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白い朝に・・・(執筆中)


小さな唇の隙間がひらいて、

音にならない嗚咽が形に成る。

俺はそれを読みとる。

 

YO  SHI  HA  RU

確かにお前は

俺を認識してる。

空洞の向こうににげこんだまま、

お前の瞳が俺を映すことがないというのに、

このときだけ。

俺とお前がひとつのものになったときだけ、

お前は俺を知る。

お前を空洞の中に追い込んだ野蛮な獣と

同じ物で

お前とつながれているというのに、

お前は、それでも俺の名を呼ぶ。

一瞬の閃きの中、

お前は俺を認識する。

それを愛と呼ぶか、

渇括とよぶか。

あるいは、紅蓮の炎か。

一瞬の閃きはイナ妻のように

お前をつらぬく。

狂気の狭間、

肉欲だけが瞳子を

俺のものにする術になる。




私が瞳子とであったのは、
篠崎教授の企てだったと思う。
小さなお弁当包みをたずさえて
父である篠崎教授の元に訪れた瞳子は
薄い萌黄色のカーディガンをはおっていた。
「せっかく、作ったのにわすれていっちゃ、だめでしょ」
と、父親をたしなめると、
瞳子は私にぺこりと、頭を下げた。
「父さまは、忘れっぽいから、
いろいろ、ご迷惑かけてるんでしょうね?」
黒い瞳の奥に父親の真っ直ぐな愛情を
うけて育ったものだけが持つ優しさが
柔らかくひかっていた。
その時に私は瞳子への恋におちたといっていい。
「いや、いや、ごめん。御免」
娘にあやまりながら、
差し出されたお弁当をうけとると、
おもむろに、教授が私をふりかえった。
「娘の瞳子だよ。
このとおり、初めて会った人に
きちんと挨拶することもできない世間知らずな娘だが、唯一明るいところが、とりえだ」
瞳子の素直さが、私のまえで開かれていく。
「まあ、ごめんなさい。
えっと、私・・ったら、随分、失礼を・・」
父親の諭しを素直に悟りとり、
非礼を詫びはじめた瞳子を私は制した。
「きになさらないでください。
私こそ・・」
どう言葉をつなごうか、迷った私の瞳の中で、
瞳子がほほえんでいた。
「父さまがおっしゃっていた通り。
優しいかた・・」
ぽつりと呟いた一言で、
私は自分の存在すべてを、瞳子にうけとめられたような暖かさをあじわった。
常日頃、学問一すじの教授が、
家庭という個人レベルのなかで、
私を「人」として、認めていてくれたという事実と、
わが娘にまで、肯定して話を伝えてくれていたという認められていた証し。
瞳子のなにげない言葉の中のこのふたつの事実が、
私の胸に大きな鋲をうつことになった。

陽ざしがかげるとあたりがそろそろ冷たく感じる秋のおわり、私は瞳子と婚約した。
はじめて出会ったときから数えて
半年がたっていた。
教授の目論見どおり、
瞳子は私に好意をいだき、
私もまた、瞳子に惹かれた。
教授が娘を託すにふさわしいと
私を選んでくれたその厚意にこたえるためにも、
また、私の中にほのかにともりだした愛を育てるためにも、
私は瞳子に誠意を尽くすことで、
瞳子の心を私にかたむけさせるに勤めた。

「はじめて、会ったときから、素敵な人だとおもっていたのよ」
瞳子の告白は、まぎれもない私への恋情。
自分が漏らした言葉の意味合いに
気がついた瞳子は戸惑いとはじらいをみせ、
私は瞳子の思いを確信した。
「一緒になろう」
瞳子の返事が小さな嗚咽に変わった。
「ずっと・・好きだったの・・」
それでも、優しい男は誰にでも優しい。
それだけにすぎないと、瞳子は自分の恋が
砕けることをおそれ、
そっと、自分の胸の中にふせていた。
「夢みたい・・・」
つぶやいた・・言葉が私の胸の中にうもれた。
私はその時はじめて、瞳子をだきしめた。
はじめての異性からの接触に瞳子は軽いおそれをかんじていたにちがいない。
それでも、瞳子は自分の恋心に従った。
私の胸に体をあずけて瞳を閉じた。
瞳子の恋心が、おそれに勝とうとする。
そのいじらしさが私に
瞳子にきちんと責任をもてる位置にたつまで、
瞳子と結ばれたがる自分をおさえる決心をさせた。
極上の安心と確かな結実。
すなわち、結婚という言葉が適切であるが、
これを瞳子にわたさずにおいて、
瞳子に小さな不安ひとつとて、
感じさせたくないと、この時に私は思った。

瞳子との、結納が納まる頃には私は毎日、教授と一緒に帰り、瞳子にあいに行った。
一人暮らしの私の夕食をきづかい、瞳子は父親にねだった。
「よろしいでしょう?」
娘のいいぶんに文句をいうすじあいがないのは、無論なのだが、
瞳子はすでに、昼食の手弁当を届けてくれていた。
そのうえに
夕食のあと、瞳子との団欒のあと、帰宅する私に、
朝食の握り飯と、おかずと味噌汁をポットにいれて、手渡してくれる。
当然、翌日には昼食の弁当箱と朝食のポットなどを、瞳子に返さなければならなくなる。
「君をこさせるために、瞳子も一計案じたな・・」
苦笑まじりで、教授は笑い
「はやくも、尻にしいたか」
と、瞳子の世話女房ぶりに安堵しながら、一抹の寂しさがにじむように思える。

多少の炊事や洗濯は自分でする。
いや、してきた。
ああ、せざるをえなかった。
だが、婚約が整ったとたん、瞳子もおおっぴらに私の身の回りの世話を焼きやすくなった。
昼間は私のアパートで、掃除、洗濯をこなしてくれると、自宅に戻り、ふたつの弁当をつくって、届けてくれる。

まだ、一緒にすんでないだけで、瞳子と私はすでに結婚していたといって良いだろう。

夕方、今日も瞳子の作ってくれる夕食を考えながら、教授と肩を並べて帰ろうとしていた、その時だった。
教授の机の上の電話が鳴った。

電話を切り終わると、教授は少し微笑んで私に今日の来訪を遠慮してくれと告げた。

教授の笑いは、瞳子にあえなくなる私の焦燥を見透かしたからだろう。

だから、私には教授に寄せられた電話は急用のようだったが、重大な支障ではないと判断できた。

教授は恋する男に無粋を告げると、あわただしく、帰宅の途についた。

そして、それが、私にも、教授にも、悲惨な運命の幕開けになるとは、これっぽっちも思わなかった。

次の日。

出勤すると、教授の姿が無かった。

事務局女史が、「教授のお母様の容態が・・」と、だけ、教えてくれた。

確か、宮城に独りで暮らしていると聞いた事がある。

「住み慣れた土地を離れたがらない。動けなくなるまで頑張るつもりだろう」

気がかり半分と寂しさ半分とがいりまじった溜め息を教授はついた。

教授の母親だというのだからもう、75歳くらいだろうか?

それが、昨日の電話だったのだ。

瞳子も一緒に行ったにちがいない。

しばらく、帰ってこれないのだろうか?

教授もそう長くは講座をやすみこともできないだろうし・・そうなると、瞳子と奥さんを宮城において、帰ってくるかもしれない。

私は自分の底にふと、教授の母親が瞳子達を長く足止めしないですむ、ひとつの結果をなんとなく期待している自分がいることに気がついた。

看護が長引けば、瞳子と会えない。

長引かない・・それは、口に出すのも恐ろしい。そんな期待をもつのも自分が、いまさらながらくるおしいほど、瞳子に恋しているからだと思った。

恋は盲目とはよくいったものだが、私は改めて瞳子の存在がかけがいないないものになっていると、今回のことで思い知らされたのだと考え直すことにして、教授の母親の健康を祈りなおし、はれて、瞳子にあえる日を待つことにした。

1週間というものが、こんなに長かったのだと思ったのは、

あの電話から、7日後、構内にはいる教授の姿を見たときだった。

「あ、おかえりなさい」

訃報がとどかなかったのは、容態が持ち直したせいだろうか?

それとも、余談赦さぬ状態のまま、教授はふるさとをあとにしたのだろうか?

「うん・・」

くすぶった声のあと、重い鉛を吐くかのように、瞳子のことを、告げてきた。

「しばらく・・宮城から・・かえってこれそうもないんだ。妻と二人で・・母の傍にいてもらうことにした」

哀しい響きが声の底に根を張っている。

私はそれを、教授の母親の運命を暗示しているのだと思い込んでいた。

だが、教授は老婆一人の生死より、もっと、重く、哀しく、苦しい運命の舟に乗り込んでいた。そして、私もまもなく、その舟に乗り込むことに成る。

瞳子と会えなくなって、2週間が過ぎた。

教授から笑顔が消え、消沈は顔色まで変えていた。

だから、私はいっそう、瞳子が帰ってくるのが待ち遠しいという思いが外に出ないことに気をつけた。

瞳子が帰ってくるという事は、おそらく、教授の母親の死を意味する。

瞳子にとっても祖母であり、私にとっても義理の祖母という事に成る。

まだ、あったことがなく、結婚式で邂逅するはずの人だったが、それも、かなわなくなるのかもしれない。

瞳子だって、一目でも花嫁の晴れ姿をみてもらいたいと思っていただろう。

「教授・・・」

黙りこくったまま、資料に目をおとしていた教授の横顔を見るのも辛かった。

この2週間で、教授の顔色はうってかわった土気色になり、青ざめた眉間に疲労がよどんでいた。

「ぶしつけなことをたずねますが、お母様のご容態はいかがなものなのですか?

私の勝手な考えですが、もしものことがあるのなら、瞳子の伴侶がどんな人間か、みることもなく・・・と、いうことでは、お母様は無論、瞳子も心残りだとおもうのですが・・」

教授の沈痛な面持ちに、意識がない状態なのか、それさえ、聞くに聞けずにいた。

教授の様子はまさに腫れ物で、私は、今日はじめて、たずねることに成った。

「それは・・君が宮城まで、顔をみせにいってくれるということかね」

教授の言葉から母親の容態をはかるしかないが、即座にあっても無理だといわなかったということは、母親の意識はしっかりしているということになるのだろう。

が、

私の顔をまじまじと見つめ返した教授の瞳の中に哀しみと迷いが交錯し、それ以上の言葉をつがなかった。

それも、後から思えば、教授は私の一言で、これ以上事実を隠し通すわけにはいかないと追い詰められていたのだ。「あ・・」

教授はなにか、言おうとしていた。

漏れた声の続きは教授の手の中にうずもれた。

長い間、両手で顔を覆い続けた教授のその様子は私には、声を殺してないているように見えた。

私はおろかにも、話を切り出してみてから、此処まで、教授が憔悴しきっていると、悟った。

私は、教授の慟哭がおさまるのを待つことしか出来なかった。

いらぬ事をいってしまった非礼を詫びることもできないまま、私は教授を見つめ続けるしかなかった。

やがて、覆った両手がはずれ、教授の顔があらわになった。

唇の端が細かく震えているのは、言葉を出すのさえ、辛いことを私に伝えようとしているせいだろう。

教授の母親は私が類推したような簡単な状態じゃないのだ。

それは・・・。

私の中で、教授がここまで、取り乱し悲しむわけを推し量っていた。

たとえば、教授の母親は余命いくばくもない状態でありながら、意識もしっかりしていて、本人は病気だとは思っていない。

だとすれば、私が会いに行くなどという行動をとれば、本人があやしみだし、余命いくばくもないことに気がついてしまう。

本来なら、会いにいかせてやりたいが、それも出来ない。

娘の婿をみせることもできないまま、・・逝くを見送るしかない。

こういうことなのかもしれない。

だが、瞬時によぎった推量とは、まったく異なる意見が教授の口から、寄せられた。

私は教授の口から出てきた言葉を、理解することが出来なかった。

「ま・・まってください。私の耳がおかしいのでしょうか?」

教授の口から出てきた言葉にたいして、私はまず、教授と私自身の正気を疑った。

聞き違いか?そう、聞こえる自分がおかしいのか?

教授はなぜ、そんなことをいいだしたのか?

教授の母親との間で、なにか意見が衝突したということなのか?

それで、教授がパニックをおこしている?

私の呆然とした様子をしりめに、教授は今度は、はっきりと言い直した。

「君には、寝耳に水すぎるだろうが、瞳子との婚約はなかったものにしてもらいたい」

先ほどの憔悴とは、打って変わった力強さが声の中にある。

間違いなく正気で、覆すことの出来ない決意がこもっていた。

教授にどういうわけがあろうと、わけのわからないことを承諾するわけにはいかない。

「確かに寝耳に水過ぎます。いったい、どういうわけで、そんな事をおっしゃるのですか?

何らかの対処方法を一緒に考えようというのなら、私もわかります。

なにがあったか、いっさい知らされず、婚約は解消してくれといわれても、私が納得できるものがなにひとつ、ないじゃないですか?

それに、そのことは、瞳子も承諾しているということですか?」

私は教授の母親が自分のめがねに叶った男との、結婚を瞳子にすすめてきたのではないかと、かんがえていた。

余命いくばくもない母親の願いを叶えてやるしかないと、教授は思ったに違いない。

瞳子も優しい娘だから、父親の苦渋を見かね、私との結婚をあきらめたのかもしれない。

でも、それならば、安物の劇場芝居ではないが、因果を含めて、相手の人に一芝居うってもらうだけでいいじゃないか。

こんな単純な切りぬけを思いつかない教授のわけが無い。

すると、私の類推は的を得ていないという事に成るのかもしれない。

「瞳子は承諾・・している・・」

教授の口がにごり、言葉が詰まると変わりに滂沱の泪があふれてきた。

「教授・・嘘ですね・・」

瞳子が本当に納得していることなら、教授が泣くわけが無い。

私と一緒に暮らせる日をどんなにか、楽しみにしている瞳子か、教授が一番わかっている。

判っている教授が瞳子の気持ちにしらを切り、そ知らぬ顔で婚約破棄を瞳子が承諾していると言い切れるわけが無い。

その証拠がその泪でしかない。

「教授?いったい、なにがあったのですか?

何故、そんな結論を選ぼうとしなきゃ成らないのですか?

教授が話せないのなら、私は瞳子に直接、きくだけです。

教授、こんなことを私の口からいいたくはありませんが、婚約不履行を口にする以上、

私は法的に訴えることも出来るのですよ。

それくらい、私にも、権利があるのですよ。それをいっさい、無視して・・・」

私の感情が随分高ぶっていた。

だが、教授の泪の前に語気がひるんだ。

「すまない・・。わけをいわないのは・・・赦してほしい・・。瞳子のためにも、君のためにも、

白紙に戻す事が最善の方法なのだ。わけを・・知ったら、苦しむのは君であり、おそらく、瞳子も・・同じだ。私も・・口にだした・・・く・・ない」

事は一芝居うてばすむという簡単なものではないらしいことだけが、教授の言葉の端々にみえ、私はそこに食い下がっていった。

「おそらく?おそらくとは、どういうことですか?さっき、瞳子は承諾しているといったばかりじゃないですか?教授の言い方を聞いていると、瞳子に、話しているとは、とても思えません。

教授が勝手に決めていらっしゃる。いったい、何があったというのですか?

私がなにか、教授の気に触ることをしましたか?もし、そうなら、それを教えてください。

何もわからないままでは、私も落ち度をなおしようがないでしょう?」

私の瞳から真っ赤な血が噴出しているのではないかと思った。

瞳子をうしないたくない。私に落ち度があるなら、いかにしてでもやり変えてみせる。

私の思いが瞳から噴出していた。

そんな私をみつめていた教授の口から二つの言葉が出た。

「瞳子をそれほど、思ってくれて・・ありがとう。

そして・・すまない・・」

「教授!!」

このままでは、教授の一方的な宣告を受入れたことになる。

「まってください。そんな言葉で私を丸め込まないで下さい。教授がそこまでおっしゃる、そこまで、決心なさっているのなら、きちんとわけを話して、私を納得させてください。一度は親子の縁を結ぶつもりだった人間にそんな言葉一つで私を投げないで下さい」

私の姿勢はいつのまにか、哀願になっていた。

だが、それが、逆に教授にわけをはなさせる決心をさせることに成った。

「君には、すまないと思っている。わけは・・

わけは・・・」

教授の手が再び顔を覆った。

「教えてください。私は命をかけて瞳子を思っています。その思い、吹っ切れというのなら

教授もそれなりに・・」

今度は私が泪に崩れた。

「そうだな。そうだ・・ね。確かに君の言うとおりだよ。

だけどね、私も出来るなら話したくないし、そして、なによりも、君がどんなにか苦しむか・・」

何があったのかいっさい判らない状態で、私が苦しむと言われても、その程度など判るわけが無い。私はただ、婚約破棄に承諾するふりをして、わけをきくしかないとかんがえた。

「逆にいえば、その、わけが判れば、私は婚約破棄を承諾するしかないということですね?」

「そう・・なるし、そうしてもらいたい」

教授は苦しい胸を押さえながら、息を大きく吐いた。

話したくないこと、聞かせたくないことを話すため、教授は息を整えた。

「あの日・・電話があったあの日。家内は・・」

止まった言葉の続きを待つのが、辛いのは、教授の嗚咽が事の大きさを私に教えるからだ。

「君との縁談を白紙にしたくないがため、なにも、私に告げず、精一杯、平気なふりをよそおって、「急用ができたのよ、今日は義治さん、お断りしてね」と、いったんだと思う。

私は、母の健康がすぐれないから、そのことで、急変があったのかもしれないと思って、急いで、家に帰った。

そこで待っていたものは・・」

教授の喉がぐっとつまり、声がかすれ、指先が細かく震えていた。

悲しみとは少し質の違う・・やるせない怒りがこみあげてくるようにも見えた。

「瞳子が・・」

教授はその続きを喉の奥から一気に押し出した。

「暴行・・された」

「え?」

私の中に沸いた感情は両極端なものといってよいかもしれない。

そんなことぐらい・・で。

そんなことぐらいで、瞳子をなくしたくない。

そして、もう一方で、瞳子の傷心を思った。

そんなことぐらい。とは、とても、いえない悲しみにくれている。

そして、私に対してのすまなさからだろう。潔癖感もあるだろう。

瞳子は私に顔向けできないと、考えたのかもしれない。

「教授、こんな言い方はもうしわけないですが、そんなことぐらい、なんですか?

それよりも、瞳子はそんな状態で、宮城に・・・」

私を頼るまもなしに、自分の悲しみにくれるいとまもとろうとせず、瞳子は気丈にふるまい、

祖母の容態を気遣ったのだろう。

ところが・・・。

教授は首を振った。

「母の病気は・・嘘だよ。欠勤のための方便だ。瞳子は宮城には行ってないし、母も元気だし・・・瞳子のことは、君もそういってくれるだろうと私も当てにしていたよ。

そうでなくともね、私もずるいかもしれないけど、娘の幸せをいのったら、瞳子には、君にはなにも告げるなというだろう。そんな一度のアクシデントで人生を棒にふるようなことはしないでくれと、ちょっとした怪我でしかないって、そういうよ・・・」

私の頭の中は混乱し、整理がつかない状態になっていた。

「ちょ、ちょっと、待ってください。瞳子は・・宮城にいってないのなら・・今、どこに居るのですか?いや・・そうじゃない。教授?

なぜ?「そう、言うよって・・」?、それ、言ってないということになりませんか?

あ、いや、それより・・、何故、教授が嘘をついて、仕事をやすまなきゃ?」

今まで、母親の容態のせいだと思っていた欠勤も教授の沈痛な面持ちも、教授の滂沱の泪も、いっさい、母親に関係が無いという事に成る。

教授のうしろに隠された事実は、なにか、とてつもなく、恐ろしい・・・。

その予感だけで、私に細かな、身震いが起きていた。

「瞳子は・・今、どうしているのですか?どこにいるのですか?」

なぜ、教授は瞳子を私にあわそうとしなかった?

なんでもないことといってくれる男だとあてにしていたというのに、何故?

何故?

なに?

まさか・・・?

私の胸にかすかによぎった不安が大きな黒い塊になり胸をおさえつけ、呼吸さえつかせない。

「教授・・・?まさか?まさか、瞳子が自殺・・?」

口にしてはいけない不安を口に出すと、私の目に大きな鎌をふりあげる死神がみえる気がして、私は教授ににじり寄り、頼み込んだ。

「教授・・・お願いです。瞳子にあわせてください」
教授はひどく、ぼんやりと私をみつめかえしてきた。

それは、私の不安があまりにも、的外れすぎて、教授が私の不安を理解できないようにも、見えた。

「ち、違うのですか?元気で、あの・・教授?」

教授は彫像のように、表情を凝固させたままだった。それが、茫然自失の呈だときがつくと、私は教授を何度も呼んだ。

「教授?しっかりしてください・・教授?」

教授は、私の声が耳障りだと顔をゆがめて、私をみつめた。

「ああ・・」

教授の意識が現実に戻って来た。

「ああ・・君が心配する・・ようなことはない。ないんだけど・・。瞳子はよほど死んでしまいたいと、思ったんだろう・・・」

瞳子の様子を語ろうとする教授の口元が悲しくゆがむ。

「瞳子は・・なにも無かったと思おうとしたんだろう。忘れてしまえと、自分に言い聞かせたんだろう。これは、現実じゃないと・・否定することで、なんとか、死からのがれることはできたのだろうけど・・・けれど・・・瞳子の精神が・破壊されてしまったんだ」

私は小さくあっと声をあげたと、思う。

「瞳子が一時的なショックでそうなってると思った私は、とにかく、瞳子がおちつくまで、自分をとりもどすまで、君には嘘をついておこうと思ったんだ。瞳子さえ元にもどれば、その時に君に話しても、君なら瞳子を支えてくれるだろう、そうも思ったんだ。だけど、瞳子は、いっこうに元にもどるきざしさえみせない。医者にきてもらったんだけどね・・・。瞳子が元にもどるとしたら、それは、精神が破壊されるほどの暴・・・行・・・のこともおもいださせてしまうということなんだ。その時にはたして、瞳子がそのショックで再びどうなるか。もっと、深い無意識の世界ににげこんでしまうか、君の心配するように、自殺もありえる・・。

瞳子にとって、今の状態のほうが幸せなのかもしれない。

そう思えもする。

だから、君に、婚約は白紙に戻して欲しいと頼んだんだよ」

瞳子が狂った?

教授に告げられた事実は私には、現実感をひとつも匂わせなかった。

それは、たぶん・・・。

「教授・・まだ、わからないでしょう?まだ、2週間か、そこらでしょう?2週間かそこらで、

元にもどらないって、そんなに簡単にきめられるものですか?

教授の仰るとおり、ショックがおおきすぎて、まだまだ、回復できないのを、その間に婚約を白紙に戻してしまったら、瞳子は回復したあとで、今度は婚約破棄に本当におかしくなってしまうかもしれないじゃないですか・・・」

「瞳子は・・いわゆるPSTDを併発しているんだ。私を見ても、父親である私を見ても・・男への恐怖感で・・意識がどこかにとんでしまって、別人格が浮上して来るんだ。そして・・その別の人格が・・」

教授は再び頭を抱え込んだ。

「教授、話してください・・・」

別人格の状況がどうであるのか、別人格が浮上していない瞳子がどうであるのか、教授の話だけでは、わからない事が多すぎたが、教授も又ショック状態であり、瞳子の周りがこういうショック状態のままでは、瞳子の回復を促しにくいとも思えたし、まず、教授自身の口からなにもかも話すことで教授をショック状態から引っ張り上げられることができると思え、私は教授に先を促した。

「瞳子は・・・」

教授が一番話したくなかったのが、そこだったのだろう。

「瞳子の精神構造がくるってしまったんだよ。瞳子は・・なぜか、わからない。狂うほどおそろしい思いをしたはずなのに・・・僕にね・・僕に・・・ね」

教授の言葉がまたもとまり、ぽたぽた落ちる涙だけが動いていた。

「教授・・」

私はなにもかもをしゃべってくれと教授を促すしかなかった。

「君にも辛いことだと思うし、僕にとっても辛い・・瞳子は・・娼婦のように僕を誘うんだよ・・」

「え?」

私は教授が端的に事実をしゃべろうと努力していると、理解はできた。

だが、教授に告げられた事実が、すぐに、理解できなかった。

「暴行を、暴行と認めず、たんにしゃべりあうくらいのそんな接触のひとつにすぎないと、考えることで、恐怖や傷を緩和しようとする一種の治癒現象なのかもしれない。だが、そんな考え方を容認できる瞳子じゃないから、別人格が生じて、瞳子を支配してしまうのかもしれない。

そんな状態の瞳子を君にもらってもらうわけにはいかないだろ?

目をはなしたすきに、他の男にさそう・・そんなことをするかもしれない。

瞳子にさそわれた男が瞳子をどうするか。結果は火を見るよりあきらかだろう。

別人格がしでかしたことで、瞳子の本来の人格が完璧に破壊されてしまうだろう。

そうでなくとも、瞳子が妊娠したとき、それが、君の子供だという確証も信頼ももてないんだ。

こんな状態で、瞳子を嫁にだすことはできないんだ」

私は聴かされた事実と、教授の思いと、瞳子の行動への判断と、自分の思いと

これらをいっぺんに頭の中で遠心分離機にかけた。「教授、私にはまだ、うまく理解できていないのですが、瞳子がなんらかの治癒現象でそういう行動をおこすことが矯正できないものであるとするなら、このまま、わたしとの話を白紙に戻したら、瞳子は、どこの誰ともわからない人間になにをされるか、わからないということになりますね。それは、私にとって、もっと、つらいことです。教授もそれでよいのですか?いやないいかたになりますが、どこの誰とも判らない人間に瞳子がぼろぼろにされてしまうくらいなら、瞳子が望んでいた相手に渡したほうがよほどよいんじゃないですか?」
教授が私を見つめなおした。私の尋ねたことは教授の核心にふれていたに違いない。
「だけど・・」
できるものなら、教授もそれを望んでいる。だが、こんな状態になった娘を「さしあげる」わけには、いかない。だけど、教授の本音は私が指摘したとおりだったのだろう。
だけど・・と迷った言葉に力がないのは、だけど、君はそれでよいのか?と、いう瞳子を託したい思いに心が傾くせいでもある。でも、教授は人として、私のこの先の人生を狂った娘の伴侶としておわらせたくないという温情も持っていた。
迷った思いが教授に「だけど、そんなことはできない」といいきる勇気を持たせなかった。
教授の中の葛藤に終止符をうたせる言葉を私は考えていた。
「教授、私が教授の言うとおり、ここで、婚約を破棄したところで、私は一生、瞳子を見放した自分に苦しむのは、もう、判っているのです。そんなことよりも、瞳子が回復する、いや、たとえ、回復しなくても、瞳子にとって、私にとって、教授にとっての活路を探しましょう。
精一杯、人事をつくさずにおいて、なにも解決しないと私は思うのです」
自分の手に視線をおとすと、教授は抑揚のない声でまた、悲しい答えをわたしてきた。
「君は・・まだまだ、若い。きっと、すばらしい女性にめぐり合えることができる。瞳子のことで、君の人生を犠牲にはできない」
私は教授の悲観的な考えをどうくつがえそうか、そればかり考えていた。
「教授。もう、私は瞳子というすばらしい女性にであってしまったのですよ」
私の言葉に教授が一声高く嗚咽をもらした。
「あんなことさえ・・なければ・・あんなことさえ・・なければ」
愛し愛されるほほえましいカップルが教授の心に幸福感を分け与えてくれていたはずだった。
「教授、とにかく、否定的に考えるのはやめましょう。瞳子はまちがいなく、私を望んでいる。まず、これをたしかめさせてくれませんか?」
うろんげに顔をあげると教授は私に首を振って見せた。
「なぜですか?」
教授はわかってくれまいかといわんばかりに、私にまくしたてはじめた。
「君は私に言いたくないことを言わせるという、その前提を忘れてる。君にあきらめてもらうために私は事実を話したに過ぎないんだ。じゃ、なければ、なんで、瞳子の恥をはなしてまで、君に否定的だの、悲観的だのと説教されるためにはなしたんじゃない」
教授の興奮を聞きながら、私はやっと、教授が一番、もがいた部分を理解できた。
「いえ、十分、悲観的です。教授が婚約を白紙にもどそうとした大きな原因がその悲観的な物事の解釈です」
教授はじっと、考え込んでいた。どこが、悲観的だといわれるのか、自分自身で考え直しているようにも見えた。
「瞳子があいてかまわず、父親さえ誘う、そういう、解釈の仕方がまず、悲観的です」
教授が大きく目を見開いた。そういう解釈でないのなら、ほかにどう考えられるのか?
愛娘が娼婦のごとく、男を誘う、こんな娘になってほしくて、21年間育ててきたんじゃない。教授の20年の月日が水泡に帰し、より、もっと、悲惨な未来を付随させていると、なる。
じゃあ、どう考えればいいんだ。
教授に畳み掛けられる前に私は自分で発した説得の鍵をみいだすために必死で考えていた。私の記憶の中の瞳子・・。
瞳子をだきしめた、あの日、瞳子は異性との接触に恐れを感じていたのは事実だと思う。
私だけが、瞳子にとって異性であり、異性に抗体をもっていない瞳子は、血小板の中に入り込んだ私を感情では受け入れようとしながら、やはり拒絶反応を起こしていたと思う。
私というワクチンが、そのまま、瞳子に抗体を作りあげたとき、私と瞳子はなんの不安も拒絶反応という副作用を発症することなく、自然に結ばれるはずだった。
だが、瞳子はワクチンの母体たるべき私でなく拒絶するべきウィルスに冒された。
だから、当然、拒絶反応を引き起こすに決まっている。それが、なぜ、父親である教授を誘うのか?
教授は瞳子が別人格をもったと考え、その別人格が娼婦のような人格なのだとショックをうけている。
だが、あの瞳子がかいまみせた拒絶反応を知っている私にとって、別人格の浮上とは、思えなかった。むしろ、そう・・、たとえば・・・
「教授、瞳子は、暴行を受けたとき、おそらく、結婚後、性交渉・・というと意味合いがちがってくるのですが、こんな事をくりかえしていかなければならないんだと思ったんじゃないかと考えるのです。でも、それを否定し拒絶するということは、私を受け入れないということにつながるわけですから、瞳子はセックスがどんなかたちであろうと、暴行であろうと、結婚・・夫婦生活という・・そういうものであろうと、「これは好意を現す手段」という認識にすりかえていったんじゃないかと思うのです。もちろん、そんな、認識の仕方がおかしいことは承知しています。でも、そういう認識をしないと、瞳子は「欲望の犠牲」にされた自分をみじめに痛めつけてしまうだけなのです。そして、好意を表す手段として、瞳子はあなたに好意をみせてきた。それだけなんですよ。けして、教授の考えるような見境のない人間になったわけでないと思うのです。父親であることを認識してなくても、教授へ好意をもっていると思います。ただ、その表現方法が曲がってしまっただけなのです。だから、もし、私の考えが正しいのなら、おそらく、瞳子は教授と私以外にはそういう表現、好意をみせないとも考えられるのです。だから、ほかの男を誘う・・これはないと思いますし、間違いなく、瞳子が正気を失っても、私への感情は残っていると考えます。教授の思うような瞳子じゃない。狂ってもなお、教授を私を思っているんですよ。
ショック状態のときに教授を恐れたのは、仕方がないことだと思います。でも、今、そうやって、瞳子が好意をしめしたということは、回復の兆しじゃないでしょうか?
私に対して、恐怖しかみせないのか、また、ほかの男性をみても、いずれ、「誘う」行動をとるのか?教授はそこまで、たしかめて、結論なさいましたか?」
瞳子の中の埋火を、もっと大切にしなきゃ、瞳子は回復しやしない。狂気は周りが助長するものでしかない。教授が、肉親から、瞳子を狂ったものとしてあつかってしまったら、瞳子ははいあがってこない。自分の中にとじこもってしまう。
「だからこそ、瞳子を私にください。本当に好意と行為を織り交ぜて大丈夫な人間は、教授にとっても瞳子にとっても私しかいないのですよ」
教授の眉間のしわがいくぶんか、浅くなったように見えた。
「わかった。瞳子との結婚云々は早決すぎるし、白紙でなく、保留として、考えることにしてくれまいか?君もまだまだ、情に流されてると思うし、ゆっくり、考え直す時間を持ってほしいと思う。そして、君の言い分も確かに一理ある。瞳子が君に、ほかの男性にどんな態度をとるか、君の言うとおりか、そうじゃないのかも確かにわからない。そして、君がそこまで、瞳子を思ってくれるのなら、君の言う通り、瞳子にあって、確かめてみるしかない。瞳子がどんな態度をみせようとも、君は情に流されず、白紙に戻したほうがよいか、それを、考えてくれ」私はやっと、ひとつの障害をとりのぞけた安堵感を手にした。けれど、本当の障害の排除はこれから、はじまっていくのだ。
教授は机の電話をとると、夫人に電話をいれはじめた。
「ああ。話した。もう、これ以上・・う、うん。今日・・一緒に・・ああ、それは・・君の思ったとおり・・なにもかも、ありのままの瞳子を見てもらうしか・・うん・・わかった」
言葉すくない電話が切られると、教授は私に向き直った。
「家内はね・・。できるなら、君と瞳子が一緒になってほしいとも、思っていたんだ。
だけど、瞳子の姿をみて、君が瞳子に失望する姿もみたくない。だから、宮城に行ったことにして、その間に瞳子が正常をとりもどしてくれないかと、画策したんだ。その間、瞳子がみせる態度に、家内は、純真な瞳子しかしらない君のままでいてほしいと思い始めたんだ。瞳子にとってもね、きれいな瞳子しかしられず、おわったほうが、瞳子にも幸せだろうって、かわりはてた瞳子を君の目にさらしたくない。そう思ってたんだ。もちろん、こんなことをいったからって、君が婚約を撤回することになんの遠慮もいらない。ただ、君の言うとおり
納得できない状態で白紙をうけいれろというほうが無理なことだから、だから・・」
あくまでも、教授は「別れ」というゴールにむかうための、手順をふもうとする。
それは、瞳子の姿を見て、私が「やはり、やめます」と、はっきり決断をくだすことへの教授の覚悟と自分へのいいきかせ。私の態度にもしかすると、と、いう甘い期待を抱いて、それが、なにもかも崩れ去れば、教授は奈落におちる。崖からはいあがりかけたと思ったとたんに底までおちるのは、這い上がれるかもしれないと思った分だけ、絶望を味わう。
そんなふうに教授の自己防御ともとれるし、私の想像だにできないが、想像以上に瞳子の状況は悲惨なものがあるのかもしれない。どちらともわからないことを詮議しているのは、空がおちてこないかと起こってもないことを憂う、杞憂にすぎない。まず、私は私の想定で瞳子を確かめなおさなければならないし、じっさい、教授と同じように、私の存在を認識するか、しないか、それさえ、あって見なければわからないことだった。
夕方の門灯が柔らかな胴色を路地まで投げかけている。それが、教授の家。
玄関のチャイムを押して、帰宅をしらせると、扉一枚むこうに人の気配がたつ。
扉をあけたのは、瞳子だった。
教授が黒い革靴を脱ぐ間、じっと、教授をみつめ、あとから、玄関に入った私の存在にきずかないようだった。
教授が玄関に足をかけたとたんに瞳子は教授の腕に絡み付いていく。
その姿は幼い子供が父親の帰りに狂喜するようにも、新婚夫婦の甘い馴れ合いにも見える。
「瞳子・・お客様だよ・・」
瞳子と呼ばれて、瞳子はしばらく、宙をむいた。
「私のことだったかしら・・?」
瞳子が認識できないものは父親だけでなく、自分自身でもあった。
「そうだよ。君の名前は瞳子だよ」
教授がみせる背中はその会話を聞いている私を強く意識していた。
「おじさま・・ごめんなさいね・・もう、何度もおしえていただいた気がするのに・・」
ああ、これかと私は思った。おじさまと呼びながら、瞳子は教授に絡み付いていく。
まだしも、お父様とよばれて絡みつかれるなら、私が言うように、父親を認識した上での愛情表現の異常と思えただろう。だが、どこのだれかもわからない「おじさま」という認識で瞳子がからみついてくる。人前でも、いっこうにきにならないで、教授に絡みつく瞳子の行動は、教授の言う「誘う」というほどのものではないが、おそらく、この調子では夫人、瞳子の母親の前でも平気でこうなのだろうし、教授がいう「誘う」がどういう態度なのか、わからないが、教授もいいきかせてはいるのだろうが、あまりに拒絶すると、瞳子が狂喜の中に閉じこもってしまうきがして、なんとか、かわしていると見えたが、それにも疲れ果ててしまっている。いつまで、こんな状態をつづけなきゃいけないのか、教授の疲労が暴走の引き金を引きかねない。もう、いっそ、瞳子ののぞむように・・・教授のかげりが教授まで狂喜にひずみかけているように見えた。
「瞳子・・です・・」
私を向き直った瞳子を今度は教授がじっと見つめていた。
私にも、すくなくとも、「男」への恐怖を感じている瞳子にはみえなかった。
それから、瞳子は長い間、私を見つめていた。
「どこかで、お会いしたことがあるような気がします」
瞳子の言葉を聴きながら、私はやはり瞳子の底に「私への思い」が間違いなく在ると思った。
だが、その「私への思い」を瞳子自身が認識していなかった。
私を認識できないぐらいだから、当然、「私への思い」も、瞳子が自覚できるはずもないのだが、私のかすかな喜びも瞳子の狂いにかき消されてしまうことになる。
「おじさま・・この方・・私のお兄様・・ううん・・弟かしら?」
どうみても、私の年齢が瞳子より下のわけがない。外界や対人への認識ができないということは、外見上で相手を判断しているということではない。瞳子はやはり、自分の内部感情で相手を判断している。私に対して、なにか、親しい、兄弟のような親近感を覚える。
なにもかもが、瞳子の心象風景にすぎないのだ。
「初子」
教授が夫人を呼ぶと瞳子も一緒に夫人を呼び始めた。
「お母さま・・おじさまが・・えっと・・・」
しばらく考えたのは私のことだろう。兄弟かもしれないと思いながらその名前を思い出せない自分に矛盾ひとつ感じる様子もなかった。
だが、瞳子は夫人・・母親をお母様と呼んでいた。
これもおそらく瞳子の中では-お母様のような人-という認識がお母様と呼称させるに違いない。
案の定・・・。
「お母様・えっと・・お客様が来ていらっしゃるの。お母様・・  ・・・違うわ・・お姉さま・・伯母様・・・ああ・・」
軽く額に手を当てるとめまいを抑えるためか、瞳子はじっと立ち尽くした。
廊下のむこうから現れた夫人の表情はこわばり、私にかける言葉が見つからないまま、あふれそうになる涙を必死に抑えていた。
「初子」
呼ばれた婦人は何度もうんうんとうなづくと、私に手招きで中に入るように促した。
「瞳子・・お茶を・・ああ、コーヒーがよいな。いれてくれるかな?」
教授に言いつけられると、瞳子は実行がかかったプログラムのように起動しはじめ、「はい」とうなづき台所にたっていった。
「あの調子なんだ。言われたら言われたとおりに動く。だけど、自分で判断してなにかするという状態じゃない」
瞳子が台所に入りきったのを確かめると、教授は声を潜めた。
「双極性障害って知ってるかな?躁状態と鬱状態の両方を持っている。今の瞳子は躁状態の入り口ぐらいにいるんだ。だから、積極的に人と交わろうとする兆候が表に出てきている。欝状態に入ったら、部屋に閉じこもって、何かわからないものとひそひそと会話している。食事もまともにとろうとしないし、夜も眠れないんだろう。瞳もうつろで、何か話しかけても、何か・・わからないんだけどね・・何か、傷に触れるんだろう。黙りこくったまま涙がほほに伝ってくる。どうしたの?何か気に触ることを言ってしまった?だったら教えてほしい。とたずねても逆にさっきみたいにめまいか幻惑がおきるのかな、頭を抑えて部屋にもどってしまうんだ」
教授の説明を聞きながら私はそっと夫人を伺い見た。夫人は瞳子の様子を拒絶する風でない私にいくばくかほっとしているように見えた。私の視線に気がつくと夫人の重たい口がやっと開いた。
「義治さん・・ごめんなさいね・・私がもっと気をつけていれば」
事件がおきなかったと夫人は思うのだろう。だが、私は、妙な考え方かも知れないが、私自身が瞳子をあきらめようとしないように、瞳子に目をつけた犯人もまた、自分の思いをはらすまでは、瞳子をあきらめようとしなかっただろうと思った。たとえ、今回、瞳子が無事だったとしても犯人は自分の目的を達成するまで、瞳子を襲うチャンスを持ち続けていただろう。アクシデントに分類されるような通り魔的犯行ではないと私には思えた。
「お母さんのせいじゃないですよ。犯人はいずれ、犯行を侵したと思います。もしも、結婚したあとに事件が起きたとして、同じように瞳子が異常をきたしたとしても、瞳子を戻しますということは私にはありえないのです。ですから、この事件で瞳子との婚約を白紙にするなんてことをおっしゃらないでください」
私は夫人に言いながら、瞳子の様子を確認しても、いっこうに変わらない私の決心を教授の耳にを宣告していた。
「あ・・」
夫人は私の宣告に声を上げてなきそうになる自分を抑えていた。
「私は籍こそいれていないけれど、瞳子を伴侶だと思っています。瞳子に何があっても私の心まで変わることはありえないのです」
畳み掛けた言葉に泣き伏しそうになる自分を制しながら夫人は声を絞りだした。
「だけど・・あの娘は・・あなたと生活することはできない・・」
たとえ、瞳子と暮らせても、瞳子が日常の生活を支えることができないと夫人はいう。
「私は家政婦がほしいわけじゃないんですよ。瞳子がいてくれたらそれだけでいいんです。
こう、考えてくれませんか?私と瞳子はもうすでに結婚していて・・事件がおき・・それで、瞳子は実家で養生している。そう考えてくれませんか?」
私の話を黙って聞いていた教授の顔を伺う夫人に、教授がおもむろに口を開いた。
「瞳子の異常な行動も「好意の表れ」だといってくれているんだ。そして、その好意を実行に移せる相手も彼しかいない。だけど、瞳子が彼を認識するか、恐れはしないか、そんな瞳の状態だからね。彼も将来ある人間だ。そんな瞳子に関わらなくても、ほかによい人がいくらでもいると思うんだ。だから、瞳子をあきらめてもらうためにここにつれてきたんだけど・・瞳子は何かを覚えてるよ。彼のことをお兄さんだと思うって、そういったんだ」
教授の説明を聞いて、夫人の顔色がわずかなれど、明るくなったように見えた。
「なおるかも・・しれない?」
余計な期待を持たないほうがよいと言い聞かせながらそれでも、一縷の望みを見出せた夫人は、私に手を合わせた。
「おねがい。あの娘を助けてあげて、あの娘を救えるのは・・」
夫人の懇願を教授がさえぎった。
「初子、そんなことをいっちゃいけない。彼の気持ちも言い分もわかるけど、実際瞳子はまだ、嫁にだしたわけじゃないんだ。決定したことでも、くつがえせる。くつがえさなきゃならないときのために婚約破棄とか、離婚とかこういう方法が成り立っているんだ。彼の人生を第一にかんがえなきゃいけない」
光明が一瞬で暗澹荷変わると夫人は合わせた手をそっと解いた。
「ごめんなさい・・・親の身勝手な・・」
教授にいくら話してもらちがあかない。普段、瞳子の世話をしているもっとも身近な人間の情をからめとっていくしかないと私は思った。
「おかあさん。私に私の人生があるように、瞳子にも瞳子の人生があるんですよ。瞳この人生を無明にして、私がこの先自分の人生を歩めると思いますか?救うという言い方はおこがましいものの言い方ですが自分の伴侶になる人を救い出すこともできない人間がこの先ほかの人間とうまくやっていけるわけがないでしょう?何かあるたび、逃げる、この繰り返しになる、そんな人生は・・空虚なだけです。私自身が瞳子を支えることで私が救われるのです。ここで、瞳子を見放したら、私の人生は敗北そのものでしかなくなる。私にとって、瞳子はもう、私の分身なのです。どうぞ、そこを、ご理解・・」
くださいと言い切る言葉をとめたのは、台所から瞳子が姿を現したからだ。
「コーヒー、居間におもちしましょう。皆様いらして・・」
一見はいつもの瞳子でしかない。だが、教授がかたくなに-私の人生を考えろ-というのは、まだまだ瞳子の狂いがどこまでのものかわかってないせいだろう。居間への廊下を歩きながら私は教授に決心を告げなおした。
「おっしゃるとおり、婚約は白紙に戻しましょう。そして、改めて、一からやりなおして、今の瞳子の心をつかみなおします」
教授が唖然と口をあけ、夫人が胸元で手を合わせありがとうとつぶやいていた。

そして、居間に入った私は今後の対策を話し合うことになった。

居間に入ると瞳子は教授にすがりつくようにもたれかかる。そのさまは恋人同士のそれに見える。だが、瞳子には、対人関係がいっさい認識できていない。異性として意識した男性に妻という存在があり、その目の前で臆面なくすがりつくという行動をおこせるものだろうか?通常、自分の立場を考え、相手の立場や夫人の感情に配慮する。

それが、瞳子にはいっさいない。

すなわち、瞳子の感情は恋愛感情とは異質なものに違いない。

むしろ、瞳子の行動は擁護してくれる父親を求めている。

だが、「父親」をもとめながら、なぜ、教授を「おじさま」と呼ぶのか?

夫人に対しての内的感情は「おかあさま」であり、私に対しては「おにいさま」である。

これを親近感のあらわれだとするのなら、なぜ、教授だけ、「おじさま」なのだろう。

逆に「おじさま」と呼びながら庇護されるひな鳥のように教授にすがりついていくのも、矛盾を感じる。

瞳子の意識構造を理解できる材料があまりに少なく、私は瞳子にたずねてみることにした。

どこまで、引き出せるか、いっそう、混迷の中におちいるか、それより、以前に瞳子が「おじさま」と、すりかえる原因に触れたがらないかもしれない。

「瞳子さんのおとうさんはどんなかたでしょうか?」

瞳子が「おとうさま」を埋めてしまう原因がなにか、浮上してくるかもしれないと瞳子の父親への感情をひきだそうと私は質問を選んだ。

私の質問にわずかながら、教授がぎょっとした。

おそらく、教授も夫人も教授を「おじさま」と呼びながら、すがりついていく瞳子に度肝をぬかれ、「その状態」を受け入れるだけしか出来なかったと思う。

教授が「おじさま」ならば、「おとうさま」は誰なのか?どんな人なのか?

教授も夫人も「教授が父親なのに、それさえ認識できない瞳子」の姿にうちのめされ、一歩踏み込んだ質問はつらくもあり、質問する目的も見出せないでいただろう。

瞳子さんとよばれ、きょとんとしていた瞳子はやがて、自分の中の父親を探しはじめた。

畳のへりあたりをみつめながら、じっと、かんがえこんでいたが、やがて、ぽつりとつぶやいた。

「お父様はおそろしい人よ・・」

小さな声で私の質問に答えると、これ以上、考えたくないと瞳子はかぶりをふった。

恐ろしい?

私にとっても意外すぎる答えは当の教授には、意外を通り過ぎ、大きな衝撃だろう。

仲のよい父娘の会話からして、瞳子が父親を恐ろしいと否定する感情をもっていたとは、とても、思えない。だが、現実、瞳子は父親を認識しようとしない。

否認する要素として、「恐ろしい」があるのは、確かに瞳子の言葉通りだろう。

だが、何をもってして、「恐ろしい」と思ったのか?

瞳子の姿は私には幼い子供のようにも思える。父親にこっぴどく叱られたか?

幼い頃の記憶が芯に残り、この境界異常のさなか、ときはなたれてきているのか?

「恐ろしい」という思いは、むしろ、暴行事件、そのものに対してだろう。瞳子は事件と、同じように「恐ろしい」と思った父親像もろとも、記憶から葬り去った。「恐ろしい」を、受け入れまいとする心の働きにより、事件の傷も記憶のなかからけしさり、同じように、「恐ろしかった父親」も消し去ってしまった。

精神科の医師が言った意味合いが私にようやく理解できた。

瞳子が正常を取り戻すプロセスの中に、「恐ろしい」を受け入れ、認識する必要が生じる。

どこまで、受け入れることが出来るだろうか?

できないからこその、この狂気でしかない・・・。

だが、本当に恐ろしかった事件だけ、隔離して、教授に対して感じた「恐ろしい」をきちんと受け止めさせることが出来たなら、それもまた、瞳子の中で抗体になっていくのではないか?

「恐ろしい」のせいで、事件を忘れ、教授を父親として認識できなくなったのは、ほぼ間違いがないが、「恐ろしい」への免疫力をいっさいなくしてしまう、では、瞳子は回復できない。「恐ろしさ」が教授を父親と認識することを妨げている以上、まず、教授を「恐ろしい」と、思ったその内容を知った上で、瞳子の「恐ろしさ」を解きほぐす必要があると私は考え、瞳子への質問を変えてみた。瞳子自身が「恐ろしさ」から逃げず、自分の口で「恐ろしい」と思った内容をしゃべることが出来れば、これも、回復に導くことが出来るかもしれないとも思った。「瞳子さんは、お父さんのどんなところが、こわかったのかな?」

急激すぎるとも思った。瞳子が自分の中に閉じこもり始めているのも私には見えていた。

無理にこじあけちゃいけない。私は別に精神科の医者でもないし、治療法などというマニュアルさえ理解していなかった。だけど、閉じこもった世界から外部の人間に内的世界を語ることができるということは、瞳子が内的世界を自分の外に押し出し、客観視できるということだ。

客観視ができるということは、客観側の人間との共通理解をもとうとする、意識が働くということだ。

少なくとも内的感情だけの瞳子からぬけでる可能性があるということでもある。

だけど、それでも、無理にこじあけちゃいけない。

自分から外に出てこようとしなきゃいけないのは、無論だが、内的世界に閉じこもることで、瞳子は自分で自分を庇護している。その世界から出ることは、恐怖と向かい合うことに等しい作業になる。うっかりすると、瞳子が狂的発作を起こす可能性もある。どこまで、私に安心感をいだいてるか、瞳子が外にでてくる意志をもとうとするか、このふたつをたしかめてみるためにも、私は、その質問を選んだ。

「あ・・あ・・」

瞳子は頭をおさえた手をのど元にすべらすと、喉をぐっとおさえつけた。甲高い声がもれそうになる。その声を発っしたくなる「恐怖」に負けて、叫び声をあげたら、本当に、なにもかもを認識できない狂人になる。瞳子が喉をおさえ、叫び声を抑えている姿をみて、私はすくなくとも、瞳子は自我を見失っていないと判断した。

「いいんだよ。はなしたくなかったら、なにもいわなくてもいいんだよ」

まちがいなく、瞳子は私に応えようとしている。私は、それだけわかれば十分だった。ゆっくり、時間をかければ、回復するとしても、私への好意と信頼が瞳子の中になければ、そこから、築き上げなければならない。だが、恐怖と対峙しながら、瞳子は私の質問に答えようとした。

「いいんだよ・・」

繰り返した私の言葉に瞳子の瞳から涙があふれた。

「ごめんね・・」

謝る私のそばに瞳子がにじりよってきた。瞳子の中で自分を庇護してくれる人間として、私の存在が認識されたのだろう。だが、やはり、瞳子は異常の中にいた。教授の言うことに一致しているとも考えられる。ー言われたら、動くー。私への好意の表れともとれるが、瞳子はやはり、そのまま、私に言われたことを実行しようとしていた。

そのプログラムに従うことは瞳子の精神を波立たせ、凪の海が一変していく。

だが、私に応えなくてもよいといわれたことで、脅迫観念で応えようとした心理から開放され、瞳子の意志で答えをしゃべろうとしだしていた。

だが、やはり、恐怖が瞳子にまとわりつく。

瞳子はしばらく、畳のへりを見つめ続けていた。

そして・・・

「あれ・・のせいよ・・」

と、畳の縁を指差した。

「あれ?」

瞳子が指し示すものが私にはわからなかった。

私のひざに頭をもたらせかけると、肌の接触が瞳子に確実な庇護感をもたらすのだろう、わずかであるが、おちついた様子に見える。

「あそこ・・・白い蟲がいっぱい蠢いてる・・・」

私は瞳子の指差すあたりを見つめなおした。とにかく、瞳子の意識世界を共有できる存在にならなければならないと考えた。

「白い蟲・・どんな格好かな?」

瞳子が見えているものが、自分にみえなくても、けして、瞳子の視覚を否定してはならない。

「見えないの?あれは、これから、さなぎになるために、壁をはいあがって、天井にぶらさがるの。ほら、もう、天井にもいっぱいぶら下がっているぢゃない」

瞳子がみつめたあたりを私も見つめた。

「ああ、ほんとうだ・・蛹からかえったら・・」

私は言葉に詰まった。瞳子の幻覚が悲しく、瞳子の世界があまりに遠すぎて、私は瞳子においつけなかった。

「いやだわ・・・。蛹から、かえったりしないのよ、ず~と、あのまま・・・」

「あ、そうだったね・・」

瞳子の言葉に合わせて返事をしたが、私には、その蛹が、瞳子自ら語った己の姿にも聞こえた。事件で受けた苦しみから逃れるために瞳子は狂気という蛹の中に閉じこもった。蛹に閉じこもった瞳子もまた、蛹のままなのか・・。私は言葉の中に隠された瞳子の本心を問い直していた。

「でも、蛹からかえって、大きくなりたいだろうね・・・」

蛹から帰ったら何になるのか、それすらわからないまま、私は瞳子の本心が映しだされる答えを待っていた。

「あれは・・・鳥の餌になるのよ」

・・・・ああ・・・・

私は目をふさぎ耳を覆いたくなる。それは、まさに瞳子が羽化するまえに、ならずものに、えじきにされた自分をかたっているのだ。

「そうよ・・・かわいそうだけど・・・」

瞳子は私のひざにもたれかかったまま、私の生殖器あたりに手をのばし、そっと、さすりあげた。

「白い蟲はここから、いっぱい、でてくるの・・怖いわ」

さすりあげる手をとめると、瞳子は私を見上げた。私は瞳子の言動に混乱をおぼえるばかりだった。私がだきしめた瞳子ではない瞳子になっている。この事実を瞬時にうけとめようとするため、私の脳内プログラムは高速でプログラムを修正していた。そして、もうひとつ・・・。蛹が瞳子の象徴であったと思っていた私は、瞳子への「理解」がいっそう、こんがらがってしまった。だが、瞳子はきちんと、私への答えをしゃべり続けていた。

「白い蟲は、私がたべてあげるのよ」

蟲・・・蛹が瞳子でなく、鳥が瞳子?白い蟲は生殖器から湧き出すという・・白い蟲は性欲の象徴か?

瞳子の意識に論理性などあるわけがないからこそ、狂いなのだろうが、それでも、私は気持ちを切りかえ、瞳子の心理を探った。

「瞳子さんは、白い蟲をたべて、おいしいのかな?」瞳子は私の質問にかすかに首をかしげた様子が、私のひざに伝わってきた。

「おいしいわけないぢゃない・・私がたべてあげるしかないだけ・・・」

瞳子の意識が語っていることはなんだろう?教授・・父親を恐ろしいと思ったのはその蟲のせいだろう。白い蟲は男の性欲を象徴していると考えて間違いないだろう。

白い蟲・・・。教授、父親への恐怖・・・・。「性」への恐怖・・・・。

私は断片化された瞳子の意識をつなぎ合わせて考えていた。

その時、瞳子がぽつりとつぶやいた。

「お父様も・・白い蟲を・・・」

つぶやいたまま、私の膝元に瞳子の顔がうずもれていった。

―もしかすると・・・?―

私はひとつの想像に行きあたった。

「お父さんから白い蟲がでてくるのをみたんだね?」

膝にくっついた瞳子の顎がかすかにふるえながら私の膝を押した。瞳子は確かにうなづいた。私の中で白い蟲の正体がすとんと落ちた。瞳子はおそらく、夫婦の性交渉を目撃したことがあるのだ。おそらく、幼かったころの体験なのだろう。夫婦の行為を目撃した瞳子は、当然ながらそれが、どういう事か理解できないまま、記憶の隅においやられ、すっかり、忘れ果てていたことに違いなかった。ところが、瞳子に目撃したことと同じことが瞳子の身におきた。

レイプにより、性が恐怖でしかないと認識した瞳子は幼い頃に目撃した父親の行為も恐怖と同質の行動だと気がついた。レイプ犯と同じ行為をしていた父親が瞳子の中に浮かび上がり、瞳子の意識世界で、父親もまた、恐怖の対象として同一視することになった。

そういうことじゃないだろうか?

それで、瞳子は「父親」を恐ろしいと思い、レイプ犯・レイプ事件を意識の中から隔離したように、「父親」を認知・認識しなくなったのだろう。

私の膝に体をあずけだした瞳子の重さで、瞳子が眠りの世界に意識をのがしているとわかった。私に「白い蟲」のことを話すことは、瞳子が隔離した世界にちかづいていく作業にほかならず、それは、かなりの精神疲労をともなう作業だったに違いない。

私は瞳子が寝入ったと、小さな声で教授と夫人に告げると、さらに声をひそめて、たずねてみた。

「教授・・お母さん、瞳子が小さな頃にお二人の夫婦生活を目撃してしまったと、いう事はなかったでしょうか?」

瞳子と私の会話を黙って聞いていた教授と夫人だったが、私の質問にすでに思い当たるものがあった。

「瞳子が幼稚園の頃に一度、そういう事がありました。それが、白い蟲がみえる原因なのでしょうか?」

夫人の不安は、瞳子が幻覚を見ることに集約されてしまう。おそらく、あるいは、それが原因だとなれば、夫人の神経まで病んでしまう。そんな原因がどうであるかを詮議したいのではない、瞳子の心理を理解していくことが、今の私には重要なことだった。

「いえ、白い蟲は瞳子の幻覚でしかないのですが、おそらく、瞳子のあいいれたくない物事が外界に押し出されて、具象化するのでしょう。瞳子も「蟲」をどう対処していいのか、わからないのだと思います。それよりも、今の瞳子の話から、瞳子が幼い頃に目撃したことと、事件の記憶がごっちゃにまざってしまって、教授・・・いや、この場合「お父様」が、犯人と同じに思えてしまうのだと思います。犯人と同じ行為だったということだけで、瞳子の中で、「父親」が恐怖の対象になり、恐怖でない部分での父親に対する思いが「おじさま」としてなら、受け入れられる・・こういう状態になってるんだと思うのです」

教授は「云」とだけ、小さくうなづいた。

子供がうっかり親の性生活を目撃してしまうことはありえる話で、通常、ある程度の年齢がくると、「性行為があってこそ、自分が生まれ出たのだ」と、理解しはじめる。ところが、よく考えてみると、この理解は頭でのことであり、瞳子は目撃事件において、すでに「性への恐れ」を感じていたに違いない。私と出会い、私との接触にかすかな「恐れ」があるようにみえたのは、幼い瞳子がすでに「性」を恐ろしいと水面下でうけとめていたのだろう。

それが、レイプにより、「恐ろしい性」をつきつけられ、瞳子の精神が飽和した。

あるいは、瞳子が幼い頃に夫婦の性行為を目撃していなかったら、ここまで、瞳子は狂わなかったかもしれない。体の中にアレルギーをもっていて、何らかのストレスや環境変化で突然アレルギーが発症することがあるが、これとおなじように、瞳子もすでにアレルギー源をもっていたのが、発症症状をひどくした要因だろう。

だが、教授が言うように、そこまで、性をおそれた瞳子がなぜ、さっきのように、平気で私の下半身にふれたり、教授に対しても、私に対しても、ひどく絡み付いてくるのだろう。

確かに愛情表現・・愛情感情がある証拠だとおもうが・・・。

私はさっきの瞳子の「白い蟲をついばむ鳥」といった瞳子を考え直していた。瞳子は白い蟲に侵食される恐怖をぬりかえていったのではないだろうか?

たとえば、バスに乗ろうと、バス停に止まったバスに駆け込もうとしたのに、もう一歩でバスが発車する。この時に「ぬりかえ」理論がおきる。

単純にいえば、負け惜しみだが、バスに乗り遅れた、バスが発車してしまったのではなく、「先に行かせてやったのだ」という価値転換で乗り遅れた落胆や敗北感はおおげさかもしれないが、これらの観点から、自分優位の視点に変えることができる。

これと同じ理論が瞳子におきたのではないだろうか?

暴行犯の性欲という白い蟲をくわされたのではなく、「私が食べてあげた」という位置転換をおこなえば、瞳子は陵辱の犠牲者にならずにすむ。瞳子は少なくともそれで、優位にたった。この奇妙なぬりかえ理論により、瞳子は自我の崩壊を免れた。だが、かわりに白い蟲を食べる益鳥にならなければ瞳子自身の立脚が成り立たなくなった。

こういう事かもしれないが、それでも、なぜ、白い蟲の幻覚をみるのか?

幻覚を見ること自体がすでに異常でしかなく、幻覚の内容にわけを求めるのは、無理なことなのだろうか?

ロールシャッハテストや夢判断などでも、人間の深層心理を調べようとしている。

おそらく、瞳子が白い蟲をみる「構造」が深層心理のどこかに構築されているはずだと私は考えたが、もう少し精神病についての詳しい情報がないと、私の考えだけでは、判断がつかない。ロールシャッハテストに信頼性があるとしても、その診断基準さえ私にはない。もう少し、精神病について、調べる必要があると思い直すと、私は教授のパソコンを借りることにした。

そして、今後のことについては、瞳子が私に対して心を開き、いっさいの警戒も、恐怖もかんじてないのであり、むしろ、私に対しては白い蟲のことを話そうとしたり、かなり、私と共有意識を持とうとする瞳子であり、今も私の膝に頭をもたらせかけて安心して寝入っている以上、瞳子の両親より、心療内科などに通院するなどの瞳子をサポートには、私のほうが適役であると思え、「瞳子を私に任せてもらえませんか」とだけ、お願いした。

教授はパソコンのパスワードをログインするために、私の前にたち、教授の書斎に案内してくれた。8畳の書斎の壁際は、天井まである本棚達に占領され、出窓に向けておかれた机が本棚の城兵にとりかこまれ、ひっそりちじこまり、その上にパソコンが置かれていた。パソコンがたちあがると、私は精神病を検索にかけた。私の知らないことが多すぎて、自身、整理がつかなかった。PSTD,境界異常、二重人格、幻覚、妄想、うつ病、アンダーチルドレン、双極性障害、解離性障害・・・・。など、通り一遍の症状解説だけでは、瞳子の行動を理解できるものではなかった。それでも、2,3、私の中でひっかかるものがあった。

ひとつは逆説的症状であるが、レイプや虐待などにより、精神状態がゆがむと自分側からサービス行動を起こしたり、性的虐待など、長い間、繰り返されていると、その環境から救い出されたり、逃れることができたにかかわらず、自ら売春行為に走るなど・・・自分の存在価値と意義と安定感が性行為でしか肯定、確認できなくなってしまう、と、いう異常をきたす。

これは、瞳子にもすこし、あてはまるのではないのだろうか?

瞳子は人格も尊厳もふみにじられ、「女」という「性」にいびつな付加価値を得ようとしている。性を恐れているのも事実だが、なにもかも崩れ去ってしまった瞳子は、自分を崩れ落としてしまうほどの強大な性の威力に圧倒されてしまったのかもしれない。

もうひとつは精神科医に対してというべきだろうが、「人間」への信頼、自分の存在価値が希薄になった患者の心を開くことは難しいが、逆に、一切を受け入れられなくなっている患者がいったん、心を開くと、患者は精神的依存を見せ始める。これが、先にあげたように、「性行為」で自分の存在価値を見出そうとしている患者だったりした場合、その依存が示す好意は「性行為」を求めるという形をとりかねない。患者側は心を開き、依存するほど、医者を頼るのだから、その姿勢は一種、ひたむきな恋心ににているため、精神医側も、その姿勢に惑わされ、簡単に言えば、誘惑に逆らえず、男女の一線を越えてしまうという事もありえる。

そのくらい、患者は、いったん、心を開くと極端にかたよった「頼りと依存」を見せ始める。

これも・・すこし、瞳子にあてはまる気がする。

ネットを検索すれば、いっそう、現実の瞳子の状態に合致しない解説や症状を、あてずっぽうに当てはめてみようとしているだけに過ぎなくなる。やはり、心療内科などで、適切な対処をケースバイケースでたずねて見なければわからないと思った。

そういえば・・・。

「教授・・・精神化の治療は続けているのですか?」

当初、異性を恐れ、半狂乱だった瞳子のために女医に往診を頼んだといっていたくらいだから、それなりの処置は聴くまでもないことではあると思った。だが、案に相違して教授は首を振った。

「瞳子を覚醒させたら・・責任が負えないといわれたんだ。簡単な安定剤のようなものは処方してくれて、それは、家内が上手に瞳子をなだめて飲ませてくれているよ。だけど、根本治療は・・・」

教授の言葉が止まった。

「どうなさったんですか?」

黙りこくる教授の顔が青ざめていた。

「根本治療は瞳子を正常にもどすためのものだが、それは、自分におきた事件を認識させるということでもあるんだ。事件の忘却や人格の分裂は事件を認知しないための瞳子の防御なんだ。それを・・無理に人格や記憶を統合させたら、瞳子は本当の狂人になりかねない。そんな危険なことはできない。瞳子の恐怖を思ったら今のままのほうが幸せなのかもしれないんだ」

私は教授の説明をききながら、治療法の項目や病院の治療紹介などを検索してみた。何らかの方法があるんじゃないか?薬物でおさえるだけじゃなくて、恐怖を与えない方法で人格を統合させていく方法・・恐怖をこえていくための精神的訓練?とか、なにか、あるはずだと思っていた。画面を見つめていた私の目に「女性だからこそわかる・・」というフレーズが飛び込んできた。確かに、瞳子のように、男性をおそれ、半狂乱になる状態では、男性医者では、まともな診断どころかかえって、症状を悪化させてしまうだろう。男性からのレイプなどによる、精神異常や欝やPSTDなどにいたるいきさつも、女性になら話しやすいというのはたしかにあるなとおもいながら、ホームページを開いた。

画面に映し出された女医の顔を見つめた教授が「その先生だよ」と、瞳子を診てくれた女医であると教えてくれた。

ホームページの見出しには、治療概念や精神病の症状や家族への留意点などいくつかの項目が掲げられていた。見出しにカーソルをあてると文字が緑色に変わり、リンクされているとわかる。私は強調された文字のひとつにひどくひきつけられていた。

―ご家族様へ―

何よりも、患者本人が医者を信頼できる、環境をつくる、手助けをしてください。

治療は家庭環境が整うほどに効果が上がります。

その ―ご家族様へ― に、リンクが張られている。環境を整えるとはどういうことだろう。

まず、最初にもっと、詳しく知りたいと思った。リンクを開き、内容を読み始めると私は疑問を感じ、疑問が不安になってしまったが、女医の治療概念に納得できるものがあった。精神病という病は本人だけのものでなく、本人を取り巻く「環境」を整えることも病状の回復を促すという。

本人だけを治療していても、周りの環境が患者の精神に不安材料を与えることがあったり、時に患者本人が家族へのすまなさなど、病を患った自分への重圧感がよけいに症状をこじらせる要因になりかねない。

家族が病気への理解が薄く、適切な対応や対処ができず、治るはずのものだった病を重度のものにしてしまうことさえありえる。

精神病は音叉現象を引き起こしやすいのだ。

「おかしな事を言う患者に合わせているうちに、周りまでおかしくなってくる」と、いう鬱屈も生じる。患者を支える家族のほうが特殊な状況にストレスと精神的披瀝を感じ、家族が欝症状を呈しだしたりと、健全であるべき家族の精神状態まで崩れる事もありえる。

実際問題、家族側の精神状態が崩れ去っていても、患者の状態を優先し、早く直してあげようと気をはっているので、家族側はほとんど自覚症状をもたない。これは、大病で自宅看護で病人を看取った人があいついで病に臥せってしまう仕組みに似ている。

そういう意味で、家族の精神安定をサポートし、、生活基盤である患者の環境を整え、土台からともに、治療体制をつくりあげなければならない・・・。

治療側のお願いと書いていながら、その内容は家族の協力が必要というよりも、むしろ、家族へのおしみないサポートの必要性を説いている。

一人じゃどうにもならないことだって、みんなで協力すれば道は開ける。その概念で患者を徹底的にサポートする。私は正直この言葉にうたれた。

こういう言い方は不本意であるが、狂ってしまった人間、(厳密には瞳子をさす)は、ある意味自分の狂いへのストレスはないだろう。ストレスを感じるのはむしろ廻りである。患者の異常な状態に悲観し、時に患者が病に蝕まれた原因を自分自身に求め、我を苛む。患者本人よりも家族のほうが不安定な綱渡りにくたびれてしまう。世間一般の娯楽に対しても気楽に楽し目なくなる。瞳子もそうだが、うっかり目を離せないため、家族はいつも不安状態の中にいる。外出もままならず、世間に対してもわが子の状態を隠すしかなくなる。もちろん、誰だってそんな事を話したくはないだろうが、話さないことがいっそう、鬱屈を溜め込ませ、外に出て、知った顔に合えば「何も話すことができない」自分を突きつけられ、それが、いっそう、自分は「不幸」だと思わせてしまう。

廻りへの音叉現象まで考慮した女医は、家族の精神環境を整理し強くしていくためにも、家族共々の通院を呼びかけていた。

で・・・あるのに・・・。

「この人が無理だといったのですか?」

おかしなことだ。家族の環境から整えようとする人が患者を見放すような言い方をするものだろうか?矛盾を感じ、私は教授に尋ねていた。

「いや、無理だといったんじゃないんだ。このままのほうが幸せかもしれないと・・・」

そうですか、と、生返事をしたが、それならばそれで、家族への何らかの説得や対処が寄せられてもおかしくない。このままのほうが幸せかもしれない。無理にひき出せば本当に狂う。なぜ、こんな通り一遍の説明を教授は鵜呑みにしてしまうのか?

あるいは、教授も病んでいる?

あるいは、教授もまた自分を苛んでいる?

女医があえて、治らないほうが幸せかもしれないといったのは、教授の精神負担を軽減するため?

また聞きでしかないことを、考えてもわかるわけがない。そのときの瞳子の状況もあろうし、女医がどういう表情、ニュアンスでしゃべったかさえわからない。

私は今日の瞳子の話したことなど、精神医のほうが、もっと、掘り下げて判断できるのではないだろうかと思えた。そして、今日の瞳子の話から瞳子の環境は土台から崩れているのではないかと思えた。つまり、瞳子にとって、教授夫婦じたいが「恐怖の象徴」ではないかと思えるのだ。レイプ犯は幼い頃に見た父親の姿に重なる一方で、母親は父親によって被害にあっていると捉えられる。これは被害者である瞳子自身とかさなり、無意識の中で「排除」する思いが働き、瞳子が私にしゃべるように教授夫婦にしゃべれなかったきらいがあるのではないか?こう考えたら瞳子が私に見せた局面と女医が事件当初に教授夫婦という環境下にある瞳子を診断とでは、応えは違ってくるのではないかと思えた。

ネット検索により、ひとつの方向が見えてきた。

とにかく、もうすこし、詳しいことを専門家に尋ねるのにも、瞳子を診てくれたこの女医にあたるほうがよいと、私は手帳に女医の名前、連絡先やクリニックの住所を書きとめた。

私の行動を教授は黙って見つめていた。それは、女医の言うとおり、これ以上瞳子の回復を期待しないほうがよいと批判めいたまなざしにも、その反対に女医に言われ、そのままあきらめるしかないと一種、なげうった自分を露呈した気まずさにも見えた。

「今日の瞳子の様子は今までとちがっていたんでしょう?そういう部分も話して回復の手立てを探ってみたいのです。それと、私はこれからもちょくちょく、瞳子の様子をみにきますから、教授は・・簡単に手放し気分にはなれないかもしれませんが、夫人とともに、食事とか・・なにか、気晴らしをなさってください。教授はまだしも、夫人は一日中、瞳子の様子をみているわけですから、夫人のほうがまいってしまいます。普段どおり、普通通り、楽しんでください。それくらい気長に構えて、鬱々した気分を上手に解消していかないと、なにもかもが、瞳子のことで、気楽に楽しめなくなっている状況に押しつぶされてしまいますから・・・。長期戦になるとどっしり構えて、娯楽は娯楽できりわけて楽しめる、それが大事ですよ。それに、夫人にとってもこの状況を知っている唯一の理解者でもあるのですから・・」

黙って聞いていた教授が手で顔をぬぐうと小さな声が漏れた。

「ありがとう」

瞳子のことで、目いっぱいになり、夫人の困憊まで気遣えなくなるほど教授自身もくたびれ果てていた。なんでもない私の提案に涙するほど教授の心も「癒し」に餓えていた。

「君がそこまで・・・」

教授の言葉は涙に呑まれたが教授はこの時に私の勤務を考慮していた。研究室にこもって、実験と資料集めと論文構想・・瞳子の様子をみにくるどころではないと思ったのだろう。何日か後に、顧問助手としての嘱託扱いというフリータイム制にきりかえ、自宅でのフリーランス体制を整えてくれていた。

私は瞳子が寝入っているすきにパソコンをつついていたが、

泥のように眠りにおちた瞳子に、夫人はケットをかけてやり、傍らで瞳子を見守っていた。

私は今日のところはこのまま帰ろうと教授の書斎をでて、居間をのぞいた。

思ったとおり、まだ瞳子はぐっすり寝入っていた。立ち上がりかける夫人をそのままでと手で制し、私は人差し指を口の前にたて『無言のまま・・・で』と、合図を送るとそのまま立ち去ろうとした。

ところがどういう敏感さなのだろうか?

瞳子はぱっちりと眼をあけ、居間のむこう、廊下に立つ私を見つめた。

瞳子が私を見つけたと私にも解かる眼差しが急に崩れた。

「帰っちゃだめ。帰っちゃだめよ」

瞳子の懇願は幼子のものでしかなかった。退行現象・・・安心できる場所を探す前に、自身が庇護される存在にならなければならない。瞳子は幼児にもどることで、安心できる場所に入り込み、庇護される自分になれる。

「瞳子さん・・また、明日来ますから・・・」

なだめてみたが瞳子は聞き入れなかった。

「いや!!だったら、私も一緒に帰る」

涙をためた眼で瞳子が私のそばに近づいてきた。そして、私の手をしっかりとつかんだ。

涙いっぱいの瞳が私の前にある。瞳子の懇願を振り切って帰ってしまったら、瞳子からの私への信頼を失くしそうだったし、見捨てられたと受け止め、瞳子が錯乱をおこしはしないかとそれが、なによりも不安だった。せっかく、心開き始めた瞳子が心を閉じてしまったら、もう二度と私に寄り付かず、教授に見せたとおなじような「男性への恐怖」しか持たなくなるのではないか、私はこの場をどうすればよいか惑った。

「瞳子・・・義治さんは、明日もお仕事なのよ」

瞳子の後ろから夫人が口ぞえをしたが、瞳子は聞き入れなかった。

「いや!!お仕事に行くまで一緒にいる。お仕事に行ったら・・・・」

瞳子は一人ぼっちになると気がついた。

「お仕事にいってる間、お母様の所にいるわ。お仕事が終わったら迎えに来て・・」

幼稚園に預けられ下園時刻に保護者が迎えに来る。そのころの慣習でしかないと思える瞳子の思いつきから、逆に、今、瞳子は幼稚園のころに戻っていると判断できた。

パソコンを閉じて少し遅れてやってきた教授は瞳子の様子をじっと、見ていた。

私が感じたと同じ不安を考え付くのは、今となっては、教授にも私の存在が一縷の望みになっていたからだろう。

「しかたがなかろう・・・泊まってくれるかね?」

瞳子の言うとおり、私のアパートまで一緒に帰るわけには行かない。

むしろ、私が教授宅にとまったほうが簡単である。

「かまわないのですか?」

「いたしかたあるまい・・客室を・・」

夫人に寝具などの準備を促すと教授は瞳子に声をかけた。

「瞳子・・義治君はとまっていってくれるから、料理・・作ってあげれるかな?」

「うわ~、お泊り会だね」

瞳子にとっては、幼稚園の行事・・・・。

瞳子は逆行現象を起こしている。それは、父親を怖いと思った理由を語るために、瞳子の意識がその頃まで逆行したせいだろう。瞳子の症状として現れる物事を私は一つずつ把握していくに努めるしかない。それらの症状の奥には、何か・・・・、原因の源水があるはずだと思った。白い蟲が見える瞳子の源水もどこかにある。

深夜、寝静まった部屋のドアのノブがきしんだ音を立てた。

私は一瞬、瞳子が来たかと思った。食事を作るとき、瞳子は体が覚えているのだろう、夫人に差し出された材料でかなりてきぱきと調理をこなしていた。調理メニューについては、夫人に指図されなければ考えつけないようで、何を作るかたずねると、答えを口の中で何度もつぶやいていた。「肉じゃが・・肉じゃが・・卵サラダ・・いんげんのごまあえ・・お豆腐とねぎの味噌汁」つぶやきながらメニューを頭の中に叩き込むようだがいったん決まったメニューに対しての手順は、体が覚えこんでいるのだろう、迷いなく手が動いていく。私はその様子をみつめながらまたひとつ、瞳子の回復の希望を見出した。意識は確認を要するが、瞳子の五感は「記憶」をバックアップしている。私に親密な親近感を覚えたのと同じ部位にバックアップというホルダーを有している。ホルダーを意識の中に組み込み、開くことができればとも、新しい学習で五感にさらに学習を上書きしていけば、瞳子はかなり回復する見込みがある。

問題は、どうやれば、奥底の五感ホルダーを開けるかという事になるかもしれない。

私は夫人に促され風呂を頂戴すると、湯船の中でそんなことを考え直していた。

風呂をあがると食事がすっかり整っていて、味も瞳子が以前、私に作ってくれたものと同質のものだった。遅い食事をとると、瞳子は食器をあらいあげ、キッチン横に作られた畳の部屋に私を引っ張った。テレビがおいてあり、ちょうど放映されていたピラミッドの発掘ドキュメントを眺めていた私の横に瞳子が並び座った。

「金色の棺なんだね」

「そうだね」

短い時間だったが瞳子と昔のように、同じテレビ放送を共に見て、同じ空間と同じ時間と同じ体験を共有できたことがうれしかった。やがて、瞳子も夫人に促されて、浴室に入っていった。私は夫人に瞳子の回復の手立てを探すために、明日、クリニックを尋ねようと思っていることを告げた。

「はい・・おねがいします」

夫人は自分が手を差し伸べきれない立場にいることを私の話で理解していた。

「瞳子にとって・・私を見るのもつらかったのですね・・」

夫人の落胆が伝わってくる。

「いえ、だからこそ、瞳子は回復するとかんがえられませんか?つらいはずなのに、ですよ。記憶を封じ込んでも、まだ、あなたに対し「母」であることを、五感が教えてる・・」

「そうですね・・あの子のベースはなにひとつ変わってないはずですよね」

「ええ、それをひっぱりだしましょう」

そのあと、私は瞳子が風呂から上がるのを待って、瞳子におやすみを告げた。

「私・もう・・眠いわ」

瞳子はかわいらしいカラフルな水玉模様のパジャマの袖で口元におさえ大きなあくびをして、自分の眠気を告げると、睡魔に勝てない幼子の行動そのまま「もう・・寝る・・」と、自分の部屋に戻った。

私も用意された部屋に戻り、布団の中にもぐりこんだ。

だから、瞳子であるわけがないと思いながら、私が帰ろうとしたときの瞳子の突然の覚醒を思い起こしてもいた。
枕元を手で探りリモコンのスイッチをつかむと部屋の明かりのボリュームをあげ、私はドアの前に歩み寄った。
「はい?」
ドアの向こうは静かだったが確かな人の気配があった。
やはり、瞳子なのかもしれないと私は迷いながらドアを開いた。
「ああ・・」
そこにいたのはやはり瞳子だった。
自分の枕を抱きかかえ私と一緒に寝るつもりで自分の部屋を抜け出してきたのだろう。
「どうしました?眠れませんか?」
「・・・・・」
無言の返事の唇がとがっている。
瞳子を一人ほったらかしにして、どうして平気で眠れませんか?なんて聞けるのだろうか。
瞳子のむくれた感情が唇の先に乗っかっていた。
「私と一緒に寝ますか?」
瞳子の感情を確認してみると、素直な肯定が返ってきた。
「うん!!」
「じゃあ・・どうぞ」
瞳子を部屋の中に招じいれたその時だった。
「YOSHIHARU!!」
瞳子が私の名前を呼ぶのと私にむしゃぶりついてくるのが同時だった。
確かに私の名前を呼んだ瞳子である。
私は瞳子に突然の覚醒(正気)が訪れたと思った。
だが、その覚醒がそのまま、覚醒として定位置におさまるか、どうか。
ぬかよろこびに踊り狂い、うっかり瞳子の希求に応じてしまったら、
その時になって、瞳子の精神が後戻りしたら?
私は瞳子を襲う悪辣な人間と認識されるかもしれない。
私は瞳子をだきよせたまま瞳子の希求をなだめた。
「瞳子さん・・私のお嫁さんになってくれますか?」
狂った瞳子の概念の中で瞳子自身の行動がどういう位置にあるのか、
適切な言葉をおもいつかないまま、私は瞳子の行動の意志がそこにあるのかどうか、確かめたかった。
「うん」
あっさり、瞳子が応諾をかえしてくると、瞳子は私の下半身に触れる。
正直、私も男でしかない。
ましてや、愛する女性である。そのモーションに反応しないわけがない。
今、瞳子の希求をかなえるのは実に簡単なことだと言える。
だが、性への恐怖故に狂った瞳子の不可解な行動をそのまま受け止めてよいわけがない。
「じゃあ、こんなことは、瞳子さんがちゃんと私のお嫁さんになってからにしようね」
私は瞳子の手をつかみ、私の下半身から取り除いた。
瞳子はすねたぶりで私に絡みつき、バランスを崩した私は布団の上に瞳子とともに倒れこんだ。
私はこの局面を打開するために、瞳子に質問を続けるしかないと思った。
「瞳子さん・・もう少しいろいろおしえてくれませんか?」
瞳子の意識があるいは、「YOSHIHARU」を意識しなくなるかもしれない狂いの中に瞳子を戻しいれる作業になるかもしれない。
だが、一時の覚醒(で、あるかもさだかではない)に振り回されたら、間違いなく結末は惨憺たるものになる。
「ん?な~~に?」
徐々に瞳子が逆行現象を起こしている。
子供のなぞなぞ遊びをまちうけるように、瞳子の瞳が好奇心いっぱいにくるくる動いていた。
「瞳子さんは白い蟲のせいでお父さんが嫌いになったんですよね?だから、瞳子さんはその蟲を退治しなきゃならないと思ったのかな?」
瞳子が鳥になって白い蟲をついばむこの発想はそういうことなのだろうか?
「そうかもしれない・・・・」
「じゃあ、今、私からも白い蟲がでてきていますか?」
白い蟲が男の性欲の象徴ならまさに今の私からも白い蟲が吐き出されているだろう。もっといえば、すでに私が瞳子を愛しはじめたその時から白い蟲は排出されていると考えられる。
だから、瞳子は今夜白い蟲を退治するために私の元にやってきたと言うことになるか?
すると、こういう行動が、教授に対しても行われたと言うことになるのか?
だから、「娼婦のように誘う・・・」と教授は苦悶したのかもしれない。

私のなぞなぞに瞳子はぼんやりと考え込んでいる様子だったが、残酷なことを告げるときのように唐突に切り出した。
「あなたの蟲を退治しなきゃならないのよ」
やはり・・・。
そして、私は今もう、瞳子にとって「YOSHIHARU」でなくなっていることにも気がついた。
「瞳子さん。私の名前を覚えていますか?」
瞳子の人格がわずかの間に入れ替わっているに違いない。
私は狂った瞳子に後戻りした瞳子を確認する。
「あなたは・・もちろん、知っているわ。あなたは・・・あなたは・・・えっと・・」

瞳子はやはり、私の名前を思い出せない。
だが、私が「義治」であることを理解している。
それは、夫人が「義治さんは明日お仕事なのよ」と、なだめたときに
瞳子がすんなり認識していたことで解かる。
だが、どうして、記憶が固定されないのだろう?
瞳子のなかのなにかが、記憶すまいと邪魔をしているように思う。
教授に対してもそうだ。
おそらく、父親だと深層意識では理解している。
だが、表面上の意識のどこかにフィルターがあり、
奥底から沸いてくるはずの記憶をカットしている。

そのフィルターはやはり、白い蟲を吐き出す人間に対して動作される類のものなのだろうか?
あるいは、白い蟲、性、レイプにかかわるものを除外するのだろうか?
そう考えれば夫人を、教授を、私を、はっきり認識しない理由として成り立つ。

無論、瞳子はコンピューターなんかじゃない。
だが、一時的覚醒も、コンピューター現象を考えればつじつまが合う。

白い蟲を削除するフィルターがあるのにかかわらず、
白い蟲を退治しなければならないと命令が実行される。
相反する行動が1台のコンピューターの中で起きたとき、
コンピューターはバグを起こす。

バグを引き起こしたコンピューターはどちらを優先するか?
おそらく、命令が先に来る。
そして、その命令を実行するための多くの情報を引き出すために
ハードとソフトの中を検索していく。
そこに「YOSHIHARU」が検知されたのだろう。

いいかえれば、瞳子のなかに私の存在がくっきりあるということになる。

だが、私の質問で瞳子はもう一度フィルターを修復させ始めた。

瞳子の精神内部で静かに起きた検索と葛藤は、瞳子の精神を困憊させているに違いない。
私はこれ以上、瞳子を疲労させまいと瞳子を制した。
「瞳子さん、私の名前は義治ですよ」
今度は間違いなく瞳子に私の名前を打ち込んだ。
瞳子がその記録を許容し、記憶領域にいれこむか、どうかは、瞳子のフィルターと瞳子の感情の戦いの結果によるだろう。
だが、強制せず、瞳子の内部にこれ以上波風をたてないために、私はもう一言付け加えた。
「瞳子さんのよびやすい呼び方で呼んでくれればいいんですよ」
私の提案に瞳子はほっとしたのだろう。
「そうね・・」
安堵がはりつめた精神に小さな隙間を作る。
小さな隙間に押し込められた疲労が流れ込み、瞳子は眠たげな眼を閉じた。
私の花嫁は新郎の名前さえわからない。
悲しいため息と、今の瞳子の心に私がうけとめられた喜びとが折り重なった
まだらな感情が私の中に出来上がっていた。
私は次の日、自分の携帯電話から手帳に書きとめた女医、藤原怜子に連絡をいれた。
受付から電話を取り継がれた女医はまず藤原怜子本人であることを名乗った。
私は瞳子の名前を出し、相談したいことがあると告げた。
だが、女医の返事はにべないものだった。
「ご家族の方ではありませんね。患者のプライベートにかかわることをお話することはできないのですよ」
女医に瞳子の名前をだしただけなのに、女医の頭の中には瞳子の家族構成までインプットされている。私の声が教授の年齢とはずいぶんかけはなれたものでもあり、聞き覚えのない声からも、女医は教授でないとすぐにわかったのだろう。
これは、私には女医がブログで語っていた方針は実践されている証拠にしか見えなかった。
確かに家族構成を把握していれば、何者かもわからない人間に、うかつに患者の情報を話すことはない。
私は自分が瞳子の婚約者であり、昨日、初めて、瞳子の状態を知らされたことを告げた。
「仮にそれが本当のことだとしても、ご家族の許可を得ることと、とあなたが婚約者であることの証明が必要です」
なんで・・・。
家族、すなわち教授の許可は教授からの電話一本でかまわないだろう。
だが、婚約者である証明?
車の免許証じゃあるまいし、私はだれそれの婚約者だというカードが発行されるというのだろうか?
「家族の了承はすでに得ています。ですから、あなたが、瞳子を診てくれた医者だとわかっているのですよ。許可の証明が必要なら、婚約者の証明が必要なら、教授に電話を入れてもらいます。それで、いかがですか?」
「解かりました。ですが、ご家族の方にも話しましたが、彼女には治療の余地がありません」
え?
あまりにも、一方的に断りを入れる女医すぎて、私は電話ごしにまくし立て始めた。
「ちょっと、待ってください。貴女は家族の協力で病状が改善されるとも、家族へのサポートも必要だとホームページに書いてらっしゃるじゃないですか?
それなのに、私から何一つ聞こうともせず、治療の余地がないと断言するのはおかしいじゃないですか?」
電話口のむこうは沈黙を守っていた。
「仮に瞳子の治療がだめだとしても、家族へのサポートは可能でしょう?
それが、なぜ、そんなに簡単に駄目押しをされて、家族にも希望を与えない発言をなさるのですか?
おかしいじゃないですか?
家族の協力で直る見込みがあると言いながら、その協力さえ無駄だと言うのに、等しい。
ましてや、貴女が診断したのは、2週間前のことじゃないですか。
私は昨日、瞳子にあって、回復するのではないかと思える事実をまのあたりにしているのですよ。
でも、それが、素人の判断でしかないのですから、私は貴女に尋ねてみようと思ったのですよ。
それを聞きもせず、治癒不可能だとなぜ判断できるのです?
私もあるいは、医師をたよってたという意味では患者だともいえます。
貴女はそれすら拒否されるというのなら、私は医師会のほうに連絡をいれます」
電話の向こうで小さなため息が漏れた。
「わかりました。昼休みに時間を作りますから、そのときにお話を聞きましょう。午後2時に来院してください」
ブログという世間一般に公開される場所に打ち出された方針とはあまりにもかけ離れた女医の応対が私の中で一つの濾紙になってしまったとは私もこの時は気がつかなかった。
なにか、ひっかかりがある態度でありながら、私は、女医が治療の余地がないと判断する部分と私が瞳子が回復するのではないかと思える部分とを照らし合わせれば、女医の判断が変わり、なんらかの治療方法が見つけられるのではないかとそればかりだった。
1時近くまで大学構内の資料室で資料整備をこなし、学食で教授とともに遅い昼食を食べ終えると
私は教授にクリニックに行ってくることを告げた。
「うん。よろしく頼むよ」
もちろん、教授は昨日、瞳子が私とともに眠ったのを知っている。
瞳子の態度がどうであり、私がそれにどう対応したかについて、教授は不問に付した。
おそらく、瞳子を私に託すと決めたせいであり、朝に私の布団でそのまま、ぐっすり寝入っていた瞳子であったことに、教授はさらに私へ瞳子を託すしか道がないと深く理解、いや、納得したせいだろう。

言われた時刻にクリニックを尋ねると、ガラスドアの向こうにブログでみた顔が現れ、私を招じ入れてくれた。
「診察室でも、かまわないですか?」
休憩時間に入り、看護士や受付も休憩室にはいっているのか、あたりの電気は消され、窓からの光だけが待合室を照らしていた。
「本来は婚約者であっても、籍にはいってない人間を家族とみなすことはできないんですよ」
もうしわけなさそうに女医は語り、私の前に立って診察室に歩んでいった。
診察室には広いテーブルが置いてあり、女医は私に椅子を勧めると、私の斜め向かいに腰を下ろした。
「失礼します」
勧められた椅子に座りながら、この広いテーブルも女医が真正面でなく斜め向かいに座ることにも何らかの理由があるように思えた。
広いテーブルにぽつねんとすわると、なにかさびしく、確かに誰かの存在を感じたくなる。
こういう孤独な雰囲気から女医へ依頼心が高められ、真正面に座らないことで威圧感をとりはらい、
斜め横に座ることで警戒心を解く。こういう人間心理に基づいたテーブルセッテイングに思えた。
「たとえ、家族でなくとも、瞳子は私に心を開いている様子をみせますし、先生が瞳子を診たときと比べたらずいぶんおちついたんじゃないかと思えるのです。それを見もせず、聞きもせず治療の余地がないとなぜ判断されるのでしょうか?」
私は女医の態度への怒りよりも、瞳子に回復の見込みがないと言われたことがショックで、それを認めたくなかったのだと思う。
「私もこういう仕事に携わり、何百人と言う患者を診てきています。わずかに回復するだけでも、良しとするのなら私もお話しできますが・・・」
やはり、私は女医の理論が妙だと思った。ブログにかいていたこととあまりにも矛盾しすぎる。すこしでも、家族までを含む環境を整えることまで推奨しサポートしようという医師が何故こんなに消極的に、かつ簡単に「なおらない」と決めてしまうのか。
白い蟲の話をした瞳子を考えても、忘れていたことと対峙しようとしていると判断できる。
当初、教授さえ恐れたと言う瞳子だということを考えても、なにかを、克服し、私への愛をつかみなおそうとしているように思える。その瞳子をして、回復しないとは、どうしても、私は理解できなかった。

「貴方は昨日、初めて瞳子さんの状態を知らされたとおっしゃっていましたよね。確か、私が往診に出向いたのは2週間以前前のことだとおもうのですが、婚約者である貴方にご家族が事実を知らせようとしなかったのは・・・」
瞳子の状況では婚約破棄もありえる。
女医はありえる話を想定して私にたずねようとしていることが私には見えた。
本当は家族が婚約破棄を申し出ているのに、あなたがそれを承諾していないのではないか?
そういうことだろうと私は思い、女医の言葉をさえぎった。
だが、これも、あとになってわかったことであるが、女医は私の瞳子への愛情を量っていたのだ。
私は女医が「で、あるならば、家族の意志を尊重し、貴方を家族とはみなさない」といいだすのをねじふせるためにあえて、事実を率直に話すことにした。
「おさっしの通り、瞳子の状態を私に隠していたのは事実です。でも、それは、瞳子の回復を待っていたからです。話せば長くなりますが、確かにご父君は、婚約を白紙に戻してくれとおっしゃいました。ですが、私は瞳子の状態をこの眼で確認しないで納得は出来なかったのです。それで、瞳子に会いに行きました」
「それで・・・瞳子さんはどうでしたか?」
「瞳子は最初、私を兄弟だとおもったようです」
「怖がらなかった・・と、いうことですね?」
「ええ、それと、瞳子について、いくつか気づきがありました。瞳子自身が私に話してくれたこともありますし、私がみていて気がついたこともあります」
「つまり、貴方には心を開いている・・ということですね?」
女医は何かを考え込んでいたが、あわてて、私の話の続きを促した。
「それで、瞳子さんの話とあなたが気がついたこと、これはなんでしょう?」
「まず、はじめに私がおかしいなと思ったのは、瞳子が父親を認識せず、「おじさま」と呼んでいたことです。このあたりを瞳子に尋ねました。父親が「おじさま」であるのなら瞳子の内に居る父親はどんな人か、何故、私や夫人に対しては肉親に対する親近感を感じるのに、なぜ、教授・・いや、父親を「おじさま」と距離を開けた認識のしかたになるか・・・」
女医は深い深呼吸を付いた。
「貴方・・・。ずいぶん危険なことをなさったのね。でも、瞳子さんは発作を起こさずに貴方にいろいろお話をなさったということね。それは、貴方が言うように、確かに貴方に心を開いていると、考えられます」
「ええ。私もそうだと思っています。だからこそ、私でなければ瞳子を救い出せない。そうも考えています」
「あなたが、そういう風にお考えになりたい気持ちはよくわかりますが・・・」
女医は言葉にためらい、的確な言葉を探しているように見えた。
「簡単に言えば、かかわらないほうが良いというか、深入りしないほうが良いとおっしゃりたいのでしょうか?」
助け舟を出され女医は言葉を取り戻していた。
「ええ。ある程度の距離おいてほしいという言い方のほうがあっていますけど・・・」
「私は貴方の音叉現象についての意見も読みました。だからこそ、一定の距離のある、客観的に判断できる専門家であるあなたに相談しに来たのです」
ああいえば、こういい返す私の態度に女医は小さくうなづいた。
「相当の覚悟がおありだということですね・・・」
「で、なければここにきません」
「そうでしょうね。じゃあ、話を戻して瞳子さんがあなたにはなしたことを・・・」
女医がやっと私の側に付いた。「ええ。瞳子が父親を認識しない裏側は、瞳子が幼い頃に夫婦の行為を目撃してしまったことが原因だと思われるのです。父親の行為とレイプ犯の行為が重複してしまい父親を否認してしまうのではないかと私は考えています。父親でなく母親でなくこの私に心を開いたのも父親はレイプ犯と重なり、母親は被害者である自分と重なり、瞳子は知らずのうちに、心を閉ざしていたのでしょう。そこに私が現れた。結婚しようとしていた相手が現れたのですから当然、瞳子は私に心の鬱積を吐き出せると思ったのではないでしょうか?
貴方のおっしゃるとおり、家庭環境が整うことが回復につながるとしたら、今の環境下では、貴方が判断したとおり、確かに回復が見込めないというのには、一理あるかもしれません。
ですが、私が来た。
瞳子の狂った頭の中においてさえ、私は「おにいさま」のような親近感を感じる相手として認識されたのです。そして、瞳子は私に尋ねられたことに答えることで必死に好意を表わそうと勤めたと思います」
「そうですか・・。それで、瞳子さんはどんな答えを?」
「瞳子はまず、父親が怖いといいました。その原因として考えられたことが先に話した夫婦の行為の目撃なのですが、じっさい、瞳子は父親が恐ろしいのは「白い蟲」のせいだというのです。どうやら、瞳子には、白い蟲の幻覚がみえるようで、白い蟲は生殖器から湧き出してくるというのです。私もそこまでは理解できます。瞳子が白い蟲をみてしまうのは、自分の中の恐れを外に押し出した結果だろうと考え、理解できるのです。ところが、瞳子はその白い蟲を「私が食べてあげる」というのです。どうしても、この部分の心理におよびつかないのです。瞳子が被害者でなくなるために、自らをして、白い蟲を捕食する側にたつことで、自分を優位にたたそうとしているのか・・」
女医は私の話を黙って聞いていたが、私の話が途切れると口を開いた。
「あなた・・なにかしら、精神医学とか心理学とか学んだことがあるのかしら?」
女医が私をまじまじと覗き込んできたが私は首を振るしかなかった。
「そう。そんなことはどちらでもよいことですが、あまり学術定義で現状を捉えると、かえってこちら側が混乱してしまう危険性があるので、少し気になりました。が、貴方なりに考えてみたことなのですね?」
女医の言うとおりだ。
「おっしゃるとおりです。いろいろ考えてみるほど瞳子の行動に矛盾が見えてきて、いっそう混迷して・・・」
「で、私を訪ねてきた・・と」
さっき女医を叩きのめした言葉で切り返され私は二の句を告げなくなっていた。
「瞳子さんが貴方に対して心を開いていることと、回復は別次元の問題だと考えてください」
「え?」
「信頼関係が成り立たないrと治療が難しいのは事実です。ですが、あなたが考えるほど精神のひずみは簡単には元に戻せないのです。本人が回復したいと思うこと。回復を意識すること。言い換えれば、自分が狂っていることに気がつかないと治療は難しいのです」

「まず、信頼関係が成り立ってそこから、本人の意識を、自分への客観視にふりさすことが出来るようになってくるのですが、これは、お父様にもお話しましたが、瞳子さんの場合、それをなりたたせることが非常に困難なのです」
私は大きく首を振ったと自分でも気がついた。
「何故ですか?何故、困難なのですか?瞳子は現状、私にいろいろ話し始めています。それは共有理解をもとうということでしょう?それはつまりは、自分を客観視しつつあるということでしょう?」
「おっしゃることはよくわかります。確かに他の人に理解をしてもらうために自分への客観視が重要な要素になり、そこからだんだん、自分の状態を自覚していけるようになるのです。ですが、それでも、瞳子さんの場合は二次覚醒が引き金になって本当の狂人になる可能性が大きいのです」
結局、女医は瞳子がこのままのほうが良いと言おうとしている。確かにその通りなのかもしれない。
だが、何故、そこまで、断言できるのか、私にはちっとも理解できなかった。
「待ってください。何故、そんなことが断言できるのですか?」
「あなたは、自分でおっしゃっていてわかっているでしょう?たとえば癌という病気になって医者がたとえば手遅れだと説明して、何故そう判断できるかと問い詰めているのと同じじゃないですか?貴方は私を専門家だと認めてここにいらっしゃったわけでしょう?その専門家の言うことが信じられないなら・・・」
好きにすればよいとでも言いかけた女医だったのだろうが、さすがに怒りにまかせての売り言葉は控えた。
「あなたのおっしゃることは子供のダダと同じですよ」
かろうじて、言葉をやわらかく包み上げた女医だったが、私は外科医や内科医と同じように、精神的なものが専門家といえどそんなに簡単に「直らない」と断言できるとは到底思えなかった。
外科や内科の治療定義でけむにまかれ、はい、そうですかと引き下がることはできなかった。
「みんな、みんな、そう診断しますか?他の医者もそう診断しますか?」
世の中は広い。外科医だって、内科医だって、時に奇跡と言われる治療に成功しているばあいもある。
この時よほど、だったら他の医者に行ってみてもらえばよいじゃないかと女医が怒り出すだろうと私は思っていた。
ところが、女医はその言葉を口に出さなかった。
あくまでも、自分の判断が正しいという体制をかけらも崩そうとしなかった。
「先ほども申し上げたように、治療は信頼関係の上に成り立っていきます。今の貴方は私を信頼できない状態ではないですか」
女医との口論を続けてもらちがあかないと思いながら、私は女医に食い下がった。
それは、何故ここまで、女医が「直らないほうがよい」「直らない」と頑迷に主張できるのか、その裏になにかあると私は嗅ぎ取っていたのだと思う。
「それは、理論のすり替えじゃないですか?治すことを前提とするのが治療でしょう?あなたは治療を行おうとしてないじゃないですか?治そうとしない医者を信頼しろというのは、いかにもおこがましいことじゃありませんか?」
「確かに診断と治療は違います。けれど、医者の診断を信用できない状態では・・・」
女医は苦しそうに眉をしかめた。
「私は何百人という患者を診てきています。瞳子さんの場合は・・・」
説明する言葉を頭の中で組み立てなおすのか女医は黙り込んでしまった。

「瞳子の場合どうだというのですか?治らないって?二次覚醒でだめになるってどうして断言できるのですか?」
女医はひどく困った顔になった。
「瞳子さんの場合・・・」
同じ言葉を繰り返しながらその先をしゃべろうとしなかった。
「貴女のいうことはそれだけですか?家族へのサポートとのうがきをたれながら、何故、治らないと断言できるのか納得できる説明がこれっぽっちもできない。言い換えれば私も狂人?狂信しているのでしょうかね?治るかもしれないという「狂気」の真っ只中にいて、あなたはこの狂いひとつ矯正できない。あなたはたんに二次的?いや、音叉現象をおこして、狂人をつくりあげているだけじゃないですか?」
私の激しい罵倒を回避しようとしたのか、突然、女医は話を変え始めた。
「お父様は婚約を白紙にもどしてくれとおっしゃったのですよね?」
話をとんでもない方向にもっていく女医にいぶかりながら私はかなりぶっきらぼうに答えた。
それは、そのことから、女医がなにかを話そうとしているに違いないと思ったからに過ぎない。
「ええ。そうでしたよ。でも、今は違います」
「解かりました。確かに私も確かな事実に基づいて判断しているわけじゃないのですよ。こういう言い方をすると御幣がありますが私の過去の診察暦で、かなりの確かさで判断できる物事が見えたのです。ですから、これ以上の治療は良くないと判断したのです。ひとつだけ、確実に診断できる方法があります。催眠療法というもので、瞳子さんの深部をひきだして、本人が記憶を封印したことまでも引き出すことが出来るのですが・・・」
私は女医の言葉を聞きながら怒りに我を忘れそうだった。
治らない。このままのほうが良い。あげく、医者の診断を信じないのかとなじられ、結果、診断は経験による予測であり、確かな確証ではなかった?
どの口でそんなことがいえるのかとわななくのどを押さえ、私は女医の言葉を聴くことに勤めた。
「あなたはかなり精神力の強い人だと判断しました。ですが、この事実を確かめたときにあなたに話すかどうかは、私に一任してもらえませんか?」
女医の提言は女医の譲歩と誠意であるのだが、私は女医の言葉の裏側を読み取ってしまう。
「それは、私が知るにつらいことだということですか?」
私の顔を見つめながら女医は私をたしなめるように、話し出した。
「人が狂気に陥るとき、必ず根っこに大きなきっかけ、いえ、傷があるのです。治らないほうが幸せかもしれないというのは、瞳子さんだけのことじゃないんですよ。たとえば、あなたがおっしゃったように、夫婦の行為を目撃したことがきっかけ、傷になって、瞳子さんが狂ったとするならば、このことを覚醒させたのがもとで、瞳子さんが完璧な廃人になってしまったら、瞳子さんも親ごさんをうとむでしょう。
そして、そのことで今度は夫婦の間に亀裂が入り、貴方もご夫婦を憎み、瞳子さんに覚醒をもたらした自分をせめ、貴方も危うくなるのですよ。こういう危険性を持っているのですよ」
私は女医のたとえを聞きながら、瞳子の傷が「夫婦の行為を目撃したせいでない」と気がついた。
もしそれが傷であるのなら、女医が改めて催眠療法で聞き出す必要もないし、たとえに使われることもない。その通りだというに違いないだろう。女医はなにかしら瞳子の狂気の基に気がついているに違いない。
催眠療法で「確かめてみる」というのは、女医が往診で見抜いたものが、正解だったと確かめるという意味合いに違いない。
その狂気の基。それを瞳子に自覚させると、瞳子の発症状態から周りの皆も傷つき、ともに崩れてしまう。
そう、私には聞こえる。
「催眠療法は同意書が必要です。用紙を渡しますからご家族の方のサインと印鑑・・同意をとりつけてください」
おって、日程を連絡すると女医が私に告げると看護士が女医を呼びに来ていた。
すでに午後の診察時間にはいり、患者が待っていた。
女医との接見はなにか、腑に落ちない骨をのどに残したものになった。
こののち、そののどにささった骨の異物感をとりのぞこうとした私が、今まで違う見解に達することになると思いもせず、しっくりこない残留感をひきずりながら、用紙を貰い受けるといったんは大学に戻った。
大学構内に戻った私は早速、教授に同意書を見せた。

「催眠療法?」

教授は同意書を見つめ、不思議な顔をした。

確かに療法と書いてあるのだから、治療方法があるじゃないかと思わせたのだろう。

女医に告げられた「このままのほうがよい」が、つじつまがあわなくなる。

そういう治療方法があると解かっている女医がそれでも、「このままが良い」と判断したのに、

何故、いまさらになって『催眠療法』を持ち出してきたのか?

教授はそこに瞳子に回復の余地がでてきたと解釈したようだった。

だが、じっさいは催眠療法という説明を受けたが、瞳子の深部をしるためであって、

そこで、治療の余地があるか、どうかを判断するという事前調査のようなものでしかない。

その結果によっては、あるいは、「このままが良い」と私も諦めざるを得ないのかもしれない。

「う~~~ん」

教授はずいぶん長い間、同意書を見つめていたがやっと口を開いた。

「これで、瞳子は治るのかね?」

どうしても、女医の最初の言葉が教授をくくりつけていた。

同意書が必要だということは逆を言えば何らかの危険性があるということにもなる。

このままのほうが良いとまで言われた瞳子に危険性があると思える催眠療法を行って、本当の廃人になってしまったら・・・。

教授が簡単に同意書にサインを出来なかったのはやむをえない。

そこで、私はやっと、催眠療法が治療でなく下調べ的なものでしかないことを告げた。

治る見込みがあるかもしれないと思わせてしまったと私が勝手に判断して、催眠療法の本当の目的をしゃべれなかったのと、女医に説明された危険性のことまで、説明しなければならなくなる。たとえば、その下調べで、私が、教授夫婦を憎むことになったり、教授夫婦が混沌におちいることがあるかもしれないという二次的被害が出てくるかも知れないことをしゃべったら絶対「このままでよい」と言い出されるとわかっていた。

だから、私は催眠療法の本当の目的を隠しながら説明を加えていった。

「催眠療法というのは、直接的に治療するものじゃないんですよ。深層意識に閉じこもったものを話すということで、瞳子の深層意識のストレスを拡散させることが出来るのです。もちろん、教授が心配したように、瞳子の覚醒につながったら、廃人になる可能性はあります。ですが、そこの部分は瞳子の深層意識を引っ張り出したあとに、瞳子が何を話したか、話したことさえ覚えてないように暗示をかけます。ですから・・・」

同意して欲しいと教授に願い出たが、教授のサインも承諾も得ることが出来なかった。

教授の同意を得ることが出来なかった私は次の手段に入った。

夫人の元に行き、夫人から教授の判とサインの代筆を得ようと思ったのだ。

教授が午後の講義にむかったあと、私は教授の家に向かった。

ドアを開けると瞳子が私にむしゃぶりついてきた。

「もう一度、お仕事に行きますよ」

帰宅ではないことを告げ、夫人を呼んだ。

「どうなさいました?」

早い時間の来訪を夫人はいぶかしく問い直してきた。

「クリニックに行ってきました。瞳子の治療に催眠療法があると解かって、クリニックから同意書を貰ってきたのですが、教授が同意してくれません」

夫人は私にもぶりつく瞳子を見つめていた。

瞳子の様子が夫人の思いを揺さぶっていた。

「主人が同意しなかったのですよね」

夫人は教授が同意しなかったわけを考えているようだった。

「不安なのだと思います。もしかしたら、もっと悪くなるかもしれないとお考えのようでした。ですが、この療法は表面的には、なんの変化もおきません。そして、最大の目的は瞳子の深層意識に入って発症の根本原因を探すということなのです。根本原因をお母様は夫婦のことを瞳子さんが目撃したことにあるかもしれないとお考えになったようですが、医者の話からすると、なにか、別に原因があるようです。そのあたりのことをはっきりさせないと本当の治療に結びつかないのです」

夫人は瞳子をじっと見つめていた。

「その根本原因を催眠療法で引きだすだけなのです。瞳子は自分が何を話したかさえ覚えていないように暗示をかけますから、この療法がきっかけで悪くなることはありません」

「私たちのことが・・瞳子の発症の原因ではない・・。それとは別になにかあるというのですね?」

夫人はやはり呵責を持っていた。

「確かに・・辛いことを言いますが、要因には、なっていたと思います。ですが、そのことで、瞳子が「このままのほうがよい」と診断されるのはおかしいと思うのですよ。医者はもっと深い原因があると考えているようです」

私は卑怯だと思う。婦人の呵責をついて、同意をもとめている。

夫人にすれば、自分たちのせいだと自分を責める枷をとかれるだろう。

そして、目の前の瞳子の私を頼りきった姿と私が瞳子の回復のために走り回る姿。

「主人はなぜ、同意しなかったのでしょう・・」

夫人は小さな責めをこぼすと、教授の名前を同意書に書き、判を突いてくれた。

私は教授への説得の薄さを省みた。

「私もうまく説明できなかったのですよ。それにとくに教授は「おじさま」と呼ばれたり、最初の頃は恐れられていたのでしょう?そのショックからまだまだ回復できていないと思いますよ。不安で仕方が無いのは、教授も精神的にまいっているせいなのですから」

夫人は静かにうなづいた。それは、また夫人も疲労しているせいなのだが、それでも、教授への理解が薄かったと自分を振り返っているように見えた。

私は瞳子に

「お仕事にいってくるよ」と、告げ、不安げな色をみせた瞳子に「ちゃんと、夕方には帰ってくるから」と夫人のうなづく顔を確認しながら瞳子をなだめた。

外に出ると私は一目散にクリニックにむかった。


大急ぎでクリニックに飛び込んだのは閉院まぎわの様子が見えたからだ。

「同意書をもってきました」

と、受付の女史に渡すと、しばらくお待ちくださいと待合室の椅子をすすめられた。

女史は同意書を診察室にもっていてくれた。

私は椅子に座るとやっとあたりを見渡す余裕が出来てきた。

まだ3人ほど、診察を待っている人間がいた。この人たちの診察が終わるのを待つしかない。今、診察室の中から、薄い水色のハンカチで目頭を押さえながら一人出てきた。入れ替わり名前を呼ばれた50過ぎの婦人が暗い顔で、診察室の中に入っていった。あとふたり。椅子にもたれなおすと、私はあとのふたりを見た。どこか疲れた顔、無表情のまま、一点を擬視しているのは、共通項だ。私もあるいは、同じ顔をしているのかもしれない。こうやって、一人で通院してくるということは、まだ、軽度と言えるのかもしれない。いや、あるいは、患者本人でなく患者の家族かもしれない。私は瞳子を思い浮かべている。不調だとか、苦しいとか、何らかの症状を自覚できるのなら、薬やセラピーなどで簡単に治せるかもしれない。

もちろん、本人にとって、簡単に、は、心外であろうが、まだ、こうやって一人で通院できるなら軽度とおもってしまう「瞳子」の状況が思い浮かび、私は待合室の中でいいようのない孤独につかまってしまった。

唯一、頼りにする女医との接見をあてどに、私は孤独に耐える。

その時間がひどく長く感じた。

待ち続ける間、新たな来院者が来ないことを私はひそかに願っていた。

願いが聞き取られたのか、幸いなことに私が最後の来院者になった。

受付女史がクローズドの小さな札をもち、今日の診察終了を扉にかけ終えると、もう一人残っていた患者(だと思う)が、診察室に消えていった。

いれかわりに出てきた患者たちは処方箋を貰うとクリニックの近くの薬局を指示されていた。

待合室のポスターや卒業した精神医学科から寄贈された白い彫像がやっと私の目に入ってきた。その彫像の横に小さなぶっくすたんどがあり、いくつかのパンフレットや薄い冊子があることに私は始めて気がついた。

冊子を手に取り、表紙を眺めてみた。

鬱病の兆候。PSTDの発症とその要因。などの文字が読み取れ、私はページを開いた。

小さな設問コーナーがあり、鬱病は薬では完治しないと聞きましたが本当ですか?と、問われていた。私は薬で治る病気もあるし、薬だけじゃ治らない病気もあるだろうと、思いながら回答を読み進んでいった。回答は通り一遍のもので、ちょっと調子が良くなってきたと思っても、自分の判断で薬をやめたり、減らしたりすると、ダイエットと同じで薬をやめると却って、リバウンド作用がおきるので必ず医者に相談することと書かれていた。副作用の心配についても薬の仕組みが書かれていた。

鬱病などは、何らかの環境の変化が原因で起こりやすいものだが、環境の改善を図ることが出来ない場合、薬で症状をおさえることができるようで、その薬の作用について、説明されていた。鬱病の発症に付随してくる感情の一つに倦怠感ややる気のなさが挙げられる。

これは、実はドーパミン(作者注・名前うろおぼえでちがったかも)という活力をつかさどるホルモン(じゃなかったかも~~~ごめん~~~)が脳下垂体から分泌されるのであるが、この分泌量が激減するために起きるのだという。

何故、ストレスやアクシデントによりドーパミンが激減してしまうのか、その原因は解明されていないが、治療方法としては解決を得た。ドーパミンを補充してやれば良い。女性が閉経などでホルモンバランスを崩したりした時にホルモン注射をしたり、糖尿病でのインシュリンの補充をしたりするのと同じ考え方なので、副作用の心配は無い。人間の体が水分を取るのと同じように分泌しなくなったものを補充するだけであり、むしろ、分泌しなくなったことの副作用が鬱病などの様相を示す。

確か瞳子は安定剤を処方されていたと聞いた。

安定剤は?

ページをくろうとしたとき、私の名前が呼ばれた。

診察室に入ると、女医は例のテーブルにすわり、私を待ち受けていた。

だが?

この前と違って、女医は私に女医の正面の座席を勧めるためだろう、あえて、先に、向かい正面を陣取っていた。

それが、やけに私に威圧感と緊張感を与えてくる。

この前の時に思ったように、お互いが座る場所によって、座のもつ空気が変わる。

女医がこういう座席の配置を選んだところ、私はこの時、かすかな不安といやな予感を感じていた。

座った私の前に同意書が押し出された。

「これは、瞳子さんの御父さんのサインじゃありませんね」

問診票か?なにかに教授が以前にかいたものとつきあわせたのか?あるいは、夫人がなにか、書いたものとつきあわせたのか、よくわからないが女医は判までついてある同意書のサインが教授のものか、どうか、確認をしたということになる。

なんのためにそこまで、確認するのか、一瞬、疑問が掠めた。だが、女医の質問に答えるほうが先立った。

「ええ。確かに教授、いや、父親のサインじゃありません。これは、教授が忙しくて手が離せなかったので、夫人に代筆するように、手配してくれたものです。ですから、判もちゃんと・・」

押してあるでしょうと、説明する私に女医は首を振った。

「だめなんですよ。家族の了承とはいうものの、一家の長という考え方がまかり通るのですよ。とくに篠崎さんの場合、ご主人が生計を立ててらっしゃる。この方が本当に同意したという証拠として本人の直筆が必要なのです」

私の勘が妙だと反応していた。

「ちょっと、待ってください。事前の説明では家族の同意ということで、サインをもらえればよいということだったじゃないですか。教授が手がはなせなくて、家族である夫人に代筆を頼んだものが認められないというのなら、何故、はじめに家長自らのサインが必要だとおっしゃってくれなかったのですか?貴女は・・・まるで、」

私の中に沸いてきた思いは「この女医は、ぬらりくらりと逃げている」と、いうものだった。だが、事実、教授の同意を得てない私は自分が作った方便が見破られないようしなければいけない。教授の直筆が必要であるなら、取り直してきます。そういう言い方が通常だろう。教授の同意を得ていないのに夫人に代筆させたというのは、女医の理論にかかると詐欺行為にさえなってしまう。

ところが、女医は私の言葉を聞き流さなかった。

「貴女?はなんでしょう?」

私は腹をわるしかないと思った。

「貴女ははじめから、そうだった。どうしても、治療しようとしない。やっと、催眠療法をという段になっても、、なにか、なんくせをつけて、断ろうとしているように見える」

女医はかすかに笑った。それは、ダダをこねる子供にむけるものに相通じていた。

「貴方の行為は医者に対する詐欺行為ですよ」

思ったとおりのことを女医が言い出してきた。

「医は仁術ともいいますよね。家族の意志が同意しているという明らかな証拠があるのに、なぜ、紙切れ一枚にこだわるのですか?あれほど家族のサポートや環境と家族の意思を重要視する貴女が、歴然とした証拠をまえに、拒否してくるのですか?私には解からない。それとも、貴女に治療技術がなくて、出来ないからそんなことを言い訳ににげているのですか?」

大きく息を吸いなおした女医の肩がすとんと落ちた。

「それならば、そうだとはっきり言ってください。そして、きちんと対処できるほかの医者を・・」

この女医が本当に技術がないのなら、この女医に紹介された医者だってあてになるわけがない。と、私は言葉をとめた。だが、他の医者・・これはこの前もそうだったが、他の医者という言葉をだすと、とたんに女医の態度が変わり始める。それは、他の医者にいかせないための女医が対応をかえてくるように思える。他の医者にいかせたくもなく、治療ものらりくらりと逃げる。やはり、女医は「このままでよい」を通そうとしているように思える。

「このままでよい」を通そうとしているのは、女医だけじゃない。教授も消極的で、なにかしら、積極的な治療を避けたがる。私の頭の中に夫人の一言が一瞬、浮かび上がった。

『どうして、同意してくれなかったのか』

「そうじゃないんですよ。篠崎さんが・・」

女医の言葉に私は我にかえった。

「教授が・・?」

女医は黙った。胸の奥に秘めていることをはなそうか話すまいか迷っているようにも見えた。

「篠崎さんが同意しないとおもったんですよ」

「え?」

同意しないだろうと思っていながら、同意書を出した。

いや?

逆か?

同意しないから、あえて、同意書を渡した?

ところが、案に相違して、教授の了承の証拠となるものが目の前に提示された。

同意しないはずの教授が同意している。女医は同意を突き崩す論理を考えた。

こういうことだろうか?

だが?

何故?

何故、そこまでして、治療を避けるのか?

いや、それ以前・・・・。

『何故・・同意してくれなかったのでしょう』

再び私の頭の中に夫人の言葉が瞬いた。

夫人でさえ、疑問に思うことだ。

で、あるのに、女医は逆に教授が「同意しない」と踏んでいた。

じっさい、女医の言うとおり、教授は同意していない。

だが、これは結果論だ。

女医はすでに予測していた。いや、むしろ、判断に近い。

何故、教授が同意しないと判断したのか?
考え込んでしまった私に女医は、何故、教授が同意しないと思ったか説明し始めた。

「じつは・・・、私が瞳子さんの診察にあたったのは、柚木先生からの依頼だったのです」

「柚木先生?」

「ええ、大学記念病院の精神内科の室長です」

聞き始めの名前とそれが何故急に女医の口から飛び出てきたのか解からず、私は戸惑った。

「篠崎さんは、柚木先生に女医を当たってくれと頼んだのでしょう」

なるほど。女医の言う意味は解かった。だが、それと教授が同意しないことがどうつながるのだろう。女医はわざと沈黙を守り、私がなにかを思いつくのを待っているようだった。

女医の思惑を受けて立つかのように私は考えてみた。

『つまり、教授と柚木先生の間には信頼関係があり、本来ならば、教授は柚木先生に瞳子を診てもらいたかった。だが、瞳子の様子で女医を紹介してもらうしかなかった。その女医にこのままのほうがよいといわれたら、教授は柚木先生に相談する・・・。いや、おそらく、瞳子の事件を、いくら、信頼関係があるといっても、教授は話したがらないのじゃないか?そういう相談相手がいて、教授も私にそのことを言わない・・?』

私はあらたな疑問に突き当たってしまった。

「教授の口から柚木先生のことなど一言もなかったのですが・・」

女医は私の解明作業にヒントを与えてきた。なぜ、こんなまわりくどいことをするのか?

女医が説明すればよいことを女医は私が自分で気がつくように仕向けているとしか思えない。それは・・・。

私はこの時点でまた、あらたな疑問を感じた。そして、今までの女医のすべての態度が女医からの宣告でなく、私の意志で気がついていくようにしむけているように思えてきた。

「柚木先生は、精神内科の先生ですよ」

そうだ。そう聞かされた。解かっていることを念押ししてくる女医の態度に私は、やはり、何らかの答えを自分から引き出せというメッセージを感じていた。それは、女医の口から言えないことだから?瞳子に感じた「大きな傷」もそういうことか?それは、たとえ、今、目前の答えを引き出しても、瞳子の「大きな傷」も同じように、自分で引き出して欲しいという意味をかねているのか?

「精神内科医・・・」

女医が話せない・・・。

「精神内科医・・・」

女医が話せないことがあるとすれば、患者のプライベート部分だ・・・

「あ?もしかして・・・」

私の頭を掠めたことを口に出してみた。

「教授は・・柚木先生の患者だったということですか?」

それならば、教授が柚木先生を信頼し、女医を紹介してもらう立場になりえるかもしれない。

女医はやっと口を開いた。

「私に疑問系で尋ねないでください。お答えできないんですよ」

ああ、やはり、そういうことなのか。私は質問の矛先をかえ、女医が答えられるものを選びなおした。

「それでは、教授が柚木先生の患者だったことを、何故、貴女が知ってらっしゃるんですか?

柚木先生から聞かされたということですか?教授が話したということですか?」

女医はこの時くすりと笑った。

「貴方は本当に頭の良い方だわ。もう一度、尋ねますけど本当に心理学とか?勉強されたわけじゃないんですよね?」

どうやら、私の質問は女医の答えやすいところにヒットしたようだった。

「ええ、やっていませんよ」

「でしたよね。私が何故、篠崎さんが柚木先生の患者であったことを知っているかというのは、私がこのクリニックを開局する前まで、柚木先生の下で働いていて、篠崎さんが通院してくるのを見ていたからです。篠崎さんは私のことは覚えていないようでしたが・・」

何百人となくいるだろう患者の中から直接、診察したわけでもない教授を見かけただけで覚えている?それは、教授が何度も通院していたということになるのではないだろうか?

「それは・・いつごろの話なんでしょうか?」

学生時代から大学院を経て・・教授とのつきあいは、かれこれ、10年近い。過去、私が知る限り、教授が精神科に通わなければいけないような教授の不調を眼にした覚えが無い。

「15、6年前になりますね」

女医の唇の端がかすかに震えていた。

なにか、重大なことを何気ない顔ではなして、なんでもないことのふりをつくろったのに、唇がこわばる。そんな風に見えた。だから、私はいっそう、15、6年前に着目してしまった。もしも、女医の唇が震えなかったら、私は気がつかなかったことだろう。

15、6年前といえば、瞳子が夫婦のことを目撃した頃と一致する。

そして、瞳子の「基になる傷」は、女医の言い方では目撃のせいとは考えにくい。

だが、瞳子の話にどこまでの信頼性があるか、わからないが、白い蟲が父親からでてくるのをみた。と、言う。

そして、それを食べなきゃいけない・・・?

私の頭の中に教授宅で開いた精神病の事例の数々がめぐりだしてきた。

瞳子の症状と一番よく似ていたのは、性的虐待の後遺症だ。

私は自分の固定観念を外して、その事例と瞳子のせりふと女医の言葉を照らし合わせてみた。

仲の良い親子。良識的で、娘思いの父親という目の前に映る姿しか知らない。

だが、15,6年前・・何らかの精神病を患っていたという教授の精神構造はどうだったろうか?

いや?

あるいは・・・。

教授はひょっとすると、性的虐待を瞳子に与え・・そのことで、逆に精神病になった?あるいは、精神病のため、判断がおかしくなり、瞳子を虐待した?

瞳子がものごころつくころだったのではないのだろうか?

瞳子はレイプ事件のせいで・・幼い頃のことを思い出した。

父親が自分にしていたことがどういうことか、理解した瞳子は・・・狂わざるを得ない。

一挙に流れ込んできた仮定があっているか、どうかより、そんな仮定をする自分でありたくないと思うほうが先だった。

私は馬鹿なことをと、自嘲しながら、女医を見つめ返した。

だが、馬鹿げた仮定でしかないと思いながら、女医に尋ねたことは教授の病名だった。

そういう虐待などということを行う病気がありえるのか?

病気のせいで、そういう精神構造になりえるのか、私は、そこを確かめようとしていたにちがいない。

それは、おそらく、そんなことはありえないと仮定をはっきり否定したかっただけだったと思う。

ー私の頭は狂っている。そうだ。間違いない。これは、音叉現象だ。ー

私は女医に教授がわずらった精神病を尋ねようとしながら、私の中のもう一人が尋ねる必要性を否定していた。

ーそんなことはありえない。おまえは妄想にとり憑かれているんだ。女医が何かを気づかせようとしていると思いこんだから、変なことを考え出したんだ。それに、今だって見ろ。おまえ、おかしいじゃないか?俺は誰だ?おまえの別人格だろ?おまえは気がつかぬうちに音叉現象にやられて、俺を浮上させてるんだー

自分を客観視しようとするために、時に自分を対象に会話することはありえる。

私は一瞬自分が狂った錯覚に陥っていた。

だが・・・。

教授の病名をきかなくても、性的虐待があったと考えれば、女医の言ったことがすべて、つじつまがあってくる。(貴方が聞くに辛い)。(二次的に周りの人間までだめにする)(瞳子さんが覚醒したら、廃人になる可能性がある)。確かにその通りだ。

私も今まさに混乱している。(私にも危険)その通りだ。(瞳子さんが親をうとむ)そうなるだろう。(貴方も夫婦(教授)を憎む)ああ、ああ、そうだ。その通りだ。だが、もっと悲惨なのは、教授であり、夫人だ。こんなことが事実なら、確かに夫婦の仲どころか、夫人がそれを知ったら、夫人のほうがおかしくなってしまう。教授は娘が狂い・・妻が狂い・・正常でいられるだろうか?

いや・・。待て。

やはり、そんなことはありえない。そんなことがあって、自分のせいで、瞳子が狂ったのだとしたら、教授が平常でいられるわけがない。もっと・・もがきくるしむんじゃないか?

いや・・。

違う・・そうじゃない。

私の中に渦巻いてくるのは多くの事件のニュースだ。

違う・・違う。

殺人を侵して、逃亡した人間。ばれないように、つかまらないように、とりつくろっていた。

違う!!

だからじゃないか?だから、教授が同意書にサインしなかった。女医はそれがわかっていた。教授のしたこと、瞳子の基の傷がなにか、白日にさらしたら、自分の口からいったら、瞳子を覚醒させたら・・周りすべてがむちゃくちゃになる。確かに「このままのほうが良い」そういうしかなかったんだ。

違う・・・・。違う・・・・。

私は今、白日夢を見ているんだ。これは夢だ。

「大丈夫ですか?」

女医の声で私は夢から覚めた。一瞬、私の意識が遠のいて、わずかな時間気絶していたのだろう。

「夢・・・じゃないんですよね?」

目の前に女医がいる。瞳子の事件も瞳子の発症も・・なにもかも、現実なのだ・・・。

私は一瞬、発狂しかけたのだろう。だが、私の深層意識が私に勝った。このまま、私がくるってしまったら瞳子はどうなる?その思いが私を現実に引き返す強さを与えてくれていた。

「藤原さん・・・。貴女・・辛かったんですね」

私は女医を名前ではじめて呼んだ。私の仮定があっていれば、女医は、どんなにか、つらかったろう・・。事実を告げて、瞳子をひっぱりあげていきたくても、それをしたら、みんな狂う。教授だって、あるいは、ごまかすのに必死だったろうが、なにもかもがさらけ出されたら、教授だって自殺しかねない。夫人だってそうだ。そして、何も知らずのこのこやってきた私は時分まで女医に守られているとは気がつかなかった。瞳子をなんとか救い出してやりたいと思っていたのはこの女医だったんだ。私が唯一、なにもかもを知って、瞳子を救い出せる人間だった。だが、「基の傷」を私に話したら、どうなるか。私が怒りと悲しみで教授を刺し殺す、そんな逆上だってありえると考えただろう。だから、私になにもかも話して瞳子を救い出せるなら、そうしたいと思った反面、それをしちゃいけないと考えたはずだ。だが、私は食い下がっていった。そのあたりから、女医は私に一縷の望みをたくし始めたに違いない。「強い精神力をお持ちですね」女医の言葉がよみがえってくる。自分で真相にきがつかず、女医から事実を告げられていたら、私はパニックをおこして、パニック状態から戻ってこれなくなっていたかもしれない。「精神病の治療は本人が精神病であることの自覚がないと、治りにくい」と、言った言葉にも真理が隠されている。自分からの気づきでなければ、自分自身が受け止められない。そういうことだったんだ。

私がかけた言葉は、まだ、それでも、教授の真偽を量るためのものではあった。あくまでも、それは、女医が初めての往診でみぬいた「基の傷」でしかない。本当にそうなのか、どうかは、瞳子の催眠療法でしか確かめられないだろう。だが、女医は私の言葉をきいて、私が女医の見抜いたと思う「基の傷」にきがついたと解かったのだろう。

「貴方・・・」

女医の瞳から突然、大きなしずくがあふれてきていた。

「貴方・・自分がつらいのに、私のことまで・・・」

女医は手で顔を覆い涙のままあふれさすを許した。

「大丈夫ですよ。私は貴女のおっしゃるとおり強い人間ですから。なにもかも、任せてください。瞳子の催眠療法・・・やってくださいますね」

覆った手を外し、口元にまで伝った涙をぬぐいながら、女医は、今度こそはっきりと、承諾を見せた。

縛り付けていた棘がとかれると、女医は本当のことを自分から話し始めた。

「貴方がおっしゃっていたように、「基の傷」が、なんであるかは、催眠療法でひきだしてこないと本当のことは解からないのです。ただ、私は往診にいった時に、瞳子さんの様子から、これは、虐待が弾きがねになってると感じたのです。それは、私がこの20年精神科にかかわって、色んな事例をみてきた医者の勘でしかなかったのですが、篠崎さんの顔をみて、通院の事実とか思い出して、いっそう「ありえること」だと、思えたのです。うかつに治療すれば、瞳子さんが廃人になりかねない。覚醒していく段階で、フラッシュバックや人格分裂や興奮で、瞳子さんが何をしゃべりだすか、わからない。それにより、事実を知ったお母様がショックで気が狂ったり、自殺。篠崎さんもどうなるか。瞳子さんをそのままの状態であの家においておくことも、いつ爆発するかわからない爆弾を置き去りにしておくのに似た不安にかられましたが、とにかく、刺激しないでおくしかなかったのです。なにか手立てがないかさぐるため、まず、私は柚木先生に篠崎さんのかっての病状を尋ねることにしたのです」

私は一瞬の混乱の前に女医に教授の病名を尋ねていたことを思い出した。本来なら患者のプライベートをしゃべるはずがない女医が答えるわけも無かったのに、女医は、教授の症状を話そうとしていた。それは、やはり、私が虐待に気がつきながら、女医が心配するような激情や興奮やパニックにおちいることがないとわかって、やっと、なにもかもを話しても大丈夫な私を確認したからだろう。

「篠崎さんは宮城の出身なのですが、父親を早いうちに亡くして、ずいぶん苦労なさって教授にまで昇格された型です。ところが、今では考えられないことですが、まだまだ、片親だとか、田舎出身とかをネタにされて、前任の教授グループから、何かといびられて、ずいぶん辛酸を舐めさせられていたのです。そして、それが、大事な研究発表の頃と重なり、篠崎さんは孤立無援の状態に陥っていたそうです。そこから、鬱病を発症していたのですが・・・。柚木先生はその鬱病にアンダーチルドレン特有の怒りっぽさ、今でいう「キレル」ですよね。それが現れてきていたというのです。その怒りの時に柚木先生はもうひとつ別のことに気がついたと仰っていました。アスペルガー症候群という、自閉症の一種をご存知でしょうか?」

「いえ?自閉症は聞いたことがありますが・・・」

「アスペルガー症候群というのは、知的障害を伴わないことが多く、幼い頃に周りの人間との心理的、愛情接触の不足から、人の思いをうまく汲み取ることが出来ないこともあります」

教授が片親をなくし、母親が幼い教授をかなり小さな時に保育所に預けたと聞かされたことを私は思い出していた。そのときに心理的、愛情接触の不足がおきたのだろう。だが、教授が人の思いを汲み取ることが出来ないとは思えなかった。

「アスペルガー症候群の症例によると、ほとんど通常の成人とかわらない生活をおくれる上に、自閉症の患者でものすごい数を記憶したり、特異な才能を持つ人がいますよね。これと同じように、自分の興味のあること、熱意をもてることには、常人よりはるかにすばらしい功績を残すことが多いのです。ですから、気をつけてみていないと秀でた人の裏に症状が隠れて見えなくなるのですが、このアスペルガー症候群にありがちな症状は人の思いをくみとる能力が薄いということなのです。通常の生活ではさほど、目立たない状態ですが、精神的に耐久力がなくなったときなど、余裕が無くなって、人の思いをくみとりにくいという症状が裏目に出てしまうのです。人の思いを汲み取らないということは逆を言えば、言われた言葉額面どおりに受け取ってしまうという状況につながります。人の思いを汲み取ることが出来れば、たとえば、教授が「田舎者がふてぶてしい」と言われても、たとえば「ははあ、この人は私をねたんでるな。自分の研究が思わしくなくて、私のことが癇に障るんだな」とか、そんな風に人の思いを見つめることが出来るのですがアスペルガー症候群の場合、その言葉を額面どおりに受け取ってしまうのです。そして、教授はアンダーチルドレンという症状ももっていて、「ふてぶてしい。目障りだ」など、言われた言葉を額面どおりに受け取り、ふてぶてしい、目障りな自分に切れてしまうか。鬱病のほうでうけとるともっとおちこんで、自殺までしかねないほど、自分を責めてしまうんです。ですが、逆を言えば、責任感の強い人ですからそのおかげで、研究発表を成功させなくてはいけないと柚木先生の治療を受けにいったのだと思います」

「篠崎さんが通院していた頃、瞳子さんは、5.6歳ですよね?篠崎さんは、孤立無援の孤独な状態で、そこに、瞳子さんが父親をしたってくるわけです。鬱病になるほどの外因性ストレスが嵩じて来ると、物事の判断が鈍ってくる。この状態で、瞳子さんの感情が娘としてのものか、女性のものか、解からなくなって混乱してくるのです。そのうえ、自分の存在価値が希薄になってますから、瞳子さんの好意が篠崎の唯一の心のよりどころになってしまって・・・。篠崎さんの思いはけして、虐待なんかじゃなかったのでしょう。どこにも、逃げ場がなく、慕ってくる瞳子さんにすがってしまった・・・こういうことじゃないのかと思うんですよ。いいかえれば、瞳子さんの「御父さん大好き」が、アスペルガー症候群にも披瀝してしまったんだと思います。そのまま、言葉どおり受け止めて、瞳子さんを恋人かなにかのように勘違い・・いえ、むしろ、娘として認識する、あって当たり前のはずの判断力が欠損していたか、ゆがんでしまっていたのでしょう」

私は女医の推量を黙って聞いていたが、今の瞳子がみせているのと同じ、判断力の低下、人を認識できなくなっている部分が酷く気になった。

「精神病は遺伝するものなのですか?」

食中毒で腹をこわしたという話はよく聞くが、同じものを同じ量食べても、体力の違いとか、抵抗力の違いなのか、酷い症状を引き起こす人もいれば、けろりとしている人もいる。

それと同じように、たとえば、瞳子と同じような目にあっていながら、外因性ショックだけで、乗り越えてしまう人もいれば、廃人になるほどの症状を露呈する場合もあろう。

結局、瞳子があそこまで狂ってしまったのも、一つには遺伝による精神体質があったからなのかもしれないと、私は教授を責めたくなる気持ちを抑えるために、病気になってしまったんだからしょうがない。親が盲腸になった人はやはり子供も盲腸になりやすい。と、自分の怒りの矛先に鞘をはめたかった。

「いえ。精神病自体は遺伝しません。ただ、精神病になりやすい環境たとえば、、物事の受け止め方考え方というのはやはり、親子の場合よく似てきますよね。だから、同じような症状を見せてくることはありえます」

と、いうことは、当時の教授は今の瞳子とよく似た症状だった可能性も大きいということになる。瞳子の認識異常・・・を考えると、当時の教授が瞳子に対しての認識に異常をきたしていたのは、ああいう状態なのかもしれないとおぼろげに理解が出来た。

私はまだ、確定したわけでない教授の虐待ではあるが、それを、どうにか、許すために、教授の症状への理解を欲しがっている。教授が異常性欲者でしかないのなら、あまりにも瞳子が哀れすぎる。悲惨な状況下の精神の弱さを攻められはしない。伝染病が流行って体力が無いものが罹患したといって、どこの誰が、罹患した人間を責められるだろうか?ましてや、教授はかなり、追い詰められた状態だったのだから、へたをしたら、教授は発作的に自殺したかもしれない。そう、考えれば、瞳子が父親を救ったのだ。父親を死の淵から引き離した瞳子はほめられこそすれ、何故、レイプされ、そのうえ、気が狂うような、そんな目にあわなきゃならない?

幸せになる権利を人並み以上にもっている、瞳子をなんで、そんな目に合わさなきゃならない。

私は神をものろいたくなる自分を抑えた。

のろったら・・のろったら、穴二つ。神を呪うは、それは、また、教授を呪うのと同意だ。

人をのろうようなそんな恐ろしい思いに負けたら、私は人で無くなる。

人でないものが、人など救い出せはしない。

なにもかも許し、受け止めてみせる。

それができて、初めて私が瞳子を救える。

瞳子にいえる。

許してやれ。受け止めろ。

出来るはずだ。私が出来るのだから。

私じゃなければ瞳子を救えないのだから。

許してやれ。受け止めきってしまえ。

私がまず、やらなきゃ、瞳子の倣いが成り立たなくなる。

女医の見解はまだあった。

「柚木先生の治療によって、篠崎さんは、自分がしでかしていることが、たいへんなことだときがつくまで、回復していったのだと思います。柚木先生の口からは、篠崎さんが虐待をおこなった事実は聞かされてはいません。篠崎さんも話すに話せなかったのだと思いますが、これが、逆にPSTDを発症させていると考えられるのです。何らかの事件の被害者や目撃者ばかりが、PSTDになるとは、限らないのです。精神錯乱によって、自分で加害者になったということは、、また精神錯乱の、被害者でもあるのです。自分の行動にきがついた時、柚木先生に話していれば、あるいは、瞳子さんのトラウマを奥底に隠させず、篠崎さんとともに、治療できたのかもしれません。ですが・・・」

女医は悔し気に口元を固く、結んだ。

結んだ口が開かれると、悔しみがこぼれてきた。

「PSTDの後遺症を、極端に大きく分けると、時計の振り子のように極端に左右にわかれた現象がおきます。片一方はフラッシュバック。望まないのに、忘れてしまいたいのに、事件がよみがえってくるというもの。もう片一方は逆に事件のことや事件にかかわることを隔離する現象です。事件のことが、記憶からすっぱりきえさってしまい空白状態になって記憶から逸脱しているのに、なにか、事件にかかわることがあると、それを遠ざけようとするのです。

篠崎さんが同意書を断るだろうと推測したのは、後者の状況に篠崎さんがいると思ったからで、それゆえ、いっそう、虐待があったと考えられるのです。

そして、そのことを貴方に告げたらどうなるか・・。

でも、貴方に伝えられた瞳子さんのようすからも、今の環境からも考えても、瞳子さんを救い出せる人は貴方しかいない。

私は貴方の考え方や対応や精神力をうかがいながら、気がつかせてよいものか、知らないままの方が良いものか、迷いながら、私は貴方をも、狂わせるかもしれない賭けをしたのです。

人道的に私が間違っているのは、間違いが無いのです。

元々をいえば、古株の教授連の心無いいじめや嫌がらせのせいでしょう。

篠崎さんを弱いというのなら、自分に負けて心無い言葉をかけた教授連こそ、もっと、弱い。

なぜ、そうやって、人の心を破壊する行為を、

何故、知恵を授かった人間がおこなわなきゃいけないのか・・・。

それさえ、無ければ、私も人間として間違えた選択をせずにすんだ。ただ、ただ、私は貴方の強靭な精神力に手を合わせます。そして、そのおかげで、狂った貴方を目の前にせずに、私が懺悔できているということにも。貴方は瞳子さんを救うまえに、この私を救ってくださっている。だからこそ、すべてをお話して、貴方と瞳子さんのサポートに尽力します」
私は時計を確かめた。

教授が午後の講義が終える時間までに資料室に戻りたかった。

時計の針は猶予を許さない角度を見せていた。

「もう少し、詳しい事をおききしたいのですが・・時間が有りません」

女医は私の言葉にうなづくとひとつづりの資料を差し出してきた。

受け取る私の目に「境界例の症状とその周辺」という文字が見えた。

境界例?

それはおそらく、境界異常の様々な例だろうと、思った。

だが、副題に添えられた小見出し「神経症と精神病の境界領域にある症状」で、

そうではないと理解した。

境界例・・・。教授が鬱病とアンダーチルドレンとアスペルガー症候群・・他?の病状の隣接する境目・・境界線上で複雑な症状を呈したと考え付いた私は、教授の行動を理解し許す手引書に感じた。

だが、実際は、この後の、催眠療法で引き出される「基の傷」を知る事でおこる、私の崩壊を防ぐための、一種、認知行動療法だった。

通常、PSTDなどからの回復をはかるとき、薬物療法や催眠療法や認知行動療法が行われる。

神戸地震で、PSTDになった子供に地震のときの作文や絵をかかせるという対処がニュースになっていたが、これも、認知行動療法だと思う。解離性症状やフラッシュバックは、地震そのものに対して「慣れ」ができないためにも起きる。いつまでたっても、恐ろしいからぬけきれない「地震」そのものに対する抵抗力をつけていく。

そのためにあえて、自分の中の地震そのものを認知し、外に押し出していくと共に「慣れ」、「抵抗力」を育てる、あるいは、取り戻す。

こういう仕組みなのだと思うが、通常、事後に施される「認知行動療法」を、私は、事前に施された。

あらかじめ、私の中に軽度のショックを与え、それに対する「抗体」が作らそうと女医が配慮したともしらず、私は資料をうけとると、大学構内に戻った。

大学構内、教授の研究室もかねる資料室に戻ると私はなにくわぬ顔で自分の机に座り、

調べかけの資料の続きに目をおとした。

そのすぐ直後、教授が午後の講義から戻ってきた。

ドアがバタンと音をたて、教授が私のそばに近寄ってきた。

「帰るかね?」

「そうですね。ちょうどきりがよいところですし・・」

さも、今の今まで資料に没頭していた態をつくろい、私は教授の顔をそっとうかがってみた。

何も気がついていない教授をみつめると、私はやはり、女医の元で推察した性的虐待をおこなった教授だとは、どうしても、思えなかった。

アスペルゲンガーと思われるものだって、今まで私は感じたことがないし、今も判らない。

アンダーチルドレン特有の怒りっぽさというものも、見たことがない。教授はいつも、穏やかで声を荒げる事さえない。

鬱病という症状においてか、もしくは極限状態に立った時だけ、顕著に現れるものなのかもしれない。

そうなのかもしれない。15、6年前の怒りがちな教授を知っているのは瞳子と夫人と柚木先生だけなのかもしれない。

そして、あるいは、キレル教授を恐れて、瞳子は虐待の事実を口に出さなくなったのかもしれない。同時に、怒りまくり父親であることも、記憶の中に封じ込めてしまったのかもしれない。

教授はPSTDの後遺症で、虐待にかかわる記憶を封じ込め、虐待の事実を思い起こされるものを除外しようとする。

『あ・・・』

私の見解を肯定するかのように、あの時の教授の表情が蘇ってきた。

それは、「お父様は恐ろしい人よ」と、瞳子が私に告げたときの教授の顔だった。

私はそれを、おじ様と呼ばれ、恐ろしいといわれた事に対する教授の衝撃だと思っていた。

だが、それも、虐待の事実にふれることに、他ならず、教授はパニックを起こしたに過ぎない。

そして、恐らく、まともに話しをきこうともせず、自分の中にとじこもり、事実と対峙することを避けた。

・・・。

哀れという言葉は不遜かもしれない。だが、教授という一個の人格がかくももろい綱渡りの上に成り立っている。

「帰りましょう」

私は女医から貰った資料を鞄に詰め込むと椅子をたった。

教授とともに、教授宅に戻ると、昨日とうってかわって、

瞳子がすがってくる相手が私に代わっていた。

「おかえり。おかえり」

嬉しくてたまらない繰り返しを聞きながら、私はそっと瞳子の頭をなでた。

「うん・・」

じわりと瞳子の目の端に涙がにじむ。

それは、昨日の帰宅時、瞳子の教授への行動がどういう意味合いをもつものか、私に悟らせた。

瞳子は父親を恐れている。恐れているからこそ、気に触るような行動や恐れている事が教授にばれてしまう行動をひかえ、教授に取り入る唯一の方法を処すしかなかったのだ。

私という庇護者が現れ、瞳子は「父親が恐ろしい」と、いう思いを表明した。

それは、私なら、守ってくれると感じ取ったせいだろう。

だが、その一方で、教授に対する敵意をむき出しにしたに等しい行為は瞳子をいっそう不安におとしいれ、教授への恐怖が募る。それで、瞳子は私の部屋ににげてきたのだ。そして、教授と私が共に帰ってくれば当然、教授をさけるためにも、安全地帯にはいりこむ。

教授へ取り入る必要がなくなった瞳子は、教授の存在を排除し、前と逆転した状態を露呈し、教授は瞳子から言葉ひとつ、かけられなかった。

「ふむ・・」

私を頼りきっている姿に、瞳子を託せる安心感をもちながら、教授にため息が交じる。

「すみません・・」

謝る私に教授があわてて、夫人を呼んだ。

「初子・・」

夫人は台所から、手をふきあげながら出てきた。

「ごめんなさい。ちょっと、手をはなせなくて・・」

教授の鞄を受け取ると、そっと、私に合図した。

それは、大丈夫。同意書の事も何もかも、主人には判らないようにするからというものだった。

「うん。今日はなにかね?いいにおいがするぞ」

心持浮き立って見えるのは、教授が同意書の事をなにもふれさせないために、明るく振舞ったのかもしれない。

夕食をおえると、風呂。夫人は気をきかせ、私のために新しい下着と肌着とパジャマまでそろえていてくれていた。

教授が風呂にはいった隙を見計らい、私は夫人に催眠療法の承諾を得られたと告げた。

「教授には黙っていてください。クリニックは通常の定期健診ということで、私が瞳子をつれていきます」

「ええ。心得てます。それでも、瞳子は外にでるでしょうか?今日も留守番をたのんで、買い物にいってきたのですが、何度さそっても、外にでようとしない・・」

対人恐怖症・・は、当然あるだろう。外にでるのは、家の中にいるより恐ろしい。

教授への恐怖は、父親で無い人という観念で、事実と向き合うことを避け、外よりは安全で、生活の基盤のある家に居るしかなくなった瞳子は夕方だけ帰ってくる教授をうまくやり過ごす。

そんなにまでして、この家にしがみつくしかない瞳子であったのに、私が帰りかけたとき、自分も一緒に行くとダダをこねた。

瞳子はこの家からでたい。それが、本当だろう。

だからかもしれない。だから、この家から連れ出してくれる、大義名分が通る方法は、唯一、結婚。その結婚相手である「YOSHIHARU」の名を呼んだ瞳子は「ここからつれだしてほしい」と、意思表示したのかもしれない。その願いをかなえてもらうためには、私のご機嫌を取り結ばなきゃいけない。瞳子の思考回路は、教授に対する態度と同じ選択を廻らす。

そう考えて間違いないんじゃないだろうか?

そして、そんな瞳子に私は結婚を申し込み、そんな事はお嫁さんになってくれてから、と、瞳子を宥めた。それが、結果的に良かった。

瞳子は媚びた態度をとらなくても、結婚、すなわち、家を出れると理解し、私への信頼と安心感を深くした。

それが、さっきの態度に如実に表れている。

「大丈夫です。一緒に帰るといったくらいですから、私とだったら、多分、外に出ます」

夫人はすこし、考え込んでいたが、相変わらず、ぺたりと私に張り付いている瞳子にたずねた。

「瞳子、お医者さん・・義治さんといっしょにいく?」

瞳子は丸い目になった。

「え?私・・病気じゃないよ。それに、注射きらいよ」

私はすかさず口ぞえした。

「健康診断だよ。体重はかって、身長はかって、視力検査・・えっと・・」

どうやら、医者に恐れをなして、さっそく、子供の瞳子にもぐりこんでしまったようだった。

幼い瞳子に視力検査は判らないかと言葉をとめて、どう言おうかと迷っていたら瞳子が笑い出した。

「知ってる。おたまみたいなの、目にあてるのよね」

おたまがおかしいと瞳子は笑った。

「うん。そうだよ。私と一緒に行く?」

「うん」

私と一緒・・それだけで瞳子がうなづく。夫人はいっぱい涙をためた瞳をあわてて手の甲で拭っていた。

「ごめんなさい。この子が笑うの・・あれから・・はじめて・・」

「ええ」

私は夫人の気持ちが手に取るように判った。

笑いさえ忘れていた瞳子が退行現象の中でといえども笑った。

およその感情すべて、おきざりにして、淀んだ沼の中から、河童のように、水面に顔だけだして、おどおどと辺りを伺う。

そんな瞳子が笑い声を立てた。

治る、治る、きっと、治る。この人に任せて間違い無い。

夫人の思いに微かな希望がさしこんだせいか、心持ち、夫人の瞳が明るく見えた。
教授の手前を考慮するのだろうか?

一旦は、自分の部屋にはいって、小一時間もすると、瞳子は枕をもって、やってきた。

「どうぞ」

と、部屋にいれると、この前のような「YOGHIHARU」は、無かった。

その代わり、当たり前のように自分の枕を私の枕の隣にならばせ、ちゃっかり、布団の中にもぐりこんだ。

「おはなししよう」

あるいは、私に取り入る方法が「お話し」だと思ったのかもしれない。

もしかしたら、瞳子は私にあるべき姿の父親を求めているのかもしれない。

虐待でなく、楽しい語らいという崩れてしまった父親の姿を取り戻したかったのかもしれない。

「そうですね。じゃあ、瞳子さん。今度、私とお医者さんにいきましょうね」

「え?」

今度は素直な返事が返ってこなかった。

「注射・・するんでしょ?」

恐がりな瞳子の不安。だけど、私はホッとしていた。今、少なくとも、瞳子の感情が先にでた。

庇護されている状況を持続しないといけないとばかりに「うん」と闇雲に答えるだけでなく、私には、自分の感情もいえる。そんな瞳子に見えた。

「大丈夫ですよ。注射なんかしません。痛い思いなんかさせませんよ」

「うん・・」

また、瞳子の涙がわいてきた。

痛い思い、恐い思い、いやな思い、そんなマイナスの思いをかけさせはしない。

この言葉が瞳子の心の奥底に響くのだろう。

レイプも、虐待も、失ってしまった父親の姿も、みんな、痛い傷を残している。

だけど、もう、この先、そんな思いを味わう事はない。

安心の芽がのびたち、瞳子ははやくも、軽い寝息をかき始めていた。

私は枕元においた、鞄の中から女医に渡された資料を取り出した。
ページをひらくと、そこに目を落とす。

性的虐待の仕組みと経過。

その目次が一番目についた。

読み進む私は、怒りで我を忘れそうになる。瞳子の様子に一番あてはまると思えたのが、以下の部分だった。

「家族」という閉ざされた扉の奥で、このような虐待行為が行なわれているのです。しかし、それでも、子どもたちは生きていかなければならないのです。どんなにひどい家族であっても、子どもたちはそこで生きていかなければならないのです。その環境の中で、なんとかして生きて行く方法を考えなければならないのです。

 そして、その生きて行くための方法のひとつが、「心を凍らせる」ということです。心が何も感じなくなってしまえば、もう苦しむこともないのです。たとえば、手術のときに麻酔をかけて、痛みの感覚を麻痺させてしまうように、子どもは、自分の心を凍らせて、感情を麻痺させてしまうのです。そうすれば、心をズタズタに切り裂かれたとしても、もう何も感じなくなってしまうのです。なにも感じなくなってしまえば、虐待にも堪えることが出来るのです。そして、卑劣な親から強姦されるという、こういう忌まわしい出来事は、すべて忘れてしまえばいいのです。心を凍らせて、何も無かったことにしてしまえばいいのです。そうすれば、もうそのことで苦しむこともなくなるのです。このように、心を凍らせてしまうという行為は、激しいショックによって自分が発狂してしまわないようにするための、ひとつの安全装置として作用するのですが、しかし、後で詳しく書きますが、これが大人になってから、さまざまな心の障害となって現われて来るのです。

お気に入りタイプでは、言葉による暴力や、肉体的な暴力はほとんど見られません。なぜかといいますと、親は子どもとの良好な愛情関係をうまく利用しながら、性行為へと誘導するからなのです。子どもは最初は少し抵抗を示すこともありますが、最終的には消極的ながらも、親との性行為を受け入れてしまうのです。あるいは、このような消極的な態度ではなくて、時として子どもの方から積極的に親を誘惑するようなケースもあるのです。このようなお気に入りタイプの子どもというのは、親と性的な関係を持つことによって、家族内でさまざまな特権を獲得していくことになるのです。たとえば、親の愛情を独り占めにすることができますし、自分の欲しいものを優先的に買ってもらったり、親との肉体関係を利用しながら家族内の人間関係を操作したりして、自分が家庭の中で中心的な存在になったりするのです。

 このような、お気に入りになってしまう子どもというのは、親との性行為を楽しんでいるようにも見えますし、親との間に濃厚な恋愛感情があったり、あるいは、まるで夫婦のような状態になったりするのです。しかし、子どもが大人になってから、自分のしてきたことやされてきたことの意味を知って、そのショックから精神的にボロボロになったりすることもあるのです。あるいは、いつまでたっても親との性行為を断ち切ることが出来ずに、自立の問題で苦しむことになるのです。たとえば、自分に恋人が出来たときに、親から妨害されたりして、なかなか親離れをすることが出来なかったりするのです。あるいは、たとえ親との肉体関係を終了させることが出来たとしても、精神的な分離や自立の問題を抱えることになるのです。

 お気に入りタイプでは、なぜ親が性行為へと誘導したのかといいますと、親が自分の子どもを、性的に利用したかったからなのです。親が勝手な都合によって、自分の子どもを利用しているだけなのです。こういう親というのは、子どもの自立の問題だとか、近親姦によって生じる心の問題だとか、そういうことはまったく考えていないのです。親は、性教育だとか、子どもへの愛情表現だとか、いろいろなことを言ったりしますが、それは言い訳にしか過ぎないのです。親は、ただ自分の性的な願望が満たされれば、それでいいのです。そのために、子供をうまく利用するのです。ですから、子どもが大人になって、性行為の意味を理解できるようになると、それに伴って、親が自分の体を利用していただけなんだという事も、理解できるようになるのです。そして、親の裏切り行為を知ったショックから、精神的に苦しむことになるのです。

作者注*(http://homepage1.nifty.com/eggs/jitai/incest/3jittai.html )より、引用。/引用許可をお願いしているのですが、どうも、書かずにおけない状態になってるので、とりあえず、お借りします。

5、6歳の瞳子がすでにそのときに発狂寸前で自分をくいとめる「凍心」をおこなっていたとするのなら、レイプ事件により、凍らせた親の裏切り行為は瞳子の中で解凍される事になる。

心を凍らせる。それは発狂を回避するための、自己防御、あるいは、自己対処だったのだから、それが、レイプ事件で父親のした事を理解どころじゃない、記憶の中に封じ込めていた事をひっぱりだし、それがこういう行為だ心と身体を・・蹂躙・・し・・

何もかも理解した瞳・・子・・は・・狂うしか・・なかった・・。

私の目は落ちてくる涙で、文字を拾えなくなった。

瞳子の人を信じる心を、瞳子の人生をふみにじったのは、レイプ犯じゃない。

どんなにか、本物の愛情にうえていたことだろう。

どんなにか、娘であろうと努力しただろう。

なにもかも、忘れる事で本当の父子であろうとしたんだ。崩したくなかったんだ。父親を失くしたくなかったんだ。

私はどろ沼の上にたつ薄い緑のベールを纏った妖精の幻覚をみた気がした。

それは、瞳子に違いない。

誰もが沈んでいく、暗い泥沼の上に妖精だけが沈むことなく立っていられる。

それは、それでも、それでも、それでも、

父親への愛情をなくすまいとする瞳子の姿だ。

初めて会った、あの時と同じ、瞳子が来ていた薄緑のカーデイガン。

妖精はやはり、薄緑色・・・。

私は自分の崩壊と逆上を瞳子に救われた。

狂ってまで、瞳子が崩したくなかった父親。認めたくなかった父親。

その思いをこそ、掬いとらなきゃ、そう思った。

私の逆上で、教授を弾劾して、教授を傷つけ、絶望の淵にたたせて、はたして、瞳子はどう思うだろう?

「そんな思いで、責めたくないから、私はくるったのよ。お父様を、赦してあげて・・」

そうだ。初めてあったあの日。瞳子はそうやって、家族を愛してきたんだ。

それを私は愛されて育った娘・・そう、思った。

それも、今となって判る。瞳子が精一杯、家族を守り、母親を守り、父親の発狂を防いでいたんだ。何もかもを封じ込める事、それが瞳子の愛だったんだ。その光がまさか、瞳子から照射されてるなんてしりもせず、家族に愛されて育ったからだと思った。

瞳子の愛の深さを思ったら、そこまでして、守った瞳子をおもったら、

けして、なにがあっても、教授のことをにくんではいけないし、弾劾しちゃいけない。

そして、なによりも、私に憎む思いをもってほしくないのは、瞳子だ。

胸が締め付けられる息苦しさは「憎しみ」が胸の外にでていく排出痛だ。

だせ。だしてしまえ。まっしろになれ。考える事は瞳子のこの先のこと。

憎むな。忘れろ。いや、忘れちゃいけない。それは、心を凍らせてるだけだ。

判っていて、いっさい、がっさい、うけとめて、赦す!!

赦すんだ。いいな。赦すんだぞ!!

極度の高ぶりが精神を急激に疲労させ、私を夢の中に滑り込ませはじめていた。

夢うつつで柔らかな瞳子の髪をなで、

「それでも、瞳子は生きていてくれた」と.良かったとそう思った安堵の先は

一切、音も光も意識もない眠りの世界にバトンを渡していた。
翌朝、私が起きたときには瞳子はもう、ふとんの中にいなかった。

かわりに台所から物音がきこえ、夫人のはずんだ声が聞こえた。

私はパジャマのまま、台所に歩んでいった。

「じゃあ、玉子焼きとお肉のソテーとほうれん草の胡麻和え、しゃけを一切れ」

どうやら、お弁当をこしらえようと、瞳子はおきていったのだ。

私の感激がいかなるものか。そして、夫人の声が弾むわけも解かる。

お弁当をこしらえてもらえるなんていう単純な喜びじゃない。

教授が言っていたことが、はやくも変化を見せている。

「言われたことをする」「言われないとできない」

その瞳子は、自分からお弁当をつくるといいだしたに違いない。

私はやはり、教授の存在が瞳子の心の扉に暗い影をおとしているのだと思った。

心という部屋から外にでることができなかったのは、一歩外が暗い闇だったからだろう。

私という存在が瞳子の世界に光をもちこみ、瞳子は一歩、外に出た。

ずっと、私に作っていたお弁当だから、習慣になり、作ろうという思いがすんなり沸いてくるのだろう。

なにか、ひとつ、垣根が取れた。私にはそんな瞳子に見えた。

「おや・・早いね」

食卓に座っていた教授が私にきがつくと声を掛けた。

「お弁当をつくるっていいだしてね」

やはり、瞳子は自分から作り始めたのだ。

だが・・・。

「どうも、君のぶんだけのようなんだよ」

台所のお弁当箱は私がつかっていたものにまちがいなく、教授の言う通り、お弁当箱は一個しかなかった。

「元々、私の分は初子がつくっていて、君に弁当をつくるようになってから、おまけで私の分も作ってくれてたみたいだからね。自分から作るといいだしてくれただけでも、ありがたいことだよ。多くをのぞんじゃいけないな」

回復の兆しを喜びながら、やはり、瞳子の意識に父親として存在しない自分がますます、とおくに追いやられてしまったと教授はすこし、嘆いた。

だが、それも瞳子が教授を心の中から排除しようとしているに過ぎない。そういう言い方が惨いなら、心の扉に影を落とす存在は誰だって排除したがるものだろう。瞳子の場合、特に光が差し込んできたばかり。光と対照され、闇の存在がいっそう暗く深く見えるからこそ、なおのこと、闇を見ないようにする。

「ああ。そうだ。初子からきいたよ。君なら、瞳子をクリニックにつれていけそうだって。あれから、ずいぶん痩せたし、けど、君が来てからずいぶん、いや、格段、よくなってるし。僕も、もう一度ちゃんと、みてもらわなきゃと思ってたんだ。初子に「一緒に帰る」といったぐらいだから、君なら瞳子を連れて行けるんじゃないかってね、そう・・いわれて・・」

私は夫人の采配ぶりに感謝した。そして、これが、アスペルガー症候群の症状かとも思った。

私にあれほど、催眠療法はだめだといいながら、夫人の言葉には素直に従う。

無論、催眠療法さえ行わなければ、自分の汚点がさらけだされず、いまの瞳子のまま、回復していく。なにもかもわすれたまま、教授が父親であることを認識できないまま、新しい記憶が積み重ねられ瞳子はよくなる。

教授はそうとでも考えたのだろう。

元に戻るわけではないが、むしろ、なにもかも思い出しての認知療法は教授にとって、都合が悪い。

だが、夫人にまで、治療はやめたほうがよいなどといって、回復の兆しがみえてるのに、なぜとたずねられたら、教授はあらぬ方向に追求が及ぶと懸念する。

夫人に変にかんぐられないためにも、夫人の言い分にしたがっているようにも見える。

夫人が教授のアスペルガー症候群に気がつかないのも、ひとつには、夫人のものの言い方がよいのだろう。そのままを鵜呑みにできるようなものの言い方ができる。

そのうえに、教授は夫人に対し、一種、依存に近い信頼を寄せている。

夫人が自分に不利なことはしない。根拠のない信頼が根を張り、夫人の言葉どおりを受け止める。

夫人をいかなるときでも、自分に都合よく味方してくれる存在と受け止める。それは、また育ちきってない子供の心であり、夫人を母親のように捉えているとも取れる。これが、アンダーチルドレンなのか・・。

おかしな感情移入だが、「結婚したら、男は(夫)は大きな子供のようなもの」といういいまわしを聞くことがある。その考え方を当てはめたら、けして、おかしくはない。むしろ、女房を頼りにする男の断面図にしか見えない。アンダーチルドレンの母親への依存とアスペルガー症候群の言われたままを受け止める構図が夫人の教授への接し方をつくりあげていたのだろう。

なんの違和感ももたせず、夫婦の会話が成り立っていく。

それは、夫人にとっては、聞き分けのよい亭主でしかないのだろうが、まさか、自分がアスペルガーやアンダーチルドレンの症状に順応していったとは知る由もなし。

音叉現象・・・。それが、こういうことなのだ。

いつのまにか、本当は異常であるのに、異常が異常でなくなってしまう。当然で自然なスタイルとして、家族が出来上がっている。

瞳子への虐待もあるいは、こんな風な音叉現象がつくりだしたものだったのかもしれない。
瞳子がつくってくれたお弁当をたずさえて、私は教授とともに、車に乗り込んだ。

運転は私がする。教授は夫人がこさえた弁当をひざの上において、シートベルトをはめる。

教授の家からバス亭までは、まっすぐ一本道になる。

瞳子は毎日、そのバスにのって、大学前までお弁当を届け、また、バスに乗って帰っていった。

バスの本数はあるけど、それはそれで、たいへんだと思うと、今まで、疑問に思わなかったことが急に気になった。

「教授、そういえば、瞳子は車の免許、とってませんよね」

「うん。車の運転は怖いって、免許をとろうとしないから、無理じいはしなかったんだ。必要になれば、嫌でもとるだろうと思ったし、君との結納の後にも、免許はあったほうが良いとすすめたんだよ。でも、うんといわなかった。まあ、バス路線もしっかりしてるし、今頃は大きなスーパーもあちこちにあって、どこに、住んでも、はずれはないだろう?車がなくても、困りはしないよ・・」

教授の説明を聞きながら、私は運転が怖いという・・その「怖い」に、なにかしら引っかかっていた。

お父様が怖い・・・。

それと同質にかんじるのは、私が神経過敏になっているせいなのかと思った。

だが、此処にも、瞳子がおびえる「怖い」が、潜んでいた。

それが、解かるのも、催眠療法によってだった。

「確かにそうですね。一つの町内におよそのものがそろってますよね」

「うん。昔は大変だったよ。バス亭だって、あんなに近くにはなかったんだ。本数もなかった。家もずいぶん立って、中学校もできたしねえ」

「ええ・・」

会話が途切れる頃にはもう、大学に着く。

私は所定の場所に車をとめ、エンジンを切った。

エンジン音が静まった車内で、私の携帯の受信音が響いた。

「先に行くよ」

と、教授はドアをあけ、降りていった。

電話に出てみるまでもない。藤原クリニックの文字が見える。

あわてて、携帯にでると、女医の声だった。

「事前にもうすこし話しておきたいことがあります。都合の良い日に・・来院なさってください」

教授に不審をいだかせないようにしようと思ったら、都合の良い日など、あって、無いようなものだ。

同じ職場で同じ家に帰る。教授の目の届かない時間帯、講義の時間も、うっかりすれば、助手として、付いていくときもあれば、資料を忘れた、スライドがいると私に連絡が入る。

この前と同じように、こっそり抜け出すなら、午後の講義のときのほうが良い。

2講座続く・・。

私は姑息になってる自分に気がついた。

教授が何故、また、いかなきゃならないんだ?と、尋ねてくることを想定して、構えすぎている。

妙に萎縮する自分をふりかえりながら、私はここでも、瞳子の気持ちを考えていた。

なにかしら、断りにくい、本心を伝えにくい状態を作り上げる。

催眠療法だといったら、聞き入れない。はねつける。原因はそこだが、教授の性格の中に

かばってやらねばならない「気弱さ」を、感じる。はねつけている催眠療法をすると、はっきりつげただけで、もろく、くずれてしまいそうに見える教授が居る。

瞳子が・・父親をはねつけられなかった心理が此処にあるような気がして、私は、教授をかばい立てするような行動をわずかながらでも、控えていこうと思った。

結局、これも、夫人が見せた音叉現象とおなじことじゃないかと思えたからだ。

私は女医にすぐ行きますと告げると、電話を切り、まだ、構口にいる教授のそばまで、走っていった。

「教授、クリニックに行ってきます」

「ああ?今の電話?」

「ええ、そうです」

「う・・ん」

さして、いぶかしがらず、教授はむしろ、心配そうに尋ねた。

「どうしたんだろうね?」

「解かりません。催眠療法とは、違う、別の方法でもあったんでしょうか?」

すっとぼけて答えておいて、教授の様子を伺う。

私の言葉で催眠療法が行われないと確信できたのか、幾分、ほっとしたようにも見える。

その半面で矛盾するかのような、不安が浮かび上がる。

「初子にも連絡したほうがよいかな?」

「ああ・・」

私はおもいついたいい抜けで、教授の不安を押さえ込んだ。

「わかりました。きっと、夫人に先に連絡が行ったんですよ。きっと、定期健診をかねて様子見てもらいたいって夫人がつたえて、それで、私なら連れて行けるってことになって、で・・私に連絡がはいったんじゃないですか?」

すこし考え込んだ教授だったが、そうかもしれないと思ったのだろう。

信頼する夫人の名前をだすことが、かくも教授を安心させるのかと、私は、思った。

逆をいえば、不安定になったからこそ、(初子に連絡)と考えるのだろう。

「そうだな。とにかく、いってみてくれないか」

教授の押しがでると、私は置きっぱなしになっている自分の車に急ぎ、即座に夫人に連絡を入れた。

電話口にでた夫人に口裏をあわせてくれるように頼むと、同時に「あ、キャッチだわ」と夫人が教えてくれた。やはり、教授が夫人に確認をとろうとしているにちがいない。

「大丈夫よ。任せて」

夫人の声が聞こえると私との電話が切れた。

教授のことは夫人にまかせるしかない。

私は車を発進させると、クリニックに急いだ。
クリニックの駐車場に車をすべりこませた私の目に、女医の姿が移りこんできた。

開院まえの清掃や準備などで、診察室に看護士がたちいるためだろうとも、思えた。

車を止めると、女医は運転席側に歩み寄ってきて、窓ガラスが開かないうちから、喋り出した。

「おはようございます。昨日の資料はもう、よんでくださいましたか」

いきなりの切り口上だった。私も瞳子の回復に必死になっている。それは、女医もよくわかってることであるのに、そんな、私が資料だって、読むに決まっている。聞くまでも無い事をわざわざ、確認する女医が、妙で、一瞬、むっとした思いはすぐに消え去っていった。

「それでは・・・場所を確保できないので、貴方の車をおかりしていいかしら?」

「どうぞ」

私の返事より先に、女医は助手席側に回り込み、ドアをあけ、助手席に座った。

「催眠療法のことですけど・・」

女医の沈黙がはじまる。女医が話しておきたいことに、話しにくい内容を含んでいるせいだと感づくと女医を促した。

「大丈夫ですよ・・話してください」

私のあとおしに、女医はかすかに笑った。

「貴方はすぐ、感づいてしまう」

女医は俯く。瞳だけ上向きで、何かを考えているように見えた。

しばらく、一点を擬視していた瞳が私に向き直った。

「前に催眠療法の結果を貴方につたえるか、どうかを私に一任してくれともうしあげましたよね?

そのことです。

貴方でなければ瞳子さんを支えきれないだろうという事も、瞳子さんにとってもあなたでなければならない事もよく判りました。

ですから、催眠療法に同席してほしいと考えたのですが・・・」

女医は再び黙りこくった。どういう風にいえばよいか、言葉に窮している。それは、おそらく、またも、私にとって衝撃的なことなのだろう。

「かまいませんよ。話してください」

うすい苦笑いは「あなたはすぐ感づく」と、いう反対側にある「すぐ感づかれてしまう自分」へのものだろう。

ほう、と、息を吐くと、言葉を選ばず、話す事を決めたらしい。

「催眠療法で、瞳子さんから「基の傷」をじかにきいたとき、どんなことが飛び出すか分からないのです。その事で貴方がもっと、傷つき、苦しむことも考えられます。

もちろん、「基の傷」を知ることで、瞳子さんへの対処が見つけられる。同時に、傷を癒す方法も見つけられるかもしれません。ですが、一人の人間を狂わせてしまうほどの「基の傷」は聞かされるものの心までえぐる。貴方がそれを聞いて、おかしくなってしまったら、瞳子さんを救える人間がいなくなるんだってことを、心に念じて欲しいのです。

私はさっき、基の傷を知っておけば、瞳子さんへの対処ができるといいましたよね。

治療じゃないんですよ。治療じゃなくて、対処なんです。

「基の傷」を、知った上で、それをどうするか、なのです。

それを知っておかないと、もし、うっかり、「基の傷」に触れてしまったら、瞳子さんが、どうなるか、分からないのです。ですから、どんな辛い事を聞かされても、あなたはソレを受け止めて、瞳子さんへの、対処をまず覚えるのです。そのために貴方に同席してほしいとかんがえたのです」

女医の言いたい事が判る。いわば、今の瞳子は怪我をした透明人間なのだ。

まわりの人間は怪我でまともにあるけない「透明人間」を支えてやろうと手を伸ばす。

それが、かえって、患部にあたったりして、怪我を悪化させる。

催眠療法はその「何処にあるか見えない怪我」の位置を知る方法ということであり、

目に映るようになった、「怪我」は、間違いなく私を苦しめる。

「こんな酷い怪我をおわせて」と、私の心が引きむしられる。

だが、催眠療法の目的は「怪我の位置の特定」であり、それにより、私が瞳子の怪我にふれることなく、瞳子を支えることができるようになる。

それが、その怪我のむごさに打ちのめされたり、感情を振り乱されたりしてしまうなら、

同席はできない。

それは、治療法を見つける可能性をもなくす。

「私は、どんな事を聞いても、知っても、けして、負けません。私がくじけたり、おかしくなったら、瞳子をすくいだせなくなる」

女医は私の言葉に表情をかえなかった。

それは、私が事前に覚悟しても追いつかないほどの「怪我の有り様」だと、女医が分かっているからかもしれない。

怪我の有様になんらか予想がついている女医には、「予想だにつかぬものの覚悟」に安心はできなかったのだろう。

たが、「それでも、この人は、受け止め、乗り越える」という希望と信頼をもってもいた。

少しでも、覚悟と構えをもっていれば、ショックは些少でも和らぐ。

女医は私の精神バランスをとりながら、大きな賭けを行おうともしている。

その賭けの勝算率をあげ、私を勝利にみちびこうとする女医は、また、一歩間違えれな、ともだおれになることも承知していた。

承知しているからこそ、敗因になる要素をつぶす。

そんな女医への感謝は、自分の結果で示すしかない。

けして、負けはしない。

瞳子を瞳子として取り返すんだ。けして、負けはしない。

私は自分を支える信念を心と脳みそに刻み続けた。
女医はその後、催眠療法の日程を提示した。

瞳子の「基の傷」がどこにあるか、探す。と、いうことは

逆に、言えば、瞳子が『基の傷』を奥深くに隠しこんだという事でもある。

私は昨日の瞳子を思い返していた。

基の傷にふれる存在である父親を父親と認識しない事で、

基の傷にふれずにすむことになったのならば・・。

昨日の瞳子の教授ヘの態度。教授の存在が目にうつらなくなったかのような瞳子。

これは?

教授を父親と認識しない。

と、いうより

教授を認識しない。

え?

それは?

基の傷に触れるのは「教授の父親の部分」だけだったのが

基の傷に触れるのは「教授全部」と、かわったとかんがえられまいか?

それは?

それは?

一方で回復の兆しをみせながら、見えない部分、氷山の下では悪化している?

いや、氷山?

氷山自体が大きくなっている?

脳世界の海にうかぶ異常という氷山が大きくなっている。

水面に出た日のあたる部分が大きくなり、それが回復の兆しにみえた?

だが、水面にでる部分がおおきくなるということは、また、水面下の氷山もおおきくなり、

悪化の膿が底にたまる。

表面上に見える回復の兆しが大きいという裏側で悪化もまた進んでいる?

なおったと見えた人間がもとより、悪くなるしくみがこれか?

抑圧されたものが、氷山を作り出す。

だとしたら、たとえ、無意識であっても、何らかのガス抜きをする・。

それは、催眠療法?

女医は悪化を見抜いても居る?

だから、はやめに、催眠療法で氷山の発育を抑圧する?

そのためにも、急いだ?

女医に聞かされたことを念じながら、私の不安を吹き飛ばしたくもあり、女医を喜ばせたかったのかもしれない。

「瞳子は、快方に向かっています。昨日は退行現象のなかでしたが笑い声をあげたんですよ。

それに、今朝は私のお弁当を作ってくれたり・・ああ、でも、私の分しかつくらないので、教授が・・・」

私の言葉がとまった。良かったと喜んでくれると思っていた女医の顔が表情をかえまいとこわばっている。

「あ・・あの・・」

「あ・・ごめんなさい。あの・・」

女医も一瞬垣間見せた落胆はいまさら、ぬぐいきれないと私に向き直った。

「残念なことですが、それは、快方にむかっているとは、かんがえられないのです。催眠療法、急ぎましょう」

女医はすぐに、催眠療法の日程を提示した。

夕方4時。睡眠に向かって緊張曲線が下り始めるころが、一番、良いといわれた。

催眠療法は瞳子の「基の傷」がどこにあるか、探す。と、いうことだ。

それを早いほうが良いということは

逆に、言えば、瞳子が『基の傷』を奥深くに隠しこんだという事でもある。

女医の言う快方に向かっていないということは、それか。と、私は考え付いた。

私は昨日の瞳子を思い返していた。

いままで、基の傷にふれる存在である父親を父親と認識しない事で、

基の傷にふれずにすむことになったのならば・・。

昨日の瞳子の教授ヘの態度。教授の存在が目にうつらなくなったかのような瞳子。

これは?

教授を父親と認識しない。

と、いうより

教授自体を認識しない。

え?

それは?

基の傷に触れるのは「教授の父親の部分」だけだったのが

基の傷に触れるのは「教授全部」と、かわったとかんがえられまいか?

それは?

それは?

一方で回復の兆しをみせながら、見えない部分に傷を隠しこんで氷山の下では悪化している?

いや、氷山?

氷山自体が大きくなっている?

脳世界の海にうかぶ異常という氷山が大きくなっている。

水面に出た日のあたる部分が大きくなり、それが回復の兆しにみえた?

だが、水面にでる部分がおおきくなるということは、また、水面下の氷山もおおきくなり、

悪化の膿が底にたまる。

表面上に見える回復の兆しが大きいという裏側で悪化もまた進んでいる?

一方で笑い声をたてながら、もう一方で教授を隔離する。

いや?

逆だ。

表面上の意識が教授を隔離できたから、笑う余裕が出てきたのだ。

なおったと見えた人間がもとより、悪くなるしくみがこれか?

抑圧されたものが、氷山を作り出す。

基の傷にいっそう、触れないように、傷に触れる存在を遮蔽する。

表面上はそうだが、それは、瞳子からいえば、傷を奥深くにかくしこんでしまうということだ。

触れられないようにしようと傷を奥にかくしこむためには、傷に触れる人間を認識しない。

それが、形になっただけで、事実は奥深くに傷を押し込もうとしている。

それは・・・。

瞳子の傷が・・こらえきれない痛みを訴え始めているということになる。

このままでは、発狂する。

だから、傷を奥におしこめて、傷をかばおうとする。

そして、傷にふれる存在を認識すまいと、防御する。

それは、瞳子の中で、教授の父親の部分でなく、

教授全体、すなわち、虐待を与えた人間を瞳子が認識し始めているということだ。

だから、教授を隔離する。

それが、覚醒によって、教授イコール父親イコール加虐待者と解かる。

覚醒は真の発狂を生む。

覚醒すまいとする、瞳子の防御行動なのだ。

傷を奥に隠し、教授を排除し・・・。

こんなことをくりかえしていて、瞳子が回復するわけがない。

いや、それどころか、すれすれの防御壁が壊れたら、瞳子は・・・。

一刻もはやく、基の傷を知り、手当てしなきゃならない。

「いそぎましょう」

やっと、女医の意味が飲み込めた私は女医が急いだわけを理解した。
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