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物語によせて・・・

憂生の物語のいくつかが、書きかけのままになっています。

これは、チサトの恋。白蛇抄第17話ー銀狼ー。ニギハヤヒの視点からのぬながわひめ。
ななつぼし天道虫。 烈火のごとく。あおによし(聖徳太子) 白い朝に・・ほか数編が
完成していません。

もともと、今で言う両性具有【精神面】の物語をかきはじめて、
頓挫して、断筆しました。

と、いうのも、自分が本当に実感していないものは、かけない。と、気がついたからです。
社会人にもなっていないものが、社会にもまれる人間の心、底で何にきがついていくかということが
想像することすらできなかったのです。

そして、10数年たったある日、神がかりといっていいか・
小説の神様がおりてきたwww
1年の間にメールから日記から手紙からいれたら
500万文字以上の文字をかいていたのです。

この物語のしょっぱなは
二次創作だったのですが、
「性は心が生きる」ということをテーマに
性をいかに、「セイント」なものであるかということを
主題にしてきたと思います。
性にあやつられるのでなく、
性を心の表現としてとらえていくという感じです。

怪しげな表現も多いなか
性白書のように思える。と、受け止めてくださる方もいらっしゃって
感謝しています。

そうこうするうちに
自分が読んで納得するものをかこう。
と、いうか、むつかしいレベルであっても、
わかりやすくとか、読者に売るためでなく
自分という読者の目に答えられるものを書きたいと
書き始めたのが、陰陽師ものである白蛇抄でした。

このなかで、いろいろと、自分の煩悶をうつしこんでいますが、
結果的に奇妙なシンクロがおきてきていて
とくに、かけていないのが、銀狼です。

話が飛びますが、
いろいろと、封印のある場所をしらべていくうちに
ひとつの話にいきあたりました。

その話がまた、白蛇抄中の白蛇神である白峰という名前と同じ方である縁故の方の
ブログから、えたものであるのです。

それは、琵琶湖。
竹生島の話と
琵琶湖のどこかに一種時空のさけめがあるような話でした。

そこに、封印があるとしたのが、
銀狼の話で
これは、沖の白石が山の神の娘が身をかえた姿です。
雷神の朋友である、いずなが転生したのが、銀狼で
銀狼は山の神の娘に懸想したのです。
山の神の娘はいわゆる犬神つきとなってしまい
たとえ、わが身が死んでも、その子孫などにまた犬神がつかれるとわかって
あえて、沖の白石に身をかえて
銀狼からのかぶりがほかにうつらないようにしたのです。

その銀狼もまた、山の神から呪縛をうけて
死ぬにしにきれないからだになっていました。

そこで、陰陽師たちは、
山の神の赦しをえることと
白石にかえられた娘を救い出す(元にもどす)法をおもいつくわけです。

物語はここまででとまっています。
つづきは

その法は、
銀狼がかわりに白石になるということです。
そして、銀狼が
白石に封印されることにより
いずなの魂が開放されることになるのですが
その開放のしかたも、
雷神が白石をこっぱみじんにうちくだくことで
できるかもしれない。というものでした。

物語の終わりでは
それは成功して
いずながよみがえります。

この雷神も榛の木にふうじこめられていたものでした。
(白蛇抄  第6話 邪宗の双神  )

こうやって、雷神といずながそろったとき、
ふと、おもったのが、
風神・雷神図でした。
俵屋宗達の・・・

いずなは風の神というのが、本当かもしれませんwww.

いずなは伊豆名とおきかえられるところと
銀狼は
銀【宇宙】のうしとらこんじんの借りの姿ともおもえ、
なにか、重大な秘密をときあかしているのかもしれないとおもえ、
続きをかくことがおそろしくおもえていたところがあったと思います。

されど、物語は完結してこそとおもっていますので、
いずれ、書くと思っています。


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省みる

さる女性から、いくつか、感想をいただいた。

この感想に憂生がぶちぎれた。

いくつかの感想のことごとく、随所随所に気分を害す。

どれが最初だったかおぼえてないが、

たとえば、

「一人称をくずさず、最後までかけてるのがすばらしい」

みたいなのとか。

憂生にすれば、それほめられてるとはおもえないわけで・・。

よほど、かけだしの若造におもわれたか?

一人称をくずさない。そんなこと、あたりまえじゃないかって。

あたりまえのことを(と、いいつつ、憂生の作品は多重一人称がおおいんですが)

ほめるということは、

たとえば、小学生が上手に書けたよというのに

「うまいねえ。一人称がくずれてないねえ」と、ほめるににている。

ところが、憂生は自分を駆け出しの若造だとはおもってないから(幸せな誤解かもしれんが)

なに、この、上から目線。評論家というか、出版社の審査員のごとき物言い。

と、なにかしら、しょっぱなから、いや~~~な気分をあじわっていた。

で、あとから続く感想がことごとく、

この人、大丈夫なんだろうか?

と、思わせる内容をいくつか、内包していた。

感想や批評は自分の披瀝になる。は、憂生の持論だが、

まさにこれがあてはまってくる。

「人のことをこんなに思えるんだろうか」と登場人物に疑問をもつ。

おそらく、人に思われることも人を思うこともほぼ、少ないのだろう。

人を思う。あるいは、洞察力といっていいかもしれない。

何気ない一言から、その人の内面や性格、考え方がみえる。

すると、そんな考え方でいいのだろうか?と、心配になる。

こういうふうだから、「人のことをこんなにおもえるんだろうか」は、

ごく当たり前の・・茶飯事なものごとでしかない。

そこを疑問に感じるほうがおかしい・・・とおもってしまうわけだ。

そして、ここまで批評家のごとく物をいう人間が

人の心の機微にうといのが不思議で

本人の作品をちらりとよんでみた。

憂生自体は、人物の心のひだをかなり追従し

ちょくちょく、人物を改心/笑・・させることがある。

ところが、その女性の作品は

非常に即物的なのである。

本人の筆力がおいつかず、かきこめていないだけで、

自分では十分わかっていながら、客観視の視点がくりひろげられてないだけなのだろう。

本人までそうなのかとおもうのは、はやのみこみであるが

これが、すなわち洞察力ということになる。

洞察力がうすいから、「一人称がくるわない」という言葉からこちらがうけとる印象を

洞察できない。

「人のことを思う」というのも、洞察力が物を言う。

それがいささか、低迷しているため、「人のことをこんな風におもう(みきわめる)ことができるのか」と考え、ひいては、こちらの都合のよい設定にされてしまうのだろう。

だが、もっと、おおきな、虫食いがあった。

他所であるが、もっと、素直に自分の感慨をかいていた女性の一文におめにかかった。

その内容からこちらのことを平行移動して考えると

女性は大事な一言をのがしているようにみえた。

つまり、

「私が一人称を書くとどこかで破綻してしまうのです。

一人称を書くのはとてもむつかしいと痛感していた昨今であるのに

貴方の作品は・・・」

と、こうあるのなら、憂生も納得する。

そこをとっぱらって、書いてしまえば

上から目線のマリコだとおもわれてもしかたがないのだが、

これと同じ状態が本人の文章の中にもでてきてしまってる。

説明しておかねばならないことをすっぱぬいて、

事実だけをぽんとおく。

文は人なりというが、まさに、人への配慮(思い方)の不手際?が

文章にもそのまま表れている。

まあ、憂生も自分への客観視がなりたってない人なわけで、

具体的におもいあたってないから

人のことで、わがふりなおせとおしえられてるんだろうけど・・・/あたたた

こういう言葉たらずからの誤解を

随所でやらかしてるんだろうね。

思い当たることはなはだ多しである。

作品を読んでもらうと言う事について。

憂生は憂生という人間の思いや考えに興味をもってもらえれば、

作品のほうにも触手をのばしてもらえるのではないかという考えがあった。

つまり、きょくたんに言えば、

日記は作品を読んでもらうための

一種、ワナ、トラップ だった。

ところが、

(日記はおもしろいけど、小説はよむきになれない)という意見が合った。

むろん、本人の好みと言うものもあると思うので、

それをきにしているというのではない。

なにがいいたいかというと、

先に書いた(トラップ)?

これが何の役にもたたないどころか、

本末転倒にさえなっている?

と、いうこともあって、憂生はここ暫く作品をアップしてみた。

実際アップしてみると、

日記はよくよんでいたが、

作品まで読んだのは初めてというひともいた。

逆にこのことによって、

憂生にはつたえてなかったけど、

すでにメインHPを手繰って

何作かを読んでくれている人もいたのもわかった。

すると、やはり、

日記などで、(憂生)を出していったのがよかったんだな。

憂生に興味を持ってくれた人だからこそ、

日記にあげる、あげないに関わらずよんでくれたんだ。

と、おもったのである。

ところが、

ある人から、

(憂生という人間に興味があるから作品までよむ。

しかし、これは、憂生という人間をよこにおいて、

作品だけで勝負したときに果たして作品は一人歩きできるだろうか?)

と、いう意見を頂いたのである。

う~~~む。

確かに世の中の小説家の作品をかんがえても、

そうだろう。

作品自体が一人歩きしている。

小説家自体に惹かれて、作品が読まれているわけではない。

大きな命題を貰い、憂生は考えている。

ふううむ。

***又、結論?指標?がでたら、報告します****


とりとめなく

ぬながわひめの続きをかこうと
トップにあげなおしてみたものの
やはり、書く気がわいてこない。

もともと、スランプ打破のためにかきはじめたもので、
チサトの恋とともに
知人からは
「なんじゃ、その文章」と轟々はおおげさだが
ちくちく、痛い非難?批判?をあびたwww

先日もその知人と談義していたが
「読める文章は本人の情熱がすごい」
と、いう周五郎の言葉がでてきていた。

いまさら・・・と思いながらきいていたが・・。

この何年間、書いていた中でも
「熱のこもった文章は読ませる力がある」という
MAHIRURURU・・との談義があるが
問題は技術でもなく、読解力でもない。

熱のこもったものは本自体が唸る
と、までいったこともある。

その憂生が「熱のこもらない状態」にもがくようになって
自分でいっちゃあおこがましいが
天性の文章力で(爆笑)
なんとか、作品をしあげていた。

たとえば、
壬生浪ふたり・・もはっきりいって、熱はこもっていない。

このようにかけばよいだろうという
いわば、技術力でかきおえているから
なにか、いまひとつ、自分でも真摯なものがみえてこず
テーマも非常に弱いとおもっている。

これが、出版しましょうといわれるとなると
はっきり、言って、
こっちをかもねぎにしているとしかおもえない。

問題は
「熱をこめられるかどうか」
いや、こもってしまうものであるべきだろう。

いかに文章に真摯・誠実であるかは
ここにあるとおもっている。

だのに・・・。
なにかしら、かけない。
かけないのに、かこうとしていた。

かけないなら書かない。

これも誠意であるかもしれない。

で、あるのに、
とりとめなく、
文字をかきつらねてみたいという病からは
復帰できていないようである。

粋な言葉・・・

ついでに。

某出版社から作品の書評と出版推奨を貰ったときに二つの漢字が判らなかった。

一つ目は概・・。
概、出揃う。と、ある。
天気概況の「がい」であるが、
一言の言葉がわからず、辞書をひいた。

結果。「おおむね」

言われてみればなるほどと判る漢字である。

もう一つは
上梓。貴方の作品を上梓されたし・・。
と、あるのだから、
出版、発行のことと、わかるのだが、
何故、上梓なのかわからない。

梓2号に~~~。なんて、歌があったが・・。
これとは、何の関連もなかろう。

結果、辞書でひいた。

梓の木の皮に文章を書く。
記録を旨としたもので、
人に読んでもらうための
的確な手段であったようである。

こういうところから
多くの人に読んでもらうという
出版・発行と同意語であるが、
もう少しおもいいれ?
その文章は価値あるものだからこそ、
梓の木の皮に書き記すと言う
感情が込められている。

しゃれた表現を一つ知ったものである。


ブログネタ:好きな昔話、童話

三井の晩鐘かなああ。

この話は三井に伝わる話だったかもとおもうのですが、

この話を元に、

確か、余命いくばくもない母親が自分の子供のために

絵本をつくったような。。そんな覚えがあります。

話の内容は憂生も自分の物語でよく扱う異種婚です。

有名な話である葛の葉とかもありますが、

この三井の晩鐘は竜と人との異種婚に始まります。

細かいところはうろ覚えなので省くか、適当にかきますが・・・。

竜である母親は子供がうまれて、まもなしに

元の住処である琵琶湖に帰らなくてはいけなくなります。

まだ乳飲み子の子供をおいていく母親は

自分の目玉をくりぬいて、これを子供にしゃぶらせてくれれば

乳のかわりになるからとおいていきます。

赤子はくりぬかれた片目をしゃぶりながらおおきくなっていくのですが、

まだ、乳離れするまえに、その片目はしゃぶりつくして、しまいます。

父親は琵琶湖にいって、母親をよんで、

どうすればよいか、尋ねるのです。

湖から現れた母親は迷うことなく

残っていた片目をくりぬいて、夫に預けます。

その時に

「私は両目がなくなって、もう、坊やがげんきでいるか、

貴方がたっしゃでいるか、見ることが出来ません。

貴方と坊やが元気でいることを知らせて欲しいのです。

あの三井寺の鐘を鳴らして二人の無事をしらせてください」

それで、三井の寺では夕方になると、あけむつ、くれむつとは別に

もう一回、晩に「今日も二人は無事でしたよ」と、鐘をつくのだそうです。

*なんか~~~~。すごい話だなあって思って。

目玉をくりぬいちゃう母親の情・・・。

この話に託した母親であった作家の思い。

憂生がこの本を手に取ったときは

作家さんは亡くなられてずいぶんたっていたのですが・・・。

これ以上は語りますまい*


続きを読む

その後・・2

いつだったかに、文章力がありますね。と、いう言われ方を読んでくれた方からいわれたことがあるのだけど、
これも、以前に書評でもいわれたことがあったのだが、
表現力と文章力の違いが判らなかった。

ので、

その文章力がありますね。と、いってくださった人に尋ね合わせてみた。

表現力というのは、まあ、いわば、物事をいかに表現するかというところなので、おぼろげには、わかっていたし、一種、修飾語みたいなところもあろう。
具体的に説明していく力。

ところが、文章力というのが、ピンときていなかった。

それも、確か、表現力というのが、あとからでも、磨ける。
だったとおもうが、
文章力というのは、もってうまれた感性に近いというわけであるから、なおさら、そんな、資質に関るものがあるとか、ないとか言われているのか、と、思うと、これが、なければ、致命的欠点・・いや、欠損になる、重要ポイントではないか?と、おそるおそる、答えの続きをよんでいった。

まったく、別の物事をひとつにつなげていく力。

と、かかれていたように、思う。

たとえて、いえば、複数のお題をモチーフにして、文章の中で使うというのではなく、
お題自体を関連づけるという事だと思う。

具体的なたとえをいえば、憂生の壬生浪ふたり・・の無花果。
このお題?をそのまま、文章につかうのでなく、
無花果の意味あいをストーリーの中の物事と関連付ける。

物語の中の男女の運命は
「花をさかせず、実をつける」であるが、
(共に暮らすことなく、子供だけができる・・みたいな)
これが、まさしく、無花果の意味合いであるわけで、
男女の運命と無花果という、一見全然関連のなさそうなものを
関連付けていく力。


これが、文章力なのであろうと思う。

こういう意味合いでは、文章力は構成力とほぼ等しいといってよいだろう。

ところが、今回、言われたことは、
「筆力がある」
と、いう言葉だった。

これは、前後の話で類推するのだが、
「衝撃をうけた」「考えさせられた」
と、いう言葉があったし、
これに似たような言葉に
「文章の中で爆弾が炸裂するような・・表現」
と、いう言い方も過去にあったので、

筆力というのは、
「真に迫る」表現力・文章力・テーマという総合的なものであろうと思う。

どこかで、物語の外にでてしまうような、入り込めない文章でなく、
内容にはいりこませて、納得させられる。

あるいは、わが身にてらしあわせてしまうところがある。

など、「迫る」ものが、有る場合を筆力があるというのではないか?と、思ったりしていた。

再度、文章を書き始めて、かれこれ、10年近くたつが、
物を書くというのは、難しいと思う。

独自のスタイルを通し、憂生風を確立できたとは、まだ、いえないが、それでも、筆力があるといわれつづけてきた裏側に
もってうまれた文章力があるとするのなら、この筆力も天性のものであるのかもしれない。

むろん、磨きが足りていないのは、重に、承知である。

その後

講評以後、FC2ブログを再編集することにして、返事?は放置することにしていたところ、メールがはいってきて、電話連絡をしたが、
でてくれないので、メールをいれたという由。

みれば、携帯に着信履歴がある。ホーム電話のほうは、コピー機につないだ関係で、着信履歴がないのだが、そっちにも多くかけたのだろう。

で、携帯からかけたところ、お時間はよろしいですか。
と、まあ、まず、確認をとってから、改めて向こうが携帯に連絡をいれてくれるとのこと。
正直、電話料金が、きになっていたので、なかなか、の配慮で、申し分ない。

かなり、深いところまで、話ができて、しごく、満足できたのものの、どうしても、こちらには、金がない。

文章力については、今までにも、読者様から、いろいろとほめられているので、まあ、また、おなじことをいわれているなあ。と、いう、ところはあったのだが、
今回、違うパターンだとおもったのは、
「こなれている」という言い方だった。

実のところ、独自のスタイルでやっているけれど、
これを
「こなれている」
と、捉えられるものか、どうかの疑問はもっていた。

いや、それで、通じるか?
と、いうところだったのだが、
まあ、良しであり、

「強烈なインパクト」と、「考えさせられた」
と、いう言葉により、入り込んだ読み方をさせたらしい部分では、
とりあえず安心?

なんとか、出版しましょうよ。
と、いう担当者の思いいれの言葉に
市場でどういう反響をよぶか、みてみたい。
と、いうのがあり、
ここも、書き手の気持ちをうまく捉えてる。

自分がそうだったから、
と、いうプッシュの気持ちがありがたくもあり、
まあ、ぽつぽつ、金をためてみるかと、思い始めている。

待ちます。との言葉をまにうけちゃあ、いけまいが、
すこし、考え方がかわってきたと思う憂生である。

おそらく、地震の影響だろう/笑

いつ、死んじまうか判らないのなら、
なにかしら、どこまで、反響がでるか、(でないとしても)
ためしてみてから、
死んでもいいかもしれない・・・


麻痺

結局のところ、出版可能であるという返事であるものの、
無料出版には、くいこめない/笑

だが、書評/今回は、講評になっていたが。

正直、愕然とした。

多く、感想をいただいてきたことがあるが、その素人?が読んでも判る内容を曲解にちかい視野で読み取ることにしばし、呆然とした。

で、まあ、いろいろ、考えた。

今回の地震で友人とのメールのやりとりにでてきた内容にも通じるところであるが、「人を思う」という感覚のずれ。
が、生じているのだと思う。

たとえば、報道、当初から、PDSTを懸念し、人心不安になるようなことをさしひかえるべきだと思うという事はあちこちで、書いてきた。

報道のため相手かまわず、状況かまわず。
あるいは、自分の信念?によるものか、政府への批判。
今は、そんなことをどうこうするときでなく、まずは、それを聞かされた人間を不安にさせないという配慮が必要なのではないか?
と、疑問と憤りを感じる報道やブログ等の公開。

だが、これらをひっくり返して見た時、
「人を思う」ということが、すでにぬけおちているとしか思えなかった。

そして、今回の講評。
これも、「人を思う」という物語のテーマがストレートに伝わらない。こちらの書き方がいまひとつ、拙いようにもかかれていたが、
今まで、多くの感想をもらった結果、「人を思う」というテーマが通じなかった事がなかった。

結論だけをいえば、純粋に人を思うということがありえないという
たとえば、報復するのが当たり前という感覚をもって、そこにあてはめて読もうとしているように思えた。

つまり、相手の心や状況を配慮しない「報道」のもつスタイルというか、感覚と同じなのだと思えた。

童話ひとつでも、思ったことだが、
外国の童話は「報復」で
日本の童話は「こらしめる」なんだよな。

はからずも、感想の中にかいていた。

「外国人が読んだら、何故彼女は報復しないのですか?」
と、尋ねるだろう。
だが、日本人には「人を思う」という思いが当たり前のようにある。
だから、読む人は皆、何故報復しないのかなんて、かんがえはしない。

と、いうようなことをかいていた。

ところが、今回。まるっきり、報復しないのですか?以上の、報復観念で捉えている。驚いた。どうも、報道よろしく、アメリカナイズされた感覚が出版社側を侵食しているのだと思う。

こりゃあ、こんなところから、出版したら、まちがいなく、違うものになってしまう。

わずか、5年ほど前の作品だったが、この5年の間にかくのごとき、感覚の麻痺が、世の中にでてきてるのか?と思う。

あらためて、日本人の思いというものを
みつめなおしていかなければならない時代に入ってきていると思うし、なによりも恐れていた感覚のずれ(麻痺に近い)があるのだと
思う。

昨今、楽しければよい。面白ければよい。などという作品にかたむきかけていたところがある憂生であるだけに、生き様と思いを問う、という作品を心がけていかなければ、どこかで歪みがでていることにさえ気がつかない状況にあるんだと、そらおそろしく思わされ、

その点で、今回、がくぜんとしたものを、考え直してみたときに、
メディアに踊らされている自分にきがつけたところがある。

まじめに書いていくという部分で、
おそらく、相変わらず、過剰な読んでくれという公開や宣伝はもっとしなくなるだろうと思う。

このこむつかしい人間の言い分に共感をおぼえてくれた人が憂生の作品をよんでくれればそれでいいと思う。


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パソコンから応募

FC2ブログの編集をしていると、
文芸社さん、新たなる編成開始になってるようで、
月2冊は無料出版ってな文字がみえた。

出版できたら、良いなという思いの中に、
実は、出版物は国会図書館に収められるというのがあった。

この地震で、ぽつぽつ、思うのは
いつ、なにがあるか判らないということだった。

なにか、1冊くらいは、国会図書館にのこしてもいいかな/笑

ただ、前回の時もそうだったが、協力出版という形のものは
はっきりいって資金が無いし、
あったところで、金の力でというのも考える部分であるわけで。

で、まあ、今なら感想(以前は書評といっていた)がもらえるとか・・。

白蛇抄の書評でも判るとおり、かなり,的確な書評をかいてくださるので、
それだけでも、良いか。と、フォームから送ってみた。

即、返事がきたので、おかしいな?と思っていたら
前回の応募のことを含めて、連絡がほしい・・とのこと・

で、電話をいれてみたところ、やはり、協力出版をすすめたがる風。

企画出版については、1週間で10万部とか?
まあ、いわゆる売れ筋というのを考慮しているわけで、
絵に描いた餅であるのは、重々承知のうえ。

どうも、前回の応募(では、ないのだが・・・)の審査記録がのこっているようで、高い評価をえていますね。なのに、何故出版しなかったのか?と、いうのが、むこうの疑問だったのだろう。

白蛇抄が保留という妙な回答になってしまった時、他になにかありませんか?とたずねられて送ったものの、憂生はこれで、保留をどうするかという判断につかうのだとおもっていたところ、審査になっていて、そのうちのひとつが、全員一致で出版しましょうということになったわけだけど・・。
本来の目的は白蛇抄なわけだったし、資金をだすなら、白蛇抄にだしたかったわけだ。
そして、それを断ってしばらく後、企画部長から、特別推奨作品に推したいという話がきたわけで・・。

内心複雑だった。

だから、白蛇抄はどうなるん?
だが、話の内容はおいしかった。

新聞広告を増やす。初版発行数をふやす。店頭置き書店を増やす。
出版費用を減額する。

確か110ページほどのもので、110万という額を提示されていたが、
資金が無いといったら、おいくらくらいご用意できますか?
「70万くらい?」
という言葉がでてきたところをみると、それくらいまで、減額するきだったのか?

ところが、憂生は出したいものでなかったせいもあるが、
資金も30万ほどの現金しかもって居なかった。
「30万しかありません」
過去、他の出版社では、ローンでも良いですよというのがあったり、割引を抑えておきます。というのがあり、特別推奨ならば、他社の割引よりは安いだろうと考えていた。
他社の割引が105万のところを75万だったか?
だから、50万~70万のあいだくらいまではさげてもおかしくないとおもっていたところもある。

およそ30万はらって、残りをローンにしたとしても、良いか・・と気持ちがかたむいていたところに、企画部長の一言。
「あなた。それじゃあ、自負出版でもだせませんよ。こっちは新聞社広告に全国出版・・うんぬんかんぬん」

あほらしくなって、断った。

パソコンから応募・・2

そんな経緯を話し、
相変わらず金がないことを告げた。

一応審査にかけてみますとのことだったが・・。

あと渋っている理由として、
500冊ほどの発行に金をつけて、
発行権をなくすのがいやだというのがあると、告げると、
3年で発行権(契約期間)がなくなるとのこと。

ここは、あえて、ふせておきたかったことなのかもしれない。

大枚をはたいて、3年しか面倒を見てもらえないとなると
考える人がでてくるだろう。

その3年の間に売れ行きがよければ、次からは企画出版や増刷ということになるらしい。

3年後にどうするかということになるのだろうが、
3年の間にまともにうれなかったら、続けて契約をする人はいないだろう。

このあたりのことについては、納得したが、どのみち、
企画出版は無いだろうと思っている。

ただ、前回の応募作の評価が高かった分、
今回、売れ行きをみこめるとなれば、
無料出版はありえるかもしれない。(わずかな可能性であるが、)

と、とらぬ狸をかんがえながら、
一応?プロが書いてくれる感想については
興味をもてるところでもあり、たのしみにしている。


スランプVS

作品を書き続けている中で、

スランプという乗り気にならない時期と、

小説の神様がおりてきたという絶好調の時期とがあるもので、

まあ、ここ何年間、まったく、不調な時期がつづいていて、

今年にはいって、まともに作品を仕上げていないんじゃないかと、おもいます。


完結してこそというのが、憂生の持論で

へたくそだろうが、小学生の作文並であろうが(いや、小学生の方がもっと、かけてる)

書き終えるということが大事だとかんがえてるわけです。


スランプの中にもいろいろなパターンがありまして、

一時期、大量のコメントとか、読まれてる手ごたえみたいなのが

確かにあったわけです。

その頃は、逆に読んでくれる人の反応など、良い意味できにしてなかったわけです。


実際、憂生の読者さまというのが、

「読み手を意識するな。憂生は憂生の思うままかけば良い」というわけで、

通常とは逆のお叱りをくださるわけで・・。


多くの、書き手は

『読者を意識して、かかねばならない』と、かんがえてらっしゃるようで、

そう考えねば、実にわがままな作品になるということなのかもしれません。


まったく、自由に連載をはじめた、そも最初が

空に架かる橋でしたが、

この反響はかなりあり、

此方も、読み手の中に飛ばした紙飛行機の滑空をみとどけてから、

続きを書くという、

読者を意識するではなく、読者の反応を計算して、連載をしていました。

ですから、書けば、3~4日もあれば、かける内容を

45日間かけて、連載していったわけです。



その状況が次の作品、次の作品とつづいていったわけですが・・・。


ふと、スランプになってきたときに、

ここで、初めて読者を意識するという状態になりました。



コメントがこない・・

読まれているという実感が無い。


つまり、読み手の存在に依存してしまっているところが、

いつのまにか、できていたわけです。


ですが、実際、元々、40話以上をワードでかきあげていて、一挙にネットに公開したわけで、

のりにのって、書いていた頃は読者さまなどというものはいなかったわけです。



おかしなものです。


自分が夢中になって、楽しんで書いてるときは

読者を意識するということはなかったのです。


もちろん、書いていく中で

読み手の存在を想定して、かいています。

意識するのでなく、読まれるものなのだから、

読めるように書くという当たり前の基本として想定しているわけです。


ところが、作品がうけるか、うけないか、と、いう

いわゆる、売れ筋?みたいなところを意識してしまい、

良い反応がないと、なにか、書く気があがってこない。という

引き金が、読者様になってきた時期があったわけです。

これは、おかしなことです。

自分が楽しんで書いていないものなど

人が読んでもおもしろいわけがないわけです。


此処も指摘されましたね。

「乗ってかいてないと、読者はみぬくよ」

「こびて、かいたら、通じないよ」


見事なものです。

昨今、活字依存症の方がふえてきて、

なんでもかんでもよみこなしちゃうという人がいるのですが、

憂生自体、

掘り下げのない作品や、

意匠のない・・というか、斬新な解釈とか、

こういうものがない作品はただただ、だらだら、かいてあるだけで、

なにも残らない気がして、面倒になって、よまないわけです。



ほんのすこし、うがちのある表現をつかえるとか・・。

ああ、そういう捉え方もあるなとか、こういうのがないと、

一過性のひまつぶしで、おわってしまい、

そんな無駄な時間をすごすなら、自分の作品や日記をかくわい!!

と、いうきもちになってしまうわけです。


ところが、のってない作品は

ものの見事に

掘り下げがうすい。

意匠がない。

うがちがない。

斬新さもインパクトもない。

捉え方もありきたり。


誰がかいたか、わからない作品にしあがってくる。

いきおい、読者様が読む気をなくすのは、まちがいがないわけですが、

まだ、この時点で、

反応があれば、気分があがってかけるのに。

という思いがありました。

これをうちくだいてくれたのが、

活字依存症とおもえる方の反応でした。

読み物として、読むわけですね。

コメントもくださります。

評価も高いです。


ですが、あれ?

と、おもったのです。

こちらの書いているものと、自分をつきあわせて考えている様子にみえないのです。

まるで、オナペットのように、精神的高揚、活字からの高揚をたのしんでいる。


これをみて、きがついてきたわけです。

憂生自体も、読者様の反応を高揚としてうけとめているのではないか?


と。


ここで、原点にもどって、

悪いといわれようが、良いと言われようが、

「書きたい」という気持ちにひたむきであろうと、かんがえなおしたわけです。

ですから、書く気にならないのなら、

その気持ちにひたむきであればいいのだとおもうわけです。


書きたいという気持ちになったら、書く。

それが、うけようが、よまれまいが、もう、憂生の手からはなれたところでおきているわけです。


まあ、そうはいっても、

完璧にオナペットあつかいとか?

ここにあまんじたくはないのが、本音で、

まあ、かっこうよくいえば、自分の作品を安売りすまいって、

活字中毒の方の評価がいくらよくても、

本質部分での向き合いがないのに、読んでくださってありがとうはない。


むしろ、読んでくれるな。

おみゃあの玩具じゃねえんだよ。

って、ほどに自分の作品を自分こそが高く認めようとおもいまして・・。

そこらへんから、スランプはなくなったようにおもいます。

でも、書く気にならんので、放置してます。


いつも、いうのですが、

魔女の宅急便の中の絵描きの女の子が

「スランプの時はどうするの?」

「書きたくなるまで待つ」

「ずっと書きたくなかったら?」

「そのときはそのとき」

だったかな。

書きたくなくなってずっとかけないのなら、それで、おわってしまうだけのものだったわけでしょう。

実際憂生も一度は断筆宣言をして、

実際の人生をわたって見なきゃかけないときがついたせいですが・・・

そして、再び筆を取った時、

量産につぐ量産だったわけです。

作品という自分の中の瓶に、いっぱい何かが詰まった状態だったのでしょう。

それをくみだしていったら、

書く気がおきないのなら、

もう一度充電期間というか、

瓶に作品の素をためる期間をつくってもいいようにもおもえます。

ましてや、商業的にかかずにおけないという生活がかかったようなことを嫌った理由がそこで、

作家になる気が有りますかと尋ねられたことに、ノーとこたえていたわけですから。

確かに書かねば成らない状態に自分を追い込むことは必要だとはおもいます。

ですが、自分の中をまとめていくという

自分の人生の生理整頓みたいな必然で物を書いてる人間は

娯楽・読み物として、提供するという商業的エンターにはなれないわけです。

自分がどういう方向・姿勢で物をかいてるかという事を自覚したときが、

スランプ、イコール受けを狙っていた自分との決別になっていったきがします。

世の中、作家になりたいと多くの人が頑張っていらっしゃるようですが、

憂生自体は、

自分の哲学を形にして

自分を「認識」して、

自分の「意義付け」をして、

「自分の生き方の方向性」をつかむという

自分の為の自分だけが判る指南書をつくってるようなもので、

これを読んで受けるなら、

同じようにかんがえてみてほしいわけであり、

受けないのなら、そりゃあ、貴方にはあてはまらんのでしょう。


って、わけで、

これをして、良いの悪いのと評価するのは、

人の人生への評価そのもので、

それを良いとか、悪いとか

評価できるほどの人生観があるかどうかということです。

人のことをしのごの言ってる暇があったら自分の人生みつめなおしちゃどうですか?

ってね。

だから、今の世の流れの「受ける作品」「売れ筋」「娯楽作品」「読み物」ってのは、

憂生にはかかわりたくないことです。

おそれおおくも/おおわらい

この憂生の考えにきがつかず、

作品に点数をつけてくれた人がいましたが、

おまけにそんなんじゃ作家になっても売れないよ。

とか・・。


そういうもの、世にでる、メデイアにのるということが、価値だと考えてる方には

とうてい、わからない憂生の考え方なのでしょう。

誰のためでもない、自分の為に書いている。

ある意味、読者はいらない。

基本はこうあらねばならないのだと最近はおもうわけです。

いかに真摯にかいていくか。

いかに自分とむかいあっていくか。

いかに内的映像を文字にうつしかえていくか。

自分との戦い?でしかないと、思うわけです。

遺物、はたまた、遺失物

白蛇抄 蟷螂をあげなおしましたが、

この冒頭を読むと、ある方の批評?を思い出します。

蟷螂とか、精霊飛蝗とか、蟋蟀とか、

読みにくい漢字には(とうろう)(しょうりょうばった)(こおろぎ)

とか、

読めない人への配慮で(読み)をいれたほうがいいのでは?

と、ご意見くださりました。

ここで、またも、憂生の疑問です。

その漢字の読みを(  )にいれなきゃ、

文章読めないのだろうか?

蟋蟀がひりひりと鳴く・・・。

精霊飛蝗がきちきちという音をたてて飛ぶ。

蟷螂の卵があちこちにうみつけられている。

憂生は、漢字をかいているのでなく、

その場所のムード、状況

どういう季節か

葦原の中につったっているということ

道に迷った政勝がとほうにくれつつ、

あたりを確認しているという事を表現している(つもりなの)です。

だから、蟷螂とか、精霊飛蝗とか、蟋蟀とか、

前後の説明で、昆虫、虫かなんかだなとおおまかにわかれば

かまわないわけです。

 

あと、文章づらが、壊れるのがいやで、

できるだけ、( 読み  )はいれたくないのです。

 

蟋蟀がひりひりと鳴く・・・。

精霊飛蝗がきちきちという音をたてて飛ぶ。

蟷螂の卵があちこちにうみつけられている。

   ↑↓

蟋蟀(こおろぎ)がひりひりと鳴く・・・。

精霊飛蝗(しょうりょうばった)がきちきちという音をたてて飛ぶ。

蟷螂(とうろう)の卵があちこちにうみつけられている。

 

主軸が、ああ、これで、こおろぎと読むんだ。

に、なってしまい、

ひりひりと鳴くという・・物寂しい感じに

政勝の心もとない思いがみえてくるというのが、

薄れてしまうわけです。

 

そこで、疑問です。

 

なぜ、この人は、それが、わからないのだろう?

その方は読めないから(読み)をいれてください。

と、いわれたそうです。

なぜ、いわれるのだろう?

逆にいえば、いわれて、なぜ、いれるのだろう?

読みをいれないと読めない文章?

御幣があるな

蟋蟀がひりひり鳴くという場合でいえば、

憂生がおもきをおくのは、ひりひりなくということに

気がつく、文中にかかれていない政勝の心情状況なわけです。

つまり、読みを入れなきゃ読めないどころでなく

書いてないことを表現している(つもり)なのです。

 

そこを、文字をどう読むか、判らないということで、

かいてある文章さえ、よめないのなら

うしろにあるかかれていないものも読めない・・

と、いうことは、

なにか、この方自身もそういう文字面しかよめないのではなかろうか?

 

そういう方が書いている文章も

後ろ側をつくっていないのではないだろうか?

 

そう思って、読みにいってみれば、

確かにその通りでした。

文字に頼って、表現しているというパターンにちかいわけです。

だから、なんと、読むか、判らないと

なにをかいてあるか、わからない。

そこで、勝手ながら、憂生ふうにかきなおしたものと

原文とをやってきた友人に

音読でききくらべてもらいました。

 

結果、その文字がよめないとわからないし

よめても、意味がわからない。

内容がつたわってこない。

 

で、憂生のほうは、

その文字をつかわず、

主人公の心情を吐露する形をかなり追従して

かきなおしているので

ーこんな、お職だものーと、いう一言で

主人公の置かれている状況もわかる。

続きを読みたい。

と、いいだす。

あほ言え、人のものや。

かんがえごとのためにやったことや。

それいじょうはせん。

と、ことわり・・・

 

なんというか・・。

やはりというか・・・。

バックグラウンドをしきつめていくという

作品世界の主人公をうきぼりにする

と、いうのでなく、

眺めながら書いている、と、いう感じが否めない。

だから、一文字がわからないので、読みにくいとクレームをつけられる。

 

つまり、申し訳ない言い方だけど、

読みをつけなきゃならないのは、

その人の文体・文章表現のせいであり

自分がいわれたから、

自分の読み方が文字面しかよめないから

憂生も(読み)をつけるべきだというような

平行移動的思考をしている。

 

それは、たとえていえば、

自分が背がひくくて

ーもっと、背が高くなったほうが、良いーといわれて

たとえば、背の高い人のところにいって

背の高い人だと見る目がないのにきがつかず

ー貴方ももっと、背をたかくしたほうが良い

私も言われたからーとやるのに似ている。

 

わりと、こういう人が多くいて

いって、その人の文章をよんでみると

文字面だけで、文章を書くということをやっていて

漢字にたよって、かいているということがおおい。

 

文章表現のハウツーなどをしんじこんでるのか、

どうか、わからないが、

読みがなくても通じる文章をめざすしかなかろうに

ひとのところにいって、

ああしなさいとこうしなさいというのもおかしいが、

結局、自分の文章の欠点?を人に転嫁しているということにきがついていない。

 

憂生が、あえて、(読み)をいれるときは、

文字面だけをよんだら、そう読まない。ときや

文章の音感があり、文字面でよんだら、音が違ってくる場合がある。

そんなときには、使う。

 

たとえば、

女子・・そのまま、読むと 「じょし」 (おなご)

処女・・そのまま、読むと「しょじょ」 (うぶめ)

女性・・そのまま読むと「じょせい」(にょしょう)

 

おまけに、時代ふうのものやら、現代風のものもかくので、

じつは、かきながら、同じ言葉を読み分けてかいているときもある。

男は通常「おとこ」であるが

時代風になると「おのこ」という場合もありえる。

厳密にわけないのは、音感による。

OTOKO ONOKO

同じOの母音のため、音感崩れがないとみなしている。

 

ただ、最近はそういう音感がいまいちになっている。

音感と5・7調に近い文章フレーズでテンポのつくれていたとおもいこんでるがww

最近、とくに、文章形態がひどくて、

上にかいたことなど、ふくめて、

過去の遺物感につつまれている。

立ち寄ってみた

いやああああ。
放置もいいところであった。
もとい、まだ、INGだな。

日記はあいかわらず書いているので、
かれこれ・・・
100ちかく?
50?
さだかじゃないな。

リアルにおいても、メールとあいかわらず
どんな形にせよ、書いている。

が、

スピリチュアル的にいうと、
天啓部分がへったというか・・・。

う~~ん。

リアルタイムになってきたというかなあ。

チサトの恋についての、裏にかくされたマイライフの
混沌が物語りさきより、解決してしまったところがあり、
ここで、追従気分?
ペトリ皿にのせて、意識化する部分の必要性がなくなったような。

物語というものは、憂生にとっては、
自分の中のものをさらえたり、
照合するという、まあ、求道的目的を持っていた部分で
必須というか、生活の一部になってたところがあるのだけど、
最近、出し方が変わってきたと思う。

まあ、ひとつに、憂生の不思議部分などをおおぴらにかきはじめたところが、契機になってるし、
また、この不思議部分で、クラウンチャクラへのコンタクトがはじまり、そこへの回答を日記にかきしるすなど、やはり、リアルタイム部分がふえてきている。

カウンセラーでも、セラピーでもなんでもないので、関わった人だけとの交流?でしかないが、

とうぶん、リアルタイムの日記に没頭しておこうと思っている。

こちらでは、チラリと見た限り、
ハイヤーセルフがどうの、仏教思想がど~のと、
進出めざましく、
考え方がちがうので、物議をかもす感情をもつだけ、めんどうなので、いっそう、放置をきめこもうと算段してから、
はや、1~2ヶ月。

日記では猫の話題まで、でてきてる昨今、ああ、来てみりゃ、こっちにもなんかある。

わざわざ、ここにかくことでもないので、いっそう、用無し気分をあじわったのだが、
あまりにも、放置も気がひけて、
実に気弱な人間で・・・(笑え)

ちょぼっと、書いて、退散す

閉口

下のスレッドに


ある人が、


憂生の作品を自分のページに取り上げた、と、いうことに


閉口した。


と、書いていたのだけど・・・。


今、それが、何故、閉口したか・・。


と、考え直している。


本人と、もめたあとに、本人が後日談として


憂生ってやつは、評価も感想もいらねえんだってよ。


とか、いう言葉を自分のページにかきなぐっていたところをみると、


本人は感想や評価を重大におもっているのだろう。


憂生はというと、


誰でも、通常、何かを読めば、何かを思う。


それを出す、出さないは、本人の自由であることで、


思ったことをまとめるのは、むしろ、大賛成である。


だが、それを、読み物としてだしている側面があるわけだし、


まず、憂生書いたことを公開していいか、たずねるのも大事だろう。


だが、そんなことよりも、


作品から、なにをうけとり、自分とどう照らし合わせたか


と、いう「自分との対峙」こそが、大事だと考えている憂生に


外面的な構成がどうの、文体がど~のという


いいかえれば、テーマに触れることなく


評論家きどりで、いるようにみえたところがある。


案の定、


憂生ってやつは、評価も感想もいらねえんだってよ。


と、いう言葉がでてきた。


今までの経験でいえば、ひとつの作品でも


読み手が、自分と対峙する部分は違ってくる。


憂生にすれば、そこと向き合うことが大切なんだと思う。


が、本人はちらりとそこをにおわせただけだった。


ー自分も浮浪者みたいなもんだからー


憂生にいわせれば、そこだろう?と思うわけだ。


作品を読んで、


ー浮浪者みたいな自分ーと、対峙したわけだ。


その具体的な内容はわからないが、


なにかしら「窪み・凹み」があるだろう。


そこを追従せず、自分も浮浪者みたいなもんだから。


と、いわれて、どうなろう?


お前の、だから、しかたがない。


自分も仕方がない。など、ききたくもない。


たとえば、だけど、浮浪者みたいな自分でしかないということに


きがつかされた。


このさき、自分をどうやって、浮浪者からぬけださせるか。


考え直さなければいけない。


と、思った。


と、でも、書けば、これは、すばらしい、感想といえるだろう。


読んだことから、


なにおか、感じたことを追従せず


相手の評価などして


さも、俺様に取り上げられるのはすごいんだぞとうぬぼれるし、


本人の核を見ようとしない人間から、


評価されても、それは、評価にならない。


そんな評価も感想にもならないうわごとなど


いらないということだったのだが、


それでも、ほうっておこうとおもったところに


ー俺はある程度のレベルじゃないと自分のとこにのせないんでねー


と、いう一言をみてしまったのが、運の付きだった。


勘弁してくれ。


上っ面でしかみず、


自己追従もあろうに、むきあうこともできず


人の作品をとりげて


批評家気取りで、悦に入っている。


そんな人間のところに


自分の作品の評価・感想など、おいてもらいたくない。


取り下げてくれといったら、その台詞だ。


ー俺様にとりあげてもらえたのだから、ありがたかろうー


と、いう思い込みも勘弁してもらいたかった。


おいておけば、ありがたがってると思わすだけで、


ますます、作品と向き合うべき自分を見失う。


そんな手伝いもしたくないし


はっきりいって、


ありがたくもなんともなく、


まさに、閉口したわけだ。


とは、いうものの、娯楽で読む人も多いのも事実で


本人が読み手一方だったら、憂生もそのままほっておく。


本人、小説家になりたいといっていた。


自分の分析・追従・対峙もまともにできない人間が


小説など、書けまい。


憂生がそういうと、えらそうだといわれるだろうwww


おこがましいが、


憂生は小説など、かけない自分だとわかっている。


だから、自分のことを小説家なんていわないし


文芸社さんからも、小説家になりたいのですか?


と、たずねられても


いや、なりたくない。と、こたえたし


第一、小説なぞ、かけない。


憂生の書いているのは


物語・・でしかない。


「MONO]を語っている・・という意味で。



御託をならべて、またも放置だよ~~

ひさかたぶりに、きてみれば、また、もめてやんの。
ってのが、正直な思いですが・・・。

で、原因はある人の馬鹿ほどのレビューの羅列でしょうかね。

はたまた、もめたので、こんなことをしてるのか。

相変わらず、FC2小説のレベルの低さを露呈させるだけになるのだと
なんどとなく、書いてきた事がおもいうかびます。

まあ、憂生は必要な本はタイミングよく自分の前に現れるというショーペンハウェルの考え方に賛同しているだけあって、
新着などの気になる作品をちらりとよんで、よみつづけるかどうか、きめます。

気になる自分に鈎があるわけですから。

逆をいえば、感想や評価を送る人も
その作品が自分の鈎にひっかっかたわけです。

どういう鈎なのかは、自分にしか、わかりません。

そこで、その部分は相手にでなく、自分のところにでもかいたらどうですか?

ってのが、あったわけです。

まあ、それでも、そこをこえて、作品として成り立ってる作品には
感想をおくったことが2~3度あったきりですが、
評価は一度したきりで、以後、しません。
基本的に星いくつと点数?をつけるのがきらいなわけです。

作品からうけとるものを、点数にするという行為がすでにきらいなわけです。

ですから、よほどの方の評価で無い限り、
その作品をよみにいこうとは、おもわないわけです。

で、今回、馬鹿ほど羅列されていますが、
作品の評価でなく
評価側の嗜好の発表ですね。

こういうパターンからして、
その作品をよけいに読む気をなくしますから、
憂生みたいな考え方の人にとっては、
妨害行為にみえるでしょうし、
こ~~んなぱたーんの人に作品を掲げられる作品なのかいって、
正直、おやすいイメージをうけます。

よかれと思ってやってるのかもしれませんが、
嗜好発表会と、作品のイメージダウンに貢献しているだけで、
まあ、評価欄というのを、あまりあてにできないということを、
教えてくださるという意味では
良い、レジスタンスかもしれません。

評価欄の使い方についての考え方はいろいろあって、
在る以上はどういう風につかおうと自由なのでしょう。

自分の宣伝行為でIDを変えて、使うということをやってる人もいましたし、自分が良いと思った作品をプッシュする気の人もいれば、
じゃあ、逆に良いと思われないものはだされないのかと、自分で探して読むという行為を多少阻むかなというおもいもありました。

そんなんで、
憂生にとっては、どうでもよい場所ですが、
一生懸命レビューを書いてる人もいますし、
好き勝手に使う人もいます。

あっさり、いえば、無いほうがいいかなと思うのですよね/笑

自分の場所にだけ、感想や評価がみえるようにしておけば、
探して読んだときに、ああ、やっぱり多くの人が良いと(悪いと)評価するんだな。
とか、わかってよいかもしれません。

自分が読もうとするものを探すのでなく、
探して読んだものの評価がきになるというのはあるとおもいます。
自分はこう解釈したが、他の人はどうだろうか?
とか、やっぱり、自分とてらしあわせることができるわけです。

こういうのが、また、読んだ、読まれたという実感につながっていくきもします。

ま、いずれにしろ、多く感想。評価。をほしいと思わなくなった憂生にはわからないことです。

自分がどう思うかが鈎なわけですし、
その鈎は人それぞれ違うわけですから、
そこにふれるレビュー(評価欄の)にお目にかかることもめったにありませんし、自分の好みの作品くらい自分で探したいですし、
活字中毒のごときの評価をあてにするほど、精神的ひまつぶしをしたいわけでもなし、
そんな暇があったら、自分の思いを文字に変えるほうに費やし、自分の頁で公開するべきでしょ。

自分の所には、何も書かせないようにして、評価欄だけは、我が物に使うというパターンも多くあり、ここら辺もいやでしたね。

そういう意味では、目的は評価じゃないけど、
(自分の為)に自分の場所で感想・評価?などの内容を述べてるエイチクンなどは、正当派だとおもいます。

ただし、憂生個人感情としては、憂生の作品を評価してくださったのには、閉口しましたが。

で、考えていたのが、
トップ頁の評価欄に評価を公開するか、しないかの
選択を評価された人が選択できればいいのではないか?
とね。

今回のように、むしろ、安売りのごとくに評価されても、
(まあ、あれを評価といえるかどうかは別にして)阻止することさえできなかったり、誹謗にちかい評価でも、公開されてしまうというのも、(本来評価する人の誠意のありようでしかないんだけど、)時に憂生のように、星5であっても、評価されたくない(厳密にはトップ頁にだされたくない)場合もあるし、基本評価場所という気持ちでなく、作品を発表したいだけであったところもあるわけで、
機能上、評価されてもしかたがないわけだけど、
やっぱ、評価させてもらってもいいですか?みたいなことわりもいれず、公開されるってのは、な~~んか、ふにおちてないところあったし、作品につくのは、かまわないってところがあったから、いらないってわけでももない。
いらないというのも、おかしいし/笑
みたいなのも、結局、こちらが、公開可否、評価の可否を選択できないってところで、あいまいチョイスしなければしかたがないところもあった。

主導権が評価する側だけにあるということから、いくつもの弊害がおきたとおもうけど、ここから、改善すべきではないかいな?

と、おもうところを、個人主張のドロ試合をやることが往々にしてある。

もう少し、問題点の対処作を考えるべきではないかと思うし、管理側も意見箱みたいなのつくってなかったっけ?

思うまま・・11

そうそう。
思い出した。
カフェで日記を量産?できたのは、ひとつに足跡機能のおかげでもあった。
さきの日記も、足跡の中のペットがなんちゃらと書いているのを読んで、触発されたわけである。
正直をいうと、足跡にかかれているような、訓告的な思いはなく、ペットに対しては、小作品(掌篇というべきか)「ノンちゃんの犬」で協賛する思いがあり、文章におこしたのである。
「ノンちゃんの犬」は、実話である。
その中で、犬を「癒し」のためにかうんじゃなく、「犬」を飼ったら、いつのまにか、とても生活が楽しくなった。
で、あってほしい、という科白があるが、憂生自体、こむつかしい共生とか?
こういう考え方はない。
現状猫を飼っているが、猫一匹いるだけで、会話が成り立つ。いわゆる、潤滑油的存在になっているわけだが、つまるところ、会話を成り立たせる潤滑油のために猫をかったわけでなく、かってみたら、いつのまにか、楽しい生活が増えていた。というところである。

あ~~~~~。
つまり、何をいいたいかというと、触発されたというものの、賛同意見であるというのでなく、憂生の中味をほじくるという触発作用があるわけである。

このかんがえ方はいわば、ブログネタに近いところがあるのだが、
足跡ひとつ、ひとつ、を、注意して読んでいけば
何らかの思いが自分の中にわくはずなのである。

ところが、それをそのまま、書いてしまっては、批判?になりかねない場合もあり、書かずにすますことがおうおうにしてある。

まあ、例えば・・いや、実際だが・・。
6000枚の写真をみてください・・ってのがある。
正直、その数にぞっとしてしまうわけである。
憂生にすれば、その数をだしてくる彼の気持ちはわかる。どの一枚も貴重なのである。実際、憂生も物語111作品。日記(1スレッドにまとめたものもあるのでへったが、)3000記事という状況をもっている。
これを読んでくれといわれたら、
憂生自体が思うようなことを他の人も思うのかいな?と思うのである。
そんな大量なもの、読んでられるか!!
と、数をみて思ってしまうだろう。
どの日記も憂生にとっては、貴重であり、プッシュしたい気持ちはある。

だが、この7年ちかく、ネットをやってきて思うのは、いかに新着を挙げていくかでしかないという事だった。

過去記事は葬り去られやすい。

特殊な記事で無い限り、次々、新しいものを要求される【受ける】

つまり、よほど、「必要」「ためになる」もので無い限り一過性の娯楽記事になってしまう。

昨今は検索機能が充実してきて、過去記事でも読まれる事がおおくはなってきたが、これも、同時多発同じ題材の新着のほうに持っていかれる。

と、なると、自己宣伝するしかなくなるのだが、この自己宣伝がなあ・・・

どうも、好きじゃない。

自分が好きじゃないから、しない事が多いんだけど、悪いことに弊害がある。

やはり、自己宣伝するパターンに抵抗をかんじてしまうのだ。

それも保守的な過去記事という自分にとって貴重というところから、離れられないいわゆる「自分可愛い」というパターンがいかにもなのであるが、

ん~~~~~~~。

つまるところ、それは、憂生自身がぬけきっていないところであるわけで、先にかいたように、やはり、過去記事への執着がある。

膨大な量の日記から、自分の悩みの解決のヒント・糸口はないかとさがしまくってくれて、読んでくれた人も居る。

つまり、必要だったわけだ。

このことが、なおさら、憂生に執着を持たせているとも思う。

自他共に貴重な日記を眠らせるのがおしい。という思いである。

この部分を一端、切り離して
今、書いている事から
逆に
「この人はほかにどんなことをかいているんだろうか?知りたい」とおもってもらえるようにならなきゃいけないのではないか?
方向性として。

つまり、過去日記に対しても興味をもたせてしまうような、憂生独自性が必要なわけで、その部分で多発的新着に
うもれてしまうような、一過性の娯楽日記をかいている憂生でしかなければ、当然、過去日記に足を・・・ん?
手を?手を伸ばす気にはなるまいと思う。

だから、そういう振り返りをしていないで、新着をプッシュすればいいだろう。
と、思うようになってきたとき、
6000枚の・・・というフレーズにぞっとする(御幣があるな)憂生がいるわけである。

当の本人さんの新着は6000枚をプッシュするだけあって、構図もピンポイントも見事であり、カメラをやってきた憂生であるということを考慮しても、まず、被写体に取り組むその姿勢から好ましいものがあり、写真など好きな人は手繰ってでも観るだろうと思える。

ただ、憂生自体は、カメラでは表現できない部分に限界を感じて、物書きに転向している。この経緯があるため、本人の性格など知ってから、その人のカメラワークに興味を持つ事が多い。
アメーバーのほうになるが、本人の鋭い感受性のある日記やトークにひかれて、写真のほうに手をのばしてみたが、絵も描く人であるためか、構図のとり方斬新でインパクトで風景写真をアートにまで昇華しているかただった。

こういう、本人を知って、他方面においても本人を把握したいと思われるのが憂生にとっては理想である。

そういうわけで、憂生が此処で日記を書いていた目的は、日記を読まれたいではなく、「こんな日記を書く(人)は、どんな物語を書くのだろう?」という憂生への興味をもってほしいというのがあった。

だからかもしれない。
6000枚の写真をみてもつまらんだろうと思う。
本人をよくしっていけば、その1枚の写真で6000枚以上のインパクトを受けると思う。

そして、残念なことに、逆にプッシュされることで、憂生みたいな人間はひいてしまう。

長くなったけど・・。

例えば、こんなことを思うんだってことを書いてしまうと、本人にすれば、批判もいいところじゃないか?と思うのではないかと思う。

そんなんで、足跡から受ける触発をいちいち、書くわけにはいかないと思う。

物語118編とその他のコンテンツ

書き下ろし

つくづく、天王星人だと思う、憂生である。

乱世の覇者というパターンで、どこにいっても、

なにか、乱れていることにひかっかる。

誰かのことを考えてるときは

まあ、自分のことなんか、ほっちゃらかしになってるんだけど、

ぴったり、平和になると

途端に自分の中の内乱にしょげ返る。

まあ、簡単に言えば暇なんだろう。

これが、いそがしかったり、

なにか、夢中になってることがあると、

それどころじゃない。

どっちかというと、多趣味であるていどすると、

飽きる?

飽きるといったって、やめてるわけじゃないんだけど・・・。

いってん集中が、すごいっていうのかな。

物語でも最初の1年で、仕事しながら

300万文字以上書いていた。

とことんまで、いかないんだけど、

ある程度のところまでいくと、

興味がすっとひく。

まあ、一種、前世が次々はまってくるって感じかな。

カメラもやったし、ろうけつ染物もちょこちょこ・・。

ず~~と、やるというのでなく、

少しでもやったら、「気が晴れた」みたいに・・。

まるで、前世が納得したみたいにすっと、気持ちが離れていく。

今は、物語ほうちして、スピリチュアルばっかりかいてるんだけど、

これもそのうち、離れていくだろう。

応援?エール的なこと、問題提起もいろいろかいてきてるし、

笑い話も書く。

見方を変える必要が有るんだろうね。

変えると同時に、それらは、どこかですべて繋がっていく。

創作談義を書いていく中で、料理をたとえにすることもあるし・・。

最終的には物語になるんだろうと思う。

物語の中でも、宗教的要素があったり、生き様あったり、

性あったり、料理をもちーふにすることもあり、

いろんなことを吸収しなおす時期に来てるんだろうなって思う。

実際、昔のメッセージなんか、自分でよんでると、

なんだ、わかってるんじゃん。

ってのが、自分でいくつもあるわけだけど。

こう、実際あゆんでみると、

もう少し違うとおもったり、

本当にそのとおりだなって、思ったりするわけで、

まあ、今状態的に、繭作ってるなって思う。

いろんな、糸(意図)をはきだして、

その囲いの中でうずくまって、

蛹になる。

今その繭つくりだなあって思う。

いろいろ、自分の中をはきだしまくってるわけで、

時に、批判じみた意見をのべてしまってるけど、

これは、憂生にとって大事な作業。

吐き出してみなきゃ、

意の中になにがはいってたか、わからない。

なにもかもはきだして、

繭を作る。

非常に・・・

わがままなもすら~~~~♪で、

ごめんにゃ。


覚悟

いくつか、同時多発的におきた精神にかかわる「物事」をあげてきたが、

この内容をあまり詳しくはかきたくないとは、思っている。

と、いうのも、実在の人物であり、

本人はむろん、まわりで、関わった人も二次的なショックをうけるということがありえる。

実際のことであるが、たとえばとして、二次的ショックのひとつをあげてみる。

本人が抱えている状況を知らず、心無い嘲笑やいやがらせを行う。

と、いうことがあった。

その当時、憂生も憤りを感じ、記事をあげた。

その中の一言であるが

「憂生がどんな思いで、その人たちに接しているか、判ったら

けして、そんな心無い言葉をあびせかけることはできない。

自分の思いにまけて、愚劣で姑息な嫌がらせをするのもけっこうだが、

彼らの内面がわかったとき

自分のしでかした事をどうやって、謝れる?

彼らは当然、許してくれる。

だが、たとえば、彼らがぽっくり、死んでしまったらどうする?

自分の一言で、彼らに悲しい傷をあたえたまま

謝るすべもなくし、

あるいは、心因性外傷を助長させたのかもしれないと

その後悔を一生背負っていくいくくらいの気で物申しているか?」

その一言に、何人かの人間は憂生に懺悔・告白してくれた。

だが、それより、恐ろしいのは

この憂生の一言が本当になったことだ。

しばらくして、彼らとひとくくりにしてしまってもうしわけないんだけど

その中の一人の女性が本当に亡くなってしまった。

告白した、懺悔した人はそれでも、まだいいかもしれない。

それをせず、

自分のしでかした事に気がついたときには

もう謝るすべもない。

たとえば、そういう二次的ショックというものが

実情をかくことにより

新たに浮上してくる可能性もある。

そのあたりも、含め、憂生自身も相当な覚悟でかいていかねばならないと思っている。

物思い

白い朝に・・はもう6年近く、続きを書くことができずにいたものです。

それは、自分の執筆形態の変化のせいもあったと思います。

昔のように、ワードでかきあげてから

ブログにもってくるというのでなく、

ブログテキストに向かって、一発で書き付ける。と、いう形です。

もともと、ワードで書いていても、一発書きだったのですが、

テキストにむかうと、かなり集中力があがるというか、

書く体制にはまり込む。

読み手の存在というよりも、例えて言えば、

以前は稽古場所で書いたものを舞台にコピーしただけだったのですが

空に架かる橋から、以後、舞台でぶっつけ本番で書く。

と、いう体制にかわってしまったのです。

これは、当然、連載形式になってしまうものです。

そして、白い朝で・・

もともとからあった事ですが、作品の中身やテーマ、こめられているものなど

いっさい、無視するかのような、部分的な言葉への、検索。

たとえば、白い朝に・・でもでてくる「レイプ」などの、ロゴに

卑猥な言葉をひっつけた、完璧なあほログなのですが、

白い朝に・・の内容を思うと、そのログにうちのめされてしまったわけです。

この先、もうすこし、突っ込んだことを書きたく思っていました。

退行催眠により、

瞳子が、口にする言葉も、義治の心をえぐるものになるとおもいますし

憂生自体が、その言葉を瞳子に吐かせるのにも、とまどうものがあります。

そこに、また、あほろぐが、くるのかとおもうと、

それは、瞳子に対して、形にこそならないかもしれないけど

やはり、「暴行・レイプ」と同じことであり、

あるいは、瞳子をそういうことに、さらす・・・

作者自ら・・・。

なにか、うまくいえないのですが、

文中にも、かいている言葉がその気持ちに近いかもしれないと思います。

*****

もちろん、「基の傷」を知ることで、瞳子さんへの対処が見つけられる。同時に、傷を癒す方法も見つけられるかもしれません。

ですが、一人の人間を狂わせてしまうほどの「基の傷」は聞かされるものの心までえぐる。

******

ちょうど、そんなふうに、かいているものも、心をえぐられるような思いで書いているところに

あほログがくる・・

おおげさかも、しれませんが、憂生自体があほログに傷つけられたところからくる、PTSDのような、

欝々した思いからぬけでることもできず、

この先を書くことにむかいあえずにいたのです。

今日も、行き過ぎた表現があるのも事実ですが

あほログで、検索してきた人間がいて、

そこだけ、読んで、なにをうったえた物語かなどよもうともしないのだろうかとか

いや、あえて、よんでくれたら、逆に、あほログなど飛ばしてる自分の低俗さにきがついてくれるかもしれない。

とか・・。

小枝なども、そうなのですが、

紅の使い方・・(モチーフとして)など、この構成は、秀逸だと思っています。

たとえば、そういう部分に着眼できる人はこないものなのか?

とか・・。

なにか、あほログですから、当然ですが、

あまりにも、レベルの低さに、

憂生自身が、瞳子をさらしものにし、

義治をきずつけるだけのような、そんな感情移入になってしまい、

もうすこし、

別方向から、精神異常?の話を書いていくとともに、

今まで、いろいろ、関わった精神病(御幣があります)の方たちとのかかわりというのを

書いていく時期にさしかかって来たかなと思うのです。

過去、いろいろあって、

その内容はおいときますが(それを書こうと思っているので)

それらのことをどう、捉えていいかわからず

KUMINAさんに相談したとき

ー憂生、いつか、それを小説にしなさいー

と、いわれたことを思い出します。

その当時は、こんな複雑にいりくんだことをと、おもえたのですが、

今になると、

それこそが、白い朝に・・の原点でもあるとおもうのです。

いわば、ノンフィクション、あるいは、私小説ともいえる

いろんな方たちから、

学んだこと・・・

書き始める時期にはいってきてるのかと、

白い朝に・・が、しあがらない本当の原因はそこにあるのかもしれないと思ってもいます。

こまったもんだ

仕事がはいってきた。

9日までに納品とのこと・・。

これは、ブログってる場合ではない。

が・・・。

次の作品の構想?も思い浮かばない。

あるいは、それも、良いことかもしれない。

ひとつ、過去構想で、

烈火のごとく、というのがあって

この主人公、女性ながら、山焼きをこなす。

奈良の若草山の山焼きみたいな感じで

風向きとか、読む。

ちょっと特種な技術者なのだけど

彼女は若いころに「駆け落ち」をしている。

どういう経緯かわからないけど

男と別れて、村に帰ってきて、野火を読むものがいないということで

彼女が火付け役、風向きを読むなどをやり始めている。

村の若い娘たちは、なぜ、彼女が一人でいるのか、噂しながら

なにかあると、

とくに、恋愛沙汰の相談になると、彼女をたよっていく。

その相談の答えから

あれだけ、的をえた答えをだすということは

彼女の過去になにかしら悲しいことがあったのではないかと逆に察していたころ。

駆け落ちした男が彼女の前にあらわれる。

もう一度、やり直せないかという男に対し

野火の火付け役は自分しかいないから男の申し出は断るという。

彼女の中には、今もって「烈火のごとき」恋情がありながら・・。



と、いうところまでかんがえていたものだけど、

この先、彼女がどうするかも

何故ふたりがわかれてしまったのかも

ぜんぜん、うかばないwww

もっとも、憂生の書き方は

キャラクターの性格にそって、その場その場でどうするかきめていくというやり方なので

書き始めたら、書くだろうと思うけれど

書き始める動機が見つけられずにいる。



こまったもんだ・・・





管理人失格www

gooブログにいたとき、他所でみかけたコメントに興味を覚えた。
単純にどの程度の規模でやってるのだろうと・・・ww
すると、程なくして以下の提携文がgoo記事に貼り付けられていた。


こんにちは。ブログを拝見させて頂きました。これからもブログの運営頑張って下さい。

投稿して下さった作品(イラスト・詩・小説・エッセイ・漫画など)に、直筆のカード式のファンレターが3~30枚以上届く文芸サークル(投稿雑誌)を主催しています。投稿される作品は新作でなくても構いません。あなたがブログで発表している作品を雑誌に掲載してみませんか?

興味を持たれた方には現在、雑誌代と送料とも無料で最新号をプレゼントしています。よろしかったら私の名前をクリックして、ホームページでの詳しい案内をご覧になって下さい。ホームページの申込フォームから簡単に最新号をご請求出来ます。失礼致しました。

******
で、返事を書いておいたwww

******
過去、文芸サークルをやっていたほうなので(ネットとリアル)、いろいろ、運営の大変さは少しはわかるつもりですwww.
ネットでの運営はいろいろ、諸事情がかさなり、
放置状態になったまま、パスワード失念で(ずいぶん前のことなので、メール認証制度がなかったり、メール自体が有料化でなくなったり)管理者としては失格なのですが、
投稿側としてはこれだけの作品を抱えていますので
やはり、全部投稿したいという欲が出てきます。
が、
掲載ページ数も制限があると思いますし、こちらの量を考えると、5年10年掛かると想いますので、正直をいうと、気乗りしません。
おそらくですが、全部で500万文字???はあるのではないかと・・・。
作品数としても、110作品。
どれかをチョイスという気持ちになれないこともありますので、
申し訳ありません。
*******
何ゆえ、こんな事をひっぱりだしてきたかというと、
先のべたの写真のせいである。

http://novel.blogmura.com/tb_entry71863.html
物書き同盟 作品列伝 イン・ブログ村

ここの管理人になっていたのだけど、
管理人の権利を放棄しないまま
ブログ人の消失により、ブログ登録を解除したのだけど
実は、非常に忙しい時期にこの手続きをおこない
TBコミュのことについては、
すっぱり忘れていた。

そして、最近改めて、ブログ村に登録しなおして気がついた。
管理人でありながら、管理室にはいれない。
管理のための本人確認が必要とのことで、
別のブログでも別のメールでも、
合言葉のような暗号をブログにはりつけてくれたら
確認ができるといわれ、gooでおこなったのだが、
記事をあげまくってる最中で合図記事がだいぶ後ろにいったせいか?
認証できないといわれ、放置することにした・・・。

つまり、お誘いの返事の中に書いた、管理人失格のサイト?が
もうひとつ、あったときがつかされ
ついでをいうと、
ここでも、旨物談義と歴史?のサークル(歴史はひきつぎ)をつくって放置している。
・・・・
なんちゅうこっちゃ・・・。

5サイトのうち、3サイトは、パスワード失念・・・。
IDもどうだったか・・・。

そこで、ふとおもいだした。
まだつくってたよなあ。
TBコミュ・・・。
永沢君のブログからww
さがしたら、あった。
いつでも、初舞台
永沢君の作品のタイトルからとったものだ。
TBコミュのお題目も憂生が書いたままだ・・・

ただ、お題目の通りの投稿場所にはなってないなww

新しい管理人さん、ずぼらこかず、ちゃんと自分で書けよ。
と、いいつつ・・・。
ここで、引き継いだサークルもそのまま、だったように覚えてる。

またしても、管理人失格の事象を自分につきつけることになるとは・・・。

そして、文芸サークルのお誘い。

感想がもらえる・エールがもらえる。
こういうのを誘い文句にしなきゃならない姿勢にも
こちらの思うことや
やってきたことと
かけはなれていることでしかなく
ここらをはっきしいいたかったのだが、
やめておくことにした。

サークル管理の難しさは少しは判るし
誰でもかれでも、
入会させていたら、あるいは、文芸誌自体のレベルもさがるだろう。

入会させても良いというレベルだと?おもってくれたのだろうと思うことにして
なにもいわずにおくことにした。

しかし・・。
ネットという媒介があり、
憂生のように、1スレッド全文掲載にして
ワードにコピーしてプリントアウトして、
個人的によんでくださるのは、著作権侵害にならない。

あくまでも、個人的に使用するもので、
自分のブログにはりつけて公開する。
などは、著作権の侵害になるし
たとえば、無許可で文芸誌にのせて、会員に配布してというのも、
侵害にあたるのであるが、

あくまでも、個人がゆっくり読みたいとか
自分のワードにおとしたりして、個人的に読むのは侵害にならない。

この点でいうと、
個人が自分のためにあちこちから、
作品をとってきて、
自分のために、プリントアウトして
1冊にまとめてよんでいてもかまわないという極論になる。

と、なると、
はたして、文芸誌サークルが存続できるか?
と、なると、
なんらか、ネットでは得られない「人との交流」を
うちださないといけないのだろうと思う。

管理人失格の人間にはなんともいえないが・・・。
まず、管理人がきちんと、エールを送る。感想を送るという姿が
必要なのだと思うから
この方はそういうあたりを徹底していったのだろうとおもう。

そういう事を考えると、やはりページ数問題になってきて
過去、在籍していた文芸サークルで倍の会費をはらって、
掲載ページも倍にしてもらったけど、
結局、他の会員からずるいとか・・の話がでてきたそうで
面倒になってやめた。
倍にしてもらっても、6~7年かかるほど、すでに手持ちのものがあり
はてに、ずるい呼ばわりをされているなら、
やはり、ネットのほうが早くなってくる。
まだ、つなぎ放題が確立していなかったころのはなしだけど・・・。

ぼやき・・

かなり才能のあるイラストレーターの卵?の作品をみているせいか、

通常のイラストにほとんど目がうばわれない。


中傷になったら、もうしわけないが、

今回きてくださったブロガーのイラストをみて、

おもったことは、

きたない。

って、感じだった。

(う~~ん。垢抜けていないというか、洗練されてないというべきか)


これは、もうしわけないけど、

才能ある友人の絵が逆にすごいということであり。

きれいであるということだろう。

ちかしいため、細部までのこだわりをみせられてもいる。

刀剣の塚の紋様ひとつでも通常サイズにすると、きがつかなくなる。

かさねぬりや服の裾の紋様やひだ。


ほんにん、自分でもなんでここまでかかにゃいけんのだ。と、ぼやく。


単純にそういう背景や手順などをしっているせいでもあろうが、

服そうも意匠があり、こまかな、デザインやアクセサリーも意表をつくものである

つねづねいうのだが、

なにが違うかといえば、動きをとらえてるというか、

じっとしていても、うごきだしそうであったり

絵の後ろに物語りをかんじさせる。


本人のサイドストーリーも着眼点がよく、

絵に反映されることも多いが

絵。抽出力が濃い。

もってうまれた天性というやつなのであろうが、

動きを捉える眼がすごいとおもう。


な~~んで、瞬間にみたもののうごきをえがきだせるんだ?と驚嘆しきりになる。


憂生は物書きで在るが、基本は一緒だと思う。


もっぱら、心理描写。心理追従になるんだけど、

うごきのいったんは、どういう思いかということが、此方の胸のなかにある。

ありきたりな表現だが、たとえば、

くちびるのはしをかんだ。

等という時にもこちらがわにはその行動の主人公の思いがじゅうまんしてる。

で、その思いをどうひょうげんしていいかというのに、

へたをすると、実際に、自分もくちびるをかむとか、やる。

そのうえで、この表現こう言う風に顕わすなと書くわけで。

ところが、自分の文章表現じたいが稚拙なわけで、それ以上の追従ができないという。


ここをクリアしているのが、イラストレーターの卵のわけで、

だからこそ、すごいとおもうわけである。





自家製本をした。

自家製本をした。

壬生浪ふたり・・。

材料がなかったので扉はコピー用紙 に入っていた厚紙/大笑い/を利用した。
もちろん、表紙も印刷した。

A4用紙を横に縦書きの袋とじ。
フッダーには、タイトルをいれ、
ヘッダーにはページ数。

袋とじにした分ページ数がかさむ。
ちょっと、良い用紙なら両面印刷もできるのだが・・。

半分に折ってA5用紙の大きさになった印刷原稿に重石をのせて暫し、放置。

そして、大型ホッチキス /80~150枚用/で閉じつけ、背表紙代わりのテーピングを施して
できあがり。

77ページあった。

できあがると、けっこう、嬉しくなる。

う~じゃら、こ~じゃら

ああ~~~、憂生、やっぱ、料理人って・・思ってしまった。

腕前の詮議はおいといて~~~。

フルコースの考え方みたいなものが、此処にあるな。って。

前菜がでてきて、まず、これで、次食べてみたい。

物語りもそうだよな。

出だし?

そこで、なにか、次に期待できるものがあるか、どうか。

だから、そういう意味で、憂生もけっこう、でだしにこだわる。

こだわるから、他の人のものを読むときも

でだしとか?

途中でもいいや。

スープとかデザートあたりでもいいや?

ちょいと、つまんでみる。

で、ぱっと、「期待」がえられなかったら、

最後まで、いって・・。

そうだな・・。

コーヒー一杯。

これが、薫り高くなかったら、それ以後読まない。


あ、人のモノだから、えらそうにいうけど・・。

自分の作品は立場が違う。

読み手・・食べる側でなく。

作り手になる。

で、さっきの話。

フルコースという作品の出だしでなんとか、

食べ続けさせる期待をもたせることができたら、

次に何をもってくるか。

どこを、隠し、どこを、主張するか。

一つの素材を扱うとき、調理もその部分を考える。

だが、そのひとつだけを扱うと、何処を隠せばいいか

どこを主張していいか、迷う。

そこが、フルコースのいいところだと思う。

メインを際立たせる前菜。

前菜から次。

前菜で引き立たせたものを利用する。

そのまま、深めるのも一手。

逆パターンにもっていって、意外性とのミスマッチ。

そして、最後にたどりゆく場所は

『美味しかった』

最後のコーヒーは物語を読み終えた「余韻」を楽しむ、ひと時。


コースで言えば

食べ終えた旨さへの充実感。それをそっと、抑える。

一種、封印作業。

だから、コーヒー(物語の余韻)は薫り高くなきゃいけない。


あ~~~~~~。

へぼ調理人・・

計画と企画がディッシュの上に並ばねえええええええ!!


もとい

何処のサイトだったか忘れてしまったけど・・。/カフェじゃないのは確かだ。
小説をかいている。
出版したい。

と、こういうぼやき?があった。

憂生も出版しようと思えば出版社との共同・協力出版はできるようなんだけど?・・・。
出版せずに居る。

カンタンに言えば「出版」イコール「読まれる」ではないと思ったからだな。

本当に実力があれば賞に食い込める。
食い込める実力があれば、当然読んでもらえるだろう。

ところが、賞に食い込めないレベルの書き手は
/無論、憂生のことである。/
一度は自費出版とか・・・。
協力出版とかを、考えるんだよな。

だけど、なんだろね~~。

賞にも食い込めない程度の力量の文章作品に
金をかけて・・・『本」にする。

コレって、おかしいんじゃないか?
って、気がしてな。

あげく、金を出させて「その程度」の作品をよんでもらう?

なんか、間違ってる気がしてな。

第一において、出版したいってのはなんだろうか?
読んでもらいたいって事じゃないのかな?

そう考えると「その程度」の作品を金の力をかりて、無理やりに出版するってのは、
わがままっていうか・・・。
出版した。本にした。というステータスに目をくらまされて本にしてまで、金を払わせてまで読んでもらえる作品であるか、どうかは、どこかにおいてしまってる気がする。

問題は良い作品を書いてゆくことじゃないのだろうか?

良いものを書いてゆけば、
必ず読まれる。

今の世の中はネットというものがある。

出版に拘ることなく、第一の目的である
「読んでもらえる」が、かなりカンタンに実現できる。

読んでもらう。
作品は、よんでもらってこそ、命が始まる。

本を出版することでなく、
自分の執筆能力を少しでも高めてゆく。
そちらに拘るべきだと思っているから、
憂生はやっぱ、この先もネットが作品置き場だな。

ふて寝か?

毎度、同じことを言いますが、新之助シリーズは、ギャグ色なので、

当てはまりませんが

性表現部分に惑わされないでください。


SO2..とか、だんだん読んでいってくだされば、AKIRA曰くの

「性を大事にしろよって、メッセージが込められてる」

部分がみえてくるとおもいます。


単純にあっさりと、キーポイントを物語の中に埋めこんでしまうので、

実に見えにくい部分があると思うのです。


蛙においても、「僕」からの視点でしか、かいていませんから、

「事実」が見えていません。

あとから、ああ、そういうことか、と判る。


こういうのが、けっこう、多いです。


たとえば

「空に・・・」の中で、

ここ最近、

「間違っちゃいない」

って、考えを「あたし」が言います。


多分、ちょっと、しつこいくらい。

でも、その章において、

「間違っちゃいない」は、こういう視点の上で(と、書いて)

「間違っちゃいない」って、ことを納得させてるだけのものと思われるかもしれませんが

それだけじゃありません。


おそらく、最後までよみおえてみたら、

この「間違っちゃいない」が、どう言うのかな、

「あたし」の生き様というか、信念というか

それを最後まで通すんですよ。


だから、ラストが生きる。


こういう仕込が各所にある。


だから、実になにげなく、喋っているように見せかけてるところに仕込がある。

あるいは、何気ないようにわざと見せかける。

物語の「こく」を、つけてるわけですが、

この「こく」がでしゃばりすぎちゃいけない。


だから、できるだけ、物語の内容に溶け込ませてしまうんですよ。


なにが、いいたいか・・・。


この場面、面倒だ、って、はしょって、読まないで欲しいってことです。

そこに「仕込み」があるか、どうかは、分かりません。

でも、もしも

「仕込み」があったら・・・。


読み終えたときの「深みとこく」が、ちがってしまうということです。


もちろん、そこまで、たいそうに言われるほど、

「おもしろくねえや!!」

って、場合はいたし方ございません。


部屋の隅で膝を抱えて、眠るだけ~~~~♪


運気は気を運ぶと書くんだよな・・

ただ、10年ひとくくりで、自分を支配する星の運気のひとつがあたっている。
「何もしたくない」
と、いう停滞に近い運気である。
それによると、その運気がはじまると、
今まで好きでやっていたことにも、興がのらずわずらわしくなる。
と、いうのであるが・・・。

この運気がおわるのが、あと1年・・かな?

ここ1年振り返ってみれば、相変わらず、「何もしたくない」でありながらも

なんとか、旨物をあげたり、最近はまた物語に戻り始めた。

おそらく、「何もしたくない」運気の終盤がちかづいてきて、すこし、上向きになってきてるのだろう。

確か、次の運気が逆に行動的になる。

川の流れでいえばよどみつつ蛇行してわずかずつ進んでいった先に、滝がある。

と、いう感じかな?

だから、停滞の終わりかけになってきたら、一変する状況にひきずられて、

好きな事だけは、流れをはやみだしたんだろう。

何故か、分からないがとにかく、なにか、書きたい。

ところが、ハイな頃とくらべると、とにかく、文章が沸いてこない。

おまけに、書いてる主題から、ぞれる。

ここ1年くらいの日記を読み返していると、「話しがぞれた」「違うことになったから、しきりなおす」「かもしれない」など、不安定と起承転結ままならぬ、ぞれまくり・・。

おまけに、書いてる最中に浮かび上がった事がぽろりと抜け落ちてしまったり、失語症チックで、特にでてこなくなる言葉がカテゴリー・・・。他のブログだとテーマだとか・・別の言い方をするので、そっちを思い出して、出てこなくなってわざわざ、ブログ管理室にはいって名前を確かめる。

こんな調子だから、やはり停滞の運気の中にいるのは、間違いないし、

ともすると、些細な事で気が落ちる(この前のスパム云々もそう)

白い朝に・・・の下書きをかきあげ、それを清書し始めた頃までが、もっとも酷かった。

アクセス解析で・・アップしてなくても、きてくださってる人・・。

この存在におしあげられた。

自分のためにも、一歩、進まなきゃとも思った。

書く心になるまでが、自分との戦いだった。

そして、書き始め・・・最近、例の通知が来た。予想に反し、一次で振り落とされていた。

正直、入選したら、人生、環境、仕事、変えようと思うところがあった。

だが、それこそがいけないとばかりに一次からおとされ、しばらく、崩壊した夢?を宥めていた。

元々、諦めきれずにいたものを、ふんぎりつけるためだったんだから、下手に最終選考までのこったら、また、同じことの繰り返しになる。それで、良かったと思うのと、このままがんばっていけってことだなとなにか、覚悟めいたものが生まれてきた。

そして、まあ、こんな憂生のよしなしごとを今までずっと、かいてきて・・。

日記も1000話こしたんじゃないのかな?

いろんな場面の憂生がいて、ブログの中に、憂生というエッセンスが凝縮されてる。

それでいいじゃないか・・。って・・。

だから、物語も書くし、愚痴もにゃこのことも料理も想いもエトセトラエトセトラかいて、

で、もって、当初の目的からおおいにずれた話になって、またも「ぞれた」って、

おい、憂生、大丈夫かよ?

って、自分で心配しながら・・・

それでも、書いていこうと・・・。

で、やっぱし、宿命とか運気とかの話しから

「ぞれた~~~~~~」

この占いに遭遇する前に、いつだったか、宿命と運命の違いとはなんぞや?みたいな感慨を述べた覚えがある。
憂生としては、字のとおり。
使命などというように命は何らか(事・イベント?)をあらわすと思った。
こうなると、運命は外側から運ばれてくるイベント。宿命とは自分が持って生まれて内に保有しているイベント。
と、解釈できると思ったのであるが、
外側から運ばれてくる他の人間とのかかわりなどでおきるイベントはある程度自分のポリシーなどで、事を具体化するか否かをふりわけてしまえると思った。
ところが、宿命をいえば、
事を振り分ける自分自体をつくっている部分ではないかと思えて仕方が無かった。
たとえば、昔からいうように、憂生は不倫は嫌いである。
だから、運命上で不倫事態が起きたとき、それを自分のポリシーで避けて通ることはできる。
ところが、もしも、自分の宿命の中に不倫があったとする。
ポリシーでいくら制してもどうしても、惹かれてしまう。行動に移すか否かは別として、
この自分の感情はとめられない。
自分の底?から沸いてくるのであるから・・・。

そう考えたときに、宿命・・・。
宿命という氷山の下に何があるか、わからないと思ったのである。

そこで、気になったのが、前世だった。
某番組でも前世の記憶?が今生に引き継がれるという事を実証?するため催眠法で前世を呼び出すという実験を行っていた。
なんだかとても、高いところが怖いという俳優の前世は、パイロットで飛行機から爆弾を投下したり、機関銃で人を撃ち殺していたりしたらしい。
だから、その懺悔の念が残り、飛行機に乗りたくない。イコール高いところに行くのはいやだと今生に働きかけてしまうらしい。

と、この前提を素直に信じて見たときに、憂生がひっかかるのは、正義感というか、筋が通らないことは嫌い。白黒はっきりさせたい。あるいは、曲がったことをゆるさない。
(これを本人に当てはめると矛盾するのだが・・・)
と、いう堅苦しい部分がある。

それで、ふと前世占いをしてみたのである。
ここまで、こだわる部分があるので、
昔は遠山の金さんかなにかっだったのではないか?/笑・・・と。

結局、回答は奴隷だったという。
色んな設問があり、そのほかの質問からのからみがあるが、頭の良い奴隷で、主人の不正や奴隷制度の理不尽とかこういうものに、業を煮やしていたらしい。人を思うのも、同じ奴隷仲間の窮乏を見るに心を痛めていたとか・・・。

この前世占いのほかもやってみたが
やはり、聖職者とか、裁判官というものがでてきていた。

この占いが当たっているか、否かは、憂生にわかるはずも無いが
なにか、宿命の後姿がちらりとみえた気がしたのである。

そして、六星占い。

大殺界の中に宿命大殺界があると聞いて
星の運気をあてはめて見た。
大殺界はこれから始まっていく。
だが、今までの人生。
正直、もうすでに、大殺界が終わっているだろうと思うような悲惨なイベントが多くあった。
ところが・・・まだこれからで、今までにまだ一度も宿命大殺界がないという。
愕然としたのが本音だった。

ただ、10年ひとくくりで、自分を支配する星の運気のひとつがあたっている。
「何もしたくない」
と、いう停滞に近い運気である。
それによると、その運気がはじまると、
今まで好きでやっていたことにも、興がのらずわずらわしくなる。
と、いうのであるが・・・。

実際当たっているのである。
ぴったり文章がすすまなくなったころ、
それがちょうどその運気の始まりであった。
今もその運気の中にいる。
簡単な文章なら書くが、あの物語たちに立ち向かえなくなっている自分がいるのは嘘じゃない。

そしてこの運気が終わると
憂生は、宿命大殺界連続2回(20年)にはいる。
この時に生き方が大きく変わるという。
悪くすれば宿命大殺界に飲み込まれる。
良くすれば、新天地を開拓する。

自分の底にある宿命・・・

これは、いったい、なんであるのか・・・。
見えてつかんで終わるか
見えて飲み込まれて終わるか

そして、手をじっと見る。

大きすぎる、神秘十字星。

強運であるはずの神秘十字星も
本によっては、最悪の十字星に化すとも歌われている。

5年後・・この文章にどういう付け加えができているか、あるいは、日記も続けられないほどの逆境におちいっているか・・・。

まあ、実験材料気分で自分を眺めて、
そのときに自分の宿命を語ることができるとおもしろかろうとは思っている

我輩はにゃこである。

ひとつ、ふたつ、白い朝に・・をアップするたびに、

「書いてみて・・」を書いてるんだけど・・・。

これは、どの作品でもけっこうやってることで、ちょくちょく、手詰まり打破?気分変え?まとめる?などのためにぶつぶつ、言うんだよね。

その他の事例は創作談義におさめてるけど・・。

考え事を文字にすると自分の中がみえてくるのかな?フィルターにつまったごみ掃除?

まあ、とにかく本編にかかわることから、かかわらぬことまで、「書く」ことにまつわる物事が飛び出してくる。

こういうの、珍しいんじゃないのかな?

「作家が自分の作品を解説したりするのは、邪道です」

なんつ~~~クレームもいただいたことがあって、

「ばかやろ。憂生は作家じゃねえや」

って、いいかえしといたんだけど。(あ、反駁になってない?)

そういうクレームがくるということは、やっぱ、あまり「しない事」なんだろうね。

ところが、憂生は、やります。

なんでだろ?って思うんですよね。

先に書いた効能とは違う意味でね。

作家じゃない。

物書きなんだって言うんですが。

そこかな?って。

作家は小説書くんですよ。

ですが、物書きは書けることがあれば、なんでも、文字にしちゃう。文章にしちゃう。

いや、むしろ、どこまで、物事を文字に移し変えることが出来るか。

そんな感じじゃないかな。

そう考えると、白い朝に・・を書いてる憂生の中にわいてくる感慨?も文字にできるか、

って、虫取り網もって飛び回る感慨虫をつかまえて、

捕まえたら、やっぱ、

「採ったど~~~~!!」って、見せに行くんですよ。

つまり、うちのにゃこが「蝉つかまえたにゃ」「トンボつかまえたにゃ」「雀つかまえたにゃ」

って、見せにくるのと、同レベルなん・・で・・・す・・ね・・・。

(書いていて情けなくなったりもして・・憂生、やっぱ、にゃこ人間なにょかにょ?)


初心に帰る?

早速の返信と・・・画像投稿のほう、ありがとう。
実際、やはり、書き終えたものといえども、
ソレは、それで、愛着があるもので、
あるいは、駄作であると思う
SO2シリーズにしろ、
顰蹙を買うだけのアダルト作品にしろ、
その中の
一つの表現ってのは、
自分の中のスキルバロメーター的役割があって
自分の表現の仕方の拡大っていうのか・・・。

その丁場丁場で
どういう表現が出てくるか、わからないものであり、
その判らないものの中にも
物語の環境によって、
同じ事の表現でありながら、
爆裂/笑が変わってくる。

例えば、
新之助シリーズのように
時代物コメディ。
白蛇抄のような、
時代物で
陰陽師 で・・線香くさい物語。
戦後の
タッチ
戦中のタッチ。
ラフな性白書?。
アダルト。
恋愛
一種推理小説のような白砂に落つ。
純文学タッチの蛙。
大河ドラマ仕立てのお登勢。
歴史上の人物を設定すれば
二次創作ともいえるかもしれない。

書いていることはどの作品も相通じるところがあるが、
その作品のシチュエーションやモチーフやキャラの特性により、
表現がことなってくる。

それらをどのようにうめつくすかにより、
作品のムード・雰囲気が生きてくる。

稚拙なれど
自分の中でその試行錯誤が成功したと思える作品ほど
ソレはほかならぬ自分が一番よくわかることでしかないけれど、

故に捨てがたく/捨てる必要も無いけれど・・・/自分の中のある場所への登頂の
足がかりが各ポイントにランダムにつくられてゆき・・・
あるいは、それらの足がかりという設置点が
完成したとき
ある場所へ易々と登頂できる自分を作れるという事かもしれない。

なんにせよ、
敵も味方も己のうちにある。

かいてゆく。
ソレしかないことは
スランプの自分を鞭打った物書きの納得。

書いてゆく。

それが、自分を引き上げる。

今はそうしかいえない。

が、/笑

当初から
そも最初から

「書く。書く。書く。ひたすら、書く」

そういっていた憂生であると思う。

スランプの正体?

短編から長編まで
およそ、110作品をここにかかげているけど
その半分は1年くらいの間にかきあげた。
異常ともいえる状態で
毎日1万文字以上、かいていた。
むろん、物語だけでなく
メールにブログに手紙にと、文字類すべてをたして
そうだった。
体調も異様といっていいかもしれない。
夜中3時ころまで書いて、
朝には仕事にいくのだから
平均3時間くらいの睡眠でやっていたことになる。

そして、わきあがるように文章がでてくる。
あまりにわいてくるので、
とにかく、OA用紙にボールペンで書き付けるのだけど
手がまにあわない。
本人ですら、解読不能になりかけている文字を
ひろいなおして、そのまま、清書をかねて
ワードにいれていく。

かぞえたことはないけど、
物語だけだと、その1ねんくらいで
50編ほど、およそ250万文字
(そのころの長編が邪宗の双神で16万文字あったとおもう)
こんな調子でかいていたから、
考えながら書くということがなかった。

ところが、スランプと言い出したころ。
考えながら書く。
一日1000文字ももがく。
わいてこない。

こう溜め込んだものがいっぺんに流出したあと
はみがきのチューブとか、マヨネーズとかの残りを
搾り出したり
逆さにして、下にたまってくるのをまつかのような
遅筆・・・。
かつ、粗構想はあるのに、つながっていかない。

友人が3000文字ほど書くのに
どの言葉をつかうか迷いまくってちっとも筆がすすまないのを
「不思議」とおもっていたが、
まさにその状態に自分がなるとは思ってもいなかった。

どんでん返しや伏線をはるのは、
得意だとおもっていた。
小道具を象徴的に使うのも得意だったはず。

なのに、どうしたものやら・・・。

この考えて書くというのこそ
ある意味、本当の自分の実力なのだとおもうと
われながら、愕然としてしまう。

どうも、この「本当の自分」をみとめきれずに
うしろをふりかえってしまっていたようだと
最近、きがついてきた。



自分の作品を考えてみる

あるとき、心の綾を
文字にかたどる素敵な詩人にであいました。

憂生(うい)は
その方に自分の作品をよんでほしいとおもったのです。

そこで、おねがいしてよんでもらったのですが、
かなり、厳しい意見がかえってきました。

どういって、良いか・・・。
憂生の解釈になってしまうとおもうのですが
「宣伝まがいの行動がいやだ」
と、いうものだったとおもいます。

知らずに出会ってよんでいたら
すばらしいとおもったかもしれないけど
自分を売り物にするような根性だという先入観にとらわれて
素直にうけいれられなくなる。

と、こういう意味合いだとおもうのです。

同時に別の方からも
「自分の作品を作者自らが感想?を書くのはどうかと思う」
と、いう意見もあがってきていました。

この2つの意見について
その当時の憂生は「違和感」という感覚でしか
うけとめることができませんでした。

むしろ、
前者の意見にたいしては、
結局、宣伝まがいをとおりこした作品にしあがってないということだったとおもうのです。
これは、
空に架かる橋のときに読者さまから言われたことの逆発想です。

ある小説投稿所?からこちらにリンクさせてほしいといわれ、
許可したところ
なんと、エロ?小説に分類されてリンクされていたのです。

かなり、憤慨したところに読者さまたちが意見をくれまして
「きっかけが、エロ目当てであっても、
あの作品に遭遇してもらえたら
そのほうがうれしい」
「私も当初は性表現ばかりひろい読みしていたけど
あるとき、突然もっと深いことがかかれていることにきがついたから
きっかけはなんでもいい」
「きがつくか、きがつかないかは、読者次第ですよ。
しのごのいってないで、次かきなさい」

ここらを逆にかんがえれば、
宣伝まがいという嫌悪感を払拭することができなかったという作品だったということになるかとおもいます。

次の書き手が自ら、感想?をかく。
と、いう意見については
ここは、作品で勝負したらという意見だとおもうのです。

ところが、
憂生は逆にかんがえていたところがあります。
まず、作品で勝負したらという考えのうらは
「作者が補足する。書き足りていない。作者の意図を恣意。意図を限定させる」
と、いう見方ではないかとおもったのです。

いろいろ、作品をかいていますと
作品に感応するところは読み手の人生によって
それぞれ違うということです。

ある人は重大な示唆をみつけます。
ある人は自分の心のくぼみをみつけます。
読者自身がもっているさまざまな環境やとおりこしで
読み取る部分もちがえば、感じ方もちがうわけです。

いくら、書き手がこういう風な意図だったといったところで
作品というのは、公開したときから
読み手の自由選択なのです。

しいて、いえば、書き手である読者の感想?も
そういう解釈もある。と、いう意見でしかないのです。

これが、作者がなにかいって、
解釈がほかになくなるのなら
その通りの作品でしかないわけです。

意図が限定されてしまうような作品なら
それだけのもの?単色の作品でしかないわけです。
また、逆にいえば、
作者の感想?が、新機軸ではないわけです。
なるほど、そういう見方があるということを
ほりさげていないだけです。

このあたりのときに
読者のかたから
「書き手のプロはいても、読み手のプロはいない」
と、いうことをいわれたことがあります。
この方がある作品を読んで、自分が抱えるトラウマ?とむきあってしまうことを
おしえてくれたのですが、
たとえば、そういうふうに、えぐってしまうものがあるかないかも
読者の中での問題でしかないわけです。

こういう言い方をすると、いやみかもしれませんが
憂生なぞの意見に左右されるような状態は
幸せな人だということになります。

その作品を読んで
自分のもがく部分をみせつけられてしまうということもあるわけです。

作品の中で未完成なものがありますが
その作品のひとつのテーマは
「赦す」というものでした。
この作品については、率直に「赦す」ということを
追い求めている人が反応してくれました。
逆に「読みたくない」という反応もありました。
それは、「赦せない」自分とむきあいたくないという防御反応にもみえたわけです。
作品というのは、よまれてこそという言い方がありますが
読みたくないということでさえ、なにかをひびかせてしまうものだとおもうわけです。

そういう風に考えると1読者としての憂生もいるわけです。

そして、書き手としての憂生はしょっちゅう、どうかいたらいいか、てづまりだ、スランプだと
いっていますし、構想ぶつぶつをいいますが、ここは
書いてる途中なので、ねたばれになることをさけてかかなきゃいけないという制限はもっています。

そして、一番の違いは
憂生は小説を書いているわけではなく物語りをかいているのです。
つまり、小説家でなく物書きなのです。

物書きというのは、
自分の心に感じた「MONO」を文字に移し変える人のことと考えています。

だから、自分の作品からでさえも、自分の心に感じた「MONO」を言葉という文字に移し変えたいという衝動をおさえないのです。

ここの衝動的
あるいは、自分は何をかんじているか、外にほうりだしてしまおうというのが
憂生のスタイルだったわけです。

ですから、
先の宣伝まがいはいやだという拒絶にあってしまったものの
憂生自身は
「この人によんでもらいたい」
と、いう
「MONO」を外にほうりだしたわけで
そこがうけいれがたかったわけでしょうし
逆に
「宣伝まがいはいやだ」
と、いう
「MONO」をその人はほうりだしたわけです。

この無自覚だった
「MONO]というこだわり?欲?をだしきってしまうと
憂生は読んでほしいと特定個人にむけておもわなくなりました。
相手の方が
「宣伝まがいはいやだ」という拒否感?こだわり?をもたなくなったかどうかはしりませんが
逆に
憂生自体が「宣伝はいやだ」と、おもっていたことをみせつけられました。
ですので、
宣伝が嫌いな憂生が読んでくれということがめずらしいことなんだと
おもいこんでいました。

結局、最近は
自分が本当によいとおもったら
よんでくれと進めたくなるのが本当であり、
それゆえに
真価を解してもらえないのなら
安易な安売りをしないのが本当であり
そして、
その真価を本当に自分こそが買っているかどうかということになったとき
自分こそが、自分の作品をああもよめる、こうもよめると気がついていくのが本当だろうとおもえるのです。

だけどね・・・

読者登録しました。

って、なって・・・。

で、それ、あわてて、退会するって人があとをたたないんだけど・・・。

それ、メールにはいってくる。

で、アクセス解析をみれば、あとが残るとか。

アメーバーはマイ頁があって、そこにアクセス解析をはることが

うまくできないというのもあったりして、

つまるところ、バリアもはれない。


おちゃらけで、読者登録するような人は、バリアはりたいんだけどね。

で、今回はなうをフォローしましたってのがあったんだけどね。

そうそう、

タイトルの「だけどね」だ。


憂生

なう書かねえから~~~~~~~~~。

絵に描いた餅ってやつだな。


うん。


そうそう、ついでに、おもいだした。

FC2がブログ界でアクセスナンバー1になったとか・・・。

FC2、エロ許可してるところだから・・・。

アメーバー頑張って表現行き過ぎブログを淘汰してるとこあるし、

実質、あまりの規制に、FC2にて、書く人もいるし、

あまた、小説投稿所が、18禁とか、BLとか表現に問題がある作品は受け付けないというところが

多いわけで、

そんな中、FC2小説は、わざわざ、18Rですと区分けさせて作品を掲げさせてる。

形としては

貴方は18歳以上ですか?みたいな入室許可があるようだけど

こんなものがなんの役にたつのだろうか?


憂生自体も行き過ぎ表現の作品をここで掲げていた時期もあるが、

疑問は感じていた。

OCNカフェなど、小学生だって閲覧するのだからと、規制をいれる。

アメーバーは健全なブログをめざしますといいながら、18R・官能小説を載せてもかまわない。

以前にも書いたが、アダルト小説は当初、FC2のアダルトブログに登録したところに掲載した。

いつのまにか、感覚麻痺をおこして、通常ブログにものせたりしたが、

最終的に封鎖した。

もちろん、憂生のことだから、どこか、「問題意識?」をもった作品にはしあげているが、

ほれ、そこが、なんだ。

まあ、それなりの表現ができてるもんだから、そっちに目当てに来る人間が多くなって、

まじめに(いや、アダルト小説に内包させてる問題意識もまじめなものだけど)書いてるものまで、

アホログ検索が入るというのをみてしまうと、さすがに、いやになってしまったのがある。

真摯に書いてる日記のほうにも興味をもってくれるというのなら、まだしも、だが、

あほログで検索してくる人間がまじめなものなどよむわけないか/笑

と、余計な期待と誤解(この人はエロ作家だ・・と)をもたせるのも、よくないな。


と。

何度もかくが、全作品の〈日記を含む)5%にもみたないもののせいで、他の作品や日記や憂生本人まで、誤解されるのも、困ったことである。

こういう意味合いもあって、誤解をまねく作品は封印したのだけど、来るね。

まだ、ネット上にのこっているんだろう。

調子こいて、宣伝してしまったものなんか、いまだに、削除できなくて(パスワード忘れで)そこからも来る。

こんな調子だから、さぞかし、FC2はアクセスがふえただろう。

だが、そのような状況でふえたという原因は、言わずしてだ。

いろいろと規制をかけたところにより、アクセス数が減っただろうと思うアメーバではあるが、

「本当に良いもの」を、安心して載せられるという質の部分を大事にしていって欲しいと思う。

そういう意味でも、一斉大量読者登録をする人達を規制してくれてるようで、

ありがたい。

で、ね。

たとえば、憂生のなう(今の思い)ってのは、かくもながったらしくて、とてもじゃないが、

なうではおさまらない。


ちっちゃい字でアップしておくかな。www


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