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C・モルガンの「人間のしるし」

のなかで、フランスを侵略した、ドイツ兵のきょてんとして、

自宅を占領される話がある。

そのドイツ兵がピアノ をかなでるのである・・・。

フランス人はその芸術的な旋律に感動さえ覚えるのである。

そして、ピアノを奏でるあの人間が

人殺しをすることさえ信じられないとまで思うのである。

なんだろう・・・・。

憂生はいま、どこか、この話が

自分の中の何かと符号して仕方ないのである。

根本的にまちがってると思うことであるのに、

人の思い・・・に、

ピアノの旋律に・・・、

どこかでうなづいてしまう。

高校生の頃だったと思う。

「知らない事の危険性。

知ってる事の危険性」

こんなせりふをはいた。

たとえば、

きょくたんなたとえだけど、

バイクなどの暴走行為?

バイクを走らせる爽快さもしらないくせに、

あんなことと、闇雲に否定するのもどうだろう?

でも、逆にその爽快さをしって、

暴走?/あくまでもたとえでちょっと、うまくたとえられてないんだけど/

してしまう事も、又危険といえる。

人の思いも同じ。

知らずに批判するのは危険だと思う。

けれど、知る事により

批判できなくなる自分になることも

時に危険だとも思う。

そうだね。

君の言うとおり・・・。

人の思い/重い/でおしつぶされないように・・・。

憂生は上手にピアノをきかなきゃいけないんだろうな。

★ 新しい作品の題名を急遽、考えなければならなくなった。(過去記事)

内容は「星読み」(天文敦煌)に関わる事である。

で、星となれば光とか瞬きとかという言葉を連想するのであるが、

この前からアスペクトによく使っていた煌きとか、輝きが頭の中でちかちかしてしかたがないので

是をそのまま拝借して「煌輝」の字をタイトルにいれることにした。

が、是を多分「こうき」と読んでいいのだろうが、字だけで決めた事なので、こんな熟語は実際あるのだろうか?と

念のため変換で調べてみたが、近いところで光輝がでてくるだけである。

まあ、今までも勝手に熟語を造って使用しているのであるが、字面の意味合いで解るだろうと知らん顔して使っている。

あるいは実際ある言葉であっても自分がよく知らないだけなのかもしれないが、例えば『蟷螂』の中で、「まさしく有情無常」なんて使用している。

有情無情という反語的意味の熟語としては、成り立つ言葉かもしれないが

この有情無常はこの物語の情景を持ち出してこないと意味合いが通じない。

逐一調べ上げるのが面倒でこういう勝手もありと、している。

造語と言う事を言えば今までなかった言葉、表現が世の中に出てくる事は往々にしてあることで、この代表例としては野坂昭如だったろうか?

援助交際という造語を世に流布してしまった。いまやエンコーとつづめて呼ぶほどに定着しているが元々はなかった言葉である。
造語と関係ないのだが、言葉で思い出したことが、ひとつある。

★ 星を押すと*※★☆・・・などの記号の星が出てくるのだけどハート は2種類しかでてこない。

時々この記号が文章の中で選択されて悪童丸が悪童○になったり右が→、上が↑、とか、(朝顔に)水をかけるなのに、水を×になったり、瓶も÷。パソコン の使用者が一人でないせいもあって先に使用があった物を選ぶ事があり、記号になるのはいたし方がないが

「上」が「↑」で出るのは同意だから許すとして「飢えに苦しむ」なんて悲壮な事を書いてるときの「↑に苦しむ」となると、なんか、許せなくなるね。

特に最近「星読み」とよくかくが、是が★読み。アスペクトを書いてるのかとおもっちまった。

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鏡に映しこむ作業


ふと、考える。

一億総作家といわれるこの時代において、

何のために物を書くのだろう?と・・・。

この何年間、物を書いてきて思うことは

「自分の思い方や考え方が如実に反映される」と、いう事だった。

娯楽作品を書かないわけじゃないし、書いたものを言えば

完璧なギャグという、本来の娯楽を目指す。

そんなギャグ新之助シリーズにおいてさえ、

ところどころに、「自分」が反映される。

判りやすいところでいえば、

殿~~~の中の家老野原新左ヱ門もそうだ。

「お方様になりたいと身を投げ出す女子の多きこと、なげかわしい」

「人間は極限をみてしまうと、幅が広がってしまうものである」

かまゆでの刑に処すにおいても、君臣新之助は

殿の行状に人として赦してはいけない節度を思い、

なおかつ、人道としてのあり方で

下が上を裁くまねなどはしてはいけないと

退去を覚悟する。

何気なく、書いている中に自分が映し出される。

こう考えると、物を書くは

一種自分を量る映し鏡の部分がある。

書きながらみおつくしをうめこんでいく作業をしている気もする。

ほかの人は自分の書いた物の中の自分を意識しないのだろうか?

憂生は自分のかいたものに示唆されるということがしばしばあった。

人のために書くんじゃない。

自分のために書かされるんだ。

そういう啓示ににた作業と意識し始めたのは

つい最近のことではアル。

そんな中で、今回の箱舟は自分の中の何を啓示しているんだろう?

と、逆の発想でみてしまう自分が居る。

なにかしら、ひっかかることがあるから書くわけで、

なににひっかっかっているのかは、直にみえないかもしれないが、

判った時にはまたもさらけ出して、自分の中をまとめてみたいとは思っている。

シャドウ・・。

おおずしさんが「読むのは、縦書きがよい」
と、足跡コメントでおっしゃっていたのだけど、
これは、
確かにいえます。

憂生の作品はもともと、縦書きで
B5版くらいの本にしていたものです。

読むにも、確かに縦書きがいいのですが
実はかくのも
縦書きがいいのですよ。

今回久しぶりに
蛙の続編を書きましたが、
実はこれもいったん、縦書きにかいているのです。

ウェブ にすると、勝手に横書きになってしまうのですが・・・。

日記などを利用して
ココでかきながらと言う事も考えたのですが、
なんか、気分が乗らないのですよ。

どういうんでしょうかねえ?
1行が独立してゆかないというか?
横書きは直ぐ上の文字と同調してしまって、
1行の韻律と
文字の中に含まれる余韻?がどこかに飛んでしまう気がします。

憂生は結構文字にしないシャドウ の部分で
意味合いを判ってもらおうとする
我侭なものかきなので、いっそうそんな気がします。

そうですね・・・。
例えば、政勝が
「な・な、な・・?」
なんて、いってほったらかします。
普通は
そのせりふの後に「政勝はつぐ言葉がでてこない。」
とか、解説?がはいるのですが、
憂生の場合・・そのせりふで暗黙/シャドウの部分を
かもしだしたいとかんがえてます。
政勝が、現に「な、な・な・・・」といってるだけで、
もう、言葉が出てこなくなってる。
これを説明しなくても
わかってもらおうとしてしまうという、
本当自己中なものかきです。

ごめんにゃさい!!


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答えというか・・・

先のスレッドの言葉・・・。


箱船でなにを示唆されようとしているのか、


判ったら、かいてみようか・・


だったかな。


なにか、それを書いたのち、SP・・スピリチュアルに傾いた。


それも、第二回となる。


SPというものを、どう生きていくべきか?


とか


自分自身をつかんでゆく


とか


まあ、人それぞれだけど、いろいろ、判らない?知らない世界を


知らされることもおおくあった。


どうしても、霊的世界にかかわる部分もあり


第一回のときも、不思議な経験があった。


くわしくは、また、別の機会として、


1つだけ、いわゆる前世を知るときにおきると、きく体験があった。


名前さえうろおぼえで、違ってるかもしれないが・・。


インノンケンティウス3世の名前がうかび


ウィキをさがした。


グーグルのページで名前をみつける前から


涙がぼたぼたと零れ落ちてくる。


「なんか、すごい事をした人なのか?」


むろん、人道的愛にあふれる・・とかのすごいをかんがえたのも


どうしたものかとおもうほど、涙がおちてくるからなのだが


読んでみて・・どっちかというと・・悪い人だなwww


つまり感動的な人物だと(予知?したせいで)、涙がこぼれおちたわけではない。


と、なると


前世とか?こういうところで、なにかかかわりがあったのかもしれない。


と、結論したのだが・・。


まあ、そんなのが第一回SPシンドロームだったわけだけど


第2回はなんというんだろう。


SPの中は世紀末症候群ともいうべき状態で、


自分のハイヤーセルフとつながろうとか?


高次元からの伝えとか?


それを否定する気はないが、


なにか、SP論に洗脳されるところが多くあった。


そのたびに、おもいだしていたのが、


箱舟だった。


SP論という宇宙生物に寄生されているのに等しい。


アセンションで次元上昇しなきゃいけないとか・・。


こうすればいい、こうかんがえればいい、とか


なるほどとおもうのだけど


借り物意識をとおりすぎて、寄生意識になってくる。


この感覚は「自分じゃない」といういうことだけはわかるのだけど


論破することができない。


そのたびに箱船を思い出していた。


そして、第2回シンドロームを通り過ぎて思うことは


すでに、普通の生活の中にあることを、見失った人間の再発見講座でしかないのではないか?


と、いうことだった。


たとえて、いえば


ごはんを食べる。いただきますという。


たべおわると、ご馳走様という。


そこには、自分をいかせてくれることごとくへの感謝があり


ひいては、自分の命あることを感謝するからこそ、なのだと思える。


そういう日常にとけこんだ「感覚・感謝」をおきざりにして、


アセンションで魂が上昇するものだろうか?


まさに、根底をわすれさせる上手な洗脳に寄生されているとしかいえない状態ではないか?


と、今は思う。


いわば、憂生の軸が、寄生主にのっとられないように


憂生に箱船をかかせておいたようなwww


そんな感覚を味わっている。


と、いうのが、

箱船でなにを示唆されようとしているのか、判ったら、かいてみようか・・

と、言うところになる。

いろいろあるもんだ

物語を書いていく中で


逃げ場をうしない


性におぼれる主人公を書くときがある。


このときに、


おぼれている状況をそのまま書く。


憂生が不器用なせいでしかない。


いかに性におぼれているか、


その感覚に陶酔していく事実をもちだしてこないと、


「おぼれてもしかたがない」

「それが逃げ場所になる」


を、説得、納得させられない。


このため、全体的に読んでくれたら

必要な場面だから、


「いやらしさなど感じず官能小説が嫌いな私にもよめました」


と、いうこともあったわけだけど


いつだったか、文章力があり、表現力も卓越している


ぜひとも、師事させてください・・・(ほかのとごっちゃになってるかな)


と、小説を書いてらっしゃる方から申し込まれた(と、いうのか?)


憂生はもしも、添削をゆるされるなら

こてんぱてんにやっつける(自分の拙さたなあげにして/笑)

人生観から物申すので、へたすると、設定から

構成の甘さがみえてたらここもたたく。

つまり、作品だけを批評していくのでなく、

その人の人生観も問い直す。


こんな憂生がいることなぞ思いつきもしない。


やんわりとことわりをいれた。

憂生の作品は性表現多いですから・・。


返ってきた答えは

官能表現もすばらしく、それも美学であり

恥じることではありません。


はあ・・・。


憂生が思ったとおりというか・・・・。


全体を通して読んでいるのだろうけど

テーマ部分に触れてない。

文体や表現力や構成力などという

どっちゃでもいい(わけでもないが)ことを師事したいだけ。


憂生が周五郎を師事したというか

得たことは、

人間への暖かいまなざし。真摯さ。

生き様をみつめていく視線。


いわば、物語を書き起こしていく根底部分だった。


そういうテーマというか、訴えたいことが

こちらの心、琴線にふれた。


結局、いかに、生々しく現実味のある(心理とかも)ものにしていくことで、

たとえば、

性におぼれても仕方がなかった人間の凹みとか、

そこからたちなおっていく人間を描く。


おぼれても無理ないところをかきながら、

そこに、本当の充実をおぼえない虚しさ。


おぼれても無理ない境地をかくからこそ

よくぞ、そこから立ち直っていった。とも。


いろんな作用があるから、かなり丁寧に書く。


それをそのままの外面しかよみとれない。


そういう意味合いで

囮の断りをいれれば、

見事にそこにひっかかる。


その程度の受け止め方しかできないで、

見た目だけを師事したいというのが笑止で、断った。


(まあ、憂生くらいの才のものに師事しようというのもすでにどうかであるが)


本当に良いと思ったら黙って、師事すりゃいいじゃん。


こっちにいってくるということは、

自分の師事したい部分が

こっちが目指してることに合致しない場合は

こちらの目指していることに改めるという覚悟も含まれる。


自分にとって師事したいとこだけを得たいなら

黙ってやっておけといいたい。


こっちゃにいうてくな。


あげく、結果的に師事したいとまで思ってるはずの人間を侮辱したことになるとも分かってない。


世の中には、こういう

誰かに付き従うタイプがいるもんだと思う。


どらえもんのスネオみたいなタイプ。


逆にスネオタイプに付き従われるタイプ。


どうも、憂生は

妙なポリシーがある。


男はいざというとき。


つきしたがいもせず

つきしたがわれもせず

およそ役にもたたなさそうで

おるかおらんかわからん。


だが、いざとなったら、

「誠」の一字。


しゃ~~から。


いざでもないのに、

あっちゃにへっつき

こっちゃにへっつき

してないで、


あっちゃをひっつけ

こっちゃをひっつけ

してないで


よしと思ったら黙って

師事して

欲しいとこだけとっていって、


たかが、文章。


こんなもんが

いざ、なわけねえじゃん。


せめても、うっかり

スネオ的生き方をすんなってんだ。


別段、上にかいた人だけのことをいうわけでなし

小説書くということだけでもない。


あ、ぐだぐだいったけど

いい言葉があった。


鶏頭なるとも牛後なるなかれ・・・。


およそ、考えのない尻尾より

考えのある頭になるべし。

でもある。


憂生もいろいろ考えよう。


そして、とどのつまり、自爆して、こう言うことになる。


馬鹿の考え、休むに似たり。

うにゃうにゃうにゃ・・

いつだったか、プロの書き手はいるけど、

プロの読み手は居ない。


って、話を相方AKIRAと、話した。

「あたりまえだろ。プロというのは、金を稼ぐんだ。

憂生のものを、読んで、憂生が金くれるのか?」


ごもっとも・・。



まあ、だけど、読み手の受け止め方の違いというのかな。

アダルト執筆部分でも、多少、そういう事をかいたし、

日記にも、すでに書いている。


結局、物語の後ろ側を読み取れるってのは、

ひいては、その人の人生経験での「一種、苦労」だなって思う。

で、何が言いたいかというと

七日七の最後の科白。

文脈的には意味が通じてないのだが。


「あれの生き様を変えとうない」


この裏側の童子の思いが一言に出てる。

逆に生き様を変えさすということは、

童子がかなえを娶り、一生、添い遂げる。と、いう事になる。


本心はそこまで、かなえを思っている。

それを、変えとうないと、一言で言う、

童子の思い。


成っては成らないと心をねじ伏せる。


たとえば、別に恋愛でなくても

そういう苦労をしている人が読んだら、

童子の底の思いや苦しさまで、読み取る。


こういう事をあちこちにぽんぽんおいておく。

前にも書いたけど、白蛇抄は自分のレベルで書いてる。

自分が読んで納得する考え方で書いている。


どういう考え方かは、物語でいちいち説明できない。


たまに、こうやって、ぶつぶつ言う。


そして、これもどこかに書いたが

人のものを批評するのは、嫌だ。

書き方とかいう技術的なものは別だが、

「考え」や「感情」に触れる物は特に嫌だ。

なぜなら、そこまでしか読み取れない自分を

披瀝するのに、等しいから。


とは、いうものの、

あちこちの若い人の文章を批評させてもらったことが有る。


本人が「おかしくないか?」

と、教えてくれというのだから

仕方が無い。

そういう場合、やはり、逸って書いている。

心理と食い違った行動とか、

前提を無視した文章になる。


とりあえず、そこだけ、教える。


この部分でAだといってるのに、

あとになったら、Bになっている。

Aに直すか、Bになっていく経緯を書き込む。
と、教えるんだけど、それが、判らない。

必死で書いてるから、全体像がつかめない。


AがBになってるという事から、

理解できない。


で、泣きながら文章直す。

指摘されたことを理解するまでくらいついてくる。


でも、そこまで、はっきり、こっちが、いろいろ指摘するってことは、

逆を言えば、よい物を持ってるから。


それでも、よほどじゃないかぎり、こっちからは言わない。

こっちが、言うときは、文章の中での本当に必要か必要でないかの部分へのこっち側の疑問。


まあ、昔は、よく、人の文章、直した。

個人的にワードにとって、

どこが、おかしいんだろうか?って。


自分ならどう書くか。


ず~~と、書き直して思ったことは、

その人の思いまでは、映せないって事。


なぜ、この主人公はこういう行動をとったんだろうか?

って、思ってしまう。

当然、自分に思い入れが無いから

何故か、判らない。

判らないから、心が見えない。


自分の物語で思い入れを映せる表現をした方が早いわけだ。


そして、やはり、その人のスタイルが有る。

もっかのところ、すごいと思う人は二人しか居ない。

ひとりは、上に書いた人。


もうひとりは、レガち君、君だ。


きちんと、自分のスタイルを築き、

余分な装飾のない

的確な表現が

逆に文章の後ろの世界を無限空間にする。


正直、言葉を選び、表現を選ぶということの

究極をみる気がする。


うらやましい限りだ。


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ぎょうぎょうしい・・・・。

あちこち、記事を移行しているうちに、

だんだん、1行の文字数が変な風に成ってしまった。


本来は、縦書きが良い。

上から下へ1行を読み終えると、次がすぐ隣にアル。

瞬時に

今読んだ行の隣に目を動かせる。


ところが、ブログは、どうもいけない。


ブログの端から端まで書いている人が居るが

正直、これは、読みにくい。

左端から、右端まで行って、また、左端に戻ってくる。


縦書きのわずか、1行横に目を移すのとは違うし、

縦書きの場合、上から下までが視野の中に入る。


ところが、ブログの端から端までというのは、視野の中に入りにくい。

横書き1行を読むとき、徐々に焦点を移動してしまうから、

視野が狭まっていて、左端が視野に入らなくなる。

下の行ははいるが・・。


だから、左まで戻ってくるのに、何秒か?の空白が生じる。


次を読みたいのに、最初に戻って、左下の出だしを探す。


上の文字が視野の中に存在するのも大事な効果がある。


たとえば・・。


なんで?

なんで、こうなるの?

私のせい?


目のなかに、「こう」が残る。

どうしたんだろう?ってね。


で、端の極端。右端までご注目。


なんで?

                                                        なんで、こうなるの?私のせい?


これは、目を泳がしてる間に読み手の感情が離れる。


もちろん、憂生の現状の文節もおかしい。


修飾される対象が次の行にいってしまってるのを良く見かける。


記事数が膨大なのでそのままにしてるけど。/ごめんにゃ


あと、よくあるのが、


雰囲気だすためだろう。


行間を空ける。


少々ならよい。


馬鹿ほど間があいて、次の文章とめぐり合えたら

また、空白。


で、コレが・・・続く。


正直、これは、読み手の想像力に頼った作り方。


多分、その行をつめてしまったら、10行もないか。


ムードがもりあげる効果があるのは、

その間に読み手が主人公の心の動きを一生懸命推理するから。


その手法がいけないというんじゃない。

憂生も読み手様のそういう洞察力に支えられてるから。


ただ、憂生が読み手になったとき、これには、付き合ってられない。


なぜなら、憂生が物書きだから。


人の物語を洞察してる暇があったら、自分のものを書く。

才能・・・って言葉をうかべていたのは、

才能・・・って言葉をうかべていたのは、
女子
フィギュア スケートを見ていた時だった。

才能という事だけをいうと、
例えば、日本中の女性がフィギュアを
やったら・・・。
中には、
例えば・・あるいは、物凄い天才だっているかもしれない。

世の中にはフィギュアなんか、したことが無くて、スケートなんか滑れないし、滑ろうとも思わないけど、物凄い才能を秘めている人がいるのかもしれない。

だけど、そんな人たちが
フィギュア界の重鎮に目を留めてもらうこともない。

才能の発掘というのは、
実は限られた狭い範囲でしかなく、
簡単に言えば、
やはり、好きこそ物の上手なれ・・・がこうじて、重鎮の目に留まる事になる。

トキに才能とは
一歩前に踏み出すか、
踏み出さないかの
違いでしかない気もする。

だが、実際問題。

持って生まれた資質というものは、
どこかで、発掘され
いつか、磨かれるものだと思う。

つまり・・・。
一歩ふみだしたつもりの憂生が
発掘されずにいるのも、
磨かれ?もしないのは、
持って生まれた資質が凡人の域でしかないという証明になる。

やんぬるかな。

己を知る証明書を自分につきつけて、
才能のあるなしを測ってみても、
仕方が無い。

ただ、あちこち、かじり癖がある。
カメラ のほうも、
軽い才能はあるんだろう。
初めて出した作品が
佳作にはいった。

だけど、
カメラアイから退いて、文字を書き始めて、
それでも、やっぱし、軽い。

何を持ってして、才能という評価をうけてみたか、
今になってみれば、よく判らないが、
ただ、ただ、まずは、自分が楽しむ。

そして・・・、
其れは、多分、書き続けていれば
「好きこそものの上手そう・・に見える」くらいの域には、たどり着けるだろう。

誠に才能のある人間はその第一走・・その一足から・・違う。

歴然と見せ付けられることごとくに、
確かに、開き直れるしたたかな自分が作られる。

いわく
「読みたい奴は勝手に読め・・」

物語は才能じゃない。
完結しているか、どうかだ!!

だから、完結させるほうが問題であって、
自分の位置をきめるのは、
人に任せるしかない。

評価はむこうにまかせ・・、
才能の天秤は嗜好の支点でしかないと、わりきり・・・・

『おい!!

ぐうたら、のべてないで、
続きを早くかきあげろ!!』

が、である。

時代調のものを、書くときにいつも、迷う。

喋る言葉は、できるだけ、「喋ったとおり」にかきたいと思い、そうしてきた。

だが、これのせいで、多少、誤解される。


さっきも、読み直していて思った。


「絹さんが命をまもれるものは」


この部分だ。


これは、蟷螂でも、悪童丸でもある。


「おらが春」


「拙者が命」


この使い方なんだけど・・・。


を、ぬかせばいいのか?


言葉で言えば強弱が付く。


だが、文字にはソレがない。


ご丁寧にこういう時代物の言葉使いが分からず

小学生並みの文法だと、こけにされたことがあるが、

それくらい、分かりにくいのも事実だ。


「が」と「の」


だが、「が」のほうが、意味が強まる。


絹さんの命


絹さんが命


でも、これも、難しいのかもしれない。


多分、通常の「が」で、意味を受け止めた人は

前後の文章がおかしいとおもっただろう。


そこ、「の」だと、考えてやってください。


この先もダイブつかってます。


頑固者をやっていまして、

一時期、あれほど・・・・。

(50箇所以上のブログ)に作品群(長短あわせ、100編)を、おいていたのですが

それらをすべて、とっぱらい、

ここにも、一時期は全作品収納していましたが、それも、ほとんど、とっぱらい・・。

ブログ人一本にしぼり、新たに構築したせいで、

常連さんが、ちらほらという状況になっています。

どこにいっても、物見遊山的視覚で、おもしろければ、よい。

感動的であればよい。

と、ただ、「読まれる」だけの「消耗品」という感覚を感じ、

本人、おおまじめでかいていて、

いろいろ、検討?自己とむかいあうもの(も)をかいていますので、

正直、読んで泣けた。次・・。

という、いわゆる2チャンネルの泣ける話のごとく、あつかわれてたまるものか。

と、しっかり、自覚させられる事件?がおこり、

さらに、ブログ人一本になったものの・・・。

すげ~~~。寂しい。

アメーバーのニューモさんにより、ショーペンハウエルの論ずるところにいたく共感した部分もあるのですが、

ショーペンハウエルのいうところの、

「必要な本は必ず絶妙なタイミングで読み手の前にあらわれる」

を、

読者側でなく、

書き手側が、望むという無謀をやってみますと、

本当に・・・そうなってくれるのだろうか?

と、思います。

検索などで、ヒットしていったり、憂生の日記などから、

この人の書くものは?

と、いう考えにいたってくださった人が物語まで、足を伸ばしてくれるということが

今まで多くあったのですが、

物語だけぽんと紹介しておくと、意味深にとれるタイトルに人が集まるという

状況になり・・。

とても、

「必要な本は必ず絶妙なタイミングで読み手の前にあらわれる」という

目で捜してくれているとは、おもいがたく・・。


これらも、とっぱらってしまったわけです。


まあ、そういう頑固者が孤立無援の思想をふりかざし、

辛抱強く、偶然のお引き合わせを(めぐりあわせ)をまとう、と、かんがえているわけです。


逆をいえば、そういう人がこないというのは、

「深淵・・凹みなどにむきあわざるを得ないある種の不幸を抱えてない」

(憂生の物語があてはまらないだけかもしれませんが)

と、いう取り方もできるので、

あるいは、読まれないほうが正解か?


と、かんがえなおしたりすると、

逆に簡単に挙げない方が良いのだとも想え、

ほそぼそと、

行方不明のままに、物書きを続けています。


10年近く物をかいてきて、まさかの逆行を選ぶことになるとは、おもわなかったのですが、100作品あれやこれや、読んでもらわないと、見えないこともあり、

その作品の余波までをふくめていくと、日記のほうにも、目をとおしていただき、

「憂生」自体と対面していくという。

まあ、いわば、憂生を読めというむちゃくちゃな考え方になってくる部分があり

よし、読んでやろうと仮におもってくださっても、

長い作品は16万文字。物語全部よんだら、500万文字?はあるかという膨大なものです。

それらを、此処にあげていた時期があるわけです。


結果おきてきたことは、

途中からよんで、ああすべきだ、こうすべきだという

的外れなクレーム。


なにをかいてあるか、読み取ることを先にかんがえ、

その内容を自分とてらしあわせていくことを望む憂生には、

外側の包装がど~のこ~のとしかいえないレベルの低い読み手にしか思えず

「必要な本は必ず絶妙なタイミングで読み手の前にあらわれる」の書き手志向を見事に無駄ごとと、なぎたおしてくださり、

どこにいっても、物見遊山的視覚で、おもしろければ、よい。

感動的であればよい。

と、ただ、「読まれる」だけの「消耗品」という感覚を感じ、

本人、おおまじめでかいていて、

いろいろ、検討?自己とむかいあうもの(も)をかいていますので、

正直、読んで泣けた。次・・。

という、いわゆる2チャンネルの泣ける話のごとく、あつかわれてたまるものか。

という自覚の芽?種?をこの時もらったのだとも、今は想え・・・。


孤高の物書きを気取っていこうと。

それでも、作品かわいさの読まれたいが頭をもたげてくるのを、

いやいや、

不遜であるが

「書き手にも読者をえらぶ自由はある」

と、真摯に作品に向かい合ってくださる人が

憂生の作品に絶妙なタイミングでめぐりあってくださることのみを信じねば・・と

自分をはげましている、へっぽこ物書きなのである。


(     )のこと・・・

さる方の作品を読みにいっていた。

なかなか、読ませる表現をされていて、

感心しきりだったのであるが、

非常に読みづらさをかんじてしまった。

文章の構成がわるいなどというのでなく、

読み方を(   )でいれているのが、どうにもめざわりというか、

文章を追いにくくしてしまっていて、途中で断念してしまった。

憂生自体が小説を読むとき、読み方にあまりこだわらない。

前後の文章でどういう意味かわかれば、良いと思っている。

ひとつの文字にこだわるより、先先によんでいくのと

その文節、文章全体にかかれていることを把握するほうがさきにたつのである。

書くときもできるだけ(   )ルビは使用しない。

あえて書くよりも、

たとえば

澄明をたとえにする。

これをどこかで、誰かの台詞で

「澄明というたかの」

「と・・うみょう?」

「おおよ」

などという形でもっていきたいのである/万事、そうもいかんが・・・

で、今回の拝読については、読めない人のためにかいていたのと

人名など特殊によませたいがためもあったのだろう。

が、かえって、文字面というか、文章面がわるくなってしまっていて

残念におもったのであるが

どのあたりの人をターゲットにしているかにもよるし、作者の標的にまで

いちゃもん?をつけるわけにいかない。

そんなことをおもっていたら、やはり、件の女性をおもいだしてしまった。

読めない文字には(    )ふりがなをおくべきであろうというのである。

憂生はびっくりした。

で、まあ、つっかかっていったんだけど/笑

どうも、彼女自体が読者に読めないといわれて、読みやすいように

(   )ふりがなをつけたといういきさつがあったらしい。

う~~~~~~~むであった。

憂生自身、読めないからなんとかしてくれといわれたことがない。

むしろ、読めないから辞書ひいて、勉強になったと感謝(爆)された。

そして、書き手としても読み手としても

憂生自体が一字一句にこだわらず、全体を、あるいはテーマをムードをつかんでほしい、つかみたいというのがあるわけで、

書いている途中でよい言い回しが見つからないときも、簡単な文体でいいからかいてしまって、先に進むということを優先する。

一字一句にこだわると何をかこうとしていたかが、どこかにとんでいってしまうためなのだが・・。

だが・・・。

ふと思う。

全体がどーのというのをおいといて、読めない字にこだわる読者が読めないからと

作者にどう読むか?ときくのは良いとして、直せ、(    )をいれろというのはどうかとおもう。

また、それをいわれる作者もどうかと思う。

また、さらにいえば、要望にこたえて(    )を入れることを選択するのもどうかと思う。

この言い方だけだとどうかと思うの「どう」がどういう意味であるかわかりにくいとおもう。

二つあるというきがする。

まず、内容が濃ければ、文章を読み進めさせてしまい一字一句にこだわっているより先をいそぐ。

ふたつ、内容の説明表現、描写がゆるく、文字にたよってしまっている。読み手にとっても、文字の意味するところがわからないと全体の意味がわかりにくい。

こういう致命的な欠損があるから、一字一句にこだわられてしまうんじゃないかと考えると、

問題はどう読むかなどではない。

憂生自体は読めないからルビいれて・・・なんていう事を臆面なくもうしのべてくる

レベルの低い読み手が、こりゃむつかしくてよめんとさけてくれるということになるならば

かえってそのほうがよい/笑

内容はかなりむつかしい。全体をとらえていかなきゃならないのに、

一字一句にこだわり、かてて、他力本願では、まともに読み取ることは不可能だととる。

わざわざ、その敷居の高さをとっぱらう気はない。

いつか、みゅうが言ってくれた言葉であるが

「こびたものをかくと読み手はみぬくよ」だったかな?

たった、(   )をいれるかいれないか、それだけの中に

自分の作品への高買いがある。

だから、わざわざ、よんでもらいたいあまりに、他力本願の読み手にあわせるその姿勢はどうかとおもうし

もっと致命的な欠損をなおすほうが根本であるのに、こてさきだけかえようというところにおちつくのもどうかとおもう。

そして、よめないといわれてしまうという、ところ。

がんとした自分の作品への高買いが足りていないと思える。

質より量なのかどうかはしらない。

だが、こんなことは憂生にはわからない世界だろう。

うづきがいっていた言葉

「憂生の作品の読み手は読み手としてのレベルが高い」

こういう読者さまに恵まれた憂生には、(    )をつけてまで

よみやすくしなきゃいけなくなるという心理を理解できない。

そして、今回思い切り(   )ふりがなのはいった作品に遭遇して

じつによみづらく、文章の流れにいちいちはどめがかかり、

ながれるように書いていきたいと思う裏側である

耳で読んで心地よい作品をつぶしているように思え、

ロゴ、文章の心地よさというところへの立地がいかに意識されにくいものであるのかと

思わされた。

これもまた憂生ができうる限り(   )をいれないようにする理由である。

読書について/ショーペンハウエルから・・1

ニューモ@書評ブロガー&フォトリーダーさんの書評から、
抜書きされた部分を掲載

読書について/ショウペンハウエル

オリジナルを読め

★ふさわしくない著者の手になる駄作、空っぽな頭が空っぽな財布を助けるために書いているろくでもない書き物は、合わせればすべての本の9割にもなる。
★もっとも高貴でもっとも稀有な本を読むことなく、毎日次から次へと出版される三流作家の書き殴りを読んでいる読者の愚かさと勘違い振りは、もう救いようがない。
★彼らは刷り上ったばかりの本だけを読みたがる。
古人の書いたもの、真の古人の書いたオリジナルを熱心に読め。

考えずに読むな

★本ばかり読むことは慎まなければならない。
精神が代用品に慣れ、肝心の問題を忘れることがないように。
★本を読むというのは、私たちの変わりに他の誰かが考えてくれるということだ。
★一日中おびただしい分量を猛スピードで読んでいる人は、自分で考える力がだんだん失われてしまう。

世界を読め

★自分自身で到達した真理や洞察には、百倍の価値がある。
その真理は、それを求める気持ちが高じてきた正しいタイミングにあらわれ、
心に留まり、決して消え去ることはない。
★学者とは、本で読んだ知識を持っている人のことである。
しかし、思想家、天才、世界に光をもたらす人物、人類を一歩先へと前進させる人物とは、世界という本を読んだ人である。
★読んだ本から得たものを、自分の糧にして、そこから自分というものを考え見出していくことです。

これがショーペンハウエルじゃ、なかったら憂生はとりあげないんだけど・・。
ショーペンハウエルの「洞察力」については、
歴史を齧ってみるの中ですこし、触れている。
読むに「真髄」にふれるという部分で重鎮に値する「洞察力」を持つ人として、
一目置いている。

MONO・物・もの・・物申す

超、超短文まで数にいれると110編書いている。


最初の1年くらいに50編ちかく、かきあげていて


あとはぽつぽつと・・・。


だが、あとはぽつぽつというものの、


これも、当初の構想みたいなものにあったもので、


その構想みたいなものが、


本当に、一言だったり


超短文だったり・・。


なぜか、この超短文はのこしておかねばならない。


ストーリーにもなってないのに、


なぜか、きになる。


と、いう感じでブログにのこしているものもあれば、


頭のなかにあるもの、


たとえば、ずいぶん前から、


「命からがら」という、一言がきになってしかたがない。


続きを書くかどうか、迷っているものの、冒頭のモノローグも


そこだけ、ずいぶん前にあった。


そして、それをつかおうと、思わされることになる。


その開き、およそ5年。


まるで、予期していたかのように、先にフレーズができあがっていた。


これは、白蛇抄の時に短期間ならあった。


ずいぶん、先の文章がわいてきてしかたがないので、


スペースをあけて、かきつけておいた。


自分でも、いったい、いつになったらそのフレーズ・文章にたどりつくのやら


そのフレーズ・文章でつじつまがあうのか


さっぱり、見えない。

みえないながら、かきつづけていくと、ピッタシはまる。


不思議な感覚というか・・・。


こういうのも、あって、なかなか、超々短文もすてられずにいる。


なにか、どこか、さきで、完成できるようになるというか、


自分のなかから、ひっぱりださなきゃいけない?


そんなものがあり、


まだ、時期じゃないだけか、


自分の現実、物語をささえる実感のようなものがたりてないのかもしれない。


ああ・・そうか・・・。


上のひらがなもじをみてて、思った。


~ようなーものがたりーてない。


ひょっと、すると


物語はMONOが足りて、はじめて、かけるものなのかもしれないし


たりないMONOを足すために、かかされてしまうものかもしれない。


MONO・・・・。


この不思議な言葉。


モノクロームのMONOとどこかでかいたことがあるけど


単色、あるいは、白黒写真をモノクロ写真という。


モノは1ということになる。


なにか、ひとつが足りてないから、かききれないでいるだけか・・・


その1つ、MONOをさがし続けているというところであろうけど、


恐ろしいことに


やっと、MONOをみつけて作品を物にしたととたん新たなMONOが現れる。


MONOのかたちがどんなものかもわからないMONOが・・・


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君がくれた一言は、

おもしろい。
かあ・・・。

君がくれた一言は、
物書きにとって、最高の賛辞だなあ/笑

結局、憂生が人のものを読むときでも、
よみつづけてゆく、原点ってのは、
そこだもんな。

ただ、ひとそれぞれの好み?によって、
何をもってして、おもしろいと感じるかは、
かわってくるけど、

おもしろいという公意義の言葉は、
たとえば、
前回の空に・・・でも当てはまると思うんだな。

笑う意味合いの面白さで無く、
興をひくという
おもしろさというのかな。

この面白いという言葉だけど、
ある人にこう伝えられた。

人の話を聞くに
其の話が、仮に自分をしかるつけることばであったら、人はえてして、面/顔を下にむけてしまう。

ところが、其の言葉をために成る。自分に生かそうと受止めだすと、
面/顔は上を向き、話す相手をまっすぐ見つめる。

上を向けば面は相手の顔に明るくはっきりと見える。
つまり、
面は白く見えるという事になる。

面白いということは、こういう事なのだとつたえられた。

憂生という語り手に上を向いてきこうとする気持になってくれる。

これが面白いなのだ・・・。

憂生はできるかぎり、
読んで「面白く」なるものを書きたいと思っている。


シャドウ

どこかのスレッドに憂生はシャドウ部分が多いもの書きだとかいた。

自分のつたなさを棚に上げて考えている。

その考えとは

読者様の文中に書かれていないものを読み取ってくれる読解力に支えられている物書きであること。

と、

そんな読者様に恵まれているありがたさということである。


だが、実際、たとえば、どういう風に読解力があるかというか?

どこが、シャドウか?


つまり、物語にとりまぎれ、

読者様も書かれていないものを読み取っていることを自覚して無いのではないかと思った。


そこで、一文。先ほど挙げた物語から・・・。




「明美。哲司の為にご馳走をつくろうよ・・・」
明美の後姿を見つけてそういったとき、
明美はないていたんだ。

哲司の前で涙一つ見せず気丈に振舞った明美が
肩を震わせてないていたんだ。
「明美・・・」
心配そうな声に明美はちょっとふきだして、背中をむけたまま、てを上げてオッケーサインをつくってみせた。


これをそのまま読めば、ちょっと、ふきだして・・・は、意味が通じない。

だが、読者様は、書かれていないものを読み取る。


強がりの明美が弱みを見せまいとする。

あたしの心配に大丈夫、そんなに心配されること無いわよ。

そんなに、弱そうにみえちゃった?

とても、うまくかけないんだけど、いろんな心理が内包されている。

でも、あたしの方をむくことはできない。

あたしの方を向いたら、くずれていきそうで、平気なふりをつくろって、

後ろ向きのまま、サインを出すしかない。


明美の性格もこの一言に内包される。


それを、読者様はすんなり読み取ってしまう。


読み手は書き手以上のものをよみとってしまう。


つくづく、ものかきは、読者あっての「ものだね」


そう思う。


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おもいおこしすぎた・・・。 

おもいおこせば、

最初に書いた長編は

精神的雌雄同体のはなしであった。

双生と言う設定も既にこのときにある。

姉妹と言う設定。

姉を護りたいと思う妹は

「男」を演じる。

こう言う形で姉を支え続けてきた妹に破局は訪れる。

姉の恋。

自分の役目が終わるとき、

妹は

又、自分も女に過ぎないことを

姉に見せ付ける手段を選ぶ。

妹をもまりきり、受け止めることが出来る

相手もまた、『男」である事実に

姉は自分を支えてくれた妹が、

恋人 とともにいきろ」と、メッセージ をたくしたとしる。

半ば中性的な少年と妹の性描写は

おしむらく、この時点ではこなれたものでなかった。

護るという男視点で生きてきた妹が

本当に

「女」になり切れるか、どうか。

この先に

変化してゆく、妹をどう、とらえてゆくか。

第2章に突入しようとした矢先。

憂生は断筆宣言をした。

書ききれる自分がいない。

想像することさえ出来ない。

まだまだ、人生に入り込んだばかりの年齢。

いつか、かけるときがくるまで・・・。

封印はまだ、とけない・・・。


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ひさかたぶりに、書く気になってるんだ。

語彙もすくないし、こった表現もできないし、

何より、ストーリー 自体がちゃちなきがして、

いまいっぽ、書く気になれなかったんだけど。

まあ、いいや。

ドンだけ頑張っても?この程度。

いいじゃん。

たのしんで、かいちゃおう。

そうおもったら、きらくになってしまってね。

たいそうなものをかくような、

期待感をもたせてたら、ごめんにょ。

今回、「蛙」の続編にあたるものを

かこうとしてるんだけど、

じつは、

「蛙」のような文体/スタイル /は、

憂生はひとつの模索だったんだよ。

どこか、感覚的で、

アンニュイ。

こういう、スタイルは、本来苦手で、

どちらかというと、小理屈を並べ立てる

論法じみた構成が多いんだ。

このラフなパターン がSo2シリーズだけど、

性を主点にせりふの中に「訓話」を/たいそうに/

もりこんでるという点では、手法は同じ。

なんにせよ、日常の心理の中の

些細な「はっ」をえがきだせたらよいとおもったりしてるんだけど。

どうなることやら・・・・。

>  あの。。ウィッチって学生してた頃は国語が得意だったのかしらん

>  あと、書く人って、すごく本を読んでるでしょう?

ウィッチも乱読?のごとく、なんでも読んでいたのかな

*****

あたたた。

本?

偏ってよんでましたけど、

最近は/最近といっても、もう随分長いですが/ぜんぜん読んでないです。

陰陽師 については、とくに、

他からの影響?を受けるのが嫌で、

いっさい、よんでません。

ちょっとした、逸話と密教/真言とかをしらべるために。/

の解説書をよんだくらいで、

あとは、憂生の好き勝手な設定ですので、

陰陽師が、こんなものだなんて、誤解しないでください。

自分で設定しながら、陰陽師ってこんなことするのかな?

と、非常に疑問なんです。

もちろん、時代考証もありませんし

長浜の地形なぞ、嘘もいいところです。

ですので、主人公達の思い、かんがえ方をみてください。

よろしく!!

期待に応えられるほどのたいそうな作品じゃないすけど、

自分でも楽しみながら書いてます。

書くことにむきあうと、自然に言葉がわいてきます。

あとで、どうかいたっけって、反復しても、

二度とあのイマジネーション は沸きあがってきません。

自分のこのイマージネーションを捕獲する。

ある種。

虫取りに似た、楽しい作業です。

うん。

久しぶりに補虫網をもった、

腕白小僧気分で~~す。

                    憂生

白蛇抄の未完成作品も、

声をかけてくださる人がいて、

こちらも、早く、仕上げたいと、想ってます。

懸案の

「パンパンとチョコレート

も、だしたいし、

ポーの続編も、

思いが欲になってくる割に、

今は手が追いつきません。

so2もまだまだ、下書き持ってたんですよ。

なかなか、のめりこめなくなってしまってね。

かくきもちから自分をほしてました。

また、書いて行きます。


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まとまってない・・

ここのところ、ずっと、アダルト《書くほうです》に傾倒しているんだが・・。

なんで、アダルトに傾倒しだしたか・・・。

自分の中をほじくってみると、

なんだろう・・・。

うまくいえそうもなくて、

キータッチが鈍るんだが・・・。

そうだなあ、

いくら、考え方・思い方を

統制してみたところで、

結局・・・。

本当のところで

一人の人間を?救い出せはしないってところか・・。

う~む。

語弊があるな。

カフェ に入った頃、

ある女性から告白されたことがある。

その人に対して

思ったこと、

考えたことは、

「この人は現実から逃げて

甘い夢に酔いたいだけ」

結局・・・。

亭主との仲が上手くいってない。

それに対して

なんとか、修復を薦め、

いろいろと思い方・考え方を

示唆したつもりだった。

だが、結局、彼女にすれば

自分の思いがかなえられなかった。

やがて、彼女はやはりネットで、仲良くなった男と

現実に合うようになり・・・。

真剣な恋になったんだろうな。

駆け落ち・・。そして、協議離婚

二人の子供 を元亭主の所において、/親権が取れなかったそうだ/

今は、多分、その男と仲良く暮らしているんだろう。

その彼女の思いだけを

スポット してみると、

結局、

簡単に言えば、こっちと会って、

セックス すりゃ良かったんだろう。

彼女の思いが欲望でしかないとか、

こっちの思いが欲望でしかないとか、

こんなことを言ってるんじゃない。

性により、

彼女の中で渦巻いていた

「女」としての存在否定感を

取り除き

彼女という存在を実際に

肯定しきることの出来る行為。

それを渡してやる・・。

いわば・・博愛というのかもしれないが・・・。

結局、

此処が上手く言えないのだが、

言葉や考えをいくらでも述べ立てるより、

たった、ひとつ、

その存在を愛しむ行為・・・。

これ・・・。

その部分の無言の説得?

これに・・。

うちのめされてしまったというべきか・・。

だから・・。

どこかで観念論に近い考え方や論理に、のめりこめない自分が

出来てしまっている。

こういうのがあって、

ただただ、今はアダルトで、顔から火がふきでるような

淫猥な言葉を羅列して

書きなぐりまくってる。

自分の中から、何を抽出しようとしているのか

自分でも判らない。

欲望と煽り感覚に酔ってるだけの時もある、

何もかも吐き出しつくして

自分の底からなにがでてくるか・・・。

そして、また、思う。

レオン の台詞になるか、

「汚くて、欲望だらけのクロード 。それもクロードでしょ?」

憂生もまた・・自分をそう庇う。

欲望と欲情の憂生も、又、憂生である。

と。

その憂生を遠くに隠し、果たして、

このブログは憂生に近いものだろうか?

よくは判らない。

隠しておくべき・・事であっていいのかもしれないし・・・

やはり、わからないが、

それでもときおり、もう、此処に

アダルト作品を露呈させてしまおうかと、考える憂生もいる。

と、言うのも天邪鬼だが、

アダルトの方でも?

やはり、その作風と底に流れる物を汲み取って

下さる人がいる

すると・・。

逆に憂生の作品を読んでもらいたくなる。

二重構造で物を分けてしまった自分の

失敗部分ではあるが、

もう一つのペンネームがあってもいいと

そうも思いもする。

憂生は憂生であるが

この憂生という作家/おこがましい/も

虚構の部分があるように

もう一人の作家も虚構の部分がある。

HAKUJYA

と、いう人間?が

憂生を演じ

もう一人の作家を演じている。

憂生という作品でもあるといえる。

そう考えれば、

もう一人の作品があってもそれはそれでかまわないのかもしれない・・・・

突破口!!

毎度・・行き詰る。

行き詰るとしばらく、同じ手口を右往左往する。

物語は完結してこそと思う。

多少の粗/粗だらけじゃんといわないこと/
は、そのまま、なんのその。

ストーリー は大河の如きもの。

流れ終えてこそ。

始めの一滴は樹木に宿った露。

したたりおち、
土にしみ、溢れたものが小さな和泉をつくり
和泉から堰をはやみ
せせらぎにもならぬ
小さな流れが山肌をくだり

やがて、群れになり

流れ

そして・・

歴然とした川になる・・。

それからが、本当の始まり・・・。

濁流もあろう。

くだるにつれ、よどみもある。

深い淵もつくり、

蛇行し

静水・・鏡の如しとも歌われよう。

突然の如き、落差に滝を生じ

水、砕ける轟音を鳴らすこともあろう。

さまざまな表情があってよいと、思いつつ

それでも、

停滞する。

流れの道筋がつけられない。

いわば、

青の洞門・・・

切り開けば・・

道が出来る。

流れが導かれる。

その導路がつけられず、もがく。

堂々めぐり・・・
めぐりきて、清流・・
わきこすが、踏破。

やっと、・・
あいもかわらぬ
立ち位置の変換。

ひとつ、ぬけた。

水が沁みた土は掘りやすくなる。

あるいは、堂々めぐりはその手順。

水がおのずから浸食する場所を示唆する。

吾はそこを掘るだけ・・・。

それが、物書きの至上。

よっしゃあああああ!!

かいてくるぞおおおおお!!


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熱いうちに打てというけど・・・。

物事の形を整えてゆく為に。

まだ、どうとでも整形 できる時に

すべてがきまってゆくんだということだろうか?

鉄は熱いうちにうてという・・・。

けどな。

一本作品かくだろ?

思い入れの深い作品はいつまでもあつくてな。

どんな形をととのえていいかさえ、みえない。

3年以上たって、やっと、ひえてきはじめたってところだ。

やっと、粗が自覚できてき始めた。

むしろ、恋愛 にちかいか?

ひえてきたら、やたらと粗がめにつく?

だとしたら・・・。

3年以上たって、やっと、軽い倦怠期をむかえたってことか・・・。

だったら、ヤッパ、十分熱いじゃないか?

当分、推敲にたどりつけそうもない。

ほれた弱みで、やっぱ、粗より、いいとこばっか、みてしまう。

ま、まともな物書きになれない事だけはよくわかった。


わかんないけどさ・・

感想?らしきものを久しぶりにいただいた。

この感想の中にある言葉が、非常にある人の感想とにているんで、

ついつい、その人かいな?

と、思いながらみていたんだけど。

今回、昔の・・コメントを整理していたわけだけど、そこで、一番使われている言葉が

やっぱり、新規?のコメントにも、使われる。

「入り込んでしまう」「ひきこまれる」と、いう言葉で、ある。

まあ、憂生が、FC2小説に魅力を感じなくなった大きな原因はここら辺の感想だったわけで、

作家の集まりみたいなところだから、どこか、我こそはって、思いがあるんだろう。

作家なんだぞって思いがあるんだろう。

作家の目というより、評論家みたいな感想を書く人が多いんだな。

憂生もそこにいくと、そういう書き方になってしまう。

今、レナの言葉が頭の中をくるくるまわる。

「不思議なんよね~~~憂生の作品。はいりこんでしまうっていうか・・」

ぶっこちゃんも・・。

レイも「引き込まれる」って表現で憂生の作品に感想をくれた。

憂生自もどこかで、作品の巧い下手はない。

入り込める。感情移入ができる作品かどうかでしかない。

と、いう言い方をしたことがある。

そこで、憂生は「入り込める」「引き込まれる」って、どういうことなんだろうって、

考えている。

もちろん、各人、どこにひきこまれるかは、違うわけだけど、

まあ、簡単にいえば、次から次からページをくらせてしまう。

面白さ・・興・・・。

これがあるかないかで、難しい書き方していても、読ませてしまう力で難しいと感じさせない。

逆もあるだろう。

すっと頭にはいってくるんだけど、次から次へとページをめくる気になれない。

読みやすいから、読める。

その違いなんだろう?ってね。

今回、ボーマン・ボーマン5を自分で読み直してみた。

あのボーマンの独自の考え方が気になるんだな。

自分で書いてて変な言い回しだけど・・。

もちろん、文章は相変わらず、ラフ(手抜きとも?)スケッチだから、

非常にたどたどしい・・。

で、あるのに、ボーマンの講釈?考え方から発せられる科白がきになってしまう。

で、良く似た科白というのが、

「此処は違うなあと想うのに・・いつのまにか、憂生の考え方に納得して、ひきこまれてしまう」

って、あたりでね。

そういう考え方もあるのか・・。

に、近い一種斬新さというか、目からうろこというか、新解釈というか・・。

そういうものを知っていく「おもしろさ」があるのかもしれないと思ったりしてた。

まあ、どこかに、面白いについての講釈はたれてるので、省くけど、

興を惹く面白さというのは、知識欲というと、大げさだが

何らかの知識的?好奇心を煽り立てられる心地よさっていうものが裏にあるのかもしれない。

思案六方に・・・・

これは、ある方がかいていらした作品の一部を

すこしだけ、憂生風にかいてみたものです。

名前など一部かえていますが・・。

本当は、この続きもしあげたいのですが、

完璧に泥棒になってしまうので、ここまでとしておいているものです。

その往生際のよさを・・・・という、言葉が憂生のしこんだ種で、

この往生際のよさを、どういうふうに、いかしてやろうかと

原田の画策がはじまるわけです。


そして、その画策をうごかしていくのが

原田の平助への共感というか、

ーそうさ・・誰だって、しにたくないに決まっているー

裏を返せば、どうにかして、平助をいきのびさせてやりたいという思い。


もう、これだけ、人物の性格と

思いとがあれば、あとは、画策をかいていけばいいわけです。


物語を書く、大きな基本は

憂生にとって「思い」なのです。


この思いをどうにか、実現させてやろうという、(物語の中でですが)

それだけのことなのです。

どうするか・・・。

書きかけの作品があと2つ、残っている。

ひとつは、聖徳太子を描こうとおもったが、

バックグラウンドがひろすぎて、

つかみきれないのと、

ぬながわひめにさしはさんだので、(ぜんぜん時代がちがうけど)

たしょう、気が済んでいる。

もうひとつは、

憂生自体がネットをとおして知り合った人間からの

経験じゃないな・・。

啓蒙でもない。

理解というか・・。

さまざまな、精神障害・・(と、いっていいんだろうか)を

もった人とのかかわりから、

多く、まなぶことがあり、

現実において、その学びがあったおかげで

一人の人間の精神異常(と、いうのも、ちがうんだけど)対処ができた。

そういう経験とかかわった人々の事実とをとりまぜて、

例えて言えば、見えちまった。(1・2・3)のように、複合的に物語をかきはじめた。

どういうのだろう。

身近な人間が狂いをみせていくということは、

最近、多くあることでもあり、

欝病になっていることにきがつかず

きびしい言葉をなげかけて、余計に病状をおもくしたり

欝病だとわかっていても、まわりのものもいっこうによくならない状態に

いっしょに、精神的にまいってしまったり・・・。

そんなことがあるとおもう。

そういう重苦しさをあじわったあと、

やはり、かなり、こっちもまいった。

そのときに事実通りにかくわけにはいかない(と、かんがえるところが、公開するきでもかいてるとおもうが・・)

関わった人間の誰にもあてはまらぬ物語の設定をつくり

憂生のなかで、「どう赦すか?」みたいなものを追従しはじめた。

こうかんがれば、赦せるのではないか?

と、いう模索をしていくことで、

自分の中の「憤り」みたいなものも、

つぶせるのではないか。

と、客観視のための物語であった。

いいかえれば、憂生も重苦しさにつぶされそうになっていた。

ところが、その物語の設定がよくなかったのだろう。

暴行をうけた主人公?がそれをきっかけに狂いだしていく。

恋人が救い出そうと必死になっていくうちに

隠された事実がでてくる。

女医が、退行催眠で「傷跡」をしらべていくということころまで

かいたのだが、

その退行催眠により

主人公?(女性)が、もろに男性器の名前を口にしだし・・

と、いうことになったとき、

憂生の筆がとまった。

また、どこかの馬鹿が検索でロゴよみにくるか・・と思うと・・。

面白半分のくそばかのためにかいているんじゃない。

むしろ、そういう馬鹿な心が

ひいては、暴行事件をおこしたりするのだから

そういう人間にこそ、まともに読んでほしいのだけど・・。

興味本位の目にさらされたくないという思いと

かきあげなきゃ、どんなにむごいことか、

一人の女性の精神をたわめてはいけない、と

いわなきゃいけないと・・。

そういう風に、はじめの憂生の重苦しさを追従していくはずの物語が

いつのまにか、

主人公のもつ、愛情やら

恋人が必死になっていく姿やら

そんなことからでも、

おなじように、とくに家族などだったら

にげだすわけにいかないところで

ここまで、主人公をうけとめていく強さに

がんばろうとか

まだまだ、できることがあるかもしれないとか

おもってもらえたら、いいな。とか

そんな方向をめざすようになってきた。

それらの物語の中の考え方というのが

多くのかかわりがあった精神異常《じゃないんだけど)のかたがたから

おそわったことであり

もっとも、おおきかったのは、

自傷癖のある青年が言った言葉だった。

彼は興奮してしまうというか

相手がいて、怒りをもったとしたときでも

相手に怒るより、怒る自分をきずつけてしまうというふうで

いくどとなくくりかえされる自殺《助かっているけど)の原因はそんな状態からだった。

まるで、怒りや悲しみをもつ「自分」をきりはなそうかというように・・

そんな彼がいった、言葉だった。

「どんな精神病でも愛してくれる人が強くだきしめてくれたら治る」

そして、彼はつけたした。

「俺には愛してくれる人はもういないけどな」

彼は恋人をなくしていた。

その悲しみをだかえたまま・・だったからこそ

「悲しみ」や「怒り」がわいてきたときに

自傷になったのだと思う。

もっと深い悲しみ、どうにもならないー彼女は死んだーという怒りというか・・

そういう世界に、一気に引き寄せられてしまうのだろうと思う。

その彼が言った

「どんな精神病でも愛してくれる人が強くだきしめてくれたら治る」

は、憂生は真実だと思った。

その言葉にささえられて、友人の狂いに対処して

おかげで、職をうしなった。www

そういうこともあったから


「どんな精神病でも愛してくれる人が強くだきしめてくれたら治る」

それを訴えられる物語をかいていきたいと、思っているのだけど・・・



心無いものの検索で、正直

こけていた。

そして、今も迷っている。

ネットの検索も責任もたせろと思う。

どこのどいつが、そういう検索をしたのか、

判らず、処罰もされないということをいいことに

人格うたがうような

はっきりいって、異常者

事件予備軍みたいなロゴがくる。

たとえばだけど、ここで、一言「男性器」とかいてしまったことにも、

検索がくる可能性がある。

これを避けるために一時期はメール配信という方向で発表していたのだけど

あるとき、そのメールの名前がいろいろ、かわることにきがついた。

ようは、怪しい世界のメール配信者だった。

完璧に男性なのに、女の名前でおくられてきて

何度か名前がちがった。

それで、しばらく、パスワードつきのブログで保管していたが

そこが閉鎖され、

こちらに保管はしてある。

かいてあるところまで、公開はできるが(しているが)

この先にまよっている。

だから、どうするか・・というタイトルになった。



おもうままに・・9


しおりさんの

枠を超えたい。

を、読みながら、うなづく自分がいます。

まるで、神懸かりしたかのような、大量生産の時期をすぎて、

実力?でかきはじめたら、まったく語彙がないというか、

ぜんぜん、精彩の欠いたものしか、かけず、

結局、自分の実力はこんなものだったのだとなげた気持ちでいました。

まあ、大量生産時期のものが、巧みな文章かといったら、

まったく、くどくどしい説明しかできず、かつ、なにも考えず

地の底からわきでるような感じで、なんの努力もしていない文章でした。

ただ、ただ、書きたい。

書くのが楽しい。

それだけだったと思います。

そして、おなじように、大量生産の日記。

ここでも、一ヶ月くらいの間に300くらい上げたと思います。

ひさしぶりのことだったのですが、

こういう状態が小説をかきながら、

1年くらいのあいだに、3000~4000の日記やメールや手紙を書く。

と、いうのから、かんがえたら、

まだまだ、書いていない状態なのですから、

いかに、スランプというか、

書きたいという気持ちが薄くなってるかと思います。

ただ、そうやって、かいてるときは、

上手に書こうとか、言葉を調べてきてまでかこうというきもなく、

とにかく、どんどん、わきだしてくるものをかきとめたいというだけで、

他の表現や類義語などがでてこなかったら、

まわりくどくなっても、自分の簡単な言葉で説明したり、

稚拙な表現におきかえてでも、

さきに、すすもうとしていたと思います。

そして、なによりも、

自分の把握を言葉にしていっているというか。

自分で、きにかかることを物語にしていったというか。

あくまでも、自分の「把握」でかいたことでしかないのです。

「把握」を「把握」するというか。

そして、今、どうしても、「把握」できない物事にとっつかまってしまって、

なにもかもが、ストップしていた自分だとおもいます。

頭や仮想で、おもいつくことに、

自分なりの「のりこえ」がないと物語が完結していかない。

と、いうことにきがついているわけです。

結局、とまったままでいる、4っの物語りも、

憂生、得意のハッピーエンド(なにかにきがついていくということもハッピーエンド)として

「のりこえ」ていない憂生がいるわけです。

価値としての生き様をえがこうとしながら、

憂生自身がまだ、その価値を体得していない状態で、

生き様をえがけないという「大きな前提」があるのだと思います。

いつ、かきあげられるか、わからない物語で、

考えやストーリーだけなら、とっくに

かけているのです。

だけど、その物語を本物にしていける憂生じゃないから、

まだ、かけない。

憂生にとって、物語は、「移し身」なのです。

***ある人へのメールのコピーです。****

投稿先の感想から・・・。

だけど、どう、受止めるかと成ったときに
結局は
自分のつたなさを見せられます。

蛙にしろ、
主人公が身体を売って来いと
言うしかなかった、其の感情。
こういう物から、説明しないと
わからないんだな、と、思ったのです。

ブローでも、
思わずつつんでやりたくなって、
だきよせてしまう心理。
これも、説明しないと、だめなのか。

と。

結局読む側も書く側も
自分の生き方?感覚で、読み書きしているのですよね。

ブローの感想を読んだときには、
この方は、
親にもだきしめてもらってないのだろうか?
誰かを守ってやりたいと、思ったことはないのだろうか?
と、思ってしまいました。

きめつけちゃいけないけど、
感想の中に出てくる捉え方は
又、その人の人生の感覚なのかも。

たしかに、うわ、素敵。
**はかっこいい。
みたいな、きゃ~きゃ~ではないという意味でちゃらちゃらしたものはかんじないんだけど。

自分の人生をみすえようという目は
もっているとおもうけれど、
すでに、その感想の中に
ある意味すれた「捉え方」を感じてしまいます。

多分、かなり、若い子なんだと思うけど。

ある事件が耳に入ってきました。

あいつ、きにいらない。
と、ある女の子を憎んだ少女が
彼氏と二人で
その女の子を売ってしまったというのです。
学校側からも謹慎を食らってるということだけど、
その処置が軽すぎるというのは、おいといて。
売られた側の女の子の
親の思いなどをかんがえるのです。
やりきれないだろうという反面。
今の10代の性へのモラル、観念が
下に落ちてる事に
安心しないでもない。
変な言い方だね。
昔なら、
ある女の子は自殺でもしかねないし、
心に相当深いキズを負っただろう。

でも、今は、
「**はやらせ。だからね」
「**のエンコー相手はじじいだよ」
とか。
平気で、日常。

古い言い方で言う、
純潔なんて、観念は無い。
自分だけがこんな目にあったという感覚も持たずにすむ。
へたすりゃ、
売られたことより、
肉体をなぶられたことより、
「其の、金をこっちにかえせよ」
そっちのほうが重大。

こんな時代だから、
少々のレイプなんか、ものともしない。
そういう風に・・・。
ある女の子が傷つかずにすむ、世の中?

本人より、
親のほうがくるしんでいるだろうけど、
それは、
こんなことに傷つかない感覚に育った
事で無く、
自分の感覚に泣く。

エンコーの果てに、エイズにかかり、
「自分のような失敗をしないで」
と、小説を書いた人がいて、
携帯 への掲載が反響を呼び、本になった/
それを感動!!と、読む高校生。

レベル。
すなわち、モラルや観念や自分を形作るものの質。

言い換えれば、
読み手のレベルの高さはまた、その人間の人生の質の高さ。
こういえるのかもしれない。

ああ。
書き手もおなじか・・・。

あかん。
自爆してもた・・・。
こういうの、ことわざでなんていったけ?

自分で作ったワナに
自分がはまっちゃう・・・って、
ことわざ。

あかん。

また、浅識を暴露してる。

まさに、どつぼにはまるっちゅう奴じゃな・・・。


「作品は独立できるものか、どうか?」


KAGEROUの書評にでくわした。

簡単にいって、しまえば、

作家としては、作家にもならない文章力だ。

と、いう。

ところが、思いいれというのか、

読む人間の心に響く。

はからずも、最後には涙がこぼれた。

という。

たいしてうまくもない作品であるのに、心を撃たれてしまった。

と、いう。

軽く不覚というニュアンスがある。

その不覚をこえて、選考させるものがあることに納得する。

で、あとは、彼の実生活と云々かんぬん・・私小説として高く評価する。

と、いうことだったが・・・。

結局、ここにも、ネームヴァリューみたいなものを感じる。

彼があのいかにもの、かげりのある風貌で、

バックグラウンドも報道によりレクチャーされる。

作品はリアルな実感をともなってくる。

いつか、昔、憂生がいわれたことにこれがある。

日記などなどから、かなりリアルな憂生がレクチャーされていた。

実際、日記をよんで、この人の書く物語ってどんなものなのだろうと読みに来てくれた人も多かったとおもう。

そして、物語の中に閉じ込められてる憂生にふれる。

おそらく、通常の物語だけをよむのとは違う、深みがあったと思う。

そのころに、言われた事がある。

「物語と作者が別のところにいて、物語だけで、独立して、読ませることができるだろうか?」

実際、普通の本を考えればそうだろう。

作品だけで勝負する。

ところが、今の世の中のシステムを考えると、なにかしら、作者本人の実像?をうかがわせることができる形になっている。

作品だけをあげる人もいるだろうが、日記があったり、ちょっとした解説やコメント応対・・などなどで、作者本人に触れる事が出来るのがネットのよいところでもあろう。

そのネットにあげたものをして、物語本体だけで・・というのも、難しいものがある。

と、思っていた。

誰ともコンタクトせず、作品のみ掲げる。

と、いうことのほうが、まれであろう。

だが、実際の場面で、白蛇を瓦解し、見知らぬブログに遠征しにいく。

まず、憂生のバックグラウンドをしらない。

今まで「憂生だから」でつうじていたものが通じない。

あげく、したり顔で、(いや、顔はみえないが)懇切丁寧に文章の書き方を訓示してくださる人が現れる。

今まで、一言で理解されていた言葉が通じない。

それもこれも、日記や憂生がかかわってきた事件?などから憂生の性格をつかみとってくれている人が居た世界から、こっちも、見知らぬが、むこうも憂生って、どこの馬の骨?くらいの認識しかない。

いきおい、自分の方が巧みだと思う人が訓示をくださる。

たしかに、この状況はKAGEROUと同じだ。

作家としては下手。

ところが、今まではレクチャーされた世界にいたから、なにもかもが通じてきた。

そこで、おもいだすわけだ。

「作品として独立して読まれたときにどうだろう」

KAGEROUもレクチャーされた世界になりたっている部分が大きい。

このパターンというのは、この先ますます、発展していくだろう。

確かに昨今、話題になったものは、

言い方が悪いが「私小説」だ。

憂生もいつか、昔に言った事がある。

「類希な不幸があれば、ベストセラーになる作品をかけるのかもしれない。

だが、ベストセラーの作品をかけるような不幸が無いことこそが幸せであるんだ」

と。

不幸を売り物というわけではないが・・・。

不幸に立ち向かっていったドキュメンタリーに近い作品が、もてはやされてしまうのは、

さらに「私小説」に拍車をかけるだろうと思っていた。

案の定、レクチャーされた人間の「私小説」が、とびだしてきた。

こうなると、架空の物語を書いている作家はますます苦しい立場にたつ。

ストーリー性や構成などなど、「実際の物事」の前では

空虚なものになりやすい。

この結果でてきたのが、ライトノベルとか、感覚小説だろう。

特殊な設定というのも、ひとつの「私小説」に通じる。

かと、思えば、

逆の言い方をする人間も居る。

「作品と作家本人はべつだ」

と。

これは、むつかしい。

例えばアダルト小説などでいえば、破廉恥な主人公を作家本人といっしょくたにされてはたまらない。

だが、根底部分や心理(深層意識)(あるいは、無意識)の中に作家本人とかさなる何かがある場合がある。

極端に言えば設定とか・・。

こういう設定にする本人の背景部分。

などなど・・。

作品が作家から離れて独立できるか、どうか、と、いう事を考え出すと

憂生は不可能だと思っている。

確かに作品は一人歩きする。

だが、その作品を読む側の受け止め方が読み手側の背景により、

いろいろと変わる。

元は1冊の作品でしかない。

この受け止め方の違いを生じさせるということをして、

作品をとらえると、

一個の人格さえあるようにみえる。

ゆえに、ひとりあるきするというわけだが、

だからといって、そこに作者が介在しないかといったら、そうはいかない。

逆をいえば、作者が介在しないと思われる作品は

「誰がかいたんだっけ?」という二束三文の作品ということになってこよう。

で、履歴をふりかえってみれば、

「憂生だから書ける作品を読みたい」

「憂生の作品だから、読みたい」

という、ありがたいお言葉をいただいているわけで、

で、あれば、

やはり、「作品が独立して読まれる」ということは、

不可能だろう。

例えばIQ64・・・。

これが彼の作品だから、よんでみようという気になった人もおおいのではないだろうか?

さらに彼の作品をよみつづけようと思う成り、ソノ逆だとしても

「作品に作者が在る」からなわけで、

どうも、憂生にはいまだに

「作品が独立して読まれる」という定義がふにおちていない。

時代物・・

ちょっと、様子が変わってきましたね。

テカテゴリから読んでくれているものの、トップに「お登勢」が上がってきていました。

次に「悪童丸」・・新撰組の・・「壬生浪・ふたり・・・」「宿根の星・・・」「小枝」「白砂に・・」など・・。

憂生はどっちかというと、時代物を背景にした物語のほうが好きです。

本人がけっこう、古臭い考え方なんですよ。

だから、現代物をかくと、自分でも、反発があります。

反発を回避する「何か」がないと書けない。

って、部分があります。


一番簡単に言うと、

「一途じゃない人間」

コレが、ダメです。


ふらふら、遊びまわる人間も嫌いです。

だのに?

書いてる・・って、思われることでしょう。

例えば、永沢君・・。

でも、あいつは、ある意味、一途なんですよ。

加世ちゃん・・しか、居ない。

その心の底があるから、書ける。

そんな気がします。


そして、時代物を好きなのは、

今じゃ、通じなくなった思い方を移しこめるから。

今回のお登勢でも、

自分のことより、女将さんを思う。

そして、「恩」

この感覚。

今だと、そういう観念通じないってところがあるっしょ?

時代の背景が違うにしろ

仕事辞めるなんて、割り切れば良いじゃないか?

自分は自分。

ソレを先に考える。

ソレを先にできる今の時代。

お登勢が、どんなに苦渋の決断をしなきゃならないか・・・。

現代に置き換えたら

でてこないと思うのですよ。

他にも、いくつも、あります。

そんなんで、どちらかというと、

時代物のほうが、性分にあいます。


もちろん、なんでも、こなせなきゃ

「物書き」とは、言えないと思ってますから

いろんなものに、チャレンジはしてます。


まだ、出して来てないけど、童話やSFや冒険ファンタジーとか・・


でも、これらのベースがいまいち、

心理追従とかけ離れるので

あまり、かきこめなくて、

しょぼいので、封印してます。

手が覚えてる。

*そう言えば、随分、冷え込んできて

一番、敏感なのが、

「にゃこ」

最近は夜遊びから帰ってきたら

布団の上で寝る。

寒いんだよな。

ネコの体温・・・高いんだろう。

夏、平気なのもそのおかげなんだろうけど、

涼しくなってきて・・・

「猫で秋を知る」

一句、ひねれそうな。


*今日の夕食はラーメン。

鳥がらでスープとって、白味噌と赤味噌ブレンドの味噌味仕立て。

我ながら・・旨い。

調理の仕事から、手をひいても、やっぱり、

手が覚えてる。


そういや、手が覚えてるで思い出したけど

昨日のTV、左手だけのピアニスト。

左手でピアノを弾きこなせるようになってきたら、

治らないといわれた右手が回復の兆しを見せ始めた。って・・・。


これは、たとえば、口で英語のつづりを言おうとしたら、言えないのに

手で書いたら、つづりが出てくるとか。

もっと、身近なのは、キーボードだな。

頭でAはどこか?Pはどこか?って、考えたら

ハッキリ覚えていないのに

指で打ち始めたら、手が勝手に動く。

コレと同じだろう。

多分、左手でピアノを弾き始めたら

右手が思い出したんだろうな。


自分の手が脳とは別の「記憶」を持つ。

自分の「脳」とは、別に意志を持つ。


多分、その考え方はもっと以前、

憂生自身が調理で気が付いた。

手が勝手に止まる。

一升瓶をもって、どぼどぼ、醤油いれても、ぴたりと止まる。


こんな「手」の「心」


それが、空に架かる橋の中、

あまりにも、作り事にみえる、

「明美の手がリングを握り締めていた」

って、部分。

でも、上に書いたこと思うと、あっても

不思議じゃないと・・思う。

いわゆる、くさやの干物はその独特の匂いがあるからこそくさやであるわけで・・。

ある人にメールを送った。
返信があった。
その返信をよみながら・・・・
--------------------------------------------------------------------------------
*****メールを一部抜粋****
>
カフェ の中には
> 色々な人がいて、
> 物語を読むのに、
> 自分の色々が
> 重なってくる人も多くいる。

憂生へのお世辞ではないけど
たとえば、過去の一部分の
自分の経験だったり
あ、私もそう思う・・・だったり
そういうところ私にもあるある・・・だったり
憂生の作品の中に
寂しさをみつけて泣けてきたり・・・

憂生の書くもののなかに
人間くさい心理があって・・・。
私は憂生の日記から入り込んだけど
そのときもほんとに自分の気持ちと
合わさるものがあった。

何だか最近の憂生の作品は
特に憂生、そのもののような気がして
可愛い作品だって思うんだよね(笑)

あはは。勘違いしないでね。
不器用で
どこか隠し切れないお馬鹿なひと、
人間くさいひと、好きなんだよね。

****又、別の人からのメール****

あのねぇ、ひょんな足跡からそこへお伺いしてみたら
小説を連載している方だったので
とりあえず読むのは大好きだし、憂生の最初の
出会い のような偏見を持たない為にも(笑)
この前までずっと目を通させてもらってたのね?

でもでもでもーっ!!(T▽T))))
我慢して読んでたって言ってもおかしくないほど
ども惹かれないのっ!(笑)ってか、もう全然おもしろくないっ!
言っちゃったぁっ!ヾ(≧▽≦)ノ

やっぱり憂生のがいいっ
絶対、憂生のがいいっ
↑ちょっと興奮してるからっ!(爆)

何が足りないって、私的にはやっぱり心の描写。
なんで憂生の作品がどんどん読めるのかと言うと
極端な言い方するとね、自分が「いや、そうじゃない。」って思っても
すんごい丁寧で細かい登場人物の心の描写・・・てか、もう憂生の思いが
こう、なんていうの?すごくわかりやすくかみくだく様に
たたみかけるように、読んでる私の心に響いてくるの。
だから「そういう思いだって、あるんだろうなぁ」って思えてしまうの。
そこが憂生のすごいところだと思ぅうううううううううっ!!まじで。

憂生の作品はまだ全部読んでないけど
空に架かる橋や、ボーマンなんかそうだよぉ!
苦手なテーマなのにどんどん引き込まれて読んじゃうのはそういうことだよぉ!

今、お登勢読んで「きた、きたぁっ!」って
ひとり勝手に感動してるの!(ノ_<。)

やっぱ憂生はすごいよぉっ!!

ごめんね?一方的な感動をまた伝えたくてっ!(笑)

もちろんいつものように無視してくれていいからっ!(笑)
でもね、私が自己満足の想いを綴るためにきたカフェで
憂生の作品に出逢えたことはいちばんの収穫だよぉっ!!

ありがとうっ!!

*****
で、何で、こんなことを此処に
はっつけたのかというと、
やっぱ、物語を書いてゆく
憂生風?憂生流?のものが
ちゃんと、認めてもらえてると言う所だな。

いつかも、みゅがコメントをくれたけど、
*****
ん^^。
でも、なんでだろう・・”憂生が書くから”だからなんだろうけど・・
世界が広がったようにも、空気が変わったようにも感じる

ん・・・どう、言葉を転がすのか、どうもって行くのか・・楽しみだよ^^
******
物語って言うのは
人間が考えるものだから、
似たり寄ったりのものが多いと思う。
そんな中で
読み続けてもらえる
ポイント
上に挙げた諸々のこと。

この書き手なら、
どう、人物をさばき、解剖してゆくか。
また、
みゅのいうところの「さばき方」も。

例えて言えば鮪販売における
解体披露にもにて、
こう例えるか、
この部分をだしてくるか、
こう、きりおとすか、
と、それがうまいものでなくても、
骨にいっぱい身がついちゃっていて、
もったいないじゃないかという不満もふくめてさえ、
そのさばき方に目を奪われると言うこともある。

そして、
最後には
やっぱり、「憂生」が
色濃く、臭く/笑
出張ってくる。

読書について/ショウペンハウエルから・・2

先のページでは、あくまでも「読み手」という位置からの「受けとめ」
ここでは、書く側か姿勢を
ショーペンハウエルの哲学を濾紙にして考察してみたい。


「精神が代用品に慣れ、肝心の問題を忘れることがないように」

この言葉の奥行きはかなり深い。

上の言葉は命題として、置いておく事にして、

実際問題、書き手が小説を書いていく中で
いろいろなパターンのものがあると思うが
このショーペンハウエルが「読む」ものは、
何らかの示唆を含む、問題提起を含むものである。と、この言葉の後ろで、
既に定義されている。
憂生 自身の読み手としての嗜好を考えたときにも、
ショーペンハウエルのこの定義に似たものが在る。
だから、一過性の感覚小説や娯楽小説については、
いくら、文章技術が巧緻であっても、「それだけのもの」と、考える。
当然、こういう嗜好がある以上、自分が作品を書くとき
読み手を「自分」に設定するわけだから、
「示唆」を含む・・・考えさせられる部分を織り込んでいく。

もちろん、片一方では
「それだけのもの」も書く。
だから、
「だから、一過性の感覚小説や娯楽小説については、
いくら、文章技術が巧緻であっても、「それだけのもの」と、考える」
は、そういう系統の作品をかいている作家に対しての批判でなく
作品自体への「憂生 の価値観」という事になる。

さらに、ショーペンハウエルは言う。

★本を読むというのは、私たちの変わりに他の誰かが考えてくれるということだ。

先に書いたとおり、彼は「示唆」を含むものをもとめている。
この「考えてくれる人」が、作家であり、
その作品からショーペンハウエルは
どういう風に考えているか
どういう事を考えるべきか
を、受け取ろうとしている。

この意味合いでも、憂生 は同じことを思う。
「だから、一過性の感覚小説や娯楽小説については、
いくら、文章技術が巧緻であっても、「それだけのもの」と、考える」

そして、「それだけじゃないもの」を書きたいと考えてきた憂生 にとって、
ショーペンハウエルの言葉がさらに重い。

★自分自身で到達した真理や洞察には、百倍の価値がある。
その真理は、それを求める気持ちが高じてきた正しいタイミングにあらわれ、
心に留まり、決して消え去ることはない。

小説を読むに限った事ではないが
「真理を追求」しているときに
「本当に必要な作品」に必ずめぐり合える。
これを逆に書き手視覚でいえば、
「本当に必要な作品」は、けして、消え去る事は無く、
絶妙なタイミングでそれを必要とする人によって、読まれる。

だからこそ、なおさら思う。
「だから、一過性の感覚小説や娯楽小説については、
いくら、文章技術が巧緻であっても、「それだけのもの」と、考える」

エッセイのどこかに
「問題は本当に必要かどうか、これを詮議、選択しないとどこかで歪む」
と、いうようなことを書いたと思う。

勿論歪むのは「精神」だ。

そこで、最初の命題に戻る。

「精神が代用品に慣れ、肝心の問題を忘れることがないように」

ショーペンハウエルはこの言葉を簡単に言う。

★読んだ本から得たものを、自分の糧にして、そこから自分というものを考え見出していくことです。

だが、この言葉では、あまりにも具体性がない。

「精神が代用品に慣れるとは、たとえばどういうことか?」

「肝心の問題を忘れる」とはどういうことか?」

「読んだ本から得たものを、自分の糧にするとは?」

「そこから自分というものを考え見出していくとは?」

これらのことを具体的に解説できる憂生 の作品への感想と
返信があるので、次のページで取り上げてみたい。

読書について/ショウペンハウエルから・・4

「精神が代用品に慣れるとは、たとえばどういうことか?」

作中の人物に同情する

「肝心の問題を忘れる」とはどういうことか?」

その気持ちから一歩はなれて自分を振り返らない。

「読んだ本から得たものを、自分の糧にするとは?」

その気持ちから一歩はなれて自分を振り返って、自分のありがたさに感謝する。

小枝を見て自分の幸せを強く感じた


「そこから自分というものを考え見出していくとは?」

目が見えて耳が聞こえて言葉が話せて歩くことも走ることも考えることもできる
父はもぅいないけど数年前まで元気でいてくれて母は、5年の介護 を経た父が他界したら鬱傾向になってしまったけど最近は化粧品 なんかに興味を示して前向きになってきてるんだ 子も旦那も元気だしなんでもない普通がとても幸せと更に強く想う

★★★
こういう感想をいただいて、憂生 は
読み手の読みとり方というものを、いろいろ、考えさせられた。


―物語を読むときに本当に必要な心というのは、こういうことだと思います。
作中の人物に同情するのは、簡単なことだけど
その気持ちから一歩はなれて自分を振り返って、自分のありがたさに感謝する。
物語というものは本来、こうあるべきものだと痛切に思います。
こういう取り方をされていただけると物語が読む人の中で血肉になってゆくと思うのです。
そして、これは、本当に作品と自分を向かい合わせてくれた結論ということですから、
その真髄に触れることが出来たあなたの読解力と自分の生き様に向かい合う真摯さにただ、敬服の一念です。―

★★★

ショーペンハウエルがいう、「世界」を描く事の出来た作品は
読む人の中で血肉になってゆくと思う。

こういう意味合いでも
心にも考えにも残らない、誰が書いていても同じような作品
一過性の作品。娯楽作品。感覚小説は、「それだけのもの」でしかなく
読み手の真摯さとむかいあう。
そんな作品を書いていきたいと思うのです。

読み手に対して、ショーペンハウエルが力説する部分を
そのまま、引っくり返せば
書き手の力量や人生への眼差しを問い直される言葉になってきます。

問題は中身。

作品の質。

9999999人に読まれる作品より

1人の奥底にふれ、血肉になりえる。

そんな作品を書ける作家でありたいと思う。

宿根の星 幾たび ・・から

十年近く前に書いたものでありながら

やはり、よみかえしていくと、考えさせられます。

現在の日本もまた、外国の武力的行為が、いつ日本にむけられるか判らないという

脅威が人の心を蝕んでいると思えます。

戦争反対は当たり前のことであると思いながら

自分は戦争にいきたくないと思いのままに叫ぶ人たちをみていて

この方たちは、「自分だけが戦争地にかりだされる」と考えているのだろうか?と思えてきます。

いやおうも無く、武力行使で日本に対して、爆弾などをおとしてきて

いやがおうでも、戦争になることもありえるのではないか?

と、考えたとき、

戦争反対といっていた人間が

今度は、なんで、対抗できる武器・装備などなどをもたなかったのだ?と

一番先に政府を糾弾するのかな?とおもってしまいました。

壬生浪ふたり・・でも、

亡国の軋みという言葉をつかっていますが

沖田にかたらせた

外憂内患

国がひとつにまとまらず外夷に立ち向かえるわけも無く

国を載せる石垣がまとまらない。

そんな中、バックグラウンド(イルミナティから援助を受けていたとか???)はともかく、

龍馬の単純ゆえに真なる言葉を思います。

「みんな、仲ようすりゃええんじゃあ。簡単なことじゃろうて」

その龍馬を彷彿させるのが、有馬です。

そして、その時代・・明治にはいってから、西郷の征韓論が勃発しますが

これも、当時の脅威であった、ロシアに対する布石を打とうとしたとの話がありますが、

結局、西南の役で西郷は滅します。

その西郷の思いにかさなるのが、孝道です。

死に場所を求め、渤国に攻め入ろうとする孝道をいさめたのが御社の瑠墺です。

国を思うという別の見解になるかもしれませんが

昨今のスピリチュアルブームをみるにつけ

我、助かりたいとあれやこれや信じ込む姿をみると

末法思想にも見えてきてしまいます。

己の中に神がいるとまで解き明かされているスピリチュアルを学びながら

なにゆえ、「信」をもてないのかと不思議にさえ思えたものです。

 

龍馬のように、単純明快な「真」なのではないかと思えるのです。

 

有馬はあまりにもにこやかである。
「正妃であるまえに絹さんは女子です。
女子の幸せは愛し愛される伴侶を得てこそ。
一人の女子が幸せを掴もうとするを、
天が阻むとは思えません」
あっけらかんとしたものであるが、
それが、真実であり、
真実にすべきである。
だからこそ、有馬は天を信じられる。
信じる亜子に情を尽くす親のように
また、天も有馬の思いに答える。
確かにそうだと思えてくる。
瑠墺をして、そんな気にさせる有馬だからこそ
有馬ならば亡国のきしみをつくろえると
志士たちは思うのだろう。

想うままに・・・

空に架かる橋でフォルマリン浴槽というのが、出てきている。

この発想は、大江健三郎の「死者の奢り」からになる。

主人公は献体になる死者を保管したフォルマリン槽から

死者をひきずりだしたり、沈めたり?していた。

と、記憶している。

不思議な仕事に、従事していた。

アルバイトだったのかもしれない。

主人公と向き合うのは、死者だけである。

大江健三郎は、初期のころ、こういう一種異様な閉鎖的精神世界にスポットをあてたものをよく描いている。

パラシュートでおりた黒人兵をみた戦時下の少年。

エヒノコックスに寄生され、腹部に大きな塊をもち、身動きもまともにとれず、部屋の中に一人いる少年。

そういう一種独特というか、自分だけが理解しうる世界にメスをいれたといっていいか?

この他人には理解、あるいは、共有できないだろう精神世界を描いている大江健三郎に

なにかしら、因縁のようなものを感じたのだが、

後年、大江光という音楽家をしることで、謎が解けたような気がした。

大江健三郎の息子もまた、理解、あるいは、共有できないだろう精神世界にすんでいる。

いわゆる、自閉症というものだろうとおもわれる。

大江の初期作品はこの少年の出生を予期していたかのようにさえ、想われる。

そんな大江が息子に対して「何をみつめたのだろうか?」と想わぬでもない。

なぜ、そういうことを想うか?というと、

大江の作品、わが魂に洪水は及ぶ を、読んだからだと想う。

その作品のテーマが、憂生に大きな感化をあたえたせいもある。

ラーニングをミーイングにする。

学んだことを意義づける。価値づける。

と、いうことであるが、

これは、そんな難しい考え方ではなく、

日常的にある。

些細なことである。

たとえば、ごみを拾おう。と、いうことを学んだとき、

その学びを意義あることとして関連付ける。

つまり、自分はこれから、意識してごみを拾っていこう。

と、行動に移すことといってよいかと想う。

 

そんなふうに、世の中、いや、自分という世界の中で

学んだことを「学び」として意義づけて実践していくようになるものだが

うっかりすると、

意義付けが非常にあいまいなことがある。

なぜ、ごみをひろうのか?

と、成ってきたとき、極端だが

これが、自分の生き様だからだ。などとこたえることはない。

当たり前の感覚でしかないのである。

それを、大江はあえて、

意識して、積極的に選択して、いく、選んだ生き様として

自分の軸におく。

たとえがうまくないのだが、こういう「意識」を作品にしあげたということからして、

息子に対するラーニングをミーイングに変えていっているだろうと想う。

その大江がなにが原因だったかわからないが

ドナルド・キーンと争うことになる。

多くの人はキーンの親日ぶりをしっており、

大江に対して、好き勝手な批判をくだしていた。

だが、憂生は、大江の精神性を少しは理解しているつもりだ。

ここからは、あくまでも憂生の勝手な見解になる。

憂生はドナルド・キーンのほうに批判的に成る。

日本を大好きで、日本人になった人である。

そこだけをとれば、好ましいと想う。

だが、キーンの立場が憂生には、批判を生じさせる。

これが、ラモス・瑠い(変換にみつからず)だと、納得する。

その違いは何かというと

キーンは日本人になろうとして、一番日本人から遠ざかった生き方をしたと思うから。

日本のすばらしさを知れば知るほど、

その精神性を知れば知るほど、

自分のもともとの祖国の人間に啓蒙したいと想うのが本当ではなかろうか?

生まれ育った国の人々の精神性をそのままに、

自分は日本人が日本がすきだからと、祖国をすてるような

言い方を悪くすれば

自分の好き勝手をしている人間としか見えない。

日本人なら、どうしているか、を、考えればわかる。

戦争中、日本はアジアを国々を植民地支配から開放しようとした。

じっさい、それは、時を経て実現していったと想う。

さまざまな重圧やら、無知からおきる混迷や貧困をなんとかしたいと

いまでさえ、日本人は多くの手を差し伸べている。

これが、キーンにはわからない。

相手を理解するだけでなく、ミーイングをも与えようとする日本人が判らない。

これが、判れば、キーンは暗黙下にミーイングを了承しているいごこちのよい日本にいるだけでなく

祖国にまわり、せかいにまわり、

その立場を駆使して、日本精神にまなぶべきことを説いて回るはずだ。

ただの、日和見主義か、個人主義かしらないが、

そんなのは、日本人にほどとおい。

人のため、尽力を尽くす。

自分だけ、よければいいという個人主義そのままにしかみえないキーンに

大江の何がわかろう。

 

そんなふうに、日本びいきのかわいいおっちゃんという見た目におどらされ、

キーンという本質が日本人とよべるかどうかなど

詮議することなく、受け入れるのが、又、日本人の良いところというか

懐の深いところだけど、

キーンのありようをして、

大江に文句をたれること自体、己を顧みざることこの上もなし、だと思えて仕方がない。

そういう馬鹿げたキーンの行動に

大江が断固として反論しただろうが

おそらく、キーンには理解できなかっただろう。

本当の日本人なら、どう考え、どう行動するべきかという「根底」がない。

世間様の

キーンの親日ぶりにたいする、評価は高いと想うが

それは、逆をいえば、「ペット」として

日本に飼われたがったという事でしかなく

日本人としての生き様をもとうという「人間」になりえなかったという部分で

多くの人の目に

ペットのもつ「愛くるしさ」が軍配を上げさせていると思えてくる。

あまりに、キーンを批判するのも、よくないことだが

大江の底を想うと、

キーンへの幸せな誤解のうらに

大江に対する、理解不足を想う。

ただ、大江はそんなことを、意に介していないとは想う。

それさえ、キーンには、わからないことだろう。

******

想わぬ方向に話がぞれてしまったけど、このまま、揚げます。

蟷螂に寄せて

白蛇抄の多くの主人公は陰陽師である。本当の主人公は白蛇神だともいえるがwww

この陰陽師がはっきり?でてくる話が 第2話 悪童丸からになるのであるが、

第1話 蟷螂の事件と 城に現れる鬼退治とが、合わせ鏡のようなつくりになっている。

大方の物語を13編くらいまでしあげてから

蟷螂がないと 話が宙にういてしまうとわかり、布石になる話をずいぶんあとに書き上げた。

ちょうど、これらを書いていたころに

夢枕縛の陰陽師・その映画化により うっかりTVをつけると

ー陰陽師ーを関連をやっていた。

憂生としては、

きっちり陰陽師を調べて書いているわけでなく

独自の陰陽師をかいていたせいもあって、

へたに本当はこうだ、ああ、そういう術をつかうのか?など、

影響や感化をうけるのを嫌った。

とはいうものの、ブレイクしただけあって、どうしても目にはいってくる。

身固めとか、多少はつかわせてもらうことにした。

が、これと同時くらいにはやっていたのが、犬夜叉で

この中の半妖という言葉も ちょうど、悪童丸をいいあらわすのにつかっていたところがあり

たった一つの言葉でありながら

ユニークな犬夜叉のイメージがかさなってしまうのではないかと不安を覚えた。

もともと、犬夜叉はほとんど読んでおらず、

7人隊フアンの相方のために拘束(蛮骨×蛇骨)(1)をかきあげたのだが

知らずにかくとえらいことになった。

大鉾としらず、刀を研ぐとかき

犬夜叉が護るべきもの、桔梗と楓 とかく。

相方AKIRAからばあさん思いの犬夜叉だといわれるまできがつかぬという、ていたらく。

こんな調子で白蛇抄も、かなりあちこちに 嘘と間違いと勝手な想定をしきつめているのは間違いないと思う。
-AKIRA作ー悪童丸と澄明と政勝

あきらが描いてくれた悪童丸と政勝

小枝・・に寄せて

この物語をかいていくのに、

一番、てこずったところは、性表現だった。

そのシーンをかきこむと、やはり、「煽り」臭くなり、

小枝の思いがだいなしになってしまう。

が、かかなければ、

実際の小枝が、どういう風に性をうけとめていたかということが

みえてこない。

欲をそのままに書いていくことで、

ぎゃくに、小枝がそれを覚悟の上で、

うけいれていく、その欲と純愛をうまく対比させていく。

そのために、つたないながら、性表現をできるだけ、

きれいにかつ、文治側もまた「切ない渇望と希求」である必死さというか・・・。

そこをかきこむのを、どうすればいいか・・・。

本当の主題は、ラストの3章にあるのだが

そこにもちこむためにも、

あまりに煽りじみた表現をしてはいけないし

かつ、小枝の心に生々しくふれていくためには、

さけてとおれない、生生しいという現実を含む性表現が必要だったと思う。

迷いながら、書き込んでみて

やはり、読み手の反応は2つにわかれた。

性表現がでてきたあたりから、いわゆる官能小説の類だと勘違いされ

それも、目がみえない、今でいう障害者をターゲットにして書くなど破廉恥、恥知らずな行為だと

判断されたようだった。

多く、憂生の作品は・・・

う~~ん。

官能小説をかいてさえも、どうしても、生き様小説のようになってしまう。

このあたりを、まったく知らない人ばかりのところに

作品をあげていくということになると

できれば、最初に説明をしたくはあった。

真摯なテーマをかかげているつもりでいるが、

つたない表現のため、小枝の心がうまくつたわっていかず

性表現のきつさ?がかえってあだになってしまっているかもしれない。

 

と、ここで、愚痴っても仕方が無いことですが・・。

それとは、別に、憂生なりに、ネタ仕込みをしている部分があります。

たとえば、紅。

最初に紅をわたされた小枝が

「これって、おまつりとか、特別なときにつけるものだ」というようなことをいいます。

たとえば、ここがネタふりというか、

ネタ仕込みなのです。

それで、ラストの一言が効いてくる。

こういうのは、よく使う手法なのですが

作品に深みをあたえてくれているとおもえます。

なにげな~~く、かいてみせなきゃ、ネタ仕込みにはならないので

ここにネタをしこんだよとはいえないのですが、

できれば、そういうところも、

構成として、評価していただけたらさいわいです。

彼の魂が・・から

昨今のスピリチュアルブームで、

こういう話を読んでも、怖そうとか、興味本位とかで読む人が少なくなってきたと思っている。

と、いうのも、

カルマの清算やら次元の上昇やらを考えると

幽霊と同じ次元にいるということのほうがよくないと

認識し始めているせいもあると思う。

いろいろ不思議な体験があり、

高校生のころに、なにもしらないのに

友人に憑いたらしい幽霊?を払ってやると無謀な行動を起こしたことがある。

細かいことはおいておくとして

そこで、かんじたことは、

彼女の魂でも書いてるように

「本人の思い方に共振するものがとりつく」

と、いうことであると感じた。

こうなると、一概にはいえないことだろうけど、

幽霊にとりつかれる人は、

「幽霊と共振するそのー思いーをきれいにしなきゃいけない」

と、いうことになってくる。

これは、今のスピリチュアルでいうところの、カルマの清算

魂の次元上昇ということにも、通じてくるだろう。

「幽霊と共振するそのー思いーをきれいにしなきゃいけない」

と、いう部分も

幽霊だけに限らず、自分の近くによってくる変な人間とか

環境は自分の思いがうみだしたもの、であるなら

良くない環境という幽霊をちかよらせた自分のーその思いーもきれいにしなきゃいけない。

と、いう事になってくる。

ところが、

よく、人間の性格など、変わらない。と、いう言い方をされる。

しかし、よく考えると

この性格というのものの大半は「思い」という事になってくる。

思いをかえていくように、こころがけるためになにをすればいいか?

と、なってくると

気づき、が、必要になる。

そこで、この彼の魂が・・・というのが、象徴的な話だと思えてくる。

彼は自分が死んだことに気がついていなかった。

それは、幽界という「思い」の世界にいってしまったことにより

「思い」だけをみていられるようになったこともあり

父親への憎しみが重石になって

あがれずにいたわけだけど

自分が父親への憎しみをもっているこガ重石になっていることにもきがつかないわけだから

その「憎しみ」をみている状態で存在していたと考えられる。

その彼に

「父親に対する態度。思い方」を彼の目にみせることにより

ー自分はまちがっていた。良くない思いだったーと、きがつくことになる。

すると、憎しみという思いを手放せるようになる。

それで、彼は身軽になってあがっていった。

と、いうことになる。

それをみておもうことは、

そんなふうに、前世やら先祖やらDNAやらから、沸かされた「思い」も

「気がつかせる」ことで、納所していくのではないかということだった。

幽霊?にさえ、気がつかせることをできたならば

自分が自分で、自分にきがつかせていくということはできるのではないか?

知らぬうちに

思い込んでしまった枷というものもあろう。

その枷をほどくのは、自分であろうと思う。

そういう憂生の観念が

白蛇抄にも敷き詰められていると思う。

何話めになるかわすれてしまったが

陰陽師 白河澄明(とうみょう)が自ら言う。

「思いを救わねば、本当の救いになりませぬ」

と・・・。

そして、そう考えれば

己の思いを救うのは己であるという前提で考えていけば

すべての人は自分を救う「陰陽師」であるといえる。

医者の不養生ならぬ

陰陽師の不養生にならぬように。

と、彼の魂が・・・を読んで

改めて考え直している。

笑う女に寄せて

この作品は

確かにきわどい性表現がある。

そして、裏側には社会的にもニュースになっている

介護が必要な立場の人間にたいする暴行や虐待という問題がある。

憂生自体は、

直接、介護するという立場ではなかったが、

養護施設にちかい職場にもつとめたことがある。

昨今、面白半分で

性表現のある読み物をかいている人間も多い。

感覚がずれこんでいるのだろうと思うし

きわどく描写する憂生もどこかでずれこんだ人間だろうとは思う。

だが、

笑う女をよみなおして、思うのは

最初の、あるいはところどころの性表現をおもしろがって読んでいればいるほど

ラストに掲げられている

「自分こそが性にあやつられ、おどらされる、傀儡である」

と、いうことになるということだろう。

 

この物語を読んで、あおられているような

あるいは、そういう表現をめあてにして読んだとしたら

この物語のラストで

「そういう風に読んでること自体が、傀儡である」

と、突きつけられることになるのではないかと思えた。

どういう思いでよんだかは、本人にしかわからないことだけど・・・。

 

過去のコメントから

 

この話をかきながら、職員が暴行するという設定に迷っていた。
車椅子にのった河原さんは、こういう事がある。
と、いうことをはなしてくれた。
一方で、障害者が性への希求をもったときに、
当時でいえば、ソープにいくことはおろか、
そういう希求をもつことにさえ、蔑視があった。

ところが、この話をかいている途中だったと想う。
車椅子にのった方が
「今は、セックスボランティアがありますからね。
私もちょくちょく、お世話になっています」
と、コメントを残してくださった。

一方で、障害のある子供をもつ親も、この物語をよんでいた。

子供が男の子か、女の子で、受け止め方はちがうかもしれない。

男の子であれば、性的希求をもつころに、その希求をかなえることもしらず、
性をしらず、一生をおえさせてよいのだろうか?
かといって、通常、結婚に結びつかない状況であり、
ただの欲望の昇華をおしえてしまうことも惨いことかもしれない。

車椅子のかたも河原さんも、身体的には障害があっても、
精神的には障害(ちょっと、問題のある表現だと想う)はない。
むしろ、より優れた知能と知識を持っている。

この物語は、主人公を女の子にしたけれど、
男の子とて、性への希求をもつだろう。

そのときに職員が暴行とみなされることをしたとして、
はたして、
「希求をかなえてやりたい」というものがひとつもないといえるだろうか?

確かにレイプでしかない場合もあるとは想う。

職員側の問題として、考える部分はあるが、
セックスボランティアを利用するという言葉のとおり、
希求がないとはいいきれない。

軽々しく書けることではないし、ここに書いたことなど、考えで物をいおうとしていることにすぎない。

「性への欲望」が良識ある人間の地位も名誉もうばうほど
「理性」をなくさせるものであるならば、
その「性」のエネルギーのすさまじさを想う。

そのエネルギーの噴出がないとはいいきれない。

*******

笑う女のタイトルを考えた時に
二重・・・三重の意味をこめた。

 

本名・・恵美子
の、特徴?である、笑った顔の笑子と
えみこの名前と同じ音の笑子を使う。

そして、
この笑子は最後までヤッパリ笑う女のままで。。。
笑子はなんにもかわっていない・・・。

だけど、
笑子を取り巻くものの接し方?で
笑子の笑が異質なものになってくる。

笑子が笑ったままであることで
知らずのうちにしっぺ返しをしてしまう。

最後の部分は初めから設定していたことだったんだけど
そこまで、もってゆくために、
紆余曲折?にもがきました。

笑う女というタイトルは
笑子が童女のままであることも含めていますが
「俺」にとって
笑う女・・・は・・有る意味物凄く怖い意味になってきます。

いつだったかレイに少しコメントしたけど
笑子と小枝は裏表みたいなものだって。

どちらの女性も
性を求めてゆく・・・その根本は変わらない気がします。

だけど、
性が生につながらない部分で
生と性の主従が逆転して
笑子にいたっては生まない体になることの方が幸せであり
小枝は逆に命を紡いでゆくことが幸せになる。

自分でも、なにを思って
コンナ話をかいたのか、よく判らないのですが
やっぱ、根本は
性はとっても慎重に扱わなきゃなんないものなんだよって
そんなところかもしれません。

憂生の作品は、性に触れる物事が多いのですが
こういう特殊な状況をかいて・・
う~~ん。
待てよ。
他の作品も結構特殊な状況下の性・・・多いな。

ま、いいや。

特殊な状況に置いて
主人公達が何を思うか・・・。

そこらへんが、掘り下げてゆきたい部分かもしれません。

悪童丸のことから・・

自分で書いて、自分で感心するのも、妙とも当然ともいえるがwww

我ながら、こんなところに、いっぱい「ネタ」を仕込んでいるのだとおもう。

その「ネタ」が芽吹いてくるのが

これまた、ずいぶん先の話であったり、同じ・・本編であったりする。

「ネタ」をしこむのに、できうるかぎり、さりげなく

場合によっては、ぜんぜん気がつかれず・・・ということがおおくある。

この「ネタ」もあえて、埋めるものと

あとから、ほじくりだして、咲かせるものがある。

いわば、古代の蓮の種のようなもので、

本人もおぼろげにしか咲く「ネタ」になるとわかっていないことがある。

たとえばであるが、

まあ、ちょっと、しつこいほど、

政勝とかのとの睦言をかいている。

この中でしこまれているのが

睦言のときには、「政勝さま」(ちがったかな?だんなさま?)と、返す。

と、いうさりげない一言である。

これが、第6話 邪宗の双神のある場面で重要なポイントとして扱われることになる。

まあ、こんなふうに、あちこちに「ネタ」をおいておくことで

さきの、物語の意味合いがわかってくる?というところがおうおうにしてある。

ついでに・・・・。

澄明の名前も〔とうみょうとうみょうとうみょうとうみょうと・・・みょうと)・・みょうと(夫婦)をふくめて

みょうとの思い(因縁?)がきれいに澄む・・・

明という字もすでに日と月で夫婦を暗示していて、

夫婦が澄む・・・という意味合いもかねている。

また、音からも、とうみょう  灯明 燈明であり

夫婦の心を灯す。澄ます。でもある。

これを書いたのは、もう10年くらい前だったとおもうが、

読み返して思ったことがある。

どの場面だったか、忘れたが

「鬼だからとて、その存在を憎むのは人の驕りである」

と、いう言葉がある。

昨今のスピリチュアルでも、

「悪いことも、悪人も・・天(創造神?)がつくったものである」

と、いう観念をだしてきている。

それを良い悪いととっているのも、あるいは、人間(憂生)の驕りであるかもしれない。

などと、思っていたらwww

すでに、自分で書いていたのだと・・・。

なにか、スピリチュアルなどで、発見しているつもりでいたわけだけど

もしかしたら、

いろんなこと、忘れているのかもしれない。

と、そんな思いで、自分の書いたものをよみなおしながら、揚げている昨今なのであ~~~る。

ブロー・ザ・ウィンドウのこと・・

ブロー・ザ・ウィンドウは知人とバトン小説のような形でかきはじめた。

確か、オルゴールがついた本箱?あたりまで、

何行かずつ、かいては、相手に渡すという形だった。

そのあたりで、憂生に全般的な構想がわき

ストーリーをつげたとき、

「恋愛物にする気だな」とバトン小説〔キャッチボール小説というべきか)から撤退されてしまった。

知人が書いた部分はそのまま、使い続けることにして、書きおえた。

ためしに出版社にだしてみたところ、悪くない???評価をいただいた。

続けて、蛙や白蛇抄 -悪童丸ーもここにだしてみたところ

この二つは出版をすすめられたが断った。

そして、白蛇抄 1~14まで、公募にだしてみたところ、

微妙な審査結果になってしまった。

出版推奨作品という賞状?認可証のようなものが届いた。

出版社の裏事情というものを、このさい無視しておくが

100万文字ほどある作品であり

通常の本にしたら十冊以上になる。

当然、これを協力出版・共同出版という形にしたら

1000万以上かかるだろう。

無理か・・と思い

文芸社に問い合わせてみた。

すると、読んでみなくちゃ判らない、と、いわれ

送ることにした。

その結果もまたも微妙で・・・。

「保留」という回答をえた。

そして、他に作品を書いてらっしゃらないのですか?と、とわれた。

これは、「保留」になったところの判断材料にするためだとこちらは思い込み、

蛙・ブロー・ザ・ウィンド・壬生浪ふたり・・の毛色の違う作品をおくってみた。

すると、壬生浪ふたり・・を全国出版でだしたいと返答がきた。

正直、?????だった。

白蛇抄をなんとか、出版できないかという思いでいたわけだし

壬生浪ふたり・・は、ほんの少しかいて、乗り気にならなかったため

ずいぶんほったらかしにしていたのを

「作品は完成してこそ」と、ほっちゃらけになってるのを始末するようなwww

そんな動機で5日ほどでしあげてしまったので

本人はそんなちゃらちゃらとかいてしまったようなものを出版する気はなかった。

それが、

「審査」になっている。

ここも、ええ?????

白蛇抄の「保留」をどうするかの判断のためではなかったのか・・。

愕然とした思いで

「だしたいのは、白蛇抄なので、出版はお断りします」

と、断ると、今度は企画部長から特別推奨作品に押したいと手紙がくるは

電話が来る。

その電話で、切れてしまった。

広告をふやす。広告を3段ぬきにする。初版発行部数を増やす。店頭におく書店をふやす。

そして、発行の代金を格安にする。

と、いってきた。

いやあ、金がないから。と、断ると

おいくらくらい?70万?とむこうがいう。

そんなにあったら、金が無いとはいわんだろう・・・。

過去、他の出版社でも割引やキャンペーンのときにわざわざ、しらせてくれて

金が無いといえば、格安ローンとか、何回かにわけてしはらえるようになど

いろいろ、アドヴァイスもくれた。

ましてや、出す気もないものに、安くても気持ちがなかなか動かないものだけど

それをだして、足がかりにして「白蛇抄」をひとつずつ出していきましょう。

しぶしぶ出したものでも、結果がよければ、次を無償でだせるかもしれないし・・

と、トライすることをすすめてもくれた。

ところが、

「いやあ、貯蓄30万です(それも車をかおうとためていた金)」

と、答えたとたん

企画部長は鬼角部長に豹変した。

「30万?そんな金じゃ、自費出版だってだせませんよ。うちは、広告もだすし・・うんちゃらこうちゃら・・」

馬鹿をいっちゃいけない。

読んでもらおうと思うなら、ネットで公開してだって読んでもらえる。

そして、高い金をだして初版発行950部〔1000冊マイナス自分の分50冊)を誰かに読んでもらうのだとしたら

950人???

そして、増刷するほどうれないのが、普通だろうから、

3年もすると、発行権が自分にもどってくる。

ここで、やっと、ネットで発表してよんでもらう。

のと、どれだけ差があるのだろう〔読まれる人数に)

すでに、ネットで発表しまくっていた憂生には、その差はわからなかったが、

このブロー・ザ・ウィンドウという作品は

ある方の人生をかえていくきっかけになったところがあった。

この作品の中と同じような境遇だった女性は

ブロー・・の

明るい笑顔を取戻してくれさえすればいい。
例え相手が自分でなくてもいい。
レフイスが愛されてる事に瞳を輝かせ頬を紅潮させ
生きてる事を精一杯喜べれたらいい。
それがテイオじゃ駄目なんだって事。
それにきがついてほしいだけなんだって。
ないてるレフイスだったけどそれでもアランは言ってみたかった。
「なあ。アンタの人生は死んだ人間を思って
悲壮感に包まれて終っちゃいけないんだ。
其れじゃ、アンタもしんでるって事なんだぜ。
生きてるって事は誰かを幸せにしてやんなきゃなんないって事なんだ。
アンタも誰かを幸せにしてやんなきゃいけないのに、
テイオの事ばっか考えて、生きてる人間所か
テイオを自分も回りも全部不幸にしちまってるんだ」
「まわり?」
かすかに小首を上げてレフイスはアランに問い直した。
「アンタが生きてる事をよろこんでる、皆さ」
「・・・・」
「皆、アンタに幸せな女の子であってほしいんだ」


********

あたりで、

「思われていることのありがたさ」ということが、

胸に沁みたんだろう。

突然のように、心を開きだし

ネットの友人や、ちょっとブログを訪問してくれる人にまで

「思ってくれる」ということに気がつき、喜び始めた。

その姿をみて、憂生はうれしかった。

 

そんなことごとをブロー・ザ・ウィンドは人の心にともしていってくれた作品だったから

出版とか、そんなことにこだわる必要がないことは重々に承知していた。

そして、「本は必要な人に必要なときにベストタイミングで目の前にあらわれる」

と、いうのを、おこがましくももう一度、信じようと決めた。

読まれないということはあるいは、不必要か、時期じゃないんだと。

それほどに、人の心を開いていった作品だった。と、いうのは

非常にうぬぼれた言い方かもしれないけれど、

また、作品は読み手のどこに響くかは読み手にしかわからないことなのだと思う。

お登勢のこと・・・

今まであげてきたものも、

いろいろとコメントやら、作品に寄せてやら

と、多くある。

特にブロー・ザ・ウィンドは、ある女性の心をひらきはじめるきっかけ?

気づきになった作品である。

その方は白血病でなくなってしまったが、

憂生の作品をこよなく愛してくれて

仕事?で移動する新幹線の中でも読めるようにとプリントアウトして

読んでくれていた。

プリントアウトしやすくするためにも、憂生はブログ人で

1スレッド全文掲載を行っていた。

その考えは今も変わらず、FC2をメインブログに選んだのもそこにある。

彼女が入院すると、

彼女のおねえさんは彼女のために憂生の作品をプリントして

病床の彼女に読み聞かせていた。

そのお姉さんからメールがきた。

「お登勢の物語に涙がおちる」

と・・・。

そして、次にあげていた「空に架かる橋」にも

おねえさんは、メールをくれた。

ー死を隣におく妹に、死を題材にした物語を読み聞かせていいのだろうか?-

と・・・。

憂生は返事は避けた。

おそらく、この物語も、妹さんの琴線にふれるだろう。

ー思いをのこさず、死ぬー

ーなにもかも、抱きとめて・・・死をも・・抱きとめていく生き様ー

それは、確かにこんなときでなければ

薦める事ができたかもしれない。

そして、しばらくのちに、お姉さんから、メールがはいった。

骨髄が定着せず、2度目の手術をうけさせたいのだが、

本人が拒む。

と、いう。

説得してくれというお姉さんに、憂生はむごい言い方だったかもしれない。

妹さんは死ぬことを覚悟してらっしゃるかもしれないが、

骨髄を提供するといっていた方は、

ーもう一度、移植していたらーと、ずっと想うんじゃないか?

人の思いにありがとうといってた、妹さんが

最後に悔いをのこさせてはいくまい?

そういうようなことを答えたと想う。

そして、それっきり連絡はとだえた。

そして、あることから、妹さんがなくなっていたことをしり・・

かつ、おねえさんもなくなったことをしることになった。

恋人の部屋のものをきれいにかたずけて、何日か後

突然たおれるとあっけなくいったそうだ。

姉妹であったのだから、お姉さんは自分も白血病の発症を

ある程度わかっていたのではないかと思う。

それよりも、妹の看護・励ましを優先した。

憂生はお姉さんの思いを考える。

死を隣にして読ませていいものだろうか?といったお姉さんが「空に架かる橋」を読み、

自分のことより、いつも人のことを思い考えるお登勢をよみ

人にも自分にも最後に悔いをのこさせてはいくまい?

という言葉をきいた。

 

恐ろしいほど、静かに、たんたんと

恋人の部屋のものをかたずけ

最後まで、いきぬこうとしたのだろう。

 

その彼女が愛したお登勢のものがたりを揚げました。

空に架かる橋・・・のことから・・

何度か、文芸社さんからは、お誘いをいただいて
ことごとく、断り続けるしかないビンボーな憂生だったせいで、
ある日、ぷっつりと、連絡が来なくなったのはいいが
いっさい公募公開のお知らせも入ってこなくなった。
 
それは、たぶん、電話でやりとりしていたときのあの言葉が原因だろうと想う。
ー出版する気がないのに、書評ほしさに何度も応募されると困るんですよねー
まあ、憂生にはいくらでも、反論がある。
出したかった白蛇抄を保留にしておいて
なにか、他に書いてらっしゃいますか?と、いったから、3編ほど
保留の判断材料かと想って送っただけで
それを勝手に審査してしまったんじゃないかwwwと。
 
とは、いうものの、
その書評については、あまりにも上手に書いているので
解説変わりにつかわせてもらっている。
 
おそらく、いわゆる?おそらく?プロの書評を解説かわりに使う態度に腹を立てたのだと思う。
姑息に利用しやがってと想われたことだと思う。
 
とは、いうものの、
壬生浪ふたり・・の全国出版のお誘いプラス白蛇抄の保留で、
もういいやというか
いろいろ、考えさせられることも多く
結局、それ以後は応募することはなかったのだが・・・。
 
ところがどっこい!!
 
今度は文芸社さん。
ー感想?書評をおつけします。気軽に応募してくださいー
と、
おまけに、昔のようにプリントアウトしてなんてことはもういわない。
白蛇抄 14編をプリントアウトするのに
何枚つかったことやらwww
それが、メールで応募できるというので
はっきし、いいます。
 
どういう評価を受けるだろうか?
と、いうのが、気になって、
空に架かる橋、メール投稿を行いました。
 
結果・・・www
送られてきた感想?審査評?に愕然としました。
 
と、いうのが、
空に架かる橋を書いたころのコメントを下に掲げますが
その中の一文。
 
コレが、「空に・・・」の下地に有ると思う。
たぶん、この話を外国人が読んだら、
「なぜ、彼女は報復しないのですか?」
と、おもうだろう。
「なぜ、敵を、同胞をころした敵に温情をかけられるのですか?」
判らない。
と、言うかもしれない。

たぶん、
この物語は憂生が日本人だったから、
説明なしにかいてゆける感情が
暗黙に了承され、受け入れられているからだと思っている。
 
 
の言い方でいえば「外国人からの感想」だった。
まさに、外国人に似たり寄ったり。
 
この受け止め方にかなりのショックをうけた。
 
日本という思いがつうじないのかと・・・。
こういうと、大げさだが・・・・。
 
さらにいえば、
憂生の読者さまは
憂生の作品を(すべてがそうではないが・・)
かなり「真摯」に捉えていてくださっていた。
 
たとえば、
 
でも、その昔、小枝のような娘がいたのかもしれないと思うと、この場面ではなんともいえない哀れな気持ちになった 健常者が失恋 をしても紅のことなど忘れてしまうこともある それに加えて目が見えない 母恋しい時期に母をも失って。。。小枝を見て自分の幸せを強く感じた
投稿者:mahirururu
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物語を読むときに本当に必要な心というのは、こういうことだと思います。
作中の人物に同情するのは、簡単なことだけど、/ま、ただし、コレは表現方法にもよるかもしれませんが、憂生の拙い文章からここまで、思ってくださることは、むしろ、驚異です!!/
その気持ちから一歩はなれて自分を振り返って、自分のありがたさに感謝する。
物語というものは本来、こうあるべきものだと痛切に思います。
こういう取り方をされていただけると物語が読む人の中で血肉になってゆくと思うのです。
そして、これは、本当に作品と自分を向かい合わせてくれた結論ということですから、
その真髄に触れることが出来たあなたの読解力と自分の生き様に向かい合う真摯さにただ、敬服の一念です。

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目が見えて耳が聞こえて言葉が話せて歩くことも走ることも考えることもできる
父はもぅいないけど数年前まで元気でいてくれて母は、5年の介護 を経た父が他界したら鬱傾向になってしまったけど最近は化粧品 なんかに興味を示して前向きになってきてるんだ 子も旦那も元気だしなんでもない普通がとても幸せと更に強く想う
投稿者:mahirururu
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何も無い。一見、平凡でありきたりなこと。
こんなことが一番幸せなんだということ。
よく、思います。
文章を書く立場として、たとえば自分に奇異な?タグイまれな不幸があれば、極端な話ベストセラーになれるようなものをかけるかもしれません。でも、憂生もごく平凡でどこまで、人の痛みがわかるか実に怪しい人間です。
でも、人の痛みがわからない自分というものをひっくり返してみたとき、それだけ幸せなんだと思います。
人の痛みがわかるほどの不幸を?味あわずにすんでいる自分を感謝する。
わからない自分であることが実はありがたいのだと思う憂生であります。
御幣があるかな?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
あくまでも、1例 としてですが、
自分ごと(自分の内面)と比べて、時に自分の凹みや弱さにきがつき、かえていこうとする。
そういう「気づき」として、読んでくださった人がたくさんいたのです。
こういう読者さまに恵まれているということを指摘してくださる読者さまもいました。
 
だから、なおさら、
日本人なら、
暗黙に了承され、受け入れられている考えや感性・感情が通じないという結果に
驚いてしまったわけです。
 
それから、5年以上たって、
日本も東北地震とか・・・。
いろいろあって、日本・日本人ということを考え直させられる現実がありました。
今のスピリチュアルブームもあり、
日本の「思い方」のすばらしさももういちど、みなおさられるようになってきました。
 
そして、空に架かる橋の出版を勧めてくれた出版社の方の言葉を思います。
 
「僕には衝撃的でした。
これが出版されたら、世間がどううけとめるか、
僕はそれをみてみたい」
 
彼なりになにか、感じたことがあったのだと思いますが
同じ出版社の人の感覚の違いを思います。
 
本当に必要なことは、「自分を振り返る=価値づける=気がつく」ということであるとするのなら
憂生としては、
ここで、ひとりの読者(理解者)を得たということだけで、満足したのです。
 
 
*********
 
 
最近に(2005年?ころwww)なって、マッカーサーと天皇だっけ?なんらかの本がだされて、
その中でマッカーサーは日本を占領国にせよ(天皇も処刑せよとか・・)と本国から指令をうけていた。
と、いう話があったと思う。
だが、実際問題、現場仕事は現場のものじゃないとわからないというのと同じで、天皇を処刑に課した日には、どういうことになるか、一番わかっていたのが、マッカーサーであったと思う。かといって、そのまま、天皇を日本の国主にしてしまったら、天皇の元、日本はひとつにまとまってしまう。
これはいかぬと、妙な位置にすえたわけだけど、一方で、国民の忠義心を分散させる方法を投入していく。
 
日本の鎖国政策、および、キリシタン排除の考え方を思ってもわかるが、いわば、二君をまみえず、と、いうのが、ある。
天皇が現人神として国民の感情の中にあることを一番、けむたく思ったことであろう。
この打開策のひとつが、キリスト教の宣教であったともいわれている。
 
天皇が一番尊いのでなく、キリストが一番だという考えに洗脳させるということであろうか。
 
今の宗教戦争をみているとわかるが、
アメリカの考え方をいえば、
「俺たちの神様を信仰せよ」ということイコール傘下に下れという意味合いで、国民感情を占領していく第一歩であるはずだった。
 
これが、イスラム教徒とか?
だったら、相手の国の宗教を信仰することは、敗北と同義語だろう。
 
ところが、日本という国は八百万の神という自然信仰がある。
キリスト教で占領するはずだった部分は八百万の神の一人(外つくにの神?)的鷹揚さで受け入れられてしまう。
 
天皇という存在の発祥は、歴史的知見でいえば、「巫」である。
 
日本という国がもつ独特の意識が、また、歴史を決定している。
 
天皇という存在がまた、日本を占領国にさせずにすんでいるという見方も成り立つ。



コメントから*******


一回で開けるから便利です。

連載ふうだと次どうなるのかと楽しみですね。入り組んでいる時は過去にさかのぼって見られるからいいです。
日記とブログ交互に見ています。

先日小学校の学芸会で「もう一つに戦争」朗読劇をやっていました。子供達が疎開し、疎開先でのことを扱ったものでした。それを見ていたおばあさん達は、そだそだ・・・そいなごとあったなど目をぬぐいながら見ていました。孫の演ずることは体験したことだったので思いがよくわかったのでしょう。かたや若い母親たちは未経験でも子供達の演ずる劇をしっかりみて戦いだけの戦争ではない別の面の戦争のたいへんさを見ていたことでしょう。
ざわついていた体育館は、シーンとしました・・・

同様のことが読者にも当てはまると思います。ある程度経験ありでわかる人と未経験な人の感想は違うかもしれません。が、それなりに受け取るものがあるはず・・・・読んでいる時はそんなこと考えてはいないけど・・・読後感はあるよね。
生き残っている「あたし」がどうなっていくのか楽しみです。

近くに飛来している白鳥です。ホッと一息いれてね(^-^)         kumina


先日、NHKで、地雷撤去のためのレーダー製作に携わっている男達の話を放送してました。
「空に・・」では、撤退を余儀なくされた兵士が地雷をしくという設定でしたが、そのときはそれしかないと思ってしたことでも、
少し平和になれば
無関係な人間がまきこまれてゆくことになるのですよね。

どうしようもない。
日本に原爆が落とされたのも、
別の考えで見れば、それで、日本の民族がいきのこれた、戦争終結に結びついたという事でしょう。
「空に・・・」を、書きながら、
ある、話を思い出していました。
日本兵は死を恐れない。
人間魚雷ごと敵に突っ込んで行く特攻兵。
白い軍服を着た日本兵の幽霊が出る。
とか、
死しても、なお、まだ、国を守ろうとする心。
大和魂。
日本の花は桜。
武士道をたとえる見事な散り際を
めでて、己の生き様に悔いは残さじ。
こんな、を相手に本土決戦を挑んだら、日本人は最後の一人まで、たたかいつづけ、日本人は滅んでしまっていただろう。
自国の兵士をこれ以上無駄に死なせたくない。
最後まで闘うことで起きてくる色んなリスク、弊害。
コレを防ぐためにも原爆投下が
必要だったという、見方も成り立つ。

だけど、それよりも驚く事は日本人の潔さだろう。
負けは負け。
成った事は受止めて行くしかない。
その受止め方が見事だ。

某国は過去の戦争などによる、
日本人の行動をいつまでも、恨んでいる。
と、しか、思えないニュースを聞く。

ならば、日本人はどうだ?
原爆を落とされた。
多くの人々が殺され、
今もその後遺症に苦しむ人も居る。

だけど、うらんでいるだろうか?
自分達の生き様。
敵をそこまで、追い詰めるほどの生き様。
その誇りがある。

戦争には負けたかもしれない。
だけど、日本の民族はけして、あなどれないとその魂に刻み付けた。
だからこそ、こんな小さな国でありながら占領国として、統治されなかった。
多くの戦争犯罪者が処刑されてゆくというのに、
天皇がいきていられたのもそう。
国を思う、民を思った天皇がいた。
「私のことはどうなってもいい。
国民をたすけてほしい」
多くの独裁者がそうであったように
最後には自分の命乞いをするものだと思っていた天皇の口から出た言葉。
マッカーサーは
このとき初めて、
「とんでもない国と闘かっていたんだ」と、きがついたことだろう。

話がずれちまったけど、
原爆を落とされたことを
のさりとうけとめ、
「それでよかった」
と、してしまう日本人の感性?

コレが、「空に・・・」の下地に有ると思う。
たぶん、この話を外国人が読んだら、
「なぜ、彼女は報復しないのですか?」
と、おもうだろう。
「なぜ、敵を、同胞をころした敵に温情をかけられるのですか?」
判らない。
と、言うかもしれない。

たぶん、
この物語は憂生が日本人だったから、
説明なしにかいてゆける感情が
暗黙に了承され、受け入れられているからだと思っている。     憂生

篭める

犬夜叉、蛮蛇小説をあげてきましたが・・・。

憂生は自分の作品を小説といいたがらないのです。

小説の域に達していないという謙虚な気持ちはありません。
憂生の中で「作品と(あるいは、物語)」と「小説」との区別があるとおもいます。

今回の犬夜叉、蛮蛇作品は臆面なく小説といっています。

あと、ADARUTO小説や、官能(官能にならないんで、ADARUTOとよびかえていますが)小説ならば、

小説というわけです。

時代物BL小説(みじかいんで、小説ともいえませんが、お笑い系です)も

小説というときがあります。


きがつきましたか?


娯楽的な読み物として、書いたものや

娯楽的作品とうけとめられるだろうものを

「小説」と呼ぶ憂生がいるようです。


ですので、

自分のことも「小説家」とはいいません。

もちろん、小説家というには、もっと、資格がいります。

まず、その作品が対価に値するもので、

じっさい、印税や稿料という実利をあげているもの。

かつ、あげ続けているもの。

ですから、憂生にいわせると、

アマチュア小説家なぞという存在はありえません。

いまや、世の中にいっぱいいますが・・・。

では、憂生のことを自分でなんというか。

多く、

「物書き」で、通してきました。

物を文字にとらえていく。

「物」といっても、定義が広いことなのですが、

「もの」のほうが、いいでしょうね。

最近はときおり、

作家という言い方もするようになってきました。

なにかを作っていることには、まちがいありません。

ですが、よく考えると

「小説家」なのです。

文字の意味からです。

人生を切り取った断片とか、小さく説く。

人生が「大説」なら

文字にしてしまえるものなど「小説」でしょう。

生き様を問う。

こういう作風だとよくいわれたことがあるのですが

ここからしても

「小さく説く」なわけです。

文字の意味だけで考えると憂生は

物語と小説の意味合いを逆にとらえています。

なぜ、こんなことがおきたのでしょうか?

たぶん、あまりにも多くの人が

「説く」ことを目的としない

共感をえたいだけの作品までも

小説とよびはじめたせいかもしれません。

反骨精神というか、

自尊心というか、

ひねくれているというか

あまのじゃくというべきか

そんなんで、めったに小説とはいわないのですが、

お題目です。

二次創作でもあり、娯楽作品に分類されるものでしょう。

これは、相方AKIRAのために書き下ろしたものです。

3時間ほどでいっきにかきあげ、あとは毎度のノータッチだったのですが

AKIRAから、指摘がきました。

犬夜叉はばあさん思いなんだね・・・。

と。

いまでさえ、名前がわからないのですが、

必ず勝つ事しか信じさせない「桔梗」と「かごめ」がいる。

この部分に楓だったかな?ばあさんの名前をいれていたし

大鉾だとは知らず、刀を研ぐってかいてたし・・・。

はい。

高橋留美子は「うるせい星やつら」から読んでいたのですが、

この犬夜叉は、読む気になれず、

ほとんど読んでいなかったのです。

それが、なぜかというのはおいといて~~~~~。

ですから、おぼろげにしかわからず、

「れんこつ」とか「すいこつ」なんて、とんでもなく

蛇骨も蛮骨も「なんかいたな・・・」

AKIRAが犬夜叉奥義書とかいう

人物紹介などがある本をおくってきてくれたので

それを参考にして必要最低限度の登場人物紹介だけをよんでかいてしまったものです。

そして、かなりシリアスな書き方をめざしました。

これはAKIRAの作品(漫画ですが)に、見劣りしないようにと

がんばった結果です。

(AKIRAの作品、表現は秀逸そのものなので、どんなにがんばっても

見劣りしてしまうのですが・・)

AKIRAの7人隊に寄せる思いと、作品に見事に昇華させた「彼らの思い」。

熱のこもったAKIRAへの敬意をこめたいと

せめてもシリアスに真摯にかいていったつもりの作品です。

おもうまま

よく、文章がうまくなりたいとか、ライテイング技術をたかめたいと

いう人がいる。


こういうことは、黙っておけと思う。


「人の文章を読むことはひいては、自分の文章力を高めてくれる。」


これも、おなじく。


まず、素直な思いを言う。


文章がいくら巧くなっても、訴えるところ、テーマが、薄いと

ただの言葉遊びにおわってしまう。


また、テーマが薄いとしても、書きたくてたまらないという

思いがないのかと、うたがってしまう。


技巧や技術ばかり重視するあまり、情熱がなく、訴えるものが薄い。ように、みえる。


訴えたいものがあれば、人はかかずにおれない。

と、思う。

このときにうまくかこうの、どうとかは、思わない。


つまり、かきおえて、よみなおしてみてから、稚拙な箇所をみつけ、

うまくつたえきってないところに気が付いていく。


その結果、巧くなりたい。

に、なるのだろうが、これを口に出すのはよくない。

あくまでも、訴えたくてたまらずかいた。

だけにするのが、良い。


まあ、いわば、水面の白鳥がごときである。

たとえ、その体が泥でよごれていようが(稚拙であろうが)

ゆうゆうと泳ぐ姿がよい。

水面下の足のばたつきをみせないのがいい。

そういう風なことをおもってしまうのだが


実際、憂生が読者様に

「読者を意識せずに憂生の思うままにかけ」

と、しかられたときが、

このばたつきを見せていたときだと思う。


巧くかきたいとは少し違うが・・・。


ちょうど、ワープロにかきあげていた作品をネットにまとめて

アップし、ぽつぽつと新作を書き始めたころだと思う。


最初にきたのが、今は亡くなったある女性からのものだった。


読者を意識していませんか?

悪童丸のときのような迫力がありません。

貴方はあなたの思うままにかいてください。


実は自分でもまだ、気が付いてなかった。

それが、空に架かる橋を連載し始めたときだったと思う。


読者と一体化した連載になったのであるが

最初の段階で大きく意見がわかれた。


読者にこびるな。

と、いう言葉もそのころだったと思う。

相方のAKIRAでさえ、

「憂生らしくない。読者を意識しておさえてるん?」


確かに、と、思う。


憂生の今までの作品の多くは

数行目までに

「どういうこと?」と気にかからせるインパクト?(ちゃうな)

まあ、いい。

インパクトをおいていた。

最たるところで、その悪童丸であるが、

政勝が城の門を潜ると、白河澄明(とうみょう)が居た。
政勝に気が付くと、澄明はずううっと側に寄って来た。
「妖かしの者なぞに情をかけて…。
かのと様と百日は交わりをなさらぬように」
と、声を潜めた。

これが出だしなのである。

なんで?交わりをしてはいけない?なんで?

と、そのインパクトの答えをさがそうと、本文にはいっていく。


ところが、空に架かる橋では、このインパクトからひっぱっていくやり方を変えた。


平易な状況説明。

なに?なに?どういうことは、あとから、いっぱいでてくる。

どんでん返しの種も平易な場所にうずめかくす。

だから、それは、成功していたといってもいいのだが。


もうひとつあった。

ここでも、冒頭文だけしかおかないのは、

長いからばかりではない。


憂生の書くものは、性表現が多い。


真摯な内容を性を通して、表現できていないと

いわれれば、それまでだが、

うっかりすると、ネットのかなしさで、性表現部分を検索され、

その部分だけ読まれたり、ひどいときにはエロサイトにリンクされる。


そして、おおまかな構想をもっていた空に架かる橋だったから、

丁寧に状況説明をしていかないと、

性を通して表現されている内容がつたわりにくくなる。


逆に性表現のほうがインパクトをだしすぎて、

訴えていきたいことが、かすんでしまう。

つまり、ここが読者を意識したところだとおもう。

いまや、性表現などなんのそのという人が大勢いらっしゃるけど

大人の目からみて、陳腐な性表現であってもいけないし、

かといって、性表現にひきずられてしまってもいけない。


非常に難しい局面をかかえているものを

かきはじめていたわけである(憂生にとってはね)


だが、このばたつきは、つまるところ、巧く書きたいということである。

これをいまさら、書き始めてしまったあとで、

なんとかできるだろうか?

黙って、修練して書けるようになってから書かなかった。

それだったら、やめておけばいいだろうか?

かけるようになるまで、人の作品をよんで、おけばいいだろうか?

誰よりも自分がそれを許せなかった。


書かずにおけない。それにつきうごかされていた。

そして、

山口百恵の台詞にあとおしされた。

「赤点しかとれなくても、卒業しなきゃいけない。」

卒業とはひとつ段階をこえることだろう。

段階をこえるには、のぼりきらなきゃいけない。

のぼるきるとは、まず、完成させることだとおもう。


稚拙でもいい。とにかく、書いていくこと。

そう念じ、かいていった。


結果的には、何人かからの、読者を意識するなというお叱りと

相反して

この作品が一番読者を意識して書いた作品になったと思う。

巧く書こうなどという文章技術を意識してのことでなく、

読者そのものを意識していく。と、いう意味合い。

アトラス語録の冒頭を貼り付ける。


*****此処に『空に架かる橋』を連載しているときに
皆様から頂いた、コメントを編集しました。
文字総数1万6千文字。
憂生を支えてくれたアトラス神の言霊集です。 ********

「空に架かる橋」の連載をふりかえっている。

ブログに。
いつも、いつも、コメントを
下さる皆様。

ありがとう。

「空に架かる橋」は、憂生自身、どううけとめられるか、不安な代物です。

誤解されやすい表現を含んでいるし、
憂生の練りこみも
書き込みも不足しています。

そんな
作品から受け取ったものを
真摯として、感じ取ってくれているという、
多くのメッセージは
憂生の作品で、いえば、番外編。異聞。

こういう風な受止め方も出来るんだと、
憂生の作品をもっと広げていってくれる。

コメントと共に憂生の作品はドンドン
発酵して行きます。

「空に架かる橋」という
パンが焼きあがるのは
いつになるか、判りませんが
みんながくれた
酵母
発酵を促す適度な温度を保つ「むろ」

そして、読んでくれているという
快適な環境を憂生にプレゼンスしてくれている皆様。

この物語は
皆と一緒に書き進んでいると思ってます。

ありがとう。

そして、最後に


多謝!!
おわりました。


短いモノローグ?形式で
バックグラウンドを説明することを省きました。
彼女の推測で判断しているため?
事実とは異なる事も多いだろうし、
もっと、他の面で
どうだったのだろう?
と、知ってゆきたい疑問も
多くのこったと思います。

近未来の日本らしきところを舞台に彼女を
とりまく者達との三日間を
かきあげるのに、
よみあげてもらうに、
45日をついやしました。

初の連載に挑戦してみて、
書いてゆくだけではない
待ち時間を持ちました。

読んでくださる人を意識して
1章をかいて、待つ。

それはまるで、
紙飛行機をとばして、
最後に地面に降り立つのを
みとどけて、
次を飛ばすのに、似た感じでした。

手持ちのものを
連載にしていたら、
紙飛行機の滑空を見つめる事はなかったように思います。

ちゅららが、
もっと、もったいつけていいんじゃない?
と、手持ちの作品の掲載について、
おしんでくれましたが、
こうやって、連載をやってみたら、
うまく・・・/あはっ
もったいつけてしまいましたよ。

ちゅららのいうところはこういうところでしょうね。

そういう意味でも、連載は
読んでくれる人との一体感があり、
書こうと思えばいくらでもかきすすめられるのに、
読んでくれえる人との
共鳴感?が
滑空を充たしてくれました。

まさに、連載の醍醐味。
初にしてどっぷりはまらせていただきました。

有難うございました!!


まあ、ネットならではのことで、これが、出版作品であるのなら

書きながら、コメントなどもらったり、ダイレクトに読者の存在を

かんじることはできない。

自分の中で仮想の読者を意識していくことになる。

憂生は逆に、このめぐまれた待遇はよくないとおもってもいた。

一種高揚感が、いっそう自分をおしあげる。

麻薬で高揚して、書いているみたいなもので、

読者の存在を意識できないと、書いていても

高揚感、のりがでてこなくなる。

つまり、うったえるものがあって、

書かずにおけないでなく、

高揚あるいは共感などをえたくて、

かくという(と、御幣があるが)こともありえると思った。

これでは、読者と書き手がひっくりかえってしまう。

読者様のために書く。まるで、文章の奴隷のようである。

憂生が作家にならないと答えたわけがくずれていく。

自分の思うところを追従する。

それが原点。

そして、なにかしら訴えたいところがあるから、

文字にする。

これが逆転する。

読者様自らが、読者を意識するなというのは、おそらく、このあたりへの示唆だったんじゃないだろうかと思う。

憂生は憂生のおもうままにかけ。

ー私たちはそれこそをうけとめたいー

つまり、しのごのいわず、

熱のこもった作品を書け。


と。

へ~~~い。すびばしぇ~~~ん!!

実は昨日、物書きへの100の質問、第3弾・・
第2弾?
これは、自分でアダルト小説書きに100の質問ってのを自分でつくりかけているので・・、
とんで、第3弾になるわけだけど・・。

で、その質問に70問めくらいまで、
回答を書き入れていたんだ。

ところが・・・。

縦書き・横書きの小説についての質問がはいってきた。

それも、物書きへの質問というより
読み手への質問という位置にたっていて、
横書きへの、云々である。

これは・・・・。

いくつか、感慨が沸く。

人の物/小説をほとんど・・最近は全然よまない憂生である。

そんな憂生であるから、なおさら
読みにくくないか、どうか、という質問よりも
書きにくくないかとたずねて欲しい所では在る。

縦書きだった憂生が横書きに変わるネットの構造にあたふたし、縦書きの癖で::を・・・・の代わりにつかっていたので、
ネットにあげた、作品はすべて、・・・・が:::にかわるという・・・
えらいこっちゃの状態になり、
これを修正した/まだ、いくらか、のこっているが・・・。
膨大な量だった。

ソレほどまでにして横書きでよんでもらおうと
ネット世界の常識にあわせているわけだけど・・・。

中には縦書きじゃないから読みにくいと
ネットにきておいて、
おっしゃる人がいる。

縦書きのソフトもあるには在る。
だが、
現状この横書き環境になれたネット住人の多くにとっては
むしろ、縦書きのほうが読みにくくなってきているのでは、と、考える。

では、個人的に縦書きで読みたい人間はどうなる?
と、いう事になる。

これについて、
憂生の作品にたいしての
何人かの実践?がある。

ワードにコピー して
設定を縦書きにすればいい。

読みたいという思いを量るなら、
あえて、そうだという。

だから、縦書きがよいか
横書きがよいかなどを
詮議するなど、ナンセンス!!

物書きならば
縦書きにかえてまで、
読みたいと思ってもらえるものをかかねばなるまい?

この部分にスポット を当てずに
表面上の読みやすさを云々してみたところで、
核心とは、遠ざかるばかりである。

と、いうことで、
ワードへのコピーやダウンロードについて・・・。
個人で楽しむのであれば、作者に了解を得ずに
自分のワードにロードしても
著作権侵害にはならない。

言い換えれば、読みたくて
ロードするわけだから、
物書きの本望であろう・・・。

憂生も実際、何人からか、
コピーする。
ロムに落とす。
と、許可を求められたが、
之は、一切、憂生には必要が無い。

個人的に使用するのであれば、
いつでも、どうぞ。

そして、プリントアウトしてまで読んでくれた人達。

自分で好みの形体にして・・・。
縦書きやら文字数やら文字形式やら、行数やら・・。
こういうものを嗜好にあわせて
読みやすくしてまで読む努力?をしてくれている人を知っている憂生にとって、

縦書きがよいか、横書きがよいか、どうか?

そんな質問は
鼻くそ~~~~~~だ~~~い!!

***と、まあ、こういうような回答が出てくるような100の質問につきあってられない。
と、かなりの所までこたえていたのであるが、
破棄してしまった*****

無駄な時間を費やしてるなら
続きを書け?

椿三十朗のはなしだったはずなんだが・・・

昨夜だったか、織田くん、演じる椿三十朗をみていた。


椿をもちだすあたり、5べん(漢字でないの~~)の椿の周五郎を

思わせるとおもいつつ、調べれば、山本周五郎原作、


どうも、妙にばたくさい人情物だとおもってみていたのだが、

織田君のキャラつくりがかなりかぶってしまっているせいだろう。


ラストシーン。


三十朗に深々と頭をさげる侍たちに、

三十朗がなんといったか、わすれてしまった。


と、いうのも、

憂生の頭に龍馬だったらというのがあって、

かぶせてしまったせいだ。


ーおんしらあ、ばったじゃないきに、大の男がぺこぺこしちゅうたら、あかんぜよー


いやあ、はっきり、土佐弁でどういうのか、わからんが、


龍馬だったら、そういうだろうとおもったときに、


すこしだけ、


憂生の中の龍馬をつかめたきがしてうれしかった。



龍馬の生き様もかいてみたいものだが、

無理せず、憂生のおもうままの龍馬をかいてもいいかもしれない。



なんにせよ。


理屈じゃない。


おんしらあ、なかようするんが、なんら、むつかしことがあるきに,よう、できらんちゅうに


ありゃあ、かんたんなもんじゃに、まっこと、かしこき人ができらんはおかしいことぜよ


いやいや、


椿三十郎の話しだった。


なにか、周五郎の距離感と、周平の距離感をおもうとき、


あるいは、そうほうとも、


龍馬の資質を書ききれないものがあると見えた。


それは、おそらく、


物語を書くか

人物を書くかのちがいかもしれない。


さて、憂生はどっちのタイプだと考える。


司馬の洞察力と周五郎の情愛とあわせもったものがかければ最高である。


あ、あと、文章力・・・wwww

杉本苑子の文章力が・・・


あ・・・。


やっぱし、椿三十朗から、はなれてしまったわい。


物書きとカメラ


訪問履歴から、逆訪問するとそこはカメラマンさんのブログだった。

キャッチアイ手法の写真が一番最初に目にはいった。

一度は撮影してみたいと思うキャッチアイ手法なので、特に気になってしまった。

一番最初にキャッチアイの写真を見たのはカメラ雑誌ASAHIだったかな?

黒から赤にうつる色合いの背景に黒いショールを顔にまいて

ショールの隙間から右目がみえていた。髪の色も目の色も黒。

赤と黒と肌色のコントラストの中、瞳に吸い寄せられるような錯覚。

毎度ASAHIには衝撃をおぼえさせられたものだが、

この写真のアングルも色のコントラスト、光、明暗のよさ。

画像というものもは、瞳に焼きつく物だと思う。

そこそこにカメラをやっていたのに、

最近はいまひとつ、風景写真をみていても『巧い』とか

あまり思わなくなった。

何故だろうかと考えてみたけど、ごくあたりまえの思いしか出てこなかった。

「自分がスポットするのが楽しい」

もっぱら風景写真ばかり撮る人だったから。

その風景への愛情というのかな。

感情移入というのかな?

風景をとるのでなく、自分の受けた感情を写している。

「あ、この風景いいな」を映しこむ作業だったんだな。

だから、できあがった写真より、

「その時の臨場感」がすでに作品だったんだ。

だから、風景写真を外側から見ても「巧い」と思えなくなってきたんだろうな。

この臨場感というか、感情移入みたいなものが、カメラという技法だけでは

掬い取れなくなってきた頃から、物をかきはじめてきた気がする。

もちろん当時は細分化されず、カメラも物書き(毛のはえぬ/笑)も

両方一緒くたにやってきていた。

そうこうするうちに、カメラの性能という部分で

そこそこにカバーしてしまうオート機能などがよくなってきて、

素人とプロの境目がないといってよいかな。

素人の風景写真でもこういうアングルで捉えていくか!!という

テーマ性のある写真をみかけることもあれば、

プロはプロだからと採点がからいせいか?

その目線か?そのアングルか?とこちらが共振できないものがある。

このあたりからだろうか?

独自性とか?腕一つ的技術力があまり反映されないのがカメラだと思ってしまった。

それからだな。

もちろん、キャパの写真や

ユージン・スミスの写真のように上の科白のなかにくくれないものがあるのもわかっている。

裏返せば、カメラという手法でうつしだせる「テーマ」「目線」がない自分にきがついた。

同時にカメラも、文筆活動もやめた。

もっと、「目線」「眼差し」「思い」「テーマ」・・・・。

こんなものをカメラの中に写しこめるほど、人生をわたっていない。

文章もそうだった。

ひとことのうしろに「裏打ち」がない。

深さも浅さも知らない机上論と空想のなかでの構想基盤。

豆腐のような土地に家をたてるにさも似たり。

長い間、カメラからも物書きからも離れていた。

ささいなきっかけで、再び物を書くようになり

ニコンを手放し、デジタルカメラに変えた。

物書きもせいぜいこの程度。

カメラもこの前もどこかに書いたっけ。

風景写真をとろうとして、ファインダービュー(画面型)のデジタルカメラなのに

一生懸命、ファインダーを覗こうとしていた。

なにかしらの枠のなかにとりこむしぐさは身体にしみついているんだと苦笑したものだが、

いまは、

カメラはスナップショットのみで、

もっぱら、文という枠のなかに「感情」をとりこむ物書きに勤しんでいる。

火事場の馬鹿力

先日、地元の作家がラジオに出演していて、

なんか、いろいろとくっちゃべってるのを

車の中で聞いていた。


新作のこととか、

旧作のこととか、

読んだこともなく、そんな作家が地元にいるのもしらなかったのだが

トークはその執筆談義というか、裏話になっていた。


その中で耳にやきついた言葉があった。


その女史作家が誰だったかな

北方謙三?

酒見賢一?

おりょ、名前でてこん・・・。


まあ、有名作家と話してたとき、推敲について相談したのかな・・・。


すると、どう推敲すればいいかなんてことじゃなくて

「小説家なら一発でかけなきゃいかん」

と、かえされたそうなのである。


げ?


まあ、うろこがおちるというか・・・。


よく作家(アマチュアです、むろん)の方が推敲が推敲がいっているんですね。


憂生は自分でもなおさなきゃいけない箇所はわかっているのですが、

ずっと、放置しています。


むろん、憂生も一応一発書きですが(形だけ・・・)

これをあえてなおさないのは、

「小説家(じゃないですが)なら、一回、一発でかけなきゃいかん」

と、いうのに近い思いがあります。


拙くて推敲が必要なものであっても

そのときの精一杯でかいてるものです。

それが、自分の限度なわけです。


これをあとからこねくってまで、精度をあげたいと思わないのです。


まあ、陶芸家みたいな感覚です。


火の中にいれて、できあがった。

その完成作品をもう一度、なんとかできるでしょうか?


もちろん、異論があるとおもいます。


焼き物じゃないんだから、直せるじゃない・・って。


それでも、憂生はやっぱ、そのときの自分がどこまでかきこめるか

って、いうのを実践しているだけなんだと思います。


あとから、きがついたのは、「そのときの自分」じゃないわけです。


本来有名作家のいう

「一回で書ききれる」は、推敲さえ必要のないほどの文章を

書ききれてこそ小説家というんだという厳しいものだとおもいます。


推敲が必要なものしかかけない自分が

同じものさしをだしてくるのは、

笑止としかいえないのですが


やはり、一回でおわるというところにかけていくスタイルは変わらないと思います。


で・・・。


過去、やったことがあるんですよね。


推敲・・・ところが、推敲にならない。


それさえできぬへぼかといわれたらそれまでですが


最初から全部かきなおす。


を、やっちゃうわけです。


どの文字をおくかで、次の表現、ムードがかわってくる。


文字ひとつ、文節ひとつにてらしあわせて、次をつないでいく。


これが元々の書き方なわけです。


ところが


推敲=書き直しなわけで、

これを3回以上、やりなおし、

ひとつの結論をえました。


最初にかいた文章をなぞらえようとしてしまう。

と、いうことです。


あらたにわきださせようとするのでなく

どう書いたかを追従するわけです。


文字ひとつ、文節ひとつにてらしあわせて、次をつないでいく。


じゃなくなるわけです。


憂生の一発書きには、かなりの集中力があって、

てらしあわせてつないでいくその言葉が

集中力のなかからうまれてきます。


これを「書き直し」にしますと

え~と、どうかいたっけ・・・という

集中力でなく記憶力になるわけです。



あ~~~~。

これをたとえると


火事場の馬鹿力ですね。


火事のときに通常ではもてない重さのものをもちあげてしまう。


が、火事がおわって?しまうと


さっきの馬鹿力をもう一回だそうとしても、でてこない。


どうやって、もったんだろうと考える。


と、こういう状態によくにてます。



つまり、有名作家がいうのはそこでしょう。


小説家であるなら


火事場の馬鹿力で一発でたんすを外までかついでいってしまう。


火事場の馬鹿力というより、

火事場に身をおくのが小説家なんでしょうな。


だから、馬鹿力を出せて当たり前なんだと。


そういうことでしょな。


どこかの保存物件への返事だな。

アトラス 語録の中にも、ちょっと
にかよったコメントがあるので、
紹介。

>   憂生。お疲れ様。そして、ありがとう。
始めから、また読ませてもらったよ。

『戦場はきっと、こんなもんじゃないはずだ』

 その想いが、ずっと頭を離れなくて君に途中疑問をぶつけてしまったね・・ごめんな。
全編読み直して思ったこと。
それは、憂生のやさしさで満ち溢れていた・・・
ってこと・・かな。
 多分、私が一兵士の立場であったなら・・
きっと病院に入ってきたその時に1人を残してすべて射殺しただろう・・
(でも、それじゃあ・・お話にならない・・(爆))
平和な国の人間からすれば、条約違反だの・・規定違反だの言うが、

戦場で『生きるか死ぬか』の瀬戸際で突きつけられてる人間達にはそんなことはどうでもいいことで・・
(普通の人間なら、内面の精神的な重圧と戦ってるだろうから)
『わたし』はそれを受け止めることで生きようとした。・・そして送り出す

うん。いいストーリー だったよ。

「生き抜いた」ううん。『生き抜かせた』

・・・・・・・今、暖かい 。   ・・・そんな想い。

ありがとう。
次も頑張れよ!(ってぇ~プレッシャー?)

****************

情景描写/設定?ということについていえば、
確かに、色んな面で
そうかなあ?と描いてる当の本人が
思わぬでもない。

が、此処が心理の勝手なとこで
「登場人物・本人がそう思ったんだ」
って、ところで一つの抜け道ができる。
ところが、
「登場人物がそう思った」
とは、いうものの、
「そんな思い・・おかしいよ・ありえない」
って、場合もおおくありえる。

が、例えば今回のお登勢のように、
「こう思うこともありえる」
と、いうバックグラウンドをしきつめてゆく。

命ぎりぎりで、自分を守ったことがあるお登勢だからこそ、
瀬戸際で自分を豹変させることが出来る。

そして、又性格を浮き彫りにさせるためにも
ソノ豹変に自ら痛みも感じているし、
間違いも自覚している。

より正しく生きる。
そのくせ、流されず、
時にむごいほどの冷静さで
自分を守る大切さを選び抜く。

こういうバックグラウンドを
心理表現とともに
しきこんでゆく。

だから・・・だと思う。

だから、
こう思っても
こう選んでも
納得できると成ると思う。

裏打ちがあるから・・。

多くの読み物の場合
登場人物が今ひとつ
息づいてない。

こうした。
そうした。ああした。
と、いう羅列が多く、
何故そうするのか、
何故こうなるのか、
という、その人物の心理的背景
性格的背景がうすく、
登場人物を
眺めてしまうんだ。

ところが多分、
憂生の作品は
例えば
「ええ?そんなことある?」
と、思わせる。
つまり、此処ですでに登場人物の中に入らされているのかもしれない。

そして、なぜこうおもうんだろうという
理由/と、いうとちがうけど/が
ぽつぽつとならべたてられていて、
それにひかかったら最後
気になってよんでしまう。

人物がいきているというか、
一緒になって
かんがえてしまう?

強いて言えば、読者参加型なんだろう。

憂生自身も正直
他の人の作品を読むことが殆どない。
たいてい、始めの5~6行をよんだ時点で
眺めて、終わりそうな作品とみえて、
読み続ける気に成れないんだ。

(と、いうより、
人の物を読んでいるより、
自分の物をかく方に忙しい?
と、いうべきかな。)

どういうのかな、
どの作品もたいていそうだと思うけど
え?どうなるの?
え?どういうこと?
と、いう部分が最初の7~8行めくらいに
仕掛けてあると思う。

悪童丸でも
「かのと様とまぐわいなさるな」
と、え?
なんで?
って、此処で既に罠を用意している。
こういう描き方に慣れると
逆に謎解きのない読み物が
平易に感じられてしまうかもしれない。

気をつけられよ・・・。
あはは・・。

ネック

小夜をあげて、よみなおして・・・。
なんつ~~か、
昔からネックになってる部分がでてきてるな~~と思ってしまう。

この作品は、ぱっと書き出したときは
確かに、官能小説ばりのものを書くつもりだった。

ところが、正直をいうと、
あほらしくなってくる。

ついでにいうと、キャラクターが
なんで、こんな「あほ」をやってるか、
わからん状態で、あやしいシーンをかいてるのに
嫌気がさしてくる。

つまり、
なぜ、こうもご丁寧(でも、ないか)
くりかえし、まきかえし、シーンをかく必要性があるのか
わからなくなって、書く気がうせる。

そうするうちに、
必要性を付随させていくことになる。

ストーリーがきまるというか
このあんぽんな女の子をなんとか救いだしてやらねばならぬと
いう気持ちになってくる。

ストーリーがきまると
しつこいほど、そういうシーンをつくりながら
ちょっとずつ、「なにかにきがつかされていく」小夜ができはじめるが
性でごまかしているというか、
その立ち居地がひっくりかえらないと
すくいようがなくなる。

今度はどんどん、小夜をおいつめていく。

おいつめていくと、
ますます、にげこもうとする。

そのにげこまなきゃいけない心理もえがくが
にげこんでいられる「性」自体が
たしかに、「逃げ込める場所」だけあるってもんじゃなけりゃ
にげこめるということに、納得できまい。

確かに魅惑的であり
なにかしら、わずかであっても満たされるものがなければにげこみはしない。

と、なると、懇切丁寧にえがく。
いろんなパターンつくる。

すると、それじゃ、どうにもならないんだ。と、いうものが小夜にみえだすが
そのままじゃあ、かわりえない。

一石投ずるというか。

決定的な不幸な状態におちいらせて
とことん、「これじゃだめなんだ」と、きがついたときには
もう、どうしようもないことになる。

そこまで、おいこんでいくために、
逆にシーンにおぼれる小夜?性で心をうすめていくというか・・・。

これを、懇切丁寧にかくだけで、
ラストがいきてくる。

むろん、心理もかいていくわけだけど・・・

なにが、いいたいかというと、
たぶん55000文字ほどあったとおもうけど
本当に書きたいこと、テーマというべきか
それは、ラストの3000文字くらい?

たった、それだけを映えさすために
そこまでかかなくてもよかろうにと
自分でも思うようなことをかきつづける。

それが、最初にかいている憂生のネックだと思う。

この物語の冒頭に真摯なテーマがある。と、かいてあるから、
まあ、このみじゃないけど、よんでみようかと思う人もいるかもしれない。

よめども、よめども、
真摯なんてどこにあるんだ。
と、途中でなげてしまう人もいるだろう。

過去、小枝(小夜じゃないです)も、
途中で、そういうパターンがはいって
最後までよんでもらえなかったことがあるwww

憂生としては、
あの最後の3章がいいんであって、
その3章だけよんだって、わけがわからないんだろう。

底で・・もそうだとおもう。
最後まで、よんではじめて、
納得できる部分があるだろうに
そのシーンだけよみあさったり
さけたり・・・。

こういう自分の最後にぐるっとひっくりかえすという
やりかたが、
まずい面もつくってるし
できるだけ、真実味?に肉薄しなきゃ
つたわりにくいこともあるし・・・
そこがネックというか・・・

まじめに、?
聖人君子みたいに
こうあるべきだ
あああるべきだで
話がすすむなら
みんな、坊主のとこか
神父のとこにでもいけば
万事解決だろう?

主人公、荒れてます。
あほやってます。
神父のところに相談しにいきました。
解決しました。めでたし・めでたし

おもしろい?

わけない・・。
ましてや、憂生、なんも書くことないじゃんwww






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