ、時代調の文体をかいて、
SO2というラフ文体を同時にかいて、いっちょも、崩れなかった。

で、あるのに、近頃、なんじゃ?
と、思う。

先に、白蛇抄17話の続きをちょぼっとあげてきた。

まさに短絡症候群、真っ只中。

がっくし、きながら、
いや、これは、ピカソがラフスタイルに見えるが如き絵になったのと同じじゃ(と、思い込みたい)

まあ、いいや。

今、無理に長い文章をかくとたどたどしいのがもろにみえてしまうし、
とにかくは作品は完結してこそ。

次々いってしまえなくなってしまってることのほうが
問題のような気がするし・・・。

これは、妙なもので、昔は俗にいう小説の神様がおりてきた。
って、状態で、
一日あったら、5万文字くらいは(手紙、メール、日記、物語含めて)平気でかいていたわけで・・。
いわば、この状態って、「ハイ」というか、ある種、自分じゃないわけで、

今、自分に戻ったら、ああ、こんなもんなんだと。
スランプでもなんでもなく、前が「ハイ」すぎたから、スランプだとおもったわけで(書いている状態で・・。個人的な精神的ダメージがあったときはまじスランプ状態だったと思う)
ああ、これが普通なんだ。

ああ、そうか・・・ふん・・そうか・・

しゃ~~~ねえわな~~~。

と、開き直り始めた頃から、ぽつぽつ書いてる楽しみ感がよみがえってきた。

浮気性?

ま、とにかく続きをかこうと・・。
ちょろりとかいてきました。

昨今、ラフ書きばっかりやってるもので、
会話の中に文章がちらほら。
その文章の中に「思い」があるから、
これも独り言?

つまるところ、ほとんど、情景描写が無い。

あかん。

と、思いつつ、まあ、書き込みたくなるものがでてくるまで・・(いつだろ?)
元々情景描写が苦手なひとなんだけど、
どんどん、ひどくなってきてしまってる。

で、こんなこと言ってる一方で、
「見えちまった」に続くホラー?オカルト?をかきたい思いがあるんだけど・・。

どうも、実体験をそのまま、かいたほうが、本当らしい?
と、いうか、消化してみたい思いもあるわけだな。うん。

この実体験を、逆に物語りに作り直すほうがむつかしいというか、
設定がでてこない。

「見えちまった」では、事実部分を3割?くらいにして、逆に怖くないように

ちょっとコミカルなカップルを投入したわけだけど、
今度はこういうコミカルでは、払拭できないシリアスな部分が多すぎて・・。

かといって、よくある「怖い話」や「恐怖の心霊体験」みたいなー読み物ーにしたてあげたくないし、
これは、あっさりと????
実名で(と、いっても憂生だけど)書いた方がいいのかもしれないとも思っている。
元の話はどこかでも書いたがー彼女の魂が・・・-を物語にしあげてみようか・・。
それとも、別の話?
などとおおおおお。
妙な浮気心を出すから、続き物がちっともしあがらないんだよね・・。

一息いれよっ、と^。^

またも続き物をほったらかして、ほかの作品をかきはじめていますが・・。

え~~~。
憂生という奴は清濁併せ呑むといいますか、
くそみそ一緒というべきか、
そこのところをめざしています。

これは、SO2のレオンの科白でもありますが、
「汚いクロードも優しいクロードも全部クロードじゃないか。
優しいクロードはいるけど、汚いクロードはいらない。
そうじゃない。
僕は全部うけとめたい」
ってのに集約されているのですが、
対象としての問題も実にむつかしい「うけとめる」であります。
が、ここを対象としてでなく、自分がそうであっても「うけとめよう」みたいな?

そんなんで、作品もさまざまなジャンルでかいています。
オカルト(じゃ無いんですが・・)的自分。
ギャグ的自分
アダルト《官能じゃないな》的自分。
愚痴ばかりいう自分。
文句ばかりいう自分。

なんもかも、認めていこう。

と、いうことです。

で、今回立て続けにある意味「怖い部分」をさらけだしておりやすが、
ご心配なく。
人畜無害な人間です。

で、豹変するが如くのギャグもあいまにのせます。
つくり話じゃない部分での怖さというのは、あると思うので、
そ~~んなことなんでもないよという意味合いもこめて、
合間に載せています。
けっして、精神分裂しているわけでないのでご心配なく(え?心配してない?)

と、いうことで、新之助シリーズ第3話をあげてきます。
この作品も短いです。

やれやれ・・

彼女の魂が・・を、かきおえてしまう。
あと1ページの予定なんだけど・・。

懐の銭ももう3~5ページでおわるとおもっているんだけど、
どうも、浮気性で・・。

おまけにワンナイトラブのごとき、浮気だな。

失語症チックなところがいっぱいあって、語彙が乏しいんだけど、
書ける時に書いておこうと思った。

言葉を選んだり調べていたら、
書く勢いがなくなってしまいそうなので、
このさい、単純ないいまわしでいいやと、かいてしまった。

もうひとつは、こっちがきになってしまってたので、
懐の銭をかいても、気がそぞろになるので、
さっと、やっつけてしまおうというのもあったかな。

練りこんで書く気のものは、ちっとも進まない。

で、その合間に旧作品をあげていこうとも想っている。

長編で、5番目に長い作品が8万文字だったと想うが、
これをぽつぽつ、挙げてみようかと想っている。

クランプの聖伝・・だっけ、あれに似てるといわれ腐ったおぼえがある。
多分、最初だけだろう。

この作品も6万文字ほどかいて、長いこと頓挫していた。
ラストをどうもっていこうか、なやんだ。
いや、ラストは決まっていた。ラストまで持っていく道筋になやんだ。
長いことでてこなかったのだが、
占に傾倒して、手相などをやったせいもあって、
運命など宿命などというものをかんがえることになり、
結果的に、この考えが、物語にあてはまり、
あとの道筋がでてきた。

てづまりの原因は
ま、自分の経験不足(考え不足?視野不足?)だったようである。

頑迷

ブログのほうには、相変わらず、永沢君をさがしにくるひとがいて、
まあ、複雑な気分です。

此処を見ている限りということでなく、
過去、gooブログに永沢作品を挙げた時にも
ものすごいアクセスがあって、
どんなに頑張っても、ランキング(当時は1000位以内しか、表示されなかった)に、はいれなかったのに、永沢君をあげたら、あっさりランキングにはいる。

このあと、アダルトサイトにリンクされる、パーマリンクのおっかけにあう、
あ~ぱ~おねいちゃんと、一仕事しませんかという執筆の仕事で無いおはなしを持ってきてくださる代表鈴木さん(大笑)がおっかけてくれるし、ほかの作品までその類の目でみはじめるし・・。

まったくいやになって、そこらじゅうの永沢作品を削除すると、検索ロボットがとんでもないところから、記事をひろってきて、キャッシュをとる。
ヤフーが一ページずらして、《記事が無いページでも》キャッシュをとる。

しらみつぶしにさがしまくって、キャッシュを削除するために、
ブログを閉鎖した。

で、ここにくると、はっきしいって、読まれてるパターンって、官能小説が多いわけで・・・。

ついつい、永沢君あげてみようか・・という誘惑に駆られる。

まあ、そこを今のところ(笑)ねじふせて、

大人が読める・・・う~~ん、こういうと御幣があるかな?

そこそこ、読めるもの・・・う~ん。

読み応えがあるもの・・時間的にも、こ1時間くらいどっぷり浸れる読み物みたいなのをかいてみたいと思うわけだ。

短編や掌篇というのは、短い分、インパクトとか、奇抜とか着眼点とか、
一種、奇をてらう斬新さがないと、心にのこりにくい。
いや、人のものがそうだというんじゃない。
人のものは充分心に残る作品にいくつか遭遇している(感謝してる)
自分が書くとき、難しいと思う。

一過性のものになりやすく、次から次から
さっと、よめる作品を求めていくというパターンの中で
誰の書いた作品だったかも忘れるほどの時間の費やし方でしか読まれない。
(短いんだから、当たり前だろうけど)

ところが、長い作品になってくると、
奇抜とか斬新とかいうのが、薄まる。
切り取った感覚や視覚でないから、これまた当たり前なんだけど、
これに、引き込ませ、読み続けさす・・・。
と、いうことになると、
例えば1時間かけて読まなきゃ成らないものが、
努力して?読まなきゃ読めないじゃ、しんどいだろう。

内容にもよるし、表現の仕方にもよる。

1時間がっちし、浸りこませることができる作品。
かつ、無茶なインパクトでひきずりまわすのでなく、じっくり読ませてしまうことが出来る作品。

こんなものをかけないものかと、思うと、
なおさら、安易にかぶりつく(失礼!)永沢作品を挙げることは、
逆に、こう言うものを書く人なんだから・・ほかの作品も・・と期待?させてしまい(せんかああああ?)あげく、なんだつまらんとなってくるのなら、
はじめから、つまらんと思われる作品だけでいくほうがいいわけで・・。

まあ、そんなわけだから、どこをさがしてくれても、《キャッシュは残ってるかもしれないが・・》今のところ公開された永沢作品はない。
ブログで公開しようかと迷うたびに
それだけを読みたがるログに辟易して、公開をやめる。
ほかの作品も読んでくれて、
憂生の書くアダルトもよんでみたいと言われるなら、納得できるのだが・・。
アダルトじゃないと読まないというパターンに対しては、
ほかにいくらでもあるでしょ。そっちにいきなされ。と、思ってしまう頑固者であることだけはよく判っている。

やっぱり・・

歴史物を題材にかきてええええええええええ。

やっぱ、ここは、
大国主命とぬながわ姫だな。

翡翠文化が太陽神信仰に変わる。

越の国と出雲をむすびつけた壮大なロマンと、

娘、みほすすみ・・。

たけみかづち・・。

あかん・・・・・

血が騒ぐ・・・・・。

これやったら、また、続き物が・・・・

あとになる~~~~~~~~~~。

と、騒いで発散しました。

わがままな記事をのせました。

ひっかかる物を・・・

長いものを書きたいといいつつ、短いものばかりあげていますが・・。
なにか、ひかっかるので、ひっかかる言葉をまず、書き付けました。
ドール。と、金と銀の夢の鞍は、およそのストーリー(と、いうほどのものではないか・・)は浮かんでいたのですが、
結末をどうするかという自由裁量はありました。

が、まあ、ああいう結末をえらんでしまったわけですが、
金と・・のほうは、女房に逃げられた男の哀愁?で、終わらすほうをえらぼうかとまよいました。

男の夢の中に金と銀との鞍に乗ったふたつの影があります。
「二人、ならんでいきました」
という唄のように、二人だけの生活が続いていく。
でも、それは希望という夢でなく、現実になりえなかった夢になってしまいます。
金木犀と銀木犀に象徴させ、二つの樹木はまだそこで、相変わらず香りをただよわせているというのに・・。

まあ、そんな風なところをもりこめればいいか。
相変わらず男の日常はつづいていくというのは、同じですから。

と、いうことで、次に気になったのは
老人ホームにつとめていた頃の出来事でした。《調理畑です》&
《本文とは、違う内容デス》

書き始めてみたものの、自分でも、なにが出てくるか判らない「起」部分がでてきて、全然違う設定のまま、でるに任せることにしました。

違うものになったら違うまま、書き進めてみよう。
と、煙草の話をかきながら、自分でもいったいどうなることやらと
想っていました。

頭の中には同じ職場の女子職員がイメージされていました。
これが、攻を奏したきがします。《モデル料を払わなきゃいけないか?》

そして、書き終えたあとも、ジャンルをあえて、その他にしました。
これをオカルトやホラーにしたら、ホラーァ、すぐわかっちゃうじゃんかという親父ギャグでごまかすしかなくなりそうで・・・。

かといって、ここしばらく、ホラー系統の話ばかりかいているので、
すでにネタばれしている気もします。

と、いうことで、よけていた、短編もそろそろ、だしてきましょう。

う~~む

難しい漢字にはルビや読み方をいれたほうが、
読みやすいと想うよとありがたい進言をいただいた。

多くの人に読んでもらえるように、との、その底の思いはしっかりいただくことにする。

で、自分をふりかえると、実のところ、読んでいて、難しい漢字とかに、行き当たった時、

前後の文章の意味でその漢字の意味合いを推し量るということをする。

どう読むかをあまり、重要視しないという読み手であるということが、
一番おおきな原因であると想う。

が、こんな憂生でも、たまに女性(にょしょう)初女(うぶめ)という具合に読みをいれることがある。

これにきがついたのが、進言のおかげなんだけど。

何故、蟷螂に読みをいれず、女性や初女には、読みをいれたのだろうか?

簡単な答えである。

じょせい。(しょじょ)(はつおんな)。と、読んでもらいたくなかっただけだと想う。

さらにいえば、これでも、文章の持つ韻律にこだわっている。

目で読みながら文字を音で読むタイプの人の人が居る。

この方にも指摘されたが、かなり、心地よい韻律ができあがっているらしい。

(むろん、なにもかも、そうだというわけでなく、ある一部の作品だと想う)

憂生自体が書くときにこれにこだわる。

目で見たときに蟷螂(とうろう)とあると、どこか、物語の世界から
読み方の世界にもどってしまう。

そして、耳で読んだ時も同じだと想う。

とうろうとうろうのたまごがそちこちにうみつけられている。

(かっこ)内のよみが微妙に目と耳に障って来る。

これが嫌で、読みをいれないのだが、
それでも、いれざるをえないのが、そうよんだら、韻律がくずれる。
あるいは、語感がちがうものになる。

山童がおそった鼎に対し、叫ぶ。

「うぶめじゃ、うぶめじゃ」

これが、「はつおんなじゃ、はつおんなじゃ」あるいは「しょじょじゃ、しょじょじゃ」《山寺の和尚さんがでてきそうである》は、実に語感がわるい。

すっと、うぶめとよんでもらえる、あるいは、どうよんでもかまわないものならば、読みはかきたくない。

こういう拘りがある。

だが、仰られるとおり、なにか、難しげだとタイトルからみて、敬遠されるかもしれない。

が、それをこえて読みに来てくださった人のことも考える。
どこか、素にもどる。
あるいは、この字はよめないだろうと読者を子供扱いしているようにもみえかねない。
そして、漢字の読み方がどうのこうのにこだわらせてしまうということは、
文章に引き込ませていないという見方もなりたつ。
読めないけど、続きの方がきになる。

これを量るためにも、あえて、読みは入れたくないと想う。
ただし、こう読んで欲しいというときはいれる。

だが、それも、じつにあやしい。
なぜならば、こうよんでほしいという「憂生」さえまともに読みをいれていないからである。

因みに「憂生」は「うい」と読みます。

なんでだろうとおもってさ・・

ここで、連載作品を書く気になれない。

ってのがある。

むろん、触手はうごく。だから、なんで、此処で、書く気にならないかをかんがえる。

まず、書いてみたいと思う。

ところが、制御するものがある。

大きなネックは、乗って書いたときに2000文字で、納まらないかもしれないってことだろう。

連載形式をやると、きりのよいところまで、書くわけで、
それが、1スレッド1ページにおさまらないかもしれないのは、
非常におもしろくない。

次に此処に挙げるメリット?が薄い。

久しぶりにきてみたら、前に嘆願したことが、実現していたので、ちょっと、嬉しくなったんだけど、それは作品の順番替えと、作品内部の掲載物の順をかえるということ。

ところが、これもあわせてお願いしたことだけど、投稿順で、新しいものが上にくる。
と、いうパターンをやってほしいということで、最初から読むのは、順番を変える(最初から読む)という昇順変更釦を設置できないかということだった。(もちろん、頁内部にはいっても、昇順がかわっている)

連載物の長いものが更新されたときは、特に下まで探しにいきたくないし/横着か?
かといって、作者側は順番どおりにならべておきたいものだろう。
更に章にわけるとなると、サブルーチン形式にしないとむつかしいだろうし・・。
でも、まあ、そんなことは、まだ、たいした問題じゃない。
かもしれない。

(憂生みたく、全物語をあげたら、2000~3000スレッド使うなんて人はそう多くはいないだろうし・・)
一番のネックは、これも、前にあげたけど、各頁に感想欄がタイアップしていないってこと。

その小説全体へのコメントもその各頁ごとに感じたことも、ひとまとめになってしまう。
せめて、何ページ目に寄せられた感想だという頁へのリンクがほしい。
仮に19ページめのところで、感想をかきたくなって、感想を書く。
「3行目の表現、秀逸です」とかあああ?
その感想をよんで、また、その頁を読みに行く人が現れる。という、感想欄が作品に深みを増さしながら、作品の流れに追従していく。ってのが、ない。
過去、コメントにささえられながら、空に架かる橋を書いてきた憂生にとって、連載の醍醐味にこくをますリアルタイムのタイアップコメントが表示されない此処のやりかたに何かしら、期待がもてない。

感想欄がふるわないのも、ひとつには、この設定、構造のせいだろうと思う。

「巧いよ、此処、心にしみる」って、一言でも、いれたいだけなのに、まとまったところに、ポンとおかれてしまう。
いちいち、19ページめの3行目の表現ですが、なんて、いれちゃあ、コメンターも興ざめする。
まとめたところに、ぽんとおかれちゃ、逆にそのコメントが浮いてしまう。

この場面で思わずもれた一言、書き付けずに置けなかった・・ってのが、ここにおいては、活かせない。
そこがつまらんと思ってしまう憂生がいるせいだろう。

感想を書くに気分的ハードルが高くなってしまうところにおいて、ここらへんがもうすこし、かわらないと、だめだろうなあって思う。
頁ごとに寄せられたコメントは頁の場所からも読めるようにできないかねえ?

せめて、感想を書いたページのリンクをしてくれるとかさ・・。

しかし・・。

あいかわらず、官能小説がランキングにはいりまくってる。
(あっと・・・憂生も一応、らしいもの書いてるので、そこらへんは好き嫌いでものをいってるんじゃありません)

ただ、ブログでの経験をかんがえてしまう。

非常に猟奇的な異常ログで検索されたり、アダルトブログに・・・
憂生の小夜なんかは、小夜ちゃんとかいう女の子が売り物になってるアダルトブログにおあつらえむきだったのか、ばりばりにリンクされてたり・・。

逆に例えば、普通のログでFC2関係によくあったのが、エイチクンだな。
憂生の作品に評価をくださったんだけど、すったもんだがあったりしたので、
削除したが、さすがにゴミ箱にぽいというわけにいかず、とりあえず、ブログに保管しておいたら、ま~~~。くるくる・・・。
エイチクンでの検索が・・・。

で、エイチクンの人気の程をほめてるんじゃなくて・・。

つまり、検索の話。

どこまで、どんな風に検索されてるか、ってのが、ここでは、わからない。

まあ、どんなログで検索されて読まれてもかまわないという人にとっては、
どうでもいいことなんだけど。

憂生は愕然とした。

まじめ?に読んでくれる人がいる一方で、性表現だけをおもしろがって、読みに来る人も居る。

憂生自体はそれなりにテーマを掲げている。

だから、性表現だけを取り沙汰にされるのは非常に気分が悪い。

まあ、逆に読む側の立場でいうと、
FC2でいろいろ、書いてる人がいて、それが、男性の場合なら、憂生もそんなにきにしないが、女の子・・女の人が書いてるのをみるとな・・。

一種同一視というのかな。
この女ここまでかけるってことは、こいつは・・。
みたいな、好奇・・・DIM(DO IT’S MYSELF)の対象みたいになって、ある意味、アダルトブログの裸のおねいちゃんをみるよな目でみられてる場合もあるってことで・・。
それを知ってか、知らずか・・・。

いや、しってやってりゃ、完璧な露出趣味で、憂生の嫌いなあ~~~ぱ~~ねえちゃん。

アダルトブログのおねいちゃんとさして、かわらんと想ってしまう。
まあ、まともによんでないから、(真摯なこともかいてるのかもしれないけど)わからんことだが、
あくまでも、憂生自体がつつましい女性を神聖視するところがあるから、いっそう、読もうとしない。
そんなんで、想うのがジャンル別ランキングをランダムでとりあげてくれりゃいいなって想う。
ほとんど代わり映えしないランキングの週間や日刊や総合・・評価・・。よりも、
各ジャンルをひとつ、ランダムにチョイスしてランキングを表示とかさ。

ここに下手に性表現のある作品をおくと、好奇の検索対象になるだけかって想ってなおさら、作品群を削除したって経緯もあるわけで・・。
FC2ブログ自体がアダルトブログをもうけているくらいだからね・・。
FC2小説もすこし、くわけすべきじゃないかという気もする。

でも、それをしたら、FC2小説(アダルト部門ぬき)がどのくらいの集客数をたもてるだろう?
もちつ、もたれつであるともおもうのだが・・。

憂生自体は、当初、永沢作品はFC2のアダルトブログにて、発表していたわけだ。
ところが、これにパーマリンクがはいり、優良アダルトブログとか?にリンクされ、
同一視のおねいちゃんから、おさそいがかかる。
おにいちゃんからも、一仕事しませんかとお誘いがかかる。

馬鹿やろ。
憂生はうりものじゃねえや。

ってなことで、生真面目にアダルトブログで公開することを断念した。
で、いまは、発表場所を封鎖してしまった。

なんだろね~~~~

たまに、ランキングを見る。
相変わらず、感想屋さんが、頑張ってるようである。

まあ、このあたりについては、FC2小説を考えるで、ちらちら、書いたことと重複するので、ほっちゃけにしておいて・・。

一番懸念したのは、感想依頼をこなせるだろうか?
と、いうことだった。

感想を書いてくれという以上はその人の「批評眼」「説明力」をあてにしてのことだと想うわけで、言い換えれば、ソノ感想屋さんが、どういう姿勢で批評するか、説明するか、が、重要ポイントになってくる。

的をえた感想や批評をおこない、かつ、作家を育てていくというのかな?
肥やしになるようなものの言い方が出来るひとが、感想屋として、もっとも人気がでるだろう。

やる気をなくすような酷評や、逆にとってつけた褒め言葉やあるいは、作者が訴えようとしていることと外れた意見が、くれば、がっくりするだろう。
訴えることと外れているのは、何故なのかというところまで、追撃してくれるなら、まだしもだが・・。

だいたい、憂生自体が自分で自分の分析をする。

だから、感想屋さんにも、分析を求めてしまうところがある。
(って、頼んだわけではないが・・)

ところが、感想依頼がいっぱいくると何でもかんでも読まなきゃいけないわけで、

このあたりに、まず、悲鳴をあげてしまうだろう。
悲鳴をあげないために、長編はお断りだの、30ページくらいまでのものにしてください。
だのは、ニーズに応えるための感想屋で無いのは、明らかで、
本来、自己発動なのが感想だとおもうから、依頼で書くという事は一種、「枷」を自らの首につなげることになる。
その枷に対して、こうしろ、ああしろという事自体がすでに姿勢が曲がってみえる。
あくまでも、感想屋も「書かせてください」なんだと想う。
物書きもやっぱ、読んでください。って、低姿勢なもんだ。
作家の方が読んでください。ご意見くださいと依頼という形ではあるが、低姿勢にたのむというのに、
やる気をなくすような感想と姿勢をみせちゃあ、まずいだろう。

で、どうなるかといえば、
頼む側も感想屋をえらぶ。
頼みがいのある感想屋はソノ量の多さをこなしきれなくなる。
感想屋だって、人間だ(当たり前だが)読めないパターンの作品の中から的確な批評を抽出しなきゃいけないこともあろう。

場合によっては、読みたくないような、どういう風に説明するか・・迷う作品に目をとおさなきゃいけないこともあろう。

酷評でかまわないというのなら、別に感想屋に頼まなくても酷評サイトってのがある。
そっちにいけば、すむわけだ。
感想屋に求めるものは欠点があれば判りやすく説明してくれる。ということにつきるのではないだろうか?

その部分に応えようとおもうと、かなり思い入れをもって、作品に向かわなきゃいけない。
一時期添削指導もしたことがあるけど、相手も泣きながらでもくらいついて、自分がどこがおかしいかをわかるまで、説明を求めてきた。
最終的にいえるのは、視野の広さ、経験(人生経験)が、不足していると、しかいえない。
つまり、相手の人生経験も不足していれば添削するこちら側の人生経験も不足している。
そこをカバーするのが、何かといえば、「相手への思いいれ」「作品への思いいれ」なわけだ。
だが、依頼となると、なおさら、「枷」になってしまいやすい。
こういう状態で、どこか、熱のこもりきらない「感想」を書くことに疑問をかんじはじめるんじゃないのだろうか?

そんな懸念を感じていた。

結局、休止中という文字があちこちにみえて、懸念があたってしまったのだろうか?

なまはんかなことでは、感想屋を継続することは、できないと憂生は考えている。
自分がもしやろうとしたら、どれだけ、神経を使うか判っている。
それくらい、相手は作品ではない。
それを書いている「人」相手だという事を考えておかなければならない。

**********

このあたりを、読み返すと、一つの事件を想う。

感想屋ではないのだが、感想をかいてくださったわけだが、

この内容が・・あまり、くわしくかきたくないが、

それを書いている「人」相手だという事を考えておかなければならない

と、いう部分を考慮していないと思われるもので、

感想屋でなく個人嗜好でやっているのだから、

こういう書き方はかえって、作者と作品を愚弄することになる。

と、いうクレームをつけるべき筋あいではない。

が、度重なり、ある意味、無邪気である分、本人には言い分があり

侘びをいれてきてくれるのだが、

その言葉の中にも

「無神経」がある。

どういう風にうけとめられるかを、たとえばで話せば、

そんなつもりはありません。

そりゃ、判ってる。

判ってるからこそ、才能ある人なので、なおさら、

「こういう風にうけとめられることを考慮できよう」

と、いう期待をもつ。

それが、ことごとく(では、ないが)ひとつ、解決したら、

次の言葉に「無神経」がはいる。

言霊などについて、いろいろ、スピリチュアルでも書いている憂生なので、

なおさら、「欠落」した部分がきになってくる。

世の一般常識で物をかんがえていけば、間違ってるのは憂生だと想う。

せっかく、書いてくださったのだから、ありがとう。

で、おわらせればいいのかもしれない。

だが、その「無神経」さの感想をかいて、

「読み取りました」とおもいこんでいるかのように言う。

まあ、憂生はある意味、繊細なのだと思う。

妙な感想に「よみとれた」をかんじとれず、

なぜ、こんな「無神経」とも思える「思い」がはいる書き方をするのか、不思議だった。

何とか、作品を掴み取っているところをみせたい?

いろいろ、たずねあわせていくうちに、

原因は見えた気がする。

なんらかのことが、原因で

「自分の感情をだすまい」としてしまう。

もの凄い防御壁がある。

まあ、たとえばであるが、つまらない作品とおもったとしたら、それをだしちゃまずい。

憂生の作品をよくとれば、何らかの嫉妬?

まあ、本当は、違う内容ではあるが、たとえばこういう「感情」を隠そうとつとめる。

隠しきれないなにかが、妙に「無神経」な言葉を産むのか?

むしろ、彼女のもつ、「深淵」のほうが気になってしまったのだが、

へたに掘り下げるのはやめた。

あるいは、逆に「無神経」を生み出す「欠落」部分により、

「深淵」をつくっているかもしれないと思ったからだ。

この事実に気がついたら、惨いものがある。

すでに「無神経」がむきだしになってしまう返事が重なり

この部分にきがつけずにいるように見える。

形だけを変えれば良いようにとっているかのような返事と思える次の返事の「欠落部分」

話してなんとかなる。

判るというものではない。

そんなふうにおもえ、白蛇抄第5話のラストを思い出した。

自分の魂が腐食される状況もしらず、今の悦楽に甘んじる。

妙にこの姿に重なり

もう、接触するまいと想った。

判らない状況の人に物をいうのは、

ただ、ただ、重箱の隅を突く真似にしか見えないだろう。

憂生もこれ以上、自分を落してまで、言う必要もない。

あとは、本人がいろいろ、かんがえていくことだし、

なんらかのことで、

未来?

あ?こういう意味合いか?ときがつくことがあろうし、

ギリギリ、ねじこんできたとも想う。

あいかわらず、心配性のおせっかいやきは、健在であるようだ。

長い所。短い所。

ふと、読み応えという言葉がもたげてきた。

今回、新作とギャグというショートもしくは短編をここにあげたけれど、
手持ちの短編を挙げることを、今は控えている。

もっと、短い、掌篇も1編1冊でなく、掌篇集としていれているのも、このあたりの心理による。

読み応えというものを、考えると、
『ある程度の長め時間を費やす』と、いうことが、条件のような気がしている。
30分~1時間~という時間を「読む」に費やされてしまうに、かかわらず、
読ませてしまう。
ある程度の時間、読み手を読み物の世界に拘束してしまう。

これが、読み応えのあるものといえるのではないかと考えてみる。

短い時間で、読み終えてしまうものは、
面白かった。とか、心に残った。と、いう言い方になる。

食事をたとえてみると、なお、そんな気がする。

食事の旨さは同じだとして、
3品ほどをワンプレートにのせてぽんと出される。

一方、フルコース。

まず、前菜。
それを目と味でたのしむ。
次にスープ。
同じく・・。
まあ、最後のデザートが出てくる頃には
30分くらいかかっているだろう。

時間を費やせるということも、食べ応えのひとつと考えられる。

この考えを平行移動してみると、
時間を費やすということも、読み応えの条件のような気がする。

それもあって、今、短編を掲載することを控えている。

の、だがあああああああああ。

問題は時間を費やして読む、読み応えのあるものをかけるか、どうかということになる。

短編とて、表現はそれなりに工夫する。

ところが、長編は表現に工夫しすぎると、逆に、読みつらいものになる。
かといって、平易になりやすいのも考え物で、
うがちのある表現をときおり、さしはさむ。
よんでいくに、心地よい、アクセントになるべく、ときおり、という程度にしておく。

あとは、文章のテンポ。
これがよいと、読みやすさが倍増する。
いや、読みにくい表現でもよませてしまう。

しろうとさんで、このテンポを物にしている作品にであったのは、かぞえるほどしかないが、おしむらく、どれもこれも、短編だった。

ストーリー性と表現とテンポ、大まかにこの三つが
長編を読み続けさせる三大要素だと想う。
だが、最後の最後まで、心地よいテンポや心地よいアクセントをさしこんでいくということは、長編を何度も書いた上で、培われてくるように想う。

短編やショートで的確に表現する切れ味のよさも、もちろん、簡単なことじゃない。

どちらもむつかしいものであるが、
できるものなら、
フルコースを出せる料理人になりたいと想う。

そのための練習もかねて、出来うる限り、3万文字ちかいものをかきたいと思いつつ、半分にもみたないものしかかけていない。
フルコースに仕上がられるだけの素材でなかったといえば、そうかもしれないが、ここしばらく、短編パターンが続いているから
いっそう、長編にトライしたくもある。

キャラクターの肉付け。

たいてい、自分の頭の中に、人物の性格などなどが、
構築されているものと想う。

ストーリーを追うときに、この人物の性格が
ストーリーの面白さを左右する。

短編やショートはむげにこの人物の性格がでていなくても
かまわない事がある。

ある時空空間の中の人物の思いをきりとっているので、
そのときだけの性格でもかまわない。
ことがあるのだろう。

ところが、長編は最低限、主な登場人物の性格をだしてこないとなりたたない。

性格がストーリーを深めるときもあるが、その逆もあるし、
もっと、酷い時は執筆がとまる。

ストーリーだけをおえば、いくらでも、書けるのだが、
「この人物がこの性格において、こう言う行動をするだろうか?」
を、あてはめていくと、
考えたストーリーが合わないときがある。

逆に性格にあわせていくと、予定していたストーリーとは違うものになってくる。場合もある。

一番、困ったのは白蛇抄:白峰大神だった。

ラストシーンでまで、もってきていたから、6万文字ちかくをうちこんでいる。
此処にいたって、予定した結末が
白河澄明および、白銅にそぐわない。

ストーリー的には、予定の結末でもかまわない。
いや、もっといえば、結末は変わらない。
ただ、「色」が違う。

主人公色でないだけだ。

ここまで、主人公色をしきつめてきて、
一箇所、色が違う。

青空をかいていて、灰色の雲がうかぶようなものだ。
ぬけるような晴天ではなくなるが、
空をかいたことには代わりが無いといういいぬけのようなものだ。

此処にいたって・・・。
別人物がラストをしめくくる?

あれほどのスピードでかきこんでいたものが、ぴたりととまる。

性格に見合った同じ設定のラストがうかばない。

三日ほど、止まっていたと想う。うかばなければ、全編破棄。あるいは、浮かぶまで保留。

ここまでかきあげて・・。
妊婦の気分になる。
なんとでもこの世にうまれだしてやらねばならない。
死なせて成るものか。

三日後、立ち居地の転換で、突如うかんできた。

べつだん、たいそうなラストじゃない。
いや、むしろありきたりで、
なぜこんな簡単なことを思いつかなかったんだというくらいのものだ。

だが、そのラストこそが、主人公たちの性格だったらそうするだろう、そうなるだろうと憂生が納得できるものだった。

むむむ

ある方の在所がなくなってる。

これは、なぜだろう?

憂生がいらぬことをかいたせいだろうか?

だが・・・。

気にすることはやめにした。

物を書くというのは、

畢竟、自分との戦いだと想うから。

自分の中のセンテンスを文字に映しかえる。

その作業自体が

その作業だけが、

書き手の「守備範囲」でしかない。

巧く、かけたか、どうかは、自分だけにしかわからない。

センテンスをきちんとつかみとっているか、どうかが、問題なんだ。

実際、センテンスをつかみきってないのに、巧いと評価されるものもあれば、

センテンスを掴み取っていながら、下手だと評価されるものはある。

自分が量りにかける部分は自分がどこまで、書ききれたかでしかないと想う。
いつもながら、文章は巧い下手ではないという。
書き手がどこまで、誠実にひたむきに「書くこと」に向かい合ってるかでしかない。
と、想っている。
だから、憂生は協力出版の話も断ってるわけだ。

必死に「書く」をやってきたものの公開権を500~1000冊の価値にかえたくはなかった。

自分の物でおいておきたかった。

幸い、ネットという発表場所があったし・・。

書いていく。
どんなものでも良い。
日記でも、エッセイでも、物語でも、感慨でも、なんでも良い。

自分の意識を文字に変えていくのが、物書きだと想っているから。

作家になるつもりは無い。
出版社の問いにそう答えてから、
憂生は逆に何で自分が作家になるつもりがないのか、考え始めた。

ひとつには、職業に?(なれるか、なれないかは、別にして)したくなかったからだ。
自分の思いいれがないものでも、
思い入れを作れない体制でも、書かなきゃいけなくなる。

これが、一番嫌だった。
確かに、読者様というものの反応を意識してや商品として出すにたりる水準のものを書くという上昇志向が生じるし、推敲もきちんとするようになるだろう。

だが、憂生のセンテンスは萎縮する。
実際、ネットにあげていても、途中、読者さまからクレームがきた。
「読者を意識しすぎていませんか?」
それをやめて、自分のセンテンスのまま書けという・・・。
多くの作家さんは、多分、この逆をいわれるだろう。
読者の存在を意識して書くべきだ。と。

憂生はこの時点で気がついたといってよい。

憂生は物書きなのだ。と。
物書きは物を文字に映しかえる。
どういう風に憂生のセンテンスが文字にかわるかという
その戦いぶりに期待されているんだ。

ある意味、これは、憂生の望むところであり、
物書きの志向と読み手の嗜好が合致しているということになる。

ありがたいことであるが、
その感覚が、いらぬことをいわせてしまったのかもしれない。

憂生の物の言い方は、多分、くそ生意気にきこえるものだと想う。

それは、自分の作品への自負があるからだ。

多くの人の心にふれてきた。

死の間際まで、憂生の作品を読んでくれた人。

憂生の執筆を病床から喜んでくれた人。

いろいろ、執筆のうしろで、多くの人とかかわってきている。

憂生の文章自体は下手な部類に入る。

だが、かぞえあげればきりがないほど、
多くの人の心を掬い上げている。

一過性の娯楽作品も書く。

だが、憂生の眼差しは、いつも、よりよくいきることにスポットをあてている。

だから、この自負が時に、

傲慢にみえるかもしれない。

作品のうしろで、悲しみや苦しみにまけそうになってる人からの多くのコンタクトがあった。
その人たちの苦しい見方をかえていくのに、作品が雄弁だった。
こういう履歴があるから、憂生は自分の作品をちょっと、ほかの人の作品と違うと想っている。
感動だけでなく、「考えさせる」「見直させる」「自分を問う」「心を開く」
いろんなパターンがある。
だから、少々の文章の下手さはきにならない。
もっと、大事なことが、きちんと通じてるから。

だから、そこが通じない・・読み取れない人の評価などを、憂生に対して行えば、むしろ、逆にその人の「幅の無さ」人生への向き合い方を露呈させることになりかねない。
この部分で、憂生の作品に気楽に、感想や批評を書くことに躊躇する人が多いと想う。
だが、別に憂生のところに感想をおかなくてもいいから、どう想うかをペトリサラに載せることは大事だと想う。
もちろん、別に憂生の作品でなくても。
憂生はそういうことを重視するから、くそ生意気なことであっても、こうやって、ペトリサラにのせることにしている。
いずれのち、培養された『菌』が、姿形をはっきりみせてくれる。
そのときに根こそぎその『菌』をとりさるか。
すでに自分の中の抗菌(ビフィブス菌?)になってくれているか?
それは判らないが、
自分の方向性と意義づけのためにも、文字に変えておく。

さらに考え中・・・

FC2ではいりこんでくださった感想をいただきながら
憂生の中は不穏な思いがあったとおもう。

さる人物をおもいうかべていた。

本人のかいてるものは、なんじゃこりゃというものらしく・・・。
【憂生はよんでないので、よくしらないし、すでに感想などで、彼の姿勢に疑問をかんじていたから、なおさら読む気になれなかった】

本人はいっぱしの作家気取りか、評論家きどりで、人の作品に好き嫌いや文句?をたれる。

好き嫌いで、物をいえないと思うのだが、憂生もやってるのだろうなあ・・。

まあ、そんな中で、「入り込んで、自分の琴線に触れた部分の凹みまで、さらけだして、感想をくれる」って、のに、いたく嬉しくなった。

その反面でさる人物の批評まがいをそしる思いがわいてくる。

はいりこんで、感想をかかずにおけない。これが、本当だろうに・・。

手の平にのせて、此処がいけない。つまらん。これは良い。

自分の物じゃなかろう・・。

って、自分の物はどうなんだよ?

って、おもっちまうわけだ。

で、風の噂によると、とてもよめたものじゃない・・。

感想よろしく、本人の作品も中身がない・・・。軽い・・。

これをこきおろしたくなってくる憂生がしょうじてくるわけだ。

違うだろう・・て。

まずは、自分でたしかめてみてからだろう・・?

だが、それさえする気がなくなる、諸々の彼の所業を思う。

相手にすまい。

ってのが、憂生の本音だった。

だが、せっかくの嬉しいコメントをもらいながら、別のところで、彼を見比べている。

こりゃあ、だめだなって、憂生は自分を思う。

環境のせいにしちゃいけないが、そういう場所に自分をおいておくのもよくない。

そこでもらった、感想をして、そういう自分の鬱憤?を引き出すトリガーにしちまう。

ひとつに、これは、うぬぼれた言い方だが、違うんだろうと思う。

過去に酷評場に投稿したときも、酷評にすりかわったが、

最初の前置きは、

「こんなところに作品をださなくても良いレベル。群をぬいて巧い」

だった。(出版の話のあった作品)

FC2は嫌な言い方だが、前述の彼がはいりこめない作品への感想をかいていることに

疑問を感じない人間のあつまりなのだろうか?

いつだったかも、悪童丸にたいして、

こんなクオリティのある作品をFC2で読めるとおもっていなかった。

という感想がはいった。
これも、それも、人の作品を手のひらで転がす様な態度を取ってる奴がいるから、じゃないか?という思いもしてくる。
みんながみんなとはいわないが、作家の思いをくみとって一つの作品から「価値」をみつけだす。とか、
切磋琢磨になるような思いになれるような感想を書くとか・・・。
自分の作家修行の為・・みたいな言い方をしていたが、
お前の砥石にしたいなら、いっそう、その作品のよいところをみつけだしてみせろ。
みたいな・・ね・・・。
そんな思いがわいてきちまうわけだ。

そして、せっかくの嬉しい感想に不穏な思いをわかす・・。

これは、ぶしつけな言い方だが、酷評所と同じではないのだろうかと思う。

「こんなところにださなくても良いレベル」

それをすなおにうけとめれば、自分の都合の良い風にうけとめれば、

FC2に作品をおくから、不穏な感情を産む結果になった。

と、いうことになるか・・・。

まあ、進退ふくめて、考え直したいところはある。

せっかくの感想をすなおに喜べる場所、この場所も物を書くに大事な要素ではないかと・・

感想の話は完に走って完走する話。

まあ、いろいろな事が人生にはあるわけで、
憂生は不思議なセンスがあるせいもあったりで、
昔から人の相談?はよくのった。
だけど、だんだん、その相談ごとも難しくなる。
逆かもしれない。
憂生の考え方が厳しくなってくるというべきかな。

物事の道理についての考え方が極まってくる。

すると、その道理みたいなのを、
理解、かつ納得してもらうのに
考え方や感覚や育った環境の違いが
こっちが当然のこととして言ってる事が通じないって
状態をおこさせることがある。

憂生の性分だから、乗りかかったら
最後まで面倒を見る。

見たいんだけど、その「通じない」ことを
理解してもらうことから、はじめなきゃならないときがある。

まず、初見の相手が憂生を信じてくれるかどうかってところもある。

憂生はどっちかというと、誰でもを好く。

相手を信じる。
だから、つい相手も憂生を好く。憂生を信じるだろうとおもいこんでしまうところがある。

いちど気にかけた相手のことは、自分の視野からはずすことはない。
何年たっても。
だから、必ずといっていいほど、離れていても、また相談に来る。
だが、憂生は時折思う。
自分が最初に強いものを持たなきゃいけないって。
しっかりした道理と信念と柔軟な思考。
自分の言葉が本物になる思い入れと通り越し。
それをいえるだけの自分ができないとだめだと思う。
いっぽうで、
そういう自分をつくってくれるのは、実はその相談事だったりする。
どう考えればいいか。

どう思い方をかえていけばいいか。
憂生は人事なれど、真剣に向かい合う。
これが結局、自分がどういう思い方をしていくべきかをおしえてくれる。
自分の人生の考え方になっていく。

つまり、
相談にのっているようにみえて、実は憂生のほうがどういきるべきか、
どうかんがえていくべきか、どうとらえていくべきか、どう思いをしきつめていくかの相談にのってもらってるんだ。

こういう裏表はどこの世界にもある。
だから、憂生は感想を書くってのも、これと似たような作用があるって思ってる。

考え中・・・

あいかわらず、迷っている。
アダルト小説とSO2をどうしようか・・と。

元々、簡単にこの手の作品がよめるというか、
掲載できるというところに疑問をかんじてるわけで、
此処以前の話でね。

アメーバーなんか特にそういう気がしてた。

此処は18歳以下ですか、以上ですか?
なんて、設問をおいてゲートをつくるようになったけど、
はっきりいって、こんなものは、読みますか?読みませんか?
でしかないわけだし・・。
下手すると書いてるほうだって、18歳以下かもしれない。

自分でもアダルトに属するものをかきながら、
へたすりゃあ、小学生だって読めるシステムの中に作品を公開することに
抵抗はあった。

そして、物の見事なおっかけがはじまり、ネットで永沢祐稀の名前で検索すれば、
「これから、永沢祐稀の作品よみにいってくる」って・・なんですか?
日記か?なんかの一言がヒットしてくる。
アダルトサイトの宣伝隊長がごとく、アダルトブログにリンクされ・・。
やってくる検索は
「おまえ、まじで、そんなログをうちこんで検索したのかよ?」
って、もので・・。
こりゃあ、まったく、エロ鮫にえさまいてるだけで、
こっちのテーマみたいなところにゃあ、たどりつかないぞって、

自分の表現にがっくりするばかりだった。

そして、きわめつけが、真摯なテーマのなかのものにまで、ちょっとした性表現があるばかりにそっちまで汚染される。
こりゃあ、もっと、まじめなところを理解してもらったうえじゃないと無理なのか?とおもったものの、
検索で読む奴がアダルトサイトのリンクから来る奴がまじめな日記とかあああ?
そんなものよむわけがない。
と、結論して、取っ払って封鎖した。
ましてや、一方でスパム情報を流してるのが憂生だ。
問合せ先とかね。
その人間がアダルトサイトにリンクされるようなものを公開してちゃあおかしいよなあ。
諦めるしかないのかなあと思いつつ、一方で気楽に挙げてる人間を見る。
憂生はいずれ、もっと、規制がはいると思ってる。
アメーバーで挙げていた頃におもったことだけど、いったん、あげて、当初どんな人間がくるかわかってないから、プレビュー数が凄いとそこにはまってしまう。
受けるっていうか、読まれるってことに一種快感をもつんだな。
すると、うけたいために、最初は抵抗をもって、挙げていた、疑問を持っていてあげていたのに、その感覚が麻痺してどんどん公開しまう。
そして、まわりでは、そういう類の作品がどんどん公開されていく。
これくらい、かまわないか?
が、
読まれる快感にどんどんエスカレートして、
疑問だったはずが
抵抗があったはずが、どんどん公開しだす。
驚くほどちやほやされ、ますますのめり込む。
これでいいんだよな。
文学的な部分も上手におだてられ、ますます、真髄を理解されてると思い込み
作品が自分の手から離れ暴走しだす。
なにが、怖いといっても、
自分の感覚?モラル?判断?が、麻痺してしまうことだった。

で、あるのに、やっぱり、まじめに読んでくれる人がほしいと思う。
公開すれば、間違いなく読みに来る人は居る。
だが、同じ繰り返しになるだろう。
そのうち、アダルトサイトなどなどにリンクされ
パーマリンクに確保され、
うっかりしたら、規制がきびしくなってくれば、その伝からこっちに勧告がはいるようになる。
規制がくるまでみっともなく、どこかにあげるか・・。
潔くあきらめるか。
いまどきだから、少々のことで不健全な表現なんてなりはしないだろう。
確かに、へたすりゃ、今の小学生のほうが、もっといろんなことをしってる(ばあいもある)
だが、それこそが、もっと、怖い感覚麻痺だろう。
ふと、思う。
小さな子供がいらっしゃる方もいるだろう。
ソノ子によませてやりたいものか、どうか・・。

ネットのモラルがどこかで、とんでしまってるのは、読む人書く人が遠いせい。
判らないせいもある。
住民台帳がしっかりしてきたら、そのカードを認識してとか、声紋照合とか、指紋照合で本人認識して?きっちり、18歳未満は入場できないとか、こういうことがおきてくるのかもしれない。
相変わらず市場が先行して、あとからシステムがおいついて(・・・ないが、)だが、規制がしっかりしかれればいっそう、規制内年齢じゃないからかまわないという考えが感覚麻痺を助長させるだろう。

憂生もそれでもよんでほしいという思いを捨てきれないのとおなじように・・。

措置(オリンピックのことじゃないぞ・・)

かねてから、気になっていたのはブログ・・アメーバーでどこまでの表現が公開できるかということだった。

年齢制限にひかかるような表現が平気で読める官能小説部門なども、

憂生自体、そういう作風のものをあげた時期があるが、

おかしいんじゃないか?



って、思いをもっていた。



矛盾していることはわかっているが。



今回、表現がいきすぎていて、非公開措置がとられているブログを発見した。

退会措置ではない。



ネットの中、今、スパムコメントどころではないひどいログで検索をかけるという状況が続いている。

スパムははっきり、コメントを残すし、場合によっては、はりつける場所の記事などよみもしないだろう。



そういう部分ではスパムコメントのほうが、まだ、赦せる部分もなきにしもあらず。



だが、アクセス解析が装備されはじめた昨今、どういうログで検索されているか、わかってきたら

憂生は愕然とした。



先にあげた官能小説に対しそういうログがあるのは、いたし方がないとしても、

問題意識をもってかいたものにまで、

真摯な生き様をてさぐりするためにかいたものまでに、

好奇の検索が入る。

もちろん、クソまじめな物語をよむわけもなく、そのログが該当しないかとさがしまくるんだろう。

だが、残されたログのぼろさに

正直なけてくる。



わが子を陵辱されたかのような・・・そんな、悔しさがこみあげてくる。



憂生のアダルト小説の主旨も

性に翻弄されるむなしさ、あわれさを軸にしているものだったが、

いかに翻弄されているかを、描かねば真実味がでてこないので書く。



すると、ソノ小説の一部の表現に翻弄されるかばちがでてくる。



いと、あわれ。



なのだが、結局、エロ鮫に餌をまいているだけになると、

そのあたりの作品は撤収した。



最近まで、いずれ官能小説にも規制が入る。と、おもいながら、

まだ、作品の公開を断念しきれずにいた。



だが、平気で公開するからこそ、

あたりまえのように、恥を知らぬ言葉で

誰かわからないと思って

検索ロゴを目の当たりにした人間のことも考えず

検索をかける。



最近は、

あほログで検索した人間のIPを公開するということをやっている。

ネチケットを省みず、

スパムコメンター以上に迷惑をかけているということについての

プロバイダー側の規約がまだ確立していない。



いや、ネットの中自体まだそういう規約がないだろう。



嫌なおもいをさせられた人間は苦々しい思いで辛抱するしかないのか?



こういう検索のあり方を問題視してもらうためにも

IPアドレス公開をはじめ、アダルト小説も封鎖していった。



かなり、

気をつけてくれるようになったが、

それでもまだまだ、個人が勝手に訴えてる規約でしかない。



実際問題、最初にあげたように、

みちゃいけないと禁止されている年齢の人間が読めるような公開の仕方をしているわけで、

ここの意識・管理体制が切り替わらない限り、難しいことだと思う。



18歳未満は・・と禁止を入れる内容のものを公開しておいて、

更にいえば、18歳未満の禁止ものを書いているのが18歳未満だとしても、

規制する方法もなければ、確かめる方法も無い。



あたりまえのように、こんな表現、アンナ表現を公開してもよいのだろうという基準をつくるだけじゃない。

そういう作品を書くことによって、「受ける」「ヒットする」という部分にはまっていき、モラルがうすまり、

それを検索する。



アダルト作品をネットで公開する。読んでもらうというのに、

公開するものも、読むものも、年齢確認、認証ができずにいる。



なんらかの対策をとっていかないと、ますますあほログ検索が横行し

相手かまわずという、モラルも思いやりも道徳もない「意識」を助長させる。

ネットの向こうに人間が居るということへの思いやりももてず、

自分の興味本位だけで動く。



実際、こいつは異常者じゃないかという検索ロゴに出会った事が在るが

ひとつには、当たり前のように官能小説を公開するということも、

モラルや常識のまひを引き起こす要因になっていると憂生は思い始めている。



だから、今回の措置をみて、

少なからずほっとしている。



やはり、検閲じゃないが・・・。

こういう事はある程度必要じゃないかと思う。



で、実際を言えば

憂生もそのブログは通報しようかどうしようか、迷っていた。



迷うだけのことはあるもんだな。



こういうある程度のふるいができてきたということだけでも、憂生は嬉しい。

批評ということについて

批評ということについて、気になっている事があった。
だが、各人、それぞれ、批評に対しての、考え方があるわけで、
憂生自体の考え方がまとまっていない状態でもあり、
個人的に批評についての思いを書くと
これまた、個人論にすぎないと思い、
ま~~。問題は書く本人がいかに熱のこもった状態であるかどうかでしかない。
と、結論づけたせいもあり、口を閉じた。

が、今日の新着をみていて、な~~んか、思うんで、書いてみることにする。
相変わらず、
自分の中のものを引っ張り出して、文字に移し変えてみるという作業である。

まず、自分のことを書く。

憂生は批評するということよりも、
星いくつ・・とかいう採点?をすることがいやなのだ。
これは自分の経験からだと思う。
友人に仕事でつかう道具を譲ってもらった。
本来ならば、それに見合う「金」や
せめてもの「礼」をかえすべきだと思う。
だが、憂生はしなかった。
友人が憂生に「それをやる」という気持ちを
金にしてしまうのも、礼という品物にするのもいやだった。

いわば、「その友人の思い」に「値段」をつけてしまうような。

してくれたことに対して返しをしたら、それで、「けり」がついてしまう。

「してくれた思い」をそのまま、うけとめたら、
なにかにして、返すものは見当たらない。
ただ、ありがとう。
そう、うけとることしかない。

憂生は評価の採点にそれと同じものを感じる。
星みっつ。星5つ。と、けりをつけてしまう。
多くの作品をよんで、自分の中に決着をつけるためにあえて、採点するという「評論パターン」というのも有田とは思う。
憂生も一度だけ、評価して採点したことがある。
だが、その作品については作者の向き合い方など、よくわかっていた。
判っていたから、彼女の姿勢として高い評価をした。
つまり、憂生は作品だけの評価をするという事が出来ない。だから、なかなか、作者に触れる、作者の姿勢?にふれるということはむつかしいことであり、
触れえた時において、今度は逆に先の考えが出てくる。
何星です。
と、相手の作品を採点するまねはしたくない。

だけど、した事がある。

それは、ひとつに、憂生の作者&作品への理解度がどうであるか、
作者がわかっているから、できる。

今回もある作家さんの非凡な才能とひたむきに作品にむかう姿をみて、
なおさらに採点などできないと思わされた。

個性や姿勢・・それに採点するというのは、非常に勇気がいる。

作品単一で考えたらどうか?という考え方もあると思うが、
どうにも、評価するということに、一歩上段で物をみてる気分を味わう。

単純に考えても、通知表だ/笑
あれは指導者があるいは、まさに先生の立場《見識?》に居るものが
くだすものだ。

自分の作品もまともに書けない憂生が人様に、評価するというのは、実に奢った態度にも思える。

これを打ち破ってまで評価したい作品はまだ、一つしかないということにもなる。そのバックグラウンドは先ほど述べたので話が堂々巡りになる。

と、まあ、憂生自体が評価しない、しにくいというのは、こういう心理であるが・・・。

実際、今、感想屋というのが、台頭してきて、それなりに需要と供給がなりたっているようだが、

このあたりのことで、評価について、考えさせられても居た。

感想屋というのが、
読み側の立場なのか、
書き側の立場なのかによって、
違ってくる部分がある。

端的にいえば、
どこかで、書いた一言だ。
「読み手が書き手に快適な環境をプレゼンスすることは、
書き手により以上の力を与える。
読み手が書き手に快適な環境をプレゼンスすることで、
それが、読み手にかえってきて、さらに良い作品を読む事が出来る」

これが、読み手側の立場での感想のあり方だと思う。
感想を書くことによって、もっとよいものをひきだせる。
作家が乗って書く事が出来る。

そして、もう一方の書き手側の立場での感想だ。

これが、うっかりすると、
相手である作家を「のり気」にさせるということを度外視する。

さる感想屋さんが、酷評をうけられないのなら、
感想依頼をしてくれるな。
と、いう風にきこえるようなかきかたをしていた。


この科白もすなわちそうだろう。
書き手である自分が酷評されることで、のびてきたのかもしれない。
だが、相手の乗り気をひきだすことができる評価はきついことをかいていたとしても、酷評とはいわない。
また、酷評であったとしても、その酷評が的をえていると思わせるだけの、作品を自分がかいているかを見せ付けられる。

酷評が通じないという事は、自分の作品のレベルも低い。ということになりかねない。

このあたりを考えると、感想屋という看板を掲げていながら
「評論家」になっている部分があるのは、
書き手目線で物をいうからだろう。

すでにタイトルに間違いがあるともいえる。

感想屋でなく評価屋であろう。
評価しますと自分のスタイルを自覚してないというところでも、
書き手としてのレベル?があやしまれてしまいかねないのであるが、
問題はそんなことじゃなかった。

横道にぞれてしまった。

改ページ。
憂生自体が感想により、かなりのところまで、
自分の執筆力、やる気をおしあげられたという経験があるせいかもしれない。

そして、自分を認めてくれるもの書き仲間でさえも、ここぞというところじゃないと評価しない。

よ~~く判っている人間でさえ、なかなか、評価しない。
よ~~く判っているというのは、憂生の後ろ側の事件から日記から
色んな事がわかっている人間ということだが、
その人間でさえめったやたらと評価しない。

憂生がおいつづけてきたテーマをして、
70作目で見えてきた。という人もいた。

そんな中で一作ピックアップして評価するという「けり」をつけるのがどうも納得できない。
作品からうけとったものを何星です。と、決めてしまったら
そのときから、それはもう「何星の作品」になってしまう。
そうじゃないと憂生は思ってしまう。

うけとるものをいっぱいあり、言い換えればありがとうの一言しかない。
そのありがとうを星3か?星5か?
そんなふうにおきかえてしまうようで・・。

だから、憂生は評価欄をみていて、
星5つとか、3とか、そんな作品をよみにいくことよりも、
むしろ、評価した人のほうの「温かな思い」をよみにいく。

「評価」自体が悪いといっているわけじゃないし、
評価することが悪いといっているわけじゃない。

憂生自体は「評価」をしにくいと思うだけで、
評価しているその人の姿勢や目線は気にかかる。


だから、
「書く人間を伸ばすような思い」
「より以上をひきだそうとする」
感想や評価をしている人に惹かれる。

今回見てきた作品によれば、
評価欄をつかっての集客、注目させるための評価という
以前にもあった状況がまたもおきているようで、
まあ、憂生のいうところの
「自分の作家根性を育てていこう(うまくいえないな)」という考えとは
程遠いパターンをやってらっしゃるようで、
またしても、
FC2小説を考えるに逆行するような。

憂生が思っていたことは
FC2小説のレベルの底上げであり、
評価欄については、そこで、しのごの述べている。

あくまでも、評価や感想は
相手へのものばかりでなく、
むしろ、99%自分というものの披瀝であるということ。

また、いっぽうで、評価欄を不当に使う人間への腹立ちは判らないでもないが、
その底に
「作家をそだてあげよう」という思いがあるかどうかだ。

憤怒だけで物をいっても始まらない。
過去、自分の都合のわるい事を書かれたら、消すという人間にもおめにかかっているが
憂生がかいたことは、
彼の作家としての取り組み方への酷評だった。

いまやそれが通じてるのかどうかはしらないが、
「作品に対して、物を書くことに対して、誠意であるしかない」
と、憂生は自分に思う。

思うから、それが、「書き手」としての
「評価や感想」観になってくる。

つまるところ、その人間が「自分の書き物に誠意でない」やり方に甘んじていることに心をいためているかどうか。

その作家も又、作家であることは間違いない。

だからこそ、「誠意であること」がなんであるかということを
ひとつ、渡して
育ててやろうという・・・。

今回の反駁がそういう思いであってくれたらよいなと思う。

思うままに・・

いったい、ここは、なんなのだろうと思う。

評価欄についてのしのごのを読んできた。

貴方の評価でその作品を読む気をなくしたと
おっしゃっていた方があったが、
以前、憂生がFC2小説を考えるを書いた頃に
そうおっしゃっていた方の
評価のしかたにこそ、同じことがいえた。

随分、周りから嫌な目でみられていて、
これはいかんと思い、
FC2小説を考えるを発てた。

それが、今になってみると、
ソノおっしゃっていた本人が
自分にむけられた思いと同じ科白で人をこき下ろしている。

つくづく、評価とは
自分の披瀝であると思わされる。

この仕組みに気がついているのか
いないのか
よくわからんが、
実際、憂生も自分を振り返らなければいけないと思いつつ、
まずは、「憂生の中に沸いたもやもや」を出してみる。

相手に対する提言は、よほど、此方への信用がないと通じないということはこの前の事件でよくわかったのであるが、憂生の中には「好意」しかない。
おまえそのままじゃいけまい。
というのが形を変えたものだが、根本は「好意」を感じるから言う。

まあ、そのあたりの悶着は、相手の度量にもよるし、こちらの言い方にもよろう。


で、そんな言い訳をしている場合でないな。
憂生が思うことだ。

な~~んで、楽しく書け無いのかなって思う。

仰ってた方も自分が過去に嫌な評価の仕方をしていたのが、
自分に帰って「おまえの姿は、こんなものだった」と
ほかの人が仰った方に感じた思いを自分が味合わされている。

こういう考え方もなりたつわけだ。

評価欄なれど、感想欄なれど、
自分の発したものがいずれ、自分に帰ってくる。

仰ったさんも、そこに気がつかなきゃいけまいて。

言われていた人もあるいは同じ。

やっぱ、どこかで、誰かにいやな思いをかけたのが
かえってきてる。
それが、仰ったさんという人が
一番ひかっかる部分をもっていた。

これは、幽霊話をかいたあとのところでもかいたが、
幽霊がよりついてくる「自分の理由」があるということと同じじゃないかな?

感想欄で嫌な思いをさせた。
っていう「自分の理由」がある。

仰ったさんも過去にそれがある。
だから、同じ風に感じてしまう相手と引き合わされる。
言われた人も同じだろう。

はっきりいってしまえば、
自分が良い思いをまわりに感じさせていたら
「嫌な思い」という幽霊に遭遇するわけがない。

だからこそ、
「温かい評価」をできる自分であるかどうかを問いなおさなきゃいかんのではないかと思う。
それがまた、作家に良い作品をうみださせることになる。

評価欄で「嫌な評価の仕方をしている」ことが、本人に一番
「嫌な評価を与えてる」結果になるわけだ。

どこまで、相手のよいところを見つけ出せるかが勝負だとも思う。

評価される本人が酷評などを望んでいない場合だってあろう。
悪い場合はおまえにいわれたくないね。って、場合もあろう。
評価される本人が認める相手じゃないと、酷評は通じない。

自分が言って通じるかどうかも詮議せず
酷評するのは、ここのシステム上しかたがないのだろうが、
黙ってまっていりゃ、
相手のほうから厳しいこともいってくださいって、
読んでみてくださいって、いってくるものだろう。

頼まれもしないのに、それでも、惜しいと思って物を申すなら、
それはそれで、誠意だろうし、
ソノ結果がどうなろうと気にしないことだ。
結果いかんで言うんじゃなかったとおもうような
弱い心ねで酷評なんかされたくないだろう。

タイトルの余波・・

どうも、読み手タイプでない憂生は、此処に掲げられている多くの作品を
めったと読まない。

めったと読まないくせに、
ふっと、ひかれたものを読みに行くと、
たいてい、秀逸である。

これは以前にもかいたが、
作品自体からフェロモンがでてるんだろう。

で、ふっと、惹かれるといったって、
これは、評価を読んだりというパターンではない。

評価で惹かれるのは、むしろ、
作品のほうでなく
評価した人間のほうで、
過去、カツオシD様など、
嫌な言い方に聞こえたら申し訳ないが
作品より、むしろ、その本人の人柄のほうに魅了された。

で、ふと、惹かれるというのが、どこでかというと、
新着記事である。

タイトルだけだったら、ちょっと、難しいかもしれない。
作者のメッセージがほんのすこし、顔を覗かせている。

このふたつに、ぴか~~~~~~んとくる。も
もちろん、ぴか~~んと来る部分というのは、
自分の嗜好の範疇であるときもあるし、
「なんだろう?」と思わせるものがあるときもあれば、
短いメッセージのなかに、魅力がある。と思わせるときもある。

タイトルのつけ方もあるかなあ?

下手に意匠をこらしたものは、逆に引いてしまうんだけど、
これも、おそらく、タイトルがいろいろと物語過ぎて
憂生側の深層意識の想像力をかきたてすぎて、
よんでみたら、タイトルほどのインパクトが無かった。
ということが多多あった。
新聞の大見出しみたいなもので、大見出しの内容が詳しくかかれているだけだ。みたいな・・。
タイトルのインパクトに圧倒されてしまって、中身は更にインパクトがあると勝手に思いこんで、詳細でしかなかったか。
と、いうような・・。

こう、なんていうんだろう。
ぱっと、触れられるとドキッとするというようなインパクト量がいいんだろうな。
過去、日記で、
「あ?」とか「しまった」とか「どうしよう」とか・・。キャッチ効果に優れたタイトルを日記につけていた方が居た。
正直そんなにたいしたことじゃないんだけど、
「あ?」という内容が謎解きされていて、しばし、それによくひかっかっていた。
だが、この手法も(本人は手法のつもりは一切無いと思う)「ああ。そうか」の謎解き部分が薄いと「どうした?どうした?」と駆け寄っていった側は
拍子抜けするし、繰り返されると
「狼が出た~」の如き、状態になり、「また、行ってもたいしたことではなかろう」というアンチベクトルが働き出す。
タイトルは難しいと思う。
相変わらず、犬夜叉二次小説はそのタイトルのせいで、違う目的で検索されるし、別の二次創作も「秘めやかなる・・」という文字のせいで、エロ小説と思われ、パンパンとチョコレートも沖田と土方の物語もおなじである。
今回の「見えちまった」もタイトルだけをいえば、同じ類だろう。

そういう意味ではここは、ジャンルがみえるので、むちゃなことは無いと思うが。

書籍化って?

ブログのほうから、逆リサーチで
FC2小説にかかわる検索をよんでいた。

どうも、FC2小説から、書籍化をねらう?
って、考え方があるようだ。

小説家になろう。
だったかな。
あと、AUだったか?
アメーバーもそうだし。ヤフーもやってたな。
母体であるFC2もそういう企画をやっていたと思う。

だが、正直をいうと、
この企画というのも、文芸社ならびに・・その他の
協力出版という形態をとるところと、同じ部分がある。

ようは、
「読まれていればよい」(集客率が高い)
「話題性がある」
・・・・すなわち売れ筋という言葉におきかえられるか。

その系列をめざしているのなら、
これは、それでよい。

ところが、
「実力」というのだろうか?
そこらへんでのレベルを考えたときに
売れ筋=「実力」ではないということがたいへんきにかかる。

先日も某作家が某大賞を受賞したが・・・。
出版社の企画出版の定義をおもいださせる。

発売1週間で10万部を販売できる見込みがある作品。

まず、ネームヴァリューのない一般人が発刊して、一日1万部以上の売り上げがみこめるわけがない。

と、なると、出版社側も大賞をあたえるのに、
かなりの計算をする。

賞金を与え、出版費用に宣伝費用・・・。
元がとれる売れ筋のものを選ぶ。

で、例えば、リアル鬼ごっこ。
文芸社はこれをもちだしてきた。

「あの映画にまでなった作品でも最初は協力出版だったんですよ」

作品のできがどうだったか、読んでいない人間にいえることではないが、
もれきくと、
不評である。
買うんじゃなかった。
と。
文芸社のいいたいことはわかるが、
究極、出版社側もばくちなんだろう。
売れ筋だと思った作品が売れず、
まさかと思う作品が売れる。
これを読み取る事がむつかしい。
勢い企画出版なんてものは絵に書いた餅になり、
自費出版よりたちの悪い出版事情ができあがる。

公開権がなくなる。

うれればいいが・・・。
前にも書いたが特別推奨で、発行部数をふやすの、
出版費用を減額するの
新聞広告を三段抜き(だったかな?)にするの、
新聞社もふやしますの・・。
棚おき(店頭おき)書店もふやします。

そこまで、力込められるなら企画出版にしてくで/笑

結局ネックになったのは、本当にだしたい作品でなかったということと
公開権利を下手すれば900(本人とりぶん、100冊をひいて)冊に金をつけてわたしてしまうということになりかねない。
と、思ったからだ。

そこで、某所にて書籍化ということについて、尋ね合わせてみた。
例えば、問題の公開権はどうなるか?ほかのブログに自由に公開できるのか?
かりに(本格的)出版をしようとしたら、公開権利がないとできない。
ほかの出版社の公募におくることができない。
そのブログサイトだけのものになってしまうのだろうか。
自分がそれでいいか?
というところだろう。
このあたりが近くに書籍化した人間がいないのでわからんのだが、
書籍化され、何年かたったとき、どう思うのだろう?

書籍化されて、例えば対価とか?もらえるんだろうか?
そこらへんの疑問にちっとも答えてもらえなかったので、
うっかり、書籍化したり(あ、まず、そんな話はこないけど・・)したら、後の祭りでないのか?と不安になったので、
「書籍化」というジャンルがあるんだけど・・。
そこは避けた。

とらぬ狸の皮算用ではないが・・。

解説(もどき)?

どうも、癖のようで・・。
連載?執筆(たいそうな言い方で好きじゃない表現だが)をはじめると、
なにやかにやと執筆裏?を書き始める。

読者さまは場合によって、これを嫌う。

自分の作品で勝負しろ。
と、いうことで、随分嫌われたこともあった。

まあ、そのあたりのことは創作談義におさめたので、省くが、
作者本人が解説するのは、かきこめてない証拠だとおもわれるのかもしれない。

だが、それをいうのなら、読者さまのコメントだって、載せれないものがある。

作品解説どころか、重要ポイントのねたばらし。
どんでん返しの「どんでん」披露。

最初にコメントなんか読んでもらったら
「あ!!」がなくなってしまう。

で、あるのに、憂生はそれを公開している。
これは、自身がやはり作品に対していろいろと書くその感情を思うから。
悪く言えば懇切丁寧にネタばらしをしてくれてまでも、
書きたかった感想なわけだ。
大切に思っている。

ところが、ここに来て、評価をみていて、
このネタばらしに近い褒め方で評価する人がいたりして・・。

憂生の場合は、
感想をくれた本人は読み専門だった。
つまり、書き手じゃないからほかに読む人がこのネタばらしを知っちゃあ、つまらなくなるだろうという「考え」が見えない。

つまるところ、本人が作品を解説するときは、「ねたばらし」をしないように気をつける。
これは、空に架かる橋の感想でもかいているけど、
作者としては「此処で、今、ネタをしこんでるんですよ」とそれさえも、書けない時があるわけで。
このあたりのことを考えると作者が解説できるということは、
物語をかきおえたあととか、
ねたがばれたくらいで、つまらなくなるような作品じゃないと自負できた時、解説が出来るという側面もある。
だから、憂生は逆に作者本人が自分の作風や作品や作品を書くに当たっての云々かんぬんをよんでみたいと思う。

ところが、あまり、書いてる人はいない。
書いている人が見つかったとしても、作品とダイレクトになっていない。
まあ、たとえて言えば、今回の「見ちまった」あたりのように、
作品と裏側がダイレクトなわけだ。
ラフな文体にしているというチョイスについても、
作品の中の事件についても、作品を掲げることについての憂生の煩悶についても、
表をひっくりかえしたら、裏が連動してる。
と、感じるような解説?が少ない。
作者本人をよくしっていくと、作品だけでも裏をみつめることが多少成りできるが、一過性の読みだけでは、むつかしかろう。

作品はその作者を語る。
語るに面白い。
聞くに面白い。
そんな作品が書けるといいな~~~~。
と、いう「解説」でやんしたマル

矛盾論文を書く。

憂生はどうも、某女流作家が好きでない。

確かに巧い。

作家になるくらいだから、巧いはあたりまえだし、
山本周五郎賞もとっている。

もう、これだけで、憂生に言わせれば非の打ち所がない。

で、あるのにすかない。

何故だろうと想う。

一番大きな理由は、独特の言い回しを定着させ、
小説家になりたい人間たちに多大な影響をあたえすぎたということだろう。

だれもが、彼女のパターンになろうとする。

独特の個性を構築するまで、誰もが誰かの作品を模倣する。

だが、使っている言葉までそれに殉ずるのが、はやりすぎた。

徳間系ノベルを目指す同人系列がこぞってつかったのが、
ひとりごちた。だった。

記憶は定かではないが、山口県あたりの方言だったと想う。

これをだれもかれもが、使う。

それは、はきなれていないハイヒールを履くようであり、
分不相応なブランドのバッグをもてば、自分もセレブになったようにおもう
と、いう気分だけ一流作家になって喜んでいるようにみえて、
嘆かわしい現象だと想った。

自分の言葉で彼女が方言をつかったのなら、また、おなじように、憂生も自分の言葉で表現したい。

と、想う。

だが、これより恐ろしかったのが、蹴りたい背中のワンフレーズだった。

「薄めたがる」

この表現があらわす感覚を自分の言葉で表現できない。
あまりにも的確すぎた。
紛らわすのでもない。在ることをみとめながら存在感を薄める・・(←おい!)

ある時からほとんど本をよまなくなった。
ひとつには、こういう影響をおそれたからだ。
二番煎じになるのもいやだった。

まあ、そのおかげで、ぱくりといわれても違うといえるのだが。

ぱくりといわれたことはまだ、ない。
べたものといわれたことはあったが・・。《笑い》
ありきたり。というところだろうか?

ありきたりでもかまわないと想う。

すくなくとも、ひとりごちたをぱくる、ベタ物根性のやつに、いわれたくない。

と、そいつに反論してやろうとおもったが、
「ぱくり根性」を薄めたがってるだけに過ぎないと想う、
「薄めたがる」をぱくっているので、なにもいえずにここで、ひとりごちることにした。

わ~~い。矛盾論説だ~~~。

書き続けてこそ

人の作品を評価することは、簡単にできることだろう。
(御幣があるが・・)
過去、では、その作品を自分がかいてみたらどうだろう。
と、いうことをやってみた事がある。

自分がやってみるというのでも、
原文どおりに推敲、更正を重ねるのを基本とするやりかたと、
一種二次創作でおおまかな設定をかりる。
という二つのパターンがあると思う。

トリガーとしていただくというパターンもあるかな。
二次創作にはいるか・・。

原文どおり・・のほうは、まず、不可能だといってよい。
その人のもつ、文章を構築していく要素が違う。
例えばであるが、
「金と愛、どちらが大切か(しょうもない設定すぎるが)」
この要素が違うと、立ち上がってくる、心理や設定や結末まで違う。
違うのに、相手の要素にあわせて書いていくと、
「まるごと、かえたい(ムキ~~~~)」ってことと格闘していかなきゃならなくなる。

と、いうことで、原文どおりにやってみるでなく、
二次創作パターンをおこなう。

まあ、これが、例えば「底で・・」なんかなわけだけど、
ところが、考えてみれば、
これはすでに痛烈な批評をやっているのに、等しい。

そもそもが、
恋人が事故をおこしているという状況でほかの男とHするという
その設定への掘り下げ方やその心理追従。
あるいは、そういう気持ちになってしまうような、元がある恋人との付き合い方。こういうものが、自分の要素とかみあわない。

文章的に巧い、下手はとわないのは、いつものことだけど・・。

設定が甘い。という批判のなかにさらにいえば、
「おみゃあの生き方、ものの考え方」も甘いちゅうことになってしまわんか?
と、言うところまで含んでしまう。

実際、ほかの場面でも
一種、二次創作日記はある。

本人が書いたこととは違う角度、視野で憂生がとらえたことをかいたわけだけど、
この結果かどうか、わからないけど、
二人とも頓挫してしまった。

自分の掘り下げ方はすばらしいと思っていらっしゃった様子は伺える。
ところが、その思いをひっくり返すような、
視野をひろげた解釈をつきつけられてしまったショックなのか・・。
ぴたりと更新がとまってしまった。
それくらい(言い方が判らない)の程度で掘り下げたと豪語したことも含め
「おみゃあの生き方、ものの考え方」も甘いちゅうことになってしまわんか?
を、暗下につきつけられてしまったのかもしれない。

結果、もし、その結果であるのなら、
憂生はわびるつもりは無い。

書くことに対して誠意であるというのが、本当の「掘り下げ」だから。
ショックをうけたの、どうのこうのでなく、
もっと、上回ったレベル(掘り下げ)で再び更新してこそ、
本ものだと思う。
誰かのせいにして、書く気をなくすぐらいの「誠意」しかないのなら、
そこまでのものでしかない。
かく言う、憂生も自分で書いたものに自分がやられた。
な~んもできてないのに、上っ面だけで、豪語して
おまえ、こんなこといえる人間かよ?

すべてがむなしく、自分がうすっぺらで、しかたがなかった。

だが、それをこえてきたとき、
自分を肥やしてくれた物事であり、自分の限界をひろげていくチャンスになった。
書き続けてこそ。
今はそれだけが本物だと思える。

「書くことをたのしんでいるか、どうか」

感想がどうの、評価がどうの・・・。
いろいろ、書いてみたが・・・。

書き手として想うことはやはり、
「書くことをたのしんでいるか、どうか」
だと想う。

憂生が100作品ちかくかいて、そのなかで、感想をいただいた作品を
ふりかえってみたとき、
「書いてる本人の熱がこもるもの」
「書いている事をたのしんでいた作品」が
読み手と一体になった感想が一番きた。

そして、書いていることをたのしんでいた作品は
作者は感想がほしいとか?
そんなこといっさいおもわなかった。

おもわなかったのに、
どんどん、感想がはいった。

そして、スランプといってもいいか・・。

熱がこもらない。

熱のこもらない状態は、ある意味、まわりをみわたす余裕?ができる。
一心不乱にかいてるときなんか、まわりをみもしない(御幣があるが)
頭の中は次の一手をどうくりだしていくか。
主人公の心理をどう追従していこうか。
ただただ、書くことにむかっている。

ところが、なにか、熱のこもらない状態になる。

とたんにまわりを意識する。

そう、感想がこないとか?
読み手の反応を意識する。
どうおもわれてるんだろうか?とか?

書くことの指標が逆転現象をおこしていることにきがつかない。
どうにか、「おもわすため」にかくんじゃないのに。

書くことにのめりこめない状況がながいこと続いた。

なんとか、かけそうなものはかいてきたが、
いまいち、のってない。
おそろしいもので、
その「熱のこもらない作品」のひややかさが読み手にみぬかれる。

一日3万文字以上・・。連日。
かいてもかいても、書く事が出てきて
キーボードを打つ手がおいつけなかった。

それが、一日1000文字もかけるかどうか・・・。

この状態が、
いっそう、作品の反応をきにかけさせる。

今、なんとか、熱を取り戻し始めてきて、想う。

感想がどうのこうの、どうでもいいとおもう。

いや、いらないとかそういういみじゃない。
もらえるものなら、ほしい/笑
それも、できれば、あたたかいのがいい/大笑

それでももう、それもいい。

憂生がたのしんでかけて、
それをたのしくよんでもらえたら、それでいい。

巧いの下手の構成がど~の表現がど~~の。
作品修練所にあげてるわけじゃない。

たのしんで書いていく。
それが何よりも、大事。

迷い中

別の作者による、「話題作品」がでていた。
本編も改丁版もよんでいない。
と、いうより、そんなことの問題を書くつもりは無い。

ひとつ、自分側の問題があった。

ある作家さんの作品に対して、意見をした。
やる気のある人で、何度か推敲し手直しして書き改めたものをみせてくれた。

だが、先にもかいたところの改丁版の言う
「自分だったらこう言う風に書く」がうずいてくる。
この場面での人物のやりとり・心理をこうもってきたら、
後の場面が活きる。
つまるところ、ネタ仕込みの部分なんだけど。

そして、的確に物がいえない憂生は相手にわかってもらうとき、
都度都度、例文?として、「変えたらよい部分・自然な流れで補足をさしはさむ」をいれたいわゆる改丁をして、渡す時がある。

これが、はたして、どうだろうか?と思うときがある。

仮に憂生の改丁が本編よりうわまわったものだったとする。
ぱっと本編を読んで、ウィークポイントを察知するだけでなく、
的を得た表現をさっと,書く。

本編の作者はどんな気分をあじわうのだろうか?

ひとりは、
「さすが、憂生」という言葉だった。

もうひとりは判らない。

だが、自分の案をよこどりされたような気分をあじわあせてしまったんじゃないかと思う。
此処のところは判らない。

で、そのことがあって、
今回、自分だったらどう書くだろうというのを意識させられる作品に出会ってしまった。
あの独特の雰囲気をかもしだすことなど到底無理だとわかっている。

推敲や手直し・補足などというレベルではない。
自分がどこまで書けるか?というトライみたいな・・。
懐を借りてかいてみようか、と、迷う。
個人的にこっそり、ワードに書いてみるのも一手かもしれない。
だけど、どうしても、日の目をみせてやりたくなる。

当然、笑止なしろものになるのは、わかっているし、
笑われるのはかまわんのだがああああ。

どこか、批評的部分が付随してくる(勝手に生じる)とも
結局、どこかに、物足らなさがあるから、自分でかくことになる。と、いうことは否定できない。とも・・。
もちろん、物足らなさというのは自分の設定の中で「無い部分」だからなのだが、
とことん、その人じゃないとかけないだろうというものだったら、かけない。
と、いうことを考えると、
それをつきつけることになってしまいそうな・・。

だから、改丁判と称して、書けるということは、反面、うらやましくもある。
もちろん、背景は全然違うんだと思う。
それくらいのもの、もっとうまくかけるんだよ。みたいなね・・。
こういう作用というか、心理が(勝手に生じてしまう)そこをみてしまうというか、相手の人が今、ぽこぽこに叩かれてるから、断りもいれず、改丁していいのだろうかって。
そこを考えると、完璧に攻撃体制を感じるし、いくら相手がまちがっていたとしても、ちゃんと書いてる人にもおなじ態度をとるだろうかって?考えたら、
これは、やっぱ、目くそ鼻くそ笑うってことになろう?
本人が了承するかしないかは、わからないことだし、了承をお願いしてみたけど、断られた。自分はこの設定でかいてみたいと思ったのでことわられたけど、公開します。で、あるのなら設定をお借りしたという感謝がある。
相手の作品をけなすような風になるのは、やっぱ、まずいんだと
思わされて、
憂生の中であの作品(話題の作品じゃないよ。)をワードでかいてみようか・・なんておもっている。 (わずか、2ページほどの作品だったけど、その短さの中にあれだけの世界観?を構築できる作家・作品は類をみない)

元ネタは・・

システム失敗・・の元ネタは実は憂生ん家のにゃこめです。

このにゃこめは、おおがかりなねこじゃらしには
ちっとも興奮せず
座布団のしたなどからちらりとみえるパターンに
異常に反応します。

これって、ある種、男心につうじねえ?

そんなので、ちこりとかいてみました。

ちょっと、ジャンルになやみました。

官能小説にははいらないし・・。

ギャグとか、コメディまでいかない。

おまけに、ネタバレになるから、ホラー?もホラーにいれずにその他にいれたりしていて、
また、ホラーっぽいのかよって、イメージを定着させないためにも、
ジャンルを指定しませんでした。

ジャンルにふりわけただけで、先が読めるようなものとか、
そのジャンルにいれているのならと過大期待になって
逆につまらなくなってしまうようなものを、
書くほうがわるいんですけどね・・。

すびばせん・・・・。

批評欄

かねてから、批評欄については思うところがあったわけで、
当初、ここに来た頃、
はっきりいって、
批評欄の批評のしかたが、外から見たとき、FC2小説のレベルだと判断されるだろうという懸念があった。

ここに小説をおいたら、ぼろかすにいわれるのか。
どんぐりのこずきあいをやってるのか。

良い作品は無い。
良い読み手はいない。

レベルが低い。

こう判断されてもしかたがない。

当時も別IDで自分の作品に評価をいれるとか。
評価欄で自分の意見を《作品への評価でなく》述べるとか。

トップページにでてくるものだからこそ、
いっそう、判断材料にされるわけで、
今回の事件もできれば、隠密に進めてほしかった。
評価欄を不当に使用するということを是正するためには、
腐れた膿をだすためには、
こういう状態にならざるをえないということも判る。

だが、今回、外から評価欄だけをみれば、
「なんだ、ここは、著作権侵害されるところなのか」
と、思われてもしかたがない文字が見えている。

よってたかって、
FC2小説をぼろぼろにしてる、そんな風に見える。

根本的には憂生がいぜんからいっていた、評価は自分の披瀝である。
評価も自分の作品だと思って書け。
自分の作品で、(登場人物)の荒ばかりしかみつけられないものを書くか?
登場人物の魅力をひきだしたり、みつけだせるようなことをかくんじゃないのか?
読み手専門の人はいざしらず、
書き手ならば、自分の作品をあいするように、人の作品もあいしたらどうだ?
人の作品も愛せる姿勢の人がまた、愛される作品をかけるんじゃないのか?
愛していたら、当然、作者の気持ちをおしはかれよう?
おしはかれるところが、また、自分の文章になってこよう。
登場人物の心の機微をおしはかれるだろうが?
なんで、自分の作品の架空の人物の心の機微がおしはかれて、
生身の人間の心がわからん?

だから、ここまで、かんがえりゃ、まともな評価ができない人間は
作品さえもまともじゃないって、
自分を披瀝してることになるん。
それが、外側から見て
「FC2小説レベル低いね」って・・。
作品のレベルじゃない。作品への取り組み方。
評価みれば、一発じゃないか。
評価されてる方じゃない。
評価してる側。
平気で披瀝してる。
それがわかったら、すでにその評価をしてる人間の作品をよみにいくことはない。
に、かかわらず、よみにいく気になる。
あげく、ああいう態度とる。
こういう態度とる。って、泥仕合もいいかげんにしろつ~~ねん。
評価のしかたひとつから、その人間の作品への取り組み方がいかなるものか、
よみとることができんほうにだって、問題がある。
逆をいえば、評価がいかに自分の披瀝であるかってことを自覚してない。評価を自分の作品だって思って取り組んでない。
だから、見抜けない。
ここにも、問題があるわけだ。

鈎があっても、ひかかり所がなかったら、ひかからん!!
鈎があるのが悪いと鈎をたたきまくってもしかたがない。

評価欄でいかなる自分を披瀝してるか、そこをわかってもらえるようにはなし、するしかないだろう。
いわば・・・。
蹴った糞が悪いってね。
糞が悪いって、いってるように思えてね。
蹴ったほうもなにか落ち度があるん。
糞も糞扱いされる落ち度があるん。

そこらへんのな、糞の投げ合いして、みんなして糞まみれになってな・・。
あげくのはて、
FC2小説って、そんなところなのかって。

いつなんどき糞扱いされたり、糞踏んだり、糞投げあいにまきこまれたり。
そんなとこにいたくなくなるだろうが。
入会したくなくなるだろうが。
で、残るは糞くさいやつばかりか?

ちがうだろう。
なんのため、管理局があるん?
ひとりが、相談していきゃいいんじゃないか?
何人もから苦情が出れば管理局もかんがえるだろう。
一種迷惑コメントとおなじなんだから。
そして、評価欄も例えばおすすめ作品とかという主旨のものにかえる。ということもできるわけじゃないか?
根本的なFC2の構成のたりないところとか、管理がぬるいところとか、
こういうところをかいぜんしていくようにしてきたんじゃないのか?
少なくとも、カウンターの設置とか、投稿小説の順番が絵とか、憂生はこのあたりについては、管理局に提言してきた。
管理局もかえてきてるじゃないか。
そのあたりの構成不足や管理不足を改善しきってないからこそ、
こういう問題がおきて、
自分らで糞の投げ合いをして、FC2小説自体を糞だらけにする。
あまりにも、ひどいと思うときは留意してくださいだけでいい、管理局につたえておけ。
苦情が多くまいこめば、本人に勧告がいく。
もうすこし、管理局とともにFC2小説の問題点を改善していく必要があるんじゃないのかな?暴走しただけでおわってほしくない。

見落としている部分じゃないのかね?

単純に

向こうが非礼をつくしているからと、

非礼で返していいんかい?

同狢におちてしまう。

非礼でかえしたつもりはなくても、

それに気がつかず、同調する人間が現れ、
ずれていることさえ、麻痺してしまい、

あげく、非礼返しの材料にあつかわれてしまう。

作品への誠意

と、いうことを考える。

引き比べ、某氏を叩く材料にされてしまう。

そういう扱いにされて、いいんかい?

物書きである。

さてと・・。

今回の事件でおもうことは、
当の本人たち、ど~のこうのでなく、
いろいろ、思い当たることがないか?

と、いうことだな。

憂生自体が、実は、同じ事をやってるかもしれない。

幸いなことに?
あるいは、不幸なことに?

相手にされてないというか、
自分の思いとして、かいてるという防御壁があるせいか?
無茶に酷評されたこともないし・・。

酷評らしきものも2,3あったが、(ブログで)
むしろ、読み手側の読み取り不足としか、思えない。
状況であり、
ほかの読者様の援護射撃があったり、
「憂生はそんなことでゆるがないよね」
なんていう、
「書き手としての憂生」を信じてくれる読者様がいたり。

表現方法の巧い、下手はないというか、
おかしな表現であってもそれを個性にまで昇華しているか、どうかなわけで、
今回、です、ます、調がど~のこ~のといういいかたもみかけたけど、
まあ、丁度、強者さんのことを書いてある文があるわけだけど、
たとえば、
「・・・ニヤリ」
を、いえば、同じようにおかしい。と、なってくるだろう。
その使い方を個性になるほどに昇華するかしないかであって、

間違ってると、きめつけたものの言い方はちょっと、考える。
憂生自体もラフな文章の時は
「間違ってる」って、いうわけさ。
みたいな使い方をする。
本来なら
「間違ってる」と、言うわけさ。だろう。
こういう場合もあるわけで、
もう、重箱の隅をつつくまねはするな。っておもってしまうわけだし、
好意的に
「文体が変わると、主人公からうけるイメージがかわってしまうので、統一したほうが、いいかも」
と、いうのがせいぜいだろうし、
それも、「いいかも」だ。
あくまでも、自分が気がついたこと・感じたことという個人の感受性であり、それが正しいという言い方はできまいて。
結局、当の本人の出し方、がまずくて、
ほかの人間にも「出し方がまずい」部分を「ださせてしまった」という意味合いで、相手からよいものをひきだしてこれなかったわけだ。
相手のいいところをひきずりだしてこれる、ようになるためにも、
今回の事件を肝に銘じて
「よいところを見つけられる」風になっていくことだと思うし、
書きなれていけば、削れてくる、磨きがかかってくることを
姑根性でものをいわなくても、いずれ個性になっていく。
発展途上の作家・・。に、必要なのはまず支援だろう。
発展途上国にだって、そうするだろう?
なんで、貧乏なんだ。じゃなくて、職場をつくってあげたりするわけじゃないか。
大雑把なたとえすぎるけど、そういうものだとおもう。
だから、憂生はもうしわけない言い方だけど、
憂生は恵まれてると思う。
先にかいたように、支援してくださる読者様がいた。
だけど、それもこれも、ひたすら、書いてきた。
その結果だと思う。
おかしいなと思う相手の部分にきがついたら、
相手にぶつけるのでなく、
まず、ワードなどにかきとめてみることだろう。
その気がついたことが、自分にあてはまらないか?どうか?ということをみつめるためにも。
成長したあとで、読んだら、自分でもわらえてくるかもしれない。
こんな風にしか、きがつけなかったんだ。とね。

ま、そんな意味合いもこめて、憂生は憂生の為にここ一連の事件への感慨を書き留めている。
今はこう言う風な見方しかできないことも、また、年月がたてば、
違う部分に気がつくかもしれない。
自分のミーイングのためにも、
物書きであるといってる憂生でもあるわけだし。
憂生に対しての勝手な設定だけどね。
*物書きとは「物(物思い)」を文字に映しかえるのが物書き。*

思い出していた。

最後にだした、科白は、
「まともなものがかけない人間ほど、人の作品にしのごの言う」

だったな。

最初にいいだしてきたことは、七日七夜の「かなえ」のことを
女子(おなご)と書くのはよろしくない。
「女」あるいは「女性(にょしょう)」と書くべきだ。

はあ・・・。

この科白だけで、まともに読んでないのがわかる。

懇切丁寧に
「女」「女性」をつかわなかったのは、
***
かなえは紅もささず、野山をほっつきあるいているのをみると、
そうだなあ、12、13歳くらいかのう?
という、光来童子の科白があるわけで、
野山を男の子のようにかけめぐる。
そもそもが、父親の狩に同道して、たっつけ姿で男の子とみまがい、髪のくくりかたとてそうだったわけで、
童子も「男とおもったら、女子だった」と思うわけで、
女とわかっても、12,13歳の子供のようである・・わけで・・
これをして「女」というも、「女性」というもおかしかろう?

このあたりをついたのが、きにさわったか、
造語をしたら注釈をいれるべきだ。
とか?

文字は1行あけにしろ。

まともに読んだら注釈なぞいれなくてもわかる。
1行あけは当の本人のものがそうなのだが、よみにくくてしかたがい。

文字が小さいの、行は1行あいてるだろう。普通の本でもそうだ。(ええ?)行と行の隙間に1行あるか?通常のスペースを1行とかぞえるわけか?

あってることもいってるのだろうが、まともに読み取る力のない人間のいうことなど、こっちが聞く耳をもてないわけで・・・。
おまけに本人の作品が、その性格そのまま。
ああせねばいけない。とかいう一種外見重視の設定なわけで、
これをみて、思ったものだ。

まさに「文は人也」ってね。
その人の性格などがそのまま、反映されてしまうわけだ。
これ以上、憂生のことに文句をたれさせていると、
この人の発言と作品をひきくらべられて、この人が赤恥かくことになる。
と、おもったわけだ。
ところが、「私教」をどんどん、おかぶせてくるわけだし、
読み取れないことをかえりみないで、人に指図するなんつ~~のはどうよ?
って、おもってしまったわけだ。
一生懸命、人のあらさがしをしている暇があったら、自分の作品の設定とか、考え方とか、もうすこし、みなおしたらどうだろうか?って、おもったわけだな。

で、この結論として、
本当に良い作品を書く人は相手のよいところをいただこうとする。

で、裏返せば、
「まともなものがかけない人間ほど、人の作品にしのごの言う」
と、いうことで、
これ以上続けたら、
「お互いがまともなことをかけてない人間だっていうことを披瀝してるようなもの」
で、以後、コメントを禁止したわけだけど、
つくづく、作品を書いていく中で、のりこえていかなきゃいけないのは、
自分自身だと思ったわけだ。
自分の中で自分がかききれたかどうかを勝負しなきゃいけないわけだ。
極端に言えば
人が巧ければ、そこら辺をいただこうし、
下手だったらそこらへん、自分がおちいってないか、みる。

究極、相手するのは自分。

こういう考えでものを書いている人のほうが多いんじゃないだろうか?

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FC2小説にて・1  総集

うだうだりん~~~^。^

どうも、話の中に話をもりこんでいくというパターンが好きなのだと思います。

白峰大神のなかでは、鼎を助ける場面があります。

悪童丸は蟷螂のその後と悪童丸のはなしを絡めて、
悪童丸の陽根がきりおとされても、まだ、精が100日その中で生きるという
「設定」を持ち出します。

そのことにより、
「棹の先に蟷螂の(精)がのこってしまう」
ということが、確定され、
100日かのとさまとまぐわい、なされるなという
最初の澄明の言葉の意味がすとんとおちてくると思うのです。

こういうふたつ、あるいは、みっつのはなしを並べて織り込むというパターンは好きではありますが、なかなかでてこないものだったり、逆に
もっとでてきてしまって、
1話だけでは収集がつかなくなってしまって、
次から次から、作者の気がかり、あるいは、疑問点。
悪童丸はどうやって育ったんだ?
かなえと光来童子の間になにがあったんだ?
なんで、悪童丸はそとつくにの血をひいてるんだ?

などなど、疑問を考え出したら、あっと、いうまに14編くらいかきあげていて、これと同時進行で、SO2も次次きになって・・。

まあ、われながら、あきれるほど、量産状態でした。

それが、ぱたりととぎれてきはじめたのが、
踊り娘・・いつか見た夢あたりからだと思います。

文体ものってない状態だから、巧い、下手以前、
勢いがない。

勢いで読ませてしまうというのがあると思うのです。

ですから、踊り娘やいつか見た夢は読者様のはいりこんでくれた感想。

ターニャ、え?どうなっちゃうの?
とか、
貴子女史、待ってたよ!!
とか
う~~ん、これこれ、憂生の畳み掛け方好き!!
実に簡単な一言ですが、こういうのにささえられて、
やっとこせっとこ・・
かきあげたものでした。

今もまだまだ、勢いのあるものが書けてないのですが、
読み手さまの反応さえめにはいらぬほどの、
熱のこもった状態を取り戻したいという思いがあります。

ここで、ぷちぷち、言いながらウォームアップを図っています。
幾分か失礼な言い方がでてくると思いますが、お許しください。

出向・・

なんなんでしょうかね。
連載で書くのに、こう・・・・・。
待ってしまう自分がいます。

乗り気になってないというのではなく、
集中したくて、おいているのが白蛇抄17話ですが・・。

懐の銭などは、もう、完璧に原本があるわけですから、
そうほど、迷うわけがない・・・。

ひょっとして、
読み手側の気分に近いのかもしれない。

続きを早く読みたいのに
読み終えてしまいたくない。

これの書き手側ヴァージョン?

一方で、またも浮気ヴァージョン・・・。

ひさかたぶりにSO2をだしてきたもんで、
書かずに終わっていた、
チサトの恋・・・をかいてみたくもある。

期せずして、今頃、「戦場カメラマン」がよくロゴアップされてるが、
チサトの恋人も「戦場カメラマン」になっちゃった・・・という。
設定だったわけで、
今、それを書くと、便乗みたくもあり・・・。
チサトのイメージはどうも、
恋愛パターンに程遠い・・。

確か、エロっぽい表現いっさいさしはさまない設定で、
ふと、気がつくと大事な相手になっていた。
みたいな・・・。

そんなんで、しょっぱなから、
まったく、「その気なし」の「異性ともおもわぬ」登場のさせ方を考えていたと思う。

また、心の中にちかこらしてるので、
やっぱ、はきだしてこようか~~~~~~~。

no title

感想をいただいておりながら、まあ、じつに厳しいことをいいつのり、
もうしわけない。
と、思いつつ・・・。

まあ、この前のFC2小説内のお騒がせ事件をみながら、思ったことですが、
憂生には、とうてい、評価がほしいの、感想がほしいのという、思いがわからないのだと思います。

もちろん、感想がいらないということではありません。
実際、憂生自体が感想に支えられて、物語を連載し、
感想だけでも、文字で言えば、2万文字。
そのほかのものにも、たくさん、感想をいただいています。

逆をいえば、これらの多くの感想により、作品の中にまで、入り込んでもらえる作品をかけたという自信(うぬぼれ?)ができたとおもいます。

一方で、作品から、相手の人生にかかわる状況も多発しました。
心を閉じてすごしていた人が、憂生の作品をよんで、心を開くきっかけをつかんでいったり・・。
そういう意味合いでも、ショーペンハウエルの
「必要な物語は絶妙なタイミングで、必要とする人に読まれる」
と、いう一冊の価値を思い知らされていました。

ですから、売り物のような視線で、評価されたり・・(レベルの高いものしか、のせないんでね・・が、そうですね)外側の出来不出来を評価するパターンとか、こういうのが、嫌になってしまって、
全作品ページ数でいえば、3000ページ?作品数100ほど。
全部、取っ払いました。
それをあげた労力よりも、置いておく事が嫌に成っていたと思います。


結局、自分にとってどうであるか、作品を血肉するような、詮議のしかたをする読み方をする。《簡単にいえば、必要であるかどうか》
うわっつらの楽しさ(悲しい作品であっても、いわば、2チャンネル的悲しい話を求める心理のようなものも、うらがえせば、楽しさであるという考え)
を求める人間しかいないのかと思っていたところに、
感想をいただきました。
自分と照らし合わせ、自分をみつめる眼をもち、自分の欠点?《ウィークポイントというべきでしょうね》をさらけだしてくれていました。本当に作品を自分の中で自分と対峙させながら、自分の中にいれこんで読んでくれる。そして、おしみなく、晒しだしてくれる。

作品が生きる。その方の中で作品が生きる。

このことにより、感想こそ書かなくても、真摯によんでくださる人が他にもいる。と、信じなおす事ができるようになり、今、作品を挙げなおしています。

いろんな作品があります。

顰蹙をかうものも、人間性を疑われるものも・・。
まじめなものも・・あります。

ですが、SO2内レオンの言葉を借りれば、
「なにもかも、憂生じゃないか。」
だと、思います。
その本人である憂生がこの作品は顰蹙をかうから、
掲載すまい・・。
と、自分で自分を蹴飛ばすまねはすまいと。
まず、自分が自分を受け止めなおすことから、はじめています。

そんなおりに評価などなどを戴き、正直、困ってしまいました。
うまくいえないのですが、
作品として・・評価されることを望んでいないのです。

その作品から得たものを自分のなかで、どう生かしていくか
と、いう事なのだと思うからです。

奢った言い方をしますと、
たとえば生き様などでなく、作品としてであっても
なにかを得たならば、
その返しは感想や評価でなく自分の作品で返す。
得たものを★いくつとか、感想でかえすよりも、
自分の作品の肥やしにしていく。

これは、生き様とか、考え方で物をたとえたほうが判りやすいかもしれません。

作品を読んで、ああ、その部分、考えなおしていこうと、もし思ったとき
それを本当にするのは、自分自身だということです。

憂生のものをよんで、もし、良かったとおもってくださったら、自分に反映させる。
そうしてくださるのが、憂生にとって、作品が活かされるということです。

こういう意味合いで、作品としてよみあげる感想に懐疑的なっている憂生が居ます。

読んだことで得たものを消化せず、そのまま、書いた本人になげかえしているようにも思え、
読んだ人の未消化な部分に気がつかされたり、感想も知らずのうちに披瀝になり、その人の未発達な部分が露呈されて、憂生にすれば、心配になるわけです。

お若い方なんだろうと思うので、なにもいわずにすませていますが、
感想ひとつからでも、見えるものがあり、
その不安定要素をこちらに投げ渡して終わっていると、見られているとは、
考え付けないとおもいますが、
憂生はそういうあたりを、ひどく心配してしまう人間なのです。

自分のウィークポイントを把握してさらけ出すことが出来る人は
自作品に対しても、生き方に対しても、同じ姿勢をもっていると思えます。
きちんと向かい合うことをモットーとしていると思えます。

ところが、その逆の場合、おそらく、作品も一見みばえのする
ものをかいていると思いますが、
自分とむかいあう部分が、未消化になっているのではないかと
思ってしまうのです。

もちろん、文章の巧い、下手ではありません。

鳩のように、ピジョンミルクにして、文章のなかにとけこませているだろうか?

と、不安におもってみたところで、
結局は本人がいろいろ、わかっていかなきゃならないものというのは、
ある程度の人生経験も必要だろうし、
作品に対しての姿勢というのか、目指すところがどこにあるか。

憂生自体は自分《あるいは、テーマ》をみつめなおすみたいなところを主にしていますが、
人によっては、巧い文章、小説家のような文章をかくことを
目的にしている人もいらっしゃるでしょう。

いろんな作品を書く人がいらっしゃいますが、
憂生にとっては、物を書くことは自分をせんじつめる作業でもあります。

ですが、ここに作品をおくと、誤解をうけてしまうわけです。

おいてある以上、勝手に評価してもかまわないというルールもあるでしょうし、先にかいたように、評価がほしいとおもっているものだろうという考えが
あるでしょう。
評価したい人の気持ちもあるでしょうし・・。
いらないともいえず、いるともいえず・・・。
評価してもらっても、それは、どこかで、その人の披瀝(あるいは作品)でしかないという考えもあり、自分の場所に人の作品をぶらさげているような、妙な感覚をあじわったり・・・。

およそ、ここに作品をおかれる方とはぜんぜん、違う考えを持っていて、
下手なことを言えば、《生意気な奴だ、感想はいらんのだとよ》と、どこかで
公表されていましたっけ/笑

まあ、正直言えば、此処まで、書いても、それをこえてでも、評価してくださったり、感想を書いてくださったり、が、あった場合は、(ここ、よんでねえ~~ってこともあるか/あはは)そのお気持ち、ありがたく頂戴します。

ぶちぶちぶち・・・

悪気のないということの怖さというか。
まあ、こういうのが、憂生にもあるんだと思いつつ、
今回の自分の心情を計ってみる。

問題があるわけでもなんでもない。
通常に考えれば、精一杯表現しているんだと思う。
ところが、その流暢さが逆に仇になってしまうのだろう。

たとえば、3歳の子供が言えば、
なんでもないことが、
大人が言うと、問題を起こす事がある。

大人ではないと判断できないのは、
その言葉。語彙と知識の豊富さだろう。

そこまで判っている人が?

と、思ってしまうわけだ。

ほぼ、最初から気に触っていた。

だれだれの作品を思い出す。
だれだれを思う。

これが多発すると、こけにされている気分をあじわう。

なにかと比較?並べるだけの受け止め方しかしてもらえないのかい?

あ~たの連想をこっちがきかにゃあいけないのかい?
憂生自体、他の人の作品を余り読まないという後ろには、
自分のオリジナリティを大事にしたいからってのがあった。

そこらへんは、影響されやすい憂生の欠点でしかないが、
のきなみ、誰かを思い出す、誰かの作品を思い出すとやられると、
いかに、オリジナリティをだせていないかってことになる。

これをよんで、他のものを思い出しました。

憂生風、やらしくいうと、
あんたとHしてたら、昔の恋人とのHをおもいだしました。

ってなもんだな。

他のものをおもいだす、連想ごっこをたのしんでいるのかとも思う羅列がつづくと、知識がかえって嫌味になる。
こ~んな男のことも、あ~~んな男のこともしってるのよ。
的、経験豊富《本来は知識豊富》さを、みせての自慰行為に等しくみえてきて・・・。
こ~~んな風に感じるのは憂生だけかもしれない。

なにか、欠けてる。

それは、多分、文学少女が陥りがちな、難しい言葉を使って喋ってみようとする精一杯の背伸びなのかもしれない。
そして、悪いことにというか、残念なことに、
憂生みたいに感じない人が多いのか、
あるいは、少女の背伸びを大人気なくとがめたりしないのか?

彼女はなにかしら、平気で並べ立てる。
憂生にはよく判らない。
だれそれの作品を思い出しましたとかいわれたことがないオリジナリティにあふれたものを書いてる人なのか、
誰かの作品を思い出しましたといわれて、嬉しいと思う人なのか?

暗に二番煎じですねと言ってるともとられかねない科白をはりつけられて、
憂生は二番煎じっぽい、ありがちな作品でしかないと思えばいいわけかな?
別にわざわざ、そんなこといってもらわなくても、かまわんのだが/笑

まあ、多分、そういうあたりの感覚の違いが、あるのだろう。

う~~~~~~~ん

しかし・・。
まだある・・・。

白蛇抄が・・・5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16

SO2があと9編

新之助があと3編

空に架かる橋。

で、迷っているのが、
官能小説ならぬ、アダルト小説。

普通の作品でも表現が念入り(?)なので、そこだけ、狙って読みに来るかばちとアダルトサイトのリンクに孤軍奮闘してたわけだけど・・。
ここにあがると、またも、いらっしゃるのかと、思いつつ・・・。

さらにアダルト作品をあげれば、
他の作品への余波を思い、やっぱり、やめようと思いながらも
SO2あたりは、思い切ってだした。

あちゃこちゃ、探しまくっていた人も今頃はみつけたかもしれない。
またも、パーマリンクのえじきになるか・・。

自分のところにいれこんでしまうから、
カウンターがあがらず、読まれていないと思っていたら、
ちゃっかり、くわれていたり・・・。

おまけにここは、解析できないんだろうし・・。

別IDでもとろうか・・。

永沢君・・どうすべ?
短いものが多いけど20編あると、やっぱ、惜しいとおもってしまうのが、
けちか?

憂生は鴨に変身した気分でした。

白蛇抄1~14までで、100万文字近い作品を出版できるものか、どうか、
たずねてみたところ、
「まずは、みせてください」とのことで、プリントアウトして送りました。
確か、900枚あったと思います。
送ったら、即担当者さんから連絡があり、企画室に持ち込むとのことでした。
ところが、出版するとなると、協力出版ということで、
ざっと、考えても500万。
「保留」ということになってしまいました。
そこに電話が入り、「他にお持ちですか?」ということで、3編ほど適当に送ってみたのです。
憂生は「保留」をどうするかの判断にするものだろうと、勝手に思っていたのですが
出版社側は「審査」をしていたのです。
白蛇抄も「出版が可能か、どうか?」を、尋ね合わせたわけですから
その答えがでるもので、可能ですが、出しますか?不可能ですので、出せません。が、明確でなかったわけです。

そして、審査になってしまった、「壬生浪ふたり・・」が満場一致で出版しましょうということになったのですが・・・。

当初の目的のものであるならば、いざ知らず、参考資料(判断材料)に送ったつもりのものに、出版しましょうと言われても、気持ちが動きません。

出版社は映画になったリアル鬼ごっこでさえも、最初は協力出版からはじめたのです。と、プッシュしてきましたが、「壬生浪ふたり」に100万かけるなら、他の出版社からは、白蛇抄、1冊ずつだしていきましょう。という提案もあったわけです。ならば、まだ、そっちのほうがいい。

ですが、何度もかいていますが、1~6は順番に読んで欲しいというように、
6の醍醐味をひきだすバックグラウンドが1~5にあったわけです。
最低6まででも、300万ちかくかかるわけで、100万あったらそっちにつぎこみたいわけです。

それで、壬生浪ふたり・・の出版を断わったのですが・・・。
この後で、企画部長から、「良作を世にだしたい。特別推奨作品に推したい」と話がきたわけです。

白蛇抄、1・2だけでもだしませんか?なら、まだしも、納得できるはなしでしたが、新聞社をふやす、店頭置き書店をふやす、広告を3段ぬきにする、
初版発行もふやす・・。出版費用も割り引きます。
ま~~~おいしそうな話です。

おいくらぐらいの予算ですか?と、たずねられ、たいして手持ちはないのですと返すと、70万くらい?・・。とそこらへんくらいまでなら、割り引けるかのようないいかただったので、こりゃあ、ないといったら、もっと、安くするのだろうか?と、疑問をかんじつつ、「30万」とこたえたとたん、
手のひらをひっくりかえしてきました。
「30万?あなた、そんな値段じゃ自費出版だってだせませんよ、こっちは、全国出版ですよ・・」
憂生は鴨に変身した気分でした。

他出版社でも、出版割引をおさえてくれたり、金が無いというと、
ローンでもかまいませんよ。くらいの言葉がかえってきていました。
発行部数は半分になっていても、壬生浪ふたりと同じくらいのページ数のものを75万までおさえてくれて、割引期間がすぎてもおさえていますと連絡をくれた出版社もあったわけですから、特別推奨というわりには、たいしたてこいれもなく、目先の金ほしさが、口をついてくるとも、「全国出版」のご威光に盲になってしまっているというか・・。

そして、下手すれば金をつけて、1000冊とひきかえに発行権利をなくすことになると考えたわけです。

まあ、そんな経緯があって、書評をいただいているのですが、ちょうど、よいあらすじ、概要紹介になるので、つかわせてもらっています。

感想で思い出した・・

これも、どこかで、書いたことに、にかよっている。

感想をいただく中で、
感想をくださる方の不安定要素が露呈されるということ。

まあ、非常に妙なたとえなのだが、
ある女性と知り合って、
彼女がある時、病気になったもんで、
丁度、仕事がやすみだったもんで、
お粥をつくってもっていってやった。

まあ、そんなたいして、親しい間柄ではないが、
旦那は出張で、子供がまだ、2歳くらいだったかな。

子供の食事もまともにつくれそうにない状況にみえたので、
そうしたわけだが・・。

とたんにぽろぽろ、泣き出されてめんくらった。

気分的にも不安な状況ではあったのだろうが、
憂生は、逆のことを考えていた。

そんなことくらいで涙をながさなきゃいけないほど
人に情をかけてもらえていないのか?

って、一風、変わった見方だった。

人にいろいろ、してもらえる人間はたしかに、
「ありがたみ」をうすく感じるかもしれない。
でも、それはいいかえれば、
幸せだということでもある。
恵まれているというべきか。

そして、そんなことくらいで泣く《感激屋なのかもしれないが》
と、いうことは、逆に恵まれていないという見方もできる。

そういうものに、似た観方をしてしまう憂生がいる。

なにげなく、書いている感想にも、こういう、ひとつひっくり返した見方をしてしまって、いろいろと不安要素を感じるということは、今までにも多くあった。
こうなると、どうも、憂生はもろい。

気になるんだな。

大丈夫かなって。

もろさだと、自分で自覚したのは、メールで相談にのってください。って、タイトルを見たときに思った。
ばかほど、迷惑メールがきているのに、どうしたんだろう。何、困ってんだろう?って開いた(←あほ)
結果、迷惑メールだったわけだ。

どこかにも書いたけど、気にかけると相手の思いをキャッチするときがある。
自殺未遂の未遂くらいですんだわけだけど、死のうとする思いが伝わってきて、これが、本当だったらたいへんなこっちゃと、1時間以上《時間を覚えてない》マジ、「念」をおくって、死ぬなってやる。嘘だったら、笑い話ですむわけだし・・。まあ、結局ほんとうだったわけだけど・・。
自分でいうのもなんだけど、そういう「相手を思う」みたいな?
それがベース。

そのあたりでの考え方がぽろりとぬけてる感想とかがあったりすると、無性にきになるわけだ。怒るとか、腹立つとか、そんなせせこましい思いは無い。
ところが、ぽろりとぬけるくらいの感想をかくくらいだから、言ってもなかなか通じない。通じたら、今度は相手が自分にショックをうける。

建設的にとってくれると、ありがたいんだけど、これが、なかなか、むつかしい。ひとつには、憂生がきがついてほしいと思っていうことが、きつかったり、偉そうだったりするんだろうと思う。
まあ、気がつく必要があるほど、悪いことなのか?って、問題もでてくる。

あくまでも、価値観の違いでしかない。

無題

官能小説という言い方が実はふにおちていない憂生である。

昔(どれくらい昔か?)の官能小説のイメージは
耽美的表現もしくは、秀麗な表現というのが、そうだと思っていた。

本人、そういう系統は読まないのでイメージしかないのだが・・。

昨今、なんでもかんでも官能小説という言い方になってしまっているのが、
いささか、疑問に思えた。
が、では、てめえは(あ、憂生自身ね)まともにかけるのか。

陳腐でなくエロ小説でなく、かつ、テーマが重め・・・。

かいてみようと、思った。

物書きの幅、ふやそうとも思った。

昔のイメージの官能小説を・・。

結果・・・。

無理だった。

出来上がったのは官能小説に程遠く
アダルト小説・・・大人向けという意味合いくらいのものでしかなかった。

このアダルト・・大人向けという言い方も今はエロ小説をさすようである。

アダルトサイトの影響だと思うが、
真摯にものをかいた生き様小説や哲学的なものなど

性表現がいっさいないものも、アダルト小説といえる。
単に児童文学とか・・との区分けとして、チャイルド・ティーンエィジャー・アダルトくらいの感覚なのであるが、もはや、大人が読める作品、大人の鑑賞に耐える作品といういう意味合いがなくなってしまっている。

ネットの中の官能小説・アダルトサイトの氾濫はものすごいものがあり、
アダルト作品を同居させたり(自分のな)した日には、他の作品まで汚染され、そういういかがわしい思いでしか、作品をよめないのか。という
低年齢(実際年齢でなく)な嗜好をまのあたりにすることになり、
30代~~くらいの人の嗜好に耐えていた作品群がのきなみ汚染され、
アダルトサイトにリンクされたり・・ちょっと、性表現があったら、(酷い時には(夫婦)だけでも・・)読み漁りにくる。
ネットマナーができていないというか、年齢が低いなら、(親がきちんとパソコンを設定してはじけばいいわけだし)まだしも、これは、いい年したやつじゃないと判らないという難しいいいかただったり、する。あたら、それが判るようになっているから、ろくでもないロゴでひいているのが、わかるわけだが、めんどうになって、ブログでの公開はやめた。

それが、ここにきて、非公開にしていたものをあげはじめた。

なぜだろう?

どうせ、まともによみとれないなら、一緒だなとも思った。まじめにかいてるものでも性表現はある。
アダルト的にかいているのも当然。
結局、作者がなにをいわんとするかより、その表現を目的にするのなら、同じこと。
まあ、今、もう一度挙げなおしているが、いざとなれば全部削除する気でいる。
実際、知ってる人がいるかどうか、わからないが、以前もここで、全作品あげていた。そのときより、少しふえてるが・・。3000ページくらいあったとおもう。それをすっぱり削除したことがある。できうれば、同じことをくりかえしたくはないが、ここぞとばかりにタイトル重視でとんできたりするかばちしかいないと思わされたら、また、おらんようになるしかない。

デ、封鎖中です。

連想感想?

感想書きませんをよんできた。

感想書きませんは笑い話?になるが、

感想いりませんは、喧嘩、うってるようになるなと
思いながら、よんでいた。

実際の物事として、感想を書く書かないは、本人の自由裁量だろう。

本人が他に書かなくても、感想を書きたい人はその人に書くだろう。

ところが、感想いりません。と、やったら、

自分はいらないくせに人の所には、書き込むのかってことになるだろうな。

どこかで、感想をもらったら、感想をかえさなきゃいけない。
とか?

そういうのもある気がする。

過去、憂生自体が自分のコメント欄とかでも、ばんばん、人の作品の宣伝を許可していたことがって、宣伝場所のごとくになって、逆に「良いのか?」なんてたずねられた事がある人間なもんで、自作品のことをかいてくださっても
かまわないと思ったりしている。

自分の場所で自分の作品のことをかくと、目の前に作品があるし、読んでくれてるものとの想定で物をいう。
ところが、人のところで書くと、読んでいないことを想定して書く。
そのあたりの説明のしかたなどで、本人がまた自分の作品への視覚がかわるときがある。
その作品への思いいれなどもかんじられて、憂生はなんか、好きだった。

感想を書きません。
と、言う場合、おそらくは、他の人の作品を対象にしているだろう。

自分の作品へ自分での、感想をよその人の所に書くというのはどうだろうか?

その場合も書きません。かな?

まあ、本編のほうの意味合いは違うんだろうけど。

感想いりませんまでは、いきすぎだと思うが
感想ほしがりません。くらいの気持ちも必要かなと思う。

昨今のお騒がせ事件にしろ、評価欄のつかいかたにしろ、
結局は「ほしがり」がかかわってるきがする。

憂生はいりませんって、どちらかというとそう思う。

いりませんつ~~のに、
それでも、かかずにおれませんでした。
つ~~のが、もっと良いが
かかずにおれませんというほどのものを書いてないから、
仮にそれでも、かかずにおれませんでしたときたら、
おちょくられてるとおもうかもしれないが、
実際になってみないとわからない。

デ、基本的に憂生も感想書きませんなんだなって思う。
いりませんか、いりますかはしらないが、
かかずにおれないところにだけかいてる。
だから、ほとんど書いてない。
それより以前、あんましよんでないか・・。

むむむ

どうも、物語を書く気分じゃないので、此処にぶちぶち、かいてるわけだけど、いろんな方がいて、考え方千差万別で、古い考え方する憂生は、めんくらうことがおおいのですが、
一番面食らったのが、此処に来た時の評価欄の荒れようかな。

今、だいぶ、改善されたのか?
なれてしまったのか、判らないのですが・・・。

評価欄だけをみてしまうと、なんちゅう評価じゃ?と思うものがたてつづけにあったり、・・・。
まあ、以前の段階をFC2小説第1期とするのなら、
感想屋とか、自主的コンテストとか、FC2小説のなかが、攪拌された時期があって、まあ、これがFC2小説第2期といっていいだろうか。
池の中が攪拌されて、活性化した時期だと思う。
今が第3期になるのか、過渡期になるのか、まだ第2期の中なのか、
わからないが、

何らかの党派?みたいなのが現れて、方向性を模索していくのは、
あるんだろうと思う。

生き残るという言い方でなく、たとえば、感想屋というのが、
消滅するとした時、感想の書き方?みたいなものや、
感想をほしいという気持ちを理解するなど、
自発的に、あるいは、自然に感想がかかれていく状態が浸透していったら
感想屋に頼んで、書いてもらうということは、不必要になってくるかな?

可逆性というか、リバウンドみたいなものがあって、
欲しかった感想がてにはいってみると、逆に感想自体の在り方とか自発性とか、感想内容?とか、なにかしら、検討しだす時期にもはいっているのだろうか?

今回の「感想書きません」のタイトルから、感じるのは、
「感想書きます」への警鐘ににたものだけど、
感想を書かないほうにも、書かない理由があるということが書かないだけに
判らないところがあり、感想を書かれないことにも、それなりの意義があるってことをみのがしてしまうところがある気もする。

憂生のようにどっかに、感想を保管してると、それを読んだ人によっては、
こんなふうにうまくかけない。(じっさい、あったことだけど)とか、それは、もちあげすぎだよ。とは、言えない・・し、とか、自分のものも保管されちゃかなわんとか?(整理された気分をあじあわせてるかもしれない)まあ、いろいろあるんだけど、憂生の場合は思い当たる事が多いし、自分でもいろいろ書くから、ひとりでやってろ/笑えない・・か・・・みたいなものもあるかもしれない。
いらないオーラをだしすぎてるところもあるし・・。

まあ、書かれない意義を検討できる状態ではない。

ただ、やはり、かかずにおれないってものを求めるなら、
そこらじゅうに書いてる人でなく、逆に「書きません」の人からのほうが、
それらしい。

簡単にかきこまれやすい(人徳なんだと思うけど)人も、かかずにおれないってのがみえにくいってのもあるかもしれない。

そう考えると書かれないという状況にもなんらかの価値があるはずで、
なんとなくだが、
そこらへんをみせられたようなきがするわけだ。

感想の感想?

妙なものだと思う。

感想など欲しいとか、そんなことさえ、おもわず、ひたすら書いていた時の方が感想がきたわけだけど・・・。

スランプ状態をおして、かいても、感想がこない。

すると、感想がほしいわけでなく、書いていたはずなのに、
感想に後押しされる自分がいることに気がついた。

高揚感みたいなものが、あるわけだ。

芸術家が麻薬でトリップして、作品をつくるのににているか?

どうも、そこに依存しはじめてる自分だと気がついた。

そして、感想というものを見渡す。

いろいろな感想がある。

だが、同じ作品をみながら、感じるところが違う。

作品すべてを語るということなどできるわけがない。

作品すべてを語るのはその作品そのものしかない。

感想をくださる人のバックグランドによっても捉え方が違う。
簡単に言えば、苦労してるか、してないか。

一言の中に自分とかさなるものを見出す。

まあ、そういう風に感想の持ち方の違いというものがあるわけだけど、
なるほどと思う感想を頂いているうちに
どこかで、依存が始まったのだと思う。

その後もいくつか、感想をいただいたが、
どこかで、さめている。

ひどいときは、そういう捉え方しかできないんだな・・みたいな、
物足りなさ。

物足りる感想がくれば、書く気がますんじゃないかという
棚ぼたを待つところもあった。

そして、最近、はたりと気がついた。

やっぱり、感想のもらいすぎ?

それもかなりこっちにくいこんでくるものが多かったから。
感想をあてどころにしていても、書く気がおきるわけがなく、
逆に
感想によって、自分の作品がかくも通じないのかをみせつけられる。

書く気が落ちる・・。

当たり前の話かも知れない。

感想が書く気を増させるとするなら、削げさせることもある。

そこで、思ったのだろう。

感想に依存している部分がある自分だと。

で、感想など欲しいわけでない。と、いう自分にたちもどるべきだと思った。

形は最初と同じなのだが、感想のありがたさも怖さもある程度わかった上で、
元に戻ったと思う。

螺旋階段を一巡りして、見える風景は同じという言い方になるか。

現実とのはざかい

思いが元になるということを白蛇抄ではかいているが、
実際、現実で、そういう話がある。

一般常識の世界では、因があって、縁があるということを
理解されているとは、思う。

だが、因果の因がなにであるか、判らない事が多い。

簡単にいえば、因イコール思いである。

が、応報部分をみて、因を知る事ができる人は少ない。
じつは「うまれたもの」という作品をみて、思い出していた。
この話のような(異形)ではないが、
片目がなく、残った片目も、まともな状況でなかった。

この子供の姿は、実は
母親の過去の行いによるものだった。

詳しいことは省くが、
こういう事実を明かされていたので、
「うまれたもの」を読むのは躊躇した。

ホラー・オカルトに分類されていたものの、
内容的にはむしろ、人文などにいれてもよいのではないかと思えた。
診察や、出産の様子など、出産経験がある方なのだろうか?
と、思う用語?があり、初めのとまどいを払拭させる書き方もあり、
異形の姿の子供によせる愛情も響くものがあった。
設定が違えば、身体(精神)障害者を妊娠してしまったという
現実の問題が絡む。
5ヶ月だったろうか?それまでなら、堕胎は罪にならず、
やむをえない処置として、選択できる。
昔なら医療が発達していないから、生んでからわかり、
時代が古くなれば、鬼子として、くびるという選択もあったと思う。
逆に、医療が発達していないぶん、育たないということも往々にしてあったと思う。
現代医療において、はやいうちに、産む、産まないを選択することはできるが、物語は、どうにもできない状態であった。
これが、はやいうちだったら、どうだろうか?

この物語の救いは子供が長く生きられないということだというと、
残酷ないいかたかもしれないが、
実際、(精神)障害をもっているとわかって、産む・産まないを考えるとき、
親の思いは苦しいと思う。
産めば、生活は一変する。親が元気なうちはいいが、先々をかんがえたら、一生面倒はみれない。一時のかわいそうに負けてしまって、背負い込むものは大きすぎる。
かといって、命をつむことだって、辛く哀しい。

そういう意味で、産まざるをえない状況設定は命をつむ、くるしさを減っしてくれていて、なおかつ、ひどい言い方だと思うが、最善の結末を子供がもっていたともいえる。
その子供にたいして、愛情をよせる。よせてしまう母性を描きだし、哀しい状況でありながら、短い命を生き抜かせた話に思える。
なぜ、オカルトジャンルにいれたのだろうとも思う。

形をかえれば、実際にありえる話であるぶん、あえて、そうしたのだろうかとも思う。
簡単に感想?にしてしまえない内容を取り沙汰にしてしまうのも不謹慎であると思いつつも、これで、筆をおくことにする。

自由

感想の中に語句の読みのルビなどをうたれると良い。
と、いうお言葉をいただいた。
このことについては、以前にしのごの、書いたので省くとして、
続いて、心配くださった言葉があった。

読みにくい漢字や難しい漢字があると、
敷居がたかくなって、避けてしまうこともある。

と、のことで、
憂生はかなりふてぶてしい返事を返したと思う。

多くの人によんでもらえるようにという配慮をくださったのは、
重々承知である。

だが、あろうことか・・・。

あるんだな・・。

多くの人に読んでもらいたいわけではないのである。

本当に読みたいと思ってくださる人に読んで欲しい。

と、いう言い方が正解かもしれない。

場所によっては、仏道的思考や求道精神ににたものをしきつめている。

今まで、いくつかの他の物語を読んでくださった人は、
「憂生の視線」にきがついている。

いや、そうでなくても、ものの3行もよめば、自分の嗜好や志向にあうか、あわないか、判ると思う。
この時に文字が読めないことを先に考える人は、通常は読むのをやめる。
今まで、それでも、読みたいと辞書を片手によんでくれる人もおおかった。
そこまでしてでも、「読む価値」を感じてくださる事が
憂生の物語にこめたものとむかいあうことだとわかってくださっていた。

だから、読みにくい、ルビをふれといわれることはなかった。

似たようなことを仰ってきた人は他にもう一人いたが、いずれも、「自分が
そういわれた」と、いうことを判断基準にしていた。

もうしわけないが、それは、中味にひきつけられなかったという裏返しの気がする。読めないが続きがきになる。どう読むかなど後でよい。
重要な語句でなければ、なおさら、大まかな意味をつかみとればそれで良いわけで、前後の文章であとは判る。
そして読めなかったら、たとえば本人にきくとか、しても良いわけだが

逆に勉強になる。と、辞書を引いてくださっても居た。

非常に言い方は悪いのだが、
その方の書く内容がいまひとつ、読みにくい、惹かされるものでなかったから、そういう「読めない」のほうにこだわらせる。
と、いう考え方もなりたつ。
で、じゃあ、憂生のものが読みにくい。惹かれないものであるのなら、
無理をして読みなさんな。と、思うし、敷居の高さで読めないくらいの思いしかないのなら、むしろ、読んで欲しくない。この先々だって読めないものになる。
それをあえて、読みやすくしてまで読んでもらいたいとは思わない。
誰でも彼でも、読めるようにする。
それは、あるいは、安売りでしかないと考える憂生も居る。
読んでもらいたいと敷居を低くする。
とにかく読んでもらえればそれでいいか?
なにかしら、読ませる根性・売り根性にも見える。
どこかに書き手が読み手を選ぶ権利を行使できる自由があるとかいた。
必死に思いこめて書いたものだからこそ、それを受け止めてやろうとする読み手を選びたい。
ルビひとつで、そのふるいができるなら、あるいは、好都合かもしれない。
書き手がどこにターゲット(失礼な言い方だが)をおくか。
ここが明確になっている憂生は、自分が読めないから、ルビを打てという読み手がいたら、読んでくれるなというだろう。
敷居を低くしなければよめないのなら、この先々の内容、下に敷いていることなど到底よみとれないし、最初からそこに興味は無い。
逆をいえば、自分の物語にそういう自負がないのだろうか?
それとも、内容がないのか?下に敷くものがないのか?
と、思ってしまう憂生が居る。
だが、それは、憂生の場合だ。
その人が、ターゲットをひろげているのなら、それもよかろう。
ただ、おそらく、一般とは、逆行する考えを憂生がもっているとは、思いもしなかっただけだと思う。
まあ、これもかれこれ、7年近く、いろいろなところで、作品を発表してきた結果にたどり着いた憂生のわがままでしかない。

強さ

いつだったか、くみなさんが憂生にくださった言葉だった。

「でる杭は打たれる。
打たれたら、又、上がってくれば良い」

物書きなんていうのは、自己主張の塊みたいなものだ/笑

その主張をたたかれ、
ぽっきり、杭がおれるなら、
それだけのもの。

地面にうずまってるだけなら、
そこまでの主張でしかないかということ。

こんな危機はだれでももってるだろう。

だが、馬鹿の一念岩をも通す。

ってのもある。

馬鹿になりきれるか、なりきれないか、
それだけの違いかもしれない。

馬鹿になりきった物書き馬鹿には、
まだまだ遠いが
とにかく、今は文字にかえていく。

打たれるほどでてこれたも良しとする、
うたれ強さをもちあわせていくのも忘れずに・・

お詫び

え~~。いろいろ思うところあって、ラフな読み物だけ(でもないのですが)
こちらにおくことにしました。(白蛇抄はあと3編ほどあげる予定、最後に空に架かる橋をあげようとかんがえていましたが、挫折しました。(きまぐれともいう))
アウトローというか、変わり者というか。
また、気が向いたら、あげるかもしれませんが・・。

続き物はこちらで、あげはじめていたので、あげていこうとおもいます。
1000文字ちかくなると、テキスト画面がスタックするので、やりにくくてしかたがないのですが、
今の状況がよくがんばっても2000文字ほどしかうちこめないので、
まあ、ちょうどよいかもしれません。

ある友人が、最終的には「思いいれ」をもちつづけられるか、どうかだという
ことをいっていたのですが、
この2~3年、自分の中の価値観が変わったというか、
つきつめたいことが、自分の中で必須じゃなくなってきている・・・
希薄感というのかなあ。

のめりこめない自分がいたわけだし、
書くことをつきつめていく部分が踊り娘で(1pにしてしまいましたが)象徴されているように、「何かの役にたつことか?」というものに、応えられなくなってる自分がいました。

ほぼ自分のためにかいていたものでしかなく、自分を詮議していくためのもので「読み物」というものではないわけで、これをここにもってきたのが、間違いだったという思いもしています。

お登勢なども、最後の部分、「情けは人の為ならず、自分に帰ってくる物である。本物の情けを掛ければ、本物が、薄い情けを掛ければ薄いものがかえってくる。(もちろん、帰ってくることをあてにしていてはいけませんが)偽者がかえってきたと嘆くことより、自分自身が本物になっていくしかない」
などと、いう言葉は憂生自身の指標というか、自分への励ましの言葉だったわけです。リアルの中での自分の通り越しの思いをそのままにいれこんでいるわけで、これを「よんでおもしろかった」とやられたら、正直、自分のいきざまを見世物にした気分をあじわうわけで・・。
こういうのが、いくつもあり、読み取れない人が「おもしろい」とやることが悪いわけでなく、「読み物」という「見世物」として、ここにおいた憂生がわるいわけです。

こう言う意味合いで、見世物として、扱ってしまったことを反省しつつ、
お登勢はおいておきます。

16万6千文字の作品を読んでくださった人がいるという事を思うと、
簡単には削除できません。
邪宗の双神も因縁納所の考え方をしきつめたもので、これも12万文字近くあったと思いますが、白蛇抄の一環なので、削除しました。読んでくださった方ありがとうございました。

ある人への思い

お互いがお互いから受け取ったものを自分の中で詮議せず、これ以上言い合いしていてもどうにもならん。
憂生は渡すものは、全部、渡した。
憂生がおまえから、受け取ったものの意味合いをつかんでいくのが、
この先の命題であり、それは、おまえも同じだと思う。
と、いうことで、決別した。

その受け取ったものの一つの結論は、先にかいた、「超えていく」ということであり、
自分のフィルターを通した見方を外さなければ成らないこともある。
仮の仮定でしかないが、
「人に死を売り物にする」ということへの、見方が
彼女のPDSTからの視覚であるのなら、
彼女はPDSTを克服しなければ、そのフィルターを通したものの見方しかできない。

純粋に物語を物語として読めるというほどの幸せは無いと思う。

そこに自分をうつしだしてしまう「不幸」があることは、あるいは、哀しいことかもしれない。

だが、だからこそ、
「のりこえていくものがなにであるかを知らされる」

彼女の場合、作品に対しての・・・・う~~ん,言葉がでない・・判断?
だと、おもっているかもしれない。
だが、ひっくりかえせば、「そうとしかみえないフィルター」があると
いうことを言っているわけである。

ここを、どうするか。

たとえば、自分は(彼女)は
「生きるということを真正面からとらえる」
と、いう風に
フィルターがあるままに、視覚をかえる。

これが、ひとつにあるがままであろうし、
「のりこえていく」という事であろうかと思う。

傷をもたない人間はいないだろう。
その傷が今でも痛い人間は居るだろう。

憂生も実際言われた。

あこや貝の話で・・・。

喉をきりさかれ、痛くてたまらない「核」をいれられ、
あこや貝は吐き出すこともできず、
痛みをこらえ、その痛みをなんとかしようとして、
真珠をつくる。

「核」をはきだそうといつまでももがくことではなく
「痛み」に嘆いて生きるばかりじゃなく・・。

立派な真珠にするしかない。

辛くて哀しいことを逆に自分の「宝珠」にしていけ。
できる、おまえだろう?

なんど、この言葉にこの思いにはげまされたことだろう。

だから、憂生は彼女のもつフィルター(核)に彼女がもがいているようにみえた。

もう一つ乗り越えていかなきゃいけないものがある。

彼女のことは、いろいろ、心配された。
彼女とかかわらないほうが良い。という意見もちらほらあった。

だが、憂生はことごとく、無視してきた。

あんたたちが見てるのは彼女だ。


憂生がどういう思いで彼女をみているか、わかるまい?
それが、憂生を信じてきた人間のいう事か?
白蛇抄の中でも扱ったことだ。
澄明への信じ方が薄かった。
一方で、皆が見放してもおかしくないことでも
憂生を信じてくれた人間も居た。

そして、憂生自体が憂生を信じている。
憂生がおまえから、受け取ったものの意味合いをつかんでいくのが、
この先の命題であり、それは、おまえも同じだと思う。
と、いうことは、今でもちゃんとある。
この先もそれは続き、今は「のりこえていく」という見方でみている。
この先、また自分の視覚がひろがれば
もっと深い理解ができるかもしれない。

憂生はお前の渡してくれた「核」を今もしっかり喉に入れている。
かすかな痛みはあるが、大事な「核」だと思っている。
おまえの望む真珠にすることはできないかもしれないが、
けして、その場限りの思いでないことを
ここをかりて、伝えておく。

そして、もうひとつ、考えている事がある。

「作品に自分の傷を映し出して、検討する」これをして、「読み物」にする。
その読み物として発表することを、
異常な自慰行為だと捉えたと思う。

顕示欲の塊でしかない。と・・。

いいかえれば発表しなければ問題はない。

こう言うことになるかもしれない。

この命題について、憂生は明確な答えをまだ、持ち出せていない。

ただ、ひとついえることは
ある人間の執筆姿勢だ。

憎しみあるいは、呪・・悲しみ・・こういうものから、ぬけきっていない状態の文章は読む人に「因縁」をあたえる。

「被り」をあたえてしまう場合がある。

この部分はうまくいえないし、わかるように説明しようと思ったら
憂生のスピリチュアル部分から話さなければ成らない。

だから、なにげにそんなことがあるものなのだと理解してほしい。

結局、自分自身がのりこえていって、幸せな状況までいく、あるいは、幸せな状況であることに気がつく。

ここまでいかないと、物語も完結しない。


どうやって、のりこえていったか。

そして、幸せになったということを持ち出していかなければ

「負」のエネルギーをあたえるものばかりでしかない。


此処のところにきがつかず、「負のエネルギー」を発表してしまうだけなら、
おまえの言うとおり、異常な自慰行為にあたるだろう。

傷だらけの自分の痛みがこもったものを人に読ませる。

だがらこそ、現実で幸せになれという。

のりこえていったものを映し出せといった。

まったく、お前のいうことの回答には、なってないと思うし、
お前の論点をしっかりつかんでるか、いまだに判らない。

だが、確かに、そんな作品を発表するということは
異常な自己顕示欲であるということは
すこしであるが、理解している。


だが、何故、そうまでして、発表するかという部分について、

おまえは、目を向けていないと思う。

実際、憂生はそういう「良くない状況の作品」を発表することを薦め

憂生自らが「負のエネルギー」を発していることを伝えた。

「こんな作品を発表することはよくないことだ。とりさげる」

といった作者にいった言葉が先に言葉だ。

自分が乗り越えていく事が命題だとわかれば良い。

負のエネルギーを出すものをがプラスのエネルギーをだすものに
かえられたら、その時に物語りもプラスのものをうみだす物語として
書き続けていける。

まさに自分の人生そのものを(内容でなく)物語に投影させてしまう。

こういうものをして、自己顕示欲と思うなら思え。

物語の底のものを読み取れるほどに、自己討議をしているお前なのか?

と、いう疑問が生じる。

だが、それでも、まだ、おまえのいう「真意」に近づいていないどころか、離れてしまっているのかもしれない。


いずれにせよ、
この問題も憂生の中で「核」になっていることはまちがいない。


また、なにか思ったら、書く。

今はまだ、こういう理解のしかたしかできないことをわびておく。

ある物語のこと

因縁が因縁を呼ぶ。

と、いうわけではないが、
不思議なもので、物語を読んでくれる人
それぞれで、「引っかかる」ところが、違う。

SO2は不埒な書き方をしているが、
それでも、立派に?人の心に触れたことがあった。

「相手を好きだからこそ、受け止められる」という話だが、
一人はうけとめきれなかった自分をみつめていた。
もうひとりは、好きでもないのに、受け止めているという状況をかかえながら、
「すきでもない」という心にさえきがつかずにいた。

物語をよんで、どこにひっかかるかは、
その人のバックグラウンドにもよる。

そして、一見、不埒な物語からでさえ、
示唆をうけとり、
自分の人生をみつめなおす。

こういう事態が発生してから、憂生は、物語の重み?は
その人その人によって違うと思うようになった。

そして、
因縁があるという言葉を思い出す。
因があるから、その物語と縁ができる。

と、いう場合もある。

言い方をかえれば、
「その人にとって、必要な物語だった」
と、いうことになる。

複雑なくぼみをもつ物語が読まれることが少ないとすれば、
「その物語に因縁がある人がすくなく、不必要なのだ」
と、いうこともいえる。

こういう意味合いで、読まれることが少ない(あるいは、ない)ほうが
よいという考えもなりたつ。

もっとも、窪みの大きい物語は封鎖している。
笑う女もおそろしい物語で、以前は
面白半分に読む事があったら、その思いも主人公と同じ結末をもつかもしれないという、自分の中におそろしさを現実にする基があるんだよ。
と、いう注釈をつけたと思う。
だが、その話どころではない。

その話も、「赦す」ということはどういうことか。
真摯に量る人間が配信をのぞんでくれた。
だが、一方で、その人間が「赦す」を自分の中で討議したがる、せざるをえない背景を思う。
聞くことはしなかった。
彼が何を「赦せないか」
その心の枷をはずすのは、自身しかいない。

憂生ができることは、その物語に、
「彼の中の赦せないことなど、この物語の主人公の辛苦を考えたら
まだまだ、浅瀬でしかない」「物語の主人公(ひいては憂生)が、赦せたくらいだから、自分の場合もできる」とおもわすことができるような、憂生が掴んだ「真実」をかきしるしていくことだけだった。
だが、この物語こそ、公開すべきものでないときが着いた。
自己顕示などというちゃちな物事に汚染される内容ではないが、
この物語の窪みは、想像できないほど深い。
この窪みにあえてはまりくる好奇さえ、うちのめすものがある。
軽々しく読みに来る人間を排除するためにも、
本当に信用できる人間とその重みにつぶされない人間だけに
配信を許可した。
だから、人数は少ない。片手にあまりもしない。
こういう物語だからこそ、縁をつなぐのは、限定しなきゃいけない。
と、そう思った。

かな?かな?

?
なのが、
「しないで、しないで!」って、BL(かな?)ギャグです。
これ随分うしろのほうにあります。
投稿順でいえばあたらしいのですが、ここを読む方が多い。

なぜじゃ?

タイトルでしょかね?

それとも?

被害妄想気味の憂生は非公開にしていた、アダルト・人文部門に登録した作品のことをかんがえました。

ここは、非公開にしても、アドレスがわかっていれば読める?
ような話をききました。
おなじ近辺にあげた「しないで、しないで!」なので、このアドレスナンバーをかえれば、永沢作品にいきあたるのかもしれないのかもしれない。

う~む。

それでは、非公開にした意味がないのでは?

と、思い、あきらめて、削除しました。

いや、「しないで、しないで!」って、通常なら
「して」とくるべきロゴが違う。
どういうことだと純粋に疑問をかきたててしまってるのかもしれない。

それだけでしかないのかもしれないのですが・・・。
もろむごく、パーマリンクにとりいれたり、アダルトサイトにリンクされたり、仕方が無いところがある反面、立ち直っていく主人公をよみとってもらえないのかと、がっくしきて、封鎖してしまった作品だっただけに、
やっとこせ、ここでなら、ときたま、公開してみるとか・・できるかなという思いがあったのですが、
やはり、自分の中で傷?恐怖症?になってるところがあると思います。

ま、びくびくした、ろくでもない考えをわきおこすなら、
えい、元を断てというなもんで、削除してしまいました。

これで、まだ、数値が上がるのなら
タイトルのせいでしょう・・

しばらく・・・

ブログのほうにまいもどっています。

白蛇抄第17話をかこうと思いつつ、どうも、違うものばかりあげてしまうので、もう2年ほったらかしになっています。
ここにいると、ついつい、
浮気心がでてしまう/笑

こちらに舞い戻ってきて、ラフなものでしたが、
7編?くらいかかせてもらえ、
そういう・・・
書きたくなる気分をもたらせてもらえることに
ついつい、
居心地が良くなる。

で、またも偉そうに言っている
「作品は完結してこそ」
を、見事に裏切り続ける・・。

こりゃ、いつになったら、仕上がるのか?

まあ、この3年ほど、スランプ状態で、
書く気にならずにもがいていたので、
ラフにかいていくということで、
助走をつけさせてもらえたとおもっています。

挙げたかとおもったら、削除してしまうという
くりかえしばかり、やってきましたが、
おそらく、こちらに残している作品だけになります。

不埒な内容のものが多いのですが、
他所でですが、まじめなものもかいていますので、
どうぞ、ここだけの内容で
ちょっと(ちょっとじゃない?)怪しいギャグ(まで、いかない)作家との決定は、
半分だけにしてやってください。


それでは、また、笑って読んでもらえるかな?作品が、書けた時には
こちらにあげさせていただきたく思っておりますので、
そのときは、よろしくお願いします。

あはは・・です。

え~~。ブログに戻りまして。
チサトの恋も移行しまして・・。

さ~~て、白蛇抄かこう・・と
準備をしはじめていたところ・・・。

またも、でました。

ちょいさ♪

浮気も~~~ん。

ちょっと、頭の隅できになっていた、
不倫話。
これと、霊感占い師の話。
くっつけて・・。

気になる状態では、白蛇抄かけね~~~~って、
そっちを書くという・・・。

なんのため、ブログにもどってんでしょか?

たんなる「嘘つき憂生」を立証するだけになってもたやんけ!!

思うままに

感想をいただくことの二次的弊害。
と、いうことを思う。

憂生もこの部分があったので、ちょっと、書いたと思うが、
自分の作品を読み取ってもらえなかった。と感じる感想をいただく。

そこに、次に読み取っていただけたと思える感想がはいる。

その感想をもらいながら、
うしろで、「読み取れなかった人間」を痛烈に批判する思いがわく。

あるいは、自分に凹みが生じているわけだ。

「読み取られない作品だった」という凹みが。

その凹みをそこで、披瀝しかねない。
「読み取ってもらえない作品だったと思っていました」
などと、やれば、相手にすれば
「そこまで、高尚な作品でもなかろうに」
とか
「読み取れるが普通で、読み取ったことを喜ぶほど
この人は読み手のレベルを馬鹿にしているのか?」
などとか、どこかで、自分が高飛車になっていることを
披瀝してしまう。

こういう部分が出てしまう、元の「読み取られなかった」という凹み。
ひいては、読み取らなかった人間への批判が、形を変えて
読み取っ手くれた人のところでわいてきてしまう。

憂生は自分でなんちゅう情けない状態になってしまったんだろうと思ったわけだ。

嬉しい感想をいただきながら、それをそのまま、受け止められない憂生のうしろのぶつぶつ。

感想の怖さというのは、こういう事なのだと思った。

もちろん、読み取ってもらえないという内容がどういうことだったかという部分が判らないから、こう書くと、「よみとってもらえない憂生が拙いだけだろう。そこを、反省すべきでは?」と思われると思う。

このあたりは、逆にひっくり返せば、
「読み取ったと思われる内容にかんじとられない感想・評価側の説明不足」もあると思う。

その感想や評価自体がすでに、作品への感想や評価を逸脱したものと
感じられる捉え方だった部分があり、まあ、随分前の話だが、
それでも、個人の捉え方をしのごの言う必要はないと考え、放置した。
そして、最終的に説明不足をものともしない態度に業をにやした。


自分の考え(感想)さえのべたてれば、それで、終わりか?という
作品へのぼろな扱いに甘んじていられないと、削除をねがったわけだが、
こういう風に扱われてしまったという凹みがいつまでも、残っていて、他の方の作品への感想をして、どこかで、「こういう風に作品に対峙してくれるのが、本当じゃないか?」という、思いがどこかでわいてきて、感想を感想として、そのままに受け取れない自分の凹みにもがいていたと思う。

そこに、感想がまたいくつか、はいる。

この内容も「説明不足」のものでしかなかったのだろう。

感想の書き方というものにより、妙な部分が露呈されるということがある。

過去、このことで、かなりのメールのやりとりをして、
もうしわけないが、
「相手にそう思わせてしまうことをするべきじゃない」
と、いうことを話した。

彼女がやっていたことが悪いわけではないが、
たとえば、今回のFC2小説内のお騒がせ事件を
実は自作自演で、やりました。
と、いうことを言ったとする。
おおがかりな設定でみんなをはめました。
と、いうことを言ったとする。

この部分で、
どれだけの人間がこけにされたという思いをもち、
他の作家に対してまで、不信感をもつ。
この人も?実はその人?などというように・・。

こういうことを実際、大掛かりな芝居であったとしても
憂生は別にかまわないと思う。
それを公表するようなことを言うな。
なのだ。

それと同じようなものを無神経に喋る。
聞かされた人間がどういう思いをもつか。

この部分の配慮があまりにも欠落していて、
自分の行動の「余波」への自覚がない。

本人はなにも思っていないから、
危険な部分を平気で喋る。
このフォローに終始することになる。
憂生がものすごいあほじゃったということだなあ。
とか、そんな言い方で彼女が露呈した部分を
さらりと流しておいたと思う。
それにこりず、まだ、言い始めるから、
詳しく説明したら、
気がついていない人間まで傷つける。
言うにいえない場所でのこと、
だいぶ、足りない脳みそをフル回転させた。


話が微妙にずれたが、
感想の中に本人が気がつかない「妙な部分」がでてしまうということを
たとえばで話したわけだけど、
これに気がつく憂生が悪いのか?

相手の為にも一生懸命かいている感想であっても、
「妙な部分」がでてしまうときがある。

自分の思いをいう個人感情でしかなくても
どこかで、相手の感情をさかなでにする場合もある。

作品と作者は別だという考え方は憂生にはない。
感想もまた、作品であるとも思う。
その作品に妙なものがでてきた時
作者のほうにかんがえなおしていただきたい「作者自身」がいる。

と、いうのが、先にかいた、たとえばの彼女だったわけだが、
今は、良い風にかわってくれたと信じているわけで、
まさか、今回のお騒がせ事件が、自作自演ではないと思いたいが、
犯行声明のようなものをにおわせた人間が居たのも事実だ。

そのあたりで、
以前にも似たようなことがあり、
嫌味な言い方だが、
彼女に考えをあらためてもらうように奮闘した(つもり)の人間がいる。

このあたりの人間の感情までも
ふみつける発言をしているとは、
思いもしないだろうが、

何気なく、書いた一言にでも
「妙?」を思わせ、考え直して欲しい部分を露呈させたまま、
お騒がせ事件はうやむやになってしまった。

いろんな捉え方をしている人がいるが、
憂生もいろいろと考えさせられた事件で
その部分で、「良し」にできる事件として終えることも出来たと思う。

そこを、自作自演だったかもしれないという犯行声明ともとれる
一言をだしてくる、余分。

あとあじの悪さだけがのこり、
そこをついた一言のうしろの意味合いを感じ取ってもらえたどうか・・。

出しちゃいけない部分というのがあるのも事実なのだと思う。

意図

いろいろと、考えさせてもらうことができて、面白い(この、面白いは、面が白くなるという意味合いの面白い)

その昔、感想をくださる人が、「作者の意図することと、違う事を、書いて作者をがっかりさせはしないかと、考えると、書けない」と、言っていた時に、
なにか、「?」と思ったことがあったのを思い出した。

なにを「?」と思ったか、みすごしにしたまま、結論を持った。
「どこにひっかかるか、どう読み取るかは、各人の凹み場所によっても違ってくる」
だから、作者の意図することと違うのではなどと、気にすることはない。

で、憂生の場合も多く、そう考えている。
が、問題はその感想の内容を自分で詮議することだと思う。

ある方の場所で、ひょいとでてきた例えが
「恨んでないと思っていた自分が、実は恨んでいたことに気がつく、云々・・・・」
すげえなって思う。

自分側の問題がぽろりとでてしまう。

精神をたわめさせるということで、「思っていないと否定してしまうことでバランスをとる」という、たわめさせ方がある。

この友人のことが頭に沸いていた。

深淵から、引っ張り挙げるためには、「思っていないと否定したことを、肯定できる」ことを先にしなきゃいけない。


こういう友人をどうにかしたいという、憂生の一部がでてくる。

結局、感想というものが、こういう側面をもつ以上
読んで、感じたことを、自分の中で「意識化」していくことが大事なのだと思う。

作者の意図を読み取れているか、どうかなどを気にして、思うことを外にださないほうが、もったいないのでは?
自分の分身を意識していくチャンスでもあるのだから、
作者の意図より、大事にすべき「自分の感情等など・・」に遭遇するほうが、貴重だよ。

と、前回はそんなふうに感想を書いてくださる人の引っ込み思案を
プッシュした覚えがある。

一方で、作者の意図というものを汲み取るということができるものだろうか?
と、いう思いもあったのではないかと思う。

今回の思案中の意図をいうのならば、
「不倫中のある友人に見方をかえてほしい」
で、あるわけだけど、
これを汲み取ってどうするの?
熱いメッセージがこもってるとか?
痛烈な批判がある。気がついてほしい。とか?
って、感想をかくのだろうか?

違うんじゃないのかなって、きがする。

野坂昭如の蛍の墓についても、
本人のエッセイや解説などにより、あの話が野坂昭如の
実体験であり、生き延びてきた痛み・・のようなものが、書かれている。
と、思うが、このあたりは一人の作者の後ろ側まで入っていった人がいるから、読み取れるというのがある。

作品だけから、読み取るのは、やはり、「自分にはこう読み取れる」の場合が往々にしてある。

で、前述の作者の意図をよみとりまちがいしては、もうしわけないのでは、と、いった人間は憂生の裏をある程度知っていたし、本人からもいろいろ、相談があったりして、現実での憂生の考え方をある程度しっていた。

それでも、野坂にすれば、自身でもいうように、
「懺悔」でもあったものを、あれは、懺悔という意図でかいたのだ。
と、言うものでは無いと思う。

そこに触れることは、「厳粛」であるべきだと思う。

あえて、自分で懺悔であるといった野坂の真の意図が、そこであるのなら、
安易に汲み取ったなどとはいわない。
あくまでも、野坂の作品から、憂生が感じ取ったことでしかないという。

汲み取ったなどといったら、野坂が肩をおとしそうである。

彼の作品の「意図するところ」にちかよれているか、どうか、そんなこともどうでもいい。
野坂という人間をすこし、知りえた気がする。

とうてい、後ろの部分などわかることではないが、
憂生の心の内に入りこんだ存在であることは、間違いが無い。

こういう意味合いで考えると
作者の意図とはずれた取り方になっては、申し訳ない。
などは、
考える必要がない。

自分にはこういう風に読み取れた。

で、良いわけで、

その読み取った部分を聞かせていただくことにより、

こう言う風に読める部分があるのだと発見させてもらえたり
あるいは、そのままストレートにポイントを掴んでいるなあと思ったり
逆に、受け止められない相手側のバックグランドを思ったりする。

もちろん、受け止められるように、書いていないという
憂生側の問題もある。

作者の経験からの考え方もはいってくるので、
それが、当然の尺度として書いてしまうところももちろんある。

この背景ごと、読み取るという場合、どうしても、
読み取り間違いがある。

自分の理解の範疇でないことを、理解しようとしても
自分の中にしか材料がない。

それで、かまわないと思う。(憂生が読み取り側に回った場合を言う)

「本を読むという事は畢竟、自分を知るということである」

憂生はそういう風に考えている。

野坂の思いを知りたいと思う憂生がいる。

のであり、

野坂の思いは野坂のものでしかない。

その思いが文字というものに結晶していく、その過程云々まで
到底、はかりしれるものではなく、
わずかであろうが、彼が思いをこめたものに触れる。

それをして、
ペトリ皿にいれて、検視するような真似はしたくないと思う。

はかりしれない過程をへて、一つの形になったものを
こんな意図があると掴み取ったと
あるいは、つかみ取れると口にすることへの反感が
昔の段階ですでにあったのではないかと、思う。

以前、ある人の作品に対して、ああ読み取れる、こう読み取れると
本人と討議?したものでも、40ページほどのものになった。
それでさえ、自分がそう読み取るというものでしかなく、
本人とて、作品の意図はここにあるなどと限定してしまいたくないだろうと思う。
いろいろな広がりを感じながら、その中で
自分が感じ取ったものを価値にしていく。

作者の意図があるとするなら、そこかもしれない。

作品は作者の手から離れたら一人歩きしてしまうもので、
本来はどうとられようが、どういう意図があると推し量られようが
作者が云々することではないとも思う。

ただ、作者の意図をよみとれなかったら、申し訳ないなどと
考える必要は無いと思う。

これは裏返せば、
読み取り不足だと思われる自分を心配しているだけになってしまう。

そんな自分を心配せず、読み取り不足なら読み取り不足でもかまわないと思う。
そういう風(どういう風?)に受け止める読み手にだって、
いろいろなバックグラウンドがある。

その部分を尊重すべきであり、なによりも、書いている本人がそこを尊重すべきだと思う。

憂生で言えば、恨んでいると思っていなかったのに恨んでいるときがついていく怖さというものをもちだしてしまうバックグラウンドがある。
このバックグラウンドで憂生が心を砕いている物事があり、それがそういう形(披瀝)になる。

そこを意識させられる作品は憂生にとってありがたかったし、そこを考えたら、この作者の意図はなどと、軽々しくいえない。
そこまでの物事をおしだしてくる作者にも、いろいろとあっただろうと思う。
その部分を量ることなど到底できないし、不遜だとも思う。

ただ、ただ、うけとめ、わずかながら、自分がかんじたことを書かせてもらった。

作品の本質に届いたことをかけたか、どうか?なども
どうでもよい。

自画自賛の最骨頂になる。

精一杯、感じたことを書く。
それがたとえ、まとはずれだとしても
作品からいただいたものはありがたい。

こういう憂生がいるから、
なおさら、作者の意図からはずれてるかもしれないので
などと、気にしなくてもよいと思う。

こういう風にうけとめたという自分を大切に思って欲しいと思う。

だけど、あまりに披瀝部分に問題かなと思われるものがあると
憂生はそこを気にする。

過去、そこらへんが多くあり、物語の人物に対して、異常なほど、毛嫌いをした人は、やはり、後ろ側でかなり苦しい状況をかかえていたりした。

自分の闇部分で読み取ってしまうのだと思う。

現在、一人はのりこえて、幸せな生活をおくっているが、もう一人はわからない。

作者の意図はあるいは、
闇の部分を照らし合わせて、現実部分を修復してほしいであるのなら、
この意図を読み取ることは、イコール
現実部分を修復していくことにある。

読み取っただけでは、不遜であると思うのはここにあるのかもしれない。

どうも、評価されるのが、好きじゃない。

せっかく、評価してくださっている方もいらっしゃるのだけれど・・・。

エッセイ?はこだわらないんだけど・・。

で、自分でも以前にかいた。

★いくつという風に作品からうけるものを数にして、評価してしまうというのを、自分が好きじゃないから。

憂生自信は評価してもらうために、作品を書いているわけじゃない。

FC2小説の住人の多くは、評価を喜ぶ人、評価をほしがる人が多いと想う。
この前のお騒がせ事件の裏にも、そういう思いがあったと思う。
なにも、評価が来ないのが寂しい、つまらない。
だから、酷評でもないよりは良い。

だが、憂生はどうも通常の感覚と違う人間のようで・・。

評価はほしくない。むしろ、感想のほうが良い。

もうひとつ、こだわらせるものは、特別推奨作品の話が舞い込んだ時の話によるかもしれない。

出版を目的にしていたせいもあろうが、
推奨作品に推したいという、許可を願う形があった。

評価というものが元になったうえでの、判断であるが、許可を得る。

その話も断わった。
さぞかし、出版社側もビックリしただろうと想う。

出版社側の評価を蹴ったんだから。

とは、いうものの、本意でない作品に掛けられる金も情熱ももちあわせていなかった。
かつ、参考文献でしかないと想ったものを勝手に審査にかけ、出版しましょう。断われば、特別推奨作品に推したい。

ええかげんにせえよ。

と、まあ、そういう経緯があったわけだけど・・。

この部分での、こっち側の感情はむこうには、理解不能だろうとは想う。

評価してやったんだ。認めてやったんだ。出版させてやるんだ。

上から目線というのだろうか?

てめえの儲け主義じゃねえか?

そんなに良い作品ならとっくに公募で入賞してらあ。

と、まあ、そういう奴らのえじきにされるくらいなら、まじに向き合って読んでくれる人がひとりでもいたら良いというよなもんで、ブログに舞い戻った。そして、せっかくだから/笑
書評もついでにブログに保存した。

まあ、プロ?の書く書評だから、要点をうまくまとめていて、物語の概要紹介になる。
憂生はあらすじを書くのが実に苦手で、いつも、これに困った。

某投稿書もあらすじをいれなきゃならなかった。

こまったので、本文の抜書き・・コピーですませた。横着をした。

まあ、それが、ここに来てまもなしに、評価が入った。

評価の★の数がいくつであろうと、正直をいうと、「いくつ」と捉えられてしまう作品として扱われることに愕然とした。
(いろいろ、評価を下さった人、ふてぶてしい言い方でごめんなさい)

もちろん、此処には評価欄があることも承知の上だし、評価が嫌なら初めから断わりを入れるべきだろう。

だが、その頃は憂生もまだ、自分の思いを漠然としてしか判って居なかった。

なにか、微妙にすかすかした思いをあじわう。

が、評価してくださっている方の温かい眼差しをむげにするような感情がわいてくるなんてのは、こちらのわがままでしかない。

そして、到底、うまく、自分の感情?感覚を理解されるとも思えなかった。

その頃に事件が起きた。

憂生の作品に評価をいれ、自分の場所で感想を書く。

まあ、ここまではかまわなかった。

別の人のものに対して
「ここには、レベルの高い作品しかとりあげないんでね」
と、いう一言をみつけて、早速、掲載をとりやめてもらうように頼んだ。

レベルが高い作品。
すなわちレベルの低い作品はとりあげない。

正直いうと、そんな言葉を平気で書く人間に憂生の作品をとりあげられるのは
恥だと想った。

憂生はある人と同じ意見だ。

「作品に込められた作家の思い」

これをみたい。

なにをもってして、レベルと判断されるのか、わからないが・・。

そんなことがあって、しばらくのち、評価欄に疑問をもった。

確かに、良い作品がならぶ。

おすすめしたいという気持ちより、
「評価する自分をみせびらかすような物言い」も目につく。いわば、
「レベルの高い作品しかのせないんでね」
の、ごとく、
いかに作品のレベルをはかれるかを披露するような。

むろん、そういう人はごくわずかであったが。

ところが、ずっと、みていくと、同じ作品に評価が集まる。

良い作品なのだろうから、当然の現象なのだけど、
他の作品もさがしだせてやれないのだろうか?

とも、想う。

ところが、他の作品を探し出して読んでる人の中には、辛い評価をする。

確かにその通りの評価なのかもしれない。

作品として、評価してしまう。

文章力や構成や、テーマとか・・。

そのどこに「作品に込められた作者の思いをくみとろうという気持ちがあるんだろう?」

すると、勢い、まあまあ、よめる作品ばかりを選んで評価する。

評価されない作品には、作者の思いがはいってないのか?

くみとれるものがないのか?

この逆の発想が憂生に評価されることを好きでなくさせはじめた。

では、評価されたら、くみとれる作品なのか?

そうでもない。

やはり、作品としての完成度をいう。

そして、この完成度というものが、作者にとっては、
いまいちのときもある。

逆に我ながら出来が良いとおもえるものもある。

だが、それらに対して、点数をつけられるという事自体がどうにも、好きになれない。

それが最高点であったとしても・・。

一方で、憂生が此処にもどってきて、作品をあげるようになったのは、

ある人の言葉に奮いたたされたからでしかない。
「今まで、ずっと、拝読していました」

この言葉だった。

こういう言い方をすると、まちがわれてしまうかもしれないけど、
感想を書いてくれたわけでも、評価をくれたわけでもない。

ただ、黙って読んでくれていた。

底にある、憂生を認めてくれるその気持ちに頭が下がった。

ありがたいと想った。

呼び戻されたのは、此処に対してだけでない。

書いていく気力。

まるごと、ひっぱり挙げてくれた。

本当の評価というものは、あるいはこういうものじゃないのかと想った。

書く人間を書く気を倍増させるような評価ができる。
これは、なかなか、むつかしいことかもしれないが、
この場所でなく、評価という形でなく、
憂生を奮い立たせてくれた彼女なら、間違いなく、
自分の作品に向き合っている。

その作品がたとえば、うまかろうが、へただろうが、
憂生がみているところはそこじゃない。

彼女の本質というと、どこまでしってるんだと
しかられるけど・・。

彼女の本質がそのまま、作品に融合されたら、
まちがいなく、ピュアなものに仕上がる。

純粋に人を想い、真剣に自分に向かい合う。

作品の中にながれこむものは、作家本人なのだと思う。

作品の中にすべてが語りつくされるきがして、
それをなおさら、★いくつです、などと、評価することなど到底できないと、
彼女だけに限らず、評価することのない憂生がいる。

そんな憂生だから、評価されてしまう自分なのかと
愕然としたのだろうと想う。

ただのうぬぼれにしかすぎないのだと、気がつかされた。
そういうことでしかない。

一言が気になった。

意味合いはちがうのだろうけど、
一言が気になった。

ある程度、その人間をみていると、判る。

と、いうものがある。

憂生はこれがあたりまえだと思っていた。

「人を見る目」という言い方かもしれない。

だから、当たり前の如く、洞察力をもつ人間が
物語の中に登場するし、
現実、ささいなことが気になり
ふと、声をかけるということがある。

それがきっかけで、心の襞をはなしてくれたりするわけだけど、
直接の物事でなく、
たとえば、自信がないな。
言いたいことを押さえてるな。
とか、判ることがある。

そして、それが、異性であろうが、同性であろうが、
上であろうが下であろうが、関係は無い。

そういう「情」のようなものをもつのが当たり前だと思っている自分がいる。

だから、「何故、人のことをそこまで配慮できるのだろうか?」
と、いうような・・・。

物語の設定に対して疑問を感じる人をみると、
憂生の中は心配になる。

この人はたとえばクラスメートとかで
そんなに親しく無い人のことなどぜんぜん、気にしない人なのだろうか?
相手への濃い感情がないと言う言わないは別にして気にならないのだろうか?

なんとなく様子がおかしいとか・・。
カップルの組み合わせとか・・。
仕事の中のチームワークなどを支えるその人の性格とか・・。

いろんな要素から、不安定材料があるとき、あると判らないほど
人をおもわないのだろうか?

どうしようもない事がおおいけど、憂生はいぜんと、いくつかのきがかりを抱かえたまま、何人かの人を見守っている。

もちろん、この人に対してもそうだ。

知らぬうちに披瀝するということはあるもので、なにげない一言が妙に気になっていた。

憂生のまわりの人間は、たとえば、ノンちゃんの犬にでてくる、
ノンちゃんのようにいろいろなことを洞察する。

このほかのことでも「人の事がわかり、配慮する」本当に大切なことを示唆できるという場面も何度も見ている。

だから当たり前になってる憂生が居ると思う反面、逆をいえば、そういう風に
「人に思われることも無い」のか、気がつかないのか?
自身がそういう思いを持つ事が無いのか?

と、見てしまう。
感想に過ぎないと思われるかもしれない。
物語にあわせて書いただけだと思われるかもしれない。
だが、他にもいろいろ感想をもらっていると、やはり、心の襞を見せてくれる人はいるわけで、
自信をもてない主人公に自分をみいだして、自分も頑張っていこうと考えてくれたり・・。(ここではないですが・・)こういうのを見ているから、いっそう、心配になってくるわけですし、たんなるリップサービスであるとしても、もう少し違う視覚がでてくると思うわけです。
不安定要素ととるのは、憂生の勝手な解釈ですが、その不安定要素が土台になったまま、物語ができあがってしまうという「文は人也」「作者が映りこむ込む」がありえる気がします。
一過性の「読み物」を目指していらっしゃる方ではないという憂生のその方への観方がすでにまちがっているのかもしれませんが・・。深いものを書き込むに、やはり、作者側のまなざしは、大切なことで、人を観る(思う)ものが、
そのまま、登場人物をも見つめる目に成ってくると思うのです。

にゃ?

どちらかというと、長編が多い憂生である。
1編は短くても、シリーズ、オムニバスになるものがあるが、
まったくの独立のオムニバスと、
個々に独立していながら、別のものに、関連していくパターンのオムニバスとがある。

このパターンはひとつずつ、読んでいくから、見えてくるものがあるので、
タイトルにひかれ?その章だけ読む人については、憂生はあまり期待していない。
これも、過去、感覚のよい人に遭遇しているからだろう。
最初から読まないとみえてこないものがある。
と、最初に戻って読み出したという。

そして、ひどい場合は12話めとか?をいきなりよみだして、文句をたれる。
文句を言いたいのはこっちじゃ。

と、話がずれた。そんなことを書こうとおもってたんじゃない。

長編の話。

人物の肉付けが必要になってくるし、考え方もしきつめていかなきゃならない。ただ、たらたら、長く書くというのも、問題ありだし、必要性があってさしはさむ場面も「必要性」がみえては、しらける。

それとなく、ネタをしこんでおくという部分が大きいときなど、
ネタをしこんでることがばれないように書く(ようにしているつもりで、しかないかもしれない/ばればれ?)
なんか、まだるっこしいなあ。と、おもわせず、内容を読ませるものにする。
これが、実にむつかしい。

8割がた失敗していると思う。

まあ、そんな中でも、オムニバスになってくると、たとえば2話めでしこんだものが、11話で展開(箱を開くほうの展開)するということがある。
こういうのが、書いてる本人にはいたるところで、わかる。

長編のおもしろさは、あるいは、ここにある。

毎度いうことであるが、
読むよりも書くことは10倍おもしろい。

わりに、ナンバープレイス(プレス?)が好きなのだけど、
ここに、この数字がはいって、あっちが、確定して、
あっちが、わかると、そっちが確定する。

と、いうパターンが、長編の書き方によくにている。

こういう意味合いでは、書くことは謎解きというミステリーにも思える。

主人公の考えや性格にあわせて、決まっていくルートをさぐりながら、
方向づけもしていく。
どうしても、おかしなルートにはいるときは、なにかで、気がつかせる。

踊り娘でいえば、「パン」とか、サーシャの変哲ない手紙の一言。

ここで、主人公を軌道修正していく。
いうことをきかない登場人物の個性を尊重しながら、こいつだったら、何をいわれたら、納得するか。
なにかしら、かかわってしまったら、解決するしかない。
笑う女のように、自らの行いをたたきつけられて、自分にきがつく。という妙な?解決のしかたもあるが、
問題はきがついていくこと。

タイトルから・・

評価欄からおじゃました。
FC2小説内のホラーを紹介してるとかで。
もしかして、憂生のがあるかもという/あはは・・
あほな期待をしまして、
タイトルだけ読み漁ってきたという、ばかちんなのですが・・・。
あるわけがない。
以前にわずかの間しか置いてなかったし・・。
ホラーといえるものでもなかったし・・。
目にも留まらなかった。
いや、目にとまってもチョイスされなかっただろう。
等と、どうでもいいことをおもいながら・・
じつに失礼なタイトル読みだけをしていたのですが、
いや~~~。
お好きだというだけあって、いろいろとよんでらっしゃる。

憂生も怪奇と幻想が好きで、山姥が山芋を掘り出して手にしっかりつかんでるという誰だったかの日本画がおきにいりでした。
普段は人間を食らうなんてごちそうにありつけるわけがなく、
山芋をほりだして、たべるという。
苦労してほってきたのでしょうな。
その構図になんともいえぬ、悲哀をかんじていました。
なんとしてでも生きていたい。
妖怪?でありながら、この絵が語りだしているものに心ひかれたものです。

そんな奇妙な怪奇・幻想が好きな人間の一面があるのですが・・。
さらにタイトルをよみすすめていると、
はっきりおぼえていませんが
「ホラー好きはお笑いも好き」
と、いうのを、みつけました。

いや~~~。
この理由は読んでないのでわからないのですが、
「だよね~~~~」です。

憂生は一方で落語とか好きで、本のしてあるもの(古典落語)
CD選曲・・選落?をきいたりするというかわりもので、
寿限無の名前は全部いえます・・。
「じゅげむ・じゅげむ・ごこうのすりきれ・・・かいじゃり、すいぎょ、うんらいまつ・ふうらいまつ・・・・」と、いうあれです。

なんなのか、憂生にもよくわかりませんが、自分にオカルト的体験がいっぱいあるから、なおさら、ぱっと気分をかえられるものが好ましいのか?

とにかく、笑いを含むものも好きです。

物書きとして書いてるなかでも、別途に笑い噺(みじかい)のブログをもっています。
ここでも、新之助シリーズがそうですし、SO2シリーズのなかでもちょこっと笑いをいれる。

一方で、糞まじめで、融通のきかない頑固者そのものの真摯なテーマを追従したり・・。

つかみ所が無いは髪の毛の質にもでているそうですが、
くにゃくにゃした癖毛で、軽くウェーブして・・おかげで、自分でてきとうにカットしても恰好になるので、散髪屋もここ何年間いってないという貧乏髪。

等という風にちょこりと笑い?をさしはさむのも好きな人間です。

だから~~~。
いやあ。
あたってるというか、
そうなんだ。と、感心したりして、
よく、気がついたなあって、着眼点?の鋭さをかんじたりして、こりゃあ、
このひとの紹介している作品の、「見方」もさぞかし興味深いだろうし紹介されてる作品も「なるほど」ものなのだろう。と。
好きこそものの上手なれ。に見合い、惜しげなく紹介ページをつくる心意気に
「おい、ほれるぞ」
(男性だったら、意味がちがってくる、あやしい科白である)

タイトルだけでここまで想わされるのもはじめてだったので、
タイトルだけ読んだなんてのは言うに失礼と思いつつ、かいてしまいました。

感想・・

感想をいただくということは、
自分のなかでの、作品の捉え方を深めていくことにつながります。

今回、小枝について、すこし、書きましたが、
以前の段階では、
自分の込めたものを自分でもまだ掴みきれないでいたと思います。

たとえば、逆に批判的な感想をいただいたとします。

それに対して、憂生は、
此処のところをかいたのだがなあ。
と、想うところがあるわけです。
が、
無い場合があります。(自覚が)
すると、その批判により、
此処のところはかいたのだ。という自分を意識させられ、
その部分を考えるようになります。

そして、肯定的感想でも、
きがついていない部分に目をむけさせられ、
この部分はどうであろうかという
自分自身のいきかたのほうをといなおします。

自分に欠落している部分がある。
と、いう場合もありえます。

読み取った。読み取らない。などは、
どちらでもよいと思うのは、此処の部分かと思います。

どちらにしろ、憂生なりに考え直させてもらうところはある。

ただ、外面的に作品を手直しする、と、いうことでなく、
自分の中にひきいれて、考え直していくという意味合いなので、
「手直し」する部分は「憂生の中」にあります。

だよな~~~~

憂生の作品は性表現が多いと思います。

基本的には
「性は魂を融合させるもの」
と、いう非常にセイントな考えでいます。

とは、いうものの、
実際のいろいろな話をきくと、
そうもいかないということがあり、
「性」というものは、
扱い方しだいで、
毒にも薬にもなるというか、
原子力エネルギーにもにたような「存在」であると思います。

憂生の得意な科白は「性は心が生きると書く」なのですが、
妙な言い方ですが、
絶望の淵にたってしまうと、
実際、「性」では、うめあわされない。

この状況から、逆にみれば、
「心がいきていないと、性にさえ興味をもてない」

性を求める気持ちは逆に生きていたいというサインだとも想うわけです。

いろいろと心塞ぐ、悲惨な事件を知ったあと、
性表現にさえ、嫌悪をいだく。
簡単におもしろがって読む=性への欲望についても簡単に行使してもよいものだと、感覚を麻痺させる。

実際、ある年齢層の女性(20~25)の科白が

「未経験なんて、恰好悪いじゃない」
「そろそろ、捨て時かな?」
「気持ち悪いって、いわれたから・・」

とか、こんな風に、ファッション感覚で「性」を考える。

この手伝いをしているだけじゃないかという自分の性表現にさえ嫌悪をいだき、
一時期、ストーリーを考えるだけでも、嫌になって、
架空の物語くらい、気楽に・・「妄想?」したっていいじゃないか。
と、思いはするものの、気が乗らないのは、まだしも、避ける。

と、いう状況があり、

スピリチュアルな言い方ですが
「自分が幸せになっていなきゃ、人も幸せにできない」
と、いうのがあります。

まさに、自分が幸せでない?

と、いう状況では、簡単に性を文字にするということができなかったと思います。

シャドウ

すこし、続きをかけたのは、よいのですが、
此処のところ、
会話だけでつくりあげてしまうというパターンから
ぬけでれずにいるのが、
顕著になっています。

科白がいまひとつ、リアルにかけないという友人のほうの文章をみていると、
科白で語ってしまうのも、悪くはないかと思えるのですが、
まあ、これは、リアルにかけないという人とくらべてのことだし・・。

科白がうまくかけないという友人の文章をみていると、
科白が「説明」になっているということに気がつきます。

実際の会話でそこまで、説明するか?とおもわせてしまうところが、リアルさにかけてしまい、科白が状況説明であればあるほど、なおさら、そんな科白をいうかな?という作り事を露呈させてしまう。

感情説明としての科白であっても、同じ部分があり、ここが、いまひとつ、
作品にはいりこめなくさせてしまう。

シャドウという手法?はともすると、読み手の補足能力に頼る作品になるというわがままに陥ることもあるが、反面、作者がシャドウ部分を限定しないことにより、読み手の心のなかに立体的な状態で捉えられ、物語にかかれていない部分の広がりを暗黙に構築させるという優れた作用があるのも事実です。

なにもかも、表現してしまうというパターンが
逆に暑苦しさを生み出してしまうというものもあれば、
わずかな文字数でかかれた情景。あるいは、極端に情報量がすくない作品でありながら、物語にかかれていない、うしろの部分を読み取る楽しさにはまる作品があり、じっくり読んでしまうというものもあり、

シャドウの使いこなしを成功させる彼の才能には一目おいている。

そして、また、二重構造につくられた小品にも、彼の作家としての視覚と
物語と物語の主人公の本心とが、見事な螺旋をえがき
この螺旋の組みひもをひとつずつ、読み取っても、独立した「心」が浮き彫りになり、それらが一本の組みひもになるという不思議な結果をつくっている。

もってうまれた才能、文章力というものは、
書きなれや感覚のよさという着眼点による巧さとは、ちょっと違うものである。

知らずのうちにそういう物語をうみだしてしまう
彼の文章力の(シャドウ)な部分が発動するのだろう。

動向を注目しつつ、科白がうまくいかないという彼女が

彼の一見、歯抜けにみえる作品に感化されると良いのになと勝手なことを思う。
時に読み手の胸をかりることが、
作品を「生き物」にすることができるという事実を真実にさせるだけの
表現技術力をもっているだけに、ほんの少し、シャドウに明け渡してみる考えをもってくれれば、作品は他の追従を許さないものになる。

だが、それも、またよいかもしれない。

ただでさえ、あの若さでの才能。
すでに負けを認めざるえない状況で、シャドウをものにされたら、

こちとら、完膚なき敗北にたちなおれなくなるかもしれない。

築く

某所において、

作品をあげなくなった理由のひとつに、、

「採点」的視覚というものが、いやになったんだなあ、と、思う。

評価されなくても、されても

感想をもらっても、もらわなくても・・。

そして、自分がする立場になっても・・・。

なにかしら、作品はこうあらねばならないとか、

巧いとか、下手とか

そのあたりの無言の威圧があって、

文章的に巧い人間じゃない憂生は、

どこかで、萎縮する。

逆をいえば、

人の作品に対しても

同じような部分を見る。

人にふりむけた思いは、また、自分を脅かす。

まともな文章じゃないな。

と、人のことを思うと、逆に

「自分も人のことをいえるだろうか?」

とか?

持論でしかないが、

勢いのない文章は伝わるものを伝えられない。

と、思う。

どこかで、評価されることを意識する。

評価されなくても、

評価されないレベルかと意識する。

評価されても、

評価されてしまうレベルかと思う。

書く事に鬱々した思いがわく。

巧い文章をかかなきゃいけないのだと、

表現技術の稚拙さを意識する。

つまるところ、

「受け」を意識する。

本末転倒がはじまる。

一番、巧い文章は

「熱がこもっている」物だと思う。

ここを読み取らない。

です。である。が、ごっちゃになるのは良くない。

何故だ?

「です」という言い方の時は、どこかで、読み手にむかってかいている。

「である」という言い方は、自分のことをいっている。

書き手が、この心理をかきわけていない?

そうだろうか?

読み手が、そこの言葉が変わる部分での

書き手の対象をとらえていないんじゃないか?

こういう思いがわく。

それをまた、まにうけて、

作法どおり書かなきゃいけない。

杓子定規にしかうけとめられない画一的視覚でしか読めない人間が

評価をする。

その評価に振られる。

自分の心理がどういう風に言葉にでているか、

自分で自分を自覚できず

杓子定規の解説をまに受ける。

そして、そういう目で他の人のものを判断し

また、自分の意識(感性)をうずめてしまう。

おりこうさんの四角四面の書き方しか

よみとれない人間が集まって、

自分らしさを確立していくチャンスをつぶす。

そういう意味合いで、つまらない所だと思い始めている。

無題

憂生がいろいろ、あった事件を書くということについて、
憂生の中でも、煩悶はある。

スキャンダル的目線でかいているわけではない。

が、人の闇部分をあからさまに、書くということについては、
どういう風に非難されても仕方が無いと想う。

多く、はっきり書く場合、本人と決別している場合がほとんどである。

あるいは、憂生の中で、その事件を、良い意味ですんだことにして、
別の見方をしたいという場合もある。

あるいは、どうにもしてやれないじれんまとか、
すんだことにしてしまいたいと想いながら、やはり、気にかけてしまう。

もって行き場の無いさまざまな思いがあって、
ふっと、他の事をかいていながら、
関連する部分があると、そこをだしてしまう。

本当にしゃべれないことをもっている憂生にとっては、
それらのことが、ささいなことでしかないという思いもあると想う。

人の不幸に対しても、どこか、そういう目線がある。

そんなぐらいの不幸?がどうしたんだという?

自分の中に「のりこえてきて、人のためにやってきた」
自分のことなど、あとまわしになる。
と、いうのがあり、
自分の不幸が、自分の不幸がといっていられるだけ、
幸せなんだと想う。

だが、その人にとって、
悩み最中であるときほど、精神的余裕はないし、
「自分がこの世で一番不幸だと想う」状態になると想う。
その思いが一番、しんどいものなのであるし、
憂生も一時期、それに近い思いをもっていた。

なにが憂生を救ったかといえば、
「自分がこの世で一番不幸だと想う」を取り除けたことだった。
取り除けたのは、
もっと、苦しい思いで見守っていてくれる人の存在に気がつけたことに有る。

まあ、およばずながらのことでしかないが、
此処にも、
やはり、気にかける人間がいるということでしかない。

時に文句の如くいってみたり、つきはなした言い方をしてみたり
人事のことよの如くにいいはなつときがあるが、
どうにも、おせっかいな性分でしかないが、
気になることが多すぎるのだと想う。

此処にくれば、そもそもから、評価欄の荒れが気になる。

一生懸命書いている人間の気をそげさすものの言いように
惨い言い方をすると想った。

もちろん、そのきついことをのりこえてまで、書くというのも必要な部分だとは想う。
だが、そこは、感想欄でいいじゃないか。と、想う。
これ、みよがしに、トップページにあがるところに書かなくてもよかろう?
などなど、さまざまな思いがあったわけだけど、
たとえば、そういう風に、それが、正しい見方だという意味でなく、
そんなのでいいのかなあ?と想う。

こういうのが、憂生の中、随所にあって、飽和してきてしまう時がある。
本人に投げかけられる時はまだしも、どうにもならない状況(相手に言えば、発作をおこして、下手すれば自殺とか・・)の場合もある。

もうしわけない行動だとは想うが、吐き出し口を此処にしているところはある。

孤立無援・・

彼の発症のきっかけは、仕事仲間から総スカンだったように思える。

みんなの為に良かれと思い、労組のようなものを結成し、改善要求をおしだし、一致団結していたのだと想う。
そこに、会社からの圧力がかかったか。
周りがそっぽむいた。

との、こと。

彼が本当に仲間を信じていただけに、これが、彼の存在価値をくるわせていくきっかけになったのかもしれない。

憂生は、昔から、孤立してでも、いじめられっこを庇うなどということをやっていたのと、かぎっ子といわれる状態で、一人で居るということに耐性があったと思う。もちろん、協調性ということを考えると異端児もいいとこだとおもう。

仕事をしていても、先輩のおかしなところがあったら、まむこうから、物をいうものだから、「仕事を覚えてから言え」といわれる。と、
「仕事を覚えてるあんたがそのままでいいんか?」「仕事を覚えてないものから見てもだめにみえるとこを、仕事を覚えてるほかの人がいわれたことがないのか?そこをなおさず、黙れでだめなところをうやむやにするくらいの仕事への考えしかないのか?」
と、やるもんだから、一時、孤立しやした/笑(自業自得っていうんですが)

と、そこに捨てる神あれば、拾う神ありというか・・。

仕事は仕事と私心をもたない人間がよってくる。

で、憂生のほうが、その人に対して心配になる。

今、こんな状態(憂生への総すかん)で、貴方が憂生に近寄ってきたら、
貴方がまわりから、嫌な目でみられるぞよ。
憂生は別にきにしておらんから、かまわんぞよ。

と、いったところ・・。

「群れてやらなきゃ物ができん人間がどう想おうがかまわん」

と、いう言葉が返ってきて、
実際、総スカンのボス的存在にこびるみたいに調子をあわせるしかない立場の人もいたわけで・・・。
あまりのいじましいいやがらせに、主任のほうにいいにいこうかとおもったが、あとが、こわいし・・とか・・。

そこらの弱い気持ちもわかっていたから、なんちゅうことないと

一人でいるって、素敵なことよ~~~♪と、つっぱっていたわけだけど、
その人間にちかよってきたその先輩の科白から、
以後、すげ~~人だなあ。と、おもうようになった。

まあ、その職場もやめたのだけど、
根本的原因は腰をいためたことによる。

いろいろ、あった部分もあるが、
最後の頃には、いやがらせの張本人が憂生に告白?してきた。

先の先輩と憂生はそこそこ、仲がよかった。

その先輩に「憂生と仲良くなるにはどうしたらいいか、尋ね、
自分を変えることにつとめた」
そうである。

元々、人を好く性分だから、嫌がらせをされていようが、別段、その人を嫌うことはなかったのも良かったのだろうとも想う。

で、話を戻して、最初の彼の話。

憂生の環境からはぐくまれたものに
「相手の弱さを赦す」というものがある。

もちろん、赦しきれないことがあり、赦していけるまで、もがくということはある。

マジに弱っている時に相談した時、「ごめん。ききたくない」と門前払いを受けた時もある。この時も、理由はわからないが彼の聞きたくないを赦していった。いや、こう言う風にいうと、なにをえらそうにと言われるかもしれないが、憂生自体は相手が困っていたら、自分の理由など度外視する人間なわけで、(いじめられっこを庇うに自分の事を考えたらやられるのは自分のわけだし、孤立無援になる。自分のことは、度外視する癖がついている)
ここを正当化させれば、相手に対して腹をたててもいいのかもしれない。
逆に自分をきいてもらえないかと寂しくさせるのもありかものしれない。

ま、自分でなんとかできるとこを甘えていたところもあるな。
ってなもんで、なんとか、乗り切った覚えがある。

で、彼だ・・。

裏切られたというショックなのか?

正直、うまく理解できていないと思う。

憂生自体がこの点でも、裏切られるほうがぼろい。という考えをしている。

あ~~~。
もちろん、裏切られたのは憂生だ。

裏切るに裏切れないほど。この人こそと思わせるほどの自分であったか?
って、ことを考えると実にちゃらんぽらんである。

裏切った方が悪いか?

裏切らせた方は悪くないのか?


って、ことになってくる。

すると、裏切られたショックでというものの、

それで、精神の均衡がくずれてしまう人間についていったら、

なにか合ったときに共倒れになってしまうかもしれないわけで、
誰でもが生活がかかっているのだから、
その防衛本能で、これ以上彼についていくことは無理。
と、身を翻したのだと想う。

結果、彼の精神が崩れてしまうのを見れば、
やっぱり、あの人についていかなくて、正解だった。
に、なってしまう。

こういう部分で、指導者になる人間は精神面も強くならなきゃいけないのだとは想うが、やはり、周りのものに弱さというか、生活していかなきゃいけないという守るものを先に配慮しきれず、
おだをあげたその鬱憤の神輿に担ぎあげられているということを
考え合わせれる状況判断。
熱血漢だけでは、どうにもならんのだということをしらされたのだと、
ひとつ、乗り越えていける強さがなかった。このあたりが、どうであるかを、考えてもらいたくもあるのだが、
傷つきやすい神経になっているから、
うかつなことはいえない。

もうすこし、強くなって欲しいと、想うのだが、
治癒がおいつかないというか、
病巣に薄い膜がはってきた状況になると、
やはり、動き出すわけで、
膜に傷がつかない程度の場所に居る時はよいのだが、
世の中なにがあるかわからない。

ちょっとしたきっかけで、
膜がやぶれてしまう。

強い膜をもっていくしかもう手立ては無いのだと想うが
もうすこし、なんとか・・。

思いながら、
価値転換を図る言葉をかけて、
うまくつたわらず、
どうしても、意味合いの違うことを説明するまえに
彼の興奮をひきだしてしまうことになる。

ねっから、寂しがりやで、旅行先から、
メールをちょこちょこ、いれてきたりもする。

茶目っ気のある人間であり、優しい。
その性格の良いところが裏目になってしまったところへの
彼の許容が追いつかなかったのだとは想う。

精神が、撓むというのは、
目にみえにくいものであるだけに、
本人は、無論、周りの人間にもわかりにくい。

実際、狂気の状態になりかけた人間がいたし、自身もそれに近い状況になったこともあるし、周りがこういうあたりの経験や、知識がないと、
いや、あっても、目の当たりにすると、ある種のショックをうける。
別人が突然、とってかわってしまったような・・。

どうしたら良いか・・長引けば、耐えられないというか、
どっちが、正常なのかわからなくなってくるような・・。

回復してきても、普通の人がいったら、なんでもないことでも、
その人が言えば、まだ、回復してないのか?と
想ってしまうから、そう思うほうがおかしいのか、
みたいなところで、いちのまにか、こちらの精神もひずんでしまうことになる。

なんとかならないものかと思いながら、
一種、被りのこわさや、知らぬうちに傷にふれてしまう場合もあり、
時期を待つしかないとも想うし、
憂生自体がうまく、押し上げられるような自分を造る必要もあるとも思う。

河豚に当たった時に、土の中に身体をうめて、首だけをだして、
河豚の毒を抜くというのがある。

民間療法というものだと想うが、昔からのことで、
それなりの効能があったものと、想われる。

一方、名犬ラッシーとかいう本を(子供の頃にです/笑)を、読んだ時も、
毒蛇にかまれた、ラッシーが泥沼につかって、解毒する。というシーンがあったのを覚えている。

さらに、最近のツボ療法で、足の裏のツボが重要で、各臓器につながっているとか・・・。

またまた、あるところでは、
癲癇?の発作を起こした時に、裸足にさせて、土の上を歩かせる。という話をきいたことがあった。

そして、実際の場面で、心神喪失というか・・。
ショック状態というか、気がおかしくなったというか・・・。
この時にも、裸足で地面を歩かせると良いというのである。

これらの話を無理やりにまとめると、
現代社会人の精神的ストレスへの対抗力の弱さには、
いろいろな要因があると思うが、
ひょっとすると、子供の頃に、裸足で地面を歩き回るということがなかったせいではないか?
と、想う。

子供の頃に裸足で歩くということには、何らかの精神的ストレスを緩和させるツボへの刺激と、
いわば、虫切りの作用があるのではないか?
と、思えてくるのである。

虫切り。疳の虫という奴であるが、
民間療法である。地方によっては、これを当たり前のように行う。
以下、聞いた話。
背中のどこかを剃刀で、すこし、切り、血をだすのであるが、その血が緑色だった。
鍼灸師の話によると、子供用の針で、虫切りをおこなう。(痛いものではないらしい)1~3歳くらい(あるいは、もっと)の間に一月に3日ほどそれを3年ほどつづけるのが、効果的で、酷い?時には乳幼児が、キーーーと奇声を発する疳の虫、夜泣きがぴたりととまるそうである。

鍼灸師の弁によると、
「本人もしんどいだろう。そして、なによりも、一番多感な時期に、イライラせず、むやみやたらと親に反抗するなどというのが、軽減される」
 ほ~~~~。
憂生もやってもらっておきゃよかったか?

自己反省はおいといて、
虫切りにそういう作用があるとするのなら、
子供の頃に裸足で土のうえを遊び回るというのにも、
同じ作用がでてきても、おかしくないのではないのだろうか?

同じ条件下で片一方は裸足で土の上を遊ばせ
片一方は遊ばせないという、人体実験など行えるわけがないので、
なんともいえないが、
土とじかに触れる事がすくなくなった現代の生活は知らぬところで
恩恵をもすくなくしているのかもしれない。

テレパシー?

どうも、日記ヴァージョンに頭がきりかわってしまっているようなので、
続き物をほっちゃかしにする。

ネットをやりはじめたころは、
日記ばかり、かいていた。

物語はホームページソフトのほうにあげていたのだが、
この日記が、まあ、まじ日記で・・(意味不明?)
仕事から帰ってくると、ただいま~~~。から、はじまり、
おかえり~~~が足跡にはいってきて、
毎日あれやこれや、想うところ、何でもかんでも、
日記に書く。

多いときは一日10記事なんてやるわけで、それが、連日つづき、
人が、来る。
そのうち、日記にかいてあることなどから、
この人の書く物語というのは、どんなものだべ?
と、物語に足を伸ばしてくださる人がふえた。

ひどい場合?は、
物語よりも、日記のほうが面白い。
と、いう状態になっていたり・・。

そして、どこかでも、書いたが、今、想うと天王星人の性格そのもの。

事件?にぶつかる。

これは、どこにいっても、なにかしら、起きてくる。

このあたりの出来事から、いろいろと、個人的に相談?うちあけ話がきて、
まああ
これもどこかに書いたが、信じられないような事がおきる。

内容は個人のことなので書く必要もないが、打ち明け話で、だいぶ悩んでいるのが判る。
すると、ある日。そいつが、自殺未遂をやらかしかけてるようなもの凄く不安な予感?テレパシー?を感じる。
で、死ぬなと念を送り続け、大丈夫だと、なった時にネットに向かう。

必ず、連絡してくると想うわけだが、連絡が来ない。
で、まってたら、「風呂はいってた」
実は池の中にはいって・・つかっていた。
死のうというよりも、死んでしまいたい気持ちを振り払いたかったのだと想う。その思いを憂生がキャッチしていたということなのだが、こういう不思議なことが起きるというか、・・・。
まあ、想うんだな。

あいつ、大丈夫かな?
って、。
テレパシーなるものがあったって、思わなきゃ道はつながらないわけで、
憂生側のほうの受信口がそいつにむいてるわけだから、かなり強い念波になると、いやでもキャッチしてしまう。

こういうのは、誰にでもあることで、
胸騒ぎを感じるというのがあったりすると思う。
それが、強いと誰のことで、胸騒ぎを感じるかというのが判ると想う。
これが、まあ、今度は手相にはまって、調べていくと、いろいろ、あてはまってくるという。

元々は六星占星術・・あ~~~。
数子おばちゃまのだな・・。(注・知り合いではない)
あれを買って来たことによる。

そこから、手相にも興味を持ち始めたのだが・・。

まあ、たとえば、
でっかい、神秘十字。
憂生は肴紋だと想っているが、ものの本によると、
奉仕十字というのも運命線のよこに二つもっている。
直感線が両手にくっきり。
知能線は二股。
ソロモンリングらしきものがある。

などなど、手相、人体実験中みたいなので、
ぽつぽつ、変化があるとかいているが・・・。

まあ、元々、直観力が強いというか、
感受性が強いというか・・。

本人の意識はかなり、傍若無人で人の気持ちがわからない鈍チンなのだが、
妙なところで、「ん?」と想うところがあるようで、
これらが、まあ、日記なり、物語にぽろりと出てくる。

どちらかというと、気がつきにくい部分に気がつくところがあるので、
最初、物語・日記などを読んでも、
何を言ってるんだか・・。
そりゃあ、違うだろう・・。
と、想われる事が多いようで、読んでいくうちに
ん~~~~。なんというのか、
「ああ、そこまで、かんがえてるわけか」
「ああ、なるほど、そういうことか」
みたいなのがでてくるようで、
そこが、おもしろい。
のではないかと想う。

で、この人のいいたいことはどういうことなんだ?
みたいに、物語や日記にはいっていってしまうから、
ある意味、となりで、憂生がしゃべってるような?
妙な親近感も沸くのだと想う。

まあ、どちらかというと、語りかけるような口調で日記をかくことがおおかったから、
ひとたび読むと、
「え?私にしゃべりかけてるのか?」
「では、無視してはいけない」
みたいな、あ~~~~、脅迫観念といいましょうか?
これにおそわれ、ついつい、最後までよんでしまう。

と、いう蟻地獄みたいな物書きでして・・・。

ところで、帳簿をちょぼちょぼ、かきながら
こっちを書いたりしてるんで、
いったい、本題がなんだったか、行方不明になってしまっています。


で、前のページよみかえして・・。

ようは、日記も一生懸命かいてるんだと、言いたかったようです。

なんか、とりとめない話になってしまいましたが、タイトルが、まずかったような・・。

あの・・・。

「     」

テレパシー発信!!

わかんね~~?

翻訳
「またも、しょぼい話ですびばせん」

むむむ

憂生が官能小説に挑戦したときは、憂生の名前でなく、
永沢の名前で、かいたのですが、
この初めの時点では、
問題意識?的なものを書いてきた憂生として書くと
官能小説にならないと感じ
永沢の名前で、書き始めたわけです。

ところが、結果的に
官能小説にならず、アダルト作品というパターンのものになり、
内容的にも
どこか、説教くさい・・ものを内包するものとなりました。

このため、
結局、モチーフをかえただけで、
性そのものをテーマにしただけで、
性に翻弄される憐れさや、
性でなにかをうすめたがろうとする・・。

など、どこかにむなしさをひきずったものがでてきはじめて、
この、むなしさから、すくいだしてやろうという

例のごとくの、
「お助け小説」にかわっていった時点で、
結局は
「憂生」なんだときがついたわけです。


で、やはり、永沢名義のまま、(系統がすこし、違うので)
憂生の場所にいれることにしたのですが、

やはり、他の作品にも性表現がありますから、

こことの境目がわからなくなる。

他の作品まで、
エロログ検索ではいってくる。

いろいろな弊害もあり、
今は封印しています。

憂生のものとして、紹介したときも、
冒頭紹介が入るため、
カフェで、苦情がはいったことがあり、
他の人から、
「芸術?を発表する権利侵害だ」とか・・
いやあ、そりゃあ、違うだろう。
TPOを考えてなかったほうが悪い。

わけで・・。

ブログであれば、アダルトサイトはだめで、
官能小説やアダルト小説は規制されないというのも妙なはなしだと、
想ったものです。
で、FC2では、きちんとアダルトブログに登録していたわけですが、
結局、よくよく、みれば、アダルトブログというのは、
本当に営利目的の怪しい画像が入り口で・・という意味合いのことと
気がつき、周りをみれば、お構いなしに普通のブログで、官能小説が挙げられている。
現状、アメーバーもTVCMなどをながして、誰でも勧誘しているわけですが、
そこにも、おかまいなしの官能小説ブログがあるわけで・・。
疑問を感じるのと同時に、ひらきなおってしまったというか・・。
そして、いろいろあって、今は封印していますが、
「憂生の普通の小説とアダルト小説とどう違うわけよ?」という討議でいろいろ、考えさせられることもあり、憂生なりに貴重な作品にはまちがいないものです。

永沢作品のことから・・

アダルト作品のことがでてきたので、すこし、かこうかと・・。

作品は永沢名義ですが、
ひとつは、この前、ここで、すこしあげた、小夜という作品です。
性で「なにかをうすめながら、生きている少女沙夜が、本当の愛をつかんでいく」という内容で、性に翻弄される部分を念入りにかかないと、真実味がでてこないと、かなり、いろんな相手、いろんな場面でのシーンをもちこんでいます。
そんな中で、たとえばレズ教師の自殺?などという事件がおこったり・・。
叶わない思いをどうすればいいのか?など、自問していったり、
性でなにもかもをわすれてしまおうとすること、逃げ道の行き止まりで、破滅がまちうけていて、やっと、そこに気がつく。

形をかえていながらも、「自分が本物になる」ということにスポットをおき、
ラストでやっと、報われるというものなので、ほぼ、80%が性表現の作品だとおもいますが、なかには、「感動した」というコメントをくださったり、
自分の人生と重なるところが多く、「沙夜ちゃん、どうなっちゃうの」
「幸せになって」とエールをいただいたこともあり、
アダルト作品や官能小説の部類にいれるのは、ちょっと、違うとおもいました。
その頃に、
アダルトサイト・小夜?ちゃんだったかの、源氏名で売っているところに
リンクされてしまい・・・。

永沢が書いている内容をいえば、
「本当の愛をつかめ」「代償(相手)で、自分を薄める生き方をするな」
なので、本当は
アダルトサイトなどに行くなよ。に、近いわけです。

で、あるのに、それをリンクするというのは、
どういう神経なのか?

サイトの「小夜ちゃん」もそうだといいたいわけでしょうか?
だから、
「貴方でうすめさせてほしいのよ」って、意味合いでしょうか?
単に性表現での煽りイコール本編の沙夜ちゃんのかわいさ。(沙夜を抱いてくれたのという言葉の中にでてくる、感謝?のような思いとそう受け止めるいじらしさ)で、「小夜ちゃん」のイメージアップになるか?

いずれにせよ、アダルトサイトにリンクされるだけのものが書けているのだと、いう部分で何度か自分を宥めてみましたが、あきまへん。

どうしても、性表現だけを利用されているという感覚に自分がつぶされてしまって、封印して、久しぶりに此処にもってきたものの、2~3日で、500近くのヒットになり、な~~~んかね~~~~~。

読まれやすいのはわかっていたことでしたが、
「本当の愛をつかめ」「代償(相手)で、自分を薄める生き方をするな」
と、いう部分にたどりついてくれてるのだろうか?

それを求めてくれてるのなら、他の作品も同等にヒット数がなければおかしいんじゃないか~~~~い(乾杯・・古いギャグになってもた・・)

ってなことで、又も削除に封印なわけです。


他の作品をよんでくださっていて、憂生のそういう方向での作品にも興味があるとおっしゃってくださる人たちによっては、
憂生のことだから、それなりのテーマを持っていると想うが、
やはり、性表現が多い,性を主軸に書くものは読めないという方もあれば、
自分の「性」への考え方をみつめなおして、簡単に性を交わすということを改め始めた人もいます。
こういうのは、アンチテーゼとして、性を描くことにより、性を扱う?人間側を・・・・う~~ん・・ふるいにかけるというか・・。

本当はあへあへした目で読みに来る人にこそ、きがついてほしい部分を内包しているわけですから、公開するほうがよいのかもしれません。

で、その小夜がこれが、たしか、55000文字の長編(何文字から長編というのか定かではないのですが)で、女性側からの「性」への視線でかいていったわけですが・・・。

もう一つはオムニバスで、今15話めでとまっています。
これを永沢本人が書いているという設定でかきはじめたもので、
憂生としては、永沢祐稀という架空の作者という物語?私小説?を作者ごと構築してみようと試みた・・作品・・ん?・・な、わけです。

こういう大掛かりなやり方をしてしまったら、作品の中の輪姦シーンも永沢自身の体験であるということになり、
まじ受けして、「憂生ってそんな奴だったのか」と信じ込んで、何人かの読者さまにあいそをつかされました。
一方で、それを信じ込んでしまった人がフアン?になってくださるということもでてきたり・・。

これは、まずい・・ことになってしまった。

と、いう体験が、大掛かりの架空であっても、
「人の心をもてあそぶ」ということになってしまうんだと、やっときがついた始末で、
この事があったので、
ちょっと前のお騒せ事件のとき、その前の時にも、
いろいろ、想ったわけです。

憂生が永沢祐稀という架空の作者を徹するなら、それはそれで、かまわないかもしれません。
けれど、やはり、先にかいたように、「憂生」がでてきてしまう作品であるわけで、
軽はずみにも、憂生が書いていることを他のところで、公開し、

「読んで欲しい」のおろかな骨頂をやったわけです。

結果、憂生=永沢だと想った人の一部が離れていくということがありましたが・・。
まあ、このあたりは、奢った言い方ですが、憂生の本質を信じていないからこそそうなるのだと思え、逆に、淘汰されていったんだという考え方をもち(この思い方がただしいか、どうかは、また、憂生の中での検討材料です)憂生の中ではさして、気にならなかったのですが、

永沢が、憂生だと想ったというか、永沢本人を現実の作家にとらえさせてしまったことには、かなり、申し訳なかったと思いました。

ですから、此処で、自作自演のパターンか?ということを、そうだと言うことも、同じ風におもえました。
そこをいっちゃあ、おどらされていただけかと、どれだけ、多くの人間の心を嬲物にすることになるか。
自作自演であろうと、なかろうとそこは黙っていて、
気がついた人間が「巧いことはめる、大掛かりをやってのけたなあ」と想う。か、想わないか。は別にして、多くの人間が関心をよせ、心をよせていった。そのことだけで、もう、自作自演であったとしても、それは、結果がでていることで、そこを、「そうだ」「そうかもしれない」とやることは不必要であるととる憂生がいます。
仮に本人がもうしわけないと想って、真相をばらしたのだとしても、それも、不必要だと思います。
申し訳ないことをしたという痛みは自分ひとりが抱えるものであるべきで、
それを話すことで他の人間にあたえるなんともいえない感情がふえるだけになる。

今回、憂生もこうやって、ある意味「踊らす」ことをやったことがあるという
暴露をしていますが、こんな憂生だから、「それはいけない」という言葉が本物になる部分をもっているという、
裏打ち?部分をはなしているだけであって、
憂生はそれで、痛い思いを胸にだいていますし、
こんなことになるとは、思ってもいなかったと、言う事がいいわけにしかならないことも判っています。


え~~~。
またも、話がぞれまして、
憂生の反省話になってしまいましたが、

このオムニバス自体のタイトルを設定していません。

候補としては、ふたつあって、

一つは第10話そのまま、

「群青」
これは、
清い水は蒼い。
清い思いもまた蒼い。


と、いうラストの言葉からとったものです。


もうひとつは、
「いつでも初舞台」
え~~と、誰だったかの曲の一節。
稽古不足という、タイトルが第7話?だったかにつかわれていますが、
永沢という男は、実に「稽古不足」な人間でして、
自分から加世ちゃんをしこんでいくという、玩具にするようなことをしながら、逆に、・・・う~~ん。
笑う女を読んでくださった人には、判りやすいのですが・・。
自分が嬲っていたはずが、じつは、逆になってしまう。
性への欲望のまま、永沢を求めてくる加世に対して、さめた思いをもつ。
加世が欲しかったのも、本当の愛情からの結びだったわけだとおもうのですが、結局、噛合わない部分で、加世が逃げ出していく。
これ以後、永沢は加世のことを忘れられないのですが・・・。

あっち、こっちに女がいる男でもあり、
まあ、そのあたりで、紛らわしているというか、
なくした者がかえってくるわけもなく、
あっちゃで、ほい。こっちゃでほい。
昔馴染みが、二人。
隣のねえちゃんがよってくる。
会社の上司である久美子をたいらげ、
欲望三昧の久美子がうっとうしくなると、
部長にまわしてしまい・・。

自分の本心とむきあうのが、怖い男でしかなく、
性に翻弄されて、加世をなくしたのは、自分でしかないということに
やっと、気がついていく。

「愛情を重ね合わせる性」という舞台で、踊りを自分のものにすることができず、いつでも、初舞台のままにしかおれない男。

まあ、こういう意味合いでは、ある種女性を神聖視しすぎる初心な男というか・・。
そのくせ、自分は性への欲求のままにしか、女を扱えない。
憐れな男の悲しい欠損をどうにかしてやりたく、

なんとか、もう一度、加世をつかみなおす方向にもっていこうと・・して、
ええかげん、シーンが続くことにあきあきしたとも、ワンパターンになってしまうとも・・。

官能小説家は、いくつも、いろいろな表現をもっているけれど、
憂生は、どうも、パターンがかわらない。

で、まあ、かんがえてみれば、結局、

小夜と同じストーリー展開なわけで・・。
最後には本当に愛をつかみとる。

かなりもろなロゴをつかっての、一般でいうと、
いかに耽美的に表現するかの部分を
あえて、もろなロゴで表現し
どうみても、エロ小説にしかみえないログをかさねあわせながら、
永沢の「蒼い心」にちかずいてみようという、
反ベクトルに果敢に挑戦し、
見事にあちらこちらの「バイブ・・ル」になったようで・・。
気持ちこけてしまい、
(ネットで検索したら・・「今日は永沢祐稀のアダルト小説をよみにいってくる」などという、会話?があるという)

まあ、そんなので、ある意味、青いおにいちゃんやおねいちゃんに読ませるものでなく、当初、もくろんだのは

「読んでるときは、しっかりよみふけってしまい、読み終えたら、身体に反応がでていた」というもので、官能小説というのは、そういう「官能部分にうったえるものである」という考えだったわけで、
では、エロ本はどういうものかといえば、同じ、「官能部分に訴える」ものなわけだけど、
読むのを途中でやめてしまって、「反応部分への対処をする」

読ませることだけで、「官能」していながら、それに気がつかないほど、物語に引き込まれる。

これが、ある程度成功していたように思える感想をいただいたわけだけど、

憂生自体、この前にここに、小夜をあげたとき、やっぱし読むわけです。

すると、挙げ終わった時に、なんというか、「くらくら」するような・・。

他の人の官能小説をよまない人間なので、一気によみふけったら、そういう風になるのか、どうかわかりませんが・・。

一種、麻薬のような?アドレナリンの異常分泌(なったことないので、イメージです)のような、妙な体感がのこったわけです。
こりゃあ、ある意味へたに、青いおにいちゃん(略して青おに)や青おねに読ませたらまずいのではないか?

と、考えるようにもなってきました。

(買いかぶるな?って)

官能しすぎると、まじ、官能小説になってしまって、
いくら、永沢のむなしい部分を表現してるつもりでも、まったくつうじなくなる。
とも、想え、
何人かの青い人間の文字通り、「バイブ(振動源)・・ル」になってしまう怖さを想った部分もあったわけです。

多謝

確執というのだろうか。

どうしても、
「最初のきっかけが、悪い?」ということを、きにしてしまう所はあったと思う。

気にしてしまうだけの、こちらの凹みがあったのも事実で、
「面白半分」で、知人がひどい目にあわされていた。

だから、昔にかいたものだったが、アダルト作品などは、封印した。
どこまで、かけているかという作家目線で読むのも良いと想う。
テーマに気がついてくれるのも良いと想う。

だが、ロゴの酷さが、祟った。

そして、別件で、ある人にかみついた。

やっと、発表できるようになってきたところだっただけに応えた。
「そういうものを書くだけのもの(理由)が、こちらにある」
簡単にあつかっているように、(嫌悪感があるよう)に言うな。

だった。

そして、帰ってきた言葉も
「自分にも辛いことがあった」

だったが・・。

それで、いながら、読めたなら、いいじゃないか。

本当にまだ、痛みがあるうちは、発表することも辛かった。
それをこえようとしてきた。

保管してある場所は常連さんしかこない。
検索も最初は検索にあがらないようにしたり、ブログごとパスワード制にしたりしていた。

ましてや、当に本人じゃないのは、憂生だけど・・。
つらい目にあった(あいかけた?)当の本人が読めるなら、
まだ、たいしたことないじゃないか。

読めたなら・・・。

そういう目でみてしまう憂生がいた。

一方で、嫌悪感をいだくところもありながら、
真剣によまなきゃとつらいところをこえて読んで下さった人がいる。

あるいは、おなじことをいっているのに、何故、憂生の受け止め方がこうもちがうのだろう?

よくは、わからないが、なにかが違う。

質問してくださった言葉により、
空に架かる橋をよんでもらい・・。

そして、あれほど、抵抗があった、他の作品も
よんでみてもらえないだろうか?と、素直に思えた。

なにか、よくわからないが・・。
ほんとうによくわからないが・・。

不思議な人だと思う。

こちら側の心をほろりと解いてくださる。

素直に
「最初の切欠が悪くても、読んでいるうちに、書かれていることに大事な「なにか」があると気がつく」
と、いうことがあるんだ。と、信じさせてくれる。

読んでくれと頼んでおいて、読者扱いの言い方は失礼だと想うが、

読み手のレベルが高い。
良い読者が、憂生のまわりに居るよ。

と、いう言葉の本当の意味合がわかったような気がする。

なんどか、書いたけれど、
「感想や評価によって、書き手の書く気を倍増させることができる」


そんな、言葉にあてはめちゃ、ちゃちになってしまうけれど、
作家を育ててくれる、そんな読者が居る。

心の窪みまで取っ払ってくれることで、もの書きでなくて、
憂生ごと、掬いとってくれる。

感想の大事さというと、意味あいがちがうんだけど、そこが、思いをつたえてくれる橋渡しの場所。
いろいろと書いてくださったこと、その内容と
行動にしてくださったこと、ただ、ただ、感謝。

もちろん、書かずにいながらも、いろいろ、案じてくださっている人もいると想っている。

ありがとう。

3年以上たったと想う。
なんとか、乗り越えようと思い、
乗り越えていく「思い」「考え」を、
物語にかきはじめた。

結果、やってきたのは、
「面白半分」の検索ロゴだった。

事件の犯人を彷彿させる。

そんな風に簡単な気持ちで・・・
一人の人間の人生をふみつぶし、
狂気の狭間においやり・・。
後遺症は・・・さらなる、恐怖。
精神がゆがめられ、
「自分」の居場所がない。

こんな、後遺症なぞ、しるわけもないのだろうが、

こころない言葉の数々が、
護ってやれなかった自分をうちのめす。

幸せな人間は、気楽に官能小説を楽しんで読める。

あるいは、憂生も幸せに、気楽に、書けるようになりたかった。

だが、作品の公開さえ(ほぼ、全部)まともに、できない。
だしてみては、削除。だしてみては、削除の繰り返しで、
その作業(アップ)の間、「夢中」になれた。

憂生のもがきの間も、いろいろ、あった。

なにをつたえてこようとするのか、わからないが、
不思議な事件がたてつづけにおきる。

精神的にまいっているのだろう。

どこにも吐き出し口がないから、
自分を相手にする。
いきおい、「見えないもの」とやりとりをする。

何かに依存するというか、よりかかる想いこそ危ないものだと気がついていったとき、
ひとつ、「自分を信じなおせた」

そして、相変わらず、もがいていたと想う。し、今も、やはり、それは、ある。
ただ、痛みが薄らいできたというところだと想う。

どこかで、影でどれほど、頑張ってるか。
それさえ、判らない言葉をあびせられ、
わかってもらいたいと想う自分をすてていかなきゃいけない。と、も、想った。

だが、以前として、それはある。

いや、あると、きがつかされたのは、あまりにも、遠いと感じる感想をもらったことによる。

判らなくて、当たり前。
なのだと想う。

だが、リアルでの自分を支えていた物事だっただけに、これに応えた。

応えながら、自分を考え直すのは、いつものことで、
どこかで、やはり、「物語」に・・書くことに「依存」している。

気楽にたのしんで書けることこそが、本当なのだと想う。

気楽に楽しんでかけなくなった自分が、
書くことを支えにしようとするところに間違いがある。


うまくいえないな。


「見えないもの」によりかかるのも
「書くこと」によりかかるのも、
実はおかしいことだと想う。

孤独というのは、どこかで、
『判ってもらいたい』という思いをすてられないからこそ、起きてくるものだとも想う。

判ってもらおうが、わかってもらえまいが、
ひたすら、書く。

この思いをもういちど、取り戻していくためにも、
あるいは、「わかってもらえない」状況にたたされるのは、良かったことだと想う。

わかってもらえなかったら、「書く気がうせる」
こんなものじゃないはずなのだと想う。

わかってもらえたから「書く気がます」

あるいは、それも、反応に依存した想いだとも言える。

だから、いつか、感想はいらない。(ほしくはあるが)という言葉を書いたと想う。

それは、反応に依存するほうに流れている自分への言葉であり、
けして、読んでくださった人の想いをいらないという意味合ではない。

自分の本当に微妙な心理をうまく、説明できず、
そのまま、読んだら、「あほが!!」って、所だろうと想うが、
憂生自体が、まだまだ、自分で自分の「想い」をうまくつかみきっていない。

こうやって、いろいろ、かいていくなかで、
自分の心理がこういうことだったのだろうと、
考えられるようになってきている。


感想が欲しい。という巷の声があることをうけて、感想屋なるものが、林立してきたが、それらに対して、なにかしら、微妙に、
なにか、違うんじゃないか?

と、想っている憂生がいた。

それは、相手でなく、
憂生のほうになにかあるわけで、
ひっかかるには、ひっかかる理由がある。

今、申し訳ないけど、
「?」と想う感想をいくつか、いただいた結果
そして、逆に「!」と想う感想をいただいた結果

なにかしら、憂生の中のなにかが、変わってきたと想う。

考え中

一億、総作家とよばれる現代において、
ネットがその基盤を強いものにしたと想う。

色んな考え、いろんな視覚、いろんな想い、いろんな感覚。

その個性は人の数だけあり、これに触れだすと
楽しくて仕方が無いことだろうと想う。

憂生の友人にも、本が好きで、
毎日、1~2冊読むという人がいて・・・。

15、16歳の頃に、難しい哲学書?を読み、
3度よみかえして、
「結局・弱い人だ」などと、鋭い洞察をもつ。

憂生は熟読タイプで、一度よんだら、まず、2度と読まない。
ましてや、結論?づけるなどということもせず、
彼のよんだものなどについては、感覚でつかみとってしまって、
「なんか、嫌だな」という、どこがどう嫌かなど詮議することもなかった。

彼は逆に、自分の感情をころして生きていくという「現実」をもっていた。

その部分での修練が、本の読み方にもでてきたと想う。

お互いにまったく逆なタイプであったためか、
お互いの個性に惹かれた。

理性で物事に対処する彼。
理屈でなく感情で物事を包み込もうとする憂生。

裏をかえせば、まったく同じものなのであるが、

多大なる影響を与えあい、決別したと想う。

その言葉が、どこかに書いた。

「憂生とむかいあうと、自分の核とむかいあうことになる。つらい」

この意味合がどういうものであるのか、
憂生は、いまだに、わかっていない。

自分を知ることこそが、大事だと考えている憂生にはその言葉のうしろにある
「価値」がわからない。

では、人を知らなくて良いのか?
という疑問がでてくるかもしれない。

だが。

だが、だ。

人を知れば知るほど、自分をどうするか、考えさせられる。

悩んでいる人をしれば、+になる言葉を掛けられない自分がなさけなくなった。
すばらしい人をしれば、自分の曖昧な生き方にきがついた。

悩む人にとって、必要とされるか、どうかでなく、
その人を包み込めるものを持てる自分になりたいとおもった。

だから、限界を持ちたくないと想う。

限界を持たないというのは、
「ああ、憂生じゃ、とてもできん」をもたないことだった。

そして、限界をもつということの人に対しての思い方は
「嫌う」という事だと想う。

嫌うというのは、言い方をかえれば、
その人から、得るものがないということだ。

なにを得ているか判らないから物事の表面だけで、好き嫌いを言う。

憂生は何を「得ただろう」
たとえ、嫌ったとしても(まず、ありえないが)その人から得たものを見つけられたらその人が価値になる。

ここまで、いかないから、嫌う。ということがあるのなら、
相手の良いところ、あるいは得た(ひっくりかえせば、こちらにくれた)ものにきがついてないなどほど、もったいないことはなく、それこそ、人を人と想わぬ態度になってしまう。

憂生ともめた人はネットの中に4~5人居ると想う。

いずれにしろ、憂生はこの先も、その人たから得たものを詮議していく。

10代のころの決別をして、いまだに理解しようとかんがえているように。

酷評?

酷評を書く、云々という言葉を思い出していた。

実際、憂生も酷評?らしきものをいただいたことはあるが、
酷評?が的をえていない。
と、思われるものがあり、
酷評というより、読み取り不足。
きびしく言えば、読解力がたりない。

と、思われるものがあった。

難しくて読みにくい。

と、いうのが、多くの意見であるならば、それもそうだと思うが、
同じ作品について、そういう意見がなく、むしろ、逆の意見ばかりだったので、やむをえない。

読み手さまが、文章自体をよみなれていない。
主人公の感情を理解できる自分側のスキルが不足している。

と、判断せざるをえない。

読み手というものが、どういうところまでの理解度をもっているのか、
書き手にはわかりつらい。

しいていえば、その感想で、理解するしかない。

以前にも書いたが、苦しいバックグラウンドをもっている人は
読んでいると涙がこぼれて仕方が無い。
と、いう場合がある。

はっきりとは、わからないが、その言葉から、いやな言い方だが、
その人の感情スキル(あるいは、苦労度?)がみえてくる。

同じ作品に対して、こうも受け止め方が違うかというところがあり、
読み手がわの成長というものも、必要なときがあるのかもしれない。
が、
あるいは、涙するほどの苦労度がないほうが、幸せなのだともいえる。

で、酷評というものが、的を得ているとする。

この時点でそれは、もう、酷評でなくなる。
と、いうことが憂生の中に尺度になっている。

だから、酷評されることが、嫌だといっているわけではない。

的をえていないと、相手側の成長度合いがきにかかる。
もっと、いえば、多くの人間が感動したものなどに、
「むつかしくて、よみつらい」などとかいてしまうと、
「私の読解力が低い」と、悪く言えば、恥をさらしてしまうことになる。

このパターンをあちこちで、やってるんじゃないか?
と、心配になってきたりもするわけで・・。

的をえていれば、いや~~~。
その通りで、実際、ある作品に
「発想・考え方が小学生レベル」といただき、たいした、眼力だとおもったわけで、まあ、中学生ではあったが、そのころの友人の話からヒントをえたものなので、仰るとおり、基本的設定は、小学生レベルの発想だと思う。
で、まあ、後年、それが特別推奨に推したいといわれ、審査でも「作者の持ち味が一番発揮されている作品」であり、「自分の色を失くすことなく、世界を構築している」と、あったので、
どうやら、根底的な小学生なみの発想が、憂生の持ち味らしい・・と。

じつに単純で、ようは、正義の味方的考え方でしかない。
あ~~~。
水戸黄門とか?
最後はみんな助かっちゃう。的・・シンプルな発想が多い。


まあ、そういう風に的をえた酷評?というのは、べつだん、酷評でなく、
事実でしかないわけなのだな。

うん。

で、次に思うのが、
酷評?らしきものでありながら、
けして、当の本人の読解力などが低いとは
思えないものでありながら、
的をえてるのか、えてないのか、よくわからないというのがある。

う~~ん。
具体的にいおう。
「憂生の文章は、感情に訴えようとしすぎる」

で、この言葉を発してくれた人の作品は
憂生にいわせると、
「感覚にうったえようとしすぎる」
本人は理性的に「感覚の違い、落とし穴」みたいなところをうったえているようなのだが?(よみとり不足でもうしわけないんだけど)

感覚派といわれる作品については、憂生はいまひとつ、ピンときていない。

いわゆる、随筆小説といっていいか・・。

春はあけぼの・・みたいに、自分が感じる感覚をならびたてるパターンにおもえて、先日もにたような事があったのだが、悪くすれば、自慰行為になってしまう。

感覚的なものは、集大成された作品のなかで、ぽろっとさしはさむくらいが良い。
蹴りたい背中を全部よんでいない(帯部分くらいをちらりとよんだ)が、
たった一文の「なんで、そんなに薄めたがるんだろう」だったかな?
この「感覚」を「薄める」という一言で表現し、物語の中でちらりと感覚のよさをうきたたせて、重要ポイントにつかう。

まあ、もうしわけない言い方なんだけど、
その感覚部分だけで、構成された作品というのは、ある種のシュールレアリスムでしかなく、「はっ」とおもわされたら、それで、終わる。

むろん、訴えているところの問題をいうのでない。
起承転結でいえば、「承」部分が独立したパターンに思える。

と、まあ、これは、憂生の嗜好問題。なのだが、
このパターンの人に「憂生は感情に訴えすぎる」といわれても、
うまく、理解できない。

逆に向こうも憂生のいう意味合がわからない。

お互い、的を得ているのだと思う。
が、
それじゃあ、何故いけないのか?

と、いうのが、お互いに、自分のものへの理解が出来ないのだと思う。

まあ、憂生の作品の特徴は
「心理追従」にある。

感覚というものを、重要視するのが、いまひとつ、わからないのだと思う。

まあ、これは、憂生の現実に絡んでくる。

「感覚」だけでいえば、「ぞっとするような狂気」におちた人間を
助けたいという感情があった。

感覚などねじふせなきゃ、人の生死・・あるいは、そのまま狂うかもしれない。
ぞっとする、と、いう感覚にふられていたら、えらいことになる。

別の時に二人で歩いていた時、よこかべから、大きな犬がとびだしてきた、
「こわっ」(吃驚)という感覚にひきずられる。
横にあるいていたほうが、犬に近かったわけだから、
「かばってやらなきゃいけない」と、思うのに、
身体が動かない。
さいわい、こっちが庇って・・と思うより先に犬が鎖につながれて、それ以上こっちにこれないのが判った。
笑い話でしかなくなったが、こういうようなことからも、考えて、
感覚というものは、ある程度統制しなきゃいけない側面がある。

と、憂生は思ってしまっている。
だから、さもさも、で、感覚を重視しすぎるのを良くないと思っている。

ただ、心理部分、感情部分は、考え方をかえていけば、感情も変わる。
どういう心理をもつかという事イコールどういう考え方をもつか、というところに繋がってくる。

つまるところ、理性と感情が同じものになるべく、考える。

多分、その人の言うところも同じだと思うのだが、
突出先を感情にするか、感覚にするかの違いがある。

上に書いたたとえは一方的すぎるが、
感覚は抑えられる。が、依然と有る。

感情も抑えられるが。が、変質させることができる。

得たいのしれないものを拒むという「感覚」は本能であるが、
その感覚を追従しても仕方が無い。
それよりも大事なことは、相手に対する感情だという考えがあるせいだと思う。

どうしても、理解できない。
どうして、理解できないかをのべているだけになっているが、
これが、そういう感覚的なことを主題にする人からの意見じゃなかったら、
逆にここまで、つきつめて考えることも無かったと思う。

そして、これまた、もうしわけないんだけど、憂生もその人も

自分の流儀で相手を判断してしまうという部分があるわけで、
これも、また、酷評でなく、
嗜好の範疇なのだと思う。
お互いの流儀が通じない相手を叩いていても仕方が無い。


自分の訴えたい事がその流儀でかけるのだから、
それはそれで、お互いの手法でしかなく、
憂生がその人のように書くこともできなければ、
その人が憂生のように書くこともできない。


個性だなどという気はない。

憂生は憂生で拙い。

その人はその人で拙い。


それを推してでも訴えたい事を文中にこめるということは
お互い同じだと思う。

感覚派

しょっぱなにでてきたのは、
限りなく透明に近いブルー
だったかな。

次にでてきたのが、
「もう頬杖はつかない」・・かな?

そして、
大御所の
「ノルウェイの森」

か・・・。

どれも、これも、好きでない。
(フアンの人、ごめんなさい)

妙な感覚派とも思える、大江健三郎にいたっては、
好んで読んだ。

閉ざされた精神世界を語る初期作品がすきだったが、
後年、なんとなく、きするものが有る。

大江光の精神世界を彷彿させる。
系譜をよんでないから、判らないが、
まだ、大江には子供は生まれていない。

だが、まるで、予感でもあるかのように、
「閉ざされた精神世界」を描いていった。

あるいは、彼の因子に同質のものがあったのかもしれない。

因縁というものが、
「思い」がもとになっているのだとしたら・・・。

子供の姿は親の因果だといえるかもしれない。

こういう部分を知らずに描いてしまうというところが、
「感覚派」というものではないと思える。

実際、憂生の現実に
多くの知人が「閉ざされた精神世界」に居る。

憂生が大江をよんだわけもここにあるだろうし、
前回もくっちゃべったが、

感覚では、捉えきれない物事が多い。

本をよまなくなって、ひさしいが、
「精神世界」の色をかえていくものは、
価値観の掴み方にかかわる。

この部分も大江は気がついている。

洪水にわが魂は及ぶ
あたりがその歴となるものだと思う。

一方で、安部公房の箱男。
今でいうと、感覚派小説そのものかもしれない。

だが、安部のいおうとしていることは、違う。

やはり、実際に実感して、行動していくことをもう一歩はっきりと押し出している。

作品のうしろにいる、作者をつかんでいかなければ、
見えないことが多い。

「FC2小説」を考える

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プロとアマ

以前から、想っていたことである。

少し考えてみたいと想った。

さるブログにて、小説家になりたいと切望し、切磋琢磨なさってる方におめにかかった。
さるところに作品を取り上げられ、仕事として、小説をかいているという部分ではすでにプロである。

プロとアマの違いをなにでわけるかといえば、
単純に「それで、金を儲けているか(金額ではない)いないか、である」と、想う。

文才のある方はたくさんいらっしゃって、プロかと想うような作品を書く人もいれば、プロでありながら、文体的には平易であったり、?と想われる場合もなきにしもあらずだが、とにかく、プロとアマの違いは、それで、食っていけるか、いけないかというところにある。

憂生は、作家になる気はおありなのですか?と出版社に尋ねられた時、
「ありません」と、答えたわけだが・・。

いろいろ考えるところは持っていた。

一番良い例が、上にかいたセミプロ(と、分類しておく)の方の悩みだと想う。

「自分はこう書きたいと想っていても、編集長などから、
読み手が望んでいることを書かなきゃいけない」
つまり、仕事なのだから、お客様第一なわけである。
もちろん、村上某氏のごとくになってくれば、
7年発行してなくて、
自分の思うままに(意味合いがむつかしいが)書いても売れるだけのものをもっていれば、「お客様の望むところを・・」とは、いわれないだろうが、
しょっぱなから、こんな状況になれることは、まずありえまい。

司馬遼太郎の初期作品をよむと、どこか、乗ってないと感じるものがある。
彼は第一作めから、(梟の城・・だったか?)なんだったかの賞を得たと想う。
そして、作家になり、作品をかきはじめるものの、
(本人はそうではないかもしれないが)依頼をこなさなければならない。
金の為にかかねばならない。と、いう、義務的なものが行間に感じられる。

おそらく、最初はこの状態を辛抱し、想うように書いたものでよろしいですから、なにか、ひとつ、と頭を下げられるようになるまで、「認められるものを」書いていくしかないのだろうと想う。

セミプロの彼女も同じなのだろう。

お客様ののぞむようなものを書けない作家が

自分の思いの丈を表現でき、読み手を納得させられるものが、書けるか。

と、日々、努力を重ね、プロになろうとしている。

一方の憂生はといえば、
その「自分の思うようにかけない」ことを嫌った。

作品のすべてが、推敲せず、すべてが一発書きである。

これをして、「荒削り」といわれ、
誤字多しであり、ネットにおいておくには惜しい(続ければ、「されど、プロにはなれないであろう」だと想う)
中途半端のまま、とにかく書くだけに徹してきた。

なにかになるために書いているわけではない。

出版を考えたのは、「読まれたい」であって、
内情を知れば、ネットのほうが「読まれたい」を可能にできると想った。

憂生の読者様が通常と違い
「読者を意識するな」「自分の思うままに書け」などという。
お客様でなかったせいもある。

文章も巧いといえる部分も多少はあると思うが、
学歴のせいにしてはいけないが、語彙もすくないのに、調べてまで書かない。

たどたどしい表現が自分でも鼻につくし、
どう説明して良いかわからない。
いきおい、自分流でやる。
読者様の補足能力におんぶする。

そして、考え方であるが、
「続きを書ける表現がでてこなかったら、小学生の作文のようなものでもかまわない。~でした。~でした。だって、よい。
問題は続きをかいて、次につなげていくこと」

と、いうものなのだから、わがままもいいところであり、こんな考え方で、
読んで欲しいもおこがましい限りである。

自分独自のものでありたいと想うから、
的確な表現。文字・が、でてこなくても、
自分の中からしかひっぱりだしてこない。

当然、限界はある。

さすがに白蛇抄は(影響をおそれ、陰陽師物は読まず、映画もみない。)
だったが、たとえば、九字。真言(のうまくばさらだんかん・・?とかいう奴)を調べ上げなければならず、密教の解説書は読んだ。

まったく、資料をもたない。

思い込みだけで、やるものだから、設定ミスも多い。

壬生浪ふたり・・も
イチジクの季節ミスっている。
公家がお城に住んでいたり・・。
こんなに、好き勝手をやっている人間が
プロ(になれたとして?)に、などなったら、どうなるか。

「お客様の望むストーリーにしてください」

やだび。

即、首だ。


プロ根性というものがないから、
読みやすいように砕くということもしない。
もともと、難しいことをかけないから、
砕きようもないというのが本当だとおもうが・・。


殿様商売のごとく、
えらそうな書き手で、しかない。

だが、それでも、
「売り物根性」だけは、もつまいと想うようになってきた。

顕著になったのは、アダルト作品を書いてからだと想う。

gooブログにあげたとたん、ランキングに入る。

(1000以内表示のころ)
ソネットにあげれば、1スレッドに最低一日5000~~。
最初の頃は有頂天になった。

そのうち、亭主に充たされない「女性」がちかよってくる。
その態度はすでにうちの亭主つまらないのよね、と言いふらしているのとおなじで、つまらん亭主と一緒になるような奴もつまらんということだと、
やんわりと説得してみたが、無理とわかり、出入り禁止にする。
アダルトサイトのスカウトがくる。
アダルトかけば、作者も同一視かと、笑えてくるし、
メールがのきなみ、ふえて、その科白どおりだったら、憂生は3億円くらいもうけそこねてる。

なにか、ネットの中が以前と違うものになってきているのを感じた。

規制もまともにないし、小学生が掲示板の書き込みでもめて、
殺人事件だとか・・。
最低限のネットマナーも護れない子供に平気でネットをあけわたし、
管理しないものだから、
たとえばここでも、妙なことを心配する人がでてくる。

ここには、子供がよみにくることもある。

確かに現実はそうだが、
パソコンで規制ができる。
官能小説とかいてあるだけで、コンタクトできないように出来る。
そういう設定をして、管理できない保護者の考え方がおかしい。のが、本当であるのだが・・。

捉え方がずれてしまっているし、もっといえば、FC2がそうであるように、
アダルトサイトという分類設定でできるわけだから、
きちんとわけるように提言すべきでもあろう。
実際、憂生もFC2ではきちんとアダルトサイトに登録してアダルト小説を後悔していた。
うっかり、パソコンに規制をかけると、自分のブログでありながら、ログインできない、読めない(ブログ画面からログインする時もある)

ん?
微妙に話がずれてきている・・。
ん?
微妙じゃないな・・・。随分・・



改ページ

そして、次にやってきたのが、
あほログ検索。

エロログ検索とも言う。

性表現があれば、なんにでも食らいついてくる。

白蛇抄などは、最初から読んでくれなければ、
その醍醐味がわからんと、
書評をひっぱりだし、その他でなんどもいうのだが、
おかまいなし。

作者の意図などどうでもいい。

よみまくれ~~~~~。

エロそうなとこだけ~~~~~~。

こりゃ、作家になってもついてまわることだろう。


だとするのなら、不遜ながら、まだしも、
ネットのほうが
「読んでくれる人を選ぶ自由はある」

今回、さる人によんでもらいたいとお願いした。
快く、承諾してくださったわけだけど、
正直、報われた気がした。

読んでくださる人を選ぶなどという行為はあるまじき行為かもしれない。
だが、
この人に読んで欲しいと想う人にめぐりあい、
ダイレクトにお願いできる。

この人と思う人にであえるのも、
ネットゆえだと想う。

そして、お願いできるのもネットゆえだと想う。

もちろん、その方が断わるのも受けるのもその人の自由であり、
断わられたとしても、
そう思える人にであえたということがすでに宝であるわけで・・・。


こういう意味合いで(最近、よく使う言葉だと想う)

やはり、作家にならずに(なれたとしてだけどおおお)良かったと想う。

いつかも書いたが
憂生は市井のもの書きで良いと想っている。

そして、わがまま放題で、
此処にないのなら、読まない。
で、なく、
ブログにまで行ってやろうという人を
望んでいる。

そこまでして、読んでやろうという人を望みたいという
憂生のわがままをして、

プロ意識というのは、まちがっているかもしれないが、

だが、本当に望まれたいと想うがゆえに、
簡単によめない所においやっているし、

どこにあるかも、なかなか、明かさない。

昔のように、ただただ、読まれたいは無くなったと想う。

真摯に読んでくださる人かと、量る真似をするようで、
申し訳ないが
憂生の作品への憂生自身の自負だと想う。

こんな人間だから、
読まれるために
自分をまげなきゃいけないプロになど
なれるわけがない。

憂生の想うままに書け。

そう言ってくださった人が居る。


その点だけは、
そう言ってくださった人にとっては、
憂生は、「プロ」の範疇にはいっているのだと思いたい。

整理中・・

なんか、よくわからんが、
退会されるとか・・。

かく言う憂生も作品をあげては、消し・・挙げては・・消し。

まあ、その数も生半可なものじゃなくて
エッセイ・日記?みたいなものまで、いれれば、3000頁くらい。
削除はすぐ済むが・・・。

なぜ、そうなるのだろうと思う。

それなりに理由があるが、
はたして、それだけだろうかと思う。

まあ、自分でもわからないので、思うままに書いてみたい。

気を取り直して、今回挙げなおしたわけだが、
この裏側にブログまで、来てくださった人の存在があった。

物語を読むというよりも、
憂生という作者ごと受け止められている風に感じ
いたく、感激したわけで、
それで、作品を挙げなおしていこうと思い始めた。

ところが、ここに、感想が入った。

今回、退会される人もにたようなことをおっしゃっていたが、
誤字・脱字などの指摘をしたことが「偉そう」だと取られた。

これに、似たものを逆に感じたといっても良いかもしれない。

過去、作品をよく、読んでくれていた人が感想もよく下さったり、
個人的に話もしたり、憂生の作品をぜひ、読んで欲しいとリンクにあげてくださったり・・。

その人たちが
「憂生、また、誤字だ。3行目・・仰向けだろう」(原文、青向け・・/赤剥けの一種か?)などとよく指摘してくださったのだが、ほとんど直さないというか、次にいってしまう人すぎたようで・・/笑

で、まあ、どういうのかな。
状況はわからないんだけど、ある程度、相手にとってどんな人か判らない状況で自分の気がついたことを指摘するのは、むつかしい部分がある。

もうひとつは、
誤字・脱字に気がついて、そちらにこだわる?ということは、
作品に引き込まれなかったのか?という思いを作者にもたせる。

ある程度、交流ができてくると、いくつも、読んでくれてるとか、判った上で、誤字とか指摘されると、作品に引き込まれなかったとは、別のことだと思うのだが、しょっぱなから、それをやられると、正直、
「そっちに、こだわらせてしまう出来だったか」と、作者としては、痛い。

この裏返しが「えらそうだ」になるのだと思う。

では、逆にほめられた時。

これが、作者としては、「不出来」な部類の作品だった時。
それを、褒められると、
実に子ども扱いされている気分になる。

で、逆をいえば、
このあたりをいうと・・。

褒めて下さる人を二つ、考える。
*上手にかけたねえ・・・的、上から目線。

*本当に褒めているのなら、
その人のレベルが、それくらいのもの(不出来であるにかかわらず)を
良いとほめるくらいのものであるということを、いえば、
褒めてくれた人に失礼になろう。

「えらそう」と、思うには、思う、理由があるのだが・・。

このあたりの、具体的なことが、実際、憂生のほうにあって、
最初の頃の感想から、受けるイメージが、*印のものであったのだが・・。

決定的だったのが、
まあ、その誤字、脱字に近いものかもしれない。

正直なところ・・。

どういう風に考えるべきか、悩んだ。

最初にうける印象は、
「それ、間違ってるよ」
であり、
その根拠を並べ立てる。
それが、いかに、物をしってるかという事をならべたてているようにみえて、
しまった。
憂生にすれば、そんなことが、大事か?
と、いう思いがある。

誤字も脱字もそうだと思う。

完璧によみとれない誤字・脱字なら、いざしらず、
あるていど、よみとってやれたものならば、
作者はその指摘うんぬんより、
まず、作品がどう読まれたかのほうが、気になる。

その部分がいまひとつ、伝わってこないものがあるうえに、
指摘じみたことを書かれると、
読んだことの内容でなく、そっちのほうを指摘したいのか?

と、思ってしまう。

もちろん、こんな、憂生みたいにせまっくるしい考え方の人間はいないだろうと思う。
みんな、よろこんで、くれるのだろう。

と、憂生以外の人間はそうなんだろうと思っていた。

ところが、どうも、そうじゃないようである。

で、こうなると、
やはり、なにかしら、偉そうにみえてしまう「原因」が他にあるんじゃないか?

で、憂生のところで憂生が感じたことを
考えているわけだけど・・。

憂生なんぞは、誤字・脱字だらけなので、
指摘するほうも、膨大な量に嫌になってしまうだろうとも思う。

だが、逆の言い方もできる。

そこをど~もこ~の、いうよりも、
作品にひきこまれてしまったら、いつのまにか、よんでしまう。

と、いうのがあるのと・・。

書くタイプのところでもかいたが、
文字の音や語感をききながら、書くひとがいるように
よみながら、音で読むタイプがいる。

こういう人は、あまり、文字間違いをきにしない。

さきに書いた「青むけ」がそうであるように、
音でよんでしまうから、さして、きにならずに、続きを読む。

で、厳しい言い方をすると、
見た目の部分にこだわる人は
もしかすると、書くとき、音や語感や語調や韻律やテンポを
気にしない人なのかもしれない。

まあ、憂生がそれが、できているかというと、
出来ているといわれたことはある。

本人は、なんとなくであるが、語感や韻律は、気にかける。

まあ、たとえて言えば、
こういう視線から、考えると、誤字や脱字にこだわりすぎて
作品に引き込まれなかった。

と、いわれているように、取られてしまうわけで、
この部分の裏心理への配慮がたりなかったとも、いえる部分があるだろうし、

上にかいたように、
音を聞きながら、文字を書くタイプではないのかもしれないということで、
自分の文章を
声をだして、読んでみるとよいかもしれない。

実際、憂生のほうに指摘?らしきものがあった方の文章は
どちらかというと、テンポや韻律が悪い。

読みやすさというものに
このテンポや韻律が(耳でも読むタイプには)実はかなり、関与する。
こ難しい物事をかいてあっても、この韻律がここちよいと、
すらすらとよめて、内容が頭に入ってくる。

実際、添削の真似事をしてみたとき、それは、感じた。
かきなおしてきたものを読んだ時、
文章の歯切れがよくなって、テンポがある部分はすらすらよめて、
心地よいものにかわっていた。
それが、崩れると、途端に読みにくくなる。

まあ、読解力が低い人間なので、読みにくくなると、
考えながら読まなくちゃいけなくなる。

つまり、物語の外にでてしまう。

文字を目で読むタイプの人は、この誤字などで、
「物語の外にでてしまう」のかも?

と、なると、そこら辺を上手にいいあらわしたら良いのではないかと思う。

先の憂生のたとえで言えば
仰向けが青むけになっていたら、
せっかく、物語にひきこまれていたのが
素にもどってしまうじゃないですか~~~~。

などとか・・。

あ、物語のムードにまで、はいりこんでくれたんだ。
つやけしになってしまうから、なおしておこう。

と、まあ、どういうのか、
物語に引き込まれてくれたんだ。
と、いう書き手を安心させる思いが足らなかったんだろうと思う。

杓子定規に間違い、間違いとやってるということでなく、
裏側で
「引き込まれない作品だった」と、いっているように聞こえてしまったんだと思う。

まあ、憂生のほうのある方の感想のパターンが、なにかしら、
そういっているように受け止められるような書き方が多くあり、
最後には、憂生がきれてしまったわけなんだけど・・。

このあたりの感覚を憂生もうまくつかめないまま、あれやこれや話しているうちに、決定的な言葉(語感)使いに気がつき
もう、話すのはやめることにして、
自分の中で、詮議してみることにした。


それは、「さしあげる」という、言い方だった。

おそらく丁寧な言い方のつもりなのだと思う。

ところが、悪いことに憂生は

「してあげる」
「させてもらう」
というところでこだわった人間だった。

障害者の人たちに対してだったとおもうが、
「こっちが、してあげれることはないか」
と、いう言い方の人が居た。

「その偉そうな思い方を治すことが先だと思う」

意味合は簡単に通じない。

「あげる」という言い方からして、それは上から目線になる。
憂生なぞ「してあげようか?」などといわれたら「していらん」という。

自然としてくれるのが一番良いのだが、
せめても、なにか、させてもらえることはありませんか?

なのだ。

で、まあ、あげる・もらう。
ってので、昔ぶつぶつ、書いてる。

してあげる。
あげてしまうんだ。なくなる。
させてもらう。
もらうんだ。
自分に増える。

気配りということもそうだ。

気使いは使ってしまう。使ったら無くなる。気を使うとくたびれるのは無くなるから、くたびれる。
気配りは配るんだから、また、帰ってくる。

まあ、かいつまんでしか、書かないが、その
「さしあげる」という言葉にやっぱり、本人がきがつかないものが有る。


「あんたから、もらう気はないよ」
「あんたが、なにを憂生にあげられるん?」

まあ、ぶっちゃけていえば、こういう思い。

その思いがまた、憂生も偉そうであるのは判るんだけど・・。

これが、逆に
「させてもらう」
と、いう言い方だったら、本人がもらうことなので、

憂生に対して、なにかする、ことで、本人が得?をする。わけだから、

それに対して、憂生は、その気持ちいらんよ。とは、思わない。

実に微妙な心理なので、憂生もうまく、いえてないのだが、

こういう、ちょっとした言葉使いの中に

「その偉そうな思い方を治すことが先だと思う」
を、感じてしまい、
それが、随所にみえる、繰り返しだったわけで、

悪いことに、それが、目につくと、
あれもこれも、と、いっそう、目について、

こりゃあ、このままじゃあ、そういう目線でみてしまうというか、

そういう事に反応する触覚が立った状態のままでしかない。

良いところもわかってるし、まじめに向き合ってくれる所は特に、好きなところであるが、
いかんせん、
憂生のほうが、いろいろ、こだわっている(その人のことでなく・・先に書いた・・「もらう」「あげる」/気使い・気配り・・などの語感など)
ところが多すぎる。

このあたりのところが、

作品にそれが、もろにでてくる。
永沢作品・「小夜」あたりでも、「沙夜を抱いてくれたの」と、あるいは偽物でしかないものを、「くれた」とうけとめる沙夜の心理。背景的なものを考えるとそういう風にうけとめるしかない、精神的たわみなのだが、そう受け止めることで居場所(存在価値をみいだすしかない)を求める。

まあ、そういう風に、逆の使い方にはなっているが、
「あげる」「もらう」という、考え方が基礎になってでてきている表現であるわけで、このあたりからして、嗅ぎ取ることができるかどうか?(他の作品においても・他の拘りがあるわけだけど・・)

と、不安にさせてしまうのが、
たとえば、誤字にこだわる・・とか、が先になってしまうと、
到底、読み取ってないと、おもわれかねないわけで、
また、裏返せば、読み取れるようなものをかいてないわけかと
作者が痛い。

話が、どうどう、めぐりになってしまったが、

いずれにせよ、自分を詮議して、いくしかないわけで、

一歩ぬけた、一皮むけたものになっていけば、それで良いことだと思ってるので、
憂生もぶつぶつ、いいながら、自分を詮議して、自分(足らなさ)に気がつけるときが来るのだと信じている。

まあ、簡単に言えば
転んでも只起きるな。ってことで・・。


がめつい、憂生の話でやんした。

しかし・・

船頭、多くて、船、山に登る。
ってなことわざがあるが、
これは、
調理の仕事をしていたときにも思った。

料理を作る人間が、数人居る。

どういうローテーションか、配置になっているかは、省くが、
皆、船頭なのである。

それぞれの考え方でものをやるわけで、
その部分については、しのごの言うところではないのだが、
なにかのおりに、その「言い方」が問題になる。

ある程度、実力がある人が、
味見もせず、「自分がたべるわけじゃないし」
などということを口にする。

それは、長年の勘があるから、できることなのだろうが、
やはり、あるまじき発言なわけだ。

こういうのが、ある一方で、作り方は滅茶苦茶なのに、
できあがったら、旨い。
と、いうパターンの人もいる。

結局、一人一人が職人みたいなもので、
いったん、失敗すると、揉め事になる。

このパターンを此処でも感じる。

みんなが、みんな、やはり「職人」なのである。

その職人が、うっかりしたことを言う。

まあ、先のたとえで言えば、
自分の料理をとことん、こだわっていけばよいところを、
人の所にこだわりをだす。

上でいえば、たとえば、味見をしないでも、旨く作れる人に
「味見をせよ」とやらせたら、ひょっとして、
調味料の配分などに狂いがでるかもしれない。
かく言う憂生も手が覚えてるというタイプで、
勝手に手がとまる。
味見はするが・・・。

逆に、無茶苦茶な作り方の人に、セオリーどおりの作り方をさせたら、
まずいものができるかもしれない。

あくまでも、「自分の場合」に拘り・・、
それが、旨いものであれば、
「どういう風につくるか?」をきいてくる人間が居る。
みている人間が居る。

そのときに、「私は誤字脱字をきちんとなおす」ことを一番大事にしている。
当然、よみなおすわけだから、文章のおかしいところもなおすだろうし、
自分の文章の韻律もかんがえるだろう。

そういう意味で、誤字脱字を直していくことからはじめる。

と、推敲もかねる。

こういう風にとらえていくわけで、
ああ、誤字、脱字を直すという事は大事な基本だ。と、感じた人が
おなじようにやっていくわけで。

憂生自体、推敲もしないし、読み直しても、テキストをよみなおすわけではないので、直した方が良いというのがわかっても、物によっては、膨大な量なので、さがしあぐねるということもある。

いかに、自分の作品に対して、もっとよくしようとしているかということが、つうじていくのが本来で、
「あんたも同じようにせよ」
と、いう事ではないのだろうと思う。

「あんたも同じようにせよ」と、言ってしまうところが、
先のたとえでいえば、
「その人流のやりかた」をくじくことになる。

実際、その作品に対しては同じようにせよと言うのがつうじたとしても、
作者側の気持ちの中に生じたものがマイナス感情になれば、見えないところで、やはり、くじいてしまうということがあるあるこのマイナスを与えてしまったというところから、
エネルギー保存の法則で、
マイナスをあたえたほうも、
マイナスが与えられる。

こりゃあ、どうしようもない仕組みなので、
できるだけ、自分の中で循環させるようにするべきだろうし、
どうしても、いいたいなら、
言った分だけのマイナスが帰ってくることを覚悟しなきゃいけない。

自分は良かれと思ったことでも、人の心がどううけとめるかまではわからないことであり、帰ってきた答えで、プラスだったかマイナスだったか、判断するしかないわけで、
このあたりを知って、相手に対して、この人に対しては言える。
この人に対しては、いっちゃいけない。
とか、あたってみて、わかることでしかないので、
そこらへんについては、臆病にならずにいてほしいのだが・・。

問題はどういう「心・思い」で物を言ったかになる。
このあたりの自分への詮議が必要な気がする。

相手への愛のある思いで、言葉をかけていたか。
自分がきにいらない。で、なかったか?

自分の思いは自分にしかわからない。が、それが通じる言い方が出来なかった。と、言う部分での、自分の心の表現方法を考えていくことも、
作家の要素として、みつめられるということであるから、
大切なことであろう。
通常の会話において、自分の心をうまく表現できない場合
相手にいうのでなく、作品を通して、どういう思いをもつべきか、どういう表現をしていくかを学んでいくことも大切だと思う。
この部分で、相手にするのは自分だとおもうわけで、
そう考えたら、貴重な体験になっていったことと思う。

考えなおしつつ・・

憂生がFC2小説から、作品を削除してしまった理由・・・・
う~~~ん。
心理というべきか・・・。

何度と無く、書いたかもしれない。

物語・・読み物にしか、すぎないものだが、
その作品に語られている内容を読んで、
自分のほうに、「糧」として、読んでくださった人がおおかった。

自分をみつめなおす。
と、いう部分があるものがあり、
この作品をして、
読み物として、扱われることに
疑問を感じ始めたという事だと思う。

心を閉ざしていた人が心を解かしていくきっかけになったり・・。

たとえば、この作品をして、
「たのしかった」「文章がへた」などと、いえる人は、
ある意味、幸せなのだと思う。

心に沁み、生きる指標と希望をみいだしていった人が
それらの言葉をよんだら、どう思うだろう。

憂生、安売りしなくていいよ。

ただ、読んで楽しいだけなら、
他のものを・・

文章が巧いなら、
他のものを・・・

そう思うのではないのだろうか・・。

もう、亡くなってしまったけど、
病床で憂生の作品をよみきかせてもらいながら、
「執筆はじめた。よかった」
そうやって、よろこんでくれて、
生きる希望になった作品がきっかけで、
憂生のほかの作品もよんでくれた。

この人が、最初に憂生にある場所で声をかけてくれた。

他の人のことを配慮されたのだろう。
だけど、同じ事を思う人はいて・・。
似た言葉をかけられた。


これも、なんどか、書いた。

「読み手を意識しすぎていませんか?貴方の思うまま、かいてください」
憂生の思うままを、がっちり、うけとめる。

こういう意味合にも思う。

いくつかの感想をもらい、最初に、自分にてらしあわせてしまった。という
感想をいただき、ひどくほっとした。

物語を自分の血肉・肥やし・糧にしようという姿勢の人がいる。
喜んだのも、つかの間だった。

感想がはいる。
評価がはいる。

通常でかんがえれば、
ありがたいことである。

嫌味ないいかたになるが、
もらいたくても、もらえない人を考えたら、
ありがたい、と、思うべきだと思う。

ましてや、良い評価であり、感想の内容も
作品自体については、的をえている部分もあった。

ところが、
じつにもうしわけないのだが、
「この人はなにをいいたいのだろう?」
と、迷う表現がありすぎた。

結果的に思うのは、
「読み物」として扱う。

「読んで面白い」であり、
自分のどこに触れたかを書こうとしない。

一種、読み物から与えられる「高揚」に酔う。
と、いうパターンに感じ
「作品」の中にこめたものが、書き手と読み手のパイプにならない。

今の世の中のパターンがこんなものなのか?と、
10代の女の子にきいてみた。

「作品を読みながら、自分とてらしあわせることはないのか?」
「ないな。第一、そんなことをしていたら、楽しくよめなくなる」

感動というものも、娯楽になってしまう今の世の中。
泣ける話を好んで読む・・とか・・。

こういう風に本とむかいあうのが、主流で、
読みながら、自分とてらしあわせる・・ということが少ない。

いや、てらしあわせることがあるのかもしれないが、
それを出すことを避けるのかもしれない。

何人かの人の人生に示唆をあたえてきた作品を
「よんでおもしろい」と、いう感想でなく、
「考えさせられました」と、いうのなら、まだしも・・。

なにか、遠いところから、いじくりまわされ、
自分にとってどうであったかを話さず、
作品の解説?じみたものごとをかきつらねられても、
そりゃあ、「作品」みずからがかいてることでしょう。
と、いいたくなることをこらえ、
なぜ、そんなふうに、
作品観察をするのだろうか?

と、考えてみれば、
此処自体がそういうシステムで、
多くの人が
評価で、作品のできをほめられると喜ぶという
「読み物」として、書き、
「読み物」として、扱い、扱われ
と、いうことを当然のように思っているし
それで、良いんだと、思う。

ただ、憂生は自分が人の作品をよんで、
なんらか、自分とてらしあわさせてもらえた作品についても、
評価はしない。
自分のうけとったものの価値をかんがえると、
それを★いくつと、おきかえられるものでないところがあるから。

文章とか、構成とか、ストーリーとか、こういうものだけをいうのなら、
たとえば、★3だねとか?
逆に★5であっても、響いてこないものだったりすれば、
内面(受領面)でいえば、
★3のものであっても、無限大数にしなきゃいけないほどのものもあれば、
★5のものであっても、0の値にしか感じないものも有る。

プラスαの部分というのは、外面的なものと同じではないわけで・・。

まあ、こんな考え方だから、
評価よりも、感想で、いろいろ、書いてもらえたらという思いはもっていた。

ところが、感想というものが、先にかいたように、
なにかしら、
ペトリ皿にいれられて、
これは、有機物Aで構成され、酸性を有し・・・と
分析されていて、
かつ、これは、有機物Wをおもいださせ、
さらに有機物Zを思い出す。
そういえば、有機物Zの構成物質には、美しい特長があった。

なんじゃ、そりゃ?

あ~~たの研究手腕を自慢しにきてるんですかい?

自分ところで、研究ノートでもかいてくれ。

こう言う思いがわいてきてしまって・・。

まあ、こりゃあ、ここで、

「自分とてらしあわせて、その部分を率直にかたってくれる」

などということを望む方が間違っていた。

と、おもうようになった。

自分と照らし合わせた部分を語ることは
時に、自分と向き合ったその部分をもろに文字にしなきゃならなくなる。


他の人間も読むかもしれないと思えば、そこらへんをだしにくいことであろう。

だが、実際、それをできる人間がいっぱいいたわけだし、

しょっぱなの感想もそうであり、良い意味で「自分を晒す」ことができる人は
強いわけだし、その問題?を真剣にかんがえているからこそ、ひょいと、出せる。

この部分でも、その感想を下さった人の常日頃の問題への取り組み方や、自分をみつめる目、そして、「出せる」とこまでいっているという境地(域)を思い、「真摯」な人柄を感じさせられている。

ずれたか・・。

まあ、そんなわけで、

むちゃに此処で物語をあげまいと思うようになってしまったわけで、

もちろん、いろいろ、思いながら読んでくださった人は居るのだろうと思う。
感想にこそ書かないが、
なにか、得たものを、自分の血肉にしようとしてくださっている人も居るとも思う。

ただ、多く、「読み物」として、外面的評価、感想でとらえられたくない。

と、いうのが、憂生の中ではっきり意識したことで、

その根本はやはり最初から、

多くの人の人生にかかわる作品だったというところにある。

これをして、「読み物」として、あつかわれたくない。

と、いう思いにいたってしまったわけで、

読んでくださった人が、すべて、こういうパターンで読んでいるとはおもっていないが、

なにかしら、必要であると思えば、憂生の「文庫」?に足をのばしてくださるだろうと思い、此処の物語をすべて、撤収した。

長編小説・・

長編小説のおもしろさというのは、
主人公・・などの性格をあらゆる方向から、
分析できることだろう。

短編になってしまうと、どうしても、一つのエピソードになり、
そのエピソードだけに対する主人公の処し方、思い方などしかわから無い事が多い。

だが、長編になってくると、
通常は登場人物も多くなり、
登場人物同士の会話や、
他のエピソードへの対処・思い方
などなど・・。
かなり、多面的な部分がみえてくる。

これをやると、他の登場人物も、かなり魅力的になり、
今度は、他の登場人物のエピソードから、
他の登場人物の対処・思い方をひっぱりだしてみたくなる。


場面転換も要所要所で発生し、
主人公が、語っていたことを、
場面転換によって、
他の登場人物が主観をまじえ、
主人公への思いなどを客観視させるというパターンが生じ
さらにそのほかの登場人物をみつめる登場人物がでてくる。

つまるところ、一人抄が、複数でてきて、
三人称と一人抄で語る。


この部分を
うまくこなせると、
物語が立体的になり、奥行きがふかくなる。

一人の人間にたいして、
あらゆる角度から、あらゆる人間からの
推察が、完了すると、

主人公の性格などに「真実味」や「裏打ち」がでてくる。

言い方をかえれば、多くのエピソードや
三人称と一人抄で語るものは、

主人公への装飾語である。

この性格、この思いの副主人公(など)が主人公をどうみつめるかによって、
主人公が「どういう人」であるかが、みえてくる。

と、なると、他の登場人物が「どういう思い」をもったか。「どういう処し方」をしたか。は、かなり重要なポイントになる。

物語が平面的になるのは、他の人間の肉付けがうすく、主人公の主観でしかみないからおもしろみにかけてしまう。

お登勢にかぎらず、多くの物語には、場面転換、立ち居地変換、が多くある。

この手法の欠点をいえば、誰が、どうおもったか、などを巧く説明できず、
作者自らがこんぐらがってしまうということだと思う。

作者がこんぐらがってしまったものを、他の人がよんだら、さっぱりわからなくなる。

こういうコンフュージョンがおきてしまう原因は
「頭で物語を考える」ところにあるかもしれない。

憂生の場合、人物のおよその性格を書き分けることができている(と、いう書評による)のは、
人物になりきった、感情移入にはじまる。

それを知って、どう思うだろうか?
で、なく
「こう思う」がある。

すると、そこを書かなきゃいけないと思う。
いや、そこを書かなければ、読んでいる人とて、同じことを思うだろう。
「この副主人公は、主人公のことをしって、なにもおもわないのだろうか?」
と・・。

立体的に書くというところに拘るというよりも、
「この登場人物にだって、いろいろな見方・想い方がある」
と、いうところによるのだが、
この書き方が逆に織物でいうと、

横糸になり、エピソードを縦糸にして、
かきあげていくと、
模様がうきでてくる。

主人公という模様部分が
副主人公・その他大勢により、うきでてくる。

これにより、
「迫力がある。真に迫る」と、かんじさせ、
それにより
「筆力がある」
「文章力がある」
「表現技術力がある」
などという、言葉を頂くことになっているのだと思うが、

実際のところは、まったく
稚拙な書き方しかできていない。

どういうのだろう?

物語(登場人物)が心のうちにはいりこんでしまって、
読み手の中でイメージが膨らみ、
存在感が実存的になる。

これが、あるから、「巧い」とかんじさせてしまうものがあるのだと思う。

(もちろん、当の憂生の文章は拙いの一言で足りるものでしかない)

この逆が、文章的には巧みであっても、
なにかしら、ひきこまれない。
というものがあったりするわけで、

今、多くの人が文章をいろいろ、かいているが、
その人その人の「巧い」とかんじさせるものは、
個々、それぞれに、ある。

憂生自体は
科白だけの(最近は科白を言った人間をアバター?であらわす)パターンが延々と続くもの。
俺「・・・・・・・・・・」
斉藤「・・・・・・・・・」
由香里「・・・・・」
俺「・・・・・・・」
で、俺たちはものわかれになった。
斉藤「・・・・」
俺「・・・・」
 
と、いうようなパターンのものは、個人的には好きじゃないが
それでも、書かれている内容に「巧い」があるのだと思う。

また、なににせよ、このパターンでかいていっても、
なにかしら、状況を説明して言ったり、主人公の心理を表していく必要がでてくると思うし、書きなれていけば、「やり方」が習得される可能性もあり、
ダイレクトに訴えるだけで、あれほどの集客があるわけだから、
着眼点とか?光るものをもっているわけだし、
この部分を保持しながら、ダイレクトにつたえられたうえに、プラスαの表現方法をつくりあげていくか、いかないかは、本人次第ではある。

が、なによりも、
一番良いのは、稚拙?だろうが、なんだろうが、
書きたいことを書こうとする心。
書くことをたのしんでいるということ。

杓子定規にああせねば、こうせねば、と無理をすれば、
ダイレクトに訴えるものが萎縮して、
頭で考えたものや、
読み手を意識したもの、に、なりやすく、
あるいは、憂生の科白のように
「個人的には好きじゃない」などの嗜好問題を気にしすぎて
書くことを楽しめない。

などになってくると、この先の可能性までそぎおとしてしまう気がする。

まあ、此処の評価に対して、一時、紛々とした想いをわかせたのも
そこではある。

確かに酷評もありだろう。
だが、うっかりすると、
「楽しく書く思い」をつぶすこともありえる。
「書きたいまま、書く」をつぶすこともありえる。

作家の作品をよむだけ。
と、いうことを考えている人が多くいるようにみえるが、

憂生が今までものを書いてこれたのは
実に単純な一言だった。

「書けよ。書けよ」
たった14歳の人間にいくつも年上の人間が手をにぎりしめて言う。
でてきた言葉それが最初だった。

とにかく、書く。
これを繰り返し、筋違いではあったが、
文芸社からは、特別推奨作品に推したいという話もまいこんできた。

それらのことのすべての出発点が、
「書けよ。書けよ」だった。

だから、ああ書くべきだ。こう書くべきだ。
このさい、度外視する。


長い人生のなか、書いていくことをつづけていくかどうか。

その最初の温床でしっかりした「書く心」という苗をそだてていけばよい。

ときおり、温床にもどることだって必要であるし・・。


まず、原石をすててしまわないこと。
原石を持っているという事
何年たっても、そこに舞い戻るということ。

あとから、ついてくる技術力など、今は考えず、
「書けよ。書けよ」
そして、もう一言いわれた。
「今だから、書ける。その感性は川端康成にだってない、君だけのものだ」
そして、憂生は思う。
「今」は、いつまでたっても「今」なのだ。

追記

そして、15~16の頃の感性だったものを、
随分ときを経てから、
書きなおしたものが、
先の特別推奨作品に推したいといわれたものである。

その頃のものが、他にもいくつかあるが、
その頃に、書いていなかったら、
再び、書くことは無かったと思う。

パンパンとチョコレートの中の大まかのストーリーと
「安心の芽に肥やしをかける」
という、一部分だけを覚えていた。

そして、その感覚を。


今、巧かろうが、下手だろうが、
「その感性・その感覚」を
「今」かいていくことで、

自分こそが
「その感性・その感覚」
を、意識・認識・自覚しておくことができ、

後年、それに唸る自分がいれば、
新たに書くこともできる。

「ミーイング」(意義付け)していくのが、
まずは、温床への肥料であると思う。

書く

まず、思うまま、書く。

文章のおかしいところとか、
ああすべき、こうすべきは、あとまわし。

彫刻で言えば
まずは、荒彫りをしてしまう。

何にもとらわれない「自分」のままに書く。

そして、ありえないやり方だって、
きちんとこなせるようになれば、
それはそれでかまわない。

名前失念したけど、
科白が4ページ。
返す科白が2ページ
又科白が1ページ
ほぼ科白でできあがっている歴史小説。

普通ならまともな情景描写も無いこの作品で
プロとはいえないだろう。
だが、その科白の中味はプロだ。

スタイルというものにこだわる必要はないと思う。

ようは、「こなせる」ものになっているかどうか。

それを考えると、最初から型にはまらないから、
やめておこうと型にはまる必要はないと思う。

型にはまらないものをこなせる域までいくことが、
大事なことじゃないのか?
そこを目指すのが自分らしさじゃないのか?

だから、憂生は強者さんの作品はすごいという。

ああしなきゃいけない。
こうしなきゃいけない。

などというものを超越した域にたっしている。

文体をいえば、いくらでも巧い人はいる。

だが、「こなす」域にまで達している人は少ない。

楓双葉さんだったかな、

文章自体は荒削りではあるが、「自分らしさ」があって、
光始めている人だと思う。

この人の「自分らしさ」を、もっと「こなしきっていったら」
押しも押されぬ個性あふれる作家になることは間違いないと思う。

まず、確立するのは「自分らしさ」

このあたりを忘れて、上手に書くという技法にとらわれてほしくないと思う。

特別推奨に推したいといわれた作品も、
改善すべき点はあるといわれたが、
「作者の持味が活かされている」ということが大きかった。

「自分らしさ」をまず知っていく。
出版できるようになれば、
編集にあたり、更正を指導してくれる出版社もある。

そのノウハウはあとででもなんとでもなる。

問題は
その「自分らしさ」のままで、いきましょう。
と、いわれるところまで、もって行くことなのだと思う。

そのためには、
あわてて、型にはまらず、
のびのびと書く。

憂生はいつまでも、発展途上であると思っているし
本当に、これだと思う作品ができたら、
とことん、推敲していきたいとは思っている。

もしかして、一生、これだという作品はできないかもしれない。

ときに、後退としか思えない作品をかいてるが、
自分の中でなにかがこなれはじめてるときもあれば、
なにかを模索している部分もあると思う。

とにかく、書く。
これしかないと思いつつ、
ついつい、寄り道をする自分だとおもう。

一発書きを主にしていて、さすがに5万文字などという作品になってくると、
一日ではうちこめない。
ラフな作品だと3万文字なんてのは、一日で、かきあげてしまう。

この量産状態が、書き始めた半年の間、多く続き、
白蛇抄とSO2のダブルブッキング・・・。
などというのも、平気な状況で、両者あわせて
200万文字くらいか?
平均すると、一日1万文字。
それも、仕事をしながら、連日、深夜2時、3時
下手すると次の日は6時出勤・・・・。

書けない日もあったと思うから、多いときは一日3万文字は越していたと想う。
作品の多くは、3万文字~5万文字のものが多いが、
一番長いのが16万5千文字
次が12万3000文字
8万文字を超える作品が3~4編。
5万文字をこえるものが、3編?
と、今はこういう結果になっているが、
12万文字の作品を書いたのが、その多産の時期で、
この作品を超えるものは無いだろうと想っていた。

この一発書きが始まった頃、下書きも構想?もまともにもっていなかった。
ちらりと閃いたことをとにかく、書く。

通常、そのまま書いていくということをやると、
長編の場合、ストーリーが破綻していたり、
構想が今一歩ということになりやすくいのだが、

憂生の場合、この状態のほうが、かなり伏線も構成もストーリーも
表現もこったものができあがった。

打ち込みスピードがまにあわないため、
下書きをした。
パソコンでうちこんでいても、文字を書くスピードには限度がある。
だから、下書きというのではないのだが、
これが、速記のごとくでもまにあわない。

こんな調子でかいたものと、
同じ一発書きでありながら、頭の中でゆっくりねりなおしてかいたものと。

読んで下さった人がいるか、どうか、わからないが
白蛇抄2~14話、これが、沸くようにかいたもの。
お登勢などは、考え考え書いたもの。

考え考え書いたものの方がいまいち勢いがない。

逆に空に架かる橋(55000文字)などは、
57スレッドにわけ、45日の連載をしたものだが、
書ける勢いがありながら、1スレッドごとに日をおいた。
紙飛行機をとばし、地面におりたったのを見届けると
次を飛ばす。
と、いう感覚で
書く勢いをセーブした。
かけば、2~3日あれば、終わってしまう。

だが、それ以降、いまいち、一発書きが、沸いてくるタイプのものが少なくなった。
なにか、「熱」がこもりきってない作品はみぬかれるものだが、
書いている本人がそれを一番わかっている。

ながばなし・・・

かなりの物語をもっている憂生です。

ジャンルはまあ、真摯なものから、ギャグから、アダルトから・・。


と、実に幅広いもの書きですが、


どうも、底の部分に


「生きることを問うまなざし」ってのがありまして/笑・・うかな


文芸社の書評を流用しているのも、実は、「生きることを問う」というような一言がはいっているからという

まあ、憂生の本質をきちんとみぬいてくれてるというのがあってのことです。


で、まあ、多く、アダルトあたりで、かなりの誤解をうけて(と、いうか、そういうのだけを目的にする人は他のものを読まないせいでしょうけど)

憂生の本質部分にふれようとしない。


まあ、そんなんで、34作品非公開措置をとりました。


本当、いろいろ、手を変え、しなをかえ、日記にしろ、物語にしろ

まじめなことを書いてきたわけですが、


どこかでも、ぼやいたのですが、


解離性傷害・・・から、恋人を救い出していく男性の話をかいているわけですが、

この物語のモチーフに性的虐待など・・があるため、

そういうロゴ検索で読みあさりにくるばかたれがいまして・・・。


これがたんなる、想像であるのなら、憂生ももがきもしないのでしょうが、

一人の人間の命・人生にかかわる命題「赦す」ということをしきこんでいるため、

かくも無残にエロ興味のターゲットにされるのかと、ネットでの公開をあきらめるのと同時に

大きな人間不信になりましたね。



あ、ネット不信というべきか。



そして、へらへら、かろきにあつかわれることに嫌気がさして、

本人、事実のむごさに筆を進めると吐き気がしてくるというプチPDSTにもなっていたときであり、

これを面白半分で検索されるというのには、まいりました。


神経ずたぼろで・・。


憂生自体が「赦せない」という感情があり、これを克服するためにも、

どういう風に考え、捉え、見方をかえていけばよいか・・。

自分の為にも必死で模索していたことであり、けして、ちゃらちゃらの物書き遊びではなかったので、

簡単に言えば

「赦せない行為」と同質の人間の検索(行為)なわけですから、

なんで、侮辱されるために、公開していかなきゃならん?

人のことを玩具にする・・というのは、言い換えれば、(二次的に)憂生も同じことになり、

あげく、人の精神まで無茶苦茶にしてしまう行為をどういう風に「赦す」かを考えようとしているところに

まんま、小規模ながら、同じ事が起きる。



呪という思いがわいてくるわけですよ。



ばかげた検索ロゴをかけてくる奴、

おまえやおまえの身内や恋人が気が狂うほどの暴行をうけてしまえ!!

ってね。

その痛みを身をもってわかるようにならなきゃ、馬鹿ログで検索する自分がいかなるものか、わからんだろう。

ってね。


こりゃあ、良くないよな。


物語の中でも、そういう「呪」の気持ちをもっちゃいけないって、主人公が血を吐くような思いで自分に念じてる。


なのに、書いてる憂生の現実空間が、主人公と反比例していく。




書けるわけがないよなあ。



通ってない・・んだから・・。


嘘ごと、かいてるみたいなものだよなあ。




実際の場面でも、事件に関わったと思われる人間が次から次へと事故を起こしている。


憂生自体が、呪った。


即、目の前で自分の思いがいかなるものだったかをみせつけられる。


これをやっちゃあ、人を殺しかねない。


思いの恐ろしさ・エネルギーをセーブしていくためにも、「赦す」それが、必要だと書き始めた物語で

またも、「呪」をもつ。



まあ、いいかえれば、こういう見えない世界で「呪」のエネルギーをかけられてるかもしれないってことにも

気がついて欲しいってのもある。



一人、二人へのことならば、それも、まだしもかもしれないが、いまや、アクセス解析なども常備されてるから、特定されるし、

気分悪いってのを数あつまりゃ、そのエネルギーも膨大なものになってくる。



ネットを通してだって、充分、エネルギーはつたわる。

受動両方で、憂生もその経験はある。



自殺(しかけ)の予知?で、ネット友人に念をおくったこともあるし、

逆にネットを通じて憂生に憑依したものを払いに来てくれた人も居た。



話がずれまくってしまったけど、

「見えない世界」わからないことだとおもっているかもしれないが、

それら、すべては「思いに元をなす」



どんな思いをもっているか、わからないだろうと、例えば、あへあへした目でブログを訪問してりゃ、

それが、いつか、集積されて、自分に帰ってくる。



そのときに、なんで、こんないやな目にあわされるんだってことになる。



思いをよくしていけば、良い思いが帰ってくる。



まあ、そんなんで、憂生も一方ではこういう嫌な思いを味合わされるなにかをしでかしていたのだろうと思う。



その一端として、「煽る」という表現があった部分で、安易な煽動(扇情)になっていたのが、原因でありえるとも思い、いくら底に真摯な部分をいれこんでいても、無理なのかもしれないなと34編封鎖にいたった。




ある程度の年齢、苦労している人がよむと、

「憂生の性を大事にしろよというメッセージが伝わってくる」というものなんだけど、

読み手を選ぶ事ができないのが、ネットなんだなとつくづく、思う。


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